彼女はその断末魔を覚えている。
声は出させていない。誰かに気づかれたら、それこそ面倒なことになるから。
博麗霊夢は、塩屋敷の長者を処断したときのことを夢に見ていた。
自分が姿を現した瞬間の彼の驚いた顔も、術を施した際の苦しむ顔も、命のあぶくを口からふきだしそれが消えていく様も、全て彼女は見ていた。
見なければならなかった。
確実に仕留めたという確信がほしかったから。
息の根を止めたら早々に立ち去る。誰にも発見されないよう、細心の注意を払いながら。
死因は病死となるよう細工をしておいた。博麗の巫女にしか伝わらない秘術だ。誰もそれが、他人による殺害だと思わないだろう。
少なくとも里の人間には気づかれないはず。
こういうことを、これまで一体何度続けてきただろう。
数えることはできる。全て覚えているから。忘れることなどできはしない。
しかし、幾度を記憶にとどめていようとも、それを指折り数えていたら自分が破滅しそうな気がしていた。
死を与えるたびに積み上げる石。
それが崩れ去ったとき、きっと自分も崩壊を起こすのだろうという予感があった。
枕元に立つ気配がそう告げている。
(わかってるってば。あんたたちの怨念は、全部私にかぶせて良いからさ。線香くらいあげてやるっての)
毒づくように、彼らに向かって告げる。
霊夢が死を与えた人間……ないし、妖怪になったものたち。それが彼女を取り巻く気配の正体である。みな、死に顔で霊夢を見下ろしながら、悔恨の念を浴びせ続けていた。
全身を抱擁する死。
寒気と吐き気に見舞われながら、霊夢はそれを受け入れていく。
これは報いである。生殺与奪の権利をほしいままにしている、博麗の巫女の宿命。
「だからといって、ルールを破ったものたちに好き勝手させるのは、あまり好ましくないわよ」
澄んだ声が響き渡ると同時、枕元に立っていた怨念たちはまたたく間に消えていった。
代わりにあらわれたのは、妖怪の賢者──八雲紫。
(うっさい。夢のなかにまで出てこないでよ)
「せっかく助けてあげたのに、その言い草はないんじゃないかしら」
(別に助けなんて必要なかったわ。あいつらの好きにさせてよかったのに)
「……あのねえ」
寝ながら、強情につっぱねる霊夢に対し、紫は隣に腰を降ろしてこんなことを口にした。
「誰かを手にかけて罪悪感を持つのは仕方のないことだと思うけど、それとあいつらの思念を受け止めることとは関係ないじゃない。あなたは巫女としての役目を果たしただけ。正しいのはあなたなのよ、霊夢」
(私が正しいのは当たり前でしょ。間違ったことなんてしてない。私は正義でなければならないのよ。博麗の巫女は自分の役目に疑いを持っちゃダメなの。そう教えてくれたのはあんたでしょうに)
「え、なに? 私が原因なの?」
責任の所在が宙に浮き、互いの主張がすれ違っていく。
が、紫は霊夢の気性をそれとなく把握していた。彼女が怨念を好きにさせる理由──
賢者はため息をつきながら、こう漏らした。
「じゃあ、さっきのやつらに好き勝手させるのも、あなたの正義なのかしら」
(そうよ。彼らの想いを受け止めるのは巫女としての責務よ。でないと、あの人たちが浮かばれないじゃない)
「浮かばれるも浮かばれないも関係ないじゃない。元はといえば悪行を働いたのは彼らなんだから、あなたが責め苦を受ける必要も」
(手遅れになるまで気づかなかった責任はあるわ。それに、私は他人の生き死にを司るどこぞの閻魔になるつもりはないの。私は人間よ。先に勝手を働いてるのは私。だから)
「…………」
命を奪うことの快楽を覚えてはいけないし、傲慢にもなってはいけない。
だから、苦しみを受けるのは当然の報いだと霊夢は言った。
博麗霊夢の懺悔。紫は、それを聞くたびに彼女が巫女で良かったと心から安堵した。
同時に不安もかき立てられた。このままではいつか身を滅ぼしかねない霊夢の覚悟に、紫はできることは何かを探し続ける。
こうやってグチを言われながらも、怨念たちを追い払うのもその一環。
博麗霊夢を抱きしめる。巫女としての覚悟と宿命を、少しでも和らげたくて。
(ちょっと、なにすんのよ)
「あなたが好き勝手するなら、私もそうさせてもらおうかと思って。あなたは人知れずに傷ついたりしてるんですもの。ときにはこうやって褒めてあげてもバチはあたらないわ」
(いや、寝苦しいから。さっさと離れなさいってば、もうっ)
なにを言われようと、紫は霊夢を放したりはしなかった。頭を撫でて、アヤしたりほおずりをしたり、温もりを与えていく。
我が子に幸せが訪れるようにと願う、母のように。
(だぁかぁらぁ)
一方的な物言いに苛立ちが募っていく。紫の心遣いを彼女は知ってか知らずか。
「寝苦しいって言ってるじゃない!」
振り払うようにして起き上がる。しかし、そこには妖怪の賢者の姿はなく。
「あ、あれ?」
あたりを見回すと、朝日が寝室にこぼれだしていた。それを迎え入れる雀のさえずりも楽しげに踊っている。
はぁっ、と。霊夢は肩を落として再び布団に転がった。天井を仰いで眉間を揉む。
「全然寝た気がしないっての、ったく」
塩屋敷の長者は手遅れだった。家族同然に可愛がっていた馬を屠殺したという噂がたった頃から目を付けていれば、もしかしたら間に合ったかもしれない。しかし、それもあとの祭りである。
そう自分に言い聞かせるも、胸の内にできた棘が後悔とともに突き刺さってくる。
どうすれば良かったか。
今回の失態を教訓にする。そうやって今まで学習してきた。
これからもその姿勢は変わらない。でなければ、奪ってきた命に示しがつかないから。
「あーあ……」
境内の掃除が捗らない。作業の手が遅い自らに辟易し、霊夢は箒を持ったまま縁側へと腰をおろした。今日はサボろうかしら、などと東の空に映える朝日を見つめながら想う。
塩屋敷の長者には、まだ人間の部分が残っていた。権力者であり、人間の里を支えてきた人物でもある。彼がいなくなれば、多くの人が不幸にみまわれるだろう。
その事実をわかっていながら、自分は手を下した。
覚悟の上だった。
長者は悪行を働いていた。馬肉の味を忘れられず、無闇に殺生をしたバチがあたったのである。自業自得だといえばそのとおりだが、助けられるのなら助けたかったのも事実。
しかし、馬憑きに成り代わられようとしていた。人間の部分をほとんど失った彼を救う手立てはなかったのである。里の影響力を鑑み、病死とみせかけた暗殺が妥当なはず。
そんな彼の、悶え苦しむ顔が視界にちらつく。
ムカデの手足のように這いずる体と、飛び出しそうなくらいに見開かれた眼。
(……しばらくは、消化の良いモノを食べた方がいいわね)
疲労もあるし食欲もある。
人として生きている証拠だと、霊夢はその事実を皮肉げに嘲った。
そんなおり、すぐ近くで誰かの気配がした。顔を向ける。
「よっ」
「魔理沙……」
黒白の魔法使い。
霊夢とは対称的に、喜色満面といった様子。魔法の箒を肩にひっかけながら、彼女は霊夢を見下ろしていた。
「あんた、人んちに入るときは挨拶くらいしなさいよ。ビックリするじゃない」
「あん? なにいってるんだ? さっきからずっと呼んでたぜ? なんにも返事がこないから、こうやって庭に回り込んできたんだが」
「え、ホントに?」
「ああ。ウソついてどーすんだよ」
全く気づかなかった。いくらなんでも考え事をしすぎたかと、霊夢は自分の失態に頭を抱える。こんなときこそしっかりしなければいけないのに。
「塩屋敷の旦那の葬式に行ってきたんだろ? 気持ちはわかるが切り替えろよ。お前って昔からわりと繊細だったからな」
「うっさい、余計なお世話よ」
魔理沙は勘違いをしていた。
霊夢が影で長者を暗殺したことは知らない。さらにいえば、博麗の巫女が今までに何度も業を積み重ねてきていることを、霞ほども思ってもいないのである。
だから、博麗霊夢は他人の生き死にに敏感な少女、だと彼女は思い込んでいる。
「病死は病死だ。誰だってあることさ。お前にだって可能性があるし、私もそうだ。それが今回たまたま塩屋敷の旦那だっただけの話だろ?」
「そう、だけど」
「だからお前が気負う必要はないんだよ」
言いながら、魔理沙は霊夢の肩をポンポンと叩きながら隣に腰をおろした。バタバタと足を無意味にゆらし、世間話を続ける。
「小鈴がなんか怪しんでたぜ。塩屋敷の旦那の死は事件の匂いがする、ってな。旦那は園芸の専門書を鈴奈庵からよく借りてたみたいでな、小鈴のやつ、病死をするような人が読むような本じゃなかったのにって、どこか納得してなくてな。なにか知らないか?」
「さあ?」
「本当に知らないんだな? 首無し馬の霊の話をしたときも、おまえ様子がおかしかったぜ? そうなると話が変わってくるわね、って。あれはなんだったんだ?」
「特に大したことじゃないわ。塩屋敷の馬が霊になって現れたってだけよ。屠殺された馬を憐れんだ歳神様が、霊を導いてくれたのよ。小鈴ちゃんはそれを目撃しただけのこと。縁起の良いモノだって説明したでしょ」
「なんだ。じゃあ別の妖怪でもなんでもなかったんだな。旦那の病死と首無し馬との関連性はない、ってことか?」
「ええ。塩屋敷にも確認しに行ったし、間違いないわ」
半分以上口からでまかせだったが、魔理沙は信じてくれた。
ホッとする自分とウソをつき続けなければいけない苦しさに、霊夢は心底吐き気がした。
真実を知ったら魔理沙はどう思うだろうか。直情的な彼女のことだ。きっと、そんな奴だとは思わなかったと言って、一生許してくれないだろう。
──そうなれば、どれだけ楽だろうか。
責め苦を受けることで罰せられるなら、血で汚れたこの両手も少しは洗い流せるはず。
しかし、その誘惑を払いのけなければ、博麗の巫女の責務は果たせない。
いまこのときだけは、心を冷たい鋼にしなければならなかった。
その鋼を温めてくる光のような存在、霧雨魔理沙。
彼女には感謝と、そして悔恨の念を送る。
気遣ってくれるから。全てを吐露したくなるような誘惑をしてくるから。
霊夢にとって、彼女は光でもあり、また毒でもあった。
……話題を少し変える。
「小鈴ちゃんがいなくなったら、ご両親はどう思うかしらね」
「は? なんで小鈴なんだ?」
唐突すぎたか。塩屋敷の長者は悪行を働き妖怪に取り憑かれたが、人里での監視対象である本居小鈴も二の舞になる可能性は充分にあるのだ。
もし、自分が彼女を手にかける状況に陥ったなら。
本居小鈴が病死、ないし、どこかへ消えてしまったなら家族はどうなるのか。
「言っちゃなんだが、人が一人病死したくらいで終末思想にまでいってるんなら、そりゃ病気だぜ霊夢。人気争奪をしたいつぞやの異変みたいじゃないか。あの仙人に希望の面でも作ってもらうよう頼んでくるか?」
「必要ないってば。真面目に答えて」
希望の面を頼るようになったら、それはいよいよ自分も終焉を迎えるころだろう。
笑えない未来をかみ殺しつつ、魔理沙の返答を待つ。
「そりゃあ悲しむだろうな。危なっかしい面もあるが、基本的には憎めない性格してるし、なにより可愛げがある。自慢の一人娘だと思うぜ。そんなやつがいなくなったら、落ち込みようは酷いんじゃないか?」
「……そうよね」
なにを当たり前のことをと、魔理沙は嘆息気味に肩を落とした。
「じゃあ、あんたは?」
「あん?」
質問の矛先を突然に変更して、隣に座る友人は面食らっていた。
霧雨魔理沙がいなくなる意味。
彼女は一瞬その状況を考えたのだろう。しかし、その意図するところを感じとったのか、すぐに表情を悪くして霊夢を睨みつけた。
「私の家のことは……いいだろ」
お前には関係ない、と突っぱねた視線をなげられる。
人里の実家には帰っていないこと。家族との関係がうまくいっていないこと。
二つは彼女の逆鱗だった。昔からの付き合いで、これらは問いただしても何も答えてくれない。むしろ仲違いの原因にもなるので、霊夢は極力その話題には触れないようにしていたのだが、この日は失敗したと彼女は後悔した。
無言で睨まれること数秒。
空気が針のように冷たく、肌を刺されているような感覚をどれくらい味わったか。
そのときだった。
「霊夢~、朝ご飯ができたわよ~」
台所から呼ぶ声。
それを聞いて魔理沙は緊張を解き、表情を明るくした。
「待ってました! 紫の手料理は滅多に食べられないからな、今回もあると信じてたぜ」
靴を乱雑にぬぎすて、魔理沙はずかずかと居間から台所へと入っていった。
「あ、やっぱり今日も来たのね。ったく、その鼻だけはよく利くんだから」
八雲紫の呆れる声が響き渡る。言いながらも、彼女はキチンと五人分作っているはずだ。
五人というのは、自分と八雲紫と霧雨魔理沙。そして、いつも結界管理に働いてもらっている式二人。
「霊夢~、配膳手伝いなさ~い」
二度目の呼び出しの声。舌打ちをして自分も台所へ足を向ける。
「おまえ、なんか霊夢のおかんが板についてきたな」
「え、そう?」
お世辞なのか皮肉なのか、どちらとも判断のつかない魔理沙の意見に、紫は嬉しげに頬を緩めていた。
紫が自分の母親、だって……?
(冗談やめてよね、ったく)
そのグチを口にすることもできないくらい、霊夢はどっと疲労を感じていた。
「うお、なんだこれ。プリプリして歯ごたえも良くて、しかも旨味が染みてる丸いやつ」
「ホタテの貝柱よ。ダシ代わりにもなる海の優れものなの」
「海かあ。幻想郷には海がないからなあ。どうりで……じゃあこれは? しなびた紙を入れたかと思ったら、鍋に触れた途端とろとろの糸みたいになったやつ」
「とろろ昆布ね。昆布を加工したものだけど、口に合うかしら?」
「最高だぜ。これ自体にも味がついてるから、他の具材とも絡み合って食が進むしな」
八雲紫が用意した朝ご飯とは、海鮮品を敷き詰めた雑煮鍋だった。
「朝から鍋って……」
幻想郷には海がない。そのため、湯気をたてるそれらは彼女らにとっては高級食材ばかりの贅沢品だった。八雲紫が外の世界で調達した品々は、グツグツと味を染みこませながら踊っている。
「この赤くて硬いのはなんだ? 甲殻類っぽいが」
「海の蟹よ。待って、いま身を取り出してあげるから」
「蟹!? 蟹ってあの沢にいる蟹か? ってことはこれ脚なのか!? どんだけでかいんだよ海の蟹!」
「カニカニカニカニうるさいわね。静かに食べられないの? 行儀悪い」
「おま。これが興奮せずにいられるかよ。つーかこんだけのもん用意してもらっておいて何も反応しないお前のほうこそ行儀がなっちゃいないぜ!」
全ての具材に目を輝かせ、紫に蟹の身を取り出してもらっては、そのツヤに涎をたらす。
「か~っ、口の中で甘さがほどけていくぜえ。風味が胃の中にまで浸透して、それに案内されるように通っていく喉ごしも最高。すごいな、海。というか、蟹」
食卓は三人で囲んでいた。鍋を挟んで霊夢と魔理沙。片側に紫。
水に弱い式二人は離れた場所で取り分けたものを食べている。式も魔理沙同様、その味に舌鼓をうっていた。
「天国がみえたぜえ。海鮮具材全ての味を吸い込んだ米をかっくらう……それだけで秘湯に浸かってる気分だ。私もダシになりてえ」
「もうなんか味の表現というより、どうぞ私をバカにしてくださいって言ってるみたい」
「じゃあお前はこれだけのもの用意してもらった紫に、感謝の言葉もないのかよ。落ち込んでるところに気を遣って、こうやってご馳走してくれてるんだろ? 味は気に入らなくてもお礼は言うべきだと思うぜ」
「…………」
魔理沙のもっともな意見に、霊夢は箸を止めた。
彼女の言うとおり、紫が自ら手料理を振る舞うのは、巫女の重責を少しでも和らげてあげようという優しさからくるものだった。しこりの残る妖怪退治、処断をした翌日には、今朝のように小さな宴を催してもくれる。
紫は遠慮がちに言う。
「魔理沙……あのね、霊夢疲れてるのよ。私は気にしてないし」
「お前が気にしてなくても私は気にするぜ。せっかくのご馳走がまずくなっちまう」
「勝手に人の家に上がり込んでるくせに、良いご身分ね」
「なんだと?」
お椀を膳に置き、魔理沙は目を細めて霊夢を見た。
緊張した雰囲気が食卓に流れる。
しかし、それはすぐに霧散した。魔理沙は大きく息を吐いて食事を再開したからだ。
その間を見計らって、紫がこんなことを弁明する。
「ごめんね霊夢。朝から鍋なんて重かったかもしれないけど……でも、やっぱり鍋ってみんなでつつくものじゃない? あなたの気を少しでも紛れるようにしたくて、魔理沙が来ることも見込んでこれを献立にしてみたの。だから、彼女を責めないであげて」
「私は……別に……」
魔理沙を責めてなんかいない。紫にだって感謝している。そう言葉を続けたいのに、霊夢は声を出すことができなかった。
両手は血で汚れている。そんな自分が求めているのは、贖罪である。
しかし、博麗の巫女として生きる上では甘えだった。
人間が妖怪になることが、幻想郷では一番の大罪である。なぜなら、人間の数が妖怪化によって減っていけば、人から受けられる畏敬や畏怖が少なくなり、結果、妖怪も滅び、最終的には幻想郷も潰えてしまう。
博麗の巫女はその監視も行っているのである。
これは巫女独自の戒厳。人間の誰にも知られてはいけないこと。
人間が妖怪になれる術が伝播すれば、またたく間に人間と妖怪のバランスが崩れるだろう。そんなことをすれば処断すると、巫女が公に発表しても同じ。その手段があると知られれば、欲深き人間はこぞって妖怪になりたがるかもしれない。
だから話さない。話せない。
人間には変わらず、妖怪に畏怖と尊厳を持ちつづけてほしいから。
矛盾。そして、危ういバランス。
それで成り立っているのが幻想郷なのである。
(霊夢は役割を全うしてくれてるけど、心がついていけてない。だから、こうやって消耗しちゃうのよね)
八雲紫は幻想郷の管理者であり、巫女の宿命を監視もしているのである。
(宿命というか、業というか……)
憐れむ気持ちを抑え込み、紫は自身の力のなさを痛感した。強くあれと言うのはたやすいが、霊夢はまだ年若き乙女なのだ。見守ることしかできないときもある。
少なくとも今は。
「霊夢、これはさっきも言ったけどな」
二の句が告げないでいる霊夢に対し、魔理沙はこう口を開いた。
「死は誰にだってあり得るんだ。明日私が死ぬかもしれないし、お前が死ぬかもしれない。そこにいる紫や式の二人もそうだ。だけど、そんなこと言い始めたらキリがないぜ。私らは生きてるんだ。なら、死んだやつにいつまでも囚われるのは損だと思わないか」
「…………」
「小鈴のことが心配なら、私だってあいつの監視には協力する。というか、もうしてる。あいつがおかしな力に手を出さないように……ああそれと、あいつに変な虫が寄りつかないように見ててやるからさ、一緒にあいつを守ってやろうぜ。な?」
「………………っ、うん」
「泣くなバカ。さっさと食えよ。冷めちまうぞ」
「ありがとう……さっきは、ごめんなさい……」
「気にすんな。私の家のことは、まあアレだ。自分でケリをつけたいんだ。だから自分以外の誰かに口を出されたくないっつーか……うん。本当に困っちまったら、お前にだけは相談する。そのつもりでいるからさ」
嗚咽をこらえる霊夢に魔理沙は優しげに語る。その様子を見ていた紫は、ホッとしながら霊夢に寄り添った。
頭を撫でて落ち着かせる。
「紫も、ごめん。これ、とても美味しいわ」
「良いのよ気にしなくて。私はずっと、あなたの味方だから」
そこからは穏やかな食卓が彼女らを包んだ。
魔理沙は大げさな身振り手振りで味を語り、霊夢も静かに海の幸を評価した。
全てを五人で平らげたあと、食後のお茶も紫が用意してくれた。
満腹になったおなかにひと息いれつつ、霊夢はこんなことを魔理沙に尋ねる。
「あんたさあ、まだ魔法使いになること諦めてないの?」
「また唐突だな。そりゃあ諦めてないぜ。研究をつづけてこその魔法使いだからな」
「そ。じゃ、あんたが人間やめたら、私がいの一番に引導を渡してあげる。覚悟しなさい」
「おいおい、そのときはまだ悪さをしてるかどうかもわからないのに、私は速攻退治されるのかよ。容赦ないな」
「でも、何かしでかしてる自信はあるんでしょ?」
「そうだな。だからすぐに逃げるぜ」
「ええ、逃げなさい。私に追いつかれないようにね。ずっと追い続けてやるから」
「ハハッ、怖いな。肝に銘じておくよ」
巫女の忠告の真の意味。それをわかっているのは霊夢以外に紫だけだった。
黒白の魔法使いに送られる最大限の感謝の意を、賢者は黙って心にとどめる。
(孤独の業、か。巫女の苦しみを救うのもまた、自身の苦しみだなんて……)
不安と安心とをないまぜにした感情と共に、紫は二人を見つめる。
幻想少女に幸あれと、無責任だと思いつつも彼女はそう祈り続けるのだった。
声は出させていない。誰かに気づかれたら、それこそ面倒なことになるから。
博麗霊夢は、塩屋敷の長者を処断したときのことを夢に見ていた。
自分が姿を現した瞬間の彼の驚いた顔も、術を施した際の苦しむ顔も、命のあぶくを口からふきだしそれが消えていく様も、全て彼女は見ていた。
見なければならなかった。
確実に仕留めたという確信がほしかったから。
息の根を止めたら早々に立ち去る。誰にも発見されないよう、細心の注意を払いながら。
死因は病死となるよう細工をしておいた。博麗の巫女にしか伝わらない秘術だ。誰もそれが、他人による殺害だと思わないだろう。
少なくとも里の人間には気づかれないはず。
こういうことを、これまで一体何度続けてきただろう。
数えることはできる。全て覚えているから。忘れることなどできはしない。
しかし、幾度を記憶にとどめていようとも、それを指折り数えていたら自分が破滅しそうな気がしていた。
死を与えるたびに積み上げる石。
それが崩れ去ったとき、きっと自分も崩壊を起こすのだろうという予感があった。
枕元に立つ気配がそう告げている。
(わかってるってば。あんたたちの怨念は、全部私にかぶせて良いからさ。線香くらいあげてやるっての)
毒づくように、彼らに向かって告げる。
霊夢が死を与えた人間……ないし、妖怪になったものたち。それが彼女を取り巻く気配の正体である。みな、死に顔で霊夢を見下ろしながら、悔恨の念を浴びせ続けていた。
全身を抱擁する死。
寒気と吐き気に見舞われながら、霊夢はそれを受け入れていく。
これは報いである。生殺与奪の権利をほしいままにしている、博麗の巫女の宿命。
「だからといって、ルールを破ったものたちに好き勝手させるのは、あまり好ましくないわよ」
澄んだ声が響き渡ると同時、枕元に立っていた怨念たちはまたたく間に消えていった。
代わりにあらわれたのは、妖怪の賢者──八雲紫。
(うっさい。夢のなかにまで出てこないでよ)
「せっかく助けてあげたのに、その言い草はないんじゃないかしら」
(別に助けなんて必要なかったわ。あいつらの好きにさせてよかったのに)
「……あのねえ」
寝ながら、強情につっぱねる霊夢に対し、紫は隣に腰を降ろしてこんなことを口にした。
「誰かを手にかけて罪悪感を持つのは仕方のないことだと思うけど、それとあいつらの思念を受け止めることとは関係ないじゃない。あなたは巫女としての役目を果たしただけ。正しいのはあなたなのよ、霊夢」
(私が正しいのは当たり前でしょ。間違ったことなんてしてない。私は正義でなければならないのよ。博麗の巫女は自分の役目に疑いを持っちゃダメなの。そう教えてくれたのはあんたでしょうに)
「え、なに? 私が原因なの?」
責任の所在が宙に浮き、互いの主張がすれ違っていく。
が、紫は霊夢の気性をそれとなく把握していた。彼女が怨念を好きにさせる理由──
賢者はため息をつきながら、こう漏らした。
「じゃあ、さっきのやつらに好き勝手させるのも、あなたの正義なのかしら」
(そうよ。彼らの想いを受け止めるのは巫女としての責務よ。でないと、あの人たちが浮かばれないじゃない)
「浮かばれるも浮かばれないも関係ないじゃない。元はといえば悪行を働いたのは彼らなんだから、あなたが責め苦を受ける必要も」
(手遅れになるまで気づかなかった責任はあるわ。それに、私は他人の生き死にを司るどこぞの閻魔になるつもりはないの。私は人間よ。先に勝手を働いてるのは私。だから)
「…………」
命を奪うことの快楽を覚えてはいけないし、傲慢にもなってはいけない。
だから、苦しみを受けるのは当然の報いだと霊夢は言った。
博麗霊夢の懺悔。紫は、それを聞くたびに彼女が巫女で良かったと心から安堵した。
同時に不安もかき立てられた。このままではいつか身を滅ぼしかねない霊夢の覚悟に、紫はできることは何かを探し続ける。
こうやってグチを言われながらも、怨念たちを追い払うのもその一環。
博麗霊夢を抱きしめる。巫女としての覚悟と宿命を、少しでも和らげたくて。
(ちょっと、なにすんのよ)
「あなたが好き勝手するなら、私もそうさせてもらおうかと思って。あなたは人知れずに傷ついたりしてるんですもの。ときにはこうやって褒めてあげてもバチはあたらないわ」
(いや、寝苦しいから。さっさと離れなさいってば、もうっ)
なにを言われようと、紫は霊夢を放したりはしなかった。頭を撫でて、アヤしたりほおずりをしたり、温もりを与えていく。
我が子に幸せが訪れるようにと願う、母のように。
(だぁかぁらぁ)
一方的な物言いに苛立ちが募っていく。紫の心遣いを彼女は知ってか知らずか。
「寝苦しいって言ってるじゃない!」
振り払うようにして起き上がる。しかし、そこには妖怪の賢者の姿はなく。
「あ、あれ?」
あたりを見回すと、朝日が寝室にこぼれだしていた。それを迎え入れる雀のさえずりも楽しげに踊っている。
はぁっ、と。霊夢は肩を落として再び布団に転がった。天井を仰いで眉間を揉む。
「全然寝た気がしないっての、ったく」
塩屋敷の長者は手遅れだった。家族同然に可愛がっていた馬を屠殺したという噂がたった頃から目を付けていれば、もしかしたら間に合ったかもしれない。しかし、それもあとの祭りである。
そう自分に言い聞かせるも、胸の内にできた棘が後悔とともに突き刺さってくる。
どうすれば良かったか。
今回の失態を教訓にする。そうやって今まで学習してきた。
これからもその姿勢は変わらない。でなければ、奪ってきた命に示しがつかないから。
「あーあ……」
境内の掃除が捗らない。作業の手が遅い自らに辟易し、霊夢は箒を持ったまま縁側へと腰をおろした。今日はサボろうかしら、などと東の空に映える朝日を見つめながら想う。
塩屋敷の長者には、まだ人間の部分が残っていた。権力者であり、人間の里を支えてきた人物でもある。彼がいなくなれば、多くの人が不幸にみまわれるだろう。
その事実をわかっていながら、自分は手を下した。
覚悟の上だった。
長者は悪行を働いていた。馬肉の味を忘れられず、無闇に殺生をしたバチがあたったのである。自業自得だといえばそのとおりだが、助けられるのなら助けたかったのも事実。
しかし、馬憑きに成り代わられようとしていた。人間の部分をほとんど失った彼を救う手立てはなかったのである。里の影響力を鑑み、病死とみせかけた暗殺が妥当なはず。
そんな彼の、悶え苦しむ顔が視界にちらつく。
ムカデの手足のように這いずる体と、飛び出しそうなくらいに見開かれた眼。
(……しばらくは、消化の良いモノを食べた方がいいわね)
疲労もあるし食欲もある。
人として生きている証拠だと、霊夢はその事実を皮肉げに嘲った。
そんなおり、すぐ近くで誰かの気配がした。顔を向ける。
「よっ」
「魔理沙……」
黒白の魔法使い。
霊夢とは対称的に、喜色満面といった様子。魔法の箒を肩にひっかけながら、彼女は霊夢を見下ろしていた。
「あんた、人んちに入るときは挨拶くらいしなさいよ。ビックリするじゃない」
「あん? なにいってるんだ? さっきからずっと呼んでたぜ? なんにも返事がこないから、こうやって庭に回り込んできたんだが」
「え、ホントに?」
「ああ。ウソついてどーすんだよ」
全く気づかなかった。いくらなんでも考え事をしすぎたかと、霊夢は自分の失態に頭を抱える。こんなときこそしっかりしなければいけないのに。
「塩屋敷の旦那の葬式に行ってきたんだろ? 気持ちはわかるが切り替えろよ。お前って昔からわりと繊細だったからな」
「うっさい、余計なお世話よ」
魔理沙は勘違いをしていた。
霊夢が影で長者を暗殺したことは知らない。さらにいえば、博麗の巫女が今までに何度も業を積み重ねてきていることを、霞ほども思ってもいないのである。
だから、博麗霊夢は他人の生き死にに敏感な少女、だと彼女は思い込んでいる。
「病死は病死だ。誰だってあることさ。お前にだって可能性があるし、私もそうだ。それが今回たまたま塩屋敷の旦那だっただけの話だろ?」
「そう、だけど」
「だからお前が気負う必要はないんだよ」
言いながら、魔理沙は霊夢の肩をポンポンと叩きながら隣に腰をおろした。バタバタと足を無意味にゆらし、世間話を続ける。
「小鈴がなんか怪しんでたぜ。塩屋敷の旦那の死は事件の匂いがする、ってな。旦那は園芸の専門書を鈴奈庵からよく借りてたみたいでな、小鈴のやつ、病死をするような人が読むような本じゃなかったのにって、どこか納得してなくてな。なにか知らないか?」
「さあ?」
「本当に知らないんだな? 首無し馬の霊の話をしたときも、おまえ様子がおかしかったぜ? そうなると話が変わってくるわね、って。あれはなんだったんだ?」
「特に大したことじゃないわ。塩屋敷の馬が霊になって現れたってだけよ。屠殺された馬を憐れんだ歳神様が、霊を導いてくれたのよ。小鈴ちゃんはそれを目撃しただけのこと。縁起の良いモノだって説明したでしょ」
「なんだ。じゃあ別の妖怪でもなんでもなかったんだな。旦那の病死と首無し馬との関連性はない、ってことか?」
「ええ。塩屋敷にも確認しに行ったし、間違いないわ」
半分以上口からでまかせだったが、魔理沙は信じてくれた。
ホッとする自分とウソをつき続けなければいけない苦しさに、霊夢は心底吐き気がした。
真実を知ったら魔理沙はどう思うだろうか。直情的な彼女のことだ。きっと、そんな奴だとは思わなかったと言って、一生許してくれないだろう。
──そうなれば、どれだけ楽だろうか。
責め苦を受けることで罰せられるなら、血で汚れたこの両手も少しは洗い流せるはず。
しかし、その誘惑を払いのけなければ、博麗の巫女の責務は果たせない。
いまこのときだけは、心を冷たい鋼にしなければならなかった。
その鋼を温めてくる光のような存在、霧雨魔理沙。
彼女には感謝と、そして悔恨の念を送る。
気遣ってくれるから。全てを吐露したくなるような誘惑をしてくるから。
霊夢にとって、彼女は光でもあり、また毒でもあった。
……話題を少し変える。
「小鈴ちゃんがいなくなったら、ご両親はどう思うかしらね」
「は? なんで小鈴なんだ?」
唐突すぎたか。塩屋敷の長者は悪行を働き妖怪に取り憑かれたが、人里での監視対象である本居小鈴も二の舞になる可能性は充分にあるのだ。
もし、自分が彼女を手にかける状況に陥ったなら。
本居小鈴が病死、ないし、どこかへ消えてしまったなら家族はどうなるのか。
「言っちゃなんだが、人が一人病死したくらいで終末思想にまでいってるんなら、そりゃ病気だぜ霊夢。人気争奪をしたいつぞやの異変みたいじゃないか。あの仙人に希望の面でも作ってもらうよう頼んでくるか?」
「必要ないってば。真面目に答えて」
希望の面を頼るようになったら、それはいよいよ自分も終焉を迎えるころだろう。
笑えない未来をかみ殺しつつ、魔理沙の返答を待つ。
「そりゃあ悲しむだろうな。危なっかしい面もあるが、基本的には憎めない性格してるし、なにより可愛げがある。自慢の一人娘だと思うぜ。そんなやつがいなくなったら、落ち込みようは酷いんじゃないか?」
「……そうよね」
なにを当たり前のことをと、魔理沙は嘆息気味に肩を落とした。
「じゃあ、あんたは?」
「あん?」
質問の矛先を突然に変更して、隣に座る友人は面食らっていた。
霧雨魔理沙がいなくなる意味。
彼女は一瞬その状況を考えたのだろう。しかし、その意図するところを感じとったのか、すぐに表情を悪くして霊夢を睨みつけた。
「私の家のことは……いいだろ」
お前には関係ない、と突っぱねた視線をなげられる。
人里の実家には帰っていないこと。家族との関係がうまくいっていないこと。
二つは彼女の逆鱗だった。昔からの付き合いで、これらは問いただしても何も答えてくれない。むしろ仲違いの原因にもなるので、霊夢は極力その話題には触れないようにしていたのだが、この日は失敗したと彼女は後悔した。
無言で睨まれること数秒。
空気が針のように冷たく、肌を刺されているような感覚をどれくらい味わったか。
そのときだった。
「霊夢~、朝ご飯ができたわよ~」
台所から呼ぶ声。
それを聞いて魔理沙は緊張を解き、表情を明るくした。
「待ってました! 紫の手料理は滅多に食べられないからな、今回もあると信じてたぜ」
靴を乱雑にぬぎすて、魔理沙はずかずかと居間から台所へと入っていった。
「あ、やっぱり今日も来たのね。ったく、その鼻だけはよく利くんだから」
八雲紫の呆れる声が響き渡る。言いながらも、彼女はキチンと五人分作っているはずだ。
五人というのは、自分と八雲紫と霧雨魔理沙。そして、いつも結界管理に働いてもらっている式二人。
「霊夢~、配膳手伝いなさ~い」
二度目の呼び出しの声。舌打ちをして自分も台所へ足を向ける。
「おまえ、なんか霊夢のおかんが板についてきたな」
「え、そう?」
お世辞なのか皮肉なのか、どちらとも判断のつかない魔理沙の意見に、紫は嬉しげに頬を緩めていた。
紫が自分の母親、だって……?
(冗談やめてよね、ったく)
そのグチを口にすることもできないくらい、霊夢はどっと疲労を感じていた。
「うお、なんだこれ。プリプリして歯ごたえも良くて、しかも旨味が染みてる丸いやつ」
「ホタテの貝柱よ。ダシ代わりにもなる海の優れものなの」
「海かあ。幻想郷には海がないからなあ。どうりで……じゃあこれは? しなびた紙を入れたかと思ったら、鍋に触れた途端とろとろの糸みたいになったやつ」
「とろろ昆布ね。昆布を加工したものだけど、口に合うかしら?」
「最高だぜ。これ自体にも味がついてるから、他の具材とも絡み合って食が進むしな」
八雲紫が用意した朝ご飯とは、海鮮品を敷き詰めた雑煮鍋だった。
「朝から鍋って……」
幻想郷には海がない。そのため、湯気をたてるそれらは彼女らにとっては高級食材ばかりの贅沢品だった。八雲紫が外の世界で調達した品々は、グツグツと味を染みこませながら踊っている。
「この赤くて硬いのはなんだ? 甲殻類っぽいが」
「海の蟹よ。待って、いま身を取り出してあげるから」
「蟹!? 蟹ってあの沢にいる蟹か? ってことはこれ脚なのか!? どんだけでかいんだよ海の蟹!」
「カニカニカニカニうるさいわね。静かに食べられないの? 行儀悪い」
「おま。これが興奮せずにいられるかよ。つーかこんだけのもん用意してもらっておいて何も反応しないお前のほうこそ行儀がなっちゃいないぜ!」
全ての具材に目を輝かせ、紫に蟹の身を取り出してもらっては、そのツヤに涎をたらす。
「か~っ、口の中で甘さがほどけていくぜえ。風味が胃の中にまで浸透して、それに案内されるように通っていく喉ごしも最高。すごいな、海。というか、蟹」
食卓は三人で囲んでいた。鍋を挟んで霊夢と魔理沙。片側に紫。
水に弱い式二人は離れた場所で取り分けたものを食べている。式も魔理沙同様、その味に舌鼓をうっていた。
「天国がみえたぜえ。海鮮具材全ての味を吸い込んだ米をかっくらう……それだけで秘湯に浸かってる気分だ。私もダシになりてえ」
「もうなんか味の表現というより、どうぞ私をバカにしてくださいって言ってるみたい」
「じゃあお前はこれだけのもの用意してもらった紫に、感謝の言葉もないのかよ。落ち込んでるところに気を遣って、こうやってご馳走してくれてるんだろ? 味は気に入らなくてもお礼は言うべきだと思うぜ」
「…………」
魔理沙のもっともな意見に、霊夢は箸を止めた。
彼女の言うとおり、紫が自ら手料理を振る舞うのは、巫女の重責を少しでも和らげてあげようという優しさからくるものだった。しこりの残る妖怪退治、処断をした翌日には、今朝のように小さな宴を催してもくれる。
紫は遠慮がちに言う。
「魔理沙……あのね、霊夢疲れてるのよ。私は気にしてないし」
「お前が気にしてなくても私は気にするぜ。せっかくのご馳走がまずくなっちまう」
「勝手に人の家に上がり込んでるくせに、良いご身分ね」
「なんだと?」
お椀を膳に置き、魔理沙は目を細めて霊夢を見た。
緊張した雰囲気が食卓に流れる。
しかし、それはすぐに霧散した。魔理沙は大きく息を吐いて食事を再開したからだ。
その間を見計らって、紫がこんなことを弁明する。
「ごめんね霊夢。朝から鍋なんて重かったかもしれないけど……でも、やっぱり鍋ってみんなでつつくものじゃない? あなたの気を少しでも紛れるようにしたくて、魔理沙が来ることも見込んでこれを献立にしてみたの。だから、彼女を責めないであげて」
「私は……別に……」
魔理沙を責めてなんかいない。紫にだって感謝している。そう言葉を続けたいのに、霊夢は声を出すことができなかった。
両手は血で汚れている。そんな自分が求めているのは、贖罪である。
しかし、博麗の巫女として生きる上では甘えだった。
人間が妖怪になることが、幻想郷では一番の大罪である。なぜなら、人間の数が妖怪化によって減っていけば、人から受けられる畏敬や畏怖が少なくなり、結果、妖怪も滅び、最終的には幻想郷も潰えてしまう。
博麗の巫女はその監視も行っているのである。
これは巫女独自の戒厳。人間の誰にも知られてはいけないこと。
人間が妖怪になれる術が伝播すれば、またたく間に人間と妖怪のバランスが崩れるだろう。そんなことをすれば処断すると、巫女が公に発表しても同じ。その手段があると知られれば、欲深き人間はこぞって妖怪になりたがるかもしれない。
だから話さない。話せない。
人間には変わらず、妖怪に畏怖と尊厳を持ちつづけてほしいから。
矛盾。そして、危ういバランス。
それで成り立っているのが幻想郷なのである。
(霊夢は役割を全うしてくれてるけど、心がついていけてない。だから、こうやって消耗しちゃうのよね)
八雲紫は幻想郷の管理者であり、巫女の宿命を監視もしているのである。
(宿命というか、業というか……)
憐れむ気持ちを抑え込み、紫は自身の力のなさを痛感した。強くあれと言うのはたやすいが、霊夢はまだ年若き乙女なのだ。見守ることしかできないときもある。
少なくとも今は。
「霊夢、これはさっきも言ったけどな」
二の句が告げないでいる霊夢に対し、魔理沙はこう口を開いた。
「死は誰にだってあり得るんだ。明日私が死ぬかもしれないし、お前が死ぬかもしれない。そこにいる紫や式の二人もそうだ。だけど、そんなこと言い始めたらキリがないぜ。私らは生きてるんだ。なら、死んだやつにいつまでも囚われるのは損だと思わないか」
「…………」
「小鈴のことが心配なら、私だってあいつの監視には協力する。というか、もうしてる。あいつがおかしな力に手を出さないように……ああそれと、あいつに変な虫が寄りつかないように見ててやるからさ、一緒にあいつを守ってやろうぜ。な?」
「………………っ、うん」
「泣くなバカ。さっさと食えよ。冷めちまうぞ」
「ありがとう……さっきは、ごめんなさい……」
「気にすんな。私の家のことは、まあアレだ。自分でケリをつけたいんだ。だから自分以外の誰かに口を出されたくないっつーか……うん。本当に困っちまったら、お前にだけは相談する。そのつもりでいるからさ」
嗚咽をこらえる霊夢に魔理沙は優しげに語る。その様子を見ていた紫は、ホッとしながら霊夢に寄り添った。
頭を撫でて落ち着かせる。
「紫も、ごめん。これ、とても美味しいわ」
「良いのよ気にしなくて。私はずっと、あなたの味方だから」
そこからは穏やかな食卓が彼女らを包んだ。
魔理沙は大げさな身振り手振りで味を語り、霊夢も静かに海の幸を評価した。
全てを五人で平らげたあと、食後のお茶も紫が用意してくれた。
満腹になったおなかにひと息いれつつ、霊夢はこんなことを魔理沙に尋ねる。
「あんたさあ、まだ魔法使いになること諦めてないの?」
「また唐突だな。そりゃあ諦めてないぜ。研究をつづけてこその魔法使いだからな」
「そ。じゃ、あんたが人間やめたら、私がいの一番に引導を渡してあげる。覚悟しなさい」
「おいおい、そのときはまだ悪さをしてるかどうかもわからないのに、私は速攻退治されるのかよ。容赦ないな」
「でも、何かしでかしてる自信はあるんでしょ?」
「そうだな。だからすぐに逃げるぜ」
「ええ、逃げなさい。私に追いつかれないようにね。ずっと追い続けてやるから」
「ハハッ、怖いな。肝に銘じておくよ」
巫女の忠告の真の意味。それをわかっているのは霊夢以外に紫だけだった。
黒白の魔法使いに送られる最大限の感謝の意を、賢者は黙って心にとどめる。
(孤独の業、か。巫女の苦しみを救うのもまた、自身の苦しみだなんて……)
不安と安心とをないまぜにした感情と共に、紫は二人を見つめる。
幻想少女に幸あれと、無責任だと思いつつも彼女はそう祈り続けるのだった。
人里は妖怪を活かすための牧場にして生簀、あるいは鳥かご。
博麗の巫女は善でも悪でもなく大結界を維持するための暴力装置。
こう考えると、霊夢にその役目を与えた張本人がオカンとか、本当に笑い事ですね。