Coolier - 新生・東方創想話

御穢土兎娘

2016/02/21 20:04:27
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霊山に、晩秋の風が吹く。
沈みかけの夕日に照らされた桃の木が枝を揺らし、一枚の葉を落とす。
妖怪の山に夜が訪れようとしているのであった。
桃の木の傍には小さな庵があり、中には灯りが見える。
小さな行灯によって作られたその灯りで、一人の少女が本を読んでいた。
黄色を基調とした衣服に身を包んだその少女は、ただの人間では持ちえない、長い耳を揺らしながら畳の上に横たわっていた。
肘をついて掌に頬を乗せ、もう一方の手で本のページをめくっている。
時折その手を止め、傍に置かれた皿の上の菓子に手を伸ばしてもいる。
一言で言えば、くつろいだ様子であった。
「清蘭」
少女は本を読む手を止め、庵の奥に声をかけた。
手元に置かれた本は、この国の歴史を記した学術書の一種であった。
「紅白戦」の由来となった、平安時代の武士集団の戦いに関する記述が見える。
「ご飯、まだ?」
「あとはお米が炊ければ終わりですよ」
清蘭、と呼ばれた別の少女の声が返って来た。
「はーい」
「……鈴瑚さん。もしかして今、お菓子食べてます?」
横たわって本を読んでいる少女・鈴瑚の前に、奥で料理をしていた清蘭が歩み出て来た。
鈴瑚と同じく、兎を思わせる長い耳が頭上に伸びている。
「ん。これがなかなか美味しくてね」
清蘭も食べる?と、皿の上の菓子を一つとって差し出す鈴瑚。
それは濃い目の醤油を使って甘辛く焼き上げられた、一口大の煎餅であった。
鈴瑚がこの日、人里で見つけて買い求めて来たものである。
「今は食べません。これからご飯だというのに」
「清蘭は小食だからねえ」
「そういう問題じゃないです。間食は、肥満の種ですよ」
そう言うと、清蘭は鈴瑚の傍に置かれた皿を持ち上げた。
「あ、そんなご無体な」
「ご飯が入らなくなったらどうするんですか」
寝そべったまま伸ばされた鈴瑚の腕を払いのけ、清蘭は煎餅が盛られた皿を戸棚の上に乗せた。
「そんな、歌舞伎揚げくらいで大袈裟な」
「駄目です」
「むぅ……仮にそれ全部食べたって、清蘭のご飯を残したりなんてしないのに」
鈴瑚は頬を膨らませて清蘭に背を向けると、視線を手元の本に移した。
「……食後のお茶の時間に、少しだけならいいですよ」
清蘭は拗ね気味の鈴瑚の背中に、ぽつりと呟いた。
「本当?」
鈴瑚は即座に反応し、清蘭に顔を向ける。
「本当です。ちゃんと残さずご飯を食べたら、ですけど」
「食べる食べる」
鈴瑚は嬉しそうに身体を起こすと、床に胡坐をかいた。
「というか、さっきも言ったじゃない」
今度は膝の上に肘をつき、柔らかい右頬を掌で支える。
「清蘭が作った料理を残すなんて、月の表裏がひっくり返ったって有り得ないから」
「……食べすぎも、駄目ですからね」
清蘭はきつい口調を作りながらも、照れ臭さを隠し切れないという表情で去った。
「あ、そうだ清蘭」
再びかまどの様子を見に行こうとした清蘭を、鈴瑚が呼び止めた。
「はい?」
「前から言ってるでしょう?鈴瑚『さん』ってのは禁止。敬語も駄目」
「そんなこと、言われても」
清蘭の眉間に皺が寄った。怒っているというよりは、困惑による仕草に見える。
「ここはもう、月じゃないんだし」
「わかっては、いますけど」
この庵に二人で暮らし始めてから、数週間が経っていた。
その間、鈴瑚は幾度となく先ほどの指示を清蘭に与え、その度に同じ返答を貰っていた。
「急に変えろと言われても、無理ですよ」
かつての職場――調査部隊「イーグルラヴィ」での立場の違いにより染みついた鈴瑚への接し方は、そう簡単には変わらないのであった。


鈴瑚と清蘭は、ほんの少し前まで「月の兎」であった。
月に幽閉された罪人、嫦娥に恨みを持つ者たちによる侵略行為への対応として、賢人たちは地上への遷都を計画した。
その先遣隊として幻想郷へ送り込まれたのがイーグルラヴィであった。
清蘭は潜入捜査、鈴瑚は情報管理を担当しており、部隊の中では鈴瑚の方が高い位にあった。
職務だけでなく性格や趣味も異なる二人だったが、月にいた頃から共に過ごすことは少なくなかった。

鈴瑚は、真面目で純朴な清蘭を可愛がっていた。
清蘭は、一見昼行燈のようでも頭が切れる鈴瑚を尊敬していた。

だから遷都計画が失敗に終わり、こうして二人で地上に残ることを決めた今であっても、
清蘭にとって鈴瑚が「目上の人」であるという意識は簡単に拭い去れないものなのである。
一方の鈴瑚はかつての職も立場も捨て、二人で支え合って生きるという考えの下、
清蘭とは対等な「家族」としての関係を築くことを望んでいた。


「はい、ご飯ができましたよ。鈴瑚さ……鈴瑚、ちゃん」
先ほどはああ言った清蘭だが、頑張って鈴瑚の二人称を言い直していた。
「ん、ありがとう」
生真面目で優しい清蘭は、どうにか鈴瑚の望みに応じたいと努力をしている。
鈴瑚もそれをわかっているので、呼称や口調に関してはあまりしつこく言及しない。
「お団子は、売れまし……売れた?」
「まあ、そこそこかな」
地上で生きるには、当然ながら金銭が必要である。
二人は清蘭が元々得意としていた餅つきを生かし、団子屋を始めた。
清蘭が団子を作り、鈴瑚がそれを里に出て売り歩く。
最初はこの庵を店として使うことも考えたが、ここは妖怪の山の外れだ。
そう多くの者が通る場所というわけではないことを考慮し、この庵だけでなく、人里での行商も含めた売り方を考えたのである。
「わたしも売りに出た方が、いいのかな」
「それじゃ、あんた一人に負担が偏り過ぎよ」
鈴瑚が敢えて売り子の役目を買って出たのは、勿論団子作りには清蘭が適任、という考えがあってのことだ。
だが同時に、対等な立場での二人暮らしにおいては、これまで月ではやっていなかった「現場の作業」を自分もやるべきだと思った。
清蘭は手を使って、団子を作る。
鈴瑚は足を使って、団子を売る。
一緒にいられる時間を減らしてでもその分業にこだわったのは、鈴瑚なりにこの地上での「対等さ」を確立したかったからである。
「清蘭は自分のやることをちゃんとやってる。そこから先はわたしの仕事」
食卓を挟んだ向こう側、不安な顔を見せる相棒に鈴瑚は微笑んで見せた。
「今はまだ大した数が売れてはいないけど、食べた奴は人間も妖怪も皆『うまい』って言ってるよ。評判が広まれば、自然と客は増えてくる」
「……本当ですか?」
清蘭の顔はまだ曇ったままだ。
彼女の料理の腕は団子に限らず相当なものだと鈴瑚は評価しているが――当の本人にはその自覚があまりないのである。
「本当よ。その上、団子を作るのも売るのもこんな美少女だって言うんだから、これはもう里の名物間違いなし」
鈴瑚は箸の先で清蘭と自分を交互に指した。
「顔を見られているのは、鈴瑚さんだけですよ」
清蘭がそう言って苦笑した。
「お、美少女ってのは否定しないんだ?」
「鈴瑚さんが美少女なら、わたしも十分その範囲ですし」
「言うねぇ」
鈴瑚はそう言いつつも、清蘭が元気を取り戻したことに安堵の表情を浮かべた。
「でも、確かに」
清蘭は箸をぐっと握りしめ、言った。
「鈴瑚さんがたくさんお団子を売れるように、もっと腕を磨きますからね!」
「そうそうその意気。……あと、さんはやめてね」
「あ」
やはり意識をしていないと、呼称は元に戻ってしまうようであった。


※ ※ ※


夕食の片づけが済んだ後の食卓にはお茶が湯気を立てる湯呑みが二つ、そして先ほど清蘭が戸棚へ上げた煎餅の皿があった。
「最近、寒くなって来たと思いま……思わない?」
清蘭は両手で持った湯呑みに息を吹きかけながら、言った。
「そうね」
鈴瑚は一口大の歌舞伎揚げを口に放り込み答えた。
「もう冬がそこまで来ているってこと。いいね、こういうのは」
「いいって……寒いのは嫌じゃないの?」
「嫌だけどね」
鈴瑚は窓の外に顔を向けた。葉が少なくなった桃の木の、貧相な枝の影が見える。
「寒くなる、冬が来るっていうのは面白い。地上に来たんだって感じがしない?」
かつて鈴瑚と清蘭がいた月の都は、生物の生と死により生じる「穢れ」が排除された空間であった。
一方で穢れに満ちたこの地上では、そこら中に自然の生命活動が溢れかえっており、日々周囲の環境が力強く変化している。
季節の移り変わりは、そんな地上の穢れの一つの象徴と言えた。
「冬が終われば春だよ、清蘭。あの桃の木も花を付ける。夏には実がなる」
「月の都なら、一年中桃を食べられるのに」
月の都も完全に「変化」が排除された場所ではない。時が経てば桃は熟し、放っておけば腐る。
ただその速さは地上とは異なっているし、何より月には高度な食物の保存技術が確立されているのだ。
「その季節でしか食べられない、っていうのがいいんだよ」
「……よくわかりません」
清蘭は少し茶を啜り、首を傾げた。
「鈴瑚さ……鈴瑚ちゃんは、なんで地上の穢れにそんなに好意的なの?」
これもまた、清蘭が幾度となく口にした言葉だった。
「面白いから、よ」
鈴瑚もいつも通りの答えを返す。
「ゆく川の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。昨日と今日は違うし、明日はもっと違うんだよ。水も、風も、草木も、土も。わたしとあんただって、きっと明日は今と違う兎になってるんだ」
「わたしは、今のわたしのままでいいと思うんだけど」
「うん、わたしも今の清蘭が一番好きだよ」
不意の発言に、清蘭の頬が紅く染まった。
「好きって……じゃ、じゃあどうして変わっていくことを、面白いなんて」
「そりゃ、明日のわたしは明日の清蘭が一番好きだからよ」
まるで別の何者かのことのように、鈴瑚は言った。
「意味がわかりません」
「清蘭は頭が固いからなあ」
そんなところも好きなんだよ、と続ければますます清蘭の頬が紅くなるであろうことは、想像に難くはなかった。
「いつもそうやって、わたしをからかって」
「からかってなんかないよ。何もかもが目まぐるしく変わっていく地上だからこそ、今しかできないことや、今ここにあるもの、ここにいる誰かが愛しいってこと。その季節でしか食えないものの良さってのも、そこにある」
鈴瑚は熱い茶を喉に流し込んだ。
夏が来れば、こんな熱い茶を恋しく思うことはそうそうないだろう。
まだ経験したことがない地上の夏に思いを馳せつつ、鈴瑚は息をついた。
「つまりね、清蘭」
「何ですか」
清蘭は未だに腑に落ちないと言った顔をしつつも答えた。
「もうすぐ冬なので、蟹が食べたい」
「……は?」
「地上の蟹は、とても美味いらしいの」
狭い庵の隅には、鈴瑚が山の妖怪から貰ったり、里の古書店で買い求めて来た書物が積み重ねられている。
その中には、料理や食文化に関する文献もあった。
「冬場はまさに、蟹の旬なんだって」
「鈴瑚さん」
「もう清蘭ったら、またさん付けに戻って」
「鈴瑚さん」
清蘭は眉間に皺を寄せ、鈴瑚を真っ直ぐに見ていた。
「……はい」
「蟹ってすごく高い食材だったと思うんですが」
「……はい」
加えて、四方の陸地を結界で囲まれた幻想郷においては、そもそも通常の商流・物流の中で海産物を手に入れること自体が困難である。
「今のうちの稼ぎでは到底手が届かない。いいですね?」
「……はい」
「鈴瑚さんがお菓子と本を我慢してくれるなら、少しは可能性も出てくるかもしれませんが――」
その発言に鈴瑚が顔を青くしているのを見て、清蘭は溜息をついた。
「――なら頑張って、お団子をたくさん売ってくださいね」
わたしも頑張りますから。そう言って清蘭はくすりと笑った。鈴瑚はばつの悪そうな顔で視線を彷徨わせる。
「うーむ、これも一つの『家族っぽさ』なのかな」
「何か言いました?」
「いや、何も」

しかし後日、鈴瑚の願いは思わぬ形で叶えられることになるのである。





翌日のことであった。いつも通り里に出かけた鈴瑚は、その日の団子を売り終えて庵に帰るや否や、すぐに清蘭を連れ出した。
「何ですか鈴瑚さん、帰って早々に」
「丁寧語禁止。わたしのことは鈴瑚ちゃん、もしくは『あなた』ね」
明らかに上機嫌で高揚した様子の鈴瑚は、魚釣りに使う竹籠を持ってはいるが、竿や網を持ってはいない。
清蘭には鈴瑚が何をしようとしているか全く読めない様子であった。
「あなたって……それで、何があったの?」
「蟹よ蟹。買えないなら、自分で捕まえればよかったのよ」
「捕まえるも何も、ここって山じゃ」
「甘いよ清蘭。桃より甘い。蟹は海にだけいる生物じゃないってね!」
鈴瑚は清蘭に、朝方の出来事を語って聞かせた。


鈴瑚と清蘭の庵は、かつてイーグルラヴィが前線基地を構えていた場所の近くにある。
基地に残ったなけなしの資材を運ぶ上で便利であったし、近くには神社がある程度で河童や天狗が住んでいなかったからである。
鈴瑚がいつものように庵を出て川伝いに山を下りていくと、数名の河童が河原に集まっているのが見えた。
これも、いつもの光景であった。鈴瑚たちが山に住み始める少し前から、河童たちはこの場所で工事をしているのである。
「やあ河童の諸君、お早う」
イーグルラヴィの任務中には、地上探査車の機能により妖怪たちからその存在を隠されていた鈴瑚だが、今はただの妖怪兎である。
鈴瑚より先に地上で薬売りをやっていたかつての同僚と同じく、妖怪たちの前にも堂々と姿を現している。
「水車の調子はどう?」
「なんだ、団子屋の兎か」
リーダー格と思しき一人の河童が鈴瑚の接近に気付いた。
河童たちは工事によって川から水を引き、そこに発電用の水車を設置していた。
最近、そうして人工的に作った支流の力が弱くなっており、うまく水車が回っていない――ということで、支流を作った川岸の地形に再度、手を加えているのである。
岸の砂利を取り除いたり、増やしたりして川幅を調整する河童。
川底にシャベルを突き立てて掘り、局所的に水深を変えようとしている河童。
様々な作業を行う仲間に、リーダー格の河童は指示を出していた。
「朝からお疲れ様だね。甘いお団子はいかが」
「甘いのより、胡瓜味のやつを持ってきてほしいんだよね」
甘いものが嫌いなのか、単にどこの馬の骨とも知れぬ妖怪に金を払うのが嫌なのか、ここで工事をやっている河童たちが鈴瑚から団子を買ったことはない。
「胡瓜ね。団子を作ってる奴に今度言っておくよ」
「……あんたが作ってるんじゃないのか?」
「うちは、二羽で一羽の団子屋だよ」
ふーん、と答えてその河童は作業に戻っていった。
名前を河城某とかいうその河童は、見た目は鈴瑚や清蘭とあまり変わらない年頃の少女である。
「んじゃ、頑張ってね」
河童たちに団子を売り込む意味があまりないことは鈴瑚も知っているので、毎朝こうやって適当に二、三言の言葉を交わしてその場を去ることにしていた。
だが、この日の朝は河童たちの様子がいつもと違っていた。
「うへえ、またこいつらか。鬱陶しいな」
河童たちが川へ入り作業をしている足元、水底の上を無数の小さな生物が蠢いていた。
黒褐色の甲羅から、朱色の脚と鋏を生やした甲殻類――沢蟹であった。
「それ、蟹?」
「そうだよ。沢蟹。大した食べ応えもないのに、数だけは多くてね」
まるで一族を挙げての大移動とでも言わんばかりに、沢蟹の群れは一様に川下方向へと歩いている。
河童たちの作業場が、ちょうどその通り道にぶつかっているのだ。
「もう冬眠し始めるころだと思うんだけど」
河城なる河童が言うには、今年は沢蟹の数がやたらと多く、工事をしている最中にも足元をぞろぞろと這い回っていて邪魔で仕方ないという。
人間だけでなく妖怪にも食用される生物ではあるが、この夥しい数の沢蟹を見ていて食欲が湧く者は、河童たちの中にはいない様子であった。
「冬眠、か。それもまた一つの穢れだね」
「ケガレ?」
「ああ、何でもない。この蟹、食べられる奴なの?」
「そうみたいだね。人間はこいつらを油で揚げて食うんだとか」
揚げて、という言葉が耳に入った瞬間、鈴瑚は口の中でじわりと唾液が染み出してくるのを感じた。
足元を歩く生物は本で見た「冬が旬」な蟹とは種類も大きさも異なるが、蟹であることに変わりはない。
そして淡白で質素な食事が多かった月の生活が長い鈴瑚にとって、揚げるという調理方法は大変に興味をそそられるものであった。
「ふーん、そっか」
鈴瑚は再度河童たちに別れを告げると、急ぎ足でその場を離れた。一刻も早く団子を売り切り、この川に戻ってくるために。


「わかった?ただで蟹をお腹いっぱい食べるチャンスなんだよ、これは」
鈴瑚は河原へと続く道を急ぎ足で進みながら、清蘭にこれまでの経緯を話した。
「たくさんいるんでしょう?こんなに急がなくても……」
「本来なら冬眠を始めてる時期だって話なんだから。今を逃したら、春まで蟹が手に入らないかもしれない」
そんな会話をしている内に、川岸の光景が見えて来た。
鈴瑚は普段の倍以上の気迫で団子を売り切り、日が傾き始めたあたりで庵に戻って来た。
まだ夕暮れに差し掛かったばかりの時間帯であり、明るい。
「河童がいるんじゃないの?」
「連中が工事をやってるのは、もっと上流だよ」
水の中を覗き込むと、確かに川底の砂利の上を無数の沢蟹が歩いていた。
鈴瑚が朝見た時と同様に、川下へ向けてぞろぞろと移動している。
「よし、まだいたね」
「これが蟹?なんか……虫みたい」
上機嫌の鈴瑚とは対照的に、清蘭は初めて見る沢蟹の姿に引き気味であった。
「本当に食べられるの?これ」
「地上じゃ人間が一番こいつらを食べてるって話よ。心配しなさんな」
鈴瑚は靴を脱ぎ捨てると、晩秋の空気で冷やされた水に臆することなく、川の中へ歩みを進めて行った。
「ほら、清蘭も」
「えぇ……」
冷たい水の中で無数の節足動物が蠢く川が、目の前を流れているのだ。
清蘭がその場所への接近を生理的に避けたがるのも、仕方がないことだと言える。
「しょうがないな。とりあえずわたしが捕まえてみるから」
「は、挟まれないようにね!」
鈴瑚は大丈夫、とばかりに両手でⅤサインを作って見せた。
その様は蟹を模しているようで微笑ましいが――次の瞬間、鈴瑚の右手が足元の水中に素早い動きで差し込まれた。
すぐに水面から引き上げられたその指先では、一匹の沢蟹が甲羅を掴まれ、その節足を大きく広げている。
ほんの一瞬、一動作で、鈴瑚は水中の蟹を捕獲したのであった。
「どんなもんよ」
鈴瑚は得意顔で、竹籠の中に蟹を投げ入れた。
「こ、怖くないの?」
「美味しそうなものを怖がる理由なんて、ないよ」
同じようにして、鈴瑚は次々に蟹を捕獲していく。
すぐに竹籠はいっぱいになった。
「うん、これだけ捕まえればいいかな」
鈴瑚は満足げに籠の中身を確認すると、清蘭の方へ向き直った。
「清蘭、油ってうちにあったっけ?」
「一応、買ってあるけど……それ、揚げて食べるの?」
「そりゃ勿論。唐揚げが酒によく合うって話さ」
「あの、それ作るのって、やっぱり」
嫌な予感がする、という顔で清蘭は尋ねた。
「よろしくね、我が家の一流料理人さん」
鈴瑚は満面の笑みでそう告げた。
「うう、生きてても死んでても、やりにくそう……あれ?」
「ん?」
清蘭は、川の中に立つ鈴瑚を見て目を丸くしていた。
「どうしたの?」
「鈴瑚さん、足、足元」
「足元が何か、って……うわっ」
鈴瑚は驚いて声を上げた。
先ほどまで川底を歩いていた沢蟹が、鈴瑚の足を這い登ってきていた。
それも、一匹や二匹ではない。
蟹たちは川底で進行方向を変え、鈴瑚目がけて集まって来ていた。
既に何匹かは、鈴瑚のズボンの裾にまでその足を伸ばし始めている。
仲間を攫いに来た捕食者に対し、抵抗の意思を示しているように見えた。
「何よ、こいつら」
「鈴瑚さん、早く岸に上がって!」
清蘭から見ても、川底の蟹たちの動きが明らかにおかしいことが分かった。
「わかってる。って、痛あっ」
水面の下にいる蟹が、鈴瑚の素足を挟んだ。その小さな体に不釣合いな強く鋭い力を感じ、鈴瑚は思わず声を上げる。
そうする間にも、蟹たちは鈴瑚の身体を這い登る。
鈴瑚は腕を回して振り払うが、次々に集まって来る沢蟹の群れは既に鈴瑚の下半身を覆い隠し始めていた。
「鈴瑚さん!」
清蘭はたまらず手を伸ばし、鈴瑚を強引に岸に引き上げた。
それを追いかけ、沢蟹たちは次々に陸へ上がって来る。
鈴瑚を川の中へ引きずり込やろうと言わんばかりの気迫が、その必死な動きから感じ取られた。
「鈴瑚さん、動かないで!」
清蘭は人差し指と親指を立て、叫んだ。
そのまま鈴瑚に人差し指を向ける。
「オーケイ、よろしく」
鈴瑚は相変わらず沢蟹の群れに集られていたが、慌てる様子もなく両手を上げた。
その時には既に、清蘭の人差し指の周辺にいくつもの弾丸が浮かび始めている。

異次元から弾丸を飛ばす程度の能力。

清蘭の力により、異次元から召喚された弾丸であった。
赤い瞳を見開き、清蘭が視界一杯に蟹の群れを捉える。
「鈴瑚さんから離れろっ」
その言葉と共に、弾丸は一斉に鈴瑚に向けて放たれた。
清蘭の弾丸はそれぞれ沢蟹の一匹一匹を正確に射撃し、鈴瑚の身体から弾き飛ばす。
恐るべきは、鈴瑚の身体どころか衣服にさえ傷一つつけない絶妙な力加減。
火力と密度において他の玉兎に劣っていた清蘭の弾幕だが、正確無比な狙いと広い攻撃範囲の両立において、他の追随を許さないという長所があった。
「はは、さすがは我が家のロビン・フッド!」
鈴瑚は蟹の群れが自分の身体を離れた瞬間、間髪を入れずに跳躍した。
水際からさらに大きく距離を取ると共に、清蘭に向けて叫ぶ。
「清蘭、撤退するよ!」
「了解!」
蟹たちは未だに群れを成して鈴瑚を追いかけてくるが、軍隊崩れの玉兎の脚力に追いつくことなど、当然できない。
二人が庵の近くまで来る頃には、沢蟹の姿は一匹として見えなくなっていた。


早い時間帯から動いていたこともあり、その日の夕食はいつも通りの時間帯に準備を済ませることができた。
だが、清蘭の顔色は優れない。
「あの、鈴瑚さん」
「鈴瑚ちゃん」
「鈴瑚ちゃん。……本当にそれ、食べるの?」
食卓の上に並んだ料理を見れば、鈴瑚のそれは清蘭よりも一品多い。
油を吸うための敷紙が乗せられた皿の上に盛られているのは――丸ごと唐揚げにされた、数匹の沢蟹であった。
鈴瑚は蟹たちの攻撃を受けてそこから逃れるまでの間、決して竹籠を離すことはなかったのである。
蓋つきの竹籠の中に詰め込まれた沢蟹は庵に戻ってからも激しく暴れていたが、さすがに油に放り込まれれば大人しくならざるを得ない。
ちなみに、この一品に関しては鈴瑚が調理を行った。
清蘭は気味悪がり、最初は鈴瑚がその竹籠を庵に持ち込むことすら拒否したのだ。
「当たり前でしょ。食べなきゃ、それこそ大罪だよ」
鈴瑚は躊躇なく沢蟹の唐揚げを箸でつまむと、口へ運んだ。
「うむ、うまい」
「……どうして、食べないことが罪になるの」
「食べなきゃ、わたしは意味もなくこの子らを殺したことになるじゃない」
その言葉に、清蘭はさらに顔を曇らせた。
「じゃあ、わたしがあの時蟹を撃ったのは」
「あれはわたしを守るためでしょ。それは無意味な殺生じゃないよ」
地上に住む、生きる、死ぬ。月の都においてはそれ自体が「罪」とされる。
地上に住むということは、そこで自分とは別の命を食らって生きることでもある。
月では罪とされるその行為も、地上ではあらゆる生物が自らの命を守るため、当たり前に行う「生命活動」であるが――食らうことも、守ることもなく、ただ命を徒に奪うだけの行為はこの地上においても「罪」だ。
鈴瑚は己の食欲のため、蟹を捕まえて油に放り込み、殺した。
その行為が「食欲を満たす」という結果に繋がらないことこそ、最も罪深いと言う。
逆に、自分を襲った蟹を撃ち殺した清蘭の行為に――少なくとも鈴瑚自身は――罪がないと主張する。
共に生きる者を守る行為もまた、家族を持つ生物の「自衛」だと思うからである。
「わたしだって、清蘭を傷つける奴とは躊躇なく戦うだろうし」
そう告げる間にも、鈴瑚は沢蟹を口に運び続けていた。
小さな蟹の薄い甲殻は、火を通すことで簡単に噛み砕けるようになる。
薄い衣の中に閉じ込められた殻の旨味と適度な歯応えが、鈴瑚の食欲をさらに刺激しているのであった。
これもまた、穢れがもたらす味覚。蟹の命と、それを生んだ自然に感謝の意を示しながら鈴瑚は食事をしている。
「……ま、しばらく荒事とは無縁に暮らしたいもんだけどね」
鈴瑚は酒を一口あおった後で、そう言った。
「じゃあ、しばらくあの川には近づかないでくださいね」
蟹を食べ続ける鈴瑚を見て眉間に皺を寄せつつも、清蘭は先程の鈴瑚の言葉を聞いたことで、少し落ち着いたようであった。
「そうするさ。あの蟹共はわたしらのことを覚えたかもしれないからね」
鈴瑚が真剣な顔でそう言うと、清蘭の顔にも再び緊張が走った。
「それって、やっぱり」
清蘭の目を見て、鈴瑚は彼女も同じものを感じていたと確信した。
「清蘭にもわかった?」
「……うん」
清蘭は頷くと、閉ざされた庵の戸に視線を向けた。
物音一つ立てることもないその戸の向こうには、宵闇が広がっている。
そこには一匹の蟹すら、いないはずであった。
だが清蘭も鈴瑚も同じように、戸の向こうの、さらにその先に間違いなくいるはずの存在を意識しているのであった。
川での沢蟹の襲撃から逃れ、この庵に帰ってくるまでの間――二人の背中に絶えず注がれ続けていた、何者かの視線を。





鈴瑚は翌日以降、川沿いの道を避けて里へ下るようにしていた。
あの沢蟹の群れに恐怖を抱いているわけではなかった。
だが、一度彼らの棲家を荒らした自分が、狩りもしないのに再度そこを訪れる必要はない。そう思ったのだ。
昨晩清蘭に話したように、彼らが鈴瑚を「捕食者」として認識したのであれば、河原を鈴瑚が歩くだけで蟹たちは緊張し、混乱するだろう。
蟹を食べたい、という欲求は昨晩で一旦満たされた。
ならば、これ以上蟹たちの暮らしを脅かす行為は無意味だ。
その考えに基づき、鈴瑚は川から離れた山道を歩くことを選択したのだ。
蟹を捕まえて帰る際に感じた「視線」の主が気にならないわけではなかったが、わざわざそれを調べるほど気がかりというわけではない。
確かに本来冬眠するべき時期に異常発生した上に、捕食者に集団で抵抗する沢蟹がただの節足動物だとは、鈴瑚には到底思えない。
だが、ここは幻想郷の、妖怪の山だ。
川に暮らす生物の発生や生態に何か霊的な怪異が起こることなど、十分に考えられるのである。
だから、いちいちこうしたことを気にしないのも、地上で暮らす一つの心持ちなのではないか――鈴瑚はそう思うことにしたのであった。

だが川底を這い回る怪異は、着実に山の住人たちの日常を侵し始めていた。

 
ある日、仕事を終えて庵に戻った鈴瑚に、清蘭が客から聞いたという話を語った。
一応は二人で住む庵を「団子屋」として開いている清蘭の下には、昼間は僅かながら客が訪れる。
その接客の際に山の住人との会話で仕入れた情報であった。
鈴瑚は川沿いの道を避けて里に下りていたことで知るのが遅れたが、以前は毎朝言葉を交わしていた工事中の河童が、事故により大怪我をしたという。
河原で工事をしている最中に、突然水車の支柱が折れたという話であった。
近くにいた何名かが、支えを失い川の中を転がった水車に轢かれた。
彼女たちの工事は怪我により貴重な人手を失うと共に、大きく予定を狂わされたということである。

その翌日には、さらに別の不穏な噂が山を駆け巡っていた。
河原で将棋を指していた白狼天狗は、あわや王手というタイミング吹いた強風により、盤面の駒の九割を吹き飛ばされた。
未だに飛車と角だけが見つかっていない。
晩秋を迎え、最盛期を迎えた紅葉の多くが同じ突風で予定より早く地に落ちた。
その風の犠牲者たちの怒りの矛先は、当然烏天狗たちに向くが――彼らは彼らで、その数日前の山火事により、新聞の印刷所が原稿ごと灰になった事故への対応に追われているのであった。

妖怪の山に、原因不明の不運が広まっていた。

実家からの仕送りが手違いで河童の詰め所に届き、そのまま現金をネコババされる一人暮らしの化け猫や、サバイバルゲーム中に不慮の事故で病院送りになる山童の話など――その後も様々な「不運」を、清蘭は帰宅してきた鈴瑚に語って聞かせた。
だが、当の鈴瑚には、そうした話を気に掛ける余裕がなかった。
ここ最近、急に里での団子の売り上げが落ち込み、おまけに街道をうろついていた博麗の巫女には「何か企んでいないか」と監視の目を向けられているのだ。
博麗の巫女・霊夢は、鈴瑚が月の住人であったことを知る、数少ない人間である。
月の兎との接触自体は初めてではなかったとはいえ、幻想郷への侵攻を企てた月の都の斥候ともいうべきイーグルラヴィは、それを知る地上人からは未だに警戒されているというわけである。
その仕事からは足を洗った、と鈴瑚は必死に説明するが霊夢は簡単に納得しない。
遷都計画の最中に、自分の考えを色々と話してしまったことが裏目に出たか、と鈴瑚は今更ながらに思った。
霊夢は鈴瑚のことを、良くも悪くも「馬鹿ではない」と評しているようで、それはつまり信用できない相手と踏んでいる、ということだ。

そんなやりづらい環境の影響以上に、団子の売り上げは落ちていた。

里には元々、街道に店を構えた甘味処があるが、そこの新メニューがかなりのヒットを飛ばしている様子であった。
前歯で噛むと口から零れそうな、濃厚なゴマ蜜をたっぷり入れた団子だった。
鈴瑚自身、一口食べて「何だこれッ!?」と驚愕し、次の瞬間には「ンマイなぁぁあぁぁ――ッ」と声を上げて感嘆してしまう程の逸品であった。
その逸品が、鈴瑚と清蘭の団子屋の看板商品「ストロベリーパニック団子」についていたリピーターをごっそり奪っていったのだ。
鈴瑚が客に対し何らかの不手際を働いたわけでも、清蘭の団子作りの腕が鈍ったわけでもない。
単純に運悪く、里の同業者がヒット商品を売り出したというだけだ。
そんなわけで、鈴瑚は毎日遅くまで里を練り歩き団子を売り込むが、一時の半分程度の売り上げしか得られないという日々を過ごしていた。
おまけに歩く距離が増えた途端靴に穴が空いたり、庵の食料庫が雨漏りするなど、山の妖怪たちと同様か、それ以上の不運に見舞われていたのである。
「ねえ、鈴瑚さ……鈴瑚ちゃん」
「何?」
鈴瑚は仕事で疲れた身体を畳の上に横たえ、もう三度は読み返した歴史書のページをめくっていた。
商売の状況は相変わらず芳しくない。
鈴瑚はその日の仕事の成果を清蘭に端的に伝えた後、すぐに畳に横になり読書を始めていた。
「やっぱり、あの日からだったんじゃないの」
「……何が?」
清蘭は畳に膝と手をつき、鈴瑚に心配そうな顔を近づけてきた。
「鈴瑚ちゃんの運が急に悪くなったの。河原で蟹を捕まえて食べた、その次の日からだったはず」
その発言に間違いはなかった。
里のライバル店の前に行列ができ始めたのは、沢蟹を揚げて食べた日の翌朝のことである。
「運ならわたし以外の連中も悪くなってるよ」
あんたもそうじゃん、と鈴瑚は清蘭の目を見ながら言った。
蟹を食べなかった清蘭も、団子用の餅を搗く杵の柄が突然折れたり、髪留めのゴムが切れるなど、それなりの不運に見舞われている。
「わたしは蟹を撃ち殺したから」
「ふむ。河童は……蟹の住処を荒らして工事をしたから、か。でも、天狗や化け猫は特に何もしていないんじゃない?」
「そうかもしれないけど。でも逆に、わたしたちが知らないだけかもしれない」
他の「被害者」が陰で蟹を食べたり、苛めたりしていないという証拠はないのだ。
「まあ、ねえ」
鈴瑚自身も、清蘭が言うことに納得できないわけではない。
タイミングを考えれば、あの攻撃的な沢蟹の大量発生と、山全体に影響する不運の間に関連性があると考えた方が自然だ。
だが、両者の関連性を示す証拠はない。
そもそも蟹の大量発生ですら、原因は誰にもわからないのである。
水場の環境に詳しい土着の妖怪である河童ですら、何も知らないのであった。
まして、地上に暮らし始めて半年も経たない鈴瑚や清蘭にとっては、その原因の推測すらできない現象である。
「あの蟹が元凶だとして、どうしたらいいものかって話になると思うんだよね」
「それは……」
清蘭は沈黙してしまった。
だがほんの数秒の後、鈴瑚に向かってさらに顔を近づけた上で、言った。
「わかんないけど、このまま放っておくのはよくない!」
「まあ、こっちは生活もかかってるしね」
「そうじゃない!」
清蘭は大きな声を出した。
「このままだと、鈴瑚さんが大怪我したり、病気になっちゃうかもしれないもん。そうなる前に、この状態を何とかしなくちゃいないの!」
清蘭の紅い瞳には、真剣そのものと言うべき光が点っていた。
その言葉と視線を確認した後で――鈴瑚はくすりと笑うと、清蘭の頭を撫でた。
「……自分の心配しなよ、清蘭」
自分でも驚くほどに、優しい声が出た。


※ ※ ※


翌日、相変わらず団子の売り上げは惨憺たるものであったが、鈴瑚は午前中で仕事を切り上げ、清蘭を伴って山を登っていた。
二人の行く手に見えてくるのは、頂上付近の湖と、大きな鳥居。
かつてのイーグルラヴィの前線基地からも近い場所にある、この山で一番大きな神社であった。
名を、守矢神社と言う。
「なんだか、妖怪が多いですね」
清蘭は神社の境内が近づくにつれ、少しずつ増えてくる参拝者の数を見ながら言う。
「ここは山の中じゃ一番力がある神社って話だしね。わたしらと同じことを考えている連中も多いんだと思うよ」
二人は不運の原因究明は後回しにして、一旦はその現象への対処を優先した。
この得体の知れない運気の低下――言うなれば「厄」を払うために、神の力を頼ろうとしたのである。
困った時の神頼みであった。
「神域に入ったのに、全く穢れが薄れた感じがしないで、……しないね」
さすがに山の頂上付近には、あの不気味な沢蟹の群れはいない。
だが、この場所からは「穢れ」が完全に排除されているかと言うと、そうではなかった。
「全くってことはないわよ。多分」
かくいう鈴瑚も、鳥居をくぐって足を踏み入れた守矢神社の境内に、月の都で神霊を祀っていた場所のような「清められた」雰囲気を感じることはできなかった。
社殿の前に行列を作る妖怪たちの穢れがそうさせるのか、あるいはそもそも、地上の神に穢れなき神性を求めることが間違いなのか。
いずれにしても、ここが地上であることを存分に再認識させる神社であった。
「ふふふ」
鈴瑚がそんな穢れた神域に、俄然興味を持ったことは言うまでもない。


社殿の前で妖怪たちの相手をしていたのは、二人がその顔をよく知る者であった。
「ですから、うちでやっているのは一般的な厄払いくらいのものなんです」
緑色の長い髪を揺らしながら、青と白の巫女服に身を包んだ少女が言った。
最前列にいた妖怪が不満顔で去っても、すぐに後ろにいた妖怪が何事かを少女に向かって話し、彼女の顔に「うんざり」とした表情を浮かばせる。
「餅は餅屋と言うでしょう。専門家を当たってくださいと何度言ったら……」
おそらく鈴瑚たちと同じ目的でやってきたであろう妖怪たちに、守矢神社の巫女・東風谷早苗は困り顔で応対していた。
「どうも、餅屋ですが」
「あなたたちは……確か、月の」
鈴瑚たちの順番が回って来た。
早苗はかつて、イーグルラヴィの地上作戦実行時に鈴瑚たちが交戦した人間の一人である。
遭遇時には戦うことを避け得なかったものの、月の賢人の入れ知恵を受けた早苗たち地上の住人の力によって、都を襲った脅威は退けられた。
さらにその行動がこうして地上に移住するきっかけになったことを考えれば、早苗は鈴瑚にとっては恩人とも言うべき存在なのであった。
「今はもう、穢れた地上の兎よ」
「そうでしたね」
早苗は人間であると同時に、神であった。
生まれも育ちも地上、それも博麗大結界の外で人生の大半を過ごしてきた「外来人」だが、奇跡を起こす力を持った由緒正しい現人神である。
当然、神社が鳥居や注連縄を使って排除する「穢れ」や、神事によって払う「厄」にも詳しいだろうと踏んで、鈴瑚はこの神社を訪れたのであった。
この守矢神社を信仰する者の大半は、山に住まう妖怪だ。
困った時の神頼みをするなら、山の妖怪兎としてまず訪れるのがここだろう――と踏んだ鈴瑚であった。
「あの……ここに並んだ妖怪って、皆厄払いで来ているんですか?」
清蘭が背後に伸びた長蛇の列を見ながら、早苗に尋ねた。
「そうですね。頼ってくれるのは嬉しいんですが……」
早苗は少し困ったように眉をひそめ、苦笑した。
「どうも今回の厄は、うちで払うには手に余る規模と濃さなんですよね」
早苗が言うには、この神社の祭神の「徳」はそもそも厄除けではない。
初詣にやって来た厄年の客に施す程度の「普通の厄払い」ならできるが、今回のように原因がはっきりせず、規模も桁違いな厄を払うとなると一筋縄ではいかないという話であった。
「うちの神社の周辺では、その厄もそんなに濃くはないんですけど」
月の都のような浄土ではないにせよ、この場所も一応は神域ということだろうか。
それに、と早苗は続ける。
「この山には専門家がいるので、皆さんには最初からそっちを当たって欲しいと思ってるんですよ」
先程早苗がそう言って妖怪を追い返していた光景を、鈴瑚と清蘭も目にしている。
「厄払いの専門家が、ってこと?」
「はい。……まあ、そちらに行きたくないからうちに来るんでしょうけどね、皆」
「もしかして赤い方の巫女かしら?」
鈴瑚は地上で訪れたことがあるもう一つの神社を思い出していた。
「いえ、霊夢さんは山にはあまり来ないですし……あそこのショボい神様じゃ、普通の厄払いですら満足にできないんじゃないかと思いますよ」
さらりと毒を吐く早苗であった。
「何にしても、その専門家の方を紹介して欲しいんです」
元来の真面目な性格に加え、一度手酷く敗北を喫したことで、清蘭は早苗に対して下手に出ていた。
幻想郷には異能の力を振るい、妖怪を退治して異変を解決する人間たちがいる。
早苗はその一人であった。
「ええ、勿論」
その後早苗は鈴瑚と清蘭に「専門家」の特徴と所在を説明した。
礼を述べて守矢神社を去る際、鈴瑚は早苗に尋ねてみた。
「あんたはこういう時、真っ先に首を突っ込んで異変の解決に動きそうだと思ったんだけどね」
「勿論、動きますとも!」
早苗は手にした大幣を勢い良く振り、言った。
「この現象が悪い妖怪の仕業とわかった時点で、ですけどね」
東風谷早苗。
博麗の巫女と並び、容赦のない退治で知られる守矢神社の妖怪バスターであった。





早苗に教えられた場所は、守矢神社からはかなり麓近くまで山を下った場所にあった。
麓に近いとはいえ、そこには樹木が密集しており道も狭い。
「妖怪の樹海」と呼ばれる、山の住人たちもあまり寄り付かない場所であった。
樹海の中、湿った土を踏みながら清蘭と鈴瑚が歩いている。
「寒いですね、ここは」
冬が近づいているが、樹海の木々は力強く枝葉を広げている。
まだ日が高い時間帯であるが、こうした木の枝や葉が日光を遮り、樹海の中を薄暗く肌寒い場所にしているのであった。
「そうね。夏に涼みに来るくらいで丁度いい」
二人の声と足音の他に聞こえる音は、頭上の木の葉がこすれる音と、遠くで微かに聞こえる鳥の鳴き声くらいのものだった。
こんな所にわざわざ居を構える「厄払いの専門家」とやらがどのような人物か、鈴瑚は俄然期待感が高まるのであった。
反対に清蘭は樹海の奥へ進むごとに、その顔に不安の色を濃くしている。
「まあ心配しなさんな。あの巫女が嘘を言ってたようにも思えないし」
鈴瑚は清蘭の手を取った。
すぐに、清蘭は冷たい指先でその手を握り返してくる。
「寒いだけじゃなくて、なんだか空気が……その、重いような気がして」
外出中にこうして急に手を握ると、大抵の場合は照れてその手を振り払う清蘭が、今は躊躇なく鈴瑚の手に縋って来ていた。
心なしか、神社にいた時より顔色も悪いように見える。
「瘴気、って奴かしらね?」
淀んだ、重苦しい、そうした「悪い空気」の総称としての言葉を鈴瑚は口にした。
瘴気は西洋の言語では「ミアズマ」とも言い換えられるが、この言葉の意味の一つに「穢れ」がある。
たとえ地上で生まれた者であっても、穢れが濃くなれば悪い影響が出る。
強い厄は不運や不幸を引き起こす。
濃い瘴気は、時に身体の調子を直接的に悪化させる。
鈴瑚ほど地上の穢れに順応できていない清蘭にとっては、この樹海の環境は少々ならず負荷が大きいものであったのかもしれない。
「清蘭、帰ろう」
「え?」
「顔色が悪い。厄払いは今度でいいから、今は――」
そう言って来た方向を振り返ろうとした鈴瑚の手を、清蘭はぐっと引いた。
「駄目」
息苦しそうな顔をしながらも、清蘭は強い意思をたたえた目で鈴瑚を見ていた。
「鈴瑚さんの厄を、何とかして貰ってから帰る」
「その前にあんたが倒れちゃうわよ」
「嫌です」
不安そうだったその表情を無理矢理に引き締め、清蘭は道の先を指差した。
「ほら、行きましょう。川の音が聞こえる」
「……川?」


清蘭が言った通り、少し歩くと若干であるが視界が開けた。
樹海の間を貫くように、川の水が流れている。
上流――河童の工事地点から流れて来た川であることは、一目でわかった。

あの沢蟹の群れが、河原を埋め尽くさんとばかりに蠢いていたのである。

当初、その光景を見て鈴瑚は思わず足を止めた。
初めて河原でそれらを見た時の攻撃が脳裏をかすめ、思わず身構えてしまったのある。
傍らで清蘭が「ひっ」と短い悲鳴を上げるのも聞こえた。
幸いなことに、蟹たちは下流へ向けて足を進めるのに忙しく、鈴瑚たちに気付いたと見られる個体も一瞬足を止めた程度で、何もしては来ない。
「大丈夫そう、かな」
鈴瑚は河原の砂利の上に足を進めた。
「清蘭、とりあえず水でも飲んだ方がいいかも」
休憩しようか、と告げ、鈴瑚は腰を下ろせそうな場所を探した。
目の前にあるのはあまり心が休まりそうな光景ではないが、樹海の中に比べれば明るく、空気が淀んでいる感じはしない。
「……でも、川の中にも蟹がたくさんいるんじゃ」
「水をすくって飲むくらいじゃ、何もしないでしょ」
鈴瑚は蟹を踏まないよう、恐る恐るといった様子で河原を進む。
害意がないことを察知してか、沢蟹の群れも鈴瑚の足を避けて横歩きをするだけだ。

「よした方がいいと思うわよ」

不意に聞こえたその声は、背後の樹海の中から響いていた。
鈴瑚と清蘭が振り返ったその先。
樹海の薄暗がりから姿を現したのは、一人の少女だった。
日本人形のように整った、色白の顔。
あちこちにフリルをあしらった、ゴシック・ロリータ調の赤いドレス。
同じく赤いリボンを結った髪の色は、早苗と似た濃い緑色。
「特にそっちの黄色い方。これ以上その厄を腹に入れない方がいいわ」
「……ふむ。早苗が言っていた通りの見た目だね」
相手の警告を聞き流しつつ、鈴瑚はその少女の外観をじっくりと眺めた。
見た目は、鈴瑚や清蘭とあまり変わらない年代の少女に見える。
だが目の前の相手は、樹海の瘴気がそのまま凝り固まったような、重く暗鬱とした雰囲気を周囲に纏っていた。
いかにも「厄」には詳しそうであるが、同時にその雰囲気は、妖怪たちが彼女に近寄りがたさを覚える理由としても十分だと鈴瑚は思った。
「あなたが、鍵山雛さんだね」
少女は特に驚く様子もなく、こくりと頷いた。


雛は河原に進み出て来た後も、清蘭と鈴瑚から一定の距離を取っていた。
二人は二人で、その身に纏った雰囲気から何かただならぬものを感じ、その距離を保つことに無言で同意していた。
「それで、わたしに何かご用事かしら」
「厄払いをお願いしようかと思ってね」
鈴瑚は単刀直入に用件を伝えた。
「っと、自己紹介がまだだったわね。わたしは鈴瑚。こっちは清蘭。兎だよ」
「よ、よろしく……お願いします」
「よろしく。知ってるみたいだけど、鍵山雛よ」
雛は軽く頭を下げて挨拶をした。鈴瑚も帽子を取ってそれに倣う。
「あなたの厄、かなり内側まで入り込んでいるわね。川の水を飲んだ?」
「いや、普段は井戸の水を使っているよ」
「なら大方、そこの蟹を食べでもしたんでしょう」
「ご明察」
さすがは専門家であった。
鈴瑚の身体についた厄を簡単に見抜いただけでなく、その原因をすぐに看破して見せた。
「あの、鈴瑚さんの厄は、払えるんですよね」
「勿論。まあ、どこまで意味があることかはわからないけど」
雛はゆっくりと周囲の風景を見回した。
「この厄はもう、山全体に蔓延してしまっている。わたしが集められる許容範囲を越えてね」
「集める?」
「わたしはこの山で厄を集めているの。神社で払われたり、川に流された厄はわたしが回収しているのよ」
厄払いの専門家、という事実に間違いはないが、巫女とはまた違う存在のようだ。
「やっぱり、厄を山に撒き散らしているのはこの蟹たちなの?」
「ええ」
雛はしゃがみ込むと、足元を這う蟹の群れに視線を落とした。
「この小さな体に、物凄い濃さの厄を溜め込んでいる。払っても、後からやって来る蟹が際限なく厄を振りまいて行くのよ」
「……この蟹の正体に関して、専門家の意見を聞きたいんだけどね」
同じようにしゃがみ込みながら、鈴瑚は雛にそう尋ねた。
「わからないわ」
光沢のある丸い背中を見せながら、沢蟹は次から次へと鈴瑚の視界を過ぎていく。
その背中にうっすらと刻まれた溝が、見ている内に人の顔のようにも見えてくる。
その「顔」はどのような感情も伝えてこない。
最初に見た時よりも明らかに数を増した沢蟹の群れは、その目的も、異常な発生の原因も、何もかもが謎に包まれていた。
「この蟹たちが、なぜ厄を溜め込んでいるのかもわからない」
雛の表情に、陰が差していた。
「この厄の発生源がどこにあって、なぜ蟹たちがその厄を背負わされているのかも」
しゃがんだまま、雛は川上へ視線を移した。
川の流れは止まることなく、蟹の群れと、目に見えない厄を運んでいく。
「わたしが何かしたんじゃないかって、疑う妖怪まで出て来て――でも、ここで川を流れて来た厄を留めるのに精一杯で、わたしは調べに行くこともできない。こうしている間にも、川の中の厄はどんどん濃くなっていくのに」
雛が立ち上がった。
その顔には疲れと、憂いが見て取れる。
「流し雛に頼ることすら、妖怪たちは諦めてしまったんだわ」
「ながしびな?」
聞きなれない単語であった。
「人形に己の災厄を託して、川に流す厄払いよ」
紫式部の「源氏物語」において、光源氏がお祓いをした人形を船に乗せ、海に流した描写があり、流し雛の原型は少なくとも平安時代には成立していたとされる。
この幻想郷においても、大小さまざまな雛人形を木造りの船に乗せ、流すという形で流し雛の風習が残っており、それは人間だけでなく妖怪も行うものであった。
雛はその「流し雛軍団」の長であると自称した。
雛は川の下流にあたるこの場所で流された雛人形を回収する役割も担っており、厄を回収しきった人形を後で里に売りに来ているという。
人形作りの技術を持たない人間や妖怪が何度でも厄払いを行うことができるようリサイクルを行っているという話であった。
その雛人形が、最近はさっぱり流れて来ない。
「まあ、当然よね」
雛は一通り説明を終えた後で、溜め息をついた。
「わたしがいる山でこれだけの厄が溢れ返っているんだもの。今更流し雛に頼ろうなんて、考えなくなってしまったんだわ」
集めても、集めても、蟹と共に川の中から溢れてくる厄。
向けられる疑いの目。
自分の元にやって来なくなった、雛人形たち。
「……ごめんなさい。少し、話し過ぎたわ」
「お気になさらず」
「気にするわ。本来、わたしとこんなに言葉を交わしてはいけないもの」
厄を周囲に集める存在である雛を妖怪たちが避けるのは、当然であった。
「早苗の紹介で、あんたに会いに来たのはわたしたちの意思だよ」
「……相変わらず何も考えていないのね、あの巫女は」
雛はそう言うと、懐から小さな人形を取り出した。
掌に乗る程度の内裏と姫が、一体ずつ。
「後でこの雛人形を、上流から川へ流して。わたしと話したんだもの、よく身体につけてから流さないと厄は払えないわよ」
「ん、ありがとう」
鈴瑚は雛に近づき、一対の小さな雛人形を受け取った。
「疑わないのね」
「専門家が言うことだもん。信じるよ」
それに、と鈴瑚は自分の腹部を指差した。
「こっちに関しては、あんただけが頼りって話だしね」
雛はその言葉を聞いて力なく微笑むと、距離を保ったまま鈴瑚と正対した。
「わかっているわ――」
そう言うと、雛は舞うような動きでゆっくりとその場で回り始めた。


※ ※ ※


樹海を抜けた頃には、既に月が空の高い位置に留まっていた。
「辛そう、でしたね」
「でしたね、じゃなくて」
「あ、ごめん……」
沢蟹を食べて以来、鈴瑚の腹の中で凝り固まっていた厄は、取り除かれた。
雛はくるくると回り、糸を巻き取るように鈴瑚の腹の中の厄を回収した。
そして、先ほど雛と会話したことで身体についた分を雛人形につけて流せば、ようやく山の他の住人程度には「綺麗な」身体になるという話である。
だが、今や川から発生した厄は山全体に広がってしまっているのだ。
「ひとまず、わたしらが蟹を食ったことは、この状況の原因じゃあないってことかな」
「食べたのは鈴瑚ちゃんだけでしょ」
別れ際に雛が語った内容によれば、沢蟹の異常発生はもっと前に始まっていた。
鈴瑚が他者よりもやや強い災厄に襲われたのは単純に、蟹数匹分の厄を「食べる」ことで自らの体内に取り込んだことにあるという。
「雛さんも言ってたじゃない。ああいう得体が知れない生き物を口に入れちゃ駄目だって」
「はいはい、以後気を付けますよ」
お腹を壊さなかっただけ有難いと思いなさい、という雛の言葉を鈴瑚は思い出した。
「……あの雛って子に関しては、話に挙げるだけでも厄がつくって話だったね」
そうは言うものの、樹海の河原で見た彼女の悲痛な表情は簡単には忘れられない。
彼女は関わった者を不幸にする存在であった。
だが、他者と関わることなく、人知れず彼らを不幸から守る存在でもあった。
その彼女が、己の役割を果たせない事態に苦しんでいた。
「そう……だったね」
清蘭は鈴瑚の厄を回収して去る雛の背中に、何度も礼を述べた。
彼女の境遇に、何か思うところもあったのかもしれない。
「だからさ、この人形を流す前に粗方話しておくよ」
河原が見えて来た。
下流の方向には少し離れて、工事が中断された河童の水車が見える。
鈴瑚は清蘭と真正面から向き合い、口を開いた。
「今日、厄を払って貰った恩返しくらいは、したい」
「うん」
「山を下りるって選択肢もあるけどさ。わたし、結構好きなんだ」
清蘭と二人でこの山に暮らし始めて、僅か二月余り。
月の都とは違いそこかしこが穢れ、妖怪が跋扈するこの土地に、鈴瑚は愛着を覚えていた。
もっと多くの場所を見たい。
もっと多くの妖怪や神々に出会いたい。
そこに不幸や不運が満ちているのは――鈴瑚にとって、望ましい事態ではない。
誰かがそのことで苦しんでいるのは、もっと望ましくない。
「だから、何かやりたい。何か……何ができるか、わからないけど」
「雛さんのために?」
「多分、違うかな。いや、雛への恩返しは勿論あるけど」
鈴瑚は宵闇に沈む川面を見つめた。
今もこの水の中では、無数の沢蟹と共に厄が下流へ移動しているのだ。
「この山で、幸せになりたいからだよ。清蘭と一緒に」
ここで生きると決めた。
生まれ育った月を捨て、大好きな少女一人を供にして。
穢れによって起こされる変化の中で、移り変わる地上の景色の中で、生きていくと決めた。
そこで幸せになると、鈴瑚は強く想った。
だから、その場所での幸せを脅かすような「異変」とは――戦わねば、と思う。
軍規と命令によって与えられる、兵士の戦いではない。

縄張りと決めた場所で、己の命と家族を守るために行われる、生物の戦いであった。 

「清蘭は、山を下りたい?」
そうした思いで動く時、清蘭が傍にいてくれたら、もう他に何も望まない。
「……」
清蘭は少し黙って、鈴瑚の顔を見つめていた。
視線を外すことがないまま、ゆっくりと口を開く。
「わたしは、鈴瑚さ……鈴瑚ちゃんと一緒にいたい」
清蘭が一歩、鈴瑚に向かって足を踏み出した。
「この山を……ううん、地上の穢れを好きになれるかどうかはまだ、わからない」
「うん」
「でも、地上にも優しい神様がいて、誰かのために何かをしようとしているのは、わかった。そういう人がいる場所なら、わたしもきっと、生きていける。好きになれる」
清蘭は両手を伸ばし、鈴瑚の手を取った。
「鈴瑚ちゃんが、好きになった場所だし」
「ありがと、清蘭」
冷たい風が吹いたが、鈴瑚にとっては清蘭の手の温もりこそが、この地上にあるただ一つの温度のように感じられた。
「少し、調べてみたいんだ。この地上でわたしに何ができるかはわからないけど、こうして首を突っ込んでしまった事件だから」
「わかった。鈴瑚ちゃんが頑張るなら、お団子一杯作らないとね」
そう言って笑みを浮かべた清蘭を、鈴瑚は思いきり抱きしめたくなった。
いや、むしろ今夜、間違いなくそうしようと決めた。
だがそれは庵に戻ってからの話である。今はこの身体についた厄を取り除かないといけない。
「……流そうか、この雛人形」
鈴瑚は雛から受け取った、一組の雛人形を取り出した。
どこかで見たことがあるようなその顔は、何も語らない。
清蘭に姫を渡し、自分は内裏を手にした。
二人して擦り付けるように全身へ人形を触れさせると、ここに来る途中に拾って来た厚めの木の皮に、人形を乗せた。
丁度筏のように平たくなっていた木の皮は、座した人形二体をしっかり支えた。
それは鈴瑚の手で、川の上に浮かべられてからも同じようであった。
「このやり方で、いいのかな?」
「ま、一応全身に触れさせたわけだし、大丈夫でしょ」
鈴瑚はそう言いながら、静かに指を離した。
雛人形を二体乗せた天然の筏は、ゆっくりと川面を流れて行く。
「行ってらっしゃい。あんたらのリーダーとやらに、また会えるといいね」
川下までの旅路の安全を祈りながら、鈴瑚は呟いた。
「鈴瑚ちゃん、それを口にしたら」
「あ、いけない。……えんがちょ、ってすればいいんだっけ?」
鈴瑚は人差し指と中指を鋏に見立て、交差させた。
雛が「自分と関わった者の厄払い方法」として二人に教えた仕草であった。
清蘭の方を見ると、流れて行った雛人形をずっと見送っていた。
同じ方向に再び目を向けようとした鈴瑚の耳に、清蘭の声が響いた。
「あれ?」
清蘭は眉間に皺を寄せ、下流の方向を見つめていた。
改めて同じ方向を見つめた鈴瑚の目に飛び込んできたのは、水面の一点で留まり、くるくると回転している木の皮と、その上の雛人形であった。
川が本来流れる方向に対して、少しずつ右に動いて行ったかと思うと――不意に、人形を乗せた木の皮は、水面の下に姿を消した。
「……沈んだ?」
あっという間のことであった。
あの男女一対の雛人形も、木の皮も、流れに従って下流を目指していた。
だが、水面のある一点まで流された所で、回転した挙句、水底に姿を消した。
「鈴瑚ちゃん、あれ」
「……転覆、したのかな」
雛人形を乗せた、木の皮の筏が沈んだ位置へ歩みを進めながら鈴瑚は思った。

――異常発生をし始めた沢蟹。
――川下へ流れて来なくなった雛人形。
――一匹一匹の蟹が抱えた、濃厚な厄。
――止まらない蟹の増加。
――山の頂上付近では影響が薄い、蟹の発生に伴う災厄。

「清蘭。あの雛人形は、回ってたよね?」
「え?……うん。くるくるって、回ってたと思う」
あの辺で、と清蘭が指さした場所に鈴瑚は視線を向けた。

 ――近くに見えるのは、鈴瑚が少し前まで毎朝目にしていた、工事の跡。
 ――そこに沈んだ人形の、どこかで見たような気がする顔。

「なるほど」
脳裏をよぎったいくつかの場面が鈴瑚の中でパズルのピースのように繋ぎ合わさり、一つの光景を形作った。
「清蘭」
鈴瑚は傍に立つ清蘭の手を握りしめ、言った。
「明日は一日、仕事を休みにしよう」





仕事を休むことにはなったが、この日の朝、鈴瑚は清蘭に団子作りを指示した。
売り物にするわけではない。
清蘭は鈴瑚が好きな、調味料や果肉を練り込んだ団子を幾つも作った。
それを串に刺し、たっぷりと餡子をつける。
何本もの串団子が出来上がり、それらは丁寧に竹の皮に並べられた。
清蘭は皮を綺麗にたたみ、凧糸で封をする。
「はい、どうぞ」
「ありがとう。これだけあれば、安心かな」
竹の皮で包まれた串団子を清蘭に手渡され、鈴瑚はにっこりと笑った。
「鈴瑚ちゃんの着替えは、わたしが持つね」
「ん、よろしく」
仕事をする日の朝とは違い、鈴瑚は清蘭と一緒に戸口に立った。
雲一つない秋晴れであった。
日に日に冬が迫り来ているこの時期、こうした抜けるように青い空を拝める機会はしばらくないかもしれない――そう思わせるような、澄んだ晴天である。
この山の大気に、濃縮された厄が溶け込んでいることなど想像もつかなかった。
「いい天気ね」
「うん、空が綺麗だ。清蘭の髪みたいに」
澄んだ、それでいて濃い空の青色は、確かに清蘭の髪色とよく似ていた。
「おだてたって何も出ませんよ」
そう言いながらも、清蘭は頬を僅かに紅く染めていた。
その様子を満足げに見やると、鈴瑚は外へ足を踏み出すのであった。

 
河原へ出ると、昨日雛人形を流した場所がまず目に入った。
相変わらず川の中、岸を問わず沢蟹がそこかしこを這い回っている。
「やっぱりなあ」
鈴瑚は昨日の夜、一つの仮説を立てていた。
その内容は、清蘭には既に話してある。
「ここの蟹も随分多くなったけど、下流に比べたらまだ少ない」
昨日、二人は昼間に下流――妖怪の樹海での河原の光景を目にしている。
蠢く沢蟹の群れを比べると、密度が薄いのは間違いなくこちらだ。
「これが山を……というか川を上ると、もっと少なくなるの?」
「おそらくね」
鈴瑚は岸から離れた、蟹がいない場所を選んで川下へ歩き始めた。
次第に見えてくるのは、放置された河童の工事現場。
昨日、雛人形が川の中へ消えた場所の近くでもある。
「清蘭、川の中が見える?」
鈴瑚がそう言って指差したのは、河童たちが発電用の水車を回す力を強くするため、川岸に手を加えていた場所であった。
川の傍に設置された水車の方向に、流れが枝分かれしているのだ。
水深や川底の地形も異なっているため、視界が悪い箇所もある。
「深いところが……よく、見えない。なんか、蟹もたくさんいるし」
「なるほどね」
鈴瑚は満足げに頷いた。
ここまでは、現場の状況が鈴瑚の仮説を支持している形であった。
「となると、ここだね」
そう言って鈴瑚が立ったのは、河童の工事により川岸の地形が変則的になった場所の中でも、特に水深までの視界が悪い場所であった。
穴を掘られ、局所的に、かつ無理矢理に深くされた水底の一点。
朝の光の中でもその底は闇に沈んでおり、どうなっているかが視認できない。
「気を、つけてね」
水際に立った鈴瑚に、清蘭が不安げな声をかけた。
「任せなさい」
鈴瑚は清蘭に向けてⅤサインを作ると、清蘭から受け取った竹皮の包みを取り出す。
封を解き、中から一本の串団子を取り出した。
四つ並んだ団子を横にしてかぶりつくと、一気に串を引き抜いた。
一度に団子四つを口に入れた鈴瑚の顔が、頬袋に種を溜め込む栗鼠のように膨らむ。
そのまま何度か咀嚼をした後、ごくりと喉を鳴らして飲み込んだ。
「一度に食べると、消化に悪いよ」
「短期決戦だからね。後から追加するより、一気に食って一気に消化した方がいいの」
口元についた餡子を拭った指を、鈴瑚は舌先でぺろりと舐めた。
胸焼けを起こしている様子はない。
「残り、持っててね」
鈴瑚は包みを元に戻し、清蘭に渡した。
「気をつけてね」
「心配ないよ。……そろそろ、効いてくる頃かな」
そう言うと、鈴瑚は上着を脱ぎ捨てた。
晩秋の朝の冷たい空気がその白い肌に触れるが、鈴瑚は身震い一つしない。
次いで南瓜のような形をした愛用のズボンを脱ぎ捨て、下着姿となった。
「寒くない?」
「当たり前でしょ」
その言葉の通り、鈴瑚は全く寒そうな様子を見せない。
それどころか頬は紅潮し、額にじわりと汗の玉が浮き始めている。
少しずつ、鈴瑚の体温が上昇しているのであった。
それと並行して全身の血流が速さを増し、団子から摂取した栄養分を身体のあちこちに運ぶ。
視界が広くなるとともに、見えるもの全てが鮮明さを増してゆく。
鼓膜を震わせる音、鼻腔をくすぐる匂い、あらゆる刺激に対し感覚が鋭敏になる。
すう、と軽く息を吸い込むだけで、通常時の倍以上の空気が肺に送り込まれる。
白く柔らかな肌の下に隠れた筋肉の繊維は急速に太くなり、身体のあちこちに血管を浮き上がらせる。
胃の中の団子が消化され始めると同時に、鈴瑚の肉体のあらゆる器官が活性化されていた。
それも、およそ通常の摂食行為ではあり得ない速さと強さで、である。

団子を食べるほどに強くなる程度の能力。

情報管理という職務上、最前線での白兵戦に参加することが少なかった鈴瑚が、イーグルラヴィの中で戦闘力においても一定の評価を得ていたのは、この力によるところが大きい。
口にした団子の成分が体内で完全に消化・吸収されるまでの間、鈴瑚の身体能力は飛躍的に向上する。
一度に食べきれる量には当然限りがあるが、その範囲においては、団子を食べるほどに強さが増していくのである。
清蘭謹製の餡団子を四つ一度に口にした今の鈴瑚は、筋力、肺活量、視力、体温調節機能、全てにおいて並の玉兎の数十倍を誇っている。
「それじゃ、行きますかね」
鈴瑚は最後に靴を脱ぎ捨てると、川の中に素足を踏み入れた。
雛人形が沈んだあたりまで、冷たい川の水に怯むことなく足を進める。
川底は鈴瑚が足を一歩進めるごとに深くなる。
目指す場所の一歩手前に来た時には、川面の水が鈴瑚の顎の先を濡らしていた。
足の指の先を、時折川底の沢蟹がかすめていくのが感じられる。
これもまた予想通りであるが――「そこ」へ近づくごとに、蟹の数が増えていた。
「鈴瑚ちゃん、本当に大丈夫!?」
顔だけを水面に出した状態の鈴瑚に、清蘭が声をかける。
「大丈夫だって」
鈴瑚は足先を少し前に出してみた。
何も触れない――つまりここが、工事の際に河童が掘ったであろう穴の縁であった。
視線を足元に落とすと、川底の光景は見えない。
かなり深い穴であることがわかる。
「ここから潜らないといけないね」
鈴瑚は水面から手を伸ばすと、五本の指を広げて見せた。
「清蘭。五分経っても浮いて来なかったら、河童か山童を呼んできて」
「軽く言わないでください!」
事前に話していたこととはいえ、清蘭はますます顔に不安の色を濃くしている。
「心配しないで。さっき四つ食べたから……まあ、潜るだけなら十五分はいける」
「絶対!五分以内に浮いてきてください!」
「だからください、じゃなくてさ……いや、ごめん」
いつものように清蘭の丁寧語を指摘しようとするが、相手の真剣な眼差しに、さすがの鈴瑚も口を閉じた。
「……五分以内ね。わかった、約束する」
それだけ言い残すと鈴瑚は一度大きく息を吸い込み、勢い良く川の中へ潜った。


※ ※ ※


団子の力によって高められた視力は、水中であっても周囲の光景を正確に捉える。
予想通り、川底の穴の縁には夥しい数の沢蟹が集まっていた。
いや――正確には、その穴の底から蟹が際限なく這い出してきているのであった。
あくまで河童が手作業で掘ったその穴は、深いとはいえそれほど広いものではない。
だが、まるでその穴が別世界へ通じているかのように、先の見えない闇の中から沢蟹が現れる。
そして同じく穴の奥底から漂ってくる、禍々しい瘴気。
(こいつは酷い)
鍵山雛が纏っていた雰囲気にもよく似たそれは、ただの玉兎である鈴瑚が見てもわかるほど濃厚な「厄」であった。
五分どころか、五秒もそこにいれば心身の隅々までが厄で穢れてしまうようなその穴の奥底に、鈴瑚はさらに沢蟹とは別の何者かの気配を感じていた。
それも単体ではなく、集団。
さらにその気配と、鈴瑚に向けられる視線には既視感があった。
蟹を捕まえて帰る途中、背後に感じていた、あの視線に間違いない。そう感じた。
(でも、ますますもって予想通り)
目を背けて水面まで逃げたくなるような不穏な気配に向け、鈴瑚は頭を突っ込んだ。
川底の穴の縁に手をかけ、上半身を乗り出したような格好になる。
突然の侵入に驚いた沢蟹の一部が鈴瑚の身体に攻撃を加えて来るが、気にせずに両足で水を蹴った。
穴の奥底に沈んだもの目掛け、鈴瑚はさらに深く潜った。
手を伸ばして――そこからじっと鈴瑚を見つめている者たちに、手が届くまで。


※ ※ ※


清蘭は鈴瑚が川面の下へ姿を消してからずっと、その場所にいた。
約束をした五分の時間が過ぎるまでの間、目に涙を浮かべて川面を見つめていた。
団子を食べた鈴瑚の身体能力の高さは、同じイーグルラヴイにいた清蘭が最も良く知っている。
それでも、得体の知れない厄まみれの蟹が潜む川底に潜った鈴瑚の行方を、心配せずにはいられない――そうした表情であった。
鈴瑚が潜ってから、ちょうど五分が過ぎようとした時。
手にした懐中時計の針がそれを告げるのに先んじて、清蘭が川に向けて身を乗り出した瞬間のことであった。
水面から勢いよく、鈴瑚が顔を出した。
「り……」
紙一重の時間差で約束通り五分以内に戻って来た鈴瑚は、清蘭に右手を突き出し、親指をぐっと立てて見せた。
「鈴瑚さん!」
「だーかーら、さんじゃないって」
思わず川の中へ足を踏み込んで近づいて来る清蘭に、鈴瑚は微笑んだ。
毛髪や耳のあちこちから「水も滴る」鈴瑚であったが、そのどれよりも、清蘭が両目からこぼす雫の方が、余程美しく見えた。
「ちゃんと五分以内に帰って来たでしょ」
「でも、わたし……心配でぇ」
そのまま川底が深くなる場所へ歩いてきそうな清蘭を、鈴瑚は制止した。
「ほらほら、ここから先は深いから」
下着姿の鈴瑚と違い、清蘭は普段着のまま川へ入っていた。
水色のワンピースはすっかり川の水を吸い、重くなっている。
「自分の心配しなって、言ったのに」
半べそ顔で抱き着いて来た清蘭を、鈴瑚はぐっと抱きしめた。
川へ入り、その底をさらうという作業は、事前に清蘭に話をしていた。
心配する清蘭を説得し、互いに納得ずくで今日の「作戦」を実行したものの、どうも当の本人の心配性を完全に抑えることはできなかったようだ。
「っていうか、今のわたしに近付かない方がいいよ」
鈴瑚は断腸の思いで清蘭の身体から手を離した。
「水どころか、厄が滴るいい女なんだから」
鈴瑚の身体は先程まで、濃厚な厄が溶け込んだ川底の水の中にあったのだ。
名残惜し気な顔で離れた清蘭に、手にした物体を見せつけた。
「それって」
「そう。こいつの他にもいっぱい、沈んでた」
鈴瑚の右手には、ぼろぼろになった雛人形が握られていた。
昨日二人が流し、この場所に沈んだ二体とは別の人形である。
川の水を吸って重くなった着物。
川底の砂泥に汚れた顔。
そう短くない時間を、川底で過ごしていたのは明らかだった。
「清蘭。河童でも山童でもいいから、呼んできて。連中が渋ったら、後で団子の割引券でも配ったらいいわ」
「……わかりました!」
文字通り脱兎のごとくその場を駆けだした清蘭を、鈴瑚は見送った。
髪を濡らす水を切ろうと頭に左手をやると、そこに触れるものがあった。
沢蟹であった。
「ありゃ、頭にくっついてたのか」
両の鋏を広げて威嚇する沢蟹をつまみ、しげしげと眺める。
その甲羅に刻まれた、人の顔めいた表情。

それは、右手に握った雛人形の顔と瓜二つであった。

「ただの人形が、随分と強い責任感をお持ちのようで」
少し前に読んだ歴史書に書かれた、怪談めいた逸話を鈴瑚は回想していた。
戦に敗れ海に消えた武家の怨念が、そこに生息する蟹の甲羅に、憤怒の形相となって顕れる――という、文字通り「平家蟹」と呼ばれた生物の話であった。
「どっちが一番の犠牲者なんだかねえ」
しばらくすると、清蘭が数名の河童を連れて戻って来た。
河童たちの先頭にいるのは、あの河城某とかいう、水車工事のリーダーであった。
丁度いい、そう思いながら鈴瑚は川の中に沢蟹を投げ込んだ。





雪が降り始めていた。
この冬で最初の、鈴瑚と清蘭にとっては地上で初めての、雪であった。
「それで、結局あれはどういう出来事だったんです…だったの?」
窓辺に立ち、昼下がりの曇り空が降らせる雪を見ていた鈴瑚に、清蘭が背後から声をかけた。
「昨日のことかしら」
「うん」
鈴瑚は床に置かれた火鉢の傍に腰を下ろした。
清蘭もそれに倣い、火鉢を挟んで鈴瑚と向かい合う。
「あの場所に沈んでいた雛人形は、全部――」
「そうだよ。全て、上流から山の連中が流したもの」
鈴瑚が水車の工事現場の近く、沢蟹が巣食う川底の穴から雛人形を見つけてから、丸一日が経過していた。
川の中から鈴瑚が顔を出してから、現場は一時騒然となった。
清蘭が呼んできた河童たちの協力により、大小合わせて数十体の雛人形が水底から引き揚げられたのである。
川底に潜った鈴瑚が感じた視線の「主」たちは、予想以上の大所帯だった。
「連中は、流し雛に頼ることをやめたわけじゃなかったんだよ」
むしろその逆であった。
妖怪の山に災厄が溢れ返るほどに、住人たちは必死で流し雛の儀を行っていた。
だが、上流から流されてきた雛人形の多くは、小舟や筏もろとも、水流の向きが変則的に変わる工事現場の近くで転覆し、沈んでいたのだ。
川底深く掘られた穴に雛人形が折り重なり、込められた「厄」もその中で堆積した。
水底に消えた雛人形たちは、回収役の厄神の目にも留まることなく、ただ己の背負った厄を水中に濃縮させていくことしかできなかった。
「その厄が、蟹を凶暴化させたり、大量発生させたってこと?」
「うーん、正確には違うんじゃないかって思うよ」
火鉢の上に両の掌をかざしながら、鈴瑚は言う。
「あれは雛人形たちの怨念……じゃないな」
適当な言葉を探し、鈴瑚は少し思案する。
「無念。無念の顕れなんじゃないかって、思うの」
「無念ですか?」
「そう」
清蘭が無意識に丁寧語に戻っていたがそれを指摘せず、鈴瑚は続ける。
「あれは彼女たちにとって、任務というか、使命の旅路みたいなものなのよ」
「任務、使命」
地上に来てから久しく聞いていなかった単語を、清蘭は復唱した。
「川の上流から、託された厄を抱えて船出する旅。その終着点は当然、下流よね」
流した側にとっては人形に厄を背負わせ、川へ浮かべた時点で終わりかもしれない。
だが、人形たちにとってはそこが「仕事」の始まりなのだ。
「自分たちで舟を漕げるわけでもなし、下流に辿り着けない人形は普段からそれなりにいるんだろうけど――今回はほとんどの流し雛が、同じ場所で無念の水死を遂げた」
志半ばで散り、本懐を遂げることなく水底に消えた者たち。
地上の歴史において、そうした人間の無念が蟹の甲羅に顕れたという怪異端を読んでいたことが、鈴瑚がその考えに至るヒントとなった。
すなわち。

「冷たい川底で動くこともできない人形たちは、その場所にいた生物に己の無念と、下流へ運んでいくべき『もの』を託したんだろうね」

沢蟹の背に顕れた、一見何の感情も語らない「顔」は、表情を作ることができない雛人形の目鼻立ちとひどく似ていたのだ。
「でも、流し雛は後から後から、ずっとあの穴に沈んできた……」
厄を川へ流したい山の住人と、その望みに応えんとした雛人形たち。
両者の想いが強くなればなるほど、川底に堆積した厄は濃さを増し、沢蟹はその厄を下流へ運ばんとして、加速度的に数を増していったのではないか。
「あのまま放っておけば、あの川の沢蟹はそこそこに性質の悪い妖怪に、本格的に化けてしまっていたんだと思うなあ」
ただの沢蟹の繁殖力と攻撃性、そして群れの統率がここまで短期間に強化されるなど、並大抵の理由では説明がつかない。

忌み嫌われ、払われるべき「厄」。
折り重なった流し雛たちの「無念」。

川底に堆積した二つの「穢れ」が、暗い穴の中で沢蟹を怪物に変えようとしていた――鈴瑚にとっては、それが一番説明のつく理由に思えたのである。
「穢れが新たな妖怪を生む、ってことですか」
「わたしは、そう思うんだ」
穢れは、地上の住人の生と死により発生する「変化(へんか)」そのものと言ってよい。
非業の死が生む怨念や無念、生きていく中で背負う業、厄。
そうした変化が蓄積し、ただの人間や蟹を、怨霊や妖怪へと変化(へんげ)させていく。
無機の道具として作られた人形もまた、その例外ではない。
「思うだけ、だけどね」
ここまで語ったことは、あくまで鈴瑚の推測でしかない。
だが、雛人形を全て引き揚げた途端に、一様に下流を目指していた沢蟹の群れが統率を失ったかのようにばらばらに動き始めた。
両者に何らかの関係があったことは概ね間違いないと、鈴瑚は思う。
河童たちが渋々ながら水流を元に戻す作業をすぐに始めたのも、そこに大量の雛人形が沈んでいた事実を、それなりに重く受け止めたからだろう。
「地上が地上なりに穢れを払う技術を発展させてきたのにも、納得できるかな」
川底から引き揚げた雛人形は、全てその場で川に流した。
無論、己の身体についた厄を入念に雛人形に託してから、である。
沈んでいた筏や小舟のうちに再利用できる物は少なく、場合によっては何体もの雛人形を押し込めた、まるで七福神の宝船を思わせる小舟ができたりもした。

下流まで、無事に辿り着きますように。

樹海の奥で彼らの到着を待っている、あの寂し気な顔の少女を思い出しながら、鈴瑚は心の中で祈りを捧げたのであった。
「地上の穢れがまた、怖くなっちゃったかしら?」
一連の話を聞いた後、曇った表情を見せている清蘭に鈴瑚は声をかけた。
「……少し」
清蘭は視線を火鉢に落としたまま、短い言葉で答えた。
「あくまで少し、ですけど。鈴瑚さんみたいに、それを面白い……っていう風には、まだ思えないです」
「そっか」
鈴瑚は苦笑した。
火鉢の上ですっかり暖まった掌を、清蘭の手に重ねる。
「まあ、悪い方向に変わっていくものばかりでもないよ」
清蘭の手は冷たい。
だがその分、自分の掌の温度を清蘭が暖かく感じることを、鈴瑚は嬉しく思う。
「たとえば今日。雪が降ったってことは、これからもっと寒くなる」
「寒いのは嫌、なんでしょう?」
「でも寒くなれば、その分だけ誰かの体温が暖かく感じられるってことよ」
鈴瑚は清蘭の手を包む指先に力を込めた。
「じゃあ、外が暖かくなってきたら?」
「その時は、誰かと手を繋いで歩く時の風が、もっと気持ちよくなるよ」

冬が来れば、雪が降る。
冬が終われば、雪は解ける。

その変化の中で、数多くの命が生き死にを繰り返しながら、山の景色を四季折々に変えていく。
変化が起きる前にはなかった、良いものも悪いものも、そこで生まれる。
「それに――変わらないものだって、ある」
清蘭が顔を上げた。
左右一対ずつの赤い瞳が、火鉢の上で真正面から向かい合う。
「その『誰か』を好きだってことは、きっと、ずっと変わらないよ」
「……明日の好きは、今日の好きと違うって、言ってたでしょう」
「そうだよ。でも、好きだってことは変わらない」
感情が変化をしていくものだということは、無論鈴瑚も知っている。
それこそ穢れのない月の都でも、決して止めえない変化だ。
それでも、自分が目の前の少女に対して抱いている感情を「不変」であるとと言い切らずにはいられなかった。
変化に満ちた地上の生活は、面白い。
だが変わらずにあることが何物にも約束されず、予想もつかない怪異が日常を脅かす穢れた世界で、自分がこんなにも満たされているのは――掌の中にある、小さな手の持ち主が共にいてくれてこそ、である。
職務を捨て、地位を捨て、故郷も捨てた自分に最後に残った、残ってくれた存在への想いを、どんな穢れが捨てさせることができようか。
「清蘭が前に言った、地上を好きになれるって言葉、嬉しかった」
「……はい」
清蘭は頬を紅く染めながら、それでも鈴瑚から視線を逸らさずに答える。
「本当にそうなるように、頑張るから」
変わるものも、変わらないものも、二人で楽しみながら生きていく。

「……ふふっ」

「いや、なんで笑うの?」
不意に破顔した清蘭を見て、鈴瑚は眉を潜めた。
ここで感動した清蘭が涙の一滴でも零せば、これ以上ないくらいに完璧な、生涯を共にする「誓いの言葉」になったはずなのである。
「頑張るって、鈴瑚さん」
清蘭は目尻に指を当て、涙を拭っていた。
一応涙は零しているようだったが、その顔はおかしくてたまらない、という笑みを浮かべているのであった。
「具体的に何を頑張ってくれるんですか?」
「え?……そうね、季節の美味しい物を調べて……」
「調べて?」
「清蘭にそれを料理して貰う、とか?」
清蘭はその言葉を聞いて少し黙った後、
「ぷっ」
我慢できない、とばかりに吹き出した。
そのまま、先ほど以上におかしそうに、笑い続ける。
「何がおかしいのよ!」
「だって鈴瑚さん、案の定食べることばっかりで……あんな目に遭ったのに、全然懲りてなくて、ふふ。本当に鈴瑚さんは、鈴瑚さんで」
清蘭の手は鈴瑚の掌をすり抜け、自身の腹部に当てられていた。
腹が痛くなるほどに、笑っている様子だった。
「人が格好良く決めようと思ったのに!」
「だって、結局料理を頑張るの、わたしじゃないですか…くくっ」
「そ、そりゃそうだけど……もう、清蘭!」
鈴瑚は頬を膨らませた。
「大体、鈴瑚さん鈴瑚さんって、完全に呼び方が元に戻ってるし!わたしを呼ぶときは鈴瑚ちゃん、もしくはあ・な・た!」
「あ、それなんですけど」
清蘭は丁寧語も直さないまま、鈴瑚に向けて顔を突き出してきた。
「やっぱり変えるの、無理です」
「はぁ?」
「変わらないものもあるって、言いましたよね?」
今度は清蘭が、鈴瑚の両手を取った。
「わたしにとって鈴瑚さんは、頭が良くて、優しくて、強くて、格好いい、いっぱい食べる鈴瑚さんでした。イーグルラヴィじゃなくなっても、やっぱり鈴瑚さんは鈴瑚さんでした。だから、鈴瑚さんは鈴瑚さんです」
「えーと、ちょっと混乱してきたけど……それと呼び方と、何の関係が」
「わたしの『好き』は、鈴瑚さんを鈴瑚さんって呼ぶところも含めて、好きっていうことなんです。それは、地上に残っても変わらなかった。これからも鈴瑚さんを好きでいる限り、きっと、ずっと変わらないんです」
それとも、と清蘭は少し顔を曇らせた。
「やっぱりこんな風に接するのは、他所他所しくて嫌ですか……?」
清蘭は鈴瑚をじっと見つめてきていた。
吸い込まれそうな紅い瞳の周りで、目尻とまつ毛に少し残った涙が光っている。
「う……嫌じゃ、ないけど」
「じゃあ、これからも鈴瑚さんは鈴瑚さんです」
清蘭はそう言うと大きく深呼吸して、座ったまま伸びをした。
何か肩に乗っていた重荷が下りたように、清々しい顔をしているのであった。


「さて、明日からまたお仕事ですね!」
昨日の作業の疲れを取るため、どちらからともなく今日一日、二人は庵にいた。
結局、二日分の収入が途絶えていたことになるのである。
「厄もしっかり払えたし、たっぷり稼いできてくださいね」
「……雪がひどくなってきたよ、清蘭。明日の朝には積もっちゃうかも」
鈴瑚はまた一つ、地上に来て知った新鮮な感情を覚えていた。

丸ごと何日も仕事を休むと、翌日再び働き始めるということが、ひどく気怠い。

「そしたら一緒に雪かきしましょう!地上の冬の風物詩の一つ、だそうですよ?」
いい運動になりますよ、と言って、清蘭は笑顔を向けた。
その表情は、軍人の上下関係など一切感じさせない、「家族」への親しみが込められたものであった。
「じゃあ明日は雪かきの日で、団子を売りに行くのは明後日から……」
「駄目です!」
穢れた地上の片隅で、兎たちの夜は騒がしく更けていくのであった。


※ ※ ※


その年の冬、妖怪の山を流れる川では、沢蟹の死骸があちこちで確認された。
山で囁かれた噂によれば、その数を短期間で異常に増やしたことで食物や冬眠場所の奪い合いとなり、多くの蟹が命を落としたのだろう――ということであった。
寒さが薄れる頃にはその話をする者は誰もいなくなり、川の景色は例年通りに春の色を帯び始めていた。
幾人かの妖怪が思い出したように語ったところによれば、下流へ流された沢蟹の死骸が、樹海の奥の河原で山になっているのを見た者がいるという。
それもいつの間にか消え、「蟹塚」と彫られた小さな岩がその場所に置かれていたという顛末であった。
死骸の山を片づけて蟹塚をそこに置いたのが誰か、それを語る者はいない。
常時から厄が渦巻く妖怪の樹海の奥にそれを確かめに行こうとする物好きな輩も、そうそう現れるはずもないのであった。
初めての方は初めまして、そうでない方はお久しぶりです。
鈴瑚と清蘭、昨年からずっと書きたかった二人の話をようやく一本書き上げることができました。
「山で起きた怪異を解決する1話完結の短編」という茨歌仙でよくある構成を目指したのですが、
短くまとめるのは難しい。結果、予想以上のボリュームとなってしまいました。
今回は鈴瑚の視点から見た「地上で清蘭と暮らす世界」を書いたので、次回は逆に、清蘭の視点にも挑戦したいところです。

少しでもお楽しみいただけましたら、幸いです。
それではまた、どこかの幻想郷で。
https://twitter.com/tailfinslap
ぐい井戸・御簾田
http://tobihazer.web.fc2.com/
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コメント



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1.90名前が無い程度の能力削除
とても良かったです。
けど鈴瑚が沢蟹を食べたことがきっかけになって妖怪の山が不運に見舞われたように見えるのですが、流し雛の怨念が妖怪の山の不運の原因なら、それ以前から不運があったほうが自然じゃないでしょうか。
2.80奇声を発する程度の能力削除
面白かったです
3.80名前が無い程度の能力削除
事件の内容、発端、解決の流れは面白かったです
100点を入れてないのは単純に百合が苦手なんで、話自体は満点が入ってるものと思って頂ければ…
平家蟹って三期鬼太郎エンディング冒頭のあいつですかね
久々に思い出させてもらいました
5.100秋塚翔in創想話削除
文句無しの満点。あおりんごで読み応えある作品を読めて満足しました
7.100名前が無い程度の能力削除
厄は迂闊に食べるものじゃないね
9.100名前が無い程度の能力削除
雰囲気がとてもいいですね。
これはシリーズ化希望ですわ。
12.100名前が無い程度の能力削除
 楽しませて頂きました。
13.100名前が無い程度の能力削除
このSS、すごく真面目な味がする……!
この二人の前向きな話が読めて嬉しかったです。
14.90名前が無い程度の能力削除
厄ぃわー。
穢れ度高くて良いですねー。
18.100名前が無い程度の能力削除
面白かったです
20.100名前が無い程度の能力削除
ぐい井戸さんが真面目なss…だと…(失礼)
百合に少し抵抗がある私ですが、この作品は文句なしの100点です。
穢れた地上で生き抜く二羽の兎の行く末に幸あれ!
21.100名前が無い程度の能力削除
よいあおりんごでした