十六夜咲夜のミステリアスさは、特筆するまでもなく人里に知れ渡っている。
彼女が住むのは、悪魔の住まう真っ赤なお屋敷 紅魔館。
そこでは日光を傘一本で克服してしまう規格外な吸血鬼 レミリア・スカーレットの下、様々な種族でもトップレベルの強者が集結していると言う。
そんな伏魔殿も跣で逃げ出す屋敷唯一の人間。メイド長。悪魔の腹心の部下。
肩書きは説明できても、それ以外の部分は未だに謎が多い。
ましてや咲夜は、この郷でも十指に入る美貌の持ち主だ。
現にこうしてフリルエプロンを翻し、カツカツとローファーを鳴らして人里を闊歩する咲夜の姿に、異性はもちろん同性からも好奇と羨望の眼差しが注がれる。
びしりと伸びた背筋に、理知的なアーモンド形の眼。異国の装いを彷彿とさせる銀髪の奥で、あの人は何を考えているのだろう。
きっと私たち庶民には理解しがたい、高尚で気高い思索を巡らせているのではないだろうか。
民衆の興味が尽きない中、咲夜は静かに、そして紅魔館メイド長としての威厳と風格を崩さないように、こんなことを考えていた。
(――買い物に出たのに、何買いに来たか忘れちゃった……)
咲夜は人里を歩く。
元来た道を戻れば、ひょっとして忘却してしまった内容を思い出すのではないかと信じて。
――◇――
迂闊だった。
咲夜は買い物に出る場合、必ずメモを持って行く。
足りない物、早急に必要な物、それらをまとめて効率よく買い物を済ませるための行程表も兼ねているメモだ。
ところが、今回に限って持ってこなかった。
(何か一個だけだからいいやと思って、メモを取らなかったのはマズかったわね……)
今更後悔しても遅い。
やはり石橋を叩くのには意味がある事と、その習慣は滅多に変えてはいけない事を学んだ。
しかし学んだところで状況は解決しない。
わざわざメモを取らない様な他愛のない代物だと分かっているくせに、肝心の正体が出てこない。
そんな不愉快な状態で、かれこれ十数分も人里をゆっくり歩いている。
ちょうど商店街に差し掛かり、いつまでもぶらぶらとしていても埒が開かないと諦めた咲夜は、両脇の店をゆっくり観察し始めた。
八百屋、雑貨屋、服屋、米屋、酒屋に貴金属販売店。
様々な店の並びを見て、咲夜はピンとこないかどうか観察する。
しかし、これといって何も思いつかない。
そもそも咲夜が人里に買い物に出るのは、実は稀な事なのである。
食料品や消耗品は店舗と定期購入の契約を結び、配達をして貰っているので毎日人里に通う必要はないのだ。
紅魔館の入り口までとはいえ、霧の湖まで配達に訪れる商人のたくましさに感心し、咲夜はありがたく活用している。
よって食品や日用品を扱う店はわざわざ行く用事が無いので、多分違うと除外。
すると見えてくるのは、服屋や宝飾品店などのお店。
しかし、これも違う。
(服は支給品がある。装飾品もお嬢様からいただけるし……)
そうメイド服の袖を撫でて考える咲夜。
制服や防寒具、気品を保つための装飾品や武器は確かに支給されるのでいらないのだが、それ以外の私服や私物を買う発想が無いのが咲夜という人間だ。
物欲が少ないどころか欠落している咲夜からすれば、このお店も用事が無い。
咲夜はなおもしゃなりと歩きながら視線を巡らし、あるお店を発見する。
『紅茶の美味しいお茶屋』
そのまんまな名前が看板に書かれた喫茶店があった。
(紅茶……)
珍しく、咲夜は嗜好品に目を引かれる。
とは言ってもあくまで自分が欲しい訳ではなく、主のレミリアが大の紅茶党であり、つい紅茶と聞くと条件反射で反応してしまうためであった。
しかしこのお店は知らない。
咲夜は静かに店の入り口に近づき、ドアを開ける。カランコロンとベルが涼やかに鳴った。
「いらっしゃいませ」
定番の挨拶と共に、エプロンを身にまとった可愛らしいウェイトレスが迎えてくれた。
咲夜は案内されながら、さりげなく紅茶の匂いに満たされた店内をチェックする。
店内は綺麗に掃除され、板張りの床はピカピカと輝いていた。大きな窓には曇り一つなく、さんさんと入る日光が店内に明るさと暖かさを提供していた。
掃除にうるさい咲夜も、及第点を心の中で出す。
ほどなく咲夜はテーブルに案内される。真っ白なテーブルセットが1脚だけだった。
そのそばには大きな棚があり、様々な種類の紅茶が陳列してあった。
どうやらお茶屋とは喫茶店の意味ではなく、お茶っ葉を売る店がささやかに店内で商品のお茶を提供している、というスタイルらしい。
しかし咲夜は文句ひとつなく席に座り、アールグレイを注文する。
ほどなくして、紅茶が届いた。
白磁の垢抜けたポットと薄手のカップ。もちろんきちんと温められた器に、オレンジ色の紅茶が注がれる。
まずは一口。
「……ふむ」
咲夜が唸ることは滅多に無い。紅茶の味を認めた証拠だ。
と同時に頭の中でそろばんを弾く。
今紅茶を仕入れている店の取引量を減らして、こっちからも供給してもらいたい。
その差し引きの経費や配達の交渉について、静かに考え始める。
そして計算がまとまり、店長と交渉をしようとした瞬間、カランコロンとまたベルが鳴った。
いらっしゃいませ、相席でよろしいですか、の声が遠くから聞こえてくる。
そしてツカツカとこちらに歩み寄る金髪の少女に、咲夜は見覚えがあった。
「……何で?」
「主語が無いわよ。アリス・マーガトロイドさん」
金のショートヘアーに真っ赤なカチューシャ。今日のお供は確か上海と呼んでいる人形。
手にしている鍵付の魔道書が語るのは、彼女が魔女であること。
咲夜にフルネームで呼ばれた七色の人形遣いは、やや不機嫌そうに眉根に皺を寄せて、咲夜の真向かいに腰掛けた。
「何で貴女がここに?」
「入店したのは偶然。紅茶を飲むのは自然。そして紅茶を購入したいのは必然でしょ」
「私は見たくも無い顔を見て憮然って所ね」
春の異変以来知らない仲ではないのだが、あんまりな言い方だ。
それでも咲夜は微塵も気にせず会話を続ける。
「ここにはよく来るの?」
「あらやだ尋問?」
「いいえ質問。もしかして自分一人の隠れ家的な店を発見されて、それで機嫌が悪いのかしら、って」
「……貴女のそういう聡明な所が好きになれないわ」
どうやら図星だったらしく、指でテーブルの天板をトントンと規則正しく叩きながらそっぽを向くアリス。
銀髪メイド服の麗人と、金髪碧眼の知的美人が差向いに座る図はベルエポックの絵画もかくやというほど様になっていたが、何故か間に流れる空気はどこか剣呑としている。
しかし、そんな複雑な状況にも負けず、店員は注文を取りにきた。
「アリス様は、いつものお茶でよろしいですか」
「ええ、お願い」
常連だけが許される注文方法でお茶を頼むアリス。その様子から相当この店に通っているのだと推察できた。
店側もアリスが来ることを予測していたのか、紅茶がすぐに出てくる。
銀のお盆からテーブルに並べられたのは紅茶の入ったカップの他、ミルクポットとスプーン。
アリスはミルクポットを取り上げ、真っ白なミルクをやや茶色が濃い紅茶に注ぎ入れる。
半透明の琥珀色に乳白色が加わった。程よい所でミルクを置き、スプーンでかき混ぜる。
その様子を、咲夜はカップを傾けながらそっと眺めていた。
「ミルクティーがそんなに珍しいのかしら」
アリスが不躾な視線に呆れる様に、咲夜に問いかける。
すると咲夜は皮肉でも何でもなくこう答える。
「貴女の趣味を確認していたのよ」
「何よ。貴女もストレート至上主義なの。やれ子供っぽいだの、芳醇な香りが失せるだのストレート派は文句ばっかり……」
そうぶつぶつと不満を漏らすアリス。どうやらどこかでミルクティーを飲んでいたら、紅茶を分かっていない人扱いされた様だ。
そのせいか、咲夜にまでバカにされているのかと不機嫌全開で紅茶を口に含むアリスに、咲夜はこう誤解を解く。
「いいえ。貴女のお茶癖を認識しておきたかったのよ。
主はもちろん、よくいらっしゃるお客様のお茶癖を覚えることは、メイドの基本だから。
次回紅魔館に来た時には、ここのアッサムの茶葉とミルクも用意してお待ちしているわ」
そうにこやかに話す咲夜に、アリスは「あ、そう……」と毒気を抜かれてしまった。
さらに何気なく流したが、咲夜が紅茶の種類をきちんと当てたことに、アリスは驚きを隠せない。
多分運ばれた瞬間の紅茶の色や香りで判別したのだろう。
その鋭い観察眼に、魔女でさえ内心舌を巻いた。
とここで、アリスは疑問が生じる。
「ここの茶葉を用意するって……貴女どのぐらい買うつもりなの」
「え? とりあえず何種類かをひと月分購入して、後は定期購入の段取りを」
「あ~、無理無理」
アリスは両手をひらひらと振る。その様子に、咲夜は少し目を見開いた。
「だってこのお店、紅魔館の消費量を支えられるほど大量に卸せないわよ。
在庫と言ったらそこの棚にある分がやっと。しかも、この店の主人が納得した茶葉だけ仕入れるから、量も安定していないし。
そもそも、私の紅茶だって時々無いんだから」
「あらまぁ……」
「儲けが目的じゃなくて、半分趣味の店らしいからね」
そう入り口近くのカウンターに視線を送るアリス。
その先では、奥さんらしい妙齢の女性が鉢植えに水をやりながら、たった一人のウェイトレスと談笑していた。
アットホームな雰囲気だが、確かにあくせく稼ぐ気はないらしい。
「では……アッサムを一缶だけいただくとしましょう」
すると咲夜はすぐに考えを切り替え、棚の中から一缶だけチョイスする。
「あら、貴女アールグレイを飲んでいるのに、アッサムを買うの?」
アリスが初めて素の感情で咲夜に問う。
それに対し、咲夜はある意味咲夜らしい答えを返す。
「定期購入はあきらめるとして、先ほどの約束は守りませんと。
これだけでも次回の訪問時には、貴女の趣向にぴったりのミルクティーをお出しできますわ」
「へぇ。ま、もうちょっとしたらパチュリーの所に行くつもりだから、その時は答え合わせも兼ねて、お茶をごちそうになろうかしら」
アリスがフフフと微笑む。
果たしてこの分量だけで咲夜は淹れ方のコツをつかみ、アリス好みの紅茶を再現できるのか。
しかしその自信たっぷりな態度に、アリスも興味が湧いてきた。
さらに自分の趣味を微塵も否定しなかった咲夜に、アリスはさっきまでの咲夜に対する苦手感が薄れたのを覚える。
何かを楽しみに待つ、という久しぶりの高揚感でアリスが次回訪問の意を伝えると、咲夜は立ち上がって浅く一礼する。
その所作は優雅で上品ではあるが、決して表立たない控えめな歓迎の挨拶。
その姿に、アリスはほぅ、と感嘆を漏らす。
咲夜が紅茶を包んでもらって帰るのを見送り、アリスは思い出したように文庫本を読み始めた。
出会って数分。
あまり好きではない人、から、嫌いじゃない人、にまで好感度を格上げさせた女性に、アリスは気恥ずかしさを覚えながらページを追う。
やっぱり侮れない人間。瀟洒のオーラを着こなすクールビューティー。
魔女を誑かすなんて、貴女が悪魔じゃない。
そう、アリスは紅茶の湯気を相手に一人ごちた。
――◇――
「……あ」
そんな完璧なメイド長は帰路の途中、結局買い物を思い出せなかったことに気が付いた。
紅茶を片手にご機嫌に帰ってきたはいいが、肝心の疑問は未解決のままだ。
まいったな、と咲夜は頭を軽く振る。
ここは完全に人里から離れた紅魔館の近く。というより、もう紅魔館が目前に迫っている場所だ。
今更人里に戻るのは面倒臭いし、第一未だに何が欲しかったのか思い出せない。
魚の骨が喉に引っかかっている様な一抹の不快感に苛まれるが、とうとう咲夜はしょうがない、と諦めた。
今日はこの紅茶で色々なミルクの配合を試して寝てしまおう、と気持ちを切り替える。
そう踏ん切りをつけたのとほぼ同時に、紅魔館の門扉にたどり着いた。
傍では冬用外套を着こんだ中華小娘 紅美鈴が門番の仕事を程ほどに全うすべく、今日も佇んでいた。
咲夜はマフラーを巻きなおすと、美鈴に近づく。
それにしても今日も寒い。美鈴には温かい飲み物を差し入れしようと咲夜は思い立った。
「ただいま、美鈴」
「おかえりなさい、咲夜さん。今日は……紅茶を買ってきたのですか」
美鈴は、珍しいですね、と補足できそうな口調で咲夜に挨拶する。
紙袋の外から缶入り紅茶の匂いを嗅ぎ取った美鈴に感心しつつ、咲夜は「後で貴女にも淹れてあげるわよ」と提案する。
それを聞いて「本当ですか。やった」と無邪気に喜ぶ美鈴を見て、咲夜も微笑む。
そう微笑みながら咲夜はふと目線を下げ、次の瞬間、目が美鈴に釘付けになる。
具体的には、咲夜の視線が美鈴の胸元に吸い込まれていた。
下世話な話だが、美鈴の胸は非常に豊かな部類に入る。
特に門前で太極拳をしている時など、両腕に寄せられた双丘の迫力は圧巻の一言だ。
そんな母性の源の様な胸を凝視する咲夜。
さすがに不躾な視線に美鈴も気付き、「咲夜さん?」と訝しがる。
刹那、咲夜の頭の中にキーワードの群れが去来する。
中華小娘 丸くて柔らかなもの 今日は冷え込む 温かそうな美鈴
そしてそのキーワードは瞬時に組み合わさり、完成したパズルの様に咲夜の脳裏にある像を浮かび上がらせる。
「あ、あああぁっ~!」
突如雄たけびを上げる咲夜に、美鈴は面食らう。
だが咲夜は、かつてない爽快感に脳みそがジンジンと痺れた。
そう、咲夜はたった今、買いたかった物を思い出したのだ。
「美鈴! 買い物に行ってくるから、これを預かっておいて!」
咲夜は部屋に荷物を置きに行くのももどかしい、といった具合に美鈴に紅茶を押し付ける。
美鈴は「え? また買い物ですか?」と疑問符だらけだったが、その疑問を口に出した時にはもう目の前に咲夜がいない。
時間を止めてまで、何を買いに行くのだろう。
美鈴は袋を抱えたまま小首を傾げた。
「――こんにちは」
「うおっ!?」
突如店先に現れた女性に、店員は客に対して少々まずい驚きの声をあげる。
だがそこは長年この地で接客しているだけあり、すぐに落ち着きを取り戻す。
ここは人里の中華飯店。しかし用事があるのは店内ではなく、店舗に併設された持ち帰りの料理を販売する窓口。
その傍では中華鍋が火にかけられ、その上に無数に重なるせいろからもうもうと湯気が噴出していた。
その湯気は、せいろの中身の香ばしく、甘い匂いを運んでくる。
その様子を存分に確認して、咲夜は早速注文をする。
「肉まんとあんまん、各5個ずついただけるかしら」
――◇――
こんなに寒い日は、温かい物が食べたいわね。
……中華まん、食べたいなあ。
今朝のこんな思い付きから始まり、休み時間を貰って人里に下りた途端、何故かコロッと忘れてしまった中華まんの誘惑。
随分と回り道してしまったが、結果肉まんは買えたし、美味しい紅茶も手に入れた。
さて、急いで帰りましょう。
私は肉まんとあんまんを1個ずつ。
残りは記憶の復帰の手がかりになってくれた、寒い中頑張っている美鈴に差し入れしましょう。
そう咲夜は冬のささやかな楽しみを抱え、本日2回目の帰路につくのだった。
【終】
彼女が住むのは、悪魔の住まう真っ赤なお屋敷 紅魔館。
そこでは日光を傘一本で克服してしまう規格外な吸血鬼 レミリア・スカーレットの下、様々な種族でもトップレベルの強者が集結していると言う。
そんな伏魔殿も跣で逃げ出す屋敷唯一の人間。メイド長。悪魔の腹心の部下。
肩書きは説明できても、それ以外の部分は未だに謎が多い。
ましてや咲夜は、この郷でも十指に入る美貌の持ち主だ。
現にこうしてフリルエプロンを翻し、カツカツとローファーを鳴らして人里を闊歩する咲夜の姿に、異性はもちろん同性からも好奇と羨望の眼差しが注がれる。
びしりと伸びた背筋に、理知的なアーモンド形の眼。異国の装いを彷彿とさせる銀髪の奥で、あの人は何を考えているのだろう。
きっと私たち庶民には理解しがたい、高尚で気高い思索を巡らせているのではないだろうか。
民衆の興味が尽きない中、咲夜は静かに、そして紅魔館メイド長としての威厳と風格を崩さないように、こんなことを考えていた。
(――買い物に出たのに、何買いに来たか忘れちゃった……)
咲夜は人里を歩く。
元来た道を戻れば、ひょっとして忘却してしまった内容を思い出すのではないかと信じて。
――◇――
迂闊だった。
咲夜は買い物に出る場合、必ずメモを持って行く。
足りない物、早急に必要な物、それらをまとめて効率よく買い物を済ませるための行程表も兼ねているメモだ。
ところが、今回に限って持ってこなかった。
(何か一個だけだからいいやと思って、メモを取らなかったのはマズかったわね……)
今更後悔しても遅い。
やはり石橋を叩くのには意味がある事と、その習慣は滅多に変えてはいけない事を学んだ。
しかし学んだところで状況は解決しない。
わざわざメモを取らない様な他愛のない代物だと分かっているくせに、肝心の正体が出てこない。
そんな不愉快な状態で、かれこれ十数分も人里をゆっくり歩いている。
ちょうど商店街に差し掛かり、いつまでもぶらぶらとしていても埒が開かないと諦めた咲夜は、両脇の店をゆっくり観察し始めた。
八百屋、雑貨屋、服屋、米屋、酒屋に貴金属販売店。
様々な店の並びを見て、咲夜はピンとこないかどうか観察する。
しかし、これといって何も思いつかない。
そもそも咲夜が人里に買い物に出るのは、実は稀な事なのである。
食料品や消耗品は店舗と定期購入の契約を結び、配達をして貰っているので毎日人里に通う必要はないのだ。
紅魔館の入り口までとはいえ、霧の湖まで配達に訪れる商人のたくましさに感心し、咲夜はありがたく活用している。
よって食品や日用品を扱う店はわざわざ行く用事が無いので、多分違うと除外。
すると見えてくるのは、服屋や宝飾品店などのお店。
しかし、これも違う。
(服は支給品がある。装飾品もお嬢様からいただけるし……)
そうメイド服の袖を撫でて考える咲夜。
制服や防寒具、気品を保つための装飾品や武器は確かに支給されるのでいらないのだが、それ以外の私服や私物を買う発想が無いのが咲夜という人間だ。
物欲が少ないどころか欠落している咲夜からすれば、このお店も用事が無い。
咲夜はなおもしゃなりと歩きながら視線を巡らし、あるお店を発見する。
『紅茶の美味しいお茶屋』
そのまんまな名前が看板に書かれた喫茶店があった。
(紅茶……)
珍しく、咲夜は嗜好品に目を引かれる。
とは言ってもあくまで自分が欲しい訳ではなく、主のレミリアが大の紅茶党であり、つい紅茶と聞くと条件反射で反応してしまうためであった。
しかしこのお店は知らない。
咲夜は静かに店の入り口に近づき、ドアを開ける。カランコロンとベルが涼やかに鳴った。
「いらっしゃいませ」
定番の挨拶と共に、エプロンを身にまとった可愛らしいウェイトレスが迎えてくれた。
咲夜は案内されながら、さりげなく紅茶の匂いに満たされた店内をチェックする。
店内は綺麗に掃除され、板張りの床はピカピカと輝いていた。大きな窓には曇り一つなく、さんさんと入る日光が店内に明るさと暖かさを提供していた。
掃除にうるさい咲夜も、及第点を心の中で出す。
ほどなく咲夜はテーブルに案内される。真っ白なテーブルセットが1脚だけだった。
そのそばには大きな棚があり、様々な種類の紅茶が陳列してあった。
どうやらお茶屋とは喫茶店の意味ではなく、お茶っ葉を売る店がささやかに店内で商品のお茶を提供している、というスタイルらしい。
しかし咲夜は文句ひとつなく席に座り、アールグレイを注文する。
ほどなくして、紅茶が届いた。
白磁の垢抜けたポットと薄手のカップ。もちろんきちんと温められた器に、オレンジ色の紅茶が注がれる。
まずは一口。
「……ふむ」
咲夜が唸ることは滅多に無い。紅茶の味を認めた証拠だ。
と同時に頭の中でそろばんを弾く。
今紅茶を仕入れている店の取引量を減らして、こっちからも供給してもらいたい。
その差し引きの経費や配達の交渉について、静かに考え始める。
そして計算がまとまり、店長と交渉をしようとした瞬間、カランコロンとまたベルが鳴った。
いらっしゃいませ、相席でよろしいですか、の声が遠くから聞こえてくる。
そしてツカツカとこちらに歩み寄る金髪の少女に、咲夜は見覚えがあった。
「……何で?」
「主語が無いわよ。アリス・マーガトロイドさん」
金のショートヘアーに真っ赤なカチューシャ。今日のお供は確か上海と呼んでいる人形。
手にしている鍵付の魔道書が語るのは、彼女が魔女であること。
咲夜にフルネームで呼ばれた七色の人形遣いは、やや不機嫌そうに眉根に皺を寄せて、咲夜の真向かいに腰掛けた。
「何で貴女がここに?」
「入店したのは偶然。紅茶を飲むのは自然。そして紅茶を購入したいのは必然でしょ」
「私は見たくも無い顔を見て憮然って所ね」
春の異変以来知らない仲ではないのだが、あんまりな言い方だ。
それでも咲夜は微塵も気にせず会話を続ける。
「ここにはよく来るの?」
「あらやだ尋問?」
「いいえ質問。もしかして自分一人の隠れ家的な店を発見されて、それで機嫌が悪いのかしら、って」
「……貴女のそういう聡明な所が好きになれないわ」
どうやら図星だったらしく、指でテーブルの天板をトントンと規則正しく叩きながらそっぽを向くアリス。
銀髪メイド服の麗人と、金髪碧眼の知的美人が差向いに座る図はベルエポックの絵画もかくやというほど様になっていたが、何故か間に流れる空気はどこか剣呑としている。
しかし、そんな複雑な状況にも負けず、店員は注文を取りにきた。
「アリス様は、いつものお茶でよろしいですか」
「ええ、お願い」
常連だけが許される注文方法でお茶を頼むアリス。その様子から相当この店に通っているのだと推察できた。
店側もアリスが来ることを予測していたのか、紅茶がすぐに出てくる。
銀のお盆からテーブルに並べられたのは紅茶の入ったカップの他、ミルクポットとスプーン。
アリスはミルクポットを取り上げ、真っ白なミルクをやや茶色が濃い紅茶に注ぎ入れる。
半透明の琥珀色に乳白色が加わった。程よい所でミルクを置き、スプーンでかき混ぜる。
その様子を、咲夜はカップを傾けながらそっと眺めていた。
「ミルクティーがそんなに珍しいのかしら」
アリスが不躾な視線に呆れる様に、咲夜に問いかける。
すると咲夜は皮肉でも何でもなくこう答える。
「貴女の趣味を確認していたのよ」
「何よ。貴女もストレート至上主義なの。やれ子供っぽいだの、芳醇な香りが失せるだのストレート派は文句ばっかり……」
そうぶつぶつと不満を漏らすアリス。どうやらどこかでミルクティーを飲んでいたら、紅茶を分かっていない人扱いされた様だ。
そのせいか、咲夜にまでバカにされているのかと不機嫌全開で紅茶を口に含むアリスに、咲夜はこう誤解を解く。
「いいえ。貴女のお茶癖を認識しておきたかったのよ。
主はもちろん、よくいらっしゃるお客様のお茶癖を覚えることは、メイドの基本だから。
次回紅魔館に来た時には、ここのアッサムの茶葉とミルクも用意してお待ちしているわ」
そうにこやかに話す咲夜に、アリスは「あ、そう……」と毒気を抜かれてしまった。
さらに何気なく流したが、咲夜が紅茶の種類をきちんと当てたことに、アリスは驚きを隠せない。
多分運ばれた瞬間の紅茶の色や香りで判別したのだろう。
その鋭い観察眼に、魔女でさえ内心舌を巻いた。
とここで、アリスは疑問が生じる。
「ここの茶葉を用意するって……貴女どのぐらい買うつもりなの」
「え? とりあえず何種類かをひと月分購入して、後は定期購入の段取りを」
「あ~、無理無理」
アリスは両手をひらひらと振る。その様子に、咲夜は少し目を見開いた。
「だってこのお店、紅魔館の消費量を支えられるほど大量に卸せないわよ。
在庫と言ったらそこの棚にある分がやっと。しかも、この店の主人が納得した茶葉だけ仕入れるから、量も安定していないし。
そもそも、私の紅茶だって時々無いんだから」
「あらまぁ……」
「儲けが目的じゃなくて、半分趣味の店らしいからね」
そう入り口近くのカウンターに視線を送るアリス。
その先では、奥さんらしい妙齢の女性が鉢植えに水をやりながら、たった一人のウェイトレスと談笑していた。
アットホームな雰囲気だが、確かにあくせく稼ぐ気はないらしい。
「では……アッサムを一缶だけいただくとしましょう」
すると咲夜はすぐに考えを切り替え、棚の中から一缶だけチョイスする。
「あら、貴女アールグレイを飲んでいるのに、アッサムを買うの?」
アリスが初めて素の感情で咲夜に問う。
それに対し、咲夜はある意味咲夜らしい答えを返す。
「定期購入はあきらめるとして、先ほどの約束は守りませんと。
これだけでも次回の訪問時には、貴女の趣向にぴったりのミルクティーをお出しできますわ」
「へぇ。ま、もうちょっとしたらパチュリーの所に行くつもりだから、その時は答え合わせも兼ねて、お茶をごちそうになろうかしら」
アリスがフフフと微笑む。
果たしてこの分量だけで咲夜は淹れ方のコツをつかみ、アリス好みの紅茶を再現できるのか。
しかしその自信たっぷりな態度に、アリスも興味が湧いてきた。
さらに自分の趣味を微塵も否定しなかった咲夜に、アリスはさっきまでの咲夜に対する苦手感が薄れたのを覚える。
何かを楽しみに待つ、という久しぶりの高揚感でアリスが次回訪問の意を伝えると、咲夜は立ち上がって浅く一礼する。
その所作は優雅で上品ではあるが、決して表立たない控えめな歓迎の挨拶。
その姿に、アリスはほぅ、と感嘆を漏らす。
咲夜が紅茶を包んでもらって帰るのを見送り、アリスは思い出したように文庫本を読み始めた。
出会って数分。
あまり好きではない人、から、嫌いじゃない人、にまで好感度を格上げさせた女性に、アリスは気恥ずかしさを覚えながらページを追う。
やっぱり侮れない人間。瀟洒のオーラを着こなすクールビューティー。
魔女を誑かすなんて、貴女が悪魔じゃない。
そう、アリスは紅茶の湯気を相手に一人ごちた。
――◇――
「……あ」
そんな完璧なメイド長は帰路の途中、結局買い物を思い出せなかったことに気が付いた。
紅茶を片手にご機嫌に帰ってきたはいいが、肝心の疑問は未解決のままだ。
まいったな、と咲夜は頭を軽く振る。
ここは完全に人里から離れた紅魔館の近く。というより、もう紅魔館が目前に迫っている場所だ。
今更人里に戻るのは面倒臭いし、第一未だに何が欲しかったのか思い出せない。
魚の骨が喉に引っかかっている様な一抹の不快感に苛まれるが、とうとう咲夜はしょうがない、と諦めた。
今日はこの紅茶で色々なミルクの配合を試して寝てしまおう、と気持ちを切り替える。
そう踏ん切りをつけたのとほぼ同時に、紅魔館の門扉にたどり着いた。
傍では冬用外套を着こんだ中華小娘 紅美鈴が門番の仕事を程ほどに全うすべく、今日も佇んでいた。
咲夜はマフラーを巻きなおすと、美鈴に近づく。
それにしても今日も寒い。美鈴には温かい飲み物を差し入れしようと咲夜は思い立った。
「ただいま、美鈴」
「おかえりなさい、咲夜さん。今日は……紅茶を買ってきたのですか」
美鈴は、珍しいですね、と補足できそうな口調で咲夜に挨拶する。
紙袋の外から缶入り紅茶の匂いを嗅ぎ取った美鈴に感心しつつ、咲夜は「後で貴女にも淹れてあげるわよ」と提案する。
それを聞いて「本当ですか。やった」と無邪気に喜ぶ美鈴を見て、咲夜も微笑む。
そう微笑みながら咲夜はふと目線を下げ、次の瞬間、目が美鈴に釘付けになる。
具体的には、咲夜の視線が美鈴の胸元に吸い込まれていた。
下世話な話だが、美鈴の胸は非常に豊かな部類に入る。
特に門前で太極拳をしている時など、両腕に寄せられた双丘の迫力は圧巻の一言だ。
そんな母性の源の様な胸を凝視する咲夜。
さすがに不躾な視線に美鈴も気付き、「咲夜さん?」と訝しがる。
刹那、咲夜の頭の中にキーワードの群れが去来する。
中華小娘 丸くて柔らかなもの 今日は冷え込む 温かそうな美鈴
そしてそのキーワードは瞬時に組み合わさり、完成したパズルの様に咲夜の脳裏にある像を浮かび上がらせる。
「あ、あああぁっ~!」
突如雄たけびを上げる咲夜に、美鈴は面食らう。
だが咲夜は、かつてない爽快感に脳みそがジンジンと痺れた。
そう、咲夜はたった今、買いたかった物を思い出したのだ。
「美鈴! 買い物に行ってくるから、これを預かっておいて!」
咲夜は部屋に荷物を置きに行くのももどかしい、といった具合に美鈴に紅茶を押し付ける。
美鈴は「え? また買い物ですか?」と疑問符だらけだったが、その疑問を口に出した時にはもう目の前に咲夜がいない。
時間を止めてまで、何を買いに行くのだろう。
美鈴は袋を抱えたまま小首を傾げた。
「――こんにちは」
「うおっ!?」
突如店先に現れた女性に、店員は客に対して少々まずい驚きの声をあげる。
だがそこは長年この地で接客しているだけあり、すぐに落ち着きを取り戻す。
ここは人里の中華飯店。しかし用事があるのは店内ではなく、店舗に併設された持ち帰りの料理を販売する窓口。
その傍では中華鍋が火にかけられ、その上に無数に重なるせいろからもうもうと湯気が噴出していた。
その湯気は、せいろの中身の香ばしく、甘い匂いを運んでくる。
その様子を存分に確認して、咲夜は早速注文をする。
「肉まんとあんまん、各5個ずついただけるかしら」
――◇――
こんなに寒い日は、温かい物が食べたいわね。
……中華まん、食べたいなあ。
今朝のこんな思い付きから始まり、休み時間を貰って人里に下りた途端、何故かコロッと忘れてしまった中華まんの誘惑。
随分と回り道してしまったが、結果肉まんは買えたし、美味しい紅茶も手に入れた。
さて、急いで帰りましょう。
私は肉まんとあんまんを1個ずつ。
残りは記憶の復帰の手がかりになってくれた、寒い中頑張っている美鈴に差し入れしましょう。
そう咲夜は冬のささやかな楽しみを抱え、本日2回目の帰路につくのだった。
【終】
抜けているけど瀟洒である愛嬌のある人だよね
しかし咲夜とアリスの揃い踏みって地味にレアっぽい感じがする…しなくない?
かわいらしくてよかったです。
瀟洒だけどどこか人間臭い。私の咲夜さん像はまさにそんな感じです。
咲アリについて、マイナーですがカップリングとしては存在するようです。
初めての咲アリは、互いの距離感が難しかったです(汗)
奇声を発する程度の能力様
ありがとうございます。
絶望を司る程度の能力様
物忘れをしたら、大抵の人間はそうなるだろう行動です。
可愛らしく思っていただけてよかったです。
13番様
ありがとうございます。
ジャンボギョウザまんなる物を見つけて、テンションが上がったがま口でした。
それが画竜点睛ではなく愛嬌になるところが可愛いですね
忘れていたものをぱっと思い出した時の、あの爽快感はすごく分かりました
咲夜さんとアリスのその後も気になるところです
トンポーロ―まんとかオススメですよ。あとアールグレイはレモンスライスの投入でなんとか許してください!
32番様
もう見た目からビシッと整っているイメージです。これが咲アリクオリティ。
33番様
まさに私の思い描く可愛い咲夜さん像です。ありがとうございました。
大根屋様
咲夜さんも人間。たまには記憶も抜けるし、思い出したら大声をあげちゃいます。だがそれがいい!
あやりん様
アリスはその後、約束通り咲夜さんの紅茶を飲みに紅魔館へ。
正直あの店とは違う紅茶を出されたけれど、なぜか好みにバッチリ合っている。
不思議がるアリスに咲夜が一言。
「だって、貴女の事を考えれば、この淹れ方しかありませんよ」
アリスは赤面した――
あ、これで一本書けるかも(笑)
……時を止めてメモを取りに行けばいいのではというツッコミはこの可愛らしさには無粋なので辞めておきます。
ご感想、ありがとうございます。
>瀟洒×可愛いさ=咲夜さん
この等式は完璧でございます。さらに美鈴さんも加えてアリスさんで割ると可愛さは3倍です。
42番様
「メモ……書いてすらいなかったんです。ホント単純だけど大事なことですよね、メモって」by咲夜