見つけた。
見つけて、しまった。
私は彼女を前にして、思わず溜め息を吐いた。彼女は最早、彼女と呼ぶ事を迷わざるを得ないような有様であり、辛うじて原型を留めていると表現するのが正しい。留めていなかった方が幾分かマシだったろう。まともな人間ならば、目を背けずにはいられまい。
夕刻。有象無象が妖しげに蠢く林を越えた先にある見晴らしのいい丘、その一画にある切り立った崖。その下に、彼女はひっそりと眠っていた。崖上から転落して死亡し、その遺骸を野生動物や有象無象の妖怪共にやられたらしい。よくある話だが、人間の持つ尊厳を著しく損ねる光景である。死体探偵。その汚名を持つ私を、それでも人間達が頼るのは、そういう理由がある。
秋晴れの爽やかな風、高き空から降り注ぐ赤光、彼方に見える麗しき我らが命蓮寺。その全てが死臭に染まり、風情も何もかもが死それ一色に汚されている。人間の中には死体にある種の憧れを持つ者もいると言うが、私には到底理解出来そうもない。目の前の彼女は、今や汚物と腐臭を撒き散らす肉塊に過ぎないのだから。
嗚呼、こういう時、燐でも来てくれたら良いのに。縋るように首を回して見ても、あの嫌な瞳の、だが人の良い地獄猫の影も形も見えやしない。まったく、これだから猫って奴は。
私は鼠達を呼び集めると、彼女を布で包み、無縁塚の私の家まで運ばせた。気付けに一杯、焼酎を呷ってから、作業小屋の中で彼女のパーツを並べ、何処から手を付けたものかと頭を抱えた。
私は彼女に修復、エンバーミングを施すつもりだった。
彼女は最早、ただの肉塊に過ぎない。そこには魂も尊厳もありはしない。
しかし、だからこそ。ほんの少しでもそれを取り戻すために。このナズーリン様は正義の味方なのだから。
私は彼女の残ったパーツとその損壊具合をチェックし、表にまとめた。その結果、私の持つ資材と力量では作業不可能だと判断した。私に出来ないのなら、出来る者に頼むしかない。あまり気は進まないが、思い当たる人物がいる。この際、頼るしかないだろう。
私はすぐに書状を認め、それを私の右腕である賢将に届けさせた。その人物を動かすには、こちらも礼を尽くさねばならない。と言うか、そうしないと後が面倒なのである。
賢将は二刻とせぬうちに戻って来た。
「おや。あの人は不在だったのかい」
彼女に消毒と防腐処理を施していた私は、賢将が一人で、いや一匹で戻った事に、ガッカリするやらほっとするやら、複雑な思いだった。
「仕様がない、明日にするか」
振り向いた私の視界が急に暗転し、何かあったかくて柔らかいもの二つが顔面に押し付けられるのを感じた。
「ナズちゃあ〜ん、来たわよ〜ッ!」
この薄気味の悪い猫撫で声は、まさか。
すぐに押し当てられたものの正体を察し、私は慌てて振りほどいた。
「ゲェッ、青娥!」
そこに居たのは、ふわりふわりと宙に遊ぶ、悪名名高きかの霍青娥である。聖徳王率いる道教の信仰団体「神霊廟」の道士にして邪道の仙人。そして、死体修復のエキスパート。
彼女は動く死体、いわゆるキョンシーを使役して決闘に用いる。彼女の使役するキョンシーは実に血色が良く、感情豊かで、妙に生き生きとしているのだ。死体の癖に。その事実は青娥の技術の高さを客観的に証明している。ことエンバーミングにかけては、この幻想郷で右に出る者はいないだろう。以前に仕事を依頼した事があるのだが、青娥の仕事は完璧以外に適切な表現方法が無い。
「お土産、ここに置いておくわね」
青娥は私の威圧視線も意に介さず、手にした瓢箪を机の上に置いた。マイペースな奴だ。
「いつの間に入った!」
私が怒鳴ると、青娥はあっけらかんと言い放った。
「あら? 知ってるでしょう、私の前では、鋼鉄の壁も障子や襖と変わりはしないわ」
かんざし代わりに髪に挿した鑿をトントンと叩いて。
見ると、作業小屋の壁面に大きな丸い穴が開いていた。青娥の鑿には不思議な力があり、どんな硬い壁も豆腐のようにくり抜く事が出来るのである。
「またか」
わざと聞こえるように舌打ちしてやる。どうせ鑿の力で穴はすぐに塞がるが、こう毎度やられてはいい気分はしない。プライバシー云々以前に礼儀に欠けるだろう。その癖、自分に対する非礼は許さず、ネチネチしつっこく追及する女なのだ、こいつは。
私の舌打ちを聞いた青娥は、悲しそうに眉を顰めた。わざとらしい。
「酷いわ、折角お師匠様が弟子のお招きに乗ってやって来たってのにぃ」
「誰が師匠だ、誰が」
確かに修復は習ったが、師事したつもりは無い。
「んもう、ナズちゃんたらいけず。でも好き!」
「分かった、分かったから、くっ付くな! 胸を押し付けるな! 谷間を強調せんでいい!」
あの聖徳王もそう(と言うかあいつが筆頭)なのだが、神霊廟の連中はこういう過剰なまでのスキンシップをして来るから苦手だ。青娥も含めて、彼奴らは全員快楽主義者なのである。そりゃ堅物の聖とは馴染めん訳だ。
なんとか青娥を引き剥がすと、私はこほんと咳払いして、作成した表を青娥に渡した。
「貴女でなければ出来ない仕事だと判断した」
さっと目を通す目付きはトロンと蕩けるようであるが、既にある光が混じっている。私には分かる。それはプライドの輝きだ。
「どこまで修復するつもりかしら」
「全身だ」
流石の青娥も目を剥いた。
「酔狂ね、七割以上補おうだなんて。魔女に頼んで一から人間作った方が早いんじゃないの? 竹箒をそれっぽく見せる術なら、教えてあげるわよ」
「駄目だ」
私は首を振る。
「夫が待っている。彼女自身を会わせてやりたい」
青娥はニヤリと嘲るように笑った。妖怪鼠がセンチになるなど、青娥でなくても笑うだろう。
「被害者を見せてちょうだいな」
私が作業台を指し示すと、青娥はそれにゆっくりと近づいた。その仕草は、獲物に飛び掛る直前の虎、その足取りを連想させる。
無惨な彼女を見て、それでも青娥は愛おしそうに、その一部を撫ぜた。
「……いい子だわ」
それは、青娥が私の依頼を了承した合図である。
私達はすぐに作業に取り掛かった。と言っても、彼女自身に施せる処置は高が知れている。絶対量が少ないからだ。作業は主に、青娥の使役するキョンシー用の「予備パーツ」を彼女に合成する事と、それでも足りない部品を法術などで作成する事に分かれた。
前者は非常にスムーズに作業が進んだ。青娥の持ち寄ったキョンシー用の「予備パーツ」は保存状態も完璧で、そのまま縫合するだけで使えるような代物だったからだ。青娥の鮮やかな縫合術により、継ぎ目の跡は完全に消されている。よもや元から繋がっていたのではないかと疑ってしまったほどだ。
後者は私が担当したが、これも滞りなくこなせた。聖から習っておいた肉体強化法術を応用し、パーツ間の差異を埋め、左右の長さの違いを調節し、自己融解して脆くなった部分を補強する。欠けた爪は別の動物の爪を削ってあてがい、破れた皮膚には豚の皮を張った。
それらの作業を終え、一通りの形が整った時には、東の空が白み始めていた。
残る作業は顔の修復であるが、これが難しい。依頼人に協力してもらい作った似顔絵は精巧で、目標とする形に迷う事は無いのだが、それを再現するとなると別問題である。私が青娥に応援を頼んだ理由はまさにそこだった。青娥のキョンシー、宮古芳香は美しいから。
長椅子にもたれて休憩していた青娥が顔を上げる。私を見るその微笑みは、しかし少しやつれて見える。それは青娥がこの仕事に真剣に取り組んでいた証左に他ならない。
「道士ってのは案外、やわなんだな」
私が憎まれ口を叩くと、青娥は頭を掻いた。
「嫌だわ。熱中しちゃって。いつもいつでも、桃の香りのように優雅に在りたいものだけど」
「神にだってそんな事は出来やしないさ。気に病む必要は無いよ、青娥」
「あら。ナズちゃんが慰めてくれるなんて珍しいわ。でももっと気軽に、にゃんにゃん、って呼んでくれても良いのよ?」
「生憎、猫は苦手でね」
「残念」
不意に、青娥は言葉を切った。トロンと蕩けるような眼差しの中に、光る瞬き。
「あの子を依頼人とやらに返すのかしら?」
「当然だろう」
「やめて。私に頂戴」
「青娥」
私は首を振った。そんな事は論外に決まっている。
「君の愛が生死すら分け隔てしない事には敬意を表しよう。だが愛するのなら、その者が最期に一番望んだようにしてやるのが正しい道だと私は思う」
今度は青娥が首を振った。
「ナズちゃん」
彼女にしては非常に珍しく、憂いに顔を曇らせている。
「あの子は事故死じゃないわ。殺されたのよ」
私は、息を呑んだ。
「何故、分かる」
「致命傷になった頭蓋骨の陥没。これには生活反応、つまり傷の治癒がされようとした跡があった。対照的に、崖から落ちた際についたと思われる、身体のあちこちの裂傷や打撲骨折。これには生活反応が全く見られなかったわ。つまりこれは、被害者が後ろから殴られて殺され、その後、崖上から遺棄された事を示している」
自らの後頭部を指し示しながら言う。
私は声を荒げた。
「馬鹿な。依頼人は目の前で崖上から滑り落ちたと言っていたぞ」
「だから。返しちゃ駄目。私に頂戴。せめて死んだ後くらい、面白可笑しく暮らしたっていいじゃない。私にはそれが出来るわ、させてあげられる」
青娥の瞳は真剣だった。
青娥は死体を欲している。嘘を言う可能性もある。
しかし一方、私は信じてもいるのだ。青娥は千年以上も死と戦ってきた道士である。死をおろそかにするような真似はしない、出来ない、と。
私は言葉に詰まり、机の上に置かれた青娥の土産、味のしない酒を呷った。
「少し時間をくれ」
それから私は支度を整え、里に出向いた。
不足していた化粧品や消毒液などのエンバーミング用資材を買い込む。そのついでにそれとなく聞き込みをしたり、鼠を使った盗聴を行うと、どうやら依頼人の男が不倫していたらしい事が分かった。
事の筋書きはありふれている。
庄屋の娘と結婚し婿養子になった依頼人、いわゆる逆玉に乗った彼は、庄屋の下女を見初めて手を出した。そして、嫁が邪魔になったので事故に見せかけて殺し、死体を崖下に棄てた。しかし、前々から彼の素行を疑問視していた大旦那の意向で、娘が死んだ事がこの目で確認出来なければ家を継がせる事は出来ぬと言われ、慌ててこの私を頼った。そんなところだろう。
死体はどうせ食害され断片しか残らぬと踏んだのだろうが、そうは問屋が卸さない。青娥の技術を知らなかった事、そしてこの私、正義の味方のナズーリン様に悪事の片棒を担がせようとした事。それが彼にとっての命取りだったようだな。
私が作業小屋に戻ると、青娥は修復作業を再開していた。額に汗し、せっせと顔の修復に励んでいる。
「考えたが、やはり君に渡す訳にはいかない。待っている家族がいるんだ」
青娥は予想していたようだ。手を止めず、はにかむように笑っただけだった。
私も青娥の助手として修復に参加し、何度もスケッチと見比べながら作業を行った。青娥の手腕はまさに神業である。こいつの腕には悪魔が宿っているのではないか。飛び出た眼球、欠けた鼻、千切れた耳は見る見る修復され、彼女は生前の美貌を取り戻した。今にも起き上がり、笑いかけて来そうなほどだ。
傷んだ頭髪を刈り込み、里で調達して来たかつらを着けてやる。白い衣を着させ、白粉と口紅で死化粧を施せば、彼女の姿が完全に蘇った。
「うん。流石だ、青娥。これなら遺族も穏やかに彼女を送る事が出来るだろう」
私は手放しでそう褒めたが、青娥は複雑そうな顔をしている。
「このまま燃やしちゃうの、なんだか可哀想……」
「彼女の魂は家族の元へ還り、そして彼岸へと旅立つだろう。君の下で楽しく暮らすのも悪くはないかもしれないが、葬式ってのは死んだ人間の為だけにやるもんじゃない。生きている人間の事も考えてやらなきゃ」
「……ああ、嫌だ。弟子に説教されるなんて、師匠の面目丸潰れじゃないの」
師匠ね。まあ、そういう事にしておいてやろう、今日の所は。
用意していた桐の棺桶に彼女を横たえ、例によって変装をしてから、私は棺を引きずって里に向かった。里の人間が私を避けるのもいつもの事だ。
依頼人を訪ねると、待ってましたとばかりに夫と大旦那が飛び出して来た。夫は白々しくも、彼女に縋り付いて泣いていた。大旦那も大粒の涙を零していたが、娘の安らかな死に顔に安堵したのだろう。取り乱す事は無かった。
「最近、新しいサービスを始めまして。あの聖徳王のお弟子さんのお力を借りて、ご家族の最期の言葉を届けるってやつです。今、キャンペーン期間中でして、特別にロハでやりますよ、どうです?」
私が言うと、夫はさっと青ざめ、いや、いらん、結構だ、帰ってくれ。そう言って首を振った。
「まあ、そう言わずに」
言いながら、私が青娥謹製の札を彼女の額に貼ると、彼女の唇が僅かに動いた。
「貴方、どうして? 愛していたのに」
それからの顛末は、細かく語る必要もなかろう。大旦那の通報で、夫は里の自警団に捕縛された。どうせ死んだ後にはあの恐るべき彼岸の閻魔、四季映姫に断罪されるのである。顕界にいる内に罪を償う機会を与えてやったのは、ひとえに私達の優しさ故だと誇っていいはずだ。
騒動に紛れて、私はこっそり里を抜け出して来た。
「この私を利用しようなんざ、千年早い。肝に銘じておけ」
もちろん、夫をキツく脅しておくのも忘れずに。
里の外で待っていた青娥は、私を見かけるとちょっぴり哀しげに笑った。
「上手く行ったよ。青娥、全ては君のお陰だ。礼を言う」
「そう……」
「残念かい?」
「うん……芳香のお友達が出来ると思ったんだけどな」
しきりに髪に挿した鑿を弄りながら言う。
彼女を本当に気に入っていたのだろう。その見境いの無さは邪と断言するに値する。が、それは罪ではないのだ。所詮、正も邪も悪も他人の批評に過ぎない。彼女は見境いがなく、そして手段を選ばないだけだ。穢れを嫌い、お行儀良くしかしない連中に、彼女を、あの大旦那を救う事が出来ただろうか。
「青娥。君は本当に邪な奴だな。そしてあまりに欲深い。もし君が仏教徒に改宗しても、待っているのは無間地獄かもしれん」
「嫌な事言うわね」
「でも私は」その胸に指を突き付けて言う。「そんな君が嫌いじゃないよ。マスター・にゃんにゃん」
青娥の頬がほんのりと桜色に染まる。私は笑ってしまった。邪仙も存外、うぶなところがある。
夜半。無縁塚の掘っ建て小屋で、賢将と二人、酒を呷った。青娥の酒は、蕩けるように甘い。こんな酒に合う肴と言えば……チーズしかないな。
ナズと青娥の愛のある曲者っぷりが良かったです。
読みやすかったです。
この二人の組み合わせ、イケる……!
二人ともかっこよくて素晴らしい。ラストの青娥もとても可愛い。
ただ、「崖下から転落」→「崖上から転落」もしくは
「崖下に転落」じゃないかと。
物哀しい部分も勧善懲悪的なストーリーで和らげられていて素晴らしいです。
後は……ナズーリン、チーズ好き過ぎ!