Coolier - 新生・東方創想話

初詣は墨の味

2016/01/30 12:50:36
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 寒い元旦に、日が十分昇った時刻になって衣玖は客室で遅々と起きだした。
 酒が残った頭を抱えながらも、一年の初めからだらけてられないと奮起してなんとか布団から抜け出す。
 靴下を履こうと部屋を見渡すが、履きっぱなしのまま寝ていたことに気付き、己のだらしなさに辟易しながらも、部屋を出て冷たい廊下を渡る。
 若干つま先立ちで移動しながら辿り着いた居間では、この家に住人である九尾の狐がこたつで温まっているところだった。

「明けましておめでとうございます。藍さん」
「こちらこそ、明けましておめでとうございます」

 なにはともあれ、まずは新年の挨拶である。
 お互いにお辞儀をして、年が明けて最初の邂逅を大切に扱った。

「今年もどうぞよろしくお願いしますね……ところで今は何時くらいですか?」
「十二時ちょっと前くらいだな。寝正月にならなくてよかったじゃないか。さあ、立ってるのも何だからこたつに入って」
「ではお言葉に甘えて」

 少しばかり寝すぎたかなと思う衣玖だったが、寝る前にはわがまま娘に散々酒を飲まされた故仕方ない。
 それよりも早く足の冷えをどうにかしたいと、急いでこたつに下半身を潜り込ませると、足の裏から柔らかいものが勢い良くぶつかった感触が返って来た。

「ウニャッ!」

 衣玖が驚いて布団をめくってこたつの中を覗き込んでみると、可愛いおしりが二本の尻尾をフリフリと揺らしながら、こたつの反対側に抜け出ていくのが見えた。
 今度はこたつの上から向こうを見てみれば、耳をしんなりさせた橙が藍にすがりついていた。

「うえ~ん、痛いです藍様」
「そんなところに入ってるからだ。これに懲りたらそんなことしちゃ駄目だぞ」

 橙を叱りつける藍だが、多分こうなるとわかって衣玖を招いた確信犯だろう。
 躾のために悪役にされた不満を衣玖が視線に込めて投げかけてみれば、藍が苦笑いを浮かべながら立てた片手を立てて軽く頭を下げてきた。

「ところで橙、衣玖に何か言うことがあるんじゃないか?」
「……あっ! 明けましておめでとうございます衣玖さん!」
「はい、橙さんも明けましておめでとうございます」

 子供の元気いっぱいの挨拶に、衣玖も釣られて口調が少し明るくなる。
 まあ、藍たちからはある人のおまけとしていつもご馳走してもらっているし、今回のことは水に流すこととしよう。
 そう考えていると衣玖のお腹が栄養を求めて音を響かせて、衣玖は恥ずかしげに頭を押さえることとなった。

「ははは、おせち料理はあるが、すまんが私たちが先に食べたからもう余り残ってないぞ」
「ご馳走させて頂くだけでありがたいです。それにしてもこんなに寝過ごすとは、昨日は総領娘様たちとはしゃぎすぎましたね」
「思いっきり大晦日を楽しんでたからなぁ……というか私が五時に起きた時には、天子のやつもう起きてたんだが」
「私が年越しの後で藍様に寝かせつけてもらった時には、まだ起きてましたよね?」
「ええと、私が寝たのが多分四時ごろで、その時にはまだ総領娘様は起きていたので……多分オール?」
「大量の酒まで入ってて、よくそこまで気力が続くな。あいつまだ寝てないぞ……」

 その活力には恐れ入る、衣玖としては少し憧れたりしないでもないが、付いて行くだけでも精一杯だ。

「それで件の人は何処に」
「ああ、天子なら」

 藍が名前を挙げたその直後に、家の奥から橙以上に元気だらけの大声が駆け抜けて屋敷を揺らした。

「紫ー!!! いい加減起きなさいよー!!!」
「……と言うことだ」
「本当に元気な方ですね」






「ちょっと紫、いつまで寝てるのよ! 紫抜きでおせち食べつくしちゃうわよー!?」

 完徹しながらまったく疲れを見せない天子は声を張り上げて、眠っている紫の身体を布団の上から揺らしまくる。
 しつこい攻撃に、熟睡していた紫も次第に目が覚めてきて、薄く開いた目蓋の下から天子に気付いてもごもごと口を動かした。

「むにゃ……天子、おはよう……それじゃあお休みなさい……」
「待てーい! 今何時だと思ってるのよ!?」
「なんじ……?」

 天子に言われて紫は布団の中で寝返りを打ち、部屋の中に置かれた振り子時計をぼんやり眺めた。
 長針と短針が12の下で重なりかけているのを認めると、布団を頭まで被って丸まる。

「なんだまだ十二時も超えてないじゃない、お日様もまだ寝てるわ」
「起きてるわよ、バリッバリに仕事してるわよ!? てゆーかあんた、昨日寝たのが年越した後だったんだから、それだと丸一日寝てる計算になるでしょ!?」
「私の場合、正月のデフォがそれだし……」

 食い下がる天子に、紫は布団を口元まで下げて不満気に睨めつける。

「ふわあ、冬は普段冬眠してるから眠たいんだって言ってるじゃない。ゆっくり寝させてよ」
「いいじゃない、正月くらい起きててくれてもさあ! 初詣行きましょうよー!」
「妖怪が初詣なんてちゃんちゃら可笑しい真似、惰眠を捨ててまですることじゃないわね」

 実際のところ、別に初詣には行かない信念などがあるわけではないが、眠いものは眠いのだ。
 そっぽを向いて断固として拒否の姿勢を示す紫に、天子が口を尖らせた。

「お正月には初日の出を見てくれるって約束してたのになー、それ破ったのに何にもなしかー」
「うぐっ」

 そう言えばそんな約束もしていたと、布団の中で紫の方が揺れる。
 後ろめたさに引かれ、紫の顔が天子に向けられた。

「と、年越しまでは頑張って起きてたじゃない」
「年越した瞬間に一秒も持たずに即寝たでしょ」

 この約束は紫が酒に酔って機嫌がいい時に、強引に取り付けられたものだったが、それでも約束したのは確かだし、果たせなかったら埋め合わせも必要だろう。
 しかしそれでもまだ睡眠欲求が勝っていたらしく、布団の中から紫を引きずり出すには足りなかった。

「ねーねー、起きてよ紫ー」
「しつこい、今日は寝させてよ、明日は行ってあげるから」
「元日に行かないと締まらないでしょ。紫ってばー」

 天子としてはその時期のイベントを楽しむ最適な日に遊びに出かけたいのだ。初詣と来れば、これはもう一月一日以外に行う以外の選択肢はない。

「起きないとチューしちゃうわよー」

 業を煮やした天子からとんでもない言葉が口走って、紫の身体が今までになく驚きでビクンと震えた。
 今天子はなんと言ったのだろうか。チュー? つまりキス? 口付け? 接吻? ヴェーゼ?
 いやいや、まさかそんな軽いノリで、いやしかし軽いノリでとんでもないことをしでかす天子ならやるかも、否やって欲しい!

「紫ー? 本当にいいのー?」
「……………」

 紫はドキドキと高鳴る心音と共に、口をきつく締め緊張した面持ちで言葉を聞き流す。
 宣告された攻撃がいつ来るのかと期待、もとい警戒して全神経を集中していた紫だが、唇に冷たく固いなにかが当てられて思わず飛び起きた。

「ちべた!?」
「アッハッハ。氷のキッスよ! 服の下にも入れてあげるわ」
「ちょっ、こら止めなさいって! わかったわ、起きるから!」

 事前に用意していたのだろう、天子は手に持っていた氷を紫の首元から寝間着の下に無理矢理押し込む。
 流石にここまでされてはゆっくり眠っていられない。紫は服から氷を追い出して気疲れから深い溜息を付くと、布団の上に座り込んで天子と顔を合わせた。

「おはよう、紫!」
「……おはよう天子、いい朝だわ」

 満面の笑みを浮かべる天子に、紫は半分の皮肉と、半分の本音を込めて返した。



 ◇ ◆ ◇



「せっかく出かけるのなら、ちゃんとそれに合ったものを着ないと駄目ね」

 そう言った紫の手で、五人全員が着る振袖が瞬く間に用意された。
 これで紫もやると決めたならば拘りを持つ方だ。

「うぅ、上手く藍様、着れません」
「はいはい、今やってやるから動くなよ」

 紫と藍はすぐに着れていたが、橙は一人で着付けできず藍に助けてを求めていた。

「よし完了だ。橙もこれくらい一人でやれるようにならないと駄目だぞ?」
「うっ、すいません」
「あら、藍だって昔は一人じゃ着れなかったじゃない? 私が着付けしてあげたのに、厠に行って脱いだら元に戻せなくなっちゃって」
「ゆ、紫様! 橙の前であんまりそういうことは……!」

 昔話をされ、橙の前で格好付けたかった藍はあわあわと両手を押し出して紫の話をせき止めようとする。
 まだまだ青さの抜けない藍にクスリと微笑した紫は、二人のことは一旦置いて振り返った。

「さあて、それじゃあ私も天子のお手伝いキャッキャウフフイベントを……」
「総領娘様上手く着れないんですが、やれますか?」
「まっかせなさいよ。天人はこういうのも結構五月蝿いからね、慣れたもんよ」

 紫が向いた先では、慣れた手つきで衣玖の気付を手伝う天子の姿があった。
 シワ一つなく、完璧に着こなされた天子の振袖姿を見て、紫の目が曇る。

「紫、何よその目は」
「……はあ、天界とか落ちればいいのに」
「いきなり毒吐かれたんだけどなにこれ」
「イチャつく前に私の着付け終わらせて下さいよ」

 わずかに期待が空振りで終わったくらいで、特に問題もなく全員が振袖に着替え終わった。
 紫たち八雲一家はそれぞれ名前と同じ色合いの振袖を着ており、天子は白と青で空をイメージしたシンプルな柄の、衣玖は紺色を基調として緋色を添えた大人しく上品なものを着ている。
 全員で向かいあって、いざ出発という段階になってから、ようやくどこに行くのかという話が紫の口から出てきた。

「それで、初詣の先は博麗神社で良いのかしら」
「えー、あそこ妖怪がバカ祭りしてるだけで、お正月って雰囲気じゃないじゃない。どうせ行くならちゃんとしたお正月気分のある、かつ人で賑わってる所が良いわ!」
「はあ、そう言うと思ったわ」

 まあ天子の言うことにも一理ある、博麗神社に行ったところで酒を飲んで馬鹿騒ぎするだけで、正月だというのにいつもと変わりないことになるだろう。
 しかし紫は天子のリクエストに困ったような溜息を吐いた。

「何よ不満そうな態度して」
「私も妖怪の賢者だもの、博麗以外の幻想郷の神社と言えば守矢神社だけど、初詣にでも行ってもし賢者が神社に入れ込んでるなんて噂になったら困るわ」

 ただでさえ守矢神社は上昇志向の強いグループだ、紫がただの初詣に出かければこれ幸いとばかりに宣伝に利用しかねない。

「それでは如何なされるんですか」
「消去法で考えていけば、外界しかないわね」
「外界!? やったわちょっとした旅行よ衣玖!」

 素敵なワードに目を輝かせた天子は、嬉しさをそのままに衣玖と両手を合わせて気持ちのいい音をひびかせる。
 しかし眉間に深い皺を作った紫が顔を近づかせ、息がかかるほどの至近距離から天子を睨みつけてきた。

「はしゃぐのは良いけど、向こうにいる人間は能力を持ってる人なんていないんだから、間違っても妙な気は起こさないようにね」
「わかってるってー、そう怖い顔しないでよ」

 一応は釘を差しておいたが、どうせ何かしでかすだろうなと紫は半ば諦めていた。

「橙、耳と尻尾は隠せるな? ちゃんと人間に化けなさい」
「はい藍様、わかりました!」
「衣玖も羽衣は置いて行きなさいよ、目立つわよそれ」
「そばに置いてないと不安ですが……まあ仕方ないですね、ここなら誰かに盗られることもないでしょうし」
「……ふむ、むしろここは持って行かせて外界の人間に盗ませて、結婚させるっていうのも面白いかも」
「紫さん、預かっておいて下さい。間違ってもこの人には渡さないように」
「はいはい、後でお返ししますわ」

 出発前の最後の準備が慌ただしく行われると、これまた紫が用意した草履を履いて一行はスキマから外界へと出向いた。
 とある神社の鳥居の前に紫が前もって人避けの結界を展開しており、その中に開いたスキマから一番に出てきた天子は、初詣に来た人でごった返した境内を見て目を輝かせた。

「うわー! さすが外界! っていうか人多っ!?」
「ほらほら、あんまり騒がないの。みんな見てるわよ」

 興奮に声を上げる天子を紫がたしなめる、もっともこれくらいはしゃぎようなら可愛いものだ。
 しかし天子の背後で、衣玖は苦しげな声を漏らした。

「うっ……」
「どうかした衣玖?」
「いえ、雷を利用しているので電気関連については勘が良い方なのですが。なんだかそこら中の人間が変な電磁波を発していて、電気酔いしそうで」
「あぁ、今時の外界の人間はみんな電波を出していますよ」
「いつのまに人間はそんなに進化していたのですか」

 一体どういう進化の道を辿ったのか、衣玖としては少し気になったが気分の悪さから追求する気にもならなかった。

「まっ! ちょっと酔ったくらいならまだ大丈夫ね。それじゃ行くわよ橙! 突撃ー!」
「わあーい!」
「あっ、こら橙! 走ると転ぶぞ!」

 今のところはさりとて問題なしと見るや、天子は橙を連れて駈け出してしまった。
 人でごった返した鳥居をくぐって、器用に人の群れをすり抜けて境内に並んだ屋台を前にして、涎を飲み込み喉を鳴らした。

「ほうほう、そこら中の屋台からいい匂いが漂ってきますなぁ、橙隊員」
「涎が止まりませんな、天子隊員」

 天子はもとより橙もまた活発な年頃だ。鉄板の上で焼かれる焼きそば、たこ焼き、りんご飴にフランクフルトとなどなど、美味しそうな食べ物を前にしてお腹が空かないわけがない。
 大量の食べ物を前に品定めをして、後続の紫たちが追いつくなり天子は商品を売っている男性に向かって、手をかざして声をかけた。

「そこのオジサマ! そのチョコバナナ六本!」
「はいよ、元気が良いねお嬢ちゃん!」
「んじゃ紫、お金」
「ごく自然にたかってきたわね」
「だってお金持ってるの紫だけだろうし」

 紫に頼るしかないのは当然の成り行きであるし紫自身も覚悟していたところだが、このふてぶてしさには賢者とてイラッとする。
 見かねた衣玖が天子をたしなめるようと、話に割り込んできた。

「というか六本って欲張り過ぎじゃないですか」
「人数分頼んだのよ」
「……私たち五人ですよ?」
「私は二本食べるから」
「欲張り過ぎですよっ!」

 だがやはり天子のこの態度は如何ともし難い。
 注文を受けた店主は、混みあった雰囲気に困惑しながらも、このまま店の前で話し込まれても厄介なので早く決めて欲しいと促してきた。

「えーと、それでお代金の方は」
「ねえ紫、お願い!」
「……はあ、じゃあこれでお願いしますわ」
「へい毎度! ……えっ、二千円札……」

 紫が渡した紙幣に関して何やら問題があったようだが、「まあいいか」の一言で店主は納得し、全員がチョコバナナを手にすることとなった。
 美味しそうな食べ物にウキウキ気分の天子だが、紫が受け取った釣銭を彼女の前に差し出した。

「はい、天子。お釣りはこれね」
「えっ?」

 天子は呆気にとられながらも二本のバナナを左手で持って、開いた右手で渡された小銭を受け取ったが、意図がわからず首を傾げる。

「あなたの今日のお小遣いこれだけだから」
「えーっ!? 少ない!」
「貰えてるだけ有り難いじゃないですか」

 不満を口にする天子に、紫はここぞとばかりに邪悪な笑みを浮かべて見下した。

「フフフフ、もっと増やしてほしかったら、三回まわってワンと啼けば考えてあげないでもないわ」
「クッ、このドS!」
「十分天子には甘々だと思うがなー」

 ひとしきり天子をいじって満足した紫は、スキマからお札を取り出して藍に手渡した。

「はい、藍には橙の分も合わせて五千円、二人で使いなさい」
「ありがとうございます紫様」
「ありがとうございます!」
「衣玖、あなたは欲しいものがあれば私か藍に言って下さい。お金を渡すとそこの不良がカツアゲしてくるでしょうから」
「そうしてくれると助かります」
「わかってるけど信用ないわね私って」

 天子は手の平で八枚の百円玉を揺らして、苦しそうに呻き声を上げた。

「ぐぬぬ……あと残り八百円か、バナナ二本も注文したのが痛かったわ……」
「まあまあ、せっかく頼んだものなんですから美味しくいただきましょうよ」
「そうそう、美味しいものは美味しく味あわないと失礼だぞ」

 なぐさめた衣玖に藍も乗じながらチョコバナナを口にした。

「んっ……ふぅ……ちゅぱ……」

 だがそれはかじりついたりするようなものではなく、黒くて長い棒状のバナナを音を立てて見せつけるように舐めあげる。
 橙以外の面々は思わず呆気にとられ、顔を赤くしてその様子を眺めていると、藍は我に返って口元を抑えた。

「……あっ、し、失礼しました。つい癖で」
「癖って何よ癖って!?」

 天子からツッコミが飛ぶが、今のが何なのかわからない橙は、素直に純粋な疑問を藍へと投げかけた。

「藍様? 今のどういう食べ方なんですか?」
「お、おとなになったらわかることだよ」
「ぶー、なんですかそれ! 私だって一人前になれるよう頑張ってるんですから、教えて下さいよ」
「な、なんていうかえげつないわねあんたの式神……紫も、そういう経験あるの?」
「へぁ!?」

 先程から完全にフリーズしてしまっていた紫だが、天子に話しかけられて正気に戻る。
 聞き逃していた天子の言葉を、すぐさま思い返し解析して意味を理解し、体面を取り繕った。

「ん、ごほん。私くらい生きてれば、当然そのくらいは、まあ経験してないといけないわね」
「そ、そうなんだ、へぇー……」

 それっぽくだが曖昧な言葉で格好つける紫に、天子はそれ以上何も言えずバナナをかじる。
 無関心を装う裏では、やっぱり紫の相手をするなら、そういった経験もないとダメなんだろうかと実は悶々としていた。
 珍しく落ち込んでいる天子に、紫は気付かず同じ質問を返す。

「そ、そういう天子はどうなのよ」
「私!? 私はその、まだキスもしたことないっていうか……」
「――っしゃあ!」

 少し迷った後で素直に白状した天子の答えに、紫は柄にもなく嬉しそうに振袖を揺らしてガッツポーズを決めた。

「何よその態度!? 私が未経験だからって勝ち誇ってー!」
「おほほほほ、なんでもないわ、ありませんわおほほほ」

 腹の底から出てきた歓声が天子の癪に障ったらしいが、それよりも紫は袖で抑えた口元から嬉しそうな笑い声を響かせる。
 その光景を眺めていた衣玖は「お前らキスもまだなんかい」と口から出てしまうのを抑えるので必死だった。

「あっ、あれ……」
「どうした橙? 何か欲しいものでもあったか?」

 バナナを食べながら境内を練り歩き始めた一行だったが、橙が興味深気な声を上げたことで立ち止まった。
 藍が橙の視線の先を追って目を向けてみれば、金魚すくいと書かれた文字が。

「獲物が沢山……」
「わー! 目が妖獣のそれになってるからすぐ離れなさい! 耳隠せ!」

 肉食獣の本能が疼き、頭からネコミミが出掛けている橙を、藍は引っ張って屋台から引き離した。
 だが橙だけでなく、天子もまた金魚すくいの屋台を見つめて何か考え込んでいる。

「うーむ、金魚ねぇ」
「やるんですか? 総領娘様がこのような繊細な生き物を飼えるとは到底思えませんが」
「そんなの私もわかってるわよ。ただせっかく外界にまで来たんだし、形に残るものを手に入れて帰るのもいいんじゃないかって思うのよ。紫だって、こんなところで買えるものにケチは付けないだろうし」

 あまりにも進化しすぎた道具を幻想郷に持ち込むことに関して、紫はいい顔をしないだろう。
 だが正月の屋台で手に入る道具などたかが知れている、それくらいなら紫も見逃してくれるはずだ。

「ふーん、まあほとんど食べ物屋ばっかりですけどねモグモグ……」
「……あんたさっきから何食べてるの? バナナはもう食べ終わってたわよね?」
「紫さんに買っていただいた焼きそばを」
「あー、一人だけずるい!」
「欲しいならあなたのお金から出しなさい」
「クッ、その手には乗らないわよ」
「別に何の手もないですが」
「私が挑むべき標的はアレよ!」

 急いで二本のバナナを食べ終えた天子が指差したのは、金魚すくいと同じように水槽の中に色とりどりの玉が浮かばされた屋台だった。
 衣玖の視線が、屋台に書かれた文字をなぞる。

「スーパーボールすくい? これを掬うんですか?」
「掬ったのはそのまま貰えるようよ、外界まで来た証として現物ゲットよー!」
「これ持って返って良いんですか紫さん?」
「まあそれくらいなら……どうせすぐ失くすだろうし」

 紫たちの言葉を無視して屋台の前に踏み出した天子は、すぐさま店主に代金として三百円を渡して、ボールを水から掬うためのポイを貰う。

「とりゃあー!」

 掛け声とともに水に突っ込まれたポイは、ボールとぶつかって一瞬で穴が空いて使い物にならなくなった。

「終わった……」
「清々しいまでの自爆でしたね」

 一瞬で三百円が消えてしまう悲劇に、天子は道の端で地面に手を着いて見るからに落ち込む。
 そんな天子に紫が近づき、小さな肩を優しくポンと叩いた。

「うふふふふふ、そのまま四つん這いで足を舐めてご主人様と言えばお金を融通してあげないでもないわよ」
「更に欲望悪化してるし!」

 しかしこれくらいのことで慰めるほど甘い関係ではないし、妖怪の賢者に容赦はなかった。

「そんな人としての尊厳捨てたような真似、絶対にしないわよ!」
「天子、あんまり騒ぐな。お前の声が結構遠くまで聞こえてるぞ」

 天子たちがスーパーボールすくいに夢中になっているうちに、いつのまにか離れていた藍と橙が、人混みをかき分けて戻ってきた。
 しかし橙が両手に幾つもの人形やお菓子を抱えていたことに気付き、紫は腰を屈めて目線を合わせながら尋ねる。

「あら、橙そんなに一杯抱えてどうしたの?」
「えへへ、紫様からのお小遣いで輪投げしたんです! 人形とかお菓子とか一杯手に入れました!」
「もらった輪っか、全部入れちゃうんだもんな。橙のやつすごいでしょう」
「ゆ、紫の下僕の下僕に負けた……」

 橙の頭を撫でて褒めてあげていた紫の背後で、プライドを打ち砕かれた天子がゆらりと揺らいで衣玖に支えられる。

「ところで、いつまでも屋台で暇をつぶしてないで、そろそろ本題の方を果たしましょうか」
「本題?」

 手を離して立ち上がった紫に言われ、落ち込んでいた天子も気を取り直す。

「そもそも初詣に来たんでしょうがおバカさん」
「バカって言うな! 忘れてないわよそのくらい!」

 紫に趣旨を正され、一行は神前へと続く列に並ぶことにした。

「けっこう行列ですねー藍様」
「橙、はぐれないようにちゃんと手を繋いでおこうな」
「うぷ、電波酔いしそう」
「ちょっと衣玖大丈夫?」
「あまりに酷いようなら、周りの人間を遠ざけるくらいのことはできますよ」
「紫さんお構いなく、まだ大丈夫です」

 参道には元旦だけあって大勢の人が列をなしており、神前にまで辿り着くまでそれなりの時間がかかりそうだった。
 待ち時間の内に、紫はスキマから五百円と書かれた貨幣を取り出して、全員に一枚ずつ渡しておく。

「それじゃ先にお賽銭を渡しておくわね。天子、こっそり額の小さい硬貨と交換したりしちゃ駄目よ」
「そんなみみっちい真似しないわよ!」

 ちゃっかりこの気にからかう紫と騒ぐ天子に、周りの藍と衣玖は苦笑を漏らす。
 一方、橙は初詣でのお願いごとに頭を悩ませていた。

「うーん、神様へのお願い、何にしようかな」
「お願いするだけじゃ駄目だぞ橙、こういうのはちゃんと自分自身も努力することで」
「ハイハイ、堅いこと言うの禁止よ藍。神様へのお願いなんて気楽にやるものだし、自由にやらせてあげなさいな」
「衣玖はもう決まった?」
「ありきたりですが、健康祈願にしようかと。あまりひねるのも得意じゃありませんから」

 何度も話しかけては橙に悪いということで、一行はしばらく口数を減らすこととする。
 しばらく黙っていたあと、神前の鈴の音が近くなった頃に紫が改めて天子に話しかけた。

「天子は決めたかしら?」
「うん、最初から決まってる」
「でしょうね。あなたはいつも自分の願いには素直だから」

 予想を確かめて、紫は微笑を零す。
 根本的な部分では決してぶれない天子の姿勢に励まされるようにも感じる。

「紫は?」
「まだ少し、悩んでるわね」
「紫は私と違って大切なものが多いからねー」
「そういうことよ」

 天子と比べずとも、紫が背負っているものは圧倒的に重い。
 幻想郷とそこに住まう全ての存在が、紫にとって大切なものなのだ。

「……紫、その大切なものの中に、私が入ってるなら、省いていいわよ」

 そのことがわかっているからこそ、天子はそう言った。
 目を丸くした紫が振り向くが、優しげに微笑んできていた天子に安心させられ、静かに目を伏せた。

「……そうみたいね」

 やがて列が進み、天子と衣玖の二人が二列になってお賽銭を投げ入れ、神前に並んで結び付けられた二つの鈴を鳴らして二度のお辞儀をすると、拍手を響かせた。
 彼女たちが一礼して神前から離れると、次に藍と橙が同じように倣い、橙は早く一人前の式になれますように、藍は紫様の普段のグータラがマシになりますようにと願う。
 最後に紫が二拝二拍手一拝にて、深く願いを心で唱えた。神様へのお願いというよりも、自分自身に刻みつけて。
 神前を後にした紫は、先に移動していた家族と合流したのだが、その脇には一緒に来たはずの天子と衣玖の姿がなかった。

「藍? 天子たちはどうしたのかしら」
「ああ紫様、私たちを待たずどこかに行ってしまったようで」
「はあ、あの子ったら。何かするつもりね」

 恐らく、紫を待たずに消えたのは後ろめたい理由があるからだろう。
 紫の言動にそれを察した藍は、表情を固くし紫に意見を求める。

「いかがなさいますか?」
「そうね、とりあえず見つけ次第、軽く小突いて釘を……ハッ!?」

 その時、立ち並ぶ屋台の中にあるものを見つけて紫の顔が驚愕で染まった。
 色づけされた板状の菓子を爪楊枝などでくり抜く遊戯、型抜きである。
 それはかつては縁日でよく見かけるものであったが、近年その数を減らし続けており滅多にお目にかかることが出来ない。
 いっそ完全になくなって幻想入りでもしてくれれば、幻想郷で思う存分楽しめるというものなのに、幻想入りしそうでしてくれない、地味にしぶとく残り続けているおかげで中々楽しむ機会に恵まれない。
 一部の店では商品として販売されており、それを購入すれば家で楽しむことができるがそれは邪道だと八雲紫は考える。
 やはり型抜きは祭りの空気の中で、景品を賭けて挑んでこそである。
 それがいま眼の前にあるという事実に、紫は雷に打たれたかのように硬直していた。

 やりたい――久しぶりに型抜きしまくりたい――!!

「ま、まあせっかく正月なんだし、少しくらい大目に見てもいいかもしれないわね! それよりも私たちも楽しみましょう」
「えっ、さっきと言ってることが逆……」
「フフフ、型抜きのマドンナと言われた八雲紫の実力を見せてあげるわ」
「紫様? 紫様ー!?」



 ◇ ◆ ◇



「せっかく来たのに、このまま普通にお金を使いきって終わるっていうのも呆気なさ過ぎてつまらないわ」
「はあ、それで、これですか」

 天子に連れてこられた衣玖の先にあったのは、大きめの銃からコルクの弾丸を空気圧で飛ばして景品を倒す、オーソドックスな射的屋だった。

「オジサマ、一回やるわ!」
「はいよ、三百円で五回撃てるよ」

 銃を手にとった天子は、銃弾を詰めて意気揚々と獲物を狙う。

「狙いはあの一番でかい箱よ!」

 銃口の先にあったのはPS4と書かれた、ひときわ巨大な代物が鎮座していた。
 明らかに他のお菓子などとは違う雰囲気に、衣玖が意図を問いただす。

「あんなもの手に入れてどうするんですか? 持って帰るにも、紫さんが許さないかも」
「持ち帰るんじゃなくてこの場で売るのよ。相場はわかんないけど、あんな重々しそうな景品、食いつく奴はいるでしょ」
「うわー、姑息」

 確かに上手く行けば遊ぶ金を稼ぐことができるかもしれないが、そう予想通りに事が運ぶとは衣玖には思えない。

「でも、そもそもこんな鉄砲モドキで倒せるような品とは」
「なーに、さっきのボールすくいで思いついたのがね」

 ニヤリと裏のある笑みを浮かべた天子は、まずは様子見として普通にコルク弾を発射した。
 両腕で押さえられた銃から、空気圧によってコルクが放たれて、狙いの通り目標である箱に命中した。
 しかしその重量の前にあえなくコルクは弾かれてしまい、その場に鎮座する箱はびくともしない。
 それもそのはずだ、本来の重量だけでもこの空気銃で打ち倒すのは不可能だが、それだけでなく万全の容易として箱の背後には木製の支えが用意されており、絶対に倒れないように細工されているのだ。
 無謀な客の前で屋台の親父は意地の悪い笑顔を投げかけるが、この客が最悪の不良娘であることにまだ気付いてはいない。

「やっぱり無理なんじゃ。絶対取らせる気ないですよ」
「ここからが本番よ!」

 再度銃口にコルクを詰めた天子が、両手で銃を構える。
 念入りに狙いが定められ、天子の右手の人差し指がトリガーに掛かる。
 しかし銃口の弾丸に、緋色の霧がまとわりついているのに気が付き、衣玖は驚きの声を上げた。

「あっ!」
「行っけー! 全屋台の緋想コルク!」

 緋いコーティングがなされたコルク弾が飛び出した。
 気質による強力な後押しを受け、コルクは空気を割って破裂音を響かせると、目にも留まらぬ速さでまっすぐ箱に飛び込んだ。
 だがあまりに強い力を付与されたコルク弾は、段ボール製の箱を容易に貫き、その内部の本体と背後に合った木製の支えまで粉々に打ち砕く。
 あとに残ったのは、ポッカリと風穴の開いたPS4のパッケージだけであった。
 一瞬で行われた惨劇に、誰もが目を丸くし、屋台の親父からは言葉にならない声が漏れる。

「な、ななな、なぁー!?」
「やっべ、やり過ぎた。逃げるわよ衣玖!」
「……あ、総領娘様!」
「あっ、ガキンチョ、テメエ何やった!?」

 怒声が飛ぶが、天子は衣玖の手を引いてあっという間に人混みの中に消えていってしまった。
 今の破壊音で立ち止まって屋台の様子を見ているものも多いが、依然として行き交う人々は多く境内は混雑しており、簡単にその場から逃げられた。
 その音は型抜きをしていた藍たちのもとにも届いていた。

「い、今の爆音は……紫様、天子のやつじゃ!?」
「ちょっと待って! あと一回! あと一回だけだから!」
「むうう、難しいです紫様……」
「橙、力を入れすぎたらダメよ。まずは精神を集中して……」
「紫様はもうそれで五つ目じゃないですか! 橙ももう止めなさい!」

 止めてくれるものもおらず、射的屋から逃げ出した二人はそのまま境内から抜け出て、神社の隣にあった公園にまで辿り着いた。
 多くの子供達が声を上げてはしゃぐのを眺めながら、天子は一息つく。

「ふー、威力調整ミスっちゃったわ」
「はぁー、はぁー、そもそもズルしないでくださ……うぷっ」

 そう長い距離を走ったわけでもないのに、顔色を悪くして口元を抑える衣玖に、天子はギョッとして丸まった衣玖の背中をさすった。

「どうしたの衣玖!?」
「うぅ、電波だらけの中を走ったから、酔いが……」
「仕方ないわね、そこで休みましょ」

 開いていたベンチに衣玖を座らせると、天子は袖にしまっていたお金を取り出して手の平に並べた。
 百円玉の硬貨が二枚。外界の物価はよく知らないが、屋台の商品を見る限りあと一つくらいは何か買えるだろうう

「衣玖はここで休んでなさい、飲み物でも買ってきてあげるから」
「いいんですか……? もう残り少ないのに」
「あんたのためにお金を使わないほどケチじゃないわよ。いいからジッとしといてよね、私には紫みたいな目もないんだからはぐれたら困るわ」

 そう言って天子は一人で神社に入り、飲み物を売っている屋台を見つけ適当なものを購入する。
 これが自分で飲むためならどれにするか悩むところだが、実際には具合の悪い衣玖が飲むもののため無難にお茶を選んでおいた。
 そうして衣玖の元へと戻ってきたのだが。

「……で、何でこうなってるの」

 お茶を片手に立ちすくむ天子の前では、ベンチのそばで五、六歳くらいの少年たちに囲まれる衣玖の姿があった。

「なんというか、場の流れというか。あでででで、耳引っ張らないで下さい」
「イクねーちゃんでけー! おっぱいでけー!」
「コラ、ショウくん。そんなはしたないこと言っちゃ、女の子に嫌われちゃいますよ」
「イクねーちゃん、おっぱい揉んでみていい?」
「コウくん、ダメです……あっ、勝手に触っちゃメッですよ!」
「メッチャ遊ばれてるわねあんた」

 遊ばれているというよりもセクハラされまくりである。
 子供のやることだしと衣玖は笑って許しているが、もっと強く言った方がいいんじゃないだろうかと天子は思う。とは言え自分がやられているわけでもないしそこまで口出しはしない。
 ただ衣玖を取り囲む四人の少年の中に、一人だけ衣玖の服の裾を掴んで静かに泣いている子供がいるのが気になった

「それよりあんた酔いは大丈夫なの?」
「休んでだいぶ良くなりましたし、この子たちは電波出している子が少ないですから」
「何言ってんのよ、まだちょっと顔色悪いわよ。これ飲んで大人しくしてなさい」

 天子は緑色のラベルが張られたペットボトルを衣玖に投げて寄越す。
 子供たちに退いてもらって衣玖はベンチに座り直したが、そのことで子供たちの興味が天子に移ったようだ。

「イクねーちゃん、この人だれー!?」
「この方は私の仕事の上司みたいなものですよ」
「上司? ってことは衣玖ねーちゃんより年上?」
「でもスッゲーチビ! おっぱい小さい!!」
「悪かったわね貧乳で!」
「それはそれであり……!」
「シンくん、若い頃から好みが捻れてると後々苦労しますよ」

 幼いだけあってかなり生意気な子供たちのようだ。

「上司でもイクねーちゃんより弱そう! おっぱいちっさいし!」
「脳ある鷹は爪を隠すもの、この比那名居天子様を舐めてると痛い目を見るわよ」
「変な名前、ダセー」
「うちの近くにも天使ちゃんっているけど、パパとママが変な名前の子とは仲良くするなって言ってた」
「ふふん、私のは由緒正しい名前だから問題無いわ。で、実際のところどうしてこうなったわけ?」
「それが、こちらの子が羽根突きで負けて泣いていたので、慰めたところ他の子にまで懐かれまして」
「ふーん」

 今も衣玖の服の裾を掴んで泣いている子供が原因らしい。
 よく見れてみれば、衣玖の身体で隠そうとしている頬に、墨でバッテンが描かれているのが見えた。
 天子は腰をかがんでその子供と目線を合わせると、試しに話しかけてみた。

「どうしたのボク、負けて悔しいの?」
「ひっぐ……ちがぐっ……!」
「どうやら顔に落書きされたのが嫌らしくて」
「なーるほど、ならこの天子様に任せなさい! 筆は?」
「筆というか、このまじっくぺんと言うもので描かれたらしいですが」

 衣玖から受け取った黒い棒状のものを天子は調べ、蓋をとった下にペン先を見つけると泣いている子供の頬に向けた。

「えっぐ、えっ、えっ!?」
「何する気ですか?」
「大丈夫よ任せなさいって、あんたも動くと墨が眼に入るわよ」

 軽く脅かして子供の動きを止めた天子は、慣れた手つきでペンを走らせる。
 子供はビクビクと怯えて震えていたが、気にせず天子は何かを描き終えてペンは離して蓋をした。
 バッテンの反対の頬に描かれていたのは、今にも動き出しそうなほど命の息吹を感じる猿の絵だった。

「おぉー!」
「スッゲースッゲー! ほっぺたに猿がいる!」
「芸術……!」
「ひっぐ、なにっ……?」

 それを見た他の子供からは歓声が上がり、雰囲気が明るくなったことで泣いていた子供の心も落ち着き始めた。

「すごいですね、そんな特技があったとは」
「ふっふーん、天人様を舐めるんじゃないわよって話よ。筆と使い心地が違って面白いわねこれ」
「なー天子ねーちゃん、オレにも描いてよ!」
「ボクにも!」
「なら、まずは羽根突きで勝負よ! 板を持てーい!」

 調子づいた天子が、子供たちを引っ張り始める。
 いつも騒ぎを起こしてばかりの天子だが、こういう場面では意外と頼りになるんだなと、衣玖はのんびり考えながら、ペットボトルの開け方について苦戦していた。



 ◇ ◆ ◇



 一方紫はと言うと。

「紫様! いい加減それくらいで止めましょう! もう十回もしてるじゃないですか!」
「後一回……いや三回だけでいいから!」
「何で増えてるんですか!? ほら、屋台のおじさんも困ってますから、行きますよ!」

 まだ型抜きをやっているところを、藍に無理矢理連れて行かれているところであった。
 藍は話し込んでも邪魔にならなさそうな境内の隅にまで、恨めしい声を上げる紫を引っ張り出す。

「くぅ、せっかくの型抜きが~」
「いいか橙、お前はこういう風にはなるなよ?」
「は、はあ……でも紫様、遊んでばっかりいていいんですか?」

 紫が型抜きの景品として手に入れたお菓子を抱えた橙が、心配そうに尋ねた。

「紫様っていつもこの時期は寝てたのに、無理して起きてるのは天子と一緒にいたかったからじゃ?」
「ふふ、心配してくれてありがとう橙。でも離れている時間もあるからこそ、一緒にいる時間を大切にできるもの。各々が好きなことをするのも大事なのよ」
「とかなんとか言って、紫様がヘタレなだけじゃないですか」
「ちょ、藍!」

 藍の指摘に、紫が焦って声を荒立てる。

「恥ずかしいのはわかりますが、紫様は奥手過ぎます。攻めれるときに攻めるべきですよ、バッと襲って唇の一つでも奪えば良いんです」
「で、でもその、天子に引かれたり……」
「ちょっと攻めたくらいで引くようなヤワな娘じゃないでしょう。紫様は本当は天子とどうしたいんですか?」
「どうしたいかって言われれば、四六時中天子のこと束縛して傍に置いておきたいとか」
「す、すいません、ちょっとストップ」

 思った以上に黒い欲望が流れてきて、思わず藍は顔を伏せて紫の話を遮った。

「でも天子のことだから、そんなことしたら反発されるのは目に見えてるわ」
「まあさっきのことは無理だとしても、もっと親密な仲にステップアップできますよ。もう少し勇気を出してみればどうですか?」
「……そうね、試してみるわ」
「頑張ってください紫様!」

 寝起きのキスのことを思い出す。次は氷じゃなくて、本物の唇で起こしてもらいたい。
 念願を叶えるため、紫は決意を手を握り締めて自身の胸に当てた。

「それで今天子はどこに」
「どうやら隣の広場でそこら辺の子供と遊んでいるみたいね。こっちよ」

 スキマを利用し、一瞬で天子の状況を把握した紫は藍と橙を引き連れて境内を抜けていく。
 人の群れをかき分けて着いた先では、紫の言った通り子供と羽根突きをしている天子の姿があった。

「よっし! また私の勝利!」
「また負けた……!」

 最初は天子に絵を描いてもらいたがっていた子供たちだが、あんまりにも天子が羽根突きで強すぎるため、段々と天子打倒を目的とし始めていた。
 しかしながら子供たちは全員敗れた後であり、ひとりひとりの顔には勢いのある干支の絵が描かれている。

「みんな負けちゃった……」
「お前のドラゴンカッケー! オレも羊じゃなくてそっちが良かったなー!!」
「なー、誰か勝てるやついないの?」
「大人気ないですね、天人が本気出したらそこらの子供が勝てるわけないじゃないですか」
「獅子は兎を狩るのにだって手を抜かないのよ」
「また都合のいいことを言って」

 あまり趣味のいいこととは思えないが、子供たちもそこまで困っている訳でもないし衣玖も強くは言えない。
 止めるものもおらず、段々と天子の鼻が伸び始めていた。

「ふははははは、次は何を描いてやろうかしら!?」
「つっても俺ら、みんな顔中絵だらけで描くスペースねーよ」
「なら私が挑んでみようかしら」
「わひゃあ!?」

 背後から音もなく忍び寄っていた紫が、耳元にそっと語りかけてきて、天子は思わず飛び上がって距離を取った。

「またお山の大将を気取って楽しそうねぇ」
「いきなり耳元に息吹きかける喋り方すんな!」

 現れた紫は、先程までの醜態はどこへやら、努めて威厳を湛えた妖怪の賢者らしい不気味な雰囲気に満ちていた。

「ふふふ、子供たちに迷惑かけてるような輩には私自ら天誅を下しましょうか」
「さっき紫様は大人の人たちに迷惑かけてたような……」
「橙、これは好きな子にカッコつけたり意地悪したくなるアレだ。不器用なだけだからあんまり気にするなよ」
「フッ、上等! どうせしゃしゃり出てくると思ってたわ、こっちはもうウォーミングアップ済みよ!」
「てんしねーちゃん、こいつ誰だ!?」

 天子と遊んでいた四人の子供のうち、ショウという名前の、一番活発な子が天子に尋ねた。

「私の永遠の宿敵、ストーカーのスキマババアよ」
「失礼ね、見守ってると言いなさい」
「訂正するところそこなんですか」

 紫はさきほどまで天子と羽根付きをしていた貧乳好きのシンくんに近づき、腰を屈めてシンくんの持っていた羽子板に手を伸ばした。

「それでは、この羽子板をお借りしますね」

 その時シンくんの目に見えたのは、振袖の上からもその巨大さが十分わかるほどの威圧感をたたえた、暴力的なまでのおっぱいだった。

「巨乳もいいかも……!」
「あっ!? 私の下僕一号が!」
「勝手に下僕扱いしちゃメッ! ですよ」
「子供と同列扱いになってるんだけど!?」

 羽子板を持って向かい合う天子と紫の邪魔にならないように、藍たちはシンくんを連れてベンチに座っている衣玖のそばにまで避難することにした。

「なんかまたややこしいことになったなあ……」
「まあ、イケイケな状態の総領娘様と紫さんが揃った時点でこうなるのは必然といいますか」
「紫様、天子と喧嘩するの好きですよね」

 結局、激突は免れないらしい。
 とは言っても所詮は羽根突き、特に問題はないだろう。

「オラア!」

 先行の天子が緋い霧を振りまきながら羽根を飛ばすのを見るまでは、衣玖たちはそう思っていた。
 放たれた羽根は一直線に紫の顔面を狙って飛来し、危うく衝突しかけたところで、紫の持っていた羽子板で防がれた。
 羽子板の表面に展開されていた結界が羽根を反射し、羽根は強烈な力の激突に耐え切れずバラバラに砕け散ってしまった。
 紫は防御に使った羽子板を下げて目元を見せると、天子を睨みつける。

「……また姑息な真似をしてくれるわね」
「チッ、防がれたか」

 舌打ちする天子の羽子板には、気質による緋いコーティングがなされていた。
 今の一撃も、射的屋でやったのと同じように気質を付与して攻撃力を強化したのだ。
 常識外の出来事が一瞬の内に起こり、子供たちは口を半開きにし、呆然とした表情でいる。

「えっ、あれ、ボクの羽根は……?」
「心配ご無用、代わりならこちらにありますわ」

 羽根突きセットの持ち主だった泣き虫の子供が涙目で嘆いた時には、紫の手元に新しい羽根が出現していた。
 だがその羽根から感じる妖力と重厚感は、幻想郷に住まう衣玖たちにはただの羽根ではないと一瞬で理解できた。

「昔、萃香と羽根突きした時に用意した特別頑丈な羽根よ。これなら手加減抜きでやれるわ」
「ビシビシと殺気叩きつけてきやがって、随分とやる気じゃない」
「不意打ちで仕留めきれなかった代償を、甘んじてその身で受けるがいいわ……そいやぁ!」
「なろぉ!」

 天人と大妖怪の苛烈な争いが勃発し、公園の一部があっという間に魔境へと変貌する。
 羽根を返す板の一打一打が衝撃波を産み、周囲の空間を揺るがす。
 暴風が荒れ狂い、小さな砂嵐が巻き起こり、ギャラリーの髪の毛がさらわれる。

「羽根突きってなんだっけ……」

 子供たちはおろか、衣玖たちもこの争いには何も手出しできず傍観するしかなかった。

「そこよ!」
「ぐぬっ!?」

 紫の打ち返した羽根が、天子の脇腹に突き刺さり、苦しそうな声が上がった。
 地面の上に転がる羽根を前にして、天子は攻撃を受けた場所を押さえて膝を突く。

「くぅ、今のでアバラが逝ったわね……!」
「あっ、よく漫画で出てるセリフだ」
「オレ、空手の先生にホントにアバラが折れたら痛くて動けないって聞いた」
「じゃあウソだね、ウソなんだよね」
「衣玖はどっちだと思う?」
「痛みをやせ我慢してる感じからしてマジですね」
「おかしい、藍様とした羽根突きはもっと和気あいあいな感じだったのに……」
「ふふふ、それでは勝者の特権として、その顔を綺麗にしてあげようかしら」
「クッソー、さっさとやりなさいよほら!」

 にじり寄った紫は、スキマから取り出したのだろう、いつの間にか持っていた筆で天子の頬に墨を塗る。
 目の下から黒の長い縦線が伸ばされた。

「一勝ずつ線を増やしていってあげるわ、さあどこまで増えるかしら?」
「ふんだ、すぐ紫の方を墨だらけにしてやるわよ! 次よ次!」
「まだやる気ですか」
「紫様も天子もしつこいほうだからなぁ」

 しかし天子の努力もむなしく、その後も羽根は天子の身体に突き刺さった。
 衝撃が貫通し、天人の肉体にすらダメージを与え、攻撃を受けるたびに天子の悲鳴が上がる。

「だからそういう遊びじゃないですって!」

 そんなツッコミが飛ぶもゲームは続き、天子の頬に負けを表す横線が引かれていく。
 だが天子は持ち前の粘り強さを発揮し、一歩も引かず羽根突きを続けた。
 せめて一矢報いたい。ただの一度の逆転を狙い、辛抱強く羽子板を振るう。
 そして五本目の線が引かれた後、絶好の狙い玉が天子の前に来た。
 最高に打ちやすいタイミング、ここしかないと天子は渾身の力で羽子板を振りぬいた。

「よっしゃ、死ねぇ紫ィ!!」
「甘いわね天子!」

 しかしそれは大振りを誘って隙を作らせるために、あえて打ちやすく返した紫の罠だった。
 来るとわかっていればいかな豪速球とて怖くはない、紫は冷静に羽根を返そうと羽子板を構えた。
 だが飛び込んでくる羽根の向こうで、今まで攻撃を受けながら散々暴れていた天子の振袖が方からずり落ちた。
 その下から現れた柔肌に、紫の動きが硬直した。

「み、見え……ほばぁ!」

 打ち返された羽根は紫の顔面を強打し、鼻から溢れた血が宙を舞う。
 そのまま倒れこんだ紫の上に羽根が落ちるのを見て、天子は大声を上げて飛び跳ねた。

「やった、勝ったー!!!」
「ちょ、総領娘様、前隠して!」
「やっぱり貧乳がイイ……!」

 実力で勝てたわけでなく、紫の自滅という形だが、何にせよ勝ちは勝ちである。

「くぅ、油断してしまったわ」
「さあて、何を書いてやろうかしら。そうねぇ……ほぅら、筆よこしなさいよ筆!」
「仕方ないわね……」

 崩れた振袖を直した天子が詰め寄る。。
 紫はハンカチで鼻血を拭いて立ち上がると、邪悪な笑みを浮かべる天子に渋々と筆を渡した。

「ふはははは、今までのをチャラにするくらいの書いちゃうわよ!」
「何を書く気よ!?」

 天子の手が素早く動き、あっという間に紫の頬を黒く染めていく。
 最初は紫の左頬をなぞっていた筆先は右頬に移り、何かを書き進めていった。

「これで完成!」
「ちょっと一度に書きすぎじゃないかしら? 一体何を」
「あっ、今は見ちゃダメ!」

 スキマから鏡を取り出そうとして紫の手を、天子が咄嗟に押さえ込んだ。

「帰ってからのお楽しみよ」
「何書いたのよあなた」
「ほほぉー、これはこれは」
「まあ薬にはイイかもしれませんね」
「お似合いです紫様!」
「えっ、本当に何書いたの」

 天子の言葉とは反対に、藍たちから妙に好評なことに紫に不安が渦巻いてくる。
 同じように子供たちからは「このてんこって誰のことー!?」という言葉が上がっていることから、文章でも書いたのだろうかと推測できたがそれ以上のことはわからなかった。

「それよりもよ、せっかく正月の神社に来たんだしアレやっていきましょうよ!」
「アレ? アレって何ですか」
「衣玖は察しが悪いわね、おみくじよ」
「あっ、私も引きたいです!」

 話を逸らそうと天子から上がった提案により、遊びはここまでにして再び神社に向かうこととなった。
 子供たちに羽子板を返す。羽根については壊してしまったので、代わりに紫が取り出して使っていたものをプレゼントした。

「てんしねーちゃん、また遊べる!?」
「なら、また来年にね」
「うん! 約束だぜ!」
「イクねーちゃん、そん時はまた胸揉ませて」
「だからダメですって」

 最後に「バイバイ」と控えめに手を振っていた涙目の子供に天子が大きく手を振り返して、一行は公園から去っていった。

「紫、私もうお金なくなっちゃったから出してよね」
「はいはい、まああなただけ除け者っていうのも可哀想だしね」

 紫にお金を払ってもらい、全員がおみくじを引いた。
 箱を軽く振ってみくじ棒を取り出し、そこに書かれた番号のクジを整理箱から受け取る。
 最初にクジを開いた橙は、眉を寄せて残念そうな顔をした。

 凶 夢の実現まで道遠し、辛抱強さが必要。諦めず努力を怠らぬべし。
 就職 身近にあり
 学問 実り多し
 家庭 安息

「うぅ~、凶かぁ~」
「まあそう落ち込むな。人生楽あり苦あり、それをどう活かすのかが肝要さ。今年一年が悲惨でも、百年後には橙を助けるかもしれないよ」
「頑張ります……あっ、藍様はどうでしたか?」
「吉だ。私は問題なく過ごせそうだから、そのぶん橙を支えてあげられるよ」
「橙さんの後ろには、いつも藍さんがおられますから安心ですね」
「衣玖さんはどんな感じですか?」
「小吉ですね、可もなく不可もなくと言ったところですか。しかし周囲に振り回されると書かれてて不安というか」
「いつもどおりですね!」
「子供の無邪気さは時に痛い……」
「わ、悪気はないんだ悪気は……」

 互いに内容を語りあい、今年一年の運勢を楽しみ合う。

「紫様と天子は?」

 橙の振り返った先には、勝ち誇るように大きな胸を張っておみくじを見せる紫と、憂鬱そうな顔で歯ぎしりする天子の姿があった。

 大吉 向かうところ敵なし。しかし油断大敵。
 争事 連勝なれど珠に瑕あり
 待人 すぐ近く
 恋愛 道険し

 大凶 苦痛多し。苦難多し。しかし望みは零れない。
 願望 現状維持
 争事 負けばかりだが勝ちもあり
 恋愛 楽しい

「プフーッ、天人様が大凶だなんて、今年一年も楽しそうで羨ましい限りですわ」
「うるさいわー! 何よこんなおみくじで威張り散らして!」
「あらー、すぐそばにいる人が勝手に落ち込んでるから、対比でそう見えるだけよ」
「落ち込んでなんかないわよキー!」

 両手の握り拳を振り回す天子の顔に、笑いを堪えた表情の紫が押さえ手を伸ばしてこむ。
 腕の長さで劣る天子の拳はどれもスカして紫には届かなかった。

「よくまあ、運勢一つであそこまで騒げますね」
「紫様も天子が相手だと元気になるなぁ」
「藍様、このおみくじはどうすればいいんですか?」
「そうだな、持って帰ってもいいし、都合が悪い内容ならここの境内に結びつけるのもいい。持って帰った場合も、いつかは神社に納めないといけないがな。私は一度持ち帰ってから、博麗神社にでも納めに行くよ」
「藍さんがそうなら私も帰ってから……いや、やっぱり今もう結んでおきましょう。あの巫女がそういう仕事をちゃんとやってくれてるか不安です。内容もアレですし」

 衣玖と橙は更なる加護を願って、神社に植えられた木におみくじを結びつける。
 すでに結ばれた幾つものおみくじで白い花を付けていた木が、また少し重くなるのを眺めながら、紫は天子に話しかけた。

「あなたは結ばないのかしら?」
「そうねぇ……」

 天子はもう一度自分のおみくじを確認する。
 苦痛多し苦難多し、負け続きの一年など普通なら御免被りたいはずだが。

「やっぱりいいわ、今日のところは持ち帰ることにする」
「あらあら、教訓にでもするのかしら?」
「茶ー化ーすーな。そんな真面目ちゃんじゃないわよ、ただ平坦な一年よりかは大凶の方がまだ面白い、苦痛苦難どんと来いよ。それに……」

 その苦痛苦難として立ちふさがるものが紫であるならば、納得できる。

「いや、なんでもないわ」

 とは言え、傲慢な天子には、負けてもいいなどと口にはできず言葉を濁した。
 しかしその態度から何かを感じ取った紫は、にこやかな顔でそっと天子の手を握った。

「何よこの手は?」
「うふふ、なんだか嬉しくなっちゃって」
「もう、何よバカにしてくれちゃって」

 口では悪態をつきながらも、天子はしっかりと手を握り返して、身体を預けてくれた。
 紫は思った。もし天子に試練が与えられるならば、それは自分であればいい。
 敵として立ち塞がり、一番彼女の心を引き出せる存在は、自分であると自負している。
 そして天子もそれを受け入れてくれている、そのことについ手が出てしまうほど胸が高鳴った。

「おや、総領娘様方の方を見て下さいよ」
「ほほう、中々いい雰囲気だな」
「とっても楽しそうですね」

 その様子を見た者たちも、和やかな空気に当てられて胸が温まる。
 やがて三人の気持ちは自然と同じになった。

「紫さん、そろそろ電波のないところでゆっくりしたいので、お先に帰らせてもらっても構いませんか?」
「えぇわかりました。すぐに人除けの結界とスキマを用意しましょう」

 言い終わった時にはすでに結界が展開されており、周囲の人々が己も気づかぬうちに紫たちの近くから離れていく。
 人の気が逸れたのを確認して、紫は自宅に続くスキマを開いて「どうぞ」と衣玖にくぐるよう促した。
 すると見計らっていたように藍と橙が揃って前に出て口を開く。

「紫様、私と橙も家でしなければならないことがあるので帰らせてもらいます」
「私たちはお構い無く、お二人は楽しんでてください!」
「あ、あらそう?」

 言うやいなや、二人は素早くスキマに飛び込んで、衣玖よりも先に帰って行ってしまった。
 呆気に取られる天子と紫を置いて、衣玖も軽く手を振って別れを告げるとスキマをくぐって消えてしまう。
 残された二人はしばし呆けたあと、顔を見合わせると苦笑をまじりにはにかんだ。

「気を使われちゃったみたいね」

 せっかく二人きりにさせて貰ったことだし、しばらく二人で散歩でもすることになった。
 神社の境内を抜けて、近くの川沿いの道をぶらりと歩き進める。
 土手には何組かの親子がタコ糸を手にして、青空に色鮮やかな模様を浮かべて楽しそうな声を上げていた。
 人の声は絶えないが、混み合っていた神社と比べれば随分と静かなものだ。

「いろんな凧が上がってるわね、綺麗なのもあれば幻想郷のやつみたいな古臭いのも」
「古いものがいいという人も一定数いるものよ」
「あんたみたい時代遅れのお婆さんとかね」
「えぇ、天子と違って物の価値がわかる女ですもの」
「ふーんだ、私だってそれくらいの感性は持ってるもんね」

 下らない言い合いをしていると、天子は紫から聞き忘れていたことがあると気が付いた。

「そう言えばさ、紫はさっきのお願い何にしたの?」
「幻想郷が末永く続きますように」
「ですよねー、そこは絶対譲らないわよねあんた」

 予想が当たっていたのか、天子は面白そうに喉を鳴らして笑い声を漏らす。

「そういう天子は何をお願いしたの?」
「うん? 私はね」

 紫から尋ねられた天子は、どこにでも行けるようなのびのびとした気持ちで青空を仰ぎ見た。

「またこうして大切なやつと一緒にお参りに来れますようにって」

 参拝前に天子が紫に自分のことはお願いから抜いていいと言ったのは、これが理由だった。
 天子自身のこと、紫のこと、そしてさっきまで一緒にいた衣玖たちのこと、全員分ひっくるめてのお願いだ。
 私のことは私がなんとかするから、紫は自分の心配だけしてればいいよという言葉だったのだ。

「それでね、来年もまた同じことお願いするのよ。毎年毎年繰り返して、百回になるまで続けるのよ、面白いと思わない!?」
「ふふ、おかしいわ、百年かけるお百度参りなんて聞いたこともないわよ」

 底抜けに未来に展望を抱く天子の姿が素敵に映って、紫は声を弾ませた。
 そんな紫に、天子は握り拳を作って紫の前に差し出す。

「だから紫、来年も宜しく頼むわよ」
「まったくしょうがないわね、目をつけてないと、あなたは何をするかわからないし」

 紫は素直じゃない言葉を吐きながらも、気持ちの上ではそれに応えて天子と拳を軽く小突き合わせた。

「さあって! 百回終わったら、その次はどんなお願いにしとこうかな」
「もう百年後の予定を立てるなんて気が早すぎよ……ふああ」

 クスクスと笑っていた紫だったが、突然あくびが込み上げてきて、口元を手で隠して目尻に涙を溜めた。

「紫、やっぱり眠たいの?」
「この時期はどうしてもねえ、帰ったら一週間くらいはぶっ通しで寝させてもらうわ」
「……ありがと、紫」

 紫の目の前でポツリと呟いた一言に、天子は気恥ずかしくなって顔を隠そうと紫の胸元に抱き着いて顔を擦り付けた。

「眠いのに無理してこうやって一緒にいて、私のわがままに付き合ってくれて。ありがと」

 本当はこんなことを言うのは天子には恥ずかしかったのだが、いつも迷惑かけてばかりだからこそ、言えるときには言っておかないと思ったのだ。
 本心からの感謝を受け取って、紫は安らかな顔で天子の頭を撫で下ろす。

「あなたこそ、こんな私を連れ出してくれてありがとう、天子」

 だが天子がその強引さを向けてきてくれて、紫にとっても幸せなことだった。
 倦怠感溢れるこの身を、持ち前の明るさで引っ張っていってくれる、楽しみを分け与えてくれる。
 十分に気持ちを伝え合うと、天子が抱き付いていた腕を離して距離を取り、おずおずと口を開いた。

「で、でもその、ホントに嫌だったら断ってもいいからね?」

 普段なら言わないような天子の弱音が紫の心に染み渡る。
 強気の裏に隠された部分を、二人きりの時には見せてきてくれることに、信頼されていることを感じて、紫には嬉しくてたまらない。

「本当に嫌なことまで無理してするほど愚かじゃないわよ。天子だってそうでしょ?」
「そりゃあ、私はそうだけど」
「なら私もそうよ。決まってるでしょう?」

 紫が親しみを持って天子の額を指で弾く。
 天子は少しヒリヒリする額を押させて「えへへ」と笑みをこぼした。

「だ、だけどその、朝のあれはその不満が残ったというか……」
「朝?」

 睡眠欲求の強い紫からすると、氷を持ちだしてまで無理矢理起こしたのは悪かったのだろうか。
 不安が芽生える天子に、意を決して紫が言い放った。

「な、なんでチューで起こしてくれなかったのかしら!?」
「ブッ!?」

 予想外の方向に話が飛んで、思わず天子の口から噴き出した。

「そ、そんなことで悩んでたのあんた!?」
「な、悩むと言ったほどじゃないけど、なんでかなーってつい気になっというかなんというか」

 珍しくしどろもどろに話す紫が、気持ちをごまかそうと自分の髪の毛を指で絡めとりくるくると回すように弄る。
 しかし真っ赤に染まった顔が、本気で気にしていると如実に物語っていて、つい天子も引っ張られて顔が紅潮する。

「いや別に、ノリで言っただけだから深い意味があったわけじゃないし、それに」
「それに?」
「わ、笑わないでよね?」
「なんでもいいから、何かあるなら天子からも教えて?」
「……は、初めてのキスは相手からして貰いたいなって」

 紫はしばし呆気に取られたが、やがて意識した唇を袖元で隠す。
 自分から天子に口付けする場面を想像して、思わず目を逸らしてしまった。

「い、意外にロマンチストね」
「もー、笑うんじゃないわよ!」
「笑ってるわけじゃなくて! じゃあ、それじゃあ、もし私からキスしたのなら、今度は天子がチューで起こしてくれるの!?」
「え、えぇ!? ちょ、なにトチ狂ったこと言ってんのよ!?」
「だってそれだけ残念だったというか!?」
「どんだけ期待してたのよ!?」

 軽い錯乱状態で暴走する紫が天子に詰め寄ってくる。
 驚いた天子が逃げる間もないまま、紫は天子の顎に指先を当てて持ち上げた。

「ちょ、紫」
「天子、そのままよ」

 身体をこわばらせた天子が、覚悟を決めてギュッと目を瞑る。
 しかし数秒ほど経っても変化は訪れず、疑問を抱いた天子が薄無を開けると、目を閉じた状態で口をすぼめて震える紫の姿があった。

「……紫、やっぱりあんた経験ないでしょ」
「へぁ!? い、いやそんなことは! ちゃ、ちゃんと経験者として天子をリードできるくらいには!」
「じゃあ早くしてよぅ」
「いやそのそれはその……うぅぅ……」

 ちょいと突けば図星だったのか、面白いくらいの慌てっぷりを披露してくれる。
 あげく「うぅ、なんて私はヘタレなの……」と頭を抱えて、天子に背中を向けてしまった。
 あんまりにもうろたえるものだから、それを見ている天子は逆に冷静になってくる。
 紫が格好つけのために嘘を吐いていたことに少し腹が立つことは確かだが、それよりも紫の可愛い一面を見れて口端に薄っすらと笑みが浮かぶ。
 いつもは隙のない紫の珍しい『弱み』を見せてもらえたことが、純粋に嬉しかった。

「ゆーかり!」

 明るい口調で名前を呼ばれ、咄嗟に振り返ろうとした紫の頬に、何か柔らかいものが押し当てられた。
 それが離れてしまった後、紫が驚いて天子を見ると、彼女は口元を押さえながら茶目っ気たっぷりの表情で笑いかけてくれていた。

「これはサービスよ、唇の方は来年までの宿題! ちゃんとこなしてよね先輩っ」

 からかうように言われ、ようやく今しがた起こったことを理解し紫の顔が燃えるように真っ赤に染まる。
 本来なら黙って固まるしかないところだが、恥じらいの裏から先を行かれた悔しさと嬉しさが混ざり合い背中を押した。

「なら、とびきりロマンスの溢れるキスで度肝を抜かせてあげるわ!」
「アッハハハ、言ったわね、期待してるだから!」

 両手を伸ばして先を歩く天子に、背中から掛けられた言葉はちょっとした宣戦布告。
 天子が与えた勇気が行わせたことは他人から見れば他愛もないことであるが、奥手な紫にとっては大きな一歩であった。
 今年一年がどうなるのか俄然楽しみになってきた天子が、そういえばこれを言っていなかったなと思いだして紫に後ろ腰に手を重ねて振り向いた。

「そうそう紫、明けましておめでとうございます!」

 寒空の下、西日を受けながら輝かしい笑顔が新年の挨拶を飾った。

「……あら、年を越した時に言ってなかったかしら?」
「言ってなかったわよ! 紫ったら、秒で寝ちゃったんだから」

 思いがけなかった言葉に、紫は目を瞬かせるが、それならこちらも挨拶を返さねば失礼だろう。

「明けましておめでとうございます、今年もまた一年宜しくお願いね天子」
「うん、宜しくお願いね紫!」

 お互いに言葉を交わしながら、来年も同じ言葉を言おうと思った。
 それを百回繰り返し、それが終わればまた百回繰り返そう。
 ずっとずっと、彼女と親しんでいようと決意をし、笑い合った。
「……………寝れない」

 初詣を終えて家に返って来た紫は、例年通りの冬眠に入ろうと布団にくるまっていた。
 しかし寝れない。いつもなら一瞬で寝付けるはずが、ギンギンに目が冴えていた

「天子が私の頬に……き、キス……きゃああああああああああああ!!!」

 布団を蹴っ飛ばし、寝間着をはだけさせながら畳の上を転げまわる。
 何度も何度も蘇ってくる、頬に当てられたあの柔らかい感触が、紫の意識を覚醒させていた。

「うぅぅ、ドキドキしすぎてぜんっぜん眠れないわ。ちょっと外に出て行こうかしら」

 紫はいそいそと着替えだし、天子の居場所をスキマから探る。
 どうやら今は永遠亭で折れた骨を見てもらっているようだ。ここでまた天子と出逢えば紫は悶絶死してしまうかもしれないが、今なら問題ない。
 とりあえず博麗神社にでも行って軽く酒でも飲んで気を落ち着かせようと思い、宴会が行われている境内に飄々とした態度で乗り込んだ。

「はぁい、正月から賑やかね霊夢」

 宴会には霊夢や魔理沙のような人間は元より、幻想郷の各所の妖怪が集まってきていた。
 スキマから突然現れた紫に一同は目が向けられる。

「……ぷふぅー!!」
「ぷっははははははは!!」

 なのだが、何故か紫の顔を見るなり、霊夢と魔理沙が笑い出してしまった。
 いや彼女たちだけではない、宴会に参加していた誰もが紫を見ると腹を抑えて笑い転げ始めた。
 爆笑渦巻く不気味な状況に、紫はまた妙な異変でも起きたのかと勘繰りだす。

「……どういう歓迎の仕方かしら? 人の顔見るなり笑い出して」
「ひぃー! ひぃー! だって紫その顔……!!!」
「顔? ……あっ!」

 霊夢に指摘され、そう言えば天子に落書きされたことを思い出して、紫は慌ててスキマから手鏡を取り出した。
 鏡に写った自分の顔を確かめてみると、頬にはただ一文だけが記されていた。

『天子愛してる!!』

 それだけの文章に、紫は鏡を持つ手を震えさせ、真っ赤に染まった顔からは冬場だというのに汗が滲み出始める。

「な、なななな……!」
「お熱いねー! ヒューヒュー!」
「きゃ……きゃあああああああああああああ!!!!」

 恥ずかしさから夢の中に逃げ込んだ紫が起きだすのは、春も終わりかけの頃だったという。



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 ゆかてんゆかてん! ゆかてんちゅっちゅ!(遅くなりましたが新年明けましておめでとうございます)
 ゆかゆかてんてんゆかてんてん(しかし前作が色んな意味で濃すぎて疲れたので、若干パワー不足が否めません、すみません)
 ゆっかてんてんゆっかゆっかてんヒャッホーイ!(しかし今年一年、実りあるゆかてんにするために頑張らせていただきます! まぁしばらく忙しくて書けそうにないんですけども)
 ゆかてんゆかてーん(しかし頑張ると言っても代わり映えのないゆかてんばかり……もっとだ、もっと新しいゆかてんを、色んなゆかてんを書かなくては。書いて試して探求して至高のゆかてんを)
 ゆかてんゆかてん?(いやそもそも何でゆかてんだ? 何故オレはゆかてんを……)

 そうか、そうだったのか……ゆかてんとは……。


>コメント4さん
紫様ならきっと自身の名前を自由自在に変えることこも容易いこと……。
誤字のご指摘ありがとうございました、修正させていただきました。

>とーなすさん
誤字のご指摘ありがとうございました、修正させていただきました。
電動ドリル
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コメント



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1.100奇声を発する程度の能力削除
甘くて良かったです
3.100名前が無い程度の能力削除
ゆかてんゆかてん! ゆかてんちゅっちゅ!
ゆかゆかてんてんゆかてんてん!
4.90名前が無い程度の能力削除
二千円札はもう幻想アイテムなんやな…
自分も思う存分型抜きして遊びたい

>思わず藍は顔を伏せて縁の話を遮った。
せんせー、知らない式神が一匹八雲家に紛れこんでます
6.100名前が無い程度の能力削除
氏のゆかてんがゆかてんしててゆかてんがゲシュタルト崩壊しそう……
相も変わらず甘いゆかてんでした!
7.100名前が無い程度の能力削除
明けましてゆかてん
いい感じに脳がゆかてんで埋め尽くされていますね…
8.100とーなす削除
ゆかてん! ゆかてん!
へたれゆかりんも、逐一いじらしい天子も、どちらも可愛い。質の良いゆかてんをありがとうございました。ごちそうさまです。

> 待人 すぐ近く
> 恋愛 道険し

待人……誰のことなんですかねえにやにや。
10.100名前が無い程度の能力削除
いいなかゆかてん。ほのぼのします。
冬の寒さもこれで乗り越えそうです。
12.100名前が無い程度の能力削除
あめえ…あめえよお…
13.100絶望を司る程度の能力削除
あますぎてちをはきそう
とても良かったです。