1
鳥のさえずりも、獣の声も、風の音さえもない。竹林に住んでいる獣は少なく、また争うことは少ない。八意永琳は、この静かな竹林の佇まいを気に入っていた。
永琳は故郷について思いを馳せるとき、この静けさを思う。静けさを思い、静謐が宗とされている月の都を思う。月には公害はなく、騒音もない。他人に迷惑をかけないことが美徳とされているから、無駄にやかましくする風習はない。余計な生物はいないし、無菌で酒がないからやかましい宴会や飲み屋というものもない。
いささか窮屈で、だけど、管理された静謐な社会。正しい管理者がいて、従っていれば安寧が保証される。永遠の命、穢れのない暮らし……。
永琳は不老不死となったが、罪人とならず、変わらず月で要職につくことになった。そのことが、永琳を月から離れさせることになった。
円を描くとき、最初は点から出発し、曲線を描いて、出発点に到達する。人は、死から生を得て、そして死へと帰る。生とは有のことであり、死とは無である。無から有が生まれて、無へ帰ってゆく。円が完成した後は、線はどこへも行きようがない。既に円環は完結している。
人は穢れとは無縁ではいられない。死が穢れを生むからだ。生まれた時、人は穢れている。死から生を得る時、その生は死にたっぷりと汚されている。清められて初めて、穢れを一時失い、清らかになるが、人はまた死を重ねる。食事をする時、動物や植物の死を身体に吸収する。死で身体は穢れ、また清める。穢れとは無縁ではいられない。
だが、月では死はない。食肉はない。成分が同じであれ、生を得た獣を殺すということはない。無から生み出される有を摂取する。月人は穢れを知らないまま、月の都で生き続ける。死を知らないから、永遠に生きることにも、疑問を抱かない。
例外として、月人と月人との諍いで死ぬ人はいても、すぐに清められ、忘れられる。戦争は秘密裏に行われ、一般に民に知らされることはない。偶然死を見てしまった者には、忘れがたい死の様相を、夢の世界へ送り込むことで強引に失わせることもある。それほど、月の世界では、死がタブーである。地上の世界では、死とは生の一部である。一つの円環の内と外である。だが、月の世界では、生と死は分かたれている。分かつように保たれている。都の最下層では名前のない、兵となって使い捨てられ、死んでゆくばかりの者達がいる。けれど、月の都の者達は、そのことは教えられず、知ろうともしない。
永琳が不老不死となった時、永琳は死を内包した。生命は失われ、代わりに人の形を得た。内側に詰まっているものは肉と血ではなく、死が詰まった袋となった。永琳の意志ばかりが生き続け、肉体が外に及ぼす影響は、一切が失われた。
人であれば気が違っていたかもしれなかった。だが、永琳は人ではなかった。そも、生まれを辿れば、永琳は地上で生まれた神様で、たっぷりと穢れを受けてきた。戦争による穢れで地上に住めなくなった神々は、月夜見を先頭に月へと移住した。永琳はその頃から生きているのだし、信仰によって成り立つ永琳は、元々死ぬことがない。
蓬莱の薬とは、人の形を歪めてしまう。永琳の神性をも変化させてしまった。永琳は永琳の信仰を失おうとも生き続ける。生きるために行動する必要を失ってしまった。外部に影響を及ぼさなくなったと言ったが、正確には、永琳の内側が変化し、影響を及ぼそうとする本能を消失させてしまった、ということである。生存本能が消えて、意志ばかりが先行する。
永琳が地上へ行ったのは、永琳が月を必要としなくなったからだった。月で行政を手伝う必要がなくなってしまった。更に言えば、輝夜が心配になったこともあった。輝夜が地上に一人であれば、寂しいだろう、と思ったのだ。
実際、輝夜が一人でも自分を失わずに生きてこられたのは、永琳を見ていたからというのが多分にあるに違いない。他人を見て、他人のしているように生きる、他人が気が違わず、普通に生きていれば、自分にもできるのではないか、と思うものである。
更に言えば、輝夜は、月にいる神性の者達と触れ合うことが多かったため、寿命の長すぎる人種もいるのだ、と当然に思っていた。地上人は実に寿命が短いものだとも思った。輝夜は永琳を見て、長い寿命とも普通に付き合うものだと思ったし、妹紅はそうは思えなかった。輝夜も永琳も変人だとただ思ったのみだった。
永琳からすれば、地上に住むことになったのは、大して妙なこととは思わなかった。罪人であるし、罪人である輝夜は地上に流されたが、永琳は月に残った。そちらの方が違和感があった。それに、永琳は元々地上で生まれたのだから、里帰りをしたようなものだ。もちろん、地上には永琳のような神様はいないから、寿命の短い普通の穢れた人間ばかりで、普通に暮らすことはできなかったが、それは当然のことだった。特に思い悩むこともなかった。
静かな竹林に住まいを見出した時は、ここが永住の地になるかもしれない、と思った。永琳にとっては居所のよいところだ。月と地上、両方の風情がある。もし輝夜が永遠亭を出ると言えば、永琳はどうするだろうと思う。輝夜について行くか、永遠亭に残るか。輝夜から離れるという考えが浮かんだことはなかったが、初めて道を分かつことになるかもしれない。幸いと言うべきか、輝夜が永琳から離れてどこかに行く、という考えが生まれたこともまた、無かった。輝夜は永琳がついていて当然だと思っているし、永琳が定めた住処に居続けることが当然だと思っている。王や王妃、また姫はそのようにするのが当然だからだ。臣下の者が良いようにし、それを受け入れるのは、高貴の務めでもある。
永遠亭のうさぎたちは、時に勢いを得たように騒ぎ出すことがあるが、普段何もしていない時は、基本的には物静かな獣たちだ。静かな時、永琳はふっと静けさに耳を澄ますことがある。鈴仙が部屋を訪れたのは、ちょうどそういう気分の時だった。
「師匠、お客様ですよ」
永琳は鈴仙を見返して、「あら」と声を漏らし、腰を持ち上げた。珍しいこともあったものだ、と思った。客間にでもいるのだろう、と永琳は考えていたが、そのお客は、鈴仙の後ろから顔を覗かせた。
「どうも」「へへへ」
態度のでかいのと、照れくさそうに顔を出したのは、永琳が見たことのないうさぎが二匹だった。元より、鈴仙の他のうさぎはどれもこれも、永琳や輝夜には見分けがつかないが、不思議と何者か見当はついた。
ひとまず軽く挨拶を済ませてから、客間に移った。正座をして座る永琳とは対称的に、二匹のうさぎは足を崩して座った。
「鈴瑚と申します」「あっ、清蘭です」鈴瑚と名乗ったうさぎが先に頭を下げ、それを見て慌てて、清蘭と名乗った兎が頭を下げた。
「あらあら、それはそれは、ご丁寧に。八意永琳です」
「ああ、知ってますよ、もちろん。この度は大変お世話になりまして」
表向きでは何もしていないことになっているはずだけど。まあ、それはそれとして、永琳は、「あら」とだけ答えて、続きを聞いてみることにした。
「ええまあ、向こうもはっきりとしたことは言わないし、鈴仙とは伝手があるんですがたぶん間違いないだろう、ってことで、でも永琳さんが何もないことにしたいんならこういうことを言うのも悪いわけで、で、だからと言って私たちが知らんぷりをするのも失礼かなと……それで、月の都を救って頂いたわけですから、ありがとうございます、と言わせて頂こうと思って。もちろんお偉方の代行ではないですよ。我々の意志です」
「あ、ありがとうございました」
語り口と態度からして、こちらの兎の方が上役らしい、と察しが付いた。「それはどうも、ご丁寧に」永琳の方も、一礼を返す。具体的にどうこうとは言わない。互いに、表面的な部分で儀礼的な挨拶を交わして、それで用件は終わった。鈴瑚の方はどうしようかな、と思案顔になり、清蘭の方はちらちらと鈴瑚の顔色を窺っていた。
「あのね、聞きたいことがあるのだけど」
永琳の方から口火を切った。清蘭はびくっとして、鈴瑚の方は落ち着いて「ああ、なんでしょ」と答えた。
「あなた達が知っているかどうかは分からないけど、月の表の海、静かの海に、老人がいるの、知っている?」
「ああ……」
鈴瑚はすぐに頷き、「アレですよね」と、清蘭もまた、言葉を返した。
「知っているの?」
「ええ。我々は任務上知ってますけど、市民も知ってる者は知ってるんじゃないですか。何せ、有名人ですもん。だって、アレ……」
「地上人ですよね」
と、清蘭が言葉を継いだ。「そうそう」と、永琳も答えて、和やかな雰囲気になった。誰からともなく、うふふ、と笑いあった。
「あの人、今はどうしてるの?」
今はですね、と鈴瑚が語り始めた。
2
月面にいる老人のことを語るために、昔は若者だったことを語らなければならない。老人は青年であった。時の流れを持っている人間ならば、当然のことだ。赤ん坊が少年に、青年に、中年に、壮年に……。
彼は少年の頃から、空を眺めるのが好きな子供だった。特に夜の空が好きだった。深い井戸の底のように真っ暗なのに、どこまでも広がりがある。未知という広い世界が、この地球を包んでいる。少年は宇宙という概念を知った時、我々が知り得ている世界とは、ごくごく狭い一部でしかなく、この大海のうちの一滴のしずくのように、ほんのささいなものだ、と思った。そして少年は当然のように宇宙を志すようになった。宇宙の全てを知り得ることなど、当然叶うはずもない。だが、わけも分からず空を目指したのだ。
だが、彼の青年期は、宇宙へ行くことから始まったわけではなかった。戦争があった。彼の周囲では愛国心を示すため、若者たちは皆志願して戦争に行った。皆、それが当然のことだと思っていたし、親類に止められたりして行かなかった者も、許されるなら戦争に行きたいと言い、愛国心を示そうとした。彼も戦争に行った。彼は宇宙を志していたが、自分個人の願望よりも、国の存亡の方が大切だと思ったし、何より敵国の人間が自国に踏み込んできて、両親や、幼い弟や、親類や、身近な人たち、更に言えば、自国の人間に誰一人死んでほしくないと思っていた。彼は愛国者だった。
彼は戦争に行ったが、幸い後方勤務が多く、前線へ駆り出されることはなかった。学生時代の彼の成績が優秀だったこと、また、家族から軍への後押しが影響していた。彼の父は国会議員を務めていた。戦争に行ってほしいと父は願い、また彼自身も戦争に行って愛国心を示したいと願った。だが、現実では友人達と引き離され、安全な位置で戦争を眺めている。相反する現状に、彼は憤り、苛立ち、苦悩した。複雑な心境の中、彼は任務の傍ら、勉強をして過ごした。彼は与えられた安寧を、自分の夢のために甘受した。
彼は戦争のため大学へ行くことはできなかったが、平和になれば大学へ行き、可能ならば宇宙へ行きたいと思っていた。戦争下にあっても、彼の心は宇宙へ行くことにあった。
戦争が終わり、宇宙へ行ける日がやってきた。彼は自国の宇宙センターで働きながら、勉強を受けさせてもらった。宇宙へ行きたいと願う者は沢山いた……その無数の人間との狂騒だった。宇宙へ寄与したいというのなら、必ずしも宇宙へ行く必要はない。彼は宇宙へ行きたいと願った。自分本意な欲望でありながら、純粋な熱意であった。彼は勉強をしながら、肉体を鍛え、宇宙へ行くための準備と順応を済ませていった。彼が宇宙へ行くための試験にパスするまで、戦争が終わってから、10年の年月がかかった。
宇宙へと飛び立ったその日が、彼にとって最良であり、そして最後の最良の日であった。彼が所属したチームの任務は、月に居住基地を設置し、居住実験及び調査をすることであった。その後、チームの中心人物たちは残り、経験の少ない若い者たちは地球へ返されることになっていた。だが、実際はそうならなかった。彼の人生は大きく変わった。
彼の記憶は大きく損なわれている。前後の記憶がない。彼が気付いた時には、真っ黒な姿の二人組に囲まれていた。それは強い光のためだ。二人の後ろにある光が、二人を黒く見せている。
「名前は?」
「うう? ……あ、……は、ハリー・……ブラウン」
痛む頭を抑え付けながら、彼は答えた。
「官姓名は」
「……中尉、いや、元中尉だ」
元、と二人は顔を見合わせた。「元軍人の調査員でしょう。いいわ、続けて」上官らしい一人が先を促した。
「目的は」
「それより待て、お前らは何だ。状況を説明してくれ。敵か、味方か」
「…………」
二人は、再び顔を見合わせた。
「申し訳ない、申し遅れました。私は鈴瑚、こちらは私の上官で綿月依姫。……話を続けて構わない? 構いませんね」
彼……ハリーと呼ぶことにするが、ハリーは、辺りを見渡した。辺りはのっぺりとした、白い空間に囲まれている。ハリーと、二人がいる部屋が、円形をしているのか、地球のように箱形なのかも、見当がつかない。ハリーは国にいた頃読んだ、SF小説を思い出していた。未来人は円形の、白い家の中に住んでいた……。
「何者だ。どこの所属だ」
「ハリー、悪いけれどそれには答えられない」
「仲間はどうなった」
「答えられないわ」
「私を仲間のところに帰してくれ」
「その要求も叶えられない。質問に答えてくれる?」
ハリーは不思議と、頭がぼうっとしたまま、毅然とした態度には出られなかった。軍にいた頃に鍛えた身体がある。実戦こそしなかったものの、訓練は嫌と言うほどした。二人を殴りつけて脱出しよう、と平常なハリーならば考えたはずだ。だが、ハリーは身体に力が入らないまま、「要求を叶えてくれないなら、質問には答えられない……」と、答えた。
二人は再び顔を見合わせた。
「仕方ないわね。別の捕虜に聞きましょう。鈴瑚、後の処理を」
「了解」と、鈴瑚と呼ばれた一人がハリーの元へ歩み寄った。やめろ、と言う隙もなく、 鈴瑚がハリーに手をかざし、何かをして、ハリーは意識を失った。
次にハリーが目覚めた時、ハリーは宇宙船の中にいた。はっきりと前後の記憶はないが、問題が起きて、基地の設営は中止、全員で地上へ帰るということだけが思い出せた。……何が起こったのだ? ハリーは疑問に思った。思い出せないが、何かが変だ。奇妙な違和感が残った。チームは全員無事で、機材に影響が出たほか、宇宙船にも問題はない。無事に地上へ、国へと帰れるのだ……だが、ハリーは違和感だけをどこかに残して、地上へと帰り着いた。
「サグメ、言う通りにしたわよ。問題ないはず。皆、夢の世界のことを本当だと信じた。実際に起こったことは、何一つ覚えていない」
「…………。……そうね。ありがとう、ドレミー・スイート」
「言っとくけどねえ? あんまり、夢の世界のことを利用したら、良くないわよ。皆が皆、うまく思い込んだかなんて、はっきりとは言えないわ。どうせなら、撃ちおとしちゃえば良かったのよ。ちょっとした事故で全滅、なら、疑問の持ちようもないわ」
「…………。何回かは、そうね。……でも、ずっとそうしているわけにも、いかない。……いつかは到達すると想定する。その前提で対処をしなければいけない」
「へえへえ。それで、私が働かされるわけでしょう。まったく。いいこと。事実をねじ曲げているのは、節理に逆行することに他ならない。いつか、しっぺ返しを食うわよ」
「分かっているわ。……ありがとう」
彼、ハリー・ブラウンが二度目の宇宙へ行ったのは、それから二年後のことだった。以前彼と一緒に宇宙へ上がったチームは、一人もいなかった。皆、何らかの事情で地上に残った。ハリーはメンバーの中でも若かったこともあるが、あまりにも不自然だと、ハリーは思っていた。彼よりも若いメンバーもいたのに。彼は前回の事故を、何かの陰謀があるのではないかと思い始めていた。それは月にいる何者か、ということではなく、むしろ自国の政府による、あるいは宇宙開発の上層部による陰謀ではないか、と疑った。人間の記憶は曖昧なものだから、ドレミーによってねじ曲げられた記憶、それから年月によって変化した記憶、新しく得た知識、そういったものによって、彼は自国を疑うようになったのだった。
彼が奪われた記憶の中には、初めて宇宙へ出たという感動も含まれていたはずだった。彼は宇宙へ上がり、家族や友人に囲まれて、「どうだった。ハリー」と聞かれた時、「ああ、感動したよ、素晴らしかった」と答えた。それは本心ではなかった。……周囲の人からの期待に応えるように、そう答えていたのだ。近頃は、あまりに感動したから、ぼうっとしてあまり覚えていないのかもしれない、と思うようになった。だが、あまりにおかしい。ハリーが歳を取ったせいか?若い頃、宇宙を見上げたように、純粋な気持ちで見られないせいか? あまりにおかしい、とハリーは思った。
二度目とは言え、宇宙へ行けば、新しい感慨と感動を得られるはずだ。ハリーはそう思った。
彼に感動は与えられなかった。無論、前回と同じ月の民の妨害である。だが、二度目の事故は、少し様子が違った。基地の設営途中で起こった事故により、数人の死者が出、更に、何者かの襲撃があった、と証言する者もいた。ハリーやチームの者は知らないことだが、月人による襲撃である。その記憶を一部残させ、二度と歩み寄るな、という風に仕向けたのだ。だが、宇宙人の襲撃、という発言は、単なる妄想か冗談と片付けられた。
宇宙開発の上層部は、調査にはどこにもそう言った事実はない、と結論づけた。テレビが面白おかしく話を広げただけで、証言は全てデタラメだということになった。襲撃を語ったメンバーは地上に残され、以後、宇宙へ出ることはなかった。
ハリーは記憶がなかった。事故のこと、事故のあと機材を片付けて宇宙船に乗り込み、地上へ降りたこと、全て覚えている。だが、それらが作られた記憶だとは気付かなかった。ただ、以前と同じ違和感だけが残った。
彼が宇宙へ棲み着いたのは、三度目の任務の時であった。何かがおかしい、と思っていた彼は、知らず知らずのうち、襲撃に備える体勢を作った。
宇宙に基地を設営し終えたチームは、その後に襲撃を受けた。そのうち何人かは生き残らされ、地上との交信を命じられた。日々、異常なし、の電文を、チームの者達は送り続けた。
ハリーもその一人だった。次第に記憶が曖昧になり、ぼうっとした気分だけが身体を支配してゆく。この経験は覚えがあった。これと同じ状態を知っている。ハリーは無意識の内に、頭の中で、自らの経験を拾い出した。食事のためか、と疑った彼は、食事を採らなくなった。
食事を採らなくなったハリーを、月の兵たちは疑い、軟禁した。混濁する意識の中で、彼はぶつぶつと語り続けた。故郷のことと、生い立ちのことを、誰ともなく話し続けた。故郷の家族、故郷の自然のこと、森と湖のこと、三十年過ごした彼の家、そして彼自身の夢のこと、宇宙への彼の思いを……。
そのうちに、「それで?」とか、「それから?」とか、声が聞こえるようになり、その声に答えていた。彼に言葉を投げかける兵士は、ハリーよりもハリーのことを知っているのではないか、と思うほど、彼に詳しくなった。
ある日、一人の兵士がハリーに耳打ちをした。「あんた、気に入ったから教えてやる。あと数時間後に、全員処刑だ。表向きは事故で済まされるだろう。ここで死ぬのと、外で死ぬのとどっちがいい? 選ばせてやる。いいか、ここから……」兵士は道順を語った。ハリーは頭に、その道順を、頭が痛むほど繰り返し、頭に叩き込んで記憶した。「そこに宇宙服がある。外に出れば、酸素があるうちは生き延びられる。そこまで行ける保証もないし、外に逃げても、見つかって殺されるかもしれないが、それは可能性の問題さ。あんたが宇宙が好きなのは分かった。宇宙に囲まれて死ぬ権利をくれてやる。誰だって、逃げ出したくなる時はあるもんな。私だってそうだ。じゃあな、グッド・ラック」
兵士は部屋を開けた。待ってくれ、とハリーは掠れた声を上げた。
「あんた。あんた、名前は」
「レイセンと言う。覚えてくれなくって良いよ」
レイセンと名乗った兵士は、部屋を後にした。
数時間が経って、奴隷兵たちが基地へと運び込まれてきた。兵士たちに殺人を行わせないため、人間の調査チームを処刑した後、彼らも処刑される運命の罪人たちである。月人のうち、重大な犯罪を犯した者は、奴隷兵としてこういった労働に従事させられる。人間の処刑後、奴隷兵によって同じ奴隷兵の処刑を行い、最後の一人の波長を操り、自殺させるのである。
処刑が始まる頃、ハリーは外へと逃げ出した。
外へ、宇宙へと逃げ出したハリーは、自分が記憶を失っていたことをはっきりと思い知った。彼が来たかった宇宙へと、来たのだ。宇宙船から降りた時の感動……三度目のはずなのに、初めてのことのように感動した。俺はここまで来たのだ。望めば、どこへだって行けるのだ! その記憶は、二度も奪われていた。あのぼうっとする弛緩状態が進めば、そうなるのだ、決定的に……。
彼は眠りと覚醒の内に、死を待った。月の表面に倒れ、視界全てを宇宙に染めながら、死を待った。時には一人逃げ出したことに罪悪感を覚え、時にはこの宇宙にいる宇宙人、驚異的な技術を持つであろう宇宙人が地球に目を付けないかと、危惧を覚え、なんとかしなければ、と思いながら、死を待った。彼にできることはなかった。基地へ戻って殺されるか、ここで死ぬかだ。基地に戻って基地の現状を報告すること……できるはずもない。
三日が経った。酸素は尽き、簡易食料も尽きた。……はずだった。計器を確認した。食料はともかく、酸素が無ければ生きていられるはずもない。どうして生きている?
ハリーは自問した。宇宙は嫌になるほど広かった。いまの地球の技術力ではここが限界。月にいる兎頭の連中は、更に進んだ技術を持っているらしい。彼らは月よりも外に行っているだろうか。いや、無いだろう。でなければ、ここまで意地になって交渉も行わない防衛はすまい。
どうしてここで、このまま死ななければならない。宇宙で死ねたら本望だ、などと。全く足りない。俺はまだ、ここで死にたくない。宇宙はここではない。視界に見える真っ暗闇の向こう、もっともっと向こうの果てだ。
ハリーは腕に力を込めてみた。身体は動く。うつ伏せに倒れ込み、両腕で大地を押した。立ち上がった。地面を踏んで、バランスを取る。まだ、生きている。酸素はある。生きているとはそういうことだ。計器は故障だろう。
彼は、基地へと向かって歩き出した。まだ死んでいない。戻ってどうするかなど、考えもしていない。兵士がいて殺されるかもしれない。だが、食料と酸素があるのはあそこだけだ。彼は様子を見つつ、物陰に隠れながら、慎重に進んで行った。
あの兵士に見つかれば、馬鹿にされるかもしれない。『宇宙で死ねるチャンスだったのに、何をしてるんだ、あんたは』
基地には誰も居なかった。死体もなかった。機材が多少抜き取られていたが、調査のために持って行ったのだろう。酸素も、食料も残してあった。後々大規模な調査が行われるかもしれない。だが、彼は居残ることにした。殺されるのならばそれまでだ。死ぬことはしない。殺されるまで生きなければ。
地上への連絡を考えた。だが、仲間へ連絡してどう説明する?また、宇宙へ我が国の人間が来て、……死ぬ。全滅した、という事実が必要かも知れない。連絡装置が無事であるかどうかは、確かめなかった。
彼が考えていた事態になった。数人の兵士が来て、兵士たちは突然怯え、逃げ出した。ハリーはやれやれ、と考えた。不可解なことが多すぎる。
ハリーは置き去りにされた。以後、月人は入っても来なかった。
備蓄食料と酸素は減ってゆく。ハリーは実験用の酸素生成装置を使って、生存のために模索をした。暇があれば外へ出かけた。宇宙服を着て宇宙を眺め続けた。宇宙服さえいらず、生身のまま、飛び立って行ければどんなに良いことだろう。
数年が過ぎた。
「どうなっている。人間は皆殺しにした筈。前線部隊の怠慢よ、指揮官と兵士は全員処分する。それから次の部隊を……」
「…………」
「良くないって言うんでしょう稀神サグメ、前回の作戦で奴隷兵たちを大量に消費した。正規兵にも穢れの影響か、ストレスで精神に異常を来す者が出ている。だけど、どうするって言うの? 処分して浄化してしまわなければならない」
「依姫、短慮は」
「じゃあどうしろって……」
「揉めてるね」
「ヘカーティア、あんた。どうしてここに」
「私は月にも身体があるからね。ところで、永遠に命があるというのは、永遠に支配されること、つまりは永遠の罪科でしかないと思うんだけど、どう思う」
「……我々はこの暮らしを数万年も続けている。あんたに指摘される謂われは無い」
「それはいいのよ。それで、どうするの」
「それはいいのよ、って、あんたが聞いたんでしょう。それに、あの人間の処分にしたって、どうしてあんたに。……まあいいわ。殺すわよ、当然。殺して洗浄する。分子まで消滅させればもう跡形も残らない。恨みさえ消失させる」
「無駄ね。だってあの人間、もう死んでいるもの」
「何ですって? 馬鹿な、幽霊だというの。監視はつけているのよ。物を食べれば呼吸もし、排泄もする。あれが幽霊だと?」
「稀神サグメ。あなた、夢の世界を便利に使いすぎたわね。夢の感覚を現実に持ってくると、どうなると思う? 自分が生きているか死んでいるかさえ分からない。夢が現実か、現実が夢か分からなくなる。厳密に言えば……彼は自分が死んだことを知らない。死んでも生きてもいない、というのが正しいかしら」
「くっ……穢れの前線基地ができたようなものだわ。サグメ、上の連中にどう説明するつもり」
「…………困ったわ」
「くっくっく」
「ヘカーティア。あいつ。何をしに来たんだ、あいつ。どうするの、サグメ」
「様子を見る。……単に殺すだけでは。経過を見なければ」
3
「一度だけね。会いに行ったことがあるの」
「へえ。永琳さんが?」
「ええ。あの人は椅子に座って、作業をしていた。もう、私が行った時にはしわくちゃのおじいちゃんになっていた。それで、振り返って、入ってきた私を見て、『誰だ』と言った……」
地球人の建物は、ごてごてといくつかのプロセスを経なければ、中へ入ることはできなかった。扉が一つ開き、中へ入れば後ろで閉じ、減圧し、また開く。滅菌し、また扉が開く……。
人間はそうしなければ、宇宙で根を張って生きてゆくことはできない。それは月人も同じだが、特別な能力を持った者は力場を自分の周囲に張って、身を守ることができる。だから永琳には宇宙服も減圧も必要ない。
居住スペースへと入ると、老人が一人、椅子に座っていた。
「誰だ」
「八意永琳と申します。突然の来訪、失礼かと思いますが、少しお話がしたくって」
「月の人間。……変わり者もいるらしい」
ふん、と老人は永琳から視線を外し、作業に戻った。「座っても」「構わんよ」短い言葉を交わし、永琳は椅子を引いて座った。
永琳は老人の手元を観察し、部屋の中を見た。白い部屋は、きちんと手が入っている。日々を過ごしながら、身の回りをきちんとしていることが窺い知れる。静けさの中に、老人の手元で鳴る機械の音だけが響いている。
かちゃ、かちゃ、かちゃり。高い技術力で形作られた月の都には、本当の意味で自然的なものは、もはや存在しないと言っても過言ではない。地上の民は、まだ機械を手で操る。心地よい音。
「ここには、たまに人が来るよ。あんたのような変わり者だろう。羽の生えた奴に、銃を担いだ兎の兵隊。こんなこと、言っちゃあいけないかな」
「いいえ。概ね把握していますから」
「そうかい。なあ、あんた。この部品が欲しいんだが」
老人は手元の機械を見せて、永琳は機械を覗き込んだ。
「ここじゃ、機械の加工はできない。壊れた部品はどうにもならない。何とか融通できないかな」
「そのくらいなら何とかなるでしょう。堂々と下げ渡すことはできませんが、こっそりと届けさせましょう」
「助かるよ。何も礼はできんがね」
こっそりと、ね。くっくっと老人は笑った。
「あんた、堅気じゃないね。蛇の道は蛇だな」
ふうん。堅気じゃない、ね。私は堅気じゃないのだ、と永琳は、改めて考えた。
月に残っている人間がいる、という話を聞き、いつか訪れたいと思っていた。数百年の時が過ぎて、まだ老人は生きている。老人は幽霊でも、死人でもなく、もはや妄念そのもの。そのくせ、自分は生きていると思い、数百年の時が過ぎていることも、意識していない。自然の姿のまま、なまの生のまま。
普通ならば、こんなところに来るような者には、地下牢に禁固刑が下るだろう。そも、真っ当な市民というものであれば、訪れようなどという考えは持たないはずだ。月の表面に人間が住んでいるというのは絶対機密だ。本来知り得ないことを、永琳を含め上層部は知っている。知られてはいけないもの、存在してはいけないもの。存在してはいけないものを、上層部の連中は許容している。数百年も……数百年居座れば、次の数百年も対策はできず、きっと居座る。次の数百年も、その次も……以前、浦島太郎という男が月の都へ来たことがあったが、その時のように送り返すということもできない。
そも、月の社会というものは、歪みの上に成り立っているものだ。地上は穢れ、月へ来た。穢れのことを知っている世代は、今では殆ど下級市民ではなく、ごく少数の上級市民として存在している。いまの月の民の中心は、多数の下級市民たちだ。家さえ持たない最下層の市民が、更にその下に存在している。最下層民たちには発言権はなく、下級市民たちは穢れのことを知らず、その是非を問うことさえない。そして、過ちを正して再形成を行うには、月の都は既に管理体制ができていた。
月の都が間違っているのだとすれば、そもそもが間違っているのだ。間違ったところから出発し、けれども、今ではそこに生きている人々がいる。
何が正しいのか。何が堅気で、何が堅気じゃないというのか。
「それで、あんた、何をしに来たんだい」
「ええ。聞きたいことがあって」
「聞きたいこと。妙な話だ。あんた方が、私のような地球人に聞くことがあるなんてな。私に答えられることなら、答えるよ」
「簡単なことです。……むしろ、月の民には答えられないこと。あなたは、どうして地球を離れたんです」
老人は腕を動かしながら、永琳の言葉を聞いている。永琳は続けた。
「更に言えば……どうして、家族や、故郷を離れることができたのですか。仲間もいない、こんなところに、一人で」
「私は……宇宙へ出たかったんだ。それだけなんだよ。故郷や家族を捨てる、ということは思いつかなかった。確かに、一度目や二度目に違和感を覚えたし、上層部は私を作戦から外したがった。……たぶんね。チームは、我々の責任ではないが、失敗続きだった。だが、だからと言って、故郷に帰って家族と暮らそう、新しい家族を作ろう、とは考えられなかった。私は宇宙を見たいと思っていたんだ。一度も宇宙を見ずに、地球へ帰れるものか。私はそう思っていた」
だから、一人でいたって平気なのか、と、永琳は言葉を重ねようとした。だけど、やめた。ハリーは死んでいるのだ。その時の思いばかりが取り残されて、存在している。このままいくら時を重ねようが、変わることはないのだ……。たった一人の、月の妄念。
「分かりました。ありがとうございます」
「こんな答えで満足できたかな。でも、感謝されるのは嬉しいよ」
ええ、と永琳は答えた。
人とは孤独だ。この老人ばかりが、孤独で、取り残されているのではない。永琳は、老人の住まいを後にした。
「純弧、あなたでしょう」
「あら。分かった?」
「幽霊になったから、だけでは、ああはならないわ。純化したでしょう」
「あんた達のせいでもあるわよ。そもそも、あんた達が構い過ぎたせいで、普通の人じゃなくなったんでしょ。あれだけ人外のものが関わっていれば、影響されるのも仕方がない。更に言えば、夢の世界に放り込みすぎたわね。便利に使いすぎ。私の能力のせいばかりとも言えないわよ。思いがゼロならば純化もされない。純化されるだけの思いを、元々持っていたんでしょう。何度追い返されても、諦めきれないくらいの強い思い。それで、それを打ち砕いたのがあんた達」
「言い訳のしようもないわ」
「覚えておきなさい。いつになるか分からないけれど、嫦娥は殺してやる。ああ、見ているか、嫦娥。いつまでもその守りの中に身を隠しておけると思うなよ。月の都もろとも破壊してやる!」
実のところ、もう一度だけ、永琳は老人の元を訪れている。言葉は交わさなかった。
老人は基地のすぐ外にいて、宇宙を見ていた。老人の足下では数匹の妖精が戯れていて、老人に何事か話しかけていたけれど、老人は構わなかった。
老人は宇宙を見上げていた。飽きもせず、ずっとそうしていた。宇宙はどの深淵よりも深かった。何者をも飲み込んでしまう無限の闇。何を見出すことができるというのだろう。この空は、一人で向き合うには広すぎる。永琳は釣られて宇宙を見た。一人で宇宙を見上げることなど、もう随分とした覚えがない。眺めているうちに、永琳は寒気を覚えた。宇宙には何もない。他人に認識されること、自分自身に価値を見出されること……そういったものによって、人は成り立っている。永琳も同じだ。信仰とは、他人に認識されることだ。
ここには何もない。永琳は、自分自身が存在を失うような感覚に囚われた。あの老人は一人だ。月にいる少数の者は、あの老人のことを知っている。誰もが老人のことを忘れ去ってしまうと、老人はいないことになるのだろうか? そして、それは、永琳も同じではないか。永琳の存在は、誰が認めてくれるのか? 永琳を永琳にするのは、何か。
そのことを永琳が考えた時、月の都のことは考えられなかった。永琳にとって必要なものは……。
永琳が教育を任されている、一人の姫のことが思い浮かんだ。あの者のためならば、私は何でもしよう。あの老人にとって宇宙があるように、永琳には姫がいる。きっと、あの老人は、宇宙と共にある時、一人ではないのだ。あの宇宙はきっと、老人にとって全てなのだ。
あれはサグメの前に現れたヘカーティアが言ったように、妄念なのだろうか? 永琳には違うと思えた。あれは恨みによって成り立つ幽霊や怨霊のようなものではなく、もっと純粋な、幽霊とはまた違う存在であるように思えた。人間離れした何者か、別の何者か……。
老人はそこにいた。月の都が現実離れして在るように、老人もそこに在った。
あの老人を誰かが妨げることはできるだろうか? できないだろう。そこらの岩陰を探れば、老人の死体が出てくるような気がした。肉体から解き放たれた老人を、月の技術で分子まで破壊したとしても、土に還るとは思えない。例えば、永琳がこの場を去ったとしても、永琳が覚えている限り、あの老人は存在し続ける。これこそ妄想か想像の産物とでも言うべき事柄かもしれない。だけど、永琳の中で本当のことにし続ける限り、あの老人は存在している。基地で日々を過ごし、宇宙を眺め続けている。
老人は捨て置かれた。月も、監視を付ける他に、有効な対抗策はなかった。そして、さして有害でもなかった。人間ではなくなってしまったから、生命の発する穢れが少ないのだ。
老人はそのまま捨て置かれた。それは、老人にとっても、月にとっても、都合が良かった。
永い、永い時が過ぎた。
永琳は輝夜とともに地上へ降りた。純弧とヘカーティアは月の表面に地獄の妖精を放った。だが、何もかも、老人には関わりのないことだった。
月の表面で、老人は見ていた。空の弾薬箱に座り、宇宙服を着て、宇宙を見上げていた。地球と月の間に、ピンク色の巨大な靄があり、月の都から沢山の月人が入って行き、反対に地上から四つの影が飛び出て、月の夜側、月の都へと入っていった。老人は靄も、四つの影も、そして老人の周りで戯れ踊り回る、松明を持った妖精と、沢山の地獄の妖精も見ていた。妖精たちに囲まれていても、老人は疑問を持たなかった。これまでいくつもの事柄を見た。今更、何を驚くことがあるだろう。月には生命体はいない、水もない、空気もない。だが、現実は宇宙服も着ていない童女どもが踊り狂っている。……これが本当のことなのだ。誰も教えてはくれなかったが、これが月の姿なのだ……。老人は疑いもしなかった。宇宙とは、あまりに広く、何が起こっても不思議ではなかった。
4
永琳は立ち上がって、お茶をいれた。思念が無音の宇宙から、地上へと戻ってきたような心地がした。音が永琳の元へと帰ってきた。
「あの老人のことは、前線の兵隊たちは皆知っています。接触は禁止されていますけどね。ただ、物珍しさに接触する者もいたみたいです。私はたまたま、依姫さまに付き従って尋問を一度したことがあるくらいで」
「それはなかなか貴重な体験だったわね。処分されなかった?」
「あの事件では、理由なく処分された者が大量に出ましたものね。私は再浄化プログラムに積極的に参加して、あと依姫さまに働きかけて取りなしてもらいました。月への忠誠を改めて誓い直したり、まあ、色々しましたよ」
「へえー……そんなことしてたんだ」
清蘭があまり、深刻でなさそうな感嘆のしかたをした。永琳が湯飲みを清蘭と鈴瑚の前に置き、座り直した。
「あの作戦はひどいものだったわよ。兵たちのうちでも、特に身分の低い者たちは容赦なく処分された。参加していない者でも、月へ上がってきた地上人の噂をした者も処分された。あんたが触れず、知らず、生き延びたのは幸福なことだと思うわ。……ありがとうございます」
「ええ、だって、地上人なんてどうでもいいじゃないですか。軍の上の方の人たちは怖いし。……あ、え、えと……どうも」
自分よりもはるかに身分が上だった者にお茶をいれてもらうことに、清蘭は恐縮して何と言って良いか分からないようだったが、鈴瑚は自然に受け入れて湯飲みを手に取った。
「政治ね、施策ね。……古い体制を守っているから、新しく生まれてくる者たちは受け入れ難いでしょう。月的な正しい理屈で言うと、生まれてくる命というものがそもそも、穢れているから、あってはならないのだけど」
永琳は湯飲みを両手で持ち、膝の上に置いて、一人言のように言葉を重ねた。
「本当の上にいる人たちは、そもそも人の生活する場には出て来ない。穢れがないと言われている月の都でも、更に穢れのない限られた区域にのみ生きている。彼らは殊更に侵食を嫌う。私も、以前はそうだったけれど……。月での私や、サグメ、依姫たちの仕事は、安寧を望む上層部の方針を、現実的な施策にして民衆の管理をすること。要するに調整役、中間管理職。上からは問題を指摘されるし、下からは不満を押しつけられる。ふふ、いやな仕事よね」
永琳が愚痴混じりに言うと、「分かります」鈴瑚が頷いた。
「適当にやってたくせに……」
「馬鹿言わないで。上からの譴責でも食らってみなさい、二百年地下牢よ。殺されるかも知れない。そういうストレスがあるんだから、ちょっとの楽くらい役得よ」
「わけが分からないまま処分されるかも、っていうのは兵隊も同じですよ」
「永遠の命を生きられる月人は、本来増える必要はない。減ることがないのだから。……命を作るのは禁じられているはず……なのに、なぜか最下層では大量に生まれてくる。そして、政府もそれを処分しはしない」
何故なら、兵士に死はつきもの。月人の政治家たちの間でも殺し合いはある。ただし、自身で殺し合うわけではなく、連れ込んだ兵にさせる。殺し合いをさせる軍隊や、私兵はいつでも必要になるのだった。
「そのお目こぼしのお陰で、我々は生まれて来られたわけですから、使い捨ての道具にされることも、文句は言いませんけど」
「まあまあ、命も張らない金持ちの連中はムカツきますけどね」
「うふふ。その使い捨てもいなくなったら、どうなるか。それを考えれば、人口調整は大切よ。……軍でうまく生き延びれば、上に上がってゆくこともできる」
「そうそう。その通り。清蘭、あんた、私を頑張って持ち上げなさい。上に行けたら、一緒に引っ張り上げてあげるから」
へいへい、と清蘭は言った。
「でも、まあ、その……変わらない体制がいやになって、何かしら新しいものがあるかも、って、あの老人に会いに行く気持ちは、分からないでもないです。逃げ出して、地上に行って、そこで生き延びられるなら……」
鈴瑚は視線を落とし、寂しげに言った。
「地上でも同じですよ。そう思わないとやってられない。監視がないのは嬉しいけど、また後から増援が来たら、同じです。何を口実に、いつ連れ戻されて処罰されるかも分からない」
「清蘭は割り切ってるのね」
「頭悪いですからね。自分の身の程を知らずに、賢く立ち回ろうとしても、失敗するのがオチです。私も死んだり、処分されたりする兵士は見てきましたから」
あーあ、と清蘭は言った。鈴瑚は俯いて、清蘭は頭の後ろで手を組み、黙り込んで、何かを考えているようだった。
「匿ってあげましょうか」
永琳は、少し間を開けて、ぽつりと呟いた。鈴瑚は、「あぁ……」と生返事をして、「なに?」と答え、永琳に向き直った。
「匿ってあげましょうかって言っているの。うちにも脱走兵はいるし、どうせ、脱走兵の一人や二人、増えたところで同じだわ」
「……いや。やめておくよ」
清蘭がちらちらと鈴瑚を伺い、見ていた。鈴瑚は俯き、目を閉じた。
「監視していれば、ここは良さそうなところだと分かる。永琳さんの元にいられるなら安全でしょうとも。しかし、私のような奴にも、友はいる。それに、現状、月でうまくいっていないこともないんで……。命の危機が迫ったら、考えておきますよ」
「あ、私も。死ぬくらいなら逃げる」
清蘭の軽々しい言い方に、永琳は思わずうふふと笑った。
「永琳さんにそう言ってもらえたのは嬉しい。報告にも色を付けて、便宜を図っておきますよ。月で動きがあれば永琳さんに相談することもしましょう」
「鈴瑚、それって、二重スパイじゃないの」
「馬鹿。人聞きが悪いだろ。そういうことを言うんじゃない。このことは月には内緒だよ」
くすくす、うふふ、と永琳は笑った。
話が逸れましたね、と鈴瑚は言った。
「なんでしたっけ。老人なら元気ですよ、少なくとも私が地上に来るまで、そういう話は聞いていません。あの老人も生きているのか死んでいるのか微妙らしいから、元気というのも変かも知れませんけれど……」
ええ、と永琳は言った。
あの老人は永遠だろう。少なくとも、月が秘匿しようとしても、その月にいる者の一部が、老人を監視し続けることになる。消滅させたいはずの月の都が、老人の存在を確認し続け、老人は残り続ける。
だけど、それではあまりにも、老人が寂しい。嫌っている者だけがそれを知っているというのは。兵士たちは命令で動くのみで、大して嫌ってはいないだろうけれど……。
「あの老人は好きですよ。不思議と。私は面識もないし、大して知りもしないけれど、一人でも残って、そこにいるっていうのは、何だかロマンチックじゃないですか。月に戻ったら、一度姿を見てみたいな」
清蘭はそんな風に言った。やがて、老人の後に続く若者たちが月を、宇宙を目指してゆくだろうか。人間を乗せて飛び立つよりも先に、機械に宇宙を探索させる時代が来るだろうか。
「私も、嫌いじゃない。こういうことは月には睨まれるかも知れないけれど、無事でいてくれたら嬉しい」
「そうね。無事であることを祈りましょう。あの人は人類史には記録されないのだから、せめて我々が覚えておいてあげないとね」
永琳と鈴瑚、清蘭は、揃って月の表面にいる老人のことを考えた。そして、誰ともなく、湯飲みを差し出して、老人のために乾杯をした。
月関係はいろんな角度から書けるので、読んでいて本当に飽きない。
すごく面白かったです
それしか出て来ないくらい面白かったです
面白かったです