小高い立地と言うのもあってか、吹き付ける風は氷のように冷たかった。冷風が一陣走ると、さぁと草木が凍えた声を上げる。生き物の気配すら失せた場所では、殊更それが寂しく響く。
博麗霊夢は思わず首を縮こまらせた。
「さっむ……」
首に巻いたマフラーにできるだけ顔を埋めようとするが、精々鼻先が隠れる程度である。再び風に吹かれると、口元を手で覆って、はあっと空しい暖を取った。
お祭り騒ぎの睦月を超えて如月に入り、宴に飽いた不信人者達は、集まる時と同じようにめいめい足を向けなくなっていた。無情である。閑古鳥すら鳴かない境内は尚の事寒々しい。
「勝手なものよね」
そうぼやきながら、霊夢は庫裡の出入り口で枝を一本飾り付けていた。辛うじてくっ付いた柊の葉と、香ばしい鰯の頭。さして手間もかからず作業を終えて、満足そうに一つ頷いた。
「よし。仕事した。炬燵炬燵」
まさしく一仕事終えたと言った達成感を顔に浮かべ、かいてもいない汗を拭い、上機嫌に家へと引っ込む。真冬における最強の結界の呪文を唱えながら、霊夢はそれが待ち受けている襖を開けた。
「……んぁあ、おー霊夢ぅー。邪魔してるよー」
いっく、としゃくり上げる音と充満した酒匂が彼女を出迎えた。
露骨に表情を変えて、霊夢は来訪者へ素早く手元へ滑らせた霊符を投げつける。存在を認識してからの一連の動作は流れるようにして、瞬きの間に終えていた。かくや、と思われた瞬間、対象の身体はさらと薄くなる。貫く事能わなかった札は、畳に鋭く突き刺さる。
ざあ、と室内の空気が蠢き、粒子が集い、やがて元通りに少女の姿を形作った。
「……何でいるのよ」
「んー? いつも通りだよ。お酒飲みに来たのさ」
赤ら顔で、そう少女はカカと笑う。横たわった小柄な体躯に反して、頭から生えた大きな両角が、動きに合わせて揺れる。
霊夢は一つ、大きな溜息を吐いて……どっかりと炬燵の中に潜り込んだ。一瞬、豆を持って来ようかと逡巡したが、幻想郷の守護者たる博麗の巫女も、寒気と炬燵の魔力には勝てなかったようである。
「何のために仕事を終えたのか、分かんなくなるわ。意味ないじゃないの」
「んー? あー、表の柊鰯ね。そりゃあ意味ないよ。キと一緒にして貰っちゃ困るなあ。そいだら犬の方が良いだろうさ」
間延びした声で鬼は、伊吹萃香はのたまった。酒のようにからりとした朗笑を轟かせ、伊吹瓢に口を付ける。幼い外見と異にして蟒蛇以上の酒豪は、休む間もなくこくりこくりと傾け続けていた。
「あん? キだって?」
「節句は本来キを祓うためのもんじゃなかったかい? 元々はオニを祓うもんじゃあないのさ」
「でもあんた、前に喜んで鬼役やってたじゃない」
「そりゃああれさ。そうなっちゃったんだから仕方ない。オニに求められるようになったんだから。それにあんな楽しい事をやらずにどうすんだってね」
「楽しいのかしら」
「楽しいよ。人間が、形式的とはいえオニを退治するんだからね。いやあ、全く以って、楽しいよ」
酔いどれた声色からは、覆い隠した感情は読み取れない。酔いのせいか、昂ったからか、細めた目は微かに潤んでいるように見えた。ぐいぐいと酒を煽り、口端から溢れようとも求め続けている。
「ふーん。で、じゃあキって何よ」
パリ、と卓上に置いていた煎餅を齧りながら、霊夢。うん、と萃香は頷き、瓢箪から口を話す。
「キってのはねえ、オニと同じく鬼って書くんだよ」
「傍迷惑ね」
「全くだ。その上二種類いやがるもんだから尚の事さ」
「面倒ね」
貰うよー、と萃香は宣言すると、手元に既に持って来ていた煎餅を一口で食らう。萃香自身は動いてはいない。大きな破砕音を立てながら、酒で飲み下す。
「一つは妖怪や幽霊全般の事。妖怪と呼ぶ前はそう呼んでたのさ。百鬼夜行って言うじゃないか。んで、例のキってのは、大陸で節句毎に祓われてた奴等よ。さて、ここまで言ったら分かるだろ?」
「生憎と全然。説明が足りなさ過ぎよ」
「そうかい? ここまで言えば分かるだろうに。まあいっか、その時期ってのは、風の変わり目、季節の代わり目の時期だろう?」
そこまで聞いて、ようやく霊夢も合点がいったようだった。
「……ああ。成程ね」
「そ。奴等は邪。風に乗って村々に襲い掛かる邪。ま、風邪の語源だねぇ」
もう説明は終えたとばかりに、とんと口を瓢箪で塞いだ。霊夢もそれ以上の関心を寄せる事なく、手に取った蜜柑の皮を毟っていたが、ふと顔を上げる。
「……ん? それなら柊鰯はどうしたのよ。犬も」
「犬は呪禁として優秀だからねぇ。ほら、鼻とかさ。だから、さ、風から邪を追い払うために、風に乗せるんだよ」
「風に乗せるって」
「凧にして揚げるのさ」
ひっく、と萃香は咽喉を鳴らす。酒に微睡んでいた眼が霊夢を窺うと、謂れなき罪悪感に苦笑を漏らした。
「そんな顔されても困るんだけど」
「そんな顔なんてしてないわよ」
そう言いながら、蜜柑を口に運ぶ。噛むと皮が破裂し、柑橘系の甘酸っぱい果汁が口一杯に広がった。ぷちゅ、ぷちゅ、と柔らかい果肉を潰していく。
「ふぅん? ま、柊鰯の方は、それに比べちゃ至極真っ当さ。……ま、ま、一杯」
どこからか取り出した酒瓶の口を縊り切って、霊夢へと差し向ける。すわ鬼の宴会かと警戒する霊夢の様子を見て萃香はずいと押し付けた。
「そう渋るなって、これが答えの一つなんだから」
「わけ分かんないわねぇ」
ぶつくさと文句を垂れながらも、空の茶器を差し出す。とっ、とっ、とくっ、と器の中で酒が跳ねた。一杯に注がれた茶器を不機嫌に見つめながら、霊夢は先を促す。
「……で?」
「それと一緒さ」
自分も手酌しながら、オニは言う。
「臭いの強い物は邪気を祓う。昔っからそう考えられていたんだ。そうだろ? 臭いの強い物は健康に良いのが多いじゃないか。酒もね」
「ふぅん。……そんだけ呑んでちゃ世話ないわね」
ほんの僅かな間に一升瓶を空にしているオニの様を半眼で見ながら、酒を口に含む。酒精が咽喉をするりと通り抜けて、肺腑に活力を与え、身体中の巡りが滑らかになるのが感じられた。もう一口。ずゅっ、と啜る。やはり、オニは笑うばかりである。
「人間の毒は妖怪の薬さね」
「あんたら鬼のでしょうが。天狗だってもう少し慎ましやかに呑むわよ」
「あいつらはつまらんのよなあ……どんだけ素面でいられるかばっか競って、酔い痴れるのを避けたがんだ。全く、何のために呑んでんだか」
「酒だから呑むんでしょ」
素っ気ない霊夢の言葉に、萃香は一際大きく哄笑した。
「ああ、そうだね。違いない。酒は呑まなきゃただの水だ。私にとっても水だけど」
「で? これから宴会のお誘いなのかしら」
「んー、それも悪くはないんだけどね。たまには、好いじゃないか。静かに呑むのも」
普段と比べて少しばかり干渉を滲ませた声音が、それ以上踏み込む事を止めさせた。らしくない声色は、やはり霊夢には馴染みがない。なれば、やはり霊夢として行動するのは、決まっていた。
「あんたらが来ない時はいっつもそうしてるわよ」
「寂しい奴だねぇ」
「あんたらが騒がし過ぎんのよ」
何も変わらずに、変えずに会話を続ける。やりようが分からないから。それなら、下手に何か変えて気遣うよりも、その事自体をなかったかのように受け入れる。
だから、目の前の寂しがり屋なオニも、霊夢にだけその内を吐露したのかもしれない。
だから。あの魔法使いの少女は、霊夢にだけその内を秘匿するのかもしれない。
結局、分からないのだけれど。
萃香がどこか遠くを見やりながら、伊吹瓢を静かに傾けるのを見ながら。
ちょっとばかりとっておきでも出そうと、霊夢は緩慢に炬燵から這い出た。
炬燵の外は、心なしかいつもよりも寒く感じられた。
博麗霊夢は思わず首を縮こまらせた。
「さっむ……」
首に巻いたマフラーにできるだけ顔を埋めようとするが、精々鼻先が隠れる程度である。再び風に吹かれると、口元を手で覆って、はあっと空しい暖を取った。
お祭り騒ぎの睦月を超えて如月に入り、宴に飽いた不信人者達は、集まる時と同じようにめいめい足を向けなくなっていた。無情である。閑古鳥すら鳴かない境内は尚の事寒々しい。
「勝手なものよね」
そうぼやきながら、霊夢は庫裡の出入り口で枝を一本飾り付けていた。辛うじてくっ付いた柊の葉と、香ばしい鰯の頭。さして手間もかからず作業を終えて、満足そうに一つ頷いた。
「よし。仕事した。炬燵炬燵」
まさしく一仕事終えたと言った達成感を顔に浮かべ、かいてもいない汗を拭い、上機嫌に家へと引っ込む。真冬における最強の結界の呪文を唱えながら、霊夢はそれが待ち受けている襖を開けた。
「……んぁあ、おー霊夢ぅー。邪魔してるよー」
いっく、としゃくり上げる音と充満した酒匂が彼女を出迎えた。
露骨に表情を変えて、霊夢は来訪者へ素早く手元へ滑らせた霊符を投げつける。存在を認識してからの一連の動作は流れるようにして、瞬きの間に終えていた。かくや、と思われた瞬間、対象の身体はさらと薄くなる。貫く事能わなかった札は、畳に鋭く突き刺さる。
ざあ、と室内の空気が蠢き、粒子が集い、やがて元通りに少女の姿を形作った。
「……何でいるのよ」
「んー? いつも通りだよ。お酒飲みに来たのさ」
赤ら顔で、そう少女はカカと笑う。横たわった小柄な体躯に反して、頭から生えた大きな両角が、動きに合わせて揺れる。
霊夢は一つ、大きな溜息を吐いて……どっかりと炬燵の中に潜り込んだ。一瞬、豆を持って来ようかと逡巡したが、幻想郷の守護者たる博麗の巫女も、寒気と炬燵の魔力には勝てなかったようである。
「何のために仕事を終えたのか、分かんなくなるわ。意味ないじゃないの」
「んー? あー、表の柊鰯ね。そりゃあ意味ないよ。キと一緒にして貰っちゃ困るなあ。そいだら犬の方が良いだろうさ」
間延びした声で鬼は、伊吹萃香はのたまった。酒のようにからりとした朗笑を轟かせ、伊吹瓢に口を付ける。幼い外見と異にして蟒蛇以上の酒豪は、休む間もなくこくりこくりと傾け続けていた。
「あん? キだって?」
「節句は本来キを祓うためのもんじゃなかったかい? 元々はオニを祓うもんじゃあないのさ」
「でもあんた、前に喜んで鬼役やってたじゃない」
「そりゃああれさ。そうなっちゃったんだから仕方ない。オニに求められるようになったんだから。それにあんな楽しい事をやらずにどうすんだってね」
「楽しいのかしら」
「楽しいよ。人間が、形式的とはいえオニを退治するんだからね。いやあ、全く以って、楽しいよ」
酔いどれた声色からは、覆い隠した感情は読み取れない。酔いのせいか、昂ったからか、細めた目は微かに潤んでいるように見えた。ぐいぐいと酒を煽り、口端から溢れようとも求め続けている。
「ふーん。で、じゃあキって何よ」
パリ、と卓上に置いていた煎餅を齧りながら、霊夢。うん、と萃香は頷き、瓢箪から口を話す。
「キってのはねえ、オニと同じく鬼って書くんだよ」
「傍迷惑ね」
「全くだ。その上二種類いやがるもんだから尚の事さ」
「面倒ね」
貰うよー、と萃香は宣言すると、手元に既に持って来ていた煎餅を一口で食らう。萃香自身は動いてはいない。大きな破砕音を立てながら、酒で飲み下す。
「一つは妖怪や幽霊全般の事。妖怪と呼ぶ前はそう呼んでたのさ。百鬼夜行って言うじゃないか。んで、例のキってのは、大陸で節句毎に祓われてた奴等よ。さて、ここまで言ったら分かるだろ?」
「生憎と全然。説明が足りなさ過ぎよ」
「そうかい? ここまで言えば分かるだろうに。まあいっか、その時期ってのは、風の変わり目、季節の代わり目の時期だろう?」
そこまで聞いて、ようやく霊夢も合点がいったようだった。
「……ああ。成程ね」
「そ。奴等は邪。風に乗って村々に襲い掛かる邪。ま、風邪の語源だねぇ」
もう説明は終えたとばかりに、とんと口を瓢箪で塞いだ。霊夢もそれ以上の関心を寄せる事なく、手に取った蜜柑の皮を毟っていたが、ふと顔を上げる。
「……ん? それなら柊鰯はどうしたのよ。犬も」
「犬は呪禁として優秀だからねぇ。ほら、鼻とかさ。だから、さ、風から邪を追い払うために、風に乗せるんだよ」
「風に乗せるって」
「凧にして揚げるのさ」
ひっく、と萃香は咽喉を鳴らす。酒に微睡んでいた眼が霊夢を窺うと、謂れなき罪悪感に苦笑を漏らした。
「そんな顔されても困るんだけど」
「そんな顔なんてしてないわよ」
そう言いながら、蜜柑を口に運ぶ。噛むと皮が破裂し、柑橘系の甘酸っぱい果汁が口一杯に広がった。ぷちゅ、ぷちゅ、と柔らかい果肉を潰していく。
「ふぅん? ま、柊鰯の方は、それに比べちゃ至極真っ当さ。……ま、ま、一杯」
どこからか取り出した酒瓶の口を縊り切って、霊夢へと差し向ける。すわ鬼の宴会かと警戒する霊夢の様子を見て萃香はずいと押し付けた。
「そう渋るなって、これが答えの一つなんだから」
「わけ分かんないわねぇ」
ぶつくさと文句を垂れながらも、空の茶器を差し出す。とっ、とっ、とくっ、と器の中で酒が跳ねた。一杯に注がれた茶器を不機嫌に見つめながら、霊夢は先を促す。
「……で?」
「それと一緒さ」
自分も手酌しながら、オニは言う。
「臭いの強い物は邪気を祓う。昔っからそう考えられていたんだ。そうだろ? 臭いの強い物は健康に良いのが多いじゃないか。酒もね」
「ふぅん。……そんだけ呑んでちゃ世話ないわね」
ほんの僅かな間に一升瓶を空にしているオニの様を半眼で見ながら、酒を口に含む。酒精が咽喉をするりと通り抜けて、肺腑に活力を与え、身体中の巡りが滑らかになるのが感じられた。もう一口。ずゅっ、と啜る。やはり、オニは笑うばかりである。
「人間の毒は妖怪の薬さね」
「あんたら鬼のでしょうが。天狗だってもう少し慎ましやかに呑むわよ」
「あいつらはつまらんのよなあ……どんだけ素面でいられるかばっか競って、酔い痴れるのを避けたがんだ。全く、何のために呑んでんだか」
「酒だから呑むんでしょ」
素っ気ない霊夢の言葉に、萃香は一際大きく哄笑した。
「ああ、そうだね。違いない。酒は呑まなきゃただの水だ。私にとっても水だけど」
「で? これから宴会のお誘いなのかしら」
「んー、それも悪くはないんだけどね。たまには、好いじゃないか。静かに呑むのも」
普段と比べて少しばかり干渉を滲ませた声音が、それ以上踏み込む事を止めさせた。らしくない声色は、やはり霊夢には馴染みがない。なれば、やはり霊夢として行動するのは、決まっていた。
「あんたらが来ない時はいっつもそうしてるわよ」
「寂しい奴だねぇ」
「あんたらが騒がし過ぎんのよ」
何も変わらずに、変えずに会話を続ける。やりようが分からないから。それなら、下手に何か変えて気遣うよりも、その事自体をなかったかのように受け入れる。
だから、目の前の寂しがり屋なオニも、霊夢にだけその内を吐露したのかもしれない。
だから。あの魔法使いの少女は、霊夢にだけその内を秘匿するのかもしれない。
結局、分からないのだけれど。
萃香がどこか遠くを見やりながら、伊吹瓢を静かに傾けるのを見ながら。
ちょっとばかりとっておきでも出そうと、霊夢は緩慢に炬燵から這い出た。
炬燵の外は、心なしかいつもよりも寒く感じられた。
萃香と霊夢が酒を飲むだけのほのぼのSSというにはしんみりしすぎているし、何か思わせぶりな台詞が多い割に真意が語られないし。
鬼とキの話は、勉強になりました。