人里の道に抜け首が出たという話が、八月のうちに四つ、五つと相次いで起こった。いずれも夕刻から明け方にかけての暗い時間帯の怪談で、うわさが広まるにつれて同様の動く生首に遭遇する者は更に増えるようになった。
私が収集したそれらのうちで、どうやら最も初めらしい事件は、貸本屋の小鈴から聞かされた話であった。
八月の一日、盛夏の夕日差しが正面から照りつける運河沿いの右岸を、当の小鈴が一人で歩いていると、人道橋の上に見慣れない女が立っていたという。女は左岸に並び立つ柳の長く揺れる葉を背後にして、両手を垂れ、遠いところを見ていた。赤い夕暮れの中でなお赤く見える着物を着て、ちりめんの帯を締めていた。肩の上までで未練無いふうに切り落とした髪の色さえ、夕日の色を赤く映していた。彼女の表情は誰かを待ちうけている人らしく見えたが、他には何といって気にかかるような点を備えていなかった。一瞥して通り過ぎようとした小鈴の目前で、いきなりその首がゴトリと音をさせて道の上に転げ落ちた。思わず悲鳴を上げて飛び退いた小鈴に向かって、首なし女の体はなお平然として立っている。しばらくの間、小鈴にはそこで何が起きているのかさえ飲み込めなかった。ところへ、少しの沈黙を置いて転がっていた首が可笑しそうに声をたてて笑いだしたのだという。
「こうやって話にすると、大したことはないみたいだけどね。実際に見るとあんなにぞっとすることはないのよ。人間の首が漬物石みたいにあっけなく落っこちるんだから。今だって、阿求の首がいきなりそこに落ちそうな気がするんだから」
小鈴はそう言いながら私の頭を両手で掴んで支える真似をしたので、私の方も胴の上に据わっている自分の首が実は甚だ不安定のような気がした。
語り終えた小鈴は、最後に青ざめた顔でお茶をすすると「この話、本に書くならついでにうちの店の宣伝もしてよ」と難しそうな頼みを付け加えてにやりとした。その貸本屋は鈴奈庵という。
私は初め、小鈴と雑談でもしようと思って訪れた鈴奈庵で思いがけず貴重な怪談を聞くことが出来た成果に、ただ単純な満足を感じた。人里に潜伏して人間を襲うという抜け首の習性について、ことによれば自分も小鈴のように襲われかねないかもしれないなどという危険はほとんど考えなかった。
小鈴に話を聞いた同じ日の夜、屋敷に帰って書斎に座っていると、そこへ家の女中が入ってきて、頼んでおいた新品の筆を出してくれた。女中はそのついでに私の机の周りに散らかっている書きかけの反故を拾い集めながら、そこでどういうわけか、さっき小鈴から聞いてきたばかりの生首のうわさをしだした。妙に思って聞いていると、こちらは彼女の伯父が体験したという話で、昨晩この屋敷の前の道であったばかりのことだという。
八月の五日、彼女の伯父は酔って帰る途中、道を稗田屋敷から七町過ぎてだらだらと下り坂になっているあたりまで歩きながら、不意になんだか背後の方が怪しくなった。伯父はさっきから下ってきた坂を振り返って見上げたが、しかし行燈を掲げて暗い夜道を見渡しても、自分を追って来る者などは居ないようだった。酔っていた彼は、そこで立ち止まって振り返った自身の行為も実際に思い違いをしたのだか、あるいは一人で意味無くふざけてみたのだか分からなくなり、また何気ないまま坂の下へ向き直ろうとした。そのとき、彼の足もとを異様な物が転がっていった。それはまず毛の塊のように見え、すぐその毛は人間の毛髪を思わせた。伯父はぎょっとして、坂を転がり落ちていくその物を目で追うと、転がる髪の中に確かに一度か二度、女の顔に違いない目鼻が見え隠れしていたという。
「その人、もうそれ以上坂を下って帰る勇気がなくなって、今朝まで御屋敷の門の下に立っていたんですよ」
話し終えると女中は何が可笑しかったのか、あとは書斎を下がるまで一人で幸せそうに笑っていた。
同日のうちに生首のうわさを二度も聞かされた私は、自然この種の妖怪の活動が活発になっている可能性を懸念した。実害無いものとはいえ、生首は気味が悪いので、屋敷や貸本屋の周りにごろごろされては困ることだと思った。
以来、里の人々から似たようなうわさがないかと聞き回ってみると、十日、十三日、十六日にも生首の目撃例が私の耳に届けられた。
店屋通りの屋根伝いにいくつもの生首が飛び跳ねわたっていくのを見たのだと、かご師の老人が話した。
団子屋の母娘が物を拾おうとして掘り炬燵を覗き込むと、中に女の生首が隠れていたらしい。
子供たちが寺子屋の帰り道で会ったという女は、宙に浮かんだ顔だけが尼装束を着て体を持っていなかった。
生首が出没する時間帯は夕方から夜にかけてで、場所は空からばらまかれたもののように人里全体に偏りなく散らばっていた。生首は必ず女であった。人相については小鈴の証言をもとに描いた似顔絵と照らし合わせてみると、いずれも絵によく似ているらしかった。
私は俄かに流行しだした怪談たちを整理し紙の上に書き並べながら、ふと、胸中に一種の動揺を感じた。それは、自分の身の回りで起きようとしている、何かまだはっきりと目に見えない不具合を予感するような、静かな動揺であった。動揺を抱えた私の思考には、小鈴が話してくれた人道橋の抜け首女の印象が見え隠れした。
二十日、私は午後からの仕事を休みにして人里へ出かけることにした。先日から編纂していた抜け首の記録に関する興味に動かされ、生首の出没現場をもう一度じかに見て回ろうと思ったのだった。
その日は厚曇りの空で、ぬるい風が道の砂埃を巻き上げてばかりいた。はっきりとしない空模様に遠慮してか、大通りに来てみても話している人々の声は普段より低くひそめがちに思われる。私は陰気を感じた。しかも、例の怪談が流行するようになってからは、見慣れた人里の往来を歩いていても、その陰には見るべからざるものが転がっているような気がするのだった。
「抜け首って、こんな風にそこらじゅうを首だらけにするものだったかしら」
違和感の正体を確認するような問いが、私の胸中に幾度も浮かんできた。しかし、こんなことを幾度問われたところで私にはそうとも違うとも決めようがなかった。
「全体どうして今になって抜け首が活発になっているのかしら。下剋上の騒動だってもう済んだはずなのに」
これも私には分りようのない疑問だった。私は店店の瓦を見上げながら黙々として歩き続けた。
やがて埃っぽい店屋通りを北へ抜け、行き当たりの運河を東へ折れた。小鈴が話してくれた件の人道橋はそこから八町ほど先に見えた。これは狭い川幅に短く架けられた素朴な平橋で、「人道橋」という名前さえ刻んでいない。橋を渡る人はまれであった。
私は橋の上に立ち、八月の一日に抜け首に驚かされて逃げ去っていった小鈴の姿をそこから想像して一人で笑った。そうしてしばらく行ったり来たりしながら周囲を調べたが、これといって妖しい痕跡などは見つけられなかった。
日はだんだんと中天を過ぎ、厚曇りの中をさらに暗い方へと隠れていった。私は橋の欄干にもたれながら、なおも抜け首のことを考えた。人々の口を騒がせている抜け首は、今もなお里のどこかに潜伏しているのだろうかと想像してみれば、全く奇妙な気分が起こる。
手すり越しに左岸の方を見やると、川沿いに並ぶ柳の葉の間に、一軒の料理屋があった。紺地の長い暖簾をかけており、さっきからそれをめくりながら娘さんが顔を出したり引っ込めたりしている。目を凝らして看板の字に焦点を合わせると「煮青屋」という店名がかろうじて読めた。これも以前に小鈴から評判を聞いたことのある店の名だった。と、私が思い出していたそのとき、不意に右の耳元で人の声が囁いた。
「あの店は妖怪が出るよ」
囁いた声は顔に息がかかるほど近かった。肩を跳ね上げて目を見開いた私の驚き方は自分ながら非常だった。それでもわずかの悲鳴さえ上げることなく、振り返って相手を見ることもしなかったのは、耳元の声に慄然とさせられたためだった。囁いた声は、若い女の声だった。
私はしばらくの間身動きが取れなかった。私は怖ろしいと思った。しかし、怖ろしくても永久にそこでじっとしているわけにはいかないので、ついには覚悟することにして顔を後ろへめぐらせた。声の女は反対側の欄干に背をもたせかかってこちらを見ていた。果たしてそれは小鈴から聞いた通りの抜け首女の格好であった。先ほどの声は、彼女が向こうの欄干からここまで頭だけを飛ばして私の耳に囁いたのだと、私には分かった。
しかし、私の直感した事実の不気味な後味とそぐわないのは、当の妖怪であろう彼女の、ひどく平凡なことであった。
「あの店、娘さんがね、前髪を上げててね、常連からはデコって呼ばれてるんだけど、それが呑気な人で、妖怪が店に来ても全然気が付かないんだ。そうして自分では一度もそんなものに化かされたことは無いって思ってるんだよ」
彼女はここまでをごく淡白に話した。私の返事も待たずに勝手にしゃべっている。代わりに、彼女の声にも目にも手にも、妖怪らしい過剰さや不足さはまるで見当たらなかった。私も気が付けば平生に近い落ち付きでそれを聞くことが出来ていた。
「デコが呑気だから、なりが多少変でも怪しまずに注文とってくれるし、都合がられて妖怪の客がよく来るようになっているんだと思う。そうしてだれもデコのことは騙したり驚かしたりしないんだよ」
彼女はまだまだ煮青屋とデコの話を続けた。彼女の様子は、やはりどうしても人間の一員としか思われない。
私は彼女が全く人間として振舞っている姿を見て、なるほど抜け首とはこういう妖怪なのだろうと思った。これが本当に捜神記に記述のある落頭民の末裔なのだという納得の感を受けた。
彼女はそのうち欄干にあずけていた背中を起こして、私の隣、丁度先ほど彼女の声が囁いていたあたりに立ち、煮青屋の方を眺めながら話を続けた。
「二日前にも、あの店に抜け首が出たんだ。知らなかっただろう?」
私はその話をもっとよく聞かせて貰いたいと言った。既に私には、この妖怪が自分の興味と疑問とを満足させてくれるために姿を現したのだという確信が出来つつあった。こんな根拠もない奇妙な考えをそのときの私は信じようとしていた。
私の求めに彼女はうんうんと簡単にうなずいて、それから「私はセキバンキ」と言った。続けてそれを書く赤蛮奇という文字を教えてくれた。おそらくそれが彼女の名前だろうと思ったので、私も「稗田阿求です」と名乗ることにした。
丁度そのとき、一艘の小舟が漕ぎ手を一人だけ乗せて人道橋をくぐり、流れを下っていった。曇天に隠れた日はもう一刻半も過ぎれば夕焼けに変わるだろうと思われた。
・
(結局、赤蛮奇からその日語られた話を、私は大体においては信じた。しかしまた、いくつかの部分には実態を覆い隠す意図の誇張や脚色を含んでいるようにも思われた。彼女の話を大体において信じながら聞き、彼女の自ら語った抜け首の事情に、一種の真実らしい滑稽さを感じた私は、かえってその滑稽な真実らしさを根拠にして話の重要な信憑性を疑わなければならなくなった。
私はそうした抜け首の印象をここに踏まえて、彼女から聞き取った最後の怪談を、本文の最後に置いた。そうであることがふさわしいと思ったのだった。)
赤蛮奇の首は、体を離れて空中を飛び回ることが出来た。彼女はこの術を使い人間を脅かす抜け首妖怪であった。人気のない暗がりで人間を待ち受けては、目前で首を外して見せることが、彼女ら抜け首の「一芸」であった。彼女も全くこの一芸の使い手であった。
彼女が人を襲うのによく選ぶ場所は、人里の大通りに近い運河のほとりであった。そこで彼女は、苦しげな声とともに自ら首をもぎ取る女になったり、背を向けて立ちながら首を真後ろまでねじり曲げたり、棒立ちの姿勢から目を疑うほどあっけなく首を落としたりする。その光景を見せられた人間が驚いて逃げてしまうと、彼女はまた首を胴の上にすえ直して人間が通りかかるのを待つのだった。こんな奇妙な一芸を、もうどれくらい繰り返してきたのだか、彼女は思い出すことが出来ない。
それでいながら、彼女は人里で日々を暮らしていた。人間に紛れてひっそりと往来を歩き、数軒の料理屋や宿屋では常連客として覚えられてもいた。一時期などはそうした店で臨時の手伝いをして労働賃金をもらったことさえあった。ただ、商売道具の顔だけは見られないようにと、普段から襟の高い服を着て口元まで隠していた。
抜け首という種族は、外見の上にも性格の上にも人間とほとんど変わる所が少なく、そうした擬態生活は容易であるより先に自然なことであった。
人間として目立つことなく人中になじんでいた彼女は、しかし抜け首としては決して平凡ではなかった。
彼女は抜け首の一芸を長年にわたり続け、既にその手口も手際も、妖怪として見事に一級の域に入っていると、密かに自ら誇っていた。そうした長年の熟練と工夫とを経て、あるとき気が付くと、彼女の一芸は既に原点から随分遠いところまで発達していた。
彼女は空中に浮遊させた自分の首を分身させ、そっくり同じ首をいくつにも増やす術を身につけていた。増やした首たちは各自勝手に飛び回った。うちの一個が胴体におさまり号令をかけると、他は焼酎火のようにふっと薄れて消えていった。彼女はさらに術力を高め、ついには最大で九個まで首を増やすことが出来るようになった。彼女は抜け首の一芸を一つの到達点にまで持ってきたと思った。
「私は抜け首の一芸を一つの到達点にまで持ってきたぞ」
周囲に浮かんだ八個の首たちも皆そうだそうだと頷いた。
彼女は自分とそっくりな八個の首たちを見回して、互いに不思議を感じた。どれも頬の色が白く、丸い目をわざと半目に細めた天邪鬼な自分の顔である。そうしてそれらは少しの集中力と術力で作り出すことが出来、号令一つで容易に消すことが出来るのである。
彼女は、つい先日までは人間を脅かすために備わっているという以外には何らの実感も持っていなかった自身の能力に、何か重大な意味でもあるように思ったりした。
「この能力は、何を意味しているのだろう」
周囲に浮かんだ八個の首のうち四個は瞑目して難しそうに唸った。そうではない四個は黙って眉をひそめた。
「ともかく、この術で人間を脅かそう」
抜け首の術に新たな地平を開いた彼女は、いつの間にかまた元の方面に向けて進むことを考えていた。結局、「どのくらい人間に怖れられるか」ということが、彼女ら妖怪には最も単純で相応な名誉の物差しであった。
彼女は早速複数の生首を活用する手口を即席で考え出し実行した。その手口は、夕暮れの運河に立って待ち構え、胴から首を切り離して驚かせるいつもの一芸に加えて、草むらからさらにいくつもの生首がごろごろ転がり出てくるというもので、主に生首を増やしたことによる効果を測る目的であったが、結果は案外なほど成功した。運悪く通りがかり標的となった反物屋の姉妹は、九個の生首に取り囲まれただけで二人揃って卒倒してしまった。事件は翌々日の天狗新聞に報じられ、人里で評判となった。この成功には彼女もある程度満足であったが、しかし事件が報じられた新聞を読んで考えてみると、この手口は流石に稚拙過ぎるようで、こんな程度の仕事が有名になることは心外と思った。
心外と思った彼女は、その後も複数の首を使いより効果的に人間に怖れられる方法を研究し続けた。
「最初の試験で用いた手口は成果を収めたが、この新しい能力に見合う新しい成果ではない。誰にも真似の出来ない能力なら、誰にも真似の出来ない成果を上げられるように活用しなければ工夫が無さすぎる」
こういうことを幾度も思った。彼女はさらに数年をかけて数十もの手口を考案し、気に入った案から少しずつ試験していった。
その間も、彼女は人里にひっそりと暮らし、人間に擬態することを忘れていなかった。もともと彼女が人間を襲う頻度は普通の妖怪に比べると遥かに少なかったが、首の数を増やせるようになってからはそれまで以上に慎重を心がけ、人間を襲いはしても目立ち過ぎて退治されてしまわない程度に自制していた。昨年だけは下剋上騒動に影響されて温厚な彼女も人間を襲う頻度を増したが、それでさえ凶暴化した妖怪全体の中ではさほど際立ちはしなかった。
今年の初夏になり、彼女は自身の新しい能力について研究する中で、ある画期的かもしれない手口を思いついた。
思いつきのきっかけとなったのは、その日、夕暮れの人道橋において貸本屋の娘を襲ったことであった。
彼女は、一瞥して通り過ぎようとした娘の目前で、いきなりその首をゴトリと道の上に転げ落とし、娘を仰天させた。大慌てで逃げていく娘の背中を地面に転がる首の目線から見送ると、彼女は満足して胴の上に戻ろうと思った。そうして首のまま浮き上がり、振り返って、夕暗がりの中で自身の首無し胴体を見た。彼女はふと面白そうなことを思った。
「この体だけでも、十分怖ろしい妖怪として通用するに違いない。きっと襲う相手や場所によっては、首を飛ばすのではなく、動く首無し胴体として登場した方がぞっとするんじゃないか」
思いつきの出立点はこのようなものだった。
彼女はまた思った。
「この体と同じように、もしかしたらこの首だけでも妖怪として通用するかもしれない」
ここまで思ってみた彼女は、すぐにそれを昨今の研究課題、複数の首を活用する道に結びつけた。そうしてついに、自身の首を増やし、独立したそれのみで人間を襲わせることを思いついたのだった。
「きっとこういうことだ。この新しい能力はこうやって使うべきものなんだ。この手口は画期的かもしれない」
「画期的」という言葉が、彼女の頭上で誇らしく光った。
それから三日間の検証と事前練習を行い、四日後の深夜、新たな手口を実行した。
増やした首に独立して人間を襲わせる、その方法は簡単であった。彼女はまず人里の夜道に立って得意の術を使い、胴の上にすわっている首の頭上に同一の首をもう一個出現させた。そうして宙に浮かんでいるその首を見上げて「人間を脅かしに行け」と言った。首は心得顔で「よし、任せろ」とすぐ返事をして、長屋の屋根を飛び越え、里の西側へと飛んでいった。彼女の試みたことはそれだけであった。
「よし、任せろ」と言って飛び去った彼女の首は、翌朝まで待っても彼女のもとへ帰って来なかった。しかし、蕎麦屋に入って昼食をとっていると、他の客の口から聞こえてきたのは生首のうわさである。昨夜遅く、人里の道で女の生首に手を咬まれた人があるという。あの首は確かに昨夜のうちに仕事を一件し遂げていた。
彼女は道の上でまた二晩待ち受けた。しかし、それでもやはり首は帰って来なかった。さらには、その二日の間にも首が人を襲ったといううわさが新しく起こった。
「あの首は『人間を脅かしにいけ』という私の言葉を引き受けて、そうして私の仕事をすっかりあずかったんだ。いつまでも胴体のもとには帰らずに、独立して人間を襲い続けるだろう。試験は成功したんだ」
彼女は気が付いた。そうして寝床へ帰って眠ることにした。
その日から、彼女は夜になっても表を出歩かずに寝床で眠るようになった。
「胴体にすわっている自分が人間を襲わなくても、離れた首の方が勝手に人間を襲ってくれる。これで十分に赤蛮奇が怖れられる」
彼女が毎夜眠っている間にも、首は次々と事件を起こし人間を怖れさせた。首が人間を襲う頻度は、以前の彼女自身が慎重にしていた頃より十倍ほどにもなっていたが、もし仮に首の方が退治されてしまっても危険は胴体まで及ばないので非常に安心であった。彼女は首を増やして胴体から独立させることにより、これまで以上に堂々と人間を襲い、同時にこれまで以上に堂々と世間の目を横切り暮らしていた。
まだ蝉の鳴きださない初夏の日頃、首に仕事をあずけた彼女の生活は静かであった。
彼女は首を飛ばして見送ったあの夜の道沿いに宿を借りて、二階の窓から往来を見下ろしてみた。日差しの強まる昼下がりの中で蟻のように並んで行き交う人々の列を見ていると、実に多くの人間が毎日この道を端から端まで通り、どこかへ向かおうとしていることが分かる。まれに立ち止まる者があると、二階から見下ろす彼女の方へ不思議そうな視線を投げてまたすぐ去っていくのが大概であった。そうした時、初夏の日頃の静かさは彼女の背中に染み込むような気がした。
彼女は毎日人里を歩きながら、自分の放った首が次々と人を襲い話題になっているのを聞いた。首のうわさについて何やら大袈裟に調査している人間もあるらしかった。彼女は奇妙さを感じた。もっとも、その奇妙さのうちにはまだ、完全に人間として生活しながら、妖怪としてこれほど容易に名を上げ続けている自分への満足がひそんでいた。奇妙さを感じながらも満足していたこの頃の彼女は、もうしばらく首の働きぶりを観察し欠陥がなければさらに作り出せる七個の首を全て人里に放ってやろうとさえ考えていた。
静かな生活を暮らす彼女の満足はしかし、あまり長続はしなかった。
ある夕、小雨が降った。彼女はふと思い立ち、ここしばらく通っていなかった橋向こうの煮青屋へ行くことにした。
彼女は拾いものの傘を担いで柳の並ぶ運河沿いを川下へと歩き、人道橋が見えるあたりまで来た。すると、そこから橋の上に黒い案山子のような人影が立って水の中を覗いているのが見えた。頭から足もとまですっぽりと覆う黒布をかぶったのみの格好で、傘も差さずに濡れながらじっと立っている。夕暮れの薄暗い中で、影にはぼんやりと白い顔が浮かんでいた。
彼女にはそれが人里に放った自分のもう一つの首であるとすぐに分かった。こうして橋に立って水面を見ているのは、橋の下を通る小舟に上から首を落として驚かせるためであろうことも知っていた。しかし、それを見るより前に、気がつくと彼女は元来た道を足早に引き返していた。
人道橋の上で人間を待ち受ける自分の首を見たとき、彼女は今更のように驚きを感じた。
「あの首だけでも、十分妖怪として通用する」
それは、つい数日前に人道橋の上で彼女が自身の首無し胴体を見上げながら面白さとともに考えたことの反復であった。しかしながら、今日彼女の胸に差しこんだそれは、不安を帯びた驚きであった。小雨の降る橋で黒い影になって浮かんでいる首は、切り離されて飛び去ってしまった彼女の妖怪性そのもののように見えた。
影から逃れようとするように、彼女は宿へ戻ったが、胸の不安はいつまでも消えずに残り続けた。
彼女は不安とともにある大きな疑問を抱いていた。
「あの首の名誉は、私の名誉なんだろうか?」
首のうわさは人々の口を伝って聞こえ続け、胴体の彼女が関わらない場所でその存在をどんどんと大きく怖ろしくしている。そうした怪談と実態との乖離が、彼女の妖怪としての名誉を遠いところへやってしまった。彼女には、あの首がもはや自分から離れた一個の妖怪であって、首の名誉は自分の名誉ではないように思われたのだった。
彼女は心細くなってしまった。画期的であるはずの自分の新手口は、大きな失敗であったかもしれないと思った。
不安な感じは一旦起こると日増しにざわざわした。もう二日、考え込む日が過ぎると、彼女は首の起こした事件のうわさを耳にしても、怖れられている妖怪が自分であるとは聞こえなくなってしまった。
夜は宿の二階から無人の往来を見下ろしながら、落ち付きのない態度でため息ばかり吐いた。せっかくの画期的新手口に始末の付けようもない欠陥を発見してしまった彼女は、この能力の扱いづらい不思議さに呆れるような気がした。一体、この初夏に起こった一連の首騒動が自分の名誉でないとしたら、自分がしたことは何であったのだろうと思った。
八月の十八日、彼女はついに例の首を消してしまうことに決心した。不安と疑問は重荷のように彼女の背中に提がり、次第に彼女の心身を圧迫していた。もうこれ以上あの首に独立して行動させるわけにはいかなかった。
首を消すべく決心した彼女は、そのために是非人里に潜伏している首を捕まえる必要がある。彼女は赤雲の棚引く夕空の下、先日と同じように運河沿いの柳道を下り、人道橋を渡った。人道橋から運河を左岸へと渡り、またしばらく下ると紺地の長い暖簾があった。彼女は暖簾に書かれた「煮青屋」という変な名前を読み上げ、それをくぐり中へと入った。
飛び去った首は彼女の分身であり、同じ頭で考えることは胴体の彼女にも大概想像がつく。
「首の奴はあれでなかなか周到だから、何かあったときの為に私と会うことが出来る場所をどこか決めて定期的に顔を出しているはずだ。それは私の行きつけで、妖怪が出入りしても気づかれない煮青屋に決まっている」
それが彼女の読みであったが、どのみち人里の中で妖怪を探して待てる場所は限られていた。
広さ十五畳ほどの店内を素早く見回すと、彼女の他には六人ほどの客が居て、既に酒を飲んでいる。彼女は四人掛けの卓が並ぶ中で最も奥まった一角に案内もなく座った。相変わらず呑気そうな顔をしている娘はこれを見て「まあ」と言い、ひたいを少し仰向かせて驚いていたが、すぐに平生の調子に戻って湯飲みを出した。彼女は酒を一杯だけ頼んで湯飲みの煎茶と交互に少しずつ飲んだ。
店内は壁も床も板ばかりで飾り気は薄いが、炊事場の熱気で蒸し暑いことと、酔客の声の大きいことで、小ぢんまりとした中に愛想らしい賑やかさを漂わせている。そこで彼女は待った。
それから一刻もしないうち、果たして首は来た。
暖簾をくぐって音も無く入ってきた分身を、彼女は即それと認めた。この日の首は以前見たような布の寄り合わせとは違う、丈長い黒の尼装束に潜り込んで、無い胴体をゆったりとした中に隠している。彼女が首の方を見ると、首も彼女の方を見返して不思議そうな顔をした。頬の色が白く、丸い目をわざと半目に細めた、天邪鬼な自分の顔である。
首は同じ卓の右斜め向かいに滑り込んで「よう」と短く挨拶したが、彼女は何も言わず湯飲みの中に目を落としていた。やがてデコが湯飲みをもう一つ持ってくると、首も同じく中を見るようにした。両客の顔がそっくりと同じであることにも、デコはまるで気が付かなかった。
卓の上に奇妙な時間が流れた。四人掛けの卓を斜めに相席した二人は賑やかな店内で一言も交わさず、鏡のような互いの顔を眺める代わりに、湯飲みの中に映る自分の顔を見つめている。実際にそれが何秒ほどの時間であったのか、そのときの彼女の意識には判然としなかったが、そのうちのある一瞬に薄いもやのように拡散した感覚が彼女の胸中を包み、彼女は自分の言うべき言葉、やろうとしていたことさえ分からなくなった。
彼女が「もう消えろ」と一言号令すれば、首は消える。それは単純なことであったが、彼女は容易に号令をかけなかった。
「このまま首を消せば、私はもとの一人に戻る。私はまた以前のように、人間を驚かせて暮らすことになる。でも、本当にそれで私は、私の名誉を持てるようになるだろうか?」
このとき初めて彼女の中に浮かんだ迷いは、離れていった首にではなく、以前の自分自身に対する疑念であった。彼女は湯飲みの中の顔をいよいよ深く見つめた。
「考えてみれば、以前の生活だって、今の生活とそう違ったものじゃなかったのかもしれない。以前だって、普段の私はまったく人間として生活していた。妖怪であることは誰にも隠していた。一体、以前の私が、一カ月のうちで、妖怪としてふるまう時間はどれくらいあったろう? 運河沿いの道に立って胴体から首を外したその瞬間だけ? 以前の生活に戻っても、人間に紛れて顔を隠したまま人を脅かす、そんな自分の名誉はどこにあるのだろう?」
迷いは彼女の自己を遠いところへと連れ去って、目を回させた。
湯面に映る顔は手から伝わる震えを受けて揺れ立ち、次第に崩れて見えなくなった。彼女はもういっそのこと、居苦しい沈黙の中からこれを飲みほして店を出てしまいたい気がした。煮青屋を出て、人道橋を渡り、運河沿いの柳道をどこまでも下って行ってしまいたい気がしたが、そこへちょうど気を利かせたデコが彼女の湯飲みを取り上げて煎茶をなみなみと注ぎ足したので、残りを一息に飲めなくなってしまった。うつむいて黙っているばかりで注文をくれない両客をデコはどう思ったのか、しばらくその場で黒い眉を寄せていたが、やがてまた店の奥へと戻っていった。
「どうすることも出来ない。どうすることも出来ないのなら、それまでだ」
そう思いながら彼女はため息して卓の右斜め向かいを見た。すると、いつの間にそうしていたのか、先方は椅子から浮き立ち上がり、丈長い尼装束をひらひらさせて彼女を見下ろしている。その口元には、ある種の得意さを含みながら笑みを浮かべていた。
「妖怪だ」
首はおもむろに笑みを消し、そう言った。
「こいつは抜け首だ、飛頭蛮だ!」
首は店中の客に聞こえるよう、大声を出して言った。彼女は反射的に立ち上がり首の僧衣を捕まえようとしたが、首は脇に身をかわしながら「こいつは抜け首だ、飛頭蛮だ!」を再度繰り返した。騒がしかった店内の酔客六七人全員が、これを聞くなり犬の群れのように一斉に黙った。
「こいつは抜け首だ、飛頭蛮だ!」
瞬間呆然となった店内に、首は三度繰り返した。緊張が質量と密度をともなって訪れた。入口に近い席を領していた二三人の若者が立ちあがり、赤い顔に警戒の色を浮かべた。それ以外の客も皆一様に身を固くして振り返った。そこにある全ての視線が彼女へと注がれていた。焦燥感と部屋の熱気が水滴となり彼女のひたいを伝った。彼女は、自分のもう一つの首を睨んだ。
突如、彼女はある感情に支配され、夢から覚めたように胸中の不安を掃った。彼女は括然としてその場に突き立ち、忘れかけていた抜け首の真髄と、自分の中の矛盾に一貫して通る過去の軌跡を想起した。今夜のような場合に使うべき一芸を、彼女は百年前から用意していたのだった。
「抜け首だって?」
沈黙の中、一度周囲の酔客を順々に睨み、最後にまた首の顔へ向き合うと、彼女は思い切ったように首元の襟を開き、白い喉首をさらした。
「なら首を切ってみろ! 私の首を切ってみろ!」
彼女は身を乗り出し、目はまばたき一つさえせず、挑むような熱烈さで、しかし真面目に繰り返した。
「私の首を切ってみろ!」
白く細い喉首を、彼女は三度叫んで差しだした。煮青屋は深閑として、得体のしれない恐怖があたりに立ち込めた。
その時、彼女の中には名誉も不安も無く、必要な物も不要な物も何も無かった。ただ一種霊妙な喜ばしさとともに、寒いような妖気が全身を巡っていた。
彼女を見下ろすもう一つの首は、何とも言えない愉快そうな顔をして、焼酎火のようにふっと消えた。
私が収集したそれらのうちで、どうやら最も初めらしい事件は、貸本屋の小鈴から聞かされた話であった。
八月の一日、盛夏の夕日差しが正面から照りつける運河沿いの右岸を、当の小鈴が一人で歩いていると、人道橋の上に見慣れない女が立っていたという。女は左岸に並び立つ柳の長く揺れる葉を背後にして、両手を垂れ、遠いところを見ていた。赤い夕暮れの中でなお赤く見える着物を着て、ちりめんの帯を締めていた。肩の上までで未練無いふうに切り落とした髪の色さえ、夕日の色を赤く映していた。彼女の表情は誰かを待ちうけている人らしく見えたが、他には何といって気にかかるような点を備えていなかった。一瞥して通り過ぎようとした小鈴の目前で、いきなりその首がゴトリと音をさせて道の上に転げ落ちた。思わず悲鳴を上げて飛び退いた小鈴に向かって、首なし女の体はなお平然として立っている。しばらくの間、小鈴にはそこで何が起きているのかさえ飲み込めなかった。ところへ、少しの沈黙を置いて転がっていた首が可笑しそうに声をたてて笑いだしたのだという。
「こうやって話にすると、大したことはないみたいだけどね。実際に見るとあんなにぞっとすることはないのよ。人間の首が漬物石みたいにあっけなく落っこちるんだから。今だって、阿求の首がいきなりそこに落ちそうな気がするんだから」
小鈴はそう言いながら私の頭を両手で掴んで支える真似をしたので、私の方も胴の上に据わっている自分の首が実は甚だ不安定のような気がした。
語り終えた小鈴は、最後に青ざめた顔でお茶をすすると「この話、本に書くならついでにうちの店の宣伝もしてよ」と難しそうな頼みを付け加えてにやりとした。その貸本屋は鈴奈庵という。
私は初め、小鈴と雑談でもしようと思って訪れた鈴奈庵で思いがけず貴重な怪談を聞くことが出来た成果に、ただ単純な満足を感じた。人里に潜伏して人間を襲うという抜け首の習性について、ことによれば自分も小鈴のように襲われかねないかもしれないなどという危険はほとんど考えなかった。
小鈴に話を聞いた同じ日の夜、屋敷に帰って書斎に座っていると、そこへ家の女中が入ってきて、頼んでおいた新品の筆を出してくれた。女中はそのついでに私の机の周りに散らかっている書きかけの反故を拾い集めながら、そこでどういうわけか、さっき小鈴から聞いてきたばかりの生首のうわさをしだした。妙に思って聞いていると、こちらは彼女の伯父が体験したという話で、昨晩この屋敷の前の道であったばかりのことだという。
八月の五日、彼女の伯父は酔って帰る途中、道を稗田屋敷から七町過ぎてだらだらと下り坂になっているあたりまで歩きながら、不意になんだか背後の方が怪しくなった。伯父はさっきから下ってきた坂を振り返って見上げたが、しかし行燈を掲げて暗い夜道を見渡しても、自分を追って来る者などは居ないようだった。酔っていた彼は、そこで立ち止まって振り返った自身の行為も実際に思い違いをしたのだか、あるいは一人で意味無くふざけてみたのだか分からなくなり、また何気ないまま坂の下へ向き直ろうとした。そのとき、彼の足もとを異様な物が転がっていった。それはまず毛の塊のように見え、すぐその毛は人間の毛髪を思わせた。伯父はぎょっとして、坂を転がり落ちていくその物を目で追うと、転がる髪の中に確かに一度か二度、女の顔に違いない目鼻が見え隠れしていたという。
「その人、もうそれ以上坂を下って帰る勇気がなくなって、今朝まで御屋敷の門の下に立っていたんですよ」
話し終えると女中は何が可笑しかったのか、あとは書斎を下がるまで一人で幸せそうに笑っていた。
同日のうちに生首のうわさを二度も聞かされた私は、自然この種の妖怪の活動が活発になっている可能性を懸念した。実害無いものとはいえ、生首は気味が悪いので、屋敷や貸本屋の周りにごろごろされては困ることだと思った。
以来、里の人々から似たようなうわさがないかと聞き回ってみると、十日、十三日、十六日にも生首の目撃例が私の耳に届けられた。
店屋通りの屋根伝いにいくつもの生首が飛び跳ねわたっていくのを見たのだと、かご師の老人が話した。
団子屋の母娘が物を拾おうとして掘り炬燵を覗き込むと、中に女の生首が隠れていたらしい。
子供たちが寺子屋の帰り道で会ったという女は、宙に浮かんだ顔だけが尼装束を着て体を持っていなかった。
生首が出没する時間帯は夕方から夜にかけてで、場所は空からばらまかれたもののように人里全体に偏りなく散らばっていた。生首は必ず女であった。人相については小鈴の証言をもとに描いた似顔絵と照らし合わせてみると、いずれも絵によく似ているらしかった。
私は俄かに流行しだした怪談たちを整理し紙の上に書き並べながら、ふと、胸中に一種の動揺を感じた。それは、自分の身の回りで起きようとしている、何かまだはっきりと目に見えない不具合を予感するような、静かな動揺であった。動揺を抱えた私の思考には、小鈴が話してくれた人道橋の抜け首女の印象が見え隠れした。
二十日、私は午後からの仕事を休みにして人里へ出かけることにした。先日から編纂していた抜け首の記録に関する興味に動かされ、生首の出没現場をもう一度じかに見て回ろうと思ったのだった。
その日は厚曇りの空で、ぬるい風が道の砂埃を巻き上げてばかりいた。はっきりとしない空模様に遠慮してか、大通りに来てみても話している人々の声は普段より低くひそめがちに思われる。私は陰気を感じた。しかも、例の怪談が流行するようになってからは、見慣れた人里の往来を歩いていても、その陰には見るべからざるものが転がっているような気がするのだった。
「抜け首って、こんな風にそこらじゅうを首だらけにするものだったかしら」
違和感の正体を確認するような問いが、私の胸中に幾度も浮かんできた。しかし、こんなことを幾度問われたところで私にはそうとも違うとも決めようがなかった。
「全体どうして今になって抜け首が活発になっているのかしら。下剋上の騒動だってもう済んだはずなのに」
これも私には分りようのない疑問だった。私は店店の瓦を見上げながら黙々として歩き続けた。
やがて埃っぽい店屋通りを北へ抜け、行き当たりの運河を東へ折れた。小鈴が話してくれた件の人道橋はそこから八町ほど先に見えた。これは狭い川幅に短く架けられた素朴な平橋で、「人道橋」という名前さえ刻んでいない。橋を渡る人はまれであった。
私は橋の上に立ち、八月の一日に抜け首に驚かされて逃げ去っていった小鈴の姿をそこから想像して一人で笑った。そうしてしばらく行ったり来たりしながら周囲を調べたが、これといって妖しい痕跡などは見つけられなかった。
日はだんだんと中天を過ぎ、厚曇りの中をさらに暗い方へと隠れていった。私は橋の欄干にもたれながら、なおも抜け首のことを考えた。人々の口を騒がせている抜け首は、今もなお里のどこかに潜伏しているのだろうかと想像してみれば、全く奇妙な気分が起こる。
手すり越しに左岸の方を見やると、川沿いに並ぶ柳の葉の間に、一軒の料理屋があった。紺地の長い暖簾をかけており、さっきからそれをめくりながら娘さんが顔を出したり引っ込めたりしている。目を凝らして看板の字に焦点を合わせると「煮青屋」という店名がかろうじて読めた。これも以前に小鈴から評判を聞いたことのある店の名だった。と、私が思い出していたそのとき、不意に右の耳元で人の声が囁いた。
「あの店は妖怪が出るよ」
囁いた声は顔に息がかかるほど近かった。肩を跳ね上げて目を見開いた私の驚き方は自分ながら非常だった。それでもわずかの悲鳴さえ上げることなく、振り返って相手を見ることもしなかったのは、耳元の声に慄然とさせられたためだった。囁いた声は、若い女の声だった。
私はしばらくの間身動きが取れなかった。私は怖ろしいと思った。しかし、怖ろしくても永久にそこでじっとしているわけにはいかないので、ついには覚悟することにして顔を後ろへめぐらせた。声の女は反対側の欄干に背をもたせかかってこちらを見ていた。果たしてそれは小鈴から聞いた通りの抜け首女の格好であった。先ほどの声は、彼女が向こうの欄干からここまで頭だけを飛ばして私の耳に囁いたのだと、私には分かった。
しかし、私の直感した事実の不気味な後味とそぐわないのは、当の妖怪であろう彼女の、ひどく平凡なことであった。
「あの店、娘さんがね、前髪を上げててね、常連からはデコって呼ばれてるんだけど、それが呑気な人で、妖怪が店に来ても全然気が付かないんだ。そうして自分では一度もそんなものに化かされたことは無いって思ってるんだよ」
彼女はここまでをごく淡白に話した。私の返事も待たずに勝手にしゃべっている。代わりに、彼女の声にも目にも手にも、妖怪らしい過剰さや不足さはまるで見当たらなかった。私も気が付けば平生に近い落ち付きでそれを聞くことが出来ていた。
「デコが呑気だから、なりが多少変でも怪しまずに注文とってくれるし、都合がられて妖怪の客がよく来るようになっているんだと思う。そうしてだれもデコのことは騙したり驚かしたりしないんだよ」
彼女はまだまだ煮青屋とデコの話を続けた。彼女の様子は、やはりどうしても人間の一員としか思われない。
私は彼女が全く人間として振舞っている姿を見て、なるほど抜け首とはこういう妖怪なのだろうと思った。これが本当に捜神記に記述のある落頭民の末裔なのだという納得の感を受けた。
彼女はそのうち欄干にあずけていた背中を起こして、私の隣、丁度先ほど彼女の声が囁いていたあたりに立ち、煮青屋の方を眺めながら話を続けた。
「二日前にも、あの店に抜け首が出たんだ。知らなかっただろう?」
私はその話をもっとよく聞かせて貰いたいと言った。既に私には、この妖怪が自分の興味と疑問とを満足させてくれるために姿を現したのだという確信が出来つつあった。こんな根拠もない奇妙な考えをそのときの私は信じようとしていた。
私の求めに彼女はうんうんと簡単にうなずいて、それから「私はセキバンキ」と言った。続けてそれを書く赤蛮奇という文字を教えてくれた。おそらくそれが彼女の名前だろうと思ったので、私も「稗田阿求です」と名乗ることにした。
丁度そのとき、一艘の小舟が漕ぎ手を一人だけ乗せて人道橋をくぐり、流れを下っていった。曇天に隠れた日はもう一刻半も過ぎれば夕焼けに変わるだろうと思われた。
・
(結局、赤蛮奇からその日語られた話を、私は大体においては信じた。しかしまた、いくつかの部分には実態を覆い隠す意図の誇張や脚色を含んでいるようにも思われた。彼女の話を大体において信じながら聞き、彼女の自ら語った抜け首の事情に、一種の真実らしい滑稽さを感じた私は、かえってその滑稽な真実らしさを根拠にして話の重要な信憑性を疑わなければならなくなった。
私はそうした抜け首の印象をここに踏まえて、彼女から聞き取った最後の怪談を、本文の最後に置いた。そうであることがふさわしいと思ったのだった。)
赤蛮奇の首は、体を離れて空中を飛び回ることが出来た。彼女はこの術を使い人間を脅かす抜け首妖怪であった。人気のない暗がりで人間を待ち受けては、目前で首を外して見せることが、彼女ら抜け首の「一芸」であった。彼女も全くこの一芸の使い手であった。
彼女が人を襲うのによく選ぶ場所は、人里の大通りに近い運河のほとりであった。そこで彼女は、苦しげな声とともに自ら首をもぎ取る女になったり、背を向けて立ちながら首を真後ろまでねじり曲げたり、棒立ちの姿勢から目を疑うほどあっけなく首を落としたりする。その光景を見せられた人間が驚いて逃げてしまうと、彼女はまた首を胴の上にすえ直して人間が通りかかるのを待つのだった。こんな奇妙な一芸を、もうどれくらい繰り返してきたのだか、彼女は思い出すことが出来ない。
それでいながら、彼女は人里で日々を暮らしていた。人間に紛れてひっそりと往来を歩き、数軒の料理屋や宿屋では常連客として覚えられてもいた。一時期などはそうした店で臨時の手伝いをして労働賃金をもらったことさえあった。ただ、商売道具の顔だけは見られないようにと、普段から襟の高い服を着て口元まで隠していた。
抜け首という種族は、外見の上にも性格の上にも人間とほとんど変わる所が少なく、そうした擬態生活は容易であるより先に自然なことであった。
人間として目立つことなく人中になじんでいた彼女は、しかし抜け首としては決して平凡ではなかった。
彼女は抜け首の一芸を長年にわたり続け、既にその手口も手際も、妖怪として見事に一級の域に入っていると、密かに自ら誇っていた。そうした長年の熟練と工夫とを経て、あるとき気が付くと、彼女の一芸は既に原点から随分遠いところまで発達していた。
彼女は空中に浮遊させた自分の首を分身させ、そっくり同じ首をいくつにも増やす術を身につけていた。増やした首たちは各自勝手に飛び回った。うちの一個が胴体におさまり号令をかけると、他は焼酎火のようにふっと薄れて消えていった。彼女はさらに術力を高め、ついには最大で九個まで首を増やすことが出来るようになった。彼女は抜け首の一芸を一つの到達点にまで持ってきたと思った。
「私は抜け首の一芸を一つの到達点にまで持ってきたぞ」
周囲に浮かんだ八個の首たちも皆そうだそうだと頷いた。
彼女は自分とそっくりな八個の首たちを見回して、互いに不思議を感じた。どれも頬の色が白く、丸い目をわざと半目に細めた天邪鬼な自分の顔である。そうしてそれらは少しの集中力と術力で作り出すことが出来、号令一つで容易に消すことが出来るのである。
彼女は、つい先日までは人間を脅かすために備わっているという以外には何らの実感も持っていなかった自身の能力に、何か重大な意味でもあるように思ったりした。
「この能力は、何を意味しているのだろう」
周囲に浮かんだ八個の首のうち四個は瞑目して難しそうに唸った。そうではない四個は黙って眉をひそめた。
「ともかく、この術で人間を脅かそう」
抜け首の術に新たな地平を開いた彼女は、いつの間にかまた元の方面に向けて進むことを考えていた。結局、「どのくらい人間に怖れられるか」ということが、彼女ら妖怪には最も単純で相応な名誉の物差しであった。
彼女は早速複数の生首を活用する手口を即席で考え出し実行した。その手口は、夕暮れの運河に立って待ち構え、胴から首を切り離して驚かせるいつもの一芸に加えて、草むらからさらにいくつもの生首がごろごろ転がり出てくるというもので、主に生首を増やしたことによる効果を測る目的であったが、結果は案外なほど成功した。運悪く通りがかり標的となった反物屋の姉妹は、九個の生首に取り囲まれただけで二人揃って卒倒してしまった。事件は翌々日の天狗新聞に報じられ、人里で評判となった。この成功には彼女もある程度満足であったが、しかし事件が報じられた新聞を読んで考えてみると、この手口は流石に稚拙過ぎるようで、こんな程度の仕事が有名になることは心外と思った。
心外と思った彼女は、その後も複数の首を使いより効果的に人間に怖れられる方法を研究し続けた。
「最初の試験で用いた手口は成果を収めたが、この新しい能力に見合う新しい成果ではない。誰にも真似の出来ない能力なら、誰にも真似の出来ない成果を上げられるように活用しなければ工夫が無さすぎる」
こういうことを幾度も思った。彼女はさらに数年をかけて数十もの手口を考案し、気に入った案から少しずつ試験していった。
その間も、彼女は人里にひっそりと暮らし、人間に擬態することを忘れていなかった。もともと彼女が人間を襲う頻度は普通の妖怪に比べると遥かに少なかったが、首の数を増やせるようになってからはそれまで以上に慎重を心がけ、人間を襲いはしても目立ち過ぎて退治されてしまわない程度に自制していた。昨年だけは下剋上騒動に影響されて温厚な彼女も人間を襲う頻度を増したが、それでさえ凶暴化した妖怪全体の中ではさほど際立ちはしなかった。
今年の初夏になり、彼女は自身の新しい能力について研究する中で、ある画期的かもしれない手口を思いついた。
思いつきのきっかけとなったのは、その日、夕暮れの人道橋において貸本屋の娘を襲ったことであった。
彼女は、一瞥して通り過ぎようとした娘の目前で、いきなりその首をゴトリと道の上に転げ落とし、娘を仰天させた。大慌てで逃げていく娘の背中を地面に転がる首の目線から見送ると、彼女は満足して胴の上に戻ろうと思った。そうして首のまま浮き上がり、振り返って、夕暗がりの中で自身の首無し胴体を見た。彼女はふと面白そうなことを思った。
「この体だけでも、十分怖ろしい妖怪として通用するに違いない。きっと襲う相手や場所によっては、首を飛ばすのではなく、動く首無し胴体として登場した方がぞっとするんじゃないか」
思いつきの出立点はこのようなものだった。
彼女はまた思った。
「この体と同じように、もしかしたらこの首だけでも妖怪として通用するかもしれない」
ここまで思ってみた彼女は、すぐにそれを昨今の研究課題、複数の首を活用する道に結びつけた。そうしてついに、自身の首を増やし、独立したそれのみで人間を襲わせることを思いついたのだった。
「きっとこういうことだ。この新しい能力はこうやって使うべきものなんだ。この手口は画期的かもしれない」
「画期的」という言葉が、彼女の頭上で誇らしく光った。
それから三日間の検証と事前練習を行い、四日後の深夜、新たな手口を実行した。
増やした首に独立して人間を襲わせる、その方法は簡単であった。彼女はまず人里の夜道に立って得意の術を使い、胴の上にすわっている首の頭上に同一の首をもう一個出現させた。そうして宙に浮かんでいるその首を見上げて「人間を脅かしに行け」と言った。首は心得顔で「よし、任せろ」とすぐ返事をして、長屋の屋根を飛び越え、里の西側へと飛んでいった。彼女の試みたことはそれだけであった。
「よし、任せろ」と言って飛び去った彼女の首は、翌朝まで待っても彼女のもとへ帰って来なかった。しかし、蕎麦屋に入って昼食をとっていると、他の客の口から聞こえてきたのは生首のうわさである。昨夜遅く、人里の道で女の生首に手を咬まれた人があるという。あの首は確かに昨夜のうちに仕事を一件し遂げていた。
彼女は道の上でまた二晩待ち受けた。しかし、それでもやはり首は帰って来なかった。さらには、その二日の間にも首が人を襲ったといううわさが新しく起こった。
「あの首は『人間を脅かしにいけ』という私の言葉を引き受けて、そうして私の仕事をすっかりあずかったんだ。いつまでも胴体のもとには帰らずに、独立して人間を襲い続けるだろう。試験は成功したんだ」
彼女は気が付いた。そうして寝床へ帰って眠ることにした。
その日から、彼女は夜になっても表を出歩かずに寝床で眠るようになった。
「胴体にすわっている自分が人間を襲わなくても、離れた首の方が勝手に人間を襲ってくれる。これで十分に赤蛮奇が怖れられる」
彼女が毎夜眠っている間にも、首は次々と事件を起こし人間を怖れさせた。首が人間を襲う頻度は、以前の彼女自身が慎重にしていた頃より十倍ほどにもなっていたが、もし仮に首の方が退治されてしまっても危険は胴体まで及ばないので非常に安心であった。彼女は首を増やして胴体から独立させることにより、これまで以上に堂々と人間を襲い、同時にこれまで以上に堂々と世間の目を横切り暮らしていた。
まだ蝉の鳴きださない初夏の日頃、首に仕事をあずけた彼女の生活は静かであった。
彼女は首を飛ばして見送ったあの夜の道沿いに宿を借りて、二階の窓から往来を見下ろしてみた。日差しの強まる昼下がりの中で蟻のように並んで行き交う人々の列を見ていると、実に多くの人間が毎日この道を端から端まで通り、どこかへ向かおうとしていることが分かる。まれに立ち止まる者があると、二階から見下ろす彼女の方へ不思議そうな視線を投げてまたすぐ去っていくのが大概であった。そうした時、初夏の日頃の静かさは彼女の背中に染み込むような気がした。
彼女は毎日人里を歩きながら、自分の放った首が次々と人を襲い話題になっているのを聞いた。首のうわさについて何やら大袈裟に調査している人間もあるらしかった。彼女は奇妙さを感じた。もっとも、その奇妙さのうちにはまだ、完全に人間として生活しながら、妖怪としてこれほど容易に名を上げ続けている自分への満足がひそんでいた。奇妙さを感じながらも満足していたこの頃の彼女は、もうしばらく首の働きぶりを観察し欠陥がなければさらに作り出せる七個の首を全て人里に放ってやろうとさえ考えていた。
静かな生活を暮らす彼女の満足はしかし、あまり長続はしなかった。
ある夕、小雨が降った。彼女はふと思い立ち、ここしばらく通っていなかった橋向こうの煮青屋へ行くことにした。
彼女は拾いものの傘を担いで柳の並ぶ運河沿いを川下へと歩き、人道橋が見えるあたりまで来た。すると、そこから橋の上に黒い案山子のような人影が立って水の中を覗いているのが見えた。頭から足もとまですっぽりと覆う黒布をかぶったのみの格好で、傘も差さずに濡れながらじっと立っている。夕暮れの薄暗い中で、影にはぼんやりと白い顔が浮かんでいた。
彼女にはそれが人里に放った自分のもう一つの首であるとすぐに分かった。こうして橋に立って水面を見ているのは、橋の下を通る小舟に上から首を落として驚かせるためであろうことも知っていた。しかし、それを見るより前に、気がつくと彼女は元来た道を足早に引き返していた。
人道橋の上で人間を待ち受ける自分の首を見たとき、彼女は今更のように驚きを感じた。
「あの首だけでも、十分妖怪として通用する」
それは、つい数日前に人道橋の上で彼女が自身の首無し胴体を見上げながら面白さとともに考えたことの反復であった。しかしながら、今日彼女の胸に差しこんだそれは、不安を帯びた驚きであった。小雨の降る橋で黒い影になって浮かんでいる首は、切り離されて飛び去ってしまった彼女の妖怪性そのもののように見えた。
影から逃れようとするように、彼女は宿へ戻ったが、胸の不安はいつまでも消えずに残り続けた。
彼女は不安とともにある大きな疑問を抱いていた。
「あの首の名誉は、私の名誉なんだろうか?」
首のうわさは人々の口を伝って聞こえ続け、胴体の彼女が関わらない場所でその存在をどんどんと大きく怖ろしくしている。そうした怪談と実態との乖離が、彼女の妖怪としての名誉を遠いところへやってしまった。彼女には、あの首がもはや自分から離れた一個の妖怪であって、首の名誉は自分の名誉ではないように思われたのだった。
彼女は心細くなってしまった。画期的であるはずの自分の新手口は、大きな失敗であったかもしれないと思った。
不安な感じは一旦起こると日増しにざわざわした。もう二日、考え込む日が過ぎると、彼女は首の起こした事件のうわさを耳にしても、怖れられている妖怪が自分であるとは聞こえなくなってしまった。
夜は宿の二階から無人の往来を見下ろしながら、落ち付きのない態度でため息ばかり吐いた。せっかくの画期的新手口に始末の付けようもない欠陥を発見してしまった彼女は、この能力の扱いづらい不思議さに呆れるような気がした。一体、この初夏に起こった一連の首騒動が自分の名誉でないとしたら、自分がしたことは何であったのだろうと思った。
八月の十八日、彼女はついに例の首を消してしまうことに決心した。不安と疑問は重荷のように彼女の背中に提がり、次第に彼女の心身を圧迫していた。もうこれ以上あの首に独立して行動させるわけにはいかなかった。
首を消すべく決心した彼女は、そのために是非人里に潜伏している首を捕まえる必要がある。彼女は赤雲の棚引く夕空の下、先日と同じように運河沿いの柳道を下り、人道橋を渡った。人道橋から運河を左岸へと渡り、またしばらく下ると紺地の長い暖簾があった。彼女は暖簾に書かれた「煮青屋」という変な名前を読み上げ、それをくぐり中へと入った。
飛び去った首は彼女の分身であり、同じ頭で考えることは胴体の彼女にも大概想像がつく。
「首の奴はあれでなかなか周到だから、何かあったときの為に私と会うことが出来る場所をどこか決めて定期的に顔を出しているはずだ。それは私の行きつけで、妖怪が出入りしても気づかれない煮青屋に決まっている」
それが彼女の読みであったが、どのみち人里の中で妖怪を探して待てる場所は限られていた。
広さ十五畳ほどの店内を素早く見回すと、彼女の他には六人ほどの客が居て、既に酒を飲んでいる。彼女は四人掛けの卓が並ぶ中で最も奥まった一角に案内もなく座った。相変わらず呑気そうな顔をしている娘はこれを見て「まあ」と言い、ひたいを少し仰向かせて驚いていたが、すぐに平生の調子に戻って湯飲みを出した。彼女は酒を一杯だけ頼んで湯飲みの煎茶と交互に少しずつ飲んだ。
店内は壁も床も板ばかりで飾り気は薄いが、炊事場の熱気で蒸し暑いことと、酔客の声の大きいことで、小ぢんまりとした中に愛想らしい賑やかさを漂わせている。そこで彼女は待った。
それから一刻もしないうち、果たして首は来た。
暖簾をくぐって音も無く入ってきた分身を、彼女は即それと認めた。この日の首は以前見たような布の寄り合わせとは違う、丈長い黒の尼装束に潜り込んで、無い胴体をゆったりとした中に隠している。彼女が首の方を見ると、首も彼女の方を見返して不思議そうな顔をした。頬の色が白く、丸い目をわざと半目に細めた、天邪鬼な自分の顔である。
首は同じ卓の右斜め向かいに滑り込んで「よう」と短く挨拶したが、彼女は何も言わず湯飲みの中に目を落としていた。やがてデコが湯飲みをもう一つ持ってくると、首も同じく中を見るようにした。両客の顔がそっくりと同じであることにも、デコはまるで気が付かなかった。
卓の上に奇妙な時間が流れた。四人掛けの卓を斜めに相席した二人は賑やかな店内で一言も交わさず、鏡のような互いの顔を眺める代わりに、湯飲みの中に映る自分の顔を見つめている。実際にそれが何秒ほどの時間であったのか、そのときの彼女の意識には判然としなかったが、そのうちのある一瞬に薄いもやのように拡散した感覚が彼女の胸中を包み、彼女は自分の言うべき言葉、やろうとしていたことさえ分からなくなった。
彼女が「もう消えろ」と一言号令すれば、首は消える。それは単純なことであったが、彼女は容易に号令をかけなかった。
「このまま首を消せば、私はもとの一人に戻る。私はまた以前のように、人間を驚かせて暮らすことになる。でも、本当にそれで私は、私の名誉を持てるようになるだろうか?」
このとき初めて彼女の中に浮かんだ迷いは、離れていった首にではなく、以前の自分自身に対する疑念であった。彼女は湯飲みの中の顔をいよいよ深く見つめた。
「考えてみれば、以前の生活だって、今の生活とそう違ったものじゃなかったのかもしれない。以前だって、普段の私はまったく人間として生活していた。妖怪であることは誰にも隠していた。一体、以前の私が、一カ月のうちで、妖怪としてふるまう時間はどれくらいあったろう? 運河沿いの道に立って胴体から首を外したその瞬間だけ? 以前の生活に戻っても、人間に紛れて顔を隠したまま人を脅かす、そんな自分の名誉はどこにあるのだろう?」
迷いは彼女の自己を遠いところへと連れ去って、目を回させた。
湯面に映る顔は手から伝わる震えを受けて揺れ立ち、次第に崩れて見えなくなった。彼女はもういっそのこと、居苦しい沈黙の中からこれを飲みほして店を出てしまいたい気がした。煮青屋を出て、人道橋を渡り、運河沿いの柳道をどこまでも下って行ってしまいたい気がしたが、そこへちょうど気を利かせたデコが彼女の湯飲みを取り上げて煎茶をなみなみと注ぎ足したので、残りを一息に飲めなくなってしまった。うつむいて黙っているばかりで注文をくれない両客をデコはどう思ったのか、しばらくその場で黒い眉を寄せていたが、やがてまた店の奥へと戻っていった。
「どうすることも出来ない。どうすることも出来ないのなら、それまでだ」
そう思いながら彼女はため息して卓の右斜め向かいを見た。すると、いつの間にそうしていたのか、先方は椅子から浮き立ち上がり、丈長い尼装束をひらひらさせて彼女を見下ろしている。その口元には、ある種の得意さを含みながら笑みを浮かべていた。
「妖怪だ」
首はおもむろに笑みを消し、そう言った。
「こいつは抜け首だ、飛頭蛮だ!」
首は店中の客に聞こえるよう、大声を出して言った。彼女は反射的に立ち上がり首の僧衣を捕まえようとしたが、首は脇に身をかわしながら「こいつは抜け首だ、飛頭蛮だ!」を再度繰り返した。騒がしかった店内の酔客六七人全員が、これを聞くなり犬の群れのように一斉に黙った。
「こいつは抜け首だ、飛頭蛮だ!」
瞬間呆然となった店内に、首は三度繰り返した。緊張が質量と密度をともなって訪れた。入口に近い席を領していた二三人の若者が立ちあがり、赤い顔に警戒の色を浮かべた。それ以外の客も皆一様に身を固くして振り返った。そこにある全ての視線が彼女へと注がれていた。焦燥感と部屋の熱気が水滴となり彼女のひたいを伝った。彼女は、自分のもう一つの首を睨んだ。
突如、彼女はある感情に支配され、夢から覚めたように胸中の不安を掃った。彼女は括然としてその場に突き立ち、忘れかけていた抜け首の真髄と、自分の中の矛盾に一貫して通る過去の軌跡を想起した。今夜のような場合に使うべき一芸を、彼女は百年前から用意していたのだった。
「抜け首だって?」
沈黙の中、一度周囲の酔客を順々に睨み、最後にまた首の顔へ向き合うと、彼女は思い切ったように首元の襟を開き、白い喉首をさらした。
「なら首を切ってみろ! 私の首を切ってみろ!」
彼女は身を乗り出し、目はまばたき一つさえせず、挑むような熱烈さで、しかし真面目に繰り返した。
「私の首を切ってみろ!」
白く細い喉首を、彼女は三度叫んで差しだした。煮青屋は深閑として、得体のしれない恐怖があたりに立ち込めた。
その時、彼女の中には名誉も不安も無く、必要な物も不要な物も何も無かった。ただ一種霊妙な喜ばしさとともに、寒いような妖気が全身を巡っていた。
彼女を見下ろすもう一つの首は、何とも言えない愉快そうな顔をして、焼酎火のようにふっと消えた。
里の描写も細やかで生き生きとしていて、まるで時代劇を見たかのようでした
アイデンティティを巡るSFチックなエピソードですね。
最後に蛮奇は自分のアイデンティティを取り戻せたようで良かった。
描写の展開が上手いです。
ひねった物語の構造とても大好きで、聞き手だった阿求があからさまな注釈で蛮鬼の話を警戒させてくるのが堪らないです。信憑性に言及しているあたり、どこが嘘でどこが本当か(もしくは全部嘘!)を考えるだけで蛮鬼の出来事や思惑がいかようにも考えられて楽しいです。
とても良い作品をありがとうございます。