そりゃあ霊夢だって当然、自分が二人いればなぁ、と思ったことはある。
そろそろ秋も終わりである。鬱陶しい境内の落ち葉掃きだって二人でやればあっという間に片が付くわけだし? いや一人が掃除をして、もう一人が洗濯をするのもいいだろう。
そうでなくったって最近はどっかのアホ二人がやらかしてくれたせいで付喪神だなんだと慌しい毎日なのだ。
妖怪退治だって、霊夢が二人いればそりゃあザクザクやれるだろうさ。自分がもう一人欲しい。そう思うのは当然のこと。
だが、モノには限度というものがあるだろうとも霊夢は思うのである。
霊夢は頭を抱えた。
現実から逃避するように目を瞑ってさあ悪夢よ覚めろワン、ツー、スリーとカウントして目を開くが、世界は霊夢の願いに応えてはくれなかったようだ。
博麗神社の社務所。ちゃぶ台を挟んで対面、いつもの位置に腰掛けているのは相変わらず四人いる霧雨魔理沙である。
『とりあえず、お茶は四つ用意してくれてもいいんじゃないか?』
一つしかない湯飲みに同時に手を伸ばし、次いで牽制するように互いを見やった四人の魔理沙が異口同音にそう合唱する。
が、そう言われても霊夢としても困ってしまう。博麗神社には魔理沙用の湯飲みは一つしかないのだから。
いや、人妖問わず数多の傾奇者が来訪する博麗神社社務所である。
なんだかんだで誰にでもお茶を振舞うのが博麗霊夢であるため、そこにある湯飲みの数が少ないはずがないのであるが。
「三つ、次に来るときは専用の湯飲みを用意しておきなさい」
所謂マイカップなのだ、それらは。
神社を己の別荘か何かと勘違いしてるのか、魔理沙、咲夜、レミリア、アリス、萃香、こころ、紫、カナ、etc. といった奴らは当然のように社務所にマイ湯飲みを常駐させているのである。
そしてそれらを霊夢が勝手に他人に使うと、当然のように怒るのである。
結果、あまり広いとはいえない社務所のまあまあサイズな戸棚には、一般来客用の湯飲みが納まるスペースなど残ってはいない。
もっとも一般客が神社を訪れる事など滅多にないので、それで困ることはないのであるが。
『ちぇ、しゃーないな』
霊夢ともっとも付き合いの長い魔理沙(たち)もそれを理解しているのだろう。
一度苦々しく頷いた後に一番左の魔理沙がぐいっと湯飲みを傾け、そして空になったそれをずい、と霊夢に押し付けてくる。
『おかわり』
霊夢は弱々しく頭を左右に振って立ち上がった。
なんだかんだで来客にはお茶を振舞ってやるのが、誰にでも平等である博麗霊夢の博麗霊夢たる所以である。
◆
「ごめん、私には見分けがつかなかったわ」
『マジかよ……』
今度は揃って魔理沙たちが頭を抱える番であった。
一糸乱れぬ連携。ちゃぶ台の上にべちんと突っ伏した魔理沙たちのせいで、今やちゃぶ台の上は黄金の海原だ。
「今日も魔法の研究は進まなかったなぁ」、なんてなんでもない一日をすごし、簡単な夜食と入浴を済ませ。
そして八卦炉で髪を乾かし「明日こそは少しくらい研究が進みますように」と。
三回ポンポンポンと枕を叩きながらそんなかわいらしい願掛けを掛けて全裸でベッドに潜り込んだ、ごく普通の一日。
それが翌日に目が覚めたら自分が四人になっていたというこの状況である。
「どの魔理沙もきちんと昔の記憶があるみたいだし。そのふざけた口調、人を馬鹿にした態度。どれをとってもあんたたちは魔理沙だわ」
自分ともっとも近しい親友であれば、本当の私を特定してくれるに違いない。
そう信じて四人、新たに箒を三つこさえたのちに神社を尋ねてきたというのに、
『本当に分からないのか?』
「ええ、3月14日といえば? って聞いたら、あんたたちみんな顔を真っ赤にして怒ったし」
魔理沙を一人ひとり別室に連れ出した霊夢は、お互いしか知らないような質問をそれぞれにぶつけてみたのである。
もしこれが化け狐や狸の仕業であれば、正しい回答をする事など不可能。「さぁ? 忘れちまったぜ」なんて誤魔化すのが関の山だろう。
だが、それらの質問に四人の魔理沙たちは完璧に答えてみせた。
こっ恥ずかしい質問には顔を真っ赤にしてうろたえ、かと思えば懐かしい過去の思い出に目をすがめ。
それらの態度はこりゃ四人とも魔理沙だわと霊夢に認識させるに十分すぎるほどの説得力を持っていたのである。
ちなみに3月14日は「魔理沙が社務所で入浴中、猫の鳴き声をお化けと勘違いして裸で飛び出してきた記念日」である。
これは霊夢と魔理沙と、あと一人しか知らない幼き日の魔理ちゃんのヒミツ★の過去その一だ。
であるがゆえに、それを知っているというのは目の前の魔理沙たちが魔理沙であるということを裏付ける強い要因となるのである。
魔理沙たちは腕を組んで低く呻いた。
『じゃあさもうあれでいいよ、あれ』
「あれ?」
『勘でいいからさ、教えてくれ。お前はどの私が本物の私だと思う?』
四人の魔理沙たちに凝視され、何気なく指を指そうとした霊夢であったが、すぐさま怯えたように指を引っ込めた。
この、四人の魔理沙。本人たちにも誰が本物か分からない魔理沙たち。
もし、もしである。
霊夢がこのうちの一人を指差したらどうなるだろう?
その瞬間にこの四者のうちでただ一人のみが本物である「可能性」が高まるのだ。
そうして一人が安堵と満足を胸に抱き。
そして残る三者が不安と恐怖に震える結果となるのである。
本物、と霊夢に示された魔理沙はどうする?
霊夢の勘がよく当たる事を当然魔理沙は知っている。
だからもしかしたら残る三者をお得意のマスパで吹っ飛ばしたりはしないだろうか?
そして消し飛ばされた三者の中に、実は本物の魔理沙がいたりしないだろうか?
あたかも薄氷を踏み抜いてしまったかのように霊夢の心は底冷えし、慄いた。
霊夢の勘は確かによく当たるが、流石に百発百中というわけにはいかないのだ。
魔理沙の命を封じ込めたダイスを転がすなんて、霊夢は心底御免であった。
「わからないわ。私にはどれも本物に感じられる」
自身の直感に固く鍵を掛けた霊夢は日和った。選ばない事を選んだ。
だがそんな霊夢を非難するのは、いささか酷というものであろう。
博麗霊夢は幻想郷の王なれど、人の身。ただの十台半ばの少女に過ぎないのだから。
「わからなかったら人に聞く。私たちと違う目線の持ち主に尋ねて見ましょ。それがいいわ」
『……そうするか。幸い
「何よ?」
ニヤリと笑った魔理沙たちは勢いよく立ち上がると、霊夢へ実に能天気な笑顔を向ける。
『一勝負弾ろうぜ、霊夢!』
霊夢は深々と溜息をついた。
「……一回だけよ」
過程を省いて結論だけを述べるならば、この日の弾幕ごっこは霊夢の惨敗であった。
流石の霊夢も四人の魔理沙を同時に相手取っては勝てるはずがなかろうというものだ。
夢想天生を使えば、あるいは勝てたのかもしれないが。
◆ ◆ ◆
「幻想郷ではこういうこと、よくあるの?」
軽口を叩きながらも、なんだかんだで興味があるのだろう。
テキパキと採血の準備を進める鈴仙を横目にさらさらとカルテに筆を走らせる永琳は、面倒ごとを診察代ロハで持ち込まれた割には楽しげである。
「まさか。こんなことしょっちゅうあったら――」
言いかけた霊夢はしかし、もごもごさせた口をつぐまざるを得なかった。
今回のような事例は初めてであるが、ぶっちゃけ手を変え品を変えの奇想天外な異変なら枚挙に暇がないのは事実である。
『それで先生よ、医学的見地からしてどうなんだ?』
「メンタルチェックの結果は良好。MRI、X線写真はぱっと見は健康な十代の少女のそれ。触診、聴診ともに異常なし。妖化生体検査キットによる口腔内粘膜確認の結果はH78+M22-で若干妖性反応は見られますけど一応陰性。現時点では四人とも健康体の人間よ。間違いなく」
「妖性反応?」
ギロリと霊夢の視線が鋭さを増し、永琳の対面に腰掛けた魔理沙たちのつむじへと降り注ぐが、
「日常的に魔法を使ってる人間ならこの程度は反応が現れるものよ。魔法の森なんかで暮らしてたら尚更。心配する必要はないわ」
背後からの圧倒的殺意に慄き、振り向けないでいた魔理沙たちは、その言葉に深々と安堵の溜息を吐き出した。
霊夢はやると言ったら躊躇なく容赦なく殺る女である。一切の例外はない、と魔理沙は信じている。
『だ、そうだ。妖怪殺すゥーマンは勘弁頼むぜ』
「……妖怪にならないように気をつけなさいよ」
腕を組んですん、と鼻を鳴らした霊夢が魔理沙たちの頭越しに永琳に向き直る。
「で?」
「次は採血と標本摂取。うどんげ」
「はい、御師匠様」
『痛くないように頼むぜ見習い衛生兵』
「大丈夫よ。貴女、その態度に似て血管もず太いみたいだし」
なるほど手馴れたものであるようだ。
鈴仙は躊躇いのない手つきで魔理沙の腕にゴムチューブを巻くと、躊躇いなく注射針を魔理沙1の腕へと押し込む。
「……案外痛くないもんだな」
「姫様相手に散々練習したもの、当然よ。はい次」
そのまま鈴仙は流れるように残る三人の採血、及び皮膚の一部の切除、鼻粘膜の採集を終える。
そしてそれらの標本を手にした鈴仙はさっさと診察室を後にしてしまった。
『あ、あれ?』
「どこ行くのよ」
「分析装置で精密検査にかけるのよ。結果は後日ね」
そう永琳にことわられた魔理沙たちは肩を落とした。
目の前の相手は天才様である。この程度の問題はするりと片付けてくれると思っていたというのに。
『後日……って、すぐには分からないのか? なんだかなぁ』
「一応こっちでも目視確認は進めるけど……何、これ」
鈴仙が残していった残り四本の試験管から採集した血液。それを電子顕微鏡で確認していた永琳が急に声を落とした。
眉間にしわを寄せてコンソールを操作し、次々と画像を確認しては試料――魔理沙たちの血液を一度機械にかけ、さらに何某かの薬品を加えたもの――を交換しては、また同様の操作を繰り返す。
傍にいる霊夢や魔理沙たちには何がなんだかさっぱりである。
(なんなの? いったい)
(分からん)
(が、一先ずは待とう)
(多分解析がおわりゃ喜々として報告してくれるさ)
(学者ってのは自身の成果を語るのが大好きだからな)
(多分必要ないことまでべらべらと語ってくれるよ)
(ああ。あんたも新しい魔法が完成すると喜々としてウチに乗り込んでくるもんね)
((((うっさい))))
◆
「魔理沙。貴女、寄生されてるわよ?」
都合四回。全ての血液を確認し終えたのだろう。
永琳がようやく霊夢たちのほうに向き直ったのは、魔理沙は椅子で、霊夢は傍の診療用ベッドで舟を漕いでいる――否、寝息を立てている頃であった。
『あ、なんだって?』
「血液中に未知の担子菌の混入を確認。恐らく全身に転移してるわ」
「なに? それ」
寝ぼけ眼をこする霊夢を前に、永琳は一度考え込んだ後に、慎重に分かりやすい言葉を選んだ。
「平たく言えば、魔理沙たちの体内には全身くまなくキノコが根を張っているってこと――それも、恐らく妖怪種の」
「妖怪!? それって――」『ああ、それは気にしなくていいぞ』
眠気など何処へやら。
いきり立ちベットから跳ね上がった霊夢を、魔理沙たちが至極落ち着き払った顔でどうどうと押し止める。
「気にしなくていい、とは?」
『それ、幼い頃に私の師匠に植えつけられたんだ。護身用に』
「護身用、って……魅魔が? 何のために?」
目をぱちくりさせる霊夢に、魔理沙たちは余裕の表情で頷いてみせる。
『ああ。ほら、魔法の森って普段から大量の胞子が舞ってるだろ?』
「ん、まぁ。長くいると気持ち悪くなってくるわね」
『そうそう。で、その中には人体に悪影響を及ぼす妖怪菌も少なくないんだとさ。多少の吸入ならあらかじめ備わっている免疫系でそれらを排除できるけど、森で生活するとなると摂取量が排除の限界を超えて、そういった妖怪菌を体内から駆除しきれなくなる』
「ああ、そういうこと」
そこまで耳にして、永琳は納得したように呟いた。
好奇心があらかた抜け落ちたようなその表情からは、どこかしら残念無念にも似たものが滲み出ているようにも見える。
「どういうことよ?」
「つまり、抗体代わりに比較的無害な種に、貴女の肉体を先んじて占領させておいたってことなのね」
そういうこと、と魔理沙たちが口笛合奏の後に頷いた。
『ああ、師匠はそう言ってたよ。おかげさまでかは知らないが魔法の森で暮らして十年、未だ健康な人間霧雨魔理沙のままだ』
「なぁんだ。つまらないの」
『つまらないってなんだよ!』
それが既に他人の成果物であると知ったためであろうか? 永琳は些かがっかりしたようであった。
ディスプレイ上に映し出された写真をつまらなげに見やり、そして魔理沙たちのほうを一度見やって、永琳は己が成しておくべき事を把握した。
永琳の視線の先にあるのは、大量の疑問符を浮かべて首を捻る博麗霊夢である。
「毒をもって毒を制す。人間に排除しきれない妖怪菌は、同じ妖怪菌に排除させればいい。効率的でしょ?」
「ふぅん……それって本当に安全なの?」
「他の害悪な妖怪種から身を守るためである」。
そう説明されてもなお霊夢は懐疑的であるが、
『完全に安全、ってわけじゃないさ、植え付けられたのは妖怪菌だからな。でも対価がリスクを上回るならやっておく価値はあるだろ』
「……最初から魔法の森なんかで暮らさなきゃいいのよ」
そう苦い顔で呟いた霊夢に、魔理沙たちは乾いた愛想笑いを返して二の句を飲み込んだ。
ここから先の議論は堂々巡りでしかないからだ。
霊夢が魔理沙の身を案じているのは理解しているが、魔理沙には魔理沙の未来絵図がある。
心配されている、というのは上から目線のように感じられて腹立たしくもあるが、一方で誰に対してもわりとそっけない霊夢が本気で身を案じてくれている、という事実には胸が熱くなる。
つまるところ魔理沙自身も内心で決着が付けられていない話なのである、これは。沈黙を選ぶより他ないのであった。
『そんなわけでそれ以外の異常があったら、って事で頼む』
「了解。四日後に再度訪ねていらっしゃい。無論医学は万能では無し、新事実が何も見つからない可能性もあることは頭の片隅に留めておいてね」
釘を刺す永琳にひらひらと手を振って魔理沙たちは立ち上がった。
『ま、その時は他をあたることにするよ』
◆ ◆ ◆
霊夢と別れ、三日の期間を己の家で過ごすことになった魔理沙たちは――もう何度目かは分からないが――とにかく再び頭を抱えた。
霧雨魔理沙なのである。
全員が霧雨魔理沙なのである。
そんな魔理沙たちの行動は面白いほどに差分がなくて、とかく衝突しがちなのだ。
例えば、朝食。四人分の目玉焼きにふかし芋という粗末な朝餉を用意して食卓につくと、
『おい』
誰もが真っ先にソースに手を伸ばす。
ここでじゃあ私は醤油、私は塩コショウ、私はケチャップ、なんてなりはしない。
なぜなら全員が霧雨魔理沙で、そして全員が同じ生活を送っているのだ。その日の気分も当然四人一緒である。
更に朝食と洗い物を終えて一息。
さあ、読書でも始めようかと読みかけの本に手を伸ばして、
『おい』
当然のように、じゃあ私はこれはやめて別の本を、なんてなりはしない。誰だって昨日の続きが読みたいのだ。
一悶着の後にようやくあみだで読む本を決め、並んでソファーで読書を始めてもまだ安心はできない。
ふとした瞬間に「あ、もよおしてたな」とさぁ立ち上がると、
『おい』
誰もがそろってお花畑へ向かうために立ち上がる。
無論、読んでいる本が異なるために意識の間隙、すなわち他に気を取られるタイミングは個々に異なっているはずである。
だが誰かの行動が引き金となって、やはり全員がそれに気が付くのである。「あ、もよおしてきたな」と。
結果として誰もがお花摘みへと向かい、しかし霧雨魔法店にはお花畑は一つしかない。
魔理沙たちは衝突した。セッションできずに衝突した。
これでもかというくらいに魔理沙たちの行動はがっちりかみ合っていて、まるで示し合わせてお互いの邪魔をしているような錯覚すら覚えた。
当然それはあくまで錯覚である。邪魔をしたいわけではないのだ。
だが全員が同じ思考で動いていて、そして一人用の家はあくまで一人が快適に暮らせるようにできているのである。
一人が研究室、天文台、お花畑、お風呂といったものを使用している間は、やはり他の三人は待っていなければなるまい。
魔理沙たちはつくづく思った。
自分は一人で十分であると。自分が二人いたらなんて思考は愚の骨頂であると。
この世に霧雨魔理沙はただ一人だけでいい。他の霧雨魔理沙なんてのは糞喰らえだ!!
だからといって、魔理沙たちはお互いを排除しようとはしなかった。
正確に言えば、排除する事ができないのである。
なにせ、全員が魔理沙なのだ。その実力は完全に拮抗していて、微塵の差も見受けられない。
ここで魔理沙たちが争い合ったらどうなる? 間違いなく戦闘はガチのセメントになる。実力差がないのだから当然だ。
己の最大の武器である八卦炉は一つしかないが、魔理沙は八卦炉と同期し、アウトプットとして機能するスレイブを産み出せる。
八卦炉を所持していなくても、それが近くにあるならその火力を四人とも行使できるのだ。ならば八卦炉を持つ一人だけが有利になったりはしない。
そんな四者が激突すれば、結果など知れている。最悪、全滅。運よく誰かが生き残っても瀕死の重傷を負うことになるだろう。
霧雨魔理沙は人間である。妖怪のような驚異的な再生力を持ち得ない以上、今後の生活に差し障る障害を負っては人里外では生きてはいけない。
それがわかっているから、魔理沙たちはお互いを排除する事ができないのである。
潰しあいは、他人同士を争わせるのが最上。戦わないことが己を有利にするのだと、四人とも理解しているのだ。
とはいえ、
『もう限界だ!!』
誰がベッドを使い、他はどのように寝るか。侃侃諤諤の口論が平行線に終わった後。
魔理沙たちは天を仰いでそう叫ぶと力なく床にくずれ落ち、四人背中合わせにへたり込んだ。
たった一日で魔理沙たちの堪忍袋は緒が切れるどころか完全にズタズタになった。
だが、それも無理からぬ話である。
なにせ己の家に居ながら、ありとあらゆる己の行動が完璧に阻害されるのだ。
何故に己の城で己の行動を邪魔されねばならぬのだ?
これまで一国一城の主であったのに、一夜明けたら「殿、それはなりませぬ」。飼い殺しの虜囚へと転落したのである。そりゃあ怒るというものだ。
付け加えるならばカツカツの生活を送っている魔理沙たちにとって、食料や消耗品が四倍の速さで消えていくのは頭の痛くなる問題であるのだ。
『なぁ、本当に誰が本物か分からないのか?』
背中越しに訪ねてみるが、誰もが首を横に振る感触が伝わってくるのみ。
魔理沙たちは怒り、苦しみ、そして憔悴した。
正直なところ「自分が偽物だったら消滅してもよい」とすら思えるほどに憔悴してしまった。
――確率で言えば3/4で自分は偽物。ならばいっそ消えちまったほうがいいんじゃないか?
そんな思考が頭にこびりついて離れない。
だが「自分が本物かも」という可能性がゼロではない以上、魔理沙たちは死を選ぶ事ができなかった。
霧雨魔理沙にとって重要なのは、霧雨魔理沙が生きて目的を果すことである。
己の夢は霧雨魔理沙こそが成就せねばならない。それを他人には譲れないし、譲りたくない。
それが安全で居心地のいい里を飛び出して、こんな不便で危険な魔法の森で一人魔法の研究を重ねる霧雨魔理沙の全て。霧雨魔理沙がここにあるを支える大黒柱なのだ。それを失っては、魔理沙は生きてはいられない。
『だれか、本物と偽物の区別ができる奴……』
床にへたり込んでいた魔理沙たちはそこまで呟いた後、バネのように床から跳ね上がった。
いるではないか。
ありとあらゆる物に白黒付けてくれる、嘘吐きもごまかしもしない真実の権化のような存在が!
『っしゃ行くぜ!!』
魔理沙たちは各々箒を片手に扉を潜ると、四連星となって夜空を駆け抜けた。
目指すのは三途の川と彼岸を越えた先にある、新地獄の裁判所である。
◆ ◆ ◆
「現時点における判断を下すのであれば、貴女たちは全て霧雨魔理沙であると言えます」
『やろう、ぶっころしてやる!』
魔理沙たちのヒューズは完全にぶっ飛んだ。
奴め、何が地獄の最高裁判長だ。その程度の答えであれば既に霊夢や鈴仙が返しておるわ!!
怒りのままに机の向こうの四季映姫へ掴みかかった魔理沙たちであるが、なぜかその手が空を切った。
見れば、狭い裁判所の休憩室であるはずなのに、目の前にいたはずの四季映姫は魔理沙たちのはるか彼方にいる。
『小町! テメェ!』
「あー、ほら。一応四季様に手をあげる相手は見過ごせないんでね」
背後を振り向いた魔理沙たちに苦笑を向けるは鎌を背負って扉に寄りかかった、忌むべき双丘を胸にこさえたサボタージュの泰斗である。
「冷静になんなって。四季様は知りたい事はなんだってきちんと説明してくれるからさ。そうでしょう?」
「相手に聞く耳があれば、の話ですけどね」
『……分かったよ』
降参の意代わりに、魔理沙2がポケットから取り出したミニ八卦炉を机の上に投げ出した。
武装解除表明、それと同時にはるか彼方にいた四季映姫が再び魔理沙たちの目の前へと戻ってくる。
『で? 全員霧雨魔理沙だ、っていうのはどういうことなんだ?』
「では、例を交えつつ順番に説明していきましょう。――貴女たち、これが誰だか分かりますか?」
ふてくされて頬杖をつく魔理沙たちの前に一枚の手鏡が差し出される。
浄玻璃の鏡。あらゆる存在の過去を映し出すというその手鏡に映っていたのは、
『馬鹿にしているのか? これは私だろうが』
外見は五歳程度だろうか? 赤い毛髪を冠した勝気な笑顔の少女。
間違いなくこれは過去の霧雨魔理沙その人である。
「ええ、その通りですね。では次、こちらは誰だか分かりますか?」
ヴン、と一瞬鏡の中の像が乱れ、再度手鏡に映し出されたのは、
『いい加減キレるぞ』
「いいから答えてください。これは誰でしょう?」
『これも私だ。霧雨魔理沙だよ。これでいいかよ!?』
年頃は十代前半。ウェーブがかった黄金の髪を肩甲骨の辺りまで伸ばした不遜な表情の少女。
まさしくこれも霧雨魔理沙。服装からすれば恐らく1,2年前ごろのものであろう。
『……で、お前は何が言いたいんだよ?』
次に下らない質問をしたら殴る、とでも言わんばかりの魔理沙に、四季映姫が満足そうに頷いてみせる。
「結構。どちらも霧雨魔理沙です。ですが何故、この二人を霧雨魔理沙だと言えるのでしょう? この両者は、こんなにも姿形が違うというのに」
『そりゃお前、人間なんだから成長して当たり前だろうが。成長して外見が変わることでどうして別人になるんだよ?』
「人の肉体を構成する素材、すなわち細胞ですが、この細胞は十年もすれば全て入れ替わります。すなわち最初の霧雨魔理沙は二人目の霧雨魔理沙と何一つ素材を共有していないのです。材料も違う、大きさも違う、外見もまったく別物。それでもこの二人は同一人物と言えるのですか?」
つまりは、テセウスの船と呼ばれる問題であろう。
舟を構成する部品が全て置き換えられたとき、その船が以前と同じものと言えるのかという問題だ。
そんなものを改めて問うてくる映姫に魔理沙はあきれ返った。そんなの、悩むほどの問題ではないだろうに。
『それは人間を「絶えず身体を成長、ないしは変化させつづけている存在」と定義したならば全ては説明がつくだろう? 霧雨魔理沙は常に身体を作り変え続ける存在であるがゆえに、この両者を霧雨魔理沙と呼称するに何の問題もない。材料が違っても、外見が違っても当然だ。霧雨魔理沙とはそういう存在なんだからな』
「そうですね。ならばこうも言えるでしょう? 『ある日目覚めたら身体が四つに分かれていたとしてもそれらは霧雨魔理沙である』と。霧雨魔理沙は常に身体を作り変え続ける存在であるのですから」
してやったり、とばかりに意気込んでいた魔理沙たちは絶句した。
『ちょっと待て、それは……』
「どこがおかしいのですか? 胎児の霧雨魔理沙には手も足も内臓もろくに無かったのですよ。でもそれだってまさしく霧雨魔理沙でしょうに。ならばなぜ『身体が四つに分かれたら霧雨魔理沙でなくなる』のですか? これまでなかったものが新たにできたとて、霧雨魔理沙は霧雨魔理沙でしょうに?」
『ふざけんな!? 私は言葉遊びがしたいんじゃないんだ!!』
「ふざけてなどおりません。では貴女、もし貴女が腕を一本失ったら、その瞬間から貴女は霧雨魔理沙でなくなるのですか? 腕が二本に脚が二本、指が二十本で目が二つに口と鼻が一つずつでなければ霧雨魔理沙ではないのですか? 部位の有無、数、それらは関係ないはずです」
『それは詭弁だよ!』
魔理沙たちは怒りのままに机に拳を叩きつけた。
霧雨魔理沙は合理的な人間であった。だから相手の言に破綻がないことが悔しくも魔理沙たちには理解できてしまう。
だが理解はできても納得がいかないがゆえに、魔理沙たちは己が発するそれこそが詭弁と知りつつも言い募った。
『私の身体は私の意志に従って動く、ただ一つだけの筈だ、そうだろう?』
「四人の霧雨魔理沙は間違いなく『貴女の意志』に従っていますよ」
『違う! 確かに行動原理はまるっきり同じだけど、細かいところでは差分があるだろう!?』
当然です、と映姫は一度手鏡を覗き込んで頷くと、魔理沙が一呼吸を終えるのを待ってから再度口を開く。
「幼い頃の霧雨魔理沙は珈琲が嫌いだったようですね。ですが今の霧雨魔理沙は珈琲を愛飲しています」
『それが何だっていうんだよ!?』
「環境が異なれば、その内面だって変わっていきます。だからとてその『差分』が霧雨魔理沙であるか否かを区別する要因にはなりえない、ということですよ」
『……』
「貴女たちは今、微妙に異なった思考で動いているかもしれません。環境が微妙に異なるのだから当然のことです。ですが珈琲が苦手だった魔理沙も珈琲が飲める魔理沙も等しく魔理沙と扱えるのであれば、では微妙に異なるこの四人の魔理沙が霧雨魔理沙でないとどうして言えましょう?」
『だが……私は私たちだ。一つじゃない、四つの独立した人格があるんだぞ?』
「人格の数もまた霧雨魔理沙であることを否定する要因にはなりませんよ。解離性同一性障害という言葉はご存知ですか?」
魔理沙たちは首肯も否定も返すことができなかった。
魔理沙たちの中にあるもっとも冷静な部分が、「意識の分裂もまた、霧雨魔理沙であることを否定する要因にはならない」というそれを受け入れてしまったがために。
納得してしまった自分を否定するのは、他人の言を否定するよりもはるかに難しい。
映姫は佇まいを直した。
「話を一番はじめに戻しましょう。霧雨魔理沙を「絶えず身体を成長、変化させる人間」と定義するならば、ある日身体が四つに分かれたとてその全てが霧雨魔理沙です。この前提を覆すのであれば、貴女たちは『霧雨魔理沙だった存在』となり、貴女たち全てが霧雨魔理沙でないと言えます」
『……それって、前提の定め方次第、ってだけの話じゃないか』
「最初からそういう話をしていました。いいですか? 善行と悪行、これはらすべて何がしかの物差によって二分化された、しかしどちらもただの『人の行い』に過ぎません。定められた基準に従って裁定を下す。それが私たち閻魔の『定義』です。この定義に従って答えましょう。貴女は霧雨魔理沙を『絶えず身体を成長、変化させる存在』と認識していますね。我々閻魔も同意見です。ならば私はその定義に従い『貴女たちは全て霧雨魔理沙である』と答えるより他ありません。ですが……」
『ですが、なんだ?』
喜々として目を輝かせた魔理沙を前に、映姫は若干すまなそうに目を伏せる。
「解離性同一性障害に見られるように、貴女たちに名前を新たにつけることで霧雨魔理沙を世界にただ一人の存在へ戻すことは可能でしょう」
『……まったく意味のない助言ありがとさん』
魔理沙たちは力なく項垂れた。文句をつける気力ももう湧いてこない。
閻魔とは死者に裁きを下す存在である。その閻魔は己の意見を――それがあらゆる視点から見て絶対に正しいかどうかはともかくとして――覆すことはほとんどない。
裁定者の意見がそう簡単に左右しては、裁判の公平性が保てなくなるからだ。
ゆえに閻魔と会話した者にできることはたった二つだけ。相手の言葉を受け入れるか、無視するか。それだけだ。
魔理沙たちは席を立った。これ以上ここにい続けたって、得られるものは何もない。
『永琳への依頼も無駄に終わったかな』
「そんなことはありませんよ」
『え?』
思わず背後を振り向くと、映姫はどこか羨ましげな表情で魔理沙たちを見つめていた。
「八意永琳は恐らく、貴女に新しい可能性を示してくれるでしょう」
『どういう意味だよ?』
「それは――」
『それは?』
「ヒミツです」
『オイ閻魔!』
いきりたつ魔理沙たちを前に四季映姫は悠然と立ち上がって、実にいい顔で微笑んだ。
閻魔は嘘はつかないが、隠し事くらいは人並みにする。無論、他人の隠し事は平然と暴くのだが。
「焦っても仕方ないでしょう? あと数日、色々と考えてごらんなさい」
『行動がかぶりまくりでストレス死しそうなんだよ……』
魔理沙たちは額を押さえてうつむくが、そんな魔理沙たちを前に四季映姫は心底不思議そうな表情で、
「それなら四人別々の場所で寝泊りすればよいではないですか。泊めてくれる友人が一人もいないほどに霧雨魔理沙が人望を失っているとも思えませんが」
もっともである。
魔理沙たちは呆然と頷いた。
『そうしよう』
◆ ◆ ◆
「次から次へと、地上は本当に楽しい場所ですね」
こじんまりとした食堂の、真っ白なテーブルクロスが掛けられた小さな食卓。
まるで一度も日光を浴びたことがないような青白い顔が、蝋燭の灯火の向こうで屈託なく笑う。
「ま、他人事なら楽しいだろうさ」
グラスに注がれたキャンティをエイヤッとあおって、次をカラフェから注ぎ足す。
不満げな魔理沙とは対照的、地霊殿の主はまこと愉快げな表情でカポナータをたいらげた。
「して、他の魔理沙さんたちはどちらに? ――はて、天界に守矢神社に、命蓮寺ですか。同業の魔法使いを頼らないのは――ああ、なるほど」
苛立たしげに、魔理沙は猫耳メイドが新たに運んできたマルゲリータにカッターを走らせる。
バジルの葉がうまく切断できず何度もカッターを前後させる様はなるほど、今の魔理沙の心境を物語っているようだ。
「さとり、会話をしようぜ。他人に合わせる、ってのは面倒だろうが円滑な人間関係を保つのに必要不可欠だと私は思うんだが」
「そういう魔理沙さん自身はまったく他人に合わせる努力をしていないように思えますが。ま、いいでしょう」
クスリと微笑んでワイングラスを――こちらは優雅に――食卓に戻したさとりは切り分けられたマルゲリータを手にとった。
湯気が運ぶ、香ばしいチーズと小麦の香り、バジルとトマトの鮮やかな香り。
生地に刻まれた綺麗な歯型を覆い隠すように伸びたチーズを千切り、口元の微笑に付着した油とトマトソースをそっと指先で拭う。
「なんにせよ、歓迎しますよ。なにぶん来客などない館ですので、あまり大したもてなしはできませんが」
「ただ泊めてくれるだけで十分だよ。なにぶん信頼できない奴が多すぎてな」
そう。幻想郷には楽しい奴らが多いのは結構だが、裏返せばそれらは普通でない奴らが多い、ということでもある。
宿泊先として魔理沙は同業は頼れなかった。魔法使いの肉体は、魔法使いにとって魅力的な研究素材の一つだ。
魔理沙が四人いるこの状態なら、アリスやパチュリーが「魔理沙を己の研究の材料にしない」理由などどこにもない。
魔法使いというのは至極合理的で、そして己の目的のためなら容赦がない連中であるのだから。
「予備」があるなら消費してはいけない理由など、あろうはずがないではないか。
不公平感を出さないためにも一人が自宅を使う、というのは却下だ。
博麗神社も同様の理由で却下。香霖堂も同じだ。
冥界も危険である。魔法使いのそれに近しい理由で魔理沙は殺され、幽霊となった魔理沙は白玉楼の使用人にされるかもしれない。
永遠亭には既に一つ依頼している身、これ以上のご厄介は流石に魔理沙としても躊躇うところである。
神霊廟もわりと危ないだろう。あそこには死体を玩ぶ邪仙がいる。あれは信頼してはいけない類の人間だ。
輝針城、は未だ様子見。まだ相手の出方も分からぬ現状、宿泊先には選べまい。
人でありながら、少女でありながら一人森で暮らす、明日の安全など保証もされていない魔理沙は安い信頼は決して買わない。
魔理沙にとって信頼とは、非常に高価なもの。ゆえに魔理沙が信頼する相手はたった二つに分類される。
他に生き延びるための手段がないか、もしくはそいつにならば裏切られても構わないと、そう思えるか。それだけだ。
「ありがとうございます」
やんわりと、小瓶を振って香辛料をチーズ上に落とす作業に腐心しているふりをして。
何気なさげを装ってそう呟いたさとりに、魔理沙は空になったカラフェを振ってみせる。
「会話をしろって言ったろ?」
「そうでしたね、すみません」
さとり妖怪は心を読む、他人の領域に土足で踏み込まざるを得ない生き方が種族として定められている妖怪である。
だがそれを我慢してただ一人の「古明地さとり」と向き合ったとき、彼女自身は嘘嫌いで知られる鬼が手放しで褒め称えるほどの「いい奴」、つまり少なくとも嘘や騙し討ちを好まない性質であった。
無論、配下の妖怪――特に死体愛好家の猫とネガさとり妖怪――には、隙を見せてはいけないだろうが。
「とりあえずお燐にはただ遊びに来ただけ、と言っておきますよ」
「助かる。が、会話をしろと何べんいわせんだよお前……っと?」
空になったカラフェと魔理沙のグラス。それらがひょこひょこと歩き出して食卓から飛び降り、程なくして魔理沙の視界から消える。
次いでやはりひょこひょこ歩いてきて目の前に腰を下ろした、透明な液体をその身にたっぷり湛えた緑色の瓶。
魔理沙は爪でチン、とそいつを叩いた。ワインは白よりも赤のほうが好みなのだ。
「地底にも影響があったんだな、小槌。……付喪神の心も読めるのか?」
「そこに『意志』が内在しているのであれば。ちなみにお手元のフォークは魔理沙さんの舌に弄られるのがお気に召したようです」
「折っていいか」
「冗談ですよ」
瓶を手にとって、さとりは対面の魔理沙のフルートグラスに中身を注ぎ入れる。
アスティ・スプマンテ。無数の泡がグラスの底から連なり輝くビーズのように、次々と立ち上ってくる。
泡。酒の中に溶けていた気体。見えないそれ。しかし確かにそこに在るそれ。
グラスに移されて初めて酒の中より現れ出でて、そして水面に達して消えていく。
「『意志』、か。……お前からみても私はやはり」
「ええ、貴女は私の知る霧雨魔理沙さんであるようですが」
「当たりを引いたのか? それともやはり差分がないだけなのか」
どうぞ、と進められて魔理沙はフルートグラスを傾ける。
口の中に広がる果実の甘みと、舌の上で踊る微発泡。白もたまには、悪くはないが。
「で、なんで私の好みが分かっているくせに白にした?」
「固執しているようでしたので、ちょっと色を変えてみたほうが好いかな、と思いまして」
ピッツァにかぶりついていた魔理沙はん? と眉をひそめ、そして驚愕に大きく目を見開いた。
十分にチーズのコクとトマトの酸味、小麦粉の甘みとバジルの香りを口いっぱいで堪能して嚥下し、指をチロリと舐める。
発泡性の白ワインで口腔内を洗い流して、
「……そうか、まったく、その通りだった。そっちにまで頭が回らなかったよ」
そうだ、余裕のない魔理沙はそのことをすっかり失念していた。
誰が本物の魔理沙なのか、は確かに重要であるが、それと同等程度に、
「なぜ、私は増えたんだ? なぜ増えなきゃいけなかったんだ?」
それを考えなかったのは、流石に迂闊であった。
「心当たりは?」
「さっぱりだ。増殖した前後もごく普通の一日だったし、異変らしい異変もとくにはなかったし」
「付喪神が急増していることは異変のうちに入らないということですか。毎日楽しそうで実に妬ましいわ」
「全然似てないな、30点。嫉妬心が足りないんじゃないか?」
若干顔を赤らめたさとりがてへ、と舌を出す。
「あと正確には逆転の異変な」
「力関係の逆転ですか」
ふむ、と呟いたさとりは、最後の一切れを摘んで口に放り込んだ。
やはりピッツァはチーズが蕩けている間に食するが最上である。
軽い夜食の〆、猫耳メイドが恭しく用意したパンナコッタのキゥイソースがけにすっと匙をさし入れながら、
「誰かが「明日こそは少しくらい研究が進みますように」という貴女の願いを叶えようとしたのでは? 人手が増えれば成果も増えますし」
「仮にその線で行くとして、誰がだ?」
「そこまでは私には。ただなんとなくですが、悪意だけはないような気がしますね」
とろりと甘いゼラチン質を舌の上ですり潰しながら、魔理沙は苦い顔で首肯した。
幻想郷における異変とは黒幕が単に配慮とか他人の迷惑を考えていないだけで、悪意がない行為の余波であることがほとんどだ。
そして悪気がない分だけそれらの異変には指向性というかヒントが少なく、魔理沙たちはなかなか黒幕へ一直線にたどり着くことができないのである。
「肉体の分裂、もしくは増加。誰の意思がそこに及んでいるのでしょう?」
どうやって、は考える必要がないだろう。
幻想郷には常識外れの異能持ちが掃いて捨てるほどいる。だから手段を問うことに意味はない。
問題となるのは常に、「何故それをやったか」だ。
それさえわかれば大概の異変はカタがつくのだが……。
「人体実験愛好家くらいしか思いつかんな」
「森の魔女には気をつけましょう、ですか」
「だんだんアリスが犯人のような気がしてきたぞ……永琳の診断が芳しくなかったらあいつ締め上げてみるか」
スプーンで皿に残ったキゥイソースの掃討作戦に挑み始めた魔理沙に、さとりが憧憬にも似た瞳を向ける。
「変な意味でお互いを信用してるんですね、貴女たち」
「会話をしろ、と繰り返し言っていたはずだが。まぁいいや、そんなわけですまないが二泊ほどよろしく頼む」
「はい、ただし」
舐め上げたかのように綺麗になった皿をテーブルクロスの上に戻して、魔理沙は腕を組んだ。
「ああ分かってる。動物たちの遊び相手になってやってくれって話だったな。ま、タダ飯食わせてもらってんだ。それくらいはやらせてもらうさ」
「ありがとうございます。こいしが中々帰ってこないもので、みんな退屈していまして」
◆
「ツギワタシトアソボ?」「ハヤクハヤク!」「ネェ、オニゴッコシヨ?」「マリサガオニネ」「ソレヨリケマリヤロウヨ、ケマリ!」「キッチンデオヤツヤイテ? ビスコッティ!」「サンポ、サンポイコウ!」「キュウトデオカイモノ、オカイモノ!」
「だぁあああ畜生! ちょっとは休ませてくれよ! な!? 休憩、休憩、一休み!」
「キュウケイ?」「オヤスミ?」「ヒザマクラ?」「ヒザマクラ、ヒザマクラ!!」「イッチバーン!」「ワタシ、ワタシ!」「ズルイ、ワタシガサキ!!」
「ちょ、ま、うぉ――まてまて、待てって! いっせいに圧し掛かってくんなよ! あっ、あっ、ちょっ、脚、折れる、潰れっちまうよ! あ、こら髪、髪を噛むなってば!」
数百を超えるさとりのペットたちは魔理沙によく懐いたようであった。
喋れるものも、喋れぬものも。とにかく元気いっぱいの動物妖怪たちに散々振り回されるわ、自身を中心として地霊殿のロビーにたちまち動物団子が組みあがるわ。
「さとりぃ! どこ行った。お前こうなるって最初っから分かっていただろう!? おいさとりぃい!」
返事はない。ただ動物たちの人より僅かに体温が高い、柔らかな肌のぬくもりだけがそこに在る。暑苦しいとも言うが。
自身の体重をはるかに超える動物たちに押し潰された魔理沙は、ミシミシという自らの骨だか筋肉だかが軋む音を聞きながらつくづく思った。
「ああもう、身体が一つじゃとても足らん! 身体を四つ寄越せ!!」
◆ ◆ ◆
『よう、どうだった?』
永遠亭の一般人用待合室で顔を合わせた魔理沙たちは、互いの顔を見やって肩を落とした。
「人間に天界暮らしは無理だな、暇すぎて死にそうだった。毎日あれたぁ天子にゃ同情するよ。そっちはどうなんだ?」
「久しぶりに肉が食いたい、酒が呑みたいよ。お寺暮らしなんてクソだ。そっちはどうなんだ?」
「早苗に着せ替え人形にされてたよ。実害はなかったが……精神的にちょっと磨り減った。そっちはどうなんだ?」
「動物相手に追いかけっこの毎日さ。しばらく筋肉痛だよ。ただまあ、飯と酒は美味かった」
もうこんな毎日は御免だ。
やはり自分の家でのびのびと暮らすのが一番である。
そう頷いた魔理沙たちは意を決して、診察室へと続くドアを開いた。
「いらっしゃい……四者四様にやつれたわね」
『おうよ先生。余裕がないから単刀直入に聞くぞ。何か分かったか?』
「一応、ことの全貌は理解したわ」
『なんだと!?』
軽い態度とは裏腹の回答。
魔理沙たちは一瞬沈黙し、次いで手を叩いて喜んだ。流石は天才様だ、やはり持つべきは智勇に優れた隣人であると。
『凄いじゃないか、流石は天才様だ』
「そりゃそうよ、お師匠様だもん。地べたを這いずり回る地球人とは格が違うわよ」
「うどんげ、思ってもそういうことは軽軽に口にしないの。無駄に敵を作る癖、そろそろ止めなさい」
助手の短慮に一つ嘆いた後、鈴仙を退室させた永琳は魔理沙たちに椅子を勧めてシャウカステンの電源を入れる。
「ま、なかなか興味深い案件ではあったわ。この郷における生物の在りかたというか、概念のようなものに触れることができたしね、なにより――」
『先生、なによりまず犯人を教えてくれ』
言葉を被せられた永琳は若干不快そうに顔を歪ませたものの、すぐにそれを洗い流してシャウカステンに数枚の白黒写真を貼り付けていく。
「犯人はね、貴女自身」
『私だと?』
「厳密に言えば、貴女の内側に巣食っている妖怪担子菌ね」
『……はい?』
「貴女に植えつけられた菌類は三種類あったわ。一つは軸索と同化、神経繊維を拡張して伝道速度を向上させるタイプ、二つ目は筋肉に根を張ってバネのように働き、筋肉伸縮の補助として働くタイプ、三つ目が先日に語ったものね。体液中に揺蕩い全身を流動し、異物や悪玉菌と同化してそれらを破壊したり、肉体の損傷箇所を修復したりするタイプ」
一枚目のMRI写真、次いで二枚目のCTスキャン写真、三枚目の電子顕微鏡による血中写真。
次々とそれらを指差しながら永琳が説明を続けてくれるが――
魔理沙は目を瞬かせた。
ぽかん、と口を開ける魔理沙に目をチラリと向けて、永琳はコホンと咳払いをする。
「平たく言えば貴女の中には常人にはない三種類の妖怪菌が存在していて、それは貴女の身体能力向上に寄与している、ということ。彼らの餌となるのは恐らく貴女の感情。貴女のお師匠様から何か聞かされていない?」
『あ、ああ。ええと……確か「お前が餌となる感情を失った場合、こいつらはお前の身体を食い破って子実体を形成する」だったかな』
「なるほど。いつか茸に身体を乗っ取られるかもという恐怖、それ自体が餌に成っているのかもね。素晴らしい共生関係だわ。実質、お互いにデメリットがほとんどないもの」
永琳の眼があたかも出来のよい芸術品を観賞するような色を帯びていたため、魔理沙たちは不快に顔を歪めた。
そんな永琳の態度も腹が立ったが、これらの菌が犯人であるならば「デメリットがない」という発言そのものはおかしいだろうに。
『で、それが何で私の増殖に繋がるんだよ』
「異変よ、異変。下克上の異変。今起きてるでしょ?」
『は?』
「此度の下克上の異変、弱い存在が力を付けるんでしょう? 貴女の内に巣食う彼らは、恐らく力を付けたのよ。さて、ここで一つ問題となるのは菌類が力を付けるというのはどういうことかということ。魔理沙、貴女には想像できるかしら? いいえその顔から察するにできないのでしょうね。正解は数を増やす、ということよ。面白いと思わない? 我々は意志のある個体として存在しているがゆえに、力の強弱を一個体として識別される。しかしこの様な菌類の場合、一個体ではなく群体としての強弱が測られる。つまり彼らにもし自我があるとすれば、彼らはどんなに増殖しようとも一人一種族として認識されるということになる」
つらつらと、熱病に浮かされたように永琳が説明を続ける。
一応魔理沙に配慮して言葉を選んでいるのだろうか? 面食らいながらもそれなりに内容を咀嚼し、理解できていた魔理沙であったが、
『なぁ、先生よ。菌が力をつけて増殖する、ってのは分かった。だがどうして私まで増えたんだ?』
そう質問した魔理沙たちに、若干永琳は残念な子でも見るような視線を向けた。
二三、魔理沙の知識に合わせて脳内で単語を再度取捨選択した後、捲くし立てるように言葉を紡ぐ。
「いいこと? 彼らは妖怪菌なの。つまり貴女の感情を餌に生きているのよ。貴女と彼らはとても良好な共生関係を築いていた。分かるかしら? 貴女を健康に保つこと、生き延びさせることは彼らにとっては義務ですらあるのよ。ここで妖怪菌だけが増殖したらどうなるかしら? 貴女の身体は異常増殖する菌に汚染されて生命維持機能が破壊され、貴女の肉体は死滅する。そうなれば菌たちもまた絶滅してしまうでしょう? それを防止するためにはどうしたらいいか。答えは一つ、住める家を増やすしかないでしょう。おそらく貴女の中にしか今のところ生存していない彼らは、菌類の中でも最狭の種族。先に言ったでしょう? 菌類の場合、一細胞ではなく群体としての強弱が測られる。菌糸の展開範囲が人体一人内に納まってしまう彼らは最弱。ゆえに小槌から優先して力を与えられている。それらを駆使して、彼らは自身の家たる貴女を増殖させたのよ。人一人分の材料なんて、自然界に大量に転がっているもの。たいして苦労はしなかったでしょうね。これが仮説一」
『仮説一?』
ことの全貌は理解したのではなかったか。
そう首を捻る魔理沙たちを前にしてしかし、永琳は熱病に浮かされたかのように言葉を紡ぐ。
その有様、その態度に魔理沙は奇妙な既視感を覚えた。この、早口で捲くし立てる様は魔理沙のよく知るあの種族に――
「その通り。そして仮説二。小槌によって菌が力を得たところまでは仮説一と同様。でも認識が異なる。力を得た菌類はごく自然と自分を増殖する、という目的のもとに霧雨魔理沙を増殖させた。違いがわかるかしら? わからないって顔をしているわね。つまり仮説一は『家として』貴女を増殖させた。一方で仮説二では菌類は小槌によって力を得たことで、ごく自然に『自分として』霧雨魔理沙を増殖させたということ」
『ちょっと待て! 私は断じてキノコなんかじゃないぞ!?』
聞き捨てならぬ解説に魔理沙たちは椅子を蹴倒して立ち上がったが、永琳は眉一つ動かさなかった。
「霧雨魔理沙という存在――いえ、人間の体内、皮膚表面には様々な菌が存在していて、人間の生活を支えています。俗に善玉菌と呼ばれる者たちね。彼らが全ていなくなってしまった場合、人は健康な肉体を維持できなくなるわ。これがどういうことか分かる? 最初から霧雨魔理沙という個体は個体ではなく一種の協同生活圏、コロニー。いわば里の名前であると言えはしないかしら? 数多の菌類、という住人も含めた細菌、細胞、その全てが霧雨魔理沙なのよ。だから内在菌が増殖する、ということはそれすなわち里の拡張、ごく自然と霧雨魔理沙が拡大するということでもある。これが仮説二」
『私は人間だ! 菌類なんかに支配される側じゃない!』
「彼らは貴女を支配してなんかいないわ。ただ、己の生活のために貴女の肉体に僅かな影響を与え、それを霧雨魔理沙は汲み取って肉体を律している。貴女は菌類じゃないけど、菌類は既に貴女の一部なのよ」
『……』
沈黙した魔理沙たちを前に、永琳はなおも言いつのる。
「人の身体はそもそもが細胞の集合体。そしてその中には脳からの指示を一切受けずに動いている部分もある。人の肉体がそうであるならば人の意識もまた、無数の議席からなる合議によるものである、という捉え方はできないかしら? 脳はただの議事堂に過ぎず、しかし議事堂が存在しなければ正式な決議と発令はできない。人の意識とは肉体からの様々な要望を集め、すり合わせて議事堂で可決する行為そのものをさすのだと、そうは思えない? 意識を一つの固体のようなものと思わず、絶えず集合離散する、意見ないしは信号の束と捉えるのよ。菌が発する意見は貴女の全身から発される無数の信号のうちのたった1つ、いえ3つにすぎない――これだけ言ってもまだ貴女は自分が菌類に支配されていると、そう屈辱を感じるの?」
魔理沙たちは答えられなかった。
四季映姫が言っていた新しい可能性。
魔理沙は一つの個体であるという事実を根底から裏返す説明。
魔理沙が拠り所にしていた『己』という意識すら、無数の要素によって束ねられた言わば集合体に過ぎないという説。
それに、どう対応すればいい?
『私は、どうしたらいいんだ』
力なくそう呟く魔理沙たちに、永琳はそっと、しかし不満をにじませる表情を向けた。
「なにが貴女をそうも悲しませるの? 貴女には不利なことなど一つもないわ。ただ認識を定めればよいだけのことなのに」
『認識を、定める?』
「そうよ。どちらの仮説をとってもやることは同じ。重要なのはね、魔理沙。霧雨魔理沙がどういう存在であるかということ。コロニーの境界を定めることが貴女のやるべきことよ。あくまで人一人の肉体の範囲内に納まるものだけが霧雨魔理沙なのか、それとも拡張した部分も含めて霧雨魔理沙なのか。これはそういう問題なのよ」
魔理沙たちはかぶりを振った。
四季映姫の言うとおりであった。
これは認識の話であり、前提の話であり、要するに線引きの話なのだ。
白黒はっきりつける四季映姫の役目は、見えない、見失いがちな線をよく見えるように可視化して人に提示すること。
線そのものを引くのは、世界そのもの。そして世界は個の集まりによってできているのだ。
善も悪もなく、そして他の誰が定めるでもない霧雨魔理沙という存在の線を引くのはやはり霧雨魔理沙であり、それに反論を差し挟める者などいやしないのである。
魔理沙自身が、霧雨魔理沙を定義するのだ。
「まぁ、今急いで定める必要もないと思うけど――」
『いや、定まったよ』
魔理沙たちは決意に満ちた顔を見合わせて、そして頷いた。
迷いはない。今この時点においては、霧雨魔理沙たちは確かに霧雨魔理沙であるのだから。
だが、この先は、
「では訪ねましょうか、貴女たちは霧雨魔理沙なの?」
『否、霧雨魔理沙はただ一つの肉体を持つ個体である』
『是、我々は霧雨魔理沙である』
◆ ◆ ◆
『私は人間だ。そして人間は一つの肉体しか持ち得ない』
その回答に、永琳はやや気落ちしたように息を吐いた。
黒いストッキングに覆われた脚を、忌々しげに組み替える。
「それは貴女が情報、科学というものを知らないがゆえの認識よ。いずれ人という存在は理解され尽くす。人、個人を個人足らしめる全ての情報は記録され、複製されるようになる世界が来る。それでも人は人であるのよ。貴女は時代を先取りしているだけに過ぎない。医師たる私がそう保証するわ。それでも貴女は、貴女たちを貴女と認めないの?」
『当然だ。世界がこれから先にどうあろうが知ったこっちゃない。私はこの世界で唯一無二の存在なんだ。代わりなんかいないんだよ』
魔理沙たちは迷いなく、自信に満ちた表情でそう言い切った。
『複製された私は私足りえない。ただのコピーだ。なぁ、永琳』
「何かしら?」
『教えてくれ。お前なら分かるんだろう? どいつがベースだ。どの三体が、新造された私なんだ?』
「……私は出鱈目を教えるかもしれないわよ」
探るように問うて来た永琳に、魔理沙たちは鋭利な刃物にも似た視線を返す。
『それならそれでもいいさ。重要なのは私が一人の人間だということだ』
「オリジナルを、殺してしまったとしても。それでも構わないと?」
『私はこれまで、何度も自分を殺して生きてきたよ』
そうとも。霧雨魔理沙のここまでの生は生半可なものではなかった。
それなりに裕福な家庭に生まれた霧雨魔理沙は、しかし親元を離れて郷を飛び出し、そして森で一人暮らしを始めた。
その過程において、いったい何度魔理沙は生まれ変わったことか。
毎日お米が食べられない、なんて弱音を吐く己を殺し。
手にマメが、ひび割れが、あかぎれができて痛いと悲鳴をあげる己を殺し。
他の生き物を殺して血を抜き皮を剥ぎ肉を食う、それを野蛮な行為と否定する己を殺し。
誰も信じられない。誰もがこの身を餌と狙う。己の安全を保障してくれないと嘆く己を殺し。
世の中は善人によって、信頼によって成り立っているなんて平和ボケした思考に囚われた己を殺し。
そして何よりも自身の無力さに絶望し、挫けそうになる弱い自分を、これでもかとばかりに殺して殺して殺しまくった。
そうやって、何度も何度も己を殺し、乗り越えて魔理沙はここまで生きてきたのだ。
魔理沙の師たる魅魔が魔理沙の望みを叶えるために、魔理沙がこの先どんなことがあっても一人で生きていけるように、と鍛え上げた鋼の意思。
折れず、曲がらず、何物の意見にも流されない強靭な自我。
いかなる悪辣、卑劣にも屈することなく、一切の庇護を求めることなく、ただ一人で生き抜くを可能とするための揺ぎない自負。
ただひたすらに――魔法を教えることそっちのけで――魅魔が絶えず叩いて叩いて叩きまくって鍛え続けた魔理沙の心が霧雨魔理沙という存在を圧倒的に定義し、肯定する。
何物にも異論は差し挟ませない。
霧雨魔理沙は人の身にて天高くに輝く星を睨み付け、それを体当たりで撃ち落とさんと天を駆ける、一筋の流れ星である。その魂の輝きは名だたる妖怪たちが否応無しに無視し得ないほどに屈強で、そして眩しい。
永琳は万年筆で二度ほどカルテを叩くと、一度大きく息を吐いてシャウカステンの電源を落とした。
「……私から見て左から二番目よ、それがオリジナル。もっとも小槌の力が回収されるまでは排除してもまた増殖すると思うけど」
『サンキュ。助かったよ』
魔理沙たちは椅子から颯爽と立ち上がった。
そのまま診察室から退室しようと永琳に向けた、その背中に、
「ねぇ、魔理沙」
「なんだ?」
「私が事の顛末を語らなかったら、貴女はどうしていたのかしらね」
魔理沙たちは振り返って、そしてあっけらかんと笑った。
「私は諦めるより、人に諦めさせるほうが得意なんだって。それだけは自信あるんだよな」
まあ、霊夢だけはどうしようもないんだがな、と魔理沙たちは笑って、診察室を後にした。
◆ ◆ ◆
その後、生活費の節約のために四人で地霊殿生活を送っていた魔理沙は、小槌の魔力があらかた回収された後に二人の魔理沙を焼き払った。
一人余分を残したのは、地霊殿の良心である火焔猫燐が「もったいないよ!」と魔理沙に泣きついて懇願してきたからである。
「以降はお姉さんを絶対に死体にしないって約束するからさぁ!」という契約のもとに、一人の処分は燐にゆだねることにしたのだ。
殺す魔理沙も、殺される魔理沙も躊躇いはなかった。
魔理沙たちは魔理沙だった。だから霧雨魔理沙は一人でなくてはならないと誰もが思っていた。だから魔理沙たちはごく自然と、生と死を受け入れたのだ。
一般人からすれば、それはあまりに異質な思考であったのかもしれない。だが、霧雨魔理沙は人なれど魔法使いだった。
魔法使いとは己の望みのために他の何をも省みない、云わば意図的に狂った連中である。だからもしかしたら魔理沙自身も常時狂っているのかもしれないし、実際魔理沙は狂うのに慣れている。
そんな魔理沙たちにとって、例え己が死しても霧雨魔理沙がただ一人の人間であることを望むのは至極当然の思考だったのだ。
霧雨魔理沙はどこにでもいる、ごく普通の人間に収まる範囲の存在でなければならなかった。特別であっては意味が無かった。
極々普通の、人ならば誰でも――時間さえかければ――手が届く存在であるからこそ、魔理沙はこれまでの己の生を肯定できるのである。
特別が、特別に届いたからなんだというのだ。普通が特別を撃ち落す。普通に生まれたこの身にとっては、それこそが喜びなのではないか!
地霊殿の一角に霧雨魔理沙だったものの死体が一つ、新たに陳列された。人外の技なのだろう、恐ろしいほどに手早いエンバーミングである。
流石の魔理沙もこれはちょっとやめてくれんかな、と思いもしたが、なにぶん妖怪のやること。趣味がいいはずもあるまい。文句を言っても倉庫にしまってはくれないだろう。
それに見方によってはこうも考えられはしないだろうか? あれは、魔理沙が己が唯一無二の存在であることを示す記念碑なのだと。
十代半ばにして時を止めた魔理沙だった魔理沙はその美しい姿を保ったまま、ずっと地の底にてこれから先を生きていく魔理沙を監視しているのだ。
魔理沙であることを己に任じて生きる魔理沙は、己が殺してきた無数の魔理沙たちに顔向けできる生き方を続けなければならない。
だがそれはつまるところ、普段となんら変わりない生活ということである。少なくとも魔理沙にとっては。
◆
打ち上げ花火のように地上へと飛び出した魔理沙ではあったが、幸いにもその地上の明るさに目を眇めずに済んだ。
というのもずっと地底で暮らしていたがために気がつかなかったが、時刻は既に日付も変わろうかという頃であったからだ。
間欠泉の合間を縫って飛行する魔理沙が目指すのは懐かしき魔法の森、己の家……ではない。
雑木林を抜け、長い石段をひとっ飛びで翔け上がり、赤い鳥居のその先にて着地し、社務所の雨戸にガンガンと拳を叩き付ける。
「……うっさい! いったい何事……って魔理沙か。お休みの邪魔するなら潰すわよ」
「そいつは勘弁だ。私は一人しかいないんだからな」
はて、と眠そうな瞳をゆるりと躍らせた霊夢はああ、と気だるそうに頷いた。
「解決したんだ」
「おうよ、アホ臭い四人生活とはもう永久におさらばだぜ!」
「ふーん……湯飲み、無駄になっちゃったわね」
「なんだ、人数分用意してくれてたのか?」
「次来たとき、どうせあんた忘れてると思ったから。ま、解決して何よりよ、じゃあね」
会ったばかりだというのに霊夢は即座に踵を返した。霊夢は眠いのである。
だが、そんな霊夢がグギョッっと動きを止めた。
何ということはない。魔理沙に髪を引っ張られたのである。
「ちょっと、何すんのよ!」
怒りに燃える霊夢を前に魔理沙は朗らかな微笑を湛えて、
「一勝負弾ろうぜ、霊夢!」
霊夢の眼が凄絶な殺気を帯びた。
王者の眼、狩人の眼、幻想郷の頂点たる絶対捕食者が白襦袢姿のままふわりと縁側から宙へ舞い上がり、退がる魔理沙を追う。
「あんた、今何時だか分かってるわよね?」
「おう、真夜中っぽいな」
「あんた、私が眠いの分かってるわよね?」
「おう、人は夜は寝るもんだしな」
菱、と空間に罅が入る。
博麗霊夢の闘気が神社を席巻し、周囲の空間全てを鳴動させる。
大気が捻じ切られた空間に吸い込まれ、戦慄きのような唸りを上げる。
「結構。こんなに月も高いけど」
最早博麗神社の境内は無数の結界に囲まれた異界。巫女を護る盾となり、そして侵入者には牙を向く檻となる不可視の結界が、数え切れぬほど。
誰一人とてこの空間に足を踏み入れること敵わず、そして尻尾を巻いて退散するも不可能。
これこそが赤い鬼、白い悪魔。博麗神社が誇る当代の巫女、博麗霊夢の本気である。
「短い夜にしてあげる」
◆
背中をゴリゴリと刺激してくれる不快な玉砂利の感触に、魔理沙は目を覚ました。
さんさんたる有様である。魔理沙が、ではあるが魔理沙だけではない。神社もだ。
飛び散った玉砂利、捲れ上がった石畳。崩れ落ちた石灯篭。
大穴の空いた拝殿の屋根が気流を乱しているのだろうか? 寒空に漂々という悲鳴が響いている。
「うむ、短い夜だなぁ」
わりと長いこと気絶していたのだろう。
天高くにあった月はもうそろそろおねむのようだ。東の空が白み始めていて、もう少ししたらお日様がこんにちわだ。
魔理沙はヘクチ、と可愛らしいくしゃみを零して、己の肩を抱いた。
衣服があらかた焼け落ちた魔理沙の身体は秋空の元、心底まで冷え切っており、寒さにガチガチと歯が震え始める。
霊夢はどうしたのだろう? 問うまでもないだろう、ぬくぬくお布団で夢の中だ。
ちきしょう霊夢め、流石霊夢だ。
負けた負けた、盛大に負けた。
喉元から笑いがこみ上げてくる。腹を抱えて笑いたいところであったが、ここで大爆笑したら本当に目覚めた霊夢に殺されるかもしれない。
そうでなくったって時々霊夢の眼を見ては「あ、こいつ殺る気だな」と恐怖に震えることがある魔理沙である。
無論、霊夢がそんな表情を浮かべるのは魔理沙が度を越えて調子に乗った時くらいであるのだが。
魔理沙は立ち上がってドロワに付着した――スカートは既に焼け落ちている――土をはたき落とすと、燃えさしになりかかっている箒を手に取った。
そうとも、これが現実である。
この前魔理沙が霊夢を余裕綽々で下したのは、単純にあれが弾幕ごっこで、そして魔理沙が四人いたからだ。
そうでなくては魔理沙が霊夢を圧倒できるはずがない。弾幕ごっこの勝率ですら若干甘く見積もって半々、実戦だったら――ご覧の通り。魔理沙の身体にあまり傷が見当たらないのは、手加減された証。
「まぁ、まだまだこれからだよな」
現状を確認し、満足そうに頷いた魔理沙は両足を石畳から離してふわりと空に舞い上がる。
そして魔理沙は一度社務所を振り返ると、盛大なあかんべぇを残して勢いよく西の空へと飛び去っていった。
幻想郷の人々は、流れ星に願い事を唱えることはない。
なにせ幻想郷の夜空に一筋の流れ星が奔るのは別に珍しい光景ではないわけであるし。
何よりその流れ星はそんな無責任なお願いを耳にすると「はぁ? そんなお願いしてる暇あったら手を動かせよ」と呆れたように言い捨てるからである。
おしまい
◆ ◆ ◆
魔理沙たちは頷いた。
『そう、私でないと否定する理由はないんだよな』
魔理沙はこれまでずっと成長し続けて生きてきた。
手が届かなかった戸棚の奥に隠されたおやつに、身長が伸びて手が届くようになったこと。
魔法使いとしての最初の師である朝倉理香子の祖母に箒の扱い方を教えてもらって、自由に空を飛べるようになったこと。
長年の師である魅魔に十年近い年月の間ただひたすらに鍛え上げられ、何もできなかった小娘が平然と里外での生活を謳歌できるようになったこと。
そして、八卦炉。どんな妖怪相手にも怯まず怯えず真正面から相対できるようになったこと。
霧雨魔理沙は成長し、自らができることを増やしていった。そのなかには特に望んだわけでもないのにできるようになっていたものも少なくない。
ならば、どうして己の身体が増えたことを否定する必要がある?
偽物だと最初は思っていた。だから拒絶した。だが実際にはそれは魔理沙の内から現れ出でた、間違いなく魔理沙その人、そのものなのだという。
ならば、どこにそれらを霧雨魔理沙だと認めない理由があろうか?
そう理解すると、まるで心臓に突き刺さっていた針が抜け落ちたかのように心が晴れ晴れとした。
さざなみ立っていた感情がまるで波一つない水面のように平静と鎮まっていく。
バラバラで――いや、ごく似通った思考の元、同じような行動しか取れなかった魔理沙たちの思考が一つに収斂していく。
当然だ。
霧雨魔理沙たちなど、最早どこにもいない。
ここにいるのは身体が四つに増えた、ただ一人の霧雨魔理沙に過ぎないのだから。
右手と左手が同じ動きをするか? 親指と小指で同じことができるか? そんな馬鹿らしいことをこれからもどうして続けねばならない?
霧雨魔理沙の複数の身体は、一つの霧雨魔理沙の意識の支配下に完全に置かれなければならない。
「今の身体に合った、より上位の意識を構築できたようね」
「ああ」
魔理沙たち――いや、魔理沙の身体の一つが、どこかしら満足げに微笑む永琳に頷きを返す。
もう、無様に同じ言葉を重ねたりはしない。口を開く個体はただ一つだけでいい。それ以上は労力の無駄だ。
「なぁ、永琳。一つ聞きたいんだが」
「何かしら?」
「多分お前は私がこうなることを望んでいたんだと思うんだが、それは何故なんだ?」
そう。八意永琳はこれまでずっと、魔理沙が増殖したという事実を肯定的に話を進めてきた。
実際、先ほどから永琳の表情には隠しきれぬ喜色が見え隠れしている。
月の頭脳、とまで謳われるこの天才がここまで感情を顕にするなど、本来ありえないことだ。
だが、当の永琳はこれが黙っていられるか、とばかりに魔理沙へ熱の篭った視線を向けてくる。
「当然でしょう? 私の手腕ではないとは言え、新たなる生命遊戯が紡がれた瞬間を目にできたのだから」
「ライフゲームだと?」
「そうよ――ああ魔理沙、そんな不機嫌そうな顔をしないの。ゲーム、と言っても貴女を玩具と見ているわけではないのよ。これは進化という、あらゆる生命が己が存在を賭して挑まねばならない、誰も逃れられない争いなのだから」
そんな物言いに、魔理沙は顔を歪めた。
誰も逃れられない? よく言うじゃないか。
「進化、ね。けど永琳、お前たち月人はそれを極めたんじゃないのか?」
だがそんな魔理沙のなじるような言葉に、永琳は頬を紅潮させて首を横に振る。
「ええそうよ。我ら月人はこの地球上におけるあらゆる競争から逃れ、世界の頂点に立った。死から開放され、地球そのものを睥睨し、監視することができる座に居を構えた。私がやったのよ。でもね魔理沙、貴女ならわかるでしょう? 月人はもうこれ以上は伸びない。頂点を極めてしまったのだから当然のこと。ありとあらゆる苦悩、恐怖、絶望から開放された彼らにはしかし、その先がない。分かる? 魔理沙。泥の中からだって蓮は咲くように、穢れからもまた路は開かれる。穢れを捨てた月人にはもう、穢れから生まれ出るあらたな分岐に進むことはない」
「先がない事の、何が悪いんだ。あらゆる幸福を手中に収めて、そしてそこに居座ったんだろ?」
「そうよ。だから彼らはずっと幸せに暮らすでしょう。物質としてこの世にある以上いつか訪れる今際のときまで、苦痛なき生を謳歌するでしょう。でもね、魔理沙」
活、と踊る眼。
魔理沙はその瞳に見覚えがあった。否、嫌というほど見慣れていた。
それは学徒の眼。
追い求めるものの眼。
現状に満足しないものの眼。
魔女。原始にして太古の時代から脈々と叡智を紡いできた、最古の魔法使いたる女の眼だ。
「私は既に地上人なの。だから私は望むのよ。更なる先が見たい。月人ではない、別の頂点を見たいと。月人は確かに頂点だけど唯一無二ではないわ。世界には無数の頂点がある。膂力、速さ、知力、頂なんてものは無限にある。仙人、天人を経て神、月人になる!? 何て下らない二番煎じ! そんなものを望む人間に私は興味なんてないの。月人とは異なるその先をこの眼で見てみたいのよ。この気持ち、貴女ならわかるでしょう? 魔法使いである貴女なら!」
「……私はお前のモルモットじゃないぜ」
永琳の表情は変わらない。
混沌の地に舞い戻った彼女は、もしかしたらかつての己を取り戻したのかもしれない。
魔理沙はふいに、そんな事を考えた。
「当たり前よ。誰が手の平に乗りなさいと言ったの。手の平から逃れられない猿などぺしゃんこに潰して終わりよ。魔理沙、貴女はあるがままにあればいいの。私はこれ以上貴女に干渉しないし、ましてや支配するつもりなんて更々ないわ。ただ霧雨魔理沙であり続けなさい」
◆
永遠亭を辞して自宅に帰った魔理沙は、これからについて検討することにした。
身体が四つある、というのは便利なものだ。一体が衣食住の準備をし、一体が魔法薬の材料を採集すれば、残る二体は延々と魔法の実験、研究を続けられる。
とはいえ、魔理沙の研究室はやはり一人用である。研究室を拡張してもいいのだが、と、そこまで考えて、ふとある面影が頭をよぎった。
そうだ、心残りを清算するいい機会である。
翌翌日、人里の一角である噂話が花開いた。
曰く「これまで放蕩を続けていた霧雨の御息女が、ようやく正道に立ち帰った」と。
正直に言えば、魔理沙はそいつが嫌いだった。今でも嫌いである。
魔法使いという己の道を否定した男を。己の夢を「地に足がついた真っ当な人生」という金槌でぐしゃぐしゃに叩き潰そうとした男をどうして許せようか?
だが、だがそれでも。
霧雨魔理沙はその男の娘であり。
そして遅くに子供を授かったがゆえに、その子の未来を、その幸せを願いすぎたがゆえに干渉が過ぎてしまったその初老の男を。
見るからに髪が白く、細くなり、身体のいたるところから肉が落ち、瞳の光を失いかけてきたその男を。
己の、父親を。
魔理沙は許せなくとも、嫌いきることができなかったのだ。
それに、今の魔理沙には身体が四つある。
一つが実家を継ぎ、残る三体が魔法使いである。これならばあの男に膝を屈したことになるわけではない。あの男のもとに帰ったわけではない。
そう魔理沙の自尊心が現実と妥協しうるのも、身体が四つあればこそである。
かつてモノを掴めるように手を発達させた哺乳類が猿に、そして人になったように。
霧雨魔理沙は、人として更なる進化を遂げたのである。
◆ ◆ ◆
そうして、魔理沙は一人宇宙空間を漂っていた。
周囲には何もない。いや、無数の光点だけがある。それははるか彼方の星々、銀河。
地球も、月も、太陽もどこにも見当たらない。いや、視界の中にあるのかもしれないが、どれがそれかなんて判別もできない。
魔理沙はこんなところにきてしまった。
一人で。
巨大に膨れ上がった霧雨魔理沙、ただ一人で。
宇宙空間の真空、極寒、灼熱、放射線に耐えうるように、と。
かつての人の身体を捨て、岩石と珪素、金属の表皮を持つ巨魁となってただ一人、魔理沙は宇宙を揺蕩っている。
どうして、こんなところに来てしまったのだろう。
どこを間違ってしまったのだろう。魔理沙は記憶を過去へと飛ばす。
◆
事の発端は、そう。
確か人里に帰った肉体の愛娘が、三つの祝いを迎えた頃だったと思う。
森の魔理沙が研究の効率化のために、他者との情報交換に終始するための八つめの肉体を生み出したときだった。
そのときにふと思ったのである。
「連絡用なら人の形を取るより、鴉天狗の肉体とかを作り出したほうが便利なんじゃないかな?」と。
霧雨魔理沙は霧雨魔理沙だった。
身体がたとえ八つになろうと、霧雨魔理沙はただ一人の霧雨魔理沙だった。
ならば、こうも言えないだろうか?
「かつての肉体を模さなくとも、霧雨魔理沙の意志に従って動くのならばそれはやはり霧雨魔理沙であるのではないか?」
一般的な正誤、はこの際問題ではない。
ただ霧雨魔理沙の意志は霧雨魔理沙の存在をそのように定義したのだ。
そして霧雨魔理沙の意志――魔理沙の師たる魅魔が絶えず叩いて叩いて叩きまくって鍛え続けた魔理沙の心は霧雨魔理沙という存在を圧倒的に肯定し、定義した。
――嫌っ!! 放して、放してください! 放せ! ……ゃだ、嫌だやだヤダァアア!!
――何言ってるんだよ私。放せもなにも、お前は私だろう? 私が私から逃げてどうするんだよ。
霧雨魔理沙が人間霧雨魔理沙の肉体を量産できたのは、霧雨魔理沙の肉体の中に設計図が存在していたからである。
霧雨魔理沙は人間であった。だから設計図のない鴉天狗の肉体を構成することなどできはしない。
ならば、霧雨魔理沙の中に鴉天狗を取り込んでしまえばいいだけの話だ。
哀れな鴉天狗が一羽、全身から菌糸を伸ばす魔理沙に取り込まれた。
哀れ? いや、何を哀れむ必要があろうか。最初からそれは霧雨魔理沙であったのだ。
魔理沙の師たる魅魔が魔理沙の望みを叶えるために、魔理沙がこの先どんなことがあっても一人で生きていけるように、と鍛え上げた鋼の意思。
折れず、曲がらず、何物の意見にも流されない強靭な自我。
いかなる悪辣、卑劣にも屈することなく、一切の庇護を求めることなく、ただ一人で生き抜くを可能とするための揺ぎない自負。
それは、「人の感情、伝承によって己を形作っている」妖怪の意志などまるで意にも介さず、怨霊のようにそれらを蹂躙して支配してしまった。
九体目の霧雨魔理沙の身体は鴉天狗のそれであった。外見は、人間霧雨魔理沙の身体のそれとは異なる黒髪黒目。
だが霧雨魔理沙であることには変わりはない。それは霧雨魔理沙の意志に従って動く、まぎれもなく霧雨魔理沙の身体であったのである。
霧雨魔理沙の自我、定義は拡大した。鴉天狗は最早、霧雨魔理沙を構成する一要素であり、それ以上でも以下でもなかった。
当然、その自我の拡大がそれだけに留まるはずがない。
人も、妖怪も、鳥も、魚も、虫も、大地も、大気すらも、その全てが。
その全てが霧雨魔理沙であり、それらを統べるのが霧雨魔理沙である。
◆
――ねえ、魔理沙。私のことが分かるかしら。
魔理沙ははて? とありもしない小首をかしげた。
霧雨魔理沙が、どういうわけか己に対して自分が誰かと問うている。これほど滑稽な話があるだろうか?
――分からないのね。もう、私のことも。
分かっているとも。
霧雨魔理沙は全てを受け入れる。全ての存在が遍く霧雨魔理沙の一部である。
だから、眼前のお前は私だ。霧雨魔理沙だ。
――聞いて、魔理沙。私はもう老いた。衰えた。私の力では貴女をこれ以上抑え込んでおくことができない。
抑える必要がどこにあるのだろう?
霧雨魔理沙は己の望みを果すために、ただ自我を拡大する。ただ進化し続ける。
――だから庇ってあげられるのももう限界。私が死んだら、貴女は自分の家族すら取り込もうとしてしまうから。大地も、木も、岩も、全てを己の一部として組み込み始めてしまうから。
それを抑える必要が、どうしてあるというのだろう?
――そうなった貴女を、紫は許容しない。これまでの半世紀で、紫はもう貴女を殺す術を万全に整えたはず。
何を馬鹿な。
霧雨魔理沙は死にはしない。
数多の肉体を持つ、分散された個体である霧雨魔理沙を、いったいどうやって殺すというのだ?
――魔理沙、分かる? この部屋。住吉様のロケット。
覚えている。
確か、霧雨魔理沙が唯一つの肉体しか持たなかった頃に乗船したことがある、空へと旅立つための箱舟。片道切符の、舟。
――全てを己の意のままに喰らい尽くす貴女を、幻想郷は許容しない。
なんて欺瞞。
幻想郷は全てを受け入れるのではなかったのだろうか?
ならば幻想郷の全てが等しく、霧雨魔理沙の意志の元に置かれるもまた許容されてしかるべきであろうに。
――皆が、生きてるのよ。貴女の孫娘夫婦も。ひ孫だって生まれたのよ、貴女。世界は貴女一人じゃないの。私たち、なのよ。
否。
世界の全ては霧雨魔理沙である。
万物皆全て余すところなく、霧雨魔理沙の一部である。
―― 一人にはしないわ。私が、ついていってあげる。宇宙へ行きましょう、魔理沙。この星に貴女の居場所はない。
そうして。
「魔理沙、あんたは私をも取り込むのね?」
――霊夢、私はお前に勝ちたかったんだ。お前が私に取り込まれるというのならば、それは揺ぎない私の勝ちだ、そうだろう?
「私を認識できるようになったのね。たった二人だけになったから?」
――そうだろう? そうあるはずだ! そうだと言ってくれよ! そうじゃなきゃ、私はどうしてこんなになっているんだよ!?
髪は真っ白で、
肌はしわくちゃで、
骨と皮ばかりになった、
老いさらばえた霊夢はふっと、己の周囲に広がる「自然環境」に笑いかけた。
「最初から、私があんたに敵うはずがなかったのよね。あんたは星の魔法使いだもの。星は無限に広がる無重力の海でなお凛として輝き、そして生命を育めるだけの力を持っているんだから」
――霊夢。私は私の判断を信じている。だが教えてくれ霊夢。私は間違っているのか?
「何も間違ってなんかいないわ。あんたは星だった。狭い幻想郷に収まるような器じゃなかった。ただ、それだけのこと」
そうか、
ならば、
――お前は、私だ。私は、お前だ。
住吉様のロケットに押し込められた、箱庭の世界。そのいたるところから、大地から空気から水面から虫から鳥から獣から菌糸が伸びてきて、その自然のただ中にあった唯一の他者、一人の老いた巫女を覆い尽くす。
無重力の巫女は、星の魔女の一部となって。
神のロケットは、その操り手を失い崩壊して。
そうして、魔理沙は一人宇宙空間を漂っていたのだ。
つまり最初から、魔理沙は何も間違ってなんかいなかった。
あれかし。ただあれかし。そうあっただけの話だ、これは。
魔理沙は付近を漂っていた小惑星を菌糸で捕縛して取り込んだ。小惑星は魔理沙だった。
◆ ◆ ◆
――ッ。
己の意識に突如割り込んできた、平素と異なる電磁波、重力の捻れ。太陽風のそれではない。
永い放浪の旅の果て、ある恒星の周回軌道上に魔理沙は納まった。ここ数千年の魔理沙の身辺は安定、異常は検出できていないはずであるが……。
霧雨魔理沙ははて? と意識をそちらに傾ける。
――ワープアウト終了。ドライブシステム、通常に戻します。
『お疲れさま、美鈴。少し休憩を挟んだほうがいいかしら?』
――いえいえこれくらい。では予定通り目標の周回軌道に移動後、探査機を投下します。
『お願いね。これまでの観測結果からは期待が持てるけど……さて、どうなることやら』
無線会話に耳を傾けていた魔理沙の体表、そこに何かが墜落――いや、突入してきた。
魔理沙のパーソナルスペースに断りもなく突入してきたそれはエアブレーキをかけ、大気との摩擦で蒸発することなく魔理沙の体液、大洋上へと落下した。
『美鈴?』
――探査機、無事海洋上に着水。通信状態良好。データ受信開始。転送します……これは。
『酸素濃度、気温、有害物質の有無。水質、大気圧、重力。ここまで完璧な地球型惑星が存在するなんて……正直この目で確認しても信じられないわね』
――では、パチュリー様。
『ええ、知的生命体による文明の痕跡もないようですしね。紅魔艦全乗組員に通達。本艦は十分後に大気圏再突入に移行します。 目標地点は北半球最大大陸近海の……そうね、この列島近海に。やれるわね、美鈴?』
――勿論! 久々の大気圏再突入ですねえ。燃えますねぇ、ワクワクしますねぇ!
『……燃え尽きないようにね』
魔理沙は見た。
一部始終をその瞳ならぬ眼で見た。
――うおー、熱っちぃーー!
星となった己の大気圏内に侵入してくる、巨大な赤い船を。
無事大気圏再突入を遂行し、己の体液、洋上に着水し、寄り添うように停止した巨大な赤い船のハッチが開かれるのを!
「マスターノリッジ! 大地です、海です! 本当におとぎ話じゃなかったんだ!!」
「凄い! 空気が匂う! 生臭い塩の香りだ!!」
「白い。本当に空が青くて白い! 空気に味があるよ!」
「でも重い、身体がすごく重くて上手く飛べないよ。何でだろう?」
紅魔人、とでも呼べばよいのだろうか?
角か鶏冠のように逆立った真紅の頭髪。二つのギョロリとした瞳に尖った嘴。真っ赤な中に一房二房、鮮やかな緑や青が混じる体毛。細い脚に長い腕は――いや、それは翼か。
赤い船から一人、また一人とおっかなびっくり這い出してきて魔理沙の肌に触れるのは、そんな連中。
鳥類から進化したのだろうか? 地球人とは似ても似つかぬ外見のそれらが魔理沙の体液、表皮上に降り立って感涙にむせぶ。
『あまり紅魔艦から離れないように。安全が保証されたわけではないのよ。未だ注意して調査すべきことは数多あるのですから』
「はい! マスターノリッジ!!」
だが、ああ、だが!
懐かしきその響き。その名前。
気がある。気配がある。その赤い船、船全体から懐かしき彼女の気配がする。船そのものが生きている、彼女なのだ。
そしてその船体の内側にある、もう一つの気配。
演算機の中で絶えず模索を続ける、電子で編み上げられた、刺々しさを纏った意識もまたなんと懐かしいことか。
間違いない。彼女たちもまた進化し、変貌し、そして魔理沙の前に再び現れたのだ。
思わず魔理沙は声を発していた。声ならぬ声を。
声帯など当に失った惑星である己が出せる声を。地磁気、地殻の揺れ、気流、あらゆる手段で以って、懐かしみを込めて、
――「久しぶりだな、パチュリー、美鈴」
『……美鈴、何か言った?』
――へ? いえ、なにも。あ、地震と地磁気擾乱を観測しました、微弱ですが。
『ふむ。活動期の火山か、単なる地殻振動か』
魔理沙は己の体表に降り立った紅魔人たちを取り込もうとはしなかった。
霧雨魔理沙は星たるを望み、また星を撃ち落とすことを望んだ人間であった。
博麗霊夢を取り込んだ魔理沙の精神はまるで最初からそう定められていたかのように――二つに分かたれていた、不足していたものが補われたかのように安定した。
無重力の力。あらゆるものから浮く、というその力は何処までも世界を侵食しようとする魔理沙を世界から浮かせ、切り離し、拡散を抑制するこの上ない助力となった。
それ以降、いかなる物を取り込んでも魔理沙の自我は完璧なまでに己を律し続けた。
そんな魔理沙は自らが望む物を取り込み、そして組み替え、膨張を続け、今やその身は完全な星となった。
そして己が一つの頂点を極めたと理解した現状、霧雨魔理沙の意識はそれ以上拡張することをやめたのであった。
魔理沙の体表に、紅魔人が次々と――今は紅魔艦と呼ばれている美鈴から飛び出してきては喚き、咽び、そして鬨の声を上げる。
そんな様を魔理沙は黙って見守っていた。
――いえ、先ほどの振動はもしかしたら、
『もしかしたら?』
いずれ紅魔人たちは己の体表で栄えるだろう。新たな文明を築いてみせるだろう。そしてこの惑星の、魔理沙の遺伝子――かつてただの人だった魔理沙や霊夢、その他数多の生物妖怪たちの情報を少しずつ取り込み、更なる変貌を遂げるだろう。この地に楽園を築き上げるだろう。
いかなる過程で邂逅を果たしたのかは不明であるが、今は彼ら異星人たちのアドバイザーを務めているらしいパチュリーと紅美鈴の目的は不明。
なぜそこにレミリアやフランドール、赤毛の司書がいないのかも魔理沙には分からない。
彼女たちを迎え入れた結果、魔理沙自身が汚染され、死滅する未来だってあり得るのだろうが、
――この星が、私たちを歓迎してくれている合図かもしれませんね。
『それは気を読んだ結果?』
――いえ、単なる希望的観測ですけど。
そうとも、懐かしきわが同胞よ。己とはまた違う進化を遂げた隣人たちよ。
その身そのものを宇宙船と化した美鈴。そして彼女が積載するサーバにその身を写したKnowledgeにそう、言葉を投げかけて。
そうして星となった魔理沙は久方ぶりの他人、紅魔の住人たちと共に生きていくのである。
おしまい
魔理沙が暴走して様々な物を取り込んだ果てに惑星になってたり、美鈴とパチュリーが宇宙船になってたり、とか辺りは少々やりすぎでは? とも思ったけど、面白かったです
なんとも強く、逞しく、燦然たる美しさに満ちた魔理沙。その魅力をたっぷり味わうことができました。たっぷり。
増殖と聞いて、ある程度の予想はつくかもしれない話。なのに、こんな方向に行くとは予想しませんでした。
あと、作者さんのこだわりの見られる食事シーンと、公式設定をさりげなく散りばめるスタイルも好き。
でも魔理沙らしかったので肯定は好きです。
読むのが止まらなくなる素晴らしい話でした
レミリアと先輩のいた未来の話を示唆してんのかなと思ったら肯定ルートでマジに的中しててワロタ
魔理沙はキノコのバイオ(オカルト?)テクノロジーで魅魔に改造された改造人間で、小槌の影響でバイオハザードが発生し、それを肯定するとバイド生命体か魔人ブウみたいになっちまう、と
すげー話考えるなぁw
ただ一点、「菌が自らを増やす起点」として魔理沙を増やしたのなら、なぜ服も構成したのかが解らずもやもやしました。
見分けのつかない魔理沙を必要としたのだとしても……うーん。
予想の遥か上をいかれて嫉妬もできん。
本当に凄い
すごいけどすごいこわい
退行したような感想しか出てきません
完敗なんですけど-10点はわがままです
美鈴とかパチュリーは、「先輩」「牛」の世界観とクロスしてるのでしょうか? そういうの大好物です、はい。
出来ればまた妖忌が出る話とかも読んでみたいです
文句なしの100点でした
嫌に冷酷で凶暴な魔理沙だが自由や独立を真に追い求めれば嫌に凶暴で冷酷で厚かましくならざるを得ないのかも知れない
個人的に人間世界において物理的な独立と自由を得るためには政治がどうしても必要でそれには邪悪を邪悪と認識せずに行う吐き気を催す邪悪がどうしても必要だと思う
それを自分個人で自分個人のために行う一番目の魔理沙は本当に恐ろしいというか凶暴というかサイコパスな気がする
でもそれより怖いのは二番目の魔理沙
一番目より穏健な選択をしたけど、問題は複数だということと皆でひとつの独立と自由を求めているということ
何故ならそれらが独立と自由のために邪悪を行なったとしても政治になってしまうから
自分勝手な邪悪な我儘さが我儘や邪悪ではなくなり皆のための正義になってしまうから
邪悪や我儘を独立や自由のための正義ということに正当化出来るから一番目の魔理沙よりも温厚で利他的で正気でありながら冷酷で利己的で狂気的な行動が出来るしひとりよりも比べ物にならないほど強くて有能だから
だから本当に自由と独立を獲得しかねない
本当に自由と独立を獲得するということは政治的な勝利を意味しそれは社会を程度の差こそあれ征服し支配するということになる
それほどひとりと複数人では意味が違ってくる
そう考えると一番目の選択肢を選んだ魔理沙は魔理沙という政治を魔理沙という社会を魔理沙という邪悪を魔理沙という正義をひいては魔理沙の真の自由と独立を殺したのかもね
ここまで書いて思ったけど群れない個人において真の自由と独立はあるかなと考えたけどつまり複数で自由と独立を共有することを正義に対する執着を破棄することにあるのかもね
いづれにせよ独立と自由は勿論大切だけど過度の執着はあまりいいものでないのかもね
ここまでくるといっそすがすがしい気分!
完全にやられました、お見事!
こんなに楽しそうな永琳先生は初めて見たなーとか、さとり様とピザ食いてぇとか、色々あるけど共存ルートの展開に吹っ飛びました、タイトル通りほんとに星になるとは。
白衣さんの物語は面白いものを書く安心感があって、その通り面白いからたまらない。
うーん。 それにしても初めから 是 ルートに選択する自分の思考回路はどこかおかしいのだろうか。
話自体はぶっ飛んでるのについつい先が気になってしまう
ただ、魔理沙ssによくある霊夢の過度な強キャラ化が気になりました
東方の可能性は無限大に広げられるのですね!
さておき、個人的にはここで描かれた魔理沙の思考、感情の描写にしっかりと訴えてくるものがあって、どのシーンを切り取っても「あ、霧雨魔理沙だ」と思わせられるのが好きです。
楽しませて頂きました。