待っていた。
恋人ではない。
手紙でもない。
出前の注文でもない。
じゃあなんだ。
鈴仙は待っていた。
清潔に整えられた診察室。三人がいる。
一人は鈴仙。
一人は永琳。
そして、今まで数え切れないほどの患者が座ってきた丸椅子に、冴えない表情を浮かべて座っているのは、八坂神奈子。
その目はじっと、対面に座る永琳に向けられている。ここに訪れたたくさんの患者が永琳に対して向けてきた眼差しと同じ、期待と不安の入り交じった視線だった。
永琳は腕組みをしながら、何も言わずに目を閉じている。
あの頭の中には宇宙の神秘を紐解くありとあらゆる知識が詰まっている。病気や怪我なんて、永琳の前では些細な問題だ。
いつだって彼女は患者の治療に当たって明確な道を示してくれる。
だから、鈴仙は彼女が指示してくれるのを黙って待っていた。
その時が訪れるのを楽しみにしながら、楽しみにしてるなんて決して顔には出さないように、ただ静かに永琳の傍らに立って待っていた。
トン、トン、トトン。
解かれた右腕はいつの間にかデスクの上に添えられ、人差し指が跳ねていた。永琳の癖だった。
トン、ト、……トン。
そして、永琳の瞳が開かれた。
来た、と鈴仙は思った。
トン、トン、……ダンッ!
永琳が突然デスクを勢いよく掌で叩いた。
上に乗っていたペンがイルカの曲芸のごとく跳ねる。彼女はそれをすかさず手に取り、逆の手に持っていたカルテにミミズのような字をびっしり書いていく。
真っ黒に塗りつぶされたカルテは鈴仙に渡され、そこに書かれた内容を読み取った鈴仙は敬礼すると部屋を飛び出す。
向かった先は医療器具が山と積まれている倉庫で、鈴仙はストレッチャーに向かってカルテに書かれた機材を次から次へと放り投げていく。
機材が揃うとストレッチャーをひっつかみ、永遠亭の長い長い廊下を「どいてどいて!」と声を上げて猛然と駆け抜ければ、兎たちが左右に退いて道を開ける。何重にも用意された両開きのドアを攻城兵器よろしくストレッチャーで乱暴に開いて突き進んだ先、「ICU」と書かれた最後のドアが姿を現した。
鈴仙が何のためらいもなく最後の関門も突破すると、ベッドに寝かされた神奈子とその横で腕組みをして立っている永琳がいる。
「お師匠様。お待たせしました」
鈴仙が言うと、永琳は神妙に頷き、積み木のように積まれた機材を鋭い目つきで見渡す。三秒の熟考の末、永琳は山の中からひとつだけ選び抜き手に取った。
ハンドバッグみたいな形状をした機械で、本体を大きく開くと中から細い紐が繋がっている二枚の電極パッドが出てくる。
粘着面を患者用の衣服に着替えた神奈子の両肩にそれぞれ貼り付ける。
「先生、大丈夫ですか」
不安げな表情。
「何も問題はありませんよ、すぐに終わります」
優しい笑み。
神奈子はその言葉を信用したのか、静かに目を閉じた。
永琳と鈴仙が視線を合わせ、大きく頷く。
そして永琳が機械の本体についた赤く丸いスイッチを押した。と同時に空気を切り裂くような音がこだまし、部屋中を電子スパークが駆け回る。
神奈子の身体がびくんと大きく跳ねる。激しく揺れ動く身体は、ベッドからこぼれ落ちそうになる。
「押さえて!」
「はい!」
二人がかりでその身体を押さえ込む。
患者は自分の意志とは関係なく暴れ回る。あまりにも力が強いため、二人がかりでもやっとだ。鈴仙は馬乗りになる形で必死に押さえる。
ベッドが大きく傾き、倒れそうになる。永琳が慌ててベッドの縁を掴み、全体重をかけてあるべき位置に戻す。それでもガッタンガッタン揺れ動いて、その度にベッドが横に移動していく。
扉の外に誰かがいたとしたらこう思っただろう。「この中に怪物でも閉じこめられているのか」と。とにかく暴れる腕や足を大人しくさせる事に全力を注ぐ。
長い長い一分間。「チン!」という音がして、機械の作動が停止する。ようやく静寂が戻ってくる。
部屋の中は嵐にでもあったかのような有様だ。結局ベッドは元あった位置よりも五メートルほど移動していた。
鈴仙が額に汗をにじませながらほっと息を吐くと、永琳が何も言わずに「ご苦労様」という意味を込めてそっと鈴仙の頭に手を置いた。
鈴仙は静かに微笑んだ。
十分後。
永遠亭の門を潜った神奈子の背中を、鈴仙は手を振って見送る。
その背中はここを訪れた時とは打って変わってすっかり元気を取り戻した様子で、あれならもう心配いらないだろうと思った。
鈴仙は姿が見えなくなるまで見送った。
◇
「いやーーー、ここ最近ずっと肩こりに悩まされていたが、あれ以来すっかり良くなったわ。あそこの医療はすごいもんだね」
朝の日が差し込む守矢神社の居間で、朝のご飯を口に運んでいた東風谷早苗はうんざりしたように目を細めた。
目の前にはちゃぶ台を挟んで、実に清々しい顔をした神奈子があぐらをかいて座っている。
「神奈子様。もうそのセリフは軽く百回は聞きましたよ」
「む、そうか」
「そうですよ。もうみみタコですよ。みみタコ」
「なんだい、そのみみたこってのは?」
「耳にタコができるって意味です。最近は何でも四文字に省略するのがトレンドなんですよ」
神奈子は「ほう、そうなのか。知らなかった」とつぶやき、ずずずっと味噌汁を啜った。味噌汁のお椀を置き、次にお茶碗を手にとってがつがつご飯を口の中に放り込んでいく。ごっくんと飲み込めば、すぐに箸が次の獲物である卵焼きにのびる。
ここ最近はずっとこれだ。
神奈子は慢性的に悩まされていた肩こりから解放され、それ以来すっかり元気になった。それは良かったのだが、少しばかり元気になりすぎているように思える。
早苗が朝起きると神奈子はとっくに目を覚まし、境内で御柱を担いでスクワットをしながら汗を流していて、ふと目が合うと「どうだ、早苗もやらないか」と誘ってくる。
いくら何でもそんなもん担いでスクワットなんてできるわけがない。
朝ご飯の食べる量だって以前の倍くらいになった。朝食は早苗が用意しているので、自分が作った物を美味しく食べてもらえる分にはとても嬉しいのだが、朝から「食べ放題、お一人様1980円(税抜)、一時間半」みたいな食べ方をされると、見ているこっちの胃が痛くなってくる。
「ごちそうさまです」
早苗はお茶碗の上に箸を置いた。
自分が作った料理でもしっかり言う。それが昔からの習慣だった。
「ん、まだ半分くらいご飯が残ってるじゃないか。それに卵焼きだって手をつけていないし」
「いいんです。なんかお腹いっぱいになっちゃって」
「ふむ。しかしもったいないな。どれ、私が食べよう」
神奈子はそう言って、早苗のお茶碗と卵焼きのお皿を自分の陣地に取り込んだ。
――まったく、人の気も知らないで。
思わず心の中で毒づいてしまった自分に気が付き、早苗は同じように心の中で反省した。人に当たるなんて最低の行為だ。
「ところで諏訪子はどうした?」
「さあ。まだ寝てるんじゃないですか。昨日の夜、トイレに行く時に諏訪子様の部屋の前を通りましたけれど、ピコピコ電子音がなってましたから。また遅くまでゲームにはまってたんじゃないでしょうか」
神奈子は「ふうむ」と唸り声を出し、
「困ったもんだな」
基本的に諏訪子は朝ご飯を食べないタイプだ。ここ最近は特に「夜型」の生活が身についてしまったのか、午前中に姿を見ることはほとんどなくなった。
早苗は立ち上がって、
「じゃあ、私は境内の掃除をしてきますね」
「うむ。頼んだ。こっちの後片付けは私に任せておきなさい」
いつも通りの光景。
早苗はいつも通りの足取りで廊下を歩き、倉庫からいつも通りの竹箒を取り出し、いつも通りの少し汚れた境内を掃除する。
力強い陽射し。
青々とした木々。
高く高くそびえる入道雲。
夏だな、と早苗は思った。
石畳の上を左から右へと掃いていると、
風が、吹いた。
木の葉の擦れ合う音が波のように押し寄せる。
早苗は一度、手を止めてその音に聞き入った。しばらくすると風は止み、同時に音も止んだ。辺りは静寂に包まれる。どこかで鳥が鳴いた。
早苗は再び手を動かし始める。
が、なぜかすぐに手が止まってしまう。
やる気がないわけではない。ただそれ以上に何か気になること、喉に刺さった魚の骨のような、ささくれだった指先のような、決して大きくはないのにどうしても気になってしまう何かが、早苗の心の中で膨らんで「ここから出せ」と叫んでいる。
その正体もわからないままに、陽射しから目をかばうために手でひさしを作った。空は青くて、青くて、ただ青くて……。
早苗は少し考えて、
夏のせいだな、と結論づけた。
夏の陽射しはいつだって熱気と共にノスタルジックな思いを運んでくる。一夏の思い出、とかそういう言葉があるのはきっとそのせい。今こうして変なモヤモヤとした気持ちになっているのだって、そのせい。
早苗は鳥居の台石に「よっこらせ」と腰を下ろして、後頭部をこつんと柱にぶつける。「はぁ~~~」と気の抜けた息を吐けば、また風が吹いて、
早苗は教室にいた。
出席番号十六番、左側から三列目の前から二番目の席。もうすぐ予鈴がなるからと大人しく席について、使い古された真新しい黒板を何をするでもなく眺めていた。
ふと隣から声がする。
「え~~~~、それ本当!?」
「ちょっと声大きいわよ!」
「あ、ごめん。それで、その彼って二組の……君でしょ。で、どうなのよ。うまく行きそうなの?」
「それがね、……君が昨日、携帯にメールで…………、だから私は……」
二人のクラスメイトが話をしている。後半からほとんど聞き取れなかった。
ただ、早苗はそのひそひそ声が――プライベートの欠片もないこの空間の中で、秘密をこっそり告白する女の子とそれを興味深げに聞く女の子、その二人の声がとても心地の良いものに思えた。
辺りを見渡せば、先生がまだ来てないからと席に着かずうろうろしている生徒達がいて、やっぱりどこに目をやっても何かしらの話をしている姿があって、それらのざわめきが教室の壁という壁に当たって反響している。
早苗は隣のひそひそ声が、教室を満たすざわめきが、なぜかとても心を満たしてくれているのを感じ、誰にもばれないようにこっそり笑顔を作ったのだった。
良く聞いてみれば、ここにはそんなひそひそ声もざわめきも存在しなくて、木々が風に揺られて葉が擦れる音がするだけだ。
生徒達で溢れる教室は消え去り、後には世界に一人だけしかいないような境内にぽつんと早苗だけが残される。
夏だな、と早苗は思った。
いつの間にか蝉たちが大合唱を始めていた。
空には細く伸びた雲があって、まるで飛行機雲みたい。でもやっぱりあれは飛行機雲なんかじゃないし、ボーイングやらエアバスやらの機体の姿はどこにもない。
夏だな、と早苗は思った。
いつまでものんびりはしていられなかった。掃除に身が入らなかったのはあきらめるとして、午前中にまだやることが残っている。
箒を片付けて、母屋の扉を少し開いて身体を半分ほど入れる。そこから家の中に向かって、
「里の方に行ってきまーす」
早苗が大きめの声で言い放つと、奥の方から「いってらっしゃーい」と声が返ってくる。
扉を閉め、神社に背を向けて歩き出す。
信仰の獲得には自らの足で歩くことも大事なのである。巫女は大変だ。
石畳の上をスキップスキップ。
鳥居を潜ってホップステップジャーンプの勢いで、そのまま階段の一番上から空に飛び立とうとした。
したはずなのに、早苗の身体は宙に浮くどころか空とは逆の方向へ進む。
落ちた。
まさか自分が落ちるなんて想像していなかった早苗は、結構な勢いでジャンプした。勢いそのままに空中で姿勢が崩れ、前のめりに倒れていく。
近づいてくるむき出しの階段。混乱する頭の中で唯一冷静だった部分でこう思った。
きっと痛いだろうな、と。
◇
「顔の傷はすぐに治りますよ。うちの傷薬は良く効きますので跡も残ることはありません」
永琳の落ち着いた言葉に、安堵の息を吐いたのは早苗ではなく神奈子だった。
約十分前。
鈴仙が門の周りを掃除しているところに、血相を変えた神奈子が突如して現れ、「うちの子が怪我をした」という内容の言葉を、ひどく動転していたのかとてつもなく回りくどい言い方で説明してきた。
しかし要領を得ない言葉の連なりに、何が起こったのかさっぱりわからない。
鈴仙はマシンガンの弾にも負けない速度で発射される言葉をかみ砕いて何とか理解しようと努力したが、あまりの勢いに腰が引けた。ようやく鈴仙の視線が神奈子に背負われている人物を捉えて状況を理解し、すぐに診察室へと案内した。
顔の下半分ほどを血で赤く染めていた早苗を、永琳は一目見るとすぐにタオルで血を拭き取り、ガーゼを鼻の穴に突っこみ、それから額の擦り傷の方にもガーゼ――今度は消毒液のたっぷり染みこんだやつ――を当てた。
早苗がぎゅっと目を瞑った。
見た目こそ派手だったが、ほとんどの出血は鼻血によるもので、鼻血自体もそれほどひどくなく、おさまってしまえばどうってことない、男の子が外ではしゃぎ回って帰ってくればだいたいこんな感じだろうなと思わせる程度の怪我だった。
「神奈子様が大げさすぎるんです」
傷の処置を終えた早苗は恥ずかしそうにうつむきながら言った。
「いやしかしな、女の子は顔が命だ。もしその顔に傷でも残ったら大変だろう。今回はたまたま軽傷だったから笑い事で済んだが、骨にヒビなんか入ってた日には……」
神奈子の言葉を最後まで聞かずに、早苗はぷいと顔をそらした。
「大丈夫ですって言ったのに。降ろしてくださいって言ったのに。神奈子様、聞かないんだもん……」
早苗はつんとした表情になった。神奈子にはその顔は見えていなかっただろうが、どういう顔をしているのかは背中で判断できたらしい。困ったように頭を掻いた。
そこに永琳が穏やかな声で、
「まあまあ早苗さん。神奈子さんの言うことも一理あります。どうってことないように見える怪我でも、実はかなり甚大な怪我で気が付いた時にはすでに……、なんてこともありますから。プロの目で判断してもらうということは、大切なんですよ」
永琳はそこで言葉を切り、何かを考える素振りを見せた。デスクの上に右手を乗せて、人差し指を二回だけ打ち付ける。
「今回、怪我の方は問題ありません。それは安心してください。……ただ、それより考えなければならないことがあります。つまり――」
途端に早苗と神奈子の肩に力が入るのが見て取れた。空気がわずかに張り詰めるのを感じる。
「怪我をした理由。なぜ早苗さんは飛べなくなったのか」
あえて目をそらしていた問題を持ち出されたのか、患者用の椅子に座る二人の顔が険しくなった。
そう、早苗は飛ぶ力を失った。怪我をした時、早苗は確かに大空に向かって飛び立とうとした。それが真っ逆さまに地面に向かって落ちたのだ。
「今も飛べませんか?」
永琳が早苗に向かって目配せをする。
早苗は一瞬うろたえた。だが意を決したように椅子から立ち上がって、一度大きく息を吸い込みゆっくりと吐き出した。
それから部屋中の集中力をひとつにするような面持ちで早苗が目を瞑った。
約十秒。
壁に掛けられた時計の音がやけにうるさく聞こえる。早苗の近くに座っている神奈子がつばを飲み込む音が聞こえる。
さらに十秒。
部屋の中は時が止まったように誰も動かない。もしかしたら本当に時が止まっているのではないかと鈴仙が思い始めた頃、早苗がようやく目を開けた。
早苗は大きく首を横に振った。
部屋の中に大きなため息が漏れた。
「そうですか。では、今度はその問題を何とかしなければなりませんね」
「先生。何とかなりますか?」
神奈子が眉間にしわをぎゅっと寄せながら言った。
「まだ何とも言えません。というのも、空を飛べなくなったと言ってやって来る患者さんはそれなりにいるのです。原因は個人によってとても様々で、この問題の解決策には『これだ』というものがないんです。ですから、まずは原因を探らなければなりません」
「原因、ですか」
早苗が聞き返す。
「ええ。……例えば、ここ最近、靴を新しく履き替えたということはありませんか?」
永琳の質問に、早苗は不思議そうな表情を浮かべる。
「いえ、そんなことはありませんが……。それが今回のこととどう関係するんですか?」
「同じ理由で以前ここを訪れた患者さんの中に、履き慣れた下駄から真新しい靴に変えたことが原因だった、という例もあるんです。どうやらいつもと違う足の感覚が気になって、それが飛行能力に支障をきたしていたみたいですね」
神奈子が驚いたように、
「そんなつまらない理由で」
「ええ、まったくつまらない理由です。逆に言えば、空を飛ぶという動作はそれほどまでに繊細なものなのでしょう。普段、我々は何気なく行っていますが……。特に早苗さんは多感な年頃でしょう。心が揺れ動きやすい時期では、それだけ考えられる原因も多くなると思われます」
「じゃあどうしたら?」
早苗が訊いた。困った、という感情がたっぷりと含まれた声だった。
「何か最近、気になっていること、もしくは悩みなどはありませんか?」
永琳の言葉に、早苗はうつむいた。
ソムリエがワインをじっくり吟味するような表情を見せた。自分の胸の中を探っているのだろう。
それから彼女は一言、
「これといって特には……」
永琳がすっと目を細めた。あまりにも鋭い目つきだった。柔らかな肉にナイフを突き刺す場面をイメージさせた。
彼女は早苗をじっくりと目線で舐め回した後、ゆっくりと息を吐き出した。
「……そうですか。わかりました」
永琳は何かを決心したように頷いて見せた。
そして、とんでもないことを言い放った。
「どうやら今回の件、私の手に余る問題のようです。しかしご安心を。優秀な弟子がきっと何とかしてくれるはずですから」
永琳はにっこりと微笑んで、鈴仙の方に顔を向けた。
それまでずっと壁際で大人しく成り行きを見守っていた鈴仙は、なぜ師匠が自分の方を向いたのかを理解できなかった。
そもそも永琳が口にした「私の手に余る問題」と「優秀な弟子」という言葉の意味を考えるのに手一杯だった。
ありとあらゆる知識を詰め込んだ月の頭脳。どんな病気や怪我だって治してしまう天才。そんな彼女がさじを投げたのだ。これはただごとではない。
そしてもうひとつの問題。「優秀な弟子」とは誰なのか。
自分ではないはずだ。師匠が自分のことを認めてくれたと感じたことは一度もないし、褒められた経験だって片手で数えれば指が余る。
しかしその優秀なお弟子さんとやらはさぞかし大変だろう。師匠からの無茶ぶりに応えなければならないのだから。あれ、でもおかしいな。なんでみんな自分のことをそんな目で見つめているのだろう。
三人の光線銃のような視線が突き刺さる。
そしてようやく、鈴仙は現実を理解した。
どっと汗が出た。
「え、あの、えと……もしかして」
永琳は立ち上がると鈴仙に近づき、そっと肩に手を置いた。
「早苗さんの問題は、すべてあなたに任せるわ。頑張ってね」
清々しいほどの笑顔を見せる永琳と、それから椅子に座りながらぽかんとした表情を浮かべている早苗と神奈子。そして自分の肩に置かれた手。
何もかもが圧倒的な重みでのし掛かってきた。
鈴仙は心の中でこう思った。
ああ、大変なことになったなあ、と。
◇
「鈴仙さんがどうにかしてくれるんですか」
部屋を移した後、鈴仙と二人っきりになった早苗が最初に発した言葉がそれだった。
その声には隠しきれない懐疑心が混ざっていた。
鈴仙を見つめる目にもやっぱりどこか「本当に大丈夫なのかな?」という疑念が含まれていて、それがカーテンの隙間からこぼれる陽射しみたいに顔を出している。
鈴仙はため息をつく。
「私だって医者よ。これまでだってたくさんの患者さんを治療してきた経験があるんだから」
正確に言えば医者見習いで、もっとはっきり言うならば永琳の手伝い役だ。でもそれを言ってしまうと、早苗がさらに自分を信用してくれなくなってしまうだろうから言わないでおく。黙秘権というやつだ。
早苗は納得したのかしてないのか、とりあえずは納得しておかないと先に進めないと判断したのか、こくりと頷いて見せた。
「でも、意外ですね。そういうのは永琳さんが全部一人でやっているのかと思っていました。鈴仙さんもやってたんですね」
早苗は自分のことを何だと思っているのか。
彼女の中で鈴仙は携帯のストラップ程度にしか見えていなかったのだろうか。メインの永琳さえいれば問題はなくて、鈴仙もまあ別にいらないと言えばいらないけれど、一緒に置いておけば見栄えもいいし、何となく、みたいな感じの立ち位置なのか。
「あのねえ……」
鈴仙は盛大にため息をつきながら、
「早苗はもしかして、私のことをお菓子についているおまけか何かだと思ってない?」
早苗は五十メートル離れた距離にいたってわかるくらい大げさに目線をそらすと、
「そんなことありませんよ」
嘘だ。
絶対に嘘だ。
ひどい話だと思う。自分だって一生懸命頑張っているのである。
鈴仙は泣きたくなった。
しかし、これは逆に言えばチャンスでもある。ここでしっかりと結果を出せば、幻想郷の一大勢力である守矢神社の信頼を得ることができる。そうすれば一人前の医者に一歩前進だ。いや、一歩どころではなく十歩分くらいは一足飛びだ。鈴仙・優曇華院・イナバという長ったらしくて初見じゃ絶対に覚えてくれない名前も、守矢神社の巫女さんを助けた名医として人々の噂の種になるかもしれない。
鈴仙はさらにその先も考える。
たちまちにして広がった名前の影響により、永遠亭には人が溢れかえる。以前は全員が永琳を頼って来ていたのに、中には鈴仙をわざわざ指名してくる患者も出てくる。鈴仙はそれらの患者に適切な処置を施し、それがさらに噂となって広がり、永遠亭には長い列ができるようになる。いよいよ永琳だけではさばき切れなくなり、鈴仙個人の診察室が作られる。鈴仙は力の限り患者の治療に専念し、たくさんの問題を解決すると同時に自らの知識と技術を上げていく。そうして長い年月が過ぎたある日、唐突に永琳からこう言われる。
「すっかり立派になったわね。今ではもう私と肩を並べるくらい。……ううん、私以上と言っても過言ではないわ。あなたがいれば永遠亭も安泰ね」
「お師匠様……!」
鈴仙は師匠の言葉に思わず涙ぐむ。
すると永琳は、
「泣くんじゃありません。……ウドンゲ。いえ、鈴仙・優曇華院・イナバ、今日からこの永遠亭の管理をすべてあなたに任せるわ。今以上に大変になると思うけれど、きっとあなたならやりきれると思うわ。だから泣きやみなさい。いつまでも泣いてられたら、私は引退ができないから」
そっと肩に置かれた手の感触を噛み締めながら、鈴仙は袖で涙を拭い去り、
「はい! 頑張ります。お師匠様に心配をかけないように、私、一生懸命やります」
鈴仙は力強い声で言い放つ。
すると永琳は優しさを讃えた笑みを浮かべ、静かに鈴仙を抱きしめる。
それは最愛の弟子に対する、最大の愛情表現だった。
たちまちにして止まっていた涙が再び溢れ出てくる。そんな自分に対し、師匠は「まったくもう」などと困ったように声を漏らすのだが、その表情はとても柔らかで、泣きやむまでずっと優しく抱きしめてくれるのだった……。
鈴仙の頭の中には完璧で非の打ち所がない将来設計が出来上がっていた。
にへらと笑うだらしない顔を、早苗が気味悪そうに見つめているのにすら気付いていない。
「あの……」
そこでようやく未来から帰ってきた。
咳払いをひとつして、
「さて、先ほども言ったと思うけれど、まずは飛べなくなった原因を突き止めなければいけないわ。大抵の場合は心理的な要因によるものだから、今回もおそらくそうだと考えていいと思う」
鈴仙は自信満々に言う。
つい先ほどは「大変なことになってしまった」などと弱気な思いに囚われたものだが、今ではすっかり気持ちを入れ替え、やる気に満ちあふれている。
なにせ永琳は「優秀な部下」と言って、自分を指名してくれたのである。優秀な部下。なんて甘美な響き!
師匠はこの問題を「私の手に余る」と言ったが、あれはきっと本心ではないと思う。鈴仙になら何とかできるだろうと思って、経験を積ませるためとかそんな感じの理由で任せてくれたのだ。「あー、もうなんか面倒だからとりあえず目に映ったこいつに押しつけちゃえばいいや」みたいなノリではない。たぶん。
「飛行能力を阻害する力が無意識のうちに働いているのは間違いない。さっき早苗は悩みはないと言ったわよね……。でも、きっと何かあるはず。本人にも気付かないほど小さいものか、もしくは気付いていても今回の問題とは関係ないと思い込んでしまっているか……」
急に真面目な表情を浮かべて思案する鈴仙に、早苗はちょっとだけ面食らったように、
「わー、なんだかお医者さんっぽい」
だから医者だって。手伝いだけど。
鈴仙は考える。この問題に対してどのようにアプローチしていくか。永琳はこういう場合、患者との対話を繰り返し行っていたはず。会話の中から原因の尻尾を見つけ出し、引っ張り出してしまうのだ。後は、その原因に応じて適切な処置を施す。
その時に必要なものは言葉だけだ。メスも注射も、薬だっていらない。最初から最後まで言葉だけですべてを解決してしまう。鈴仙にはそれがまるで魔法にも見える。が、心という形のないものを相手にするからこそ、同じように形のない言葉が一番効くのかもしれない。
残念ながら鈴仙はそんなに口が達者ではない。姫様としりとりをすれば負けるのは大抵自分だ。だからこの方法はあまり現実的とはいえなかった。
しかし、代わりにとっておきがあった。
「やっぱりあの方法を使うしかないみたいね」
「あの方法?」
早苗が首を傾げ、鈴仙はこくりと頷く。
「私は波長を操ることができるの。この波長というのは――、説明すると長くなるから簡単に言うと、ありとあらゆる物に波長は存在していて、それをいじくると色々な効果を引き起こせるというわけ。それで、早苗の持つ波長を操って、心の内側に隠れた問題を表側に出てきやすい状態にする」
「なるほど、つまりは催眠術みたいなものなんですね!」
「まあ、イメージとしてはそんな感じね。早苗が飛べなくなってしまった要因を特定することを目的に、催眠をかけるわけ」
そこで早苗は座布団の上に正座で座り直すと、
「じゃあ、さっそくやってみてください」
まるで今から手品ショーでも見るかのような顔つきだ。催眠という言葉がお気に召したらしい。鈴仙は慌てて、
「ちょっと待って、これはそんな簡単なものじゃないのよ。心の問題、つまりネガティブな感情をわざわざ引っ張り上げてくる作業なの。場合によってはかなりのストレスがかかるかもしれないわ」
「大丈夫です。ストレス社会と呼ばれる世界で生きてきましたから!」
よくわからない自信を見せる彼女は、「ほら早くやってください」と目で訴えてくる。好奇心と期待がたっぷり含まれた眼差しだ。
鈴仙はやりにくさを覚えながらも、
「わかった。じゃあ今からやるから、そのままの姿勢でまっすぐ私の目を見て」
「はい」
意識を集中する。かなりデリケートな作業だ。能力の出力値を少しでも誤れば、意図した効果とはまったく違うものが出てきてしまう。
能力を発動させるために必要な各項目を慎重に決めていく。鈴仙の瞳に深紅の輝きが増していく。出力に問題がないことを確認し、最後に尋ねる。
「準備できたわ。本当にいいわね?」
彼女は目をまっすぐこちらに向けながら、頷いた。鈴仙も頷きを返すと、
「わかった、じゃあ行くわ」
目を大きく開いて、対象の姿をはっきりと知覚する。タイミングを計る。相手の呼吸を意識する。早苗が息を吐ききった瞬間を選んだ。
――能力発動。
その時、鈴仙の能力は確かに効いた。
予想した通りの効果を発揮したし、早苗が心の内側に隠していた表情をはっきりと見ることができた。
だが鈴仙はひどく後悔した。
誰にだって隠し事のひとつやふたつはある。自分の胸の中だけにしまっておいてそのまま墓場に持っていくような人だっている。人の心というのは最も尊重しなければならないものだ。
人の秘密を知るために、墓を荒らしたりしてはいけないのだ。本当なら踏み込んではいけない領域に、ずかずかと土足で押し入ったりしてはいけないのだ。
いや違う、と鈴仙は思う。自分はあくまで早苗が飛べなくなってしまった問題を解決するために、仕方なくやったことなのだ。これは早苗のことを思ってやっていることなのだ。そう自分に言い聞かせる。正当化しなければ、くじけてしまいそうだった。
鈴仙の能力が効果を発揮した瞬間、それまでの元気で明るくて天真爛漫だった早苗の姿は消え去った。
代わりにひどく青ざめた顔で、
「ごめんなさい」
そう言った途端、早苗の瞳から涙がつうっと線を引いた。
世界がくるりと反転したように、二人を包んでいた空気が明らかに変わった。
鈴仙はなぜ謝られているのか理解できなかった。彼女がなぜ唐突に涙を流したのかもわからなかった。状況を把握しようとして口を開きかけた時、それよりも早く早苗がまた「ごめんなさい」と言った。何度も、何度も。まるで自分自身を縛り付ける呪詛を唱えているみたいだった。
鈴仙はなかなか口を挟めないでいたがようやく、
「何で謝るの?」
早苗は少しだけ押し黙ってから、
「約束、守れなかったから」
約束とは何だろうか。
とりあえずわかったことがある。彼女が謝っている対象はどうやら自分ではないようだ。早苗が対面しているのは自分の知らない誰かで、その誰かとは早苗がこの幻想郷にやって来る前、外の世界にいた頃の友達であるということは予想がついた。
鈴仙の能力は完全に効いていた。いや、効き過ぎていた。早苗のトラウマを根っこからほじくり出してしまった。
早苗は言葉を続けた。
関西の方へ引っ越すという嘘をついたこと。みんなと一緒に撮った写真や寄せ書きを燃やしたこと。携帯も捨てたこと。メモリーはすべて消去したこと。自分がそこにいたという証拠を可能な限りなくしたこと……。
彼女はこの幻想郷に移ってくる際の出来事を、まるで罪を告白するかのように言葉にした。それを聞いている鈴仙の方こそ胸が痛くなってくるような悲痛な叫びだった。胸の中に抱えた痛みが溶け出しているような涙だった。
時間としてはそれほど長くはなかっただろう。早苗は過去から帰ってきた。
「すいません。何だかお恥ずかしいものを見せたようで……」
すっかり明るさを取り戻した彼女は、ちょっとだけ気まずそうに顔を伏せた。
鈴仙はまっすぐに見てられなかった。
「ごめん」
「どうして鈴仙さんが謝るんですか」
早苗はちょっとだけ可笑しそうに言った。
鈴仙はますます複雑な気持ちになった。
「もう少し加減すれば良かった……と思う」
触れてはいけない部分に触れてしまった気がした。
鈴仙は早苗のことを良く知っているわけではない。何度か顔を合わせたことがある程度だ。しかしそれでも彼女がとても元気で明るい性格をしているのは知っている。そういう普段の顔を知っているからこそ、彼女が普段見せることのない顔、おそらく誰にも見せたくないであろう顔を見てしまって、自分はひどく戸惑っている。
メスを入れたら思った以上に切り口が開いてしまって、大量出血してしまった。簡単にいえばこんな感じ。責められるべき医療ミス。医師としてあるまじき失態。
「そんな、私は気にしてませんから。むしろ鈴仙さんの能力ってすごいんだなあ、って感心しちゃいました。例えばほら、吸い込むと気分がぶっ飛んじゃう薬ってあるじゃないですか。ニュースとかで良く取りざたされる。あれを使ったらこんな感じなのかな、って。……あ、例えが悪いですかね」
えへへ、と彼女は笑った。早苗が自分のことを気遣ってくれているのがわかって、申し訳なさで一杯になった。
しかしここでさらに落ち込んでいたら余計彼女に悪い。ここは気持ちを一度リセットしてやり直そう。
なにより収穫はあったのだから。
「わかったことがあるわ」
「はい。なんでしょう」
「早苗は外の世界にいた頃の未練を断ち切れていない」
彼女はわずかに視線を泳がせた後、
「そう、ですね」
「きっとそれが飛べなくなった原因なのだと思う。未練は鎖よ。人を縛り付けるの」
「地面に繋がれてしまったわけですか」
正しく言うなら過去に、だ。
彼女には外の世界に置いてきた未練がある。やり残した何かがある。
誰だって一度は過去に戻りたいと思うことがある。あの時の自分に戻りたいと思う。
外の世界では空を飛ぶ人間なんていない。早苗だって飛んでなかったはずである。早苗はきっと、空を飛べなかった頃の自分に戻りたいと思っているのだ。
未練という鎖が、過去の早苗と現在の早苗を繋げてしまった。飛べなくなったのはそれが原因だ。
だから鈴仙がやるべきことは、
「鎖を断ち切る。そうすれば解決されるはず」
「じゃあどうすればいいのですか?」
「早苗、教えて。あなたが外の世界に置いてきた未練って、なに?」
早苗は腕組みをし、たっぷりと時間をかけて考える仕草を見せた後、自分でも納得のいく答えがぴたりと見つかったのか、うんと大きく頷いてこう言った。
「青春です」
◇
「ねえ、てゐ」
午後、早苗が神奈子と一緒に帰って行った後の永遠亭。鈴仙は明日の準備を終えて、考え事をしながら廊下を歩いている所に、たまたま姿を見かけたてゐに声をかけた。
明日の準備とは急遽早苗と行くことになったキャンプの準備で、なぜキャンプに行くことになったのかというと、「青春を取り戻せば問題が解決されるはず」と思い、じゃあどうしようかと考えた所に「青春といえばキャンプですよ」と早苗が目を輝かせながら言ってきたからである。
早苗がただ単にキャンプに行きたがっているだけのように見えなくもなかったが、鈴仙としては他に何か考えがあるわけでもなかったので、「よしじゃあ行くか!」ということになった。それに患者の状態を知ることは大事だ。早苗と一緒に時間を過ごせば、何か見えてくるものがあるかもしれない。
一応、師匠にも相談してみたら、「いいんじゃない。楽しそうだし」とのこと。
そんなわけで、鈴仙に呼びかけられたてゐは「んー」と「あー」の中間くらいの声を出した。
「青春って何かしら?」
彼女はいきなり何言ってるんだこいつ、という顔を露骨に見せた。
「青いんだよ。春が」
「そのままじゃない」
まったくこいつは何もわかってないな、という顔に変わった。てゐは「やれやれ」というように肩をすくめながらこう言う。
「春が青いなんてイメージある? 春といえば桜。桜といえばピンク。春って言うのは桃色なのよ。青じゃあない」
「確かに、そうかもしれない」
「ということは、青い春というのは普通じゃない。普通じゃないことをすれば青春になる」
「普通じゃないこと。どうすればいいのよ?」
「つまり」
てゐはいつになく真剣な顔つきになり、重々しくこう言った。
「今日の夕飯の献立は、ギョウザがいい」
そう言い残して、てゐは去っていった。
鈴仙は誰もいなくなった空間を眺め続け、
「ギョウザか」
にんにくあったかな、と思った。
◇
白狼天狗のしかめっ面に、鈴仙は昨日食べたギョウザの臭いがまだ残っているのかと、自分の口臭を確かめた。
大丈夫のはず。大丈夫と思いたい。
瑞々しい夏を纏った妖怪の山は午前中であるにもかかわらず暑かった。雷鳴のような蝉の鳴き声が響いている。
鈴仙は早苗と一緒にキャンプ道具一式を担いでやって来ていた。妖怪の山でキャンプなんて普通に考えたらできるわけがない。天狗は排他的な生き物だから、他の種族の侵入を嫌う。「イジワルな連中よね」と鈴仙が天狗に対するイメージを口にすると、早苗は「極度の人見知りさん達なんですよ」と言った。なるほどそうなのか、と納得した。
犬走椛と名乗った彼女は人見知りには見えなかったが、いかにも生真面目そうだった。好きな言葉は「規則」です、と言いそうだと鈴仙は思った。
「本日から明日の夕方まで、お二人に一定地域での活動を許可します。具体的にはキャンプ地――ここから一キロほど行ったところに川があり、そこをキャンプ地としてもらいますが――そこを中心とした半径三キロほどです」
守矢神社が妖怪の山でどれほどの力を持っているのか知らないが、キャンプの許可をもらうくらいはできるようだ。早苗いわく、「神奈子様が何とかしてくれました」とのこと。
神奈子のことを身内に対して過保護な人物というイメージしかなかった鈴仙は、反省することにした。ただ結局は早苗のことを考えて行動している時点で、やっぱり過保護というイメージは変わりなかった。
「もしその範囲を越えて活動を行った場合、警告を行います。速やかに引き返してください」
「もし引き返さなかったら?」
鈴仙がおそるおそる尋ねる。
椛の顔が一層険しくなった。そんなことするつもりなのか、と批難するようだった。
「何度か警告を行い、それでも聞き入れないとなると、こちら側は警告は無意味だと判断します。そうなった場合はもちろん……」
椛はそう言って、腰にぶら下げた鞘から剣を少しだけ抜いて見せた。太陽の光を反射して、銀色の刃が鈍く輝いた。
彼女は剣を元に戻した。
「最終手段です。手間はかけさせないでください」
おっかない所に来てしまったな、と鈴仙は思った。それに引き替え早苗は笑顔で「はーい」と暢気に答えた。
彼女は他にもあれこれ言ってきた。ゴミは持ち帰ること。トイレとシャワーは哨戒天狗用のものが近くにあるのでそれを使うこと。むやみに自然を破壊しないこと。地面を掘り返したり、石を大きく動かした場合は元に戻しておくこと。キノコは採っても構わないが、素人には見分けがつかないので危ないから食べないこと。等々。
あまりにも長々しい説明に鈴仙がげんなりし始めた頃、ようやく椛は話を切った。
「何か質問は?」
好きな言葉は、という質問をすんでの所で堪えた。
鈴仙が「ありません」と答えようとしたその時、早苗がびしっと天に向かって手を挙げた。
「バナナはおやつに入りますか?」
その声はなぜか嬉しそうだった。
鈴仙は思いっきり頭を抱えたくなった。目の前の堅物に冗談が通用するとは思えなかった。
椛の目が光った。険しく細められた瞳をじっと早苗に向けている。それはそうだ。こんなふざけた質問が飛んでくるなんて思わなかっただろう。
彼女は腕組みをした。沈黙が三人を包み込んだ。気まずい空気に逃げ出したくなった。鈴仙は胃が痛み出し、早苗はなぜかニコニコとし、椛は明らかに不機嫌な顔をし、そして、
「すいません」
と言ったのは椛で、彼女は視線を上空へと投げ、
「盲点でした。……ああくそ! バナナはおやつに入るか? わからない! そもそもおやつって何だ? 三時のおやつだ。つまりカステラだ。じゃあバナナはおやつには入らない……? しかし私が勝手に判断しても良いのだろうか。もしそれで何かしら問題が起きたらどうする」
椛はひどく取り乱した。
「こういう時の為にしっかりリストを作っておけば良かったんだ! だからダメなんだ、詰めが甘い! こんなんだから性格は至って真面目しかしどこか抜けている、なんて評価をもらうんだ。最悪だ!」
今にも頭を岩に叩きつけそうな勢いで、彼女は自分に向かって悪態をつく。
突然の出来事に鈴仙は訳がわからない。さすがの早苗もこれには予想外だったのか困惑した様子で、助けを求めるように鈴仙が来ているシャツの裾を引っ張ってきた。
どうしろというのか。そもそも原因は早苗なのだから、早苗が何とかして欲しい。が、このままでは埒が明かないので、
「あの~~~」
腫れ物に触れるつもりで声を掛けると、椛ははっとしたように表情を元に戻し、咳払いをひとつする。
「すいません。取り乱しました。バナナがおやつに入るかどうか、私には判断できません。申し訳ない」
「あ、別にそれは結構です」
「この案件は持ち帰って、すぐに会議にかけようと思います」
「それも結構です」
「他に何か質問はありませんよね?」
鈴仙と早苗は黙って頷いた。
「よろしい。それでは私からは以上です。楽しい時間をお過ごしください」
ぺこりと一礼して彼女は飛び去った。悪い人ではないのかもしれない。真面目すぎるのが玉に瑕だが。
「さあ行きましょう鈴仙さん!」
大きなバックパックを担いだ早苗が意気揚々と声を上げた。
鈴仙は「うん」と言葉を返して歩き出す。
ところで、
「おやつの持ち込みに制限ってあったっけ」
「ないですね」
「だよね」
◇
川原に着いた。
早苗は荷物を降ろして深く息を吐いた。額に浮かぶ汗を拭い、水筒を取り出して冷たい水で喉を潤した。
生き返る。
ここにやって来るのにかなりのスタミナを使った。岩に腰を下ろした。しばらくは動きたくなかった。
鈴仙の方はまだまだ元気そうだった。荷物を降ろすなり、テント道具を引っ張り出して、その中に入っている組み立て図を真剣な顔で見つめている。
「ここに設置するんですか?」
「うん。場所的にもここが最適だと思う」
川から少し距離を置いた林の中だ。
ここからだと木々の間から川の様子が見られて、太陽の光をきらきらと反射する水面の揺らめきを感じられる。
早苗はテントの知識など持ち合わせていなかったので、鈴仙に任せることにした。彼女はしばらく組み立て図を眺めていたが「よし」と声を上げ、
「じゃあたてちゃいましょうか。早苗、手伝って」
疲れてはいたがテントをたてる作業は心躍る何かがあって、「よーし頑張るぞ」なんて気持ちが膨らんだ。
立ち上がって伸びをした。
女の子二人で行う作業だ。ちょっと苦労するかもしれない。などと思っていたが、そんな心配はいらなかった。
鈴仙はものすごい手際の良さを見せた。テントを広げ、その四隅にペグを的確な角度で打ち込んでいく。早苗が一本を打ち込み終わる前に、鈴仙はもう三本を終わらせていた。迷うことなくスリープにポールを通して、「せーの」のかけ声に合わせて持ち上げればテントが立ち上がる。ポールにフックを引っかけ、その後にフライシートをかぶせ、最後に余っているフックをそれぞれの場所にかければ完成だ。
あっという間で驚いた。
ほとんど鈴仙が行ったようなもので、早苗は彼女の指示に従ってちょっとだけ手伝いをしただけだ。
「鈴仙さんすごい……。プロみたい」
「ん、そう? まあ、こういうのは散々練習したから」
鈴仙はちょっと嬉しそうだった。
「へー、お医者さんの技術に必要なんですか?」
「ああ違う違う。軍人時代の名残ってやつよ」
「え!? 鈴仙さんって元軍人だったんですか」
「うん。これでもそれなりに優秀な方だったんだから」
「優秀な元軍人で現お医者さん。何ですかそれは……。すっっっっっっっっごく格好いいじゃないですか!」
鈴仙はすごく嬉しそうだった。
「ま、まあね。そういう経歴の人ってなかなかいないだろうし」
「私、鈴仙さんのこと身近で話しやすい人ってイメージだったんですけど、なんか見方が変わっちゃいました。尊敬しちゃいます!」
鈴仙は有頂天だった。月まで飛んで行けそうな顔つきだった。
よほど嬉しかったのか、彼女は前髪をかき上げ、
「ふふん。このキャンプで困ったことがあったら何でも言ってね。私がぱぱっと解決してあげるから。もちろん、早苗が飛べなくなった問題も何とかするわ」
清々しいほどの得意顔。もう何も怖くないと言わんばかりに胸を張った。
早苗も何だか嬉しくなって手を叩いた。
「期待してます」
しかしこの時、早苗と鈴仙は知らなかった。
この後、とんでもない地獄が待ち受けていることを。
◇
すべてがうまく行っているような気がした。
早苗の言う「青春」というものが何なのかわからなかったが、キャンプは楽しめていた。このまま二人でうまい具合に過ごせば、明日には早苗の心は夏の空みたいに清々しく綺麗さっぱり晴れているのではないか。空を飛べなかったのが嘘のように軽やかに宙に浮かび上がるのではないか。
そんな期待があった。頭の中に描いた将来設計の道のりを、間違えずに歩けているように思えた。
昼食のために二人で薪集めをした後、川からほど近い場所に石を積み立ててかまどを作った。上に網を乗せればそれらしくなる。
ちなみに昼食の材料は鈴仙が、夕食の材料は早苗が用意することになっていた。お互い何を作るかはその時のお楽しみというわけで、秘密にしてあった。
かまどが完成すると、早苗はどうやら感づいたらしい。
「これは、BBQですね」
「ビービーキュー? なにそれ」
「バーベキュー。外の世界では何でもアルファベット三文字にするのがトレンドなんです」
「なるほど。そう、その通りBBQ」
キャンプといえばやはりバーベキューは外せないだろう。どうやら早苗も同じ考えらしく、「さすがです」というお言葉を頂戴した。
かまどに薪を適当に並べ、その中心に新聞紙を突っ込んだ。さっそく火を点けようと鈴仙が思っていると、早苗が目を輝かせていることに気付く。
「それ、なんですか?」
「ん、これ? メタルマッチよ。ほら、こうすると火花が飛び散るの」
鈴仙が持っていたメタルマッチを擦り合わせると、激しく火花が散る。簡単に言ってしまえば火打ち石と打ち金だ。
早苗の目の輝きがより一層強くなった。「やらせて欲しい」というのが言われなくてもわかったので、やり方を教えて見守ることにする。
早苗は教えた通りの手順で何度も挑戦した。慣れない手つきながらも彼女なりに試行錯誤して頑張っていたが、火は点かずに煙がちょっとだけ立ち上っただけに終わった。
「むずかし~~~~!」
地面に大の字に寝転んだ早苗の声が空に向かって飛んでいった。
「でしょう。でも、結構惜しいところまでは行ってたと思う」
鈴仙は笑いながらメタルマッチを三回ほど擦り合わせた。それだけで新聞紙に火が点き、やがて大きく広がって薪に燃え移った。
早苗が目を丸くして、「鈴仙さんって実はとてもすごい人だったんですね」と感心するような声音で言った。
「いやー、それほどでも」
内心では小躍りだ。同時にほっとする。実をいえば昨日こっそり練習したのである。その時の脳内シミュレート通りに事が運んで、ここまでうまくいっていいのだろうかと逆に怖くなるくらいだ。
鈴仙はご機嫌で鼻歌を歌いながら、持ってきた野菜と肉を切った。その横で早苗が切られた野菜と肉を串に刺していった。
串はとても見栄え良く出来上がって、「いい感じね」と感想を漏らすと、早苗は嬉しそうに笑顔を作った。
後は焼くだけだ。
二人で串を網に載せて、焼き具合を眺めながら談笑して、いい具合に焼き上がったら「あちち」とか言いながらはふはふしよう。
理想的なキャンプの風景。
だが鈴仙が頭の中に描いたそれは、残念ながら達成されることはなかった。
最初の異変は、音だった。
地鳴りのような音。気のせいかと思ったそれは次第に大きくなり、はっきりと聞こえるようになって、すぐに何かやばいのではないかと思えるほどになった。
次の異変は近くを流れる川の水かさが増したことで、この音との関連性を考えるならば何が起ころうとしているのかは、鈴仙にも想像がついた。
音は近づいてきている。圧倒的な速度でこちらに向かってきているのが、空気の振動でわかる。
これから串を焼こうと思っていた二人だったが、お互いに危機を感じたらしい。
鈴仙は早苗を見て、早苗は鈴仙を見た。目があって、頷く。
その瞬間、全力ダッシュでその場から逃げ出した。
その瞬間、川上からものすごい量の水流が押し寄せた。
壁のような水の塊が、何もかも押し流す勢いで向かってくる。
走っても無理だ。逃げられない。となれば空へ逃げるしかない。鈴仙はそう判断し、飛び上がった。が、そこで気付く。
早苗は飛べないのではないか。
視線を下へ向ければ、やはり早苗は地上を走っている。尋常じゃない鉄砲水によって川はたちまちにして氾濫し、二人が準備していたバーベキューは跡形もなく飲み込まれて消えた。
水の勢いはとどまることを知らず、早苗に牙をむく。
まずい、助けなければ。
早苗に向かって急降下。大声で呼びかけると、彼女は気付いた。水流はすぐ後ろまで迫ってきていた。右手を伸ばす。早苗も右手を伸ばす。二人の手が近づき、あと少しという所で、
「……あ」
どちらが発した声かはわからない。二人ともだったのかもしれない。その手を掴まえる前に、早苗は水に捕らえられた。
「早苗!」
あっという間に川に飲まれ姿が見えなくなる。
まずい、まずい、まずい。
水の流れに沿って必死に探す。声を張り上げて名前を呼ぶ。腕でも足でもいいから水の上に出てくれれば見つけようがあったが、それらしいものはまったく見えない。
必死になって探し続けた。水流の勢いや流れを考えて、早苗が流されたと考えられる場所を捜索してみる。
一瞬、人の腕が水面から突き出ているのが見えた。が、それは良く見れば流木で、思わず舌打ちが出る。
焦っていた。
今こそ冷静にならなければならないとわかっていても、時間がたつほどに焦りはましてくる。
緊張の糸が張り詰める。
「早苗~~~! 聞こえたら返事して!」
返ってくる答えはない。
どこかに流れ着いていないかと川岸や岩場の影にも目を向けたが、徒労に終わる。
それから探して、探して、どれくらいたっただろう。
川下へかなりの距離を移動していた。キャンプ位置から随分と離れていた。
水の勢いはだいぶ収まり、元の姿を取り戻しつつあった。
鈴仙は大きな岩の上に降りたって、そこから辺りをぐるりと見渡し、早苗の姿がないことがわかると、ついに糸が切れた。
どさりと座り込んだ。
空に向かって泣いた。
助けられなかった。自分のせいだと思った。あの時早苗の腕を掴んでいれば、もっと早く異変に気が付いていれば、バーベキューなんてしなければ、キャンプになんて来なければ、こんなことになるのは防げたはずなのに。
すべてがうまくいっていたはずだった。それが一瞬にして悪夢に変わった。頭の中に描いた将来設計が跡形もなく崩れ去っていく。
もう終わりだ。何もかも。
早苗に対する申し訳なさと、自分の不甲斐なさに乾いた笑いが出た。
きっとこれから後ろ指を指される人生だ。事故とはいえ守矢神社の巫女を死亡させてしまった。自分の悪名はたちまちにして広がるだろう。永遠亭のみんなにも迷惑をかけるかもしれない。
そういえば過保護な神様がいたっけ。もしこの事態を知ったら、神奈子はどうするだろう。もしかしたら自分は殺されるかもしれない。見ただけで失神しそうなドスを持ってきた彼女に「これで腹を切れ」と言われるかもしれない。自分はその時どうするだろう。
「鈴仙さ~~~~ん!」
絶望的な未来しか見えなかった。夢も希望もない。
「鈴仙さん! 鈴仙さ~~~ん!」
せめて許して欲しい。早苗に許しを請いたいと強く思った。
「鈴仙さん! ちょっと、どうしたんですか。大丈夫です?」
目の前に早苗がいた。
「ごめんね早苗。私、助けようとしたんだけど、間に合わなかった。ごめん、ごめん……」
「気にしないでください。ほら、この通り無事だったわけだし」
「うう、ごめんね。だから許して。祟ったりしないで。ちゃんと墓参りは毎年行くし、綺麗なお花をお供えするし、お墓はぴかぴかに磨く…………、え、無事?」
二人の視線がぶつかる。どちらもきょとんとした目だった。どちらも状況を正しく把握してなかった。
鈴仙はてっきり目の前の早苗は現実逃避による幻だと思っていた。が、手を伸ばして早苗の手を触り、腕を触り、肩を触り、それから胸を触った。
むにゅ。
「柔らかい!」
「いきなりセクハラ!?」
「ああ、違う違う! ちゃんと実体があるって言いたかったの」
「もしかして私は死んだとでも思ってたんですか。それで目の前の私は幽霊か幻かなんかだと思ったんですか。ひどいです!」
「ご、ごめん。……でも本当に無事で良かった。すごい水の流れだったから、そのまま流されちゃったかと……。どうやって助かったの?」
すると早苗は清々しいほどの笑みを作り、それから右腕を持ち上げ、ぐっと親指を立て、こう言った。
「奇跡の力です!」
「……そっか。早苗は奇跡が起こせるんだったっけ」
結構すごい力なのかもしれない。鈴仙は感心した。
何はともあれ早苗が無事で本当に良かった。全身から力が抜けるような安堵感に包まれる。
と、早苗はちょっと恥ずかしそうな表情を浮かべ、うつむきながらこちらを見ると、すごく言いにくそうに、
「……あの、そろそろ胸から手を離してもらってもいいですか」
◇
聞くに早苗はどうやら椛に助けてもらったらしい。
活動範囲を大幅に越えていたが、緊急事態と判断したのかおとがめはなかった。
椛にお礼を言いたかった。だが彼女は何やら急用があると早苗を助けてすぐにどこかへ行ってしまったらしい。
二人で苦労してテントまで戻ってきた。川が氾濫しても大丈夫な場所に設営しておいたので、テントは無事だ。
びしょ濡れの早苗は着替えるために中に入り、鈴仙は切り株に腰掛けて早苗が持ってきていたバナナを頬張った。
とんだ形でお昼を台無しにされてしまった。
予定は大幅に狂ったものの気分は悪くない。生きてさえいればやり直しはできる。ここからまた新たにキャンプを始めて、青春というやつを体験するのだ。そうすればきっと、早苗の問題も解決できる。
鈴仙は一本目のバナナを食べ終わり、二本目を手に取った。皮をむこうとして、
ふと違和感。
それは軍人時代の経験から来る直感のようなものだった。
――狙われている。
頭ではなく体が反応した。
咄嗟に体を伏せた。判断は間違っていなかった。そうしなければ、背後から飛んできた弾幕に撃ち抜かれる所だった。
鈴仙は体勢を低く保ったまま虫のような動作で木の陰に逃げ込んだ。少しだけ顔を出し、弾幕が飛んできた方向を見る。
姿はない。だが確かにいる。直感がそう囁いている。
どうして狙われているのか、誰が狙っているのか、そんなことを考えている暇はない。やらなければやられる。そう判断し、鈴仙は右手で銃の形を作る。
大きく息を吸い込み、カウントダウン。きっちり五秒数えて木の陰から飛び出し、走った。
思った通り敵は反応した。こちらに向けて青白い光弾を放ってくる。鈴仙は再び木の陰に隠れ、それらをやり過ごす。弾が止まったのを見て、今度は反撃。姿は見えなかったが、弾の飛んできた方向から計算し、敵がいるであろう位置に向けて合わせて十発の弾をお見舞いした。
確かな手応え。
注意を払いながらゆっくりと敵の方へ近づく。夏らしい背の高い草が壁のように生い茂って、風にあおられて揺れていた。敵はおそらくこの先にいる。
鈴仙は意を決して一気に飛び込み、その向こう側へ躍り出た。そしてそこで見たのは、
「河童?」
少女が地面に倒れていた。おそらく河童であり、名前は確か、
「河城にとり……だったかしら」
鈴仙がつぶやくと、地面に伏した彼女がぴくりと反応した。
攻撃してくるかもしれない。気を抜かずに、いつでも反撃できる体勢を整えておく。
彼女の目が開いた。ぼんやりと視線を宙にさまよわせていたが、その目が鈴仙の姿を捉えるとはっとしたように表情を変え、それから力を振り絞るように口を動かした。
「え、なに?」
聞こえなかった。が、相手が必死に何かを伝えようとしているのはわかった。
鈴仙はにとりの側により、耳を澄ませた。
すると彼女は絞り出すように一言、
「……食べ物…………くれ」
◇
「いや~~~~、助かった。あまりにも腹が空きすぎて、もう少しで死ぬところだったよ」
と笑いながらバナナを美味しそうに頬張るにとり。
鈴仙は力尽きたにとりを引きずってテントの前まで戻ってきた。そんなわけで、三人は向かい合う形で座っている。
鈴仙は次から次へとやってくる面倒な出来事に、ひどく疲れていた。もうこれ以上予想外の何かが起こらないことを願うしかない。
隣に腰掛けていた早苗は、
「でもどうしてそんなにお腹を空かせていたんですか?」
「んん、それがねえ……」
ごくん、とにとりはバナナを飲み込み、
「ほら、私たち河童って根っからのエンジニアでしょう。で、たまにだけど開発に夢中になるあまり寝食忘れて作業を続けることがあるんだ。ここ最近は結構でかいヤマに取りかかってたから、しばらく何も食べてなかった。四日間……いや、五日間かな」
彼女は指を折って数えた。
「馬鹿ね」
思ったままを口にしたのだが、にとりは嬉しそうに歯を見せて、
「そう、私たちは馬鹿なんだ。そうじゃないとエンジニアはやってられないよ」
「おお、格好いい! ドキュメンタリーだったら今のセリフは絶対使われてましたよ」
早苗が手を叩いて褒めると、「いや~~~~~~~~~」とにとりは満更でもない顔を浮かべる。
鈴仙はもう勝手にやってろと思った。どっと疲れが押し寄せ、今すぐにでもテントの中に入って横になりたい気分だった。が、そこで疑問が浮かんだ。
「ねえ、なんで私に向かって弾幕を撃ってきたのよ? 避けられたから良かったけれど、当たってたら怪我したかもしれないわ」
自分だから避けられたが、もしあそこに座っていたのが早苗だったらと考えると、ぞっとしない。
「ああ、それは悪かったよ。許しておくれ」
彼女は申し訳なさそうな表情を浮かべ、話を続ける。
「これはもう、なんというか、……エンジニアの悪い所なのかもしれないけれど……。開発している物が失敗すると、すごくむしゃくしゃするんだ。時には自我を失っちゃうこともあるくらいに。開発に熱を入れれば入れるほど、それが失敗した時のショックは大きくて、それで今回、私がそうなっちゃった、というわけ」
「つまり私はむしゃくしゃした腹いせに、襲われたってわけなの?」
するとにとりは「違う違う」と慌てて否定をして、
「私たちは自我を失った状態になると、その時の欲望に対して忠実になる。なんとしてでも欲を満たそうと体が勝手に動いちゃうんだ」
「迷惑な話ね。で、その欲ってなんだったの?」
「食欲」
どこのゾンビだ。
つまり自分はあの時バナナを持っていたから襲われたというわけか。鈴仙は頭を抱えたくなった。
「ところで何を作っていたんですか?」
「水力発電装置だよ。現在使われているものと比べて、より効率的でより使い勝手のいいものができあがる……はずだったんだけどね。見事に失敗。そのせいで大量の水が流れ出して、ちょっと騒ぎになっちゃった」
なるほど。
鈴仙は理解した。
つまり、だ。
先ほどの川の氾濫はこの河童のせいであり、早苗が流されて自分はもう終わりだと絶望するはめになったのも、この河童のせいであるわけだ。
あの時の、焦燥感が、後悔が、絶望が、頭を駆けめぐり、それらが今この瞬間の怒りへと変換された。鈴仙は猛然と立ち上がりにとりに飛びかかるような勢いで掴みかかって、
「あんたのせいでこっちはもう少しでハラキリさせられる所だったのよ! 責任とってあんたが代わりに腹を切りなさいよ!」
「ひゅい!? な、なななんだってんだ! ちょっと落ち着いて」
「暢気にバナナなんて食べてんじゃないわよ! 私がどんだけ苦労したと思ってるの!」
にとりの襟元を掴み、力の限り前後に揺れ動かした。がっくんがっくん首が動き、
「な、なんだかわからないけれど許して。ほらこの通り。だ、だから、水に流して」
「水に流して!? ふざけんじゃないわよ。こっちは早苗が水に流されて大変な思いしたのよ! そういえば河童は『たま』が好物だったわね。好きなだけぶち込んでやろうじゃない」
銃の形を模した手を、にとりの眉間に突きつけた。
「たまはたまでも『尻子玉』だよ! そっちの『弾』じゃない! ひえええ、早苗助けてえええええ」
にとりの絶叫が響き渡り、さすがに見過ごせないと思ったのか早苗が後ろから声をかけてくる。
「ま、まあ今回は大事には至らなかったですし、ほら、にとりさんも反省しているようなので許してあげましょう。……ね?」
やんわりとした言い方ではあったが、断固とした決意を感じた。仕方なく襟を離してやると、にとりは地面にへなへなと座り込んだ。
それぞれが感情のこもった息を吐いた。
ひとまず落ち着きを取り戻したので、これからのことを話し合うべきかもしれない。
「ねえ早苗、これからどうする?」
「う~~ん、そうですねえ。少し休憩してから、夕食の準備をしましょうか。お昼は食べられませんでしたし……。とても残念でしたが」
ちらりとこちらに気遣わしげな視線を送ってくる。せっかく準備したのにすべてが無駄になってしまったことを、気にかけてくれているのだ。
「私は気にしてないから平気よ。バナナしか食べてないからお腹空いてるけれど。その分、夕食作りを頑張りましょう」
「……そうですね」
早苗は微笑んだ。
と、そこでにとりが、
「やめときな」
きっぱりとした口調だった。
「今回の水力発電装置の開発は河童たち総出で取り組んだんだ。ほとんどがその間、飲まず食わずで作業を行っていた。つまり、私と同じように自我を失った連中がたくさんいて、そいつらはみんな食料を追い求めて、あちこちを彷徨っている。そんな状況の中で夕食なんて作ったら…………」
何が何でも奪いに来るだろう。
先ほどにとりが不意打ちをしてきたように、問答無用で弾幕を飛ばしてくるはずだ。一人や二人なら何とかなるが、彼女の話からしてそんな数で収まるようなものではないだろう。
血に飢えた獣のような瞳をした河童たちがこの場所に押し寄せ、何もかもめちゃくちゃにしていく場面を想像し、
「たまったもんじゃないわね」
「私たちのミスであんたらに迷惑をかけたのは申し訳ない。でも、こうなった以上はやめておいた方がいい。できればキャンプはまたの機会にすることをおすすめするよ」
確かに彼女の言い分はもっともだった。この状況下でキャンプを続けるのは、あまり賢い選択だとは思えない。
残念だが日を改めた方が良さそうだ。
早苗はどう考えているのだろうと思い、彼女の方へ視線を送った。すると、
「カレー」
ぽつりと、早苗がつぶやいた。
「作りたかったなあ……」
それから空を見上げて、
「鈴仙さんと一緒にカレー作って、ご飯は飯ごうで炊いて、それで出来上がったら一緒に口の周りべとべとにさせながら掻き込んで食べようって決めてたのに……。きっとすごく美味しかっただろうなあ……」
木々の隙間から目が痛くなるような青い空が見えた。
早苗はじっと空を眺め続けた。
飛び方を忘れた鳥のようだと思った。
そんな顔をしないで欲しかった。
「でも、仕方ないですね。……今日はここで終わりにしましょう。機会は今日だけじゃないですし、またそのうちにやり直すということで、いいでしょうか?」
そうだ。別に今日じゃなきゃいけないというわけではない。今日が無理なら、また別の日にやり直せばいい。
それはわかってる。わかっているのだ、頭では。でも、心はそれでは納得しない。楽しみにしていたキャンプが中途半端な形で終わって、「まあどうせ次があるし」なんて気分にはならない。感情というやつは近所のガキンチョ並に聞き分けが悪いんだ。
早苗の顔には、はっきりとそれが浮かんでいた。
まだ終わらせたくないという気持ちが、このまま大人しくテントを片付けて帰路につきたくないという気持ちが、心を直につなぎ合わせたかのように流れこんでくる。
自分は何をすべきだろうか。
目的は何だったっけ? ああ、そうだ。早苗が飛べなくなってしまったことを何とかするんだった。彼女の未練を断ち切ることができれば問題は解決できると思って、外の世界に置いてきた青春を取り戻そうと思ったのだった。
青春という言葉はあまりにも漠然としていて、鈴仙には良くわからなかった。でも、彼女がキャンプをしたいと願ったからには、やっぱりキャンプも青春なんだと思う。
そして、早苗の望みを叶えてやりたいと思っている自分がいる。
このキャンプを最後までやり遂げたいと思った。
全然医者らしいことしてないなあ、と自分でも可笑しくなる。でも、これが自分のやり方だ。文句あるか。
「ねえ、早苗。カレー作りましょう」
「……でも」
戸惑いを見せる早苗に、鈴仙は力強く言って聞かせる。
「邪魔者は私が排除する。これでも元軍人よ。腕には自信があるわ。もしカレーを奪いに河童どもが押し寄せたら、私が止める」
「でも、どうやって?」
鈴仙は右手で銃の形を作り、それを早苗に向けて撃つ真似をして見せた。
「ここは幻想郷。邪魔する奴には弾幕を撃ち込めばいい。そうでしょう?」
早苗の目に希望の光が宿った。
「だからごめん。カレー作りは手伝えない。早苗に任せてもいい?」
通り雨の後の、夏の陽射しみたいだと思った。
早苗はどこまでも眩しい笑顔を作って、
「鈴仙さんが驚くくらい美味しいのを作ります」
がっちりと手と手を取り合った。
やることは決まった。覚悟も決めた。
と、そこでにとりが横から言ってよこす。
「そういうことなら手伝うよ。こっちの不手際が招いた問題だし、けじめはつけなきゃね。人手は多いほうがいいだろう?」
「助かる」
鈴仙は頷く。それから、
「ねえ、それちょっと見せてくれない」
「ん? ああ、この銃か。いいよほら」
先ほどから気になっていた。にとりの傍らに置いてある銃。おそらく先の攻撃はこの銃によるものだ。形状はアサルトライフルに見えなくもないが、水色に塗りたくられたボディのせいかおもちゃにも見える。
手にとって確かめる。グリップを握り、トリガーに指をかける。悪くない。誰もいない方向に向けて試し撃ち。青白い光弾が数発連射された。
「いいわね」
「気に入ってくれたかい? 他にも色々とあるよ。お望みなら、持ってくるけど」
鈴仙は大きく頷いて、
「あるだけ全部持ってきて」
◇
西の空がにわかに夕焼けの準備をし始めた頃、山中に重たい音が響き渡った。
「来たね」
「思ったより早いわ」
それはにとりが設置したトラップの爆発音。踏めばドカン。つまり敵が近づいてきた証。
林の中は敵の接近が見えにくいと判断し、カレー作りの場所は川原にした。
しかしそのままではいい的だ。だから敵の弾幕から身を守るために、にとりの工房から机やら廃材やらを持ってきてバリケードを作った。身をかがめれば体を隠すことはできる。少なくとも、鍋や飯ごうは守ることができる。作っている最中にひっくり返されることだけは勘弁だ。
キャンプらしい道具が並べてある横に、キャンプに似つかわしくない物騒な武器がどっさりと置かれている。
鈴仙はその内のひとつを手に取り、背後にいる早苗に声を掛ける。
「どう、一人で大丈夫?」
「料理は得意ですから任せてください。この飯ごうを使うのは初めてですけれど、たぶん大丈夫」
飯ごうはもうすでに火にかけられている。が、まだそれだけしかやっていない。これから本格的にカレー作りが行われる。
そんな状況で早くも敵の接近を知らせる音が鳴り響いたわけだ。先が思いやられる。
「じゃあこれから野菜を切りますね。まずは……ニンジンから」
思わずうっとりするようなニンジンが取り出された。早苗は包丁を使い、慣れた手つきで皮をむいていく。
鈴仙は夢想する。あれがカレーの中に浮かぶ姿を。ほどよいサイズに切られ、とろけるように柔らかくなったニンジンは、スパイスのきいたカレーに絶妙な味わいをもたらすだろう。
β-カロテンがたっぷりと含まれたそれをスプーンですくい、口の中に入れる、その瞬間を頭の中で思い描いていると、
「敵の反応だ! 鈴仙!」
その声に我に返り、持っていたスプーンはずっしりとした狙撃銃(にとりの発明品)に変わっている。
にとりが手元の敵探知装置(これも彼女の発明品)を睨み付けながら言ってよこす。
「反応はまだひとつ。思った通り北からやって来たね。そっちに本拠地があるから、当たり前といえば当たり前だけど」
「場所は?」
「一時の方角」
鈴仙は狙撃銃のスコープを川上に向ける。
すぐに見つけた。
生気と正気を失った表情の河童だ。今にも貧血を起こして倒れてしまいそう。よほど腹が減っていると見える。少し可哀相にも思えたが、ここで憐憫の情に浸っている余裕はない。こちらの食料を奪うことを目的にしている以上、やらなければならない。
レティクルとターゲットを重ね合わせ、撃った。
「ビューティフォー……」
にとりが隣で声を漏らし、鈴仙は対象が倒れるのを確認しながら、すかさずボルトハンドルを起こし後方へ引き絞る。薬莢が魚のように飛び出し、ハンドルを再び元の位置に戻せば次の弾薬が装填される。
「いい武器ね」
「そっちこそ、いい腕だ」
さらに敵反応。
「また来たの。河童って犬みたいな嗅覚持ってる?」
「いや、ごく普通だと思うけど」
次のターゲットを狙う。
後ろで早苗がまな板の上でニンジンを切る音がする。トン、トン、トン。規則正しいリズムに狙撃銃が発する馬鹿うるさい音が割って入る。
トン、トン、ズガァアーーン……、トン、トン、トン、ズガァアアーン……。
鈴仙が的確に敵を処理していき、早苗が的確に野菜を処理していく。
「二時の方角複数反応!」
「了解」
「ニンジン切り終わりました、次はジャガイモに移ります」
「オッケー」
狙撃。倒れる影。切り刻まれるジャガイモ。空になった弾倉に新たな弾が詰め込まれる。ジャガイモの次はタマネギ。赤い敵反応を示すモニター。正確無比で冷血なスナイプ。タマネギはみじん切りに。最初は縦半分に切り、繊維と平行に細かく切り目を入れた後、今度は包丁を寝かせて水平に切り目を入れてから、最後に繊維と直角に切り刻んでいけばやりやすい。狙撃のコツは精神力。トリガーを引く瞬間にどれだけ落ち着いていられるかがポイントだ。
「おっと、今度は前方と後方に反応ありだ。どうする?」
「私は前方を。イレギュラーは任せる!」
「あいさ、了解」
両手にハンドガンを構えたにとりが不敵な笑みを浮かべ、バリケードの外に勢いよく飛び出していった。
鈴仙は続けて、向かってくる敵に対処する。
久しぶりの実戦だったが落ち着いている。
こうして銃を構えていると昔を思い出す。厳しい訓練の日々だった。火器類の扱いは一通り頭に叩き込まれた。体力を鍛えるために石をしこたま詰め込んだベルゲンを担いで一日中歩き回らされたこともある。なんでこんなに苦しい思いをしなければならないんだろうと毎日悩んだ。
でも、なぜだろう。確かに苦しい日々だったはずだし、あの日々に戻りたいかと言われれば間違いなくNOだ。でも、苦しい日々の合間に訪れた何気ないやり取り、ごくありふれたはずの仲間達との会話、そういう些細な出来事をたまらなく愛しく思う時がある。
懐古主義なんか持っちゃいないが、ふとそんな風に思う瞬間がある。
それはもしかしたら、故郷を捨てた者がかかる病気みたいなものかもしれない。過去を振り返らずにはいられなくなる。
早苗も、きっとそう……。
そんなことを考えていると、敵を始末したのかにとりが戻ってきた。
「片付けた。この程度だったらまったく問題ないね」
「このままうまく行くことを願うわ」
敵の勢いはまばらだった。が、それが突如として変わったのは、早苗が肉の調理に取りかかってからだった。
肉の焼かれる気持ちのいい音がして、お腹が空くにおいが空気に乗って流れてくる。すると、まるでそのにおいを嗅ぎ取ったかのように河童どもが押し寄せる。
「団体さんのお出ましだ! 結構な数だよ」
「どう考えてもにおいに反応してるわ。やっぱり犬じゃないの!」
「否定できない!」
狙撃銃じゃ相手をしていられない。鈴仙は武器の山からアサルトライフルを二丁選び出し、一丁を背中に、一丁を手に持ち、弾を詰め込んだマガジンをかき集めてポーチに突っ込むと腰に装着した。マガジンの弾は一発だけ抜いてある。こうしておくとスプリングの負荷が軽減されてジャムる確率が少なくなる。
「私が相手をする。撃ち逃しはにとりが何とかして!」
そう叫ぶなり、早苗が鍋の中をへらでかき混ぜているのを横目に見ながら、バリケードから飛び出す。
向かうは前線。こちらにまっすぐ突進してくる腹ぺこの河童どもを迎え撃つ。
一人目が目に入り、立ったままの姿勢で射撃。一発でしとめ、続いて二人目。こちらも一発でしとめる。どちらもヘッドショットを決めた。
それにしてもにとりの作ったこの武器は使い勝手がいい。何より威力が高い。自分が指先から作り出す弾幕と比べて、相手を戦闘不能にする能力に長けている。まさに武器だ。
と、そこで相手からの反撃。
鈴仙は冷静に相手が放ってきた弾幕を横っ飛びにかわす。川原には身を隠せるものがない。当たりたくなければ避けるしかない。
続けざまに放たれる弾を走って避け、相手の攻撃が止んだ所で冷静に撃ち返す。
作業中に汚れたのか、所々に油汚れがこびりついたつなぎを着ている少女。鈴仙が放った三発の弾は、そのすべてが少女の胸元に叩きこまれ、彼女はその反動によって後方へ大きく吹き飛んでいった。
「次の獲物は……」
その時、直感が働いた。
横を流れる川に向かって猛ダッシュ。水際まで行くなり、水中に向かってめちゃくちゃに射撃した。乾いた音が響き渡り、水柱が何本も立ち上る。マガジンが空になり、三秒とかけずにスペアと取り替え、気が狂ったように撃ちまくった。
水面にぬうっと三人の河童の姿が浮かび上がって来た。どうやら命中したようで、三人とも気絶している。そのまま河童の川流れだ。
今度は川上から敵影。鈴仙は続けてそちらへ銃口を向ける。
鈴仙が前線で銃を乱射している最中、早苗は野菜を炒めていた。
「ひゅ~、やるねえ。すごい活躍だ。私が出る幕はないかも」
にとりが興奮したように声を上げる。
オレンジ色へ変わりつつある空に、パパン、パパパン、という音が散発的に響く。早苗にもはっきりと聞こえる。鈴仙が自分のために頑張ってくれているのだ。
早苗はうっすらと浮かぶ額の汗を拭い、
「鈴仙さんは元軍人のエリートなんです。実はすごい人なんですよ」
まるで自分の自慢話を聞かせるような声音で言う。
にとりは感心した様子だった。
「へえ~~、どうりで武器の扱いに慣れているわけだ。動きも様になってる。ありゃあ、確かにただ者じゃない」
なぜか自分が褒められた時のように、少し鼻が高い早苗だった。
「やっぱり実戦経験も豊富なのかな。何とか作戦とかいう奴に参加して、勲章とか一杯もらってたり」
鈴仙からは「元軍人のエリート」としか聞かされていなかったので、実際彼女がどの程度の実績を持っているのかは知らない。
が、早苗は頭の中に作り上げた鈴仙の軍人像から、具体的なエピソードを勝手に創作し、ちょっとだけ話を盛ることにする。
「当然です。月の特殊部隊、通称MSTFは、数ある軍人の中から精鋭中の精鋭が選び抜かれ、『祖国のために』の合い言葉の下に限りなく不可能に近い任務に就く、本物のエリート集団。その中でも伝説と言われているのが第三分遣隊で、『第二次静かの海大戦』において『月のクラゲ作戦』を絶望的な状況に陥りながらも見事に遂行し、連合軍側を勝利に導くのに大きく貢献。その他にも関わった作戦を挙げればきりがなく、彼女らがもらった勲章の数は胸に収まらないほどだとか。そしてそんな第三分遣隊の指揮を執っていたのが……」
ごくり、とにとりが唾を飲み込んだ。
「ま、まさか……」
早苗は重々しく頷く。
「……そう、鈴仙さんです」
ちょっとだけ盛った。ちょっとだけ。
そして話を聞き終わったにとりは目をキラッキラと輝かせて、
「後でサインもらわなきゃ!」
「一緒にもらいましょう!」
そんなこんなでカレーの方は完成に近づいていた。野菜と肉を煮て灰汁を取った。十分に素材が柔らかくなったところで、いよいよルーの投入だ。
後もう少し。ルーを溶かしとろみがでるまで煮込めばできあがり。
そして、早苗がカレーのルーを鍋の中に入れた。スパイスの効いたにおいが鍋から立ち上り、何とも食欲を誘ってくる。
だがどうやら食欲を誘われたのは早苗だけではなかったらしい。ルーが入れられたことによって今までとは比べものにならないほどの「におい」が発せられてしまう。
森の獣たちが目を覚ます。
敵探知装置の画面を見つめていたにとりの顔色が、着ている服の色と同じくらいさっと青ざめる。それからゆっくりと、まるでその画面に映ったものが嘘であって欲しいと願うみたいに、たっぷりと時間をかけて視線を持ち上げると、遠くの一点を凝視する。
ただごとではない雰囲気を察知した早苗は、彼女の視線を追いかける。バリケードを越え、依然として銃をぶっ放している鈴仙の姿のさらに奥、肉眼で見えるぎりぎりの距離に、それはあった。
最初、何かわからなかった。黒々とした巨大な影に見えた。だが、すぐに正体に気付く。
どこかで見たことある風景だった。
確かお昼頃にやっていたテレビの映画放送。主人公は男女の二人組で、舞台はアメリカ。低予算ながらも田舎町を舞台にした緊迫感のある映画とくれば、大体ゾンビだ。
そして映画のクライマックスシーン。ゾンビから逃げまどい、ショッピングモールに立てこもった主人公たちだったが、いよいよ扉が突き破られ建物の中にゾンビが溢れかえる。一緒に逃げ込んでいた人たちは次々と噛まれ、新しいゾンビが大量生産されていく。ついに主人公の二人だけになり、駐車場を全力で駆け抜けるその後ろから、世紀末感をたっぷりと漂わせた尋常じゃない数のゾンビが追いかけてくる……。
まさにあのシーンが今、目の前にあった。
黒い巨大な影は、目をぎらつかせた大量の河童たちで、全速力でこちらに向かって走って来ている。
危機的な状況を前にして、なぜか早苗はこう思った。あの映画のラストって、どうだったっけ。
「……え、嘘でしょ?」
信じられない。信じたくない。が、そうもいってられない。
半端ない数の河童が押しよせてくる。
鈴仙は弾切れになったアサルトライフルを捨てて、背中に担いでいたもう一丁を構えると、壁のごとく並んでやって来る河童たちに向かってでたらめに撃った。
何人かはやれたが、焼け石に水だ。
さらにどうやらその攻撃が相手を刺激してしまったようで、前線にいた河童たちが鈴仙に向かって一斉射撃を行ってくる。
ライフルを投げ捨てて、全力で逃げた。
後ろからとんでもないプレッシャーを感じる。一瞬だけちらりと背後を振り返ると、空間に隙間なくぎっしりと詰め込まれた色鮮やかな弾幕が見えた。
鈴仙はバリケードまで全速力で戻ってくると、その中で呆然と立ちつくしていた早苗をタックルするような勢いで押し倒した。
刹那、頭の上を土石流みたいな弾幕が流れていく。机やらガラクタやらで作った簡易のバリケードにも弾がしこたま当たって、けたたましい音が鳴り響いた。
「早苗、大丈夫?」
「あ、は、はい。ありがとうございます」
体勢を低く保ったまま、移動する。
「まずいことになった」
にとりが言う。
「そんなこと見ればわかる! とにかくやらなきゃ!」
ここが最終防衛ラインだ。このバリケードを突破されて中に入って来られたら負け。
守るべきは早苗とカレー。自分の役目は、敵を殲滅すること。
「早苗! カレーの方は!?」
「あと数分煮込めば、出来上がります」
よし、と頷く。
「にとり、何が何でも守り抜くわよ」
「……はあ、自分にも責任があるとはいえ、大変なことになったもんだよ」
にとりはそうつぶやき、おもむろに軽機関銃を引っ張り出した。馬鹿みたいにごてごてとしたフォルム。物騒なことこの上ないその武器の銃口を、突撃してくる敵に向ける。
「とっておきだ! こいつをくらいなあ!」
叫ぶなり、軽機関銃が火を噴く。ドッドッドッという腹に響いてくる低音がこだまし、圧倒的な弾幕が展開される。さすがにこれは効果があった様子で、次々と人影が倒れていった。
鈴仙も攻撃に加わろうとサブマシンガンを手に取ったその時、敵探知装置に新たな反応。
「左右両方から敵が……」
前方の敵だけでにとりは手一杯だ。左右からの敵は自分が何とかするしかない。
鈴仙は右手に持ったサブマシンガンで右方向から近づいてくる敵を一掃。その間に反対方向から来ていた河童がだいぶ近くまで押しよせ、弾幕を放ってきた。
鈴仙はバリケードに背を預け、弾幕をやり過ごしながら左手に持ったグレネードのピンを口で外すと、背後に投擲。続けて、もう一個をお見舞い。二つの爆発が甚大な被害を与えたところに、マガジン一個分の掃射を叩きこんで片付ける。
しかし、そこでにとりが、
「もうダメだ。こっちは抑えきれない……!」
鈴仙が再び前方を振り向くと、すぐ近くまで河童の群れが近づいていた。どいつもこいつも正気を失い、目は血走り、己の食欲を満たすことしか考えていないゾンビと化していた。そんな奴らが全力でこっちに向かって来る様は完全にホラーだった。
「あと五分くらい煮込めば、完成です。だから頑張って!」
鍋の中を確認した早苗が言ってくる。
鈴仙はリロードを済ませ、もう一丁のサブマシンガンを手に取り、さっと立ち上がる。
「まずい、ジャムった!」
にとりが叫ぶ。
こんな時に。
制圧射撃がなくなり、いよいよ前方の敵が猛然と向かってくる。もう目と鼻の先まで迫っていた。
鈴仙が射撃の構えを取ったときにはすでに遅く、先頭にいた河童が大きく飛んだ。バリケードを飛び越え……ようとした所をぎりぎり反応した鈴仙が弾丸を叩きこんで押し返した。
しかし、一人押し返した所でもう絶望的だった。ついに敵が到着し、バリケードの周りをぐるりと取り囲む。
河童たちが何かを求めるように腕を伸ばしてくる。カレーの鍋を欲しがっているのだろうが、鈴仙にはそれが自分たちを食べようとしているようにも見えて、気味が悪い。手を伸ばせば届きそうな距離で、360度ホラー映画も真っ青な風景が広がっている。
「もう無理だお終いだぁ」
にとりが悲観に満ちた声で叫ぶ。
早苗なんかは、目前のあまりにもショッキングな光景に顔面蒼白状態で、今にも気を失いそうだ。
乗り越えて入ってこようとする河童をサブマシンガンで撃ち抜く。が、こんなものは時間稼ぎにもならない。
「伝説の部隊に所属して、『月のクラゲ作戦』を成功させたんだろ。何とかできないのか!?」
「何よ、『月のクラゲ作戦』って!?」
バリケード自体、寄せ集めのガラクタで作った簡易なものだ。壊そうと思えばすぐに壊せるし、乗り越えるのも苦労はない。
次から次へと入ってこようとする。
と、そこで早苗がぽんと手を叩いて、
「あ、思い出しました! あの映画のオチ。やっぱりゾンビ映画のラストといえば爆破ですよね」
そう言って早苗は笑顔で山のように積まれた武器を漁りだして、何かを取り出した。
爆弾だった。
早苗は何の迷いもなくその爆弾を起動させようとする。こっちも完全に正気を失っている。
「ダメだー、それは触っちゃイカーーーン! 気をしっかり保てーーーー」
慌てたにとりが早苗から爆弾を奪い去り、それから彼女のほっぺたに往復ビンタを食らわせる。はっとしたように早苗は目をぱちくりとさせ、
「わあー、やっとカレーが出来上がりましたよ。さあ、みんなで食べましょう」
うふふ、と鍋を覗き込みながら幸福な笑みを浮かべる。完全に現実逃避している。
もうめちゃくちゃだ。
鈴仙はそんな早苗を背後にかばい、両手に持ったサブマシンガンのトリガーを引き、撃って撃って撃って撃ちまくって、弾切れ。
地面に座り込んで、うなだれる。
もうすべてをやり尽くした。
鈴仙が顔を上げると、すぐ目の前には河童の姿。無情な手が伸びる。背後には早苗。その先にはカレー。
鈴仙がすべてをあきらめかけたその時だ。
「ピーーーーーーーーー」
と笛の音が響き渡る。それと同時に、犬走椛が天から颯爽と舞い降り、目の前にいた河童を地面に押し倒した。
「遅れてすいません。こちらもかなり手こずっていたものですから」
紐でその腕を結びながら、犬走椛が言う。天狗の仲間を引き連れて来たらしく、近くにいた河童が次々と拘束されていった。
「援軍……。助かったの?」
鈴仙のつぶやきに椛は頷き、
「もう大丈夫です。ご安心を」
その一言に鈴仙は大きく息を吐いた。
◇
あれほどの騒ぎが嘘のように静まりかえっていた。
襲撃してきた河童たちは椛を含めた哨戒天狗によってあっさり片付けられ、妖怪の山に平穏が訪れた。
「椛さんが言うには、これから炊き出しを行って、河童さんたちに配給するとのことです。これで正気を取り戻してくれればいいですね」
早苗の言葉に、鈴仙はまったくだと思う。
「にとりは?」
「炊き出しを手伝うと言って、椛さんについて行きました」
「そっか」
手伝ってくれたお礼を言いたかったが、タイミングを逃してしまった。それに椛にも、今回の件と早苗を助けてくれた件の二つの借りができた。彼女にもいつかそのうちに感謝の気持ちを伝えようと鈴仙は決めた。
さて、そんなわけで、
「「いただきます」」
死ぬ気で守り抜いたカレーを食べる時が来た。
二人ともそこらのゾンビよりも腹が減っていた。
皿に盛られたカレーをじっくりと眺め、それから右手に持ったスプーンでひとすくい。鈴仙はそれをためらいもなく口に入れて、
「おいひ~~~~」
涙が出るかと思う。それくらい美味しかった。
「良かったです。口にあって」
そう言って彼女もカレーを口にした。途端に弾けるような笑みがその顔に浮かんだ。
たき火を囲いながら、無言でカレーを食べる。
ぱちんと薪が爆ぜる。火の粉が散る度に、蛍のような淡い光が線を描く。
カレーを掻き込む。
二人ともお上品な食べ方なんて捨てて、スプーンを欲望のままに動かし口の中に詰め込めるだけ詰め込んでいく。飲み込むくらいの勢いでがっついた。こういう場所では、この食べ方が一番うまい。
鈴仙は口の周りを汚しながら、時折冷たい水で熱くなった口内の温度を下げる。
胃の中でとうがらしが暴れる。たちまちにして全身が火照ってくる。額に汗を浮かばせながらも手は止めない。もう本能からカレーを求めている。
一杯なんかじゃ足りない。更地になった皿の上にまた新たなご飯の山とカレーの海を作る。
二杯目も一杯目と負けず劣らずの勢いで食べた。続いて三杯目に移ろうとした所で、早苗が言う。
「す、すごいですね。そんなにお腹が空いてたんですか」
「うん、結構動き回ったしね。早苗のおかわりの分は残しておくから」
「あ、いいです。私は……一杯で十分ですから。残りは鈴仙さんが食べちゃってください」
「そう?」
結局、鍋の中は鈴仙がほとんど食い尽くした。腹が割けそうなほどのカレーを掻き込んで、鈴仙は皿を置いた。後ろに手をつき、空を仰ぐ。
頭が狂いそうなくらい綺麗な星空。
今ならアンドロメダにだって行けそうな気さえしてくる。腹の底から幸福感が湧き上がってきて、天の川に水でも汲みに行ってやろうかとも思う。鼻の奥に残るスパイスの匂いが何とか鈴仙を現実に引き留めている。
鈴仙はうちわを片手に上着の裾をまくり上げて、そこから風を送り込んだ。
生き返る。
「ねえ早苗」
たき火の反対側で、まったく同じことをしている少女に話しかける。
「はい」
「生きてるね」
「……はい!」
カレーを食べただけで、こんなに生を実感したことはない。
本当に大変な一日だった。振り返るのだって嫌になる。だけど、結果的にはうまくいったと思う。
「どう、満足できた?」
「大満足です。……以前からずっとキャンプしたいって思ってたんですけど、なかなか機会がなくて、できなかったんです。だから、今日は本当によかった。ちょっと色々ありましたけど」
早苗はそう言って笑った。
外の世界で彼女がやり残したことを、こっちでやることができれば、きっと未練を断ち切ることができる。そうすれば、また空を飛べるようになるはず。
鈴仙はそう思っている。が、実際どうだかはわからないというのが本音だ。
それでも、
「早苗がそう言ってくれるなら、来て良かった。私も結構楽しんでるし。……まあほんとに色々とあったけれど」
くすくすと笑いあった。
焚き火は、ほとんど消えかかっている。時折ふと思い出したかのようにぱっと火をあげて、すぐに消える。
月明かりによって読み書きができるくらいには明るい。早苗の顔だってはっきりと見える。
早苗は、夏みたいな女の子だ。
青々とした木々が揺れるような、通り雨の後にできた水たまりに映り込む、透き通った空と雨の匂いを残した雲のような、ふとした瞬間にはっと思い知らされる超然とした美しさを持っている。
とてもじゃないが年頃の男の子が放っておくような容姿ではない。
鈴仙は年頃の女の子の、ごく普通の会話を思いつく。
「早苗って彼氏いるの?」
瞬間、彼女の顔は夏から秋へと変化した。
燃えるような紅葉がなだらかな頬と申し訳程度に突き出た鼻を染め上げた。
「な、なんですか急に?」
「いや、なんとなく気になったから」
この反応からして、そっち系の話題には慣れていないようだ。意外だった。結構そういう話に興味を持って自分からぐいぐい持っていくタイプに見えたから。
「そういう鈴仙さんはどうなんですか?」
「ん~、ヒミツ。さて、お皿とか片付けよっと」
「ちょっと~、ちゃんと答えてくださいよ!」
早苗の追求を背中でかわし、使った道具類を川で洗った。
その後、テントに入った。
◇
早苗はテントに入るとすぐに横になった。
鈴仙の方はといえば、早苗のすぐ隣に寝っ転がると、ほんの数分で寝息を立て始めた。どうやらよほど疲れていたのだろう。
できればおしゃべりをしたかったが、さすがに叩き起こすのは申し訳ない。何より、自分のために体を張って頑張ってくれたのだから。
すぅすぅと可愛らしい寝息と、テントの外から聞こえてくる虫たちの鳴き声。微かに聞こえる川の音。
テントに入ったのはいつ以来だろう。早苗は思い出そうとしてみるが、記憶にない。確か昔、小学校くらいの時にそういうイベントがあったような気がする。しかし、はっきりとした思い出はない。
外の世界を離れて、この幻想郷へ。
遠くへ来たな、とふと思った。
もし、と思う。もし自分がこの地へ来なかったら。もし向こうでそのまま普通の女の子として――神社の巫女が普通かどうかは別にして――そのまま生活を送っていたら。
考えようとして、やめる。
だって、この道を選択したことに後悔はないから。
ただひとつ。心残りはある。
約束を守れなかったこと。
仲の良かった子がいた。その子と一緒にキャンプに行こうって約束していた。夏になったら、キャンプに行こうって。原付に乗って二人で一緒にどこか遠くへ、って。
とても、とっても楽しみにしていたけれど、結局行くことはできなかった。あの約束を反故にしたこと、今でも時々思い出す。
隣でぐっすりと眠りこける鈴仙の顔をそっと見る。
もし、約束通りキャンプに行くことができていれば、あの子もこうして隣でぐっすりと眠りこけていただろうか。それともおしゃべりに花を咲かせていただろうか。どっちもあり得そうだな、と思った。
約束を果たすことはできなかった。その事実は変わらないし、これからも時々思い出すかもしれない。
でも、今日ここに鈴仙と一緒にキャンプに来られたこと。一緒に色々な経験ができたこと。良かったと思う。とても良い思い出ができたと思う。
鈴仙はあの子の代わりにはならないし、たとえ誰であろうと代わりにはなり得ない。あの子はあの子で、鈴仙は鈴仙だ。
そして、鈴仙が一緒で良かったな、と素直に思う。彼女とこうして仲良くなれたことは、本当に良かった。
早苗は鈴仙の寝顔から目を離し、それからこっそりと笑顔を作って、静かな眠りについた。
◇
鈴仙が目を覚ますと、テントの中に早苗の姿はなかった。寝ぼけ眼を擦りながら外へ出ると、新鮮さを纏った朝日の眩しさに目がくらむ。
早苗は川辺の岩の上に腰掛け、きらきらと光を照り返している川の流れを静かに眺めていた。
おはよう、と後ろからそっと声を掛ける。
「ああ、鈴仙さん。おはようございます」
「早いわね。私なんて今起きたばかりなのに」
「早起きは巫女の基本ですから。これでもいつもよりはちょっと遅く目が覚めたんですよ」
鈴仙は早苗の隣に腰を下ろし、同じように川を眺める。
何もかもが新しく見えた。いつもと違う場所で朝を迎えたからなのか、それとも昨日の騒動とはかけ離れた静けさによるものなのかは判断がつかなかったが、とても心地良い雰囲気だった。
朝食は軽いものがいいと、バナナにすることにした。それはよかったのだが。
バナナを頬張る早苗。彼女の食べ方が、どうしようもなくエロい。
思う。
これはわざとやっているのではないか。つっこみ待ちなのではないか。
でも、と思う。昨日、自分が「彼氏いるの?」と訊いただけで顔を赤くしてしまった彼女が、まさかそっち方面はいけるなんてことはないと思う。
つっこみたいという気持ちをぐっとこらえ、代わりにこう言う。
「バナナ、好きなの?」
「いえ、別に特別好きということは」
「……そう」
早苗は一本で満足したようだった。
「一本で足りるの?」
「まあ、……はい。大丈夫です」
何となく彼女は遠慮しているようにも見えたが、追求はしなかった。ちなみに鈴仙は二本食べた。
その後、ふらりと二人は川を歩いて遡ることにした。
ごつごつとした岩が並ぶ川辺は何とも歩きにくかったが、「ここは滑るから気をつけて」とか、「こっちは比較的歩きやすいですよ」なんて言い合いながら二人で協力して進んでいった。
どこに目をやっても鮮やかな緑色が目につく。空は青い。山の天気は変わりやすいと言うが雨が降りそうな気配はまったくない。何より暑い。歩いているだけで、自然と汗が流れる。
夏だな、と鈴仙は思った。
早苗の足取りは軽い。鈴仙の少し先を行き、岩から岩へとジャンプして、振り返ると「ほら、早く」と催促してくる。
「早苗は元気だねえ」
「結構活発な幼少時代を過ごしましたから。そこらの女の子には体力で負けませんよ」
「私も結構体力には自信があるんだけどねー。さすがに昨日はちょっとはしゃぎ過ぎちゃって身体が重いわ」
早苗はタン、タン、タン、とリズムカルに岩の上を飛び移っていく。そのまま何事もなかったかのように、空を飛んでしまうのではないかと思える。
もしかしたら、という淡い期待が胸に浮かぶ。早苗はもうすでに空を飛べる状態に快復したのではないだろうか。
鈴仙はこのキャンプで早苗の抱えたものを取り払おうとしたのだ。心を軽くすること、といっていいかもしれない。
どうだろう。彼女の心は軽くなっただろうか。
早苗の後ろ姿からは何か憑き物が落ちたような、そんな印象を受けるのは自分の思い違いだろうか。
しばらく歩くと大きな杉の木があったので、その下で休憩を取ることにした。
「ふう、日陰はやっぱり涼しいわね」
鈴仙はそう言って持ってきていた水筒の水をがぶ飲みする。
「鈴仙さんは、暑いの嫌いですか?」
「ん~~、どうだろ。好きではないかな。嫌いでもないけど。早苗は?」
「私は好きです。夏が好きですから。……たぶん夏休みがあったから好きになったんだと思いますが」
「夏休み?」
「ああ、夏休みっていうのはですね……」
早苗はそれから夏休みが何なのかを説明してくれた。夏休みにどんなことをしたのかも。彼女の話す内容は、特別何か変わった事があるわけではなかったが、不思議と面白く感じられた。
きっと早苗という少女がとっても魅力的だから。
一通り話をし終えた所で、背後の木の幹に蝉がとまってミンミン鳴き始めた。数十秒やかましく騒いでいたかと思えば、ミッという短い叫びを残してどこかへ飛び去って行った。
そのタイミングで再び早苗がそっと口を開いた。
「鈴仙さんは……」
「ん?」
「元々、月に住んでいたんですよね」
「ああ、うん。まあね。月生まれの兎よ」
「寂しくなったりしませんか。以前住んでいた場所にいた人達のことを思い出して」
「う~ん、どうだろう」
鈴仙は両手を後ろにつき、ぼんやりと空を見上げて少し考えてから、
「偶に、あるかな。あの子どうしてるだろう、程度だけど。……寂しいというよりは元気でやってるかなって気になるみたいな」
そういう事もあるにはある。故郷を捨てる事に、今までずっと一緒にいた友人達と離れる事に、戸惑いがなかったわけではない。
「でもね、そういう昔のことを思い出すのは少ないかな。だって毎日充実してるんだ私。この幻想郷ってほんと毎日色々な事が起こるから、それだけで手一杯というか、過去を思い出している暇がないというか」
早苗は笑みを浮かべて大きく頷いた。
「……あはは、まったくその通りですね」
はあ、と鈴仙はため息を吐き、
「……師匠からはいつも無茶な事を押しつけられるし、里に薬を売りに行けば何かしらのトラブルに巻き込まれるし、てゐはてゐで私を罠に嵌める事ばっかり考えてるし、姫様は優しいけどすんごくマイペースだし……」
「それは……充実してるというか苦労しているというか……」
早苗の笑みが苦笑いに変わる。
「でもま、結構楽しんでるから。早苗は……どう?」
彼女は鈴仙に向けていた視線を前に向け、それからゆっくりと息を吐き出し、
「私も楽しんでます。……偶に外の世界のことを思い出して寂しくなっちゃう事もありますけど。……それでも、ここの生活は楽しいです」
鈴仙には彼女が何を思いながら、この幻想郷で生きているのかはわからない。ただ彼女は彼女なりに何かを抱えているのだ。
早苗に対して何か親近感のようなものを感じる。それはきっと似たような境遇であるから。自分と同じように故郷を捨てて、そこにいた人達と離れて、そして新しい生活を得た。
似たもの同士なのだ。自分と早苗は。
「ねえ早苗。私ね、思うんだ」
少し言葉を選んで、
「過去を思い出して苦しくなるのは、それだけ過去の思い出が良かったからでしょう。慣れ親しんだ場所と大切な友達と離れるのはつらいことだけど、その道を選んだからにはその苦しい気持ちも受け入れるべきなんだと思う。もちろん、寂しいだとか苦しいなんて気持ちはない方がいいに越したことはないけれど……。でもさ、何かを抱えながら生きていくのも悪い事じゃないんだよ、きっと」
鈴仙はそう言って軽く笑い、
「なーんて、ちょっと偉そうなこと言っちゃったわね」
少し戯けてみせたが、言葉にしたことに嘘偽りはない。それは鈴仙がこうしてこの幻想郷で生活して、思ったことだ。
別に何か特別な意図があって放った言葉じゃないし、鈴仙の率直な思いを言葉にしただけだったのだが、それを聞いた早苗はうんとひとつ頷いてみせた後、
「はあ~~、そっかあ。……うん、そうですよね」
そう言って彼女はやたらとすっきりとした表情を浮かべた。夏の空みたいだった。
早苗は「よいしょ」と立ち上がると、手でスカートについた葉っぱを振り払い、近くにあった岩の上にたたっと駆け寄ってそのままの勢いで飛び乗ると、くるりとこちらを振り返る。
「ねえ、鈴仙さん。何だか私、今なら飛べる気がします」
「ほんと!? やってみて」
元々は永琳から押しつけられた仕事だったし、早苗を無事に治すことができたら自分の知名度が上がるなんて打算的な考えもあったが、今は素直に彼女がまた元の状態に戻ってくれる事を願っている。
わずかな時間だったけれど、こうして一緒に過ごした時間は鈴仙にとってもとても有意義なものだった。
早苗は静かに息を吐き集中する素振りを見せる。鈴仙はごくりと唾を飲み込む。大丈夫、頑張ってと心の中で念じる。
風が吹く。吹き抜ける風は彼女の緑色の髪を揺らし、徐々に強くなっていく。次第に彼女を中心として回りだし、スカートの裾がはためく。
風に舞い挙げられた木の葉が空へ吸い込まれていく。そして、それに続くように早苗の身体がふわりと宙へ浮かび上がり……。
鈴仙が目を大きく開き、立ち上がって「やった」と叫ぼうと息を吸い込んだ。
が、その叫び声を上げる前に、早苗の身体はまた地上へと戻ってしまう。
「あ、あれ、行けそうな気はしたんですけど……」
残念ながら失敗してしまった。
「落ち着いて。身体は浮かび上がったから、能力自体は戻っていると思う。焦らずにもう一度やってみて」
「はい」
その後何度か挑戦してみたが、身体はわずかに宙に浮くも空を自由に飛び回るという段階までは回復することはできなかった。
「今までのことを考えれば、大きな進歩だと思う」
「ごめんなさい。私のために色々とやって貰ったのに……」
「ううん、謝らないで。だってそれが私の役目だもの。あともう少しの所まではたぶん来てると思う。そのもう少しを埋める何かを探さないと」
早苗は少し申し訳なさそうな顔つきだった。完全に回復しなかったのは鈴仙としては確かに残念ではあるものの、想定していなかった事態ではない。多少なりとも改善の余地が見られたのなら、むしろ喜ぶべきだ。
しかし、まだ何かが足りない。彼女の問題を解決するためのパズルの1ピースが。
それは、一体何なのだろう。
◇
「以上が、今回の報告になります」
永遠亭である。
あの後、昼前にテントを片付け、早苗を神社まで送り届けた。それからまっすぐ帰ってきて、すぐに永琳の許へ報告に来た。
色々な出来事が起こりすぎて少々面倒だったが、できる限り情報は伝えなければならないと思う。
報告を受けている間、永琳は腕組みして鈴仙の話す内容を黙って聞いていたが、話が終わるとぽつりと、
「そう、河童たちを相手に……。あなたって結構ハードボイルドよね。随分と楽しそうなことをしてきたみたいじゃない。羨ましいわ。私なんかそういう機会がなくて、最近腕がなまっちゃって」
永琳は弓を引く動作の真似をした。師匠だって十分ハードボイルドだと思う。
それで、と彼女は話を続ける。
「その後、カレーを食べたのね」
「はい。食べました」
「いいわね、カレー。話を聞いていたら食べたくなったわ」
「さすがに二日続けては嫌ですよ」
「じゃあ、明日にしましょう」
彼女はそう言うと椅子から腰を浮かせ、壁に掛けてあったカレンダーの翌日の日付に、「かれー」と書き込んだ。
コホンと咳払いをひとつ挟んで永琳は言う。
「まだ早苗さんは飛べないまま、なのね」
「はい。あともう少し、だとは思うんですが……」
「そうね……」
白く清潔に保たれた室内に沈黙が降りる。半開きにしてあった窓から風が入り、カーテンを小さく揺らす。
「これからどうするか当てはあるの?」
永琳の問いに鈴仙は弱々しく頭を横に振り、
「いえ……。正直な所、まだ何も……」
「宙には浮けるようになった。でもまだ自由に空を飛ぶには至らない。あともう一押しできる何かがあれば、問題は解決されるでしょうね」
「はい。でも、その何かがわからないです」
永琳はそこで腕組みを時、デスクの上に指を乗せて、トン、トン。
「ヒントをあげましょう」
「お師匠様は何か心当たりがあるんですか?」
鈴仙が尋ねると、永琳は小さく頷いて見せ、
「空を飛ぶという事は、簡単そうに見えてその実かなり繊細な技術なの。前にも言ったわよね。空が飛べなくなる原因というのは、色々なことが考えられる。何もひとつだとは限らない。ふたつだったりみっつだったりすることだってあるはず」
「早苗が飛べなくなった原因はひとつじゃない……と」
「おそらくね。報告を聞いてその可能性は高いと踏んだわ。今回のウドンゲのやった事の何が功を奏したのかはわからないけど、確実に効果はあった。あなたは早苗さんの心に働きかけたのよ。でもそれだけじゃ足りなかった。じゃあ次はどうするか」
永琳の左腕が鈴仙の肩にそっと乗せられる。
「心を軽くしたのなら、次にすることはひとつ。今度は身体を軽くさせなさい」
そう言って彼女は肩をバシバシ叩いて、
「頑張りなさい。期待してるわよ」
言いたいことは全部言ったらしい。彼女はおもむろに立ち上がり、部屋から出て行った。鈴仙は一人、診察室に取り残される。
「期待してる、か……」
そんなこと言われた事があっただろうか。いや、ない。少なくとも鈴仙の記憶には。
頑張らなきゃと思う。なんとしても師匠の期待に応えたい。しかし、身体を軽くするとはどういうことだろう。
薬品の臭いが微かに漂う空間の中で、鈴仙は考える。
身体を軽く。そもそも重い状態というのは何か。今の自分がそうだ。昨日の河童たちとのドンパチで疲労困憊だ。自分の身体じゃないような重さを感じる。
それじゃあ、マッサージでもしろというのか。それも違うような気がする。何よりマッサージして貰いたいのは自分の方だ。
「う~ん、どういう意味なんだろう。身体を軽くする。軽くする。物理的に軽くする……?」
とそこで引っかかりのようなものを感じた。形のはっきりしない疑問が心に浮かぶ。自分は一体何が気になっているのか。
考える。早苗と一緒に過ごした時間。あの時、早苗の行動の中に何か気になることはなかったか。
ひとつ心当たりがあった。あまりにも些細なことで気にしていなかったが、確かに「身体を軽くする」という事と繋がる。だが、まさかという思いも拭いされない。
とりあえず今日は疲労を取るために休憩することにする。明日また早苗に会いに行けば、わかることもあるかもしれない。
◇
翌日。守矢神社。晴れ。
鈴仙が神社の境内に降り立つと、早苗は掃除をしている最中だった。「あら、こんにちは」と彼女は気持ちの良い笑みを浮かべて言ってくる。
「うん。早苗、どう調子は? ……その、飛ぶ能力の方は」
「今日も少し試してみたんですが……。昨日と変わらずといった感じです」
「う~ん、そうよねえ」
掃除道具を片付けた早苗に連れられて、鈴仙は客間に案内された。出されたお茶を啜りつつ、鈴仙は本題を切り出す。
「単刀直入に聞くわ。ここ最近、もしかして体重を気にしてたりしない?」
すると早苗は飲んでいたお茶を盛大に噴き出した。
「な、なぜそれを……!?」
やっぱりか。
「カレーを遠慮してたでしょ。だから、ちょっとね」
しかし、それが早苗が飛べなくなった事と関係があるのだろうか。永琳は早苗の身体を軽くしろと言っていた。つまり、早苗の体重を軽くすることが問題解決の糸口となるとみているのだが、果たして本当にうまくいくのだろうか。
「ま、まあ確かに最近ちょ~~~~っと気にしてはいますけれど……。まさかそれが私の飛べなくなった事と関係が……?」
「私もあまり信じられないんだけど、もしかしたらその可能性も考えられると思う」
「そうなんですか」
早苗は半信半疑といった表情だ。自分も絶対的な自信があるわけじゃない。しかし、他に心当たりがあるわけでもない。思いついた事はやってみるしかない。
そんなわけで、まずは本当に彼女が気にするほどの体重であるのかを把握するべく、
「申し訳ないんだけど、体重を教えてくれるかしら。できれば今、ここで量って欲しいんだけど」
「い、いまですか」
鈴仙が神妙に頷くと、早苗は「わかりました」と言って部屋から出て行った。しばらくすると家庭用の体重計(外の世界のやつだ)を持ってきて、憂鬱そうな視線を鈴仙に投げかける。本当にやらないとダメですか、と目で訴えてくる。
ちなみに早苗の身長については把握済みなので、もし適正体重から外れていたら一発でわかる。
「さあ」
「……はい」
弱々しく返事をした早苗はいかにも浮かない表情で体重計を床に置き、それからおそるおそるといった動作で片足を乗せた。メーターが揺れ動く。
針の動きに惑わされたのか、早苗の動きがそこで止まってしまう。もう片方の足をなかなか踏み出せないでいる。
鈴仙が励ましの声をかけようとした時、
「やっぱり無理です~~~」
早苗はくるりと反転してその場から逃げ出してしまう。鈴仙は咄嗟にその背中に追いつき、後ろから羽交い締めにする。
「早苗! これも治療のためなのよ。お願い」
「そんなこと言われても嫌ですよ~。鈴仙さんも女の子ならこの気持ちがわかるでしょう!」
「いや、私はこれまでの人生で体重に悩んだことはないし」
「裏切り者~~~~!」
ばったばた暴れる早苗を必死に押さえつけ何とか体重計に乗せようと図るが、なかなか言うことを聞いてくれない。座布団の上に押し倒し、お互い息を荒げながら組んずほぐれつのやり取り(端から見たら勘違いされるような風景だったが)を繰り返した末、逃れようとした早苗が鈴仙を突き飛ばすような形になってしまい……。
突然、後ろに押し出されバランスを崩した鈴仙は、テーブルの角に後頭部を盛大にぶつけて、しばらくの間意識が月に帰った。思わぬ形で懐かしの旧友と再会することになってしまった。
「ごめんなさい」
しゅんとする早苗。
無事に戻ってこれたのでよしとする。痛かったけれど。とっても。
「ダメだよ早苗。現実はしっかりと受け入れなきゃ」
「……はい。頑張ります」
そんなわけで、気を取り直して体重測定。今度こそ早苗は素直に体重計に乗ってくれた。メーターがかたかたと揺れ、ぴたりと止まった。その針が指し示していた数値は……。
適正体重をわずかに超えていた。
「ああ、全然変わってない……。ここ最近食事を少なめにしたり、運動したりちょっと頑張ったのに」
早苗はショックを隠しきれずへなへなと畳の上に崩れ落ちる。
しかし、鈴仙はふと違和感を覚える。早苗へ視線を送る。端から見た印象ではスレンダーだと思う。引っ込む所は引っ込んで、出るべき所は出ていると思う。端から見て羨ましいプロポーションをしていると思える。体重計が指し示した数値ほどの体型であるようには見えない。
もしかしたらと思い、試しに鈴仙はその体重計に乗ってみる。すると……。
「ねえ、早苗!」
「…………はい、なんでしょうか。やっぱり私が空を飛べないのって、太ってるからですか」
「ううん……ああ、いや、原因はまだはっきりとはわからないけど、少なくともひとつわかった事があるわ」
鈴仙はそう言って、今自分が乗っている体重計を指差すと、
「これ、壊れてるわよ」
◇
場所は再び永遠亭。
「えーと。……うん、別に問題なし。適正体重の範囲内。むしろ平均より痩せてる方ね。まったく気にする必要はないわ」
「ほ、ほんですか。よかったぁ」
医療器具がたくさん置いてある永遠亭。体重計だってそれなりの物を使っている。ここのを使って測定したのだから、間違いはない。
早苗は安堵したように深く息を吐いた。
「そんなに気にするほどのことかなあ。体重って」
刺々しい視線が飛んでくる。そんな目で見ないで欲しい。悪かったから。
と、そこで部屋の隅で静かに佇んで見守っていた永琳が、
「その子が今まで体重について悩んだことがないのは、日々のハードワークのせいでしょうね。月にいた頃は軍人として常に厳しいトレーニングをこなしていたでしょうし、こっちに来てからは私がこき使ってるから」
「ははあ、なるほど」
早苗が哀れみの視線でこちらを見てくる。そんな目で見ないで欲しい。
コホン、と永琳は咳払いをした。
「さて、ちょっと確かめておかないといけないことがあるわ。早苗さん、こちらに来てくれますか。あとウドンゲ、待合室にいる神奈子さんを呼んできて。中庭にいるわ」
待合室でせんべいを食べながら雑誌を読んでいた神奈子を引き連れ中庭へ向かうと、こちらの姿を確認した永琳がうんと頷く。
それから永琳は早苗の肩にそっと手を置いて、
「早苗さん、試しにここで空を飛んでみてくれませんか」
「はあ……」
「大丈夫です。落ち着いて。軽い気持ちでやってみてください。いつも通りに、ね」
「わかりました。やってみます」
早苗はこくりと頷く。
そして、鈴仙が待ちわびたその瞬間は驚くほど呆気なく訪れた。
あまりにも呆気なさ過ぎて、逆に拍子抜けしてしまうほどに。
永遠亭の中庭からふわりと宙へ浮かび上がった早苗は、あっという間に屋根よりも高く飛び上がってしまった。
「あ、あれ、飛べる……!?」
早苗自身も驚いているようだった。永琳はその様子を見てにこりと笑い、「この様子ならもう大丈夫でしょう」と言った。
地上に降りてきた早苗は、
「ど、どうして……?」
鈴仙としてもまさかこんな簡単に元に戻るとは思っていなかったので、永琳の方へ顔を向ける。
「早苗さんは自分が太っていると思い込んでいたのですよ。それが勘違いであるというのがわかったので、問題が解決されたのでしょうね」
神奈子は不思議そうな表情で、
「はあ、では早苗が飛べなくなった原因というのは、太ってると思い込んでいた事だったということですか?」
「それも原因のひとつですが、それだけではありません。キャンプに行ったことで彼女の飛行能力に多少なりとも改善が見られたことから、何かしら彼女が心に抱えていた問題が緩和されたと考えられます。そちらの問題が何だったのかは私にはわかりませんが。ただ……」
永琳は一度そこで言葉を探すような素振りを見せ、
「人というのは心だけでできているわけではありません。身体があって心があるのです。そのふたつのバランスがとても重要なわけですね。今回早苗さんはそのバランスが崩れていた。よって空を飛ぶ力が失われた」
「でも、早苗の体重は平均値より下回ってましたよ。実際に身体の方に問題があったわけではないですよね」
手を挙げて鈴仙が質問を飛ばす。
「病は気から、という言葉があるわ。実際に問題がなくても、問題があると思い込んでしまえば、それは本物になってしまう」
「なるほど」
「何度も言うけれど、空を飛ぶという動作は繊細なのよ。色々な要素が絶妙なバランスで保たれることで初めて成立するの」
この幻想郷では少女があまりにも当たり前に空を飛んでしまうから、「飛ぶ」という事に意識を向ける事は少ないが、思っていたよりもずっとすごい事なのだ。鈴仙は改めて考えさせられる。
「でも、体重が気になっているからといって、空が飛べなくなるものなんですか。なんというか、ちょっと……言葉は悪いですが……くだらないというか」
鈴仙の言葉に永琳は、
「そう思う? なら覚えておきなさい。心と身体は密接に関係しているの。そのふたつは決して切り離して考えることはできない。身体の悩みは、やがて心に影響を与える。どんな小さなものでも、ね」
そこで神奈子が大きく手を叩いて、
「いやあ、さすが先生。お見事です。早苗の力が元に戻ってこちらも一安心です。本当にありがとうございます」
「私はほんの少しアドバイスをしただけです。頑張ってくれたのはあの子ですよ」
そう言って永琳は鈴仙の肩に手を置いた。
「うむ。鈴仙ありがとう。心からお礼を言うわ。先生は優秀な弟子をお持ちのようで大変羨ましいぞ」
「いやあ、優秀だなんて」
照れる。
「鈴仙さん、ありがとうございます。やっぱりあなたはすごい人だったんですね!」
「いやあ、それほどでも」
などと言いつつ、内心天狗である。守矢神社の信頼を得られた。これなら自分が将来永遠亭を背負う日もそう遠くないかもしれない。
そんな風に得意げな顔を浮かべる鈴仙。永琳がにこりと笑いながら「また調子に乗るようならどうにかしないとね」と考えていたのは知るよしもない。
◇
そんなわけで後日。人里。
「……暑い」
夏は今日も容赦がない。日陰に入って何とかやり過ごしていると、早苗がやって来た。
「お待たせしました。いやあ、暑いですね」
早苗はそう言って微笑んだ。やはり彼女には夏が良く似合う。
二人で里を歩く。
今日は早苗からのお誘いだ。改めてお礼がしたいと彼女が言ってきた。別に良いのにとは思ったけれど、せっかくなので受け入れることにした。
「最近話題のアイスクリーム屋さんがあるので、行ってみましょう」
「もしかして、それって早苗が行ってみたかっただけなんじゃ」
「まあまあ、いいじゃないですか。一緒に行った方がきっと楽しいですよ」
そう言って彼女は笑う。それもそうか、と鈴仙は思う。
アイスクリーム屋は盛況だった。若い女の子を中心に列を作っていた。自分たちもその列に加わる。
それにしても、と思う。今になって冷静に考えると、本当に自分の努力によって早苗の問題が解決されたのだろうか。言ってしまえば、自分のしたことといえば早苗とキャンプをしてその後、体重を量っただけだ。結果として早苗は飛べるようになった事実はあるものの、何だか納得ができない気持ちが湧き上がってくる。
「これだけ話題になってるってことは、やっぱり美味しいんですかね。楽しみですねえ」
隣にいる早苗はとても楽しそうだった。この顔を見たら、何だか細かいことはどうでも良くなってくる。
早苗にアイスを奢って貰った。三段である。
二人で三段アイスをぺろぺろしながら、里を歩く。暑い日に食べるアイスは格別だった。それぞれ別の味を選んだので、この味は美味しいとかこっちはあんまりとか感想を言い合った。
里にある薬屋の前を通った時のことだ。何やらその薬屋に列ができていた。夏風邪でも引いた人が大量にいるのだろうか、と思ったがどうやら違うらしい。
気になって確認すると、痩せ薬を売っているらしい。何とも胡散臭い商品だと思ったが、これだけ買い求める人がいるのだという驚きもあった。早苗はちょっとばつが悪そうな顔を浮かべていた。
「痩せ薬……か。効くとは思えないなあ」
「ああいうのは、あまり信用できませんね」
「何より、努力もせずに痩せようという姿勢が間違ってると思う」
ふと思う。早苗が体重を気にして飛べなくなったということ。少しくだらない理由だと思ってしまったが、こういった胡散臭い商品にもたくさんの人が飛びついているのを目の当たりにすると、決してくだらないものでもないのかもしれない。
永琳は言っていた。心と身体は密接に関係している、と。何となく、彼女の言葉の意味が理解できたような気がする。
「あ、鈴仙さん見てください! パスタ屋さんがありますよ。イタリアンですよ、イタリアン。ちょっと食べていきませんか」
「え~~、さっきアイス食べたばっかりじゃん。……太るよ?」
「いいんです。その時は……その時に考えます!」
まったく調子いいんだから、と言いつつ早苗に引っ張られてパスタ屋に入る。
偶にはこういうのも、悪くないなと思いながら。
鈴仙は後日、早苗に連れ回されて大変な思いをするはめになるのだが、それはまた別の話である。
暗示…ありますよね。ね。
文量は多かったですがするすると読めましたし、この二人の今後にも期待ですね。
主役の二人の青春してる感が伝わってきてとてもよかったです。
というかゴーヤ味のかき氷の作者様だったのですね。道理でこの空気感、さすがです。
しかし次回作は一体…?
キャンプ地での死闘がとても緊迫感(笑)があってとても笑えました。
次回作の予告……もの凄い気になるんですがw
にとりもかわいかった。
今はともかくカレーが食べたい
次回作楽しみにしています
そして、鈴仙と早苗さんの素敵なコンビネーションが眩しかったです!
カレーを守り抜いていくシーンが特に印象的でした。
キャンプでカレーやBBQ・・・ まさに夏休み、
いいなぁ・・・
120点ぐらい入れさせてもらいたい作品でした
続編も楽しみ
鈴仙も早苗さんもいいキャラしてる。
ただ、最後まで読みきってみて思うのは、これ冒頭このシーンで本当に良かったのか? という疑問でした。まあ、冒頭に惹かれた気持ちも無くはないんですが。
> 個人的に鈴仙と早苗の組み合わせは好きです(書いたから好きなったのかもしれませんが)
あまり知らない・書いたことないキャラでも、書いてると魅力に気づいたり、愛着わいたりしますよね。わかります。