隣で退屈そうにしている友人をぼうっと見つめながら、黒谷ヤマメは深く考え込んでいた。
もはや癖と化してしまった人物考察の対象は、言うまでもなく視線の先に居る彼女――水橋パルスィである。
パルスィは橋の欄干に肘を付きながら、長いまつげのぱっちりお目目で大通りを歩く人の流れを退屈そうに見つめている。
その緑の眼は、おそらく雑踏に紛れる美少女を追っているに違いない。それも、恋人持ちの。
「ああ、あの子――」
「ん、あの女の子がどったの?」
パルスィに負けず劣らずの気の抜けた声でヤマメは聞き返す。
「妬ましいわ」
聞き慣れた言葉。そしていつもの胸の痛み。
その言葉の本当の意味を、ヤマメだけが知っている。
「はいはい、そーですか」
ヤマメは呆れたように「はぁ」とため息を吐くと、ジト目でパルスィを睨みつけた。
パルスィは自分が睨まれていることに気づくと、嘲るように「ふふん」と鼻で笑ってみせる。
無駄だとわかってはいたが、抗議の視線がこうも簡単に受け流されるとため息の一つも吐きたくなる。
黙っていれば、さらに言えば石像のように固まってさえいれば非の打ち所のない美少女のはずなのに、彼女はなぜに懲りずに悪魔の所業を繰り返すのか。
今のパルスィの表情を百人が見たとするなら、その百人は口をそろえて”彼女は悪事を企んでいる”と断言するだろう。
悪魔のような笑み、というかこれは悪魔そのものだ。いっそ大魔王とでも呼んでしまおうか。
誰が見ても明白すぎて、悪意を向けられているわけでもないのにひしひしと感じるそのオーラは、友人でありその顔を見慣れているヤマメですらドン引いてしまうほど強烈だ。
どれだけ傍にいても、何度見ても、一向に慣れる様子はない。
実を言えば、パルスィが”ターゲット”に気づく前に、ヤマメはその存在にすでに気づいていたのだ。
あの子は絶対にパルスィの好みだな、と。
黒のロングヘアに、ほんのり垂れた無垢な瞳、小さなお鼻に無自覚に色っぽい唇。
ちょっとぎこちないメイクも初心っぽくて加点対象。
少女はどうやら鬼の仲間のようで、しかし額から突き出す小さな角でさえ少女にとってはチャームポイントになりうる。
しかもおあつらえ向きに恋人までセット、あんなパルスィのために用意されたような贄をを彼女が逃がすわけがない。
「中々の上玉ね、しかも見てよあの初心な反応、手を繋いだだけで真っ赤っ赤になってるわよ」
つまるところパルスィの”妬ましい”とは、好みの女の子を見つけた、あの子はいいぞ、可愛いぞ、食っちまうぞ、という合図なわけだ。
最初こそは仲睦まじい恋人たちを見ての感想だったのかもしれないが、パルスィが”狩り”をするようになってから、その意味合いはすっかり変わってしまった。
気だるげだった表情は、悪魔のような笑みを経ていつの間にか狩人のそれに変わっている。
だがそれを狩人の顔だと判別できるのもまた、彼女をよく知るヤマメだけなのである。
客観的に見れば、今のパルスィは冷静で知的な女性……のように見えるかもしれない。
もちろん演技だ。おそらく、その方が相手に警戒されずに済むのだろう。
だが見た目に反して、頭の中には知性など塵ほどしか無く、脳の大部分ではどす黒く薄汚い欲望がぐつぐつと煮立っているに違いない。
そんな友人の姿を見ながら、本来なら軽蔑すべき悪癖であるにも関わらず、完全に嫌悪することが出来ない自分自身がヤマメは嫌で嫌で仕方なかった。
いや、嫌うどころかむしろ――
「はぁ、かわいそうに」
――私は何を、馬鹿なことを考えているのだろう。
良からぬ思考を、胸の内に溜まったもやもやとした感情ごとため息で吐き出す。
そして気をそらすように、ヤマメは雑踏へと視線を向けた。
視線の先にはちょうど、パルスィが狙いを定めた美少女の笑顔がある。
恋人と手をつなぎ、幸せ一杯の表情を浮かべる少女は。
確かに初心だし、ともすればまだ接吻すら交わしたことの無い清い関係なのかもしれない。
だがその笑顔は、これから悪い妖怪の手によって無残にも壊されてしまうのだろう。
ああなんと嘆かわしいことか。
「そう悲観することはないわ、私ほどの美人さんと結ばれるんだもの、彼女だってじきに私に感謝するようになるでしょうね」
パルスィが調子に乗って美人を自称するのは今に始まった事ではないので、ヤマメは触れずにスルーする。
「どうせ強制するんでしょ、言わなくたってわかってるよ」
「まさか、こう見えても私は優しいの、無理やり言わせたりはしないわ。
くんずほぐれつの結果、自発的に、彼女の方から言ってくるのよ」
「パルスィ、それって世間的には調教って言うらしいよ」
パルスィに向けられる冷たい視線。
だが彼女も慣れたもので、先ほどと同じように軽く笑って流してしまった。
「ふーん、ヤマメってばいつの間にそんないかがわしい言葉を覚えたのかしら、もしかして調教してくれる恋人でも出来た?
さすがの私でもそれには本気で嫉妬しちゃうなあ、いっそヤマメをそいつから寝取ってしまおうかしら」
パルスィの瞳が怪しげにギラリと光る。
もちろん物理的に光っているわけでなく、ヤマメから見てそういう風に見えただけなのだが、冗談とはいえこればかりは勘弁して欲しい。
”そういう類”の欲望を友人から向けられるのは精神衛生上あまり良くない。
気持ち悪い、と言うわけではないのだが、どうもバツが悪いと言うか、妙な気まずさがこみ上げてくる。
「んなわけないじゃん、私が独り身だってことはパルスィが一番良く知ってるでしょ、いつもどんだけ一緒にいると思ってるのさ。
隠れて誰かと付き合うなんて、パルスィみたいに器用な真似は出来ないよ」
「ふふふ、それは嘘ね。ヤマメったら私に隠し事をしようったって無駄よ。
隠すってことは、バレちゃ都合の悪い真実があるってことよね、そうよね、そうに決まってるわ。
実は恋人じゃないとか? まさかセフレだったりして!?
あのピュアだったヤマメがまさかそんな爛れた関係に溺れるなんて……嗚呼、友人として悲しいわ、おいおいと泣いてしまいそう。
でもそのギャップもなかなかいいわね、清純そうな美少女に実はセフレが! ちょっとした寝取られ気分! ああ、そそるわぁ……」
「……パルスィ」
握りしめた拳、視線だけで人を殺せそうなほど冷たい瞳、そして満面の笑み。
「ぶっ飛ばすよ?」
「ごめんなさい」
本能的に危険を察知したパルスィは、即座に笑顔で謝ってみせた。
反省していないことは一目瞭然だが、謝罪の言葉を聞いてしまった以上は拳を収めるしか無い。
普段はあまり怒ることの無いヤマメだが、こんなでも一応は妖怪なのである、見た目通り歳相応の少女であるわけがない。
土蜘蛛という妖怪は見た目よりもずっと力持ちだ。
勇儀のような真っ当な鬼ほどでは無いものの、腕力勝負でパルスィに勝ち目など全くないのである、極悪人のパルスィでもそりゃもう謝るしか無い。
「まったく 私だってんな言葉覚えたくなんてなかったっての、隣に居る誰かさんのせいで覚えたんだよ」
「なんてこと、私のおかげだったのね。いいのよ感謝しても」
「はいはい、ありがとありがと」
ヤマメは口を尖らせながら、嫌味たっぷりにわざとらしく言い放った。
そんな彼女の不満気なリアクションを見て、パルスィはくすりと笑う。
「さて、獲物を見失う前に行ってこようかしら」
十分に友人で遊び満足したパルスィは、ヤマメに背を向け人混みに向けて歩き出した。
「精々痛い目見ないように頑張りなよ」
「大丈夫よ、今まで私が失敗したことなんてあったかしら?」
「失敗を見たことが無いから言ってるのさ。
調子に乗ったパルスィがこっぴどく痛い目に会う所、死ぬまでに一度ぐらいは見ときたいからね」
ヤマメからの辛辣なエールに、パルスィは思わず顔をしかめながら振り向いた。
「頑張れって言ってくれたじゃない」
「社交辞令に決まってるじゃん、本心では痛い目見ちまえって思ってるよ。
きっとパルスィみたいな極悪人には良い薬になるに違いないね、一度地獄にでも堕ちて反省した方がいい」
「あら、ここが地獄よ? だからあの女の子にも救いはないの、あるのは非情な現実だけ」
「現実と書いてパルスィと読むんでしょ? 言っとくけど、ここは地獄でもパルスィほどの鬼畜はそうそういないからね。
こんな極悪人は、いっそここよりもっと酷い所に堕ちるべきなのさ」
「容赦無いわねえ、酷い友人も居たもんだわ」
「その言葉、そっくりそのまま返すよ」
美少女ばかりを狙っては百発百中で落とすナンパのプロに比べれば、ヤマメの憎まれ口など可愛い物である。
彼女が悪事に手を染めたそもそもの動機は、行き過ぎた妬ましさ故に恋人をぶち壊したくなったから、ということらしい。
だが実際はどうなのだろう、ヤマメは完全にパルスィの趣味だと思っているようだが。
最初はパルスィの言う通りに嫉妬が動機だったのかもしれないが、今は当初の目的など綺麗さっぱり忘れているようにしか見えない。
これで彼女がごく普通の、ランクで言えば中の中程度の見た目しかないような女性なら何の問題も無かったのだろう。
しかしタチの悪いことにパルスィはそれはそれは見目麗しい、誰もが認める美人だったのである。
加えて演技も上手い、スイッチの入ったパルスィは彼女のことをよく知るヤマメですらその悪意を見抜けないほど見事に善人を演じきってみせる。
しかも、悪意があると理解していてもついくらりとしてしまうほどの色気、そして気づけば肩と肩が触れ合う距離にまで自然と近づいているテクニック。
その他諸々の要素によって、パルスィは完全なる女たらしの魔物と化してしまった。
とは言え、いくら美人だろうとナンパの成功率には限界があるはずだ、だというのになぜ彼女に限って百発百中なのか。
友人である自分ですら気を抜くと飲み込まれてしまいそうになるほどだ、おそらく妖怪らしく不可視の力が働いているに違いない――とヤマメは考える。
考えているだけで、ただの仮説に過ぎない。
だがそう考えざるを得ないほどの魔力、もとい魅力がその瞳には備わっていた。
瞳に限った話ではない、パルスィから漂う甘い香りだとか、声に人を惑わす魔力があるのだとか、考えようと思えば仮説はいくらでも立てられる。
結局は、どれも確かめようがないのだが。
なにせ、仮に不思議な力が存在していたとしても、本人にすら自覚がないのだからどうしようもない。
理由が何にせよ、パルスィのナンパが百発百中の精度を誇ることは事実なわけで……ほら、ちょうど今だって。
ヤマメの隣を離れたパルスィは、まっすぐにターゲットの元へと向かっていく。
夕刻、真面目な妖怪たちは仕事を終え、不真面目な妖怪たちが本格的に活動を始めるこのタイミングで、妖怪たちでごった返す大通りを恋人たちは手を繋ぎながら、どうにかはぐれないように進んでいた。
少しでも手が離れれば、二人の距離はすぐに離れてしまうだろう。
パルスィはそのことをよく知っていた、だから狙うのはいつも黄昏時の、人通りの多いこの場所なのである。
真っ直ぐに恋人たちの方へ向かった悪魔は、どうにかこうにか繋がれていた二人の手のうち、男の手を叩き分断する。
手が離れた瞬間、人混みに流され二人は離れ離れになってしまう。
次の瞬間、何者かの手が少女の手を掴んだ。
最初は男の手かと思い安堵の表情を浮かべた少女だったが、すぐに別人の手だと気付く。
だが焦ってももう遅い、少女はぐいぐいと男の居る方とは逆方向へと引っ張られていく。
「見てて吐き気がするぐらいに見事な手際だよね……」
思わずヤマメは引いてしまう。
少女の手を引いていたはずの恋人の男は、不安げに雑踏の中でキョロキョロとあたりを見回している。
そうこうしている間にも、パルスィと少女はどんどんと大通りを奥へと進んでいき――そしていつもの路地裏へと姿を消す。
少女の戸惑った表情に、パルスィの自信に満ちた悪い笑顔。
天使と悪魔とでも題するべきだろうか、実に見事な対比である。
哀れ、純粋無垢だったはずのあの少女は、今日一晩で知らなくても良かった穢れを知ってしまうのだろう。
「嫌な世の中だねえ」
男は未だに少女を探し続けている。
言うほど見た目が悪い男ではない、顔立ちが整っているとまでは言い難いが標準的な容姿は備えているし、性格だって良さそうだ。
初めて見る男で、その人となりを詳細に知っているわけではないが、性格は顔に出る物。
男の手を握っていた時の少女の表情は安心しきっていたし、少なくともあの少女の前では優しい男なのだろう。
とはいえ、お世辞にも二人は吊りあっているとは言いがたい、顔に関しては少女に圧倒的なアドバンテージがある。
顔面偏差値の差を性格の良さと熱意でどうにかひっくり返した、ということなのだろうか。
男が少女の元へ足繁く通い、少しずつ少女の心を解していく純愛ストーリーが容易に想像出来る。
物語なら付き合い始めたら終わり、そこでハッピーエンドのはずなのだが――世の中とはかくも残酷なものなのか、ハッピーエンドのその後がハッピー続きとは限らないのだ。
心配そうに少女の名を呼びながら、あたりを探しまわる男の姿が痛々しい。
ヤマメのように正常な感覚の持ち主であれば、その男の姿を見て心を痛めるのだろう。
だがしかし、パルスィのように歪んだ心を持つ者にとっては、あの男の姿こそ至高の肴になるに違いない。
「……帰るか」
勝負はパルスィの勝ちで終わったのだ、つまり今日のうちに彼女がここに戻ってくることはない、これ以上待っても無駄だ。
男から視線を逸らし、ヤマメも雑踏の一員となるべく大通りへ向かって歩き始める。
パルスィは妬み僻みを糧とする妖怪、だからアレも決して無駄な行為ではないのだ、ヤマメだってそれは理解している、全てが間違っているとは思っていない。
だが、仮に絶対に必要な行為だったとしても、それを許す事はできない。
ヤマメ自身の意思と言うよりは大衆の意思、要するにモラルと呼ばれる共通認識がそう告げている。
だから、多少なりともパルスィに好意を抱くヤマメでさえも、あれが間違っていることを理解している。可能ならば辞めさせるべきであることも。
理解しているくせに、完全に嫌うことができないから悩んでいるのだ。
パルスィが今日のように誰かの物に手を出すのは今に始まったことではない。
故に、地底ではそれなりの人数が彼女のその行いを知っている。
知っている妖怪のうちのほとんどがパルスィに対して良い印象を抱いては居ないし、中には実際に被害にあった者もおり、殺意じみた恨みを抱いている妖怪だって居た。
対してヤマメは、地底ではそれなりの人気者だ。
人当たりの良い性格で誰とだってすぐに馴染めた。宴会ではいつの間にか輪の中心に居ることも少なくはない。
対照的だった。誰もが二人が友人であることを疑問視していたし、当の本人たちですらなぜ自分たちが友人をやっているのか理解出来ていない。
パルスィはヤマメが自分の行為を嫌っているのを知っている、ヤマメはパルスィが口うるさく忠告ばかりされることを嫌っているのを知っている。
なのに、二人は気付けばいつもの橋の上に居て、いつの間にか誰よりも心を許す仲の良い友人になってしまっていた。
どうしてだろう、なぜだろう、最初こそそうやって考えることもあったけれど、気づけば二人は考えることを止めていた。
考えるだけ無駄だと悟ったからだ。
きっと最初から理由なんてなかったのだろう、出会いなんてそんなものだ、そう決めつけることにした。
ぼんやりと、パルスィの消えていった方向を眺めるヤマメ。
視界に映る悲劇の登場人物は、すでに誰一人として残っていない。
だが、少女とパルスィが今どんな状況にあるのかだけは、目に浮かぶように容易に想像できる。
取り残された男、今まさに汚されようとする少女、そして首尾よく事を進められた事に満足しニヤニヤと笑うパルスィ。
いつものことだが、胸が締め付けられるように痛かった。
何度も見るうちに慣れたおかげか、最初のころよりは痛みも随分とマシにはなったが、それでも見ていて気分の良い物ではない。
偽善者ぶっているわけではなく……いや、パルスィを止めない時点で偽善者にすぎないのだろうが、こんな悲惨な情景を見れば誰だって胸の一つや二つは痛くなるはずだ。
恋人たちが悲惨すぎて、そしてパルスィが悪魔すぎて。
誰に向けてかは知らないが、思わず笑ってしまうほどに。
ヤマメは自分の胸に軽く手を当てながら、強めに「ふぅ」と息を吐いた。
歩いているうち、いつの間にか人気のない通りまで来ていたようだ。
目を細めて視線を下へと傾ける。小石の転がる地面が視界を埋め尽くした。
ちょうどそこにあった石ころを、乱暴に強く蹴飛ばす。
石ころは何度か跳ねて右へと曲がっていき、終いには茂みの中へと消えてしまった。
「ばっかみたい」
誰に向けた言葉なのか、ヤマメ自身にも理解は出来ない。
胸に当てた手に力を入れ、手の平に収まった布をくしゃりと握る。
ヤマメの体を動かす原動力は、間違いなく感情だ。感情が体を突き動かす。
なのに、それがわからない、何もわからない。
理屈ではわからない、だから考えても形を掴めない、名前も知らない。
色んな感情がごちゃまぜになって、うねって絡んで形を失い、でもその中で唯一ひとつだけ確かに感じられる物があった。
どす黒く醜い塊。
見覚えのある形。
知っているのかもしれない、気のせいかもしれない。
けれどヤマメがそれを注視することはない、”都合の悪いものだ”と直感が告げているから。
だから、ヤマメは見て見ぬふりをした。
パルスィが少女を連れ去った日から数日後、大通りは今日も賑わっている。
二人はそんな雑踏を少し離れたところから、人混みを退屈そうに眺めていた。
いつものことである。
ヤマメは今日もパルスィに呆れながら、そしてパルスィは今日も獲物を探しながら、友人として共に同じ時間を過ごしつつも、二人はすれ違い続けている。
今の関係に至るきっかけなんてはっきりとした物は無いが、最初の出会いは勇儀主催で行われた飲み会だったはずだ。
ヤマメは誰とだって仲良く出来る、対してパルスィは獲物を探す時以外は自ら他人に近づくことはしない。
どうやら当時からパルスィの悪癖は健在だったらしく、今になって思えば、彼女が飲み会で孤立していたのはそういった事情をヤマメ以外の全員が把握していたからなのだろう。
孤立と言っても全く誰にも絡まれないわけではなく、親交のある妖怪――例えば主催者であり彼女を呼んだ張本人である勇儀なんかは、ちょくちょくパルスィのことを気にかけてはいた。
しかしヤマメはそんなことを気にすることもなく、ごく普通に、当然の行いとしてパルスィに声をかけた。
もしかしたらその時、他の参加者たちはヤマメが狙われるのでは無いかとヒヤヒヤしながら見ていたのかもしれない。
だが幸いな事にヤマメはパルスィのお眼鏡にかなわなかったらしく、二人の初対面は他愛もない会話を一つ二つ交わしただけで終わり、ヤマメはまた別のところへと移動してしまった。
パルスィも興味なさげに、彼女を目で追うこともなく再び一人飲みを再開する。
始まりなんて、そんなものだ。
ただ、そんな微かな繋がりが何度も繰り返された結果、二人はいつの間にか飲み会以外でも話すようになって、そうやって話していくうちに橋の上が二人のたまり場になり――今に至るわけである。
だから”いつから”と言う問いに対しての答えは、強いて言えばおそらく初対面の飲み会の時になるのだろう。
だがそれは、はっきりときっかけであると言い切れるほど確かなものでもない、”どうして”だなんて、それこそわかるわけがない。
何せきっかけがあやふやなのだから、理由なんてわかるわけがないのだ。
ただ漠然と、一緒に過ごすのが心地よいと感じているだけであって、他に大した理由などありはしない。
狂おしく求めるわけでもなく、かと言って義務感で一緒に居るわけでもない。
ふわふわとした、理由はわからないが心が休まる時間が、あいも変わらず今日も続いている。
「で、この前の女の子はどうなったのさ。まあ聞くまでもなく成功してるんだろうけどさ」
「ええ、性交したわ」
「言うと思った」
「読まれてると思った。
ま、いつもと一緒よ。ヤマメが聞いて面白いことなんて一つもないわ」
「いつもって?」
「連絡先は手に入れたわ、恋人さんにはとても与えられないような、未知の快楽も教えてこんであげた。
ファーストコンタクトにしては及第点ってところかしら」
「なるほどね。それで、やっぱりお姉さまお姉さまって懐かれてんの?」
「まあね、やっぱり美少女にはお姉さまと呼ばれるに限るわ」
「そっか、まさにいつも通りの悪趣味っぷりだね。
じゃあそっから、好き勝手に相手の心も体も弄くり回した挙句、しばらくして飽きたらぽいっと捨てるわけだ」
「失礼ね、すぐには捨てないわ、恋人との関係がこじれるのを見届けてから捨てるの。
ああ、あの妬ましいほどに初々しかった二人の心が徐々に離れて、捻れて、歪んで、終いには壊れてしまう瞬間が待ち遠しくて仕方ないわ。
大抵の男は嫉妬に狂ってくれるしね、お腹も膨れるし、一石二鳥とはまさにこのことだわ」
パルスィはそう遠くない未来の悲劇を想像しながら、うっとりと悦に浸っている。
変わらない、何も。
例えパルスィの性格がドン引きするぐらい悪かったとしても、だ。
むしろ彼女がそうあるからこそヤマメは心地よさを感じているのかもしれない。
別に性格の悪い部分を好んでいるわけではなく、パルスィがパルスィであるから、変わらず彼女らしくあるからこそ、ヤマメは今日も気楽に過ごせるのだ。
被害者には悪いとは思うが、それがヤマメの慕う水橋パルスィなのだから仕方ない。
「ほんっと、性格悪いよね」
嫌悪感を抱いているのは決して嘘でも方便でもない、確かな事実だ。
でも悪い部分も含めてパルスィなわけで。
ある日突然、彼女が改心して女の子に手を出さなくなったのなら、ヤマメは無性に不安になるに違いない。
悪いものでも食べたのか、悪霊にでも取りつかれたんじゃないか、と。
「そうね、ヤマメが思う以上に自分自身でもそう思ってるわ。
でも、その引くほど性格の悪い私と一緒に居るヤマメはかなりの変わり者よね、他の連中は早々に見切りをつけて居なくなっちゃったのに。
ああ、なるほど。もしかして……私に惚れてる?」
「ないない、ありえないから」
「いや待って、言わなくてもいいわ、わかってる。
そうよね、そうなるわよね、だって私ほどの美人だもの、惚れない方がおかしいわ。常日頃からなんでヤマメは堕ちないんだろうってずっと疑問だったのよ。
なるほど、もうすでに堕ちてたのね! そう考えれば全ての疑問は綺麗さっぱりと氷解するわ!」
パルスィは自分の胸に手を当て、もう一方の手を私へ差し伸べてそう言った。
「さあヤマメ、いいのよ遠慮なんてしないで。
私の豊満な胸に飛び込んで、好きなだけまさぐりなさい!」
ヤマメは、差し伸べられた手を無言ではたき落とす。
見た目以上に力が篭っていたらしく、赤く腫れた手をパルスィは目の端に涙を浮かべながら擦っていた。
「い、痛いんだけど」
「たまにさ、私にもパルスィと同じぐらいの図太さがあれば幸せに生きられるんだろうなって、羨ましくなることがあるよ」
「過去に例が無いほど馬鹿にされてる気がするわ」
「どうかパルスィは今のパルスィのままで居てね。
大丈夫、私はいつまでも友達だよ」
「そう言いながら遠ざからないでよ! 本当に悲しくなるからっ!」
徐々にスライドしながら距離を取るヤマメを、パルスィは慌てて追いかける。
離れすぎないように、けれども触れないように。
「こっちこないでよ、たらしが伝染るから」
「伝染るわけ無いじゃないっ」
「パルスィ菌が伝染るー、あっちいけー」
「子供じゃないんだからっ!」
「別にそこまで近づかないでいいじゃんか、ちょっと距離を置きたい気分なの!
それとも何、私の体が目的なの? いやらしいことしようとしてるんでしょ!?」
「そんなわけないでしょうが、私が嫌なの!」
だだのこねあいだ。
どこからどう見ても大義名分はヤマメの方にあるのだが、友達付き合いの良いヤマメは一応パルスィの言い分を聞くことにした。
「何で嫌なのさ」
どうせおちゃらけた答えが返ってくるのだろうと思っていたのだが、パルスィは存外に真面目な顔をした答えた。
「この距離ね、すごく心地いいのよ。
正直なこと言うと、私って他の誰と一緒に居る時よりもヤマメと居る時が一番気が休まるのよね」
「急に何さ、気持ち悪い」
「人が真面目なこと言ってるのに気持ち悪いは無いんじゃないの」
「パルスィが真面目なこと言ってるから気持ち悪いって言ってるんだよ」
「容赦無いわね、かなり傷つくんだけど……」
「自分が今まで他人を傷つけてきた数に比べれば微々たるものでしょ、因果応報だよ」
真面目な話は私たちには似合わない、だから真面目な話はしない。
ヤマメはそう割り切っていた。
彼女が人付き合いに秀でているのは、そういった割り切りがあるからかもしれない。
相手によって、必要な話題しか提供しない。
ふざける相手にはふざけて、真面目な相手には真面目に接して、可能な限り相手の意見を尊重する。
相手を不快にさせないラインを見極める技術、それを無意識のうちに身につけているのだろう。
おそらくヤマメにとっての一番の友人であるパルスィでさえ、その例外ではなかった。
「そうやって私のこと嫌うような素振りは見せるくせに、友達をやめようとは思わないのね」
せっかくヤマメが真面目な流れを止めたというのに、パルスィはこりもせずに茶化す様子もなくそう問いかけた。
ヤマメは困ったように口をへの字に結ぶ。
好きか嫌いかで言えば、間違いなく嫌いだ。
ヤマメは常識も倫理観もしっかりとした妖怪だ、誰かれ構わず手を出すような放蕩者じゃない。
そんな彼女が、パルスィのような邪悪な妖怪を好きになれるわけがなかった。なかったはずなのに――
「好きか嫌いかで言えば、そりゃ嫌いだよ。性格は悪いし性癖は歪んでるし無駄にナルシストだし、そんなの好きになれるわけないじゃん。
パルスィだって自分でわかってるでしょ。
だけど、友達やめるとか、そんな大げさな物じゃないってだけ」
辛うじて絞り出した答えは、そんなはっきりとしない言葉だった。
だからといって、友達を止められるわけがない、一緒に居る時間が無くなるなんて嫌だ、そう思っている。
自分の意思と相反する、パルスィの行いに対して苛立ちはあるし、常識的に考えれば早く止めさせなければならない。
「大げさなことよ、嫌いな相手と一緒に居たいとは思わないわ。
現に今まではそうだったから、ヤマメ以外は私の事を知った途端に離れてしまうのよ」
そう、そのはずだった、ヤマメだって本来ならそちらのカテゴリに属していたはずなのだ。
だというのに、気づけば離れるなんて選択肢は頭から消え失せていた、そばに居て当然だと思うようになっていた。
今では、近くに居なければ不安になってしまうほどに。
「なのに、どうしてヤマメは私の傍に居てくれるのかしら」
「答えないとだめ?」
「できれば答えてほしいわね」
「真面目な話とか、私たちには似合わないって」
「たまには似合わないこともやってみていいじゃない、案外食わず嫌いなだけかもしれないわよ」
「似合わないって再確認するだけだよ、現にこうやって私は苦しんでるわけだし」
「苦しみが大きいほど快感も大きくなるわ」
「……何の話してんの?」
「やあね、邪推しすぎよ。
ヤマメの答えの話でしょ、ほらほら早く教えてよ。どうして私の傍に居てくれるのか」
答えははっきりとさせなければならない物なのか、ぼやけたままの方が楽なんじゃないか。
楽な方楽な方へと逃げようとするヤマメの思考、だがパルスィの視線が絡みついてそれを許してくれない。
答えを出せ、と無言の圧力がかかる。
「わかるわけないじゃん、そんなの」
「あ、逃げたわね」
「逃げてないって、ほんとにわかんないの!
大体パルスィだって私と一緒じゃないさ、二人でいると気が休まるって。
そんなもんだって、私もパルスィと一緒に居ると気が楽っていうか、楽しいっていうか」
「私と一緒……」
「そう、そういうこと。だから、はっきりと言葉で表せるようなもんじゃないの。わかった?」
「ふふ、そう、私と一緒なのね。
わかったわ、今日の所はそれで許してあげましょう」
「何で上から目線なの」
直接的な表現をしたわけではないが、改めて言葉にするとやはり恥ずかしいらしい。
ヤマメは顔をほんのり赤く染め、パルスィを睨みつける。
睨まれたパルスィは、それが照れ隠しだということを悟ったのかニヤニヤと笑ってみせた。
「その顔むかつく」
「別にいいじゃない、赤くなったヤマメもかわいいわよ」
「だから、それがむかつくって言ってんの!」
拳を握りしめたヤマメは、全く自重する様子を見せないパルスィに向かって右ストレートを繰り出す。
もちろん本気ではない。
多少は痛みを感じるかもしれないが、からかった代償としては到底吊り合わない程度だ。
しかしヤマメの拳は届くことなく空を切り、パルスィは金髪をはためかせながらくるりと華麗に回避した。
「避けないでよ、罰なんだから」
「甘んじて罰を受けるほど往生際は良くないわ、それが水橋パルスィという女なの」
「観念しなよ、私の怒りはパルスィに拳が届くまで収まらないよっ、しゅっしゅっ!」
「まあ怖い、でもヤマメだってわかってるでしょう?」
「わかってるよ、わかってるからやってるんじゃん」
ヤマメの突き出した拳は、一見してただのパンチに見えたかもしれない。
だが実はとんでもない力の込められた必殺の一撃だった――わけでもなく、実際ただのパンチではあるのだが、ヤマメにしてみればただの殴打とはまた別の意図を含んだ拳だったのである。
もちろんパルスィもその意図を察している、だからこそ必死で避けている。
「私に触られるのが嫌だって言うんでしょ」
「わかってるならやめなさいよ、人が嫌がることをしてはいけませんって先生に教わらなかったのかしら」
「教わったよ、だからやってるの」
「とんだ反面教師ね」
そう、なぜだかパルスィはヤマメに触れられるのを極端に嫌がるのだ。
友人としてのスキンシップはもちろん、歩いている時に偶然肩が当たることすら拒むほどだ。
かといって、こうして毎日一緒に過ごしていく上で全く触れないなんてことがあるわけもなく、事故でどうしようもなく触れてしまうこともある。
そんな時は決まって、パルスィはバツが悪そうにしながらヤマメにこう言ってくる。
『ごめんなさい』、と。
「真面目な話ついでに聞いておきたいんだけど」
「答えないわよ」
「人に答えさせといてそれはないって! ていうかまだ何も言ってないよ」
「言わなくても話の流れでわかるわ、何で触れられるのを嫌うのか、でしょ?
以前も同じことを聞かれたし、同じように答えたと思うわ。
何度聞かれようと私の答えは一つよ。
ノーコメント、天変地異が起きようとも答えることはできません」
「理不尽だー! 人には無理やり言わせといて」
「理不尽で結構よ、私は嫌な女なの。誰よりもヤマメが一番良く知ってるはずよ」
「そうだけど、そうなんだけど!
くそう、ちくしょう、開き直りやがって……」
こうなってしまうと、ヤマメにパルスィの口を開かせるのはほぼ不可能。
軽い性格と裏腹にパルスィの口は鋼よりも硬い、自白剤でも無い限り答えを聞き出すことは出来ないだろう。
実を言えば、軽い性格と言うのも嘘っぱちなんじゃないかとヤマメは睨んでいる。
そもそも女の子をたぶらかしているのも、妬ましさを糧とするパルスィの妖怪としての特性があるからであって、決して純粋な性欲だけで手を出しているわけではないのだ。
全く性欲が無いとは言わないし、本人の趣味も多分に含まれてはいるのだろうが、それでも本質は別のところにある。
暗くどす黒い負の感情、それこそがパルスィの本質。
明るく振舞っている普段のパルスィとは全く異なる、緑の瞳の奥深くに沈む、おそらくヤマメ以外誰も知らないであろう本当の彼女の姿だ。
「そんなにじっと見たって答えない物は答えないから」
「……わかってるよ、こうなったパルスィはてこでも動かないからね。
でも、いつか絶対に吐かせてやるから」
「どうしてそこまで聞きたがるのよ、大したことじゃないわ、聞いたってがっかりするだけよ」
「だって、嫌だから」
「何がよ」
「友達なのに隠し事あるのは嫌だから、なんかもやもやするの!」
「ヤマメ……」
あまりに真っ直ぐ過ぎる言葉に、思わずパルスィはきょとんとしてしまう。
しかしそんなマヌケな表情も一瞬だけ、すぐに気を取り直すと自嘲気味に笑ってこう言った。
「ほんと、あんたっていい子よね、私にはちょっと眩しすぎるわ」
「馬鹿にしてる?」
「まさか、本気で褒めてるのよ。
私なんかには勿体無いぐらい素直で真っ直ぐで、ほんと眩しい」
パルスィは物憂げに目を細める。
「羨ましいわ」
そうして、二人はまたいつもの怠惰な時間へと回帰していく。
気だるげに頬杖をつきながら、人混みをじっと眺め、他愛もない会話を繰り返し。
多少らしくない会話をしてしまったが、それも雑談の域を出ない、二人の関係をかき乱すには程遠い。
いずれ、数えきれない程の無意味な会話を繰り返すうちに、記憶の砂に埋もれて消えてしまうのだろう。
「乾杯!」
勇儀が音頭を取ると、回りの妖怪たちも一斉に盃を掲げ高らかに乾杯と叫ぶ。
誰も彼もが上機嫌に盃に口を付けると、それを傾け一気に喉へと流しこむ。
喉を流れる熱いアルコールに、その内の何人かは思わず「くぅ~っ」と唸ってしまった。
意図したのではない、思わず漏れてしまったのだ。
一日中貯めこんできた欲望を満たす命の雫、胃袋どころか魂すら満たすほどの充足を与えるアルコールに逆らえる者など居ないのである。
勇儀主催の飲み会にヤマメが参加しないわけもなく、彼女も周囲の妖怪たちと同様に酒の魔力に酔いしれていた。
人気者の彼女の回りに人が尽きることはない。
だが一つの人影がヤマメに近づいてくると、彼女の回りに集っていた妖怪たちは蜘蛛の子を散らすようにどこかへと去ってしまった。
ヤマメは不思議そうに人影の方へと視線を向ける。
そこには、古明地さとりの姿があった。
「おやヤマメさん、今日は珍しく一人なんですね」
さとりは去っていく妖怪たちに目をくれることもなく、清酒の注がれたグラス片手にヤマメの近くへと歩み寄り、座布団の上にちょこんと腰を下ろした。
誰に対しても分け隔てなく接するヤマメは、地底の嫌われ者であるさとりでさえも受け入れていた。
確かに自分の心の中を読まれるのは良い気分はしないが、”その程度”で避けたりする必要は無いはずだ、というのがヤマメの考えだ。
そんなヤマメに対して「頭おかしいんじゃないですか」と言い放ったさとりは、もはや心を読む読まないに関係なく嫌われ者の素養があるとしか思えないのだが。
だがそれもまた、ヤマメにとっては些細な問題なのである。現にその時のさとりの暴言も「あはは」と笑って軽く流してしまったのだから。
「一人じゃないよ、さっきまで大勢に囲まれてたじゃないか」
「そういう意味ではなく……はぁ、わかってるならわざわざそういう言い回しをする必要はないんじゃありませんか。
パルスィさんと何があったんですか?」
「別に、何もなかったけど。
ただ単に、パルスィが女の子を連れ回してて忙しいから飲み会には参加できないってだけだよ」
さとり相手に隠し事をするだけ無駄だ、どうやら彼女はヤマメとパルスィの間に何か愉快な出来事があったのではないかと察して近づいてきたらしい。
いや、彼女の場合察したというよりは、心の中を覗き見て確信したからこそ近づいてきたのかもしれないが。
ヤマメにも何となくだが心当たりはあった。
おおよそ、そのネタでヤマメをからかって酒の肴にでもするつもりなのだろう。
「でも、心当たりはあるんですよね?」
「相変わらず色々手順をすっ飛ばして話すよね。
まあ心当たりっていうか、多少思う所はあるけど、そんなに私がパルスィと一緒に居ないのが珍しい?」
「ええ、私の記憶が正しければ、今までヤマメさんが参加している飲み会にパルスィさんが参加しないことは無かったと思います」
さとりが断言すると言うことは、間違いなくそうなのだろう。
ヤマメ自身に自覚はなかったが、どうやら第三者から見ると隣にパルスィが居ない状態と言うのは違和感を覚えるほど当然のことらしい。
確かに、ヤマメは今日の飲み会の中で何度か不可解な視線を向けられていた。
何かを勘ぐるような、不思議な物でも見ているような。
理由がわからないので多少気味悪さを感じていたのだが、これで合点がいった。
しかし、気づけば一緒に居ることが当たり前になっていたのを喜ぶべきなのか、はたまた悲しむべきなのか。あれで中身がまともだったら素直に喜べるのに――とヤマメは複雑な心境だった。
「良い友人じゃないですか、羨ましいです」
「わかってて言ってるんだからタチが悪いよね、さとりって」
「いえいえ、本心ですよ」
「あんなの悪友だよ」
「それが羨ましいんです、笑いながら悪友だと呼べる相手が居るなんて、きっと毎日がスリルに溢れているに違いありません」
スリルとロマン溢れるアドベンチャーに導いてくれるような素敵な友人であれば良かったのだが、生憎パルスィがヤマメに提供するのは呆れぐらいの物である。
ヤマメにとっての悪友と、さとりにとっての悪友の間には天と地の差があるに違いない。
「問題は、その悪友さんと、見てるこっちがこっ恥ずかしくなるような青春のワンシーンを演じてしまったことですよね」
「……まあ、ね」
「顔が少し紅潮しましたね、まあ私が図星を突かないわけがありませんから、間違いなく図星なんでしょうけど。
どうして私と一緒にいるの……一緒に居て気が楽だからよ……ふふふ、私も一度ぐらいは言ってみたいですね、そんな台詞」
「や、やめてよぉ」
「やめませんよ、私は他人の嫌がる顔が大好物なんですから。
ヤマメさんの今の顔なんてたまりません、お酒がぐいぐい進みますね、最高の肴ですよ」
さとりの性格の悪さは本当に心が読める力のせいなのだろうか。
ヤマメは、さとりを友人として受け入れてしまった過去の自分のうかつさを今更ながらに呪っていた。
いや、むしろ普通に生きいても嫌われてしまう彼女だからこそ、他人に嫌われることを厭わずに自由奔放に振舞っているのかもしれない。
どうせ嫌われるのなら、自分から嫌われてしまえ、と。
「パルスィさんもここに居ればもっと面白いことになったんでしょうけどね」
「悲惨の間違いでしょ?」
「立ち位置が変われば状況も変わるものです、ヤマメさんたちの不幸は私にとっての幸福ですから」
他人の不幸は蜜の味という言葉は、今のさとりの為にあるに違いない。
「ですが、進展の遅い物語はあんまり好きじゃないんですよ、私」
「物語って、何の話さ」
「もちろん、ヤマメさんとパルスィさんの物語です。
確かにもどかしさを楽しむのも一興なのかもしませんが、こう見えて私はせっかちなんです」
「だから、一体何の話をしてるの?」
「ですから、ヒントをさしあげましょう」
「人の話を聞けー!」
彼女の身勝手は今に始まったわけではないが、今日のは輪をかけて酷い。
心を読む能力を持つさとりは、こちらから話さずとも全てを理解してしまう。
わかっていることをいちいち聞くのは彼女にとって面倒なことなのだろう、しかし与えたつもりの無い情報を前提として話を進められるのは、こちらとしては非常にやり辛い。
段階を踏んで話そうと計画を立てていても、彼女はその二手先三手先の話を勝手に始めてしまうのだから。
例えば、さとりと外出する約束を取り付ける時、「ねえさとり」と話しかけるとしよう。
すると彼女はこう返事するのである、「わかったわ」と。
確かに意思の疎通は出来ているし、効率が良いと言えば良いのだが、会話をするこっちの気持ちにもなって欲しいものだ。
「原因は貴女ではない、彼女――つまりはパルスィさんにあります」
「はぁ、もういいよ、さとりが私の言葉なんて聞くつもりがないってのは十分わかったから」
「私に言葉なんて必要ありませんから」
「会話ってのはお互いを尊重しあって初めて成り立つの、さとりだけが満足したって意味ないでしょ」
「身に染み付いた習慣と言うのは中々消えないものです、今までヤマメさんにさんざん注意されましたので治そうと努力はしているつもりなのですが」
「嘘でしょ、それ」
「いえいえ、滅相もありません」
ヤマメは他人の心が読めるわけではないが、さとりが嘘をついていることだけははっきりと理解できた。
ポーカーフェイスはさとりの特技の一つと言ってもいい。
今はわざとわかるように、愉快なジョークのつもりで嘘をついたのだろう。
「で、原因がパルスィさんにあるという話ですが」
「何の原因? 私には心当たりがないんだけど」
「ヤマメさんが今まさに頭に思い浮かべている、”それ”の原因です」
ヤマメが頭に思い浮かべていたのは、つい先日に起こった出来事だった。
しかも一度や二度じゃない、一番近い記憶がその時だったというだけで、ヤマメとパルスィの二人は何度も同じやりとりを繰り返している。
「平気だ、気にしてないと言いながら、実は心の底ではとても気にしているんですよね」
「別にそういうわけじゃ……」
「ヤマメさんは土蜘蛛ですから、”触るな”だなんて言われたら傷つくに決まってるじゃないですか。
病を操る力に絡めて悪く考えてしまうことぐらい、心なんて読めなくても普通はわかると思うのですが。
パルスィさんったらデリカシーに欠けてますよね、あんなのが美少女食いまくってるって言うんだから世の中どうかしてますよ。
ですが、安心してください。
さっきも言った通り、パルスィさんが触れられるのを嫌がってるのは、ヤマメさんに原因があるわけじゃないんです」
「じゃあ何が理由なのさ」
「そこまでは言えません、だって答えになってしまいますから」
「ここまで言っておいてそれはないよ!」
「ヒントだと言ったではないですか、これ以上はダメです。
一方的に相手の気持ちを知るのはアンフェアだと私は思います」
「アンフェアの権化が何言ってるんだか。
もう、これじゃあ余計にもやもやするだけじゃん」
「土蜘蛛だから腫れ物扱いされている、と言う最悪の可能性だけは消えたのですからいいではないですか」
「そりゃそうだけど。
でも、もうちょっとヒントをくれたっていいんじゃないかな」
パルスィに原因があると言うことがわかったところで、彼女が口を開かない限りは理由はわからないままだろう。
答えを教えてもらうのが一番手っ取り早いが、心を読んで答えを知ることがアンフェアだと言うさとりの気持ちもわからないではない。
さとりは基本的に非常識だが、超えてはいけないラインは自分で理解しているようだ。
「仕方ありませんね、それではもう一つだけヒントをあげましょう」
「いいの?」
「ご期待に沿えるほどの物かわかりませんが。
まあヒントと言うよりはアドバイスですね、答えへ近づくための」
実を言えば、ヤマメがその答えを知りたがっているかと言われればそこまででも無いのだが。
友達として付き合っていく上で、必ずしも体と体の接触が必要なわけではないし、嫌なら嫌でそれなりの付き合い方をすればいいだけである。
だがそれでも、知ることができるのなら知っておくに越したことはない。
知ることでパルスィとの友人関係をもっと円滑に進めることもできるかもしれないのだから。
「いっそ触ってしまえばいいんですよ、それはもう過剰にベタベタと」
「えっ? いやいや、だからそれが出来ないから悩んでるんじゃん、パルスィってば本気で嫌がるんだって」
「でも全力で振り払ったりはしないんでしょう?」
「そりゃそうかもしれないけど、でもわざわざ嫌がることなんてできるわけ……」
やんわりと手を払われるか、距離を取られるかのどちらかだろう。
触られるのが嫌だと言われてからは、パルスィの見える範囲でじゃれあうようにして触ろうとすることはあっても、意図的にこっそりと触れようとしたことは無かったので想像の域は出ないが。
少なくとも、パルスィがヤマメが傷つくような方法で無理やりにでも手を離そうとする光景は想像できない。
「抱きついてみてもいいですし、もっと濃厚な接触でもいいんですよ。
手を手を絡めてみたり、唇と唇を重ねてみたり、おもむろに服を脱いで体と体を重ねてみても」
「無いから! 絶対にありえないから!」
「ふふふ、ヤマメさんってば今一瞬パルスィさんの裸を想像しましたね。やらしー」
「想像させたのはさとりでしょっ!?」
「なるほど、一緒に温泉に入った時の記憶ですか。つまり限りなく実物に近い裸なんですね。
パルスィさんの裸ってこんななんだー、へー、ふーん、ほほーん、さすが美人なだけあって裸も素敵ですねえ。
うわあ、おっぱい大きいしくびれも見事ですねえ、普段はそうは見えないですし着痩せするタイプなんでしょうか。
肌も絹のように滑らかで、確かに同性でもぐらっと来てしまいますね」
「や、やめてよぉっ、見るなぁっ!」
ヤマメはさとりに向けてわしゃわしゃと手を振り回して視線を遮るも、物理的な妨害に効果があるわけもない。
第三の目は全てお見通しなのだ。
顔を赤くしながらじたばたと暴れるヤマメの様子を、さとりはニヤニヤと笑いながら眺めていた。
「パルスィは私の物だ、さとりなんかには見られたくないっ! ってとこですか」
「違うって!」
「ですが心の中ではそう思って……」
「勝手に人の心をでっちあげるなー!」
さとりの表情を見れば、ただヤマメをからかいたいだけと言うのは一目瞭然だ。
一連の動きですっかり息を切らしてしまったヤマメは、ぜぇはぁと呼吸を荒くしながらジト目でさとりを睨みつけた。
もちろんその程度の反撃にさとりが怯むわけもなく、相変わらず人を挑発するような粘着質な微笑みを浮かべ続けていた。
「お、何やら楽しそうじゃないか、私も混ぜてくれよ」
二人が騒いでいると、賑やかさに引き寄せられて飲み会の主催者が盃片手にこちらへと近づいてきた。
あたりに散らばっていた座布団を引きずりながら運び、ヤマメの近くまでやってくると、その上に豪快に腰を降ろす。
「もう、勇儀ってば何言ってるのさ。
楽しくなんか無いよ、私が一方的にさとりにいじめられてるだけなんだから」
「いじめるだなんて人聞きの悪い、私はヤマメさんと愉快なお話をしていただけです。
ほら見て下さいよ、愉快すぎてお酒もぐいぐい進んでます」
「愉快なのはさとりの方だけだろー!」
「何だ、やっぱり楽しそうな話じゃないか」
「だから楽しくないって!」
人の話をまともに聞かない、と言う点においては勇儀はさとりと似ているのかもしれない。
勇儀の加勢によって、劣勢に追い込まれていたヤマメは起死回生のチャンスが到来したかと一瞬だけ希望を抱いたのだが、むしろチャンスどころかさらなるピンチを招いてしまったらしい。
すっかり野次馬モードの勇儀は、ヤマメの味方をするどころか、さとり側に付いてヤマメをさらに追い込もうとしている。
「何やら全裸とかパルスィだとか気になる言葉が聞こえてきた気がしたんだがなあ、もしかしてパルスィが来てないことと関係があるのか?」
「さすが勇儀さん、鋭いですね」
「関係無いから! 本当に関係ないから!」
「必死になってんなあ、逆に怪しいぞヤマメ。
なんだ、もしかして酒に酔った勢いでパルスィとうっかりやっちまったとか、そんな話か?
目を覚ましたら隣に全裸の友人が寝てたってわけか、若いなあ、羨ましいなあ。
いやあ、そうだとしたら赤飯が必要だな、この店そんな物おいてあるかな……」
「近からず遠からずですね」
「いやいや、めっちゃ遠いからね!?
パルスィは女の子連れ込んでるから来れないだけだって!」
「それでヤマメが嫉妬してるって話か。
ははっ、嫉妬はパルスィの専売特許じゃなかったのか? ずっと一緒にいるうちに伝染っちまったのかもしれないなぁ」
「ええそうなんです、パルスィさんと彼女が連れ込んだ女の子との情事を想像してたりしたんですよ。
ヤマメさんってば、やらしいですよね。むっつりすけべです、とんだ好きものです、この公然猥褻物!」
「なるほど、それが全裸でパルスィに繋がるわけだな。合点がいったよ。
しかし年頃の女なんだから全裸ぐらい想像するだろう、私もよく想像してるぞ。
誰とは言えないけどな、はっはっはっ!」
「人の話を聞けー!」
ヤマメにとって、想像しうる限り最悪の組み合わせだった。
怒鳴ってはみたものの、勇儀がヤマメの言うことを聞くわけがないし、口の勝負で心の読めるさとりに勝てる見込みは全くない。
誤魔化して酒を飲もうにも勇儀相手じゃ潰されるのがオチだし、勇儀主催の飲み会の途中で逃げられるはずもなく。
見事な八方ふさがりだった、二人から与えられる地獄をヤマメは享受するしか無いのである。
もはやヤマメに残された手はただ一つだけ。
「飲むしか、飲むしか無いのか……」
嫌なことは忘れてしまえばいい、記憶なんて綺麗さっぱり吹き飛ぶほどに飲んでしまえば、記憶にさえ残らなければ、無かったのと同じことなのだ。
ヤマメはおもむろにテーブルの上のグラスを力強く握ると、勢いに任せて注がれた日本酒をぐいっと飲み干した。
決して弱くはない酒だ、普段の彼女なら間違っても一気飲みなんて愚かな飲み方はしないだろう。
それを、あえてした。
喉が焼けるように熱い。胃袋までアルコールに冒されて滾っている。
その熱気は次第に体内だけでなく、ヤマメの体全体に広がり始め、脳にまで到達する。
まだ酔っ払うには量が足りないが、何度か繰り返して居ればじきにへべれけになれるだろう。
「お、いい呑みっぷりじゃないか。私も付き合うぞ」
「現実逃避ですか、賢い判断ですね」
二人が何か言っているが、ヤマメの耳には届いていない。
グラスの酒を飲み干したヤマメは、急いであたりを見回し店員の姿を探す。
そしてその姿を見つけるやいなや、そこそこ遠くに居る店員に向かって、それでも十分すぎるほどに聞こえるであろう音量で、やけくそ気味に叫んだ。
「店員さーん! 鬼ころし、ロックで、三杯持ってきて!」
あえてその酒を選んだのは、もちろん勇儀に対するあてつけである。
だが当の勇儀は全く気にする様子もなく、実に上機嫌そうに口角を上げながら、運ばれてきた日本酒を水のように飲み干すのであった。
一番危険なのは、ペースを乱すことだ。
多少動揺したとしてもポーカーフェイスを維持できていれば、現状維持はいつまでも続けられたはずなのだから。
誰も通らない橋の上、昼間は喧騒に包まれていた中央通りもさすがにこの時間では静まり返っている。
人通りもまばらで、あまりのギャップに寂しさすら感じてしまうほどだ。
川の流れる音がさらに哀愁を誘う。
空を見上げても月は出ていない、”今夜は月が綺麗ですね”なんて気の利いた台詞もここでは使えない。
仮に月が出ていなかったとしても、いつもの自分ならちゃらけた笑顔を浮かべながら軽く口に出来たはずなのに――と、パルスィは暗い表情で、流れる水面に言葉を吐き捨てる。
いつも通りではない。普段のペースが取り戻せない。
そもそも、ヤマメに対して嘘をついた時点でとっくに歯車は狂い始めていたのだ。
一度狂った歯車は、そう簡単には戻らない。
少なくとも一朝一夕でどうなるものでもないことは十分に理解している。
それでも、パルスィはいつも通りで居なければならなかった。
「こびりついて離れないのよ、どうなってんだか」
頭を抱えながら左右に振る。
そんな簡単な動作で記憶が消えるわけでもなく、むしろ意識する分余計に思い出してしまう始末。
材料なら腐るほどある。
二人が積み重ねてきた時間は、そこらの恋人たちよりもずっと長いぐらいなのだから。
「……わかってたけど、わかってるんだけどっ!」
誰も居ないのをいいことに、パルスィは普段は絶対に出さないような大声で吐き捨てた。
呪うのは誰でもない、自分自身だ。
どうしてこうなったのか、全て理解している。
”同じ気持ち”という言葉に必要以上に喜んでしまった自分が悪いのだということも。
それでも、悪いとわかっているのに胸の鼓動は収まらない、嫌でも彼女の姿が脳裏に浮かぶ。
意識しなくても、考えたくなくても、彼女の――ヤマメの笑顔が、頭にこびりついて離れないのだ。
「今頃、楽しそうに誰かと飲んでるのかな……」
自分で断っておいて、ヤマメを恨めしく思うのは見当違いだと言うことは理解している。
だが嫉妬は彼女の本分だ、在り方としては正しいのかもしれない。
そう、大事にしてきたヤマメがいつか誰かの物になって、それを指を咥えて眺めて居るのが一番のお似合いなのだ。
きっと、他人の嫉妬心を集めるよりも効率よく、この上なく上質な力を得ることができるだろう。
「素敵じゃない、反吐が出るぐらい素敵だわ……くそっ」
つま先で地面を蹴りつけながら、今にも爆発しそうな苛立ちを外へと逃がす。
爆発した所で、誰にも迷惑をかけるわけではないから気にすることもないはずなのだが。
しかし、嫉妬心を操るパルスィが嫉妬しすぎて回りに当たり散らかすなど、自分の存在意義を否定するような物である。
彼女をすんでのところで押しとどめたのは、微塵も価値の無い惨めな自尊心だ。
いっそプライドを捨てて喚き散らかせたらどんなに楽だったろう。
いつから、こうなってしまったのか。
パルスィの想起はだんだんと過去へと遡り、ヤマメとの出会いへと還っていく。
全ての元凶は、何もかもの始まりは、思えばあの時ではなかっただろうか。
言ってしまえば、最初から。
何が変わったわけでもなく、変化があるとすれば強度の増減だけ。
数倍か、あるいは数十倍にまで膨れ上がった想いを抑えきれなくなった、ただそれだけの話。
”ただ”と言うには深刻すぎる問題ではあるのだが、単純明快と言う意味では正しい使い方だろう。
深く考える必要もない、本来なら悩む必要すら無いはずの、直進するだけのありきたりな恋愛ドラマの脚本。
だがそんな理想的な展開であれば、パルスィがここまで悩むこともなかったはずだ。
しかし、彼女は誰かを恨んでいるわけではなかった、原因を他に求めることもしない。
全ては明白だ、誰かに責任をなすりつける余地すらない。
なにせ、こじれた原因は他でもないパルスィ自身にあるのだから。
腫れ物として扱い、頑なに拒み続けた彼女自身に。
パルスィは、周囲の妖怪たちから美人だと持て囃されるだけのルックスを持っていた。
実際そのルックスを武器として、数えきれない程の恋人たちを引き裂いてきたのだ、実績に裏付けされた自信すらあった。
ただし、自信と自己愛はまた別の話。
自信はある、だがそんな自分が好きかと言われれば――パルスィははっきりと、ノーと断言するだろう。
嫌いに決まっている。
誰もが嫌うような自分のことを、自分が好きになれるわけがない。
「汚い手……」
賛辞の言葉も、薄っぺらな愛の囁きも、パルスィにとっては塵ほどの価値も無かった。
自己嫌悪は揺るがない。
聖域は変わらない。
いつか変わる時が来るとするならば、それは……パルスィがパルスィで無くなる時に違いない。
要するに、死ぬまで変わらないということだ。
「妬ましい」
綺麗な彼女が。
「妬ましい」
可愛い彼女が。
「妬ましい、妬ましい、妬ましいっ」
自分の心を支配して止まないヤマメという存在が、目障りな程に妬ましい。
ああ、こんなことなら最初から出会わなければ良かった――そう嘆きながら、運命という人知を越えた存在を嫉むのだ。
自分にも運命を操る力があるのなら、もっと上手く立ち回れるはずなのに。
傍に居たい、でも触れたくない。
ヤマアラシのジレンマにも似たどっちつかずの感情も、最初から無かったことに出来たはずなのに。
どうして自分はこうも無力なのか。
どうしてこんなにも、矮小で、下賎で、醜穢なのだろう。
「ああ、なんて妬ましい――」
天を仰ぎ、両手で顔を覆いながら、自らの境遇を恨む。
これこそが、まさにパルスィの本質だった。
太陽も月もない、暗い暗い地底の空のような、鬱々とした心の有り様。
そんな自分が嫌いで、けれど嫌えば嫌うほど気分は下へと堕ちていき、かと言って自分から目を逸らすことなどできやしない。
負の連鎖だ。
嫌えば嫌うほど、自分はもっと自分の嫌いな自分へと堕ちていく。
嘆きは止まらない。両手で覆われた視界、一筋の光も見えない漆黒の闇の中で、パルスィは悲観的な未来を想像する。
妬ましい、妬ましい、と何度も呟きながら。
「私は、こんな……っ」
胸が苦しい、張り裂けそうだ、どうして自分はこんなに愚かなのか。
ただひたすらに妬み、ただひたすらに憎み、ひたすら、ひたすら嘆く。
体の奥底からこみ上げてくる何かは、きっと涙だ。
我慢してきたものがこみ上げ、耐え切れなくなって、今にも外へと流れてしまいそうになる――その時だった。
「えへへへぇ、パルスィみーっけ!」
「ひゃぁうっ!?」
パルスィは何者かに突然後ろから抱きつかれ、その両手で豊満な胸をむぎゅっと鷲掴みにされた
虫さえも寝静まる丑三つ時、こんな時間に一人たそがれる橋姫に近づく物好きなんて居ないと確信していたのだ、そんな状態で急にセクハラなんてされたら、そりゃ変な声も出るだろう。
正体不明の襲撃者は胸を鷲掴みにするだけでは飽きたらず、何度も何度も執拗に揉みしだく。
「うひょーっ、新鮮らぁ!
パルスィのお胸ってこんなにやーらかかったのかぁ」
「な、な、何っ!? 誰っ!? ちょ、ちょっと止めてよっ、止めなさいよー!」
「いやれーす、やめませーん!
今日はぁ、パルスィの体を思う存分堪能するって決めたんれーす!」
「はっ、なっ、せっ!」
じたばたと暴れるパルスィ、負けじとしつこくしがみつき胸をもみ続ける変質者。
何が嫌かって、力いっぱい揉んでくれればまだ本気で反抗出来るというのに、変質者の揉み方はやけに優しいのだ。
セクハラと言うより愛撫のような、癪ではあるが思わず声を出してしまいそうな、優しさを含んだ揉み方なわけだ。
しかもパルスィは変質者の正体にほぼ気づいている、相手が相手なだけにいきなり暴力に訴えることは出来ない。
「パルスィは、わらひに対ひてちょぉっと反抗的すぎると思うんらよね、うん」
「うんじゃないわよ、いい加減に離しなさいよヤマメっ!」
さすがにここまで声を聞けばパルスィだって正体に気付く。
元からほとんど気づいては居たが、ここに来て確信に至った。
変質者は、さとりに弄ばれ勇儀に飲まされ、アルコールの過剰摂取によりもはや完全に正気を失ったヤマメだったのである。
そんな状態のヤマメがパルスィが本気で激昂しつつあることに気付くはずもなく、胸を揉みしだくその手が自重という言葉を思い出す様子はない。
むしろ揉むのに小慣れてきたのか、遠慮が無くなって来たようにも思えた。
「んっ、く……ぅっ」
「んふふふ、パルスィってば喘ぎ声えろーい、やらしー」
「本当にやめなさいよ、それ以上やったら本気で怒るわよ?」
最後通牒のつもりだった、これが受け入れられないのであれば強烈な裏拳を顔面に向けて放つつもりだ。
しかしヤマメが離れる様子はない。
その明らかにおかしな挙動、そして漂う酒臭さから完全に酔っ払っていることはパルスィにもわかっているのだが、酔っぱらいだとしても守らなければならない一線と言う物がある。
いくら酔っ払っていても、二人の間にあった不可侵条約を破っていいという理屈にはならないはずだ。
触らないで欲しいとあれほど言ったのに、パルスィからしてみればヤマメの事を思ってお願いしたはずだったのに。
ぐっと拳に力を込める。
「んふふふ」と気持ちの悪い笑い声を上げながらパルスィの胸の感触を堪能するヤマメに向かって、パルスィの渾身の一撃が放たれる。
「……あれ?」
はず、だったのだが。
何故かパルスィの両手はびくともしない、まるで何かに縛られているかのように。
もぞもぞと何度も体を動かすが、全く動く様子はない。
「パルスィ、わらひが何の妖怪かわすれてなーい?」
「な、あんたっ、ちょっと!? 本気でシャレにならないからやめなさいって!」
「緊縛プレイれーす!」
いつの間にかパルスィの両腕はヤマメの出した蜘蛛の糸によってしっかりと縛られていたのである。
パルスィに気づかれない程度に緩い輪っかを作り、拳が突き出される寸前に輪を締めて拘束したようだ。
酔っぱらいのくせに小賢しい真似をしやがって、とパルスィは歯を食いしばって悔しがる。
こうなってしまえばもはや抵抗はできない、まな板の上の鯉というわけだ。
できることと言えば、せいぜい罵倒することぐらいである。
「プレイじゃないわよ、この糸解きなさいよこの変態酔っぱらいっ!」
「そう言いながらぁ、実は感じてるんれしょ? 嫌よ嫌よも好きのうちってさとりが言ってたよ?」
「私は本気で嫌って言ってんの!」
「うそうそ、パルスィは可愛い女の子を見つけると片っ端から食べちゃういやらしー女の子なのれぇ、こういうプレイは好きに決まってるんれすー!
だからぁ、今日はパルスィの肢体を隅から隅まで思う存分堪能したいと思いまーす」
「堪能じゃないわよ、このバカ、アホ、ゴミクズ!」
「女の子がそんなこと言っちゃらめらよぉ、もっとかわいい声を出さないと……えいっ」
掛け声とともに脇腹をつつく。
「ひゃんっ」
何をされても耐えてみせると意気込んでいたパルスィだったが、あっさりと負けて声を上げてしまう。
その声を聞いたヤマメは満足気ににへらと笑い、調子に乗って何度も何度も脇腹をつついた。
「ひぁっ、はぅっ、ぁふっ、んあぁっ」
「ここかい、ここがええのんかい?」
「ちょ、はふっ、ん、や、やめっ、んひゃっ、やめてぇっ!」
実際、パルスィは腋から脇腹にかけてが非常に弱かった。
気持いいかはまた別として、そこに触られると自分の意図に反して嫌でも声が出てしまうのだ。
普段女の子を連れ込む時は基本的にパルスィは攻めの側なので中々触られることはないが、万が一この弱点に気づかれてしまえば、形勢が一気に逆転する可能性さえある。
まあ、そもそも連れ込んだ女の子を相手にするときは、相手だけ脱がしてパルスィは服すら脱がない事が多いので、弱点が露呈することはほぼありえないのだが。
「あー、たのし。パルスィをこんなに好き放題触れる日が来るなんて、わらひ思いもしなかったよ」
「何よ、そんなに触りたかったわけ?」
「そうらよ、ずぅーっと我慢してきたのにさぁ、パルスィはぜーんぜん触らせてくれないんだもん」
「何で……触りたかったのよ」
「それはぁ、私はパルスィのことが大好きだかられーす! いえーい!」
「……」
それは間違いなく本心だ。
酔っぱらい、まともに物事を考えられない今のヤマメから出る言葉は、思考というフィルタを通さない最も真っ直ぐな言葉と言える。
嘘はない、躊躇も誇張もなく、ただただ素直に、まっすぐに心からこぼれ出ている。
向けられる好意、そしてパルスィに触れたいという欲求は間違いなく普段のヤマメにもある物だろう。
ヤマメは後ろから触るのに飽きたのか、抵抗出来ないパルスィを回転させて自分の方へと向ける。
「ふんふんふーん」
上機嫌に鼻歌なんて歌いながら、顔に満面の笑みを浮かべて。
できれば、パルスィは今の表情を見せたくは無かった。
理解はしているが、欲求と言うのは自分の意思に関係なく素直に反応してしまう物で、以前ヤマメに対して『なぜ自分と一緒に居るのかと』問いかけた時も同じような状態だった。
『パルスィと一緒』と言うヤマメの答え、そしてたった今聞いた『パルスィのことが大好き』という言葉。
言葉以上の意味は無い、友情以上の価値もない、なのに心は、それ以上の何かを期待して過剰に反応してしまう。
「うわ、パルスィってば顔真っ赤らぁ」
「別にどうでもいいでしょ」
「どうでもよくないよぉ、らって今のパルスィすっごいかわいーもん」
「っ……!」
「あはは、もっと赤くなったぁ」
悪意が無い分、余計に残酷だった。
一人で考え込んでいた時も泣きたい気分ではあったが、今も別の意味で泣いてしまいたい気分だ。
もしヤマメがパルスィの気持ちを知っていたら、間違っても”かわいい”だの”やらしい”だの言えないはずだ。
勘違いをさせてしまうから。
なのにヤマメがそれを遠慮無く口にするということは、パルスィの気持ちに全く気づいていないという証左であり、またパルスィに対して特別な感情は抱いていないという事実を証明するための一つの要素にも成りうる。
幻想ぐらい見せて欲しい。
もしかしたら、ひょっとしたら、そんなあり得ない未来を想像出来るのは可能性が完全に否定されていないからだ。
ヤマメが独り身だから、まだ二人が友達のままだから。
告白さえしなければ、ヤマメが誰かとくっつきさえしなければ、まだ想像の余地は残っている、甘い幻想に身を委ねることが出来る。
「わらひに触られるの、そんらに嫌?」
「……嫌って言ってるじゃない、ずっと」
身動きの取れないパルスィに、ヤマメの真っ直ぐな視線が向けられる。
本人はじっと見つめているつもりなのかもしれないが、その眼はどこか虚ろで、体も静止できずにふらふらと揺れている。
酔っ払ってるのは明らかだ、そんな彼女の言葉をシラフの状態で真に受ける方がどうかしている。
いつものように軽く受け流せばいいだけなのに、それが出来ないのは、パルスィの思考が泥沼に嵌ってしまったせい。
今このタイミンでさえなければ、いつも通りでいられたはずなのに。
世の中はいつもそうだ、今は来てほしくない――そんな時に限って災厄は訪れるものだから。
「ずっとよ、ずっと、”だから”、嫌だって言ったのに」
「パル――」
それは自分のせいではない。
悪いのはタイミングで、パルスィには時間は操れないから、つまり悪いのは神様のせいということになる。
だから、良心の呵責に苦しめられる必要もないのだ。
今じゃなければ、こんなに気持ちが落ち込んで、精神的に揺らいでいる今でさえなければ。
もうこの際誰かのせいでいい、真実など、本当の責任の在り処などどうでもいいことだ、今だけは責任を神様になすりつけてしまおう、どうせ明日の朝には全てさっぱり消えている。
なんならヤマメのアルコールにあてられて酔ってしまったことにしてもいい、それなら明日の朝に忘れていたとしても不自然ではないから。
「ん、んーっ!?」
パルスィの両腕は縛られている、ヤマメを捕らえる手段など無い。
つまりはヤマメが顔を話せばいいだけの話なのに、彼女はなぜか目を見開いたまま離れようとしない。
「ん、ぁ……っ」
それどころか、彼女はそれを受け入れてしまう始末で。
そこまでやるつもりは無かったのに引くに引けなくなったパルスィは、もうこうなったら思い切り楽しんでやる、とやけくそ気味にがっつりと堪能することにした。
後悔は目に見えているのに、自己嫌悪が津波のように押し寄せると知っているのに、なのに、いや”だからこそ”、今この一瞬だけは恋人のように振る舞いたかった。
好きだと、愛しているとは言えない。
夜明けと共に消えてしまう霧のような夢だ、なら逆に都合がいい。
味わってしまおう。貪ってしまおう。
だから、せめてもう少しだけ――そう祈りながら、パルスィは口と口との交合を続ける。
どれだけ飲んだのだろう、とてつもないアルコールの匂いだった。
比喩ではなく本当にパルスィまで酔ってしまいそうなほどの。
ただでさえ唇同士の接触で頭が茹だっているのに、熱っぽいヤマメの表情だけで心臓が爆発しそうなのに、それでも足りないとでも言うのだろうか。
だが確かに、朝に全て忘れてしまうにはまだ足りないのかもしれない、ヤマメぐらい正気を失うほど酔わなければ。
正気ならとうに失っている、とっくに狂気に支配されている、だけど俯瞰する冷静な自分がどこかにいる。
冷静を気取る自分を粉々に打ち砕くぐらい酔わなければならないのに。
「はふ……ん、ちゅる……ぁふ……っ」
口と口の隙間から漏れる声は、いつしか吐息から喘ぎ声に変わっていた。
ぬめりのある唾液が絡みあい、舌と舌が滑らかに擦り合う。
舌の裏側や口蓋を舌で愛撫されるたびに、ぞくりとした甘い痺れが全身に走る。
縛られて身動きの取れないパルスィだったが、快楽に反応して指と指がこすり合うようにして細かく動いていた。
ヤマメも同様に、気づけば両腕はパルスィの背中に回されていて、舌が蠢くたびにパルスィの体に全身を擦りつけている。
まるで一面の銀世界、誰も踏み入れたことのない白雪の平原を好き勝手に踏み荒らす気分。
パルスィが触れたくない理由の全ては、そこにあった。
価値を失うわけじゃない、価値を失うような気がしていたから――事実、今だってそうだ、どんなに薄めたって100%にはならない、どう足掻いても99%止まりだ。
戻らない治せない壊れたままの別物、純粋は戻っても純潔は戻らない、どれだけの月日が経っても一度汚れたキャンバスは純白にはならない。
極論を言ってしまえば、パルスィにとって自分自身とは無価値だった。つまりは零だ。
逆にヤマメは全だった。つまりは百ということになる。
人の価値なんて見る人によって変わる、だから他人がヤマメをどう考えているかはわからない、人によってはその価値は十かもしれないし一かもしれない、あるいは零という可能性もあるだろう。
だがしかし、少なくともパルスィにとってはヤマメが全てなわけだ。
せめて自分自身が一であればどうにかなったのに、零には何を掛けあわせても零にしかならない。
自分の存在一つで、ヤマメすら無価値な存在になってしまう。
それだけは、許してはならないと、そう望んできたはずなのに。
「はぁ……はぁ……」
唇が離れる、二人の間を銀の糸が繋ぐ。
しかし、糸はすぐに重力に負けて消えてしまった。
二人は蕩けた表情で視線を絡ませあったまま、しばらく抱き合っていた。
パルスィは糸に縛られたままというマヌケな構図ではあるが、本人たちは大真面目だ。
夜風が二人の頭を冷ましていく。
冷静さを取り戻すことを、パルスィは何よりも恐れていた。
この場に一升瓶でもあれば一気に飲み干してしまいたい気分だった。
後に地獄が待っていることがわかっているのだから、忘れられるのなら今すぐにでも忘れてしまいたい。
けれど、今のキスを忘れたくないと思う自分も確かに存在している。
考えなしの欲望にまみれた愚かな自分と、常に正しい判断を下す冷静な自分、二つの人格が自分の中でせめぎあっている。
「ぱる……すぃ……」
力のない声でパルスィの名前を呼ぶヤマメ。
抱きついているにも関わらずふらふらと揺れていたが、メトロノームのようにその揺れは大きくなっていく。
腕の力も弱くなっていき、しっかりとパルスィの方を見据えていた視線さえもゆらゆらと揺れている。
「わらひ……あぅ……」
ぐらり、ぐらり、今にも倒れそうなほどゆらゆらと揺れるヤマメだっが、生憎両腕を縛られているパルスィは彼女を助けることは出来そうにない……と思っていたのだが、パルスィを縛っていた蜘蛛の糸はいつの間にか強度を失っていた。
試しに軽く力を入れるだけで容易くちぎれてしまった、ヤマメが意識を失おうとしているから糸も力を失ったのだろうか。
こうしてどうにか自由を取り戻したパルスィは、今にも地面に倒れ伏しそうになるヤマメを慌てて抱きとめた。
「うわっ」
「ぅ……ん……」
キスを始めてからここまでの流れは、パルスィの想定通りではあった。
あそこまで酔っていれば、放っておいてもそのうち意識を失うだろう、その程度は想像に難くない。
しかし、どうやらキスのショックでさらにそれが早まってしまったようだ。
ヤマメはもはや立つことすらできず、全体重をパルスィが支えている状態だった。
小柄に見えるヤマメだが、完全に力を失った状態では小柄とは言えかなり重い。
普通であれば女性一人で運べる重さではないのだが、ここは地底、そしてパルスィは妖怪である。
勇儀ほどの怪力はないにしろ、そこらの人間に腕っ節で負けるほど軟弱ではない。
脳を冒す甘い毒も冷めやらぬままのパルスィは、少し調子に乗ってお姫様抱っこでヤマメを抱え上げる。
普段なら背負って運ぶくせに、今だけはヤマメの顔を近くで見ていたいと我が儘を通すために。
「……かわいいわね、ほんと」
抱えられても一向に目を覚ます様子はない。
無防備に寝息を立てるその姿は、まるで純粋無垢な子供のようだ。
本来なら触れることすらおこがましいほどに可憐で、美しい。
自分のような妖怪が汚していい存在ではない、それをパルスィ自身も理解はしているのだが、感情全てが理性で抑えられるのなら苦労はしない。
可憐だからこそ触れたいのだ、美しいからこそ汚したいのだ。
欲望はいつだって天の邪鬼、ちっとも言うことなんか聞いてくれやしない。
「柔らかいし、いい匂いするし、私みたいなのを相手してくれるぐらい性格も良くって、なんて妬ましい」
両思いの未来を妄想する、まるで恋する乙女のように。
脳裏に浮かぶヴィジョンはやたら純情で、そんな光景を汚れきった自分が想像しているのがやけに滑稽だった。
パルスィは嘲り笑う。
「ふふっ、ほんとは私なんかが傍に居るべきじゃないのに、自分でも嫌ってほどわかってるはずなのにね」
自分の愚かさを、自分の惨めさを、身の程知らずとはまさにこのことか、と。
「だけど……ああ、やだなあもう。
さっきのキス、めちゃくちゃ気持ちよかったし、幸せだったし……やっぱりさ、私ってばヤマメの事が大好きみたい。
迷惑だろうけど、やめたくてもやめられないの、ごめんね」
そんな自分のことが、パルスィは嫌いだった。嫌いで仕方なかった。
消えてしまえばいい、死んでしまえばいい、何度もそう願ってきた。
「うぁ……」
胸がぎゅうっと締め付けられる、痛みに耐え切れずにぐっと下唇を噛み締めた。
後悔の波はもうすぐそこまで迫ってきている、思考をどん底まで叩き落とす黒い黒い波だ、これはその前兆にすぎない。
猶予はほとんど残されていない。
その時になれば、きっとまたパルスィは自分を殺したいほどに今日の行いを悔いるだろう、今日の自分を憎むだろう、汚したくない守りたかった物を自らの手で汚した罰として自分を責め続けるだろう。
「もう、わかってるわよ、どうせ後悔するんでしょう?
でもね、後悔なんてあとで死ぬほどやればいいの。
だったら、別に今ぐらいは欲望にかまけてもいいじゃない」
だが、どんなに自分が嫌いでも自殺なんてする勇気はなかった、それでも自己嫌悪は消えない、そうやって自己嫌悪と自殺願望を何度も何度も繰り返すうちに、気づけば劣等感の塊になっていた。
しかし、自分が害を成すだけの存在なのだと自覚しながらも、自分に価値が無いことを認めながらも、パルスィは他人との繋がりを求めていた。
人間だろうが妖怪だろうが、誰だって一緒だ。
だって、一人は寂しいから。
「好き、好き、大好きよ、愛してる、何度だってキスしたいし、めちゃくちゃに犯して汚したいとも思ってる」
好きだからとか、寂しいからとか、そんな自分本位な理由で。
死ぬ勇気の無い自分のことも、そのくせ他人を求める自分のことも、全て嫌いだった。だからこそ消えるべきだと思った。
だけど消えたくない、だから生きている、でも寂しい、やっぱり好き、けれどそんな自分が嫌い、自分の中で相反する感情が何度もぶつかり合い、負の連鎖が延々と続いて、何度も何度も螺旋を描いて、今のパルスィは形作られている。
原型がどんな物だったか、そもそも自分が何だったのか、全てが黒く塗りつぶされて、パルスィ自身にもよくわからない。
「止まらないの、こんなに傍に居て何もしないほど私は善人じゃない。
自制心が無いことはヤマメだってよく知ってるでしょう?
だから、だから――」
しかし、自分を卑下するということはイコール他人を羨むことでもあり、嫉妬こそは彼女の力の源泉であり――皮肉にも、今のパルスィは妬みを糧とする妖怪としては正しい在り方なのである。
「飽きるまでキスしてやるんだから。
今夜だけは、何度だって」
その在り方そのものが、パルスィを苦しめる元凶なのだが。
朝から最悪の気分だった。
頭は痛むし視界だって揺らぐ、目覚めてすぐは歩くことすら困難だった。
這いずるようにして台所へと向かい蛇口を捻り、出しっぱなしにしてあったグラスになみなみと水を注いで一気に飲み干す。
冷っこい感触が食道を通り過ぎる度に、頭痛が幾分か楽になる気がした。
もちろんそんな物はただの気休めに過ぎず、水の力が消えると再び頭痛がぶり返してくる。
「ううぅ……くそう、だから嫌だったのに……」
だが昨日はそうする必要があった、何が何でも記憶に残すわけにはいかなかったのだ。
自己防衛のための犠牲、そう思うと二日酔いの頭痛にも耐えられる気がした。
もちろん気のせいでしかないのだが。
「はあぁ……でもよかった、全く覚えてないよ。綺麗さっぱりと」
不幸中の幸いである。
おそらく、しばらくはさとりや勇儀と顔を合わせる度に意味深な笑みを向けられるのだろうが、自分で覚えておくよりは何倍もマシだろう。
目を瞑り、昨日の出来事を思い出そうとしても全く出てこない。
いや、全く何も浮かんでこないというわけではないのだが、辛うじて覚えている場面でさえもモヤがかかってよく見えない程度だ。
「私、勝ったんだよね、勝利を誇っていいんだよね……っつつ」
拳にぐっと力を込め、高らかに天に突き上げる。
しかしそんな勝利宣言もすぐに力を失い、いとも容易く地に落ちてしまった。
勝利の代償はあまりに大きかった、いくら病を操るヤマメと言えど二日酔いには勝てなかったのである。
「あぁー……痛い、きつい、だるい……今日は寝とこう」
誰かとの約束があるわけでもない、いつもなら暇を持て余してパルスィの所へ遊びに行くのだろうが、あれだって別に約束を交わしているわけではない。
まさかあのパルスィが寂しがるなんてことは万が一にも考えられないし、一日ぐらい空けた所で文句を言ったりはしないだろう。
ヤマメは再びずるずると這いずりながら寝室へと戻り、そのまままだ温もりの残る布団へと滑り込んだ。
額に手の甲を当て、気だるげに天井を見上げる。
何が見えるわけでもなく、ただしばらくぼーっとしているだけで特に意味は無い。
そして次第に瞼が降りて行き、ヤマメの視界から光が失せる。
彼女が再び寝息を立てるまで、そう長い時間はかからなかった。
眠る前に、何だか昨日とんでもない出来事が起きたような気がしたのだが――睡魔と二日酔いに勝てるわけもなく、記憶にもすぐに霞がかかり、ヤマメは何もかもを忘れて眠りへと落ちた。
次にヤマメが目を覚ましたのは昼を過ぎたころ。
寝起きで意識が混濁している彼女は再び布団から這い出ると、朝と全く同じように台所へと向かった。
目的はもちろん、水を飲むためである。
寝すぎてしまったせいか腰が痛むらしく、時折腰を手でさすりながら、ずるずると這いずりながら移動する。
ようやく台所へと辿り着き、朝と同じ動作で水を飲み干すと、台所の床にだらしなく座り込んだ。
「あー……相変わらずだるい、何も変わってない」
寝溜めなんて言葉があるが、あんなの嘘っぱちである。
睡眠時間を貯められるわけがない、むしろ寝過ぎると体はだるくなる、それを今のヤマメ自身が証明していた。
二日酔いのせいもあるかもしれないが、頭痛は朝に比べると随分と良くなっている。
しかし贅沢な悩みである、睡眠不足で悩むのならまだしも、睡眠過剰で悩んでいるのだから。
地霊殿の主として毎日そこそこ忙しそうにしているさとりに話した日には、一日中ねちねちと嫌味を言われることだろう。
いや、彼女の場合は話さなくても勝手に頭の中を読まれてしまうのだけれど、それで勝手に不機嫌になられるのだから理不尽極まりない。
しかし、ようやく起きたのは良いが、すでに昼を過ぎてしまっている。
何をするにしても中途半端な時間になりそうだ。
なにはともあれ本日一度目の食事を取る必要があるのだが、頭痛の影響からかあまり空腹は感じないし、何より食事を作るのが面倒だ。
昨日の昼の残り物あたりを軽く口に運ぶ程度になるだろう。
それから――と、今日の予定を脳内で組み立てていくうちに、自然と”パルスィの所へ遊びに行く”という予定が入り込んでしまった。
一日ぐらい空けても問題は無いと自分で言ったはずなのに、意識もせずに自然と予定を立ててしまうとは、すっかり習慣として体が覚えてしまっているようだ。
ひょっとすると、寂しがるのはパルスィではなくヤマメの方なのかもしれない。
二人の付き合いは長いが、約束してどこかに遊びに行ったりすることは滅多にない、先日の勇儀に連れられて温泉に遊びに行った時のような例外を除けば、ほとんどがあの橋で二人で駄弁ってばかりだ。
それも、パルスィがいる場所にヤマメが向かうだけで、ヤマメがあの場所に行かなかった場合、パルスィがヤマメの家までわざわざ来ることは無いだろう。
ヤマメが行かなければ終わり。
一日や二日で二人の関係が終わるとは思えないが、もしヤマメが一ヶ月もあの場所に行かなかったとすれば――
「私も、パルスィと他人になっちゃうのかな」
想像して、胸がじくりと痛む。
今は友人だが、いつまでも友人とは限らない。
ヤマメにはパルスィの代わりなど居ないが、パルスィにはいくらでも知り合いがいる。
それがヤマメの代わりに成りうるかはパルスィにしか分からないが、少なくともヤマメよりはダメージは少ないだろう。
どんなに過剰評価したとしても、パルスィにとってのヤマメの存在が、肉体関係を持っている誰かより上ということにはならないはずだ。
パルスィがどう考えているかは別として、ヤマメはそう考えている。
二人の間の経験の差は明白だ、定期的に女性を取っ替え引っ替え”食べて”いるパルスィに比べて、ヤマメは友人は多いが恋愛経験は全くと言っていいほど無い。
そんな二人の恋愛に対する価値観に大きな違いがあることは、パルスィはもちろん周囲の妖怪たちも理解していることなのだが、厄介な事にヤマメはそれを理解していなかった。
だからパルスィにとっての自分は”代わりのきく存在”などと勘違いをしてしまう。
「そういやあんまり考えたことなかったっけな、ずっと一緒に居て、それが当たり前だったから」
普通は恋人でも出来れば友人とは疎遠になるのかもしれないが、ヤマメとパルスィにはそんな一般常識は通用しない。
何せ、パルスィには週替り、酷い時は日替わりで恋人が出来るのだから。
果たしてあれを恋人と呼んでいいものなのかは甚だ疑問ではあるが、ヤマメは一応恋人だと認識しているらしい。
「寂しい……かな、やっぱり」
パルスィの居ない日常、どうでも良いと思っていた二人の時間。
でもそんな何も無い時間を心地よいと感じているのは事実で、どうやらパルスィも自分と同じように思ってくれているようだ。
だからこそ約束しなくても自然と二人はあの場所に集まってくる。
そう考えると、案外パルスィも自分のことを大切に思ってくれているのではないだろうか、と一筋の希望が浮かんでくる。
代わりなんて誰もないんじゃないだろうか、と言う期待が。
仮にパルスィが、自分が居なくなることで寂しいと感じてくれるのなら――
「なんでだろ、すごく嬉しい」
誰かにとっての唯一無二の存在になる、それがこんなに嬉しいことだったなんて。
自分で思っている以上にパルスィの事を大事に思っていることに気づき、なんだか恥ずかしくなってしまう。
……いや、違う。
覚えはあった、見て見ぬふりをして押し込めてきた、見知らぬ感情の存在が。
「……嬉しい、か」
ヤマメの頬がほんのりと赤らむ。
それを友情とは呼ばないことをヤマメは知っている、割と、ずっと前から。
今までは見て見ぬふりを続けてきたけれど、感情は、気付けば目をそらせないほどまでに膨れ上がっていた。
同時に、無性にパルスィに会いたくなる。
胸に宿った感情は何だかくすぐったくて、ちょっとだけ恥ずかしかったけれど、嫌な感じはしなかった。
「うん、行こう。だるいけどそんなの二の次だ」
もしもヤマメがいつもの場所に来なかったとして、案外パルスィはヤマメの家にまで来てくれるのかもしれない。
だけど、もし来なかったらどうしよう――それが怖くて、試す気にはなれなかった。
期待は期待のままにしておいた方がいい、行き過ぎたポジティブ思考は時に自殺行為になるけれど、その思考が自分に牙を向くのは期待が現実に否定された時だ。
パルスィは思っているよりも自分の事を好いてくれている、そう思い込むのは悪いことじゃない。
胸に抱いた気持ちだってそう、表に出しさえしなければ現実にはならない、言葉にしなければ友情にほんの少しの暖かさとスリルを与えてくれる程度の物。
だったら構いやしない。
胸に留めておく、たったそれだけでパルスィに会いにいくのが何だか楽しくなるのだから、避けておく必要なんて無いじゃないか。
現にヤマメは今わくわくしているし、胸だって高鳴っている、それは悪い気分じゃない。
仮に本当はパルスィがヤマメの事を「どうでもいい」と思っていたとしても、パルスィが面と向かって言ってくることは無いだろうし、ヤマメがパルスィに会いにいく限り、思い込みが否定されることはない。
自分から会いに行かないなんて、わざわざ思い込みの幻想を自分でぶち壊すような真似、必要ないのだ。
真実がどうであれ、例え間違っていたとしても自分にとって利益になる答えを選んでいくのが、賢い生き方なのだから。
二日酔いの気だるさはどこへやら、橋へと向かう足取りはいつもより軽いほど。
さすがに頭痛が完全に消えたわけではないが、痛みを忘れてしまいそうになるぐらいヤマメは上機嫌だ。
思わずスキップをしそうになるが、さすがに公衆の面前では恥ずかしいのでやめておくことにした。
川のせせらぎが徐々に近づいてくる。
遠目でもわかる、パルスィはやはり今日も橋の上で一人、欄干に頬杖を付きながら大通りを眺めている。
おそらく獲物を探しているのだろう。
「やっほ、パルスィ元気かい」
「ヤマメ、来たんだ」
「……うわ、大丈夫?」
帰ってきたのは、トーンの低い返事だった。
元気ハツラツとした返事を返すキャラでもないが、今日のパルスィはいつもと比べて明らかにテンションが低い。
アンニュイな表情にすら色気を感じてしまうのだから卑怯だ、なんてどうでもいい感想がヤマメの脳内に浮かぶ。
本当にどうでもいいことだ、ヤマメは無駄な思考を振り払い、パルスィの顔を覗き込む。
「具合でも悪いの? 負のオーラが全身からにじみ出てるよ」
「別に、なんでもないわ」
「うーん……そっか」
具合がわるいというより、虫の居所が悪いようだ。
今日は気分がいいからちょっとテンション高めで騒ぐつもりだったヤマメの目論見は、早くも崩れ去ってしまった。
「えっと、私に何か出来ることはないかな? さすがに隣でそんな顔されたんじゃ気になっちゃうよ」
「気にしなくていいわ、個人的な問題だから」
「気にするなって言われて気にしないで居られるなら苦労しないよ。
それにさ、人に相談した方が早く解決すると思うし。
パルスィが私のことどういう風に見てるかは知らないけど、こう見えても私、悩み相談とか結構頻繁に受けてるんだからね、的確なアドバイスで評判なんだから」
ヤマメを慕う妖怪が多い理由の一つだ、悩みが解決するかは置いといて、前向きで明るい性格の彼女に救われる相談者は多いのだと言う。
自信有り気な表情をするヤマメだったが、パルスィはしばらくじっとその顔を見つめた後、盛大に溜息を吐いた。
「無理よ」
ただ一言、それだけでヤマメを突き放す。
「ヤマメには無理」
さらに追撃、加えてヤマメにダメージを与える。
パルスィも自分に好意を向けてくれている、そんな幻想が砕かれたような気分だった。
大げさだということはヤマメ自身もわかっている、それでも多少はショックを受けるのも仕方あるまい。
ポジティブ思考の反動というやつだ、まさかこんな早くに否定されるとはヤマメですら思いもしなかったが。
「……ごめん、ちょっと言い方が悪かったわ、まさかそこまで落ち込むとは思わなかったのよ。
恋愛絡みの悩みなの、だから経験のないヤマメには無理だって言ったの」
「べ、別に経験が無いわけじゃっ」
「あるの? 聞いたことないけど。
最近は毎日のように私と一緒に居るし、誰かと恋愛する時間なんて無いって自分で言ってたわよね」
「パルスィだって私と一緒にいるけど恋愛してるじゃないかよぅ」
「私はほら、エキスパートだから」
「すごい説得力!」
ぐうの音も出ない正論に、ヤマメは納得することしかできない。
「ほらほら、ヤマメもそれらしい申開きをしてみなさいよ。
出来ないなら早く認めなさい、恋愛経験はありません、つま先からてっぺんまでスルメみたいに枯れきった惨めな女です、ってね」
「酷いよっ!」
「でもそうなんでしょう?」
「あるとは言い切れないけれど、無いわけでもないというか……何というか……」
「見栄を張るならもっと堂々としなさいよ。
安心なさい、地底に住む妖怪はみんなヤマメに恋愛経験があるとは思ってないから、もちろん恋愛相談が出来るとも思ってないわ」
「うぅ、言い返せない自分が惨めだ……。
そういえば相談はされるけど、恋愛絡みの相談は受けたことが無い気がする」
「でしょう? みんなわかってるのよ。
いいじゃない、純粋で綺麗なヤマメの事が好きなのよ、みんな」
「このタイミングで言われても褒められてる気がしないんだけどー。
ま、いいけどさ。どうせ、恋愛エキスパートのパルスィに解決出来ない悩みを私が解決出来るとは思えないし」
「そういうこと、わかってもらえたなら重畳だわ。
それにね、わざわざヤマメに心配してもらわなくても大丈夫なのよ、どうせ時間が経てば解決する問題なんだから」
パルスィはそう言って笑ってみせたが、その笑顔にはいつもほどの元気は無い。
心配させまいと虚勢を張った結果なのだろうが、むしろ不安を煽っているようにしか見えない。
ヤマメだって踏み込みたかった、本人は時間が解決すると言ったが、とてもそんな風には思えなかったからだ。
しかし、ヤマメには踏み込めない。
これで親友と呼べるのだろうか。
ヤマメ個人の心情だけで言えば、彼女にとってパルスィは間違いなく親友だった。だが親友という関係はお互いの意思によって成立する関係だ。
パルスィがこれ以上踏み込んで欲しくないと言うのなら、ヤマメはここで踏みとどまるしかない。
人間関係はフェアなんかじゃない。
もしパルスィがヤマメの深い部分まで踏み込んでいたとしても、逆はそうとは限らないし、それを理不尽だと嘆いても現実は変わらない。
無理に踏み込むことだって出来るかもしれない、けれどそれは関係を壊す可能性がある諸刃の剣だ、そんなリスキーな方法を使えるほどヤマメはギャンブラーではない。
「パルスィがそう言うなら、仕方ないか」
だから、ヤマメは相手の意見を鵜呑みにすることしかできなかった。
自分は臆病者だ、そう自身を罵倒しながら。
そして二人はいつも通りを装って、並びながら他愛もない会話を繰り返す。
会話がどこかぎこちないことや、笑い声が社交辞令じみていること、そして何より二人の距離がいつもより離れていることに、お互いに気づきながらも触れようとはしなかった。
ヤマメにはパルスィの意図はわからない、だが一つだけ理解出来ることがある。
おそらく、彼女の悩みには自分が関係している。
それはパルスィの様子から察したヤマメの想像に過ぎないし、事実なら本人から確認が取れるわけもない。
だから間違いなく正しいと言い切ることは出来ないが、ヤマメはほぼ確信していた。
長い付き合いは伊達ではない、これだけ一緒に居れば相手のことは理解出来てしまうことだってある。
仮にパルスィが本心を見せたことが無かったとしても、断片的な情報から概形ぐらいは割り出すことぐらいはヤマメにだって可能だ。
とはいえ、パルスィの悩みを解決出来るほど詳しく読み取れるわけではない。
ちょっと理解できた所で、結局はヤマメは無力なのだ。
所詮は自己満足、突き放されてショックを受けている自分自身に対する慰めにしかならない。
ともすれば、惨めさを増長させるだけにもなりかねないじゃないか。
「そういえばさ、この前の女の子はどうなったの」
ネガティブ方向へと進もうとする思考を遮るようにして、ヤマメは別の話題を切り出す。
「またあの子のこと? 随分と気にするのね、もしかしてヤマメの好みだった?」
「まさか、いつも聞かないだけで内心では結構気にしてるんだよ。
てかタイプも何もあの子は女の子じゃん、私はノーマルだよ」
「恋愛経験無いくせにノーマルとかわかるの?」
「そりゃ、まあ」
「男の人のアレで興奮する?」
「いきなり何聞いてんのっ!?」
「せっかくの機会だし、ノーマルかどうかテストしておこうかと思って。
で、興奮するの? それとも女の人の裸の方が好みかしら」
「だ、だからさぁ……っ」
男性のそれなど見たことも無いから想像出来るわけもなく、パルスィに煽られてヤマメの脳裏に浮かんだのは、いつぞやに見たパルスィの裸体であった。
思わず顔が熱くなる。
なんだって目の前に居る彼女の裸なんかを想像してしまったんだ、とあわてて不埒な妄想をかき消そうとしたが、中々その姿は消えてくれない。
確かにパルスィの裸は綺麗だったし、見とれてしまうほどではあったけれど、いかがわしい物と認識したことなんて無かったはずなのに。
「うわあ、顔真っ赤じゃない。何を想像したのかしら?」
「……何も想像してマセン」
「そんなに愉快な顔しといて誤魔化してるつもり? 卑猥な想像しましたって言ってるようなものじゃない。
ほらほら吐きなさいよ、何ならさとりを呼んできて探らせてもいいんだからね」
「べ、別に呼んでくればいいじゃんっ、何もやましいことは無いわけだしっ! 全く、これっぽっちも!」
「必死ねえ、そう言われるとますます知りたくなるわ」
必死になればなるほどパルスィの好奇心を刺激してしまうことをヤマメは知っていたはずである、これは完全に戦略ミスだ。
興味を失うどころかさらに興味を持ってしまったパルスィは、悪い笑顔を浮かべながら何度も何度も、しつこくねちっこく問いただす。
もちろんヤマメが答えるわけがない、だがこのまま続けても、どちらも引かずに延々と同じ問答を繰り返すだけになってしまう。
それならいっそ、冗談めかして事実を言うことで誤魔化してしまおうか。
そんな考えがヤマメの頭に浮かんだ。
想像したのは冗談めいたヴィジョン、なら事実を言ったってパルスィは信じないかもしれない。
二人の間柄が友人だと言うのなら、それで笑ってお開きになるはずだ。
どっちにしたって何かしらの答えを用意しなければパルスィだって引かないだろう、このまま無駄なやり取りを続けるぐらいなら、多少の恥を覚悟して事を前に進める方がよっぽど建設的だ。
「ヤマメってば強情すぎ、早く正直に答えなさい」
ヤマメは意を決して、パルスィの問いに対して正直に答えを告げる。
「……わかったよ、じゃあ教えてあげる」
「ようやく観念したのね、それじゃあ聞かせてもらおうじゃない」
パルスィはにやりと笑う。
しかしその余裕を多分に含有した笑みは、次の一瞬ですぐに消え去ることになる。
「パルスィのことだよ」
「ん、私?」
「うん、だから……パルスィのこと、考えてたの。
この前、温泉に行った時に見た、パルスィの裸を思い出してた」
「――」
さあ笑え、と真正面からパルスィを見据えて堂々と言い放つ……予定だったが、ヤマメは自分で思ってる以上にチキンだったらしい。
露骨に目線をそらし、反応を伺うようにちらちらとパルスィを見るのが精一杯だった。
鏡はないのでヤマメ本人が確認出来るわけではないが、血が頭に上り火照っているし、自分の顔の有り様を想像するのはそう難しいことではない。
まあ想像するまでもなく、現にヤマメの顔は真っ赤なのだが。
パルスィの目を真っ直ぐ見ることが出来ずに、恥じらいながらちらちらと何度か視線を合わせ、瞳は潤み、上目遣いで相手を見つめ――ヤマメからしてみれば余裕の無さ故の挙動だったのだが、そんなあざとい表情を見せられて、パルスィが平静を保てるわけがない。
クリティカルである。
頭と心臓と心と魂に、ずがんと巨大な衝撃。
目に毒なんてもんじゃない、劇毒だ、致死量だ、さすが毒を操る力を持っているだけはある。
揺らぐ、揺らぐ、根幹が揺れて存在すら揺らいでしまいそうだ。
回避なんてできるわけがない、何せ至近距離の真正面、情け無用のド直球、渾身の右ストレートだ、こんなのプロボクサーだって避けられるはずがない。
同時に、パルスィはなんとかして忘れようとしていた昨日の深夜の事を思い出してしまった。
突発的に我慢できなくなって、勢いで彼女の唇を奪ってしまったことを。
いや、忘れようとしたって忘れられるわけがない事は、昨日の時点でパルスィは理解していたはずだった。
だってあんなの、あんなに柔らかくて熱くて蕩けそうなキス、他の女と何度キスを繰り返したって忘れられるわけがない。
極上なんて言葉じゃ足りない、今まで満たされなかった全てが一瞬で満たされてしまったのだから。
きっと一生だ、いいや永遠かもしれない、死んで霊になって生まれ変わったって忘れられないかもしれない。
だから距離を置いていたのに、だから自己嫌悪でいつもより大人しくしていたのに、無理に”いつも通り”をやろうとして自分で地雷を踏んでしまった。
下トークなんて振るんじゃなかった、とパルスィは激しく後悔した。
だが時すでに遅し、衝動はすでに理性で抑えられないレヴェルまで達している。
「ヤマメ……それって」
「あ、あれ……いや、その、えっと……」
ヤマメにとって想定外の反応である、パルスィのことだからきっと笑い飛ばして、それをネタにしてからかってくれるだろうと踏んでいたのに。
ところがどっこい、目の前に居る秀麗な美少女はあろうことか目を潤ませて、顔を紅潮させている。
笑うどころか、嬉しそうな、苦しそうな、ヤマメの見たことのない複雑な感情をしているのだ。
恋愛事に縁のなかったヤマメは、もちろんパルスィ相手にも恋愛絡みのハプニングが起きるなんてことは今まで無かった、だから今回が初めてだ。
つんと澄ました表情に、ヤマメ程度じゃ上手なんて取れっこない余裕たっぷりの表情、言動、そんなパルスィしか見たことがなかった。
それが彼女の全てなのだと、そう思い込んでいた。
ところがどうだろう、今まさにヤマメの目の前に居る彼女は、まるで白色の花弁が紅く染まるかのように色めいているではないか。
確かに美人ではあった、街を歩いていれば男性どころか女性の目すら引いてしまうほどで、ただそれだけで恋人たちを嫉妬させるには十分すぎるぐらいだ。
でも、ただそれだけで恋人たちをいとも簡単に引き裂けるものか、と言うのが常日頃からヤマメが抱いていた疑問だったのだ、外見に拘らない女性が世の中には一人や二人ぐらい居るはず、なのに百発百中なんてあり得るものか、と。
あるいは緑の瞳に不思議な力が宿っていて、とも考えていた。
しかしそれらの疑問はたった今、見事に氷解した。
いや、あるいはこんな表情を見せるのはヤマメを前にした時だけなのかもしれないが、仮に演技だったとしても、パルスィのこんな表情を、あるいはこれに準ずる表情を見せられたのなら、そりゃ落ちるに決まってる。
何に落ちるかって、そんなのは一つしかない。
恋だ、恋以外にあるものか。
パルスィがヤマメの赤面した表情に大きな衝撃を受けたのとほぼ同時に、ヤマメも大きな衝撃を受けていた。
揺れている、振り子ではなく柱が揺れている、自分を構成する根幹が、二人の関係を形作っていたど真ん中の大切な部分が揺らいでいる。
どくん、と胸が高鳴る。
ヤマメが今までの人生で感じたことの無い強い鼓動だった、同時に胸を締め付けるような痛みも感じる。
パルスィと過ごす日々の中で、それは幾度と無く感じてきた感覚ではあったが、今日のはその規模が違う。
目をそむけて、胸の中にそっと押し込めておくつもりだったのに、今じゃ溢れそうなほどに膨らんでいる。
固く閉じた心のドアを内側から強引に破ろうとしている。
「あ、そ、そうだ、やっぱり今のじょうだ――」
しかしその感情を許容できないヤマメは、現状をとにかく良くない状況だと判断し、回避しようとした。
今までにない痛み、今までに遭遇したことのないシチュエーション、それはヤマメにとって”失敗”なのである。
このままでは関係が壊れてしまう、そんな予感がしたわけだ。
だから冗談なのだと、一連の流れを無かったことにしようとしたのだが、パルスィはそれを許してくれなかった。
ヤマメが言葉を発し終えるその前に、パルスィの体が動いていた。衝動的に、情熱的に。
「ひぁっ!?」
パルスィは、ヤマメを力強く抱きしめた。
「あ、あの、ぱ、ぱぱぱ、パルスィ……っ!?」
「――っ」
腕ごと抱きしめて、強く引き寄せて、全身をぴたりと密着させる。
動揺するヤマメの言葉にも反応せず、パルスィはひたすらに「ふぅ、ふぅ」と息を荒くするばかりであった。
興奮しているようにも思えたが、どちらかと言えば興奮を抑えるための荒い深呼吸なのかもしれない。
なぜならパルスィはこう考えているからだ。
抱きしめるだけで止められて良かった、と。
「あれ、あれっ? あの、触られるの嫌だったんじゃ……って言うか恥ずかしいよ、いきなり、こんな、ほら見てるし、大通りの人たちめっちゃこっち見てるしっ!
あの子見てたらどうするの!? 刺されるよっ、恋人から奪った挙句に浮気してるとか思われたら大変だよ!?」
やはりパルスィからの反応はない。
パルスィも大通りの方から無数の視線を感じていたが、彼女からしてみればそれどころではなかった。自分の中の欲望を押し留めるので精一杯だったからだ。
ヤマメの体は柔らかい、甘い匂いがする、胸に顔を埋めると心臓の鼓動すら聞こえてくる。
体温は高めだ、急な抱擁に驚いているせいだろう。
じとりと汗ばんだ首筋が艶めかしい。
恥ずかしがってくれている、それに引き剥がそうとしないのはまんざらでもないという証拠だ。
それがパルスィにとっての救いだった。
嫌われたらどうしよう、突き飛ばされたらどうしよう、ネガティブな彼女はそんな風に悪い方ばかりに考えてしまったから。
だが救われる自身が居る一方で、意思の弱さに呆れ返る自分も居るのだ。
自分みたいな汚物がヤマメを汚すのが嫌だったから、頑なに触れようとしなかったんじゃないのか。
思えば、以前からヤマメはパルスィに触れたがっていた、だから拒否しないのは当然と言えば当然なのだ。
その制約は、パルスィの自己嫌悪からくる自己満足にすぎないのだから。
敵は意思の弱さ、自分自身。
”抱きしめるだけで止められて良かった”などと、程度の低い自制で満足している場合ではない。
「……ごめん、急にこんなことして」
「あ、あはは……大丈夫だよ。
よくわかんないけど、パルスィの気持ちは何となくわかる気がする」
「なによそれ、わかんないのにわかるとか、意味がわからないわ」
「私も本当によくわからなくて……ただ、急に抱きしめたくなったんだよね、理由は分からないけど、気持ちが高ぶってそうなっちゃったってことだけはわかるって言うか。
理屈じゃなくて、意識せずにそうなっちゃう感じ、なんかわかるんだ」
「同じ、だった?」
「抱きしめるまではいかなかったけど、たぶん同じだったんじゃないかな。
気持ちだけじゃなくて、距離だってもっと近づきたいと思ったから」
「そう……同じだったんだ。ヤマメと、一緒」
一緒、と言う言葉に万感の思いが込められていることが、ヤマメにも理解できてしまう。
理解した瞬間、再び胸が苦しくなる。
相手の気持ちはわからないし見えない、人間関係を構築していく上でそのブラックボックスは最も大きな障害になる。
表面上では友人だったとしても、本心では嫌われていたらどうしよう、と。
友人が多く対人関係は得意だと思われているヤマメですら、相手に嫌われることの恐怖を常日頃から感じていた。
それは能力ゆえに、地上から追い出された過去があるゆえに、トラウマは何年経っても消えてはくれない。
だからこそ、その中身が明かされた時の喜びも大きいのだが。
箱の中身が自分の感情と一緒だったのならなおさらに、相手に向ける感情が大きければ大きいほどに歓喜は大きくなるだろう。
だから、ヤマメの”同じ”という言葉は彼女が想像する以上に、パルスィに対して大きな意味を持つ言葉足りうるのだ。
それはパルスィの場合、”触られてはいけない”と言う戒律を破ってまで思わず抱きしめてしまうほどに歓喜してしまうような、喜ばしい言葉であって。
裏返せば、それはパルスィがヤマメの事をそれだけ好いていると言う意味でもある、要するに間接的な告白だ。
それが恋愛的な意味を持つかどうかはヤマメにはわかりっこない、ただ相手からの好意に応えたいと思った、触れて喜びを分かち合いたいと思った、そういう衝動があったことは確かだ。
「本当にごめんね、びっくりしたでしょ」
「ううん、私も一緒で嬉しいよ」
ヤマメは、気まずそうに苦笑いしながら自分から離れようとするパルスィの体を引き寄せ、その背中に腕を回す。
「なっ……!?」
「パルスィから抱きしめといて、私がダメってことはないよね? もしダメだって言われても、そんな理不尽聞いてあげないけどね」
「もう、ヤマメも人のこと言えないぐらい性格悪いと思うわ」
「あはは、さすがにパルスィには負けるって」
「触られたくないって、何度も言ってるじゃない」
「じゃあ力づくで引き剥がせばいい、何も全力でしがみつこうってわけじゃないんだから」
「……嫌よ、勿体無いじゃない」
”勿体無い”と言う言葉の意図はヤマメには理解出来なかったが、パルスィが触られることを嫌っているわけではないことだけは理解出来た。
ほんのりを顔を赤くそめ、ぎこちないながらもヤマメの背中に腕を回すパルスィは、むしろいつもよりも上機嫌に見えるほどだ。
なるほど、どうやらさとりはこうなることを予見して、”いっそ触れてみたらいい”と言うアドバイスをヤマメに贈ったらしい。
しかし、となると余計に触れられるのを避けていた理由が解せない。
どう足掻いても越えられなかった境界線をようやく越えられた達成感はあったが、謎はむしろ深まったような気すらしていた。
「私、もうどうしたらいいのかわからないわ」
「どうしたらいいって、いつも通りでいいじゃん。
正しく友人として、きちんとスキンシップを取れるようになっただけなんだから」
「正しい友人はこんな風に公衆の面前で抱き合うものなのかしら」
「そ、そう言われると違う気もするけど……ほら、私たちってちょっとしたボディタッチも出来てなかったでしょ、だからその反動なんだよ。
今まで触れなかった分、今日からはべたべた触ってやるんだから」
「許したわけじゃないわよ、嫌な物は嫌なんだから」
「あはは、なにそれ。こんだけ濃密に触れ合っておきながら、明日からはダメだなんてそんな無茶な話が通るわけないじゃん」
「ヤマメのわからずや」
「パルスィの理屈なんて誰にも理解出来やしないよ、一番理解してるはずの私がわからずやだって言うんなら、世界中のみんながわからずやになるんじゃないかな。
気持ちってのはさ、さとりっていう例外を除いてきちんと言葉にしないと伝わらないの」
「……言えるわけないじゃない、そんなの」
「じゃあわかるわけないよ」
「わかって欲しくないんだもの、当然だわ」
「理解しないと怒られるし、理解しようとすると理解するなって怒られる、理不尽だ。
パルスィは面倒な女だね」
「もうちょっとオブラートに包んだ優しい言い方してよ、ヤマメの罵倒は貴女が思ってる以上に人を傷つけてるのよ」
「じゃあ……パルスィはミステリアスだ、ってのでどうかな」
「ふふん、ミステリアスさは女の魅力よ」
「ちょっとおだてたらそうやってすぐに調子に乗るし。
けどずるいなあ、そんなとこまで魅力にしちゃうんだから。
それを武器にして、道を歩く可愛い女の子を手篭めにしちゃうんでしょ」
「さて、どうかしらね。もうやらないかもしれないわよ」
「嘘だね、あれはパルスィのライフワークだし、いやライフワークってか酸素みたいなもんだよね、止められるわけがない」
「一瞬たりとも信じて貰えないなんて悲しいわ」
いつまでも抱き合ったまま話すのも気恥ずかしい。二人は頃合いを見て体を離し、赤い顔を突き合わせてはにかみ合った。
そしていつもの距離に戻る。
いや、いつもより二人の距離は近いのかもしれない、ヤマメが少し横に移動するだけで肩が触れそうなほどの距離だ。
以前なら、不意の事故で肩が触れてしまっただけで二人の間には気まずい空気が流れていただろう。
しかし、触れることが許された今なら、ふとしたタイミングで肩が触れたとしてもパルスィがヤマメに謝ることはないだろうし、二人の空気が悪くなることも無い。
パルスィはその変化に対して微妙な心境だったが、ヤマメは素直に喜んでいた。
やはりさとりが指摘していた通り、ヤマメは心の奥底でずっと気にしていたのだ、パルスィが触れることを極端に嫌っていることを。
土蜘蛛に触られるのが嫌なんじゃないか、病を伝染されると思っているんじゃないか――地上に住んでいた頃、ヤマメは実際にそうやって差別されてきたのだ、気にしないわけがない。
ヤマメとて地底の妖怪、つまりは地上から移住するだけの理由があったわけだ。
だが触れることを許された今、その不安も綺麗さっぱり消え去った。
もはや自分とパルスィの間を隔てる壁は何もない、ただそれだけでパルスィとの距離が何倍にも縮まったような気がしていた。
「難しいわよね、人の気持ちって」
「人の頭を悩ませてる張本人のパルスィがそれ言う?」
「張本人だからこそわかるのよ、ヤマメは単純だから悩み事も少ないでしょうけど、繊細な私には潰しても潰してもキリが無い程の悩みがあるの」
「遠回しに馬鹿にしてるでしょ」
「割と直接的に馬鹿にしてるわよ、嫌だって言ったのに触った罰」
「抱き返したくせに、酷い友人だね」
「そっくりそのまま返すわ、このわからずや。
まあでも、だからこそ……なのよね」
「だから、こそ?」
「ヤマメは人の気持ちが理解できないわからずやだけど、逆に人の気持ちにすぐに気付くような子だったら状況は違ってたって話」
「全く要領が掴めないし。だからさ、私にわかるように話してよ。
今日のパルスィの物言いは、まるでさとりみたいだ」
「言えないって言ったでしょ、さっき」
「じゃあ話さなきゃいいのに……」
「言えないけど、話したいのよ。伝えたいの本当は、でも話せない内容なの」
「余計わかんない」
パルスィ自身、理解は出来るが納得はしていなかった。
早く答えを出してしまえばいいだけの話だというのに、理性と本能、ポジティブとネガティブのジレンマが彼女を前に進めなくしている、あまりに強固すぎる足かせである。
全て曝け出してしまいたい気持ちはある、だが一方で、気持ちを伝えてしまえば成功しようと失敗しようと今のヤマメとの関係は終わってしまう事を恐れる気持ちもあるのだ。
二人の関係の終焉はパルスィが最も恐れる結末だ。
形はどうあれ続いてさえくれれば、それだけで満足できる、そう思っていた。
ヤマメがパルスィの気持ちに気づいてくれさえすれば、事は簡単に終わるのかもしれないが――恋愛経験の無いヤマメが気持ちに気付くはずもなく。
相手に伝えるのが怖いパルスィは、どちらかと言えば気づいて欲しいと願っていた。
要は責任から逃れたいだけ、全てをヤマメのせいにしてしまえば自分は許されるのではないか、と都合のいい解釈で臆病に自衛しようとしている。
だが、パルスィはヤマメが純白だからこそ惚れ込んだのだ、パルスィの気持ちにすぐ気付くほど経験豊富であれば、最初から彼女を好きになることなど無かっただろう。
だから難しいのだ、と。
あちらが立てばこちらが立たず、トレードオフと言うバランサーは思った以上に上手く機能しているらしい。
まさかヤマメが突然抱きついてくるとはパルスィも予想していなかったが、実際に触れてみると案外あっさりしたもので――それも当然と言えば当然だ、”触れてはいけない”という戒律は、所詮パルスィが自分で勝手に決めたルールでしかなかったのだから。
自分で許可を下せばそれでおしまい、幸福な結末かどうかは別として、問題は簡単に解決するだろう。
だが、それが出来るのならやはりはじめから悩んだりはしないのだ、自分を許せないからこそ迷宮に迷い込んだ今がある。
ヤマメとの接触から数時間が経過した今でも、彼女の体の感触が消えてくれない。
それどころか、温もりすらまだ残っているような気がしてしまう始末だ、こんな有り様で正常な思考など出来るわけがない。
また触れたい、もっと近くに行きたい、いっそ胸の内を全て吐き出してしまいたい、そうやって欲望のままに行動しようとする不埒な自分をどうにか押し付けるので精一杯だ。
だから言ったのに、最初から触らなければよかったのに、と案の定パルスィは強い後悔の念に苛まれていた。
昨晩のことだってそうだ、ヤマメが完全に忘れていたから良かったものの、酔っ払って前後不覚に陥った相手に無理やりキスするなど、絶交どころか牢屋にぶち込まれても文句を言えない極悪非道の所業である。
キスをした後、パルスィはヤマメをお姫様抱っこのまま家まで送り届けた。
ポケットから鍵を拝借して勝手に家に上がり、布団に寝かしてから、唇に軽くキスをするなどと余計なことを多分にして自分の家へと帰った。
その時点でも、冷静な自分は自身のあまりに身勝手な行いを叱責して止めようとしていたのだが、欲望が、本能が理性を軽く上回っていたのだ、その程度で止まるわけがなかった。
後悔したのは家に帰ってからだ、しんと静まり返った自室に戻りようやく冷静さを取り戻し、その場で頭を抱え込みながらしゃがみこんだ。
「ああ、あああ、やってしまった……ついにやってしまった……最低、最悪、弁護しようのない変態だわ私っ……」
ゴロゴロと床を転がりながら、ヤマメへの行いを悔いて悔いて、喉が枯れる程に嘆く。
それが昨日の夜の出来事。
何度も、何時間も自分に対して呪詛を吐き続けた。
夜が明けて外から人の声が聞こえてきても止めようとしない、うめき声にしか聞こえない呪いの言葉を呟き続ける。
それを数えきれないほど繰り返した後、自己嫌悪がようやく落ち着いてきた頃に、ちらりと時計へと視線を移した。
もうじき正午になろうかというタイミング。
なんと夜が明けて昼になるまでずっと自己嫌悪を続けていたらしい。
気持ちが完全に落ち着くまでまだ時間が掛かりそうではあったが、パルスィにはそれより優先するべき事項があった。
徹夜による気だるさと精神的なダメージによって上手く動かない体を引きずりながら、ゆっくりと外出の準備を進める。
義務ではないし、本来なら自重するべきということも理解している。
しかし、もしヤマメが橋に来て自分がいなかったら、万が一彼女を寂しがらせるような事があってはいけない――そんなとんちんかんな義務感がパルスィを突き動かしていた。
懲りないやつだ、と自分でも笑ってしまうほどの愚かさだ。それでもヤマメに会いたいと言う衝動は尽きることはなく、脳内では自分を罵倒しながらも着々と準備を進めていく。
後悔していた自分はどこへやら、ご丁寧に鏡をチェックして、身なりを細かくチェックしていく。
ネガティブ思考で埋め尽くされる脳内、しかしその一方で、髪は乱れていないか、服にシワはついていないか、目の下にくまは出来ていないか、ヤマメに見せても恥ずかしくない格好か、などと浮かれた事を考える脳天気な自分も居るのだ。
本能とはこうも御し難いものなのか、理性が自制を促す一方で、本能はそれを完全に無視してヤマメを求めようとする。
以前からその傾向はあったが今よりは命令を聞いていたはずだ、時間を経るごとに悪化の一途をたどっている、このままでは自分で自分をコントロールできなくなってしまう。
その証拠として、自分の意思とはあまりにかけ離れた行動をとってしまった事が何度かあったはずだ。
例えば昨晩のキス、さっきのハグだってそうだ、以前のパルスィであれば止められたはずだったのに。
後悔したのは深夜から昼にかけて、それから数時間の後にすぐにヤマメに抱きついてしまったわけだ、節操の無さで今のパルスィの右に出るものは居るまい。
ヤマメの抱きついた後に自分の家に戻ってきたパルスィは、戻るやいなや深夜と同様に寝っ転がり、自分の顔を両手で覆いながら唸るように呪詛を唱え続けていた。
「自分の意思の弱さが嫌になるわ、なんで私みたいなのが存在してるのかしら、しかもよりにもよってヤマメの隣なんかにっ」
自己嫌悪の材料にしたって前に進まないことは、自分自身で証明済みだ。
現状を変えなければならない、ヤマメへの気持ちを綺麗さっぱり忘れてしまえればベスト、しかしそんな都合のいい結果を得るための方法があるわけなどない。
いっそ地上の有名な薬師にでも頼んでみるか、とも一瞬考えたが、あまりにリスクが高過ぎる。
なにより、それを実行出来るほどの行動力がパルスィにあるわけがなかった。
なにせ、捨てたい忘れたいと思いながらも、同時にヤマメへの気持ちに対する未練も多分に残っていたのだから。
そもそもそんな簡単に捨てられるのなら、最初から恋などしていない。
捨てられないから恋をしたのだ、狂おしいからこそ恋と呼ぶのだ、だったら衝動的に抱きしめてしまうのも当然の成り行きではないだろうか。
「だからって告白するわけにもいかないでしょうが……」
自分以外の誰かがヤマメの隣に居るのは嫌だ、けれど、自分がヤマメの隣に居るのは何よりも大きな間違いだ。
自己嫌悪の塊が自己評価を底辺に定めるのは当然の行いだ。
すでに答えは出ている、何度悩んだって出す結論は一緒だ、ただ行動に移す勇気が足りないだけで。
どうやったら勇気を得られるのだろう、お姫様にキスでもしてもらえれば、勇者よろしく性欲に起因するとてつもない勇気が湧いてくるのかもしれないが、これには大きな問題点がある。
その姫が、ヤマメだということだ。
やはり自分でどうにかするしかない、しかし自分ではどうにもできない、じゃあどうしろと。
悩んでも方法は思い浮かばない、そもそも最善手なんて物を探すこと自体が間違いなのではないだろうか。
ヤマメと出会って何年経った? その間何度同じことで悩んできた? 今まで何度だって切り出すチャンスはあったはずなのに。
二度と来るな、もう会わない、お前なんか友達じゃない、傷の浅いうちにそう伝えれば良かっただけの話。
ヤマメを傷つけることになったかもしれない、それでも自分のような汚らしい存在がヤマメを汚し続けるよりはずうっとマシだ。
泣き顔は見たくない、傷つけたくない、守りたい――一見してご立派な高説のように思えるが、そんな物は所詮パルスィ自身の都合に過ぎない、本を正せば自分自身が傷つきたくないと思っているだけなのだから。
フラストレーションが、パルスィを内側からパンクさせるほどに溜まっていく。
爪をカチカチと鳴らしながら、歯を食いしばり、叫びたくなる衝動をなんとか抑えこむ。
後悔の結末はいつだって一緒だ。
結局は不可能の再確認をするだけで、自分には現状を変える力など無いのだと、無力さと愚かさを確認しなおすだけの作業。
ストレスを溜めるだけの無駄な工程。
いつものことだ、だからこの後どうするのかも、パルスィにはよくわかっていた。
溜まった物は発散しなければならない、そのための方法をパルスィはたった一つしか持ち合わせていない。
顔を覆っていた両手を床に投げ出すと、むくりと上体を起こす。
「そういう自分が嫌いだって言ってるのに……まあ、今更だけど」
パルスィの汚れとは、節操無く他人の女を抱き続ける罪に他ならない。
自分自身でもその行いを悔い、嫌い、故にヤマメとの触れ合いを禁じているはずなのに、どうして止めようとしないのか。
大した快楽があるわけでもない、もちろん愛もない。
確かに相手は可愛い少女ではあるが、ヤマメに比べれば雲泥の差だ。
だから、優先するべきは明らかにヤマメの方であるにも関わらず。
パルスィにも理解できない、嫌いだと言うのなら変わればいいのに、どうして自分は変われないのか、変わろうとしないのか。
「だから、んなことわかるなら最初から悩まないっつーのっ!」
苛立ちを掛け声代わりに、パルスィは勢いをつけて立ち上がる。
悩んだって仕方ない、そう理解はしていても、理解しただけで悩まないで済むのなら苦労はしない。
悩みたくなくても悩んでしまう、自分を嫌っていても辞められない、それが生き物という物なのだ、今のところはそう納得することにした。
「……ああ、もういいや。
今だけでもいいから忘れましょう、今日のことは綺麗さっぱり!
さーて、気分転換に仔猫ちゃんにでも会いに行きますかっ」
時間感覚が正しければ間違いはないはずだが、一応時計を確認しておく。
彼女から聞いた話が正しいのなら、そろそろ仕事が終わる時間のはずだ。
仕事場まで迎えに行けば、きっと彼女は彼氏にも見せないような可愛らしい笑顔を見せてくれるだろう。
パルスィにとって笑顔の可愛さなどはどうでもいいことだ、大事なのは”彼氏にも見せないような”と言うフレーズであって、言葉だけで満腹になってしまいそうなほどの満足感がある。
早くこの苦しみから開放されたい――その一心で、パルスィは急いで身支度を済ませ、例の場所へと向かうのであった。
少女はとある店の看板娘だった。
彼女を目当てに来店する客が居るほどの人気者で、どうやら例の彼氏もそのうちの一人だったらしい。
男の熱烈な求愛に折れ、最初は仕方なく付き合い始めたらしいのだが、実際に付き合ってみると思っていた以上に誠実な性格でそれなりに幸せにやっていたとのことだ。
パルスィに出会うまでは、だが。
少女も男も奥手だったようで、二人はまだ肉体関係を結ぶには至っていなかった。
つまりは、初物だったわけだ。
てっきりやることはやっていると思っていたパルスィにとっては思わぬ収穫であった、確かに初物は面倒な部分もあるが、彼氏に奪えなかった物を先に奪うというのは中々に気分がいい。
二人が初めて事に及ぼうとした時に、男が少女の手慣れた挙動から別の誰かの存在に気付くかもしれない、自分より先に少女の裸に触れた誰かの存在に嫉妬してくれるかもしれない。
そういった歪んだ嫉妬は特にパルスィの大好物だ、これまた想像するだけで思わず涎が垂れそうになるほどに。
店の暖簾を潜ると、フリフリのウェイトレス服を着た少女が営業スマイルでパルスィを迎えた。
「いらっしゃいませ!」
その天真爛漫な接客は、まさに看板娘と呼ぶに相応しい物だ。
今までは少女から聞いていただけだったが、こうして実際に見るとパルスィも思わず納得してしまうほどだった。
店にやってくる客限定ではあるが、アイドル扱いされてもおかしくはない。
「頑張ってるわね」
「あっ、おね……」
「駄目でしょ、人前でその呼び方しちゃ」
「そ、そうですよね……すいません」
「そろそろ上がりの時間よね? それまで店の中で待たせてもらうわ、案内してくれるかしら」
「はいっ! ふふふ、本当に来てくれるとは思いませんでした」
「どうしてもって言ってたしね、あんな可愛いらしい表情でお願いされたんじゃいくら私だって断れないわ」
「えへへ、ありがとうございます」
パルスィと会話する少女の表情は、先ほどの営業スマイルとは打って変わって、まさに恋する乙女の表情。
言い方を変えれば、雌の表情とも言えるかもしれない。
店内の男どもはそんな彼女の態度の変化に気づいたのか、落ち着かない様子でこちらをちらちらと伺っている。
どうやら話を聞く限りでは、少女は例の彼氏とのお付き合いを内密にしているらしく、ほとんどの客はそれを知らないとのこと。
あんだけ大通りで堂々と手をつないでいたのではバレるのも時間の問題だったのかもしれないが。
恋人の存在を秘密にするとは、まさにアイドル扱いだ。
そのアイドルが謎の女の前でデレデレとあられもない表情を見せるという予想外の事態に、ファンたちは慌てているのだろう。
中には露骨にパルスィに睨みつけてくる妖怪もいるほどだ。
おそらくその男は、パルスィが今までしてきた所業の数々を知っているのではないだろうか。
有名人というほど有名ではないが、勇儀やさとり、ヤマメあたりの友人のさらに友人ぐらいであれば、噂でその存在を耳にしたことはあるかもしれない。
あるいは、今までパルスィが食ってきた少女たちの”元”彼氏の一人なのかもしれない、要するに被害者というわけだ。
そう考えると憎悪に満ちた視線にも合点がいく。
パルスィはそんな刺のある視線を浴びながら、心地よい嫉妬に満足しつつ、上機嫌に悪女めいた笑顔を浮かべた。
「こんなんじゃ、注文する前にお腹がいっぱいになっちゃうわね」
「へ?」
「ふふ、貴女の制服姿が可愛いからそれだけでお腹がいっぱいになりそうってことよ」
「も、もうっ、おね……パルスィさんったらいつもそんなことばっかり言うんですから」
「仕方ないじゃない、恥ずかしがる貴女が愛おしくて仕方ないのよ」
「ううぅ……」
パルスィを目の前にしてほんのり染まっていた少女の頬は、ますます火照っていく。
まるで妹に接する優しい姉のようなパルスィの振る舞いは、言うまでもなく演技である。
基本的に少女と接するときは柔和な笑顔で、可能な限り相手が警戒を解くような表情を作ることを心がけている。
一見して恥ずかしがる少女を優しく見守っているようにみえるかもしれない。
しかしよく観察してみると、先ほどの嫉妬の視線に対して浮かべた悪い笑みのように、時折隠し切れない邪な表情が漏れ出てしまっている。
彼女とて完璧ではない、ただその穴がヤマメでもなければ気付け無いほどに小さいだけだ。
だが、少女に対して微笑みかけるパルスィの表情に関しては、完全に演技とは言い切れない。
本心から笑っているからだ、問題はその正体なのだが。
その笑顔の正体とは、”少女が可愛い”からではなく、”少女が彼氏ではなく自分の前で女の表情になっている”ことに対する愉悦なのである。
純粋すぎる少女はもちろん気付いていないし、第三者が傍から見ても、パルスィの人間性を知る者以外はその歪みに感づく者は居ないだろう。
カウンター席に腰掛けたパルスィは、注文を聞こうとする少女に向かって「貴女のおすすめをお願い」と悪びれもせず無茶ぶりをしてみせた。
断るに断りきれず、少女は困った顔をしたまま厨房の前で立ち止まってしまった。
しばし考え込んだ後、何か思い当たる節があったのか、調理担当へとあるメニュー名を伝えた。
遠くからそれを聞いていたパルスィは、再び性悪そうににやりと笑った。
以前に一緒に出かけた時、それとなく好みを伝えておいたのだ、抹茶を使った甘味が好きなのだ、と。
ちなみに本当にパルスィが抹茶が好きなのかと聞かれれば実際はそんなことはなく、これはいわば少女に対するテストのような物だった。
何の意味もなく思い立ったわけではない、パルスィが試すような真似をしたのには理由がある。
それは、少女がバツが悪そうに語った例の彼氏の話に起因する。
彼は店の常連だったにも関わらず、その彼好みのメニューを覚えられない、得意気に”いつもの”と注文された時も、何がいつものかわからずに間違えてしまった、そんな微笑ましいエピソードである。
その話を聞いた時、パルスィには、だったら自分ならどうなるのだろう、とちょっとした興味が湧いたのである。
彼氏のことは覚えられないのに、自分のことなら覚えてくれるだなんて、ああなんて素敵なのだろう――気づかないうちにまんまと謀略に乗った少女の姿を見て、パルスィは実に満たされた気分だった。
こうして満たされている間は、悪女である自分になりきっている間だけは、後悔にも嫌悪にも苛まれずに済む。
現実逃避と言えばその通りだ、しかし嫉妬を糧とする妖怪としては実に理にかなっている。
やろうがやるまいが、どうせ自己嫌悪は消えないのだから、だったら徹底的に汚れてしまった方が気が楽だ、気分が乗っている今はそう楽観することが出来る。
嫉妬というネガティブな感情を好む妖怪とはいえ、自身がいつまでも沈んでいたのでは、いつか心が壊れてしまう。
要するに、これはパルスィにとっての必要悪なのだ。
しばらく待っていると、自信有り気な表情で少女は甘味を運んできた。
運ばれてきたメニューは、予想した通り抹茶パフェである。
「よく覚えてたわね、私の好み」
「あっ、もしかして試してたんですかっ!?」
「んー、そうとも言うかもしれないわね。
貴女がどれだけ私を想ってくれているか知りたかったのよ」
「パルスィさん、結構いじわるですよね」
「可愛い子はいじめたくなっちゃうタチなの、諦めなさい」
ガラスの器の真ん中には抹茶のソフトクリームが載せられ、その傍らには餡の塊がどっしりと鎮座している。
餡以外にもみかんや黄桃、パインと言ったフルーツや、白玉、寒天が散りばめられており、食後の甘味としては少々ボリュームがありすぎるほどの迫力である。
だが表面が溶けて輝くソフトクリームは、例え本当は好みではなかったとしても食欲をそそるには十分すぎるほど魅力的だったし、幸いにして今のパルスィはそれなりに空腹の状態だったので一人で食べるのに問題はなさそうだった。
早速パルスィはスプーンでソフトクリームを掬い、一緒に少量の餡を載せて口に運ぶ。
抹茶の苦味に餡の甘みが混ざり合った、絶妙な味と冷たい感触が口に広がる。
性格は悪いし趣味も悪い、だから”普通の”と言う形容詞を付けることはできないが、パルスィだって女の子だ、美味しい甘味を口にして嬉しくないわけがない。
思わず頬が緩む。
その表情だけは唯一、演技も誤魔化しもない、素の表情であった。
店の佇まいは和風ではあるが、今の地底では洋風の甘味もそう珍しいわけではない。
とは言えど、どこの店にでも抹茶パフェなんてモダンな食べ物が置いてあるわけではない。
この店は地底ではそこそこ名前が通った店なのである、流行を追う者なら一度は一度は訪れたことがあるであろう注目株なのだ。
本来なら店の席は女性で埋まっているような雰囲気なのだが、少数派とは言えない程度に男性が混じっているのは、おそらく看板娘の存在があるからだろう。
幻想郷の、とりわけ地底の食文化の進化は最近になって急速に早まっている、地上との交流が盛んになった影響なのは間違いない。
これは喫茶店に限った話ではなく、例えば居酒屋だってそうだ。
フライ系やチーズを使った料理が増えてきたし、以前はほぼ和酒だけだった酒の種類も今では洋酒の方が種類が豊富な店もあるほどになっている。
逆に以前からあったメニューが消えることもあり、少々懐古主義的な部分のある勇儀としては複雑な心境らしいが。
店員が客にずっと付き添っているわけにもいかず、パルスィは一人で抹茶パフェと平らげていた。
仕事を終えるための準備をしているのか、しばらくフロアで少女の姿を見ていない。
しかしそろそろ頃合いだ、会計を済ませて外に出ればちょうど合流出来るかもしれない。
支払いを済ませたパルスィは店の外に出ると、壁に背中を預けてぼんやりと人の流れを眺めていた。
次の獲物はどうしようかな、などと不埒なことを考えながら。
自分でも下衆い思考だと理解はしているが、こうでもしなければ余計なノイズが混じってしまう。
考えたくても頭に浮かんでくる彼女の表情が、感触が、温もりが、そしてそれに連なるようにして、後悔と嫌悪が。
それが自分の本来の姿だということはパルスィも重々理解している、歯の浮くような言葉で少女の心を掻っ攫う自分など、所詮は逃避のための仮面に過ぎないのだ。
誤魔化し続ければ、いつか綻ぶ、そして壊れる。
その日がやってくるまで、もうそんなに時間が残されていないことだって、痛いほどに理解している。
歯止めは効かない、言うことも聞かない、自分がまるで自分で無くなるような、本来の自分をちっぽけな自制心に押し付け続けたツケが。
「お待たせしました、お姉さまっ」
「駄目じゃない、まだ店の近くなんだから。他の人に聞かれたら困るでしょう?」
「本当なら聞かせたいぐらいです、私はお姉さまの物なんですから」
初めの頃は、後ろめたさから街を歩くのにもおどおどしていたというのに、少女はパルスィの手によってすっかり変えられてしまっていた。
彼を裏切る行為であったとしても、むしろそれを誇る有り様である。
いつぞやのヤマメの言葉を借りるのならば、まさにこれを”調教”と呼ぶのだろう。
こうして堂々と町中を歩いているにも関わらず未だに浮気がバレていないのは、幸運と言うべきか不運と言うべきか。
パルスィとしてはバレようがバレまいがどちらにしても美味しい方へと転ぶので、全く気にしていないのだが。
二人は迷うこと無くある店へと向かっていたのだが、途中で突然少女が足を止める。
「あの、お姉さま」
「どうしたの?」
「えっと……やっぱり今日も、あの宿に行くんですよね」
「当たり前じゃない、それとも他に行きたい場所があった?」
「いえ、私も行きたいのはやまやまなんですが、その……」
少女は言い難そうにしている、出来れば厄介事だけは勘弁して欲しいのだが。
こういった関係になった以上、ある程度は恋人らしい事をしてやるつもりではあるが、面倒事に付き合うほどの愛情は無い。
万が一それが長引くようであれば、今すぐこの場で全部明かして捨ててやってもいいのだけれど――パルスィは微笑みながらも、心は冷め切ったままにそんなことを考えていた。
「風邪っぽくて、ひょっとしたらお姉さまに伝染しちゃうかもって」
「なんだ、そんなこと?」
「そんなことなんて、とんでもないことですよこれは!?
万が一にでもお姉さまが病気になったら大変ですっ、それも私のせいでなんて!」
「大げさねえ。
大丈夫よ、こう見えても私って結構丈夫にできてるんだから。
それにね、風邪を治すのにちょうどいい方法があるのよ」
もちろんそんな都合のいい方法はない。
風邪ごときで欲の発散が出来ないのは困る、それを防ぐためのただの方便だ。
「ちょうどいい、方法?」
「聞いたこと無い? 風邪を引いたら、汗をかいたほうがいいのよ」
「へっ? いや、でも、それって別にそういう意味じゃ……うわわっ、お姉さま、待ってくださいよぉっ」
「ほらほら、つべこべ言わずにさっさと行くわよ、時間は限られてるんだから。
私は貴女を早く愛したくて仕方ないの、わからないかしら?」
「うぁ、あい、あい、して……っ。
わ、わかりました、今日も、よろしくお願いします」
少女は抵抗することを止め、観念して大人しくパルスィに従う。
言われてみれば、少女の頬は通常よりもいくらか赤らんでいるような気もする。
しかし、彼女はパルスィを前にすると強弱はあれどいつも顔を赤らめていたから、パルスィはその変化に全く気付かなかった。
だが、仮に気づいてたとしてもパルスィは宿に向かうのを止めようとはしなかっただろうし、少女が頑なに拒否していたとしても強引に連れて行っていただろう。
胸の内で渦巻くどす黒い欲望が不快で仕方ない、何としても早い内にこれを消してしまいたい。
そのために、今日は少女を抱くと決めたのだ。
所詮は遊びでしか無い、それ以上でもそれ以下でもなく、結局は欲望を発散するための道具でしか無いのだ。
使えない道具に意味などあるだろうか。
少女にも意思がある、時には拒まれることだってあるだろう。
だとしても、パルスィに少女の都合などは関係ない。
自らの欲求を満たすためなら多少の強引さがあっても構わないと思っていたし、無理やりならそれはそれで、そういうプレイも悪くはない。
例え嫌われてしまったとしても、次の獲物を探せばいいだけなのだから。
そのためなら、人目につく場所でお姫様抱っこをしたって構わないと思った。
どうやら少女は姫のような扱いをされるのが苦手らしく、こんな人混みの中でお姫様抱っこなんてされた日には、恥ずかしさのあまり失神してしまうに違いない。
かくして二人は連れ込み宿へと向かい、少女は知るべきではない快楽を教えこまれるのであった。
堕ちていく、面白いほどに。自由落下も真っ青な落下速度である。
少女が自分の名を呼びながら腕の中で果てるたび、パルスィの中の嗜虐心と自己嫌悪は膨らみ続けるのであった。
パルスィと少女が宿に入るその少し前、二人の通った大通りで彼女は立ち尽くしていた。
最初は声をかけようとしたのだが、パルスィが一人では無いことに気付きやめた。
彼女は、心の何処かで自分に気付いてくることを期待していたのかもしれない。
だが結局――パルスィはすれ違った彼女の姿に気付くこと無く、その瞬間ヤマメは、大通りを歩く通行人Aに過ぎなかった。
不思議なことに町中で獲物を連れた彼女を見かけるのは初めてで、故にパルスィと例の少女が並んで歩く姿を目にするのも初めてであった。
想像では何度だって見たことがある、別に何とも思わなかった。
パルスィがそうするは当然のことだと思っていたし、自分の中でもとっくに整理が付いているのだと思い込んでいた。
想像ではそうだった、だから現実でも同じ、というわけにはいかないようで。
「さっきまで、私を抱きしめてたくせに」
ふと、溢れた。
意識なんてしていない、自分でも驚くほどに無意識で、言葉にした直後に思わず口を噤んだ。
誰が聞いているわけでもない、けれど言ってはいけない言葉のような気がして。
だがもう遅い、形になった言葉は消えない、意識していなかった――いや、意識しようとしなかった、意識したくなかったそれは、急速に心の中で確かな存在として形成されていく。
無関心で居られたのは、何よりも注視していたから。
彼の現在位置がわからなければ、それを避けることだって出来ない。
知っていた。見ていた。だが知らないふりをしていた。
思えば、ずいぶん前から、ヤマメは都合の悪いものから目を背け続けてきた。
それは意識しなければ出来ない芸当であって、鈍感なふりをして来たのは他でもない自分自身。
だから、”鈍感”は彼女にとって褒め言葉で、”上手くやったね”と賛辞されているようでもあった。
それでも完全に隠しきれるわけではない、自分を誤魔化すのにはどうしても限界がある。
何故か嫌いにはなれなかった。
パルスィの行い自体を嫌悪しても、彼女自身を嫌いになることは出来ない。
黒谷ヤマメであれば絶対に許すことのできない行為のはずだった、正義感の強い彼女ならそれを諌め、時には罰したはずだ。
だがそうしなかったのは、完全に嫌うことが出来なかったのは、嫌悪よりも強い別の感情があったから。
押しのけてもおつりが来るような、揺るがない想いがあったから。
ぎゅうっと胸元をつかむ。
この仕草も、今まで何度かやってきたはずだ。
何をかばっているのだろう、何から耐えようとしているのだろう、知っているはずなのに。
胸が、痛い。
心臓が、締め付けられるようだ。
こみ上げてくる感情は、吐き気にも似た涙の塊で、瞳から零れないようにするのが精一杯だ。
色は黒、形は醜く、その存在を認識した今でも、出来れば直視はしたくなかった。
彼女は最後まで振り返らなかった。
私の嫉妬は届かなかったのか、と悔しさに歯を軋ませる。
とっくに手遅れだってことに、ずっと前から気づいていた。
要は諦めがついたいだけ。
誤魔化しなんて、所詮は上っ面だけだった。
心の奥底には誤魔化しようのない証拠が秘められていて、だからこそ彼女はとっくに気付いていたのだ。
いつぞや無断で心を読む無礼者が言っていたじゃないか、進展の遅い物語は好きじゃない、と。
それは自身も例外ではなかったはずだ、どちらかと言えばせっかちな性格な彼女は進展の遅い物語は好まない。
だが自分のこととなると事情は別で、残念なことにせっかちと臆病は両立してしまうのである。
でも、それももうおしまい。
彼女はパルスィほど往生際は悪くない。
実を言えば、”鈍感”という指摘は別に間違っては居ないのだ、彼女は未だにパルスィの気持ちには気付いていない、ただ自分の感情の正体に気付いただけで、”鈍感”の汚名を返上出来ると思い込んでいる。
パルスィも同様に、自分は他人の気持ちに敏感なつもりでいた。
だからこそ二人は周りから鈍感と呼ばれているのだが、それに気付けるようなら最初からそうは呼ばれていないだろう。
どちらにせよ、物語が多少進展することに変わりはない。
もはや逃げられないことを悟り、臆病者を自称しながらも幾らかパルスィよりは臆病ではない彼女は、ついに覚悟を決めた。
揺らぐ気持ちはある、恐怖に怯える自分は誤魔化せない、その存在を無視できはしない。
でも、天秤は勇気の側に傾いている。
諦めにも似た勇気。
だってもう、膨らみすぎたその感情からは目を背けられそうにもないから。
白々しい誤魔化しも、無理のある現状維持も、もうおしまい。
「……そっか、そうだよね」
人の流れはパルスィと少女を飲み込んでいく。
人通りの割に狭く、そして遠くの、数多の妖怪たちでごった返す大通りの波に飲まれていく。
残ったのは、ほの暗い地底を照らす提灯に照らされた繁華街と、そのど真ん中で立ち尽くすヤマメだけ。
喧騒と寂寞が思考をかき乱す、再び決意をうやむやにして掻き消そうと迫ってくる。
「そりゃあの子のことだって気になるはずなんだよ、だって我慢できなかったんだから。
胸だって痛くなるよね、だって辛かったんだから」
だから、言葉にする。
言葉にして証拠として自分自身につきつけることで、逃げ出そうとする自分をどうにか押さえつけようと抗っていた。
今なら変えられそうな気がするのだ、自分自身を。
でも次の瞬間はもうだめかもしれない、また逃げてしまうかもしれない。
故に今しかない、誰かに聞かれようとも構わない、はっきりと言葉にして、目を背けるのはやめると決めた。
「……すぅ」
一旦間を置く。
急がなければならない、しかし準備も無しに極寒の水に飛び込むがごとく、心の準備も無しに言葉にしたんじゃショックで心臓の一つや二つ、容易く止まってしまいそうだ。
深呼吸が必要だ、誰に許しを請うのか彼女にもわからなかったが、これぐらいの甘えは許して欲しい気分だった。
そして唇を開く。
緊張のあまり乾いた喉に力を込めて、震える吐息を声に変える。
「私、ずっと前からパルスィのことが」
ゆっくりと、力強く、胸に手を当てて――二人の境界線を変えてしまう、致命的な言葉を口にする。
終わりではなく、始まりなのだと自分を励ましながら。
「す――」
そしてその二文字のうち、一文字目を言葉にした瞬間。
「おや、ヤマメさんったらこんな所で立ち止まって何をしてるんですか?」
神がかり的なタイミングの悪さで、古明地さとりが話しかけてきたのである。
……そう、よりにもよって、”あの”古明地さとりが。
「すっ……すっ……」
突然の妨害にもめげずに、どうにか決意をそのままに、言葉にしようと踏みとどまるヤマメ。
だが踏ん張れるほど彼女は強くない、積み上げてきた勇気は容易く崩れ落ち、天秤は逆方向に猛スピードで傾く。
「あっ」
さとりも悟る、自分が何をしてしまったのかを。
口元に手を当て、露骨に”しまった”と言う表情を形作る。
「すぅぅぅぅっ……さとりいいいぃぃぃっ!!」
周囲の人通りなど気にすることなく、ヤマメは盛大に叫んだ。
ありったけの怒りを込めて、まさにこれこそ”絶叫”だとお手本を見せつけるがごとく。
見たこともない怒りの形相にさとりは一瞬面食らうが、すぐに気まずそうに視線を逸らした。
「なんでっ、なんでこのタイミングで現れるの!?」
「い、いえ、決して悪意があったわけでは……」
「じゃあ何、神様の悪戯? この期に及んで私を弄ぼうとする性悪神様がこの世に存在するっての!?
今すぐ地上からその神様連れてきてよ、この拳でっ、固く握ったこの拳でっ、血が滲むまで何度も何度も何度も殴ってやるんだからぁっ!」
「す、すいません、本当に悪意なんて無かったんです、むしろ応援しようと思ってたぐらいでっ!
ああ、なんてことを……私はなんてことをしてしまったの……まさか二人の関係に横槍を入れる面倒な友人ポジションみたいな事をしてしまうなんてっ!
私ともあろうものがっ、この私がっ、何でこんな空気を読めないことを……っ」
「なにさ、まるで被害者みたいに悔しがっちゃってさぁっ!
悔しがりたいのは私の方だってば、せっかく覚悟決められると思ったのに!」
「なら改めてどうぞ、ほらやってくださいよ、覚悟決めてください、私は居ないものと思って! さあ、さあ!」
「言えるわけないじゃない!」
「私を助けると思ってお願いします、このままじゃ忍びなさすぎて死んでしまいます!」
「勝手に死ねばいいじゃないかばかやろー! ああもう、なんでこんなタイミングでさとりが来るのさぁ……」
「すいません……今のばっかりは全面的に私が悪いです、本当に油断してました。
しっかりと、いつも通り油断せずにヤマメさんの心の中を土足で踏みにじっていればこんなことにはならなかったのに」
「言ってることは正しいけど許しちゃいけない気がする……」
前置きした通り、覚悟というものはいとも簡単に萎えてしまうもので、こうも見事にタイミングを逃すとそう簡単には次の機会は来そうにない。
今にも固まりそうだったヤマメの覚悟は、さとりの邪魔が入ったことで急速に萎んでしまった。
さとりにしては珍しく自分の非を認め、ひたすらにヤマメに対して謝っているが、事が事だけにヤマメがそう簡単に許すわけもない。
相手がさとり以外であれば仕方ないと諦めたかもしれないが、心を読めるさとりの仕業なのである。
普段は人の頭の中に勝手に踏み込んで好き勝手荒らしてくれるくせに、こんな時だけ都合よく心を読んでませんでしたー、などと巫山戯た言い訳が通用するわけもない。
「でも、私が邪魔した程度で揺らぐヤマメさんも相当ですよね」
「確かにそうかもしれないけどさ、さとりは切り替えが早すぎるよ。もっときちんと反省しなさい!」
「十分しましたよ。
辞書に反省という言葉が無かった私がほんの少しでも反省したんです、これは天変地異が起きるほどの大異変ですよ」
「そういうことは他人が言うから意味があるのであって、普通は自分では言わないの」
「常識の範疇で私を測らないでください、そんなに器の小さな女ではありません」
「無いくせに偉そうに胸を張るな! そういうのは器が大きいとは言わないの!
というか、悪いのはさとりのはずなんだけど、なんでそんなに偉そうなのさ」
「地霊殿の主ですから、実はそれなりに偉いんですよ。えっへん」
「さっき勢いに任せて殴っとけばよかった……」
死ぬほど反省していたさとりはどこへやら、少々会話を交わしただけでいつものさとりに逆戻りである。
演技でも良いからもっと卑屈な態度を取ってくれれば多少は許す気にもなろうという物なのに、どうしてこう人の神経を逆なですることばかりしてくるのか。
しかしよく考えてみれば、人の神経を逆撫でしないさとりなど、もはやさとりでは無いのかもしれない。
だがそんな不名誉なレッテルを貼られている事を、本来なら恥と思うべきなのである。
だというのにこの古明地さとりという悪辣な妖怪は、恥じらうどころか、それを誉れだとすら思っているらしい。
やはり彼女は能力云々以前に、根本的に性格が悪いのである。
能力ゆえに地上から追い出されたという話だが、実は単純に性格が悪くて追い出されただけじゃなかろうか。
妹の前では例外的に優しい姉になるらしいが、誰もその状態のさとりを見たことが無い時点で真実かどうか怪しいものだ。
「あ、そういえば。
どうやら先日のアドバイスは役に立ったみたいですね」
切り替えも早ければ話題の転換も早い。
本来ならもっと引っ張って相手の非を追求する所なのだが、さとり相手では分が悪い。
ヤマメはしぶしぶ、新たな話題に乗るしか無いのであった。
「別に私から触ったわけじゃないんだけどね、いきなりパルスィが抱きついてくるもんだからびっくりしたよ」
まだ怒りは冷めやらないが、つっけんどんな対応をした所でヤマメに益があるわけでもない。
ここで感情に任せて相手の話を遮らないあたり、ヤマメは何処まで言ってもお人好しなのである。
「でも言った通りだったでしょう? 別にパルスィさんはヤマメさんを拒絶しているわけじゃないって。
私としても、まさかここまで情熱的なボディタッチを繰り出すとは思いもしませんでしたが」
「だけどさ、結局理由はわからず仕舞いだよ。なんでパルスィは私に触られたくないって言ってたんだろ?」
「私はその理由を知っていますが、知った上で感想だけ言わせてもらうなら、”解せない”ですね。
気難しいというか、偏屈と言いますか……ああ、ちょうど少し前にヤマメさんがパルスィさんの事を変人呼ばわりしてたじゃないですか、まさにそれですね」
さとりは地底でもトップクラスの変人である。
そのさとりが変人呼ばわりしているのだ、よっぽど大した理由なのだろう。
「相変わらずさとりと会話してると何かむずむずするなあ、一人だけ答えを知ってるだなんてズルいよ。
つまりは、私が考えても無駄だってことでしょ?」
「そういうことです、ヤマメさんがガンガン攻めればそのうちパルスィさんの方から折れてくれますよ」
「折れる……か。
折れる前に攻める私が怪我するぐらい丈夫だったりしないよね?」
「木の枝よりも脆いので安心してください、複雑なようで単純なお話ですから。
実を言えば、ヤマメさんはすでに解決策を知っているはずなんです」
「知ってる? 私が?」
「ええ、それはもう。最後の切り札をその手に持っているはずなんですけどね、どうして使わないんでしょう」
「この手に……」
ヤマメは訝しげな表情で自分の手のひらを見つめながら、手を開いたり閉じたりを何度か繰り返した。
土蜘蛛の妖怪ではあるが、別段この手に特別な力を持っているわけではない。
「物理的に握っているわけでも、不思議な力を宿しているわけでもありませんよ、そんな下らないことばかりを考えるから話が脱線するんです」
「わ、わかってるって、つまり割と身近にその方法があるってことでしょ?」
「わかってなかったくせに……見栄貼っちゃって、かわいいですねえ」
「うるさい、そこは大人なら空気読んでスルーする所じゃないかよう!」
「私は大人ではありませんから、我が儘な子供なんです。一人前なのは権力だけですよ」
「自分のこと偉いって言ってみたり子供扱いしてみたり、都合の良いことばっかり言って……」
「偉いからと言ってイコール大人と言うわけではないでしょう? 偉い子供が居たっていいじゃありませんか」
「さとりって何歳なのさ」
「ほらほら、また話が脱線してます」
「……答えないんだ」
「妖怪に年齢を聞くなんて無駄だと言ってるんです、子供と大人の境界だってわかったもんじゃないですから。
こんなことを話してる間に答えは遠くに遠ざかってしまいますよ。
まあ、わからないならそれでもいいんですけどね、どうせじきに気付くでしょうから」
「意味深なことばっかり言って、結局何の役にも立ってないじゃん」
「意味深なことを言って心を惑わし、それによって右往左往するヤマメさんを見るのが趣味ですから。
ああ楽しい、どうして人の心を弄ぶのってこんなに楽しいんでしょう!」
天に向けて満面の笑みを向けながら、さとりは恥ずかしげもなくそう言い切ってみせた。
「やっぱ殴っとくべきだったかな……」
どうせなら本当に自分の手に不思議な力が宿っていればいいのに、とヤマメは拳を握りしめながら思った。
仮に本気で拳を突き出したとしても、さとりにはいとも容易く避けられてしまうのだろうけれど、絶対に避けられないような不思議な力が都合よくこの手に宿らない物だろうか。
あるいは掠っただけで汚い心を浄化できるような、聖なる力とか。
「冗談はさておき、こう見えても友人としてそれなりに心配はしているんです。
今は笑って見てられますけど、拗れて壊れられでもしたら後味が悪いにも程が有りますからね」
「私たちの間に関係が壊れるような爆弾があるとでも?」
「ありますね。
今は平気でも、それが拗れてしまうのが世の常ですから。
時には人を惑わし、狂わせ、殺意に走らせることもある、ヤマメさんもそれぐらいは知っているでしょう?」
「知ってるけど、パルスィの女癖の悪さは今に始まったことじゃないし、私はとっくに慣れてるから大丈夫だよ」
「でも実際に見たことは無かったんでしょう? だから、さっきだって並んで歩いている姿を見たただけで、これでもかってぐらい気が動転してしまった。
仮に接吻の現場に直面したら、交わっている途中を見たら、想像するだけで恐ろしいですよね。
私は嫉妬に狂うヤマメさんの姿なんて見たくありませんよ」
言葉では平気だと言っていたのは、他でもないヤマメ自身だ。
つまり理解はしていたのだ、パルスィが今まで獲物と称してきた少女たちとどんなことをしていたのか。
しかしヤマメには経験などないし、それ以前に恋をしたことがあるのかも怪しいほど。
知識はあったとしても、実際の行為がどういった物なのか、深く考えたことは無かった。
だが、今しがたパルスィと少女が二人で歩く姿を見て、考えは変わった。
二人は間違いなく”そういった場所”へと向かう途中だった、パルスィが少女を連れ回すのはそれが目的なのだから間違いない。
すでに知らぬ存ぜぬで通せる時間は終わってしまったのだ、二人がいかがわしい店に入り、キスをして、交わって――その光景を想像しないわけにはいかなかった。
「考えるだけで胸が痛いんですよね、その気持ちはよくわかりますよ」
「……うん」
想像だけでこんなに苦しくなるなんて、それは想像を超えた痛みだった。
先ほど二人を見かけた時ほどではないが、ヤマメから冷静さを奪うには十分すぎる。
「以前からあったんですよね、その痛み」
「割と前から」
「つまり好きなんでしょう、パルスィさんのことが。
だったら当たり前のことです、恥じることはありません」
「好きか嫌いかで言えば、まあ」
「この期に及んでまだそんな誤魔化し方をしますか」
「私だって誤魔化したいわけじゃないの、でも邪魔したのはさとりじゃないのさっ、私はあれで覚悟決めるつもりだったの!
だから、まだ、腹をくくれてないって言うか、友達なら友達でもいいのかなって、それで私たちは幸せなわけだし」
「へたれ、ドへたれ、メガへたれ」
「うるさいっ、相手はパルスィなんだ、親友なんだっ、へたれて悪いかよぅ。
どうせさとりだって、私と同じ状況に直面したらへたれるはずだい!」
「……ふぅ」
肯定にしても否定にしてもはっきりと答えるさとりにしては珍しく、ため息で言葉を濁した。
案外図星だったのかもしれない、そして思い当たる節があるということは、現在進行形でヤマメと同じ状況に立たされていることも考えられる。
相手は誰なのか――と普段のヤマメなら考えていたのだろうが、あいにく今の彼女にそんな余裕は無かった。
「私だって、良くないとは思ってるよ。
自分でもはっきりしないことが嫌いで、他人がうじうじしてたらいつだって背中を押す立場だった。
なのに、当事者になった途端に躊躇して、逃げてばかりで、何もかもに気付かないふりして。
良くないよ、変わるべきなんだよ。
けどさ、やっぱ怖いじゃん! だって私パルスィと一緒にいるとすっごく楽しくってさ、心地よくってさ、これ以上ないくらい最高の友達なんだよ!?
胸を張って言えるよ、私にとって一番大事な友達はパルスィなんだって、親友って呼んだっていいぐらい」
「要は、好きだってことでしょう?」
「気持ちは、それで間違いないよ。誰よりも……たぶん、一番に。
でも、だからこそ怖いんだ。
終わらない友情はあっても、終わらない愛なんて聞いたこと無いでしょ?」
「離婚しない夫婦ならいくらでもいますよ」
「その二人に愛はあるの?」
「……」
さとりは思わずヤマメから目を逸らす。
人の心なんて見えない、夫婦とは形式上は愛しあう二人が成るものではあるが、その二人が愛し合っているかはまた別の話。
スキンシップが全くない夫婦なんて物も珍しくない世の中で、その関係を永遠の愛の証明とするのには少々無理がある。
「永遠の愛なんて恋愛小説の常套句じゃないですか」
「実在しないものを信じられるほどロマンチストじゃないよ」
「処女のくせに、随分と悟ったようなセリフを吐くんですね」
「う、うるさいなあ、処女の何が悪いのさ、大体さとりだって人のこと言えるほど経験豊富じゃないでしょ」
「……ぐぬ」
「図星突かれたら黙るの辞めた方がいいよ、すっごくわかりやすいから」
「自分でも悪い癖だと思います」
責めるのは得意だが、どうやら責められるのはあまり得意では無いらしい。
さとりは相手の心を読めるがゆえに、会話においてイニシアチブを取られることはほとんど無いのだが、その経験がほとんど無い故に、ふいに不利な状況に追い込まれた時のアドリブが効かないのだ。
そもそもそのアドリブを使う機会がほとんど無いので必要性の薄い能力かもしれないが、ふとした瞬間に弱点を晒してしまった時、さとりが受けるダメージはかなり大きい。
表情には出さないが、さとり自身も経験が無いのをそれなりに気にしていたらしく、今日一日引きずる程度には心にダメージを負っているようだ。
好意で相談に乗ろうとしているさとりには申し訳ないが、普段やりたい放題やられているヤマメは、内心”ざまあみろ”と思っていた。
もちろんさとりもそれに気付いていたが、憎まれ口を叩けるほどの余裕が今の彼女には無い。
「さとりのアドバイスはありがたいと思ってるよ、役に立つかどうかは別として。
でもね、やっぱ私自身が答えを出すしか無いんだと思う」
「お節介でしたか?」
「できれば、誰にも邪魔されずに答えを出したいな」
「……さっき寸前で声をかけられたこと、実は根に持ってます?」
「少なくとも一ヶ月は忘れないと思う。
ううん、むしろ三年後ぐらいに突然思い出してさとりを攻め立てると思うな」
「本当に申し訳ないと思っています」
「いいよ、どうせ謝ったって許す気はないから」
「なるほど、だったら謝らないほうがお得ですね」
「そういうこと」
ヤマメは慣れているので軽く流したが、さとりの切り替えの早さは本当に謝る気があったのが疑ってしまうほどである。
元から親しい相手ならまだしも、さとりは誰に対しても同じような態度を取ってしまう、これでは地底でも嫌われてるのは当然である。
一番の問題は、さとり自身が別に嫌われても構わないと考えていることなのだが。
「まあ、そうは言っても私に否があるのは間違いないですから、今度一度ぐらいは奢りますよ」
「奢りって、さとりと二人きり?」
「そうですね、二人きりです。
みんなで行ってヤマメの分だけ私が払うってわけにもいかないでしょう。
……って、なるほどそういうことですか。
まったく、人の好意を何だと思ってるんですか、良からぬ事を考えているのが丸見えですよ」
「普段の行いが悪すぎるの、私だって素直に好意だって思いたいよ。
けど相手はあのさとりだよ? さとりと好意って言葉が結びつくと思う?」
「思いませんね」
即答である、だがわかりきった返答なのでヤマメは驚かない。
「でしょ? だから私は悪くないの、悪いのはさとり!」
「わかりました、それが嫌ならパルスィさんも連れてきてください、二人セットなら奢ってあげます。
無論他の人じゃ駄目ですよ」
「いや、それは……」
「何か不都合でも?」
「あるに決まってんじゃん! 要するに奢りたくないってことでしょ!?」
三人きりで食事なんて、さとりと二人きりよりもさらにタチが悪い。
何を言われるかわかったもんじゃない。
「それはもう、出来れば奢りたくはないですね。お金も無限ではありませんから」
「だったら最初からそう言いなよ。
ああもう、ほんとさとりってば得な性格してるよね、心の底から羨ましいって思うよ」
「それはそれは、お褒めいただき光栄ですね」
「これを純粋な褒め言葉として受け取れるあたりがさとりの強みだよね……」
「心は丸見えなんです、悪意をそのまま受け止めていたのでは体が持ちませんから。
これも私なりの生きるための知恵ってところです」
さとりもさとりなりに苦労してきたのだろうし、今も現在進行形で嫌われていることを考えると、それなりに苦労しているに違いない。
「実は皮肉だって無意味に言っているわけでは無いんですよ、ただ私は悪意に対して悪意で応えているだけです。
考えても見てください、私が覚妖怪だと知って好意を持ってくれる妖怪がどれぐらい居ると思います?
ヤマメのような例外を除いてほとんどいませんよね、九割の悪意と一割の好奇心で近づいてくるろくでもない輩ばかりです。
中には能力を利用して悪巧みしてやろう、なんて馬鹿な事を考えて近づいてくる阿呆まで居る始末」
「腐っても地獄、だしね」
地上との交流は出来たものの、やはり地底は地上に比べれば幾分か治安が悪い。
心の中だけでは飽きたらず、直接罵声を浴びせてくる妖怪もいないわけでは無かった。
「だからって脳まで腐る必要はないと思うのですが。
私にとって思考は声と同じなんです、わざわざ罵声を浴びせなくても汚らしい言葉を心に留めるだけで見えてしまうんですよ。
もちろんストレスは貯まります、どんなに嫌だって泣いて叫んで嘆いたって、見えるものは見えてしまいますからね。
それに耐える方法なんて、結局は二通りしか無いんですよ」
「発散するか、目を閉じるか?」
「そういうことです、私たち姉妹は別々の方法を選んだ、ただそれだけのこと」
さとりは妹のことを話すときだけ、やけに優しい表情をする。
この世で唯一の肉親で、心の見えない相手。
溺愛してしまうのも仕方無い。
悲しいかな、こいしにはさとりの気持ちは届いている様子は無いのだが。
「ああ、こいしは完全に唯一ってわけではありませんよ。
ヤマメさんや勇儀さん、パルスィさんのように偏見を持たずに付き合ってくれる人もいますから。
あなたを含めた彼女たちは、聖人君子とまではいかないものの……ええ、中々の善人っぷりだと思います、吐き気がするぐらいに」
「もっと素直に褒めてくれていいんじゃない!?」
「悪意まみれの世の中で生きていると、逆に善意が信じられなくなるんですよ。所詮は偽善に過ぎないんじゃないかって。
付き合っていくうちにそうじゃないってわかっていくんですけどね。
ふふ、ですから今は本当に大切な友達だと思っていますよ、たまにあまりの善意に寒気がすることはありますが紛れも無く本気です、私の心は見せられないので証明はできませんがね」
さとりらしくない、皮肉抜きの真っ直ぐな言い回しで、ヤマメに向けてそう言った。
これにはさすがにヤマメも顔を赤くして恥ずかしがっている。
「そりゃ信じるよ、けど私とパルスィのやりとりを青春だ何だって馬鹿にしてたくせに、さとりの方がよっぽど恥ずかしい事言ってるじゃん」
「仕方ありません、だって私たちは友達ですから」
「いやいや、理由になってないから」
「いえ、なってますよ」
「どこがさ」
ヤマメにはさっぱり理解できない。
だがさとりは自慢気に、胸を張りながらこう言った。
「だって友達が恥ずかしがったり、困ったり、泣いたり、それってとても素敵なことじゃないですか」
「……はい?」
「ですから友達だからこそ、大切だからこそいじめたくなってしまうんです。
かの有名な、”好きな子をいじめたくなる理論”ですよ、わかりませんか?
悪意を持って近づいてくる連中なんて適当にあしらえばいいんですよ、慣れてしまった今となっては赤の他人の悪意なんてどうでもいいですし、気にするだけ無駄な奴らですから。
それより大事なのは親しい相手です、彼らを心を込めて弄ぶことこそが真実の愛であり、私のストレスを発散するために最も必要な行為なんです。
というわけでヤマメさん、これからも生贄役お願いしますね、パルスィさんとの仲が潰れない程度に適度にこじれてくれることを期待しています、それだけで私がどれだけ救われることか」
これ以上無い笑顔を向けられたヤマメは、メデューサに睨まれたかのうように固まり、絶句してしまった。
折角いい感じで青春していたのに、友情を感じていたのに、何だこの展開。
「え、えぇ……」
「ドン引きしてます?」
「そりゃするよぉ! たぶん一生、それがどういう気持ちなのか私には理解できそうにないと思う」
「愛ですよ?」
「そんなのが愛でたまるかい!」
「別に不幸になってほしいと願っているわけではないんですよ、二人には”最終的に”うまくいって欲しいと思っていますし。
その過程で思う存分ほくほくしたいと望むだけです。
ヤマメさんに理解できるように説明すると……そうですね、私は私、古明地さとりはどこまでいっても古明地さとりでしか無いんですよ、ってとこでしょうか」
「よくわからないけど、説得力だけはすごいね……」
少なくともさとりがヤマメとパルスィのことを友人と思い、本気で心配してくれているのは事実なようで。
ヤマメはさとりの言葉の都合のいい部分だけを理解したことにして、あとは忘れることにした。
覚えていた所でどうせ理解できるものではないのだから。
これもまた、生きるための知恵ということなのだろう。
結局、さとりと別れた後に家に戻ったヤマメはもやもやとした気持ちを抱えたまま一日を過ごし、気付けばまた朝がやってきていた。
地上のように全てを明るく照らす太陽があるわけではない、変化はせいぜい明かりの有無ぐらいのもので、それしきでヤマメの胸に満ちる靄が消えるはずがない。
体を起こすと同時に大きくため息を吐くと、一度、二度と目をこすって立ち上がる。
視界の霞が晴れても、やはり気持ちはまだ晴れない。
こうしてもたもたしている間にも時間は刻一刻と迫ってくる、今日もまたパルスィはあの橋の上でヤマメを待っているのだろう。
行かないわけにはいかなかった。
行きたくない気持ちはあったが、それよりもパルスィとの繋がりが切れてしまう方がずっと怖かったから。
何もしないでいると嫌なことばかりを考えてしまう、いつもよりも少し早い時間になってしまうが、ヤマメは朝食と外出の準備を始めることにした。
夜はあれほど賑わっている大通りも、午前中となるとしんと静まり返っている。
酒飲みどもが好む店が軒を連ねているのだ、夜がピークになるのは当然だが、昼間から賑わっているのは昼から酒を飲む贅沢者がそれだけ多いということだろうか。
静かな大通りというのもそれはそれで貴重だし、乙なものだ。
ヤマメは騒がしいのが好きだ、だがたまには一人で落ち着いて散歩したくなることもある。今みたいな状態だと、特に。
「……なんだ、いないじゃん」
どうやら早すぎたらしい。
橋に辿り着いたヤマメだったが、そこにはパルスィの姿は無かった。
肩透かしを食らってしまった、ここで待ちぼうけするのは別にいいのだが、こうして止まって考え込んでいると――ほら、余計なことばかり考えてしまう。
昨日のこと、パルスィの隣に居たかわいい女の子、腕を組んだ二人、向かった先は連れ込み宿だろうか。
それから、嫉妬に狂った自分自身のこと。
「さっきまで私を抱きしめたくせに……か。
私ってば、まるっきりめんどくさい女だ」
その可能性を全く考えたことが無かったかと言われれば嘘になる。
二人の関係は実に奇妙だった、趣味も性格も客観的に見て相性が良いとは言えなかったし、実際にお互いに嫌いなところだってはっきりしていたはずなのに、じゃあどこが好きなのか、なぜ友人なのかと問われてはっきりと答えられる事は一つだって無かった。
出会いもあやふやで、付き合いもあやふやで、思えばそれは自分の感情から無意識のうちに目をそらしていただけなのかもしれない。
パルスィがどう考えているかはヤマメの知る所ではないが、少なくともヤマメにとってパルスィは手を出してはいけない相手のように思えたから。
縛ってしまうと思った。
蜘蛛だけに、なんて洒落を言うつもりは無かったが、あるいは本当にヤマメが蜘蛛だからこそ相手を縛り付けてしまうのかもしれない。
実際にそうしたことがあるわけではないが、もし恋人ができた時にきっと自分は相手を束縛してしまうだろうという予感はあった、まさにめんどくさい女そのものだ。
一方でパルスィは自由人。好き勝手に生きて、抱いて、壊して、そうやって生きている。
ヤマメは考える。自由奔放な彼女を縛り付けるなど、あってはならないことだ、と。
好きになってはならないとはそういうことだ、きっと自分ではパルスィを幸せには出来ない、満足させることはできない、だからせめて友人として。
だってらしくあることこそが幸せなことなのだから、と。
今もその気持ちは変わっては居ない、だからこそ決意できない、どうしてもへたれてしまう。
考えれば考える程、自分がパルスィにふさわしいとは思えなくなってくる。
そもそも友達である必要があるのか、誰を抱こうが砕こうがパルスィの勝手なのにそれを邪魔して、機嫌を損ねてみて、傍に居るだけで彼女に負担をかけているだけなのではないだろうか、なんて。そんなことまで。
いつもならとっくに来ているはずなのに一向に姿を見せないことが、ヤマメの不安をさらに加速させていた。
一時間、二時間、三時間、やはりパルスィは姿を見せない。
昼を過ぎ、大通りは次第に賑わい始めている、じきに狩りのやりやすい時間にもなるだろうに。
それとも今日は例の少女と一緒にデートでもしているのだろうか。
昨日、あのまま二人で宿に泊まったとするのなら、そのまま二人で出かけた可能性だって無くはない。
パルスィいわく、あまり獲物に入れ込みすぎないのがコツらしいのだが、例外がいつやってくるかはわからない。
ひょっとしたら、今回こそ本命だったのかもしれない。
惚れて、入れ込んで、自分が居たはずの場所にはあの少女が居て、自分は要らない存在になっていく。
嫌な想像ばかりがヤマメの脳裏を掠めた。
ごっそりとテンションを削り取っていく、立ち上がるのも億劫になるほどに自分の心が落ち込んでいくのがわかった。
自分は相応しくないと自覚しながらも、せめて傍にいるぐらいは、などとワガママすぎる。
本当にパルスィのことを大切にしたいと思っているのなら、幸せを思って身を引くべきだろうに。
今までさんざんパルスィやさとりに対して性格が悪いと貶してきたが、自分も人のこと言えないな、と自嘲する。
待てども待てどもパルスィは来ない。
今日は来ないつもりなのだろうが、今まで一度だってヤマメが待っていて来なかったことなど無かったと言うのに。
そもそも彼女は橋姫、そのくせ一日のうち一瞬だって橋にこないとは何事か、妖怪としてのアイデンティティを自ら放棄するなんて。
「……心配だし、見に行こっかな」
このまま待ち続けるのもアホらしい、だったらパルスィの家に向かって、居ないのなら今日はそれで諦めればいいだけの話。
あの少女と鉢合わせる事態だけは避けたいが、パルスィの身に何かあったのなら放っておくわけにもいくまい。
家の場所は知っていたが、今まで一度も行ったことは無かった。逆にパルスィがヤマメの家に来たことならあったのだが。
二人で温泉に行く程度には仲が良いと言うのに、思えば妙な話だ、それとも意図的にパルスィが避けていたのだろうか。
別に何があろうと、ヤマメは今更気にしたりはしないのだが。
何せ、彼女の一番汚い部分を一番近くで見てきたのだから、何が起きようとも今更だ。
大通りから少し入った所、裏通りには区別がつかない程に類似した外観の長屋がずらりと立ち並んでいる。
そのうちの一つがパルスィの家だった。
ヤマメがパルスィの住居をひと目で判別出来たのは、たまたま近くを通りがかった時にその場所を確認したことがあるからだ。
友達の家を訪れるだけ、ただそれだけのことで馬鹿みたいに緊張している自分を叱咤しつつ、ゆっくりと玄関の前に近づく。
そこで立ち止まり、大きく深呼吸。
変に意識してどうする、私たちはただの友人だ――と何度自分に言い聞かせても、ノイジーな心音は鳴り止まない。
深呼吸もちっぽけな気休め、自己暗示も緊張感を高めるだけ。
乱れる呼吸、こめかみににじむ汗、震える手。
この有様じゃあ、玄関を開くという容易いアクションすら満足にこなせそうにない。
ヤマメはしばし考えこんだ後、自分の顔をゆっくりと玄関に近づけ……耳をぴとりとくっつけた。
自分が錯乱していることはヤマメ自身とっくに理解している、認めている、どこからどう見ても今の彼女は不審者だ。
だが、まずは自分の心配事を一つ一つ潰していくべきだと判断した。
今のヤマメが正常な状態に戻るなど、おそらく不可能だ。だったらいっそ諦めて、不可能なら不可能なりに少しでも健全な精神状態に近づける。
そのために必要な行動こそが、パルスィの家の中の物音を探ること。あの少女の存在が無いことを確定させること。
「音は、しないかな。
うん、大丈夫みたい」
心配事は一つ消えた。
相変わらず気持ちは落ち着かないが、まあ多少は気持ちに余裕が出来たのかもしれない。
扉の右側には、いつからか地底に普及し始めたインターフォンのボタンがある。
外でできることはそう多くはない、結局の所、多くの心配事を解消するためには直接パルスィと顔を合わせるしかないのである。
「ん、んんっ、おほんっ」と軽く喉の調子を整え、握り拳で汗ばんだ右手、その人差し指をボタンへと伸ばす。
ピン、ポンと機械音が響いた。
チャイムから遅れること十秒ほど、家の中からは――やけに遅い足音が聞こえてくる。
様子はおかしいが、どうやらパルスィは中に居るらしい。
「だーれー……?」
気だるげでやる気のないパルスィの声が向こうから聞こえてくる。
「私、ヤマメだよ」
「ヤマメっ!? なんで……っ、えっと、その……とりあえず、開け……ん、いや、待って。
やっぱダメ、無理、開けない!」
「えええっ、開けてよっ!?」
すりガラスの向こう側にうっすらとパルスィの姿が見える。
彼女はすでに玄関に手を伸ばし鍵を摘んでいるはずなのに、何故かそこで思いとどまってしまった。
「なかなか橋に来ないから、心配で来たんだけど。
声も少しかすれてるし、もしかして病気なんじゃ……」
「し、心配無用……ごほっ……よ」
「じゃあ問題ないよね、ここを開けて」
「それは……その、誰か来るとは思ってなかったから油断してて、ちょっと外に出られる格好じゃないから……」
「私たちの関係なんだから、寝起きで油断したパルスィの姿だって私は見てるの、何もかも今更なんだって。
私相手に隠すことなんて何もないはずだよ?」
「逆よ、むしろヤマメだからこそっ……ケホッ、ケホッ!」
「ほら、言わんこっちゃない」
「えほっ……うぅ、近寄ったら伝染るわよ?」
その言い分は相手がヤマメでなければ顔を合わせない理由にはなったのかもしれないが、彼女相手に切るカードとしては最も不適切だ。
「私を誰だと思ってるの、土蜘蛛に風邪なんか伝染るわけないって普段のパルスィならわかるはずだけど」
「しまった……そういやそうだったわ。
ああヤマメ、あなたはどうして土蜘蛛なの……?」
「きっとパルスィを看病するために神様がそうしたんじゃないかな。
わかったら観念して開けなって」
「はぁ、神様まで出てきたんじゃ仕方ないわね、私の負けよ」
ヤマメに看病してもらえる状況を負けと呼ぶのは妙な話だが、パルスィはアンニュイな表情をしながらありったけのため息を吐き出して、しぶしぶ扉を開いた。
”どうして開けるのを躊躇ったのか”と問いただそうとしたヤマメだったが、その顔を見て理由を一瞬で理解してしまった。
なるほど確かに、これじゃあパルスィが開けたがらないのも納得できる。
「笑いなさいよ。
こんな顔してるんだもの、百年の恋も醒めるでしょう?」
パルスィは自虐気味に笑ってそう言った。
確かに目の下にはくっきりと隈が浮き上がっているし、目は充血して、顔も全体的に青ざめた上にむくんでいる。
それでも美人なあたりはさすがと言った所だが、本人からしてみれば最悪のコンディションである今の惨状は誰にも見せたくなかったのだろう。
だがヤマメにとっては些細な問題だった。
「ぷっ、なにそれ。
言ったよね、今更だって。パルスィ相手に醒める恋なんてありやしないよ」
「……そっか、そうよね」
「むしろその顔見て余計に不安になったじゃないか、どこが心配無用なのさこのばかちんめ。
頼り頼られなんて私たちの柄じゃないことぐらいわかってるけどさ、病気の時ぐらい甘えてくれていいんだからね」
「迷惑かけたくなかったの」
「迷惑を体現したようなお方が何を言ってるの?
むしろ頼ってくれない方が迷惑だよ、私たちの仲はその程度だったのかって悲しくなるからさ」
「ごめん、ありがと」
「あはは、お礼にはまだ早いってば」
ヤマメは家に上がると、真っ先にパルスィを布団に寝かせることにする。
他人が家に居ることに慣れていないのか、パルスィは落ち着かない様子だったが動きまわって症状が悪化されたたまったものじゃない。
「せめてお茶だけでも」と言うパルスィを半ば無理やり布団に押し込んだヤマメは、ひとまず浴室から桶と布巾を持ってくることにした。
予想通りと言うかなんというか、部屋はかなり散らかっている。
風邪を引いてしまって整理出来ないことも原因の一つだろうが、普段から散らかっていなければここまで酷くはならないはずだ。
パルスィの性格からして部屋が片付いているとは思っていなかったが、ここまで予想通りだとヤマメも思わず笑ってしまう。
荷物が多いためかなり狭く感じるが、広さ自体はヤマメの住居とそう変わらないようだ。
つまりは地底における住居の平均的な広さである。
台所、厠、風呂は完備。
食事は外食、風呂は銭湯で済ます者も多いので風呂台所無しの住居もそう少なくはないのだが、パルスィは一人の時間を大事にしたいタイプなのだとか。
確かに、獲物を前にした時と今のパルスィは丸っきり別人だ、美人が前に居ると手を出さずには居られない悪癖を持つだけに、スイッチの切替のためには孤独も必要なのかもしれない。
冷たい水を桶に注ぎ、脱衣所にあった白い布巾を手にとって居間まで運ぶ。
未使用の布巾が比較的わかりやすい場所に置いていあったのがせめてもの救いか、荷物をひっくり返して探せと言われたらそれだけで一苦労しそうだ。
居間に戻ると、どこか虚ろなパルスィの視線がヤマメの方を向いていた。
不謹慎とは思いながらも、妙な色気を感じてしまってヤマメの心臓がどくんと高鳴った。
馬鹿なこと考えてるんじゃない、と自分を叱りながら首を左右に振って邪念を振り払う。
幸いにして邪な考えはほんの一瞬で容易く消え、ヤマメはいつも通りの爽やかな笑顔でパルスィの視線に応えた。
「誰かが居てくれるだけで……こんなに楽なものなのね」
「まだ何もしてないって」
「何もしてなくても楽になるから驚いてるのよ、体じゃなくって気持ちの問題」
「だったらあの子呼べばよかったじゃん、尻尾をぶんぶん振り回しながら”お姉さまぁ~”って来てくれるんじゃない?」
ヤマメは布巾を水に浸し、絞って水を切る。
絞る手に、僅かではあるが過剰に力が込められていたのは嫉妬ゆえだろうか。
自分で言っておきながら嫉妬するなど馬鹿らしい、徐々にエスカレートする自身の面倒臭さにヤマメは思わず口端を引き攣らせ自嘲した。
「……」
「……パルスィ?」
返事もなしに急に黙りこくったパルスィは、なぜかじっとヤマメの方を見ている。
「もう、どうしたのさ。もしかして体がきついとか?」
「いえ……違うの、なんでもないわ、頭がぼうっとしていただけ」
「だったらいいけど……って良くないよ! ごめんね、あんまり喋らない方がいいよね」
十分に絞った布巾がパルスィの額に乗せられる。
その冷たさが火照る体に心地よかったのか、彼女は「はぁ」と再び色っぽく息を吐いた。
またドキリと高鳴るヤマメのわからずやな心臓。
「話してる方が気が楽なの、気にしないでいいわ」
「ほんとに?」
「病は気からって言うじゃない、あんたと話してると体の気だるさも忘れられるのよ。
だから……ね、いいでしょう?」
ヤマメにはとても大丈夫なようには見えなかったが、自分の体のことを一番良く知っているのは自分自身だ、パルスィがそう言うのなら仕方無い。
「そこまで言ってもらえると来たかいがあるってもんだけど、本当にきつくなったら言ってね、私のせいで長引いたりしたら申し訳ないし」
「あら、私はそれでもいいけど?」
「だめだよっ、いくら妖怪でもきついものはきついんでしょ!?」
「ふふっ、だってそうしたら明日も明後日もヤマメが看病に来てくれるんでしょう?
こんな機会、なかなかないわ」
「看病しなくたっていつも一緒にいるじゃんかよぅ」
「違うのよ、そういうのじゃなくて……ヤマメが家に居てくれるのが嬉しいっていうか。ほら、私がヤマメと一緒に居るのってあんた相手が一番リラックスできるからじゃない?」
「初めて聞いた」
「そうかしら……いや、そうかもしれないわね、わざわざ言葉にするような事じゃないもの」
だからこそ、パルスィにとってヤマメは触れてはならない存在なのだ。
自分の汚さとヤマメの清廉さはまさに対極、一緒に居るだけで心安らぐ存在など自分には相応しくない。
彼女はあまりに白く、純粋で、もっと他の――宝物でも扱うように大切に愛でてくれる誰かが、いつかきっと彼女には現れるだろう。
その時まで、一瞬の夢を見ているようなものなのだと、パルスィはそう思っていたから。
だからこそ必要以上に近づこうとはしなかった。
二人で温泉旅行に行こうなんて提案された時も実は悩みに悩んでいたし、ヤマメの部屋に招待された時も最初は自分の煩悩を抑えるので精一杯だった。
きっと、目はハイエナのように欲望でギラついていたはずだろう。
それでも、ヤマメは気付かないのだ。無邪気に語りかけて、笑って、あわよくばパルスィに触れようとしてくる。
「こんなの、贅沢よね」
「贅沢って、看病が?」
「ヤマメの看病なんて私には度が過ぎる幸せだわ、バチが当たりそう」
「なにさそれ、おだてるならもっと別の女の子にしなよ、私相手じゃお世辞の無駄遣いになるだけなんだからさ」
「あら、一番の友人であるヤマメほど相応しい相手がいるとでも?」
「いるじゃない、あの子が」
「それでも、一番はヤマメよ」
「はいはい、パルスィさんの一番になれて嬉しいですよーっと」
「冗談じゃないのに」、「冗談じゃなければいいのに」、二人はお互いに気付かない程度の小さな声でそう呟いた。
微妙な空気、双方共に交わす言葉が思い浮かばない。
他愛無い会話こそ長年続けてきた得意分野だったはずなのに、最近は時折こうして途切れることがある。
その沈黙は決して気まずい物ではないのだが、気まずさとは別に妙なこそばゆさを感じてしまって、ヤマメはその感覚が特に苦手で仕方なかった。
今だって例外ではない、じっとしていられなくなったヤマメはおもむろに立ち上がり、居間を出ようとする。
「どこに行くの?」
「台所、どうせ朝から何も食べてないんでしょう?」
「あぁ、そういえばそうだったわね。なんか思い出したらお腹減ってきたわ」
「食べることすら忘れてたの!? もう、かなり重症じゃないか。
急いで作るから待ってて」
先ほどちらっと台所を見た時は、食器を使った形跡が無かった。
つまり朝から何も口にしていないということなのだろう。
食欲が無いので昼まで何も口にせずとも平気だったのかもしれないが、体力を付けなければ治るものも治るまい。
「材料、あんまり無いかも」
「軽くおかゆを作るだけだから大丈夫じゃないかな……あ、ご飯はあるのかな?」
「ん、台所のおひつの中に少し残ってると思うわ、昨日の夜のだからまだ大丈夫だと思う。
あと、床下にある保管庫の中身は適当に使っていいから」
「りょーかい、じゃあちょっと待っててね」
「ええ、ヤマメのお尻でも見て待ってるわ」
「病人のくせに盛らないの、大人しく寝てなさい」
もちろんパルスィがヤマメの言うことを聞くはずなどなく、ヤマメは背後からの視線を感じながら料理をするハメになってしまった。
たまにちらりと後ろを見てみると、パルスィは本当に楽しそうにこちらを見ていて、振り向く度にヤマメの目を見て満開の笑みを浮かべる。
向けられた方が恥ずかしくなるほどの会心の笑みだ、ヤマメは自分の頬が熱くなるのを感じた。
「これは、まずいなあ」
料理ではない、ヤマメ自身がだ。
嘆いてはいるものの顔はにやついていて、とても危機感を抱いているようには見えないのだが、本人的には焦っているつもりだ。
いや、むしろにやついていることを自覚しているからこそ焦っている。
今の状況はただ見られているだけだ何を焦ることがあるというのか。
パルスィはからかっているだけ、以前のヤマメなら笑って流す場面……だったはず、なのだ。
それがどうだ、今じゃ見られるだけで背中がむずむずする、振り返って顔を見ようものなら頬が熱くなる、そうじゃなくても視線を感じるだけで勝手に顔がにやつく。
私を見ていてくれている、そんなどうでもいい理由で。
誰かを想うだけで、こうも変わってしまうものなのか。
この変化には劇的という言葉がぴったりと当てはまる。
それでも自分の想いを認めることができないなどと、往生際が悪いにも程がある。
さとりがへたれと呼ぶのも仕方無い、ヤマメ自身もそう思っている。
だが、それでも。
長い年月をかけて築いてきた友人というぬるま湯の関係、心地の良い居場所はそう簡単に捨てられる物ではない。
未だ、新たな関係に踏み出す欲求よりも、壊れるかもしれない恐怖の方が勝っている。
そう簡単に割り切れるものではない。
完成したおかゆを持って居間へ戻ろうと振り返ると、やはりパルスィはこちらをじっと見つめていた。
いつものいじわるな笑顔とは違う、具合が悪くてどこかぼんやりとした眼ではあるが、幸せを噛みしめるような、暖かな笑顔で。
贅沢だとか、度が過ぎる幸せだとか、ヤマメはてっきり自分をからかうための嘘、あるいは社交辞令だと思っていたのだが、その笑顔を見てあながち冗談でも無いのかもしれないと思った。
同時に、幸福感で胸が締め付けられる、顔が熱くなって頬が引きつる、勝手ににやついてしまう。
顔をぶんぶんと振り回し、にやつく顔を無理やり表情筋で押さえ込みながら、おかゆをパルスィの元へと運んでいった。
「本当にずっと見てたんだ」
「こうして寝っ転がって、私のために料理してる誰かの後ろ姿を眺めるのって結構楽しいのよ。
私には似合わない人並みの幸せだけどね、たまにはこういうのも悪く無いわ」
ヤマメにもその感情は理解できるような気がした。
遠くから聞こえてくる包丁がまな板を叩く音、ジュウジュウという何かが焼ける音、それを聞いているだけで安心感にも似た幸せを感じることができる。
一人暮らしに慣れると尚更だ。
友人と言うよりは、夫婦や親子だったりと家族を連想させる幸福感ではあるが、この際細かいことは隅においておこう。
確かに人並みではあるし、女遊びの過ぎるパルスィには似合わないのかもしれない。
だが、自虐気味にそう言ったパルスィはどこか寂しげで、ヤマメはそれが納得できなかった。
勝手に似合わないなんて判断されても困る、折角パルスィを幸せに出来たことで自分だって幸せになれたのに、と。
「そういう幸せが欲しいって言うんなら、頼まれればいつだってエプロンを着るし、料理ぐらいはするよ。
似合う似合わないなんて関係ない、要は自分が幸せかどうかが大切なんだから。
パルスィが幸せならそれでいいじゃん」
「私には過ぎた幸せよ」
「いつもは身勝手好き放題にやってるくせに、なんでこういう時だけ遠慮するかなぁ。
別に過ぎたっていいじゃない、幸せは沢山あった方がいいに決まってるんだから」
「私なんかが人並みの幸せなんて願ってもね、歪んでる方が私らしいと思わない?」
「思わないね。と言うか歪んでるって自覚あったんだ、びっくりだよ。
私はパルスィにしか料理は作らないし、幸せになって欲しいと思うのはパルスィだけなんだから。
遠慮して弾いた幸せが他の誰かの物になるわけじゃない、自分が不幸になることで誰かが幸せになるなんて考えてるんだったら無駄なんだからね」
「まさか、他の誰かに幸せになって欲しいなんて願ったこと無いわ、ただ私が幸せになるのが納得いかないってだけ」
「パルスィ、もしかして……いつもそんな風に思ってたの?」
「話したことなかったかしら」
「初耳だよ、パルスィの頭の中にネガティブな要素なんて欠片も無いと思ってた」
「……そう、熱で口がゆるくなってるのかもしれないわね。
あ、下の口はゆるくなってないわよ?」
「私が手に凶器持ってるの忘れてない?」
脈絡なく下ネタを突っ込んでくるのは一見して普段のパルスィらしく見えるかもしれないが、ヤマメには無理に自分が平常であることをアピールしようとしているとしか思えなかった。
あるいは、それで誤魔化して話の方向を変えようとしているのだろうか。
「おかゆプレイなんて特殊すぎてさすがの私もついていけないわ」
「パルスィ、さっきの話を続けてよ」
「とりあえず、それ一口頂戴よ」
「あぁ……うん、わかった。
ふぅーっ、ふぅーっ……はい、あーん」
「よ、よくもまあ恥ずかしげもなくそんなことを」
「食べないの?」
「食べるわよ!」
熱のせいか恥ずかしさからか、ほんのりと頬を染めながら口を開くパルスィ。
口に放り込まれたおかゆは熱すぎず冷たすぎず、喉にしみない程度の絶妙な塩加減。
今日はじめての食事、喉を通り胃袋へと落ちていく温かい感触がなぜか少しだけ懐かしい。
「それで、さっきの話」
「下ネタ?」
「違うっ、自分が幸せになるのが納得行かないって話!」
「ヤマメったら、私がわざと話を逸らしたのに気づいてなかったの?」
「気づいてるよ、でもそういう悩みって一人で心に押し込んだって善くなるわけじゃないでしょ?
むしろ自分一人で抱え込むと悪くなる類の奴だと思うけど」
「良くしようとなんて思ってないわ、私みたいなクズが幸せになるなんておかしい、それって当然のことじゃない」
「当然なんかじゃないっ、パルスィだって幸せになっていいし、何より私が幸せになってほしいと思ってるの!」
「何ムキになってるのよ……ケホッ、これでも病人なんだからね、あんまりうるさくしないで」
「あっ、ごめん」
「……」
ヤマメの悲しげな表情を見たら自分が苦しくなるだけだと理解しているはずなのに、思わず棘のある物言いをしてしまった事をパルスィは悔いる。
胸を締め付ける重い痛みは、病人の体には少しばかり荷が重すぎる。
パルスィだってわかってはいる、自分で抱え込んでもどうにもならないことも、このままで居ても事態が好転しないことだって。
だが事態の好転とはつまり、パルスィが”狩り”を辞めるか、あるいはむしろそれを誇りとして開き直るかの二択。
ありえるだろうか、染み付いた悪癖を断ち切るなど、全てを受け入れるなど。
そんなことができるのなら、とっくに自己嫌悪など消えて無くなっている。
出来ないからこそ悩んでいる。
ヤマメが本気で心配してくれている事も理解はしていたが、仮に誰かに相談するとしてもパルスィが相手としてヤマメを選ぶことは無いだろう。
何せ、その悩みの中心にはヤマメが居るのだから。
「ヤマメは……純粋すぎるのよ」
「恋愛経験が無いって話?」
「それも含めて、真っ白で眩しくて、余計に私の惨めさが際立つの。
……ふぅ、ほんと呆れちゃうわ。
こんなどうしようもない私を本気で心配してくれるなんて、地底どころかきっとこの世でヤマメ一人だけよ」
「そんなことないよっ、パルスィのこと知ったらきっとみんなだって……それに、さとりや勇儀だって仲良くしてるじゃん!」
確かにさとりと勇儀はパルスィの共通の友人だ。
さとりとパルスィはヤマメを介して知り合ったのだが、勇儀に関してはヤマメがパルスィと知り合うよりも前から面識があったらしい。
二人とも、パルスィの悪癖を知ってもなお嫌悪感を微塵も見せずに付き合ってくれている、パルスィが助けを求めれば自分と同じように応じてくれるはず――ヤマメはそう思っていた。
しかし、パルスィは静かに首を左右に振って否定する。
「もう、だからそういうとこが純粋すぎるって言ってるのよ。
あの二人は人付き合いが上手なの、ヤマメほど考えなしに深入りしたりはしないわ。
無償の善意なんて物はね、もっと性格が良くて見返りが期待できる相手にばらまくべきなの、そこを二人はわかってるってこと。
つまり、普通に考えて私にはそんな価値は無いんだから、自分でもわかってるぐらいなんだもの、ヤマメだって理解しないとね」
「だから、贅沢とか言ってたんだ」
「そういうこと。
ありがたい話ではあるんだけどね、実際こうして看病してもらって随分と楽になってるわ。
でもね、私はヤマメから貰った善意に対して善意で返せるほど善人じゃないし、そのくせ返せない事を気に咎める程度には常識を持ってるの」
「私の存在が重荷だって言いたいわけ?」
「違うわ、背負えるものなら私だって背負いたいわよ、でももっと別の人に尽くすべきだって言ってるの。
私みたいな汚れた女に尽くして、折角の純粋な気持ちを汚されるよりそっちの方がずうっと合理的でしょう?」
合理的な生き方、そんなものは自分とは無縁だと言うことをヤマメ自身も知っている。
お人好しだと言われて続けて何年の月日が過ぎたか、おかげで数えきれない程の感謝の言葉と、広い交友関係を持つに至ったが、しかしそれはヤマメの振りまいた善意の数と同数ではない。
中には恩を仇で返す者も居たし、最初から悪意を持って近づいてくる者も居た。
その度に親しい妖怪たちは口をそろえて言うのだ、お前はお人好し過ぎる、と。
知っている、わかっている、もっと上手に立ち回れば楽に生きていけることだって、わざわざパルスィから言われずとも薄々感づいてはいる。
「そういうの面倒くさい。
なんで合理的じゃないとだめなの?」
「だめじゃないわ、でも幸せになるには合理的に生きた方が良いに決まってるじゃない」
「そういうパルスィは合理的に生きてるの? 女の子を騙して侍らしてさ、あれが合理的とは思えないけどな」
「私は生き方が下手なのよ、反面教師にしないといけないの」
「わかってるなら治せばいいのに」
「無理よ、できるならとっくにやってるわ」
「じゃあ私も一緒、今更になって器用な生き方なんてできないよ、だってそれが私なんだもん」
人間と違って数年単位のスパンではない、彼女たちは百年単位で生きる妖怪、今まで何百年も続けてきたことを簡単に変えられるはずがない。
「ヤマメの場合は私とは違うわ、好意の向きを少し変えるだけでいいんだから。
私じゃなく、もっと価値のある他の誰かに向けてね」
「価値なんて、無いよ。
パルスィ以上に価値のある相手なんてこの世のどこにも居ない」
「視野が狭すぎるの、もっと広い世界を見なさい」
「広い世界なんてどうでもいいっ、私はパルスィだけを見ていたいの!」
「……ちょっと、ヤマメそれって」
「ち、違っ、変な意味じゃないからね!? ただ、私にとって一番大事なのがパルスィだってだけでっ」
「いや、それもそれでなかなか……」
「細かいとこ突っ込まないでよ! 私が言いたいのは、誰のために尽くすかなんて自分で決めるってこと。
そこに合理性なんて必要ないの、自己満足できればそれだけで」
「強情ね。
嬉しい半面、罪悪感が湧いてくるわ」
「なんでそんなものっ」
「わかってたのよ、ヤマメと私が吊り合わないなんてことぐらい、それこそ出会った時から。
なのに甘い蜜からは中々離れられない、ズルズルと関係を続けて、いつだって断ち切れたはずなのに、断ち切ろうとしたはずなのに、名残惜しいからって自分に何度も言い訳してね。
私の悪癖はいつでもそう、全ては私の意思の弱さが原因なの。
何だって、どれだって、辞めないといけないことはわかってたはずなのにね、それが出来ないから――私はいつまで経っても悪人のままなんでしょうけど」
ヤマメとの関係だけではない、恋人たちを引き裂き不幸にし続けてきたこと、それが悪行であることぐらいパルスィもわかっている。
許されないことも、辞めるべきことも、パルスィだってヤマメと同じ程度には常識を持っているのだ。
二人の違いは、それを実行に移す意思の強さがあるかどうかだけ。
ヤマメは強く、パルスィは弱い、簡単に言えばそれだけのこと。
「悪人に寄与した者はいつか裁かれるのが世の常よ、このままじゃヤマメもいつか悪人として裁かれてしまうわ」
「大げさすぎ、誰かに裁かれるなんてそんなこと……」
「今は大丈夫でも、いつか私と親しいってだけで誰かに嫌われるかもしれない、そんなの嫌でしょう?」
「いいよ、別に」
「よくないわ、損をするのはヤマメ自身よ」
「パルスィはたぶん、私の事を馬鹿にしてるんだと思う」
「馬鹿にできるほど良い身分じゃないわよ私は」
「いいや、無意識のうちに馬鹿にしてるんだよ。
いい? 私はパルスィが思ってるよりずっとパルスィのことが好きだから、好きで好きで仕方ないから傍に居るんだよ。
誰のためでもない、傍に居たら私自身が幸せだから、そういうすっごく自分勝手な理由で付きまとってるの。
パルスィのことをお姉さまとか呼ぶにわかファンなんかとは比べ物にならないぐらいなんだから。
惚れてる……とは違うけど、とにかく好きだから、想ってるから、一人の時間が苦しくなるぐらいに」
「告白してるの?」
「違うっ! いや、その、そんな風に聞こえるかもしれないけど、あくまで友達として好きってこと!」
ここまで言っておいて”誤魔化す”のも無理があるとは思っていたが、率直に告白できるほどの勇気をヤマメは持っていない。
あくまでこれは、友達としての友情の証明のための一手段。
恋愛成就のための告白はまた別の機会にということで。
「それにさ、パルスィだってさっきまで喜んでくれてたでしょ?
私が来て、おかゆつくって、看病して、やらしい目で私の後ろ姿見たりしてさ、その間ずっとニコニコしてたじゃん、病人のくせに」
「それは……」
「嬉しかったんでしょ?。それとも、全部嘘だった?」
「それは、嘘なんかじゃないけど……さっきも言った通り、私としては嬉しいのよ、ヤマメが看病してくれることも、いつも傍に居てくれることだってね。
朝起きて、まともに動けない状態でひとりきりで、本当は怖くて仕方なかったわ。
どうせ絶対に誰も来ないと思ってた、思ってたのに……ヤマメが来てくれて、本当に嬉しかった」
「でしょ? だったらそれでいいの、それだけで私は満足だよ。
合理性とか物の価値とか、誰かに決められるものなんかじゃないんだ。
私にとってパルスィが喜んでくれることはそれだけの価値があった、それで多少私が損することがあったとしても構わない、だってもっと大きなお返しを私は貰ったんだから」
いつか語り合った友情論よりもずっと恥ずかしいはずなのだが、不思議とヤマメは一片の羞恥も感じていなかった。
「……結局、何を言っても無駄そうね」
「当然、だって私は私のためにやってるだけなんだもん、他人の意見なんて関係ないね。
これって要は好きだから近くに居たいって私のワガママと、好きだから遠ざけたいって言うパルスィのワガママのぶつかり合いなんだから。
だからどっちかが……ううん、遠ざけたいって言うパルスィが折れるまで終わらない話なんだよ」
「何よそれ、ヤマメに好かれた時点で詰んでるんじゃない」
「そうよ、だからパルスィももっと好き勝手やってよ、いつもみたいにさ。
変にうじうじ悩んでるパルスィよりも、そっちのがずっと素敵だと思うから」
確かにヤマメはお人好しだが、全ての善意を見知らぬ誰かに向けられるほどのバイタリティを持っているわけではない。
リソースの限界も、それを割く優先順位も決まっている。
そしてその割合が日に日に偏ってきていることにも気づいている。
いずれは他人に善意を振りまく余裕など無くなってしまうのかもしれない、ただ一人、それほどまでに強く想う相手ができてしまったから。
「素敵とかそういう口説き文句を言うのはやめなさい、不覚にもきゅんと来るから」
「ふふん、してやったり、だね。
私にも狩人の素質があるのかな?」
「やめておきなさい、あんたがやったってろくな目に合わないわ」
「さっすが、経験者の言葉には重みがあるね」
ようやくいつも通りの雰囲気に戻った二人。
会話をしているうちにおかゆは冷ます必要が無い程度に温くなったようで、ヤマメがレンゲで掬いパルスィの口に運ぶと、パルスィはそのおかゆをパクパクと平らげていった。
食べるまでは食欲も湧かなかったが、いざ食べ始めるとお腹が鳴り出したらしい。
ヤマメが持ってきたおかゆが全てなくなると、パルスィは満足気に「ふぃ~」と息を吐いた。
「ごちそうさまでした」
「お粗末さまでした、じゃあ洗ってくるね」
「ええ、また存分に素敵なお尻を観察させてもらうわ」
「それ、本当に楽しいの?」
「これ以上ないほどに」
「……わっかんないなぁ」
洗い物をしている間、パルスィは本当にヤマメのお尻をじっと見つめていたらしい。
ただの嫌がらせなのか、それとも家事をするヤマメの後ろ姿を眺めて和んでいるだけなのか、はたまた性的な意味で凝視しているのか、ヤマメが振り向いた瞬間に見えるパルスィの笑顔からは何も読み取れない。
ヤマメに理解できるのは、ただただひたすらに幸せそうだということだけで、案外、深い意味はわからないままの方がいいのかもしれない。
洗い物を終えたヤマメは、パルスィの元へと戻ってくる。
「おかえりなさい」
「ただいま……ってそれはおかしくない?」
「こういうのは雰囲気よ、雰囲気。
それで、ヤマメはいつまでここに居てくれるのかしら」
「特に予定はないし、パルスィが居て欲しいなら泊まっていってもいいよ」
強いて言うならパルスィと会うことこそが予定だった、終了予定は飽きるまで。
こうして家で二人きりで過ごす限りはパルスィの狩りによって中断なんてことも無いはずなので、許可さえ降りればヤマメは平気で泊まっていくだろう。
目の前に居るのがパルスィだったとしても、全く警戒もせずに。
「宿泊オーケーなんて至れり尽くせりね。
本当に善意の塊なのね、感服するわ。とてもじゃないけど私には真似出来ないでしょうね」
「えー、じゃあ私が病気になってもパルスィは看病してくれないの?」
「あんたは病気になんてならないじゃない」
「私だってかかる病気ぐらいあると思うよ、たぶん。
それに怪我とかあるかもよ? もし寝たきりになったりしても、私と同じように看病してくれないのかなー」
「して欲しいならしてあげてもいいけど、貞操の安全は保証しないわよ」
「違う意味で床に伏せることになりそうだね……」
「安心なさい、私は床上手だから」
「微塵も安心出来ないよ! 私も看病される側の気持ちを味わいたいと思っただけなのに、パルスィ相手だとおかゆに媚薬とか混ぜられそうで怖いよ」
「やあね、私は薬なんて使わないわ。堕とすなら実力で堕とさないと面白くないもの」
「一応美学はあるんだね……」
ならばあの少女も、薬も怪しげな術も使わずにパルスィの手によって籠絡されてしまったのだろうか。
(……別に、羨ましいわけじゃないけど)
ならばヤマメの心に浮かんだ微かな嫉妬は一体何なのだろう、相手が自分であればよかったとでも言うつもりなのだろうか。
それは違うはずだ、ヤマメはパルスィから与えられる嘘なんて望んじゃいない。
きっとこれは、独占欲だ。
自分の物でもないくせに、一丁前に所有権を主張したところで、実際にパルスィと触れ合っているのはあの少女だという事実は変わらないのに。
例え嘘だったとしても、今パルスィの彼女を名乗ることができるのはあの少女だけ。
今のヤマメは所詮、ほんの少し変な気を起こしただけの、ただの友人に過ぎない。
勝手に妬んで、勝手に沈んで、会話の滞った数秒の間にみるみるうちに表情の曇ってしまったヤマメだったが、そんな彼女をパルスィはじっと見つめていた。
パルスィに心を読む力は無い、だが今のヤマメが何を考えているのかは理解できてしまった。
指摘するべきか、それとも心にしまいこんでおくべきか。
一瞬の葛藤、ふと思い出すのは先ほどのヤマメの言葉、”合理性なんてどうでも良い”と言う彼女の声はパルスィの自己嫌悪を全て払拭するには至らなかったが、全く効果が無かったわけではない。
開き直ってもいいのではないか、欲しいものがあるならば間違っていても進むべきではないのかと、奥底に閉じ込めてきた欲望が告げている、ヤマメに対する過剰な自制心が緩んでいる。
揺れる天秤は、今日に限って逃避側には傾かない。
まぶたを下ろしたまばたきの刹那で覚悟を決め、パルスィは口を開いた。
「ねえ、ヤマメ。ずっと思ってたんだけど」
「どしたの?」
まるで何事も無かったかのようにいつもの笑顔で反応するヤマメに、無慈悲に言い放つ。
「ん……その、私が何の妖怪かは、知ってるはずよね?」
最初はヤマメもその言葉の意図に気づいてはいなかった。
パルスィが真面目な顔をしているので重要なことなのだろうとは思ったが、しかし真意には辿り着けない。
「へ? そりゃあ、もちろん知ってるけど。
なにさ今更、そんな当たり前のこと確認して」
「さっき、ヤマメはあくまで友人としての好きで、変な意味は無いって言ってたじゃない?」
「うん、実際そうだからね」
嘘だ、ヤマメはパルスィに対して友情以上の感情を抱いていることをすでに自覚している。
見ぬかれてしまったのだろうか。
経験の浅いヤマメがパルスィ相手に隠し通すのは無理だったのだろうか。
「……」
「ねえパルスィ、急にどうしたの?」
「ヤマメ、言ってみてよ。私が何の妖怪なのか」
そんな当たり前のことを改めて言う必要があるのだろうか、それともからかわれているだけなのか。
どちらにせよ、言わなければパルスィは機嫌を損ねてしまいそうだ。
「橋姫、だよね」
答えてもパルスィの表情は変わらず、硬いまま。
しかしついさっきまでは普通に受け答えしていたはずなのに、パルスィはいつヤマメの感情に気づいたと言うのだろう。
「どんな力を持っているの?」
一切表情を崩さないパルスィからは、おふざけの雰囲気は見て取れない。
仮に彼女がふざけているのだとしたら、ここらでヤマメにしか分からない程度のボロを出すはずなのだが。
釈然としないまま、ヤマメは言われるがままにパルスィの問に答える。
「そりゃあ、嫉妬を操る……」
ヤマメが気づいたのは、その瞬間だった。
自分で言葉にして初めて気づく、気づいてしまう。
今までパルスィの能力がヤマメに向けられたことは無かった、だから当然のように知っていても、その力を意識することは無かったしその必要も無かった。
どうして、そんな単純なことを失念していたのだろう、と。
今更悔いてももう遅い、だが悔いずにはいられない。
あまりに不用意すぎる自分の行為に、血の気がさっと引いていく、顔が青ざめこめかみにじわりと冷や汗が滲んだ。
「あ……え? 嫉妬を、操るって……つまり……」
「別に責めようってわけじゃないの、ただ一応言っておいたほうがいいと思って」
他人の嫉妬心を煽り、嫉妬心を糧とする。
そんなパルスィに――嫉妬心が感知出来ないなんてことがありえるだろうか。
「さとりみたいに心を読めるわけじゃないから深い意味まではわからないわ。
でもね、誰が嫉妬をしたかぐらいはわかるし、相手がヤマメなら考えてることもなんとなくわかるの。
たぶんだけど……ヤマメが嫉妬してたのは、あの子のことを考えてた時よね?」
自分で話を振っておきながら嫉妬してみたり、面倒くさい女だと自嘲したことだってあったはずだ。
もう逃げられない、パルスィの緑の瞳はまっすぐにヤマメを捕らえている。
それでも、認めるわけにはいかなかった。
自分の気持ちには気づいている、だがまだ覚悟が決まっていない、伝えるには早過ぎる、こんな不安定な状態で
「そ、それはっ……あの、違うの、別にそういうつもりで考えてたわけじゃなくてっ!」
「そういうつもりって、どういうつもり?」
「違う、違うっ、えっと…ごめん、本当にごめんっ」
「どーして謝るのよ」
「だって嫉妬するなんておかしいじゃん!? 私たち友達なのに、ただの友達が恋人に嫉妬するなんてそんなこと……っ。
ごめん、本当にごめん、きっと私の頭が変になっちゃってるだけだから、気の迷いだからっ」
「そう、残念ね。私は嬉しかったのに」
「……へ?」
予想外のパルスィの言葉に、ヤマメは思わず固まる。
聞き間違えでなければ、パルスィは確かに嬉しかったと言ったはずだ。
「うそ、だ」
思わずこぼれた言葉がそれだった。
パルスィの熱病が伝染ったのだろうか、そのせいで妙な幻聴が聞こえてしまったのではないか、でなければ、そんなことありえるわけがない。
出会った時、ヤマメはパルスィのお眼鏡には敵わなかった。
友人として付き合う間、パルスィは一度だってそんな素振りを見せたことは無かった。
そもそも好きな相手に、他の女を口説く光景など見せるだろうか。
ありえない、そんなはずはない。だが、しかし――
パルスィはヤマメを遠ざけようとしていたはずだ。
自分には相応しく無いと考え、あえて汚い面を見せて関係を断ち切ろうとしていたのなら、その行動にも納得できる。
「これでも勇気を振り絞って言ったのに、第一声が嘘だなんてひどいわ」
「うそだよ、ありえない」
「ありえなくないわ、だってあの子たちはあくまで遊びなんだもの」
「でも、でもでもっ、今までそんなこと、一度だって!」
「言うわけ無いじゃない、だって私は触れることすら禁じてきたのよ?
私みたいな汚れた女が、ヤマメみたいな綺麗な女の子を汚しちゃ駄目だって」
「じゃあ、なんで……ってあいたっ!」
パルスィの人差し指がヤマメの眉間を小突く。
「忘れたの? さっき自分が言った言葉を」
「さっき、私が?」
ヤマメはパルスィに言ったはずだ、もっと自分勝手にやってみろ、と。
「許可、貰っちゃったから」
頬を染めてまっすぐに笑いかけるパルスィのことを、ヤマメは率直に可愛いと思った。
少女に見せる狩人の顔でもなく、ヤマメに見せてきた悪友としての顔でもなく、初めて見る、おそらく”恋人”としての顔。
胸が跳ねる、頭に血が上り顔が熱くなる。
こんな見たこと無い表情見せられたら、今でも好きなのに、もっともっと馬鹿みたいに好きになってしまう。
誤魔化そうとしても誤魔化せなくなってしまう、勢いだけで想いが暴走してしまいそうだ。
「正直言ってまだ割り切れない部分はあるわ、いきなり罪悪感が消えたりはしないもの。
でも、自分で禁止してたくせにそれを破って抱きしめちゃうぐらい限界だったのよ、耐えられるわけがないじゃない。
もう無理、ヤマメへの想いが罪の意識を塗りつぶしてしまったの」
ようやく、長い間抱き続けた疑問が解けていく。
どんなに否定されても、さとりからお墨付きを貰っても、パルスィがヤマメに触れようとしない理由――それが自分が土蜘蛛である故ではないかという疑念は消えなかった、今日この日までは。
本当は想いは一方通行なんじゃないかと、微かな不安がつきまとっていた。
「放っておいたら消えるんじゃないかと思ってたのに、むしろ逆だった。ヤマメへの想いは放っておくうちにどんどん大きくなってしまったわ。
こんな風に誰かのことを少しずつ好きになっていくの、初めてだった。どうしていいのかわからなかった。
知らなかったわ、恋ってこんなに厄介だったのね、逃げて時間を稼いだつもりだったのに、過ぎた時間だけ心にしっかり根付いて、どうやら一生消えそうにないわね。
ねえヤマメ、どうしてくれるの? これで責任取らないなんて言われたら、きっと私、一生誰のことも好きになれないわ」
パルスィはヤマメの気持ちだったら多少はわかると言っていた。
それはヤマメも同じことだ、これだけ一緒に居れば心を読めずとも何を考えているのか、多少ならわかる。
だから、パルスィがふざけているわけでもからかっているわけでもなく、本気で想いを伝えていることは、疑う余地もなくヤマメにもわかっていた。
わかっていたから――
「……っ」
うまく、言葉に出来ない。
こみ上げてくる感情はおそらく歓喜と呼ばれる類の物で、普通だったら大声で万歳三唱でもしながら跳びはねるぐらい嬉しいはずだ。
だが、常軌を逸した感情の奔流は、体で表現する限界を超えていて思うように表に出すことが出来ない。
とにかく落ち着かなければ。
そう判断したヤマメは、一度大きく深呼吸をして気持ちを落ち着ける。
そのおかげか、どうにかパルスィの言葉に対して返答をすることができた。
「たぶん……私も、一緒だと思う。
最初のうちは、見て見ぬふりをしたらいつか消えてるだろうって思った、でも違ったんだ。
目を逸らしてるうちに手遅れなまでに大きくなって、大きすぎて目を逸らすこともできなくなってさ。
挙句の果てには嫉妬して、遊びだってわかってるのに抑えきれなくなって、隠しきれなくて」
「そんなこと考えてくれてたんだ」
「……うん、考えちゃった」
俯きながらヤマメは力なく笑った。
仮にヤマメがパルスィの能力のことを覚えていたとしても、嫉妬を抑え切れたかと言われれば微妙なところだ。
嫉妬したくて嫉妬したわけじゃない、たまたま話題に少女のことが出てきて、反射的に嫉妬してしまっただけだ、パルスィへの想いを強く自覚してしまった以上、避けられる物では無い。
遅かれ早かれいずれはこうなる運命だったのだろう。
「まだ割り切れないって顔してるわね、そんなに友達の関係が名残惜しかった?」
「できれば一生そうありたかったかな、だってぬるま湯みたいに心地いいんだもん」
「熱情は好みじゃないのね」
「知らない物ってそれだけで怖いから、パルスィは慣れてるから平気だろうけどさ」
「冗談、こんな気持ちは初めてだってさっき言ったはずよ。
きっと私、初恋もまだだったのよ。
誰かを好きになるってことがこんなに熱いなんて、初めて知ったわ。ほら」
パルスィはヤマメの手を取ると、自分の頬に当てた。
赤く火照る柔らかな頬の感触を指先で感じる。
確かにパルスィの言うように、平熱よりはかなり熱があがっているようだ。
「熱、また上がったんじゃない?」
「風邪ぐらいでここまで熱くなるわけないでしょう、わからないの?」
「経験豊富なパルスィと違って、いかんせん何もかも初めてなんですー。
こうしてパルスィの体温を感じることすら数えられる程度しかないのに、わかるわけないじゃん」
「仕方ないわね、じゃあもっとわかるようにしてあげるわ」
ヤマメの腕をぐいっと引き寄せ、力づくで顔を近づける。
「うわっ!?」と驚いたヤマメは、そのままバランスを崩してしまった。
転んだ先はパルスィの顔の真横。
少し顔を動かすだけで触れてしまいそうなほどの近さで、肌越しに体温が伝わってくるほどだ。
あまりに近さに顔を真っ赤にしているヤマメの耳元で、パルスィはそっと囁く。
「ここに、お願い」
艶めかしいウィスパーボイスと、微かに耳をくすぐる吐息にヤマメは思わず体を震わせた。
パルスィの人差し指は、赤く濡れた唇を指している。
彼女は、ヤマメの見たことのない顔をしていた。
きっとそれは、今まで夜を共にしてきたどんな女の子にも見せたことの無い顔だ。
優しく、熱く、婀娜やかで、蠱惑的。
土蜘蛛に誘蛾灯に惹かれる趣味はないが、今日だけは例外でも良い。そう思ってしまうほどに魅力的な灯りだった。
プライドなんて二の次で、絡め取られて、囚われが幸福であるというのなら、それでもいいと。
「はふ……」
導かれるまま、ヤマメは唇を寄せる。
唇が触れる直前、緊張のあまりヤマメの漏らした吐息がパルスィの唇を撫でた。
「んぁ……っ」
こそばゆい感触に思わず漏らした小さな喘ぎがヤマメの耳元にまで届くと、寸前まで躊躇っていた彼女の抑止力は微塵も残らず消えてしまった。
脳が沸騰するというのはこういうことを言うのか。
ヤマメは自分が見たこともない表情をしているのがわかった、恥ずがしいぐらい熱情に溺れて、劣情に溢れている。
きっとパルスィ以外には見せてはイケナイ表情だと、直感で理解した。
見せてはいけないというか、見せたくない。
願わくばこれから一生、彼女専用であって欲しいと。
そして、唇が触れ合う。
境界線を超える瞬間、二人を縛っていた不可視の枷が壊れる音がした。
あるいはそれは理性の箍だったのかもしれない。
唇と唇を触れ合わせるという行為の意味。
手と手を触れ合わせるのと何が違うというのだろう、抱き合うほうがずっと密着する面積は多いじゃないか、以前にヤマメはそんなことを考えたことがあったが――自分がとんでもない阿呆だったことを痛感させられる。
違う、これは違う、自分が慣れていないせいもあるかもしれないが、これは致命的な行為だ。
後戻りなんて出来ないと、本能が、頭が痛くなるぐらいガンガンと警鐘を鳴らしている。
「ん……ぁ……」
どちらともなく唇の隙間から声が漏れる。
唇を触れ合わせる間、パルスィの脳はぐつぐつと煮立っているようだった。
キスなんて慣れていたはずなのに、どうして今更。
やっぱり自分は恋なんてしていなかったのだ、そう実感する。
誰を抱いた時よりも充足している、誰に愛された時よりも充実している、つまり今までのそれは全て愛などでは無かったのだ。
だったら劣情? いいや、劣情ですらなかった、ただ欲望を発散するのにちょうどいい道具があっただけで、ヤマメに比べれば、そんな物。
なにせキスで全てを凌駕してしまうのだから、他の全てなんて無価値になるに決まっている。
他人の恋路を好き勝手に荒らしておいて反省の一つも無いのか、とパルスィの中の善なる心が咎めるが、九割を占める悪なる心がすぐに消してしまう。
だからなんだ、他人がなんだ、おもちゃがどうした、私はヤマメが好きなんだから仕方ないだろう、と。
「ぷはぁっ!」
たっぷり数十秒も唇を合わせあった二人は、ヤマメの息切れと同時に顔を離した。
どうやらヤマメはキスをしている間ずっと息を止めていたらしい、顔を真っ赤にしてとろんとした目のまま、ぜえぜえと大げさに肩で息をしている。
「ふ、ふふっ、あはははっ……げほっ、けほっ……はふっ、あっはははははっ!」
締まらないオチに思わずパルスィは咳き込みながら笑ってしまう。
「いいじゃん別にっ、慣れてるパルスィと違って私はファーストキスだったんだからさ!」
ヤマメは顔を真っ赤にしながら頬を膨らませて抗議するが、ツボに入ってしまったパルスィは咳き込みながらもゲラゲラと笑い続けている。
しばしヤマメは言い訳を続けたものの、そのうちパルスィの耳まで届いたのは一言か二言程度。
結局、パルスィが落ち着くまで不満気に睨むことしかできなかった。
「はひっ、ひー……はぁ、あは……ひぃ……あぁ、もうヤマメったら、本当に……っ」
「馬鹿にしてる!」
「ヤマメがかわいすぎるのが悪いのよ……ふふっ、もう、ほんとなんでこんなにかわいいのよ、私を笑い殺すつもり?」
「やっぱり馬鹿にしてるじゃんかよう!」
「違うわよ、可愛いってのは褒め言葉。いちいちヤマメの反応が可愛いからいけないのよ。
そうやってあんたの色んな喜怒哀楽見せられると、そのたびに好きになってくの」
「っ……好き、とか……」
「もちろん、友達としてじゃないわよ?」
「わかってる、よ」
わかっているからこそ、慣れない。
キスをしてしまった、それでもまだ完全に覚悟ができたわけじゃない。
「まだ心残りなのね」
「だって!」
「わかる、わかるわ、私たち友達としての付き合いが長すぎたのよ、それが急に次のステップになんて簡単に受け入れられる物じゃないわよね」
「でも、キスまでしたのに、私……」
「じゃあこうしましょう」
パルスィはヤマメの不安を少しでも和らげようと優しく手を握り、母親が子をあやすように語りかける。
「私たちは今日から、恋人予備軍になるの」
「……予備軍?」
聞き慣れない言葉に、思わずヤマメは首を傾げる。
恋人に予備軍などあるのだろうか、予備軍なんて名乗ってる時点でもう恋人と何も変わらないのではないか。
頭の上で無数のハテナが飛び交うヤマメ。
そんな動作がいちいち可愛らしいヤマメに心を奪われながらも、パルスィは話を続ける。
「そう、まだ友達だけど、お互いに恋人の予約をしておくのよ。
正直言って、私にもまだ整理しないといけないことはいくつもあるもの、正式に恋人になるのはその後でも遅くないわ。
ヤマメだってそうでしょう、気持ちの整理したいわよね?」
「うん、パルスィほど厄介事を抱えてるつもりないけど、少しはあるかな」
「だったら丁度いいじゃない、それでいきましょう」
「けどっ、私たちもうキスまでしたんだよ? なのに予備軍って今更過ぎるんじゃ」
「いいじゃないキスぐらい」
「だから価値観が違いすぎるんだよー!」
やはり色恋沙汰に慣れているパルスィは価値観がずれている、ヤマメはそう思っているのだが、実はすでに二人は一度口づけを交わしている。
もちろんヤマメはそのことを覚えてはいない。
もしこれが二人にとって初めてのキスならばパルスィは心穏やかでは居られなかったはずだが、今平気な顔をしていられるのは酔っ払ったヤマメとキスをしておいたおかげ。
衝動に任せて強引に唇を奪っておいたあの時の自分に、パルスィは初めて感謝した。
無論、だからといって当時の罪悪感が消えるわけではないのだが。
「良くない、絶対に良くないよ、だってキスしたらもう恋人だよ、普通そうなんだよ、私たちがどう言い訳しても他の人は認めてくれないし、言い逃れできないってば!」
「話さなければいいだけじゃない、一体誰に言い逃れするのよ」
「さとりとか……あとは……えっと、さとりとか」
人の心に土足で踏み込んで好き放題に荒らしていく、心の空き巣こと古明地さとり。
彼女と友人である以上、どんなに避けても逃げ続けるのには限界がある。
いつか必ず、それも割と近いうちに顔を合わせることになるはずだ。
「ってかさとりだけだよ!
ううぅ、ほんとあの子どうしよう、さとりと会う時だけ都合よくキスのこと忘れるなんてできるわけないしさ」
「予備軍はキスまではセーフなのよ、胸を張りなさい」
「そのルール絶対にさとりには通用しないって……と言うか、予備軍でキスなんだから、卒業したら私どうなっちゃうの!?」
「それはもう……ね?」
「何が”ね”なのさ!?」
「やあね、わかってるでしょう? ヤマメだって子供じゃないんだから」
「うっ……」
恋人になるとは、つまりそういうことだ。
今までとは違うのは関係性だけじゃない、肉体的なふれあいも、その深度も今までと変わってくるだろう。
その時が来たとして、自分がどうなってしまうのかヤマメには想像出来ないが――
「やっぱり、恋人だとそういうことするんだ」
「もちろんよ、ヤマメだって興味無いわけじゃないでしょう?」
「う、うん、まあ」
想像すら出来ないが、興味が無いと言えば嘘になる。
好きな相手が目の前にいるのなら尚更に、手を重ねあうだけでこれだけ心地良いのだから、肌と肌を重ねあわせればどうなるのか、考えるだけでぞわりとした感覚が全身に走る。
「ちなみには私はかなり興味があるわ」
「言われなくても知ってる!」
この調子だと、予備軍を卒業した瞬間に全裸になって襲ってきそうだ。
ヤマメにそう思わせるほど、パルスィの顔には興奮度合いがありありと現れていた。病人のくせに。
「私、そういうの、よくわかんないけど、さ。
こう見えても私、パルスィのことは信頼してるから。
いや……完全に信頼してるかって言われると微妙なところだけど、嫌な所沢山あるし、性格悪いし、意地悪だし、女たらしだし、今も現在進行形で浮気してるぐらいだし」
「信頼できるのかできないのかどっちなの?」
「自分の日頃の行いを考えてみなよ」
「……うーん、清廉潔白そのものね」
「そういうところが信頼できないって言ってるの!」
ただのジョークだとは理解していても、平気な顔をして言ってのける神経がヤマメにはどうも理解できない。
何年経っても、出会った当時から変わらなかったとしても、深い信頼関係を築いていたとしても、理解できない物は理解できないのだ。
誰かを”完全に”信頼することなんて、きっとこの世の誰にだって出来ない。
出来たとしてもそれは信頼じゃない、おそらくは信仰とか崇拝とか、友情や愛情とは違う何かだ。
百の短所があっても一つでも多い長所があれば相手を好きになれる、なんて話があるが、ヤマメの場合はパルスィの長所を百言い切るまでに短所を千は言えるだろう。
数だけの話をすれば、嫌いな部分の方が多い、だから完全に信頼だって出来ない。
それでもパルスィのことを好きになれたのは――たった十の、あるいは一の”好き”が、千の”嫌い”を凌駕したからこそ。
「でも、基本的には信頼してるよ? 少なくとも、私のことに関しては裏切らないだろうって、そこだけは確信してる」
どんなに他人を裏切っても、ヤマメの前では優しくて愉快な友人で居てくれた。
自己中心的な好意だとはわかっている、パルスィに裏切られて泣いてきた数多の女性たちのことを可哀想だとも思っている。
それでも、”だから何なんだ”と、ヤマメはそう思ってしまうのだ。
善人を気取りながら、そのくせ自分の中にそんな冷たい部分があるとは思いもしなかった。
今まで恋愛を経験したことが無かったので気付かなかったが、どうもヤマメは恋敵と呼ばれる相手に対してはどこまでも冷たくなれるらしい。
泣いてしまえ、不幸になってしまえとも思わない。
ただただ、どうでもいい。パルスィから優しくしてもらうことに比べれば、塵芥よりも些細な事だ。
「……うん、そういうことだし、たぶん大丈夫、かな。
えへへ、なんか恥ずかしいけど。
でも、ちょっとぐらい痛いのは我慢するから、その時がきたら私も私なりに頑張ってみるね」
「――」
だから、少なくともパルスィがヤマメの傷つくことをすることは無いのだろう。
彼女が正常な状態であれば、の話だが。
だが当のパルスィは、ヤマメが首を傾げてみたり顔を赤らめてみたりする度に理性を削られ、欲望との戦いを常に強いられてきたのである。
その上、こんなお許しのような言葉を聞かされたのでは、正気で居られるわけもなく――
「……ねえ、ヤマメ」
「ん?」
「襲ってもいい?」
「病人のくせに何言ってるの、駄目に決まってるじゃん!」
「えぇー、やだやだっ、襲いたいー! おーかーしーたーいー! ヤマメ可愛すぎるんだもんー! ゴホッ、ゴホッ!」
「風邪の前に頭の病気を治した方がいいのかな……」
ヤマメは苦笑いしながら、咳き込むパルスィの背中をさすり続けたのであった。
「しっかし、不思議なもんよね。
こうして手を繋いで黙ってるだけで幸せになれるなんて、考えたこともなかったわ」
「それはパルスィが普通じゃない恋愛ばっかしてきたからだよ、まともに好きになったらこんなもんじゃないかな。
……まだ予備軍だけど」
そう、あの少女だって最初に見かけた時は男と手を繋いで幸せそうに微笑んでいたはずだ。
「あ、今ちょっと嫉妬したでしょ?」
「あう……」
少女のことを少しでも考えると、反射的に嫉妬心が湧き上がってきてしまう。
ほんの些細な感情の変化だったはずなのだが、パルスィの目は逃れられないようだ。
「またあの子のこと考えてたの?」
「考えるつもりなかったんだけど、手を繋いでるとこ思い出しちゃってさ」
「ああ、最初に見た時の……」
「きっと今の私たちと同じような気持ちだったんだよ、暖かくて、苦しいぐらい幸せで」
全てが奪われるまでは、少女だってこの初心な幸福に身を任せていたのだ。
それを壊してしまうことの罪深さ、自分のやってきたことがどれだけ他人を傷つけてきたのか、パルスィはそれを知ったつもりでいたが――どうやら、まだ半分も理解できていなかったことを、たった今思い知った。
自分の感情によって。
誰かを好きになるということが、ここまで心を動かすことだと想いもしなかったから。
「本当に私、何も知らなかったのね」
「何が?」
「恋愛のこと、知ったつもりになってたわ。
だめね、これじゃとてもじゃないけどヤマメのこと笑えやしないわ。
そうね確かにヤマメの――みんなの言う通りだったのよ、私はとんだ悪魔だった。
こんなに幸せな今を奪われるなんて、私が同じ立場だったら、きっと耐え切れないわ。
もしヤマメが私みたいな誰かに奪われたなら、奪ったそいつを殺して、ヤマメも殺して、私も死んでやるんだから」
「あはは、物騒だなあ。
素直に嬉しいって言って良いのかわからないけど、パルスィの気持ちは伝わってきたかな」
「でも、私はそれをやってきたのよ。
殺したくなるぐらいの憎しみを、笑いながら食らってきたの」
「うん、知ってた。
そんで今ものうのうと生きてるわけだ、酷いやつだよね」
「反省してるわ、柄にもなく」
「自分でそれ言っちゃうんだ」
後悔自体は今までだってあった。
辞められるのなら辞めてしまいたいと思ってはいたが、優柔不断さ故に中々実行に移せない。
行為を続ける自分自身、そして辞めることの出来ない意思薄弱な自分、そのくせナルシストを気取ってヤマメと接する自分。
何もかも、嫌いで嫌いで仕方なかった。
だが、あくまでそれはパルスィ自身の都合でしか無い。
どんなに自分のことを嫌っても、被害者に対して申し訳ないと思ったことは一度も無かったのだ。
好意の正反対は無関心。
パルスィは今まで奪ってきた少女たちに性欲以上の欲求を抱いたことは無かった、どんなに懐かれ尽くされても実益以上に得たものがあるとは思えなかった。
つまり、パルスィが少女たちに対して感情らしい感情を抱いたのはこれが初めてということになる。
「うわあ、本当に反省してるっぽい顔してる。
珍しいなあ、カメラ借りてくればよかった」
「ぽいって何よ、ぽいって。
いつも私の事ボロクソ言ってるけど、あんたもなかなか酷いと思わうよ?」
「そりゃあねえ、パルスィみたいな酷い奴の恋人予備軍だもん、そうなっちゃうよ」
ヤマメはにひひと歯を見せながら笑い、握り合う手にきゅっと少しだけ力を込める。
抗議しようにも、そんな笑顔を見せられたんじゃ何も言えるはずがない。
以前のパルスィなら容赦なく皮肉の一つや二つ言えただろうに、恋はかくも人の心を変えてしまうものなのか。
知らないことばかり、慣れないことばかり、まさかヤマメに好き勝手に心をかき乱されることになるとは、少し前までは想像したこともなかった。
「そだ、パルスィは寝なくていいの? かれこれ二時間はこうしてお喋りしてるけど、まだ喉は痛いんでしょ」
「痛いけど喋られないほどじゃないわ。
それにね、あんな告白まがいのことしておいて眠れるわけないじゃない、すっかり目が冴えちゃったわ」
「それもそっか、私もまだ胸がバクバク言ってるぐらいだし。
でも、まさかあのパルスィとキスするなんてね、今でも変な感じ」
「そうね、相手があのヤマメだって言うんだもの、出会った頃の私に言ってもきっと信じてくれないでしょうね」
お互いに、ありえないと思っていた。
パルスィは相手を直感で見定めるタイプだったので、最初に見た時ピンと来なかった相手には基本的に手を出してこなかった。
要するにヤマメには何も感じるものは無かったのだ、確かに可愛くはあったがパルスィのタイプではなかったはずだ。
ヤマメは相手をしっかりと見定めるタイプだったので、内面真っ黒のパルスィだけは絶対に無いと思っていた。
未だにどこに惹かれたのかは分からない、確かに見た目だけは満点をあげてもいいが、ヤマメが見た目で相手を選ぶわけがない。
逆に、だからこそよかったのかもしれないが。
こいつだけはありえないとお互いに思っていたから、飾る必要がなかった。汚い部分だってさらけ出せた。
欠点ばかりを遠慮なしに曝け出した癖に、それでも惹かれ合ってしまった、そんなのもう恋をするしかない。
「結局、好みなんて固定観念に過ぎなかったってことよね、いざ好きになってみればちっぽけな物だもの」
「昔さ、知り合いに好みはどんな人かって聞かれたことがあって、その時に誠実で優しい人だって答えたんだ」
「恋話する知り合いなんていたのね」
「言ってくれるなあ、まあ確かに酔った勢いではあったけどさ。
でも、あの時の知り合いにパルスィとこんな関係になりましたー、なんて話したらきっと大笑いするだろうね」
「あら、誠実で優しいって私にぴったりじゃない?」
「またそういう事言ってさ、ほんと懲りないよね。
そんなパルスィは早く寝てしまえっ」
「わぷっ!?」
ヤマメは布団を引っ張りあげ、パルスィの顔の上に放り投げるように被せた。
すっかり顔が隠れてしまったパルスィは、布団の中からくぐもった声でヤマメに話しかける。
「乱暴ね。
言っておくけど、別に冗談を言ったつもりは無いのよ」
「じゃあ何さ、嘘? ジョーク?」
「ヤマメの前では誠実で優しい私でありたいっていう、意思表示」
顔を覆った布団が、今だけは都合よく照れ隠しをしてくれる。
「……まあ、期待だけはしといてあげようかな」
「むー、それだけ?」
「そういうことは、まずは予備軍なんて情けない呼び名を卒業してから言おうよ。
確かに私も気持ちの整理は必要だけど、パルスィはそれだけじゃなくて身辺整理も必要だよね?」
「身辺整理って……」
あの少女は未だパルスィの恋人のままだ。
パルスィがどう思おうと、男から奪い純粋な心を汚した責任は取らなければならない。
それに、男から奪っておいてその張本人がさらに浮気してました、なんて事実が少女に知れれば彼女が何をするかわかったものじゃない。
「ちゃんと謝ってきなよ、あの子にさ。
大丈夫、多少怪我したって私がまた看病してあげるから」
「もし殺されたらどうするのよ」
「慰めてあげる」
「それ私もう死んでるからね?」
「本当に怖いなら私が付いて行ってあげてもいいけど、そっちの方がもっと怖くない?」
「それは……確かにそうね、本気で殺されかねないわ」
この子と付き合うから別れよう、なんて馬鹿げた真似が通用するはずもない。
結局はパルスィが一人で解決するしかない問題なのだ、ヤマメが出ていった所で話がこじれるだけである。
「言っておくけど、この件に関しては完全にパルスィの自業自得だから。
よって、私は同情もフォローもしません。あの子に加勢はするかもしれないけどね」
「どっちの味方なのよ」
「もちろんあの子の方だよ、好きになったからって手放しで何もかも許すわけじゃないのさ」
「恋人になっても薄情なのね」
「予備軍、でしょ?」
「予備軍が取れたら優しくしてくれるわけ?」
「考えといてあげるよ」
それはパルスィが自らの罪を精算した後ということ。
だったら何ら問題はない、攻める要素が無いのだから自然とヤマメはパルスィに対して優しく接することになるだろう。
ぐだぐだと駄弁っている内に、時間は足早に過ぎていく。
気付けばパルスィは一睡もしないまま、三時間が経過してしまった。
「ね、ヤマメ。そろそろ帰らないでいいの?」
「なんで? 泊まって良いって言ったのはパルスィだよ」
「私も泊まってくれると嬉しいと思ってたんだけど、考えてみればヤマメにだってヤマメの都合があるでしょう?」
「特に約束はないよ」
「家事は?」
「それは……そこそこに」
「ほら、あるんじゃない」
パルスィの看病自体が予定外の出来事だったのだ、パルスィの言うとおり家でやり残したこともある。
洗濯、掃除に、今日までに処分しなければならない食料もあったはずだ。
「このまま話してたんじゃいつまでも眠れそうにないから、ヤマメの言うとおりいつまでも起きてるわけにはいかないもの、私も病人なんだし」
「本当に大丈夫なの?」
「平気よ、私だって妖怪の端くれだもの、風邪ごときに負けてる場合じゃないわ。
明日には元気な姿を見せて安心させてあげる」
「そう言うなら……わかった、今日のところは帰るね。
あ、でももう少しだけは手を繋いでおいてもいいよね? この感触覚えておきたいんだ、家に帰っても寂しくないように」
「……また、そうやって不意にドキドキさせるんだから」
「な、何が?」
「ヤマメが天然ジゴロだってことがわかったって言ってるの。
まあいいわ、じゃあ気が済むまで握ってなさい、私もその感触を覚えておくから」
「そのまま夢にも現れちゃおうかな」
「そうなれば最高ね、楽しみだわ」
ヤマメの存在のおかげで随分とパルスィの体は楽になったが、気だるさが完全に消えたわけではない。
いざ目を閉じてみると、案外早く眠気はやってきた。
やはり疲れていたのだろうか、一連の告白劇は病人には負担が大きすぎたか。
「そうだ、帰りに持って帰って欲しいものがあるのだけど」
「何を?」
「部屋の隅に、小さい三段の引き出しがあるでしょう。その上に鍵が乗ってるはずなんだけど」
ヤマメが部屋を見渡すと、ちょうど背後に腰ほどの高さの木製の引き出しがあるのが見えた。
言われた通り、確かに上には鍵が乗っている。
「うん、乗ってるね」
「それ持って帰って」
「え、それってこの家の鍵じゃ……」
「……」
「ちょっと、パルスィ!? ねえ、それって合鍵ってことだよね、そんな大事なもの私が貰ってもいいの?」
「……明日からは、勝手に入ってきていいから」
「ほ、本当に……いいの? 冗談じゃないよね、今更嘘とか言わないよね」
「駄目なら渡さないわ」
「そっか、そう、だよね。そうなるよね」
さすがにヤマメもこれには戸惑う。
確かに予備軍にはなったものの、いきなり合鍵なんて重要アイテムを渡されるとは思いもしなかったからだ。
実はパルスィも、そこまでするつもりは無かった。
本当に勢いで、急に思いついた事を何も考えずに実行しただけ、言った後にとんでもなく大胆な事をしてしまったことに気付いたわけだが、全ては後の祭りでしかない。
「じゃあ、もらって行くから、本当の本当にもらって行くから」
「……」
照れ隠しの寝たふりだ、本当はまだまだ眠れそうにない。
折角眠気が近づいてきていたのに、これでは告白の時に逆戻りしたようなものだ。
しかも、どんなに目を閉じて顔を半分隠しても、顔は耳まで赤くなっている、ヤマメには丸見えだろう。
「んへへ……」
ヤマメの上機嫌な笑い声が聞こえてくる。
パルスィ自身もさすがに急ぎすぎたかと思ったが、ヤマメが喜んでくれたのなら成功と言っても良さそうだ。
どうせ、遅かれ早かれ渡すつもりではいたのだから、多少早まった所で大した問題ではない。
そのあとヤマメは宣言通り、満足するまで手を繋いでから――しばらくして名残惜しそうに、その手を離した。
「じゃあね、また明日。おやすみ」
耳元で囁かれた別れの挨拶は優しく、温かい。
枕元を離れていく足音は軽やかに、セットで鼻歌まで聞こえてきて、ヤマメは家をでるまでこれ以上にないほど上機嫌だった。
布団を被るパルスィの心音は未だドクドクと激しく高鳴ったままだ。
その後、パルスィが眠れたのはさらに二時間ほど経ったあとのことだったらしい。
――それから、二人の”いつもの場所”は例の橋からパルスィの家に変わった。
特に約束をしていないのは以前と同じだし、意味もなく駄弁っているのも以前と同じ、場所が変わっただけで二人のやることは基本的には変わらない。
ただ、時折無性に相手が愛おしくなってキスをしたくなるとか、甘えたくなって抱きついてみたりとか、身体的な接触は以前よりも遥かに増えている。
それを抜きにしても常に体の一部が触れた状態で居ることが多くなった。
理由としては、パルスィが拒まなくなったのが大きい。
元からヤマメはスキンシップを取りたがるタイプだったし、パルスィも妙な劣等感さえなければ誰かとふれあうのは嫌いじゃない、つまりこうなるのは必然だったのかもしれない。
数日経つと、パルスィの家にはヤマメの持ち物が少し増えた。
最初はうっかり忘れていった小物だけだったが、次第に洋服が増え、二人で行った買い物ついでにお揃いの寝間着を買い、布団は一つだが枕が二つ並ぶようになった。
ついでにお風呂にも二人で入るように。
実はパルスィははじめのうち、過度なスキンシップを避けていた。
予備軍という言葉を取るにあたって、ヤマメは友情と愛情の間で揺れ動く自分の気持ちを整理するだけでいいのだが、パルスィには二つも問題がある。
一つは少女のこと、人間関係の整理。
そしてもう一つが、ヤマメに対する罪悪感について。
いくらヤマメから許可を貰ったとはいえ自己嫌悪が消えるわけでもない、罪悪感も完全に割り切れるわけではない。
時間の流れが自分の気持ちを変えてくれるのかもしれない、だがそれではヤマメを長い時間待たせてしまうことになる。
悩むパルスィだったが、その悩みはヤマメの言葉で案外簡単に解決してしまった。
二人で枕を並べて眠る夜、二人で同じ天井を見上げながら、ヤマメが控えめの声で語り出す。
「パルスィは、白いキャンバスがなんで白で生まれてきたか知ってる?」
「人間の都合でしょう」
「ぶっぶー、不正解です。
しかし夢も希望もない答えだね、パルスィらしいといえばパルスィらしいんだけど。
正解は、誰かに絵を描いてもらうため、だよ」
「普通じゃない、なぞなぞじゃなかったの?」
「言い方を変えれば、誰かに汚してもらうため、そのために彼らは白で生まれてきた」
「何が言いたいの」
「ちょっと自惚れ過ぎかとも思ったんだけどさ、パルスィの考え方が行き過ぎてるからこそ悩みは消えないんだと思うから。
要するに、パルスィから見て私は触るのを躊躇するぐらい綺麗な状態なんだよね」
汚したくないということは、相対的に見てヤマメの方が綺麗でなければ成り立たない。
ヤマメも同じぐらい汚れていたのなら、パルスィが罪悪感を抱く必要などないのだから。
「そうね……私が汚れすぎてるとも言えるけど」
「つまり、白いキャンバスは私」
「ヤマメが?」
「うん、そして絵の具がパルスィ」
「……」
「私が白に生まれてきたのは、きっと誰かに汚してもらうためだった。
誰にも使われない道具ほど虚しい物も無いと思わない?」
「だから、罪の意識なんていらないって言うの?」
「うん、私は使われたい、使われるために生まれて、ここにいる。
もちろん誰でもいいってわけじゃない、パルスィが良いからこうやって一緒に居るんだよ」
「汚すとか使うとか、あんたは私の理性をどこに飛ばすつもり?」
「そういうつもりじゃないよ!?
あ、いや、そっか、そういうことに……なるの、かな。
最終的にはね、そういう使われ方もいいと思うけど、私が言いたかったのはスキンシップ全般のこと。
触れ合った時に罪悪感なんてあったら悲しいよ。
私は手を繋いだら心の全部が幸せだし、頭の全部で喜んでるよ。
でもパルスィは、九割ぐらいしか幸せじゃないし、喜べてない、見ててわかるんだ」
「……ごめん」
「謝らないでよ。
それを治すために私が居て、こうして普段は絶対に言えないような恥ずかしいセリフ言ってるんだから。
だからさ、私は使って欲しいんだってこと、それが当たり前のことなんだってこと、それを伝えたかったの」
「あたり前の、こと」
「そう、誰も咎めないし、むしろ私はそうしてほしい。
パルスィだって本当は、そうしたいって思ってるんでしょ?」
それから、パルスィの自己暗示が始まった。
罪悪感だっていわばネガティブな自己暗示の結果なのだから、”当たり前だ”と自分に言い聞かせることによって相殺することだって出来るはずだった。
パルスィの目論見通り、みるみるうちに罪悪感は消えていく。触れ合う瞬間を心の底から幸せだと感じることが出来る。
これでもう、二人を遮るものは何もなかった。
あとはパルスィの個人的な問題を解決するだけ、それだけで予備軍なんて言葉は容易く消してしまえる。
過ぎ行く日々、全ての問題は解決せずとも二人の関係は少しずつ変わっていく。
「んふふー……」
「どうしたのよ、何も無いところで急に笑って。気持ち悪いわよ」
「うわひどい、歯ブラシ見て微笑んでただけじゃんか」
「さすがの私も歯ブラシに劣情は催さないわ」
「催してない! ただ、私とパルスィの歯ブラシが並んでるのが素敵だなって思っただけ」
「ああ……そうね、確かに言われてみれば、なんだか卑猥だわ」
「どうしてそっちに持ってくのさ!?」
コップに並ぶ色違いの歯ブラシは、まるで恋人が同棲する家の光景のようで、見るたびにヤマメの表情は思わず綻んでしまう。
パルスィも茶化してはいるが、その後しばらくは歯ブラシを見て人知れずニヤニヤと笑っていたようだ。
少しずつ変わっていく、少しずつ同じになっていく。
どうやらヤマメとパルスィの使っていたシャンプーはそれぞれ別の物だったようで、以前は髪の香りが微妙に違っていた。
それが今では同じ物を使っているので同じ香りがする。
特別それを言葉にして言うことは無かったが、ヤマメは自分の髪の香りを嗅ぎながら、
「パルスィと同じ匂いがする……」
と頬を赤らめていたし、パルスィもヤマメの髪が振りまく香りに満足気に微笑んだりしていた。
支配欲が満たされるとでも言えば良いだろうか、髪の香りが変わったことで、ヤマメが自分の物になっていくような気がしたのだ。
二人の関係は良好、問題は何一つ無い……ように思えたが、しかしヤマメの心には不安が一つ。
一週間以上経ってもまだ、パルスィが少女と会う様子がない。
それはある意味ではヤマメにとっての安心でもある。
正直に言えば、このまま二人の関係が自然消滅してくれるならそれでも別に構わないと思っていた。
だが、それではあまりに締りのない終わり方をしてしまう。
はっきりとした終わりがなければ、パルスィがまたあの遊びに走ってしまうような気がしてならない。
浮気は、嫌だ。
いくらパルスィの嫌な面を知っていたとしても、恋人(予備軍)になった今と友人だった当時では許容出来る範囲だって変わってくる。
世間一般の常識では、状況からして今はヤマメが浮気相手ということになるのだろう。
そのくせ偉そうなことを言うのは道理に反しているとも思ったが、それでも嫌なものは嫌なのだ。
かといって、ヤマメが口を出せるような問題でも無いのがこれまた厄介だ。
こればかりはパルスィ自身が自分で解決するしかない。
下手にヤマメが手を出そう物なら、それこそ本当に少女に殺されかねないのだから。
多くの幸福に満たされ、一抹の不安を抱えたまま、恋人予備軍を卒業出来ないままに時間は過ぎ去っていく。
大通りは今日もいつかと同じように賑わっている。
橋姫を名乗りながら久しく橋へと来ていなかったパルスィは、散歩がてらふらりと外へと繰りだした。
幸い、ヤマメは買い物に行っているので不在だ、帰ってくるまでに戻れば心配をかけることもないだろう。
「こんにちは妖怪のクズさん、ごきげんいかがですか?」
頬杖をつきながら川の流れを眺めていたパルスィは、背後から突然罵倒を浴びせられる。
出会い頭にこんな挨拶をしてくる妖怪は地帝広しと言えども一人しかいまい。
「さとり、挨拶にしては辛辣すぎない?」
「世の中を舐め腐っている甘ちゃんにはお似合いだと思いましたが、私間違ったこと言いましたか?」
「……ふん」
さとりに聞こえるように舌打ちをしてみせるが、この程度で彼女が怖気づくわけがない。
パルスィは心を読まれるのが苦手で仕方なかった。
彼女は邪心を抱きすぎる、ヤマメが根っからの善人だとするのなら、パルスィは根っからの悪人なのだ。
「そんなあなたが、不相応にも彼女の前だけでは善人を装おうとしている、こんなに滑稽なことが他にあるでしょうか。
妖怪、無理はするものではありませんよ、体に祟りますから」
自分の生きざまに反する行為は、文字通り妖怪にとって毒になる。
もっとも、パルスィは嫉妬を操る妖怪なので善人を装った所で何ら問題はないのだが。
さとりの言葉は単なる皮肉に過ぎない。
「私はヤマメに相応しく無いっての?」
「相応しいとお思いですか?」
「質問を質問で返さないでよ。
ええそうね、言うとおりよ、私はヤマメには似合わない、あの子にはもっと優しくて正直な見知らぬ誰かが寄り添うべきなんでしょう」
「それをわかっていても、ヤマメさんを離すつもりはない、と。
彼女も随分厄介な妖怪に捕まってしまったものですね、折角の善人が勿体無い」
「だから何よ、言っておくけど私は――」
「悪人、悪い女だから関係ない、ですよね。
開き直った愚か者ほど手に負えない物はありません、これでヤマメさんが騙されているとか、正気を失っているのなら迷わずに二人を引き裂くのですが。
残念なことにヤマメさんも心の底から貴方にベタぼれと来たもんです、これではうかつに手を出せないではないですか。
……まあ、今回はそんなことをしに来たわけではないから別に構わないのですが」
「あんた、ヤマメ相手だと微妙に優しいわよね。
私には好き放題言うくせに」
「根っからの善人に容赦なく悪意を浴びせられるほど心のない生き物ではありませんからね。
そのあたり、パルスィさん相手なら遠慮しなくていいから楽です、サンドバッグ代わりって所でしょうか」
「私も傷つく心は持ってるのよ」
「それだけ他人を傷つけてきたのですから、傷ついて当然ではありませんか?」
「ふふ、道理だわ」
殺伐とした関係ではあるが、この二人も間違いなく友人ではあった。
容赦なく罵声を浴びせあえる関係というのも、それはそれで貴重なのである。
ある意味で対等、フェアな関係と呼べるだろう。
「さて、今日はパルスィさんに一つか二つ……いや、もっと沢山言っておきたいことがあって来たのですが」
「よく見つけられたわね」
「聞き込みなんてしなくても目撃情報は集められますから、パルスィさんの家の前から地道に探せば自然と見つかりますよ。
それで、私から言いたいことについてなんですが、先日たまたま道端で買い物中のヤマメさんを見つけましてね、これはいい機会だと思って頭のなかをじっくり覗いてみたんですよ」
「何がいい機会よ……」
「楽しいですよ?」
「そりゃあんたはそうでしょうね!」
パルスィのことを悪人呼ばわりするさとりだが、彼女の方も大概だ。
もう少し遠慮って物を覚えてくれれば、その嫌われっぷりに同情も出来るのだが。
「ヤマメさんってば以外とナイーブなんですよね。
いつもは二人で買い物しててヤマメさんがそれを心から楽しみにしてること、その日はたまたまパルスィさんが用事で一緒に買物にいけなくて心の底からがっかりしてることや、それ以外も色々とわかりました。
あ、そういえば今日はパルスィさん一人なんですね、ヤマメさんはどうしたんですか?」
「……その、一人で買い物に行ってるわ」
「そうなんですか、可哀想に、さぞ寂しがってることでしょうね。
まあそれはいいとして、本題は買い物の件じゃなく、例の少女の方です」
「さらっと流したけど今の私に対する嫌がらせよね、そうなのよね!?」
「勘ぐり過ぎですよ、ただ私は思ったことを言葉にしただけですから」
そう言うさとりは実に満足気な笑みを浮かべている、これが悪意でないと言うのなら何だと言うのか。
「それで、例の子の件ですが」
「やっぱ、さとりが知らないわけがないわよね」
「ヤマメさん、随分と不安に思ってるみたいですよ。
自分で整理するとか言っておきながら、もうかれこれ二週間も放置してるんですからね。
人間のどす黒い部分を見てきた私でもこれにはドン引きです、まさか未練でもあるんですか?」
「あるわけないでしょう?」
さとりは全てをわかった上で言っているのだからたちが悪い。
そう、ヤマメと恋人予備軍になったあの日から、パルスィは一度もあの少女と会っていなかった。
謝るべきだと理解しながらも、上手い謝罪の仕方も、事の解決の方法も思い浮かばないままずるずると二週間が経過してしまったのである。
「あろうがなかろうが、どちらにしても女々しいことに変わりはありませんがね。
私が甘ちゃんだと言ったのはそのことです。
誰も傷つけたくない? 出来れば自分は痛い目を見たくない? 上手く解決できる方法が見つかるまで誤魔化したい?
ほんと、どこまで甘ったれるつもりなんですか貴方は、ヤマメさんは吐き気がするほどの善人でしたが、あなたは吐き気がするほどのドへたれですね。
せめて自分が傷付く覚悟ぐらいしたらどうなんです、今更になって誰も傷つかない結末なんて無理に決まってるじゃないですか」
「夢を見るぐらいいいじゃない」
「夢が実現するまで動く気がないくせによく言いますね、問題を先延ばしにするほど傷は大きくなる一方ですよ?
いいですか、パルスィさんはすでに手遅れな場所に居るんです。
軟着陸しようなんて無理な話なんですよ、だってもうとっくに墜ちているのですから。
それでも少女を傷つけたくないというのなら、もう一度飛び立たなければならない。
いいですよ、やってみればいいじゃないですか。
その場合、ヤマメさんを酷く傷つけることになると思いますが、パルスィさんの望み通りに無難に軟着陸できると思いますよ」
「んなことできるわけないでしょう?」
「だったらどうします?
ヤマメさんを傷つけないためにパルスィさんとあの子が傷ついて終わるのか、それともいっそ殺してしまいますか? それなら傷つくのは一人で済みます」
「ふざけたことを言ってくれるわね」
「でも一瞬、魅力的だと思いましたよね?」
「っ……」
そんなに面倒なら”妖怪らしく”殺してしまうのも手だと、一瞬だが思ってしまったのは事実だ。
だがパルスィにそれを実行に移す勇気があるわけがない。
「先程は相応しくないと言いましたが、あなたがヤマメさんと出会ったのは、ある意味で正解だったのかもしれません。
彼女が居なければ、あなたは一人で奈落の底まで落ちていたでしょうから」
「奈落ねえ、私にそんな度量があると思うのかしら」
「そんなもの必要ありませんよ、ずるずると流されるままに引き込まれればいいだけです。
気づいていないかもしれませんが、ヤマメさんは以前からずっとあなたを支えていてくれたんですよ。
煩わしいと思っていた彼女のお小言が知らず知らずうちにパルスィさんを救っていたんです」
「そう、あんたが言うなら本当なんでしょうね」
「ええ、ですからもっと感謝してあげるべきだと思うんです。
せめて寂しい思いはさせないであげてほしいですね」
「しつこいわね……明日からはちゃんと一緒に買物にも行くわよ」
「そうしてあげてください、彼女が寂しいとなんだか私もあまり気分が良くないんですよ」
「あら、もしかして恋敵かしら?」
「ご冗談を、私はただの厄介な友人ですよ」
そう言いつつ、さとりは目を伏せて軽く微笑んだ。
もちろん恋敵などではないが、さとりもそれなりにはヤマメのことを想ってはいるようだ。
故に、今日も無意味にパルスィに嫌がらせをしにきたわけではない。
「一応、今日は忠告のつもりで来たのですが話がぶれてしまいましたね。
端的に言えば、もうあまり時間はないという事をお伝えしたかったんです。
例の少女を一度見かけましたが、それなりに追い詰められている様子でしたよ。
当然ですよね、愛しのお姉さまからの連絡がぱたりと途絶えてしまったのですから。
この状況でヤマメさんと一緒に居るところを見られたりしたら……場合によっては」
「わかってる、近いうちにケリをつけるつもりではあったのよ」
「パルスィさんにとっても初めての体験ですからね、躊躇う気持ちも、まあ全く理解できないというわけではありません。
ですがくれぐれも、ヤマメさんが傷つくような結末にはならないよう。
私は別に殺すという案を否定したわけではありませんよ、必要だというのならそれも一つの方法なのでしょう」
「そうならないように頑張ってみるわ」
「はい、頑張ってください」
最後の一言だけは、純粋に応援してくれているように聞こえた。
さとりには不似合いな言葉ではあったが、それだけに本気度合いが伝わってくる。
確かにさとりはヤマメに傷ついてほしくないと思っているが、一応はパルスィのことも心配はしている。
仲が良いと胸を張って言えるような関係ではないが、それでもそれもさとりにとっては貴重な友人のうちの一人なのだから。
買い物からの帰り道、ヤマメは必要な食材をメモした紙を眺めながら最後のチェックをしていた。
今日の夕食は豪勢にすき焼き。
特別なイベントがあるというわけでもないが、たまには豪勢な食事も悪くはない。
幸い、二人共大食いという訳でもないので、量が少ない分だけ質にお金をかけられる。
「卵に、お肉に、白菜、春菊、豆腐にしらたきに、あとザラメも買ってるよね、うんオーケー、買い漏らしは無いみたい」
手首にぶら下げた袋の中身を確認しながら、パルスィの待つ家に向かって歩くその姿は新妻に見えなくもない。
何も無いのにヤマメがニヤニヤしているのはそういう理由だった。
やだ、今の私ってちょっと新妻っぽい!? なんて馬鹿げた事を考えつつ、それが近いうちに実現するんじゃないかという淡い希望もさらに妄想を加速させる。
「どーせまた、今日も料理してたら襲われちゃうんだろうなー。
エプロン姿に興奮したパルスィが、私の背後からがばっと抱きついてきて、そのままいちゃいちゃと……んふ、んふふ、ふふふふふぅ~」
思わずヤマメの口から気持ちの悪い笑い声が漏れてしまった。
幸い通行人はヤマメ以外におらず、その姿は誰にも見られることは無かったが、仮に誰かが見ていれば怪訝な目で見られることは間違いない。
実際、ヤマメのエプロン姿はパルスィの大好物らしく、その後ろ姿を見ると我慢できずに毎回抱きついてくるのだ。
もちろん嫌なわけがない、ヤマメにとってはいちゃいちゃチャンスである。
未だ予備軍は取れないのでキス以上のことは出来ないが、それでもヤマメを蕩けさせるには十分過ぎるほど濃密なスキンシップ。
これで予備軍が取れたらどうなっちゃうんだろう、という期待感がさらにさらに妄想を暴走させた。
「あ、あんなことや……そんなこと……ダメだよ、パルスィそんなところはっ……あぁっ!」
体をくねらせながら歩くヤマメは、客観的に見て……いや、どう見てもただの不審者でしかない。
人生初めての恋人(予備軍)に浮かれてしまうのは仕方ないのだが、日に日にエスカレートする妄想にヤマメ自身も少し危機感を覚えつつあった。
このままだと、いつか人目も気にしなくなってしまうのではないか、と。
しかし今のヤマメの頭は完全にお惚気モード、そんな危機感も妄想に容易く掻き消されてしまう。
「なーんて、あるのかなー、あるんだろうなー、だってあのパルスィだもん」
人通りの無い路地にヤマメの独り言が響く。
そう、人影はない。
ヤマメと――彼女の物以外、誰も。
「無いはずな……がっ!?」
全く油断していた、気配の察知など考えもしなかった、だって誰かに狙われるなんて想像すらしていなかったから。
鈍い音と同時に、後頭部に強い衝撃。
ガクンと首が曲がり、ヤマメの視界が意識ごと揺らぐ。
”何が起こったのか”、分析するよりも前に一瞬にして意識は消え、最後に残ったのは自分の体が地面に叩きつけられる感覚。
「ぅ……あぁ……」
最後はうめき声を出すのが精一杯。
それから、意識はすぐに闇の底へと沈んでいった。
路地に残されたのは、たった一人の少女。
歳相応の少女らしくか弱く細いその腕に、拳二個分ほどの大きさの岩を持って。
「はぁ、はぁ、はぁ……」
肩を上下させながら、倒れたヤマメをじっと睨みつけている。
殺意にも似た憎しみを込めて、まさに鬼の形相で。
「はぁぁ……は、はぁ……っく……ぁ……はぁ……」
ここで殺してもいいと思った。
だが、まだ早い。
確かめなければならないことがいくつもある。
だから、まだ殺すわけにはいかなかった。
ズルズルと死体を引きずり、腕を台の上に載せる。
用意したノコギリは表面が錆び、切れ味の保証はされていなかったが、代えを探しに行く余裕などなかった。
手首に刃を当て、ぐっと力を込め前へとすべらせる。
錆びているせいか、手首の表面が少し切れただけだった。
次はさらに力を込め、後ろへと引き抜く。
今度こそは、ぐちゅりと肉を割く感触があった、どうやら上手く刃を入れる事が出来たらしい。
それから骨に到達するまでのあいだ、前へ後ろへとリズミカルに繰り返すことが出来た。
切断は順調に進む。
最初は気持ち悪い感触だと思ったが、慣れてみると普段料理に使う肉と何ら変わらない。
そう、これは死体。死んでしまえばただの肉、だったら食卓に並ぶ肉と何の違いなどないはずだ。
ガリッ。
刃が骨まで到達する。
さすがに錆びた刃では分が悪いのか、押しても引いても中々切れそうにない。
それでも止めるわけにはいかなかった、あまり時間をかけるのも好ましくない。
鬼らしく、力づくで事を進めることにした。
のこぎりが先に壊れてしまいそうだったが、その時はその時、見栄えは悪いだろうが強引に引きちぎればいい。
ガリ、ガリ。
錆びたのこぎりの歯が手首の骨と削れあい、肉を撹拌する音と混じって不快な音が小屋に響く。
馬鹿げたことをしている自覚はあった。
そもそも悪いのは彼女ではなかったはずなのに。
巻き込む必要などなく、自分と相手だけで解決したらいいだけの問題に、なぜ他人を巻き込んでしまったのか。
大通りを歩くお姉さまの姿を見た。
すぐに近づいて甘えてやろうと思ったが、その隣には見知らぬ女の姿があって、二人は手を繋いで、お姉さまは私の見たことのない幸せそうな表情をしていた。
本物を、見せられた気分だった。
直感的に、普段見ているお姉さまの表情は嘘だったんだって気付いてしまったのだ。
酷く傷ついて、数日の間、店を休んでしまった。
その間、一人で部屋にこもって、ずっと嫌なイメージばかりを見ていた。
思えば、周りの友人は揃って私の事を心配していた。
酷いことはされていないか、あんな奴とは関わらない方がいい。
悪い噂だって、本当は知っていたのに。
それこそ、出会った当初から。
なのに、信じてしまった。
甘い言葉に誑かされて、刹那的な快楽に溺れていって、後戻りのできない所まで来てしまったから。
だから、もう信じる以外の選択肢が私には残されていなくて、そしたら案の定裏切られてしまった。
最初は、歩いている彼女の後ろ姿を見かけただけだった。
ようやく少しだけ立ち直って、外を歩けるようになってすぐのこと、たまたま見かけたのだ。見かけてしまったのだ。
もしかしたら彼女も私同様に騙されているのかもしれない、そのうち裏切られるのかもしれない、つまり可哀想な被害者なのだ。
そう考えながらも、気付けば岩を握っていた。
衝動的な殺意、理性で制御出来ない憎悪。
故に、一切の躊躇はなかった。
今だってそう、これだけ残酷なことをしておきながら一切の躊躇はない。
壊れてしまったのか、あるいは元からこうだったのか。
わからない。自分のことなのに、何も。
たったひとつ、はっきりしていることといえば……もう、後戻りなんて出来なくて。
ほんの少しだったけど、お姉さまと過ごせた幸せな時間はもう戻らないんだろうなって、ただ、それだけ。
パルスィがさとりと別れ家に帰ってから、玄関を開けてもヤマメは迎えてはくれなかった。
さとりに釘を刺されたこともあって急いで帰ったのだが、さすがに早すぎたようである。
誰かの帰りをここまで心待ちにすることなど今までなかった。
これなら言われた通り、最初から一緒に買い物に行っておけば良かったと公開しつつ、パルスィは首を長くしてヤマメの帰りを待ち続けた。
一時間経過してもヤマメは帰ってこなかった。
どこに寄り道しているのか、それともまたお人好しで誰かを助けているのだろうか、あのヤマメなら十分にありえる。
特に心配することは無い。
パルスィはお節介にも誰かを助けるヤマメの姿を想像しながら、一人笑っていた。
二時間経過、それでもヤマメは帰ってこない。
直前にさとりと話していた内容が内容だっただけに、さすがにパルスィも不安になってくる。
だが、”殺される”と言っていたのはあくまで冗談のつもりであって、あの少女がそこまでの強硬策に出るとは思えなかった。
パルスィの今までの経験が、まだその段階ではないと告げていたのだ。
少し買いすぎただけ、あるいはどこかで落し物をして探しているとか、とにかく何かしらの想定外の出来事に見舞われているだけ。
そう考えることにした。
パルスィの顔から、笑顔は消えていた。
三時間経過、やはりヤマメは帰ってこない。
すれ違いになる可能性も考えて待っていたが、これ以上は我慢できない。
仮に人助けしていたとしても、三時間も帰ってこないなんて異常だ、だったら一緒に手伝って早めに済ませた方がいい。
探しているうちに帰ってきたのならその時はその時、笑って泣きながら抱きしめてやればいい。
パルスィは急いで家を飛び出そうとした、その時――
コンコン、と控えめに玄関を叩く音が聞こえてきた。
突然の出来事に返事もできずに居ると、再び同じようなノック音が聞こえてくる。
来客、それも、ヤマメではない。
一瞬ヤマメの帰宅を期待したが、彼女は鍵を持っている。
ひょっとすると鍵を落としてしまい探していて遅くなったのかもしれないが、玄関のすりガラス越しに見えるシルエットはヤマメのそれとは異なる。
ゆっくりと玄関に近づいたパルスィは、おそるおそる手を伸ばし、ドアを開いた。
「こんばんは、お姉さま」
そこには、いつもと変わらず満面の笑みを浮かべる、少女の姿があった。
「こ、こんばんは」
反射的に返事をしてしまったが、すぐさまパルスィの頭にいくつかの疑問が浮かぶ。
なぜ彼女がこの場所を知っているのか。
なぜこのタイミングで現れたのか。
そして、手に持っている薄汚れた木箱は一体何なのか。
「なんだか変な感じですね、こうしてお姉さまの家に来るのなんて初めてですから」
「どうして、この場所を?」
「だって、お姉さまったら有名人じゃないですか。調べたらすぐにわかりますよ」
確かに、パルスィは悪い意味で有名人ではある。
それにしたって、今まで付き合ってきた相手にだって家の場所を教えたことはなかったのに、そんなに簡単に住所を知ることができるだろうか。
元地獄である旧都には住所録なんて便利なものだって無いというのに。
「そう……」
だが、パルスィは”なぜ知っているのか”と問いただすことが出来なかった。
情けない話だが認めるしか無い、怖かったのだ。
家の場所を知られた事だけではない、他の疑問もそう、今の彼女に聞くことは出来ない。
確かにパッと見でいつもと同じような表情をしていたが、その笑顔は普段と違いどこか凍りついた、人形のような印象がある。
明確な差異は見て取れないが、明らかにいつもと違う、どこか壊れた笑みであることをパルスィが察していたからだ。
そして何より、この少女からは――強い強い嫉妬を感じ取ることができる。
皮肉にも量、質、共に文句なしの上質な嫉妬が。
「ねえ、あなた」
「ああそうだ、お姉さまの家の中見せてくださいよ、どんな素敵な家に住んでるのかずっと興味があったんですよ」
勇気を振り絞り話を聞き出そうとしたパルスィだったが、少女の言葉に遮られてしまう。
なんてわざとらしい、露骨なインターセプトなのだろう。
聞かれたくないことでもあるだろうか、それとも、何もかもを聞かれたくないのだろうか。
「待ちなさい、まずはその」
「お姉さま、ダメですよ恥ずかしがったって。
今までは私が嫌だって言っても、無理やり恥ずかしい所見てきたじゃないですか、なのにお姉さまだけ見せないなんて不公平です」
「ちょ、ちょっと待ちなさいって」
「なんですか、見られたら困るものでもあるんですか?」
確かに見られたら困るものはいくらでもある。
おそろいのパジャマ、二つ並んだ歯ブラシ、明らかに自分の物とはセンスもサイズも違う下着――その他諸々。
「そんなものはっ」
語気を荒げて否定しようとしたパルスィだったが、次の少女の言葉を聞いて、思わず表情が凍りついた。
「もしかして、ヤマメさんの持ち物でもあるんでしょうか」
少女とは全く接点のないはずのヤマメの名前。
いや、むしろ知らない方が不自然なのかもしれない。
いつまで経っても帰ってこないヤマメ、そしてこのタイミングでやってきた住所を知らないはずの少女。
一体何処でこの場所を知ったのか、誰に聞いたのか、考えてみればすぐにわかることだ。
わかることなのだが――それでも戸惑いは隠し切れない、予想通りの現実が突きつけられただけだというのに、その現実が絶望的すぎて素直に受け入れることが出来ない。
戸惑いの表情で少女を見つめるパルスィ。
対して、少女の方は変わらず不気味な笑みを浮かべて、パルスィの方をじっと見ている。
「なっ、なんで、その名前を」
「だって、お姉さまったら有名人じゃないですか。調べたらすぐにわかりますよ」
先ほどと同じセリフ、同じ顔。
そう、この少女は全てわかったうえで言っているのだ、やっているのだ。
パルスィが怯えることも含めて、理解した上で。
「……あんた、まさか」
パルスィの頭の中で、嫌な想像が徐々に現実味を帯びていく。
嫉妬に狂った少女、そして血だまりの中に沈むヤマメ。
もし仮に現実にそんなことが起きているのだとしたら、パルスィは絶対に目の前にいる少女を許しはしないだろう。
許さないならどうするのか、そんなのは決まっている。
妖怪らしく、けじめを付けるだけだ。
「ヤマメを、どうしたの?」
「お姉さまったらヤマメさんと随分昔からの付き合いだそうですね。
ヤマメさんはとても良い人で、お姉さまはとても悪い人で、二人は正反対なのになぜか仲良いって、不思議な関係ですよね」
「ヤマメをどうしたのかって聞いてるのよ!」
今にも掴みかからんばかりの形相で怒鳴りつけるパルスィだったが、少女は一切表情を変えずに話を進めていく。
「あのお姉さまと手を繋いで歩くほど仲の良い友人が居るなんて、普段の姿からは全然想像できませんでした。
どんな魔法使ったんでしょうね、ちょっとだけやけちゃいます。
あ、でも本命は私だってちゃーんとわかってますから、やいてるって言ってもほんのちょっとだけ、ですよ?」
「いい加減にしなさい、ふざけてないで早く話しなさいよ!」
「そうだ、今日はお姉さまにプレゼントを持ってきたんですよ」
一切咬み合わない会話に憤りを感じつつも、差し出された木箱に視線を向けるパルスィ。
プレゼントと言うにはあまりに粗末すぎる、何を考えてこんな物を持ってきたと言うのか。
「開けてみてください」
「話せって言ってんでしょうがぁッ!」
怒りを全面に押し出し威嚇される少女だったが、それを気にもとめずマイペースに事を進めていく。
差し出された怪しげな箱、もちろんパルスィは受け取ったりはしない。
こんな見るからに怪しげな罠を今の状況でうかつに受け取るほど脳天気ではない。
「やだなあ、びっくり箱とかじゃありませんよ? サプライズではありますけど。
じゃあ私が開けますね、喜んでくれると嬉しいです」
蓋に手をかけ持ち上げると、微かに開いた隙間から中身の匂いが漏れ出してくる。
生臭いような、不快な臭いがパルスィの鼻腔にまとわりついた。
同時に強烈な悪寒を感じ、開くのを止めようとしたのだが、パルスィが静止するよりも早く少女は箱を開いてしまう。
「なに……これ」
少女は、変わらない笑顔のままこう言った。
「お姉さまの大好きな、ヤマメさんの手ですよ?
だって、あんなに幸せそうに握ってたんですもの、絶対に喜んでくれますよね」
蓋を開いたまま差し出された箱の中には、確かに”手”が入っていた。
血の気が失せ肌は黒ずみ、切れ味の悪い刃物で切断したせいか切り口はガタガタで赤黒く汚れている。
しかしそれでも、それが人型の手であることだけははっきりと判別できた。
そして少女の狂った笑顔。
正気ではない、それ故に――嘘を言っているようには、聞こえなかった。
「……はっ」
心臓が痙攣したように脈打ち、連なって肺が震える。
息を切らしたわけでもないのに呼吸が荒くなり、全身の毛穴が開き、汗が吹き出すのがわかった。
呼吸のたび、震えた歯がガチリと音を鳴らす。
「どうしたんですか、お姉さま。喜んでくれないんですか?」
煽るように笑いかける少女。
パルスィは自分の中に満ちている感情の正体が掴めない。
それが怒りなのか、絶望なのか、悲しみなのか、憎悪なのか、それとも、全てをごちゃまぜにした名状出来ない何かなのか。
ただ、見開いた緑の眼で少女のその笑みを見た瞬間、正体などどうでもよくなってしまった。
結果がある。
こいつが、ヤマメを殺した。
結論がある。
だったら、こいつを殺さなければ。
「う、ううぅぅぅっ、ううわあああああああぁぁぁぁっ!!」
能力も小細工もない、ただ目の前に居る少女を殺してしまいたいと思い、その衝動に身を任せた。
両手はまっすぐに首に向かって伸び、握りつぶさんばかりの全力で締め、呼吸を止めようとする。
勢い余って少女はバランスを崩し地面に倒れこんでしまったが、倒れた勢いと体重で更に負荷をかける。
マウントポジションを取られ、爪が食い込む程の力で首を締められる少女。
万事休す、もはやこのまま絞殺されるしかないように思えたが、しかし少女は変わらず微笑み続けている。
「やだ、お姉さまったらかわいい、怒ってるのにこんなにか弱いなんて」
少女とて人間ではない、まだ若輩とはいえ鬼の端くれ、パルスィ程度の腕力で首を絞められた所でどうということはない。
クスクスという少女の笑い声が断続的に続く、それを聞く度に怒りのボルテージは上がっていく。
「このっ、このぉっ!」
「あっははは、ふふふ、んふふふふっ、お姉さまそんな必死になってどうしたんですか?」
「ふざけるなっ、ふざけるなあぁっ!
よくもヤマメを、ヤマメをおおぉぉぉっ!」
二人で過ごした記憶が走馬灯のように蘇る。
笑った時の顔も、呆れた時の顔も、恥ずかしがった時の顔も、どれもこれもパルスィの胸を貫いて、感じたことのない幸福で満たしてくれた。
だが今は、その思い出すらも怒りの糧にしかならない。
壊された、もう二度と戻らない。
後悔と憎悪が入り混じり、正当な怒りと八つ当たりをごちゃまぜにして両腕に載せる、自身の限界を超えた力で首を締め付ける。
それでも、少女は笑ったまま、息を切らすパルスィとは対照的に汗一つかかずに笑顔を浮かべている。
「あんたなんか最初からどうでもよかった、好きでもなんでもなかった、ただの玩具で、遊ぶだけの道具だったくせに、そのくせに――!」
「私は、好きでしたよ」
「そんなの知らない! どうでもいい! あんたの心も言葉も、ヤマメに比べたら、あの子に比べたら……これっぽっちの価値もないのよッ!」
「好きなんですね、ヤマメさんのこと」
「ええ好きよ、あの子が居ないって考えるだけで死にたくなるぐらいに、あの子を殺したあんたを殺しても足りないぐらいに、好きで、好きで、頭がおかしくなるぐらい愛していたの!
それを、それをあんたが、あんたみたいな玩具があぁぁっ!」
はっきり言って、見下していた。
確かに少女を誑かすパルスィも悪ではあったが、恋人が居るのにいとも簡単にそれを裏切る今までの獲物たちを、心の底から見下していたのだ。
だから何も感じない、玩具以上の存在には成り得ない。
「玩具の分際でっ!」
”分際”、その言葉がパルスィの少女たちに対する価値観を如実に表していた。
少女だって笑うしかない。
本当は知っているはずだった、沢山の人から警告だってされたはずなのに、あいつだけには心を開くなと。
なのに、少しの時間でも目の前に居る女性を信じてしまった。
愚かだった、確かに見下されるのも仕方ないと思った、しかし……だからといって何もかも自分のせいにできるかと言われれば、そんなのはありえない話だろう。
「あんたと一緒に居たって何も感じなかった、ただ体さえあれば、意思なんて無くて十分だったのよ。
あんたなんてっ……ゴミみたいなものよ、抱けないのなら、私の都合よく動かないのなら全く興味なんてない、死んだって一滴の悲しみも湧いてこない!
なのに、そんなあんたが、ヤマメを傷つけ、殺したことが……何よりも、この世で起きるどんな悲劇よりも憎くてっ、憎くてっ、たまらないのよぉっ!」
「……ふふ、ふふふふ」
ここまで言われて、笑うこと以外ができるだろうか。
いくら想い人を殺したからと言って――殺したこと自体は悪かもしれないが――自分のやった罪をすっかり忘れて、何もかもを”被害者”である自分にぶつけるようなことをやってのける、救いようのない愚か者を見て。
だが、パルスィからみた少女だって同じことだ。
人の想い人を殺しておいて、なぜそんなに楽しそうに笑うことが出来るのだろうか。
”騙された程度”で、玩具がヤマメを殺すことが、許されていいはずがない、と。
「あっはははははっ、ははははっ!」
「何よ、何がおかしいって言うのよっ!」
「だって、おかしいじゃないですか、ふふっ、お姉さまってばヤマメさんと全く同じこと言ってるんですよ。
パルスィはお前のことなんて好きでもなんでもない、興味もなくて死んでも絶対に悲しまない、お前なんて遊ばれて捨てられるだけの玩具だって」
ヤマメは、基本的に人の悪口をいうような性格ではなかった。
過去形なのは、それがパルスィの影響を受けて徐々に変わり始めていたからだ。
とてもじゃないがいい影響とは言えない、だからパルスィはヤマメに近づく自分を嫌悪していたのだから。
だがそれは決してヤマメの性格が悪くなったから、彼女がワガママになったから、というわけではない。
そうなる必要があった。
他人を虐げてでも守りたものが出来たから、例え見苦しい姿でも必死になる価値のある感情に気付いたから。
だからこそ、ヤマメは自分で望んでそうなったのだ。
それだけ本気で好きになってくれた、自分を捨てるぐらいに夢中になってくれた。
「お姉さま、泣いてるんですか?」
「っ……!」
パルスィの瞳からぼろぼろと涙が溢れる。
思い出せば思い出すほど愛おしさが膨らんでいく、求めれば求めるほどに悲しみも増大していく。
誰かを想って泣くなんて、どれぐらいぶりだろう。
「ヤマメさんのこと思い出して泣いてるんですね、お姉さま。
わかりました、じゃあ死ぬ直前までのヤマメさんと何を話してたのか、全部教えてあげますね」
「やめなさい……っ」
「ヤマメさんね、パルスィが好きなの私だからって、だからお前は玩具なんだって、自信満々に言うんです」
「やめてっ、お願いだからっ!」
「お前はパルスィの何も理解できてない、上っ面だけ見て知った気分になってるだけだって」
「やめろって言ってんのよぉっ!」
悲痛な叫びも届かない、必死になればなるほどに、むしろ少女を喜ばせるだけだ。
首筋に食い込んだ爪が肌を咲き、薄っすらと血が滲んでいる。
それでも少女は涼しく笑い続ける、痛みなんて無いと言わんばかりに。
「でもお姉さま、私が話すのをやめた所でどうするって言うんです?
このまま首を締め続けても私は死にませんし、お姉さまが本気で襲ってきても殺せるかどうか」
「それでも殺すのよっ! 殺して……ヤマメを迎えに行って、それで……」
「死体を迎えに行ってどうするんです?」
「……死んでやるわ、一緒に。地獄よりももっと深い所で二人で暮らすの」
「お姉さま……」
少女から見ても、嘘をついているようには見えなかった。
もしパルスィがヤマメの死体を見つけたのなら、おそらく本気でそうするのだろう。
二人が死んだからと行って同じ場所にいけるかなんてわからない。
パルスィがここより深い地獄に堕ちても、ヤマメだけは天国に召されるのかもしれない。
「ヤマメさんも、きっとそうしたがるでしょうね」
だとしても、おそらくヤマメは天国に行こうとはしないだろう。
どんなに辛く苦しい場所だったとしても、パルスィの居ない天国よりは居る地獄を選ぶ、あの人はそんな人だ。
少女にはそう思えた。
「二人で地獄に堕ちたがるなんて、すごいですね、羨ましいです。
通りで……私が言っても何も聞いてくれないわけですよ。
髪を引っ張り合って、爪で引っかき合って、そこまでやっても折れない人なんて初めてでした」
「だから? 何が言いたいのよ、ヤマメはもう死んだのよ、もう居ないのよ、あんたの思い出話に何の価値があるって言うのよっ!」
どんなに回顧したところで、ヤマメが戻ってくるわけではない。
思い出の中のヤマメだけで満たされ、生きていけるほどパルスィは強くない。
もう、選択肢なんて一つしか残されていないのだ。
殺して、死ぬ。たった一つだけしか。
首を絞めて殺せないのから、もっと他の手段を。
力をゆるめた瞬間に逃げられる可能性も考えると迂闊には動けない、脳内で戦略を組み立て、確実に仕留めるためにありとあらゆる手段を考慮する。
パズルを組み立てるようにいくつかのパーツを集め、積み上げていると――突如として、少女の顔から笑顔が消えた。
狂気も、歓喜も、一瞬にして消え失せて真顔に戻った少女の表情から読み取れる感情は、諦め。
気を取られたパルスィは思わず手の力を緩めてしまったが、それでも少女はぴくりとも動こうとはしなかった。
やがて、気だるそうに口を開くと、
「……生きてますよ、ヤマメさん」
そう言い放った。
「あ?」
いきなり今までの主張を百八十度転換させた少女に対して、パルスィは思わずガンを飛ばしてしまう。
「そんな破落戸みたいな顔しないでください、ヤマメさんは生きてるって言ってるんです」
「待ちなさいよ、じゃあさっきの手は何だってのよ、あんたがヤマメの手だって渡してきたあれはっ!?」
あれは偽物などではなく間違いなく誰かの死体から切り取った手だった。
だが確かに、じっくりと観察したわけでもないしでもないし、触れて確認したわけでもない。
パルスィはもみ合う途中で地面に落ちてしまった、その手に視線を向ける。
「知りませんよ、誰の手かなんて。
でも、ここは地獄なんです。死体なんていくらでも簡単に手に入ります」
言われてみれば、ヤマメの手に比べると少し大きいような気もする。
死体集めが趣味なんて妖怪も居るぐらいだ、確かに死体を手に入れるのにそう苦労はしないだろう。
「それでも、ここまでうまくいくとは思いもしませんでしたが」
「上手く、いく?」
「賭けだったんです、お姉さまが本当に愛しているのは誰かなのか確かめるための。
私が勝ったらヤマメさんはずっと一人きり、ヤマメさんが勝ったらお姉さまがあの人を迎えに行く、そういうルールです」
つまりこれは、ヤマメも了解の上での勝負だった。
自分が死んだことにされている事を知っているかは別として、彼女が果たしてこんな茶番劇に乗ったりするだろうか。
パルスィは、ふといつかヤマメから聞いた言葉を思い出す。
『言っておくけど、この件に関しては完全にパルスィの自業自得だから。
よって、私は同情もフォローもしません。あの子に加勢はするかもしれないけどね』
ああ、確かに言っていたのだ、”あの子に加勢するかもしれない”と。
あのヤマメならやりかねない。
今頃どこかで、修羅場に巻き込まれているだろうパルスィの姿を想像して笑っている可能性だって十分にありうる。
パルスィはいっそ説教でもしてやろうかと思ったが、おそらく顔を見た瞬間に怒りなんて綺麗に消え失せ、ボロボロ泣きながら抱きしめてしまうのだろう。
惚れた弱みというやつだ。
「ヤマメはどこにいるの、早く言いなさいっ!」
とにかく今は、ヤマメの顔が見たくて仕方なかった。
ヤマメと知り合ってから今までのうちで、一番狂おしく彼女のことを求めている。
「お姉さまったらそんなに必死になって。
私の大好きなお姉さまは、一つのものに執着するような人じゃありませんでしたよ」
「あんたの前じゃ、一度だって本当の顔なんて見せたことなかったわ」
「そうだったんですか……だったらいっそのこと、最後まで優しい嘘を通して欲しかった」
「壊したのはあんたじゃない」
「堂々と手を繋いで歩いておいてよくいいますよ、私だって壊したかったわけじゃなかったんです。
いえ、ワガママを言わせてもらえば、できればずっと、夢を見ていたかった……」
少女は下唇を噛み締め、悔しさを滲ませる。
「そんなことはどうでもいいのよ、早くヤマメの居場所を言いなさい!」
「そんなこと、ですか。
そうですよね、お姉さまはそういう人なんですよね」
「ええ、残念だったわね」
中々ヤマメの居場所を言おうとしない少女に苛立つパルスィは、笑いながらそういった。
それを見た少女はぐっと歯を食いしばり、涙が流れるのを我慢する。
そんな健気な少女の姿を見ても尚、パルスィの心が動くことはない。
好きの反対は無関心なのだから、何も感じないのは当然のことだった。
「……ヤマメさんなら、川沿いのボロ小屋に居ますよ、そこで首を長くしてお姉さまの事を待ってるはずです」
「川沿いの小屋ね」
場所を聞いた瞬間に立ち上がったパルスィは、急いでその場を立ち去ろうとする。
だが少女はその足を掴み、立ち止まらせた。
「待ってください、お姉さま」
「何よ、離しなさいっ!」
「ヤマメさんは特に怪我もしていませんから、慌てなくても大丈夫ですよ。
それより、ちゃんと区切りをつけて欲しいんです」
「区切り……?」
今更何を区切ると言うのか、自らの手で終わらせておいて。
そう思ったパルスィだったが、あの一方的な罵倒を区切りと言うにはあまりに品がなさ過ぎることに気付く。
恋の終わりと呼ぶには凄惨すぎて、思い出にするにも歪で、忘れようにも強烈で、彼女の心に深い闇を残すことになるだろう。
元を正せば、悪いのはどこまでもパルスィの方なのだから。
押し倒されていた少女は立ち上がり、服に付いた砂埃を落としてパルスィの方に向き直る。
その目には薄っすらと涙が浮かんでいた。
「最後なら最後らしく、きちんと別れたいんです。
だから……お願いです、目を瞑ってくれませんか」
あそこまでさんざん言われておいて、最後の最後に望むのがキスとは、あまりに健気すぎる。
パルスィにさえ捕まらなければ、もっと人並みの幸せを掴むことが出来たのだろう。
騙され続けて、傷つけられて、それでもパルスィのことを想い続け。
ここまで来ると、さすがのパルスィも可哀想だとは思う、同情もしている。だが、それでも罪悪感は湧いてこない。
抱きしめただけで罪悪感を抱くヤマメとは対照的で、それだけにヤマメへの想いの強さと、自分の冷たさを再認識させられる。
こればっかりは心の持ちようで解決できる問題でもない、変わりたくても変われない、パルスィは根っからそういう妖怪でしかないのだ。
酷く残酷で冷酷で身勝手で、ヤマメに出会わなければ一生誰も愛することなく、他人を傷つけるだけの極悪人。
自分でもわかっている、だからこそ自己嫌悪を続けている。
少女の最後の願いを聞こうと思ったのも、決して善意からではない、そんな自分への嫌悪故、反発故、自分らしくないことでもしてやろうかと思い立ったからでしかない。
「……わかったわ、最後ぐらいは聞いてあげる」
パルスィは目を閉じ、静かに少女が近づいてくるのを待った。
「お姉さま、一緒に過ごした日々は短かったですが、とても楽しい思い出でした。
本当の恋人みたいになれて、知らなかったこと色々知れて、嘘だったとしても私は本当に幸せだったんです。
だから……」
少女は涙声で、パルスィとの思い出を振り返る。
パルスィの想いは偽物だったが、少女の想いは確かに本物だった。
例え玩具だったとしても、幸福に偽りはなかった。
「だから――」
ザッ、ザッ、と少女の靴が地面をこする音が聞こえた。
一歩、二歩、三歩。
少女の足音は、次第に”離れていく”。
「すぅぅ……」
適切な距離を取った後、少女は大きく息を吸う。
吸った空気をしばし肺で落ち着け、風の音が聞こえる程の静寂が当たりを包み込む。
「……」
そして、静寂は――少女の叫び声によって切り裂かれた。
「ふっざけんなああああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁッ!!」
姿勢を低くし、地面を強く蹴り肉食獣のように滑空、離れた分の距離を一瞬で詰める。
突然の絶叫にパルスィは思わず目を開いたが、もう遅い。
パルスィが反応するよりも早く、振りかざされた少女の右腕が前へと突き出され、頬に向けて一直線に迫る。
認識出来た時には拳はすでに眼前にあり、これならいっそ目を閉じたままの方がよかったと後悔するよりも早く、少女の一撃がパルスィの頬にめり込んだ。
「げ、ぁっ……!?」
パルスィの喉から無骨なうめき声が漏れる。
ガードの余地もない、全力の右ストレートが一切の減衰なく顔面を強襲する。
頭がはじけ飛ぶかと思うほどの強烈なインパクト。
脳が揺れ、意識が揺れ、視界も揺れる。
痛みよりも衝撃の方が大きく、だったら次に来るのが痛みかと思いきや、次に体を包んだのは不思議な浮遊感。
そう、パルスィの体は少女の一撃によって空中に浮き上がり、きりもみ回転をしながら放物線を描いていたのである。
天地無用、前後不覚、重力も方向感覚も時間間隔も失ったパルスィは、もはや何が起きているのか把握することすらできない。
数秒の出来事だったのか、それとも数分が経過していたのか、気づいた時にはパルスィの体は数メートル先の壁に叩きつけられ、そのままずるりと地面へ落ちていた。
そしてようやく、頬に痛みがやってくる。
「っ~~~!」
声にならない叫び、頬を抑えてゴロゴロと転がるが、その程度では痛みを誤魔化すことは出来ない。
パルスィを殴り飛ばした少女はと言うと、拳を突き出したままのポーズで、地面を見ながら「ぜぇはぁ」と肩で息をしている。
「っ……はぁ、はあぁっ……ふぅ、ふぅ…はぁ……あぁ……。」
ようやく息が落ち着いてくると、荒い呼吸の中に次第に嘆きが混じり始める。
一度殴り飛ばした所で、何もかもが消えるわけではない。
思い出も、傷も、忘れられるまで心に残り続けるだろう。
だから、殴ってその瞬間だけストレスを解消したって、余計に惨めになるだけだとわかっていたのだ。
しかし殴らずにはいられなかった、一発ぶん殴ってやらないとだめだという、使命感が体を突き動かした。
自分でも許せなかったし、こんなやつは世間的にも許されるべきではないと思ったから。
でも使命感なんて所詮は借り物に過ぎない。
誰かの借り物で自分の腹が満たせるわけじゃない。
「返してよ……返してよぉ……っ、私の大切なものっ、色んな初めてっ、思い出も気持ちも彼氏も、今まで積み上げてきた大切な物、綺麗だった物、全部――全部返してよおおぉぉっ!」
無い物ねだり、無理な相談。
それだけに、自身の絶叫が自分の胸に突き刺さる、もう帰ってこないんだということを痛感させられる。
「何が遊びよ、何が玩具よ、そんな身勝手振り回しといて自分だけ幸せになろうなんてふざけるなぁっ!」
痛みに苦しむパルスィだったが、少女の叫びは耳に入っている。
少女の言葉は何もかも正論だ、パルスィ自身ですら全くもってその通りだ、と認めるほどに。
まあ、だからといって不幸になる気はさらさら無いのだが。
「ううぅっ、ううううううぅぅっ、うわあああぁぁぁあぁぁぁんっ!」
少女はボロボロと大粒の涙を流しながら言葉にならない叫びを響かせ、そのまま走ってどこかへ消えてしまった。
姿が見えなくなってもしばらくは叫び声が聞こえてきていたが、じきに聞こえなくなり、再び静寂があたりを支配する。
「いっつぅ……これ、折れてんじゃないの、大丈夫なのかしら」
人間であれば間違いなく死んでいるだろう一撃だった。
立ち上がったパルスィは近くにあるガラス窓で自分の顔を確認したが、やはり酷い青あざと切り傷ができている。
何度か頬を撫でると、手の平に少量の血が付着した。
この量なら傷自体は大したことなさそうだ、頬骨が折れている様子もない。
「しっかし驚いたわ、あの子がここまでするとはね。
もっとか弱い女の子だと思ってたんだけど、可愛くても鬼は鬼ってことなのかしら」
てっきりキスをされると思っていた、まさか殴られるとはこれっぽっちも想像していなかった。
さとりに”甘ちゃん”と言われたばかりだというのに、どうして自分にとって都合のいい想像ばかりしてしまうのか。
冷静に考えればわかりきったことだ、あの状況で甘いキスをしてはい終わり、なんて甘ったれた展開になるわけがない。
しかし、パルスィが驚いたのは少女に殴られたことだけではない。
想像以上に自分の心が動かなかったことに驚いているのだ。
あれだけ感情をむき出しにして泣かれても、一切だ、本当に一ミリもパルスィの心は揺れなかった。
ここまで来るともう病気なんじゃないかと思えてくる、意識してこんな自分になったわけでもなく、自然発生というのだから驚きだ。
そしてさらに驚くべきは、こんな自分に惚れてくれるヤマメという存在について。
神様というやつは、どうしてこう笑えるほど不平等に幸せをばらまくのだろう。
平等という観点から見れば、パルスィのような妖怪は真っ先に不幸になるべきで、少女こそが幸せになるべきだろうに。
「実は悪いのは私じゃなくて、私たちを作った神様だったりして……」
責任転嫁もいいところだ、今の発言をヤマメが聞いていれば、また口うるさく小言を言われていただろう。
だが今は、そんな小言すらも愛おしい。
少女の行為は冗談で済ませていい物ではなかったが、ヤマメのへの想いを再確認する機会としては適任だったのかもしれない。
そう、だから……今のパルスィは、とにかくヤマメに会いたくて会いたくて仕方なかった。
まだ意識はぐらついている、直立不動を維持するのが難しいほどだったが、動けないほどではない。
「待ってなさいよヤマメ、すぐに迎えに行くから」
ふらつく体を壁で支えながら、川沿いの小屋へと向かって歩き出す。
小屋まではそう遠い距離ではなかったが、そこまで歩いて移動するのは、今のパルスィの状態ではかなりの重労働だった。
軽い脳震盪を起こしているのか、脳がぐるぐると回っているような気持ち悪さがある、視界も常にゆらゆらと揺れていた。
ヤマメが行方不明になった時間を考えると、彼女が小屋に閉じ込められてもうかなりの時間が経過しているはずだ。
ヤマメは怪我をしていない、という少女の言葉を信じるのなら緊急性のある状態ではないのだろうが、ぼろ小屋に本気で惚れた恋人を放置して平気で居られるほどパルスィは薄情ではない。
体を引きずるようにして壁伝いに歩き、ようやく小屋の近くまで辿り着いた。すでに少女と別れてから三十分近くが経過していた。
「……ふぅ」
小屋の扉、そのドアノブに手をかけて一度呼吸を整える。
少女の言葉を信じていないわけではないが、不安がないといえば嘘になる。
万が一にでも、少女が嘘を付いていた可能性。
あの手は本当にヤマメの手で、扉を開けたら愛しい彼女の死体が転がっているかもしれない。
あるいは、致命傷を負わされて衰弱死していたら、もっと早く来ていれば助かるような状況だったのなら。
悪い想像は絶えず湧き上がる。
力なく首を左右に振ってそれらを払いのけ、意を決して扉を開いた。
扉の向こうでパルスィを待っていたのは――
「ヤマメ……っ」
「パルスィ……」
床に座り込み、半笑いでパルスィの顔を見上げるヤマメの姿だった。
「ぷっ、なにその顔」
「……人が助けに来たのに、第一声がそれはないんじゃないの」
「だってパルスィが来てくれるのはわかりきってたし、それにその顔、あの子に殴られたんでしょ?」
「ええ」
「あはは、やっぱり。
そりゃそうだよね、私が同じ立場でも絶対ぶん殴ってるもん」
「……」
「どしたの、黙っちゃって」
「……バカ」
「うわっ、ちょ、どうしたの!?」
もっと追いつめられて、焦燥した顔で待っていると思っていた。
泣きながら抱き合って、感動的な再会になると思っていた。
そんな筋書きを全部台無しにしたヤマメに本当は嫌味の一つでも言ってやるつもりだったが、一番追い詰められていたのはパルスィ自身だったようだ。
嫌味どころか、言葉が何一つ浮かんでこなかった。
色々伝えたいこと、言いたいことがあったはずなのに、もう抱きしめる以外、何も出来なかった。
「バカ、バカ、あんたなんて稀代の大バカよっ、私がどんだけ心配してたと思ってるのよっ!」
「待って、状況がよくわかんないんだけど。
私かあの子かどっちか選べって言われただけなんだよね?
だから私は安心してこの小屋で待ってたんだけど……違うの?」
ヤマメはパルスィと少女がどういうやり取りをしたのか知らない。
自分が勝手に死んだことにされていたことも、わざわざ死体の手首を切り取って持って行ったこともだ。
単純に自分と少女の二択を迫られただけだと、そして自分を選んだばっかりに殴られてしまったのだと思い込んでいた。
「違うわよっ! ヤマメを殺したとか、死んだとか言われて……私が、どれだけ……どれだけ心配して、苦しかったか……っ!」
「ええぇ、あいつそんなことを!?」
「死んでないって聞いても顔見るまでは不安で、不安で、実は小屋の中で死んでたらどうしようって思ってたのに!
何よそれぇ、いきなり笑ってくれてさあ……もうっ、もぉっ!」
ヤマメの胸に顔を埋めたパルスィは、握った拳で肩のあたりをを何度も叩く。
ただでさえ殴られてボロボロの顔は、涙でさらにぐしゃぐしゃになって、本当に笑えるぐらい酷い有様だった。
「怖かったの……ヤマメが居なくなるって考えただけであんなに辛いなんて、知らなかった」
「ご、ごめんね」
「いい、謝らないで。
悪いのはあの子と私なんだから……むしろ謝るのは私の方よ、もっと早くに別れてたらこんなことにはならなかったのに」
胸元から上目遣いでこちらを見上げるパルスィは、いつもより少し子供っぽく見えた。
立場からして甘える側ではなく甘えられる側だったパルスィの甘える姿というのは、中々に貴重なのかもしれない。
保護欲をそそられる、抱きしめて慰めてあげたくなる。
ヤマメはその衝動に抗うことなく、パルスィの頭を優しく抱きかかえた。
「まあ、パルスィがそういうとこきちんと出来ないのは知ってたからさ。
覚悟の上で受け入れたんだから、謝らないでいいよ」
「それはそれで複雑だわ」
「これぐらいの甲斐性がなきゃ、パルスィの彼女なんてやってらんないよ。
でも、それも今日で終わりだけどね」
恋人予備軍になってすでに二週間が経っている。
一緒に暮らしている内に友人関係に対する未練はすっかり消えていたし、今回の件でパルスィに対して抱いていた最後の不安も消えた。
もはやヤマメに予備軍である理由など無いのだ。
「だって、もう浮気なんてしないもんね?」
「もちろんよ、する理由が無いもの、ヤマメなら私の全て満たしてくれるはずだから。
恋人としてヤマメほど完璧な妖怪はきっとこの世のどこにも居ないはずよ」
「歯の浮くような言葉ありがと。
でも、いつの間にか恋人にランクアップしてるんだね」
「違った?」
「違わないけど、こういうのはきちんと区切りを作りたいタイプかな。
わざわざ予備軍なんて言葉使ったんだもん、そんな言葉はもう要らないってこと、はっきりしときたいな」
「ふふ、区切りね」
「どうして笑ってるの?」
「いいえ、大したことじゃないのよ、ちょっとした思い出し笑い」
少女と同じ言葉を使うヤマメに、パルスィは思わず苦笑いしてしまう。
区切りは、確かに大切な物かもしれない。
どんなに想いが通じあっていても、言葉にしなければわからない物はやはり存在する。
「じゃあ、まずは私から告白させて頂きます」
一旦パルスィから離れ、正座で座り直す。
パルスィも釣られて正座の状態になるが、果たしてこれが告白に相応しい体勢なのかはヤマメ自身にもわかっていない。
「やけに改まるわね」
「一生思い出に残るんだから、気合い入れないとねっ」
ぐっと小さくガッツポーズ。
「よしっ」と小さくつぶやき気合を入れなおすと、まっすぐにパルスィの目を見てヤマメは告白を始める。
「好きですっ!」
たった一言。
続きがあるかと思いきやそれだけで、気合を入れた割にあっさりと告白は終わってしまった。
「どストレート……え、うそ、それで終わりなの?」
「色々考えてみたんだけど、ほら私って恋愛経験がないでしょ? だから考えた所で何が良くて何が悪いかなんてわかんないんだよね。
だったら一番わかりやすい言葉がいいんじゃないかと思って」
「まあ、確かにね、想いだけは伝わってきたわ」
改めて言うまでもなく、二人の想いはとっくに通じあっている。
本来なら確認するまでもないあたり前の事を、念の為に確認しあっているだけなのだから、あっさりでも問題はないのだろう。
「あれ、体が揺れてるけど大丈夫?」
「きっとヤマメの言葉が心まで届いてぐらぐらしているからよ」
ヤマメと再会したからと言って脳震盪が治るわけではない。
パルスィは背筋を伸ばし姿勢よく座っているつもりなのだが、どうしても勝手に体が揺れてしまう。
「本当に大丈夫、なの?」
「問題はないわ」
幸い意識ははっきりしている、もう一度頭を揺らされるようなことがなければ大丈夫だろう。
気を取り直して次はパルスィの番。
「さて、次は私の番ね。
私もヤマメに真似て回りくどい言葉は無しにするわ」
「えー、百戦錬磨のパルスィがどんな風に私を口説くか聞いてみたかったのに」
「口説く必要は無いでしょう、とっくに惚れてるんだから。
それに想いはもう通じあってるんだもの、予備軍が取れた所でやることは大して変わらないわ」
「いやらしいことするんじゃないの?」
「一緒にお風呂に入ってるくせに今更だとは思わない?」
「あ、あれはあくまで洗いっこだから!」
「恋人になったら洗いっこの名前が変わるだけよ、やることは一緒なの」
好き合う二人が同棲までして、挙げ句の果てには毎日同衾して一緒に風呂にまで入っておいて何も起きないわけがない。
予備軍なんて言葉、使い始めて三日ほどでとっくに形骸化していたのだ。
その言葉が消えることで何が変わるかと言えば、不要な言い訳をする必要が無くなることぐらいだろうか。
「というわけで、好きよヤマメ」
「いやいや、いくらなんでも適当すぎるって。
もう少しでいいからちゃんとしようよ」
ほとんど無意味な儀式とはいえ、やるからにはきちんとして欲しいのがヤマメ。
パルスィだってわかっている、わかって上で遊んでいるのだ。
「じゃあ愛してるわ、ヤマメ」
「じゃあ!? もっとだめだよ、私の胸がときめくような言葉じゃないと」
「例えばどんなよ」
「あるでしょ、私しか知らない、パルスィらしい言葉がさ」
「……意外と無理難題を出すのね」
「経験者なんだから、多少難易度が上がったって問題は無いはずだよ」
「本気の恋はこれが初めてって何度言えば良いのかしら、私の初恋はヤマメよ?」
「だったら余計にきちんとした告白の言葉を聞きたいかな」
ヤマメしか知らない自分らしい言葉。
パルスィは頭を捻って思い出そうとするが、中々思いつかない。
告白に相応しい言葉自体がそんなに多くないのに、その中でヤマメしか知らないような言葉が果たして存在しているのだろうか。
「わかんないみたいだから、ヒントをあげようじゃないか。
パルスィが可愛い子を見るといつも言ってる言葉です」
「私の彼女になってください?」
「そんなこと言ってたんだ……」
「冗談よ、わからないから次のヒントを頂戴」
「ヒントばっかり出してたんじゃつまんないじゃんかよぅ。
じゃあこうしよう、ヒントその2からは有料制ってことで」
「同棲してるのにお金を取って何の意味があるのよ」
「お金じゃないよ、お代にはもっと別の、素敵なものを払ってもらうから」
そう言いながら、ヤマメはパルスィに向かって唇を突き出す。
「……あまえんぼさんめ」
「んー、払わないの?」
「払うわよ、一回と言わず何回でも、見返りを要求したことを後悔するぐらいにね」
宣言通り、パルスィは即座にヤマメの唇を奪った。
一度では飽きたらず、二度も三度も何度でも、二人は互いに唇をついばみ合う。
ヤマメの目がとろんとしてきたあたりで、これ以上続けては告白どころではなくなると判断したパルスィが唇に人差し指を当て、止めどなく続く口づけを止めた。
先ほどとは違う意味で唇を突き出し、ふてくされるヤマメ。
「これだけキスしたんですもの、さぞ素晴らしいヒントをくれるんでしょうね」
「そういえば、今のお代だったんだっけ」
「やっぱり忘れてたのね、自分から言ってきたくせに夢中になっちゃって可愛いんだから」
「余裕のあるパルスィがおかしいんですー!」
この二週間で随分とスキンシップに慣れたとはいえ、まだまだヤマメには初心な所が残っている。
玄人であるパルスィとはくぐってきた場数が違うのだ。
「たっぷりお代は貰ったから、こうなったら出血大サービス、ほぼ答えの大ヒントを教えてあげる。
私が聞きたい言葉ってのはね、パルスィの口癖だよ」
「……ああ、そういうことね、やっとわかったわ。
でもいいの、そんなので。
私にはとてもじゃないけど告白にふさわしい言葉とは思えないわ」
「いいんだよ、私が言われたい言葉だったんだから。
いつも隣で見ててさ、一度でいいから自分に向けられてみたいと思ってたの」
実は幾度と無くヤマメに向けても使われてはいるのだが、それはパルスィしか知らないことだ。
確かにヤマメに直接言ったことはなかったかもしれない、とは言え憧れるような使い方はしていないはずなのだが。
「わかんないかな、私がどうしてその言葉を聞きたいのか」
「あ……もしかして」
ヤマメから発せられる微かな嫉妬で、パルスィはなぜ彼女がその言葉を望んだのかを察する。
「わかってるよ私だって、あんまり良い意味の言葉じゃないってことぐらいはさ。
それに、好きとか愛してるとか、パルスィが使い慣れた言葉でもきちんと気持ちが篭ってることも、大丈夫、ちゃんと伝わってるから。
でもね……憧れって言うと綺麗すぎるけど、私に向けて一度でいいから言って欲しかったんだ、だってきっかけがその言葉だったから」
「きっかけ?」
「パルスィへの想いが生まれたきっかけがさ、たぶんだけど、他人に向けられるその言葉を聞いて嫉妬したからなんだ。
最初はチクリと針で突かれるぐらいの痛みで、友情の延長線上にあるちょっとした気まぐれなんだって思ってた、だから取り立てて意識する必要も無い感情だろうって。
けど次第に痛みは大きくなって、意識せずにはいられなくなって、それから見て見ぬふりをしようって、そう決めたの。
そう決めた時点で自分も気持ちなんてわかってたくせにね、私ったらどんだけ臆病だったんだか」
「それだけ私との友情を大事にしてくれてたってことでしょ」
「良く言えばね。悪く言えば、私は逃げてただけなんだけど。
早くに想いを伝えていれば、パルスィが苦しむ時間だって短くなったはずなんだから、今思えば間違った方法だったんだよ」
全てが早くに解決していれば、あの少女が傷つく必要だってなかったのかもしれない。
「でも、今はもうヤマメは私の物で、私はヤマメの物なんだから、嫉妬する必要なんて無いはずよね?」
「それは頭ではわかってるんだけどさ、頭の片隅にちょこんと居座る厄介な奴がいるんだよね。
無視しようと思えば無視できるし、放置しても何ら問題はないはずなんだけど、せっかくだから綺麗に消しておきたいの。
100%万全の状態で、パルスィのことが好きだって気持ちだけで頭の中をいっぱいにして、それで恋人になりたいんだ。
そしたら、きっと今までに無いぐらい幸せになれると思わない?」
「同時にとんでもなくバカになっちゃいそうね」
「バカ上等だよ。
羞恥心が無くなるぐらいバカになって、みんなに見せつけてやろうよ」
「不機嫌なさとりの顔が目に浮かぶようだわ」
「違いないね」
脳内でいちゃつくだけでも苛立ちそうなのに、実際にそれを見せつけられた日には、さとりのストレスはピークに達するだろう。
人の不幸を蜜として啜る妖怪なのだ、人の幸福はさぞ毒になるに違いない。
「というわけで、いつでもどーぞ」
正座をして真っ直ぐパルスィを見つめるヤマメは、その言葉を期待してかほんのり頬を染めながらにやけている。
まだ言っても居ないのにここまで幸せそうな顔をするのなら、その言葉を聞いた時どうなってしまうのだろう。
予言通りバカになってしまうのだろうか、むしろそれで済むのだろうか。
際限のない幸福が、少し怖くもあった。
この二週間、二人で恋人予備軍として一緒に暮らしてみて、まあ予備軍という言葉はほとんど無意味ではあったが、多少はストッパーとして働いてはいたのだ。
その言葉がなければ、パルスィはとっくにヤマメに手を出して、二人して滅茶苦茶になっていただろうから。
しかしそれも今日で終わる、パルスィを抑えてくれる最後の壁はもう無い。
望むところだとヤマメは言うだろう、そして惜しげも無く全力で今まで以上に甘えてくるだろう。
パルスィも死ぬほど彼女を甘やかすだろうし、誰も止めてくれないのならどこまでも彼女を愛し続けるだろう。
求めるほど二人は幸せになって、本当に周りの目など気にしなくなっていくはずだ。
パルスィは、自分のことを胸を張って自慢出来るような恋人では無いと思っている。
ヤマメも、パルスィのことを完璧な彼女とは思ってはいない。
他人に自慢するときも、おそらく可愛いとか、優しいとか、誠実だとか、そんな聞こえのいい言葉は使わないかもしれない。
例えば、最悪のカノジョだ、とか、貶してるのか褒めてるのか分からない言葉を使って、満面の笑みで見せびらかすに違いない。
パルスィもそれでいいと思っている、それがいいと思っている。
「ヤマメ、あなたが――」
二人の関係は、長い年月で積み重ねてきた物だ、言葉の表面上の意味だけで計り知れるものではない。
他人からは、”それで褒めてるの?”と言われるだろう。
だが本人たちは知っている、その言葉に最上級の愛情が篭っていることを。
他人に伝わる必要など無い、愛の表現なんて、二人の間で伝われば十分。
「妬ましいわ」
聞き慣れた言葉。胸を満たす幸福。
その言葉の本当の意味を、ヤマメだけが知っている。
いつもの居酒屋は、今日もいつもの面子で賑わっている。
適当な理由を付けて開催される飲み会だったが、最近はもっぱらヤマメとパルスィの二人が口実として使われる。
やれ同棲記念だの、やれ交際一週間記念だの、本人たちでも祝わないような理由で飲み会を開こうとする。
しかし本人は許可を出してはいない、所詮は口実、利用さえ出来れば本人の意思などどうでもいいのだ。
「いやあ、めでたいなあ、今日は一ヶ月だぞ、一ヶ月! さあ飲め、じゃんじゃん飲め、いつもの倍は飲んでもいいぞ!」
「あんたが飲みたいだけじゃない!」
今日は交際一ヶ月記念の飲み会らしい、もちろん二人は連れてこられて初めて知った。
他人には言えない諸事情により二人は少し遅れて居酒屋に到着したのだが、その時にはすでに勇儀は出来上がっていた。
いや、普段から酔っ払ってるのか素面なのか分かりづらい性格をしているだけに、本当に酔っているのかは怪しい物なのだが。
「相変わらずここは煩いわね」
「いいじゃん、たまにはこういうのもさ」
「まあね、今はまだ静かなぐらいだもの、まだマシって所かしら」
以前はヤマメの周りを取り囲んでいた知人たちは、今は離れた場所で飲んでいる。
決してパルスィを避けているわけではない、以前からヤマメとパルスィはセットで飲んでいたし、その時だって構わずに彼らは近寄ってきたはずだ。
彼らが距離を置くようになったのは、二人が付き合い始めてから。
なんでも余計な気を使っているらしく、新婚夫婦は邪魔するもんじゃないと言って、ヤマメが誘っても乗ってくれないのだ。
「……ほんと、デリカシーは無いくせに面倒な気の使い方をする連中ね」
わざとらしく距離を取る飲み仲間を睨みつけながら、パルスィが愚痴る。
「あは、じきに慣れて戻ってくるよ、それまでは思う存分いちゃいちゃしてやろうじゃないか」
「素敵な提案ね、見せつけてやりましょう……じゃありませんよ、また私に見せつけるつもりですか、あの反吐が出るようなハートウォーミングな茶番劇を。
死んでしまえばいいのに」
罵詈雑言と呼ぶにも及ばない暴言を引っさげて現れたのは、もちろんさとりである。
二人が付き合い始めてからというものの、心のなかで常にいちゃつき続ける二人の姿を見せられ、ずっと不機嫌なままなのだ。
「二人に自制という言葉を教えてあげたいのですが」
「知ってるよ、使わないだけで。ねえパルスィ?」
「ええ、不要な言葉としてゴミ箱にぶち込んであるわ」
「それはこの世で一番大事な言葉です、頭のど真ん中に常に置いて釘でも打ち付けといてください」
さとりにとって他人の幸福はまさに毒、脳天お花畑のバカ二人が傍に居る状況は、まさに地獄に他ならない。
そのくせ自分から二人に寄ってくるのだから変な話だ。
「……友達、いますからね?」
「何も言ってないじゃない」
「考えたじゃないですか、嫌がってるくせになんで寄ってくるんだ、友達が居ないからじゃないかって。
しかも二人同時にですよ、こんなにか弱い美少女をいじめるなんて、とんだ極悪人がいたもんです」
まるでパルスィのような自己賛美発言に、二人は興味なさそうに目をそらし、同時に酒をぐいっと口に含んだ。
「お二人、最近ますます似てきましたよね」
行動のシンクロする二人の姿を見て、さとりが指摘する。
行動だけではない、さとりにしか見えない心の中の姿も、一緒に過ごす時間が増えるほどに似た形になっているようだ。
「一緒に暮らしてるとね、どうしてもそうなるのよ」
「うちのペットは変わらずマイペースなのですが、恋人となるとまた違うんでしょう……うげっ」
さとりの言葉が突然途切れたかと思うと、喉からカエルの潰れたような声が漏れだす。
そして次の瞬間、居酒屋中に耳をつんざく黄色い叫び声が響いた。
「お姉さまああぁぁあぁぁぁぁぁっ!」
どこかで聞き覚えのある声。
二人が慌ててさとりの方を見ると、見覚えのある……どころか、一生忘れられないであろう顔がそこにはあった。
「こんばんはお姉さま、こんな所で出会えるなんてやっぱり私たちって運命の赤い糸で繋がれてるんですね、そうですよね、そうなんですよねお姉さま!」
「い、いえ、糸とか知らないですし、妹はもう間に合っているので」
焦っている。あのさとりが焦っている。
さとりの背後から現れ、ガバッと襲いかかるように抱きついた女――なんとその正体は、一ヶ月前にパルスィに振られ、その頬に会心の一撃を放っていったあの少女だった。
「なんでっ、なんでお前がここにいるんだよぅ!」
ヤマメはパルスィを庇いながら立ち上がり、少女を威嚇する。
パルスィに甘えていた時のようにさとりに頬ずりする少女だったが、そこでようやくヤマメの存在に気付いたらしい。
恋する乙女の表情は一変、少女は目を細めながらヤマメを睨みつける。
「あら、誰かと思えばいつぞやの野蛮な泥棒猫じゃないですか」
「私が猫ならそっちは負け犬だね、どの面下げて私の前に現れたのさ、まさかまだパルスィのこと諦められないとか言い出さないよね?」
「はぁ、諦めるぅ? ここに居たことすら気づかなかったのに、そんなわけないじゃないですか、貴方の頭にはスポンジでも詰まってるんですか?
私は貴方の前に現れたつもりなんてありませんし、もちろんそっちの放蕩女に会いに来たわけでもありません。
ただお姉さまに会いに来ただけなんです……あぁお姉さま、会えて嬉しい、今日も見てるだけで目が幸せになるほどお美しいわ」
「お姉さまぁ?」
お姉さまと言えば、少女がパルスィを呼ぶときに使っていた言葉ではなかったか。
だが今は、どうやら少女はさとりに対してその言葉を使っているようだ。
さとりと少女、少なくともパルスィと別れるまでは二人の間に接点などなかったはずなのだが。
「お姉さまはお姉さまです、この世で一番愛おしい方の事をそう呼ぶことにしています。
ああお姉さま、お慕いしています、愛しています、できればお姉さまも私のことを愛して欲しい……っ」
「そういうのはいいので、あの、とにかく離れてもらえませんか」
「ダメです、私とお姉さまの間には見えない引力が働いているのですから」
「働いてないです、というかそもそも引力は見えませんし、暑いので離れて欲しいのですが」
「却下します、私とお姉さまの間には誰にも遮ることの出来ない磁力が働いているんですよ」
「私は金属ではないので、そういうのじゃくっつきませんし、その、離れてもらえると」
「嫌です」
「……ううぅ」
さとりは涙目でヤマメに助けを求めたが、状況が把握出来ていないヤマメに彼女を救えるはずもない。
「何が起きてるのよ、これ」
パルスィは率直な疑問を漏らす。
まず、少女とヤマメが険悪な仲であることについては説明は不要だろう。
いきなり背後から殴りつけられ、拉致された挙句に一方的に勝負の明白な賭けに巻き込まれたのだ。
しかも実はこの二人、小屋でヤマメが意識を取り戻した直後に、パルスィを巡ってキャットファイトまがいの大喧嘩を繰り広げている。
お互いに、今でもあの時の怒りは忘れていない。
次にさとりと少女がいつ出会ったかなのだが――
「ああそうだ、先ほど店員の方に聞いた所、あちらの個室が開いているそうなんですよ」
「そうですかそれはよかった、あなたはそちら飲んでいてください、私はここで飲みますから」
「ですから、二人で行きませんか?」
「あの、だから私はここが……」
「良かった、来てくれるんですね。やっぱりお姉さまったらお優しい。
それではお姉さま、早く行きましょう、あんな下品な奴らが居る場所は一刻も早く離れたいので」
「いや私は良いとは一言も言って……あの、聞いてますか? ああそうですよね、聞いてませんよね、今まで一度も聞いてくれたことありませんでしたもんね。
ええわかってます、わかってますよ、私はこのまま有無をいわさず連れて行かれてしまうんです、そして口ではとても言えないことをされてしまうんです、どうせそうなんです!」
似たような状況は一度や二度ではない、少女は驚異的な嗅覚でさとりを探し当てては、強引に密室、あるいは暗所へと連れこむのである。
その手口は、どこかパルスィに似ているようにも思えた。
「ねえパルスィ、そういうやり方も教えてあげたの?」
「教えるわけ無いじゃない、遊びだって感づかれたら逃げられるだけなんだから。
見て盗んだんでしょうね、無意識の内に」
「つまりは直伝ってことだよね、怖い怖い」
通りで、あのさとりでも逃げられないわけだ。
しかもあの少女、頭の中がさとりでいっぱいになっているので、心を読んだ所でほとんど意味が無いのである。
さとりがヤマメとパルスィの前で不機嫌そうにしていたのもそういうことだ。
強く想い合う恋人たちは、心を読んでもあまり効果がない。
「あの……ヤマメさん、パルスィさん」
少女にずるずると引きずられていくさとり。
一人であれば絶対に逃げられない、しかし二人の助けがあれば脱出できるかもしれない。
そのためには、助けを求めなければならない。
他人に助けを求めるなど、普段のさとりならばそのプライドが許さないだろう。
助けを求めるにしても、心を読み相手の弱みを握って、半ば脅すようにして”お願い”するはずだ。
だが、今のさとりにそんな余裕はなかった。なりふり構っている時間もない。
「助けて、くれませんか」
引きずられつつ、こちらに手を伸ばしながら、涙の潤む瞳で助けを求める。
二人は、出来ればあの少女とは関わりたくはなかった。
一応は関係に区切りが付いたとはいえ、恨まれるだけの理由は十分にあるし、下手に絡んで不必要に傷つけるのも本意ではない。
しかしだ、友人であるさとりを見捨てるのはいかがなものだろうか。
確かに普段のさとりは他人の不幸を見て喜ぶどうしようもない外道だが、たまには友人らしく助けてくれることだってあったはずだ。
例えば、ヤマメが覚悟を決めようとするのを途中で遮ってみたり。
例えば、パルスィに偉そうに忠告したわりにはすでに手遅れだったり。
ヤマメとパルスィは互いに視線を合わせ、意思を確認しあう。
話し合うまでもなく、意見はすぐに固まった。
そして、二人で声を揃え、さとりに向かって爽やかに告げる。
「グッドラック!」
親指を人差し指と中指で挟み、それをサムズアップのようにさとりに向かって見せつけながら。
「それじゃグッドラックじゃなくてグッドファックじゃないですかぁぁl! いやですっ、私はもう嫌なんですっ、たすけてぇぇぇっ!」
ずるずるずる。
少女に引きずられ奥の個室へと連れて行かれるさとりの声は次第に小さくなっていき、個室のドアがぴしゃりと閉じられると同時に聞こえなくなった。
少し可哀想ではあるが、不思議と二人の心に罪悪感は湧いては来ない。
むしろ初夏の爽やかな風を思わせる、清々しい気持ちがあるだけで――普段の行いはやはり大事なのだな、と二人は改めて思い知る。
その後、さとりが消えていった個室のドアを少し眺めたああと、何事もなかったかのように座布団の上に座ると、何事も無かったかのように談笑を再開した。
「お前ら、ちょっと薄情すぎやしないか?」
「眺めてるだけだった勇儀も中々に薄情だと思うよ」
「はっはっは、あのやり取りを見たのは一度や二度じゃないからな、すっかり慣れちまったんだ」
「勇儀、あんたはあの子がさとりに懐いた理由を知ってるの?」
「ああ、薄情って言ったのにはそのへんも関係してるんだよ」
つまり、さとりと少女が出会ったのにはヤマメとパルスィの二人が関連している、ということらしい。
「まあ、直接関係があるとは言えないかもしれんがな、なんたって二人が知らない所で起きた出来事なんだから。
お前があの女の子をこっぴどく振った後、さとりが偶然にも橋の所で落ち込んでるあの子を見つけたんだと。
今にも身投げをしそうなぐらい凹んでたらしくてな、しかもその原因が自分の友人と来たもんだ、さすがのさとりでも放っておけなかったらしい」
「あのさとりが、放っておけなかった?」
「ヤマメが驚くのも仕方ない。
ただし、さとりは純粋な善意だけでパルスィのアフターケアを請け負ったわけではないからな。
どうもあいつなりに思う所があったらしくてな、詳しい話は知らないが、なんでも”タイミングが悪かった”んだとか」
「あぁ……」
「確かに、悪かったわね」
覚悟を遮ったこと、忠告した時にはすでに手遅れだったこと。
良かれと思ってしたことなのだが、どれもが裏目に出てしまった。
見た目ではわからないが、さとりなりに落ち込み反省したと言うことなのだろう。
その償いとして、さとりは自らあの少女の心のケアを行うことを決めたのだ。
「で、だ。
さとりのケアは完璧すぎるほど完璧だった、最初はすっかり落ち込んでたあの子も一週間もすれば元通り……いや、元以上に元気になってたよ」
心を読めるさとり以上に的確な心のケアを出来る者はいないだろう。
サディスティックな欲望さえ我慢できれば、メンタルカウンセラーとして人の役にも立つことができるはずだ。
あくまで我慢できればの話だが。
あのさとりにそんな辛抱が出来るとは思えない、今回は特例中の特例と言うことになる。
「あー、なんとなくその先の話が読めちゃった」
「大体想像通りだと思うぞ、パルスィを失った穴にちょうどさとりがハマったってわけだ」
「その言葉から卑猥なイメージしか浮かばないわね」
「お前は相変わらずだな……」
ヤマメと付き合い始めても、パルスィの根本的な性格が変わるわけではない。
むしろヤマメまで染まり始めて状況は悪化しているぐらいだ。
「さとりにはあとでお礼言っとかないとね。
あいつがどうなろうと知ったこっちゃないけど、苦労かけてるのは事実みたいだし」
「こっちから奢ってあげる?」
「それいいね、今ならさとりの方が嫌がりそうだ」
「あんまりいじめてやるなよ、あれでも悩み多きお年ごろらしいからな」
少女のことだけではなく、他にも色々と、さとりの手に余る問題が起きているらしい。
奢るのを拒否されたのならその時は手助けを申し出よう、ヤマメはそう心に決めた。
飲み会は進み、中には潰れる妖怪もちらほらと現れてきた。
そんな中でも、勇儀は相変わらずのハイペースでぐびぐびと色んなお酒を飲み続けている。
ちゃんぽんだろうが何だろうが彼女には関係ない、出された酒は出された分だけ飲む、そして決して飲まれはしない。
対照的に、ヤマメとパルスィは肩を寄せ合いながら、端っこで二人でちびちびと飲み続けていた。
ペースは遅いが、飲み会が始まってからすでに数時間が経過している、トータルの量で言えばそこそこになっているはずだ。
アルコールが回り、ほんのり汗ばんだヤマメの首筋。
真横にある魅惑的なラインがパルスィの情欲を誘う。
思わずチラチラと覗き見ていると、視線に気づいたヤマメが妖艶に笑った。
「えっち」
「否定はしないわ」
「しないでいいよ、それでこそパルスィなんだからさ」
ヤマメは両手で持っていたグラスから右手するりと外し、パルスィの左手と絡める。
指と指も絡みあい、二人の手がしっかりと結ばれた。
「パルスィ、実は少し安心したでしょ」
「何が?」
「あいつのこと。
惚れた相手は置いとくとしても、次の恋に進んでくれて良かったと思ってるんじゃない?」
「思ってないと言えば嘘になるでしょうけど、たぶんヤマメが思ってるような意味じゃないわよ」
「傷つけたことを反省してたんじゃないってこと?」
「私がそんな素直な反応すると思う?」
「あー……そっか、パルスィはパルスィなんだった」
「そうよ、私は私なの。
だから、本当にあの子についてはなーんにも感じてないの、自分でも自分の薄情さに驚くぐらいにね。
確かに安心はしたんだけど、その理由はね、感情の矛先が私に向くことが無くなったから、かな」
区切りが付いても、何かの拍子で少女の恨みが再燃する可能性だってあった。
次こそは本当にヤマメを殺してしまうかもしれないし、パルスィの身にも危険が迫るかもしれない。
だがさとりのケアによってその可能性は摘み取られたのだ。
そういう意味では、アフターケアは実に的確だったのかもしれない。
その代償はあまりに大きかったが。
「自己保身かぁ、相変わらずいい性格してるね」
「なんたって悪女だもの」
「やっぱ不思議だな、なんで私ってばこんな悪女に惚れちゃったんだろ」
「後悔してももう遅いわよ、最悪の彼女を選んだ自分を呪うのね」
「呪うなんて、むしろ逆だよ。
こんな最悪の彼女、本当の意味で愛せるのは私しかいないし、愛されるのも私しかいないでしょ?」
真顔でそう言い切るヤマメを見て、パルスィの顔は真っ赤に染まった。
誤魔化すように慌てて酒を煽り、アルコールのせいだと言い訳しようと思ったが、それでどうにか出来る程度の赤さではない。
ヤマメはクスクス笑いながら頬を赤らめ慌てるパルスィの姿を眺めていた。
「まったく……ヤマメは呆れるほどロマンチストなのね」
「そうかなあ、こんなに素敵な恋をしたんなら、誰だってそう思うんじゃないかな」
「素敵な恋と思える時点で十分夢想家よ、頬をグーパンチで殴られるロマンスがあってたまるもんですか」
「あっはは、スリルがあっていいじゃん」
「受けてないからそうやって笑ってられるのよ、ほんと笑えないぐらい痛かったんだから」
幸い、パルスィの頬骨は折れてはいなかったが、少女のパンチを受けてから一週間ほどは青あざが消えなかった。
少女に殴られたことがよっぽどツボにはまったのか、ヤマメが治療するたびにゲラゲラ笑うので、跡が残らなかったのはパルスィにとって不幸中の幸いだった。
「私たちさ、パルスィが殴られたことも含めて、笑えることも笑えないことも、色々経験してきたんだね」
「長い付き合いだもの」
「たくさん、積み重ねてきた」
「記憶が全部ヤマメで埋まるぐらいにはね」
ヤマメはパルスィの方にしなだれる。
さらに密着した体から、いつもより少し高い体温が伝わってくる。
些細な触れ合い、ちっぽけな時間。
薄い薄い記憶でも、これもまた一つの記憶の糧になる。記憶の塔に積み重ねられていく。
「ねーえ、少し恥ずかしいこと言っても良い?」
「許可なんてとらなくていいのよ」
「んーん、こればっかりはそうもいかないから、イエスかノーかの答えが欲しいんだ」
「じゃあイエス」
「そんなに簡単に答えちゃっていいの? 案外大事な選択かもよ」
「いいのよ、ヤマメのこと信じてるから」
「だったらいっかな、きっと後悔はさせないよ」
忘れた頃に思い出して、笑いあえればいい。
パルスィがとんでもない遊び人で、何人もの女を泣かせてきたことも。
そのせいでヤマメが連れ去られて、パルスィが頬を殴られたことも。
さとりが少女に面倒な絡み方をされたことも。
「これから一生、二人で積み重ねていこうね」
このあと二人が、周囲の視線も気にせずに堂々とキスしたことだって――思い出の積み重ねになって、そのうち笑い話に出来るのだろう。
二人が、一緒に居る限りは。
もはや癖と化してしまった人物考察の対象は、言うまでもなく視線の先に居る彼女――水橋パルスィである。
パルスィは橋の欄干に肘を付きながら、長いまつげのぱっちりお目目で大通りを歩く人の流れを退屈そうに見つめている。
その緑の眼は、おそらく雑踏に紛れる美少女を追っているに違いない。それも、恋人持ちの。
「ああ、あの子――」
「ん、あの女の子がどったの?」
パルスィに負けず劣らずの気の抜けた声でヤマメは聞き返す。
「妬ましいわ」
聞き慣れた言葉。そしていつもの胸の痛み。
その言葉の本当の意味を、ヤマメだけが知っている。
「はいはい、そーですか」
ヤマメは呆れたように「はぁ」とため息を吐くと、ジト目でパルスィを睨みつけた。
パルスィは自分が睨まれていることに気づくと、嘲るように「ふふん」と鼻で笑ってみせる。
無駄だとわかってはいたが、抗議の視線がこうも簡単に受け流されるとため息の一つも吐きたくなる。
黙っていれば、さらに言えば石像のように固まってさえいれば非の打ち所のない美少女のはずなのに、彼女はなぜに懲りずに悪魔の所業を繰り返すのか。
今のパルスィの表情を百人が見たとするなら、その百人は口をそろえて”彼女は悪事を企んでいる”と断言するだろう。
悪魔のような笑み、というかこれは悪魔そのものだ。いっそ大魔王とでも呼んでしまおうか。
誰が見ても明白すぎて、悪意を向けられているわけでもないのにひしひしと感じるそのオーラは、友人でありその顔を見慣れているヤマメですらドン引いてしまうほど強烈だ。
どれだけ傍にいても、何度見ても、一向に慣れる様子はない。
実を言えば、パルスィが”ターゲット”に気づく前に、ヤマメはその存在にすでに気づいていたのだ。
あの子は絶対にパルスィの好みだな、と。
黒のロングヘアに、ほんのり垂れた無垢な瞳、小さなお鼻に無自覚に色っぽい唇。
ちょっとぎこちないメイクも初心っぽくて加点対象。
少女はどうやら鬼の仲間のようで、しかし額から突き出す小さな角でさえ少女にとってはチャームポイントになりうる。
しかもおあつらえ向きに恋人までセット、あんなパルスィのために用意されたような贄をを彼女が逃がすわけがない。
「中々の上玉ね、しかも見てよあの初心な反応、手を繋いだだけで真っ赤っ赤になってるわよ」
つまるところパルスィの”妬ましい”とは、好みの女の子を見つけた、あの子はいいぞ、可愛いぞ、食っちまうぞ、という合図なわけだ。
最初こそは仲睦まじい恋人たちを見ての感想だったのかもしれないが、パルスィが”狩り”をするようになってから、その意味合いはすっかり変わってしまった。
気だるげだった表情は、悪魔のような笑みを経ていつの間にか狩人のそれに変わっている。
だがそれを狩人の顔だと判別できるのもまた、彼女をよく知るヤマメだけなのである。
客観的に見れば、今のパルスィは冷静で知的な女性……のように見えるかもしれない。
もちろん演技だ。おそらく、その方が相手に警戒されずに済むのだろう。
だが見た目に反して、頭の中には知性など塵ほどしか無く、脳の大部分ではどす黒く薄汚い欲望がぐつぐつと煮立っているに違いない。
そんな友人の姿を見ながら、本来なら軽蔑すべき悪癖であるにも関わらず、完全に嫌悪することが出来ない自分自身がヤマメは嫌で嫌で仕方なかった。
いや、嫌うどころかむしろ――
「はぁ、かわいそうに」
――私は何を、馬鹿なことを考えているのだろう。
良からぬ思考を、胸の内に溜まったもやもやとした感情ごとため息で吐き出す。
そして気をそらすように、ヤマメは雑踏へと視線を向けた。
視線の先にはちょうど、パルスィが狙いを定めた美少女の笑顔がある。
恋人と手をつなぎ、幸せ一杯の表情を浮かべる少女は。
確かに初心だし、ともすればまだ接吻すら交わしたことの無い清い関係なのかもしれない。
だがその笑顔は、これから悪い妖怪の手によって無残にも壊されてしまうのだろう。
ああなんと嘆かわしいことか。
「そう悲観することはないわ、私ほどの美人さんと結ばれるんだもの、彼女だってじきに私に感謝するようになるでしょうね」
パルスィが調子に乗って美人を自称するのは今に始まった事ではないので、ヤマメは触れずにスルーする。
「どうせ強制するんでしょ、言わなくたってわかってるよ」
「まさか、こう見えても私は優しいの、無理やり言わせたりはしないわ。
くんずほぐれつの結果、自発的に、彼女の方から言ってくるのよ」
「パルスィ、それって世間的には調教って言うらしいよ」
パルスィに向けられる冷たい視線。
だが彼女も慣れたもので、先ほどと同じように軽く笑って流してしまった。
「ふーん、ヤマメってばいつの間にそんないかがわしい言葉を覚えたのかしら、もしかして調教してくれる恋人でも出来た?
さすがの私でもそれには本気で嫉妬しちゃうなあ、いっそヤマメをそいつから寝取ってしまおうかしら」
パルスィの瞳が怪しげにギラリと光る。
もちろん物理的に光っているわけでなく、ヤマメから見てそういう風に見えただけなのだが、冗談とはいえこればかりは勘弁して欲しい。
”そういう類”の欲望を友人から向けられるのは精神衛生上あまり良くない。
気持ち悪い、と言うわけではないのだが、どうもバツが悪いと言うか、妙な気まずさがこみ上げてくる。
「んなわけないじゃん、私が独り身だってことはパルスィが一番良く知ってるでしょ、いつもどんだけ一緒にいると思ってるのさ。
隠れて誰かと付き合うなんて、パルスィみたいに器用な真似は出来ないよ」
「ふふふ、それは嘘ね。ヤマメったら私に隠し事をしようったって無駄よ。
隠すってことは、バレちゃ都合の悪い真実があるってことよね、そうよね、そうに決まってるわ。
実は恋人じゃないとか? まさかセフレだったりして!?
あのピュアだったヤマメがまさかそんな爛れた関係に溺れるなんて……嗚呼、友人として悲しいわ、おいおいと泣いてしまいそう。
でもそのギャップもなかなかいいわね、清純そうな美少女に実はセフレが! ちょっとした寝取られ気分! ああ、そそるわぁ……」
「……パルスィ」
握りしめた拳、視線だけで人を殺せそうなほど冷たい瞳、そして満面の笑み。
「ぶっ飛ばすよ?」
「ごめんなさい」
本能的に危険を察知したパルスィは、即座に笑顔で謝ってみせた。
反省していないことは一目瞭然だが、謝罪の言葉を聞いてしまった以上は拳を収めるしか無い。
普段はあまり怒ることの無いヤマメだが、こんなでも一応は妖怪なのである、見た目通り歳相応の少女であるわけがない。
土蜘蛛という妖怪は見た目よりもずっと力持ちだ。
勇儀のような真っ当な鬼ほどでは無いものの、腕力勝負でパルスィに勝ち目など全くないのである、極悪人のパルスィでもそりゃもう謝るしか無い。
「まったく 私だってんな言葉覚えたくなんてなかったっての、隣に居る誰かさんのせいで覚えたんだよ」
「なんてこと、私のおかげだったのね。いいのよ感謝しても」
「はいはい、ありがとありがと」
ヤマメは口を尖らせながら、嫌味たっぷりにわざとらしく言い放った。
そんな彼女の不満気なリアクションを見て、パルスィはくすりと笑う。
「さて、獲物を見失う前に行ってこようかしら」
十分に友人で遊び満足したパルスィは、ヤマメに背を向け人混みに向けて歩き出した。
「精々痛い目見ないように頑張りなよ」
「大丈夫よ、今まで私が失敗したことなんてあったかしら?」
「失敗を見たことが無いから言ってるのさ。
調子に乗ったパルスィがこっぴどく痛い目に会う所、死ぬまでに一度ぐらいは見ときたいからね」
ヤマメからの辛辣なエールに、パルスィは思わず顔をしかめながら振り向いた。
「頑張れって言ってくれたじゃない」
「社交辞令に決まってるじゃん、本心では痛い目見ちまえって思ってるよ。
きっとパルスィみたいな極悪人には良い薬になるに違いないね、一度地獄にでも堕ちて反省した方がいい」
「あら、ここが地獄よ? だからあの女の子にも救いはないの、あるのは非情な現実だけ」
「現実と書いてパルスィと読むんでしょ? 言っとくけど、ここは地獄でもパルスィほどの鬼畜はそうそういないからね。
こんな極悪人は、いっそここよりもっと酷い所に堕ちるべきなのさ」
「容赦無いわねえ、酷い友人も居たもんだわ」
「その言葉、そっくりそのまま返すよ」
美少女ばかりを狙っては百発百中で落とすナンパのプロに比べれば、ヤマメの憎まれ口など可愛い物である。
彼女が悪事に手を染めたそもそもの動機は、行き過ぎた妬ましさ故に恋人をぶち壊したくなったから、ということらしい。
だが実際はどうなのだろう、ヤマメは完全にパルスィの趣味だと思っているようだが。
最初はパルスィの言う通りに嫉妬が動機だったのかもしれないが、今は当初の目的など綺麗さっぱり忘れているようにしか見えない。
これで彼女がごく普通の、ランクで言えば中の中程度の見た目しかないような女性なら何の問題も無かったのだろう。
しかしタチの悪いことにパルスィはそれはそれは見目麗しい、誰もが認める美人だったのである。
加えて演技も上手い、スイッチの入ったパルスィは彼女のことをよく知るヤマメですらその悪意を見抜けないほど見事に善人を演じきってみせる。
しかも、悪意があると理解していてもついくらりとしてしまうほどの色気、そして気づけば肩と肩が触れ合う距離にまで自然と近づいているテクニック。
その他諸々の要素によって、パルスィは完全なる女たらしの魔物と化してしまった。
とは言え、いくら美人だろうとナンパの成功率には限界があるはずだ、だというのになぜ彼女に限って百発百中なのか。
友人である自分ですら気を抜くと飲み込まれてしまいそうになるほどだ、おそらく妖怪らしく不可視の力が働いているに違いない――とヤマメは考える。
考えているだけで、ただの仮説に過ぎない。
だがそう考えざるを得ないほどの魔力、もとい魅力がその瞳には備わっていた。
瞳に限った話ではない、パルスィから漂う甘い香りだとか、声に人を惑わす魔力があるのだとか、考えようと思えば仮説はいくらでも立てられる。
結局は、どれも確かめようがないのだが。
なにせ、仮に不思議な力が存在していたとしても、本人にすら自覚がないのだからどうしようもない。
理由が何にせよ、パルスィのナンパが百発百中の精度を誇ることは事実なわけで……ほら、ちょうど今だって。
ヤマメの隣を離れたパルスィは、まっすぐにターゲットの元へと向かっていく。
夕刻、真面目な妖怪たちは仕事を終え、不真面目な妖怪たちが本格的に活動を始めるこのタイミングで、妖怪たちでごった返す大通りを恋人たちは手を繋ぎながら、どうにかはぐれないように進んでいた。
少しでも手が離れれば、二人の距離はすぐに離れてしまうだろう。
パルスィはそのことをよく知っていた、だから狙うのはいつも黄昏時の、人通りの多いこの場所なのである。
真っ直ぐに恋人たちの方へ向かった悪魔は、どうにかこうにか繋がれていた二人の手のうち、男の手を叩き分断する。
手が離れた瞬間、人混みに流され二人は離れ離れになってしまう。
次の瞬間、何者かの手が少女の手を掴んだ。
最初は男の手かと思い安堵の表情を浮かべた少女だったが、すぐに別人の手だと気付く。
だが焦ってももう遅い、少女はぐいぐいと男の居る方とは逆方向へと引っ張られていく。
「見てて吐き気がするぐらいに見事な手際だよね……」
思わずヤマメは引いてしまう。
少女の手を引いていたはずの恋人の男は、不安げに雑踏の中でキョロキョロとあたりを見回している。
そうこうしている間にも、パルスィと少女はどんどんと大通りを奥へと進んでいき――そしていつもの路地裏へと姿を消す。
少女の戸惑った表情に、パルスィの自信に満ちた悪い笑顔。
天使と悪魔とでも題するべきだろうか、実に見事な対比である。
哀れ、純粋無垢だったはずのあの少女は、今日一晩で知らなくても良かった穢れを知ってしまうのだろう。
「嫌な世の中だねえ」
男は未だに少女を探し続けている。
言うほど見た目が悪い男ではない、顔立ちが整っているとまでは言い難いが標準的な容姿は備えているし、性格だって良さそうだ。
初めて見る男で、その人となりを詳細に知っているわけではないが、性格は顔に出る物。
男の手を握っていた時の少女の表情は安心しきっていたし、少なくともあの少女の前では優しい男なのだろう。
とはいえ、お世辞にも二人は吊りあっているとは言いがたい、顔に関しては少女に圧倒的なアドバンテージがある。
顔面偏差値の差を性格の良さと熱意でどうにかひっくり返した、ということなのだろうか。
男が少女の元へ足繁く通い、少しずつ少女の心を解していく純愛ストーリーが容易に想像出来る。
物語なら付き合い始めたら終わり、そこでハッピーエンドのはずなのだが――世の中とはかくも残酷なものなのか、ハッピーエンドのその後がハッピー続きとは限らないのだ。
心配そうに少女の名を呼びながら、あたりを探しまわる男の姿が痛々しい。
ヤマメのように正常な感覚の持ち主であれば、その男の姿を見て心を痛めるのだろう。
だがしかし、パルスィのように歪んだ心を持つ者にとっては、あの男の姿こそ至高の肴になるに違いない。
「……帰るか」
勝負はパルスィの勝ちで終わったのだ、つまり今日のうちに彼女がここに戻ってくることはない、これ以上待っても無駄だ。
男から視線を逸らし、ヤマメも雑踏の一員となるべく大通りへ向かって歩き始める。
パルスィは妬み僻みを糧とする妖怪、だからアレも決して無駄な行為ではないのだ、ヤマメだってそれは理解している、全てが間違っているとは思っていない。
だが、仮に絶対に必要な行為だったとしても、それを許す事はできない。
ヤマメ自身の意思と言うよりは大衆の意思、要するにモラルと呼ばれる共通認識がそう告げている。
だから、多少なりともパルスィに好意を抱くヤマメでさえも、あれが間違っていることを理解している。可能ならば辞めさせるべきであることも。
理解しているくせに、完全に嫌うことができないから悩んでいるのだ。
パルスィが今日のように誰かの物に手を出すのは今に始まったことではない。
故に、地底ではそれなりの人数が彼女のその行いを知っている。
知っている妖怪のうちのほとんどがパルスィに対して良い印象を抱いては居ないし、中には実際に被害にあった者もおり、殺意じみた恨みを抱いている妖怪だって居た。
対してヤマメは、地底ではそれなりの人気者だ。
人当たりの良い性格で誰とだってすぐに馴染めた。宴会ではいつの間にか輪の中心に居ることも少なくはない。
対照的だった。誰もが二人が友人であることを疑問視していたし、当の本人たちですらなぜ自分たちが友人をやっているのか理解出来ていない。
パルスィはヤマメが自分の行為を嫌っているのを知っている、ヤマメはパルスィが口うるさく忠告ばかりされることを嫌っているのを知っている。
なのに、二人は気付けばいつもの橋の上に居て、いつの間にか誰よりも心を許す仲の良い友人になってしまっていた。
どうしてだろう、なぜだろう、最初こそそうやって考えることもあったけれど、気づけば二人は考えることを止めていた。
考えるだけ無駄だと悟ったからだ。
きっと最初から理由なんてなかったのだろう、出会いなんてそんなものだ、そう決めつけることにした。
ぼんやりと、パルスィの消えていった方向を眺めるヤマメ。
視界に映る悲劇の登場人物は、すでに誰一人として残っていない。
だが、少女とパルスィが今どんな状況にあるのかだけは、目に浮かぶように容易に想像できる。
取り残された男、今まさに汚されようとする少女、そして首尾よく事を進められた事に満足しニヤニヤと笑うパルスィ。
いつものことだが、胸が締め付けられるように痛かった。
何度も見るうちに慣れたおかげか、最初のころよりは痛みも随分とマシにはなったが、それでも見ていて気分の良い物ではない。
偽善者ぶっているわけではなく……いや、パルスィを止めない時点で偽善者にすぎないのだろうが、こんな悲惨な情景を見れば誰だって胸の一つや二つは痛くなるはずだ。
恋人たちが悲惨すぎて、そしてパルスィが悪魔すぎて。
誰に向けてかは知らないが、思わず笑ってしまうほどに。
ヤマメは自分の胸に軽く手を当てながら、強めに「ふぅ」と息を吐いた。
歩いているうち、いつの間にか人気のない通りまで来ていたようだ。
目を細めて視線を下へと傾ける。小石の転がる地面が視界を埋め尽くした。
ちょうどそこにあった石ころを、乱暴に強く蹴飛ばす。
石ころは何度か跳ねて右へと曲がっていき、終いには茂みの中へと消えてしまった。
「ばっかみたい」
誰に向けた言葉なのか、ヤマメ自身にも理解は出来ない。
胸に当てた手に力を入れ、手の平に収まった布をくしゃりと握る。
ヤマメの体を動かす原動力は、間違いなく感情だ。感情が体を突き動かす。
なのに、それがわからない、何もわからない。
理屈ではわからない、だから考えても形を掴めない、名前も知らない。
色んな感情がごちゃまぜになって、うねって絡んで形を失い、でもその中で唯一ひとつだけ確かに感じられる物があった。
どす黒く醜い塊。
見覚えのある形。
知っているのかもしれない、気のせいかもしれない。
けれどヤマメがそれを注視することはない、”都合の悪いものだ”と直感が告げているから。
だから、ヤマメは見て見ぬふりをした。
パルスィが少女を連れ去った日から数日後、大通りは今日も賑わっている。
二人はそんな雑踏を少し離れたところから、人混みを退屈そうに眺めていた。
いつものことである。
ヤマメは今日もパルスィに呆れながら、そしてパルスィは今日も獲物を探しながら、友人として共に同じ時間を過ごしつつも、二人はすれ違い続けている。
今の関係に至るきっかけなんてはっきりとした物は無いが、最初の出会いは勇儀主催で行われた飲み会だったはずだ。
ヤマメは誰とだって仲良く出来る、対してパルスィは獲物を探す時以外は自ら他人に近づくことはしない。
どうやら当時からパルスィの悪癖は健在だったらしく、今になって思えば、彼女が飲み会で孤立していたのはそういった事情をヤマメ以外の全員が把握していたからなのだろう。
孤立と言っても全く誰にも絡まれないわけではなく、親交のある妖怪――例えば主催者であり彼女を呼んだ張本人である勇儀なんかは、ちょくちょくパルスィのことを気にかけてはいた。
しかしヤマメはそんなことを気にすることもなく、ごく普通に、当然の行いとしてパルスィに声をかけた。
もしかしたらその時、他の参加者たちはヤマメが狙われるのでは無いかとヒヤヒヤしながら見ていたのかもしれない。
だが幸いな事にヤマメはパルスィのお眼鏡にかなわなかったらしく、二人の初対面は他愛もない会話を一つ二つ交わしただけで終わり、ヤマメはまた別のところへと移動してしまった。
パルスィも興味なさげに、彼女を目で追うこともなく再び一人飲みを再開する。
始まりなんて、そんなものだ。
ただ、そんな微かな繋がりが何度も繰り返された結果、二人はいつの間にか飲み会以外でも話すようになって、そうやって話していくうちに橋の上が二人のたまり場になり――今に至るわけである。
だから”いつから”と言う問いに対しての答えは、強いて言えばおそらく初対面の飲み会の時になるのだろう。
だがそれは、はっきりときっかけであると言い切れるほど確かなものでもない、”どうして”だなんて、それこそわかるわけがない。
何せきっかけがあやふやなのだから、理由なんてわかるわけがないのだ。
ただ漠然と、一緒に過ごすのが心地よいと感じているだけであって、他に大した理由などありはしない。
狂おしく求めるわけでもなく、かと言って義務感で一緒に居るわけでもない。
ふわふわとした、理由はわからないが心が休まる時間が、あいも変わらず今日も続いている。
「で、この前の女の子はどうなったのさ。まあ聞くまでもなく成功してるんだろうけどさ」
「ええ、性交したわ」
「言うと思った」
「読まれてると思った。
ま、いつもと一緒よ。ヤマメが聞いて面白いことなんて一つもないわ」
「いつもって?」
「連絡先は手に入れたわ、恋人さんにはとても与えられないような、未知の快楽も教えてこんであげた。
ファーストコンタクトにしては及第点ってところかしら」
「なるほどね。それで、やっぱりお姉さまお姉さまって懐かれてんの?」
「まあね、やっぱり美少女にはお姉さまと呼ばれるに限るわ」
「そっか、まさにいつも通りの悪趣味っぷりだね。
じゃあそっから、好き勝手に相手の心も体も弄くり回した挙句、しばらくして飽きたらぽいっと捨てるわけだ」
「失礼ね、すぐには捨てないわ、恋人との関係がこじれるのを見届けてから捨てるの。
ああ、あの妬ましいほどに初々しかった二人の心が徐々に離れて、捻れて、歪んで、終いには壊れてしまう瞬間が待ち遠しくて仕方ないわ。
大抵の男は嫉妬に狂ってくれるしね、お腹も膨れるし、一石二鳥とはまさにこのことだわ」
パルスィはそう遠くない未来の悲劇を想像しながら、うっとりと悦に浸っている。
変わらない、何も。
例えパルスィの性格がドン引きするぐらい悪かったとしても、だ。
むしろ彼女がそうあるからこそヤマメは心地よさを感じているのかもしれない。
別に性格の悪い部分を好んでいるわけではなく、パルスィがパルスィであるから、変わらず彼女らしくあるからこそ、ヤマメは今日も気楽に過ごせるのだ。
被害者には悪いとは思うが、それがヤマメの慕う水橋パルスィなのだから仕方ない。
「ほんっと、性格悪いよね」
嫌悪感を抱いているのは決して嘘でも方便でもない、確かな事実だ。
でも悪い部分も含めてパルスィなわけで。
ある日突然、彼女が改心して女の子に手を出さなくなったのなら、ヤマメは無性に不安になるに違いない。
悪いものでも食べたのか、悪霊にでも取りつかれたんじゃないか、と。
「そうね、ヤマメが思う以上に自分自身でもそう思ってるわ。
でも、その引くほど性格の悪い私と一緒に居るヤマメはかなりの変わり者よね、他の連中は早々に見切りをつけて居なくなっちゃったのに。
ああ、なるほど。もしかして……私に惚れてる?」
「ないない、ありえないから」
「いや待って、言わなくてもいいわ、わかってる。
そうよね、そうなるわよね、だって私ほどの美人だもの、惚れない方がおかしいわ。常日頃からなんでヤマメは堕ちないんだろうってずっと疑問だったのよ。
なるほど、もうすでに堕ちてたのね! そう考えれば全ての疑問は綺麗さっぱりと氷解するわ!」
パルスィは自分の胸に手を当て、もう一方の手を私へ差し伸べてそう言った。
「さあヤマメ、いいのよ遠慮なんてしないで。
私の豊満な胸に飛び込んで、好きなだけまさぐりなさい!」
ヤマメは、差し伸べられた手を無言ではたき落とす。
見た目以上に力が篭っていたらしく、赤く腫れた手をパルスィは目の端に涙を浮かべながら擦っていた。
「い、痛いんだけど」
「たまにさ、私にもパルスィと同じぐらいの図太さがあれば幸せに生きられるんだろうなって、羨ましくなることがあるよ」
「過去に例が無いほど馬鹿にされてる気がするわ」
「どうかパルスィは今のパルスィのままで居てね。
大丈夫、私はいつまでも友達だよ」
「そう言いながら遠ざからないでよ! 本当に悲しくなるからっ!」
徐々にスライドしながら距離を取るヤマメを、パルスィは慌てて追いかける。
離れすぎないように、けれども触れないように。
「こっちこないでよ、たらしが伝染るから」
「伝染るわけ無いじゃないっ」
「パルスィ菌が伝染るー、あっちいけー」
「子供じゃないんだからっ!」
「別にそこまで近づかないでいいじゃんか、ちょっと距離を置きたい気分なの!
それとも何、私の体が目的なの? いやらしいことしようとしてるんでしょ!?」
「そんなわけないでしょうが、私が嫌なの!」
だだのこねあいだ。
どこからどう見ても大義名分はヤマメの方にあるのだが、友達付き合いの良いヤマメは一応パルスィの言い分を聞くことにした。
「何で嫌なのさ」
どうせおちゃらけた答えが返ってくるのだろうと思っていたのだが、パルスィは存外に真面目な顔をした答えた。
「この距離ね、すごく心地いいのよ。
正直なこと言うと、私って他の誰と一緒に居る時よりもヤマメと居る時が一番気が休まるのよね」
「急に何さ、気持ち悪い」
「人が真面目なこと言ってるのに気持ち悪いは無いんじゃないの」
「パルスィが真面目なこと言ってるから気持ち悪いって言ってるんだよ」
「容赦無いわね、かなり傷つくんだけど……」
「自分が今まで他人を傷つけてきた数に比べれば微々たるものでしょ、因果応報だよ」
真面目な話は私たちには似合わない、だから真面目な話はしない。
ヤマメはそう割り切っていた。
彼女が人付き合いに秀でているのは、そういった割り切りがあるからかもしれない。
相手によって、必要な話題しか提供しない。
ふざける相手にはふざけて、真面目な相手には真面目に接して、可能な限り相手の意見を尊重する。
相手を不快にさせないラインを見極める技術、それを無意識のうちに身につけているのだろう。
おそらくヤマメにとっての一番の友人であるパルスィでさえ、その例外ではなかった。
「そうやって私のこと嫌うような素振りは見せるくせに、友達をやめようとは思わないのね」
せっかくヤマメが真面目な流れを止めたというのに、パルスィはこりもせずに茶化す様子もなくそう問いかけた。
ヤマメは困ったように口をへの字に結ぶ。
好きか嫌いかで言えば、間違いなく嫌いだ。
ヤマメは常識も倫理観もしっかりとした妖怪だ、誰かれ構わず手を出すような放蕩者じゃない。
そんな彼女が、パルスィのような邪悪な妖怪を好きになれるわけがなかった。なかったはずなのに――
「好きか嫌いかで言えば、そりゃ嫌いだよ。性格は悪いし性癖は歪んでるし無駄にナルシストだし、そんなの好きになれるわけないじゃん。
パルスィだって自分でわかってるでしょ。
だけど、友達やめるとか、そんな大げさな物じゃないってだけ」
辛うじて絞り出した答えは、そんなはっきりとしない言葉だった。
だからといって、友達を止められるわけがない、一緒に居る時間が無くなるなんて嫌だ、そう思っている。
自分の意思と相反する、パルスィの行いに対して苛立ちはあるし、常識的に考えれば早く止めさせなければならない。
「大げさなことよ、嫌いな相手と一緒に居たいとは思わないわ。
現に今まではそうだったから、ヤマメ以外は私の事を知った途端に離れてしまうのよ」
そう、そのはずだった、ヤマメだって本来ならそちらのカテゴリに属していたはずなのだ。
だというのに、気づけば離れるなんて選択肢は頭から消え失せていた、そばに居て当然だと思うようになっていた。
今では、近くに居なければ不安になってしまうほどに。
「なのに、どうしてヤマメは私の傍に居てくれるのかしら」
「答えないとだめ?」
「できれば答えてほしいわね」
「真面目な話とか、私たちには似合わないって」
「たまには似合わないこともやってみていいじゃない、案外食わず嫌いなだけかもしれないわよ」
「似合わないって再確認するだけだよ、現にこうやって私は苦しんでるわけだし」
「苦しみが大きいほど快感も大きくなるわ」
「……何の話してんの?」
「やあね、邪推しすぎよ。
ヤマメの答えの話でしょ、ほらほら早く教えてよ。どうして私の傍に居てくれるのか」
答えははっきりとさせなければならない物なのか、ぼやけたままの方が楽なんじゃないか。
楽な方楽な方へと逃げようとするヤマメの思考、だがパルスィの視線が絡みついてそれを許してくれない。
答えを出せ、と無言の圧力がかかる。
「わかるわけないじゃん、そんなの」
「あ、逃げたわね」
「逃げてないって、ほんとにわかんないの!
大体パルスィだって私と一緒じゃないさ、二人でいると気が休まるって。
そんなもんだって、私もパルスィと一緒に居ると気が楽っていうか、楽しいっていうか」
「私と一緒……」
「そう、そういうこと。だから、はっきりと言葉で表せるようなもんじゃないの。わかった?」
「ふふ、そう、私と一緒なのね。
わかったわ、今日の所はそれで許してあげましょう」
「何で上から目線なの」
直接的な表現をしたわけではないが、改めて言葉にするとやはり恥ずかしいらしい。
ヤマメは顔をほんのり赤く染め、パルスィを睨みつける。
睨まれたパルスィは、それが照れ隠しだということを悟ったのかニヤニヤと笑ってみせた。
「その顔むかつく」
「別にいいじゃない、赤くなったヤマメもかわいいわよ」
「だから、それがむかつくって言ってんの!」
拳を握りしめたヤマメは、全く自重する様子を見せないパルスィに向かって右ストレートを繰り出す。
もちろん本気ではない。
多少は痛みを感じるかもしれないが、からかった代償としては到底吊り合わない程度だ。
しかしヤマメの拳は届くことなく空を切り、パルスィは金髪をはためかせながらくるりと華麗に回避した。
「避けないでよ、罰なんだから」
「甘んじて罰を受けるほど往生際は良くないわ、それが水橋パルスィという女なの」
「観念しなよ、私の怒りはパルスィに拳が届くまで収まらないよっ、しゅっしゅっ!」
「まあ怖い、でもヤマメだってわかってるでしょう?」
「わかってるよ、わかってるからやってるんじゃん」
ヤマメの突き出した拳は、一見してただのパンチに見えたかもしれない。
だが実はとんでもない力の込められた必殺の一撃だった――わけでもなく、実際ただのパンチではあるのだが、ヤマメにしてみればただの殴打とはまた別の意図を含んだ拳だったのである。
もちろんパルスィもその意図を察している、だからこそ必死で避けている。
「私に触られるのが嫌だって言うんでしょ」
「わかってるならやめなさいよ、人が嫌がることをしてはいけませんって先生に教わらなかったのかしら」
「教わったよ、だからやってるの」
「とんだ反面教師ね」
そう、なぜだかパルスィはヤマメに触れられるのを極端に嫌がるのだ。
友人としてのスキンシップはもちろん、歩いている時に偶然肩が当たることすら拒むほどだ。
かといって、こうして毎日一緒に過ごしていく上で全く触れないなんてことがあるわけもなく、事故でどうしようもなく触れてしまうこともある。
そんな時は決まって、パルスィはバツが悪そうにしながらヤマメにこう言ってくる。
『ごめんなさい』、と。
「真面目な話ついでに聞いておきたいんだけど」
「答えないわよ」
「人に答えさせといてそれはないって! ていうかまだ何も言ってないよ」
「言わなくても話の流れでわかるわ、何で触れられるのを嫌うのか、でしょ?
以前も同じことを聞かれたし、同じように答えたと思うわ。
何度聞かれようと私の答えは一つよ。
ノーコメント、天変地異が起きようとも答えることはできません」
「理不尽だー! 人には無理やり言わせといて」
「理不尽で結構よ、私は嫌な女なの。誰よりもヤマメが一番良く知ってるはずよ」
「そうだけど、そうなんだけど!
くそう、ちくしょう、開き直りやがって……」
こうなってしまうと、ヤマメにパルスィの口を開かせるのはほぼ不可能。
軽い性格と裏腹にパルスィの口は鋼よりも硬い、自白剤でも無い限り答えを聞き出すことは出来ないだろう。
実を言えば、軽い性格と言うのも嘘っぱちなんじゃないかとヤマメは睨んでいる。
そもそも女の子をたぶらかしているのも、妬ましさを糧とするパルスィの妖怪としての特性があるからであって、決して純粋な性欲だけで手を出しているわけではないのだ。
全く性欲が無いとは言わないし、本人の趣味も多分に含まれてはいるのだろうが、それでも本質は別のところにある。
暗くどす黒い負の感情、それこそがパルスィの本質。
明るく振舞っている普段のパルスィとは全く異なる、緑の瞳の奥深くに沈む、おそらくヤマメ以外誰も知らないであろう本当の彼女の姿だ。
「そんなにじっと見たって答えない物は答えないから」
「……わかってるよ、こうなったパルスィはてこでも動かないからね。
でも、いつか絶対に吐かせてやるから」
「どうしてそこまで聞きたがるのよ、大したことじゃないわ、聞いたってがっかりするだけよ」
「だって、嫌だから」
「何がよ」
「友達なのに隠し事あるのは嫌だから、なんかもやもやするの!」
「ヤマメ……」
あまりに真っ直ぐ過ぎる言葉に、思わずパルスィはきょとんとしてしまう。
しかしそんなマヌケな表情も一瞬だけ、すぐに気を取り直すと自嘲気味に笑ってこう言った。
「ほんと、あんたっていい子よね、私にはちょっと眩しすぎるわ」
「馬鹿にしてる?」
「まさか、本気で褒めてるのよ。
私なんかには勿体無いぐらい素直で真っ直ぐで、ほんと眩しい」
パルスィは物憂げに目を細める。
「羨ましいわ」
そうして、二人はまたいつもの怠惰な時間へと回帰していく。
気だるげに頬杖をつきながら、人混みをじっと眺め、他愛もない会話を繰り返し。
多少らしくない会話をしてしまったが、それも雑談の域を出ない、二人の関係をかき乱すには程遠い。
いずれ、数えきれない程の無意味な会話を繰り返すうちに、記憶の砂に埋もれて消えてしまうのだろう。
「乾杯!」
勇儀が音頭を取ると、回りの妖怪たちも一斉に盃を掲げ高らかに乾杯と叫ぶ。
誰も彼もが上機嫌に盃に口を付けると、それを傾け一気に喉へと流しこむ。
喉を流れる熱いアルコールに、その内の何人かは思わず「くぅ~っ」と唸ってしまった。
意図したのではない、思わず漏れてしまったのだ。
一日中貯めこんできた欲望を満たす命の雫、胃袋どころか魂すら満たすほどの充足を与えるアルコールに逆らえる者など居ないのである。
勇儀主催の飲み会にヤマメが参加しないわけもなく、彼女も周囲の妖怪たちと同様に酒の魔力に酔いしれていた。
人気者の彼女の回りに人が尽きることはない。
だが一つの人影がヤマメに近づいてくると、彼女の回りに集っていた妖怪たちは蜘蛛の子を散らすようにどこかへと去ってしまった。
ヤマメは不思議そうに人影の方へと視線を向ける。
そこには、古明地さとりの姿があった。
「おやヤマメさん、今日は珍しく一人なんですね」
さとりは去っていく妖怪たちに目をくれることもなく、清酒の注がれたグラス片手にヤマメの近くへと歩み寄り、座布団の上にちょこんと腰を下ろした。
誰に対しても分け隔てなく接するヤマメは、地底の嫌われ者であるさとりでさえも受け入れていた。
確かに自分の心の中を読まれるのは良い気分はしないが、”その程度”で避けたりする必要は無いはずだ、というのがヤマメの考えだ。
そんなヤマメに対して「頭おかしいんじゃないですか」と言い放ったさとりは、もはや心を読む読まないに関係なく嫌われ者の素養があるとしか思えないのだが。
だがそれもまた、ヤマメにとっては些細な問題なのである。現にその時のさとりの暴言も「あはは」と笑って軽く流してしまったのだから。
「一人じゃないよ、さっきまで大勢に囲まれてたじゃないか」
「そういう意味ではなく……はぁ、わかってるならわざわざそういう言い回しをする必要はないんじゃありませんか。
パルスィさんと何があったんですか?」
「別に、何もなかったけど。
ただ単に、パルスィが女の子を連れ回してて忙しいから飲み会には参加できないってだけだよ」
さとり相手に隠し事をするだけ無駄だ、どうやら彼女はヤマメとパルスィの間に何か愉快な出来事があったのではないかと察して近づいてきたらしい。
いや、彼女の場合察したというよりは、心の中を覗き見て確信したからこそ近づいてきたのかもしれないが。
ヤマメにも何となくだが心当たりはあった。
おおよそ、そのネタでヤマメをからかって酒の肴にでもするつもりなのだろう。
「でも、心当たりはあるんですよね?」
「相変わらず色々手順をすっ飛ばして話すよね。
まあ心当たりっていうか、多少思う所はあるけど、そんなに私がパルスィと一緒に居ないのが珍しい?」
「ええ、私の記憶が正しければ、今までヤマメさんが参加している飲み会にパルスィさんが参加しないことは無かったと思います」
さとりが断言すると言うことは、間違いなくそうなのだろう。
ヤマメ自身に自覚はなかったが、どうやら第三者から見ると隣にパルスィが居ない状態と言うのは違和感を覚えるほど当然のことらしい。
確かに、ヤマメは今日の飲み会の中で何度か不可解な視線を向けられていた。
何かを勘ぐるような、不思議な物でも見ているような。
理由がわからないので多少気味悪さを感じていたのだが、これで合点がいった。
しかし、気づけば一緒に居ることが当たり前になっていたのを喜ぶべきなのか、はたまた悲しむべきなのか。あれで中身がまともだったら素直に喜べるのに――とヤマメは複雑な心境だった。
「良い友人じゃないですか、羨ましいです」
「わかってて言ってるんだからタチが悪いよね、さとりって」
「いえいえ、本心ですよ」
「あんなの悪友だよ」
「それが羨ましいんです、笑いながら悪友だと呼べる相手が居るなんて、きっと毎日がスリルに溢れているに違いありません」
スリルとロマン溢れるアドベンチャーに導いてくれるような素敵な友人であれば良かったのだが、生憎パルスィがヤマメに提供するのは呆れぐらいの物である。
ヤマメにとっての悪友と、さとりにとっての悪友の間には天と地の差があるに違いない。
「問題は、その悪友さんと、見てるこっちがこっ恥ずかしくなるような青春のワンシーンを演じてしまったことですよね」
「……まあ、ね」
「顔が少し紅潮しましたね、まあ私が図星を突かないわけがありませんから、間違いなく図星なんでしょうけど。
どうして私と一緒にいるの……一緒に居て気が楽だからよ……ふふふ、私も一度ぐらいは言ってみたいですね、そんな台詞」
「や、やめてよぉ」
「やめませんよ、私は他人の嫌がる顔が大好物なんですから。
ヤマメさんの今の顔なんてたまりません、お酒がぐいぐい進みますね、最高の肴ですよ」
さとりの性格の悪さは本当に心が読める力のせいなのだろうか。
ヤマメは、さとりを友人として受け入れてしまった過去の自分のうかつさを今更ながらに呪っていた。
いや、むしろ普通に生きいても嫌われてしまう彼女だからこそ、他人に嫌われることを厭わずに自由奔放に振舞っているのかもしれない。
どうせ嫌われるのなら、自分から嫌われてしまえ、と。
「パルスィさんもここに居ればもっと面白いことになったんでしょうけどね」
「悲惨の間違いでしょ?」
「立ち位置が変われば状況も変わるものです、ヤマメさんたちの不幸は私にとっての幸福ですから」
他人の不幸は蜜の味という言葉は、今のさとりの為にあるに違いない。
「ですが、進展の遅い物語はあんまり好きじゃないんですよ、私」
「物語って、何の話さ」
「もちろん、ヤマメさんとパルスィさんの物語です。
確かにもどかしさを楽しむのも一興なのかもしませんが、こう見えて私はせっかちなんです」
「だから、一体何の話をしてるの?」
「ですから、ヒントをさしあげましょう」
「人の話を聞けー!」
彼女の身勝手は今に始まったわけではないが、今日のは輪をかけて酷い。
心を読む能力を持つさとりは、こちらから話さずとも全てを理解してしまう。
わかっていることをいちいち聞くのは彼女にとって面倒なことなのだろう、しかし与えたつもりの無い情報を前提として話を進められるのは、こちらとしては非常にやり辛い。
段階を踏んで話そうと計画を立てていても、彼女はその二手先三手先の話を勝手に始めてしまうのだから。
例えば、さとりと外出する約束を取り付ける時、「ねえさとり」と話しかけるとしよう。
すると彼女はこう返事するのである、「わかったわ」と。
確かに意思の疎通は出来ているし、効率が良いと言えば良いのだが、会話をするこっちの気持ちにもなって欲しいものだ。
「原因は貴女ではない、彼女――つまりはパルスィさんにあります」
「はぁ、もういいよ、さとりが私の言葉なんて聞くつもりがないってのは十分わかったから」
「私に言葉なんて必要ありませんから」
「会話ってのはお互いを尊重しあって初めて成り立つの、さとりだけが満足したって意味ないでしょ」
「身に染み付いた習慣と言うのは中々消えないものです、今までヤマメさんにさんざん注意されましたので治そうと努力はしているつもりなのですが」
「嘘でしょ、それ」
「いえいえ、滅相もありません」
ヤマメは他人の心が読めるわけではないが、さとりが嘘をついていることだけははっきりと理解できた。
ポーカーフェイスはさとりの特技の一つと言ってもいい。
今はわざとわかるように、愉快なジョークのつもりで嘘をついたのだろう。
「で、原因がパルスィさんにあるという話ですが」
「何の原因? 私には心当たりがないんだけど」
「ヤマメさんが今まさに頭に思い浮かべている、”それ”の原因です」
ヤマメが頭に思い浮かべていたのは、つい先日に起こった出来事だった。
しかも一度や二度じゃない、一番近い記憶がその時だったというだけで、ヤマメとパルスィの二人は何度も同じやりとりを繰り返している。
「平気だ、気にしてないと言いながら、実は心の底ではとても気にしているんですよね」
「別にそういうわけじゃ……」
「ヤマメさんは土蜘蛛ですから、”触るな”だなんて言われたら傷つくに決まってるじゃないですか。
病を操る力に絡めて悪く考えてしまうことぐらい、心なんて読めなくても普通はわかると思うのですが。
パルスィさんったらデリカシーに欠けてますよね、あんなのが美少女食いまくってるって言うんだから世の中どうかしてますよ。
ですが、安心してください。
さっきも言った通り、パルスィさんが触れられるのを嫌がってるのは、ヤマメさんに原因があるわけじゃないんです」
「じゃあ何が理由なのさ」
「そこまでは言えません、だって答えになってしまいますから」
「ここまで言っておいてそれはないよ!」
「ヒントだと言ったではないですか、これ以上はダメです。
一方的に相手の気持ちを知るのはアンフェアだと私は思います」
「アンフェアの権化が何言ってるんだか。
もう、これじゃあ余計にもやもやするだけじゃん」
「土蜘蛛だから腫れ物扱いされている、と言う最悪の可能性だけは消えたのですからいいではないですか」
「そりゃそうだけど。
でも、もうちょっとヒントをくれたっていいんじゃないかな」
パルスィに原因があると言うことがわかったところで、彼女が口を開かない限りは理由はわからないままだろう。
答えを教えてもらうのが一番手っ取り早いが、心を読んで答えを知ることがアンフェアだと言うさとりの気持ちもわからないではない。
さとりは基本的に非常識だが、超えてはいけないラインは自分で理解しているようだ。
「仕方ありませんね、それではもう一つだけヒントをあげましょう」
「いいの?」
「ご期待に沿えるほどの物かわかりませんが。
まあヒントと言うよりはアドバイスですね、答えへ近づくための」
実を言えば、ヤマメがその答えを知りたがっているかと言われればそこまででも無いのだが。
友達として付き合っていく上で、必ずしも体と体の接触が必要なわけではないし、嫌なら嫌でそれなりの付き合い方をすればいいだけである。
だがそれでも、知ることができるのなら知っておくに越したことはない。
知ることでパルスィとの友人関係をもっと円滑に進めることもできるかもしれないのだから。
「いっそ触ってしまえばいいんですよ、それはもう過剰にベタベタと」
「えっ? いやいや、だからそれが出来ないから悩んでるんじゃん、パルスィってば本気で嫌がるんだって」
「でも全力で振り払ったりはしないんでしょう?」
「そりゃそうかもしれないけど、でもわざわざ嫌がることなんてできるわけ……」
やんわりと手を払われるか、距離を取られるかのどちらかだろう。
触られるのが嫌だと言われてからは、パルスィの見える範囲でじゃれあうようにして触ろうとすることはあっても、意図的にこっそりと触れようとしたことは無かったので想像の域は出ないが。
少なくとも、パルスィがヤマメが傷つくような方法で無理やりにでも手を離そうとする光景は想像できない。
「抱きついてみてもいいですし、もっと濃厚な接触でもいいんですよ。
手を手を絡めてみたり、唇と唇を重ねてみたり、おもむろに服を脱いで体と体を重ねてみても」
「無いから! 絶対にありえないから!」
「ふふふ、ヤマメさんってば今一瞬パルスィさんの裸を想像しましたね。やらしー」
「想像させたのはさとりでしょっ!?」
「なるほど、一緒に温泉に入った時の記憶ですか。つまり限りなく実物に近い裸なんですね。
パルスィさんの裸ってこんななんだー、へー、ふーん、ほほーん、さすが美人なだけあって裸も素敵ですねえ。
うわあ、おっぱい大きいしくびれも見事ですねえ、普段はそうは見えないですし着痩せするタイプなんでしょうか。
肌も絹のように滑らかで、確かに同性でもぐらっと来てしまいますね」
「や、やめてよぉっ、見るなぁっ!」
ヤマメはさとりに向けてわしゃわしゃと手を振り回して視線を遮るも、物理的な妨害に効果があるわけもない。
第三の目は全てお見通しなのだ。
顔を赤くしながらじたばたと暴れるヤマメの様子を、さとりはニヤニヤと笑いながら眺めていた。
「パルスィは私の物だ、さとりなんかには見られたくないっ! ってとこですか」
「違うって!」
「ですが心の中ではそう思って……」
「勝手に人の心をでっちあげるなー!」
さとりの表情を見れば、ただヤマメをからかいたいだけと言うのは一目瞭然だ。
一連の動きですっかり息を切らしてしまったヤマメは、ぜぇはぁと呼吸を荒くしながらジト目でさとりを睨みつけた。
もちろんその程度の反撃にさとりが怯むわけもなく、相変わらず人を挑発するような粘着質な微笑みを浮かべ続けていた。
「お、何やら楽しそうじゃないか、私も混ぜてくれよ」
二人が騒いでいると、賑やかさに引き寄せられて飲み会の主催者が盃片手にこちらへと近づいてきた。
あたりに散らばっていた座布団を引きずりながら運び、ヤマメの近くまでやってくると、その上に豪快に腰を降ろす。
「もう、勇儀ってば何言ってるのさ。
楽しくなんか無いよ、私が一方的にさとりにいじめられてるだけなんだから」
「いじめるだなんて人聞きの悪い、私はヤマメさんと愉快なお話をしていただけです。
ほら見て下さいよ、愉快すぎてお酒もぐいぐい進んでます」
「愉快なのはさとりの方だけだろー!」
「何だ、やっぱり楽しそうな話じゃないか」
「だから楽しくないって!」
人の話をまともに聞かない、と言う点においては勇儀はさとりと似ているのかもしれない。
勇儀の加勢によって、劣勢に追い込まれていたヤマメは起死回生のチャンスが到来したかと一瞬だけ希望を抱いたのだが、むしろチャンスどころかさらなるピンチを招いてしまったらしい。
すっかり野次馬モードの勇儀は、ヤマメの味方をするどころか、さとり側に付いてヤマメをさらに追い込もうとしている。
「何やら全裸とかパルスィだとか気になる言葉が聞こえてきた気がしたんだがなあ、もしかしてパルスィが来てないことと関係があるのか?」
「さすが勇儀さん、鋭いですね」
「関係無いから! 本当に関係ないから!」
「必死になってんなあ、逆に怪しいぞヤマメ。
なんだ、もしかして酒に酔った勢いでパルスィとうっかりやっちまったとか、そんな話か?
目を覚ましたら隣に全裸の友人が寝てたってわけか、若いなあ、羨ましいなあ。
いやあ、そうだとしたら赤飯が必要だな、この店そんな物おいてあるかな……」
「近からず遠からずですね」
「いやいや、めっちゃ遠いからね!?
パルスィは女の子連れ込んでるから来れないだけだって!」
「それでヤマメが嫉妬してるって話か。
ははっ、嫉妬はパルスィの専売特許じゃなかったのか? ずっと一緒にいるうちに伝染っちまったのかもしれないなぁ」
「ええそうなんです、パルスィさんと彼女が連れ込んだ女の子との情事を想像してたりしたんですよ。
ヤマメさんってば、やらしいですよね。むっつりすけべです、とんだ好きものです、この公然猥褻物!」
「なるほど、それが全裸でパルスィに繋がるわけだな。合点がいったよ。
しかし年頃の女なんだから全裸ぐらい想像するだろう、私もよく想像してるぞ。
誰とは言えないけどな、はっはっはっ!」
「人の話を聞けー!」
ヤマメにとって、想像しうる限り最悪の組み合わせだった。
怒鳴ってはみたものの、勇儀がヤマメの言うことを聞くわけがないし、口の勝負で心の読めるさとりに勝てる見込みは全くない。
誤魔化して酒を飲もうにも勇儀相手じゃ潰されるのがオチだし、勇儀主催の飲み会の途中で逃げられるはずもなく。
見事な八方ふさがりだった、二人から与えられる地獄をヤマメは享受するしか無いのである。
もはやヤマメに残された手はただ一つだけ。
「飲むしか、飲むしか無いのか……」
嫌なことは忘れてしまえばいい、記憶なんて綺麗さっぱり吹き飛ぶほどに飲んでしまえば、記憶にさえ残らなければ、無かったのと同じことなのだ。
ヤマメはおもむろにテーブルの上のグラスを力強く握ると、勢いに任せて注がれた日本酒をぐいっと飲み干した。
決して弱くはない酒だ、普段の彼女なら間違っても一気飲みなんて愚かな飲み方はしないだろう。
それを、あえてした。
喉が焼けるように熱い。胃袋までアルコールに冒されて滾っている。
その熱気は次第に体内だけでなく、ヤマメの体全体に広がり始め、脳にまで到達する。
まだ酔っ払うには量が足りないが、何度か繰り返して居ればじきにへべれけになれるだろう。
「お、いい呑みっぷりじゃないか。私も付き合うぞ」
「現実逃避ですか、賢い判断ですね」
二人が何か言っているが、ヤマメの耳には届いていない。
グラスの酒を飲み干したヤマメは、急いであたりを見回し店員の姿を探す。
そしてその姿を見つけるやいなや、そこそこ遠くに居る店員に向かって、それでも十分すぎるほどに聞こえるであろう音量で、やけくそ気味に叫んだ。
「店員さーん! 鬼ころし、ロックで、三杯持ってきて!」
あえてその酒を選んだのは、もちろん勇儀に対するあてつけである。
だが当の勇儀は全く気にする様子もなく、実に上機嫌そうに口角を上げながら、運ばれてきた日本酒を水のように飲み干すのであった。
一番危険なのは、ペースを乱すことだ。
多少動揺したとしてもポーカーフェイスを維持できていれば、現状維持はいつまでも続けられたはずなのだから。
誰も通らない橋の上、昼間は喧騒に包まれていた中央通りもさすがにこの時間では静まり返っている。
人通りもまばらで、あまりのギャップに寂しさすら感じてしまうほどだ。
川の流れる音がさらに哀愁を誘う。
空を見上げても月は出ていない、”今夜は月が綺麗ですね”なんて気の利いた台詞もここでは使えない。
仮に月が出ていなかったとしても、いつもの自分ならちゃらけた笑顔を浮かべながら軽く口に出来たはずなのに――と、パルスィは暗い表情で、流れる水面に言葉を吐き捨てる。
いつも通りではない。普段のペースが取り戻せない。
そもそも、ヤマメに対して嘘をついた時点でとっくに歯車は狂い始めていたのだ。
一度狂った歯車は、そう簡単には戻らない。
少なくとも一朝一夕でどうなるものでもないことは十分に理解している。
それでも、パルスィはいつも通りで居なければならなかった。
「こびりついて離れないのよ、どうなってんだか」
頭を抱えながら左右に振る。
そんな簡単な動作で記憶が消えるわけでもなく、むしろ意識する分余計に思い出してしまう始末。
材料なら腐るほどある。
二人が積み重ねてきた時間は、そこらの恋人たちよりもずっと長いぐらいなのだから。
「……わかってたけど、わかってるんだけどっ!」
誰も居ないのをいいことに、パルスィは普段は絶対に出さないような大声で吐き捨てた。
呪うのは誰でもない、自分自身だ。
どうしてこうなったのか、全て理解している。
”同じ気持ち”という言葉に必要以上に喜んでしまった自分が悪いのだということも。
それでも、悪いとわかっているのに胸の鼓動は収まらない、嫌でも彼女の姿が脳裏に浮かぶ。
意識しなくても、考えたくなくても、彼女の――ヤマメの笑顔が、頭にこびりついて離れないのだ。
「今頃、楽しそうに誰かと飲んでるのかな……」
自分で断っておいて、ヤマメを恨めしく思うのは見当違いだと言うことは理解している。
だが嫉妬は彼女の本分だ、在り方としては正しいのかもしれない。
そう、大事にしてきたヤマメがいつか誰かの物になって、それを指を咥えて眺めて居るのが一番のお似合いなのだ。
きっと、他人の嫉妬心を集めるよりも効率よく、この上なく上質な力を得ることができるだろう。
「素敵じゃない、反吐が出るぐらい素敵だわ……くそっ」
つま先で地面を蹴りつけながら、今にも爆発しそうな苛立ちを外へと逃がす。
爆発した所で、誰にも迷惑をかけるわけではないから気にすることもないはずなのだが。
しかし、嫉妬心を操るパルスィが嫉妬しすぎて回りに当たり散らかすなど、自分の存在意義を否定するような物である。
彼女をすんでのところで押しとどめたのは、微塵も価値の無い惨めな自尊心だ。
いっそプライドを捨てて喚き散らかせたらどんなに楽だったろう。
いつから、こうなってしまったのか。
パルスィの想起はだんだんと過去へと遡り、ヤマメとの出会いへと還っていく。
全ての元凶は、何もかもの始まりは、思えばあの時ではなかっただろうか。
言ってしまえば、最初から。
何が変わったわけでもなく、変化があるとすれば強度の増減だけ。
数倍か、あるいは数十倍にまで膨れ上がった想いを抑えきれなくなった、ただそれだけの話。
”ただ”と言うには深刻すぎる問題ではあるのだが、単純明快と言う意味では正しい使い方だろう。
深く考える必要もない、本来なら悩む必要すら無いはずの、直進するだけのありきたりな恋愛ドラマの脚本。
だがそんな理想的な展開であれば、パルスィがここまで悩むこともなかったはずだ。
しかし、彼女は誰かを恨んでいるわけではなかった、原因を他に求めることもしない。
全ては明白だ、誰かに責任をなすりつける余地すらない。
なにせ、こじれた原因は他でもないパルスィ自身にあるのだから。
腫れ物として扱い、頑なに拒み続けた彼女自身に。
パルスィは、周囲の妖怪たちから美人だと持て囃されるだけのルックスを持っていた。
実際そのルックスを武器として、数えきれない程の恋人たちを引き裂いてきたのだ、実績に裏付けされた自信すらあった。
ただし、自信と自己愛はまた別の話。
自信はある、だがそんな自分が好きかと言われれば――パルスィははっきりと、ノーと断言するだろう。
嫌いに決まっている。
誰もが嫌うような自分のことを、自分が好きになれるわけがない。
「汚い手……」
賛辞の言葉も、薄っぺらな愛の囁きも、パルスィにとっては塵ほどの価値も無かった。
自己嫌悪は揺るがない。
聖域は変わらない。
いつか変わる時が来るとするならば、それは……パルスィがパルスィで無くなる時に違いない。
要するに、死ぬまで変わらないということだ。
「妬ましい」
綺麗な彼女が。
「妬ましい」
可愛い彼女が。
「妬ましい、妬ましい、妬ましいっ」
自分の心を支配して止まないヤマメという存在が、目障りな程に妬ましい。
ああ、こんなことなら最初から出会わなければ良かった――そう嘆きながら、運命という人知を越えた存在を嫉むのだ。
自分にも運命を操る力があるのなら、もっと上手く立ち回れるはずなのに。
傍に居たい、でも触れたくない。
ヤマアラシのジレンマにも似たどっちつかずの感情も、最初から無かったことに出来たはずなのに。
どうして自分はこうも無力なのか。
どうしてこんなにも、矮小で、下賎で、醜穢なのだろう。
「ああ、なんて妬ましい――」
天を仰ぎ、両手で顔を覆いながら、自らの境遇を恨む。
これこそが、まさにパルスィの本質だった。
太陽も月もない、暗い暗い地底の空のような、鬱々とした心の有り様。
そんな自分が嫌いで、けれど嫌えば嫌うほど気分は下へと堕ちていき、かと言って自分から目を逸らすことなどできやしない。
負の連鎖だ。
嫌えば嫌うほど、自分はもっと自分の嫌いな自分へと堕ちていく。
嘆きは止まらない。両手で覆われた視界、一筋の光も見えない漆黒の闇の中で、パルスィは悲観的な未来を想像する。
妬ましい、妬ましい、と何度も呟きながら。
「私は、こんな……っ」
胸が苦しい、張り裂けそうだ、どうして自分はこんなに愚かなのか。
ただひたすらに妬み、ただひたすらに憎み、ひたすら、ひたすら嘆く。
体の奥底からこみ上げてくる何かは、きっと涙だ。
我慢してきたものがこみ上げ、耐え切れなくなって、今にも外へと流れてしまいそうになる――その時だった。
「えへへへぇ、パルスィみーっけ!」
「ひゃぁうっ!?」
パルスィは何者かに突然後ろから抱きつかれ、その両手で豊満な胸をむぎゅっと鷲掴みにされた
虫さえも寝静まる丑三つ時、こんな時間に一人たそがれる橋姫に近づく物好きなんて居ないと確信していたのだ、そんな状態で急にセクハラなんてされたら、そりゃ変な声も出るだろう。
正体不明の襲撃者は胸を鷲掴みにするだけでは飽きたらず、何度も何度も執拗に揉みしだく。
「うひょーっ、新鮮らぁ!
パルスィのお胸ってこんなにやーらかかったのかぁ」
「な、な、何っ!? 誰っ!? ちょ、ちょっと止めてよっ、止めなさいよー!」
「いやれーす、やめませーん!
今日はぁ、パルスィの体を思う存分堪能するって決めたんれーす!」
「はっ、なっ、せっ!」
じたばたと暴れるパルスィ、負けじとしつこくしがみつき胸をもみ続ける変質者。
何が嫌かって、力いっぱい揉んでくれればまだ本気で反抗出来るというのに、変質者の揉み方はやけに優しいのだ。
セクハラと言うより愛撫のような、癪ではあるが思わず声を出してしまいそうな、優しさを含んだ揉み方なわけだ。
しかもパルスィは変質者の正体にほぼ気づいている、相手が相手なだけにいきなり暴力に訴えることは出来ない。
「パルスィは、わらひに対ひてちょぉっと反抗的すぎると思うんらよね、うん」
「うんじゃないわよ、いい加減に離しなさいよヤマメっ!」
さすがにここまで声を聞けばパルスィだって正体に気付く。
元からほとんど気づいては居たが、ここに来て確信に至った。
変質者は、さとりに弄ばれ勇儀に飲まされ、アルコールの過剰摂取によりもはや完全に正気を失ったヤマメだったのである。
そんな状態のヤマメがパルスィが本気で激昂しつつあることに気付くはずもなく、胸を揉みしだくその手が自重という言葉を思い出す様子はない。
むしろ揉むのに小慣れてきたのか、遠慮が無くなって来たようにも思えた。
「んっ、く……ぅっ」
「んふふふ、パルスィってば喘ぎ声えろーい、やらしー」
「本当にやめなさいよ、それ以上やったら本気で怒るわよ?」
最後通牒のつもりだった、これが受け入れられないのであれば強烈な裏拳を顔面に向けて放つつもりだ。
しかしヤマメが離れる様子はない。
その明らかにおかしな挙動、そして漂う酒臭さから完全に酔っ払っていることはパルスィにもわかっているのだが、酔っぱらいだとしても守らなければならない一線と言う物がある。
いくら酔っ払っていても、二人の間にあった不可侵条約を破っていいという理屈にはならないはずだ。
触らないで欲しいとあれほど言ったのに、パルスィからしてみればヤマメの事を思ってお願いしたはずだったのに。
ぐっと拳に力を込める。
「んふふふ」と気持ちの悪い笑い声を上げながらパルスィの胸の感触を堪能するヤマメに向かって、パルスィの渾身の一撃が放たれる。
「……あれ?」
はず、だったのだが。
何故かパルスィの両手はびくともしない、まるで何かに縛られているかのように。
もぞもぞと何度も体を動かすが、全く動く様子はない。
「パルスィ、わらひが何の妖怪かわすれてなーい?」
「な、あんたっ、ちょっと!? 本気でシャレにならないからやめなさいって!」
「緊縛プレイれーす!」
いつの間にかパルスィの両腕はヤマメの出した蜘蛛の糸によってしっかりと縛られていたのである。
パルスィに気づかれない程度に緩い輪っかを作り、拳が突き出される寸前に輪を締めて拘束したようだ。
酔っぱらいのくせに小賢しい真似をしやがって、とパルスィは歯を食いしばって悔しがる。
こうなってしまえばもはや抵抗はできない、まな板の上の鯉というわけだ。
できることと言えば、せいぜい罵倒することぐらいである。
「プレイじゃないわよ、この糸解きなさいよこの変態酔っぱらいっ!」
「そう言いながらぁ、実は感じてるんれしょ? 嫌よ嫌よも好きのうちってさとりが言ってたよ?」
「私は本気で嫌って言ってんの!」
「うそうそ、パルスィは可愛い女の子を見つけると片っ端から食べちゃういやらしー女の子なのれぇ、こういうプレイは好きに決まってるんれすー!
だからぁ、今日はパルスィの肢体を隅から隅まで思う存分堪能したいと思いまーす」
「堪能じゃないわよ、このバカ、アホ、ゴミクズ!」
「女の子がそんなこと言っちゃらめらよぉ、もっとかわいい声を出さないと……えいっ」
掛け声とともに脇腹をつつく。
「ひゃんっ」
何をされても耐えてみせると意気込んでいたパルスィだったが、あっさりと負けて声を上げてしまう。
その声を聞いたヤマメは満足気ににへらと笑い、調子に乗って何度も何度も脇腹をつついた。
「ひぁっ、はぅっ、ぁふっ、んあぁっ」
「ここかい、ここがええのんかい?」
「ちょ、はふっ、ん、や、やめっ、んひゃっ、やめてぇっ!」
実際、パルスィは腋から脇腹にかけてが非常に弱かった。
気持いいかはまた別として、そこに触られると自分の意図に反して嫌でも声が出てしまうのだ。
普段女の子を連れ込む時は基本的にパルスィは攻めの側なので中々触られることはないが、万が一この弱点に気づかれてしまえば、形勢が一気に逆転する可能性さえある。
まあ、そもそも連れ込んだ女の子を相手にするときは、相手だけ脱がしてパルスィは服すら脱がない事が多いので、弱点が露呈することはほぼありえないのだが。
「あー、たのし。パルスィをこんなに好き放題触れる日が来るなんて、わらひ思いもしなかったよ」
「何よ、そんなに触りたかったわけ?」
「そうらよ、ずぅーっと我慢してきたのにさぁ、パルスィはぜーんぜん触らせてくれないんだもん」
「何で……触りたかったのよ」
「それはぁ、私はパルスィのことが大好きだかられーす! いえーい!」
「……」
それは間違いなく本心だ。
酔っぱらい、まともに物事を考えられない今のヤマメから出る言葉は、思考というフィルタを通さない最も真っ直ぐな言葉と言える。
嘘はない、躊躇も誇張もなく、ただただ素直に、まっすぐに心からこぼれ出ている。
向けられる好意、そしてパルスィに触れたいという欲求は間違いなく普段のヤマメにもある物だろう。
ヤマメは後ろから触るのに飽きたのか、抵抗出来ないパルスィを回転させて自分の方へと向ける。
「ふんふんふーん」
上機嫌に鼻歌なんて歌いながら、顔に満面の笑みを浮かべて。
できれば、パルスィは今の表情を見せたくは無かった。
理解はしているが、欲求と言うのは自分の意思に関係なく素直に反応してしまう物で、以前ヤマメに対して『なぜ自分と一緒に居るのかと』問いかけた時も同じような状態だった。
『パルスィと一緒』と言うヤマメの答え、そしてたった今聞いた『パルスィのことが大好き』という言葉。
言葉以上の意味は無い、友情以上の価値もない、なのに心は、それ以上の何かを期待して過剰に反応してしまう。
「うわ、パルスィってば顔真っ赤らぁ」
「別にどうでもいいでしょ」
「どうでもよくないよぉ、らって今のパルスィすっごいかわいーもん」
「っ……!」
「あはは、もっと赤くなったぁ」
悪意が無い分、余計に残酷だった。
一人で考え込んでいた時も泣きたい気分ではあったが、今も別の意味で泣いてしまいたい気分だ。
もしヤマメがパルスィの気持ちを知っていたら、間違っても”かわいい”だの”やらしい”だの言えないはずだ。
勘違いをさせてしまうから。
なのにヤマメがそれを遠慮無く口にするということは、パルスィの気持ちに全く気づいていないという証左であり、またパルスィに対して特別な感情は抱いていないという事実を証明するための一つの要素にも成りうる。
幻想ぐらい見せて欲しい。
もしかしたら、ひょっとしたら、そんなあり得ない未来を想像出来るのは可能性が完全に否定されていないからだ。
ヤマメが独り身だから、まだ二人が友達のままだから。
告白さえしなければ、ヤマメが誰かとくっつきさえしなければ、まだ想像の余地は残っている、甘い幻想に身を委ねることが出来る。
「わらひに触られるの、そんらに嫌?」
「……嫌って言ってるじゃない、ずっと」
身動きの取れないパルスィに、ヤマメの真っ直ぐな視線が向けられる。
本人はじっと見つめているつもりなのかもしれないが、その眼はどこか虚ろで、体も静止できずにふらふらと揺れている。
酔っ払ってるのは明らかだ、そんな彼女の言葉をシラフの状態で真に受ける方がどうかしている。
いつものように軽く受け流せばいいだけなのに、それが出来ないのは、パルスィの思考が泥沼に嵌ってしまったせい。
今このタイミンでさえなければ、いつも通りでいられたはずなのに。
世の中はいつもそうだ、今は来てほしくない――そんな時に限って災厄は訪れるものだから。
「ずっとよ、ずっと、”だから”、嫌だって言ったのに」
「パル――」
それは自分のせいではない。
悪いのはタイミングで、パルスィには時間は操れないから、つまり悪いのは神様のせいということになる。
だから、良心の呵責に苦しめられる必要もないのだ。
今じゃなければ、こんなに気持ちが落ち込んで、精神的に揺らいでいる今でさえなければ。
もうこの際誰かのせいでいい、真実など、本当の責任の在り処などどうでもいいことだ、今だけは責任を神様になすりつけてしまおう、どうせ明日の朝には全てさっぱり消えている。
なんならヤマメのアルコールにあてられて酔ってしまったことにしてもいい、それなら明日の朝に忘れていたとしても不自然ではないから。
「ん、んーっ!?」
パルスィの両腕は縛られている、ヤマメを捕らえる手段など無い。
つまりはヤマメが顔を話せばいいだけの話なのに、彼女はなぜか目を見開いたまま離れようとしない。
「ん、ぁ……っ」
それどころか、彼女はそれを受け入れてしまう始末で。
そこまでやるつもりは無かったのに引くに引けなくなったパルスィは、もうこうなったら思い切り楽しんでやる、とやけくそ気味にがっつりと堪能することにした。
後悔は目に見えているのに、自己嫌悪が津波のように押し寄せると知っているのに、なのに、いや”だからこそ”、今この一瞬だけは恋人のように振る舞いたかった。
好きだと、愛しているとは言えない。
夜明けと共に消えてしまう霧のような夢だ、なら逆に都合がいい。
味わってしまおう。貪ってしまおう。
だから、せめてもう少しだけ――そう祈りながら、パルスィは口と口との交合を続ける。
どれだけ飲んだのだろう、とてつもないアルコールの匂いだった。
比喩ではなく本当にパルスィまで酔ってしまいそうなほどの。
ただでさえ唇同士の接触で頭が茹だっているのに、熱っぽいヤマメの表情だけで心臓が爆発しそうなのに、それでも足りないとでも言うのだろうか。
だが確かに、朝に全て忘れてしまうにはまだ足りないのかもしれない、ヤマメぐらい正気を失うほど酔わなければ。
正気ならとうに失っている、とっくに狂気に支配されている、だけど俯瞰する冷静な自分がどこかにいる。
冷静を気取る自分を粉々に打ち砕くぐらい酔わなければならないのに。
「はふ……ん、ちゅる……ぁふ……っ」
口と口の隙間から漏れる声は、いつしか吐息から喘ぎ声に変わっていた。
ぬめりのある唾液が絡みあい、舌と舌が滑らかに擦り合う。
舌の裏側や口蓋を舌で愛撫されるたびに、ぞくりとした甘い痺れが全身に走る。
縛られて身動きの取れないパルスィだったが、快楽に反応して指と指がこすり合うようにして細かく動いていた。
ヤマメも同様に、気づけば両腕はパルスィの背中に回されていて、舌が蠢くたびにパルスィの体に全身を擦りつけている。
まるで一面の銀世界、誰も踏み入れたことのない白雪の平原を好き勝手に踏み荒らす気分。
パルスィが触れたくない理由の全ては、そこにあった。
価値を失うわけじゃない、価値を失うような気がしていたから――事実、今だってそうだ、どんなに薄めたって100%にはならない、どう足掻いても99%止まりだ。
戻らない治せない壊れたままの別物、純粋は戻っても純潔は戻らない、どれだけの月日が経っても一度汚れたキャンバスは純白にはならない。
極論を言ってしまえば、パルスィにとって自分自身とは無価値だった。つまりは零だ。
逆にヤマメは全だった。つまりは百ということになる。
人の価値なんて見る人によって変わる、だから他人がヤマメをどう考えているかはわからない、人によってはその価値は十かもしれないし一かもしれない、あるいは零という可能性もあるだろう。
だがしかし、少なくともパルスィにとってはヤマメが全てなわけだ。
せめて自分自身が一であればどうにかなったのに、零には何を掛けあわせても零にしかならない。
自分の存在一つで、ヤマメすら無価値な存在になってしまう。
それだけは、許してはならないと、そう望んできたはずなのに。
「はぁ……はぁ……」
唇が離れる、二人の間を銀の糸が繋ぐ。
しかし、糸はすぐに重力に負けて消えてしまった。
二人は蕩けた表情で視線を絡ませあったまま、しばらく抱き合っていた。
パルスィは糸に縛られたままというマヌケな構図ではあるが、本人たちは大真面目だ。
夜風が二人の頭を冷ましていく。
冷静さを取り戻すことを、パルスィは何よりも恐れていた。
この場に一升瓶でもあれば一気に飲み干してしまいたい気分だった。
後に地獄が待っていることがわかっているのだから、忘れられるのなら今すぐにでも忘れてしまいたい。
けれど、今のキスを忘れたくないと思う自分も確かに存在している。
考えなしの欲望にまみれた愚かな自分と、常に正しい判断を下す冷静な自分、二つの人格が自分の中でせめぎあっている。
「ぱる……すぃ……」
力のない声でパルスィの名前を呼ぶヤマメ。
抱きついているにも関わらずふらふらと揺れていたが、メトロノームのようにその揺れは大きくなっていく。
腕の力も弱くなっていき、しっかりとパルスィの方を見据えていた視線さえもゆらゆらと揺れている。
「わらひ……あぅ……」
ぐらり、ぐらり、今にも倒れそうなほどゆらゆらと揺れるヤマメだっが、生憎両腕を縛られているパルスィは彼女を助けることは出来そうにない……と思っていたのだが、パルスィを縛っていた蜘蛛の糸はいつの間にか強度を失っていた。
試しに軽く力を入れるだけで容易くちぎれてしまった、ヤマメが意識を失おうとしているから糸も力を失ったのだろうか。
こうしてどうにか自由を取り戻したパルスィは、今にも地面に倒れ伏しそうになるヤマメを慌てて抱きとめた。
「うわっ」
「ぅ……ん……」
キスを始めてからここまでの流れは、パルスィの想定通りではあった。
あそこまで酔っていれば、放っておいてもそのうち意識を失うだろう、その程度は想像に難くない。
しかし、どうやらキスのショックでさらにそれが早まってしまったようだ。
ヤマメはもはや立つことすらできず、全体重をパルスィが支えている状態だった。
小柄に見えるヤマメだが、完全に力を失った状態では小柄とは言えかなり重い。
普通であれば女性一人で運べる重さではないのだが、ここは地底、そしてパルスィは妖怪である。
勇儀ほどの怪力はないにしろ、そこらの人間に腕っ節で負けるほど軟弱ではない。
脳を冒す甘い毒も冷めやらぬままのパルスィは、少し調子に乗ってお姫様抱っこでヤマメを抱え上げる。
普段なら背負って運ぶくせに、今だけはヤマメの顔を近くで見ていたいと我が儘を通すために。
「……かわいいわね、ほんと」
抱えられても一向に目を覚ます様子はない。
無防備に寝息を立てるその姿は、まるで純粋無垢な子供のようだ。
本来なら触れることすらおこがましいほどに可憐で、美しい。
自分のような妖怪が汚していい存在ではない、それをパルスィ自身も理解はしているのだが、感情全てが理性で抑えられるのなら苦労はしない。
可憐だからこそ触れたいのだ、美しいからこそ汚したいのだ。
欲望はいつだって天の邪鬼、ちっとも言うことなんか聞いてくれやしない。
「柔らかいし、いい匂いするし、私みたいなのを相手してくれるぐらい性格も良くって、なんて妬ましい」
両思いの未来を妄想する、まるで恋する乙女のように。
脳裏に浮かぶヴィジョンはやたら純情で、そんな光景を汚れきった自分が想像しているのがやけに滑稽だった。
パルスィは嘲り笑う。
「ふふっ、ほんとは私なんかが傍に居るべきじゃないのに、自分でも嫌ってほどわかってるはずなのにね」
自分の愚かさを、自分の惨めさを、身の程知らずとはまさにこのことか、と。
「だけど……ああ、やだなあもう。
さっきのキス、めちゃくちゃ気持ちよかったし、幸せだったし……やっぱりさ、私ってばヤマメの事が大好きみたい。
迷惑だろうけど、やめたくてもやめられないの、ごめんね」
そんな自分のことが、パルスィは嫌いだった。嫌いで仕方なかった。
消えてしまえばいい、死んでしまえばいい、何度もそう願ってきた。
「うぁ……」
胸がぎゅうっと締め付けられる、痛みに耐え切れずにぐっと下唇を噛み締めた。
後悔の波はもうすぐそこまで迫ってきている、思考をどん底まで叩き落とす黒い黒い波だ、これはその前兆にすぎない。
猶予はほとんど残されていない。
その時になれば、きっとまたパルスィは自分を殺したいほどに今日の行いを悔いるだろう、今日の自分を憎むだろう、汚したくない守りたかった物を自らの手で汚した罰として自分を責め続けるだろう。
「もう、わかってるわよ、どうせ後悔するんでしょう?
でもね、後悔なんてあとで死ぬほどやればいいの。
だったら、別に今ぐらいは欲望にかまけてもいいじゃない」
だが、どんなに自分が嫌いでも自殺なんてする勇気はなかった、それでも自己嫌悪は消えない、そうやって自己嫌悪と自殺願望を何度も何度も繰り返すうちに、気づけば劣等感の塊になっていた。
しかし、自分が害を成すだけの存在なのだと自覚しながらも、自分に価値が無いことを認めながらも、パルスィは他人との繋がりを求めていた。
人間だろうが妖怪だろうが、誰だって一緒だ。
だって、一人は寂しいから。
「好き、好き、大好きよ、愛してる、何度だってキスしたいし、めちゃくちゃに犯して汚したいとも思ってる」
好きだからとか、寂しいからとか、そんな自分本位な理由で。
死ぬ勇気の無い自分のことも、そのくせ他人を求める自分のことも、全て嫌いだった。だからこそ消えるべきだと思った。
だけど消えたくない、だから生きている、でも寂しい、やっぱり好き、けれどそんな自分が嫌い、自分の中で相反する感情が何度もぶつかり合い、負の連鎖が延々と続いて、何度も何度も螺旋を描いて、今のパルスィは形作られている。
原型がどんな物だったか、そもそも自分が何だったのか、全てが黒く塗りつぶされて、パルスィ自身にもよくわからない。
「止まらないの、こんなに傍に居て何もしないほど私は善人じゃない。
自制心が無いことはヤマメだってよく知ってるでしょう?
だから、だから――」
しかし、自分を卑下するということはイコール他人を羨むことでもあり、嫉妬こそは彼女の力の源泉であり――皮肉にも、今のパルスィは妬みを糧とする妖怪としては正しい在り方なのである。
「飽きるまでキスしてやるんだから。
今夜だけは、何度だって」
その在り方そのものが、パルスィを苦しめる元凶なのだが。
朝から最悪の気分だった。
頭は痛むし視界だって揺らぐ、目覚めてすぐは歩くことすら困難だった。
這いずるようにして台所へと向かい蛇口を捻り、出しっぱなしにしてあったグラスになみなみと水を注いで一気に飲み干す。
冷っこい感触が食道を通り過ぎる度に、頭痛が幾分か楽になる気がした。
もちろんそんな物はただの気休めに過ぎず、水の力が消えると再び頭痛がぶり返してくる。
「ううぅ……くそう、だから嫌だったのに……」
だが昨日はそうする必要があった、何が何でも記憶に残すわけにはいかなかったのだ。
自己防衛のための犠牲、そう思うと二日酔いの頭痛にも耐えられる気がした。
もちろん気のせいでしかないのだが。
「はあぁ……でもよかった、全く覚えてないよ。綺麗さっぱりと」
不幸中の幸いである。
おそらく、しばらくはさとりや勇儀と顔を合わせる度に意味深な笑みを向けられるのだろうが、自分で覚えておくよりは何倍もマシだろう。
目を瞑り、昨日の出来事を思い出そうとしても全く出てこない。
いや、全く何も浮かんでこないというわけではないのだが、辛うじて覚えている場面でさえもモヤがかかってよく見えない程度だ。
「私、勝ったんだよね、勝利を誇っていいんだよね……っつつ」
拳にぐっと力を込め、高らかに天に突き上げる。
しかしそんな勝利宣言もすぐに力を失い、いとも容易く地に落ちてしまった。
勝利の代償はあまりに大きかった、いくら病を操るヤマメと言えど二日酔いには勝てなかったのである。
「あぁー……痛い、きつい、だるい……今日は寝とこう」
誰かとの約束があるわけでもない、いつもなら暇を持て余してパルスィの所へ遊びに行くのだろうが、あれだって別に約束を交わしているわけではない。
まさかあのパルスィが寂しがるなんてことは万が一にも考えられないし、一日ぐらい空けた所で文句を言ったりはしないだろう。
ヤマメは再びずるずると這いずりながら寝室へと戻り、そのまままだ温もりの残る布団へと滑り込んだ。
額に手の甲を当て、気だるげに天井を見上げる。
何が見えるわけでもなく、ただしばらくぼーっとしているだけで特に意味は無い。
そして次第に瞼が降りて行き、ヤマメの視界から光が失せる。
彼女が再び寝息を立てるまで、そう長い時間はかからなかった。
眠る前に、何だか昨日とんでもない出来事が起きたような気がしたのだが――睡魔と二日酔いに勝てるわけもなく、記憶にもすぐに霞がかかり、ヤマメは何もかもを忘れて眠りへと落ちた。
次にヤマメが目を覚ましたのは昼を過ぎたころ。
寝起きで意識が混濁している彼女は再び布団から這い出ると、朝と全く同じように台所へと向かった。
目的はもちろん、水を飲むためである。
寝すぎてしまったせいか腰が痛むらしく、時折腰を手でさすりながら、ずるずると這いずりながら移動する。
ようやく台所へと辿り着き、朝と同じ動作で水を飲み干すと、台所の床にだらしなく座り込んだ。
「あー……相変わらずだるい、何も変わってない」
寝溜めなんて言葉があるが、あんなの嘘っぱちである。
睡眠時間を貯められるわけがない、むしろ寝過ぎると体はだるくなる、それを今のヤマメ自身が証明していた。
二日酔いのせいもあるかもしれないが、頭痛は朝に比べると随分と良くなっている。
しかし贅沢な悩みである、睡眠不足で悩むのならまだしも、睡眠過剰で悩んでいるのだから。
地霊殿の主として毎日そこそこ忙しそうにしているさとりに話した日には、一日中ねちねちと嫌味を言われることだろう。
いや、彼女の場合は話さなくても勝手に頭の中を読まれてしまうのだけれど、それで勝手に不機嫌になられるのだから理不尽極まりない。
しかし、ようやく起きたのは良いが、すでに昼を過ぎてしまっている。
何をするにしても中途半端な時間になりそうだ。
なにはともあれ本日一度目の食事を取る必要があるのだが、頭痛の影響からかあまり空腹は感じないし、何より食事を作るのが面倒だ。
昨日の昼の残り物あたりを軽く口に運ぶ程度になるだろう。
それから――と、今日の予定を脳内で組み立てていくうちに、自然と”パルスィの所へ遊びに行く”という予定が入り込んでしまった。
一日ぐらい空けても問題は無いと自分で言ったはずなのに、意識もせずに自然と予定を立ててしまうとは、すっかり習慣として体が覚えてしまっているようだ。
ひょっとすると、寂しがるのはパルスィではなくヤマメの方なのかもしれない。
二人の付き合いは長いが、約束してどこかに遊びに行ったりすることは滅多にない、先日の勇儀に連れられて温泉に遊びに行った時のような例外を除けば、ほとんどがあの橋で二人で駄弁ってばかりだ。
それも、パルスィがいる場所にヤマメが向かうだけで、ヤマメがあの場所に行かなかった場合、パルスィがヤマメの家までわざわざ来ることは無いだろう。
ヤマメが行かなければ終わり。
一日や二日で二人の関係が終わるとは思えないが、もしヤマメが一ヶ月もあの場所に行かなかったとすれば――
「私も、パルスィと他人になっちゃうのかな」
想像して、胸がじくりと痛む。
今は友人だが、いつまでも友人とは限らない。
ヤマメにはパルスィの代わりなど居ないが、パルスィにはいくらでも知り合いがいる。
それがヤマメの代わりに成りうるかはパルスィにしか分からないが、少なくともヤマメよりはダメージは少ないだろう。
どんなに過剰評価したとしても、パルスィにとってのヤマメの存在が、肉体関係を持っている誰かより上ということにはならないはずだ。
パルスィがどう考えているかは別として、ヤマメはそう考えている。
二人の間の経験の差は明白だ、定期的に女性を取っ替え引っ替え”食べて”いるパルスィに比べて、ヤマメは友人は多いが恋愛経験は全くと言っていいほど無い。
そんな二人の恋愛に対する価値観に大きな違いがあることは、パルスィはもちろん周囲の妖怪たちも理解していることなのだが、厄介な事にヤマメはそれを理解していなかった。
だからパルスィにとっての自分は”代わりのきく存在”などと勘違いをしてしまう。
「そういやあんまり考えたことなかったっけな、ずっと一緒に居て、それが当たり前だったから」
普通は恋人でも出来れば友人とは疎遠になるのかもしれないが、ヤマメとパルスィにはそんな一般常識は通用しない。
何せ、パルスィには週替り、酷い時は日替わりで恋人が出来るのだから。
果たしてあれを恋人と呼んでいいものなのかは甚だ疑問ではあるが、ヤマメは一応恋人だと認識しているらしい。
「寂しい……かな、やっぱり」
パルスィの居ない日常、どうでも良いと思っていた二人の時間。
でもそんな何も無い時間を心地よいと感じているのは事実で、どうやらパルスィも自分と同じように思ってくれているようだ。
だからこそ約束しなくても自然と二人はあの場所に集まってくる。
そう考えると、案外パルスィも自分のことを大切に思ってくれているのではないだろうか、と一筋の希望が浮かんでくる。
代わりなんて誰もないんじゃないだろうか、と言う期待が。
仮にパルスィが、自分が居なくなることで寂しいと感じてくれるのなら――
「なんでだろ、すごく嬉しい」
誰かにとっての唯一無二の存在になる、それがこんなに嬉しいことだったなんて。
自分で思っている以上にパルスィの事を大事に思っていることに気づき、なんだか恥ずかしくなってしまう。
……いや、違う。
覚えはあった、見て見ぬふりをして押し込めてきた、見知らぬ感情の存在が。
「……嬉しい、か」
ヤマメの頬がほんのりと赤らむ。
それを友情とは呼ばないことをヤマメは知っている、割と、ずっと前から。
今までは見て見ぬふりを続けてきたけれど、感情は、気付けば目をそらせないほどまでに膨れ上がっていた。
同時に、無性にパルスィに会いたくなる。
胸に宿った感情は何だかくすぐったくて、ちょっとだけ恥ずかしかったけれど、嫌な感じはしなかった。
「うん、行こう。だるいけどそんなの二の次だ」
もしもヤマメがいつもの場所に来なかったとして、案外パルスィはヤマメの家にまで来てくれるのかもしれない。
だけど、もし来なかったらどうしよう――それが怖くて、試す気にはなれなかった。
期待は期待のままにしておいた方がいい、行き過ぎたポジティブ思考は時に自殺行為になるけれど、その思考が自分に牙を向くのは期待が現実に否定された時だ。
パルスィは思っているよりも自分の事を好いてくれている、そう思い込むのは悪いことじゃない。
胸に抱いた気持ちだってそう、表に出しさえしなければ現実にはならない、言葉にしなければ友情にほんの少しの暖かさとスリルを与えてくれる程度の物。
だったら構いやしない。
胸に留めておく、たったそれだけでパルスィに会いにいくのが何だか楽しくなるのだから、避けておく必要なんて無いじゃないか。
現にヤマメは今わくわくしているし、胸だって高鳴っている、それは悪い気分じゃない。
仮に本当はパルスィがヤマメの事を「どうでもいい」と思っていたとしても、パルスィが面と向かって言ってくることは無いだろうし、ヤマメがパルスィに会いにいく限り、思い込みが否定されることはない。
自分から会いに行かないなんて、わざわざ思い込みの幻想を自分でぶち壊すような真似、必要ないのだ。
真実がどうであれ、例え間違っていたとしても自分にとって利益になる答えを選んでいくのが、賢い生き方なのだから。
二日酔いの気だるさはどこへやら、橋へと向かう足取りはいつもより軽いほど。
さすがに頭痛が完全に消えたわけではないが、痛みを忘れてしまいそうになるぐらいヤマメは上機嫌だ。
思わずスキップをしそうになるが、さすがに公衆の面前では恥ずかしいのでやめておくことにした。
川のせせらぎが徐々に近づいてくる。
遠目でもわかる、パルスィはやはり今日も橋の上で一人、欄干に頬杖を付きながら大通りを眺めている。
おそらく獲物を探しているのだろう。
「やっほ、パルスィ元気かい」
「ヤマメ、来たんだ」
「……うわ、大丈夫?」
帰ってきたのは、トーンの低い返事だった。
元気ハツラツとした返事を返すキャラでもないが、今日のパルスィはいつもと比べて明らかにテンションが低い。
アンニュイな表情にすら色気を感じてしまうのだから卑怯だ、なんてどうでもいい感想がヤマメの脳内に浮かぶ。
本当にどうでもいいことだ、ヤマメは無駄な思考を振り払い、パルスィの顔を覗き込む。
「具合でも悪いの? 負のオーラが全身からにじみ出てるよ」
「別に、なんでもないわ」
「うーん……そっか」
具合がわるいというより、虫の居所が悪いようだ。
今日は気分がいいからちょっとテンション高めで騒ぐつもりだったヤマメの目論見は、早くも崩れ去ってしまった。
「えっと、私に何か出来ることはないかな? さすがに隣でそんな顔されたんじゃ気になっちゃうよ」
「気にしなくていいわ、個人的な問題だから」
「気にするなって言われて気にしないで居られるなら苦労しないよ。
それにさ、人に相談した方が早く解決すると思うし。
パルスィが私のことどういう風に見てるかは知らないけど、こう見えても私、悩み相談とか結構頻繁に受けてるんだからね、的確なアドバイスで評判なんだから」
ヤマメを慕う妖怪が多い理由の一つだ、悩みが解決するかは置いといて、前向きで明るい性格の彼女に救われる相談者は多いのだと言う。
自信有り気な表情をするヤマメだったが、パルスィはしばらくじっとその顔を見つめた後、盛大に溜息を吐いた。
「無理よ」
ただ一言、それだけでヤマメを突き放す。
「ヤマメには無理」
さらに追撃、加えてヤマメにダメージを与える。
パルスィも自分に好意を向けてくれている、そんな幻想が砕かれたような気分だった。
大げさだということはヤマメ自身もわかっている、それでも多少はショックを受けるのも仕方あるまい。
ポジティブ思考の反動というやつだ、まさかこんな早くに否定されるとはヤマメですら思いもしなかったが。
「……ごめん、ちょっと言い方が悪かったわ、まさかそこまで落ち込むとは思わなかったのよ。
恋愛絡みの悩みなの、だから経験のないヤマメには無理だって言ったの」
「べ、別に経験が無いわけじゃっ」
「あるの? 聞いたことないけど。
最近は毎日のように私と一緒に居るし、誰かと恋愛する時間なんて無いって自分で言ってたわよね」
「パルスィだって私と一緒にいるけど恋愛してるじゃないかよぅ」
「私はほら、エキスパートだから」
「すごい説得力!」
ぐうの音も出ない正論に、ヤマメは納得することしかできない。
「ほらほら、ヤマメもそれらしい申開きをしてみなさいよ。
出来ないなら早く認めなさい、恋愛経験はありません、つま先からてっぺんまでスルメみたいに枯れきった惨めな女です、ってね」
「酷いよっ!」
「でもそうなんでしょう?」
「あるとは言い切れないけれど、無いわけでもないというか……何というか……」
「見栄を張るならもっと堂々としなさいよ。
安心なさい、地底に住む妖怪はみんなヤマメに恋愛経験があるとは思ってないから、もちろん恋愛相談が出来るとも思ってないわ」
「うぅ、言い返せない自分が惨めだ……。
そういえば相談はされるけど、恋愛絡みの相談は受けたことが無い気がする」
「でしょう? みんなわかってるのよ。
いいじゃない、純粋で綺麗なヤマメの事が好きなのよ、みんな」
「このタイミングで言われても褒められてる気がしないんだけどー。
ま、いいけどさ。どうせ、恋愛エキスパートのパルスィに解決出来ない悩みを私が解決出来るとは思えないし」
「そういうこと、わかってもらえたなら重畳だわ。
それにね、わざわざヤマメに心配してもらわなくても大丈夫なのよ、どうせ時間が経てば解決する問題なんだから」
パルスィはそう言って笑ってみせたが、その笑顔にはいつもほどの元気は無い。
心配させまいと虚勢を張った結果なのだろうが、むしろ不安を煽っているようにしか見えない。
ヤマメだって踏み込みたかった、本人は時間が解決すると言ったが、とてもそんな風には思えなかったからだ。
しかし、ヤマメには踏み込めない。
これで親友と呼べるのだろうか。
ヤマメ個人の心情だけで言えば、彼女にとってパルスィは間違いなく親友だった。だが親友という関係はお互いの意思によって成立する関係だ。
パルスィがこれ以上踏み込んで欲しくないと言うのなら、ヤマメはここで踏みとどまるしかない。
人間関係はフェアなんかじゃない。
もしパルスィがヤマメの深い部分まで踏み込んでいたとしても、逆はそうとは限らないし、それを理不尽だと嘆いても現実は変わらない。
無理に踏み込むことだって出来るかもしれない、けれどそれは関係を壊す可能性がある諸刃の剣だ、そんなリスキーな方法を使えるほどヤマメはギャンブラーではない。
「パルスィがそう言うなら、仕方ないか」
だから、ヤマメは相手の意見を鵜呑みにすることしかできなかった。
自分は臆病者だ、そう自身を罵倒しながら。
そして二人はいつも通りを装って、並びながら他愛もない会話を繰り返す。
会話がどこかぎこちないことや、笑い声が社交辞令じみていること、そして何より二人の距離がいつもより離れていることに、お互いに気づきながらも触れようとはしなかった。
ヤマメにはパルスィの意図はわからない、だが一つだけ理解出来ることがある。
おそらく、彼女の悩みには自分が関係している。
それはパルスィの様子から察したヤマメの想像に過ぎないし、事実なら本人から確認が取れるわけもない。
だから間違いなく正しいと言い切ることは出来ないが、ヤマメはほぼ確信していた。
長い付き合いは伊達ではない、これだけ一緒に居れば相手のことは理解出来てしまうことだってある。
仮にパルスィが本心を見せたことが無かったとしても、断片的な情報から概形ぐらいは割り出すことぐらいはヤマメにだって可能だ。
とはいえ、パルスィの悩みを解決出来るほど詳しく読み取れるわけではない。
ちょっと理解できた所で、結局はヤマメは無力なのだ。
所詮は自己満足、突き放されてショックを受けている自分自身に対する慰めにしかならない。
ともすれば、惨めさを増長させるだけにもなりかねないじゃないか。
「そういえばさ、この前の女の子はどうなったの」
ネガティブ方向へと進もうとする思考を遮るようにして、ヤマメは別の話題を切り出す。
「またあの子のこと? 随分と気にするのね、もしかしてヤマメの好みだった?」
「まさか、いつも聞かないだけで内心では結構気にしてるんだよ。
てかタイプも何もあの子は女の子じゃん、私はノーマルだよ」
「恋愛経験無いくせにノーマルとかわかるの?」
「そりゃ、まあ」
「男の人のアレで興奮する?」
「いきなり何聞いてんのっ!?」
「せっかくの機会だし、ノーマルかどうかテストしておこうかと思って。
で、興奮するの? それとも女の人の裸の方が好みかしら」
「だ、だからさぁ……っ」
男性のそれなど見たことも無いから想像出来るわけもなく、パルスィに煽られてヤマメの脳裏に浮かんだのは、いつぞやに見たパルスィの裸体であった。
思わず顔が熱くなる。
なんだって目の前に居る彼女の裸なんかを想像してしまったんだ、とあわてて不埒な妄想をかき消そうとしたが、中々その姿は消えてくれない。
確かにパルスィの裸は綺麗だったし、見とれてしまうほどではあったけれど、いかがわしい物と認識したことなんて無かったはずなのに。
「うわあ、顔真っ赤じゃない。何を想像したのかしら?」
「……何も想像してマセン」
「そんなに愉快な顔しといて誤魔化してるつもり? 卑猥な想像しましたって言ってるようなものじゃない。
ほらほら吐きなさいよ、何ならさとりを呼んできて探らせてもいいんだからね」
「べ、別に呼んでくればいいじゃんっ、何もやましいことは無いわけだしっ! 全く、これっぽっちも!」
「必死ねえ、そう言われるとますます知りたくなるわ」
必死になればなるほどパルスィの好奇心を刺激してしまうことをヤマメは知っていたはずである、これは完全に戦略ミスだ。
興味を失うどころかさらに興味を持ってしまったパルスィは、悪い笑顔を浮かべながら何度も何度も、しつこくねちっこく問いただす。
もちろんヤマメが答えるわけがない、だがこのまま続けても、どちらも引かずに延々と同じ問答を繰り返すだけになってしまう。
それならいっそ、冗談めかして事実を言うことで誤魔化してしまおうか。
そんな考えがヤマメの頭に浮かんだ。
想像したのは冗談めいたヴィジョン、なら事実を言ったってパルスィは信じないかもしれない。
二人の間柄が友人だと言うのなら、それで笑ってお開きになるはずだ。
どっちにしたって何かしらの答えを用意しなければパルスィだって引かないだろう、このまま無駄なやり取りを続けるぐらいなら、多少の恥を覚悟して事を前に進める方がよっぽど建設的だ。
「ヤマメってば強情すぎ、早く正直に答えなさい」
ヤマメは意を決して、パルスィの問いに対して正直に答えを告げる。
「……わかったよ、じゃあ教えてあげる」
「ようやく観念したのね、それじゃあ聞かせてもらおうじゃない」
パルスィはにやりと笑う。
しかしその余裕を多分に含有した笑みは、次の一瞬ですぐに消え去ることになる。
「パルスィのことだよ」
「ん、私?」
「うん、だから……パルスィのこと、考えてたの。
この前、温泉に行った時に見た、パルスィの裸を思い出してた」
「――」
さあ笑え、と真正面からパルスィを見据えて堂々と言い放つ……予定だったが、ヤマメは自分で思ってる以上にチキンだったらしい。
露骨に目線をそらし、反応を伺うようにちらちらとパルスィを見るのが精一杯だった。
鏡はないのでヤマメ本人が確認出来るわけではないが、血が頭に上り火照っているし、自分の顔の有り様を想像するのはそう難しいことではない。
まあ想像するまでもなく、現にヤマメの顔は真っ赤なのだが。
パルスィの目を真っ直ぐ見ることが出来ずに、恥じらいながらちらちらと何度か視線を合わせ、瞳は潤み、上目遣いで相手を見つめ――ヤマメからしてみれば余裕の無さ故の挙動だったのだが、そんなあざとい表情を見せられて、パルスィが平静を保てるわけがない。
クリティカルである。
頭と心臓と心と魂に、ずがんと巨大な衝撃。
目に毒なんてもんじゃない、劇毒だ、致死量だ、さすが毒を操る力を持っているだけはある。
揺らぐ、揺らぐ、根幹が揺れて存在すら揺らいでしまいそうだ。
回避なんてできるわけがない、何せ至近距離の真正面、情け無用のド直球、渾身の右ストレートだ、こんなのプロボクサーだって避けられるはずがない。
同時に、パルスィはなんとかして忘れようとしていた昨日の深夜の事を思い出してしまった。
突発的に我慢できなくなって、勢いで彼女の唇を奪ってしまったことを。
いや、忘れようとしたって忘れられるわけがない事は、昨日の時点でパルスィは理解していたはずだった。
だってあんなの、あんなに柔らかくて熱くて蕩けそうなキス、他の女と何度キスを繰り返したって忘れられるわけがない。
極上なんて言葉じゃ足りない、今まで満たされなかった全てが一瞬で満たされてしまったのだから。
きっと一生だ、いいや永遠かもしれない、死んで霊になって生まれ変わったって忘れられないかもしれない。
だから距離を置いていたのに、だから自己嫌悪でいつもより大人しくしていたのに、無理に”いつも通り”をやろうとして自分で地雷を踏んでしまった。
下トークなんて振るんじゃなかった、とパルスィは激しく後悔した。
だが時すでに遅し、衝動はすでに理性で抑えられないレヴェルまで達している。
「ヤマメ……それって」
「あ、あれ……いや、その、えっと……」
ヤマメにとって想定外の反応である、パルスィのことだからきっと笑い飛ばして、それをネタにしてからかってくれるだろうと踏んでいたのに。
ところがどっこい、目の前に居る秀麗な美少女はあろうことか目を潤ませて、顔を紅潮させている。
笑うどころか、嬉しそうな、苦しそうな、ヤマメの見たことのない複雑な感情をしているのだ。
恋愛事に縁のなかったヤマメは、もちろんパルスィ相手にも恋愛絡みのハプニングが起きるなんてことは今まで無かった、だから今回が初めてだ。
つんと澄ました表情に、ヤマメ程度じゃ上手なんて取れっこない余裕たっぷりの表情、言動、そんなパルスィしか見たことがなかった。
それが彼女の全てなのだと、そう思い込んでいた。
ところがどうだろう、今まさにヤマメの目の前に居る彼女は、まるで白色の花弁が紅く染まるかのように色めいているではないか。
確かに美人ではあった、街を歩いていれば男性どころか女性の目すら引いてしまうほどで、ただそれだけで恋人たちを嫉妬させるには十分すぎるぐらいだ。
でも、ただそれだけで恋人たちをいとも簡単に引き裂けるものか、と言うのが常日頃からヤマメが抱いていた疑問だったのだ、外見に拘らない女性が世の中には一人や二人ぐらい居るはず、なのに百発百中なんてあり得るものか、と。
あるいは緑の瞳に不思議な力が宿っていて、とも考えていた。
しかしそれらの疑問はたった今、見事に氷解した。
いや、あるいはこんな表情を見せるのはヤマメを前にした時だけなのかもしれないが、仮に演技だったとしても、パルスィのこんな表情を、あるいはこれに準ずる表情を見せられたのなら、そりゃ落ちるに決まってる。
何に落ちるかって、そんなのは一つしかない。
恋だ、恋以外にあるものか。
パルスィがヤマメの赤面した表情に大きな衝撃を受けたのとほぼ同時に、ヤマメも大きな衝撃を受けていた。
揺れている、振り子ではなく柱が揺れている、自分を構成する根幹が、二人の関係を形作っていたど真ん中の大切な部分が揺らいでいる。
どくん、と胸が高鳴る。
ヤマメが今までの人生で感じたことの無い強い鼓動だった、同時に胸を締め付けるような痛みも感じる。
パルスィと過ごす日々の中で、それは幾度と無く感じてきた感覚ではあったが、今日のはその規模が違う。
目をそむけて、胸の中にそっと押し込めておくつもりだったのに、今じゃ溢れそうなほどに膨らんでいる。
固く閉じた心のドアを内側から強引に破ろうとしている。
「あ、そ、そうだ、やっぱり今のじょうだ――」
しかしその感情を許容できないヤマメは、現状をとにかく良くない状況だと判断し、回避しようとした。
今までにない痛み、今までに遭遇したことのないシチュエーション、それはヤマメにとって”失敗”なのである。
このままでは関係が壊れてしまう、そんな予感がしたわけだ。
だから冗談なのだと、一連の流れを無かったことにしようとしたのだが、パルスィはそれを許してくれなかった。
ヤマメが言葉を発し終えるその前に、パルスィの体が動いていた。衝動的に、情熱的に。
「ひぁっ!?」
パルスィは、ヤマメを力強く抱きしめた。
「あ、あの、ぱ、ぱぱぱ、パルスィ……っ!?」
「――っ」
腕ごと抱きしめて、強く引き寄せて、全身をぴたりと密着させる。
動揺するヤマメの言葉にも反応せず、パルスィはひたすらに「ふぅ、ふぅ」と息を荒くするばかりであった。
興奮しているようにも思えたが、どちらかと言えば興奮を抑えるための荒い深呼吸なのかもしれない。
なぜならパルスィはこう考えているからだ。
抱きしめるだけで止められて良かった、と。
「あれ、あれっ? あの、触られるの嫌だったんじゃ……って言うか恥ずかしいよ、いきなり、こんな、ほら見てるし、大通りの人たちめっちゃこっち見てるしっ!
あの子見てたらどうするの!? 刺されるよっ、恋人から奪った挙句に浮気してるとか思われたら大変だよ!?」
やはりパルスィからの反応はない。
パルスィも大通りの方から無数の視線を感じていたが、彼女からしてみればそれどころではなかった。自分の中の欲望を押し留めるので精一杯だったからだ。
ヤマメの体は柔らかい、甘い匂いがする、胸に顔を埋めると心臓の鼓動すら聞こえてくる。
体温は高めだ、急な抱擁に驚いているせいだろう。
じとりと汗ばんだ首筋が艶めかしい。
恥ずかしがってくれている、それに引き剥がそうとしないのはまんざらでもないという証拠だ。
それがパルスィにとっての救いだった。
嫌われたらどうしよう、突き飛ばされたらどうしよう、ネガティブな彼女はそんな風に悪い方ばかりに考えてしまったから。
だが救われる自身が居る一方で、意思の弱さに呆れ返る自分も居るのだ。
自分みたいな汚物がヤマメを汚すのが嫌だったから、頑なに触れようとしなかったんじゃないのか。
思えば、以前からヤマメはパルスィに触れたがっていた、だから拒否しないのは当然と言えば当然なのだ。
その制約は、パルスィの自己嫌悪からくる自己満足にすぎないのだから。
敵は意思の弱さ、自分自身。
”抱きしめるだけで止められて良かった”などと、程度の低い自制で満足している場合ではない。
「……ごめん、急にこんなことして」
「あ、あはは……大丈夫だよ。
よくわかんないけど、パルスィの気持ちは何となくわかる気がする」
「なによそれ、わかんないのにわかるとか、意味がわからないわ」
「私も本当によくわからなくて……ただ、急に抱きしめたくなったんだよね、理由は分からないけど、気持ちが高ぶってそうなっちゃったってことだけはわかるって言うか。
理屈じゃなくて、意識せずにそうなっちゃう感じ、なんかわかるんだ」
「同じ、だった?」
「抱きしめるまではいかなかったけど、たぶん同じだったんじゃないかな。
気持ちだけじゃなくて、距離だってもっと近づきたいと思ったから」
「そう……同じだったんだ。ヤマメと、一緒」
一緒、と言う言葉に万感の思いが込められていることが、ヤマメにも理解できてしまう。
理解した瞬間、再び胸が苦しくなる。
相手の気持ちはわからないし見えない、人間関係を構築していく上でそのブラックボックスは最も大きな障害になる。
表面上では友人だったとしても、本心では嫌われていたらどうしよう、と。
友人が多く対人関係は得意だと思われているヤマメですら、相手に嫌われることの恐怖を常日頃から感じていた。
それは能力ゆえに、地上から追い出された過去があるゆえに、トラウマは何年経っても消えてはくれない。
だからこそ、その中身が明かされた時の喜びも大きいのだが。
箱の中身が自分の感情と一緒だったのならなおさらに、相手に向ける感情が大きければ大きいほどに歓喜は大きくなるだろう。
だから、ヤマメの”同じ”という言葉は彼女が想像する以上に、パルスィに対して大きな意味を持つ言葉足りうるのだ。
それはパルスィの場合、”触られてはいけない”と言う戒律を破ってまで思わず抱きしめてしまうほどに歓喜してしまうような、喜ばしい言葉であって。
裏返せば、それはパルスィがヤマメの事をそれだけ好いていると言う意味でもある、要するに間接的な告白だ。
それが恋愛的な意味を持つかどうかはヤマメにはわかりっこない、ただ相手からの好意に応えたいと思った、触れて喜びを分かち合いたいと思った、そういう衝動があったことは確かだ。
「本当にごめんね、びっくりしたでしょ」
「ううん、私も一緒で嬉しいよ」
ヤマメは、気まずそうに苦笑いしながら自分から離れようとするパルスィの体を引き寄せ、その背中に腕を回す。
「なっ……!?」
「パルスィから抱きしめといて、私がダメってことはないよね? もしダメだって言われても、そんな理不尽聞いてあげないけどね」
「もう、ヤマメも人のこと言えないぐらい性格悪いと思うわ」
「あはは、さすがにパルスィには負けるって」
「触られたくないって、何度も言ってるじゃない」
「じゃあ力づくで引き剥がせばいい、何も全力でしがみつこうってわけじゃないんだから」
「……嫌よ、勿体無いじゃない」
”勿体無い”と言う言葉の意図はヤマメには理解出来なかったが、パルスィが触られることを嫌っているわけではないことだけは理解出来た。
ほんのりを顔を赤くそめ、ぎこちないながらもヤマメの背中に腕を回すパルスィは、むしろいつもよりも上機嫌に見えるほどだ。
なるほど、どうやらさとりはこうなることを予見して、”いっそ触れてみたらいい”と言うアドバイスをヤマメに贈ったらしい。
しかし、となると余計に触れられるのを避けていた理由が解せない。
どう足掻いても越えられなかった境界線をようやく越えられた達成感はあったが、謎はむしろ深まったような気すらしていた。
「私、もうどうしたらいいのかわからないわ」
「どうしたらいいって、いつも通りでいいじゃん。
正しく友人として、きちんとスキンシップを取れるようになっただけなんだから」
「正しい友人はこんな風に公衆の面前で抱き合うものなのかしら」
「そ、そう言われると違う気もするけど……ほら、私たちってちょっとしたボディタッチも出来てなかったでしょ、だからその反動なんだよ。
今まで触れなかった分、今日からはべたべた触ってやるんだから」
「許したわけじゃないわよ、嫌な物は嫌なんだから」
「あはは、なにそれ。こんだけ濃密に触れ合っておきながら、明日からはダメだなんてそんな無茶な話が通るわけないじゃん」
「ヤマメのわからずや」
「パルスィの理屈なんて誰にも理解出来やしないよ、一番理解してるはずの私がわからずやだって言うんなら、世界中のみんながわからずやになるんじゃないかな。
気持ちってのはさ、さとりっていう例外を除いてきちんと言葉にしないと伝わらないの」
「……言えるわけないじゃない、そんなの」
「じゃあわかるわけないよ」
「わかって欲しくないんだもの、当然だわ」
「理解しないと怒られるし、理解しようとすると理解するなって怒られる、理不尽だ。
パルスィは面倒な女だね」
「もうちょっとオブラートに包んだ優しい言い方してよ、ヤマメの罵倒は貴女が思ってる以上に人を傷つけてるのよ」
「じゃあ……パルスィはミステリアスだ、ってのでどうかな」
「ふふん、ミステリアスさは女の魅力よ」
「ちょっとおだてたらそうやってすぐに調子に乗るし。
けどずるいなあ、そんなとこまで魅力にしちゃうんだから。
それを武器にして、道を歩く可愛い女の子を手篭めにしちゃうんでしょ」
「さて、どうかしらね。もうやらないかもしれないわよ」
「嘘だね、あれはパルスィのライフワークだし、いやライフワークってか酸素みたいなもんだよね、止められるわけがない」
「一瞬たりとも信じて貰えないなんて悲しいわ」
いつまでも抱き合ったまま話すのも気恥ずかしい。二人は頃合いを見て体を離し、赤い顔を突き合わせてはにかみ合った。
そしていつもの距離に戻る。
いや、いつもより二人の距離は近いのかもしれない、ヤマメが少し横に移動するだけで肩が触れそうなほどの距離だ。
以前なら、不意の事故で肩が触れてしまっただけで二人の間には気まずい空気が流れていただろう。
しかし、触れることが許された今なら、ふとしたタイミングで肩が触れたとしてもパルスィがヤマメに謝ることはないだろうし、二人の空気が悪くなることも無い。
パルスィはその変化に対して微妙な心境だったが、ヤマメは素直に喜んでいた。
やはりさとりが指摘していた通り、ヤマメは心の奥底でずっと気にしていたのだ、パルスィが触れることを極端に嫌っていることを。
土蜘蛛に触られるのが嫌なんじゃないか、病を伝染されると思っているんじゃないか――地上に住んでいた頃、ヤマメは実際にそうやって差別されてきたのだ、気にしないわけがない。
ヤマメとて地底の妖怪、つまりは地上から移住するだけの理由があったわけだ。
だが触れることを許された今、その不安も綺麗さっぱり消え去った。
もはや自分とパルスィの間を隔てる壁は何もない、ただそれだけでパルスィとの距離が何倍にも縮まったような気がしていた。
「難しいわよね、人の気持ちって」
「人の頭を悩ませてる張本人のパルスィがそれ言う?」
「張本人だからこそわかるのよ、ヤマメは単純だから悩み事も少ないでしょうけど、繊細な私には潰しても潰してもキリが無い程の悩みがあるの」
「遠回しに馬鹿にしてるでしょ」
「割と直接的に馬鹿にしてるわよ、嫌だって言ったのに触った罰」
「抱き返したくせに、酷い友人だね」
「そっくりそのまま返すわ、このわからずや。
まあでも、だからこそ……なのよね」
「だから、こそ?」
「ヤマメは人の気持ちが理解できないわからずやだけど、逆に人の気持ちにすぐに気付くような子だったら状況は違ってたって話」
「全く要領が掴めないし。だからさ、私にわかるように話してよ。
今日のパルスィの物言いは、まるでさとりみたいだ」
「言えないって言ったでしょ、さっき」
「じゃあ話さなきゃいいのに……」
「言えないけど、話したいのよ。伝えたいの本当は、でも話せない内容なの」
「余計わかんない」
パルスィ自身、理解は出来るが納得はしていなかった。
早く答えを出してしまえばいいだけの話だというのに、理性と本能、ポジティブとネガティブのジレンマが彼女を前に進めなくしている、あまりに強固すぎる足かせである。
全て曝け出してしまいたい気持ちはある、だが一方で、気持ちを伝えてしまえば成功しようと失敗しようと今のヤマメとの関係は終わってしまう事を恐れる気持ちもあるのだ。
二人の関係の終焉はパルスィが最も恐れる結末だ。
形はどうあれ続いてさえくれれば、それだけで満足できる、そう思っていた。
ヤマメがパルスィの気持ちに気づいてくれさえすれば、事は簡単に終わるのかもしれないが――恋愛経験の無いヤマメが気持ちに気付くはずもなく。
相手に伝えるのが怖いパルスィは、どちらかと言えば気づいて欲しいと願っていた。
要は責任から逃れたいだけ、全てをヤマメのせいにしてしまえば自分は許されるのではないか、と都合のいい解釈で臆病に自衛しようとしている。
だが、パルスィはヤマメが純白だからこそ惚れ込んだのだ、パルスィの気持ちにすぐ気付くほど経験豊富であれば、最初から彼女を好きになることなど無かっただろう。
だから難しいのだ、と。
あちらが立てばこちらが立たず、トレードオフと言うバランサーは思った以上に上手く機能しているらしい。
まさかヤマメが突然抱きついてくるとはパルスィも予想していなかったが、実際に触れてみると案外あっさりしたもので――それも当然と言えば当然だ、”触れてはいけない”という戒律は、所詮パルスィが自分で勝手に決めたルールでしかなかったのだから。
自分で許可を下せばそれでおしまい、幸福な結末かどうかは別として、問題は簡単に解決するだろう。
だが、それが出来るのならやはりはじめから悩んだりはしないのだ、自分を許せないからこそ迷宮に迷い込んだ今がある。
ヤマメとの接触から数時間が経過した今でも、彼女の体の感触が消えてくれない。
それどころか、温もりすらまだ残っているような気がしてしまう始末だ、こんな有り様で正常な思考など出来るわけがない。
また触れたい、もっと近くに行きたい、いっそ胸の内を全て吐き出してしまいたい、そうやって欲望のままに行動しようとする不埒な自分をどうにか押し付けるので精一杯だ。
だから言ったのに、最初から触らなければよかったのに、と案の定パルスィは強い後悔の念に苛まれていた。
昨晩のことだってそうだ、ヤマメが完全に忘れていたから良かったものの、酔っ払って前後不覚に陥った相手に無理やりキスするなど、絶交どころか牢屋にぶち込まれても文句を言えない極悪非道の所業である。
キスをした後、パルスィはヤマメをお姫様抱っこのまま家まで送り届けた。
ポケットから鍵を拝借して勝手に家に上がり、布団に寝かしてから、唇に軽くキスをするなどと余計なことを多分にして自分の家へと帰った。
その時点でも、冷静な自分は自身のあまりに身勝手な行いを叱責して止めようとしていたのだが、欲望が、本能が理性を軽く上回っていたのだ、その程度で止まるわけがなかった。
後悔したのは家に帰ってからだ、しんと静まり返った自室に戻りようやく冷静さを取り戻し、その場で頭を抱え込みながらしゃがみこんだ。
「ああ、あああ、やってしまった……ついにやってしまった……最低、最悪、弁護しようのない変態だわ私っ……」
ゴロゴロと床を転がりながら、ヤマメへの行いを悔いて悔いて、喉が枯れる程に嘆く。
それが昨日の夜の出来事。
何度も、何時間も自分に対して呪詛を吐き続けた。
夜が明けて外から人の声が聞こえてきても止めようとしない、うめき声にしか聞こえない呪いの言葉を呟き続ける。
それを数えきれないほど繰り返した後、自己嫌悪がようやく落ち着いてきた頃に、ちらりと時計へと視線を移した。
もうじき正午になろうかというタイミング。
なんと夜が明けて昼になるまでずっと自己嫌悪を続けていたらしい。
気持ちが完全に落ち着くまでまだ時間が掛かりそうではあったが、パルスィにはそれより優先するべき事項があった。
徹夜による気だるさと精神的なダメージによって上手く動かない体を引きずりながら、ゆっくりと外出の準備を進める。
義務ではないし、本来なら自重するべきということも理解している。
しかし、もしヤマメが橋に来て自分がいなかったら、万が一彼女を寂しがらせるような事があってはいけない――そんなとんちんかんな義務感がパルスィを突き動かしていた。
懲りないやつだ、と自分でも笑ってしまうほどの愚かさだ。それでもヤマメに会いたいと言う衝動は尽きることはなく、脳内では自分を罵倒しながらも着々と準備を進めていく。
後悔していた自分はどこへやら、ご丁寧に鏡をチェックして、身なりを細かくチェックしていく。
ネガティブ思考で埋め尽くされる脳内、しかしその一方で、髪は乱れていないか、服にシワはついていないか、目の下にくまは出来ていないか、ヤマメに見せても恥ずかしくない格好か、などと浮かれた事を考える脳天気な自分も居るのだ。
本能とはこうも御し難いものなのか、理性が自制を促す一方で、本能はそれを完全に無視してヤマメを求めようとする。
以前からその傾向はあったが今よりは命令を聞いていたはずだ、時間を経るごとに悪化の一途をたどっている、このままでは自分で自分をコントロールできなくなってしまう。
その証拠として、自分の意思とはあまりにかけ離れた行動をとってしまった事が何度かあったはずだ。
例えば昨晩のキス、さっきのハグだってそうだ、以前のパルスィであれば止められたはずだったのに。
後悔したのは深夜から昼にかけて、それから数時間の後にすぐにヤマメに抱きついてしまったわけだ、節操の無さで今のパルスィの右に出るものは居るまい。
ヤマメの抱きついた後に自分の家に戻ってきたパルスィは、戻るやいなや深夜と同様に寝っ転がり、自分の顔を両手で覆いながら唸るように呪詛を唱え続けていた。
「自分の意思の弱さが嫌になるわ、なんで私みたいなのが存在してるのかしら、しかもよりにもよってヤマメの隣なんかにっ」
自己嫌悪の材料にしたって前に進まないことは、自分自身で証明済みだ。
現状を変えなければならない、ヤマメへの気持ちを綺麗さっぱり忘れてしまえればベスト、しかしそんな都合のいい結果を得るための方法があるわけなどない。
いっそ地上の有名な薬師にでも頼んでみるか、とも一瞬考えたが、あまりにリスクが高過ぎる。
なにより、それを実行出来るほどの行動力がパルスィにあるわけがなかった。
なにせ、捨てたい忘れたいと思いながらも、同時にヤマメへの気持ちに対する未練も多分に残っていたのだから。
そもそもそんな簡単に捨てられるのなら、最初から恋などしていない。
捨てられないから恋をしたのだ、狂おしいからこそ恋と呼ぶのだ、だったら衝動的に抱きしめてしまうのも当然の成り行きではないだろうか。
「だからって告白するわけにもいかないでしょうが……」
自分以外の誰かがヤマメの隣に居るのは嫌だ、けれど、自分がヤマメの隣に居るのは何よりも大きな間違いだ。
自己嫌悪の塊が自己評価を底辺に定めるのは当然の行いだ。
すでに答えは出ている、何度悩んだって出す結論は一緒だ、ただ行動に移す勇気が足りないだけで。
どうやったら勇気を得られるのだろう、お姫様にキスでもしてもらえれば、勇者よろしく性欲に起因するとてつもない勇気が湧いてくるのかもしれないが、これには大きな問題点がある。
その姫が、ヤマメだということだ。
やはり自分でどうにかするしかない、しかし自分ではどうにもできない、じゃあどうしろと。
悩んでも方法は思い浮かばない、そもそも最善手なんて物を探すこと自体が間違いなのではないだろうか。
ヤマメと出会って何年経った? その間何度同じことで悩んできた? 今まで何度だって切り出すチャンスはあったはずなのに。
二度と来るな、もう会わない、お前なんか友達じゃない、傷の浅いうちにそう伝えれば良かっただけの話。
ヤマメを傷つけることになったかもしれない、それでも自分のような汚らしい存在がヤマメを汚し続けるよりはずうっとマシだ。
泣き顔は見たくない、傷つけたくない、守りたい――一見してご立派な高説のように思えるが、そんな物は所詮パルスィ自身の都合に過ぎない、本を正せば自分自身が傷つきたくないと思っているだけなのだから。
フラストレーションが、パルスィを内側からパンクさせるほどに溜まっていく。
爪をカチカチと鳴らしながら、歯を食いしばり、叫びたくなる衝動をなんとか抑えこむ。
後悔の結末はいつだって一緒だ。
結局は不可能の再確認をするだけで、自分には現状を変える力など無いのだと、無力さと愚かさを確認しなおすだけの作業。
ストレスを溜めるだけの無駄な工程。
いつものことだ、だからこの後どうするのかも、パルスィにはよくわかっていた。
溜まった物は発散しなければならない、そのための方法をパルスィはたった一つしか持ち合わせていない。
顔を覆っていた両手を床に投げ出すと、むくりと上体を起こす。
「そういう自分が嫌いだって言ってるのに……まあ、今更だけど」
パルスィの汚れとは、節操無く他人の女を抱き続ける罪に他ならない。
自分自身でもその行いを悔い、嫌い、故にヤマメとの触れ合いを禁じているはずなのに、どうして止めようとしないのか。
大した快楽があるわけでもない、もちろん愛もない。
確かに相手は可愛い少女ではあるが、ヤマメに比べれば雲泥の差だ。
だから、優先するべきは明らかにヤマメの方であるにも関わらず。
パルスィにも理解できない、嫌いだと言うのなら変わればいいのに、どうして自分は変われないのか、変わろうとしないのか。
「だから、んなことわかるなら最初から悩まないっつーのっ!」
苛立ちを掛け声代わりに、パルスィは勢いをつけて立ち上がる。
悩んだって仕方ない、そう理解はしていても、理解しただけで悩まないで済むのなら苦労はしない。
悩みたくなくても悩んでしまう、自分を嫌っていても辞められない、それが生き物という物なのだ、今のところはそう納得することにした。
「……ああ、もういいや。
今だけでもいいから忘れましょう、今日のことは綺麗さっぱり!
さーて、気分転換に仔猫ちゃんにでも会いに行きますかっ」
時間感覚が正しければ間違いはないはずだが、一応時計を確認しておく。
彼女から聞いた話が正しいのなら、そろそろ仕事が終わる時間のはずだ。
仕事場まで迎えに行けば、きっと彼女は彼氏にも見せないような可愛らしい笑顔を見せてくれるだろう。
パルスィにとって笑顔の可愛さなどはどうでもいいことだ、大事なのは”彼氏にも見せないような”と言うフレーズであって、言葉だけで満腹になってしまいそうなほどの満足感がある。
早くこの苦しみから開放されたい――その一心で、パルスィは急いで身支度を済ませ、例の場所へと向かうのであった。
少女はとある店の看板娘だった。
彼女を目当てに来店する客が居るほどの人気者で、どうやら例の彼氏もそのうちの一人だったらしい。
男の熱烈な求愛に折れ、最初は仕方なく付き合い始めたらしいのだが、実際に付き合ってみると思っていた以上に誠実な性格でそれなりに幸せにやっていたとのことだ。
パルスィに出会うまでは、だが。
少女も男も奥手だったようで、二人はまだ肉体関係を結ぶには至っていなかった。
つまりは、初物だったわけだ。
てっきりやることはやっていると思っていたパルスィにとっては思わぬ収穫であった、確かに初物は面倒な部分もあるが、彼氏に奪えなかった物を先に奪うというのは中々に気分がいい。
二人が初めて事に及ぼうとした時に、男が少女の手慣れた挙動から別の誰かの存在に気付くかもしれない、自分より先に少女の裸に触れた誰かの存在に嫉妬してくれるかもしれない。
そういった歪んだ嫉妬は特にパルスィの大好物だ、これまた想像するだけで思わず涎が垂れそうになるほどに。
店の暖簾を潜ると、フリフリのウェイトレス服を着た少女が営業スマイルでパルスィを迎えた。
「いらっしゃいませ!」
その天真爛漫な接客は、まさに看板娘と呼ぶに相応しい物だ。
今までは少女から聞いていただけだったが、こうして実際に見るとパルスィも思わず納得してしまうほどだった。
店にやってくる客限定ではあるが、アイドル扱いされてもおかしくはない。
「頑張ってるわね」
「あっ、おね……」
「駄目でしょ、人前でその呼び方しちゃ」
「そ、そうですよね……すいません」
「そろそろ上がりの時間よね? それまで店の中で待たせてもらうわ、案内してくれるかしら」
「はいっ! ふふふ、本当に来てくれるとは思いませんでした」
「どうしてもって言ってたしね、あんな可愛いらしい表情でお願いされたんじゃいくら私だって断れないわ」
「えへへ、ありがとうございます」
パルスィと会話する少女の表情は、先ほどの営業スマイルとは打って変わって、まさに恋する乙女の表情。
言い方を変えれば、雌の表情とも言えるかもしれない。
店内の男どもはそんな彼女の態度の変化に気づいたのか、落ち着かない様子でこちらをちらちらと伺っている。
どうやら話を聞く限りでは、少女は例の彼氏とのお付き合いを内密にしているらしく、ほとんどの客はそれを知らないとのこと。
あんだけ大通りで堂々と手をつないでいたのではバレるのも時間の問題だったのかもしれないが。
恋人の存在を秘密にするとは、まさにアイドル扱いだ。
そのアイドルが謎の女の前でデレデレとあられもない表情を見せるという予想外の事態に、ファンたちは慌てているのだろう。
中には露骨にパルスィに睨みつけてくる妖怪もいるほどだ。
おそらくその男は、パルスィが今までしてきた所業の数々を知っているのではないだろうか。
有名人というほど有名ではないが、勇儀やさとり、ヤマメあたりの友人のさらに友人ぐらいであれば、噂でその存在を耳にしたことはあるかもしれない。
あるいは、今までパルスィが食ってきた少女たちの”元”彼氏の一人なのかもしれない、要するに被害者というわけだ。
そう考えると憎悪に満ちた視線にも合点がいく。
パルスィはそんな刺のある視線を浴びながら、心地よい嫉妬に満足しつつ、上機嫌に悪女めいた笑顔を浮かべた。
「こんなんじゃ、注文する前にお腹がいっぱいになっちゃうわね」
「へ?」
「ふふ、貴女の制服姿が可愛いからそれだけでお腹がいっぱいになりそうってことよ」
「も、もうっ、おね……パルスィさんったらいつもそんなことばっかり言うんですから」
「仕方ないじゃない、恥ずかしがる貴女が愛おしくて仕方ないのよ」
「ううぅ……」
パルスィを目の前にしてほんのり染まっていた少女の頬は、ますます火照っていく。
まるで妹に接する優しい姉のようなパルスィの振る舞いは、言うまでもなく演技である。
基本的に少女と接するときは柔和な笑顔で、可能な限り相手が警戒を解くような表情を作ることを心がけている。
一見して恥ずかしがる少女を優しく見守っているようにみえるかもしれない。
しかしよく観察してみると、先ほどの嫉妬の視線に対して浮かべた悪い笑みのように、時折隠し切れない邪な表情が漏れ出てしまっている。
彼女とて完璧ではない、ただその穴がヤマメでもなければ気付け無いほどに小さいだけだ。
だが、少女に対して微笑みかけるパルスィの表情に関しては、完全に演技とは言い切れない。
本心から笑っているからだ、問題はその正体なのだが。
その笑顔の正体とは、”少女が可愛い”からではなく、”少女が彼氏ではなく自分の前で女の表情になっている”ことに対する愉悦なのである。
純粋すぎる少女はもちろん気付いていないし、第三者が傍から見ても、パルスィの人間性を知る者以外はその歪みに感づく者は居ないだろう。
カウンター席に腰掛けたパルスィは、注文を聞こうとする少女に向かって「貴女のおすすめをお願い」と悪びれもせず無茶ぶりをしてみせた。
断るに断りきれず、少女は困った顔をしたまま厨房の前で立ち止まってしまった。
しばし考え込んだ後、何か思い当たる節があったのか、調理担当へとあるメニュー名を伝えた。
遠くからそれを聞いていたパルスィは、再び性悪そうににやりと笑った。
以前に一緒に出かけた時、それとなく好みを伝えておいたのだ、抹茶を使った甘味が好きなのだ、と。
ちなみに本当にパルスィが抹茶が好きなのかと聞かれれば実際はそんなことはなく、これはいわば少女に対するテストのような物だった。
何の意味もなく思い立ったわけではない、パルスィが試すような真似をしたのには理由がある。
それは、少女がバツが悪そうに語った例の彼氏の話に起因する。
彼は店の常連だったにも関わらず、その彼好みのメニューを覚えられない、得意気に”いつもの”と注文された時も、何がいつものかわからずに間違えてしまった、そんな微笑ましいエピソードである。
その話を聞いた時、パルスィには、だったら自分ならどうなるのだろう、とちょっとした興味が湧いたのである。
彼氏のことは覚えられないのに、自分のことなら覚えてくれるだなんて、ああなんて素敵なのだろう――気づかないうちにまんまと謀略に乗った少女の姿を見て、パルスィは実に満たされた気分だった。
こうして満たされている間は、悪女である自分になりきっている間だけは、後悔にも嫌悪にも苛まれずに済む。
現実逃避と言えばその通りだ、しかし嫉妬を糧とする妖怪としては実に理にかなっている。
やろうがやるまいが、どうせ自己嫌悪は消えないのだから、だったら徹底的に汚れてしまった方が気が楽だ、気分が乗っている今はそう楽観することが出来る。
嫉妬というネガティブな感情を好む妖怪とはいえ、自身がいつまでも沈んでいたのでは、いつか心が壊れてしまう。
要するに、これはパルスィにとっての必要悪なのだ。
しばらく待っていると、自信有り気な表情で少女は甘味を運んできた。
運ばれてきたメニューは、予想した通り抹茶パフェである。
「よく覚えてたわね、私の好み」
「あっ、もしかして試してたんですかっ!?」
「んー、そうとも言うかもしれないわね。
貴女がどれだけ私を想ってくれているか知りたかったのよ」
「パルスィさん、結構いじわるですよね」
「可愛い子はいじめたくなっちゃうタチなの、諦めなさい」
ガラスの器の真ん中には抹茶のソフトクリームが載せられ、その傍らには餡の塊がどっしりと鎮座している。
餡以外にもみかんや黄桃、パインと言ったフルーツや、白玉、寒天が散りばめられており、食後の甘味としては少々ボリュームがありすぎるほどの迫力である。
だが表面が溶けて輝くソフトクリームは、例え本当は好みではなかったとしても食欲をそそるには十分すぎるほど魅力的だったし、幸いにして今のパルスィはそれなりに空腹の状態だったので一人で食べるのに問題はなさそうだった。
早速パルスィはスプーンでソフトクリームを掬い、一緒に少量の餡を載せて口に運ぶ。
抹茶の苦味に餡の甘みが混ざり合った、絶妙な味と冷たい感触が口に広がる。
性格は悪いし趣味も悪い、だから”普通の”と言う形容詞を付けることはできないが、パルスィだって女の子だ、美味しい甘味を口にして嬉しくないわけがない。
思わず頬が緩む。
その表情だけは唯一、演技も誤魔化しもない、素の表情であった。
店の佇まいは和風ではあるが、今の地底では洋風の甘味もそう珍しいわけではない。
とは言えど、どこの店にでも抹茶パフェなんてモダンな食べ物が置いてあるわけではない。
この店は地底ではそこそこ名前が通った店なのである、流行を追う者なら一度は一度は訪れたことがあるであろう注目株なのだ。
本来なら店の席は女性で埋まっているような雰囲気なのだが、少数派とは言えない程度に男性が混じっているのは、おそらく看板娘の存在があるからだろう。
幻想郷の、とりわけ地底の食文化の進化は最近になって急速に早まっている、地上との交流が盛んになった影響なのは間違いない。
これは喫茶店に限った話ではなく、例えば居酒屋だってそうだ。
フライ系やチーズを使った料理が増えてきたし、以前はほぼ和酒だけだった酒の種類も今では洋酒の方が種類が豊富な店もあるほどになっている。
逆に以前からあったメニューが消えることもあり、少々懐古主義的な部分のある勇儀としては複雑な心境らしいが。
店員が客にずっと付き添っているわけにもいかず、パルスィは一人で抹茶パフェと平らげていた。
仕事を終えるための準備をしているのか、しばらくフロアで少女の姿を見ていない。
しかしそろそろ頃合いだ、会計を済ませて外に出ればちょうど合流出来るかもしれない。
支払いを済ませたパルスィは店の外に出ると、壁に背中を預けてぼんやりと人の流れを眺めていた。
次の獲物はどうしようかな、などと不埒なことを考えながら。
自分でも下衆い思考だと理解はしているが、こうでもしなければ余計なノイズが混じってしまう。
考えたくても頭に浮かんでくる彼女の表情が、感触が、温もりが、そしてそれに連なるようにして、後悔と嫌悪が。
それが自分の本来の姿だということはパルスィも重々理解している、歯の浮くような言葉で少女の心を掻っ攫う自分など、所詮は逃避のための仮面に過ぎないのだ。
誤魔化し続ければ、いつか綻ぶ、そして壊れる。
その日がやってくるまで、もうそんなに時間が残されていないことだって、痛いほどに理解している。
歯止めは効かない、言うことも聞かない、自分がまるで自分で無くなるような、本来の自分をちっぽけな自制心に押し付け続けたツケが。
「お待たせしました、お姉さまっ」
「駄目じゃない、まだ店の近くなんだから。他の人に聞かれたら困るでしょう?」
「本当なら聞かせたいぐらいです、私はお姉さまの物なんですから」
初めの頃は、後ろめたさから街を歩くのにもおどおどしていたというのに、少女はパルスィの手によってすっかり変えられてしまっていた。
彼を裏切る行為であったとしても、むしろそれを誇る有り様である。
いつぞやのヤマメの言葉を借りるのならば、まさにこれを”調教”と呼ぶのだろう。
こうして堂々と町中を歩いているにも関わらず未だに浮気がバレていないのは、幸運と言うべきか不運と言うべきか。
パルスィとしてはバレようがバレまいがどちらにしても美味しい方へと転ぶので、全く気にしていないのだが。
二人は迷うこと無くある店へと向かっていたのだが、途中で突然少女が足を止める。
「あの、お姉さま」
「どうしたの?」
「えっと……やっぱり今日も、あの宿に行くんですよね」
「当たり前じゃない、それとも他に行きたい場所があった?」
「いえ、私も行きたいのはやまやまなんですが、その……」
少女は言い難そうにしている、出来れば厄介事だけは勘弁して欲しいのだが。
こういった関係になった以上、ある程度は恋人らしい事をしてやるつもりではあるが、面倒事に付き合うほどの愛情は無い。
万が一それが長引くようであれば、今すぐこの場で全部明かして捨ててやってもいいのだけれど――パルスィは微笑みながらも、心は冷め切ったままにそんなことを考えていた。
「風邪っぽくて、ひょっとしたらお姉さまに伝染しちゃうかもって」
「なんだ、そんなこと?」
「そんなことなんて、とんでもないことですよこれは!?
万が一にでもお姉さまが病気になったら大変ですっ、それも私のせいでなんて!」
「大げさねえ。
大丈夫よ、こう見えても私って結構丈夫にできてるんだから。
それにね、風邪を治すのにちょうどいい方法があるのよ」
もちろんそんな都合のいい方法はない。
風邪ごときで欲の発散が出来ないのは困る、それを防ぐためのただの方便だ。
「ちょうどいい、方法?」
「聞いたこと無い? 風邪を引いたら、汗をかいたほうがいいのよ」
「へっ? いや、でも、それって別にそういう意味じゃ……うわわっ、お姉さま、待ってくださいよぉっ」
「ほらほら、つべこべ言わずにさっさと行くわよ、時間は限られてるんだから。
私は貴女を早く愛したくて仕方ないの、わからないかしら?」
「うぁ、あい、あい、して……っ。
わ、わかりました、今日も、よろしくお願いします」
少女は抵抗することを止め、観念して大人しくパルスィに従う。
言われてみれば、少女の頬は通常よりもいくらか赤らんでいるような気もする。
しかし、彼女はパルスィを前にすると強弱はあれどいつも顔を赤らめていたから、パルスィはその変化に全く気付かなかった。
だが、仮に気づいてたとしてもパルスィは宿に向かうのを止めようとはしなかっただろうし、少女が頑なに拒否していたとしても強引に連れて行っていただろう。
胸の内で渦巻くどす黒い欲望が不快で仕方ない、何としても早い内にこれを消してしまいたい。
そのために、今日は少女を抱くと決めたのだ。
所詮は遊びでしか無い、それ以上でもそれ以下でもなく、結局は欲望を発散するための道具でしか無いのだ。
使えない道具に意味などあるだろうか。
少女にも意思がある、時には拒まれることだってあるだろう。
だとしても、パルスィに少女の都合などは関係ない。
自らの欲求を満たすためなら多少の強引さがあっても構わないと思っていたし、無理やりならそれはそれで、そういうプレイも悪くはない。
例え嫌われてしまったとしても、次の獲物を探せばいいだけなのだから。
そのためなら、人目につく場所でお姫様抱っこをしたって構わないと思った。
どうやら少女は姫のような扱いをされるのが苦手らしく、こんな人混みの中でお姫様抱っこなんてされた日には、恥ずかしさのあまり失神してしまうに違いない。
かくして二人は連れ込み宿へと向かい、少女は知るべきではない快楽を教えこまれるのであった。
堕ちていく、面白いほどに。自由落下も真っ青な落下速度である。
少女が自分の名を呼びながら腕の中で果てるたび、パルスィの中の嗜虐心と自己嫌悪は膨らみ続けるのであった。
パルスィと少女が宿に入るその少し前、二人の通った大通りで彼女は立ち尽くしていた。
最初は声をかけようとしたのだが、パルスィが一人では無いことに気付きやめた。
彼女は、心の何処かで自分に気付いてくることを期待していたのかもしれない。
だが結局――パルスィはすれ違った彼女の姿に気付くこと無く、その瞬間ヤマメは、大通りを歩く通行人Aに過ぎなかった。
不思議なことに町中で獲物を連れた彼女を見かけるのは初めてで、故にパルスィと例の少女が並んで歩く姿を目にするのも初めてであった。
想像では何度だって見たことがある、別に何とも思わなかった。
パルスィがそうするは当然のことだと思っていたし、自分の中でもとっくに整理が付いているのだと思い込んでいた。
想像ではそうだった、だから現実でも同じ、というわけにはいかないようで。
「さっきまで、私を抱きしめてたくせに」
ふと、溢れた。
意識なんてしていない、自分でも驚くほどに無意識で、言葉にした直後に思わず口を噤んだ。
誰が聞いているわけでもない、けれど言ってはいけない言葉のような気がして。
だがもう遅い、形になった言葉は消えない、意識していなかった――いや、意識しようとしなかった、意識したくなかったそれは、急速に心の中で確かな存在として形成されていく。
無関心で居られたのは、何よりも注視していたから。
彼の現在位置がわからなければ、それを避けることだって出来ない。
知っていた。見ていた。だが知らないふりをしていた。
思えば、ずいぶん前から、ヤマメは都合の悪いものから目を背け続けてきた。
それは意識しなければ出来ない芸当であって、鈍感なふりをして来たのは他でもない自分自身。
だから、”鈍感”は彼女にとって褒め言葉で、”上手くやったね”と賛辞されているようでもあった。
それでも完全に隠しきれるわけではない、自分を誤魔化すのにはどうしても限界がある。
何故か嫌いにはなれなかった。
パルスィの行い自体を嫌悪しても、彼女自身を嫌いになることは出来ない。
黒谷ヤマメであれば絶対に許すことのできない行為のはずだった、正義感の強い彼女ならそれを諌め、時には罰したはずだ。
だがそうしなかったのは、完全に嫌うことが出来なかったのは、嫌悪よりも強い別の感情があったから。
押しのけてもおつりが来るような、揺るがない想いがあったから。
ぎゅうっと胸元をつかむ。
この仕草も、今まで何度かやってきたはずだ。
何をかばっているのだろう、何から耐えようとしているのだろう、知っているはずなのに。
胸が、痛い。
心臓が、締め付けられるようだ。
こみ上げてくる感情は、吐き気にも似た涙の塊で、瞳から零れないようにするのが精一杯だ。
色は黒、形は醜く、その存在を認識した今でも、出来れば直視はしたくなかった。
彼女は最後まで振り返らなかった。
私の嫉妬は届かなかったのか、と悔しさに歯を軋ませる。
とっくに手遅れだってことに、ずっと前から気づいていた。
要は諦めがついたいだけ。
誤魔化しなんて、所詮は上っ面だけだった。
心の奥底には誤魔化しようのない証拠が秘められていて、だからこそ彼女はとっくに気付いていたのだ。
いつぞや無断で心を読む無礼者が言っていたじゃないか、進展の遅い物語は好きじゃない、と。
それは自身も例外ではなかったはずだ、どちらかと言えばせっかちな性格な彼女は進展の遅い物語は好まない。
だが自分のこととなると事情は別で、残念なことにせっかちと臆病は両立してしまうのである。
でも、それももうおしまい。
彼女はパルスィほど往生際は悪くない。
実を言えば、”鈍感”という指摘は別に間違っては居ないのだ、彼女は未だにパルスィの気持ちには気付いていない、ただ自分の感情の正体に気付いただけで、”鈍感”の汚名を返上出来ると思い込んでいる。
パルスィも同様に、自分は他人の気持ちに敏感なつもりでいた。
だからこそ二人は周りから鈍感と呼ばれているのだが、それに気付けるようなら最初からそうは呼ばれていないだろう。
どちらにせよ、物語が多少進展することに変わりはない。
もはや逃げられないことを悟り、臆病者を自称しながらも幾らかパルスィよりは臆病ではない彼女は、ついに覚悟を決めた。
揺らぐ気持ちはある、恐怖に怯える自分は誤魔化せない、その存在を無視できはしない。
でも、天秤は勇気の側に傾いている。
諦めにも似た勇気。
だってもう、膨らみすぎたその感情からは目を背けられそうにもないから。
白々しい誤魔化しも、無理のある現状維持も、もうおしまい。
「……そっか、そうだよね」
人の流れはパルスィと少女を飲み込んでいく。
人通りの割に狭く、そして遠くの、数多の妖怪たちでごった返す大通りの波に飲まれていく。
残ったのは、ほの暗い地底を照らす提灯に照らされた繁華街と、そのど真ん中で立ち尽くすヤマメだけ。
喧騒と寂寞が思考をかき乱す、再び決意をうやむやにして掻き消そうと迫ってくる。
「そりゃあの子のことだって気になるはずなんだよ、だって我慢できなかったんだから。
胸だって痛くなるよね、だって辛かったんだから」
だから、言葉にする。
言葉にして証拠として自分自身につきつけることで、逃げ出そうとする自分をどうにか押さえつけようと抗っていた。
今なら変えられそうな気がするのだ、自分自身を。
でも次の瞬間はもうだめかもしれない、また逃げてしまうかもしれない。
故に今しかない、誰かに聞かれようとも構わない、はっきりと言葉にして、目を背けるのはやめると決めた。
「……すぅ」
一旦間を置く。
急がなければならない、しかし準備も無しに極寒の水に飛び込むがごとく、心の準備も無しに言葉にしたんじゃショックで心臓の一つや二つ、容易く止まってしまいそうだ。
深呼吸が必要だ、誰に許しを請うのか彼女にもわからなかったが、これぐらいの甘えは許して欲しい気分だった。
そして唇を開く。
緊張のあまり乾いた喉に力を込めて、震える吐息を声に変える。
「私、ずっと前からパルスィのことが」
ゆっくりと、力強く、胸に手を当てて――二人の境界線を変えてしまう、致命的な言葉を口にする。
終わりではなく、始まりなのだと自分を励ましながら。
「す――」
そしてその二文字のうち、一文字目を言葉にした瞬間。
「おや、ヤマメさんったらこんな所で立ち止まって何をしてるんですか?」
神がかり的なタイミングの悪さで、古明地さとりが話しかけてきたのである。
……そう、よりにもよって、”あの”古明地さとりが。
「すっ……すっ……」
突然の妨害にもめげずに、どうにか決意をそのままに、言葉にしようと踏みとどまるヤマメ。
だが踏ん張れるほど彼女は強くない、積み上げてきた勇気は容易く崩れ落ち、天秤は逆方向に猛スピードで傾く。
「あっ」
さとりも悟る、自分が何をしてしまったのかを。
口元に手を当て、露骨に”しまった”と言う表情を形作る。
「すぅぅぅぅっ……さとりいいいぃぃぃっ!!」
周囲の人通りなど気にすることなく、ヤマメは盛大に叫んだ。
ありったけの怒りを込めて、まさにこれこそ”絶叫”だとお手本を見せつけるがごとく。
見たこともない怒りの形相にさとりは一瞬面食らうが、すぐに気まずそうに視線を逸らした。
「なんでっ、なんでこのタイミングで現れるの!?」
「い、いえ、決して悪意があったわけでは……」
「じゃあ何、神様の悪戯? この期に及んで私を弄ぼうとする性悪神様がこの世に存在するっての!?
今すぐ地上からその神様連れてきてよ、この拳でっ、固く握ったこの拳でっ、血が滲むまで何度も何度も何度も殴ってやるんだからぁっ!」
「す、すいません、本当に悪意なんて無かったんです、むしろ応援しようと思ってたぐらいでっ!
ああ、なんてことを……私はなんてことをしてしまったの……まさか二人の関係に横槍を入れる面倒な友人ポジションみたいな事をしてしまうなんてっ!
私ともあろうものがっ、この私がっ、何でこんな空気を読めないことを……っ」
「なにさ、まるで被害者みたいに悔しがっちゃってさぁっ!
悔しがりたいのは私の方だってば、せっかく覚悟決められると思ったのに!」
「なら改めてどうぞ、ほらやってくださいよ、覚悟決めてください、私は居ないものと思って! さあ、さあ!」
「言えるわけないじゃない!」
「私を助けると思ってお願いします、このままじゃ忍びなさすぎて死んでしまいます!」
「勝手に死ねばいいじゃないかばかやろー! ああもう、なんでこんなタイミングでさとりが来るのさぁ……」
「すいません……今のばっかりは全面的に私が悪いです、本当に油断してました。
しっかりと、いつも通り油断せずにヤマメさんの心の中を土足で踏みにじっていればこんなことにはならなかったのに」
「言ってることは正しいけど許しちゃいけない気がする……」
前置きした通り、覚悟というものはいとも簡単に萎えてしまうもので、こうも見事にタイミングを逃すとそう簡単には次の機会は来そうにない。
今にも固まりそうだったヤマメの覚悟は、さとりの邪魔が入ったことで急速に萎んでしまった。
さとりにしては珍しく自分の非を認め、ひたすらにヤマメに対して謝っているが、事が事だけにヤマメがそう簡単に許すわけもない。
相手がさとり以外であれば仕方ないと諦めたかもしれないが、心を読めるさとりの仕業なのである。
普段は人の頭の中に勝手に踏み込んで好き勝手荒らしてくれるくせに、こんな時だけ都合よく心を読んでませんでしたー、などと巫山戯た言い訳が通用するわけもない。
「でも、私が邪魔した程度で揺らぐヤマメさんも相当ですよね」
「確かにそうかもしれないけどさ、さとりは切り替えが早すぎるよ。もっときちんと反省しなさい!」
「十分しましたよ。
辞書に反省という言葉が無かった私がほんの少しでも反省したんです、これは天変地異が起きるほどの大異変ですよ」
「そういうことは他人が言うから意味があるのであって、普通は自分では言わないの」
「常識の範疇で私を測らないでください、そんなに器の小さな女ではありません」
「無いくせに偉そうに胸を張るな! そういうのは器が大きいとは言わないの!
というか、悪いのはさとりのはずなんだけど、なんでそんなに偉そうなのさ」
「地霊殿の主ですから、実はそれなりに偉いんですよ。えっへん」
「さっき勢いに任せて殴っとけばよかった……」
死ぬほど反省していたさとりはどこへやら、少々会話を交わしただけでいつものさとりに逆戻りである。
演技でも良いからもっと卑屈な態度を取ってくれれば多少は許す気にもなろうという物なのに、どうしてこう人の神経を逆なですることばかりしてくるのか。
しかしよく考えてみれば、人の神経を逆撫でしないさとりなど、もはやさとりでは無いのかもしれない。
だがそんな不名誉なレッテルを貼られている事を、本来なら恥と思うべきなのである。
だというのにこの古明地さとりという悪辣な妖怪は、恥じらうどころか、それを誉れだとすら思っているらしい。
やはり彼女は能力云々以前に、根本的に性格が悪いのである。
能力ゆえに地上から追い出されたという話だが、実は単純に性格が悪くて追い出されただけじゃなかろうか。
妹の前では例外的に優しい姉になるらしいが、誰もその状態のさとりを見たことが無い時点で真実かどうか怪しいものだ。
「あ、そういえば。
どうやら先日のアドバイスは役に立ったみたいですね」
切り替えも早ければ話題の転換も早い。
本来ならもっと引っ張って相手の非を追求する所なのだが、さとり相手では分が悪い。
ヤマメはしぶしぶ、新たな話題に乗るしか無いのであった。
「別に私から触ったわけじゃないんだけどね、いきなりパルスィが抱きついてくるもんだからびっくりしたよ」
まだ怒りは冷めやらないが、つっけんどんな対応をした所でヤマメに益があるわけでもない。
ここで感情に任せて相手の話を遮らないあたり、ヤマメは何処まで言ってもお人好しなのである。
「でも言った通りだったでしょう? 別にパルスィさんはヤマメさんを拒絶しているわけじゃないって。
私としても、まさかここまで情熱的なボディタッチを繰り出すとは思いもしませんでしたが」
「だけどさ、結局理由はわからず仕舞いだよ。なんでパルスィは私に触られたくないって言ってたんだろ?」
「私はその理由を知っていますが、知った上で感想だけ言わせてもらうなら、”解せない”ですね。
気難しいというか、偏屈と言いますか……ああ、ちょうど少し前にヤマメさんがパルスィさんの事を変人呼ばわりしてたじゃないですか、まさにそれですね」
さとりは地底でもトップクラスの変人である。
そのさとりが変人呼ばわりしているのだ、よっぽど大した理由なのだろう。
「相変わらずさとりと会話してると何かむずむずするなあ、一人だけ答えを知ってるだなんてズルいよ。
つまりは、私が考えても無駄だってことでしょ?」
「そういうことです、ヤマメさんがガンガン攻めればそのうちパルスィさんの方から折れてくれますよ」
「折れる……か。
折れる前に攻める私が怪我するぐらい丈夫だったりしないよね?」
「木の枝よりも脆いので安心してください、複雑なようで単純なお話ですから。
実を言えば、ヤマメさんはすでに解決策を知っているはずなんです」
「知ってる? 私が?」
「ええ、それはもう。最後の切り札をその手に持っているはずなんですけどね、どうして使わないんでしょう」
「この手に……」
ヤマメは訝しげな表情で自分の手のひらを見つめながら、手を開いたり閉じたりを何度か繰り返した。
土蜘蛛の妖怪ではあるが、別段この手に特別な力を持っているわけではない。
「物理的に握っているわけでも、不思議な力を宿しているわけでもありませんよ、そんな下らないことばかりを考えるから話が脱線するんです」
「わ、わかってるって、つまり割と身近にその方法があるってことでしょ?」
「わかってなかったくせに……見栄貼っちゃって、かわいいですねえ」
「うるさい、そこは大人なら空気読んでスルーする所じゃないかよう!」
「私は大人ではありませんから、我が儘な子供なんです。一人前なのは権力だけですよ」
「自分のこと偉いって言ってみたり子供扱いしてみたり、都合の良いことばっかり言って……」
「偉いからと言ってイコール大人と言うわけではないでしょう? 偉い子供が居たっていいじゃありませんか」
「さとりって何歳なのさ」
「ほらほら、また話が脱線してます」
「……答えないんだ」
「妖怪に年齢を聞くなんて無駄だと言ってるんです、子供と大人の境界だってわかったもんじゃないですから。
こんなことを話してる間に答えは遠くに遠ざかってしまいますよ。
まあ、わからないならそれでもいいんですけどね、どうせじきに気付くでしょうから」
「意味深なことばっかり言って、結局何の役にも立ってないじゃん」
「意味深なことを言って心を惑わし、それによって右往左往するヤマメさんを見るのが趣味ですから。
ああ楽しい、どうして人の心を弄ぶのってこんなに楽しいんでしょう!」
天に向けて満面の笑みを向けながら、さとりは恥ずかしげもなくそう言い切ってみせた。
「やっぱ殴っとくべきだったかな……」
どうせなら本当に自分の手に不思議な力が宿っていればいいのに、とヤマメは拳を握りしめながら思った。
仮に本気で拳を突き出したとしても、さとりにはいとも容易く避けられてしまうのだろうけれど、絶対に避けられないような不思議な力が都合よくこの手に宿らない物だろうか。
あるいは掠っただけで汚い心を浄化できるような、聖なる力とか。
「冗談はさておき、こう見えても友人としてそれなりに心配はしているんです。
今は笑って見てられますけど、拗れて壊れられでもしたら後味が悪いにも程が有りますからね」
「私たちの間に関係が壊れるような爆弾があるとでも?」
「ありますね。
今は平気でも、それが拗れてしまうのが世の常ですから。
時には人を惑わし、狂わせ、殺意に走らせることもある、ヤマメさんもそれぐらいは知っているでしょう?」
「知ってるけど、パルスィの女癖の悪さは今に始まったことじゃないし、私はとっくに慣れてるから大丈夫だよ」
「でも実際に見たことは無かったんでしょう? だから、さっきだって並んで歩いている姿を見たただけで、これでもかってぐらい気が動転してしまった。
仮に接吻の現場に直面したら、交わっている途中を見たら、想像するだけで恐ろしいですよね。
私は嫉妬に狂うヤマメさんの姿なんて見たくありませんよ」
言葉では平気だと言っていたのは、他でもないヤマメ自身だ。
つまり理解はしていたのだ、パルスィが今まで獲物と称してきた少女たちとどんなことをしていたのか。
しかしヤマメには経験などないし、それ以前に恋をしたことがあるのかも怪しいほど。
知識はあったとしても、実際の行為がどういった物なのか、深く考えたことは無かった。
だが、今しがたパルスィと少女が二人で歩く姿を見て、考えは変わった。
二人は間違いなく”そういった場所”へと向かう途中だった、パルスィが少女を連れ回すのはそれが目的なのだから間違いない。
すでに知らぬ存ぜぬで通せる時間は終わってしまったのだ、二人がいかがわしい店に入り、キスをして、交わって――その光景を想像しないわけにはいかなかった。
「考えるだけで胸が痛いんですよね、その気持ちはよくわかりますよ」
「……うん」
想像だけでこんなに苦しくなるなんて、それは想像を超えた痛みだった。
先ほど二人を見かけた時ほどではないが、ヤマメから冷静さを奪うには十分すぎる。
「以前からあったんですよね、その痛み」
「割と前から」
「つまり好きなんでしょう、パルスィさんのことが。
だったら当たり前のことです、恥じることはありません」
「好きか嫌いかで言えば、まあ」
「この期に及んでまだそんな誤魔化し方をしますか」
「私だって誤魔化したいわけじゃないの、でも邪魔したのはさとりじゃないのさっ、私はあれで覚悟決めるつもりだったの!
だから、まだ、腹をくくれてないって言うか、友達なら友達でもいいのかなって、それで私たちは幸せなわけだし」
「へたれ、ドへたれ、メガへたれ」
「うるさいっ、相手はパルスィなんだ、親友なんだっ、へたれて悪いかよぅ。
どうせさとりだって、私と同じ状況に直面したらへたれるはずだい!」
「……ふぅ」
肯定にしても否定にしてもはっきりと答えるさとりにしては珍しく、ため息で言葉を濁した。
案外図星だったのかもしれない、そして思い当たる節があるということは、現在進行形でヤマメと同じ状況に立たされていることも考えられる。
相手は誰なのか――と普段のヤマメなら考えていたのだろうが、あいにく今の彼女にそんな余裕は無かった。
「私だって、良くないとは思ってるよ。
自分でもはっきりしないことが嫌いで、他人がうじうじしてたらいつだって背中を押す立場だった。
なのに、当事者になった途端に躊躇して、逃げてばかりで、何もかもに気付かないふりして。
良くないよ、変わるべきなんだよ。
けどさ、やっぱ怖いじゃん! だって私パルスィと一緒にいるとすっごく楽しくってさ、心地よくってさ、これ以上ないくらい最高の友達なんだよ!?
胸を張って言えるよ、私にとって一番大事な友達はパルスィなんだって、親友って呼んだっていいぐらい」
「要は、好きだってことでしょう?」
「気持ちは、それで間違いないよ。誰よりも……たぶん、一番に。
でも、だからこそ怖いんだ。
終わらない友情はあっても、終わらない愛なんて聞いたこと無いでしょ?」
「離婚しない夫婦ならいくらでもいますよ」
「その二人に愛はあるの?」
「……」
さとりは思わずヤマメから目を逸らす。
人の心なんて見えない、夫婦とは形式上は愛しあう二人が成るものではあるが、その二人が愛し合っているかはまた別の話。
スキンシップが全くない夫婦なんて物も珍しくない世の中で、その関係を永遠の愛の証明とするのには少々無理がある。
「永遠の愛なんて恋愛小説の常套句じゃないですか」
「実在しないものを信じられるほどロマンチストじゃないよ」
「処女のくせに、随分と悟ったようなセリフを吐くんですね」
「う、うるさいなあ、処女の何が悪いのさ、大体さとりだって人のこと言えるほど経験豊富じゃないでしょ」
「……ぐぬ」
「図星突かれたら黙るの辞めた方がいいよ、すっごくわかりやすいから」
「自分でも悪い癖だと思います」
責めるのは得意だが、どうやら責められるのはあまり得意では無いらしい。
さとりは相手の心を読めるがゆえに、会話においてイニシアチブを取られることはほとんど無いのだが、その経験がほとんど無い故に、ふいに不利な状況に追い込まれた時のアドリブが効かないのだ。
そもそもそのアドリブを使う機会がほとんど無いので必要性の薄い能力かもしれないが、ふとした瞬間に弱点を晒してしまった時、さとりが受けるダメージはかなり大きい。
表情には出さないが、さとり自身も経験が無いのをそれなりに気にしていたらしく、今日一日引きずる程度には心にダメージを負っているようだ。
好意で相談に乗ろうとしているさとりには申し訳ないが、普段やりたい放題やられているヤマメは、内心”ざまあみろ”と思っていた。
もちろんさとりもそれに気付いていたが、憎まれ口を叩けるほどの余裕が今の彼女には無い。
「さとりのアドバイスはありがたいと思ってるよ、役に立つかどうかは別として。
でもね、やっぱ私自身が答えを出すしか無いんだと思う」
「お節介でしたか?」
「できれば、誰にも邪魔されずに答えを出したいな」
「……さっき寸前で声をかけられたこと、実は根に持ってます?」
「少なくとも一ヶ月は忘れないと思う。
ううん、むしろ三年後ぐらいに突然思い出してさとりを攻め立てると思うな」
「本当に申し訳ないと思っています」
「いいよ、どうせ謝ったって許す気はないから」
「なるほど、だったら謝らないほうがお得ですね」
「そういうこと」
ヤマメは慣れているので軽く流したが、さとりの切り替えの早さは本当に謝る気があったのが疑ってしまうほどである。
元から親しい相手ならまだしも、さとりは誰に対しても同じような態度を取ってしまう、これでは地底でも嫌われてるのは当然である。
一番の問題は、さとり自身が別に嫌われても構わないと考えていることなのだが。
「まあ、そうは言っても私に否があるのは間違いないですから、今度一度ぐらいは奢りますよ」
「奢りって、さとりと二人きり?」
「そうですね、二人きりです。
みんなで行ってヤマメの分だけ私が払うってわけにもいかないでしょう。
……って、なるほどそういうことですか。
まったく、人の好意を何だと思ってるんですか、良からぬ事を考えているのが丸見えですよ」
「普段の行いが悪すぎるの、私だって素直に好意だって思いたいよ。
けど相手はあのさとりだよ? さとりと好意って言葉が結びつくと思う?」
「思いませんね」
即答である、だがわかりきった返答なのでヤマメは驚かない。
「でしょ? だから私は悪くないの、悪いのはさとり!」
「わかりました、それが嫌ならパルスィさんも連れてきてください、二人セットなら奢ってあげます。
無論他の人じゃ駄目ですよ」
「いや、それは……」
「何か不都合でも?」
「あるに決まってんじゃん! 要するに奢りたくないってことでしょ!?」
三人きりで食事なんて、さとりと二人きりよりもさらにタチが悪い。
何を言われるかわかったもんじゃない。
「それはもう、出来れば奢りたくはないですね。お金も無限ではありませんから」
「だったら最初からそう言いなよ。
ああもう、ほんとさとりってば得な性格してるよね、心の底から羨ましいって思うよ」
「それはそれは、お褒めいただき光栄ですね」
「これを純粋な褒め言葉として受け取れるあたりがさとりの強みだよね……」
「心は丸見えなんです、悪意をそのまま受け止めていたのでは体が持ちませんから。
これも私なりの生きるための知恵ってところです」
さとりもさとりなりに苦労してきたのだろうし、今も現在進行形で嫌われていることを考えると、それなりに苦労しているに違いない。
「実は皮肉だって無意味に言っているわけでは無いんですよ、ただ私は悪意に対して悪意で応えているだけです。
考えても見てください、私が覚妖怪だと知って好意を持ってくれる妖怪がどれぐらい居ると思います?
ヤマメのような例外を除いてほとんどいませんよね、九割の悪意と一割の好奇心で近づいてくるろくでもない輩ばかりです。
中には能力を利用して悪巧みしてやろう、なんて馬鹿な事を考えて近づいてくる阿呆まで居る始末」
「腐っても地獄、だしね」
地上との交流は出来たものの、やはり地底は地上に比べれば幾分か治安が悪い。
心の中だけでは飽きたらず、直接罵声を浴びせてくる妖怪もいないわけでは無かった。
「だからって脳まで腐る必要はないと思うのですが。
私にとって思考は声と同じなんです、わざわざ罵声を浴びせなくても汚らしい言葉を心に留めるだけで見えてしまうんですよ。
もちろんストレスは貯まります、どんなに嫌だって泣いて叫んで嘆いたって、見えるものは見えてしまいますからね。
それに耐える方法なんて、結局は二通りしか無いんですよ」
「発散するか、目を閉じるか?」
「そういうことです、私たち姉妹は別々の方法を選んだ、ただそれだけのこと」
さとりは妹のことを話すときだけ、やけに優しい表情をする。
この世で唯一の肉親で、心の見えない相手。
溺愛してしまうのも仕方無い。
悲しいかな、こいしにはさとりの気持ちは届いている様子は無いのだが。
「ああ、こいしは完全に唯一ってわけではありませんよ。
ヤマメさんや勇儀さん、パルスィさんのように偏見を持たずに付き合ってくれる人もいますから。
あなたを含めた彼女たちは、聖人君子とまではいかないものの……ええ、中々の善人っぷりだと思います、吐き気がするぐらいに」
「もっと素直に褒めてくれていいんじゃない!?」
「悪意まみれの世の中で生きていると、逆に善意が信じられなくなるんですよ。所詮は偽善に過ぎないんじゃないかって。
付き合っていくうちにそうじゃないってわかっていくんですけどね。
ふふ、ですから今は本当に大切な友達だと思っていますよ、たまにあまりの善意に寒気がすることはありますが紛れも無く本気です、私の心は見せられないので証明はできませんがね」
さとりらしくない、皮肉抜きの真っ直ぐな言い回しで、ヤマメに向けてそう言った。
これにはさすがにヤマメも顔を赤くして恥ずかしがっている。
「そりゃ信じるよ、けど私とパルスィのやりとりを青春だ何だって馬鹿にしてたくせに、さとりの方がよっぽど恥ずかしい事言ってるじゃん」
「仕方ありません、だって私たちは友達ですから」
「いやいや、理由になってないから」
「いえ、なってますよ」
「どこがさ」
ヤマメにはさっぱり理解できない。
だがさとりは自慢気に、胸を張りながらこう言った。
「だって友達が恥ずかしがったり、困ったり、泣いたり、それってとても素敵なことじゃないですか」
「……はい?」
「ですから友達だからこそ、大切だからこそいじめたくなってしまうんです。
かの有名な、”好きな子をいじめたくなる理論”ですよ、わかりませんか?
悪意を持って近づいてくる連中なんて適当にあしらえばいいんですよ、慣れてしまった今となっては赤の他人の悪意なんてどうでもいいですし、気にするだけ無駄な奴らですから。
それより大事なのは親しい相手です、彼らを心を込めて弄ぶことこそが真実の愛であり、私のストレスを発散するために最も必要な行為なんです。
というわけでヤマメさん、これからも生贄役お願いしますね、パルスィさんとの仲が潰れない程度に適度にこじれてくれることを期待しています、それだけで私がどれだけ救われることか」
これ以上無い笑顔を向けられたヤマメは、メデューサに睨まれたかのうように固まり、絶句してしまった。
折角いい感じで青春していたのに、友情を感じていたのに、何だこの展開。
「え、えぇ……」
「ドン引きしてます?」
「そりゃするよぉ! たぶん一生、それがどういう気持ちなのか私には理解できそうにないと思う」
「愛ですよ?」
「そんなのが愛でたまるかい!」
「別に不幸になってほしいと願っているわけではないんですよ、二人には”最終的に”うまくいって欲しいと思っていますし。
その過程で思う存分ほくほくしたいと望むだけです。
ヤマメさんに理解できるように説明すると……そうですね、私は私、古明地さとりはどこまでいっても古明地さとりでしか無いんですよ、ってとこでしょうか」
「よくわからないけど、説得力だけはすごいね……」
少なくともさとりがヤマメとパルスィのことを友人と思い、本気で心配してくれているのは事実なようで。
ヤマメはさとりの言葉の都合のいい部分だけを理解したことにして、あとは忘れることにした。
覚えていた所でどうせ理解できるものではないのだから。
これもまた、生きるための知恵ということなのだろう。
結局、さとりと別れた後に家に戻ったヤマメはもやもやとした気持ちを抱えたまま一日を過ごし、気付けばまた朝がやってきていた。
地上のように全てを明るく照らす太陽があるわけではない、変化はせいぜい明かりの有無ぐらいのもので、それしきでヤマメの胸に満ちる靄が消えるはずがない。
体を起こすと同時に大きくため息を吐くと、一度、二度と目をこすって立ち上がる。
視界の霞が晴れても、やはり気持ちはまだ晴れない。
こうしてもたもたしている間にも時間は刻一刻と迫ってくる、今日もまたパルスィはあの橋の上でヤマメを待っているのだろう。
行かないわけにはいかなかった。
行きたくない気持ちはあったが、それよりもパルスィとの繋がりが切れてしまう方がずっと怖かったから。
何もしないでいると嫌なことばかりを考えてしまう、いつもよりも少し早い時間になってしまうが、ヤマメは朝食と外出の準備を始めることにした。
夜はあれほど賑わっている大通りも、午前中となるとしんと静まり返っている。
酒飲みどもが好む店が軒を連ねているのだ、夜がピークになるのは当然だが、昼間から賑わっているのは昼から酒を飲む贅沢者がそれだけ多いということだろうか。
静かな大通りというのもそれはそれで貴重だし、乙なものだ。
ヤマメは騒がしいのが好きだ、だがたまには一人で落ち着いて散歩したくなることもある。今みたいな状態だと、特に。
「……なんだ、いないじゃん」
どうやら早すぎたらしい。
橋に辿り着いたヤマメだったが、そこにはパルスィの姿は無かった。
肩透かしを食らってしまった、ここで待ちぼうけするのは別にいいのだが、こうして止まって考え込んでいると――ほら、余計なことばかり考えてしまう。
昨日のこと、パルスィの隣に居たかわいい女の子、腕を組んだ二人、向かった先は連れ込み宿だろうか。
それから、嫉妬に狂った自分自身のこと。
「さっきまで私を抱きしめたくせに……か。
私ってば、まるっきりめんどくさい女だ」
その可能性を全く考えたことが無かったかと言われれば嘘になる。
二人の関係は実に奇妙だった、趣味も性格も客観的に見て相性が良いとは言えなかったし、実際にお互いに嫌いなところだってはっきりしていたはずなのに、じゃあどこが好きなのか、なぜ友人なのかと問われてはっきりと答えられる事は一つだって無かった。
出会いもあやふやで、付き合いもあやふやで、思えばそれは自分の感情から無意識のうちに目をそらしていただけなのかもしれない。
パルスィがどう考えているかはヤマメの知る所ではないが、少なくともヤマメにとってパルスィは手を出してはいけない相手のように思えたから。
縛ってしまうと思った。
蜘蛛だけに、なんて洒落を言うつもりは無かったが、あるいは本当にヤマメが蜘蛛だからこそ相手を縛り付けてしまうのかもしれない。
実際にそうしたことがあるわけではないが、もし恋人ができた時にきっと自分は相手を束縛してしまうだろうという予感はあった、まさにめんどくさい女そのものだ。
一方でパルスィは自由人。好き勝手に生きて、抱いて、壊して、そうやって生きている。
ヤマメは考える。自由奔放な彼女を縛り付けるなど、あってはならないことだ、と。
好きになってはならないとはそういうことだ、きっと自分ではパルスィを幸せには出来ない、満足させることはできない、だからせめて友人として。
だってらしくあることこそが幸せなことなのだから、と。
今もその気持ちは変わっては居ない、だからこそ決意できない、どうしてもへたれてしまう。
考えれば考える程、自分がパルスィにふさわしいとは思えなくなってくる。
そもそも友達である必要があるのか、誰を抱こうが砕こうがパルスィの勝手なのにそれを邪魔して、機嫌を損ねてみて、傍に居るだけで彼女に負担をかけているだけなのではないだろうか、なんて。そんなことまで。
いつもならとっくに来ているはずなのに一向に姿を見せないことが、ヤマメの不安をさらに加速させていた。
一時間、二時間、三時間、やはりパルスィは姿を見せない。
昼を過ぎ、大通りは次第に賑わい始めている、じきに狩りのやりやすい時間にもなるだろうに。
それとも今日は例の少女と一緒にデートでもしているのだろうか。
昨日、あのまま二人で宿に泊まったとするのなら、そのまま二人で出かけた可能性だって無くはない。
パルスィいわく、あまり獲物に入れ込みすぎないのがコツらしいのだが、例外がいつやってくるかはわからない。
ひょっとしたら、今回こそ本命だったのかもしれない。
惚れて、入れ込んで、自分が居たはずの場所にはあの少女が居て、自分は要らない存在になっていく。
嫌な想像ばかりがヤマメの脳裏を掠めた。
ごっそりとテンションを削り取っていく、立ち上がるのも億劫になるほどに自分の心が落ち込んでいくのがわかった。
自分は相応しくないと自覚しながらも、せめて傍にいるぐらいは、などとワガママすぎる。
本当にパルスィのことを大切にしたいと思っているのなら、幸せを思って身を引くべきだろうに。
今までさんざんパルスィやさとりに対して性格が悪いと貶してきたが、自分も人のこと言えないな、と自嘲する。
待てども待てどもパルスィは来ない。
今日は来ないつもりなのだろうが、今まで一度だってヤマメが待っていて来なかったことなど無かったと言うのに。
そもそも彼女は橋姫、そのくせ一日のうち一瞬だって橋にこないとは何事か、妖怪としてのアイデンティティを自ら放棄するなんて。
「……心配だし、見に行こっかな」
このまま待ち続けるのもアホらしい、だったらパルスィの家に向かって、居ないのなら今日はそれで諦めればいいだけの話。
あの少女と鉢合わせる事態だけは避けたいが、パルスィの身に何かあったのなら放っておくわけにもいくまい。
家の場所は知っていたが、今まで一度も行ったことは無かった。逆にパルスィがヤマメの家に来たことならあったのだが。
二人で温泉に行く程度には仲が良いと言うのに、思えば妙な話だ、それとも意図的にパルスィが避けていたのだろうか。
別に何があろうと、ヤマメは今更気にしたりはしないのだが。
何せ、彼女の一番汚い部分を一番近くで見てきたのだから、何が起きようとも今更だ。
大通りから少し入った所、裏通りには区別がつかない程に類似した外観の長屋がずらりと立ち並んでいる。
そのうちの一つがパルスィの家だった。
ヤマメがパルスィの住居をひと目で判別出来たのは、たまたま近くを通りがかった時にその場所を確認したことがあるからだ。
友達の家を訪れるだけ、ただそれだけのことで馬鹿みたいに緊張している自分を叱咤しつつ、ゆっくりと玄関の前に近づく。
そこで立ち止まり、大きく深呼吸。
変に意識してどうする、私たちはただの友人だ――と何度自分に言い聞かせても、ノイジーな心音は鳴り止まない。
深呼吸もちっぽけな気休め、自己暗示も緊張感を高めるだけ。
乱れる呼吸、こめかみににじむ汗、震える手。
この有様じゃあ、玄関を開くという容易いアクションすら満足にこなせそうにない。
ヤマメはしばし考えこんだ後、自分の顔をゆっくりと玄関に近づけ……耳をぴとりとくっつけた。
自分が錯乱していることはヤマメ自身とっくに理解している、認めている、どこからどう見ても今の彼女は不審者だ。
だが、まずは自分の心配事を一つ一つ潰していくべきだと判断した。
今のヤマメが正常な状態に戻るなど、おそらく不可能だ。だったらいっそ諦めて、不可能なら不可能なりに少しでも健全な精神状態に近づける。
そのために必要な行動こそが、パルスィの家の中の物音を探ること。あの少女の存在が無いことを確定させること。
「音は、しないかな。
うん、大丈夫みたい」
心配事は一つ消えた。
相変わらず気持ちは落ち着かないが、まあ多少は気持ちに余裕が出来たのかもしれない。
扉の右側には、いつからか地底に普及し始めたインターフォンのボタンがある。
外でできることはそう多くはない、結局の所、多くの心配事を解消するためには直接パルスィと顔を合わせるしかないのである。
「ん、んんっ、おほんっ」と軽く喉の調子を整え、握り拳で汗ばんだ右手、その人差し指をボタンへと伸ばす。
ピン、ポンと機械音が響いた。
チャイムから遅れること十秒ほど、家の中からは――やけに遅い足音が聞こえてくる。
様子はおかしいが、どうやらパルスィは中に居るらしい。
「だーれー……?」
気だるげでやる気のないパルスィの声が向こうから聞こえてくる。
「私、ヤマメだよ」
「ヤマメっ!? なんで……っ、えっと、その……とりあえず、開け……ん、いや、待って。
やっぱダメ、無理、開けない!」
「えええっ、開けてよっ!?」
すりガラスの向こう側にうっすらとパルスィの姿が見える。
彼女はすでに玄関に手を伸ばし鍵を摘んでいるはずなのに、何故かそこで思いとどまってしまった。
「なかなか橋に来ないから、心配で来たんだけど。
声も少しかすれてるし、もしかして病気なんじゃ……」
「し、心配無用……ごほっ……よ」
「じゃあ問題ないよね、ここを開けて」
「それは……その、誰か来るとは思ってなかったから油断してて、ちょっと外に出られる格好じゃないから……」
「私たちの関係なんだから、寝起きで油断したパルスィの姿だって私は見てるの、何もかも今更なんだって。
私相手に隠すことなんて何もないはずだよ?」
「逆よ、むしろヤマメだからこそっ……ケホッ、ケホッ!」
「ほら、言わんこっちゃない」
「えほっ……うぅ、近寄ったら伝染るわよ?」
その言い分は相手がヤマメでなければ顔を合わせない理由にはなったのかもしれないが、彼女相手に切るカードとしては最も不適切だ。
「私を誰だと思ってるの、土蜘蛛に風邪なんか伝染るわけないって普段のパルスィならわかるはずだけど」
「しまった……そういやそうだったわ。
ああヤマメ、あなたはどうして土蜘蛛なの……?」
「きっとパルスィを看病するために神様がそうしたんじゃないかな。
わかったら観念して開けなって」
「はぁ、神様まで出てきたんじゃ仕方ないわね、私の負けよ」
ヤマメに看病してもらえる状況を負けと呼ぶのは妙な話だが、パルスィはアンニュイな表情をしながらありったけのため息を吐き出して、しぶしぶ扉を開いた。
”どうして開けるのを躊躇ったのか”と問いただそうとしたヤマメだったが、その顔を見て理由を一瞬で理解してしまった。
なるほど確かに、これじゃあパルスィが開けたがらないのも納得できる。
「笑いなさいよ。
こんな顔してるんだもの、百年の恋も醒めるでしょう?」
パルスィは自虐気味に笑ってそう言った。
確かに目の下にはくっきりと隈が浮き上がっているし、目は充血して、顔も全体的に青ざめた上にむくんでいる。
それでも美人なあたりはさすがと言った所だが、本人からしてみれば最悪のコンディションである今の惨状は誰にも見せたくなかったのだろう。
だがヤマメにとっては些細な問題だった。
「ぷっ、なにそれ。
言ったよね、今更だって。パルスィ相手に醒める恋なんてありやしないよ」
「……そっか、そうよね」
「むしろその顔見て余計に不安になったじゃないか、どこが心配無用なのさこのばかちんめ。
頼り頼られなんて私たちの柄じゃないことぐらいわかってるけどさ、病気の時ぐらい甘えてくれていいんだからね」
「迷惑かけたくなかったの」
「迷惑を体現したようなお方が何を言ってるの?
むしろ頼ってくれない方が迷惑だよ、私たちの仲はその程度だったのかって悲しくなるからさ」
「ごめん、ありがと」
「あはは、お礼にはまだ早いってば」
ヤマメは家に上がると、真っ先にパルスィを布団に寝かせることにする。
他人が家に居ることに慣れていないのか、パルスィは落ち着かない様子だったが動きまわって症状が悪化されたたまったものじゃない。
「せめてお茶だけでも」と言うパルスィを半ば無理やり布団に押し込んだヤマメは、ひとまず浴室から桶と布巾を持ってくることにした。
予想通りと言うかなんというか、部屋はかなり散らかっている。
風邪を引いてしまって整理出来ないことも原因の一つだろうが、普段から散らかっていなければここまで酷くはならないはずだ。
パルスィの性格からして部屋が片付いているとは思っていなかったが、ここまで予想通りだとヤマメも思わず笑ってしまう。
荷物が多いためかなり狭く感じるが、広さ自体はヤマメの住居とそう変わらないようだ。
つまりは地底における住居の平均的な広さである。
台所、厠、風呂は完備。
食事は外食、風呂は銭湯で済ます者も多いので風呂台所無しの住居もそう少なくはないのだが、パルスィは一人の時間を大事にしたいタイプなのだとか。
確かに、獲物を前にした時と今のパルスィは丸っきり別人だ、美人が前に居ると手を出さずには居られない悪癖を持つだけに、スイッチの切替のためには孤独も必要なのかもしれない。
冷たい水を桶に注ぎ、脱衣所にあった白い布巾を手にとって居間まで運ぶ。
未使用の布巾が比較的わかりやすい場所に置いていあったのがせめてもの救いか、荷物をひっくり返して探せと言われたらそれだけで一苦労しそうだ。
居間に戻ると、どこか虚ろなパルスィの視線がヤマメの方を向いていた。
不謹慎とは思いながらも、妙な色気を感じてしまってヤマメの心臓がどくんと高鳴った。
馬鹿なこと考えてるんじゃない、と自分を叱りながら首を左右に振って邪念を振り払う。
幸いにして邪な考えはほんの一瞬で容易く消え、ヤマメはいつも通りの爽やかな笑顔でパルスィの視線に応えた。
「誰かが居てくれるだけで……こんなに楽なものなのね」
「まだ何もしてないって」
「何もしてなくても楽になるから驚いてるのよ、体じゃなくって気持ちの問題」
「だったらあの子呼べばよかったじゃん、尻尾をぶんぶん振り回しながら”お姉さまぁ~”って来てくれるんじゃない?」
ヤマメは布巾を水に浸し、絞って水を切る。
絞る手に、僅かではあるが過剰に力が込められていたのは嫉妬ゆえだろうか。
自分で言っておきながら嫉妬するなど馬鹿らしい、徐々にエスカレートする自身の面倒臭さにヤマメは思わず口端を引き攣らせ自嘲した。
「……」
「……パルスィ?」
返事もなしに急に黙りこくったパルスィは、なぜかじっとヤマメの方を見ている。
「もう、どうしたのさ。もしかして体がきついとか?」
「いえ……違うの、なんでもないわ、頭がぼうっとしていただけ」
「だったらいいけど……って良くないよ! ごめんね、あんまり喋らない方がいいよね」
十分に絞った布巾がパルスィの額に乗せられる。
その冷たさが火照る体に心地よかったのか、彼女は「はぁ」と再び色っぽく息を吐いた。
またドキリと高鳴るヤマメのわからずやな心臓。
「話してる方が気が楽なの、気にしないでいいわ」
「ほんとに?」
「病は気からって言うじゃない、あんたと話してると体の気だるさも忘れられるのよ。
だから……ね、いいでしょう?」
ヤマメにはとても大丈夫なようには見えなかったが、自分の体のことを一番良く知っているのは自分自身だ、パルスィがそう言うのなら仕方無い。
「そこまで言ってもらえると来たかいがあるってもんだけど、本当にきつくなったら言ってね、私のせいで長引いたりしたら申し訳ないし」
「あら、私はそれでもいいけど?」
「だめだよっ、いくら妖怪でもきついものはきついんでしょ!?」
「ふふっ、だってそうしたら明日も明後日もヤマメが看病に来てくれるんでしょう?
こんな機会、なかなかないわ」
「看病しなくたっていつも一緒にいるじゃんかよぅ」
「違うのよ、そういうのじゃなくて……ヤマメが家に居てくれるのが嬉しいっていうか。ほら、私がヤマメと一緒に居るのってあんた相手が一番リラックスできるからじゃない?」
「初めて聞いた」
「そうかしら……いや、そうかもしれないわね、わざわざ言葉にするような事じゃないもの」
だからこそ、パルスィにとってヤマメは触れてはならない存在なのだ。
自分の汚さとヤマメの清廉さはまさに対極、一緒に居るだけで心安らぐ存在など自分には相応しくない。
彼女はあまりに白く、純粋で、もっと他の――宝物でも扱うように大切に愛でてくれる誰かが、いつかきっと彼女には現れるだろう。
その時まで、一瞬の夢を見ているようなものなのだと、パルスィはそう思っていたから。
だからこそ必要以上に近づこうとはしなかった。
二人で温泉旅行に行こうなんて提案された時も実は悩みに悩んでいたし、ヤマメの部屋に招待された時も最初は自分の煩悩を抑えるので精一杯だった。
きっと、目はハイエナのように欲望でギラついていたはずだろう。
それでも、ヤマメは気付かないのだ。無邪気に語りかけて、笑って、あわよくばパルスィに触れようとしてくる。
「こんなの、贅沢よね」
「贅沢って、看病が?」
「ヤマメの看病なんて私には度が過ぎる幸せだわ、バチが当たりそう」
「なにさそれ、おだてるならもっと別の女の子にしなよ、私相手じゃお世辞の無駄遣いになるだけなんだからさ」
「あら、一番の友人であるヤマメほど相応しい相手がいるとでも?」
「いるじゃない、あの子が」
「それでも、一番はヤマメよ」
「はいはい、パルスィさんの一番になれて嬉しいですよーっと」
「冗談じゃないのに」、「冗談じゃなければいいのに」、二人はお互いに気付かない程度の小さな声でそう呟いた。
微妙な空気、双方共に交わす言葉が思い浮かばない。
他愛無い会話こそ長年続けてきた得意分野だったはずなのに、最近は時折こうして途切れることがある。
その沈黙は決して気まずい物ではないのだが、気まずさとは別に妙なこそばゆさを感じてしまって、ヤマメはその感覚が特に苦手で仕方なかった。
今だって例外ではない、じっとしていられなくなったヤマメはおもむろに立ち上がり、居間を出ようとする。
「どこに行くの?」
「台所、どうせ朝から何も食べてないんでしょう?」
「あぁ、そういえばそうだったわね。なんか思い出したらお腹減ってきたわ」
「食べることすら忘れてたの!? もう、かなり重症じゃないか。
急いで作るから待ってて」
先ほどちらっと台所を見た時は、食器を使った形跡が無かった。
つまり朝から何も口にしていないということなのだろう。
食欲が無いので昼まで何も口にせずとも平気だったのかもしれないが、体力を付けなければ治るものも治るまい。
「材料、あんまり無いかも」
「軽くおかゆを作るだけだから大丈夫じゃないかな……あ、ご飯はあるのかな?」
「ん、台所のおひつの中に少し残ってると思うわ、昨日の夜のだからまだ大丈夫だと思う。
あと、床下にある保管庫の中身は適当に使っていいから」
「りょーかい、じゃあちょっと待っててね」
「ええ、ヤマメのお尻でも見て待ってるわ」
「病人のくせに盛らないの、大人しく寝てなさい」
もちろんパルスィがヤマメの言うことを聞くはずなどなく、ヤマメは背後からの視線を感じながら料理をするハメになってしまった。
たまにちらりと後ろを見てみると、パルスィは本当に楽しそうにこちらを見ていて、振り向く度にヤマメの目を見て満開の笑みを浮かべる。
向けられた方が恥ずかしくなるほどの会心の笑みだ、ヤマメは自分の頬が熱くなるのを感じた。
「これは、まずいなあ」
料理ではない、ヤマメ自身がだ。
嘆いてはいるものの顔はにやついていて、とても危機感を抱いているようには見えないのだが、本人的には焦っているつもりだ。
いや、むしろにやついていることを自覚しているからこそ焦っている。
今の状況はただ見られているだけだ何を焦ることがあるというのか。
パルスィはからかっているだけ、以前のヤマメなら笑って流す場面……だったはず、なのだ。
それがどうだ、今じゃ見られるだけで背中がむずむずする、振り返って顔を見ようものなら頬が熱くなる、そうじゃなくても視線を感じるだけで勝手に顔がにやつく。
私を見ていてくれている、そんなどうでもいい理由で。
誰かを想うだけで、こうも変わってしまうものなのか。
この変化には劇的という言葉がぴったりと当てはまる。
それでも自分の想いを認めることができないなどと、往生際が悪いにも程がある。
さとりがへたれと呼ぶのも仕方無い、ヤマメ自身もそう思っている。
だが、それでも。
長い年月をかけて築いてきた友人というぬるま湯の関係、心地の良い居場所はそう簡単に捨てられる物ではない。
未だ、新たな関係に踏み出す欲求よりも、壊れるかもしれない恐怖の方が勝っている。
そう簡単に割り切れるものではない。
完成したおかゆを持って居間へ戻ろうと振り返ると、やはりパルスィはこちらをじっと見つめていた。
いつものいじわるな笑顔とは違う、具合が悪くてどこかぼんやりとした眼ではあるが、幸せを噛みしめるような、暖かな笑顔で。
贅沢だとか、度が過ぎる幸せだとか、ヤマメはてっきり自分をからかうための嘘、あるいは社交辞令だと思っていたのだが、その笑顔を見てあながち冗談でも無いのかもしれないと思った。
同時に、幸福感で胸が締め付けられる、顔が熱くなって頬が引きつる、勝手ににやついてしまう。
顔をぶんぶんと振り回し、にやつく顔を無理やり表情筋で押さえ込みながら、おかゆをパルスィの元へと運んでいった。
「本当にずっと見てたんだ」
「こうして寝っ転がって、私のために料理してる誰かの後ろ姿を眺めるのって結構楽しいのよ。
私には似合わない人並みの幸せだけどね、たまにはこういうのも悪く無いわ」
ヤマメにもその感情は理解できるような気がした。
遠くから聞こえてくる包丁がまな板を叩く音、ジュウジュウという何かが焼ける音、それを聞いているだけで安心感にも似た幸せを感じることができる。
一人暮らしに慣れると尚更だ。
友人と言うよりは、夫婦や親子だったりと家族を連想させる幸福感ではあるが、この際細かいことは隅においておこう。
確かに人並みではあるし、女遊びの過ぎるパルスィには似合わないのかもしれない。
だが、自虐気味にそう言ったパルスィはどこか寂しげで、ヤマメはそれが納得できなかった。
勝手に似合わないなんて判断されても困る、折角パルスィを幸せに出来たことで自分だって幸せになれたのに、と。
「そういう幸せが欲しいって言うんなら、頼まれればいつだってエプロンを着るし、料理ぐらいはするよ。
似合う似合わないなんて関係ない、要は自分が幸せかどうかが大切なんだから。
パルスィが幸せならそれでいいじゃん」
「私には過ぎた幸せよ」
「いつもは身勝手好き放題にやってるくせに、なんでこういう時だけ遠慮するかなぁ。
別に過ぎたっていいじゃない、幸せは沢山あった方がいいに決まってるんだから」
「私なんかが人並みの幸せなんて願ってもね、歪んでる方が私らしいと思わない?」
「思わないね。と言うか歪んでるって自覚あったんだ、びっくりだよ。
私はパルスィにしか料理は作らないし、幸せになって欲しいと思うのはパルスィだけなんだから。
遠慮して弾いた幸せが他の誰かの物になるわけじゃない、自分が不幸になることで誰かが幸せになるなんて考えてるんだったら無駄なんだからね」
「まさか、他の誰かに幸せになって欲しいなんて願ったこと無いわ、ただ私が幸せになるのが納得いかないってだけ」
「パルスィ、もしかして……いつもそんな風に思ってたの?」
「話したことなかったかしら」
「初耳だよ、パルスィの頭の中にネガティブな要素なんて欠片も無いと思ってた」
「……そう、熱で口がゆるくなってるのかもしれないわね。
あ、下の口はゆるくなってないわよ?」
「私が手に凶器持ってるの忘れてない?」
脈絡なく下ネタを突っ込んでくるのは一見して普段のパルスィらしく見えるかもしれないが、ヤマメには無理に自分が平常であることをアピールしようとしているとしか思えなかった。
あるいは、それで誤魔化して話の方向を変えようとしているのだろうか。
「おかゆプレイなんて特殊すぎてさすがの私もついていけないわ」
「パルスィ、さっきの話を続けてよ」
「とりあえず、それ一口頂戴よ」
「あぁ……うん、わかった。
ふぅーっ、ふぅーっ……はい、あーん」
「よ、よくもまあ恥ずかしげもなくそんなことを」
「食べないの?」
「食べるわよ!」
熱のせいか恥ずかしさからか、ほんのりと頬を染めながら口を開くパルスィ。
口に放り込まれたおかゆは熱すぎず冷たすぎず、喉にしみない程度の絶妙な塩加減。
今日はじめての食事、喉を通り胃袋へと落ちていく温かい感触がなぜか少しだけ懐かしい。
「それで、さっきの話」
「下ネタ?」
「違うっ、自分が幸せになるのが納得行かないって話!」
「ヤマメったら、私がわざと話を逸らしたのに気づいてなかったの?」
「気づいてるよ、でもそういう悩みって一人で心に押し込んだって善くなるわけじゃないでしょ?
むしろ自分一人で抱え込むと悪くなる類の奴だと思うけど」
「良くしようとなんて思ってないわ、私みたいなクズが幸せになるなんておかしい、それって当然のことじゃない」
「当然なんかじゃないっ、パルスィだって幸せになっていいし、何より私が幸せになってほしいと思ってるの!」
「何ムキになってるのよ……ケホッ、これでも病人なんだからね、あんまりうるさくしないで」
「あっ、ごめん」
「……」
ヤマメの悲しげな表情を見たら自分が苦しくなるだけだと理解しているはずなのに、思わず棘のある物言いをしてしまった事をパルスィは悔いる。
胸を締め付ける重い痛みは、病人の体には少しばかり荷が重すぎる。
パルスィだってわかってはいる、自分で抱え込んでもどうにもならないことも、このままで居ても事態が好転しないことだって。
だが事態の好転とはつまり、パルスィが”狩り”を辞めるか、あるいはむしろそれを誇りとして開き直るかの二択。
ありえるだろうか、染み付いた悪癖を断ち切るなど、全てを受け入れるなど。
そんなことができるのなら、とっくに自己嫌悪など消えて無くなっている。
出来ないからこそ悩んでいる。
ヤマメが本気で心配してくれている事も理解はしていたが、仮に誰かに相談するとしてもパルスィが相手としてヤマメを選ぶことは無いだろう。
何せ、その悩みの中心にはヤマメが居るのだから。
「ヤマメは……純粋すぎるのよ」
「恋愛経験が無いって話?」
「それも含めて、真っ白で眩しくて、余計に私の惨めさが際立つの。
……ふぅ、ほんと呆れちゃうわ。
こんなどうしようもない私を本気で心配してくれるなんて、地底どころかきっとこの世でヤマメ一人だけよ」
「そんなことないよっ、パルスィのこと知ったらきっとみんなだって……それに、さとりや勇儀だって仲良くしてるじゃん!」
確かにさとりと勇儀はパルスィの共通の友人だ。
さとりとパルスィはヤマメを介して知り合ったのだが、勇儀に関してはヤマメがパルスィと知り合うよりも前から面識があったらしい。
二人とも、パルスィの悪癖を知ってもなお嫌悪感を微塵も見せずに付き合ってくれている、パルスィが助けを求めれば自分と同じように応じてくれるはず――ヤマメはそう思っていた。
しかし、パルスィは静かに首を左右に振って否定する。
「もう、だからそういうとこが純粋すぎるって言ってるのよ。
あの二人は人付き合いが上手なの、ヤマメほど考えなしに深入りしたりはしないわ。
無償の善意なんて物はね、もっと性格が良くて見返りが期待できる相手にばらまくべきなの、そこを二人はわかってるってこと。
つまり、普通に考えて私にはそんな価値は無いんだから、自分でもわかってるぐらいなんだもの、ヤマメだって理解しないとね」
「だから、贅沢とか言ってたんだ」
「そういうこと。
ありがたい話ではあるんだけどね、実際こうして看病してもらって随分と楽になってるわ。
でもね、私はヤマメから貰った善意に対して善意で返せるほど善人じゃないし、そのくせ返せない事を気に咎める程度には常識を持ってるの」
「私の存在が重荷だって言いたいわけ?」
「違うわ、背負えるものなら私だって背負いたいわよ、でももっと別の人に尽くすべきだって言ってるの。
私みたいな汚れた女に尽くして、折角の純粋な気持ちを汚されるよりそっちの方がずうっと合理的でしょう?」
合理的な生き方、そんなものは自分とは無縁だと言うことをヤマメ自身も知っている。
お人好しだと言われて続けて何年の月日が過ぎたか、おかげで数えきれない程の感謝の言葉と、広い交友関係を持つに至ったが、しかしそれはヤマメの振りまいた善意の数と同数ではない。
中には恩を仇で返す者も居たし、最初から悪意を持って近づいてくる者も居た。
その度に親しい妖怪たちは口をそろえて言うのだ、お前はお人好し過ぎる、と。
知っている、わかっている、もっと上手に立ち回れば楽に生きていけることだって、わざわざパルスィから言われずとも薄々感づいてはいる。
「そういうの面倒くさい。
なんで合理的じゃないとだめなの?」
「だめじゃないわ、でも幸せになるには合理的に生きた方が良いに決まってるじゃない」
「そういうパルスィは合理的に生きてるの? 女の子を騙して侍らしてさ、あれが合理的とは思えないけどな」
「私は生き方が下手なのよ、反面教師にしないといけないの」
「わかってるなら治せばいいのに」
「無理よ、できるならとっくにやってるわ」
「じゃあ私も一緒、今更になって器用な生き方なんてできないよ、だってそれが私なんだもん」
人間と違って数年単位のスパンではない、彼女たちは百年単位で生きる妖怪、今まで何百年も続けてきたことを簡単に変えられるはずがない。
「ヤマメの場合は私とは違うわ、好意の向きを少し変えるだけでいいんだから。
私じゃなく、もっと価値のある他の誰かに向けてね」
「価値なんて、無いよ。
パルスィ以上に価値のある相手なんてこの世のどこにも居ない」
「視野が狭すぎるの、もっと広い世界を見なさい」
「広い世界なんてどうでもいいっ、私はパルスィだけを見ていたいの!」
「……ちょっと、ヤマメそれって」
「ち、違っ、変な意味じゃないからね!? ただ、私にとって一番大事なのがパルスィだってだけでっ」
「いや、それもそれでなかなか……」
「細かいとこ突っ込まないでよ! 私が言いたいのは、誰のために尽くすかなんて自分で決めるってこと。
そこに合理性なんて必要ないの、自己満足できればそれだけで」
「強情ね。
嬉しい半面、罪悪感が湧いてくるわ」
「なんでそんなものっ」
「わかってたのよ、ヤマメと私が吊り合わないなんてことぐらい、それこそ出会った時から。
なのに甘い蜜からは中々離れられない、ズルズルと関係を続けて、いつだって断ち切れたはずなのに、断ち切ろうとしたはずなのに、名残惜しいからって自分に何度も言い訳してね。
私の悪癖はいつでもそう、全ては私の意思の弱さが原因なの。
何だって、どれだって、辞めないといけないことはわかってたはずなのにね、それが出来ないから――私はいつまで経っても悪人のままなんでしょうけど」
ヤマメとの関係だけではない、恋人たちを引き裂き不幸にし続けてきたこと、それが悪行であることぐらいパルスィもわかっている。
許されないことも、辞めるべきことも、パルスィだってヤマメと同じ程度には常識を持っているのだ。
二人の違いは、それを実行に移す意思の強さがあるかどうかだけ。
ヤマメは強く、パルスィは弱い、簡単に言えばそれだけのこと。
「悪人に寄与した者はいつか裁かれるのが世の常よ、このままじゃヤマメもいつか悪人として裁かれてしまうわ」
「大げさすぎ、誰かに裁かれるなんてそんなこと……」
「今は大丈夫でも、いつか私と親しいってだけで誰かに嫌われるかもしれない、そんなの嫌でしょう?」
「いいよ、別に」
「よくないわ、損をするのはヤマメ自身よ」
「パルスィはたぶん、私の事を馬鹿にしてるんだと思う」
「馬鹿にできるほど良い身分じゃないわよ私は」
「いいや、無意識のうちに馬鹿にしてるんだよ。
いい? 私はパルスィが思ってるよりずっとパルスィのことが好きだから、好きで好きで仕方ないから傍に居るんだよ。
誰のためでもない、傍に居たら私自身が幸せだから、そういうすっごく自分勝手な理由で付きまとってるの。
パルスィのことをお姉さまとか呼ぶにわかファンなんかとは比べ物にならないぐらいなんだから。
惚れてる……とは違うけど、とにかく好きだから、想ってるから、一人の時間が苦しくなるぐらいに」
「告白してるの?」
「違うっ! いや、その、そんな風に聞こえるかもしれないけど、あくまで友達として好きってこと!」
ここまで言っておいて”誤魔化す”のも無理があるとは思っていたが、率直に告白できるほどの勇気をヤマメは持っていない。
あくまでこれは、友達としての友情の証明のための一手段。
恋愛成就のための告白はまた別の機会にということで。
「それにさ、パルスィだってさっきまで喜んでくれてたでしょ?
私が来て、おかゆつくって、看病して、やらしい目で私の後ろ姿見たりしてさ、その間ずっとニコニコしてたじゃん、病人のくせに」
「それは……」
「嬉しかったんでしょ?。それとも、全部嘘だった?」
「それは、嘘なんかじゃないけど……さっきも言った通り、私としては嬉しいのよ、ヤマメが看病してくれることも、いつも傍に居てくれることだってね。
朝起きて、まともに動けない状態でひとりきりで、本当は怖くて仕方なかったわ。
どうせ絶対に誰も来ないと思ってた、思ってたのに……ヤマメが来てくれて、本当に嬉しかった」
「でしょ? だったらそれでいいの、それだけで私は満足だよ。
合理性とか物の価値とか、誰かに決められるものなんかじゃないんだ。
私にとってパルスィが喜んでくれることはそれだけの価値があった、それで多少私が損することがあったとしても構わない、だってもっと大きなお返しを私は貰ったんだから」
いつか語り合った友情論よりもずっと恥ずかしいはずなのだが、不思議とヤマメは一片の羞恥も感じていなかった。
「……結局、何を言っても無駄そうね」
「当然、だって私は私のためにやってるだけなんだもん、他人の意見なんて関係ないね。
これって要は好きだから近くに居たいって私のワガママと、好きだから遠ざけたいって言うパルスィのワガママのぶつかり合いなんだから。
だからどっちかが……ううん、遠ざけたいって言うパルスィが折れるまで終わらない話なんだよ」
「何よそれ、ヤマメに好かれた時点で詰んでるんじゃない」
「そうよ、だからパルスィももっと好き勝手やってよ、いつもみたいにさ。
変にうじうじ悩んでるパルスィよりも、そっちのがずっと素敵だと思うから」
確かにヤマメはお人好しだが、全ての善意を見知らぬ誰かに向けられるほどのバイタリティを持っているわけではない。
リソースの限界も、それを割く優先順位も決まっている。
そしてその割合が日に日に偏ってきていることにも気づいている。
いずれは他人に善意を振りまく余裕など無くなってしまうのかもしれない、ただ一人、それほどまでに強く想う相手ができてしまったから。
「素敵とかそういう口説き文句を言うのはやめなさい、不覚にもきゅんと来るから」
「ふふん、してやったり、だね。
私にも狩人の素質があるのかな?」
「やめておきなさい、あんたがやったってろくな目に合わないわ」
「さっすが、経験者の言葉には重みがあるね」
ようやくいつも通りの雰囲気に戻った二人。
会話をしているうちにおかゆは冷ます必要が無い程度に温くなったようで、ヤマメがレンゲで掬いパルスィの口に運ぶと、パルスィはそのおかゆをパクパクと平らげていった。
食べるまでは食欲も湧かなかったが、いざ食べ始めるとお腹が鳴り出したらしい。
ヤマメが持ってきたおかゆが全てなくなると、パルスィは満足気に「ふぃ~」と息を吐いた。
「ごちそうさまでした」
「お粗末さまでした、じゃあ洗ってくるね」
「ええ、また存分に素敵なお尻を観察させてもらうわ」
「それ、本当に楽しいの?」
「これ以上ないほどに」
「……わっかんないなぁ」
洗い物をしている間、パルスィは本当にヤマメのお尻をじっと見つめていたらしい。
ただの嫌がらせなのか、それとも家事をするヤマメの後ろ姿を眺めて和んでいるだけなのか、はたまた性的な意味で凝視しているのか、ヤマメが振り向いた瞬間に見えるパルスィの笑顔からは何も読み取れない。
ヤマメに理解できるのは、ただただひたすらに幸せそうだということだけで、案外、深い意味はわからないままの方がいいのかもしれない。
洗い物を終えたヤマメは、パルスィの元へと戻ってくる。
「おかえりなさい」
「ただいま……ってそれはおかしくない?」
「こういうのは雰囲気よ、雰囲気。
それで、ヤマメはいつまでここに居てくれるのかしら」
「特に予定はないし、パルスィが居て欲しいなら泊まっていってもいいよ」
強いて言うならパルスィと会うことこそが予定だった、終了予定は飽きるまで。
こうして家で二人きりで過ごす限りはパルスィの狩りによって中断なんてことも無いはずなので、許可さえ降りればヤマメは平気で泊まっていくだろう。
目の前に居るのがパルスィだったとしても、全く警戒もせずに。
「宿泊オーケーなんて至れり尽くせりね。
本当に善意の塊なのね、感服するわ。とてもじゃないけど私には真似出来ないでしょうね」
「えー、じゃあ私が病気になってもパルスィは看病してくれないの?」
「あんたは病気になんてならないじゃない」
「私だってかかる病気ぐらいあると思うよ、たぶん。
それに怪我とかあるかもよ? もし寝たきりになったりしても、私と同じように看病してくれないのかなー」
「して欲しいならしてあげてもいいけど、貞操の安全は保証しないわよ」
「違う意味で床に伏せることになりそうだね……」
「安心なさい、私は床上手だから」
「微塵も安心出来ないよ! 私も看病される側の気持ちを味わいたいと思っただけなのに、パルスィ相手だとおかゆに媚薬とか混ぜられそうで怖いよ」
「やあね、私は薬なんて使わないわ。堕とすなら実力で堕とさないと面白くないもの」
「一応美学はあるんだね……」
ならばあの少女も、薬も怪しげな術も使わずにパルスィの手によって籠絡されてしまったのだろうか。
(……別に、羨ましいわけじゃないけど)
ならばヤマメの心に浮かんだ微かな嫉妬は一体何なのだろう、相手が自分であればよかったとでも言うつもりなのだろうか。
それは違うはずだ、ヤマメはパルスィから与えられる嘘なんて望んじゃいない。
きっとこれは、独占欲だ。
自分の物でもないくせに、一丁前に所有権を主張したところで、実際にパルスィと触れ合っているのはあの少女だという事実は変わらないのに。
例え嘘だったとしても、今パルスィの彼女を名乗ることができるのはあの少女だけ。
今のヤマメは所詮、ほんの少し変な気を起こしただけの、ただの友人に過ぎない。
勝手に妬んで、勝手に沈んで、会話の滞った数秒の間にみるみるうちに表情の曇ってしまったヤマメだったが、そんな彼女をパルスィはじっと見つめていた。
パルスィに心を読む力は無い、だが今のヤマメが何を考えているのかは理解できてしまった。
指摘するべきか、それとも心にしまいこんでおくべきか。
一瞬の葛藤、ふと思い出すのは先ほどのヤマメの言葉、”合理性なんてどうでも良い”と言う彼女の声はパルスィの自己嫌悪を全て払拭するには至らなかったが、全く効果が無かったわけではない。
開き直ってもいいのではないか、欲しいものがあるならば間違っていても進むべきではないのかと、奥底に閉じ込めてきた欲望が告げている、ヤマメに対する過剰な自制心が緩んでいる。
揺れる天秤は、今日に限って逃避側には傾かない。
まぶたを下ろしたまばたきの刹那で覚悟を決め、パルスィは口を開いた。
「ねえ、ヤマメ。ずっと思ってたんだけど」
「どしたの?」
まるで何事も無かったかのようにいつもの笑顔で反応するヤマメに、無慈悲に言い放つ。
「ん……その、私が何の妖怪かは、知ってるはずよね?」
最初はヤマメもその言葉の意図に気づいてはいなかった。
パルスィが真面目な顔をしているので重要なことなのだろうとは思ったが、しかし真意には辿り着けない。
「へ? そりゃあ、もちろん知ってるけど。
なにさ今更、そんな当たり前のこと確認して」
「さっき、ヤマメはあくまで友人としての好きで、変な意味は無いって言ってたじゃない?」
「うん、実際そうだからね」
嘘だ、ヤマメはパルスィに対して友情以上の感情を抱いていることをすでに自覚している。
見ぬかれてしまったのだろうか。
経験の浅いヤマメがパルスィ相手に隠し通すのは無理だったのだろうか。
「……」
「ねえパルスィ、急にどうしたの?」
「ヤマメ、言ってみてよ。私が何の妖怪なのか」
そんな当たり前のことを改めて言う必要があるのだろうか、それともからかわれているだけなのか。
どちらにせよ、言わなければパルスィは機嫌を損ねてしまいそうだ。
「橋姫、だよね」
答えてもパルスィの表情は変わらず、硬いまま。
しかしついさっきまでは普通に受け答えしていたはずなのに、パルスィはいつヤマメの感情に気づいたと言うのだろう。
「どんな力を持っているの?」
一切表情を崩さないパルスィからは、おふざけの雰囲気は見て取れない。
仮に彼女がふざけているのだとしたら、ここらでヤマメにしか分からない程度のボロを出すはずなのだが。
釈然としないまま、ヤマメは言われるがままにパルスィの問に答える。
「そりゃあ、嫉妬を操る……」
ヤマメが気づいたのは、その瞬間だった。
自分で言葉にして初めて気づく、気づいてしまう。
今までパルスィの能力がヤマメに向けられたことは無かった、だから当然のように知っていても、その力を意識することは無かったしその必要も無かった。
どうして、そんな単純なことを失念していたのだろう、と。
今更悔いてももう遅い、だが悔いずにはいられない。
あまりに不用意すぎる自分の行為に、血の気がさっと引いていく、顔が青ざめこめかみにじわりと冷や汗が滲んだ。
「あ……え? 嫉妬を、操るって……つまり……」
「別に責めようってわけじゃないの、ただ一応言っておいたほうがいいと思って」
他人の嫉妬心を煽り、嫉妬心を糧とする。
そんなパルスィに――嫉妬心が感知出来ないなんてことがありえるだろうか。
「さとりみたいに心を読めるわけじゃないから深い意味まではわからないわ。
でもね、誰が嫉妬をしたかぐらいはわかるし、相手がヤマメなら考えてることもなんとなくわかるの。
たぶんだけど……ヤマメが嫉妬してたのは、あの子のことを考えてた時よね?」
自分で話を振っておきながら嫉妬してみたり、面倒くさい女だと自嘲したことだってあったはずだ。
もう逃げられない、パルスィの緑の瞳はまっすぐにヤマメを捕らえている。
それでも、認めるわけにはいかなかった。
自分の気持ちには気づいている、だがまだ覚悟が決まっていない、伝えるには早過ぎる、こんな不安定な状態で
「そ、それはっ……あの、違うの、別にそういうつもりで考えてたわけじゃなくてっ!」
「そういうつもりって、どういうつもり?」
「違う、違うっ、えっと…ごめん、本当にごめんっ」
「どーして謝るのよ」
「だって嫉妬するなんておかしいじゃん!? 私たち友達なのに、ただの友達が恋人に嫉妬するなんてそんなこと……っ。
ごめん、本当にごめん、きっと私の頭が変になっちゃってるだけだから、気の迷いだからっ」
「そう、残念ね。私は嬉しかったのに」
「……へ?」
予想外のパルスィの言葉に、ヤマメは思わず固まる。
聞き間違えでなければ、パルスィは確かに嬉しかったと言ったはずだ。
「うそ、だ」
思わずこぼれた言葉がそれだった。
パルスィの熱病が伝染ったのだろうか、そのせいで妙な幻聴が聞こえてしまったのではないか、でなければ、そんなことありえるわけがない。
出会った時、ヤマメはパルスィのお眼鏡には敵わなかった。
友人として付き合う間、パルスィは一度だってそんな素振りを見せたことは無かった。
そもそも好きな相手に、他の女を口説く光景など見せるだろうか。
ありえない、そんなはずはない。だが、しかし――
パルスィはヤマメを遠ざけようとしていたはずだ。
自分には相応しく無いと考え、あえて汚い面を見せて関係を断ち切ろうとしていたのなら、その行動にも納得できる。
「これでも勇気を振り絞って言ったのに、第一声が嘘だなんてひどいわ」
「うそだよ、ありえない」
「ありえなくないわ、だってあの子たちはあくまで遊びなんだもの」
「でも、でもでもっ、今までそんなこと、一度だって!」
「言うわけ無いじゃない、だって私は触れることすら禁じてきたのよ?
私みたいな汚れた女が、ヤマメみたいな綺麗な女の子を汚しちゃ駄目だって」
「じゃあ、なんで……ってあいたっ!」
パルスィの人差し指がヤマメの眉間を小突く。
「忘れたの? さっき自分が言った言葉を」
「さっき、私が?」
ヤマメはパルスィに言ったはずだ、もっと自分勝手にやってみろ、と。
「許可、貰っちゃったから」
頬を染めてまっすぐに笑いかけるパルスィのことを、ヤマメは率直に可愛いと思った。
少女に見せる狩人の顔でもなく、ヤマメに見せてきた悪友としての顔でもなく、初めて見る、おそらく”恋人”としての顔。
胸が跳ねる、頭に血が上り顔が熱くなる。
こんな見たこと無い表情見せられたら、今でも好きなのに、もっともっと馬鹿みたいに好きになってしまう。
誤魔化そうとしても誤魔化せなくなってしまう、勢いだけで想いが暴走してしまいそうだ。
「正直言ってまだ割り切れない部分はあるわ、いきなり罪悪感が消えたりはしないもの。
でも、自分で禁止してたくせにそれを破って抱きしめちゃうぐらい限界だったのよ、耐えられるわけがないじゃない。
もう無理、ヤマメへの想いが罪の意識を塗りつぶしてしまったの」
ようやく、長い間抱き続けた疑問が解けていく。
どんなに否定されても、さとりからお墨付きを貰っても、パルスィがヤマメに触れようとしない理由――それが自分が土蜘蛛である故ではないかという疑念は消えなかった、今日この日までは。
本当は想いは一方通行なんじゃないかと、微かな不安がつきまとっていた。
「放っておいたら消えるんじゃないかと思ってたのに、むしろ逆だった。ヤマメへの想いは放っておくうちにどんどん大きくなってしまったわ。
こんな風に誰かのことを少しずつ好きになっていくの、初めてだった。どうしていいのかわからなかった。
知らなかったわ、恋ってこんなに厄介だったのね、逃げて時間を稼いだつもりだったのに、過ぎた時間だけ心にしっかり根付いて、どうやら一生消えそうにないわね。
ねえヤマメ、どうしてくれるの? これで責任取らないなんて言われたら、きっと私、一生誰のことも好きになれないわ」
パルスィはヤマメの気持ちだったら多少はわかると言っていた。
それはヤマメも同じことだ、これだけ一緒に居れば心を読めずとも何を考えているのか、多少ならわかる。
だから、パルスィがふざけているわけでもからかっているわけでもなく、本気で想いを伝えていることは、疑う余地もなくヤマメにもわかっていた。
わかっていたから――
「……っ」
うまく、言葉に出来ない。
こみ上げてくる感情はおそらく歓喜と呼ばれる類の物で、普通だったら大声で万歳三唱でもしながら跳びはねるぐらい嬉しいはずだ。
だが、常軌を逸した感情の奔流は、体で表現する限界を超えていて思うように表に出すことが出来ない。
とにかく落ち着かなければ。
そう判断したヤマメは、一度大きく深呼吸をして気持ちを落ち着ける。
そのおかげか、どうにかパルスィの言葉に対して返答をすることができた。
「たぶん……私も、一緒だと思う。
最初のうちは、見て見ぬふりをしたらいつか消えてるだろうって思った、でも違ったんだ。
目を逸らしてるうちに手遅れなまでに大きくなって、大きすぎて目を逸らすこともできなくなってさ。
挙句の果てには嫉妬して、遊びだってわかってるのに抑えきれなくなって、隠しきれなくて」
「そんなこと考えてくれてたんだ」
「……うん、考えちゃった」
俯きながらヤマメは力なく笑った。
仮にヤマメがパルスィの能力のことを覚えていたとしても、嫉妬を抑え切れたかと言われれば微妙なところだ。
嫉妬したくて嫉妬したわけじゃない、たまたま話題に少女のことが出てきて、反射的に嫉妬してしまっただけだ、パルスィへの想いを強く自覚してしまった以上、避けられる物では無い。
遅かれ早かれいずれはこうなる運命だったのだろう。
「まだ割り切れないって顔してるわね、そんなに友達の関係が名残惜しかった?」
「できれば一生そうありたかったかな、だってぬるま湯みたいに心地いいんだもん」
「熱情は好みじゃないのね」
「知らない物ってそれだけで怖いから、パルスィは慣れてるから平気だろうけどさ」
「冗談、こんな気持ちは初めてだってさっき言ったはずよ。
きっと私、初恋もまだだったのよ。
誰かを好きになるってことがこんなに熱いなんて、初めて知ったわ。ほら」
パルスィはヤマメの手を取ると、自分の頬に当てた。
赤く火照る柔らかな頬の感触を指先で感じる。
確かにパルスィの言うように、平熱よりはかなり熱があがっているようだ。
「熱、また上がったんじゃない?」
「風邪ぐらいでここまで熱くなるわけないでしょう、わからないの?」
「経験豊富なパルスィと違って、いかんせん何もかも初めてなんですー。
こうしてパルスィの体温を感じることすら数えられる程度しかないのに、わかるわけないじゃん」
「仕方ないわね、じゃあもっとわかるようにしてあげるわ」
ヤマメの腕をぐいっと引き寄せ、力づくで顔を近づける。
「うわっ!?」と驚いたヤマメは、そのままバランスを崩してしまった。
転んだ先はパルスィの顔の真横。
少し顔を動かすだけで触れてしまいそうなほどの近さで、肌越しに体温が伝わってくるほどだ。
あまりに近さに顔を真っ赤にしているヤマメの耳元で、パルスィはそっと囁く。
「ここに、お願い」
艶めかしいウィスパーボイスと、微かに耳をくすぐる吐息にヤマメは思わず体を震わせた。
パルスィの人差し指は、赤く濡れた唇を指している。
彼女は、ヤマメの見たことのない顔をしていた。
きっとそれは、今まで夜を共にしてきたどんな女の子にも見せたことの無い顔だ。
優しく、熱く、婀娜やかで、蠱惑的。
土蜘蛛に誘蛾灯に惹かれる趣味はないが、今日だけは例外でも良い。そう思ってしまうほどに魅力的な灯りだった。
プライドなんて二の次で、絡め取られて、囚われが幸福であるというのなら、それでもいいと。
「はふ……」
導かれるまま、ヤマメは唇を寄せる。
唇が触れる直前、緊張のあまりヤマメの漏らした吐息がパルスィの唇を撫でた。
「んぁ……っ」
こそばゆい感触に思わず漏らした小さな喘ぎがヤマメの耳元にまで届くと、寸前まで躊躇っていた彼女の抑止力は微塵も残らず消えてしまった。
脳が沸騰するというのはこういうことを言うのか。
ヤマメは自分が見たこともない表情をしているのがわかった、恥ずがしいぐらい熱情に溺れて、劣情に溢れている。
きっとパルスィ以外には見せてはイケナイ表情だと、直感で理解した。
見せてはいけないというか、見せたくない。
願わくばこれから一生、彼女専用であって欲しいと。
そして、唇が触れ合う。
境界線を超える瞬間、二人を縛っていた不可視の枷が壊れる音がした。
あるいはそれは理性の箍だったのかもしれない。
唇と唇を触れ合わせるという行為の意味。
手と手を触れ合わせるのと何が違うというのだろう、抱き合うほうがずっと密着する面積は多いじゃないか、以前にヤマメはそんなことを考えたことがあったが――自分がとんでもない阿呆だったことを痛感させられる。
違う、これは違う、自分が慣れていないせいもあるかもしれないが、これは致命的な行為だ。
後戻りなんて出来ないと、本能が、頭が痛くなるぐらいガンガンと警鐘を鳴らしている。
「ん……ぁ……」
どちらともなく唇の隙間から声が漏れる。
唇を触れ合わせる間、パルスィの脳はぐつぐつと煮立っているようだった。
キスなんて慣れていたはずなのに、どうして今更。
やっぱり自分は恋なんてしていなかったのだ、そう実感する。
誰を抱いた時よりも充足している、誰に愛された時よりも充実している、つまり今までのそれは全て愛などでは無かったのだ。
だったら劣情? いいや、劣情ですらなかった、ただ欲望を発散するのにちょうどいい道具があっただけで、ヤマメに比べれば、そんな物。
なにせキスで全てを凌駕してしまうのだから、他の全てなんて無価値になるに決まっている。
他人の恋路を好き勝手に荒らしておいて反省の一つも無いのか、とパルスィの中の善なる心が咎めるが、九割を占める悪なる心がすぐに消してしまう。
だからなんだ、他人がなんだ、おもちゃがどうした、私はヤマメが好きなんだから仕方ないだろう、と。
「ぷはぁっ!」
たっぷり数十秒も唇を合わせあった二人は、ヤマメの息切れと同時に顔を離した。
どうやらヤマメはキスをしている間ずっと息を止めていたらしい、顔を真っ赤にしてとろんとした目のまま、ぜえぜえと大げさに肩で息をしている。
「ふ、ふふっ、あはははっ……げほっ、けほっ……はふっ、あっはははははっ!」
締まらないオチに思わずパルスィは咳き込みながら笑ってしまう。
「いいじゃん別にっ、慣れてるパルスィと違って私はファーストキスだったんだからさ!」
ヤマメは顔を真っ赤にしながら頬を膨らませて抗議するが、ツボに入ってしまったパルスィは咳き込みながらもゲラゲラと笑い続けている。
しばしヤマメは言い訳を続けたものの、そのうちパルスィの耳まで届いたのは一言か二言程度。
結局、パルスィが落ち着くまで不満気に睨むことしかできなかった。
「はひっ、ひー……はぁ、あは……ひぃ……あぁ、もうヤマメったら、本当に……っ」
「馬鹿にしてる!」
「ヤマメがかわいすぎるのが悪いのよ……ふふっ、もう、ほんとなんでこんなにかわいいのよ、私を笑い殺すつもり?」
「やっぱり馬鹿にしてるじゃんかよう!」
「違うわよ、可愛いってのは褒め言葉。いちいちヤマメの反応が可愛いからいけないのよ。
そうやってあんたの色んな喜怒哀楽見せられると、そのたびに好きになってくの」
「っ……好き、とか……」
「もちろん、友達としてじゃないわよ?」
「わかってる、よ」
わかっているからこそ、慣れない。
キスをしてしまった、それでもまだ完全に覚悟ができたわけじゃない。
「まだ心残りなのね」
「だって!」
「わかる、わかるわ、私たち友達としての付き合いが長すぎたのよ、それが急に次のステップになんて簡単に受け入れられる物じゃないわよね」
「でも、キスまでしたのに、私……」
「じゃあこうしましょう」
パルスィはヤマメの不安を少しでも和らげようと優しく手を握り、母親が子をあやすように語りかける。
「私たちは今日から、恋人予備軍になるの」
「……予備軍?」
聞き慣れない言葉に、思わずヤマメは首を傾げる。
恋人に予備軍などあるのだろうか、予備軍なんて名乗ってる時点でもう恋人と何も変わらないのではないか。
頭の上で無数のハテナが飛び交うヤマメ。
そんな動作がいちいち可愛らしいヤマメに心を奪われながらも、パルスィは話を続ける。
「そう、まだ友達だけど、お互いに恋人の予約をしておくのよ。
正直言って、私にもまだ整理しないといけないことはいくつもあるもの、正式に恋人になるのはその後でも遅くないわ。
ヤマメだってそうでしょう、気持ちの整理したいわよね?」
「うん、パルスィほど厄介事を抱えてるつもりないけど、少しはあるかな」
「だったら丁度いいじゃない、それでいきましょう」
「けどっ、私たちもうキスまでしたんだよ? なのに予備軍って今更過ぎるんじゃ」
「いいじゃないキスぐらい」
「だから価値観が違いすぎるんだよー!」
やはり色恋沙汰に慣れているパルスィは価値観がずれている、ヤマメはそう思っているのだが、実はすでに二人は一度口づけを交わしている。
もちろんヤマメはそのことを覚えてはいない。
もしこれが二人にとって初めてのキスならばパルスィは心穏やかでは居られなかったはずだが、今平気な顔をしていられるのは酔っ払ったヤマメとキスをしておいたおかげ。
衝動に任せて強引に唇を奪っておいたあの時の自分に、パルスィは初めて感謝した。
無論、だからといって当時の罪悪感が消えるわけではないのだが。
「良くない、絶対に良くないよ、だってキスしたらもう恋人だよ、普通そうなんだよ、私たちがどう言い訳しても他の人は認めてくれないし、言い逃れできないってば!」
「話さなければいいだけじゃない、一体誰に言い逃れするのよ」
「さとりとか……あとは……えっと、さとりとか」
人の心に土足で踏み込んで好き放題に荒らしていく、心の空き巣こと古明地さとり。
彼女と友人である以上、どんなに避けても逃げ続けるのには限界がある。
いつか必ず、それも割と近いうちに顔を合わせることになるはずだ。
「ってかさとりだけだよ!
ううぅ、ほんとあの子どうしよう、さとりと会う時だけ都合よくキスのこと忘れるなんてできるわけないしさ」
「予備軍はキスまではセーフなのよ、胸を張りなさい」
「そのルール絶対にさとりには通用しないって……と言うか、予備軍でキスなんだから、卒業したら私どうなっちゃうの!?」
「それはもう……ね?」
「何が”ね”なのさ!?」
「やあね、わかってるでしょう? ヤマメだって子供じゃないんだから」
「うっ……」
恋人になるとは、つまりそういうことだ。
今までとは違うのは関係性だけじゃない、肉体的なふれあいも、その深度も今までと変わってくるだろう。
その時が来たとして、自分がどうなってしまうのかヤマメには想像出来ないが――
「やっぱり、恋人だとそういうことするんだ」
「もちろんよ、ヤマメだって興味無いわけじゃないでしょう?」
「う、うん、まあ」
想像すら出来ないが、興味が無いと言えば嘘になる。
好きな相手が目の前にいるのなら尚更に、手を重ねあうだけでこれだけ心地良いのだから、肌と肌を重ねあわせればどうなるのか、考えるだけでぞわりとした感覚が全身に走る。
「ちなみには私はかなり興味があるわ」
「言われなくても知ってる!」
この調子だと、予備軍を卒業した瞬間に全裸になって襲ってきそうだ。
ヤマメにそう思わせるほど、パルスィの顔には興奮度合いがありありと現れていた。病人のくせに。
「私、そういうの、よくわかんないけど、さ。
こう見えても私、パルスィのことは信頼してるから。
いや……完全に信頼してるかって言われると微妙なところだけど、嫌な所沢山あるし、性格悪いし、意地悪だし、女たらしだし、今も現在進行形で浮気してるぐらいだし」
「信頼できるのかできないのかどっちなの?」
「自分の日頃の行いを考えてみなよ」
「……うーん、清廉潔白そのものね」
「そういうところが信頼できないって言ってるの!」
ただのジョークだとは理解していても、平気な顔をして言ってのける神経がヤマメにはどうも理解できない。
何年経っても、出会った当時から変わらなかったとしても、深い信頼関係を築いていたとしても、理解できない物は理解できないのだ。
誰かを”完全に”信頼することなんて、きっとこの世の誰にだって出来ない。
出来たとしてもそれは信頼じゃない、おそらくは信仰とか崇拝とか、友情や愛情とは違う何かだ。
百の短所があっても一つでも多い長所があれば相手を好きになれる、なんて話があるが、ヤマメの場合はパルスィの長所を百言い切るまでに短所を千は言えるだろう。
数だけの話をすれば、嫌いな部分の方が多い、だから完全に信頼だって出来ない。
それでもパルスィのことを好きになれたのは――たった十の、あるいは一の”好き”が、千の”嫌い”を凌駕したからこそ。
「でも、基本的には信頼してるよ? 少なくとも、私のことに関しては裏切らないだろうって、そこだけは確信してる」
どんなに他人を裏切っても、ヤマメの前では優しくて愉快な友人で居てくれた。
自己中心的な好意だとはわかっている、パルスィに裏切られて泣いてきた数多の女性たちのことを可哀想だとも思っている。
それでも、”だから何なんだ”と、ヤマメはそう思ってしまうのだ。
善人を気取りながら、そのくせ自分の中にそんな冷たい部分があるとは思いもしなかった。
今まで恋愛を経験したことが無かったので気付かなかったが、どうもヤマメは恋敵と呼ばれる相手に対してはどこまでも冷たくなれるらしい。
泣いてしまえ、不幸になってしまえとも思わない。
ただただ、どうでもいい。パルスィから優しくしてもらうことに比べれば、塵芥よりも些細な事だ。
「……うん、そういうことだし、たぶん大丈夫、かな。
えへへ、なんか恥ずかしいけど。
でも、ちょっとぐらい痛いのは我慢するから、その時がきたら私も私なりに頑張ってみるね」
「――」
だから、少なくともパルスィがヤマメの傷つくことをすることは無いのだろう。
彼女が正常な状態であれば、の話だが。
だが当のパルスィは、ヤマメが首を傾げてみたり顔を赤らめてみたりする度に理性を削られ、欲望との戦いを常に強いられてきたのである。
その上、こんなお許しのような言葉を聞かされたのでは、正気で居られるわけもなく――
「……ねえ、ヤマメ」
「ん?」
「襲ってもいい?」
「病人のくせに何言ってるの、駄目に決まってるじゃん!」
「えぇー、やだやだっ、襲いたいー! おーかーしーたーいー! ヤマメ可愛すぎるんだもんー! ゴホッ、ゴホッ!」
「風邪の前に頭の病気を治した方がいいのかな……」
ヤマメは苦笑いしながら、咳き込むパルスィの背中をさすり続けたのであった。
「しっかし、不思議なもんよね。
こうして手を繋いで黙ってるだけで幸せになれるなんて、考えたこともなかったわ」
「それはパルスィが普通じゃない恋愛ばっかしてきたからだよ、まともに好きになったらこんなもんじゃないかな。
……まだ予備軍だけど」
そう、あの少女だって最初に見かけた時は男と手を繋いで幸せそうに微笑んでいたはずだ。
「あ、今ちょっと嫉妬したでしょ?」
「あう……」
少女のことを少しでも考えると、反射的に嫉妬心が湧き上がってきてしまう。
ほんの些細な感情の変化だったはずなのだが、パルスィの目は逃れられないようだ。
「またあの子のこと考えてたの?」
「考えるつもりなかったんだけど、手を繋いでるとこ思い出しちゃってさ」
「ああ、最初に見た時の……」
「きっと今の私たちと同じような気持ちだったんだよ、暖かくて、苦しいぐらい幸せで」
全てが奪われるまでは、少女だってこの初心な幸福に身を任せていたのだ。
それを壊してしまうことの罪深さ、自分のやってきたことがどれだけ他人を傷つけてきたのか、パルスィはそれを知ったつもりでいたが――どうやら、まだ半分も理解できていなかったことを、たった今思い知った。
自分の感情によって。
誰かを好きになるということが、ここまで心を動かすことだと想いもしなかったから。
「本当に私、何も知らなかったのね」
「何が?」
「恋愛のこと、知ったつもりになってたわ。
だめね、これじゃとてもじゃないけどヤマメのこと笑えやしないわ。
そうね確かにヤマメの――みんなの言う通りだったのよ、私はとんだ悪魔だった。
こんなに幸せな今を奪われるなんて、私が同じ立場だったら、きっと耐え切れないわ。
もしヤマメが私みたいな誰かに奪われたなら、奪ったそいつを殺して、ヤマメも殺して、私も死んでやるんだから」
「あはは、物騒だなあ。
素直に嬉しいって言って良いのかわからないけど、パルスィの気持ちは伝わってきたかな」
「でも、私はそれをやってきたのよ。
殺したくなるぐらいの憎しみを、笑いながら食らってきたの」
「うん、知ってた。
そんで今ものうのうと生きてるわけだ、酷いやつだよね」
「反省してるわ、柄にもなく」
「自分でそれ言っちゃうんだ」
後悔自体は今までだってあった。
辞められるのなら辞めてしまいたいと思ってはいたが、優柔不断さ故に中々実行に移せない。
行為を続ける自分自身、そして辞めることの出来ない意思薄弱な自分、そのくせナルシストを気取ってヤマメと接する自分。
何もかも、嫌いで嫌いで仕方なかった。
だが、あくまでそれはパルスィ自身の都合でしか無い。
どんなに自分のことを嫌っても、被害者に対して申し訳ないと思ったことは一度も無かったのだ。
好意の正反対は無関心。
パルスィは今まで奪ってきた少女たちに性欲以上の欲求を抱いたことは無かった、どんなに懐かれ尽くされても実益以上に得たものがあるとは思えなかった。
つまり、パルスィが少女たちに対して感情らしい感情を抱いたのはこれが初めてということになる。
「うわあ、本当に反省してるっぽい顔してる。
珍しいなあ、カメラ借りてくればよかった」
「ぽいって何よ、ぽいって。
いつも私の事ボロクソ言ってるけど、あんたもなかなか酷いと思わうよ?」
「そりゃあねえ、パルスィみたいな酷い奴の恋人予備軍だもん、そうなっちゃうよ」
ヤマメはにひひと歯を見せながら笑い、握り合う手にきゅっと少しだけ力を込める。
抗議しようにも、そんな笑顔を見せられたんじゃ何も言えるはずがない。
以前のパルスィなら容赦なく皮肉の一つや二つ言えただろうに、恋はかくも人の心を変えてしまうものなのか。
知らないことばかり、慣れないことばかり、まさかヤマメに好き勝手に心をかき乱されることになるとは、少し前までは想像したこともなかった。
「そだ、パルスィは寝なくていいの? かれこれ二時間はこうしてお喋りしてるけど、まだ喉は痛いんでしょ」
「痛いけど喋られないほどじゃないわ。
それにね、あんな告白まがいのことしておいて眠れるわけないじゃない、すっかり目が冴えちゃったわ」
「それもそっか、私もまだ胸がバクバク言ってるぐらいだし。
でも、まさかあのパルスィとキスするなんてね、今でも変な感じ」
「そうね、相手があのヤマメだって言うんだもの、出会った頃の私に言ってもきっと信じてくれないでしょうね」
お互いに、ありえないと思っていた。
パルスィは相手を直感で見定めるタイプだったので、最初に見た時ピンと来なかった相手には基本的に手を出してこなかった。
要するにヤマメには何も感じるものは無かったのだ、確かに可愛くはあったがパルスィのタイプではなかったはずだ。
ヤマメは相手をしっかりと見定めるタイプだったので、内面真っ黒のパルスィだけは絶対に無いと思っていた。
未だにどこに惹かれたのかは分からない、確かに見た目だけは満点をあげてもいいが、ヤマメが見た目で相手を選ぶわけがない。
逆に、だからこそよかったのかもしれないが。
こいつだけはありえないとお互いに思っていたから、飾る必要がなかった。汚い部分だってさらけ出せた。
欠点ばかりを遠慮なしに曝け出した癖に、それでも惹かれ合ってしまった、そんなのもう恋をするしかない。
「結局、好みなんて固定観念に過ぎなかったってことよね、いざ好きになってみればちっぽけな物だもの」
「昔さ、知り合いに好みはどんな人かって聞かれたことがあって、その時に誠実で優しい人だって答えたんだ」
「恋話する知り合いなんていたのね」
「言ってくれるなあ、まあ確かに酔った勢いではあったけどさ。
でも、あの時の知り合いにパルスィとこんな関係になりましたー、なんて話したらきっと大笑いするだろうね」
「あら、誠実で優しいって私にぴったりじゃない?」
「またそういう事言ってさ、ほんと懲りないよね。
そんなパルスィは早く寝てしまえっ」
「わぷっ!?」
ヤマメは布団を引っ張りあげ、パルスィの顔の上に放り投げるように被せた。
すっかり顔が隠れてしまったパルスィは、布団の中からくぐもった声でヤマメに話しかける。
「乱暴ね。
言っておくけど、別に冗談を言ったつもりは無いのよ」
「じゃあ何さ、嘘? ジョーク?」
「ヤマメの前では誠実で優しい私でありたいっていう、意思表示」
顔を覆った布団が、今だけは都合よく照れ隠しをしてくれる。
「……まあ、期待だけはしといてあげようかな」
「むー、それだけ?」
「そういうことは、まずは予備軍なんて情けない呼び名を卒業してから言おうよ。
確かに私も気持ちの整理は必要だけど、パルスィはそれだけじゃなくて身辺整理も必要だよね?」
「身辺整理って……」
あの少女は未だパルスィの恋人のままだ。
パルスィがどう思おうと、男から奪い純粋な心を汚した責任は取らなければならない。
それに、男から奪っておいてその張本人がさらに浮気してました、なんて事実が少女に知れれば彼女が何をするかわかったものじゃない。
「ちゃんと謝ってきなよ、あの子にさ。
大丈夫、多少怪我したって私がまた看病してあげるから」
「もし殺されたらどうするのよ」
「慰めてあげる」
「それ私もう死んでるからね?」
「本当に怖いなら私が付いて行ってあげてもいいけど、そっちの方がもっと怖くない?」
「それは……確かにそうね、本気で殺されかねないわ」
この子と付き合うから別れよう、なんて馬鹿げた真似が通用するはずもない。
結局はパルスィが一人で解決するしかない問題なのだ、ヤマメが出ていった所で話がこじれるだけである。
「言っておくけど、この件に関しては完全にパルスィの自業自得だから。
よって、私は同情もフォローもしません。あの子に加勢はするかもしれないけどね」
「どっちの味方なのよ」
「もちろんあの子の方だよ、好きになったからって手放しで何もかも許すわけじゃないのさ」
「恋人になっても薄情なのね」
「予備軍、でしょ?」
「予備軍が取れたら優しくしてくれるわけ?」
「考えといてあげるよ」
それはパルスィが自らの罪を精算した後ということ。
だったら何ら問題はない、攻める要素が無いのだから自然とヤマメはパルスィに対して優しく接することになるだろう。
ぐだぐだと駄弁っている内に、時間は足早に過ぎていく。
気付けばパルスィは一睡もしないまま、三時間が経過してしまった。
「ね、ヤマメ。そろそろ帰らないでいいの?」
「なんで? 泊まって良いって言ったのはパルスィだよ」
「私も泊まってくれると嬉しいと思ってたんだけど、考えてみればヤマメにだってヤマメの都合があるでしょう?」
「特に約束はないよ」
「家事は?」
「それは……そこそこに」
「ほら、あるんじゃない」
パルスィの看病自体が予定外の出来事だったのだ、パルスィの言うとおり家でやり残したこともある。
洗濯、掃除に、今日までに処分しなければならない食料もあったはずだ。
「このまま話してたんじゃいつまでも眠れそうにないから、ヤマメの言うとおりいつまでも起きてるわけにはいかないもの、私も病人なんだし」
「本当に大丈夫なの?」
「平気よ、私だって妖怪の端くれだもの、風邪ごときに負けてる場合じゃないわ。
明日には元気な姿を見せて安心させてあげる」
「そう言うなら……わかった、今日のところは帰るね。
あ、でももう少しだけは手を繋いでおいてもいいよね? この感触覚えておきたいんだ、家に帰っても寂しくないように」
「……また、そうやって不意にドキドキさせるんだから」
「な、何が?」
「ヤマメが天然ジゴロだってことがわかったって言ってるの。
まあいいわ、じゃあ気が済むまで握ってなさい、私もその感触を覚えておくから」
「そのまま夢にも現れちゃおうかな」
「そうなれば最高ね、楽しみだわ」
ヤマメの存在のおかげで随分とパルスィの体は楽になったが、気だるさが完全に消えたわけではない。
いざ目を閉じてみると、案外早く眠気はやってきた。
やはり疲れていたのだろうか、一連の告白劇は病人には負担が大きすぎたか。
「そうだ、帰りに持って帰って欲しいものがあるのだけど」
「何を?」
「部屋の隅に、小さい三段の引き出しがあるでしょう。その上に鍵が乗ってるはずなんだけど」
ヤマメが部屋を見渡すと、ちょうど背後に腰ほどの高さの木製の引き出しがあるのが見えた。
言われた通り、確かに上には鍵が乗っている。
「うん、乗ってるね」
「それ持って帰って」
「え、それってこの家の鍵じゃ……」
「……」
「ちょっと、パルスィ!? ねえ、それって合鍵ってことだよね、そんな大事なもの私が貰ってもいいの?」
「……明日からは、勝手に入ってきていいから」
「ほ、本当に……いいの? 冗談じゃないよね、今更嘘とか言わないよね」
「駄目なら渡さないわ」
「そっか、そう、だよね。そうなるよね」
さすがにヤマメもこれには戸惑う。
確かに予備軍にはなったものの、いきなり合鍵なんて重要アイテムを渡されるとは思いもしなかったからだ。
実はパルスィも、そこまでするつもりは無かった。
本当に勢いで、急に思いついた事を何も考えずに実行しただけ、言った後にとんでもなく大胆な事をしてしまったことに気付いたわけだが、全ては後の祭りでしかない。
「じゃあ、もらって行くから、本当の本当にもらって行くから」
「……」
照れ隠しの寝たふりだ、本当はまだまだ眠れそうにない。
折角眠気が近づいてきていたのに、これでは告白の時に逆戻りしたようなものだ。
しかも、どんなに目を閉じて顔を半分隠しても、顔は耳まで赤くなっている、ヤマメには丸見えだろう。
「んへへ……」
ヤマメの上機嫌な笑い声が聞こえてくる。
パルスィ自身もさすがに急ぎすぎたかと思ったが、ヤマメが喜んでくれたのなら成功と言っても良さそうだ。
どうせ、遅かれ早かれ渡すつもりではいたのだから、多少早まった所で大した問題ではない。
そのあとヤマメは宣言通り、満足するまで手を繋いでから――しばらくして名残惜しそうに、その手を離した。
「じゃあね、また明日。おやすみ」
耳元で囁かれた別れの挨拶は優しく、温かい。
枕元を離れていく足音は軽やかに、セットで鼻歌まで聞こえてきて、ヤマメは家をでるまでこれ以上にないほど上機嫌だった。
布団を被るパルスィの心音は未だドクドクと激しく高鳴ったままだ。
その後、パルスィが眠れたのはさらに二時間ほど経ったあとのことだったらしい。
――それから、二人の”いつもの場所”は例の橋からパルスィの家に変わった。
特に約束をしていないのは以前と同じだし、意味もなく駄弁っているのも以前と同じ、場所が変わっただけで二人のやることは基本的には変わらない。
ただ、時折無性に相手が愛おしくなってキスをしたくなるとか、甘えたくなって抱きついてみたりとか、身体的な接触は以前よりも遥かに増えている。
それを抜きにしても常に体の一部が触れた状態で居ることが多くなった。
理由としては、パルスィが拒まなくなったのが大きい。
元からヤマメはスキンシップを取りたがるタイプだったし、パルスィも妙な劣等感さえなければ誰かとふれあうのは嫌いじゃない、つまりこうなるのは必然だったのかもしれない。
数日経つと、パルスィの家にはヤマメの持ち物が少し増えた。
最初はうっかり忘れていった小物だけだったが、次第に洋服が増え、二人で行った買い物ついでにお揃いの寝間着を買い、布団は一つだが枕が二つ並ぶようになった。
ついでにお風呂にも二人で入るように。
実はパルスィははじめのうち、過度なスキンシップを避けていた。
予備軍という言葉を取るにあたって、ヤマメは友情と愛情の間で揺れ動く自分の気持ちを整理するだけでいいのだが、パルスィには二つも問題がある。
一つは少女のこと、人間関係の整理。
そしてもう一つが、ヤマメに対する罪悪感について。
いくらヤマメから許可を貰ったとはいえ自己嫌悪が消えるわけでもない、罪悪感も完全に割り切れるわけではない。
時間の流れが自分の気持ちを変えてくれるのかもしれない、だがそれではヤマメを長い時間待たせてしまうことになる。
悩むパルスィだったが、その悩みはヤマメの言葉で案外簡単に解決してしまった。
二人で枕を並べて眠る夜、二人で同じ天井を見上げながら、ヤマメが控えめの声で語り出す。
「パルスィは、白いキャンバスがなんで白で生まれてきたか知ってる?」
「人間の都合でしょう」
「ぶっぶー、不正解です。
しかし夢も希望もない答えだね、パルスィらしいといえばパルスィらしいんだけど。
正解は、誰かに絵を描いてもらうため、だよ」
「普通じゃない、なぞなぞじゃなかったの?」
「言い方を変えれば、誰かに汚してもらうため、そのために彼らは白で生まれてきた」
「何が言いたいの」
「ちょっと自惚れ過ぎかとも思ったんだけどさ、パルスィの考え方が行き過ぎてるからこそ悩みは消えないんだと思うから。
要するに、パルスィから見て私は触るのを躊躇するぐらい綺麗な状態なんだよね」
汚したくないということは、相対的に見てヤマメの方が綺麗でなければ成り立たない。
ヤマメも同じぐらい汚れていたのなら、パルスィが罪悪感を抱く必要などないのだから。
「そうね……私が汚れすぎてるとも言えるけど」
「つまり、白いキャンバスは私」
「ヤマメが?」
「うん、そして絵の具がパルスィ」
「……」
「私が白に生まれてきたのは、きっと誰かに汚してもらうためだった。
誰にも使われない道具ほど虚しい物も無いと思わない?」
「だから、罪の意識なんていらないって言うの?」
「うん、私は使われたい、使われるために生まれて、ここにいる。
もちろん誰でもいいってわけじゃない、パルスィが良いからこうやって一緒に居るんだよ」
「汚すとか使うとか、あんたは私の理性をどこに飛ばすつもり?」
「そういうつもりじゃないよ!?
あ、いや、そっか、そういうことに……なるの、かな。
最終的にはね、そういう使われ方もいいと思うけど、私が言いたかったのはスキンシップ全般のこと。
触れ合った時に罪悪感なんてあったら悲しいよ。
私は手を繋いだら心の全部が幸せだし、頭の全部で喜んでるよ。
でもパルスィは、九割ぐらいしか幸せじゃないし、喜べてない、見ててわかるんだ」
「……ごめん」
「謝らないでよ。
それを治すために私が居て、こうして普段は絶対に言えないような恥ずかしいセリフ言ってるんだから。
だからさ、私は使って欲しいんだってこと、それが当たり前のことなんだってこと、それを伝えたかったの」
「あたり前の、こと」
「そう、誰も咎めないし、むしろ私はそうしてほしい。
パルスィだって本当は、そうしたいって思ってるんでしょ?」
それから、パルスィの自己暗示が始まった。
罪悪感だっていわばネガティブな自己暗示の結果なのだから、”当たり前だ”と自分に言い聞かせることによって相殺することだって出来るはずだった。
パルスィの目論見通り、みるみるうちに罪悪感は消えていく。触れ合う瞬間を心の底から幸せだと感じることが出来る。
これでもう、二人を遮るものは何もなかった。
あとはパルスィの個人的な問題を解決するだけ、それだけで予備軍なんて言葉は容易く消してしまえる。
過ぎ行く日々、全ての問題は解決せずとも二人の関係は少しずつ変わっていく。
「んふふー……」
「どうしたのよ、何も無いところで急に笑って。気持ち悪いわよ」
「うわひどい、歯ブラシ見て微笑んでただけじゃんか」
「さすがの私も歯ブラシに劣情は催さないわ」
「催してない! ただ、私とパルスィの歯ブラシが並んでるのが素敵だなって思っただけ」
「ああ……そうね、確かに言われてみれば、なんだか卑猥だわ」
「どうしてそっちに持ってくのさ!?」
コップに並ぶ色違いの歯ブラシは、まるで恋人が同棲する家の光景のようで、見るたびにヤマメの表情は思わず綻んでしまう。
パルスィも茶化してはいるが、その後しばらくは歯ブラシを見て人知れずニヤニヤと笑っていたようだ。
少しずつ変わっていく、少しずつ同じになっていく。
どうやらヤマメとパルスィの使っていたシャンプーはそれぞれ別の物だったようで、以前は髪の香りが微妙に違っていた。
それが今では同じ物を使っているので同じ香りがする。
特別それを言葉にして言うことは無かったが、ヤマメは自分の髪の香りを嗅ぎながら、
「パルスィと同じ匂いがする……」
と頬を赤らめていたし、パルスィもヤマメの髪が振りまく香りに満足気に微笑んだりしていた。
支配欲が満たされるとでも言えば良いだろうか、髪の香りが変わったことで、ヤマメが自分の物になっていくような気がしたのだ。
二人の関係は良好、問題は何一つ無い……ように思えたが、しかしヤマメの心には不安が一つ。
一週間以上経ってもまだ、パルスィが少女と会う様子がない。
それはある意味ではヤマメにとっての安心でもある。
正直に言えば、このまま二人の関係が自然消滅してくれるならそれでも別に構わないと思っていた。
だが、それではあまりに締りのない終わり方をしてしまう。
はっきりとした終わりがなければ、パルスィがまたあの遊びに走ってしまうような気がしてならない。
浮気は、嫌だ。
いくらパルスィの嫌な面を知っていたとしても、恋人(予備軍)になった今と友人だった当時では許容出来る範囲だって変わってくる。
世間一般の常識では、状況からして今はヤマメが浮気相手ということになるのだろう。
そのくせ偉そうなことを言うのは道理に反しているとも思ったが、それでも嫌なものは嫌なのだ。
かといって、ヤマメが口を出せるような問題でも無いのがこれまた厄介だ。
こればかりはパルスィ自身が自分で解決するしかない。
下手にヤマメが手を出そう物なら、それこそ本当に少女に殺されかねないのだから。
多くの幸福に満たされ、一抹の不安を抱えたまま、恋人予備軍を卒業出来ないままに時間は過ぎ去っていく。
大通りは今日もいつかと同じように賑わっている。
橋姫を名乗りながら久しく橋へと来ていなかったパルスィは、散歩がてらふらりと外へと繰りだした。
幸い、ヤマメは買い物に行っているので不在だ、帰ってくるまでに戻れば心配をかけることもないだろう。
「こんにちは妖怪のクズさん、ごきげんいかがですか?」
頬杖をつきながら川の流れを眺めていたパルスィは、背後から突然罵倒を浴びせられる。
出会い頭にこんな挨拶をしてくる妖怪は地帝広しと言えども一人しかいまい。
「さとり、挨拶にしては辛辣すぎない?」
「世の中を舐め腐っている甘ちゃんにはお似合いだと思いましたが、私間違ったこと言いましたか?」
「……ふん」
さとりに聞こえるように舌打ちをしてみせるが、この程度で彼女が怖気づくわけがない。
パルスィは心を読まれるのが苦手で仕方なかった。
彼女は邪心を抱きすぎる、ヤマメが根っからの善人だとするのなら、パルスィは根っからの悪人なのだ。
「そんなあなたが、不相応にも彼女の前だけでは善人を装おうとしている、こんなに滑稽なことが他にあるでしょうか。
妖怪、無理はするものではありませんよ、体に祟りますから」
自分の生きざまに反する行為は、文字通り妖怪にとって毒になる。
もっとも、パルスィは嫉妬を操る妖怪なので善人を装った所で何ら問題はないのだが。
さとりの言葉は単なる皮肉に過ぎない。
「私はヤマメに相応しく無いっての?」
「相応しいとお思いですか?」
「質問を質問で返さないでよ。
ええそうね、言うとおりよ、私はヤマメには似合わない、あの子にはもっと優しくて正直な見知らぬ誰かが寄り添うべきなんでしょう」
「それをわかっていても、ヤマメさんを離すつもりはない、と。
彼女も随分厄介な妖怪に捕まってしまったものですね、折角の善人が勿体無い」
「だから何よ、言っておくけど私は――」
「悪人、悪い女だから関係ない、ですよね。
開き直った愚か者ほど手に負えない物はありません、これでヤマメさんが騙されているとか、正気を失っているのなら迷わずに二人を引き裂くのですが。
残念なことにヤマメさんも心の底から貴方にベタぼれと来たもんです、これではうかつに手を出せないではないですか。
……まあ、今回はそんなことをしに来たわけではないから別に構わないのですが」
「あんた、ヤマメ相手だと微妙に優しいわよね。
私には好き放題言うくせに」
「根っからの善人に容赦なく悪意を浴びせられるほど心のない生き物ではありませんからね。
そのあたり、パルスィさん相手なら遠慮しなくていいから楽です、サンドバッグ代わりって所でしょうか」
「私も傷つく心は持ってるのよ」
「それだけ他人を傷つけてきたのですから、傷ついて当然ではありませんか?」
「ふふ、道理だわ」
殺伐とした関係ではあるが、この二人も間違いなく友人ではあった。
容赦なく罵声を浴びせあえる関係というのも、それはそれで貴重なのである。
ある意味で対等、フェアな関係と呼べるだろう。
「さて、今日はパルスィさんに一つか二つ……いや、もっと沢山言っておきたいことがあって来たのですが」
「よく見つけられたわね」
「聞き込みなんてしなくても目撃情報は集められますから、パルスィさんの家の前から地道に探せば自然と見つかりますよ。
それで、私から言いたいことについてなんですが、先日たまたま道端で買い物中のヤマメさんを見つけましてね、これはいい機会だと思って頭のなかをじっくり覗いてみたんですよ」
「何がいい機会よ……」
「楽しいですよ?」
「そりゃあんたはそうでしょうね!」
パルスィのことを悪人呼ばわりするさとりだが、彼女の方も大概だ。
もう少し遠慮って物を覚えてくれれば、その嫌われっぷりに同情も出来るのだが。
「ヤマメさんってば以外とナイーブなんですよね。
いつもは二人で買い物しててヤマメさんがそれを心から楽しみにしてること、その日はたまたまパルスィさんが用事で一緒に買物にいけなくて心の底からがっかりしてることや、それ以外も色々とわかりました。
あ、そういえば今日はパルスィさん一人なんですね、ヤマメさんはどうしたんですか?」
「……その、一人で買い物に行ってるわ」
「そうなんですか、可哀想に、さぞ寂しがってることでしょうね。
まあそれはいいとして、本題は買い物の件じゃなく、例の少女の方です」
「さらっと流したけど今の私に対する嫌がらせよね、そうなのよね!?」
「勘ぐり過ぎですよ、ただ私は思ったことを言葉にしただけですから」
そう言うさとりは実に満足気な笑みを浮かべている、これが悪意でないと言うのなら何だと言うのか。
「それで、例の子の件ですが」
「やっぱ、さとりが知らないわけがないわよね」
「ヤマメさん、随分と不安に思ってるみたいですよ。
自分で整理するとか言っておきながら、もうかれこれ二週間も放置してるんですからね。
人間のどす黒い部分を見てきた私でもこれにはドン引きです、まさか未練でもあるんですか?」
「あるわけないでしょう?」
さとりは全てをわかった上で言っているのだからたちが悪い。
そう、ヤマメと恋人予備軍になったあの日から、パルスィは一度もあの少女と会っていなかった。
謝るべきだと理解しながらも、上手い謝罪の仕方も、事の解決の方法も思い浮かばないままずるずると二週間が経過してしまったのである。
「あろうがなかろうが、どちらにしても女々しいことに変わりはありませんがね。
私が甘ちゃんだと言ったのはそのことです。
誰も傷つけたくない? 出来れば自分は痛い目を見たくない? 上手く解決できる方法が見つかるまで誤魔化したい?
ほんと、どこまで甘ったれるつもりなんですか貴方は、ヤマメさんは吐き気がするほどの善人でしたが、あなたは吐き気がするほどのドへたれですね。
せめて自分が傷付く覚悟ぐらいしたらどうなんです、今更になって誰も傷つかない結末なんて無理に決まってるじゃないですか」
「夢を見るぐらいいいじゃない」
「夢が実現するまで動く気がないくせによく言いますね、問題を先延ばしにするほど傷は大きくなる一方ですよ?
いいですか、パルスィさんはすでに手遅れな場所に居るんです。
軟着陸しようなんて無理な話なんですよ、だってもうとっくに墜ちているのですから。
それでも少女を傷つけたくないというのなら、もう一度飛び立たなければならない。
いいですよ、やってみればいいじゃないですか。
その場合、ヤマメさんを酷く傷つけることになると思いますが、パルスィさんの望み通りに無難に軟着陸できると思いますよ」
「んなことできるわけないでしょう?」
「だったらどうします?
ヤマメさんを傷つけないためにパルスィさんとあの子が傷ついて終わるのか、それともいっそ殺してしまいますか? それなら傷つくのは一人で済みます」
「ふざけたことを言ってくれるわね」
「でも一瞬、魅力的だと思いましたよね?」
「っ……」
そんなに面倒なら”妖怪らしく”殺してしまうのも手だと、一瞬だが思ってしまったのは事実だ。
だがパルスィにそれを実行に移す勇気があるわけがない。
「先程は相応しくないと言いましたが、あなたがヤマメさんと出会ったのは、ある意味で正解だったのかもしれません。
彼女が居なければ、あなたは一人で奈落の底まで落ちていたでしょうから」
「奈落ねえ、私にそんな度量があると思うのかしら」
「そんなもの必要ありませんよ、ずるずると流されるままに引き込まれればいいだけです。
気づいていないかもしれませんが、ヤマメさんは以前からずっとあなたを支えていてくれたんですよ。
煩わしいと思っていた彼女のお小言が知らず知らずうちにパルスィさんを救っていたんです」
「そう、あんたが言うなら本当なんでしょうね」
「ええ、ですからもっと感謝してあげるべきだと思うんです。
せめて寂しい思いはさせないであげてほしいですね」
「しつこいわね……明日からはちゃんと一緒に買物にも行くわよ」
「そうしてあげてください、彼女が寂しいとなんだか私もあまり気分が良くないんですよ」
「あら、もしかして恋敵かしら?」
「ご冗談を、私はただの厄介な友人ですよ」
そう言いつつ、さとりは目を伏せて軽く微笑んだ。
もちろん恋敵などではないが、さとりもそれなりにはヤマメのことを想ってはいるようだ。
故に、今日も無意味にパルスィに嫌がらせをしにきたわけではない。
「一応、今日は忠告のつもりで来たのですが話がぶれてしまいましたね。
端的に言えば、もうあまり時間はないという事をお伝えしたかったんです。
例の少女を一度見かけましたが、それなりに追い詰められている様子でしたよ。
当然ですよね、愛しのお姉さまからの連絡がぱたりと途絶えてしまったのですから。
この状況でヤマメさんと一緒に居るところを見られたりしたら……場合によっては」
「わかってる、近いうちにケリをつけるつもりではあったのよ」
「パルスィさんにとっても初めての体験ですからね、躊躇う気持ちも、まあ全く理解できないというわけではありません。
ですがくれぐれも、ヤマメさんが傷つくような結末にはならないよう。
私は別に殺すという案を否定したわけではありませんよ、必要だというのならそれも一つの方法なのでしょう」
「そうならないように頑張ってみるわ」
「はい、頑張ってください」
最後の一言だけは、純粋に応援してくれているように聞こえた。
さとりには不似合いな言葉ではあったが、それだけに本気度合いが伝わってくる。
確かにさとりはヤマメに傷ついてほしくないと思っているが、一応はパルスィのことも心配はしている。
仲が良いと胸を張って言えるような関係ではないが、それでもそれもさとりにとっては貴重な友人のうちの一人なのだから。
買い物からの帰り道、ヤマメは必要な食材をメモした紙を眺めながら最後のチェックをしていた。
今日の夕食は豪勢にすき焼き。
特別なイベントがあるというわけでもないが、たまには豪勢な食事も悪くはない。
幸い、二人共大食いという訳でもないので、量が少ない分だけ質にお金をかけられる。
「卵に、お肉に、白菜、春菊、豆腐にしらたきに、あとザラメも買ってるよね、うんオーケー、買い漏らしは無いみたい」
手首にぶら下げた袋の中身を確認しながら、パルスィの待つ家に向かって歩くその姿は新妻に見えなくもない。
何も無いのにヤマメがニヤニヤしているのはそういう理由だった。
やだ、今の私ってちょっと新妻っぽい!? なんて馬鹿げた事を考えつつ、それが近いうちに実現するんじゃないかという淡い希望もさらに妄想を加速させる。
「どーせまた、今日も料理してたら襲われちゃうんだろうなー。
エプロン姿に興奮したパルスィが、私の背後からがばっと抱きついてきて、そのままいちゃいちゃと……んふ、んふふ、ふふふふふぅ~」
思わずヤマメの口から気持ちの悪い笑い声が漏れてしまった。
幸い通行人はヤマメ以外におらず、その姿は誰にも見られることは無かったが、仮に誰かが見ていれば怪訝な目で見られることは間違いない。
実際、ヤマメのエプロン姿はパルスィの大好物らしく、その後ろ姿を見ると我慢できずに毎回抱きついてくるのだ。
もちろん嫌なわけがない、ヤマメにとってはいちゃいちゃチャンスである。
未だ予備軍は取れないのでキス以上のことは出来ないが、それでもヤマメを蕩けさせるには十分過ぎるほど濃密なスキンシップ。
これで予備軍が取れたらどうなっちゃうんだろう、という期待感がさらにさらに妄想を暴走させた。
「あ、あんなことや……そんなこと……ダメだよ、パルスィそんなところはっ……あぁっ!」
体をくねらせながら歩くヤマメは、客観的に見て……いや、どう見てもただの不審者でしかない。
人生初めての恋人(予備軍)に浮かれてしまうのは仕方ないのだが、日に日にエスカレートする妄想にヤマメ自身も少し危機感を覚えつつあった。
このままだと、いつか人目も気にしなくなってしまうのではないか、と。
しかし今のヤマメの頭は完全にお惚気モード、そんな危機感も妄想に容易く掻き消されてしまう。
「なーんて、あるのかなー、あるんだろうなー、だってあのパルスィだもん」
人通りの無い路地にヤマメの独り言が響く。
そう、人影はない。
ヤマメと――彼女の物以外、誰も。
「無いはずな……がっ!?」
全く油断していた、気配の察知など考えもしなかった、だって誰かに狙われるなんて想像すらしていなかったから。
鈍い音と同時に、後頭部に強い衝撃。
ガクンと首が曲がり、ヤマメの視界が意識ごと揺らぐ。
”何が起こったのか”、分析するよりも前に一瞬にして意識は消え、最後に残ったのは自分の体が地面に叩きつけられる感覚。
「ぅ……あぁ……」
最後はうめき声を出すのが精一杯。
それから、意識はすぐに闇の底へと沈んでいった。
路地に残されたのは、たった一人の少女。
歳相応の少女らしくか弱く細いその腕に、拳二個分ほどの大きさの岩を持って。
「はぁ、はぁ、はぁ……」
肩を上下させながら、倒れたヤマメをじっと睨みつけている。
殺意にも似た憎しみを込めて、まさに鬼の形相で。
「はぁぁ……は、はぁ……っく……ぁ……はぁ……」
ここで殺してもいいと思った。
だが、まだ早い。
確かめなければならないことがいくつもある。
だから、まだ殺すわけにはいかなかった。
ズルズルと死体を引きずり、腕を台の上に載せる。
用意したノコギリは表面が錆び、切れ味の保証はされていなかったが、代えを探しに行く余裕などなかった。
手首に刃を当て、ぐっと力を込め前へとすべらせる。
錆びているせいか、手首の表面が少し切れただけだった。
次はさらに力を込め、後ろへと引き抜く。
今度こそは、ぐちゅりと肉を割く感触があった、どうやら上手く刃を入れる事が出来たらしい。
それから骨に到達するまでのあいだ、前へ後ろへとリズミカルに繰り返すことが出来た。
切断は順調に進む。
最初は気持ち悪い感触だと思ったが、慣れてみると普段料理に使う肉と何ら変わらない。
そう、これは死体。死んでしまえばただの肉、だったら食卓に並ぶ肉と何の違いなどないはずだ。
ガリッ。
刃が骨まで到達する。
さすがに錆びた刃では分が悪いのか、押しても引いても中々切れそうにない。
それでも止めるわけにはいかなかった、あまり時間をかけるのも好ましくない。
鬼らしく、力づくで事を進めることにした。
のこぎりが先に壊れてしまいそうだったが、その時はその時、見栄えは悪いだろうが強引に引きちぎればいい。
ガリ、ガリ。
錆びたのこぎりの歯が手首の骨と削れあい、肉を撹拌する音と混じって不快な音が小屋に響く。
馬鹿げたことをしている自覚はあった。
そもそも悪いのは彼女ではなかったはずなのに。
巻き込む必要などなく、自分と相手だけで解決したらいいだけの問題に、なぜ他人を巻き込んでしまったのか。
大通りを歩くお姉さまの姿を見た。
すぐに近づいて甘えてやろうと思ったが、その隣には見知らぬ女の姿があって、二人は手を繋いで、お姉さまは私の見たことのない幸せそうな表情をしていた。
本物を、見せられた気分だった。
直感的に、普段見ているお姉さまの表情は嘘だったんだって気付いてしまったのだ。
酷く傷ついて、数日の間、店を休んでしまった。
その間、一人で部屋にこもって、ずっと嫌なイメージばかりを見ていた。
思えば、周りの友人は揃って私の事を心配していた。
酷いことはされていないか、あんな奴とは関わらない方がいい。
悪い噂だって、本当は知っていたのに。
それこそ、出会った当初から。
なのに、信じてしまった。
甘い言葉に誑かされて、刹那的な快楽に溺れていって、後戻りのできない所まで来てしまったから。
だから、もう信じる以外の選択肢が私には残されていなくて、そしたら案の定裏切られてしまった。
最初は、歩いている彼女の後ろ姿を見かけただけだった。
ようやく少しだけ立ち直って、外を歩けるようになってすぐのこと、たまたま見かけたのだ。見かけてしまったのだ。
もしかしたら彼女も私同様に騙されているのかもしれない、そのうち裏切られるのかもしれない、つまり可哀想な被害者なのだ。
そう考えながらも、気付けば岩を握っていた。
衝動的な殺意、理性で制御出来ない憎悪。
故に、一切の躊躇はなかった。
今だってそう、これだけ残酷なことをしておきながら一切の躊躇はない。
壊れてしまったのか、あるいは元からこうだったのか。
わからない。自分のことなのに、何も。
たったひとつ、はっきりしていることといえば……もう、後戻りなんて出来なくて。
ほんの少しだったけど、お姉さまと過ごせた幸せな時間はもう戻らないんだろうなって、ただ、それだけ。
パルスィがさとりと別れ家に帰ってから、玄関を開けてもヤマメは迎えてはくれなかった。
さとりに釘を刺されたこともあって急いで帰ったのだが、さすがに早すぎたようである。
誰かの帰りをここまで心待ちにすることなど今までなかった。
これなら言われた通り、最初から一緒に買い物に行っておけば良かったと公開しつつ、パルスィは首を長くしてヤマメの帰りを待ち続けた。
一時間経過してもヤマメは帰ってこなかった。
どこに寄り道しているのか、それともまたお人好しで誰かを助けているのだろうか、あのヤマメなら十分にありえる。
特に心配することは無い。
パルスィはお節介にも誰かを助けるヤマメの姿を想像しながら、一人笑っていた。
二時間経過、それでもヤマメは帰ってこない。
直前にさとりと話していた内容が内容だっただけに、さすがにパルスィも不安になってくる。
だが、”殺される”と言っていたのはあくまで冗談のつもりであって、あの少女がそこまでの強硬策に出るとは思えなかった。
パルスィの今までの経験が、まだその段階ではないと告げていたのだ。
少し買いすぎただけ、あるいはどこかで落し物をして探しているとか、とにかく何かしらの想定外の出来事に見舞われているだけ。
そう考えることにした。
パルスィの顔から、笑顔は消えていた。
三時間経過、やはりヤマメは帰ってこない。
すれ違いになる可能性も考えて待っていたが、これ以上は我慢できない。
仮に人助けしていたとしても、三時間も帰ってこないなんて異常だ、だったら一緒に手伝って早めに済ませた方がいい。
探しているうちに帰ってきたのならその時はその時、笑って泣きながら抱きしめてやればいい。
パルスィは急いで家を飛び出そうとした、その時――
コンコン、と控えめに玄関を叩く音が聞こえてきた。
突然の出来事に返事もできずに居ると、再び同じようなノック音が聞こえてくる。
来客、それも、ヤマメではない。
一瞬ヤマメの帰宅を期待したが、彼女は鍵を持っている。
ひょっとすると鍵を落としてしまい探していて遅くなったのかもしれないが、玄関のすりガラス越しに見えるシルエットはヤマメのそれとは異なる。
ゆっくりと玄関に近づいたパルスィは、おそるおそる手を伸ばし、ドアを開いた。
「こんばんは、お姉さま」
そこには、いつもと変わらず満面の笑みを浮かべる、少女の姿があった。
「こ、こんばんは」
反射的に返事をしてしまったが、すぐさまパルスィの頭にいくつかの疑問が浮かぶ。
なぜ彼女がこの場所を知っているのか。
なぜこのタイミングで現れたのか。
そして、手に持っている薄汚れた木箱は一体何なのか。
「なんだか変な感じですね、こうしてお姉さまの家に来るのなんて初めてですから」
「どうして、この場所を?」
「だって、お姉さまったら有名人じゃないですか。調べたらすぐにわかりますよ」
確かに、パルスィは悪い意味で有名人ではある。
それにしたって、今まで付き合ってきた相手にだって家の場所を教えたことはなかったのに、そんなに簡単に住所を知ることができるだろうか。
元地獄である旧都には住所録なんて便利なものだって無いというのに。
「そう……」
だが、パルスィは”なぜ知っているのか”と問いただすことが出来なかった。
情けない話だが認めるしか無い、怖かったのだ。
家の場所を知られた事だけではない、他の疑問もそう、今の彼女に聞くことは出来ない。
確かにパッと見でいつもと同じような表情をしていたが、その笑顔は普段と違いどこか凍りついた、人形のような印象がある。
明確な差異は見て取れないが、明らかにいつもと違う、どこか壊れた笑みであることをパルスィが察していたからだ。
そして何より、この少女からは――強い強い嫉妬を感じ取ることができる。
皮肉にも量、質、共に文句なしの上質な嫉妬が。
「ねえ、あなた」
「ああそうだ、お姉さまの家の中見せてくださいよ、どんな素敵な家に住んでるのかずっと興味があったんですよ」
勇気を振り絞り話を聞き出そうとしたパルスィだったが、少女の言葉に遮られてしまう。
なんてわざとらしい、露骨なインターセプトなのだろう。
聞かれたくないことでもあるだろうか、それとも、何もかもを聞かれたくないのだろうか。
「待ちなさい、まずはその」
「お姉さま、ダメですよ恥ずかしがったって。
今までは私が嫌だって言っても、無理やり恥ずかしい所見てきたじゃないですか、なのにお姉さまだけ見せないなんて不公平です」
「ちょ、ちょっと待ちなさいって」
「なんですか、見られたら困るものでもあるんですか?」
確かに見られたら困るものはいくらでもある。
おそろいのパジャマ、二つ並んだ歯ブラシ、明らかに自分の物とはセンスもサイズも違う下着――その他諸々。
「そんなものはっ」
語気を荒げて否定しようとしたパルスィだったが、次の少女の言葉を聞いて、思わず表情が凍りついた。
「もしかして、ヤマメさんの持ち物でもあるんでしょうか」
少女とは全く接点のないはずのヤマメの名前。
いや、むしろ知らない方が不自然なのかもしれない。
いつまで経っても帰ってこないヤマメ、そしてこのタイミングでやってきた住所を知らないはずの少女。
一体何処でこの場所を知ったのか、誰に聞いたのか、考えてみればすぐにわかることだ。
わかることなのだが――それでも戸惑いは隠し切れない、予想通りの現実が突きつけられただけだというのに、その現実が絶望的すぎて素直に受け入れることが出来ない。
戸惑いの表情で少女を見つめるパルスィ。
対して、少女の方は変わらず不気味な笑みを浮かべて、パルスィの方をじっと見ている。
「なっ、なんで、その名前を」
「だって、お姉さまったら有名人じゃないですか。調べたらすぐにわかりますよ」
先ほどと同じセリフ、同じ顔。
そう、この少女は全てわかったうえで言っているのだ、やっているのだ。
パルスィが怯えることも含めて、理解した上で。
「……あんた、まさか」
パルスィの頭の中で、嫌な想像が徐々に現実味を帯びていく。
嫉妬に狂った少女、そして血だまりの中に沈むヤマメ。
もし仮に現実にそんなことが起きているのだとしたら、パルスィは絶対に目の前にいる少女を許しはしないだろう。
許さないならどうするのか、そんなのは決まっている。
妖怪らしく、けじめを付けるだけだ。
「ヤマメを、どうしたの?」
「お姉さまったらヤマメさんと随分昔からの付き合いだそうですね。
ヤマメさんはとても良い人で、お姉さまはとても悪い人で、二人は正反対なのになぜか仲良いって、不思議な関係ですよね」
「ヤマメをどうしたのかって聞いてるのよ!」
今にも掴みかからんばかりの形相で怒鳴りつけるパルスィだったが、少女は一切表情を変えずに話を進めていく。
「あのお姉さまと手を繋いで歩くほど仲の良い友人が居るなんて、普段の姿からは全然想像できませんでした。
どんな魔法使ったんでしょうね、ちょっとだけやけちゃいます。
あ、でも本命は私だってちゃーんとわかってますから、やいてるって言ってもほんのちょっとだけ、ですよ?」
「いい加減にしなさい、ふざけてないで早く話しなさいよ!」
「そうだ、今日はお姉さまにプレゼントを持ってきたんですよ」
一切咬み合わない会話に憤りを感じつつも、差し出された木箱に視線を向けるパルスィ。
プレゼントと言うにはあまりに粗末すぎる、何を考えてこんな物を持ってきたと言うのか。
「開けてみてください」
「話せって言ってんでしょうがぁッ!」
怒りを全面に押し出し威嚇される少女だったが、それを気にもとめずマイペースに事を進めていく。
差し出された怪しげな箱、もちろんパルスィは受け取ったりはしない。
こんな見るからに怪しげな罠を今の状況でうかつに受け取るほど脳天気ではない。
「やだなあ、びっくり箱とかじゃありませんよ? サプライズではありますけど。
じゃあ私が開けますね、喜んでくれると嬉しいです」
蓋に手をかけ持ち上げると、微かに開いた隙間から中身の匂いが漏れ出してくる。
生臭いような、不快な臭いがパルスィの鼻腔にまとわりついた。
同時に強烈な悪寒を感じ、開くのを止めようとしたのだが、パルスィが静止するよりも早く少女は箱を開いてしまう。
「なに……これ」
少女は、変わらない笑顔のままこう言った。
「お姉さまの大好きな、ヤマメさんの手ですよ?
だって、あんなに幸せそうに握ってたんですもの、絶対に喜んでくれますよね」
蓋を開いたまま差し出された箱の中には、確かに”手”が入っていた。
血の気が失せ肌は黒ずみ、切れ味の悪い刃物で切断したせいか切り口はガタガタで赤黒く汚れている。
しかしそれでも、それが人型の手であることだけははっきりと判別できた。
そして少女の狂った笑顔。
正気ではない、それ故に――嘘を言っているようには、聞こえなかった。
「……はっ」
心臓が痙攣したように脈打ち、連なって肺が震える。
息を切らしたわけでもないのに呼吸が荒くなり、全身の毛穴が開き、汗が吹き出すのがわかった。
呼吸のたび、震えた歯がガチリと音を鳴らす。
「どうしたんですか、お姉さま。喜んでくれないんですか?」
煽るように笑いかける少女。
パルスィは自分の中に満ちている感情の正体が掴めない。
それが怒りなのか、絶望なのか、悲しみなのか、憎悪なのか、それとも、全てをごちゃまぜにした名状出来ない何かなのか。
ただ、見開いた緑の眼で少女のその笑みを見た瞬間、正体などどうでもよくなってしまった。
結果がある。
こいつが、ヤマメを殺した。
結論がある。
だったら、こいつを殺さなければ。
「う、ううぅぅぅっ、ううわあああああああぁぁぁぁっ!!」
能力も小細工もない、ただ目の前に居る少女を殺してしまいたいと思い、その衝動に身を任せた。
両手はまっすぐに首に向かって伸び、握りつぶさんばかりの全力で締め、呼吸を止めようとする。
勢い余って少女はバランスを崩し地面に倒れこんでしまったが、倒れた勢いと体重で更に負荷をかける。
マウントポジションを取られ、爪が食い込む程の力で首を締められる少女。
万事休す、もはやこのまま絞殺されるしかないように思えたが、しかし少女は変わらず微笑み続けている。
「やだ、お姉さまったらかわいい、怒ってるのにこんなにか弱いなんて」
少女とて人間ではない、まだ若輩とはいえ鬼の端くれ、パルスィ程度の腕力で首を絞められた所でどうということはない。
クスクスという少女の笑い声が断続的に続く、それを聞く度に怒りのボルテージは上がっていく。
「このっ、このぉっ!」
「あっははは、ふふふ、んふふふふっ、お姉さまそんな必死になってどうしたんですか?」
「ふざけるなっ、ふざけるなあぁっ!
よくもヤマメを、ヤマメをおおぉぉぉっ!」
二人で過ごした記憶が走馬灯のように蘇る。
笑った時の顔も、呆れた時の顔も、恥ずかしがった時の顔も、どれもこれもパルスィの胸を貫いて、感じたことのない幸福で満たしてくれた。
だが今は、その思い出すらも怒りの糧にしかならない。
壊された、もう二度と戻らない。
後悔と憎悪が入り混じり、正当な怒りと八つ当たりをごちゃまぜにして両腕に載せる、自身の限界を超えた力で首を締め付ける。
それでも、少女は笑ったまま、息を切らすパルスィとは対照的に汗一つかかずに笑顔を浮かべている。
「あんたなんか最初からどうでもよかった、好きでもなんでもなかった、ただの玩具で、遊ぶだけの道具だったくせに、そのくせに――!」
「私は、好きでしたよ」
「そんなの知らない! どうでもいい! あんたの心も言葉も、ヤマメに比べたら、あの子に比べたら……これっぽっちの価値もないのよッ!」
「好きなんですね、ヤマメさんのこと」
「ええ好きよ、あの子が居ないって考えるだけで死にたくなるぐらいに、あの子を殺したあんたを殺しても足りないぐらいに、好きで、好きで、頭がおかしくなるぐらい愛していたの!
それを、それをあんたが、あんたみたいな玩具があぁぁっ!」
はっきり言って、見下していた。
確かに少女を誑かすパルスィも悪ではあったが、恋人が居るのにいとも簡単にそれを裏切る今までの獲物たちを、心の底から見下していたのだ。
だから何も感じない、玩具以上の存在には成り得ない。
「玩具の分際でっ!」
”分際”、その言葉がパルスィの少女たちに対する価値観を如実に表していた。
少女だって笑うしかない。
本当は知っているはずだった、沢山の人から警告だってされたはずなのに、あいつだけには心を開くなと。
なのに、少しの時間でも目の前に居る女性を信じてしまった。
愚かだった、確かに見下されるのも仕方ないと思った、しかし……だからといって何もかも自分のせいにできるかと言われれば、そんなのはありえない話だろう。
「あんたと一緒に居たって何も感じなかった、ただ体さえあれば、意思なんて無くて十分だったのよ。
あんたなんてっ……ゴミみたいなものよ、抱けないのなら、私の都合よく動かないのなら全く興味なんてない、死んだって一滴の悲しみも湧いてこない!
なのに、そんなあんたが、ヤマメを傷つけ、殺したことが……何よりも、この世で起きるどんな悲劇よりも憎くてっ、憎くてっ、たまらないのよぉっ!」
「……ふふ、ふふふふ」
ここまで言われて、笑うこと以外ができるだろうか。
いくら想い人を殺したからと言って――殺したこと自体は悪かもしれないが――自分のやった罪をすっかり忘れて、何もかもを”被害者”である自分にぶつけるようなことをやってのける、救いようのない愚か者を見て。
だが、パルスィからみた少女だって同じことだ。
人の想い人を殺しておいて、なぜそんなに楽しそうに笑うことが出来るのだろうか。
”騙された程度”で、玩具がヤマメを殺すことが、許されていいはずがない、と。
「あっはははははっ、ははははっ!」
「何よ、何がおかしいって言うのよっ!」
「だって、おかしいじゃないですか、ふふっ、お姉さまってばヤマメさんと全く同じこと言ってるんですよ。
パルスィはお前のことなんて好きでもなんでもない、興味もなくて死んでも絶対に悲しまない、お前なんて遊ばれて捨てられるだけの玩具だって」
ヤマメは、基本的に人の悪口をいうような性格ではなかった。
過去形なのは、それがパルスィの影響を受けて徐々に変わり始めていたからだ。
とてもじゃないがいい影響とは言えない、だからパルスィはヤマメに近づく自分を嫌悪していたのだから。
だがそれは決してヤマメの性格が悪くなったから、彼女がワガママになったから、というわけではない。
そうなる必要があった。
他人を虐げてでも守りたものが出来たから、例え見苦しい姿でも必死になる価値のある感情に気付いたから。
だからこそ、ヤマメは自分で望んでそうなったのだ。
それだけ本気で好きになってくれた、自分を捨てるぐらいに夢中になってくれた。
「お姉さま、泣いてるんですか?」
「っ……!」
パルスィの瞳からぼろぼろと涙が溢れる。
思い出せば思い出すほど愛おしさが膨らんでいく、求めれば求めるほどに悲しみも増大していく。
誰かを想って泣くなんて、どれぐらいぶりだろう。
「ヤマメさんのこと思い出して泣いてるんですね、お姉さま。
わかりました、じゃあ死ぬ直前までのヤマメさんと何を話してたのか、全部教えてあげますね」
「やめなさい……っ」
「ヤマメさんね、パルスィが好きなの私だからって、だからお前は玩具なんだって、自信満々に言うんです」
「やめてっ、お願いだからっ!」
「お前はパルスィの何も理解できてない、上っ面だけ見て知った気分になってるだけだって」
「やめろって言ってんのよぉっ!」
悲痛な叫びも届かない、必死になればなるほどに、むしろ少女を喜ばせるだけだ。
首筋に食い込んだ爪が肌を咲き、薄っすらと血が滲んでいる。
それでも少女は涼しく笑い続ける、痛みなんて無いと言わんばかりに。
「でもお姉さま、私が話すのをやめた所でどうするって言うんです?
このまま首を締め続けても私は死にませんし、お姉さまが本気で襲ってきても殺せるかどうか」
「それでも殺すのよっ! 殺して……ヤマメを迎えに行って、それで……」
「死体を迎えに行ってどうするんです?」
「……死んでやるわ、一緒に。地獄よりももっと深い所で二人で暮らすの」
「お姉さま……」
少女から見ても、嘘をついているようには見えなかった。
もしパルスィがヤマメの死体を見つけたのなら、おそらく本気でそうするのだろう。
二人が死んだからと行って同じ場所にいけるかなんてわからない。
パルスィがここより深い地獄に堕ちても、ヤマメだけは天国に召されるのかもしれない。
「ヤマメさんも、きっとそうしたがるでしょうね」
だとしても、おそらくヤマメは天国に行こうとはしないだろう。
どんなに辛く苦しい場所だったとしても、パルスィの居ない天国よりは居る地獄を選ぶ、あの人はそんな人だ。
少女にはそう思えた。
「二人で地獄に堕ちたがるなんて、すごいですね、羨ましいです。
通りで……私が言っても何も聞いてくれないわけですよ。
髪を引っ張り合って、爪で引っかき合って、そこまでやっても折れない人なんて初めてでした」
「だから? 何が言いたいのよ、ヤマメはもう死んだのよ、もう居ないのよ、あんたの思い出話に何の価値があるって言うのよっ!」
どんなに回顧したところで、ヤマメが戻ってくるわけではない。
思い出の中のヤマメだけで満たされ、生きていけるほどパルスィは強くない。
もう、選択肢なんて一つしか残されていないのだ。
殺して、死ぬ。たった一つだけしか。
首を絞めて殺せないのから、もっと他の手段を。
力をゆるめた瞬間に逃げられる可能性も考えると迂闊には動けない、脳内で戦略を組み立て、確実に仕留めるためにありとあらゆる手段を考慮する。
パズルを組み立てるようにいくつかのパーツを集め、積み上げていると――突如として、少女の顔から笑顔が消えた。
狂気も、歓喜も、一瞬にして消え失せて真顔に戻った少女の表情から読み取れる感情は、諦め。
気を取られたパルスィは思わず手の力を緩めてしまったが、それでも少女はぴくりとも動こうとはしなかった。
やがて、気だるそうに口を開くと、
「……生きてますよ、ヤマメさん」
そう言い放った。
「あ?」
いきなり今までの主張を百八十度転換させた少女に対して、パルスィは思わずガンを飛ばしてしまう。
「そんな破落戸みたいな顔しないでください、ヤマメさんは生きてるって言ってるんです」
「待ちなさいよ、じゃあさっきの手は何だってのよ、あんたがヤマメの手だって渡してきたあれはっ!?」
あれは偽物などではなく間違いなく誰かの死体から切り取った手だった。
だが確かに、じっくりと観察したわけでもないしでもないし、触れて確認したわけでもない。
パルスィはもみ合う途中で地面に落ちてしまった、その手に視線を向ける。
「知りませんよ、誰の手かなんて。
でも、ここは地獄なんです。死体なんていくらでも簡単に手に入ります」
言われてみれば、ヤマメの手に比べると少し大きいような気もする。
死体集めが趣味なんて妖怪も居るぐらいだ、確かに死体を手に入れるのにそう苦労はしないだろう。
「それでも、ここまでうまくいくとは思いもしませんでしたが」
「上手く、いく?」
「賭けだったんです、お姉さまが本当に愛しているのは誰かなのか確かめるための。
私が勝ったらヤマメさんはずっと一人きり、ヤマメさんが勝ったらお姉さまがあの人を迎えに行く、そういうルールです」
つまりこれは、ヤマメも了解の上での勝負だった。
自分が死んだことにされている事を知っているかは別として、彼女が果たしてこんな茶番劇に乗ったりするだろうか。
パルスィは、ふといつかヤマメから聞いた言葉を思い出す。
『言っておくけど、この件に関しては完全にパルスィの自業自得だから。
よって、私は同情もフォローもしません。あの子に加勢はするかもしれないけどね』
ああ、確かに言っていたのだ、”あの子に加勢するかもしれない”と。
あのヤマメならやりかねない。
今頃どこかで、修羅場に巻き込まれているだろうパルスィの姿を想像して笑っている可能性だって十分にありうる。
パルスィはいっそ説教でもしてやろうかと思ったが、おそらく顔を見た瞬間に怒りなんて綺麗に消え失せ、ボロボロ泣きながら抱きしめてしまうのだろう。
惚れた弱みというやつだ。
「ヤマメはどこにいるの、早く言いなさいっ!」
とにかく今は、ヤマメの顔が見たくて仕方なかった。
ヤマメと知り合ってから今までのうちで、一番狂おしく彼女のことを求めている。
「お姉さまったらそんなに必死になって。
私の大好きなお姉さまは、一つのものに執着するような人じゃありませんでしたよ」
「あんたの前じゃ、一度だって本当の顔なんて見せたことなかったわ」
「そうだったんですか……だったらいっそのこと、最後まで優しい嘘を通して欲しかった」
「壊したのはあんたじゃない」
「堂々と手を繋いで歩いておいてよくいいますよ、私だって壊したかったわけじゃなかったんです。
いえ、ワガママを言わせてもらえば、できればずっと、夢を見ていたかった……」
少女は下唇を噛み締め、悔しさを滲ませる。
「そんなことはどうでもいいのよ、早くヤマメの居場所を言いなさい!」
「そんなこと、ですか。
そうですよね、お姉さまはそういう人なんですよね」
「ええ、残念だったわね」
中々ヤマメの居場所を言おうとしない少女に苛立つパルスィは、笑いながらそういった。
それを見た少女はぐっと歯を食いしばり、涙が流れるのを我慢する。
そんな健気な少女の姿を見ても尚、パルスィの心が動くことはない。
好きの反対は無関心なのだから、何も感じないのは当然のことだった。
「……ヤマメさんなら、川沿いのボロ小屋に居ますよ、そこで首を長くしてお姉さまの事を待ってるはずです」
「川沿いの小屋ね」
場所を聞いた瞬間に立ち上がったパルスィは、急いでその場を立ち去ろうとする。
だが少女はその足を掴み、立ち止まらせた。
「待ってください、お姉さま」
「何よ、離しなさいっ!」
「ヤマメさんは特に怪我もしていませんから、慌てなくても大丈夫ですよ。
それより、ちゃんと区切りをつけて欲しいんです」
「区切り……?」
今更何を区切ると言うのか、自らの手で終わらせておいて。
そう思ったパルスィだったが、あの一方的な罵倒を区切りと言うにはあまりに品がなさ過ぎることに気付く。
恋の終わりと呼ぶには凄惨すぎて、思い出にするにも歪で、忘れようにも強烈で、彼女の心に深い闇を残すことになるだろう。
元を正せば、悪いのはどこまでもパルスィの方なのだから。
押し倒されていた少女は立ち上がり、服に付いた砂埃を落としてパルスィの方に向き直る。
その目には薄っすらと涙が浮かんでいた。
「最後なら最後らしく、きちんと別れたいんです。
だから……お願いです、目を瞑ってくれませんか」
あそこまでさんざん言われておいて、最後の最後に望むのがキスとは、あまりに健気すぎる。
パルスィにさえ捕まらなければ、もっと人並みの幸せを掴むことが出来たのだろう。
騙され続けて、傷つけられて、それでもパルスィのことを想い続け。
ここまで来ると、さすがのパルスィも可哀想だとは思う、同情もしている。だが、それでも罪悪感は湧いてこない。
抱きしめただけで罪悪感を抱くヤマメとは対照的で、それだけにヤマメへの想いの強さと、自分の冷たさを再認識させられる。
こればっかりは心の持ちようで解決できる問題でもない、変わりたくても変われない、パルスィは根っからそういう妖怪でしかないのだ。
酷く残酷で冷酷で身勝手で、ヤマメに出会わなければ一生誰も愛することなく、他人を傷つけるだけの極悪人。
自分でもわかっている、だからこそ自己嫌悪を続けている。
少女の最後の願いを聞こうと思ったのも、決して善意からではない、そんな自分への嫌悪故、反発故、自分らしくないことでもしてやろうかと思い立ったからでしかない。
「……わかったわ、最後ぐらいは聞いてあげる」
パルスィは目を閉じ、静かに少女が近づいてくるのを待った。
「お姉さま、一緒に過ごした日々は短かったですが、とても楽しい思い出でした。
本当の恋人みたいになれて、知らなかったこと色々知れて、嘘だったとしても私は本当に幸せだったんです。
だから……」
少女は涙声で、パルスィとの思い出を振り返る。
パルスィの想いは偽物だったが、少女の想いは確かに本物だった。
例え玩具だったとしても、幸福に偽りはなかった。
「だから――」
ザッ、ザッ、と少女の靴が地面をこする音が聞こえた。
一歩、二歩、三歩。
少女の足音は、次第に”離れていく”。
「すぅぅ……」
適切な距離を取った後、少女は大きく息を吸う。
吸った空気をしばし肺で落ち着け、風の音が聞こえる程の静寂が当たりを包み込む。
「……」
そして、静寂は――少女の叫び声によって切り裂かれた。
「ふっざけんなああああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁッ!!」
姿勢を低くし、地面を強く蹴り肉食獣のように滑空、離れた分の距離を一瞬で詰める。
突然の絶叫にパルスィは思わず目を開いたが、もう遅い。
パルスィが反応するよりも早く、振りかざされた少女の右腕が前へと突き出され、頬に向けて一直線に迫る。
認識出来た時には拳はすでに眼前にあり、これならいっそ目を閉じたままの方がよかったと後悔するよりも早く、少女の一撃がパルスィの頬にめり込んだ。
「げ、ぁっ……!?」
パルスィの喉から無骨なうめき声が漏れる。
ガードの余地もない、全力の右ストレートが一切の減衰なく顔面を強襲する。
頭がはじけ飛ぶかと思うほどの強烈なインパクト。
脳が揺れ、意識が揺れ、視界も揺れる。
痛みよりも衝撃の方が大きく、だったら次に来るのが痛みかと思いきや、次に体を包んだのは不思議な浮遊感。
そう、パルスィの体は少女の一撃によって空中に浮き上がり、きりもみ回転をしながら放物線を描いていたのである。
天地無用、前後不覚、重力も方向感覚も時間間隔も失ったパルスィは、もはや何が起きているのか把握することすらできない。
数秒の出来事だったのか、それとも数分が経過していたのか、気づいた時にはパルスィの体は数メートル先の壁に叩きつけられ、そのままずるりと地面へ落ちていた。
そしてようやく、頬に痛みがやってくる。
「っ~~~!」
声にならない叫び、頬を抑えてゴロゴロと転がるが、その程度では痛みを誤魔化すことは出来ない。
パルスィを殴り飛ばした少女はと言うと、拳を突き出したままのポーズで、地面を見ながら「ぜぇはぁ」と肩で息をしている。
「っ……はぁ、はあぁっ……ふぅ、ふぅ…はぁ……あぁ……。」
ようやく息が落ち着いてくると、荒い呼吸の中に次第に嘆きが混じり始める。
一度殴り飛ばした所で、何もかもが消えるわけではない。
思い出も、傷も、忘れられるまで心に残り続けるだろう。
だから、殴ってその瞬間だけストレスを解消したって、余計に惨めになるだけだとわかっていたのだ。
しかし殴らずにはいられなかった、一発ぶん殴ってやらないとだめだという、使命感が体を突き動かした。
自分でも許せなかったし、こんなやつは世間的にも許されるべきではないと思ったから。
でも使命感なんて所詮は借り物に過ぎない。
誰かの借り物で自分の腹が満たせるわけじゃない。
「返してよ……返してよぉ……っ、私の大切なものっ、色んな初めてっ、思い出も気持ちも彼氏も、今まで積み上げてきた大切な物、綺麗だった物、全部――全部返してよおおぉぉっ!」
無い物ねだり、無理な相談。
それだけに、自身の絶叫が自分の胸に突き刺さる、もう帰ってこないんだということを痛感させられる。
「何が遊びよ、何が玩具よ、そんな身勝手振り回しといて自分だけ幸せになろうなんてふざけるなぁっ!」
痛みに苦しむパルスィだったが、少女の叫びは耳に入っている。
少女の言葉は何もかも正論だ、パルスィ自身ですら全くもってその通りだ、と認めるほどに。
まあ、だからといって不幸になる気はさらさら無いのだが。
「ううぅっ、ううううううぅぅっ、うわあああぁぁぁあぁぁぁんっ!」
少女はボロボロと大粒の涙を流しながら言葉にならない叫びを響かせ、そのまま走ってどこかへ消えてしまった。
姿が見えなくなってもしばらくは叫び声が聞こえてきていたが、じきに聞こえなくなり、再び静寂があたりを支配する。
「いっつぅ……これ、折れてんじゃないの、大丈夫なのかしら」
人間であれば間違いなく死んでいるだろう一撃だった。
立ち上がったパルスィは近くにあるガラス窓で自分の顔を確認したが、やはり酷い青あざと切り傷ができている。
何度か頬を撫でると、手の平に少量の血が付着した。
この量なら傷自体は大したことなさそうだ、頬骨が折れている様子もない。
「しっかし驚いたわ、あの子がここまでするとはね。
もっとか弱い女の子だと思ってたんだけど、可愛くても鬼は鬼ってことなのかしら」
てっきりキスをされると思っていた、まさか殴られるとはこれっぽっちも想像していなかった。
さとりに”甘ちゃん”と言われたばかりだというのに、どうして自分にとって都合のいい想像ばかりしてしまうのか。
冷静に考えればわかりきったことだ、あの状況で甘いキスをしてはい終わり、なんて甘ったれた展開になるわけがない。
しかし、パルスィが驚いたのは少女に殴られたことだけではない。
想像以上に自分の心が動かなかったことに驚いているのだ。
あれだけ感情をむき出しにして泣かれても、一切だ、本当に一ミリもパルスィの心は揺れなかった。
ここまで来るともう病気なんじゃないかと思えてくる、意識してこんな自分になったわけでもなく、自然発生というのだから驚きだ。
そしてさらに驚くべきは、こんな自分に惚れてくれるヤマメという存在について。
神様というやつは、どうしてこう笑えるほど不平等に幸せをばらまくのだろう。
平等という観点から見れば、パルスィのような妖怪は真っ先に不幸になるべきで、少女こそが幸せになるべきだろうに。
「実は悪いのは私じゃなくて、私たちを作った神様だったりして……」
責任転嫁もいいところだ、今の発言をヤマメが聞いていれば、また口うるさく小言を言われていただろう。
だが今は、そんな小言すらも愛おしい。
少女の行為は冗談で済ませていい物ではなかったが、ヤマメのへの想いを再確認する機会としては適任だったのかもしれない。
そう、だから……今のパルスィは、とにかくヤマメに会いたくて会いたくて仕方なかった。
まだ意識はぐらついている、直立不動を維持するのが難しいほどだったが、動けないほどではない。
「待ってなさいよヤマメ、すぐに迎えに行くから」
ふらつく体を壁で支えながら、川沿いの小屋へと向かって歩き出す。
小屋まではそう遠い距離ではなかったが、そこまで歩いて移動するのは、今のパルスィの状態ではかなりの重労働だった。
軽い脳震盪を起こしているのか、脳がぐるぐると回っているような気持ち悪さがある、視界も常にゆらゆらと揺れていた。
ヤマメが行方不明になった時間を考えると、彼女が小屋に閉じ込められてもうかなりの時間が経過しているはずだ。
ヤマメは怪我をしていない、という少女の言葉を信じるのなら緊急性のある状態ではないのだろうが、ぼろ小屋に本気で惚れた恋人を放置して平気で居られるほどパルスィは薄情ではない。
体を引きずるようにして壁伝いに歩き、ようやく小屋の近くまで辿り着いた。すでに少女と別れてから三十分近くが経過していた。
「……ふぅ」
小屋の扉、そのドアノブに手をかけて一度呼吸を整える。
少女の言葉を信じていないわけではないが、不安がないといえば嘘になる。
万が一にでも、少女が嘘を付いていた可能性。
あの手は本当にヤマメの手で、扉を開けたら愛しい彼女の死体が転がっているかもしれない。
あるいは、致命傷を負わされて衰弱死していたら、もっと早く来ていれば助かるような状況だったのなら。
悪い想像は絶えず湧き上がる。
力なく首を左右に振ってそれらを払いのけ、意を決して扉を開いた。
扉の向こうでパルスィを待っていたのは――
「ヤマメ……っ」
「パルスィ……」
床に座り込み、半笑いでパルスィの顔を見上げるヤマメの姿だった。
「ぷっ、なにその顔」
「……人が助けに来たのに、第一声がそれはないんじゃないの」
「だってパルスィが来てくれるのはわかりきってたし、それにその顔、あの子に殴られたんでしょ?」
「ええ」
「あはは、やっぱり。
そりゃそうだよね、私が同じ立場でも絶対ぶん殴ってるもん」
「……」
「どしたの、黙っちゃって」
「……バカ」
「うわっ、ちょ、どうしたの!?」
もっと追いつめられて、焦燥した顔で待っていると思っていた。
泣きながら抱き合って、感動的な再会になると思っていた。
そんな筋書きを全部台無しにしたヤマメに本当は嫌味の一つでも言ってやるつもりだったが、一番追い詰められていたのはパルスィ自身だったようだ。
嫌味どころか、言葉が何一つ浮かんでこなかった。
色々伝えたいこと、言いたいことがあったはずなのに、もう抱きしめる以外、何も出来なかった。
「バカ、バカ、あんたなんて稀代の大バカよっ、私がどんだけ心配してたと思ってるのよっ!」
「待って、状況がよくわかんないんだけど。
私かあの子かどっちか選べって言われただけなんだよね?
だから私は安心してこの小屋で待ってたんだけど……違うの?」
ヤマメはパルスィと少女がどういうやり取りをしたのか知らない。
自分が勝手に死んだことにされていたことも、わざわざ死体の手首を切り取って持って行ったこともだ。
単純に自分と少女の二択を迫られただけだと、そして自分を選んだばっかりに殴られてしまったのだと思い込んでいた。
「違うわよっ! ヤマメを殺したとか、死んだとか言われて……私が、どれだけ……どれだけ心配して、苦しかったか……っ!」
「ええぇ、あいつそんなことを!?」
「死んでないって聞いても顔見るまでは不安で、不安で、実は小屋の中で死んでたらどうしようって思ってたのに!
何よそれぇ、いきなり笑ってくれてさあ……もうっ、もぉっ!」
ヤマメの胸に顔を埋めたパルスィは、握った拳で肩のあたりをを何度も叩く。
ただでさえ殴られてボロボロの顔は、涙でさらにぐしゃぐしゃになって、本当に笑えるぐらい酷い有様だった。
「怖かったの……ヤマメが居なくなるって考えただけであんなに辛いなんて、知らなかった」
「ご、ごめんね」
「いい、謝らないで。
悪いのはあの子と私なんだから……むしろ謝るのは私の方よ、もっと早くに別れてたらこんなことにはならなかったのに」
胸元から上目遣いでこちらを見上げるパルスィは、いつもより少し子供っぽく見えた。
立場からして甘える側ではなく甘えられる側だったパルスィの甘える姿というのは、中々に貴重なのかもしれない。
保護欲をそそられる、抱きしめて慰めてあげたくなる。
ヤマメはその衝動に抗うことなく、パルスィの頭を優しく抱きかかえた。
「まあ、パルスィがそういうとこきちんと出来ないのは知ってたからさ。
覚悟の上で受け入れたんだから、謝らないでいいよ」
「それはそれで複雑だわ」
「これぐらいの甲斐性がなきゃ、パルスィの彼女なんてやってらんないよ。
でも、それも今日で終わりだけどね」
恋人予備軍になってすでに二週間が経っている。
一緒に暮らしている内に友人関係に対する未練はすっかり消えていたし、今回の件でパルスィに対して抱いていた最後の不安も消えた。
もはやヤマメに予備軍である理由など無いのだ。
「だって、もう浮気なんてしないもんね?」
「もちろんよ、する理由が無いもの、ヤマメなら私の全て満たしてくれるはずだから。
恋人としてヤマメほど完璧な妖怪はきっとこの世のどこにも居ないはずよ」
「歯の浮くような言葉ありがと。
でも、いつの間にか恋人にランクアップしてるんだね」
「違った?」
「違わないけど、こういうのはきちんと区切りを作りたいタイプかな。
わざわざ予備軍なんて言葉使ったんだもん、そんな言葉はもう要らないってこと、はっきりしときたいな」
「ふふ、区切りね」
「どうして笑ってるの?」
「いいえ、大したことじゃないのよ、ちょっとした思い出し笑い」
少女と同じ言葉を使うヤマメに、パルスィは思わず苦笑いしてしまう。
区切りは、確かに大切な物かもしれない。
どんなに想いが通じあっていても、言葉にしなければわからない物はやはり存在する。
「じゃあ、まずは私から告白させて頂きます」
一旦パルスィから離れ、正座で座り直す。
パルスィも釣られて正座の状態になるが、果たしてこれが告白に相応しい体勢なのかはヤマメ自身にもわかっていない。
「やけに改まるわね」
「一生思い出に残るんだから、気合い入れないとねっ」
ぐっと小さくガッツポーズ。
「よしっ」と小さくつぶやき気合を入れなおすと、まっすぐにパルスィの目を見てヤマメは告白を始める。
「好きですっ!」
たった一言。
続きがあるかと思いきやそれだけで、気合を入れた割にあっさりと告白は終わってしまった。
「どストレート……え、うそ、それで終わりなの?」
「色々考えてみたんだけど、ほら私って恋愛経験がないでしょ? だから考えた所で何が良くて何が悪いかなんてわかんないんだよね。
だったら一番わかりやすい言葉がいいんじゃないかと思って」
「まあ、確かにね、想いだけは伝わってきたわ」
改めて言うまでもなく、二人の想いはとっくに通じあっている。
本来なら確認するまでもないあたり前の事を、念の為に確認しあっているだけなのだから、あっさりでも問題はないのだろう。
「あれ、体が揺れてるけど大丈夫?」
「きっとヤマメの言葉が心まで届いてぐらぐらしているからよ」
ヤマメと再会したからと言って脳震盪が治るわけではない。
パルスィは背筋を伸ばし姿勢よく座っているつもりなのだが、どうしても勝手に体が揺れてしまう。
「本当に大丈夫、なの?」
「問題はないわ」
幸い意識ははっきりしている、もう一度頭を揺らされるようなことがなければ大丈夫だろう。
気を取り直して次はパルスィの番。
「さて、次は私の番ね。
私もヤマメに真似て回りくどい言葉は無しにするわ」
「えー、百戦錬磨のパルスィがどんな風に私を口説くか聞いてみたかったのに」
「口説く必要は無いでしょう、とっくに惚れてるんだから。
それに想いはもう通じあってるんだもの、予備軍が取れた所でやることは大して変わらないわ」
「いやらしいことするんじゃないの?」
「一緒にお風呂に入ってるくせに今更だとは思わない?」
「あ、あれはあくまで洗いっこだから!」
「恋人になったら洗いっこの名前が変わるだけよ、やることは一緒なの」
好き合う二人が同棲までして、挙げ句の果てには毎日同衾して一緒に風呂にまで入っておいて何も起きないわけがない。
予備軍なんて言葉、使い始めて三日ほどでとっくに形骸化していたのだ。
その言葉が消えることで何が変わるかと言えば、不要な言い訳をする必要が無くなることぐらいだろうか。
「というわけで、好きよヤマメ」
「いやいや、いくらなんでも適当すぎるって。
もう少しでいいからちゃんとしようよ」
ほとんど無意味な儀式とはいえ、やるからにはきちんとして欲しいのがヤマメ。
パルスィだってわかっている、わかって上で遊んでいるのだ。
「じゃあ愛してるわ、ヤマメ」
「じゃあ!? もっとだめだよ、私の胸がときめくような言葉じゃないと」
「例えばどんなよ」
「あるでしょ、私しか知らない、パルスィらしい言葉がさ」
「……意外と無理難題を出すのね」
「経験者なんだから、多少難易度が上がったって問題は無いはずだよ」
「本気の恋はこれが初めてって何度言えば良いのかしら、私の初恋はヤマメよ?」
「だったら余計にきちんとした告白の言葉を聞きたいかな」
ヤマメしか知らない自分らしい言葉。
パルスィは頭を捻って思い出そうとするが、中々思いつかない。
告白に相応しい言葉自体がそんなに多くないのに、その中でヤマメしか知らないような言葉が果たして存在しているのだろうか。
「わかんないみたいだから、ヒントをあげようじゃないか。
パルスィが可愛い子を見るといつも言ってる言葉です」
「私の彼女になってください?」
「そんなこと言ってたんだ……」
「冗談よ、わからないから次のヒントを頂戴」
「ヒントばっかり出してたんじゃつまんないじゃんかよぅ。
じゃあこうしよう、ヒントその2からは有料制ってことで」
「同棲してるのにお金を取って何の意味があるのよ」
「お金じゃないよ、お代にはもっと別の、素敵なものを払ってもらうから」
そう言いながら、ヤマメはパルスィに向かって唇を突き出す。
「……あまえんぼさんめ」
「んー、払わないの?」
「払うわよ、一回と言わず何回でも、見返りを要求したことを後悔するぐらいにね」
宣言通り、パルスィは即座にヤマメの唇を奪った。
一度では飽きたらず、二度も三度も何度でも、二人は互いに唇をついばみ合う。
ヤマメの目がとろんとしてきたあたりで、これ以上続けては告白どころではなくなると判断したパルスィが唇に人差し指を当て、止めどなく続く口づけを止めた。
先ほどとは違う意味で唇を突き出し、ふてくされるヤマメ。
「これだけキスしたんですもの、さぞ素晴らしいヒントをくれるんでしょうね」
「そういえば、今のお代だったんだっけ」
「やっぱり忘れてたのね、自分から言ってきたくせに夢中になっちゃって可愛いんだから」
「余裕のあるパルスィがおかしいんですー!」
この二週間で随分とスキンシップに慣れたとはいえ、まだまだヤマメには初心な所が残っている。
玄人であるパルスィとはくぐってきた場数が違うのだ。
「たっぷりお代は貰ったから、こうなったら出血大サービス、ほぼ答えの大ヒントを教えてあげる。
私が聞きたい言葉ってのはね、パルスィの口癖だよ」
「……ああ、そういうことね、やっとわかったわ。
でもいいの、そんなので。
私にはとてもじゃないけど告白にふさわしい言葉とは思えないわ」
「いいんだよ、私が言われたい言葉だったんだから。
いつも隣で見ててさ、一度でいいから自分に向けられてみたいと思ってたの」
実は幾度と無くヤマメに向けても使われてはいるのだが、それはパルスィしか知らないことだ。
確かにヤマメに直接言ったことはなかったかもしれない、とは言え憧れるような使い方はしていないはずなのだが。
「わかんないかな、私がどうしてその言葉を聞きたいのか」
「あ……もしかして」
ヤマメから発せられる微かな嫉妬で、パルスィはなぜ彼女がその言葉を望んだのかを察する。
「わかってるよ私だって、あんまり良い意味の言葉じゃないってことぐらいはさ。
それに、好きとか愛してるとか、パルスィが使い慣れた言葉でもきちんと気持ちが篭ってることも、大丈夫、ちゃんと伝わってるから。
でもね……憧れって言うと綺麗すぎるけど、私に向けて一度でいいから言って欲しかったんだ、だってきっかけがその言葉だったから」
「きっかけ?」
「パルスィへの想いが生まれたきっかけがさ、たぶんだけど、他人に向けられるその言葉を聞いて嫉妬したからなんだ。
最初はチクリと針で突かれるぐらいの痛みで、友情の延長線上にあるちょっとした気まぐれなんだって思ってた、だから取り立てて意識する必要も無い感情だろうって。
けど次第に痛みは大きくなって、意識せずにはいられなくなって、それから見て見ぬふりをしようって、そう決めたの。
そう決めた時点で自分も気持ちなんてわかってたくせにね、私ったらどんだけ臆病だったんだか」
「それだけ私との友情を大事にしてくれてたってことでしょ」
「良く言えばね。悪く言えば、私は逃げてただけなんだけど。
早くに想いを伝えていれば、パルスィが苦しむ時間だって短くなったはずなんだから、今思えば間違った方法だったんだよ」
全てが早くに解決していれば、あの少女が傷つく必要だってなかったのかもしれない。
「でも、今はもうヤマメは私の物で、私はヤマメの物なんだから、嫉妬する必要なんて無いはずよね?」
「それは頭ではわかってるんだけどさ、頭の片隅にちょこんと居座る厄介な奴がいるんだよね。
無視しようと思えば無視できるし、放置しても何ら問題はないはずなんだけど、せっかくだから綺麗に消しておきたいの。
100%万全の状態で、パルスィのことが好きだって気持ちだけで頭の中をいっぱいにして、それで恋人になりたいんだ。
そしたら、きっと今までに無いぐらい幸せになれると思わない?」
「同時にとんでもなくバカになっちゃいそうね」
「バカ上等だよ。
羞恥心が無くなるぐらいバカになって、みんなに見せつけてやろうよ」
「不機嫌なさとりの顔が目に浮かぶようだわ」
「違いないね」
脳内でいちゃつくだけでも苛立ちそうなのに、実際にそれを見せつけられた日には、さとりのストレスはピークに達するだろう。
人の不幸を蜜として啜る妖怪なのだ、人の幸福はさぞ毒になるに違いない。
「というわけで、いつでもどーぞ」
正座をして真っ直ぐパルスィを見つめるヤマメは、その言葉を期待してかほんのり頬を染めながらにやけている。
まだ言っても居ないのにここまで幸せそうな顔をするのなら、その言葉を聞いた時どうなってしまうのだろう。
予言通りバカになってしまうのだろうか、むしろそれで済むのだろうか。
際限のない幸福が、少し怖くもあった。
この二週間、二人で恋人予備軍として一緒に暮らしてみて、まあ予備軍という言葉はほとんど無意味ではあったが、多少はストッパーとして働いてはいたのだ。
その言葉がなければ、パルスィはとっくにヤマメに手を出して、二人して滅茶苦茶になっていただろうから。
しかしそれも今日で終わる、パルスィを抑えてくれる最後の壁はもう無い。
望むところだとヤマメは言うだろう、そして惜しげも無く全力で今まで以上に甘えてくるだろう。
パルスィも死ぬほど彼女を甘やかすだろうし、誰も止めてくれないのならどこまでも彼女を愛し続けるだろう。
求めるほど二人は幸せになって、本当に周りの目など気にしなくなっていくはずだ。
パルスィは、自分のことを胸を張って自慢出来るような恋人では無いと思っている。
ヤマメも、パルスィのことを完璧な彼女とは思ってはいない。
他人に自慢するときも、おそらく可愛いとか、優しいとか、誠実だとか、そんな聞こえのいい言葉は使わないかもしれない。
例えば、最悪のカノジョだ、とか、貶してるのか褒めてるのか分からない言葉を使って、満面の笑みで見せびらかすに違いない。
パルスィもそれでいいと思っている、それがいいと思っている。
「ヤマメ、あなたが――」
二人の関係は、長い年月で積み重ねてきた物だ、言葉の表面上の意味だけで計り知れるものではない。
他人からは、”それで褒めてるの?”と言われるだろう。
だが本人たちは知っている、その言葉に最上級の愛情が篭っていることを。
他人に伝わる必要など無い、愛の表現なんて、二人の間で伝われば十分。
「妬ましいわ」
聞き慣れた言葉。胸を満たす幸福。
その言葉の本当の意味を、ヤマメだけが知っている。
いつもの居酒屋は、今日もいつもの面子で賑わっている。
適当な理由を付けて開催される飲み会だったが、最近はもっぱらヤマメとパルスィの二人が口実として使われる。
やれ同棲記念だの、やれ交際一週間記念だの、本人たちでも祝わないような理由で飲み会を開こうとする。
しかし本人は許可を出してはいない、所詮は口実、利用さえ出来れば本人の意思などどうでもいいのだ。
「いやあ、めでたいなあ、今日は一ヶ月だぞ、一ヶ月! さあ飲め、じゃんじゃん飲め、いつもの倍は飲んでもいいぞ!」
「あんたが飲みたいだけじゃない!」
今日は交際一ヶ月記念の飲み会らしい、もちろん二人は連れてこられて初めて知った。
他人には言えない諸事情により二人は少し遅れて居酒屋に到着したのだが、その時にはすでに勇儀は出来上がっていた。
いや、普段から酔っ払ってるのか素面なのか分かりづらい性格をしているだけに、本当に酔っているのかは怪しい物なのだが。
「相変わらずここは煩いわね」
「いいじゃん、たまにはこういうのもさ」
「まあね、今はまだ静かなぐらいだもの、まだマシって所かしら」
以前はヤマメの周りを取り囲んでいた知人たちは、今は離れた場所で飲んでいる。
決してパルスィを避けているわけではない、以前からヤマメとパルスィはセットで飲んでいたし、その時だって構わずに彼らは近寄ってきたはずだ。
彼らが距離を置くようになったのは、二人が付き合い始めてから。
なんでも余計な気を使っているらしく、新婚夫婦は邪魔するもんじゃないと言って、ヤマメが誘っても乗ってくれないのだ。
「……ほんと、デリカシーは無いくせに面倒な気の使い方をする連中ね」
わざとらしく距離を取る飲み仲間を睨みつけながら、パルスィが愚痴る。
「あは、じきに慣れて戻ってくるよ、それまでは思う存分いちゃいちゃしてやろうじゃないか」
「素敵な提案ね、見せつけてやりましょう……じゃありませんよ、また私に見せつけるつもりですか、あの反吐が出るようなハートウォーミングな茶番劇を。
死んでしまえばいいのに」
罵詈雑言と呼ぶにも及ばない暴言を引っさげて現れたのは、もちろんさとりである。
二人が付き合い始めてからというものの、心のなかで常にいちゃつき続ける二人の姿を見せられ、ずっと不機嫌なままなのだ。
「二人に自制という言葉を教えてあげたいのですが」
「知ってるよ、使わないだけで。ねえパルスィ?」
「ええ、不要な言葉としてゴミ箱にぶち込んであるわ」
「それはこの世で一番大事な言葉です、頭のど真ん中に常に置いて釘でも打ち付けといてください」
さとりにとって他人の幸福はまさに毒、脳天お花畑のバカ二人が傍に居る状況は、まさに地獄に他ならない。
そのくせ自分から二人に寄ってくるのだから変な話だ。
「……友達、いますからね?」
「何も言ってないじゃない」
「考えたじゃないですか、嫌がってるくせになんで寄ってくるんだ、友達が居ないからじゃないかって。
しかも二人同時にですよ、こんなにか弱い美少女をいじめるなんて、とんだ極悪人がいたもんです」
まるでパルスィのような自己賛美発言に、二人は興味なさそうに目をそらし、同時に酒をぐいっと口に含んだ。
「お二人、最近ますます似てきましたよね」
行動のシンクロする二人の姿を見て、さとりが指摘する。
行動だけではない、さとりにしか見えない心の中の姿も、一緒に過ごす時間が増えるほどに似た形になっているようだ。
「一緒に暮らしてるとね、どうしてもそうなるのよ」
「うちのペットは変わらずマイペースなのですが、恋人となるとまた違うんでしょう……うげっ」
さとりの言葉が突然途切れたかと思うと、喉からカエルの潰れたような声が漏れだす。
そして次の瞬間、居酒屋中に耳をつんざく黄色い叫び声が響いた。
「お姉さまああぁぁあぁぁぁぁぁっ!」
どこかで聞き覚えのある声。
二人が慌ててさとりの方を見ると、見覚えのある……どころか、一生忘れられないであろう顔がそこにはあった。
「こんばんはお姉さま、こんな所で出会えるなんてやっぱり私たちって運命の赤い糸で繋がれてるんですね、そうですよね、そうなんですよねお姉さま!」
「い、いえ、糸とか知らないですし、妹はもう間に合っているので」
焦っている。あのさとりが焦っている。
さとりの背後から現れ、ガバッと襲いかかるように抱きついた女――なんとその正体は、一ヶ月前にパルスィに振られ、その頬に会心の一撃を放っていったあの少女だった。
「なんでっ、なんでお前がここにいるんだよぅ!」
ヤマメはパルスィを庇いながら立ち上がり、少女を威嚇する。
パルスィに甘えていた時のようにさとりに頬ずりする少女だったが、そこでようやくヤマメの存在に気付いたらしい。
恋する乙女の表情は一変、少女は目を細めながらヤマメを睨みつける。
「あら、誰かと思えばいつぞやの野蛮な泥棒猫じゃないですか」
「私が猫ならそっちは負け犬だね、どの面下げて私の前に現れたのさ、まさかまだパルスィのこと諦められないとか言い出さないよね?」
「はぁ、諦めるぅ? ここに居たことすら気づかなかったのに、そんなわけないじゃないですか、貴方の頭にはスポンジでも詰まってるんですか?
私は貴方の前に現れたつもりなんてありませんし、もちろんそっちの放蕩女に会いに来たわけでもありません。
ただお姉さまに会いに来ただけなんです……あぁお姉さま、会えて嬉しい、今日も見てるだけで目が幸せになるほどお美しいわ」
「お姉さまぁ?」
お姉さまと言えば、少女がパルスィを呼ぶときに使っていた言葉ではなかったか。
だが今は、どうやら少女はさとりに対してその言葉を使っているようだ。
さとりと少女、少なくともパルスィと別れるまでは二人の間に接点などなかったはずなのだが。
「お姉さまはお姉さまです、この世で一番愛おしい方の事をそう呼ぶことにしています。
ああお姉さま、お慕いしています、愛しています、できればお姉さまも私のことを愛して欲しい……っ」
「そういうのはいいので、あの、とにかく離れてもらえませんか」
「ダメです、私とお姉さまの間には見えない引力が働いているのですから」
「働いてないです、というかそもそも引力は見えませんし、暑いので離れて欲しいのですが」
「却下します、私とお姉さまの間には誰にも遮ることの出来ない磁力が働いているんですよ」
「私は金属ではないので、そういうのじゃくっつきませんし、その、離れてもらえると」
「嫌です」
「……ううぅ」
さとりは涙目でヤマメに助けを求めたが、状況が把握出来ていないヤマメに彼女を救えるはずもない。
「何が起きてるのよ、これ」
パルスィは率直な疑問を漏らす。
まず、少女とヤマメが険悪な仲であることについては説明は不要だろう。
いきなり背後から殴りつけられ、拉致された挙句に一方的に勝負の明白な賭けに巻き込まれたのだ。
しかも実はこの二人、小屋でヤマメが意識を取り戻した直後に、パルスィを巡ってキャットファイトまがいの大喧嘩を繰り広げている。
お互いに、今でもあの時の怒りは忘れていない。
次にさとりと少女がいつ出会ったかなのだが――
「ああそうだ、先ほど店員の方に聞いた所、あちらの個室が開いているそうなんですよ」
「そうですかそれはよかった、あなたはそちら飲んでいてください、私はここで飲みますから」
「ですから、二人で行きませんか?」
「あの、だから私はここが……」
「良かった、来てくれるんですね。やっぱりお姉さまったらお優しい。
それではお姉さま、早く行きましょう、あんな下品な奴らが居る場所は一刻も早く離れたいので」
「いや私は良いとは一言も言って……あの、聞いてますか? ああそうですよね、聞いてませんよね、今まで一度も聞いてくれたことありませんでしたもんね。
ええわかってます、わかってますよ、私はこのまま有無をいわさず連れて行かれてしまうんです、そして口ではとても言えないことをされてしまうんです、どうせそうなんです!」
似たような状況は一度や二度ではない、少女は驚異的な嗅覚でさとりを探し当てては、強引に密室、あるいは暗所へと連れこむのである。
その手口は、どこかパルスィに似ているようにも思えた。
「ねえパルスィ、そういうやり方も教えてあげたの?」
「教えるわけ無いじゃない、遊びだって感づかれたら逃げられるだけなんだから。
見て盗んだんでしょうね、無意識の内に」
「つまりは直伝ってことだよね、怖い怖い」
通りで、あのさとりでも逃げられないわけだ。
しかもあの少女、頭の中がさとりでいっぱいになっているので、心を読んだ所でほとんど意味が無いのである。
さとりがヤマメとパルスィの前で不機嫌そうにしていたのもそういうことだ。
強く想い合う恋人たちは、心を読んでもあまり効果がない。
「あの……ヤマメさん、パルスィさん」
少女にずるずると引きずられていくさとり。
一人であれば絶対に逃げられない、しかし二人の助けがあれば脱出できるかもしれない。
そのためには、助けを求めなければならない。
他人に助けを求めるなど、普段のさとりならばそのプライドが許さないだろう。
助けを求めるにしても、心を読み相手の弱みを握って、半ば脅すようにして”お願い”するはずだ。
だが、今のさとりにそんな余裕はなかった。なりふり構っている時間もない。
「助けて、くれませんか」
引きずられつつ、こちらに手を伸ばしながら、涙の潤む瞳で助けを求める。
二人は、出来ればあの少女とは関わりたくはなかった。
一応は関係に区切りが付いたとはいえ、恨まれるだけの理由は十分にあるし、下手に絡んで不必要に傷つけるのも本意ではない。
しかしだ、友人であるさとりを見捨てるのはいかがなものだろうか。
確かに普段のさとりは他人の不幸を見て喜ぶどうしようもない外道だが、たまには友人らしく助けてくれることだってあったはずだ。
例えば、ヤマメが覚悟を決めようとするのを途中で遮ってみたり。
例えば、パルスィに偉そうに忠告したわりにはすでに手遅れだったり。
ヤマメとパルスィは互いに視線を合わせ、意思を確認しあう。
話し合うまでもなく、意見はすぐに固まった。
そして、二人で声を揃え、さとりに向かって爽やかに告げる。
「グッドラック!」
親指を人差し指と中指で挟み、それをサムズアップのようにさとりに向かって見せつけながら。
「それじゃグッドラックじゃなくてグッドファックじゃないですかぁぁl! いやですっ、私はもう嫌なんですっ、たすけてぇぇぇっ!」
ずるずるずる。
少女に引きずられ奥の個室へと連れて行かれるさとりの声は次第に小さくなっていき、個室のドアがぴしゃりと閉じられると同時に聞こえなくなった。
少し可哀想ではあるが、不思議と二人の心に罪悪感は湧いては来ない。
むしろ初夏の爽やかな風を思わせる、清々しい気持ちがあるだけで――普段の行いはやはり大事なのだな、と二人は改めて思い知る。
その後、さとりが消えていった個室のドアを少し眺めたああと、何事もなかったかのように座布団の上に座ると、何事も無かったかのように談笑を再開した。
「お前ら、ちょっと薄情すぎやしないか?」
「眺めてるだけだった勇儀も中々に薄情だと思うよ」
「はっはっは、あのやり取りを見たのは一度や二度じゃないからな、すっかり慣れちまったんだ」
「勇儀、あんたはあの子がさとりに懐いた理由を知ってるの?」
「ああ、薄情って言ったのにはそのへんも関係してるんだよ」
つまり、さとりと少女が出会ったのにはヤマメとパルスィの二人が関連している、ということらしい。
「まあ、直接関係があるとは言えないかもしれんがな、なんたって二人が知らない所で起きた出来事なんだから。
お前があの女の子をこっぴどく振った後、さとりが偶然にも橋の所で落ち込んでるあの子を見つけたんだと。
今にも身投げをしそうなぐらい凹んでたらしくてな、しかもその原因が自分の友人と来たもんだ、さすがのさとりでも放っておけなかったらしい」
「あのさとりが、放っておけなかった?」
「ヤマメが驚くのも仕方ない。
ただし、さとりは純粋な善意だけでパルスィのアフターケアを請け負ったわけではないからな。
どうもあいつなりに思う所があったらしくてな、詳しい話は知らないが、なんでも”タイミングが悪かった”んだとか」
「あぁ……」
「確かに、悪かったわね」
覚悟を遮ったこと、忠告した時にはすでに手遅れだったこと。
良かれと思ってしたことなのだが、どれもが裏目に出てしまった。
見た目ではわからないが、さとりなりに落ち込み反省したと言うことなのだろう。
その償いとして、さとりは自らあの少女の心のケアを行うことを決めたのだ。
「で、だ。
さとりのケアは完璧すぎるほど完璧だった、最初はすっかり落ち込んでたあの子も一週間もすれば元通り……いや、元以上に元気になってたよ」
心を読めるさとり以上に的確な心のケアを出来る者はいないだろう。
サディスティックな欲望さえ我慢できれば、メンタルカウンセラーとして人の役にも立つことができるはずだ。
あくまで我慢できればの話だが。
あのさとりにそんな辛抱が出来るとは思えない、今回は特例中の特例と言うことになる。
「あー、なんとなくその先の話が読めちゃった」
「大体想像通りだと思うぞ、パルスィを失った穴にちょうどさとりがハマったってわけだ」
「その言葉から卑猥なイメージしか浮かばないわね」
「お前は相変わらずだな……」
ヤマメと付き合い始めても、パルスィの根本的な性格が変わるわけではない。
むしろヤマメまで染まり始めて状況は悪化しているぐらいだ。
「さとりにはあとでお礼言っとかないとね。
あいつがどうなろうと知ったこっちゃないけど、苦労かけてるのは事実みたいだし」
「こっちから奢ってあげる?」
「それいいね、今ならさとりの方が嫌がりそうだ」
「あんまりいじめてやるなよ、あれでも悩み多きお年ごろらしいからな」
少女のことだけではなく、他にも色々と、さとりの手に余る問題が起きているらしい。
奢るのを拒否されたのならその時は手助けを申し出よう、ヤマメはそう心に決めた。
飲み会は進み、中には潰れる妖怪もちらほらと現れてきた。
そんな中でも、勇儀は相変わらずのハイペースでぐびぐびと色んなお酒を飲み続けている。
ちゃんぽんだろうが何だろうが彼女には関係ない、出された酒は出された分だけ飲む、そして決して飲まれはしない。
対照的に、ヤマメとパルスィは肩を寄せ合いながら、端っこで二人でちびちびと飲み続けていた。
ペースは遅いが、飲み会が始まってからすでに数時間が経過している、トータルの量で言えばそこそこになっているはずだ。
アルコールが回り、ほんのり汗ばんだヤマメの首筋。
真横にある魅惑的なラインがパルスィの情欲を誘う。
思わずチラチラと覗き見ていると、視線に気づいたヤマメが妖艶に笑った。
「えっち」
「否定はしないわ」
「しないでいいよ、それでこそパルスィなんだからさ」
ヤマメは両手で持っていたグラスから右手するりと外し、パルスィの左手と絡める。
指と指も絡みあい、二人の手がしっかりと結ばれた。
「パルスィ、実は少し安心したでしょ」
「何が?」
「あいつのこと。
惚れた相手は置いとくとしても、次の恋に進んでくれて良かったと思ってるんじゃない?」
「思ってないと言えば嘘になるでしょうけど、たぶんヤマメが思ってるような意味じゃないわよ」
「傷つけたことを反省してたんじゃないってこと?」
「私がそんな素直な反応すると思う?」
「あー……そっか、パルスィはパルスィなんだった」
「そうよ、私は私なの。
だから、本当にあの子についてはなーんにも感じてないの、自分でも自分の薄情さに驚くぐらいにね。
確かに安心はしたんだけど、その理由はね、感情の矛先が私に向くことが無くなったから、かな」
区切りが付いても、何かの拍子で少女の恨みが再燃する可能性だってあった。
次こそは本当にヤマメを殺してしまうかもしれないし、パルスィの身にも危険が迫るかもしれない。
だがさとりのケアによってその可能性は摘み取られたのだ。
そういう意味では、アフターケアは実に的確だったのかもしれない。
その代償はあまりに大きかったが。
「自己保身かぁ、相変わらずいい性格してるね」
「なんたって悪女だもの」
「やっぱ不思議だな、なんで私ってばこんな悪女に惚れちゃったんだろ」
「後悔してももう遅いわよ、最悪の彼女を選んだ自分を呪うのね」
「呪うなんて、むしろ逆だよ。
こんな最悪の彼女、本当の意味で愛せるのは私しかいないし、愛されるのも私しかいないでしょ?」
真顔でそう言い切るヤマメを見て、パルスィの顔は真っ赤に染まった。
誤魔化すように慌てて酒を煽り、アルコールのせいだと言い訳しようと思ったが、それでどうにか出来る程度の赤さではない。
ヤマメはクスクス笑いながら頬を赤らめ慌てるパルスィの姿を眺めていた。
「まったく……ヤマメは呆れるほどロマンチストなのね」
「そうかなあ、こんなに素敵な恋をしたんなら、誰だってそう思うんじゃないかな」
「素敵な恋と思える時点で十分夢想家よ、頬をグーパンチで殴られるロマンスがあってたまるもんですか」
「あっはは、スリルがあっていいじゃん」
「受けてないからそうやって笑ってられるのよ、ほんと笑えないぐらい痛かったんだから」
幸い、パルスィの頬骨は折れてはいなかったが、少女のパンチを受けてから一週間ほどは青あざが消えなかった。
少女に殴られたことがよっぽどツボにはまったのか、ヤマメが治療するたびにゲラゲラ笑うので、跡が残らなかったのはパルスィにとって不幸中の幸いだった。
「私たちさ、パルスィが殴られたことも含めて、笑えることも笑えないことも、色々経験してきたんだね」
「長い付き合いだもの」
「たくさん、積み重ねてきた」
「記憶が全部ヤマメで埋まるぐらいにはね」
ヤマメはパルスィの方にしなだれる。
さらに密着した体から、いつもより少し高い体温が伝わってくる。
些細な触れ合い、ちっぽけな時間。
薄い薄い記憶でも、これもまた一つの記憶の糧になる。記憶の塔に積み重ねられていく。
「ねーえ、少し恥ずかしいこと言っても良い?」
「許可なんてとらなくていいのよ」
「んーん、こればっかりはそうもいかないから、イエスかノーかの答えが欲しいんだ」
「じゃあイエス」
「そんなに簡単に答えちゃっていいの? 案外大事な選択かもよ」
「いいのよ、ヤマメのこと信じてるから」
「だったらいっかな、きっと後悔はさせないよ」
忘れた頃に思い出して、笑いあえればいい。
パルスィがとんでもない遊び人で、何人もの女を泣かせてきたことも。
そのせいでヤマメが連れ去られて、パルスィが頬を殴られたことも。
さとりが少女に面倒な絡み方をされたことも。
「これから一生、二人で積み重ねていこうね」
このあと二人が、周囲の視線も気にせずに堂々とキスしたことだって――思い出の積み重ねになって、そのうち笑い話に出来るのだろう。
二人が、一緒に居る限りは。
惹かれるものがある
それはそうと少女ちゃん大丈夫だろうか…おもにこいし関係でw
パルスィもアレだがこいしちゃんも業が深そう
さとりの明日はどっちだ
パルスィは一貫してクズだし、お姉ちゃんもほぼ一貫してクズだし、少女がちゃんと復讐に回ってるし、良かったです。
いや、序盤にパルスィとヤマメの関係を色で表現しようとしたら途中でやられて何と言えばいいのか…
青緑や灰色のどこかアンニュイなパルスィは大好物なんですけど、それにピンクも入ったパルスィが良いですねぇ…実に良い
ヤマメの純白とあらゆる色が混じり合って真っ黒なパルスィ
そして気温や湿度が色彩を変調させるようにキャンバスの裏で躍動するさとり
個人的に一番いいキャラと言いますか、イメージにピッタリカッチリ来たのはさとり様ですね。嫌われ者を自負しながら生きる表現はホント素晴らしい
ただ最後の嫉妬狂アイドルちゃんの所がちょっと強引に思えたのでそこで-10点させていただきました。
ドデカいどんでん返しなストーリーよりも廃退的な方がパルスィの印象に似合うという個人的な見解がどうも引っかかっちゃって…
さとりが憎めないいいキャラしてました。
悪女なのに乙女かわいい
その才能が妬ましい