酒を飲みたい
これの続きみたいなものですが、読んでいなくても支障はありません
地底の視察なんて閻魔の仕事ではない。もっと言わせて貰うならば、誰かが現地に赴く必要などそもそも無いのだ。いつ惨劇が起こるか分からない剣呑な気配渦巻く初期の頃ならともかく、地底は最早安定し彼岸側の物資を支援ではなく輸入という形で受け取れるまでに至った。
以降の全ては住民の自主性と独立性に任せるものとし、最低限の報告義務を課すのみとする。
そう決断が為され、地獄のスリム化とそれに伴う一連の計画が無事に完遂したのはもう随分と昔のこと。
だと言うのに、私には定期的に地底の様子を見てくるようにとの司令が下る。それも、1日以上の期間を含む出張扱いだ。さとりから書類を受け取り、ぐるりと地底を回っても半日過ぎれば良い方で、必要外の業務に必要以上の時間が意図して与えられているのは明らかだった。
「映姫さま、そりゃあれですよ。あなたがてんで有給を使わないものだから、お上が休めと気を使ってくれてるんですよ」
退職に追いこむ準備やも知れぬと不安になって小町に相談すると、彼女はからから笑ってそう答えた。「あたいより先に映姫さまがクビになるなんて有り得ませんって」と続けたので、分かっているなら働けと説教に移ってしまい感謝の言葉を送り損ねたが、小町には随分と気を軽くしてもらった。
その後は地底の視察を命じられても一々憂いず、休暇を与えられたのだと割り切って羽を広げて休むことに専念した。始めはゆっくりしていると何だか臓腑がむずむずして落ち着かなかったが、そのうちに読みたい小説を二、三鞄に詰めていくのが当たり前となった。
ある日に上司に眉間のシワがほぐれたようだなと安堵されたので、恐らく小町の推測は当たっていたのだろう。
さて、休むとは言ったが、そこには私のワーカーホリックっぷり以外にも問題があった。
休みを貰っていることに気がつかされるまで私は何とか成果をあげようと、地底において一層張り切って良き人物になるよう説いて回った。その結果、閻魔という存在は活況を散らす冷水となってしまった。
仕事という体で来ている以上、私に付く閻魔の肩書きは消えてはおらず、格好もそれに準じる。心持ちが幾ら変化しようと、外から見れば四季映姫・ヤマザナドゥが変わりなくそこに居て、ひょっこり飲み屋に顔を出そうものなら喧騒が肴の酔っ払いが声を潜めてしまう。そそくさ退散していく者も珍しくない。
つまり何が言いたいのかだが、私が居ても迷惑にならない店は地底では貴重も貴重だということだ。加えて私が騒がしいのを好まない為に静かな店という条件も入る。そうなると砂山に紛れた一粒の砂金が如くとなる。しかし、運の良いことに私はその砂金を見つけ出していた。
それを守矢の神さまたちがやらかしてくれた。地底は地上に開かれ、大きな変化の渦に飲み込まれた。私が贔屓にしていた店も例に漏れず。
開発激しいアリ塚三層に移転した旨の張り紙を見ただけで不安が揺さぶられたが、実際に訪れると眩暈がした。壁には夜雀と山彦のポスターが整然と掛かり、額に収められたチケットやピックがカウンターから見える位置に配置され、ライブ会場限定グッズであろう団扇や犬の付け耳が飾られている。カウンターの奥に立つ見知った輩はバーダー(鳥獣技楽のファンをこう呼ぶ)の証である雀の羽を模したバッジを付け、同様の物を胸に光らせる客たちと薄気味悪い話題に花咲かせている。
客は少なく、店主は寡黙、酒は地底らしく日本酒しか置いていなかったが、落ち着いた時間を過ごせる店だったのだ。それがあんまりである。入ってしまったので利用はしたが、バーダーがピーチクパーチク歌を口ずさむ店内の居心地は最高級に悪かった。
そんな折に橋姫が酒の話を抱えてやって来たのは僥倖だった。それも洋酒だ。日本酒は嫌いではないが、私の好みはやはりウィスキーである。彼女は酒の卸売をしたいと語ったが、私が押して押してついでに特典を付けてBARを開くことに合意させた。完全に私欲だ。今考えると実に強引なやり口で恥ずかしい。
旧都を一号縦穴方方面に抜け、賑わいも遠ざかってくると水の流れる音が聞こえてくる。そのまま道なりに進んで橋を渡れば右手側に小さな看板と坂道。そこを登ると現れるのが黒塗りの壁と白い隅石とのコントラストが美しいBAR ミズハシだ。
BARのことは分からないから店の作りはお任せすると言われたので、この外観には私の趣向が大いに反映されている。ただ一つ、川側にある屋根付きのテラスだけは店主の希望だ。せせらぎを聞きながらグラスを傾けたいとのこと。それにより店を長方形とすることが出来なかったのは、少しばかり残念に思っている。
内装の方も好きにして良いと言われていたのだが、私の意思ばかりが映るとそれはもうパルスィの店では無くなってしまう。仕事に愛着を持ってもらう為にも、基本的な作り以外は全て彼女に選ばせた。今も悩んでいる途中であるらしく、前に来た時とは照明の形が変わっていた。
グラスの残りを喉に流す。訪れるのも3度目となると、未経験から始めたマスターの腕が随分と良くなったのを感じる。酒に氷を浮かべた代物ではなく、どうにかロックの名を冠しても許される出来になっていた。
「なに?」
そのマスターの顔を見つめていたら睨み返された。まったく客に向ける顔ではない。柔和な笑顔で対応してくれるなんて期待はこれっぽっちもしていないが、気難しいラーメン屋ではあるまいし、もう少し愛想を出してくれても罰は当てないのに。
「いえ、美味しい酒を作るようになったなと。それとお代わりを」
「ふーん、実感ないなぁ」
日々少しずつ上達していくものだから、私みたいに期間を空けて訪れないと分からないだろう。新しい氷に入れ替え、ウィスキーを注いでステア。グラスと接触する音やステアの加減が甘いところはあるが、開店した時はがちゃがちゃ煩く鳴らして半ばストレートの品を出していたのだ。水割りやハイボールも感覚で適当な比率を注げるようになっているようだった。
「これなら小町を連れてきても良いかもしれ……なんです?」
変な発言をしたつもりはないが、今度は私が緑の瞳にじろりと見つめられることになった。このマスターは煩いのが嫌いだから小町の江戸っ子気質を心配しているのかもしれない。そう思っていたのだが、彼女が顔をしかめたのはもっと別の理由だった。
「ここカップル禁止なんだけど」
「ぶふっ!?」
嫌な飲み方をした。アルコールが喉奥に焼き付き、噎せるのが止まらない。
「な、なにを言い出すのですか、貴女は! 私と小町は上司と部下の関係であって、そのようなふしだらな、あ、いや、ふしだらという言葉は適切ではなくてその……、と、とにかく! 貴女の言う関係ではありません!」
そりゃ、小町は美人だし柔らかだし優しいし、作ってくれるお弁当は美味しいし、へにゃっとした笑顔が愛嬌あって素敵で、買い物に行くと何でもないように荷物を持ってくれるのが格好良くて、彼女の伴侶となる人は幸せだろうなとか考えたりするけども! こっ、恋人にだなんてそんなの想像するだけでいっぱいいっぱい……って違う! 違うったら違う! 上司と部下! 上司と部下!
たまらなく喉が乾いて、行儀が悪いのも無視してグラスの中身を氷ごと口に流し込んだ。
「なんか饒舌ね、閻魔さま」
かっと熱くなった顔はお酒のせいだ。そうに決まっている。
「ま、恋人じゃないならいいや。お客が増えるのはありがたいし」
そう言って話を終いにしたパルスィは、ウォッカにみかんジュースを注いでスクリュードライバーもどきを作った。いま客は私しかおらず、その私も追加の注文をしたわけではない。あれは自分用だ。
ごくりごくりと喉を鳴らして長グラスの半分ほどまで一気に減らすと、堪らないといった様子で美味しいと叫んだ。バーテンダーがそうやって酔っ払うから客の入りが悪いのだ、と説教してしまうのは何だか恥ずかしさを誤魔化す為だと受けとられそうで、何も言わずにただ口の中の氷をガリガリと噛み砕いた。
パルスィがあんな発言をしたものだから、私の腰といえばすっかり引けてしまい、小町をBARに誘うことに随分と悩むことになった。
酔わせてしまおうだとか、良い雰囲気で絡め取ろうだとか、そんな疚しい気持ちは抱いていないはずなのに「飲みに行きませんか?」の一言が喉で引っかかって出せなくて、小町をちらちらと伺っては視線に気付かれそうになって顔を反らす。そんな挙動不審がここ最近の私だった。
けしからん話なのだが、私のこの分かりやすい葛藤は上司同僚後輩含め多くの職員たちに賭け事にされていた。四季映姫がするのは告白か懺悔かそれともヘタレて終わるか、と。もちろん、犯行を抑えたその場で特大の雷を落としてやったわけだが。ちなみにオッズは7.5、3、1.12となっていた。あいつら私を何だと思っているのか。
そういった騒ついた雰囲気になっていたからか、持ち前の大雑把さで他者の視線など気にしないことが多い小町も私の視線を捕まえては「なんですか?」と聞くようになった。その度に苦しい言い訳をしていたのだが、彼女が素直に引き下がり続ける訳も義理もなく、私は遂に従順さを切らした小町に追い詰められた。
「今日こそは話してもらいますからね」
小町の右手は退路を塞ぐように壁に伸ばされ、左手は逃さないように私の肩を掴んでいる。私は小さく小町は大きい。その姿勢から目線を合わせようとするので、彼女は私に覆い被さるようにして立っている。
顔を反らすしかない。だって仕方がないじゃないか。ふわりとした甘さのある匂いを感じられるほどに彼女が近くにいる。それだけでもくらくらしてくると言うのに、まともに正面を向いてしまえば、掴まれた肩から胸に流れてくる熱を抑え込んでおける気がしないのだ。
「映姫さま」
吐息が耳たぶを擽る。名前を紡がれて弱い痺れにも似た感覚が心の奥に生まれる。小町の左手がゆるゆると肩から上がってきて、首筋を撫でて顎を掴んだ。
「話を聞くときは相手の目を見なさい。あなたの言った言葉です。さぁ、こっちを向いてください」
小町は強制しなかった。親指を動かして頬を撫でながら、やんわり力を加えて正面を向くように促しただけだ。決して抗えないものじゃなかった。でも、私は向いてしまった。駄々っ子を宥めるような優しい口調にはそれだけの魔力があった。
睫毛の長い緋色の瞳、すっと細まった鼻、瑞々しくふっくらした唇の端にまとまりから外れた赤い髪が一房かかっている。首元から肩まで伸びた鎖骨が窪みを作っていて、少しはだけた着物から彼女の大きな胸が肌色を覗かせている。
カップルと言ったパルスィが悪い、告白するかと賭けていた職員たちが悪い、こんな時でさえ綺麗な小町が悪い。怒られているというのに青ざめるどころか、ただ真っ赤になってしまうのは。自分の鼓動がドクンドクンと煩いのは。
「小町……」
視線が絡む。触れられている部分が熱い。呼吸の度に彼女の香りを吸い込むことになってしまう。
「ち、近いです……、小町」
どうにも限界で、口を出たのはそんな情けない一言だった。
「あっ、そ、そのっ、ごめんなさい!」
それだと言うのに、お願いを聞いてくれた小町が離れていくのを寂しいと思った自分が滑稽だった。
私の熱が伝わってしまったのか、小町の頬もすっかり赤い。気恥ずかしさにお腹の辺りがむずむずしてくる何とも言えない沈黙が降りた。それでも一度絡んだ視線が解けることはなく、私と彼女はただ見つめ合った。時間が止まってしまったかのようだったが、相変わらず私の心臓はドクンドクンと忙しい。
小町に最初の気勢はもう感じられず、このままさっと逃げてしまうことも出来そうだった。でもそうしようかと考えると、頭に二つの光景が浮かぶのだ。
一つは1.12の数字。そう、あの賭け事の倍率だ。私がヘタレて何も言わないまま終わることに、皆は随分と期待していた。いや、むしろそうなるのが当たり前だと思っていた。
もう一つは私がこれまで下手な言い訳で誤魔化す度に見てきた小町の様子。がっくり肩を落とし、辛そうな寂しそうな影をそっと纏わせる。しかし最後には何とか精一杯に浮かべたんだと察せられる弱い笑顔で、何も無いならそれが一番だと言ってみせる彼女。
確かに私は卑怯で臆病な存在で、情けない奴だと笑われてしまうぐらいには逃げるのが癖になってしまっているのだろう。そんな私だが、ここで逃げてはいけないことは分かった。小町はもうあの弱い笑顔を見せることすらしなくなる、そんな気がするのだ。
言わないといけない、今度こそ。恥ずかしいからってそんな感情で、彼女を悪戯に振り回してはいけない。
「こ、小町!」
「は、はいっ!」
声が上擦った。彼女のもだ。緊張している。唾液一つを飲み込むのにすら、大げさに意識して喉を動かしてやらないといけなかった。
「わ、私、私は貴女に言いたいことが……」
ごくりと彼女の喉が動いた。
「小町、私と……」
少しでも勇気が欲しくて彼女の手を握って引き寄せた。どちらの熱だか分からない、どちらの汗だか分からない。ただ湿った手のひらはぴたりと相手の肌に吸い付いて、彼女もしっかり握り返してくれたから隙間なんてなくて、とろとろ溶け出して混ざり合ってしまいそうな感覚に陥る。
言わないと。言うべきだ。言いたい。言え! 言うんだ!
一呼吸して、声を絞り出した。
「私と……っ!」
期待するなって方が無理だろう。
頬を上気させて瞳を潤ませ、私の方が背が高いから自然と上目遣い。そこから「ち、近いです……、小町」なんて消え入りそうな声で言われちゃぁね。お互い照れて顔が真っ赤で雰囲気も甘いし、手をぎゅっと握られてさ。そんなの告白されるんじゃないかって、期待しちゃうじゃん。だって、好きで好きで大好きでもまだ足りないぐらい好きな人が相手なんだから。
でも結局あの人が私に話し出すかどうかずっと迷っていた一言は「飲みに行きませんか?」だ。そんなのしょっちゅう行ってるし、お互いの家でだって酒瓶を開けたこともあるのに、いったい誰に何を言われたら今更そんなことが言い出し辛くなるのか。
お陰で、私の人生でもトップにでる落胆って奴を味わった。
ま、それはそれ。あの人が心配するから何時までも引きずってはいられない。なんやかんや久しぶりに酒を一緒に飲めるのだと前向きに考えることにした。
連れてこられたのは地底世界。それもBARだから二重に珍しい。映姫さまは仕事で来るからと私事で訪れるのを控えているし、地底というか鬼の暮らす土地ではいかんせん酒虫が強すぎて洋酒文化の育つ土壌がないからだ。
BARの外観はなんとも綺麗に白黒と別れたもので、映姫さまの好みをずばり突いている店だなぁと感想を漏らすと、「私が設計しました」と可愛らしく胸を張って自慢気に答えてくれた。
そう言えば、贔屓の店が死んでしまったと愚痴を聞かされたのを思い出した。無くなったのなら新しく作ってしまえ、ということだろうか。法の範囲を脱することはしないとは言え、この人は時たま驚くような行動を起こす。
貰っている給金の割には高級品に吸い寄せられることの無い人だから、たまにの大きな散財は案外バランスの取れた行動なのかもしれないが。
外観に合わせてモダンスタイルという訳ではなかったが、内装は実にシンプルにまとまっていた。ウェンジを使った暗色のカウンターに低い背もたれの付いた白い丸椅子、壁掛け燭台を模した円柱照明。碁盤目に敷き詰められた灰色の石材の床と黒煉瓦模様の壁紙で古城の一室のようだ。余計な調度品や装飾はないが色彩に欠いていたりはしない。テラスへと続く大きなガラス戸、そこから旧都の賑わいの灯を眺めることが出来るからだ。
映姫さまは「椅子が……」と呟いていたが、いい雰囲気である。驚くことにはこれはマスターの趣味であるらしい。いやホント、驚くことなのだ。なにせ、ここのマスターは嫉妬を操る橋姫さまだ。客商売をやってるのも充分驚くが嫉妬なんて淀んだ感情を操る彼女にこれほどのセンスがあったのは予想だにしなかった。
それで肝心の酒の方だが……、まぁ、バーテンダーを名乗るのは少し早いかもしれない。私が清流を頼んだら川の水を汲んでくれば良いのかと大真面目に聞いてきた。日本酒のカクテルだと教えた後は本をぱらぱらめくったが、作り方が面倒だし材料を揃えていないと突っぱねられた。
随分と適当な奴だ。適当であるがその力の抜け具合が妙に気に入り、彼岸の店で飲むより格段に安いのもあって、私は橋姫の店にこの後も度々通うようになった。
そうして初めて知ったのだが、映姫さまの前ではあれでも真っ当に商売をしていたようだ。他の客だと瓶とグラスを置くだけで済ませることもあったし、店番を土蜘蛛やら地獄烏に任せてテラスで寛ぐこともあった。それに気分屋で自家製のミードが不味かったからとの妙な理由で店を休みにしていたこともある。
また、店もBARと呼んでいいものか怪しいと知った。昼間に覗きにいったらきちんと開いていて、さすが地底は呑んだくれの街だなと感心して入ってみれば食欲をそそるいい匂い。中ではオムライスが作られていた。店主の自信たっぷりな様子を裏切らず絶品だったが、それ故にカウンターの奥に整然と並ぶ酒瓶たちが物寂しそうだった。
そんなところも粋だと笑って済ませるぐらいには常連になっていたある日、珍しく客は私一人の時のこと。橋姫は私にとんでもないことを言ってきた。
「本当に映姫と付き合ってないの?」
私の口からブランデーV.S.O.Pが霧状になって噴出された。汚いと眉を顰められたが、原因は完全に向こう側にある。いきなり何を言いだすんだ。
「ない! ないって! 私と映姫さまはただの部下と上司さ」
今はまだ、という言葉は飲み込んだ。
何時も働き詰めなものだから甘えてきて欲しいと思うわけで、サボりが多いのは半分性分でもう半分は会いたいからなわけで、怒っている顔も可愛いなんて思ってしまうわけで、でも一番可愛いと思うのは口元を少し緩めるあの静かな笑みなわけで。私が映姫さまに惚れ込んでいるのは否定しないしさせる気もない。もしかしたら、恋人になれるかもだなんて期待を抱いているのも。
ただ、私ばかり心の用意が出来ていたって仕方ない。決して私の自惚れなどではなく、映姫さまには嫌われていないどころか好かれているのだろう。しかし、それが果たして等式で恋愛感情となるかどうか。
映姫さまは良くしてくれる。自宅に招かれたことも招いたこともある。買い物に行って手を繋ぐのを拒まれたことはない。でもそれは友情を超えると証明するに足るか、それは仕事仲間という枠を破壊するに足るか。
今のままの関係でも充分心地よく、間違って崩れるのを恐れて現状維持で甘んじているのが私だ。
「でも好きなんでしょ? ちゅーとかしたいんでしょ?」
余りに遠慮ない物言いに私は言葉を返すことが出来なくなったが、赤くなった顔は何よりも饒舌に本心を語っていたのだろう。橋姫は頬杖を付いてにやりと笑った。
「じゃぁ、恋人になればいいじゃん」
「お、お節介が過ぎるよ、あんた。縁結びくらい自分でするさ。なんたってくっつけようとする?」
「あんたら一緒だといちゃいちゃするし、一人だと惚気るしで精神衛生上良くないのよ。でもカップルになればほら、ここカップル禁止だから追い出す理由出来るし」
先程とは別の意味で口が動かなくなった。なんて酷い理由だ。橋姫の本分を全うしていると言えばそうなのだろうが、鬱陶しいからくっつけとは暴虐ここに極まれりではなかろうか。
諦めるように諭したり、ふざけるなと怒りを露わにすれば、押しの強くない橋姫は話題を切ってくれるだろうが、肝心なこんな時に頭の方はすっかり真っ白で、浮かぶことと言えば映姫さまを問い質したあの時のことだから始末が終えない。
潤んだ瞳、上気した頬、首筋にかかる髪、縮こまった身体、掴んだ肩から伝わる震え、熱い吐息、私の名を呟く声、甘くゆっくり流れる沈黙。
あぁ、いまなんとなく分かった。映姫さまが言いにくそうにしていたのは、きっとこの橋姫がとっとと付き合えだのなんだのかましたからに違いないと。ならば、私も同じ状況に立たされようとしているのか。
「次は映姫と来なさい。しっかり仲を取り持って、じゃんじゃん追っ払ってあげるから」
サムズアップと爽やかな笑顔。もしかしたら私の方がマズイ状況なのかもしれない。
それからの日々は、逃走の日々だった。映姫さまとの接触は極力避けるように動き(つまりはサボりを止めて真面目に働き)、誘いも適当な理由をでっち上げて全て断った。ここ数週間で何人もの親戚が病院で入院したことになっている。
私のこの明からさまな態度について職員らがあれこれ邪推している場に出くわしたことがある。向こうさんは私の出現に固まって貴女のことじゃないだのなんの弁明を繰り返して去っていったが、内容はしっかりと聞こえていた。曰く、私の態度は映姫さまからの告白を断ったのが気まずくて仕方ないからだとかなんとか。
違う。あの日からどうにも意識が浮ついていて、橋姫が節介を焼かずとも酒が入れば口が滑りそうで怖いだけなんだ。映姫さまから告白されたのなら、涙を流して喜ぶのに。
私が映姫さまに捕まったのは噂を耳にしてそう長くないころである。
ここ最近の常であるように極々簡素な事務連絡を済ませて帰宅しようとしたところで、後ろから声もなく抱きつかれた。
「え、映姫さまっ!?」
お腹に回った手、背中に当たる吐息、密着して混じる体温。たかだか十数日のはずなのになんだか随分と久しぶりに映姫さまに触れた気がして狼狽えた声を上げたが、彼女はそんな抗議の声を鎮めるようにただぎゅっと抱きしめる力を強めた。
暫くどうすることもなく時間が過ぎていった。
此処は執務室で、今はちょうど仕事終わりの時間。訪ねてきた誰かに見られ、私達の噂が尾ひれはひれをつけて際限なく広まってしまう危うさはあったけれども、映姫さまは私を離そうとしなかったし、私も離したいと思わなかった。滑稽だ。これまで散々逃げておいて、いざ捕まると大人しくなってしまうのだから。それも諦めたからとかでなく嬉しいという理由で。まったく気まぐれな猫よりタチが悪いなと自分でも思う。
少しだけ考えを巡らせる余裕が出てきて映姫さまの手に自分の手を重ねようか迷いだした頃、ぽつんぽつんと背中が濡れた。映姫さまは弱く震え、小さく声を漏らしている。
泣いてる。
ぎょっとした。映姫さまが泣くだなんて想像したこともなかった。だってこの人は何時だって毅然としていて、揺れない芯を持っていて、背筋をピンと伸ばしているそんな人なのに。
「小町……」
「は、はいっ!」
「嫌いにならないで……小町……」
最初、疑問符がたくさん浮かんで、それから頭の上にガツンと落ちてきた。
私が映姫さまを嫌う。どうしてそんなあり得ないことが起きたと勘違いされているのか。最近の自分の行動を思い返している最中に職員らの立てていた噂がよぎり、そこで衝撃だ。
私の気持ちはどうあれ、他人からは私が映姫さまを突き放しているように見えていた。そして当然、映姫さまにも。
なんて愚かなんだ。私が映姫さまに素っ気なくされて寂しい思いをしたのはそう昔のことでないのに、あの時と逆の立場を演じてそして演じさせてしまっている。
なるべく顔を見ないようにしていたから、自分の発言の後の映姫さまがどんな顔をしてるかなんて知らなかったが、きっと彼女は悲しんでいたのだ。それでも次の日には何でもないように振舞っていたけれど、悲しさが消えてしまうわけじゃない。積もって積もって、耐えきれなくなるまで抱えさせてしまった。
私は、本当にダメな奴だ。大切な人を大切にしてあげらなかった。自分のことでいっぱいだった? 言い訳にもならない。
気持ちが抑えられなくなって、一旦彼女からの抱擁を振り切って反転し、向き合う形で私から抱きしめた。その時に見た映姫さまの泣き顔に心は一層締め付けられる。
「ごめん、ごめんなさい、映姫さま。私バカだから、映姫さまの気持ちを考えてませんでした」
腕の中に収まった映姫さまが身じろぎをした。私は背が高く、彼女は低い。ちょうど胸の辺りに顔が埋もれてしまうから息が苦しいのかもしれない。でも、今は遠慮や気遣いをしてあげられる余裕がなかった。許されるとは思わないけれど、せめて愚かな行為の謝罪と反省がめいいっぱい伝わるよう映姫さまを抱き寄せた。
「嫌いになってないです。ただ、どうしていいか分からなくて逃げてました。でももう逃げません。ちゃんと全部話します」
ふと背中に再び温もりを感じた。映姫さまが抱きしめ返してくれている。それだけで何だか救われたような気になって目元が熱くなってしまう。
「聞きます。話して、小町」
映姫さまの手が優しく動いて背中を撫でる。あやすように諭すように。あぁ、もう、本当にこの人は。
「映姫さま、私っ、私と……!」
顔、赤いだろうな。うるさくなった心臓の音もきっと筒抜けだ。私の緊張が伝わっているからか、心なしか肌に伝わる彼女の熱が上がっている気がする。
私が今から言おうとしているのは宣言通りに全てだ。関係が壊れるからだなんて臆病は捨てる。映姫さまを泣かせた私には勇気を絞り出す責任がある。一歩進む義務がある。
私が言いよどんで、映姫さまがじっと待つ。あぁ、ホントにあの時と逆だ。あの時、映姫さまは言い切った。そりゃ内容はちょっとずっこけるようなものだったけれど、確かな勇気を出して伝えてくれたのだ。今度は私がちゃんとしないと。
言え、言うんだ、言わないと!
「私と……っ!」
これの続きみたいなものですが、読んでいなくても支障はありません
地底の視察なんて閻魔の仕事ではない。もっと言わせて貰うならば、誰かが現地に赴く必要などそもそも無いのだ。いつ惨劇が起こるか分からない剣呑な気配渦巻く初期の頃ならともかく、地底は最早安定し彼岸側の物資を支援ではなく輸入という形で受け取れるまでに至った。
以降の全ては住民の自主性と独立性に任せるものとし、最低限の報告義務を課すのみとする。
そう決断が為され、地獄のスリム化とそれに伴う一連の計画が無事に完遂したのはもう随分と昔のこと。
だと言うのに、私には定期的に地底の様子を見てくるようにとの司令が下る。それも、1日以上の期間を含む出張扱いだ。さとりから書類を受け取り、ぐるりと地底を回っても半日過ぎれば良い方で、必要外の業務に必要以上の時間が意図して与えられているのは明らかだった。
「映姫さま、そりゃあれですよ。あなたがてんで有給を使わないものだから、お上が休めと気を使ってくれてるんですよ」
退職に追いこむ準備やも知れぬと不安になって小町に相談すると、彼女はからから笑ってそう答えた。「あたいより先に映姫さまがクビになるなんて有り得ませんって」と続けたので、分かっているなら働けと説教に移ってしまい感謝の言葉を送り損ねたが、小町には随分と気を軽くしてもらった。
その後は地底の視察を命じられても一々憂いず、休暇を与えられたのだと割り切って羽を広げて休むことに専念した。始めはゆっくりしていると何だか臓腑がむずむずして落ち着かなかったが、そのうちに読みたい小説を二、三鞄に詰めていくのが当たり前となった。
ある日に上司に眉間のシワがほぐれたようだなと安堵されたので、恐らく小町の推測は当たっていたのだろう。
さて、休むとは言ったが、そこには私のワーカーホリックっぷり以外にも問題があった。
休みを貰っていることに気がつかされるまで私は何とか成果をあげようと、地底において一層張り切って良き人物になるよう説いて回った。その結果、閻魔という存在は活況を散らす冷水となってしまった。
仕事という体で来ている以上、私に付く閻魔の肩書きは消えてはおらず、格好もそれに準じる。心持ちが幾ら変化しようと、外から見れば四季映姫・ヤマザナドゥが変わりなくそこに居て、ひょっこり飲み屋に顔を出そうものなら喧騒が肴の酔っ払いが声を潜めてしまう。そそくさ退散していく者も珍しくない。
つまり何が言いたいのかだが、私が居ても迷惑にならない店は地底では貴重も貴重だということだ。加えて私が騒がしいのを好まない為に静かな店という条件も入る。そうなると砂山に紛れた一粒の砂金が如くとなる。しかし、運の良いことに私はその砂金を見つけ出していた。
それを守矢の神さまたちがやらかしてくれた。地底は地上に開かれ、大きな変化の渦に飲み込まれた。私が贔屓にしていた店も例に漏れず。
開発激しいアリ塚三層に移転した旨の張り紙を見ただけで不安が揺さぶられたが、実際に訪れると眩暈がした。壁には夜雀と山彦のポスターが整然と掛かり、額に収められたチケットやピックがカウンターから見える位置に配置され、ライブ会場限定グッズであろう団扇や犬の付け耳が飾られている。カウンターの奥に立つ見知った輩はバーダー(鳥獣技楽のファンをこう呼ぶ)の証である雀の羽を模したバッジを付け、同様の物を胸に光らせる客たちと薄気味悪い話題に花咲かせている。
客は少なく、店主は寡黙、酒は地底らしく日本酒しか置いていなかったが、落ち着いた時間を過ごせる店だったのだ。それがあんまりである。入ってしまったので利用はしたが、バーダーがピーチクパーチク歌を口ずさむ店内の居心地は最高級に悪かった。
そんな折に橋姫が酒の話を抱えてやって来たのは僥倖だった。それも洋酒だ。日本酒は嫌いではないが、私の好みはやはりウィスキーである。彼女は酒の卸売をしたいと語ったが、私が押して押してついでに特典を付けてBARを開くことに合意させた。完全に私欲だ。今考えると実に強引なやり口で恥ずかしい。
旧都を一号縦穴方方面に抜け、賑わいも遠ざかってくると水の流れる音が聞こえてくる。そのまま道なりに進んで橋を渡れば右手側に小さな看板と坂道。そこを登ると現れるのが黒塗りの壁と白い隅石とのコントラストが美しいBAR ミズハシだ。
BARのことは分からないから店の作りはお任せすると言われたので、この外観には私の趣向が大いに反映されている。ただ一つ、川側にある屋根付きのテラスだけは店主の希望だ。せせらぎを聞きながらグラスを傾けたいとのこと。それにより店を長方形とすることが出来なかったのは、少しばかり残念に思っている。
内装の方も好きにして良いと言われていたのだが、私の意思ばかりが映るとそれはもうパルスィの店では無くなってしまう。仕事に愛着を持ってもらう為にも、基本的な作り以外は全て彼女に選ばせた。今も悩んでいる途中であるらしく、前に来た時とは照明の形が変わっていた。
グラスの残りを喉に流す。訪れるのも3度目となると、未経験から始めたマスターの腕が随分と良くなったのを感じる。酒に氷を浮かべた代物ではなく、どうにかロックの名を冠しても許される出来になっていた。
「なに?」
そのマスターの顔を見つめていたら睨み返された。まったく客に向ける顔ではない。柔和な笑顔で対応してくれるなんて期待はこれっぽっちもしていないが、気難しいラーメン屋ではあるまいし、もう少し愛想を出してくれても罰は当てないのに。
「いえ、美味しい酒を作るようになったなと。それとお代わりを」
「ふーん、実感ないなぁ」
日々少しずつ上達していくものだから、私みたいに期間を空けて訪れないと分からないだろう。新しい氷に入れ替え、ウィスキーを注いでステア。グラスと接触する音やステアの加減が甘いところはあるが、開店した時はがちゃがちゃ煩く鳴らして半ばストレートの品を出していたのだ。水割りやハイボールも感覚で適当な比率を注げるようになっているようだった。
「これなら小町を連れてきても良いかもしれ……なんです?」
変な発言をしたつもりはないが、今度は私が緑の瞳にじろりと見つめられることになった。このマスターは煩いのが嫌いだから小町の江戸っ子気質を心配しているのかもしれない。そう思っていたのだが、彼女が顔をしかめたのはもっと別の理由だった。
「ここカップル禁止なんだけど」
「ぶふっ!?」
嫌な飲み方をした。アルコールが喉奥に焼き付き、噎せるのが止まらない。
「な、なにを言い出すのですか、貴女は! 私と小町は上司と部下の関係であって、そのようなふしだらな、あ、いや、ふしだらという言葉は適切ではなくてその……、と、とにかく! 貴女の言う関係ではありません!」
そりゃ、小町は美人だし柔らかだし優しいし、作ってくれるお弁当は美味しいし、へにゃっとした笑顔が愛嬌あって素敵で、買い物に行くと何でもないように荷物を持ってくれるのが格好良くて、彼女の伴侶となる人は幸せだろうなとか考えたりするけども! こっ、恋人にだなんてそんなの想像するだけでいっぱいいっぱい……って違う! 違うったら違う! 上司と部下! 上司と部下!
たまらなく喉が乾いて、行儀が悪いのも無視してグラスの中身を氷ごと口に流し込んだ。
「なんか饒舌ね、閻魔さま」
かっと熱くなった顔はお酒のせいだ。そうに決まっている。
「ま、恋人じゃないならいいや。お客が増えるのはありがたいし」
そう言って話を終いにしたパルスィは、ウォッカにみかんジュースを注いでスクリュードライバーもどきを作った。いま客は私しかおらず、その私も追加の注文をしたわけではない。あれは自分用だ。
ごくりごくりと喉を鳴らして長グラスの半分ほどまで一気に減らすと、堪らないといった様子で美味しいと叫んだ。バーテンダーがそうやって酔っ払うから客の入りが悪いのだ、と説教してしまうのは何だか恥ずかしさを誤魔化す為だと受けとられそうで、何も言わずにただ口の中の氷をガリガリと噛み砕いた。
パルスィがあんな発言をしたものだから、私の腰といえばすっかり引けてしまい、小町をBARに誘うことに随分と悩むことになった。
酔わせてしまおうだとか、良い雰囲気で絡め取ろうだとか、そんな疚しい気持ちは抱いていないはずなのに「飲みに行きませんか?」の一言が喉で引っかかって出せなくて、小町をちらちらと伺っては視線に気付かれそうになって顔を反らす。そんな挙動不審がここ最近の私だった。
けしからん話なのだが、私のこの分かりやすい葛藤は上司同僚後輩含め多くの職員たちに賭け事にされていた。四季映姫がするのは告白か懺悔かそれともヘタレて終わるか、と。もちろん、犯行を抑えたその場で特大の雷を落としてやったわけだが。ちなみにオッズは7.5、3、1.12となっていた。あいつら私を何だと思っているのか。
そういった騒ついた雰囲気になっていたからか、持ち前の大雑把さで他者の視線など気にしないことが多い小町も私の視線を捕まえては「なんですか?」と聞くようになった。その度に苦しい言い訳をしていたのだが、彼女が素直に引き下がり続ける訳も義理もなく、私は遂に従順さを切らした小町に追い詰められた。
「今日こそは話してもらいますからね」
小町の右手は退路を塞ぐように壁に伸ばされ、左手は逃さないように私の肩を掴んでいる。私は小さく小町は大きい。その姿勢から目線を合わせようとするので、彼女は私に覆い被さるようにして立っている。
顔を反らすしかない。だって仕方がないじゃないか。ふわりとした甘さのある匂いを感じられるほどに彼女が近くにいる。それだけでもくらくらしてくると言うのに、まともに正面を向いてしまえば、掴まれた肩から胸に流れてくる熱を抑え込んでおける気がしないのだ。
「映姫さま」
吐息が耳たぶを擽る。名前を紡がれて弱い痺れにも似た感覚が心の奥に生まれる。小町の左手がゆるゆると肩から上がってきて、首筋を撫でて顎を掴んだ。
「話を聞くときは相手の目を見なさい。あなたの言った言葉です。さぁ、こっちを向いてください」
小町は強制しなかった。親指を動かして頬を撫でながら、やんわり力を加えて正面を向くように促しただけだ。決して抗えないものじゃなかった。でも、私は向いてしまった。駄々っ子を宥めるような優しい口調にはそれだけの魔力があった。
睫毛の長い緋色の瞳、すっと細まった鼻、瑞々しくふっくらした唇の端にまとまりから外れた赤い髪が一房かかっている。首元から肩まで伸びた鎖骨が窪みを作っていて、少しはだけた着物から彼女の大きな胸が肌色を覗かせている。
カップルと言ったパルスィが悪い、告白するかと賭けていた職員たちが悪い、こんな時でさえ綺麗な小町が悪い。怒られているというのに青ざめるどころか、ただ真っ赤になってしまうのは。自分の鼓動がドクンドクンと煩いのは。
「小町……」
視線が絡む。触れられている部分が熱い。呼吸の度に彼女の香りを吸い込むことになってしまう。
「ち、近いです……、小町」
どうにも限界で、口を出たのはそんな情けない一言だった。
「あっ、そ、そのっ、ごめんなさい!」
それだと言うのに、お願いを聞いてくれた小町が離れていくのを寂しいと思った自分が滑稽だった。
私の熱が伝わってしまったのか、小町の頬もすっかり赤い。気恥ずかしさにお腹の辺りがむずむずしてくる何とも言えない沈黙が降りた。それでも一度絡んだ視線が解けることはなく、私と彼女はただ見つめ合った。時間が止まってしまったかのようだったが、相変わらず私の心臓はドクンドクンと忙しい。
小町に最初の気勢はもう感じられず、このままさっと逃げてしまうことも出来そうだった。でもそうしようかと考えると、頭に二つの光景が浮かぶのだ。
一つは1.12の数字。そう、あの賭け事の倍率だ。私がヘタレて何も言わないまま終わることに、皆は随分と期待していた。いや、むしろそうなるのが当たり前だと思っていた。
もう一つは私がこれまで下手な言い訳で誤魔化す度に見てきた小町の様子。がっくり肩を落とし、辛そうな寂しそうな影をそっと纏わせる。しかし最後には何とか精一杯に浮かべたんだと察せられる弱い笑顔で、何も無いならそれが一番だと言ってみせる彼女。
確かに私は卑怯で臆病な存在で、情けない奴だと笑われてしまうぐらいには逃げるのが癖になってしまっているのだろう。そんな私だが、ここで逃げてはいけないことは分かった。小町はもうあの弱い笑顔を見せることすらしなくなる、そんな気がするのだ。
言わないといけない、今度こそ。恥ずかしいからってそんな感情で、彼女を悪戯に振り回してはいけない。
「こ、小町!」
「は、はいっ!」
声が上擦った。彼女のもだ。緊張している。唾液一つを飲み込むのにすら、大げさに意識して喉を動かしてやらないといけなかった。
「わ、私、私は貴女に言いたいことが……」
ごくりと彼女の喉が動いた。
「小町、私と……」
少しでも勇気が欲しくて彼女の手を握って引き寄せた。どちらの熱だか分からない、どちらの汗だか分からない。ただ湿った手のひらはぴたりと相手の肌に吸い付いて、彼女もしっかり握り返してくれたから隙間なんてなくて、とろとろ溶け出して混ざり合ってしまいそうな感覚に陥る。
言わないと。言うべきだ。言いたい。言え! 言うんだ!
一呼吸して、声を絞り出した。
「私と……っ!」
期待するなって方が無理だろう。
頬を上気させて瞳を潤ませ、私の方が背が高いから自然と上目遣い。そこから「ち、近いです……、小町」なんて消え入りそうな声で言われちゃぁね。お互い照れて顔が真っ赤で雰囲気も甘いし、手をぎゅっと握られてさ。そんなの告白されるんじゃないかって、期待しちゃうじゃん。だって、好きで好きで大好きでもまだ足りないぐらい好きな人が相手なんだから。
でも結局あの人が私に話し出すかどうかずっと迷っていた一言は「飲みに行きませんか?」だ。そんなのしょっちゅう行ってるし、お互いの家でだって酒瓶を開けたこともあるのに、いったい誰に何を言われたら今更そんなことが言い出し辛くなるのか。
お陰で、私の人生でもトップにでる落胆って奴を味わった。
ま、それはそれ。あの人が心配するから何時までも引きずってはいられない。なんやかんや久しぶりに酒を一緒に飲めるのだと前向きに考えることにした。
連れてこられたのは地底世界。それもBARだから二重に珍しい。映姫さまは仕事で来るからと私事で訪れるのを控えているし、地底というか鬼の暮らす土地ではいかんせん酒虫が強すぎて洋酒文化の育つ土壌がないからだ。
BARの外観はなんとも綺麗に白黒と別れたもので、映姫さまの好みをずばり突いている店だなぁと感想を漏らすと、「私が設計しました」と可愛らしく胸を張って自慢気に答えてくれた。
そう言えば、贔屓の店が死んでしまったと愚痴を聞かされたのを思い出した。無くなったのなら新しく作ってしまえ、ということだろうか。法の範囲を脱することはしないとは言え、この人は時たま驚くような行動を起こす。
貰っている給金の割には高級品に吸い寄せられることの無い人だから、たまにの大きな散財は案外バランスの取れた行動なのかもしれないが。
外観に合わせてモダンスタイルという訳ではなかったが、内装は実にシンプルにまとまっていた。ウェンジを使った暗色のカウンターに低い背もたれの付いた白い丸椅子、壁掛け燭台を模した円柱照明。碁盤目に敷き詰められた灰色の石材の床と黒煉瓦模様の壁紙で古城の一室のようだ。余計な調度品や装飾はないが色彩に欠いていたりはしない。テラスへと続く大きなガラス戸、そこから旧都の賑わいの灯を眺めることが出来るからだ。
映姫さまは「椅子が……」と呟いていたが、いい雰囲気である。驚くことにはこれはマスターの趣味であるらしい。いやホント、驚くことなのだ。なにせ、ここのマスターは嫉妬を操る橋姫さまだ。客商売をやってるのも充分驚くが嫉妬なんて淀んだ感情を操る彼女にこれほどのセンスがあったのは予想だにしなかった。
それで肝心の酒の方だが……、まぁ、バーテンダーを名乗るのは少し早いかもしれない。私が清流を頼んだら川の水を汲んでくれば良いのかと大真面目に聞いてきた。日本酒のカクテルだと教えた後は本をぱらぱらめくったが、作り方が面倒だし材料を揃えていないと突っぱねられた。
随分と適当な奴だ。適当であるがその力の抜け具合が妙に気に入り、彼岸の店で飲むより格段に安いのもあって、私は橋姫の店にこの後も度々通うようになった。
そうして初めて知ったのだが、映姫さまの前ではあれでも真っ当に商売をしていたようだ。他の客だと瓶とグラスを置くだけで済ませることもあったし、店番を土蜘蛛やら地獄烏に任せてテラスで寛ぐこともあった。それに気分屋で自家製のミードが不味かったからとの妙な理由で店を休みにしていたこともある。
また、店もBARと呼んでいいものか怪しいと知った。昼間に覗きにいったらきちんと開いていて、さすが地底は呑んだくれの街だなと感心して入ってみれば食欲をそそるいい匂い。中ではオムライスが作られていた。店主の自信たっぷりな様子を裏切らず絶品だったが、それ故にカウンターの奥に整然と並ぶ酒瓶たちが物寂しそうだった。
そんなところも粋だと笑って済ませるぐらいには常連になっていたある日、珍しく客は私一人の時のこと。橋姫は私にとんでもないことを言ってきた。
「本当に映姫と付き合ってないの?」
私の口からブランデーV.S.O.Pが霧状になって噴出された。汚いと眉を顰められたが、原因は完全に向こう側にある。いきなり何を言いだすんだ。
「ない! ないって! 私と映姫さまはただの部下と上司さ」
今はまだ、という言葉は飲み込んだ。
何時も働き詰めなものだから甘えてきて欲しいと思うわけで、サボりが多いのは半分性分でもう半分は会いたいからなわけで、怒っている顔も可愛いなんて思ってしまうわけで、でも一番可愛いと思うのは口元を少し緩めるあの静かな笑みなわけで。私が映姫さまに惚れ込んでいるのは否定しないしさせる気もない。もしかしたら、恋人になれるかもだなんて期待を抱いているのも。
ただ、私ばかり心の用意が出来ていたって仕方ない。決して私の自惚れなどではなく、映姫さまには嫌われていないどころか好かれているのだろう。しかし、それが果たして等式で恋愛感情となるかどうか。
映姫さまは良くしてくれる。自宅に招かれたことも招いたこともある。買い物に行って手を繋ぐのを拒まれたことはない。でもそれは友情を超えると証明するに足るか、それは仕事仲間という枠を破壊するに足るか。
今のままの関係でも充分心地よく、間違って崩れるのを恐れて現状維持で甘んじているのが私だ。
「でも好きなんでしょ? ちゅーとかしたいんでしょ?」
余りに遠慮ない物言いに私は言葉を返すことが出来なくなったが、赤くなった顔は何よりも饒舌に本心を語っていたのだろう。橋姫は頬杖を付いてにやりと笑った。
「じゃぁ、恋人になればいいじゃん」
「お、お節介が過ぎるよ、あんた。縁結びくらい自分でするさ。なんたってくっつけようとする?」
「あんたら一緒だといちゃいちゃするし、一人だと惚気るしで精神衛生上良くないのよ。でもカップルになればほら、ここカップル禁止だから追い出す理由出来るし」
先程とは別の意味で口が動かなくなった。なんて酷い理由だ。橋姫の本分を全うしていると言えばそうなのだろうが、鬱陶しいからくっつけとは暴虐ここに極まれりではなかろうか。
諦めるように諭したり、ふざけるなと怒りを露わにすれば、押しの強くない橋姫は話題を切ってくれるだろうが、肝心なこんな時に頭の方はすっかり真っ白で、浮かぶことと言えば映姫さまを問い質したあの時のことだから始末が終えない。
潤んだ瞳、上気した頬、首筋にかかる髪、縮こまった身体、掴んだ肩から伝わる震え、熱い吐息、私の名を呟く声、甘くゆっくり流れる沈黙。
あぁ、いまなんとなく分かった。映姫さまが言いにくそうにしていたのは、きっとこの橋姫がとっとと付き合えだのなんだのかましたからに違いないと。ならば、私も同じ状況に立たされようとしているのか。
「次は映姫と来なさい。しっかり仲を取り持って、じゃんじゃん追っ払ってあげるから」
サムズアップと爽やかな笑顔。もしかしたら私の方がマズイ状況なのかもしれない。
それからの日々は、逃走の日々だった。映姫さまとの接触は極力避けるように動き(つまりはサボりを止めて真面目に働き)、誘いも適当な理由をでっち上げて全て断った。ここ数週間で何人もの親戚が病院で入院したことになっている。
私のこの明からさまな態度について職員らがあれこれ邪推している場に出くわしたことがある。向こうさんは私の出現に固まって貴女のことじゃないだのなんの弁明を繰り返して去っていったが、内容はしっかりと聞こえていた。曰く、私の態度は映姫さまからの告白を断ったのが気まずくて仕方ないからだとかなんとか。
違う。あの日からどうにも意識が浮ついていて、橋姫が節介を焼かずとも酒が入れば口が滑りそうで怖いだけなんだ。映姫さまから告白されたのなら、涙を流して喜ぶのに。
私が映姫さまに捕まったのは噂を耳にしてそう長くないころである。
ここ最近の常であるように極々簡素な事務連絡を済ませて帰宅しようとしたところで、後ろから声もなく抱きつかれた。
「え、映姫さまっ!?」
お腹に回った手、背中に当たる吐息、密着して混じる体温。たかだか十数日のはずなのになんだか随分と久しぶりに映姫さまに触れた気がして狼狽えた声を上げたが、彼女はそんな抗議の声を鎮めるようにただぎゅっと抱きしめる力を強めた。
暫くどうすることもなく時間が過ぎていった。
此処は執務室で、今はちょうど仕事終わりの時間。訪ねてきた誰かに見られ、私達の噂が尾ひれはひれをつけて際限なく広まってしまう危うさはあったけれども、映姫さまは私を離そうとしなかったし、私も離したいと思わなかった。滑稽だ。これまで散々逃げておいて、いざ捕まると大人しくなってしまうのだから。それも諦めたからとかでなく嬉しいという理由で。まったく気まぐれな猫よりタチが悪いなと自分でも思う。
少しだけ考えを巡らせる余裕が出てきて映姫さまの手に自分の手を重ねようか迷いだした頃、ぽつんぽつんと背中が濡れた。映姫さまは弱く震え、小さく声を漏らしている。
泣いてる。
ぎょっとした。映姫さまが泣くだなんて想像したこともなかった。だってこの人は何時だって毅然としていて、揺れない芯を持っていて、背筋をピンと伸ばしているそんな人なのに。
「小町……」
「は、はいっ!」
「嫌いにならないで……小町……」
最初、疑問符がたくさん浮かんで、それから頭の上にガツンと落ちてきた。
私が映姫さまを嫌う。どうしてそんなあり得ないことが起きたと勘違いされているのか。最近の自分の行動を思い返している最中に職員らの立てていた噂がよぎり、そこで衝撃だ。
私の気持ちはどうあれ、他人からは私が映姫さまを突き放しているように見えていた。そして当然、映姫さまにも。
なんて愚かなんだ。私が映姫さまに素っ気なくされて寂しい思いをしたのはそう昔のことでないのに、あの時と逆の立場を演じてそして演じさせてしまっている。
なるべく顔を見ないようにしていたから、自分の発言の後の映姫さまがどんな顔をしてるかなんて知らなかったが、きっと彼女は悲しんでいたのだ。それでも次の日には何でもないように振舞っていたけれど、悲しさが消えてしまうわけじゃない。積もって積もって、耐えきれなくなるまで抱えさせてしまった。
私は、本当にダメな奴だ。大切な人を大切にしてあげらなかった。自分のことでいっぱいだった? 言い訳にもならない。
気持ちが抑えられなくなって、一旦彼女からの抱擁を振り切って反転し、向き合う形で私から抱きしめた。その時に見た映姫さまの泣き顔に心は一層締め付けられる。
「ごめん、ごめんなさい、映姫さま。私バカだから、映姫さまの気持ちを考えてませんでした」
腕の中に収まった映姫さまが身じろぎをした。私は背が高く、彼女は低い。ちょうど胸の辺りに顔が埋もれてしまうから息が苦しいのかもしれない。でも、今は遠慮や気遣いをしてあげられる余裕がなかった。許されるとは思わないけれど、せめて愚かな行為の謝罪と反省がめいいっぱい伝わるよう映姫さまを抱き寄せた。
「嫌いになってないです。ただ、どうしていいか分からなくて逃げてました。でももう逃げません。ちゃんと全部話します」
ふと背中に再び温もりを感じた。映姫さまが抱きしめ返してくれている。それだけで何だか救われたような気になって目元が熱くなってしまう。
「聞きます。話して、小町」
映姫さまの手が優しく動いて背中を撫でる。あやすように諭すように。あぁ、もう、本当にこの人は。
「映姫さま、私っ、私と……!」
顔、赤いだろうな。うるさくなった心臓の音もきっと筒抜けだ。私の緊張が伝わっているからか、心なしか肌に伝わる彼女の熱が上がっている気がする。
私が今から言おうとしているのは宣言通りに全てだ。関係が壊れるからだなんて臆病は捨てる。映姫さまを泣かせた私には勇気を絞り出す責任がある。一歩進む義務がある。
私が言いよどんで、映姫さまがじっと待つ。あぁ、ホントにあの時と逆だ。あの時、映姫さまは言い切った。そりゃ内容はちょっとずっこけるようなものだったけれど、確かな勇気を出して伝えてくれたのだ。今度は私がちゃんとしないと。
言え、言うんだ、言わないと!
「私と……っ!」
酒の話かと思ったら後書きで先手を打たれツッコミを封じられていた
誰かレモン100%ジュースもってこい!
小町「私と……っ!」
「飲みに行きませんか?」