それってどんな飲み物?
と聞かれたら、さて、どう答えればよいだろう。
苦味の強い男性的な飲み物。ふくよかな香りが広がる女性的な飲み物。
誰かとの結びつきを強めてくれる飲み物。一人の時間を充実させてくれる飲み物。
思考のタービンを回す燃料。胸の内の闇を払う松明。朝を告げる黒い雄鶏。精神の管を流れる血液。
他には、悪魔のように黒く、地獄のように……といった有名な格言などに助けを求めるべきか。
個々の印象はともかくとして、コーヒーという飲み物は、様々な形で人を誘惑してきた。
欲を払い、修行に励むのに利用した民がいる一方で、彼ら異教徒の文化から引き抜くため、わざわざ洗礼を施した法王もいた。
コーヒーを愛するあまり歌劇を作ってしまう作曲家も現れた。交易品として富を独占しようとした国さえあった。
千年近い歴史の中で、その飲み物はあらゆる印象でもって語られてきたが、その度に新たな解が導き出されてきた。
あるいはそれは、飲む者の精神に直接問いかけ、その答えを楽しむ鏡のネクタルなのかもしれない。
ただし、これは全て人間の話。
地底の妖怪にとって、はたしてコーヒーは、どんな飲み物なのかというと……。
◆◇◆
「……べ~」
緑の髪を左右で結んだ釣瓶落としは、カップを両手で持ったまま、短い舌を出した。
眉をハの字にし、唇で波線を描きつつ、向かいに座る妖怪に助けを求めるような眼差しを送る。
彼女の表情の変化を眺めていた金髪の橋姫は、すました顔のまま、緑の瞳を瞼で閉ざし、
「お子様の舌には合わなかったようね」
「パルスィちゃん、これ本当に飲み物なの? 美味しい?」
「ええ」
「でも、苦くない?」
「苦いものイコール不味いもの。その考えこそが、自分はお子様ですって言ってるようなものよ」
水橋パルスィはそう窘めてから、自らのカップを口元に持っていき、静かに傾けた。
決して、派手な外見ではない。容姿は端麗と言えるが暗く冷たい雰囲気があり、ブラウンの上着とブルーのスカートも部屋の陰に埋没してしまいそうな印象を抱かせる。
けれども取っ手に絡まる指の形、深く組まれた脚、華奢な体が生む動作の一つ一つに、ある種の魔術的な気品が宿っていた。
桶に入った状態で椅子に乗っているキスメは、その姿を上目づかいで眺めつつ、また恐る恐るカップに口をつけた。
室内には二人の他に姿はない。
薄闇の広がる天井の下、焙煎した豆の香りが漂っている。
脚の短い大理石のテーブルには、こすれば魔人が出てきそうなアラビア風のランプ。
二人が腰かけているのは、木製の肘掛け椅子。その下に敷かれているのは、ペルシャ風の刺繍が施された古い絨毯。
壁にはミニアチュール。その下の燭台が、絵を闇の中に浮かび上がらせるような配置となっている。
他にもエキゾチックな調度品が、きちんと整頓されて並べられており、旅する占い師のテントのようなムードがあった。
そして二人が今飲んでいるのは、淹れたてのコーヒーだった。
外の世界では、すでにその需要は留まるところを知らず、毎日のように海を渡り、多種多様な人々のカップに納まる飲み物だ。
原料となる実は、主にコーヒーベルトと呼ばれる赤道付近の地域で栽培され、なおかつ消費量の八割を占めるアラビカ種は熱帯の高地で育てられる。
当然、幻想郷の風土とはかけ離れた環境であり、たんぽぽすら生えない地底においては、代用品を手に入れるのにも苦労する。
よってコーヒーというのは長らく、懐に余裕のある変わり者だけが求める嗜好品の一つとされていた。
希少というだけではなく、その味も大多数の地底民からすれば焦げ臭い苦水としか思われておらず、酒を好む鬼などは歯牙にもかけない。
自他共に認める地底の少数派のパルスィは、また小さなベロを出して苦味に耐えている小さな妖怪を半眼で見つめ、
「舌だけで味わうものじゃないのよ。香り、温度、そして飲んでいるシチュエーション。加えて自らの精神をどれだけ磨いてくれるか。それらを総合的に評価していくの」
「そんなに難しい飲み物なんだ……」
「そういうこと。まだ単純な妖怪のあんたには、簡単な飲み物を出してあげる」
パルスィは椅子から立ち、キスメのカップを取り上げ、奥へと持っていった。
中庭を一望できる窓には、絨毯と同じ様式の、上等な群青色のカーテンがかかっている。
その手前には、いささか煤けてはいるが、一人暮らしにはちょうどいいサイズの小さなキッチンがあった。
椅子で待つキスメは改めて、部屋の中を見渡す。
「なんか不思議。パルスィちゃんのおうちじゃないのに、パルスィちゃんのおうちの感じがするっていうか」
「置いてある家具の半分は同じ物だからね。あんたが保管しておいてくれたものも含めて」
「えへへ」
数日前のこと。パルスィはとある伝説の温泉を巡る奇妙な騒動に、否応無しに巻き込まれることになった。
その結果、縄張りとしていた橋は倒壊してしまい、その側の洞穴にあった住み処も失ってしまった。
己の境遇に暗澹としていたパルスィに救いの手を差し伸べてくれたのが、旧都に住む鬼の四天王、星熊勇儀だ。
彼女の計らいで、パルスィは都の北東にある鬼ヶ城――の真下に建つ大名屋敷風の建物、『風雷邸』に居候させてもらうことになった。
部屋は数えるのが面倒なほど多く、あらゆる生活のための道具も日用品も揃っていて、はたから見ればここは何一つ不自由のない住処だ。
しかしながら洞窟暮らしの長かったパルスィとしては、豪奢過ぎる上に雰囲気に差があり過ぎて、どうにも住み慣れる気がしなかった。
なので早々に、部屋の一つを改装させてもらい、そこを主な拠点するという案が出て、この部屋が選ばれることになった。
ここは中庭に面した炊事場の一つで、火や水回りが使いやすいのが魅力だった。
きちんと掃除し、無事だった家具を運び込み、足りない物を都で調達して、模様を整えて完成させたのがつい昨日のこと。
ここに来る以前よりも狭い住まいではあるものの、ようやく新しい安息の場を築けた気がしていた。
となると、次は何をして過ごすか。
橋は倒壊してしまっている上にここから遠いので、見張りの仕事はできない。
三食風呂付きのこの屋敷では、家事に費やす時間も余りがちになる。
ならばせっかくなので、旧都にいなければなかなかできないことに挑戦してみたい。
そこでパルスィが目をつけたのが、コーヒーだった。
「前々から興味はあったの。地底に来る前は、一番好きな飲み物だったけど、だいぶご無沙汰してたから」
独り言のように話しながら、パルスィは保冷庫の扉を開け、新鮮なミルクの入ったガラス瓶を取り出す。
続いてお砂糖の壺を開け、指でつまんで二回コーヒーカップの中に落とした。
その上に先のミルクを注いでから、ティースプーンでくるくるとかき混ぜ、
「これで外が砂漠で、月でも出ていれば、まさしく懐かしの雰囲気だけどね」
「ふーん、パルスィちゃんの昔話ってあんまり聞いたことない気がする」
「大して面白くもないわよ。ほら、試してみなさい」
キッチンから戻ったパルスィは、キスメの前にカップを置いた。
中には先ほどの真っ黒な様とは異なる、褐色の液体が入っていた。
キスメは腕を伸ばしてそれを手にし、恐る恐る口をつけてみる。
すぐに彼女の表情は、蕾から花へと変わった。
「……すっごくおいしい。こんなの飲んだことない」
地底でも有数の純朴な笑みに、パルスィはかすかな苦笑で応えてやった。
しかしすぐに腕を組んで、自らのカップに残った液体を厳しい目つきで見る。
「理想と比べると、まだ味が尖っている気がするわ。もう少し洗練させた上で、苦味と酸味のバランスを調整したいところね」
コーヒーというのは豆の質もさることながら、炒り具合、挽き方、粉の量、湯の温度、さらには注ぎ方も微妙に影響するものだという。
この鬼の都には、酒を含めて、雑味の多い荒々しい味を尊ぶ者達が多く、パルスィの好みとは相容れない。
さらなる研究が必要なだけでなく、好みの豆を見つけ出すのにも根気が必要なようだ。
「もう一回、やり方を変えて淹れてみようかしら。午後にはヤマメが顔を見せるって言ってたから、あいつの感想も聞いて……」
「あっ! パルスィちゃんそれはちょっと待って! やめたほうがいいかも!」
突然の予期せぬ制止に、パルスィは少々驚き、緑の目をぱちくりとさせた。
キスメは叱られたわけでもないのに、申し訳なさそうな顔をして、
「えっと、あのね。前に、本で読んだことがあるんだけど……」
と、パルスィに訳を話し始めた。
コーヒーに含まれるとある成分と、蜘蛛にまつわる豆知識について。
◆◇◆
水に浸しておいた布を、鉄製の三脚にセット。
予め挽いておいたコーヒーの豆を、分量通りきっちりと載せる。
続いて、白鳥の首を想わせる細口の薬缶から、掌よりも小さな大地に、恵みの湯を降らせる。
注ぐというよりも、細かく垂らすようにして。
粉が十分に蒸れたことを確認したら、中心から湯で螺旋を描くように、泡を膨らませていく。
間もなく、色づいた細い糸が、下のガラス瓶に滴り落ち始めた。
本で読んだ知識そのままだが、少し工程に修正を加えている。
十分な量を抽出し終えてから、パルスィは一匙すくって、味を確かめてみた。
――うん、さっきよりもいい気がする。
薬缶の中のお湯の温度を、少し下げたのがよかったのかもしれない。
やはり研究し甲斐のある飲み物ということだ。
もっとも目下の関心は、味の良し悪しではなく、別の所にあるのだけど。
カチャリ、と扉が開く音がしたので、パルスィは振り返る。
桶に入った少女がそっと顔を出し、ささやくような声で、
「パルスィちゃん……ヤマメちゃんが来るのが見えた」
「OK」
まさに理想的なタイミングだ。
あらかじめ用意していた三人分のカップに、濃さが均等になるよう、パルスィはコーヒーを注いだ。
そわそわとした様子のキスメが席に着いたタイミングで、扉がノックの音を立てる。
「どうぞ」
「おじゃまー」
ドアが開き、噂の妖怪黒谷ヤマメが姿を現した。
一本にまとめられた薄い金色の髪と、丸みを帯びたチョコレート色の服。整った顔立ちを彩る、生き生きとして屈託のない表情。
すでに見慣れた姿ではあるけれど、デコレーションを終えたこの部屋の模様と重なると、なんとなく、お菓子の妖怪にも見えなくもない。
昨日までは引っ越しのお手伝いをしてもらっていたので、お客として彼女を招くのはこれが初めてといえる。
ヤマメは部屋に入るなり、「おや?」と小鼻を動かし、
「この匂いって……」
「コーヒーよ。試しに淹れてみたの」
「……へー、これが、あの巷で噂の。まさかパルスィが淹れるとは」
「飲んだことは?」
「なーい」
と、微笑んで返事してから、ヤマメはもう一人の妖怪の方を向き、
「キスメも初めて?」
「え、えっと! 私はさっきパルスィちゃんに淹れてもらって、苦かったけど、でも牛乳とお砂糖を入れてもらったらすごくおいしくて」
「へー。それはまた、いいもの飲んだねぇ。古酒を除けば地底の最高級飲料だよ、きっと」
「そ、そうなんだ」
会話する二人の元に、パルスィはキッチンで準備したコーヒーを持っていく。
お盆に載せたカップの一つを、ヤマメの前に置き、
「まだ研究中だけどね。現時点の出来はこんな感じ」
「ほほう。それじゃあ、味わって飲ませていただきます。お砂糖入れていい?」
「ええ」
そうパルスィがうなずくと、ヤマメは頬を緩ませて、小さなスプーンで目の前の黒い液体に砂糖を投入していった。
続いて取っ手に触れ、顔の前にカップをおもむろに持っていく。
そして彼女は目を閉じて、香りを楽しむように息を吸い込み、それから口元に運んでいった。
残る二人も、それぞれのカップを手にするものの、視線は注意深く土蜘蛛の動きを追っていた。
◆◇◆
「酔っぱらう? コーヒーで? 蜘蛛が?」
初耳だったパルスィは、半信半疑だった。
けれども、たった今その知識を教えてくれたキスメに、嘘を吐いている様子はなかった。
「うん。コーヒーには『かふぇいん』っていうものが含まれてて、それで変な行動をするようになっちゃうんだって」
「ヤマメにもそれが効くってこと?」
「わかんないけど、もしかしたらそうかも。だって、ヤマメちゃんの家でコーヒーを飲んだことないもの」
「そういえば……そうね」
パルスィも思い返してみる。
現状、コーヒーは旧都における変わり者のための飲み物だが、昨今になって流行の兆しが垣間見えてもいた。
豆を扱う店は徐々に増え、飲料として提供している店もいくつか点在しているという。
となると、地底の流行に敏感なヤマメであれば、とっくに味わっていて、自分流に作っていそうなものだ。
しかし、一度も彼女の口から、コーヒーに関する話題を聞いたことはなかった。
「本人に興味がないのか、あえて避けてるのか……どっちなのかしら」
パルスィの興味がむくむくと湧いてきた。
はたしてあの土蜘蛛、コーヒーを前にしたとき、どんな反応をするのだろう。
そして飲んだ時に、どんな振る舞いを見せてくれるのだろうか。
「……いいことを聞いたわ、キスメ。早速、あいつにこれを出してみましょう」
「い、いいのかな? 大丈夫かな?」
「バカね。大丈夫じゃないことを期待してるのよ」
「え――っ!?」
素っ頓狂な声を上げる釣瓶落としに対し、橋姫の方は今にも舌なめずりしそうな表情だった。
「キスメ。黒谷ヤマメの弱点は、って聞かれたら、あんたは何が思いつく?」
急にそう問われたキスメは一瞬うろたえつつも、斜め上に視線を向けながら、
「えーと、何だろう。ずっと前に、犬とか人間とか地上の世界が苦手、って聞いたことがあったけど……」
「そんなもん、地底じゃ得意なやつの方が珍しいわよ。例えばあんたは、火とか、旧都の裏街道とか、怖い顔した妖怪とか、あとは上から桶を覗かれたりするのも苦手でしょ」
「う、うん」
「ちなみに私は、熱いのも寒いのも嫌。不潔な場所もNG。人ごみとか祭りとか、うるさい場所もダメ。旧都の下品で威張りくさった連中は言わずもがなだし、そもそもこの都の猥雑なところが大嫌い。あとは明るいやつ、幸せそうにしてるやつ、他人の笑顔も自分の笑顔も死ぬほど嫌い。他には図々しいやつ、馴れ馴れしいやつ、暑苦しいやつ、頼んでもないのに毎日都を連れまわそうとしてくる一本角の鬼、etc.」
「……………………」
「けど、ヤマメには目立った弱点がないし、仮にあったとしても、周りの者には隠している。つまり! 私達は、ヤマメが慌てふためいたり、弱音を吐いたり、どうしようもなく情けない姿を晒してるところを拝めないってわけよ。これは実に不公平な話だわ」
「そ、そうかなぁ」
「そうなのよ! そんなあいつが、このコーヒーを前にした時、もしくはこれを飲んだ時、どんな感じになるかしら。興味がない?」
コーヒーのように真っ黒な笑みを浮かべて、パルスィは尋ねた。
キスメは曖昧にうなずく。
動機については賛同しかねるものの、ヤマメがコーヒーを飲んだらどうなるかについては、彼女も少し興味があった。
もっとも、パルスィの方は完全に乗り気で、キスメの意見がどうであれ、やることを変える様子はなかったが。
「それじゃあ、早速コーヒーを淹れ直すとするわ。それと、あんたには演技指導をしてあげる。あいつが来た時に、ボロを出さないようにね」
「いいのかな、ホントに……」
◆◇◆
以上が、半刻前のやり取りだ。
午後にヤマメが来訪するまでに、パルスィ達は綿密な打ち合わせをし、いくつかの状況を予測しつつ、準備を整えていた。
この反応を見る限り、容疑者Yはコーヒーを避けていたわけではなく、ただ単に口にする機会がなかっただけらしい。
パルスィにとっては、より美味しい展開になりそうな予感があった。
さて、この黒く魅惑的な液体は、目の前の妖怪にどのような変化をもたらしてくれるのだろうか。
「あれ……なんだろ……これ……」
ぴん、と獲物の接近に気付いた狐のごとく、パルスィの顔と耳が持ち上がる。
カップを手にしたヤマメの表情が、明らかにおかしい。
目がとろんとしていて焦点が定まらず、心なしか頬が桃色がかっている。
「ヤマメちゃん、大丈夫?」
キスメが心配そうに声をかける。
「うん……大丈夫だけど……変な気分……ふわーっとして……」
ヤマメはカップをテーブルに置き、ついに重そうな頭を垂らし、肘掛けにもたれてしまった。
そのまま彼女は、全身から空気が抜けていくかのように、ずるずると椅子に沈んでいった。
――抜群の効果ね。
パルスィは効き目の早さに驚きを隠せなかった。
あのいつもおちゃらけてるようで隙の無いヤマメが、ほんの一口コーヒーを飲んだだけで、あっという間に眠りに落ちてしまうとは。
「や、やっぱりヤマメちゃんにも効いちゃうんだ」
「どうやら、あんたの情報が正しかったみたいね」
正直なところ、パルスィとしては、もうちょっと派手に酔っぱらう姿を期待していた。
しかし、こんな身近なところに、こんな面白い効果のアイテムが転がっているのが分かっただけでも、十分な収穫と言えよう。
「ほら、しっかりなさい土蜘蛛。こんなとこで寝るんじゃない」
「んー」
体を揺すってみるものの、ヤマメは生返事するだけで、顔は下を向いたままだった。
しまいには、パルスィの腕にしがみつき、枕代わりにするように頭を寄せてくる。
「キスメ、そこの机の上に羽ペンとインクがあるから、こっちに持ってきなさい」
「ええ? ダメだよ、パルスィちゃん。顔に何か落書きするつもりでしょ。私やらない。ヤマメちゃんに悪いもん」
「こいつがこんな隙を見せてることなんて滅多にないんだから。今のうちにやれるべきことはやっておくべきよ。ほら、早く」
掌を出して催促するものの、キスメは桶の中であっちを向いたりこっちを向いたりと、ためらっていた。
じれったいので、このまま自分で引きずっていこうか、とパルスィは考える。
その時だった。
突然、ヤマメにしがみつかれていたパルスィの右腕が、すごい力で引き込まれた。
それは抵抗する間もないほど一瞬の出来事で、
「へ?」
という声を出したときには、パルスィはいつの間にか、ヤマメに背中を抱っこされていた。
「ちょ、ちょっと、ヤマメ」
「んー」
寝言のような声で返事するヤマメ。
しかし彼女の両腕は、パルスィの肘関節を外側からがっちりとホールドしていた。
体を揺すって振りほどこうとするものの、びくともしない。
もがくことさえ満足にできぬくらい、ぴったりと捕まえられてしまっている。
硬く冷たい椅子に慣れた橋姫のお尻に、妙に柔らかく、生ぬるい太ももの感触が伝わる。
しかも椅子になっている土蜘蛛は、わさわさと怪しげな手つきで、パルスィの身体に触れ始めた。
「んな!? ちょっ! 離しなさい!」
「んふふ~」
ヤマメの手は止まらない。
しかも始めは触れているだけだったのに、次第に動きに遠慮がなくなってきた。
「きゃ!? ちょ、ちょっと!」
「ん~……」
「ひゃっ、ど、どこ揉んでんのよ! こらっ!」
「ん~……ふふ……」
「き、キスメ! 見てないで助けなさいよ!」
「あわわわわ」
キスメは離れた位置で顔を赤らめ、口元を両拳で隠して、うろたえるばかり。
そして! ヤマメの奇行は、さらにエスカレートする。
なんと、背後からパルスィの左耳の先端を、ぱくりと。
「ひょわわわわわわぁああああ?」
あむあむと未知のくすぐったさに襲われ、パルスィは身を縮めて奇声を上げた。
電流が耳の付け根から全身を駆け巡り、半開きになった口から悲鳴が漏れ続ける。
そのまま楽器の一部かあるいは楽器そのものになったかのごとく体を振動させ、意識が遠のくくらい、たっぷりとなぶられた後、
急に、体を縛っていた力が消えた。
硬直したパルスィは、どさっ、とテーブルの前に正座。
「はっはっは。あんましやると可哀想だし、これくらいにしておいてあげましょか」
「っ!?」
思わず勢いよく振り返り、パルスィは涙がにじんだ目を全開まで開く。
そこには、いつもと変わらぬ様子の黒谷ヤマメがいた。
キスメがたった今目を覚ましたかのような、びっくりした様子で、
「ヤマメちゃん大丈夫なの!?」
「うん、全然平気」
「でも、コーヒーで酔っぱらっちゃうんじゃ……」
と、言いかけてから、慌てて自分の口を押さえるキスメ。
彼女のその反応を見逃さず、ヤマメは「ふっふっふ」と口の端を歪め、
「そんなこったろうと思ったわ。それを知っていながら黙って様子を見て、悪戯まで企んでいただなんて、感心しないねぇ、二人とも」
ばつの悪さからか、キスメは顔を桶の中に隠してしまう。
パルスィの方はまだフリーズしたままだ。
「……そりゃまぁ、普通のクモになら効くかもしれないけどさ」
ヤマメはそう言って、自分の残ったコーヒーを、二人の前で一息に飲み干して見せた。
次いで、空になったカップを揺らして、中を見せながら、
「私は土蜘蛛だよ? この程度の量じゃ、甘酒みたいなもんよ。大体うちで出すお茶にだって、同じくらいカフェインが入ってるし。それと軽くレクチャーしてあげるけど、カフェインは深煎りよりも浅煎りの方が多く含まれてるそうだから、試すならそっちの方がよかったかもね」
呆然としている二人を置いて、ヤマメは立ち上がり、台所へと足を向ける。
「ほほう、ネルドリップ……。おっと、こっちには水出し用のも。なんていうか、凝り性のあんたらしいチョイスだわね。豆は大黒屋の商品か。あそこは豆を適当に混ぜて量り売りしてるから、あんましオススメできないよ。まぁ人食い広場の出店みたいに茶色く塗った小石を混ぜてるとこよりはマシだけど。そこらの雑貨屋で手に入れるよりは、コーヒーを直接売ってる喫茶店に分けてもらう方がいいんじゃないかしら。週末には焙煎前の豆が入ってくるって言うし」
ぺらぺらと語る土蜘蛛に、キスメは目を真ん丸にして、
「ひょっとしてヤマメちゃん、コーヒーに詳しいの?」
「ふふん。吸血鬼が自分の弱点に無知だとしたら、間の抜けた話だと思わないかしら?」
振り返って得意そうに言うものの、ヤマメはすぐに肩をすくめてみせて、
「といっても、私ゃもっぱら飲む方専門。旧都に来た時は買い物の休憩してる時にいつも注文してるから、年期だけはそれなりにあるってだけよ」
「そ、そうだったんだ。でも私、ヤマメちゃんの家で飲んだことなかったよ」
「ああそれはね。風穴だと湿気で豆がすぐダメになっちゃうから管理が面倒だし、第一飲みたがる奴が少ないから、自分で淹れることもお客に出すこともなかったんよ」
長年の謎の答えは、本人の口からあっさりと明かされた。
つまりこの土蜘蛛、全ての仕掛けを見破ったうえで罠に乗ったふりをし、逆に二人に一杯食わせやがったのだ。
「ま、これからはわざわざ街に足を運ばなくても、ここでコーヒーを楽しめるみたいね」
風穴の策士は、いまだ放心している橋姫の肩を、ぽんと叩き、
「と、いうわけで、水橋君。悪戯のことは忘れて、精進したまえ。私は、ちょっと持ってくるものがあるのでね」
と言い残して、軽快な足取りで部屋を出て行った。
柱時計のチクタクという音だけが、停滞した室内の空気にリズムを生んでいた。
部屋の主は絨毯の上に座り込んだまま、置き物と化している。
しばらくして、キスメが何とか笑顔を作って、その固まった背中に声をかける。
「ぱ、パルスィちゃんよかったね。ヤマメちゃんがコーヒーだいじょ……うぶ……で……」
彼女の笑顔は、すぐに引っ込んだ。
橋姫の髪が、冬眠から目覚めた蛇の群れのごとく揺らめき始めたのだ。
おまけに背中から、緑色のオーラが炎のごとき勢いで迸っている。
不意に、パルスィは立ち上がった。
無言でテーブルの前を横切り、保冷庫の蓋を開け、中から真っ黒い瓶を取り出す。
彼女の視線が、ヤマメが使ったカップに向いていることに気づき、慌ててキスメは飛びつく。
「だめー! パルスィちゃん! 毒なんか入れちゃ!」
「シーッ! バレるから小声にしなさい!」
パルスィは口に指を立てて警告する。
彼女は瓶のラベルを見せながら、
「第一これは毒じゃないわよ。人聞きの悪い。いくら私でも、知人に毒を盛ったりしないわよ」
「よかった」
「見なさい。『健康飲料 レッドモンスター・ブルエナジー』と書いてるでしょう」
「……ホントに毒じゃないのそれ?」
キスメは不安そうに尋ねる。
なんというか、名前だけなら普通の毒物よりも凶悪そうな響きだ。
パルスィは瓶を持った右腕と左腕を、胸の前で交差させ、緑の双眸でキスメを見下ろし、
「私こと水橋パルスィは、この飲料を用いて、黒谷ヤマメに罰を下すことにしたわ」
「な、なんで?」
「あいつの罪は三つある。一つ。私のコーヒーを偉そうに批評しやがったこと」
感想が欲しい、って始めに言ってたのはパルスィちゃんなのに、とキスメは思ったが、黙っていた。
「二つ。飲んだこと無いなんていう嘘まで吐いて、騙されたふりをしてやがったこと」
そもそも私たちが騙そうとしてたみたいなものなのに、とキスメは思ったが、黙っていた。
「そして三つ! 最大の罪! 私の『初めて』を奪ったこと!!」
「?????」
本気で意味がわからなかったキスメは、首を傾げて停止。
するとパルスィは顔を真っ赤にして、自らの横髪をわしゃわしゃとかき回し、
「耳よ耳! 耳をあんな風にされたことなんて、妖怪人生で一度もないっつーのアホンダラ! よくも私の究極の弱点を!」
「え、えーと、パルスィちゃんって耳が弱点だったの? でも、さっき教えてくれた弱点の中には無かったような……」
「ええそうよ! 自分でもたった今知ったわよ畜生!」
片耳を押さえて地団太を踏むパルスィ。
キスメもまた、意外であった。
普段からパルスィは耳を露出させているために、そこが彼女の弱点だとは思いも寄らなかった。
そして当事者にとっては、とにかくとんでもなく衝撃的な出来事だったらしい。
パルスィは背骨が折れるんじゃないかと思うほど海老反りになり、
「ぬわーっ、許すまじ! 何だってあんなことを! 必ずやあのセクハラぐもに天誅を下さん!」
「ぱ、パルスィちゃんの耳、かわいい形してるから」
「キスメ。あんたもこのブルエナジーを飲みたいのかしら? お望みなら、この場で鼻から注いでやるわよ」
キスメは首がちぎれるほどの勢いでノーを訴えた。
斜眼のパルスィは親指で、レッドモンスターなんとかの蓋を飛ばす。
それから、毒薬を調合する魔女のごとく怪しげな手つきで、瓶の中身をカップに注ぎ、
「ヒッヒッヒ、成分表によれば、これにはコーヒーの二百倍のカフェインが含まれているそうよ」
「に、二百倍!!」
「あいつがどんな風になるか楽しみだわ。くくく、べろんべろんに酔っぱらって醜態をさらす様を克明に記録し、後世まで伝えてやる」
「パ、パルスィちゃんやめようよ! そんなことしたらダメだよ!」
「お黙りキスメ! 邪魔するならあんたも容赦しないわ!」
ぴょんぴょんと跳ねて制止してくる緑の頭を、パルスィは真上から押さえつける。
のみならず、彼女の入った桶をひっくり返し、近くにあった衣装箱を重石代わりに載せてしまった。
さらにセルフ牢獄と化したそれを押して、ソファの裏まで持っていき、中の喚き声が外に漏れないよう隠す外道っぷり。
釣瓶落としの扱いに慣れている者だけができる、まことに容赦なき振る舞いといえよう。
邪魔者を遠ざけたパルスィは、偽装の仕上げに取り掛かった。
レッドモンスターエナジーブルの上からコーヒーの残りを投入し、カップを満たす。
これで、見た目はコーヒー。中身はカフェイン爆弾という危険な飲料が出来上がった。
さらに、標的の警戒を解くために、自分のカップにも全く同じものを作っておく。
後はこれを表情を変えずに、き奴の目の前で飲んで見せれば完璧だ。
瓶を保冷庫に戻してから、しばらくして部屋の扉が開き、
「お待ちどうさまー。こちらコーヒーにぴったしのお茶菓子でございー」
と、山盛りのクッキーを載せたお皿と共にヤマメが現れた。
彼女は部屋に入るなり、「あれ?」と顔を左右に振り、
「キスメは? どこ行ったの?」
「フタコブラクダに乗ってお花を摘みに出かけたわ。それよりこれ、新しく淹れたやつ。自信作よ」
「ほー」
ヤマメは椅子に座るや否や、すぐに違いを感じ取ったらしい。
クッキーの皿をテーブルに置きながら、見えない指につままれたかのように、眉間に峰を生じ、
「確かに、嗅いだことない香り……豆変えた?」
「飲んで当ててごらんなさい」
パルスィは挑戦的かつ余裕の笑みを浮かべる。
といっても、実際は悪巧みの微笑なのだが。
ヤマメに疑われぬよう、パルスィは予定通り彼女の前で、自分のカップから中身を飲んで見せた。
が、
――んぐっ……!?
閉じた瞼の裏で、白目を剥く。
なんという奇怪な味か。甘いような酸っぱいような苦いような。しかも喉の奥に、悪魔的なしびれが走る。
鼻をつまんでも飲みたくない……むしろ鼻をつまんでドブに捨てるレベルの味だった。
普通の状態であれば、口から鉄砲水を飛ばしていたかもしれない。
けれどもパルスィは、反射的な衝動を、意志の力でねじ伏せてみせた。
仕返しに燃える橋姫の情念と、役者根性が勝ったのだ。
喉を鳴らして飲みこんだパルスィは、無理やり頬に笑みを刻み、演技を完遂させる。
「ふぅ、なかなかのものが出来たわ」
「大丈夫? なんか顔色悪いけど……」
「顔色が悪いのは元からよ。ところでこのクッキー、どうしたの」
「ああ、うん。鬼ヶ城に住んでる、お藤さんっていう鬼のおっかさんがいるんだけど、いつもこの時間にお菓子を焼いてて、顔を見せるとおすそ分けしてくれるんよ。どうぞ、召し上がれ」
「いただくわ」
一刻も早く、口の中の味を消し去りたかったパルスィは、ココア味のクッキーをポップコーンを食べるかのように忙しなく口に運んだ。
他方で向かいに座る土蜘蛛は、少なからずワクワクとした様子で、
「さてさて、それじゃあ私も飲ませてもらいましょか」
と、ついにカップを手に取った。
そのまま警戒した様子もなく、顔の近くまで持っていって、ゆっくりと傾け……
「ヤマメちゃん! それ飲んじゃダメー!」
という声が、ソファの裏側から飛んできた。
いや、実際には声だけでなく、顔を真っ赤にした本体の方も飛んできた。
先程まで自らの桶に閉じ込められていた釣瓶落としが。
パルスィは飛んできた緑の頭を、両手でがっしりと受け止め、
「こら! 何で邪魔すんのよキスメ! もう少しだったのに!」
「パルスィちゃんこそ、ひどいよこんなことして! 私もう怒ったもん!」
短い腕でペチペチと叩いてくるキスメ。
それをなんとかソファに押さえ込もうとするパルスィ。
妖怪とは思えぬレベルの低い攻防を二人が繰り広げていると、
どさり、と鈍い音がした。
もみ合っていたパルスィとキスメは、同時に振り返る。
椅子の上に見えていたはずの姿が、影も形もなくなっていた。
そのかわり、大理石のテーブルの脚、その端から靴下が二つ見えていた。
「ヤマメちゃん……?」
慌ててキスメが飛んでいき、パルスィも急いで後に続く。
さっきまで普通に会話していたはずの土蜘蛛が、床の上に横たわっていた。
側にはカップが転がり、絨毯に黒い染みを作っている。
「ヤマメちゃん大丈夫!? しっかりして!」
キスメが周囲を跳ねながら声をかけるものの、横たわった体は、ぴくりとも動かなかった。
両目は閉ざされ、口はわずかに開いた状態で、見た目だけならまさに毒殺されたようにしか見えない。
「ど、どうしようパルスィちゃん」
キスメが泣きそうな顔で振り返る。
パルスィも動揺していたが、キスメよりは状況を冷静に分析できていた。
死んではいない。息はしている。だが正常でもない。演技でも決してない。
仮死状態とでも言えばいいのだろうか。
妖気がゼロになっているのではなく、完全に流れが止まってしまっている。
こんな状態に陥っている妖怪は、今まで見たことがない。
しかもそれが、今の今まで元気で生意気に話していた友人であるだけに、余計に混乱していた。
二人が何もできずにいる中、突然、部屋のドアがけたたましい音を立てた。
扉をぶん殴るかのようなこのノック。
「やぁやぁ三人とも揃ってるか!」
おまけに許しもなく勝手にドアを開ける者といえば、一人しかいない。
黄金の長髪と引き締まった腕が映える、白い半袖の上着。青地に赤い線の入った薄い袴。
凍結した部屋の空気を無遠慮に破壊しながら、赤い一本角が日本晴れの笑みで入ってくる。
「これから都の探索に行こう! 食べ歩き、飲み歩き、何でもありの……」
「………………」
「ん、どうしたんだい一体?」
普段着かつ普段通りのテンションの星熊勇儀は、硬直している二人を見て、きょとんとしていた。
しかし彼女達の足元にいる存在を見つけた瞬間、すぐに異常を察したらしく、
「どうしたヤマメ!!」
と、飛んでくる。
床に手をついていたキスメが、涙目で訴える。
「これを飲んで、ヤマメちゃんが倒れちゃったの!」
「何だと!? 毒か!?」
勇儀はカップの中に指を浸し、舐めてみる。
すぐに彼女は両目をくわっと見開き、
「こ、これは……!」
「あの、その、実は」
「美味すぎる!!」
「は?」
動揺で上ずっていたパルスィの声が、すぐに地声に戻った。
勇儀はカップの中身をさかさまにして、自らの口に「んがががが」と注ぎ、ぷはーっと一息。
それから輝かんばかりの笑顔でカップを掲げて、
「おかわり!」
「ねーわよ!」
すぱーん、と条件反射でパルスィはツッコミを入れる。
勇儀は叩かれた後頭部をかきながら、
「ケチケチせずにもう一杯おくれよ。酒以外でこんなに美味い飲み物は味わったことがないぞ」
「そんなことしてられる状況じゃないっつーの。ヤマメがそれ飲んで倒れちゃったのよ」
「なんだ。美味さのあまり気を失ってるわけじゃなかったのか」
勇儀はカップをテーブルに置いて、床に寝転がっているヤマメの状態を改めて調べ始めた。
「息はしてるけど、ただ単に眠ってるだけというわけでもなさそうだな。なんでまたこうなった? 今の飲み物と関係が?」
「え……と……実はその……なんというか」
パルスィは途端に小さくなって、事情を明かした。
少女説明中……。
腕組みして聞き終えた勇儀は、心底呆れた様子で頭を振り、
「いつも思うんだが、お前の行動原理は弾幕よりも難解だな。さっぱりわからん」
「わ、私だってこうなるって分かってたら飲ませようとは思わなかったわよ」
「分かってなくても普通そういうことはしない。文句があったなら、直接言ってやればいい。『こいつめ! よくも私の耳をしゃぶりやがったな! お仕置きだ!』ってな具合で、拳骨を落とすなり尻を引っぱたくなり……」
「あんたは鬼だから、それでいいかもしれないけどね。陰湿で陰険な地底妖怪ってーのは、婉曲な手段を使って復讐して、陰でほくそ笑むのが王道なのよ」
「王道ねぇ。志が低いんだか高いんだか、ねじれてるんだか正直なんだか」
「うっさい! ほっとけ!」
「待って待って! パルスィちゃんも勇儀さんも見て! ヤマメちゃんが目を覚ましそう!」
キスメの声に、二人は同時に振り返った。
まさに、倒れたヤマメが「……ん~」と呻きながら、むくむくと起き上がるところだった。
三人はホッと胸を撫で下ろすものの、パルスィはすぐに訝しむ。
「なんか……様子が変じゃない?」
起きたヤマメの表情が、いつものヤマメではなかった。
ぬぼーっとした平面的な顔つきに、小筆で線を横に二つ引いたような目。
力なく閉じた口元と相まって、何だか子供が絵に描いたお地蔵様を思わせる。
さらに、頭がふらり、ふらり、と背後の柱時計とシンクロしているかのように不安定に揺れていた。
「おいヤマメ、ふざけてないで目を開けろ」
ちょい、と勇儀は指でヤマメの額をつく。
すると、
ヤマメの体はふら~っ、と音もなく後ろに倒れていき、テーブルに肩をぶつけ、きりもみしながら床に転がった。
卓上の食器が甲高い音を立て、いくつかはそのまま床に落ちた。
「きゃー!? ヤマメちゃんがっ!」
「な、何してんのよ勇儀!」
「わ、私は指でちょっと触っただけだぞ!?」
「あんたの『指でちょっと』はトンカチをフルスイングみたいなもんでしょうが! 自覚しなさいよ!」
「違う違う違う! 本当に触れただけだ! そこのカップが倒れるくらいの力しか加えてない!」
あたふたと言い合いながら慌てふためく三人の前で……
……ぬーっ、と倒れていた影が起き上がる。
ミイラの復活を想わせる不気味な挙動に、三人は思わず声を呑んだ。
起き上がったヤマメは、相変わらず無言かつ無表情。そして瞼も閉じたままだった。
パルスィはなんとなく、今の彼女の状態を察した。
「夢遊病……ってやつ?」
あるいは、半覚醒というのだろうか。
寝ているわけでもなく、起きているわけでもない。
意識がしっかりと働いていない状態で、体が不安定に動いている。
外から見た様子だけなら、まさしくこれは夢遊病という感じだ。
勇儀がふむ、と顎に手を当て、
「夢遊病か。なるほど。そういえば、いつかの宴の翌朝に、こんな感じで起きてきたことがあったな」
「本当に?」
「ああ。確か、えーと」
ぱん、と彼女は柏手を鳴らす。
それに反応したのか、ヤマメの顔がふらふらとそちらを向いた。
続いて勇儀は片手を高く上げて、隣の部屋にいる者に呼びかけるような調子で、
「ヤマメ、おー」
「……おー」
糸目のヤマメも、遅れて片手を上げ、それに応える。
勇儀は朗らかな笑みで、
「あははは、そうそう思い出した。こんな感じだ、こんな感じ」
「……あははは」
ごしごしと不躾に頭を撫でられても、ヤマメは微笑。
瞼は相変わらず塞がったままだったが。
「これなら、待ってればそのうちしっかりと起きると思うぞ。とりあえず、どこかに運んで寝かせておいてやろう」
親指をピッと立てながら、勇儀はそう請け合った。
見守っていたキスメも、安心した様子で笑みをこぼし、
「何だか、ヤマメちゃんの姿をした別の妖怪さんみたい」
「確かに……黒谷『イトメ』って感じね」
パルスィは珍妙な生き物を見る目で、友人を眺める。
普段のヤマメは割としゃんとしているイメージだが、このイトメはふらふらとしていて、どうにも危なっかしい。
いつもが殻つきのゆで卵だとすれば、今はなんというか生卵。
てっきり笑い上戸化するのでは、と思っていたパルスィだったが、これはこれで興味深い変化だった。
少なくとも、セクハラをしてくる様子はないし、人畜無害な感がある。
「何だか妬ましいわね。もっと大の字で腹を晒してごろ寝するとか、朱顔で夜通し踊り明かすとかの醜態をさらしてもらいたかったわ」
「おいパルスィ。忠告だが、今のうちに詫びの台詞を考えておいた方がいいぞ。たまたま毒にならなかっただけかもしれないんだからな」
「そうだよパルスィちゃん。ヤマメちゃんが、ちゃんと起きたら、怒るよきっと」
「わーってるわよ。こいつが目を覚ましたら好きなだけ謝ってやるわよ」
つい口が軽くなるものの、さっきまでは本気で生きた心地がしなかったために、パルスィは内心でホッとしまくっていた。
言われるまでもなく、後でヤマメに散々叱られるか、こき使われるかするだろうが、二度と説教してもらえなくなるよりはずっといい。
怒りや衝動に任せて行動すべからず。一生後悔したくなければ。
当たり前のようで大切なことを、水橋パルスィは学びました、まる
と、めでたしめでたしで事件が終われば良かったのだが。
「……へくち」
ヤマメが頭を小さく振る。
直後、彼女の目の前に、ぽわん、と白く光る玉が生じた。
それは手鞠サイズの綿帽子のように、ゆら~っと空気の流れに乗って動きながら、
「お?」
と、一番近くにいた勇儀の角に触れた。
その瞬間だった。
ずももももももももも。
と、突然赤い一本角が『伸びた』。
のみならず、物凄い勢いで膨張し、肥大化した。
「どわあ――っ!?」
勇儀がのけぞって絶叫し、自分の眉間に生えたそれを見据え、両手で掴む。
度肝を抜かれたパルスィも、腰砕けになりながら指を突き付け、
「ゆ、勇儀何それ!? どうなってんの!?」
「知らん! 私にもさっぱりだ!」
「も、もしかして!?」
同じく驚愕した様子のキスメの口から、
「『びょ~き玉』かも!」
謎な単語が飛び出した。
「びょ~きだま!? 何だそりゃ!」
「や、ヤマメちゃんがそう呼んでたんだけど」
「…………へくち」
当の土蜘蛛が二度目のくしゃみをした。
ぽわん、とまた彼女の前に白い玉が生じる。
しかも今度は四つも。
「…………!!」
何も言わずに、三人は部屋の出口へと殺到した。
廊下へと飛び出し、最後尾の勇儀が扉を勢いよく閉める。
それぞれ、しばらく息を凝らして扉を見つめていたが、謎の白い玉は表まで出てくる様子はなかった。
誰とは言わず、安堵のため息が起こる。
「勇儀さん、それ大丈夫? 痛くない?」
「痛くはないが、邪魔っけだな。視界の真ん中が塞がれてる。おまけに、みっともない」
勇儀は顔をしかめて、自分の変わり果てた角を拳でゴンゴンと叩いていた。
見た感じはなんというべきか、樫の木で作った赤い杖が勇儀の額に突き刺さっているようで、妙に滑稽であった。
「で、キスメ。びょ~き玉ってのは、どういうものなんだ。私に話してくれ」
「えっとね。ヤマメちゃんの能力って、誰かを病気にしちゃう力なんだけど、そのままだと効果の範囲が不安定で扱い辛いんだって。だから、わかりやすいように玉の形で封じてるって、前に聞いたことがあったの。ね? パルスィちゃんも知ってるんじゃない?」
「ええ……」
話を振られたパルスィも、その知識を思い出していた。
キスメはヤマメから『びょ~き玉』と教わっていたようだが、正しくは『病魔封』という名称だと聞いている。
その詳細について、当時に受けた説明も、今キスメが話してくれた通りだ。
別にヤマメのオリジナルではないそうで、土蜘蛛の術としては珍しくもなく、難しくもないものだとも話してもらった。
しかしながら、パルスィも実物のそれを見たのは、これまで一度か二度くらいしかなく、すっかり記憶から抜け落ちていた。
一方勇儀は、びょ~き玉ではなく、己の変わり果てた角の方に心当たりがあるようだ。
「確かに、角がこんな風にだらしなく大きくなる病気はある。修練を怠った鬼の角は、まれに歪な形に膨れ上がるんだ。まさか私がなるとは思わなかったが……おそらくさっきキスメが言ってた、びょ~き玉が原因だろう」
パルスィの顔から血の気が引く。
ヤマメが身の内に宿していたびょ~き玉もとい、病魔封の封印が解けてしまっているということは……。
「じゃあもしかして、今のあいつは寝ぼけたまんま、手あたり次第、周りの者を病気にしちゃえる状態ってこと?」
「かもな。だとすると、こいつは相当厄介だぞ」
パルスィの表情が、勇儀にも伝染する。
土蜘蛛が操る病気は、肉体に影響を及ぼすもの――すなわち人間に効果的なものだけではない。
精神をじわじわと蝕み、死に至らしめることもできる、妖怪にとって危険な病も存在すると言われている。
また、その感染力も侮りがたい。
鬼が操る弾幕のような即効性や派手な効果は望めぬものの、集団を攻撃する上では同程度の威力を秘めているといえる。
ましてやここは、都の要所である鬼ヶ城の真向かいにある建物なのだ。
こんなところで疫病が蔓延してしまえば、旧都の機構が麻痺しかねない。
人畜無害など、とんでもなかった。
これはもはや、黒谷ヤバメだ。
今の状態の彼女は、この地底における第一級の危険妖怪といっても過言ではないだろう。
……外見と挙動だけなら、とてもそうは見えない感じであったが。
出し抜けに、勇儀が「ぬぅん!!」と両拳を作って脇を締め、気合を迸らせた。
するとだらしなく膨れ上がっていた角は、凄烈な気に研磨されるかのごとく、見る見るうちに小さくなっていく。
気が付けば、あっという間に元のサイズに戻っていた。
キスメが目を丸くして歓声を上げる。
「勇儀さんすごい! 病気を治しちゃった!」
「たまたま治療法を知ってただけだから、安心はできないよ。ヤマメが他にどんな病を隠し持ってるのか、私も詳しく知らないしな」
鬼ヶ城の――ひいては都の治安に責任を持つ鬼は、扉に手を当てて、二人の方を向き、真剣な面持ちで言った。
「とにかく、あいつの目が覚めるまで、ここに閉じ込めておこう。外に出して、びょ~き玉をそこら中に撒かれたら手に負えん。幸い、この建物には他の誰も出入りしていないから、騒ぎが広まることもないだろう」
パルスィの希望により、元々この風雷邸には、彼女が許した三名以外勝手に入れないようになっている。
なのでこのまま時が過ぎれば、問題は明るみに出ることなく、解決に向かうはず……ではあった。
そこである重大なことに気が付き、パルスィの髪の毛が持ち上がった。
「ちょっと待って!!」
「あー、言いたいことはわかるぞ。確かに新しくできたばかりのお前の部屋が『びょ~き玉』だらけになるのは嫌かもしれんが、あとで正気に戻ったヤマメに何とかしてもらうとして……」
「そうじゃなくて! この部屋には裏口もあるの! もし今のあいつがそこから外に出ちゃったら一大事よ!」
「な、何!?」
勇儀は慌てて、すぐさま閉じたばかりの扉を開け放つ。
なんたることか。
心配されていたびょ~き玉は、もう室内に漂ってはいなかったが……ヤマメの方も、忽然と姿を消していた。
勇儀は舌打ちして、
「やられた! パルスィ! 裏口を確認してくれ!」
「ええ!」と返事しながら、パルスィは部屋の中心を駆け抜け、奥へと向かう。
このまま街中へと逃げ出されでもしたら、取り返しのつかないことになりかねない。
中庭に通じる裏口の戸にたどり着いたパルスィは、鍵を開けて、外へと飛び出そうと……
――鍵?
疑問が脳裏を過ぎり、パルスィの動きは停止した。
今、確かにこの扉には鍵がかかっていた。
ヤマメがここから裏庭に出たとしたら、内鍵だけのこの戸を、どうやって施錠した?
「……へくち」
という声が部屋の中で聞こえ、パルスィの背筋が粟立つ。
声の方向は、
「上!」
警告しながら顔を持ち上げる。
そこには、いつの間にか天井に移動していた黒谷イトメが、逆さまにぶら下がっていた。
相変わらず起きているのか寝ているのか判別しにくい、のっぺりとした面構えだ。
そして今まさに、彼女のくしゃみによって放出された、びょ~き玉が降ってくるところだった。
パルスィは跳び退り、壁にぴったりと貼り付くようにして、病の弾幕から距離を取る。
部屋の真ん中にいた勇儀も素早く屈み、別の壁へと退避していた。
しかし、ちょうど遅れて部屋に入ってきたキスメの反応が遅れた。
「逃げろキスメ!」
勇儀のその声は間に合わなかった。
急制動をかけつつ反転しようとする桶に、びょ~き玉の一つがぶつかり、一度白く発光する。
考えるよりも先に、パルスィの体は床にうずくまるキスメの元にダッシュしていた。
「キスメ! だいじょ……う……ぶ……?」
パルスィは言葉を失った。
そして思わず、己の目をこすっていた。
その桶にはまっている娘は、確かに、キスメを思わせる顔立ちだったのだが、
「……うぇ~ん、パルスィちゃ~ん」
と泣き出すその顔は、まるで鏡餅のような形となっていた。
身長はそのままだったものの、横幅は小さなお相撲さんのごとく丸々と太っていて、桶の端からお肉がはみ出ている。
パルスィと同じく呆気にとられていた勇儀が、気を取り直した様子でしゃがみこみ、
「キスメ。熱はあるか? 痛いところはないか?」
「痛くないけど、動けないの~」
キスメは嘆きながら、太めの体を揺すってみせる。
どうやら、お餅状の丸い身体が、桶に完全にフィットしてしまっているらしい。
しかもウェイトが増したためか、跳ねたり浮いたりすることも満足にできなくなっているらしかった。
……つまりこれは、デブになる病気と診断していいのだろうか。
死に至る病ではなかったのは、不幸中の幸いといえよう。
「しまった! ヤマメがいない!」
「なんですって!?」
いつの間にやら、キスメの変わりっぷりに気を取られている隙に、騒ぎの主は開いたドアから外にふらふらと出ていったらしい。
「追うぞパルスィ!」
返事も待たずに、勇儀は部屋を飛び出していく。
パルスィはべそをかいているキスメの頭に手を置き、
「あとで何とかしてあげるから、あんたはここに隠れてなさい。私たちが戻るまで、無理して動こうとするんじゃないわよ」
「……うん。パルスィちゃんも気をつけてね」
ぽっちゃり系の釣瓶落としは、涙ながらに続ける。
「でも……戻れなかったらどうしよう……」
「その時は、私がダイエットに付き合ってやるわよ」
それとも二回り大きいサイズの桶を買ってあげる方が早いかしら、などと考えつつ、パルスィは部屋を後にした。
◆◇◆
異国情緒溢れるパルスィの部屋と違い、風雷邸は元々鬼ヶ城と同じ様式で造られた建物なので、中も基本的に大名屋敷のそれに近い。
部屋の多くは畳敷きで、戸は全て地獄絵の描かれた襖障子。廊下は主に板敷きで、照明は角に置かれた行灯。
そして城とは違って、鬼が誰も出入りしていないので、不気味なほど静かだ。
なおかつ今は、とぼけた顔の夢遊病クリーチャーが徘徊しているという謎の状況。
図らずもお化け屋敷と化した風雷邸の廊下を、パルスィは一人歩いていた。
「どこに行ったのよ、もう」
ヤマメどころか、先に部屋を出た勇儀まで見失ってしまっている。
二人の気配を探ろうとするものの、ヤマメの方はいつもと違って、ほとんど妖気を出さずに動いているので捉えにくい。
その上、いつまた『びょ~き玉』出くわすかもわからないので、基本的に警戒しながら歩いて捜すことしかできなかった。
部屋に残してきたキスメのことを思い出し、パルスィは自然と顔が渋くなる。
まさかデブになる病とは。
この世にそんな病気があることすら知らなかったし、その症状が即座に現れたというのも驚愕だった。
一つの術としてみるなら、とてつもなく強力だ。
あんな間の抜けた病ではなく、命にかかわる難病であれば、どうなっていたことか。
――いや……あいつのことだから、悪戯にしか使えそうにないろくでもない病気も、たくさんストックしてそうね。
どちらにせよ、遠慮願いたい。
あのびょ~き玉を絶対に食らわぬよう、慎重に動かねば。
と、パルスィの聴覚が自分以外の足音を捉えた。
思わず停止し、周囲の気配を探る。
廊下の角に、何者かが潜んでいる様子だった。
すり足で近づき、慎重に顔をのぞかせて……
「おりゃ!」
「ぽむほぁっ!?」
視界が急に真っ白になった。
びょ~き玉を顔面に食らったと思ったパルスィは、「ひぃ~!」と手を上下動させて暴れるが、
「おっと、悪い悪い。間違えたか」
視界を覆っていた白い幕が去り、途端に呼吸が楽になる。
滲んだ視界の真ん中に立っているのは、勇儀だった。
姿はいつものままだが、持っているものが変わっている。
右手には先端に網のついた長い棒が二本、そして左手には御札の貼ってある籠が二つ。
今、頭にかぶせられたのは、その網の方だったようだ。
「なにそれ?」
虫取り網にしか見えないそれを見て、パルスィは眉をハの字にする。
勇儀は大真面目な顔で、その道具を差し出してきて、
「これは未熟な鬼が、城に入り込んだ怨霊を捕まえるために使う特別な網だ。びょ~き弾にも通用するはず。お前も一つ持て」
「……で、捕まえた後は、そっちの籠に入れろというわけ?」
「ああ。もちろん最終的な目標はヤマメ本体だけどね。これを頭にかぶせれば、安全に捕えることができるはずだ」
差し出された網の柄を、パルスィは半信半疑で受け取る。
確かに相手は名前だけなら虫のようなものだけど、こんなもので何とかなるのかしらん。
「役に立つと思って、風雷邸の周囲に結界を張るついでに、城から大急ぎで持ってきたんだ」
結界。
なるほど。今のヤマメが外に出て、びょ~き玉を撒き散らせば事態の収拾は非常に困難になる。
けれども、この建物の中だけの範囲にとどまるなら、対処はぐんと楽になるはずだった。
「で、だ。結界を踏み越えればすぐに反応するが、あいつはまだ外に出た様子はない」
「じゃあ、この建物の中をうろついてるのは確かなのね」
「ああ。というわけで、二手に分かれて捕まえることにしよう。私は東側を、お前は西側を。見つけても、一人で捕まえるのが無理なようなら私を呼べ。私も何かあったら呼ぶから」
「ええ」
「気を抜くなよ」
と言い残して、勇儀は廊下を走り去っていく。
流石に頼もしい限りだ。後ろ姿だけなら、これからクワガタを捕まえに行くようにしか思えなかったが。
パルスィも彼女に倣って、捜索を再開することにした。
すると……
へくち……
ぴくっ、とパルスィの耳が小刻みに動いた。
背後の廊下を振り返る。
今のは確かに、くしゃみの音だった気がする。
「ヤマメ……? そっちにいるの?」
声をかけながら、慎重に足を進める。
襖の一つ一つを開けては閉め、開けては閉め。
そんなことをしているうちに突然、辻となっている廊下を、大きな影が横切った。
慌ててパルスィは角を曲がり、その後を追いかける。
間違いない。ヤマメだ。
なんと、彼女は糸を手から伸ばして、廊下を音もなく、ターザンのごとく移動していた。
立っている時はあんなに不安定だったのに、糸を使うといつもと変わらぬスピードだ。
全力で飛んで追いかけるが、なかなか差が縮まらない。
「こら! 待ちなさい、ヤマメ!」
と呼び止めた直後に、土蜘蛛の姿が、突き当りにあった大部屋の襖に突っ込んだ。
ドンガラガラと派手な音を立てて、彼女は広間の畳の上を転がり、動かなくなった。
ぽかん、としていたパルスィであったが、我に返り、慌てて近づいてみる。
ヤマメは畳の上に寝そべって、「ん~」と呻いていた。
一度体を起こそうとするものの、すぐにまたぺたんとうつ伏せになってしまう。
「……えい」
とパルスィは、後ろからポニーテールの頭に網をかぶせてみた。
彼女は抵抗らしい抵抗をすることなく、「ん~……」と声を出したきり、あっさりと捕獲された。
知らず、パルスィも捕まえたヤマメと同じ表情になる。
どうやら、平常と同程度の運動神経というわけにはいかないようだ。
もっと苦労すると思っていたからか、あるいはいつもと違って鈍くささが極まっているせいか、なんとなく調子が狂わされる。
ひとまず、パルスィは気を取り直して、
「勇儀ー! 捕まえたわよー!」
と、同じ建物のどこかにいる鬼に呼びかける。
声は届いたらしく、どたどたと品のない足音が近付いてきて、網を担いだ勇儀が姿を見せた。
「捕まえたか!? でかした!」
「ええ、このとお……
へくち
りぃいいいい!?」
語尾が裏返る。
ヤマメの全身から、八つの『びょ~き玉』が放たれたのだ。
うつぶせ状態で、なおかつ頭にしっかり網がかぶさっていたので、パルスィは完全に油断していた。
至近距離にいたため、身をかわすのも間に合わない。
その時、パルスィの視界を黄金の髪が舞う。
竜巻にさらわれたかのごとく、視界が急転。
部屋の中に閃光が生じた。
遠ざかっていたパルスィの意識が、はっきりと戻る。
慌てて身を起こすと、鬼が離れた畳の上で片膝をついていた。
「勇儀っ!」
「来るな、パルスィ! 私に近づくんじゃない!」
倒れたままの鬼に一喝され、パルスィはたたらを踏んだ。
脳裏をいくつもの悪い想像が過ぎる。
先ほどの閃光。自分をかばった勇儀は、ヤマメのびょ~き玉をかわしきれなかったのだ。
どんな病気に感染したのだろう。
今も彼女は苦しそうに顔を歪めて……
「暴れ出しやがった……私の……邪気眼が……」
「は?」
心配していたパルスィの目が点になった。
「え、えーと。じゃきがん?」
「ああ……そうだ。三百年前、蝕の日に刻まれしこの呪い……。ヴァルハラの地より舞い戻る際、片腕を贄にして、醜く生き延びた。この魔の刻印こそが、私と闇共の契約の証……」
「そ、それはなんていうか、大変そうね」
パルスィは無難な相槌を打ちつつ、今の状況と相手の言葉の意味を最大限理解しようと努力する。
ヤマメのびょ~き玉は、まず間違いなく勇儀に当たった。つまり、今の彼女はいわゆる『病気』である。
では、その「じゃきがん」とかいうものが体にできる病気なのだろうか。
ここから見ている限りでは、特に異常らしきものはないが。
「ぐわぁ……! 鎮まれ! 鎮まるんだ我が呪われし血よ!」
と勇儀は呻きながら、自らの片腕を押さえつけ、
「ぱ、パルスィ。緑の谷の使者、純潔なる水の乙女よ。私の屍を乗り越えて、先を行け!」
「いや……そういうわけにもいかないわよ。今のあんた、全然大丈夫そうじゃないし」
「なぜだ。なぜそうまでして運命に反旗を翻す。残酷なシンフォニーを奏で、愚直なまでにダ・カーポ。神共の都合に振り回され、痩せ衰えた魂を犠牲にしてまで、何を得ようっていうんだ」
「……………………」
パルスィは困惑する。
少なくとも日本語ではなさそうだし、ペルシャ語でもなさそうだ。
そして、何の病気かもさっぱりわからん。
ヤマメに解説してもらいたところだが、当の本人があの状態では……
「って、またいなくなってるし!?」
歩くパンデミック少女は、びょ~き玉を残して部屋から消えていた。
捕まえたと思ったらこれだ。油断も隙も気配も無い。
パルスィはしゃがみこんでいる鬼の方を振り返り、
「追うわよ勇儀!」
「くっ……まだだ! 私の『不滅なる怪力を込めし黒鉄の指(エターナルフォースアイゼンフィンガー)』がSPを充填している間、何とか刻を稼いでくれ!」
「そんな技どうでもいいから、普通に手伝ってよ今すぐ!」
「普通だと? そんなのは大人が作り上げた幻想の籠なんだ。奴らの普通の幸せの裏で、ボクらは普通という名の地獄に閉じ込められているんだ。どうしてわかってくれないんだ」
「何の話をしてんのよあんたは!?」
「パルスィ……私達……あの世界の向こう側で……また会えるかな?」
「知らねーわよ! クサい台詞のたまってる暇があったら立て! 足を動かせ!」
「いいのか、立ち上がって? 私の三歩は月まで届いてしまうかもしれないぞ?」
ダメだこりゃ。
あの星熊勇儀が、地底一役に立たない鬼になってしまった。
そういう意味では、実に効果的で恐ろしい病気だ。
こんなものが外にばらまかれたら、旧地獄は一夜でお笑い帝国と化すだろう。
パルスィは網を手に取り、とりあえず勇儀を部屋に残すことにして、廊下に出た。
「…………っ!」
思わず息を呑む。
いなくなったとばかり思っていたヤマメが、廊下に立っていたのだ。
距離はおよそ二十歩。しかも彼女の体は、こちらを向いていた。
パルスィは無言で網を構える。
ふらり、ふらり、と揺れる土蜘蛛が声を発した。
「……ぱ~るし~」
どきり、と心臓が跳ねる。
半覚醒状態のヤマメが、はじめて言葉らしい言葉を口にした。
しかもそれが自分の名前だったことに、パルスィは動揺を隠せなかった。
ヤマメが一歩ずつ、のろのろとこちらに歩いてくる。
明らかに自分を目指して動いている。
見飽きるくらい見飽きた顔。ただし表情らしい表情のないその顔に、パルスィは言い知れぬ恐怖を抱いた。
もしかすると彼女の本能が、此度の元凶である橋姫に対して、復讐に向かわせようとしているのではないか。
一瞬パルスィの心に、それを受け入れるべきなのでは、という思いが生じた。
半刻前に胸の内に生じた悔恨の種は、すでに大木となって花まで咲かせている。
むしろ自分が役を変わって、自らに罰を下してやりたいくらいだ。自虐的な思考は、加速する一方。
けれどもパルスィは、それらを一度暗幕の向こうに追いやり、いつでも網を振り下ろせるよう、上段にしっかりと構えた。
今も病に苦しんでいる二人のためにも。これ以上犠牲を増やすことなく、彼女に罪を重ねさせぬためにも。
あんな状態にしてしまった自分が、止めるべきなのだ。
ゾンビじみた足取りで、ヤマメはこちらにあと数歩の距離まで近づいていた。
さらに、網が届く間合いに、入るか否かというところで。
こてん、とヤマメは転がった。
「……ぱるしー……」
呆然となるパルスィの前で、彼女はぼそぼそと呟く。
「おんせん……はいりたい……つれてって……」
パルスィは当惑する。
こんな時に温泉だなんて……何を寝ぼけているのか……と。
突然、パルスィの頭に稲妻のごとき閃きが生じた。
「その手があったぁあああああ――!?」
思わず絶叫する。
なぜ忘れてたのか。
この城の大浴場には、先日の温泉騒ぎの際に、あらゆる病気を癒すと言われている秘湯がやってきているのだ。
あれに入れれば、キスメや勇儀もたちどころに……いや、そもそもの大本であるヤマメだって正気を取り戻すことができるはず。
――待って……待って待って、もしかして……!
ヤマメは無意識で動いているようで、最初からそこを何とか目指してうろついていたのでは。
けれども、体が上手く制御できず、徘徊することしかできなかったのでは。
そして今、夢うつつの状態で、自分に助けを求めているのだとすれば。
刹那、パルスィは握りしめていた網を手離していた。
床に倒れ伏したヤマメに駆け寄り、その体を抱え上げる。
「すぐに連れてってあげる!!」
義心に奮い立った橋姫は、廊下を全力で走り始めた。
「それがお前の選ぶ道だというならば……迷わず行くがいい、パルスィ……いつの日か……私たちの道が再び交わることも……」
星熊勇儀は、ちからをためている。
◆◇◆
パルスィは戸を開け、風雷邸の裏門へと出た。
地底のひんやりとした夜気が、汗ばんだ額と髪を撫で上げる。
勇儀の言っていた結界については、見当たらなかった。おそらく彼女が病魔封を食らったことで、術が解けたのだろう。
目的が変わった今となっては、都合良し。
パルスィはヤマメの両脇を再び抱きかかえた。
目指すは、鬼ヶ城と風雷邸の間に位置する、大浴場だ。
ヤマメは無抵抗ではあったが、意識が半分以下になっているせいか、とても重たい。
持ち上げるほどの筋力がないパルスィは、彼女の脚を引きずり、息を荒げて進む。
一呼吸ごとに、後ろ向きの感情に苛まれる。
もっと力があれば、すぐにたどり着けるだろうに。もっと頭を働かせれば、早くに連れて行ってあげられたのに。
やらなければいけない。
自分が起こした始末をつけるため、巻き込んでしまった二人、そして今助けを待っている腕の中の存在のためにも。
――前進あるのみ!
城の浴場へと導く石畳を、パルスィは踏みしめて進む。
その時だった。
へくち……
抱えた存在が発した声に、ぞくりとなった。
次の瞬間、パルスィの体の重みが一気に増した。
「くっ……!」
まともに食らった。
何の病気だ!?
わからない。見た目に変化が起こるタイプでも、精神に異常をきたすものでもなさそうだ。
が、体調は急激に悪化した。
心臓の熱さと重みが同時に増し、吐き気と頭痛が交互にやってきて、足の感覚が消え失せる。
血管を炎が泳ぎ、こめかみに酒の弾丸を撃ち込まれたような、ある種のトランス状態にあった。
普通なら二秒でギブアップを宣言している。
けれども、
「ぬっ、ふん……!」
パルスィは倒れることなく、踏みとどまった。
歯を噛み鳴らし、充血した緑の瞳をギラつかせて、
「どんな病気だろうと……関係ないわ……」
大浴場の入り口に立ったパルスィは叫んだ。
「……ここまでたどり着けば、私の勝ちよ!!」
◆◇◆
旧都でも有数の泉質と設備を持つ、鬼ヶ城の大浴場。
しかもつい最近になって、十年に一度地底に現れるという幻の湯が入ってきたことにより、名実ともに地底一の温泉になったと言ってよかった。
とはいえ、大所帯のこの城に住まう鬼達が、一度に全て入るというわけにはいかない。
混雑による争いが起きぬよう、古参、中堅、若い衆、客人を含む女鬼という風に、利用できる時間帯を分けることになっていた。
今この時間に利用しているのは、城に住まうことを許されてそう年月も経ってない若い鬼達である。
岩山を削って造った大胆な湯船の中に、筋骨隆々の火照った身体が沈んでいる。
「いやー、いい湯だあぁ」
「こたえられないよなぁ」
鬼とは思えぬえびす顔も、湯が為せる業といえようか。
だが、大浴場の平穏は、突如入ってきた人影によって破られた。
鬼達は皆、驚きを露わにする。
彼らの大将である星熊勇儀と懇意であり、城の客人でもある水橋パルスィのことは皆が知っている。
しかし何でまた、この時間帯に。しかも背中に、ぐったりとなっている土蜘蛛を背負って。
「はぁ……はぁ……あんた達っ!」
乱れた呼吸を整えたパルスィは、顔を上げ、瞳に緑の炎を浮かべながら、
「今すぐその湯から上がりなさい! 大至急よ!」
「な、何事ですか一体!?」
「説明している時間はないわ! あと風雷邸にも近づかないで! 勇儀が動けなくなってるけど、絶対に中に入らないで!」
「えっ、大将が!?」
「動けない!? どういうことか話して……」
「じゃかぁしい!! さっさと言う事聞いて出て行かんかぁ!!」
イライラが頂点に達したパルスィは、拳で壁をぶっ叩いた。
彼らの大将に迫る、物凄い気迫に圧されて、若い鬼達は慌てて、すたこらと逃げ出し始める。
あっという間に、浴場に鬼の気配はなくなり、手拭や桶といった風呂道具が床に散らかされた状態となっていた。
まさに、人の群れが温泉でくつろいでるところに、手負いの熊が迷い込んできたような有り様であった。
無人となった浴場の中心を、パルスィは睨み据える。
目的の温泉が、湯煙の中で見え隠れしていた。
虹の端を掲げ、五色の輝きを放つ神秘の湯。
十年に一度、七日間だけ姿を現す、ありとあらゆる病を癒してくれるという移動泉。
「くっ……!」
パルスィは膝を折った。
びょ~き玉の効果が、いよいよ現れてきたのか、苦しみがさっきよりも増していた。
もう僅かな余裕もない。
ふらつく己の体と、動かぬ友の身を引きずって、パルスィは湯に近づく。
後はここに浸ければ、きっと彼女も正気を取り戻してくれるはず。
今は服を脱がしている手間も惜しい。
「ヤマメ……! 悪いけど、我慢して! 」
最後の力を振り絞って、パルスィは抱えていた存在を投げこもうとした。
そんな彼女の足元には、先ほど鬼達が残していった石鹸の一つが。
「へっ?」
つるーん。
「ちょ! はっ! 待って! そんな!」
バランスを崩して、パルスィは腕の中の存在を湯の中に放り出す。
のみならず、自らも滑って転んで……
ガツン。
「…………!!」
浴槽の縁を形成する岩に、頭をぶつけたパルスィは、そのまま意識を失い、ずるずると温泉の中に沈んでいった。
その隣には、うつ伏せで湯に浮かび、ぶくぶくぶく、と泡を立てている土蜘蛛がいた。
およそ一分が経過し、泡が消える。
「……ぷはぁっ!?」
呼気と水滴と共に、金の尾が結ばれた頭が跳ねる。
ぱっちりと開いた目を何度かしばたき、黒谷ヤマメは大きく息を吸って吐いた。
「……うわー、なんか嫌な夢見た。しかも最後の方、息苦しくて死ぬかと思った。ってあれ? ここってお風呂場? なんで?」
きょろきょろとヤマメは周りを見渡す。
湯煙が濃いために、状況がよくわからない。
体を包むリアルな感触からして、夢ではないようだ。しかしながら、どうしてここにいるんだか、全然思い出せなかった。
「ありゃりゃ。服もびしょびしょだし。何がどうなってるんやら……」
独りごちながら、湯から上がろうとするヤマメの前で、不思議な変化が起こった。
ごぼごぼごぼと、温泉の中心が泡立ち、水面が隆起する。
瞬く間に、ヤマメの眼前にお湯で構成された体を持つ温泉の女神が出現していた。
しかもその女神は、肩に完全に意識を失っている様子の、ずぶ濡れの金髪の妖怪を担いでいた。
<貴方が落としたのは、この滑って転んで頭を打って気絶している橋姫ですか?>
しばらくヤマメは、ぽけーっと放心状態で、湯の女神を見つめていた。
だがやがて「うむ」と全て理解した様子でうなずき、指を一本立てて元気な声で、
「いいや! やっぱここは、もっと素直で気立てのいい橋姫を一丁!」
「何でよ!!?」
それはまさに、滑って転んで気絶していた橋姫による、脊髄反射のツッコミであった。
◆◇◆
柱時計の音を除けば、その部屋は無音に近いほど静かだった。
衝立に遮られたランプが、部屋の各所にて闇をなだめ、静謐な空気を演出している。
中央にある脚の短い大理石のテーブルの周りには、四人分の肘掛椅子。
他の家具も、四方の壁に飾られた絵や調度品も統一感のあるデザインで、部屋の雰囲気を保っていた。
ところが、キッチンに立っている妖怪だけは、唯一内装から浮いている。
金髪をわずかに湿らせた橋姫が身にまとっているのは、日本において古来から親しまれた湯浴みのための服、浴衣だった。
緑の双眸が宿す光が、鍋の湯に沈んでいるポットに注がれている。
とろりとした黒い面から、湯気が立ち上り始めたのを見計らい、彼女はポットを引き上げた。
さらに、四人分のティーカップに、濃さが均一になるよう注ごうとしたところで……。
ドンドンドン、と部屋のドアがけたたましい音を立てる。
返事よりも先に扉が開き、
「パルスィ! スペシャルブレンドだ! 熱々で頼む! ヤマメのおごりで!」
「パルスィちゃん、私はコーヒー牛乳! ヤマメちゃんのおごりでお願いします!」
浴衣の橋姫は振り返り、入ってきた浴衣鬼と浴衣釣瓶落としをジト目で見ながら、
「ノックはもっと静かに。それとキスメ、せめてカフェ・オレと言ってちょうだい」
「お風呂上がりなんだから、コーヒー牛乳の方が合ってるんじゃないかしら。あ、私はブラックでよろしく」
二人に遅れて入ってきた浴衣土蜘蛛が、ぴらぴらと三枚の券を指に挟んで振りながら言った。
服もさることながら、いつもは後ろで丸めたり縛ったりしている髪を下ろしているので、イメージがだいぶ変わっている。
しかしながら、その顔は目がぱっちりと開いていて、背筋もしゃんと伸びていた。
妖怪達はそれぞれ椅子に座り、大理石のテーブルを囲む。
パルスィは注文通りの品を三つ、そして自分の分の一杯を乗せてお盆に、テーブルに持って行った。
「待ってました! これが楽しみだったんだ」
勇儀がカップの一つを受け取り、まるで宝物を扱うかのように掲げて言った。
隣にいたヤマメが、少し身を引き、
「……っとっと。勇儀。それ飲むのはいいけど、こっちに近づけないようにしてよ」
「ああ、わかってるわかってる。しかし、この複雑妙味が味わえないとは残念な話だなぁ、全く」
と言って、鬼は『スぺシャルブレンド』を音を立ててすする。
その実体は、パルスィの淹れたコーヒーとレッドモンスターブルエナジーを混合し、なおかつ温めたものである。
コーヒーに対する冒涜としか思えない飲み物だが、勇儀はいたくお気に入りで、毎日でも飲みたいくらいだとまで言っていた。
それに比べれば遥かに良心的な――と言っても地底有数のリッチな飲み物を口にして、キスメは幸せいっぱいの表情を浮かべる。
「おいしー。ヤマメちゃんも美味しい?」
「ん。お風呂の後だとまた格別だわね。やっぱり宴はお酒。おしゃべりはお茶。アウトドアはサイダー。そしてお風呂上がりにはコーヒー」
「今考えたでしょそれ」
と、パルスィがツッコミを入れてから、自分の分のカップを口に持っていき、香りを楽しみつつ傾ける。
昨日の騒動が嘘のような、まったりとしたコーヒーブレイクであった。
さて、パルスィが温泉で意識を取り戻してから、どうなったかというと。
同じく移動泉の力で正気に戻ったヤマメは、自分が気を失っていた間のことを聞くなり、すぐにびょ~き玉を回収しに回った。
その際、おかしくなってしまった勇儀と太ってしまったキスメについても、病の気を吸い取ることで、元の健康体に戻した。
危うく大惨事を免れたということになるわけだが、実のところヤマメは、本当にヤバい病については、特別な呪文を用いないと引き出せぬという安全装置をかけていたらしい。
なんにせよ、騒動は無事に収まってくれたというわけだ。
ヤマメがかしこまった態度で頭を下げ、
「この度は、お騒がせいたしました。二人には迷惑をかけてごめんね」
「ううん。気にしなくていいよ、ヤマメちゃん」
「ああ。結局、元に戻れたんだし、よしとしようじゃないか。けどパルスィ。お前は何か言うことがあったんじゃないか?」
「もう謝ったわよ。正座が長くて足が痺れたわ」
事態が収拾した後も、パルスィにはヤマメによるお説教タイムが待っていた。
下手すると私もあんたも地底を追い出されるか指名手配を受けるところだった、などと叱られたのだが、今回ばかりは反抗する気が起きなかったので、パルスィは黙って受け入れた。
しかしヤマメは、謎の飲料を盛られたことよりも――もちろんそのことについてはそれなりに立腹していたのだが――それより大量のカフェインによって思わぬ不覚を取り、今回の騒動を起こしてしまったことについて、深く反省しているようだった。
「まさか、自分にこんな弱点があるとは思わなかったよ。油断大敵。これからは調子に乗らないで、ちゃんと飲む物に気を付けないといけないねぇ」
「私も毎日運動するよ。だって、太って動けなくなっちゃったらすっごく大変だってわかったから」
「私も同じだ。あんな病に不覚を取るなんてね。もっと心を鍛えないといけない。健康のありがたみを知るっていうのは、こういうことなのかもね」
「そう言ってもらえると、私も気持ちが軽くなるといいますか」
「それに、お詫びならそのチケットでこれからも私らに奢ってくれればいいさ」
「あはは、すぐに無くなっちゃいそうだね」
ヤマメは束ねた薄い紙を、指先でパララララ、とめくる。
スペルカードに用いられる札の原料となる紙だが、ペルシャ柄なのが特徴だ。
ヤマメが考案し、パルスィが作成した百枚つづりのコーヒーチケットである。
どういうものかというと、水橋パルスィはいつどんな時であっても、この券一枚につき一杯のコーヒーを淹れないといけないのだ。
ついでに、今度同じような真似をしたら、コーヒー券ではなく、『耳はむ券』なる凶悪な券を発行するという誓約書まで書かされた。
結局、ヤマメの弱点を知るという目的は達せられたのだが、そのために払った代償は少なくなかったといえる。
ただまぁ、パルスィとしては事態が何とか丸く収まってくれたことにホッとしていた。
「そういえば、パルスィはどんな病気にかかったんだ? ヤマメを運んでる時に、体調を崩したって聞いたが」
カップを早々に空にした勇儀が話を振ってくる。
パルスィは、ここぞとばかりに、その時の症状を大げさに語った。
「とにかく、ひどい病だったわ。頭は熱くて、胸は苦しくて、動悸は激しくて、体は重くて。眩暈はするし、吐き気はするし、足元はふらつくし。布団が目の前にあったら迷わず飛び込んでたくらいだった」
「ええっ、そんなに? パルスィちゃん、今は平気?」
「まあね。温泉に入ったおかげで、後遺症もない感じだし。大丈夫なんでしょうヤマメ?」
「うん。心配はないけど、私としてはちょっと意外だったわねぇ」
ヤマメは意味ありげにニヤニヤと笑っている。
大体こいつがこういう表情をしている時は、ろくなことを考えていない、とパルスィは思っている。
「何しろ……生きてる人間のは殆どは、誰もが一度はなるけど、パルスィがなるのは意外な病だったから」
「パルスィちゃんがなるのが、意外な病気?」
「そして生きてる人間のほとんどがなる……ふむ」
キスメと勇儀は、なぞなぞの答えを考える素振りで首をひねる。
その時、彼女らを眺めていたパルスィの脳裏に、閃くものがあった。
ヤマメの発言と、自らに起こった症状から、ある一つの可能性が導かれる。
――まさか……! そんな……! 嘘でしょ!?
パルスィは愕然となった。
胸が苦しくなり、動悸が激しくなり、足が地に着かない感じ。
生きてる人間のは殆どは、誰もが一度はなる病気。
それすなわち、恋の病!!
いいや、信じられない。
たとえそんなものが存在したとしても、私が恋の病などにかかるはずない。
第一誰に恋をするんだ。この部屋にいる三人の誰かか? バカな。
地底の誰が相手だろうと、こんな性格の私と上手くいくはずがない。
もしかすると、症状だけがびょ~き玉に封じられていたとか?
仮にそうであっても、認められはしない。
そもそも他人の嫉妬を養分にする橋姫は、恋愛の蔓延る世界と壁一枚隔てて生きているのだ。
その橋姫が恋の病。絶対にありえない。クラゲが心臓病になるか? ナメクジが脱毛症にかかるか?
私はパルスィなのよ。いつだってパルスィなのよ。
「……ちょっと滝に打たれてくるわ!!」
カップを乱暴に置き、すっくと立つなり、パルスィは宣言する。
勇儀は椅子から彼女を見上げて、目をぱちくりとさせ、
「滝? どこにあるんだそんなの」
「知らないわよ! 旧都の外だったらどっかにあるでしょ! 何だったら前の自分の家まで戻ってもいいわ!」
「でもあんた、お風呂に入ったばっかりなのに……」
「関係ない! 橋姫としての……! なんていうか、インディビジュアリティーの危機なんだから!」
一方的に言って、パルスィは逃げるように部屋から飛び出して行った。
残された三名は、それぞれ疑問符を顔に浮かべる。
特に困惑した様子の勇儀は、ぽりぽりと頭をかきながら、
「相変わらず、あいつの行動は読めんなぁ。突発的というかなんというか」
「あんたより付き合いの長い私も、今だに読めないよ。そこが面白くもあるんだけど」
「ねぇヤマメちゃん。パルスィちゃんのかかった病気って、何だったの?」
「ん? ああ、別に珍しくもなんともない病よ」
キスメの疑問に、ヤマメはあっさりと肩をすくめて答えた。
「ただの風邪。ほら、『何とか』は風邪をひかないって言うでしょ?」
滝に打たれる水橋パルスィが、再び自分が『何とか』ではないことを証明したのは、翌朝のことだった。
(おしまい)
ぽやっとしたヤマメが可愛いと思った
本当に危険な病気にはセーフティがあるっつっても、他の変な病気撒き散らすだけでもヤバイじゃないですかやだー
勇儀が最初にかかった病気は何なんですかね…角のむくみかな?(適当)
面白かったです。
ドリンクの錬金術はファミレスのドリンクバーでよくやったものです(遠い目)。
しかしまぁ、この四人組いいですね~。
ヤマメとキスメがかわいすぎて好きになっちゃいますねー!
四人の可愛さが相変わらずで楽しめました
楽しかったです。
面白かったです。
温泉女神さんはまさか準レギュラー化?
面白かったです