Coolier - 新生・東方創想話

地底四人娘 1 ― 伝説の温泉の巻 ―

2015/07/05 08:24:05
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 地底をさすらう温泉があるという。

 水面には虹の橋が架かり、湯は見る角度によって色を変え、その香りは鼻につくところがなく、多様にして馥郁。
 湯気を吸い込めばたちどころに心を癒し、手を差し込むだけで活力がみなぎり、肩まで浸かれば数限りない効能をその身にもたらす。
 およそ十年を周期として、広大な地底世界のどこかに姿を現し、七日を経てまた何処かへと消えてしまう神秘の湯。
 さらには、初めにその温泉に入った者は、特別な霊験をたまわるとも言われている。

 その名も『移動泉』。
 いわば、地面の下で生きる者達に等しく与えられる、十年に一度の宝くじ。
 よっぽどの幸運がない限り巡り合えぬ、幻の秘湯。

 そして今、一人の妖怪が自らの住処の風呂場にて呆然としていた。
 金の髪を濡らし、緑の両眼を皿のようにし、ぽかんと口を開けて。

 しばらくして、ごくりと喉を鳴らし、ようやくかすれた声で水橋パルスィは呟いた。

「…………マジなのこれ?」

 彼女の視界には、虹の架かった湯の池が広がっていた。
 





 ~ 伝説の温泉の巻 ~
 








「移動泉――!?」

 最初にパルスィがそのことを伝えた相手――釣瓶落としのキスメの驚きっぷりは相当なものだった。
 ぴょこん、ぴょこんと桶をバウンドさせながら、二つの緑のおさげを大きく羽ばたかせ、

「ほ、ホントにホントに!? 色はどんなだった!? 虹は見えた!? いい匂いしてた!?」
「専門家に確かめさせたわけじゃないけど、確かに角度によって色が変わって見えたし、虹も架かってたわ。匂いも悪くなかったし、たぶん間違いないんじゃないかしら」
「すごいすごい! パルスィちゃんのおうちに、移動泉が来るなんて!」
「こっちは出前を頼んだ覚えはないけどね」

 肩をすくめて、パルスィはクールにうそぶく。
 しかしながら実際のところ、パルスィ自身もそれを見つけた時は、興奮を抑えるのが困難だった。
 洗い場で腰を抜かしかけ、次いで、しゃっくりが止まらなくなった。
 さらには頭から水をかぶって、ようやく冷静になった後も、きっと誰かの悪戯だろうと決めつけた。
 生まれてこのかた、嫉妬の神の次にアンラッキーの神と縁の深い自分の家に、かの有名な移動泉がやってくる。
 そんなこと、あり得る? ねーよ、目ぇ覚ませ私。

 けれども確かに、その湯は通常の温泉とは全く別物の、神秘的な力を醸し出していた。
 湯気を吸いこむだけで荒んだ心は凪いだ海のように変わり、掌を湯につけてみるだけで頭からつま先までエネルギーが浸透した。
 ただ、ぬるま湯好きのパルスィには、湯の温度が熱過ぎたため、まだ肩まで浸かってはいない。
 ひとまず、こういった情報に詳しい友人の土蜘蛛に相談しようと、彼女の家を訪れたのだが、あいにく当人は留守だった。
 その代わり出迎えてくれたのが、パルスィに先んじて黒谷ヤマメの留守宅にいた、

「ちょっと待ってて! 確かヤマメちゃんが、温泉の本を持ってたはず!」

 などと言って、はしゃいでいる、小さな見た目の桶娘であった。
 彼女は興奮気味に奥へと跳ねて行き、何やら冊子を抱えて戻ってくる。

「ほら! この本に色々書いてたよ! えっとね、移動泉、移動泉…………あった、これこれ!」

 キスメはページを開いて、わざわざ書かれている内容を読み上げてくれた。

~~

  移動泉。
  単なる温泉としてではなく、有数な伝説の一つとして語られるそれは、この地底における秘湯中の秘湯である。
  十年間この世から姿を消し、再び地底の何処かに現れて七日間、そこを訪れる者を分け隔てなく癒す摩訶不思議な湯だ。
  明らかに通常の温泉とは異なる現象で、妖怪か、あるいは神の一種ではないかと言われているが、十分な研究がなされる前に姿を消してしまうために、いまだ謎な部分も多々ある。とはいえ、分かっている情報だけでも、効能、その神秘性と知名度、そして発見の難易度において、ありとあらゆる温泉の頂点に立つものと言ってよい。
  最高五つ星の評価を基準としているこの特集号でも、移動泉のみ『評価不能』というある意味最高の評価をつけることにした。

~~

「すごいよー、見開きのページに効能がびっしり書いてある。神経痛・筋肉痛・関節痛・うちみ・くじき・冷え性・疲労回復・健康増進、皮膚病、リウマチ・喘息・内臓疾患・貧血……」
「あーはいはい、全部言わなくてもいいわ。要するに、万病に効くありがたい温泉てことでいいのね?」
「それだけじゃないよ。通常の温泉の効能全てに加え、魔力ならびに妖力の増加・カリスマ増加・新聞売上増加・お賽銭増加・バストアップ……」
「途端に胡散臭くなったわね」
「後これも有名な話! 一番風呂に浸かった人は、願い事が叶うんだって! 温泉が出ている七日間だけみたいだけど。パルスィちゃんお願いしてみた?」
「いいえ。どうせ眉唾でしょ。ま、後で試してみてもいいかもしれないけど」
「ヤマメちゃんが帰ってきたら、きっとすっごくびっくりするんじゃないかな。移動泉の話、何度も私にしてくれたもん」
「…………でしょうね」

 そう。実はパルスィの移動泉に関する半端な知識も、元々ここに住む妖怪から伝え聞いていた噂話によるものだった。
 多趣味で顔が広くて行楽好きな彼女であっても、移動泉に入った経験は無いらしい。
 このことに関しては、運の問題ばかりとは言えず、土蜘蛛という種族にまつわる風評も絡んでいる。

 一般的に妖怪は皆、温泉が大好きだ。
 温から立ち昇る気は公平無私。種族を選ぶことなく、神も獣もあやかしも等しく癒してくれる。
 また、温泉は古来より伝説と強く結びついてきたため、同じく伝説を身にまとって暮らしてきた妖怪にとっては奇妙な親近感がある。
 他にも湯には、人間と妖怪の間にある垣根を低くする効果もあるので、本能的に引き寄せられてしまうものなのかもしれない。
 大体にして、温泉の特集本などが書かれるくらいなのだから、地面の上で暮らそうと下で暮らそうと、妖怪の温泉好きは変わらぬようだ。

 しかしながら、旧都の温泉宿は――『入れ墨歓迎』の文字はあっても――『土蜘蛛お断り』の看板を掲げている場所が少なくない。
 曰く、病の象徴だから、衛生的に問題があるから、病気の種をばらまいて他の客に害を為す恐れがあるから、といったところだ。
 ヤマメと知り合ってから、病に苦しんだ経験のないパルスィからすれば、とんだお笑い種であった。
 どうやら都の連中の多くは、このバイ菌だらけの地底で、土蜘蛛と仲良くなることの恩恵に気づいていないとみえる。

 ともあれ傍から眺める限り、ヤマメ自身はそうした風評を気にする様を見せずに過ごしていた。
 一方でやはり、余計な騒ぎを起こさぬよう、公共の温泉については避けているようでもあった。
 過去に移動泉を引き当てることができた者達も、土蜘蛛をわざわざ招き入れたりしていたとは思えない。
 その人物が土蜘蛛自身か、土蜘蛛の親しい知り合いでもない限り。

 キスメはそのあたりの事情も心得ている風に、満面の笑みを浮かべて、

「良かったね、パルスィちゃん。きっとヤマメちゃん、すごく喜んでくれると思うよ」
「ま、あいつに『恩を売る』にはちょうどいい機会と言えるわね」
「もー、素直に招待するって言えばいいのに」
「自動的に言葉が変換されるようにできてるのよ。橋姫って妖怪は」

 そんな噂をしているうちに、彼方から二人のよく知る気配が近づいてきた。
 キスメがまた興奮した様子で、きょろきょろと首を動かし、

「や、ヤマメちゃんが帰ってきた。パルスィちゃんどうしよう」
「普通にしてなさい。頃合いを見て、私から話すわ。調子に乗って口を滑らすんじゃないわよ」
「うん、わかってる。私、ちゃんと黙ってるから」

 そう小声で言って、キスメは桶の中に顔の下半分まで沈み込む。
 パルスィが椅子に腰かけたタイミングで、留守をしていた噂の妖怪が、ひょっこりと姿を現した。

「ただいまー。お、ご両人ともおそろいで」
 
 勝手に自宅に上がり込んでいる二人にも慣れた様子で、黒谷ヤマメが相好を崩しながら入ってくる。
 砂金色の長い髪をきちんとお団子にしているところを見ると、旧都に出かけていたのだろう。
 服も初夏らしい半袖の軽装で、リボンやスカートの色調も明るめのものに変わっており、糸を結えた買い物袋を手首から提げていた。
 人生が楽しそうで何よりだ。旧都嫌いのパルスィは、お洒落してあそこに出かけるという発想がまず思い浮かばない。
 同じく、一年中ストイックなまでに桶スタイルを貫く妖怪が、若干緊張気味の声色で、

「あの、ヤマメちゃん、おかえり。二人で待ってたんだよ」
「それはそれは、留守番ご苦労様。はい、これはお土産」
 
 キスメの素振りに特に気づいた風もなく、ヤマメは鞄から長方形の箱を取り出し、テーブルの上に置いて、台所へと向かう。
 パルスィが箱の蓋を開けてみると、色々な形をしたチョコレートがきちんと並べられていた。
 ここらでは手に入らないお菓子であることから、やはりお出かけ先は旧都だったらしい。
 パルスィとキスメは秘密を共有している者同士、意味ありげに視線を交わしながら、チョコのかけらをつまんだ。

 三人分のお茶が入ってから、ヤマメがハンモック型の椅子に腰を下ろし、体をぐいーっと後ろに伸ばして、

「やー、なかなか面白いものが見られてよかった。実はね。買い物してる途中で、移動泉の噂を聞いたんだ」
「………………!」

 お菓子を食べていたキスメが、頬の動きを止めて、目を真ん丸にした。
 パルスィはお茶を一口飲んでカップを置き、おもむろに腕と膝を組んで、平静を装いながら尋ねる。

「移動泉がどうかしたわけ?」
「ん。旧都の有名な温泉宿に、それが湧いたっていう話を聞いてさ。確かに、そろそろ姿を見せる時期だし、話のタネに出向いてみたんだけど、ただのデマっていうか宣伝だったみたい」
「なるほどね。騙された方からすれば、いい迷惑だったでしょうね」
「ホントホント。わざわざ足を運んだのにねぇ。まぁどっちにしろ、私みたいな土蜘蛛には縁遠い代物なんだけど」

 あははは、とあっけらかんとした口調で言って、ヤマメはチョコのかけらを口に放り込む。
 当人が底抜けに明るいためにそんな雰囲気はないが、己の境遇について半ば諦めているというか、達観しているような発言だった。
 年中湿潤気候の性格で、妬みこそ自然な感情と考える橋姫からすると、いつもながら歯がゆさを覚える言動である。

 ――これから、移動泉のことを教えたら、どんな顔するでしょうね。

 パルスィが心中でほくそ笑んでいると、キスメが恐る恐るといった調子でヤマメに尋ねた。

「ね、ねぇヤマメちゃん。移動泉って、旧都にしか出ないの?」
「んん? そんなことないよ。気まぐれだから、どこにだって現れる可能性はある」
「じゃ、じゃあこの家に出ることもあるってことだよね」
「まぁよっぽど低い確率だとしても、可能性がゼロとは言えないかなぁ」

 来客の多い、広々とした自分の家の中を見渡しながら、ヤマメはそう呟いた。
 それを受けて、キスメはまだ黙っているパルスィの方を素早く向き、何度か小さくうなずく。
 素直な仕草に、サプライズを明かす瞬間が待ちきれない様子が表れていた。
 パルスィは、こみ上げるおかしさを薄笑いで覆い隠し、おとがいをわずかに持ち上げて、「いいわよ」と役目を譲ってやることにした。
 すると意図を理解したキスメは、ぱぁっと顔を輝かせるなり、桶から上半身を乗り出し、

「ねぇ! ヤマメちゃん! ヤマメちゃんって前から移動泉に入りたがってたよね!?」
「へ? そりゃまぁ、機会があったら入りたいとは思ってるけど、どしたのキスメ?」
「じゃあじゃあ、もしヤマメちゃんの家とか、あとは身近な人のところに、移動泉が出たら、きっと嬉しいよね!?」

 興奮気味に質問を重ねるキスメ。
 パルスィは椅子の上で踏ん反り返り、手柄顔でその様子を静観する。
 間もなく、親友の甲高い歓声とオーバーなリアクションが拝めることであろう。
 おそらくは、「うっそー!? パルスィ最高ー! 愛してるー!」等の台詞付きで。
 そうしてここにいる三名は、旧都の連中を差し置いて三人だけで移動泉を堪能し、嫉妬心と優越感の境界を飛び越えることになるわけだ。
 無論のこと、自分が移動泉を引き当てたおかげである。滅多にない役回りだ。なかなか気分が良い。

 ところが、


「嬉しい? あはは、それだけは絶対にないね」


 現実のヤマメに、あっさり否定され、バランスを崩したパルスィは壁に後頭部をぶつけた。
 後ろが何もない空間だったら、そのままひっくり返っていただろう。
 同じく不意打ちだったらしいキスメも、たじろいだ口調で続ける。

「ど、どうして? ヤマメちゃん、移動泉に入ってみたいって今言ってたじゃない」
「どうしたもこうしたも、ちょっと想像力を働かせれば分かるさ。今日の温泉宿だってデマはデマだったけど、本当に大変だったんだから」

 ヤマメは苦笑混じりに、ぱたぱたと掌を縦に動かしながら訳を話す。

「だって十年に一度の秘湯だよキスメ? 温泉好きな妖怪が、鬼だけでも旧都にどれだけ数多くいるか知ってる? それがたった一つの温泉を目指して集まるんだよ? どんなことになるか、分かりきってるでしょうに」
「……大騒ぎになったりするとか?」
「大騒ぎなんてもんじゃない。暴動に近いよありゃ。野次馬の私は遠くから眺めてたんだけど、一番風呂を目指して、汗まみれの筋肉ダルマが大集合。入り口に殺到して押し合いへし合い」

 その光景を思い出しているのか、語り手は眉をハの字にしていた。
 もっとも口元の方は、愉しげに緩んでいたが。

「そのうち、あちこちで殴り合いの喧嘩が始まって、物は壊すわ、壁は蹴破るわ、柱は倒すわ。しまいには倒壊しちゃった建物の奥で、目にする湯船に手当たり次第、体も洗わず裸一貫で飛び込んでいく。その様子は地獄絵図そのもの。たぶん地底で最も暑苦しい光景だったろうね」
 
 けらけらと笑う土蜘蛛に対し、釣瓶落としの方は蒼白になっていた。
 そして、キスメ以上に色を失っている者が、場に約一名。

「ま、実際その温泉宿も調子に乗って自分でニセの噂を広めたんだから、自業自得じゃないかな。それでも十分広い場所だったからまだマシだけど、これが個人の家に出現した日には、ひとたまりもない。半刻もしないうちに跡形もなくなって、家なんだか鬼の身体で作ったサウナ部屋なんだか分からない状態になってるだろうね。いくら来客慣れしてる私でも、さすがにそんな騒ぎはごめんこうむるよ。考えただけで背筋がゾッと……」
「………………」
「あれ? どったのパルスィ。珍しい顔してるけど」
「………………………………」

 問われた橋姫は無反応。
 まばたきを忘れた状態で、口元を引き結び、硬直していた。
 こめかみから汗が一筋流れ、左右に尖った耳がプルプルと震えている。

 一度深呼吸し、普段以上に低いトーンで、パルスィは切り出した。

「……や、ヤマメ……実はその……今朝のことなんだけど……」

 


 十秒もしないうちに、血相を変えた土蜘蛛が、釣瓶落としと橋姫を両脇に抱えて家を飛び出した。









 旧地獄の南端は、外部の妖怪が都に出入りする上で最もよく使われる区画となっている。
 昔から今に至るまで、北側はどこも力ある鬼が根城としているため、自然と外へと通じる街道はここに集中したのだ。
 よってここらの雰囲気は比較的穏やかで、地上からの来訪者も時々散見されるほど開放的な場所となっていた。
 
 ……はずなのだが、

「どけぇー! 邪魔じゃぁー! わしらが一番乗りじゃぁー!」
「何しやがる! 叩きのめされたいか!」
「るせぇっ! 早い者勝ちだ! 道を開けろぉ!」
「うぉおおおおお! 目指すは移動泉んんんん!」

 怒号が飛び交う中、鬼火の行灯が激しく揺らめき、目を爛々と輝かせた無数の影が躍る。
 空を飛ぶ者、大地を駆ける者、棍棒を振り回して進む者、荷車を引いて前を行く者を蹴散らす者。
 彼らはいずれも旧都の外を目指して、追い立てられた野牛の群れのごとき大移動を始めていた。

 その様子を上方から見下ろす集団があった。
 他から比べれば少数だが、空中にたたずむ姿は悠然としており、ただならぬ妖気を醸し出している。

「……反応は本物です。今年の出現場所は、旧都じゃなかったようで」
「この様子だと、また現場で血を見ることになりそうですね」
「会長。準備はできていますぜ」
「ん……」

 会長と呼ばれた影が、大きくうなずき、拳を掌に叩きつけた。

「よぉし、急ぐぞ! 待ってろ移動泉!」

 遅れて出発したその集団は、他のどこよりも威勢のよい掛け声をあげ、都の上層めがけて突撃していった。




 ◆◇◆




 ヤマメの家を飛び出し、地底を潜ること四半時。
 急ぐパルスィ達の前方に、地下水の川の上に架けられた、朱塗りの橋が見えてきた。
 風穴と旧都の中間に位置する交通路の一つで、一応、水橋パルスィの縄張りということになっている。
 その下方にある岩壁に掘られた穴が、パルスィの家の玄関口だった。

 大急ぎで飛んできた三名は、入り口の戸を開けて中に飛び込み、奥を目指してまっしぐら。
 浴室に一番に飛び込んだヤマメが、急ブレーキをかける。
 
「セーフ! よかった! まだ見つけられてなかったみたいね」

 その後ろに立つパルスィも、思わず安堵の息をつく。
 無人の浴室の床には相変わらず、虹のかかった五色の池が広がっていた。
 普段パルスィはいつも水浴びで済ませているため、ここには浴槽というものがない。
 シャワーと洗い場だけの質素な造りになっていて、岩肌の天然の紋様を除けば装飾もほとんどない。
 けれども今、燐光を帯びた移動泉がほのかな照明になっていて、見慣れた地味な浴室を、全く別の幻惑的な光景に作り替えていた。
 そして見た目だけではなく、妖怪であれば……いや、霊感のない人間だったとしても、はっきりと感じ取れるほどの特別な力が、湯の底から今も溢れ出ていた。
 「ふわわ~」とキスメが宝石箱を前にしたようなため息を漏らす。
 側にいたヤマメも頬をほんのり色づかせて、湯気に手をかざし、

「ひゃー……間違いなく、本物だよこりゃ。では早速ひとっ風呂……」
「おいこら」
「冗談です。けどすごいねぇ、運がいいんだか悪いんだか。たまに予想もつかない大穴を引き当てるよね、あんた」
「……さすがに今回ばかりは、反論不能だわ」

 二人の反応とは対照的な面持ちで、パルスィは呻く。
 ちょっとでも幸運が舞い込んできたと期待した自分が大馬鹿だった。
 嫉妬の神は、いつも迷える橋姫を上げるだけ上げて最後に叩き落とすのがお決まりなのだ。
 妖怪として生まれてから、ずっとその流れに翻弄され続けてきたというのに、まだ懲りずに騙されてしまうとは、不覚。

「それで、どうすりゃいいの、この状況」
「そうだねぇ、なかなか厄介な……」

 ヤマメはあごに手を当て、移動泉の周りをゆっくりと歩き始めた。
 噴水口のある天井、滑らかな石の壁、濡れた床、と視線をリフォームの下見よろしく走らせている。
 他方、じっと移動泉に見入っていたキスメが、提案してきた。

「ねぇヤマメちゃん、見つけたことを他の人に隠しておいたらどう? しっかり戸締りをして、誰にも話さないでいたら……」

 その考えは一応、パルスィにもあった。
 ここの出入り口は橋から死角となっていて、普通にここを通る存在であれば見つけにくい仕様になっている。
 加えて、扉には特別なまじないがかかっているために、本来はパルスィが許した相手でなければ感知することも難しい。

 だが、さっきまでの友人の慌てぶりを見る限り、おそらくは……。

「いや、そんな簡単にはいかないよ」

 やはりというべきか、ヤマメがすぐに否定する。

「移動泉を狙ってる連中は、それぞれが腕利きのダウザーを引き連れてるもんなんだ。これだけ特別な温泉なら、玄人は決して見逃しやしない。一滴そこらにこぼれてるだけで、半里の彼方から駆けてくるって噂もあるくらいだし。パルスィ、あんたがこれを見つけてからどれくらい時間が経ってる?」
「三時間……は経ってないと思うけど」
「三時間か……。だとすると、あと半刻もしないうちに、野蛮で不潔な妖怪共がここに集まってきてもおかしくないね」
 
 思わずパルスィは身震いした。
 すなわち、欲に目の眩んだ旧都の温泉宿で起こった惨劇が、再び繰り広げられるかもしれないということだ。
 よりにもよって、この狭い自分の住み処で。
 もしそんなことが起こったら、この世から消滅する自信がある。

「私からの提案だけど……」

 浴室内の検分をしていたヤマメが、重たげに口を開く。

「……この移動泉は早急に、どうにかしてここから無くしてしまう方がいいと思う」
「ええっ。そんなのないよヤマメちゃん。せっかくパルスィちゃんが当たったのに」

 キスメが眉根を寄せ、哀しそうな目で訴える。
 自分が温泉に入れないから……ではなく、普段から不幸な身を自嘲しているパルスィを思い遣っての発言のようだ。
 だがそんな心優しい小さな妖怪を、ヤマメは落ち着いた語調で諭す。

「私だって、できるならそうしたくはないけどね。この温泉を狙って来るのは、十年か、もしくはそれ以上の期間、追い求めてきた狩人達なんだ。たまたま移動泉が現れた場所に誰が住んでようと、気にする連中だとは考えにくいし、下手するとこの家を丸ごと乗っ取られる羽目になっちゃうよ」
「そんな……」
「争いの元を消してしまうか、ここから遠ざけるのが一番賢明だと思う。もちろん、決めるのは私じゃなくてパルスィだ。あんたがここで移動泉を守って徹底抗戦したいっていうなら、私もできる限りの協力はするよ」

 俯き加減だったヤマメが、パルスィの方を向く。
 その顔に、いつもの冗談交じりの雰囲気はない。
 冷静に状況を見定めた上で、本気で友の身を案じているのが伝わってくる。
 強引に説き伏せられるよりも、力尽くで命じられるよりも、心にすっと入ってきた。

 結局、舌打ちしてから、パルスィは答えた。

「いいわ。時間がないんでしょう? そんな温泉どうでもいいから、何とかしてちょうだい」

 移動泉は惜しいが、この家はもっと惜しい。長年住んでる分、相応の愛着があるし、他人に土足で踏み入られるのは我慢できない。
 本音では後数時間、迷えるだけ迷って決断したいところだが、その間に飢えたケダモノ共がやってくれば元も子もないだろう。
 ここは自分よりもトラブル解決に慣れている友人に託すことに決めた。

 パルスィの決断を見届けたヤマメは、すかさず指示を出す。

「それじゃ、万一のことを考えて貴重品とかをまとめて……」
「その必要はないわ。普段から用心のために、こことは別の場所に隠してあるから」
「よし、都合がよろしくて大変結構。んじゃ二人とも、離れてて」

 ヤマメは呪文を唱え、両手を引き上げ、糸を操るかのごとく指を動かす。
 間もなくその指から、黒に近い紺色の霧のようなものが生じた。
 瘴気。土蜘蛛をはじめとした、地底の多くの妖怪が操る穢れた力だ。それもかなりの濃度である。
 パルスィはすぐに彼女の意図を察する。

「瘴気の膜で、お湯の通力を抑え込むのね」
「そ。あくまで時間稼ぎだけど」

 ヤマメが生み出した瘴気は、移動泉の虹をたちまち覆い隠す。
 そのまま風呂釜の蓋よろしく静かに停滞した。

「ひとまず、これでよし。時間のあるうちに、急いで本命の工事に取り掛からないと。というわけで、この秘密道具の出番だ」

 続いてヤマメが持参した袋から取り出したのは、小ぶりの瓢箪だった。

「ヤマメちゃん、それなぁに?」
「神瓢箪っていってね」

 彼女は瓢箪の蓋を取り、しゃがみこんで移動泉の中にそれを浸ける。

「見た目よりも多くの水とかお酒を、この中に取り込めるんよ。移動泉が現れる時期には、これが結構市場に出回るんだ。高かったから小さいやつしか買えなかったけどね」
「へぇ~」
「はい、パルスィ」

 パルスィが反射的に構えた手に、放り投げられた瓢箪が綺麗に収まった。

「風呂釜一杯分くらいのお湯が入ってる。それを遠くのどこか適当な場所にばらまいてきて」
「ダミーってこと?」
「そう。連中はそっちに気を取られるだろうから、もっと時間を稼げるはずだ。その間、こっちの工事を大急ぎでやっとくよ」
「じゃあヤマメちゃん! 私がそれ持ってく!」
「いんや、あんたじゃ危なっかしい。誰かに見つかった時、切り抜けられるかどうか心配だし、ここらの地理はパルスィの方が詳しいし。だからキスメは私の手伝い。いいね?」
「……うん」

 再び、桶の中に緑の頭が沈む。
 受け取った瓢箪を薄目で睨んでいたパルスィは、細い溜め息をついて、紐を肩に担ぎ、

「とにかく、これをどこか遠くに持って行って、捨ててくればいいのね」
「ん。くれぐれも気をつけなよ。移動泉を血眼になって探してる連中が、もうそこらをうろついてるかもしれないんだから」
「わかったわ。あんた達はここをお願い。あと、この埋め合わせはいずれ……」
「気にしなさんなって。とっとと行ってきな」

 ヤマメは屈託なく笑って送り出す。
 その足元から、ピョコンと桶に入った少女が前に出て、真剣な面持ちで、

「パルスィちゃん、気をつけてね!」
「あんたも、勇んでケガしないようにね」

 そう言って、キスメの額を指で軽く弾き、パルスィは住み処を飛び出した。









 ヤマメに任せて家を出たパルスィは、地下水の川に沿って、上流へと向かっていた。
 目指すはこの先にある、大きく開けた鍾乳洞である。
 普段から人気のない物寂しい場所であることに加え、旧都から地理的に近く、湧水が豊富。
 デコイの温泉を捨てるポイントとしては、おあつらえ向きだった。

 ただし当然のことながら、パルスィの表情は暗い。

 ――あーもう……何でいっつもこうなるのかしら。

 午後は温泉に浸かってゆっくりするはずだったのに、今はコソコソと人目を忍んで工作員の真似事。
 いつものことながら落差の激しい一日……いや落差の激しい半生だ。もはや悟りの境地に達する勢いである。

 だがまだ最悪の状況をギリギリで回避できる手立てがある分、救いのある部類だった。
 移動泉本体については、ヤマメに任せておけばいい。
 土木工事は土蜘蛛の十八番だし、きっと埋め立てるかどうにかして、上手くやってのけてくれることだろう。
 ただし、せっかく手に入れた移動泉は、手離すことになるが……。

 唐突に、胸の内が湿ったような気持ちになり、パルスィの足が止まった。
 頭を垂れ、手の内の瓢箪を見つめる。
 容器の中に移しても、かの神秘の湯はその力をまだ保っているようだった。

 ――この分だけでも、残しておけないかしら……。

 やはり心の奥底では、完全に吹っ切れられずにいる。
 態度に表わさずとも、移動泉の来訪に大喜びしていたのは事実だったし、短い時間ではあれど、自分と親しい限られた者達と楽しむのを夢見ていたのだから。

(パルスィ、その中身が爆弾だってこと、忘れないようにね)
 
 唐突に、去り際に背中にかけられた友人の忠告が思い出された。

(誰にも見つからないよう、早く手離すのが大事。欲を出すと大変なことになるよ)

 強くかぶりを振って、誘惑を振り払う。
 そうだ。これを探してる連中は、一滴こぼれてるだけでも見つけ出すと言われたじゃないか。
 ヤマメとキスメだって、本当は移動泉を楽しみたいだろうに、耐えて協力してくれているのだ。
 自分が欲をかいて失敗するわけにはいかなかった。

 やがて、目当ての広場についたパルスィは、湯を捨てるのにうってつけのくぼみを発見した。
 早速持ってきた瓢箪の口を開けて……


「おーい!! そこの橋姫ー!!」


 遠くから大砲のような声が飛んできてて、パルスィは慌てて蓋を閉め直す。
 振り返ると、洞穴の奥から無数の影がこちらに向かってくる所だった。
 もう見つかったのか、と身構えていると、

「やっぱりパルスィだったか!」
「ミズメの姉御! お久しぶりです!」

 思わず、パルスィは我が目を疑った。
 なんと影の主はいずれも鬼であり、全員がパルスィの知り合いだった。
 特に真ん中に立つ、黄金の髪をなびかせた、赤い一本角の持ち主は……。

「ゆ、勇儀。あんた何してんのここで?」
「ふふふ、鬼ヶ城温泉愛好会の活動だっ!!」

 星熊勇儀は親指で鼻をこすって宣言する。
 白い半袖の上着からは、いつものごとく引き締まった腕が伸びている。
 が、いつもと異なり、右肩には手ぬぐいが掛けられ、左脇には風呂桶が納まっていた。
 「そういえば……」と、この鬼が相当の風呂好きだったということを、パルスィは今更ながら思い出した。
 鬼ヶ城温泉愛好会という集まりについては初耳だったが。
 しかしそうなると彼女がここにいる訳は、
 
「もしかして、あんたも移動泉を探して……」
「おお! なかなか耳聡いなパルスィ。いかにも。私らの狙いは移動泉だ。あの秘湯には毎度争い事がつきものだし、今日、旧都で既にどえらい騒ぎが起こったんでね。これ以上、余計な怪我人を増やさないよう、鬼ヶ城の者達が見つけ次第管理することにした。ま、ついでに風呂も堪能させてもらうつもりだけど」

 おおおおおお――!!
 と後ろの若い鬼達がそれぞれの得物を掲げて吠える。
 いずれも鬼ヶ城の住人で、一昨年に旧都で起こった事件をきっかけにして、パルスィをミズメの姉御と呼んで慕っている者達だ。

「見てくだせぇ。これは温泉のありかを示す特別な道具でさぁ」
「そっちは遠距離用、こっちは近距離用の探知機でござい」

 鬼達は持参した道具を自慢げに見せてくる。
 つるはしに大槌といった採掘のための道具から、振り子やら曲がった棒などの測量に用いるであろう道具。
 勇儀だけは持ち物が温泉道具のみだが、彼女なら素手で岩を掘ることも容易だろう。
 温泉愛好会というより、温泉ハンターというのが実体らしい。

 呆けていたパルスィの前で、代表者である一本角が、全く疑念を抱いていない笑みで誘ってくる。

「ちょうど良かった。お前も手伝ってくれ。移動泉が見つかったら、城に残った連中も招いて、みんなで楽しむ予定だから。会長として特別に愛好会に加えてやろう」
「い、いいえ。私はちょっと……」

 どうしよう、とパルスィは迷った。
 勇儀であれば、協力者としてこの上なく頼もしい。
 何しろ腕っぷしでは地底最強で、荒事の対処にもヤマメ以上に慣れているだろうから。
 ここは事情を話して、手を貸してもらえば……。

 いや、やはりダメだ。
 彼女だけならまだしも、鬼ヶ城にいる全ての鬼をあの狭い浴室に招くというのは、遠慮願いたい。
 けれども勇儀の性格からして、仲間を差し置いて自分だけが湯に浸かることなど許しはしないだろう。
 むしろ、

 (何だと!? 良い温泉は仲間全員で分けるもんだ! ケチくさいことを言うなパルスィ!)

 ……とか何とか言って、ごり押ししてくる可能性も大。
 その意味では、彼女もまた自分の家に近づけたくない、つまり移動泉を発見したことを覚られるわけにはいかない相手である。

 パルスィが後ずさりして、どうにかここを切り抜ける言い訳を考えていると、

「勇儀様! 反応が近いですよ!」

 鬼の一人が発した言葉に、ドキーン、と心臓が跳ねた。
 他の鬼達もにわかに色めき立ち、

「本当か!」
「ええ。この辺りで間違いなさそうだ」
「どこだどこだ」

 曲がった短い棒を持った鬼が、地面を睨み付ける。
 その様子を、背後に回った勇儀達が興奮気味に覗き込んでいる。
 他方、パルスィは顔にびっしりと汗を浮かべていた。視線が無意識に、自分の持っている瓢箪に吸い寄せられる。

「近い……物凄く近い……けどおかしい……移動しているような」
「そりゃ移動泉だからな……」
「適当に掘ってみるか……?」

 勇儀をはじめとした鬼のグループは、声をひそめて相談しながら、ぐるぐるとその場を歩き回り始めた。
 パルスィは彼らとつかず離れずの距離を取り、円を描くようにじりじりと歩を進める。
 ダウジング棒の先が自分に向けられる度に、そそくさと身をかわしつつ。
 鬼達は探知機の反応と周囲の状況に気を取られていて、パルスィの不自然な挙動には気が付いていない。
 が、

「右……いや左か。うーむ、捕まえたと思ったら遠ざかるような……」
「うろちょろ歩き回らずに、黙って立っていたらどうだ」
「すると向こうも動きを止めるんだよ。あ、ミズメさん。そこどいてください」
「一箇所に留まってくれるなら、喜んで掘るんだがな」
「なかなか、お湯の女神殿は気まぐれとみえる」
「まぁ、目前まで近づいているんだ。焦らず、じっくりやってくれ。っと、悪いパルスィ。足踏んづけたか?」
「あ、また移動してるぞ。まるでこっちを、からかってやがるみたいだ」
「………………………………」
 
 パルスィの心拍数が、マックスに迫る勢いで上昇していた。
 これはもう、バレるのも時間の問題だろう。
 かといって今この場から逃げ出せば、なおさら不自然だし、適当に誤魔化して去ってもおそらく無駄。
 この鬼達が瓢箪の中身に引き寄せられて、パルスィの後をついてくること請け合いだ。

 ――どうすりゃいいのよこの状況!?

 絶叫したくなる心境の中、事態は急変した。
 パルスィの汗ばんだ掌から、瓢箪がつるりと滑り落ちてしまったのだ。
 あっ、という間もなくそれは坂を転がり落ち、下を流れていた地下水の川に落ちてしまう。

「おお、何だ!? 移動泉の反応がおかしいぞ! かなりのスピードで遠ざかってる!」
「なんだと!?」
「俺達から逃げる気か!?」
「逃がさんぞ移動泉!」
「よし! 案内しろ! 追うぞみんな!」

 おおおおお――!!

 勇儀をはじめとした温泉狂の鬼達が、砂煙を上げて猛然と駆けて行く。
 一人場に残ったパルスィは、思考停止の状態でその様子を見送っていたが、やがて我に返った。
 川の流れる先には、パルスィの住み処がある。水流は曲がりくねっているものの、辿り切れば勇儀達は確実に見つけてしまうだろう。

「あわわわあわわ!」

 パルスィは泡を食いながら、全速力で自分の家へと戻った。









 川を下るよりも速く、真っ直ぐ自宅に帰り着いたパルスィは開口一番。

「ヤマメ! ごめん! しくじった! なんていうか、かなり面倒なことに……!」

 と、そこで言葉を切る。
 家の中には誰も見当たらず、話し声もなく、気配すら感じ取れなかったのだ。
 急いで浴室を覗いてみると、瘴気の膜はすでに薄らいでいて、移動泉は見事な虹の橋を掲げている。
 そしてやはり、土蜘蛛と釣瓶落としの姿はない。

「ヤマメ! キスメ! どこ行ったのよ二人とも!?」

 パルスィは不安に上ずった声で呼んだ。
 だが、いくら待てども返事はなく、室内はしんと静まり返ったままだ。
 そこである可能性について思い当たり、パルスィは目を剥いた。

 ――まさか……まさかまさかまさか!?
 
 騙されたのでは。
 あの瓢箪、ヤマメは一つしか買えなかったと言っていたが、嘘だったのでは。
 実は他にも用意していて、自分達の分のお湯を盗って、とんずらしたのでは!?

「嘘でしょ……!? 冗談じゃないわよ!」

 よりによって、一番信頼していた二人に裏切られたショックで、パルスィは錯乱状態に陥る。
 頭を抱えたり、我が身を抱きしめたりと忙しなく動いてみるが、動揺は決して収まってくれなかった。
 今さらこの状況を一人でどうにかしろというのか。
 もうすぐここに、移動泉を狙う輩が集結するかもしれないというのに。
 と、


(……………………!! …………!!)
(…………っ……!! …………ぁ……!!)
(……ぉ……!! ……ぅ…………!!)


 外から唸り声のようなものが聞こえてきて、パルスィは背筋を伸ばした。
 橋姫の勘が危険を察知する。音をたてぬよう慎重に歩を進め、戸口の覗き穴から外を眺める。
 薄闇の中、目を凝らしてみると……

(やいやい! なんだ、てめぇらはぁ!)
(てめぇらこそ、どっから湧いて出たぁ!)

 パルスィは危うく卒倒しそうになった。
 いつの間にやら橋の周りに、見知らぬ妖怪がぞろぞろと集まっていたのだ。
 まさしく、移動泉を狙っている者達に違いない。
 今朝に聞いたあの情報は、決して誇張ではなかったらしく、旧都をうろついている鬼、あるいはそれに準じるクラスの力ある妖怪が、今も次から次へとやってくるのが見えた。

「ここは俺達、『移動泉隊』が仕切る!」
「じゃかぁしい! 移動泉はわしら『温戦士』のもんじゃー!」
「何のお前らには勿体ない! 我々『お湯・ザ・グレート』に任せてもらおう!」
「ちょこざいな! 俺達『マスク・ド・オンセンズ』を差し置いて、何をぬかす!」

 橋の上に集まった、それぞれの代表者達が、名乗りを上げている。
 狭い覗き穴から見渡してみたが、勇儀達の集団はまだここに来ていないらしい。
 妖怪同士の言い争いは激化する一方で、妖気の密度もどんどんと増していく。

「お前たちごとき、泥まみれのでくの坊が、移動泉をものにしようとは、片腹痛し。即刻立ち去れい!」
「ぬかせ! お主こそ、そのみっともなく肥えたイボだらけの腹で、貴重な湯を溢れさす気か!」
「第一にだ! 貴様らには準備と覚悟が足りん! こっちはすでに全裸で待機中である!」
「こっちなんざ、この日のために三ヶ月風呂断ちをしておる!」

 常軌を逸した台詞の応酬に、パルスィは頭がくらくらとした。
 聞きしに勝る野卑な妖怪達だ。潔癖症の橋姫としては、同じ地底に存在していることすら許し難い。
 
「ならこの場で決着をつけようぞ! 力で奪う! それが地底の流儀だ!」
「おお! 望むところ! 来いやぁ!」

 その声を皮切りにして、あちこちで凄まじい殴り合いが始まった。
 鋼の肉体と鉄拳がぶつかり合う激しい音が響き、衝撃で地面がぐらぐらと揺れ動く。
 パルスィは戸口から後退しながら、頭を抱えた。

「ヤバいヤバいヤバいヤバい……!」

 この状況はヤバすぎる。
 まだこの場所はバレていないようだが、まやかしの術が見破られれば防ぎようがない。
 しかも出入り口はここしかない以上、逃げ出そうとすれば、あの鬼同士の乱闘の中を突っ切ることになる。
 さらには、たとえ死に物狂いで脱出できたとしても、外に出れば移動泉ごと、この家を放棄することに。
 
「そもそも、元はと言えばあんなものがうちに来るから……!」

 パルスィは呻きながら振り返り、こんな面倒な事態を引き起こした元凶の方を睨み付ける。
 十年に一度の秘湯は、相変わらず虹の櫛を差し、無表情の水面を湯気の化粧で覆っていた。
 己にまつわる争いなど、どこ吹く風といった感じだ。
 引き当てた自分がこれだけ切羽詰ってるというのに、妬ましい!

 ――ん……? 引き当てた……そういえば……!?

 とそこでパルスィは、今ごろになって『あの伝説』を思い出した。
 移動泉。その神秘の湯の一番風呂に入った者は、七日間、その願いが叶うという。
 この苦境、他に道は思いつかない。
 こうなりゃヤケだ。

「ううう……」

 熱い湯は苦手なのに。
 と、パルスィは涙目になりながら、靴を脱いで、右の素足を差し入れてみた。
 瞼をきつく閉じ、顔を歪め、眉間に力をこめて……

 ――えっ!?

 思わず目を開けて、移動泉を凝視する。
 湯の温度が今朝と変わっていたのだ。
 熱過ぎず、冷た過ぎず、ほどよくぬるい――パルスィにとって理想の温度に。
 まるで、自らが選びし者を受け入れたかのような変化だった。

 しかも差し入れた足を通じて、とめどなくエネルギーが伝わってくる。
 寒気やら吐き気やら、腹痛、貧血、頭痛、様々な症状に自覚なく襲われていたパルスィだったが、たちどころに癒され、健康体へと戻っていた。
 ついには湯気の芳しい匂いに誘われるようにして、パルスィは服を脱ぎ始めていた。
 帯を解き、上着の袖から腕を抜き、スカートを外し、肌着を取り去って……。
 
 初めて、かの移動泉を前にして、パルスィは一糸まとわぬ姿となっていた。
 けれども、羞恥や恐怖はとうに彼方へと消え去っていた。
 それほどまでに眼前の湯が放つ気は、魅力的だった。
 件の伝説とは関係なしに、浸かりたいという欲求が、かつてないほどに高まっている。

 パルスィは改めて、足を湯に差し入れ、静かにその身を沈めていった。
 ああ何という極楽か。
 体を浸していくほどに、湯が肌に絡み、滋養が溶け込んでいくのがわかる。
 水橋パルスィという精神体を構成する物質の一粒一粒が、覚醒していくようだった。

 虹の根本を枕にして、パルスィは目を閉じる。
 湯の中に魂をとろかせながら、夢見心地で願う。
 永久の安息を。平穏を。時がこのまま、止まってくれることを。
 しかし、そうはならなかった。
 突然、瞼の裏の光景が明るくなり、身を包む神々しいエネルギーが、一際強くなったのだ。
 そして、

<ようこそ……我が湯に導かれし御方>

 パルスィは瞼を開ける。
 眼前に、お湯の彫刻といった風な造形の女性がいた。
 霊的な力を帯びた滑らかな肢体から、向こう側の壁がわずかに透き通って見える。
 不思議な透明感と存在感。まさしく神秘の具象。
 水を尊び、水の傍で暮らしていた橋姫の心に、その姿は畏敬の念を呼び覚ましていた。

「貴方が……移動泉の女神?」

 表の騒ぎのことなど忘れて、パルスィは湯に包まれながら、茫然として尋ねる。
 女性の姿をしたお湯は、滴で弾く竪琴を思わせる、音楽的な声で言った。



<いいえ、私の名は『移動子』です>
「移動子!?」

 一気に現実に引き戻される。
 見た目と裏腹に、なんて安直な名前だ。
 水橋が苗字の自分も大概だが、彼女の場合さらにまんまだ。橋 姫子みたいなものではないか。
 いや、この際それはどうでもいい。パルスィは、普段の口調と表情に戻って、声を荒げる。
 
「ちょっと! なんてことしてくれたのよ! あんたがうちに現れたおかげで大迷惑してるんだけど!?」
<ええ? そんな反応初めてですわ。大抵の者は私が現れると狂喜乱舞してくださるのですが>
「橋姫だけは例外なのよ! 私は静かで平穏な日常さえあれば十分なの!」
<あらあら、それなら温泉でゆったりリラックスしてくださいな>
「なるほど、いい考えね」

 言われた通り、パルスィは湯の中に己の五体を広げた。

 嗚呼……なんという開放感。
 肉体と精神を蝕む、ありとあらゆる枷から解き放たれ、水中で羽化していくかのごとき快楽。
 しまいには蕩けたプリンのような表情となり、心ゆくまでまったりと……。

「……って、まったりしとる場合かっ!」

 パルスィは己にツッコミを入れながら跳ね起きる。
 危ない。この湯の中はアヘン窟のようなものだ。
 ちょっとでも気を緩めれば、あっという間に虜になってしまう。
 この温泉に夢中になる連中の気持ちも、今更ながらわかる気がした。
 といっても、今は意識を失っていられる状況では断じてない。

 対峙する移動子は困ったように顔を傾け、
 
<不思議な御方ですね。せっかく気持ちよさげに浸かってらっしゃってたのに>
「だー!! こちとら気持ちよく浸かってられる場合じゃないのよ! 生涯ベスト3入りは確実のピンチなんだから!」
<ピンチ? もしや風呂桶にお尻がはまってしまって脱出不能だとか?>
「そんなアホなピンチ聞いたことねーわよ!?」
<シャワーのホースを体に巻いていたら外れなくなったとか?>
「どこのアホガキの話よ! 第一私の身体を見れば、そういう状況じゃないって分かるでしょうが!」
<そうですわねぇ。器量は良くて大人びてらっしゃるのに、ずいぶん平たい御身体ですこと>
「大きなお世話じゃ液体女!!」
<これがいわゆる二次元の女性というものなのでしょうか>
「ふんっ!」

 妬ましき豊満なボディに一発、鬼直伝の右ストレートを決めてから、

「さっさと私の願い事を叶えなさい! この温泉をここから遠く、私と一切関わりのない場所に移動すること。大至急よ!」

 パルスィは早口で命じる。
 他方、原型の崩れていた移動子は再生した後、カタツムリが歩くようなムカつくほどおっとりした語調で、

<そう言われましても、私、もう願い事は叶えてしまっておりますし>
「はぁ!? 何言ってんの!? 私はまだ浸かったばかりよ!」
<どうぞ七日間、じっくりと味わってくださいな。それでは、豊かな温泉ライフをお楽しみくださいませ~>
「ちょっと!!」

 呼び止めるものの、移動子は手を小さく振りながら、温泉の中に沈んでいく。
 そのまま、チャポンとお湯の王冠を作って、波紋だけを残して消え失せてしまった。

「このウソつき女神! 出てきなさい!」

 パルスィは水面に向かって何度もモンゴリアンチョップを繰り出す。
 お湯の効果か知らないが、叩けば叩くほど元気が湧いてくるのが腹立つ。

(おい! あそこに扉らしきものがあるぞ! 移動泉の反応もあそこからだ!)

 ひっ、とパルスィは息を呑んだ。
 ついに見つかってしまったのか。よりによって、こっちは今何も着ていないというのに。
 慌てて湯から這い上がろうとして、

(行かすな! こんな不潔な奴らに、移動泉を渡してたまるか!)
(けぇっ! 力の勇儀が何ぼのもんだ!)

「勇儀っ!?」

 聞こえてきた名前に、思わずパルスィは声を上げる。
 もしや先刻に別れた鬼ヶ城温泉愛好会が、すでに到着していたのか。
 ようやく救いの光が見えた気がした。
 あの鬼達の実力は折り紙付きだ。表に集まっていた妖怪の集団を、ここに近づけることなく片づけてくれれば……。

 続いて、土砂崩れを思わせる壮絶な音が玄関から響いてきた。
 さらに、どかどかと床を踏み鳴らす足音が近付いてくる。
 パルスィは再び肩まで湯に浸かり、祈った。
 はじめに姿を見せるのが、赤い一本角の鬼でありますように、せめて鬼ヶ城にいる鬼であってくれますように、と。
 だが、

「どけどけぇ! 早い者勝ちだぁ!」

 パルスィの願いもむなしく、中に乗り込んできたのは、全く知らない輩達だった。
 汗だくで全裸の筋肉魔人がぞろぞろと。

「ぎゃああああああ――!!」

 あまりにおぞましい光景に、パルスィは身を縮めて絶叫する。

「なんだ!? 誰かすでに入ってるぞ!」

 全裸の鬼達の動きが一瞬止まった。
 が、すぐに彼らは興奮に眼光をぎらつかせ、駆けだす。

「きっとあれが噂に聞く、移動泉の女神だ!!」
「うおー! 女神様ー!!」
「いやああああああああああ――――!!?」


 迫りくるむさ苦しい肉体の山に、湯の中のパルスィは、生涯最大級の悲鳴でもって応えた。


 暗転。


 




 不運な橋姫の家に、幸運の象徴とされる移動泉が出現してから、丸一日が経った。
 旧都の北東側に鎮座する、鬼の中の鬼達が集う『鬼ヶ城』。
 ……の膝元に建つ、大名屋敷を思わせる見事な和風建築の建物。
 その大広間にて。

「もーいやっ!! くたばれ移動子!! っていうか移動泉なんかこの世から消えてなくなれ! ファッキン温泉!!」

 水橋パルスィは、バンバンと畳を叩いてヒステリックに喚いていた。
 その真上、高い天井の梁から糸で逆さまにぶら下がっている土蜘蛛が、

「まぁまぁ。温泉じゃなくて、この住まいを引き当てたって考えればよかったじゃん」
「誰も頼んでねーわよっ、こんな家っ!!」
「羨ましいなぁ。こんな広くて立派で……あと広くて立派で……それと広くて立派な御殿に住めるなんて」
「慰めるんだか馬鹿にするんだかはっきりしやがれこんちきしょー!」

 顔を畳に埋めて、じたばたと四肢を動かすパルスィ。
 百畳は下らぬ広さの部屋に、二人の他には誰もおらず、何も置かれていないために、声がよく響いた。
 ヤマメは引きつった笑みで、昨日の出来事を話題に出す。

「いやでも、私は安心してるよ。当事者じゃないのに、思い出しただけで冷や汗が……あはは」
「笑ってんじゃないわよ! 裏切り者のくせに!」
「だーかーら、それは誤解だって何度も説明したでしょうに。っていうか、書き置きもテーブルに残しておいたはずはんだけど無視?」
「あの状況でそんなもの目に留まらないわよ! こっちがあの時、一人でどんな思いして救いを求めてたかわかる!?」
「だからそこは、ホントにごめんって。でも確かに、私らがあの瞬間に間に合ってなきゃ、あんたもどうなってたか……」
「ぎゃー! やめて! 思い出したくない!」

 パルスィは頭を抱えて、畳の上を横転する。
 移動泉にも助けてもらえず、駆け付けた勇儀達も間に合わず、湯の中で震えて祈っていたところに襲い掛かってくるケダモノ共。
 思い出しただけで身の毛がよだつ。蕁麻疹で死にそうになる。

 実際もう数秒遅れていれば、潔癖症の橋姫の心に、一生ものの傷がついてたことだろう。
 だが、すんでの所。
 何か足元で大きな音がしたと思った瞬間、パルスィは移動泉の底に勢いよく引きずりこまれ、奇跡的に難を逃れた。
 一方、そこから真下十数メートルにいたヤマメは、キスメの手を借りた突貫工事を、ようやく終了させたところであった。
 彼女はそこで、移動泉と地下水道を結ぶ排水路を造っていたのだ。
 言うまでもなく、争いの元となるはた迷惑な秘湯を、別の場所に移すという目的のためである。
 岩に穴を掘る術となれば、土蜘蛛の右に出るものはない。
 ヤマメは温泉の底に潜るよりも、地下から掘り進んだ方が作業しやすいと考え、移動泉を残してパルスィの家から脱け出し、地下へと潜っていた。
 加えて工事に没頭していたため、パルスィに裏切ったと勘違いされていることも、旧都の妖怪達が集まって乱闘をしていることにも気付けずじまいだった。
 
 無事に工事が終わり、やれやれと額の汗をぬぐっていた土蜘蛛と、隣でその出来上がり具合に歓声を上げる釣瓶落とし。
 そんな二人の目の前の水流を、いきなりすっぽんぽんの橋姫が流れてきたのだから、驚かない方がどうかしている。
 キスメの歓声は悲鳴に変わり、ヤマメは慌てて糸を巻き付けて、あられもない姿の友人を速やかに回収した。

 ちなみに、パルスィの住み家に流れ込んできた無法者達は、体躯の大きさから排水路を通り抜けることができず、その五体で栓をして力尽き、最終的には外から侵入を試みていた連中共々、鬼ヶ城の者達によって叩き出されることとなった。
 ただしそれまでの激しい戦闘により、橋は倒壊、パルスィの家も激しく損壊し、とても以前の暮らしを続けられる状態ではなくなってしまった。

 せっかく移動泉を引き当てたというのに、結局家ごと失ってしまったパルスィ。
 幸福の山から不幸の谷間に突き落されるかのごとき、悲愴というのも生易しいほどの急落ぶり。

 そんな憐れな橋姫のために一肌脱いだのが、友である星熊勇儀だった。
 旧都を統べる力の一本角は、事件を未然に防ぐことができなかったことに責任を感じ、パルスィの新しい住居が見つかるまでの仮住まいとして、この屋敷をタダで貸すと言ってくれたのである。
 鬼ヶ城の最高レベルの食客に逗留してもらう場所で、旧都に住む者であれば誰もが羨む住居。
 しかも三食豪華な食事つき。これ以上ないほど贅沢な待遇で、まさに宝くじが当たったようなもの。

 それでも、先の一件によって刻まれたパルスィのトラウマは、全くもって癒えていない様子だった。
 事情を全て知った後も、彼女の口からは感謝の言葉がいまだ出て来ず、むしろ怨嗟の声ばかりが漏れ出している。

「橋姫の住み処ってのはね……誰にも邪魔されず自由で、なんというか救われてなきゃあダメなのよ。独りで静かで、水とかが豊かで……」
「橋なら中庭にあるじゃん」
「橋がありゃいいってもんじゃないのよ」
「水も流れてる」
「橋と流れる水だけで十分なら、あんただって明日から橋姫ができるわよ」
「かもねぇ。ああ、あとは通りすがりの妖怪に『妬ましー』とか適当に声をかけてれば……」
「くわー!!」

 パルスィは床から跳ね起き、頭上から茶々を入れてくる土蜘蛛を引きずり下ろす。
 が、押さえ込む元気は残っておらず、すぐに力尽き、「私の家がぁ……」とまた畳の上の干物を演じ始めた。
 困ったもんだねぇ、とヤマメは側に座って、ぐずつく橋姫の頭をよしよしと撫でてやる。
 ちなみに、この部屋でこのやり取りが繰り返されるのは、もう三度目になる。

 そして幸いなことに、四度目は起きなかった。
 大広間の戸が勢いよく左右に開け放たれ、

「今帰ったぞ二人ともっ!」

 威勢のよい声と共に、背中に大荷物を担いだ勇儀が入ってくる。

「パルスィ、住み心地はどうだ?」
「……最悪よ」
「そうか! 気に入ってくれてるようで何よりだ!」
「話を聞けよこんにゃろう」
「ただいまー!」

 続いて、笑顔のキスメが元気よく跳ねながら入ってきた。

「ねぇパルスィちゃん! やっと全部のお部屋を見て回れたよ! 一つ借りてもいい!?」
「えーえー、好きになさい。読書部屋にでも拷問部屋にでも使うがいいわ」

 パルスィは畳に突っ伏したまま、左右の脚を持ち上げて返事する。
 ふてくされた橋姫に代わって、ヤマメが勇儀に尋ねる。

「上はどんな様子?」
「ん、とりあえず後始末はついたという感じだ。パルスィの家に残ってた家財道具は、無事だったものもそうでないものも、後でまとめてここに運ばせるよ」
「おおそりゃ御の字だわね。だってさ、パルスィ」
「…………ありがたくて涙が出るわ」
「橋の再建についても、近いうちに工事を発注するつもりだけど、まぁ守り人の機嫌しだいかな。うちの若い連中は、ミズメがまたここに戻ってきた、って大喜びだし、パルスィもその気なら好きなだけここにいていいぞ」
「おおそりゃ太っ腹。だってさ、パルスィ」
「…………橋ができたらすぐ帰るわよ。野宿でもして暮らしながらね」
「料理長も張り切って、腕を振るってるところだ。飯の前に、一っ風呂浴びて来ないか? 気分がさっぱりするぞ」
「うんうん、実にいい案だ。だそうだけど、パルスィ?」
「…………パス。永遠にパス」

 のそり、とうつ伏せの状態からパルスィは顔を上げる。
 緑の瞳の周囲は赤く腫れていて、瞼が半分覆いかぶさっていた。

「温泉はもうこりごり。どんなものを出されても、私の心は決して癒されないわ。一人にしてちょうだい」
「ふふふ、これを見てもまだそんな態度でいられるかな?」

 勇儀はニヤリと笑い、背中に担いでいたものを、どん、と畳の上に置く。
 白塗りの巨大な瓢箪だった。ヤマメが旧都で購入した物の、十倍のサイズはある。
 パルスィが瞬きを一つして、

「お酒……?」
「いいや、今日に限ってはそれよりいいものだ」

 勇儀は瓢箪の口を開け、無造作に傾けて掌に注いだ。
 するとどうだろう。
 鬼の掌の上で、そのお湯は五色の輝きを放ち、小さな虹の橋を架けたではないか。

「そうれっ……!」

 呆気にとられる三者の前で、勇儀は腕を大きく動かし、湯を上に向けて解き放った。
 無骨な梁が組み合わされていた大広間の天井に、五色の霧が広がる。
 桃色、水色、淡黄、浅緑、薄紫、と。
 それらは光の粒をまき散らし、山や川、そして海の精を閉じ込めたかのような芳しい香りが、大広間全体を潤した。

 目を丸くして天井の光景を見上げていたヤマメが、顔を下ろして呟く。

「勇儀、その瓢箪の中身って……」
「今は地上に住んでる、こういうのを『萃める』のが得意な仲間がいてね。話を持ち掛けて、二人で山分けすることにしたんだ。地下水脈の下流で待ち構えていたら、どんぴしゃだったよ。全部は回収できなかったが、普通の湯船にして二十杯分の湯が入ってる」

 ぽんぽん、と瓢箪の側面を叩き、勇儀は胸を張る。

「鬼ヶ城にいる奴らを満足させるには十分な量だろう。それから知っての通り、ここの風呂は循環濾過システムも完備。つまり七日間充分に楽しめるっていう寸法だ」

 力自慢の彼女だが、好みのものに関することになると、頭の回転が速いようだ。
 けれど、言わんとするところは明白だった。
 十年に一度の、昨日は涙を呑んで諦めたはずの温泉が、今ここに存在するのだ。
 すなわち……。

 勇儀は勢いよく立ち上がり、両腕を左右に広げて大音声で宣言する。

「というわけで皆の衆! これから念願の移動泉を楽しもうじゃないか! 初日は私ら四人の貸し切りだ! ついて来い!」
「ひゃっほー!」
「ばんざーい!」
「………………」

 指を一本天に立てて叫ぶ土蜘蛛、諸手を上げて喜ぶ釣瓶落とし。
 さらに三者は、大きな瓢箪を担いだ鬼を先頭にして、元気よく大股で行進しながら部屋を出ていく。
 彼女らに遅れて、橋姫は数時間ぶりに重い腰を上げ、

「ちっ……しょうがないから、誤魔化されてやるわ」

 と、晴れ時々曇りの表情で大部屋を後にした。




 ◆◇◆




 それから間もなく、勇儀が持ち帰った神瓢箪の中身は、配下の鬼達の手によって、速やかに大浴場の湯船に移された。
 旧都の鬼の中の鬼が集まるここであれば、どんな輩も手出しはできない。
 地底のどこよりも安らかに、仲間内だけで移動泉に入れる場所を、ついに創り出せたわけだ。

 ただし勇儀は、手に入れた湯の何割かを、都にある信頼のおける湯屋に分け与えるよう手配もしていた。
 余計な争いを生まぬよう、より多くの者がその恵みにあずかれるよう、『足湯』という形で提供するよう命じて。
 さらに念のため、交代で城の鬼を監督用に遣わせるという抜かりなさ。さすがは、鬼の上に立つ鬼といえようか。
 たとえ足湯でも、さぞかし長い行列ができるだろうし、しばらく都は伝説の湯の噂で持ちきりになるだろう。

 いつもなら、その噂を橋の下で耳に入れて、爪を噛むことしかできないパルスィだったが。
 彼女はもうすでに、嫉妬心と優越感の境目を渡り終えていた。
 いよいよ準備が整った大浴場にて、移動泉を思い切り味わうべく、城の廊下を歩いているところだ。
 周囲には同じく温泉道具を携えた、心を許せる三人の妖怪。どいつもこいつも足取りが軽い。

「まさか移動泉が半分も入る神瓢箪があるとはねぇ。その手が使えると知ってたら、あそこで籠城して勇儀の助けを待つって選択肢もあったかなぁ」
「でもヤマメちゃんも凄かったよ。見る見るうちに穴ができちゃって、私びっくりしちゃった」
「結果的にそのおかげで、他の連中に荒らされることなく、移動泉を萃められたわけだしな。キスメも色々と手伝ってたそうじゃないか。えらいぞ」
「うん。パルスィちゃんのお気に入りの物を、私の桶の中にたくさんしまってたの。笛とか、手鏡とか、あと鍵のかかってる日記帳も!」
「それはどうも。あんたの桶が、洋服ダンスが収納できるくらい大きければ、もっと良かったけどね」
「ううう、たくさんご飯を食べたら、もっと大きくなれるかな……」
「移動泉に入ったら大きくなれるかもしれないねぇ。パルスィも素直なパルスィになったりして」
「あんたも白谷ヤマメになれるといいわね」
「わはははは!」

 勇儀が大笑いしてから「そういえば……」と尋ねてくる。

「パルスィ。お前、どんな願い事をしたんだ」
「?」

 パルスィが何のことかと視線で問い返すと、

「移動泉に一番に入ったやつは、願い事を叶えてもらう権利があるって聞いてないか?」
「ああ、あんなの迷信よ。イカれた温泉の女神の幻覚を見たけど、訳のわからないことを言われて煙に巻かれたわ」
「おかしいな。迷信じゃなくて本当のはずだ。実際に、七日間楽しい思いをした奴も知ってるんだが……」
「でも私は確かにあの時、移動泉をどっかに移してくれって願い事をしたわよ? けど一切役に立たなかった」

 思い出しても、あの女神もどきには腹が立つ。
 人が窮地に陥ってる時に、呑気な調子で温泉を楽しんでくださいとだけ言って、あっさり消えてしまった。
 今度会ったら文句の一つでも言ってやらなければ気が済まない。
 ただ一方で、何で自分の願いを叶えてくれなかったのか、詳しく尋ねてみたくもあった。
 そういえばあの時、すでに願いは叶えているとか何とか言ってもいたような。
 けれどもパルスィには心当たりがない。
 寝る前の浴室には温泉などなかったし、朝起きる前に誰かが勝手に家に入ったら、絶対に気付くだろうし。

「あ! 私、わかったかも!」

 唐突にキスメが手を叩き、弾んだ声で言う。
 三人の視線を集めた彼女は、嬉しそうに語り始めた。

「パルスィちゃんは、きっと移動泉にいなくなって欲しくなかったんじゃないかな」
「ん、つまりそいつはどういうこった?」
「だからきっと本当は、この四人で仲良くお風呂に入りたいって、お願いしてたんじゃない?」
「………………」
「だから今それが叶って……ひゃあああ!?」
 
 にこやかに説明していたキスメの頭が、背後から伸びた二つの拳骨でサンドされた。
 般若降臨。

「誰がっ! だぁれが! どぅぁあれぐぁ、んな願い事するってーのよ!! えぇキスメ!? 舐めとんのか!?」
「パパパ、パルスィちゃん、なんでそんなに怒ってるの!?」
「ぃやかましい! いい機会だから、平和ボケしたあんたの脳みそに、地底妖怪の厳しさと生きざまってのを、みっちり叩き込んでやるわ! 今日から毎日ね! 覚悟なさい!」
「わーん! 何だか分からないけどごめんなさーい!」
 
 金の髪を逆立てた怒れる橋姫によって、釣瓶落としが連行されていく。
 残った二人はしばらく、その姿を見送っていたが、やがて勇儀が口を開いた。

「どう思う?」
「うーん、面白い解釈だとは思ったけど、どうだかねぇ。パルスィが平穏を願ったっていうのも嘘じゃないと思うし、ちょっと真相はわからないよね……」

 首をひねって、ヤマメは呟く。
 けれども間もなく、愉しげに口の端を持ち上げて、

「……ま、でもどっちでもいいんじゃない? 私としては、この四人で集まりやすくなったことが素直に嬉しいし」

 「お?」という顔になるのは、自らを慕う荒くれ者たちをまとめるため、旧都からなかなか出る暇のない一本角。
 その隣に立つ、自由気ままに暮らす風穴の代表者でもある妖怪は、片目をつむって、

「私らは、話に聞く女神様みたいな力は持ってないけどさ。真似事くらいなら、できるでしょ。せめて、ツキのないどっかの誰かさんに、移動泉が自分の所に来てくれて良かった、ってもっと思ってもらえればなって」
「……だな! 大賛成だ!」

 勇儀は豪快な笑みと共に大きくうなずく。
 地底最強の拳が、同じく最強の掌に打ち付けられ、廊下の空気を鳴り響かせた。

「よし! やる気が出てきたぞ! この機会に、あいつに旧都の魅力ってのを、とことん知ってもらおう!」
「それはいいけど、調子に乗ってやりすぎないようにしなよ」
「何を! 知ってるだろうヤマメ! 星熊勇儀はいつだってどんなことにも手を抜かない、真剣勝負が信条の鬼だ! はっはっは!」

 片腕を回しつつ豪語する鬼と、やれやれと首を振る土蜘蛛。



 平穏な日常とはかけ離れた、騒々しく痛快な水橋パルスィの旧都滞在、その一日目のことだった。




(おしまい)

 
 おまけ

「やっほー、ただいまー、おかえりー、おめでとーお燐ー」
「おかえりな……こ、こいし様!? どうしたんですか、その頭からくるくると生えた謎のパーツは!?」
「あ、これ? いいでしょー。えっとね、昨日の朝早くに、ちょうちょみたいな触覚が欲しいなーって考えながら散歩してたら、お池にはまって、さー大変。神さま出てきてこんにちは」
「またさっぱり意味のわからない発言だ……。さとり様ー! ちょっと下りて来てください! こいし様に異変がー!」

 地霊殿の主を心配させ、ペット達を騒がせた古明地こいしの新パーツは、不思議なことに、七日で綺麗さっぱりなくなっていたそうな。


 ◆◇◆


一作品集ぶりの、このはずくです、読んでくださった方、ありがとうございました!
デビュー時から患っている病、長編の後にはギャグが書きたくなる症候群が再び発症してしまい、こんな話が出来上がりましたw
で、その勢いで調子に乗って、このままシリーズ化していこうと思います!
主に旧都を舞台にした、この四キャラのドタバタコメディを。ペースについては未定ですが、次回作もなるべく早くお届けいたしまする。

それではまた! このはずくでした!

7/14 誤字修正 ご指摘、感謝いたします!

旧名:PNS
このはずく
http://yabu9.blog67.fc2.com/
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コメント



0.1560簡易評価
1.100名前が無い程度の能力削除
さすらう温泉…移動湖かな?と思っていたら、そのもの移動泉だった
俺は東方のSSを見ていたらロマサガ2だった
何を言っているのかわからねーと思うが(略
地底前半ボス組好きなんで面白かったです
2.100名前が無い程度の能力削除
この組み合わせは大好きなので、もっと見てみたいです。
ありがとうございました。
3.100名前が無い程度の能力削除
PNSさんのコメディ、本当に好きです。
シリーズ楽しみです。

パルスィには申し訳ないけれど、振り回され役が嵌りすぎてて終始笑いぱなしでした。
特に移動子とのやりとりが面白かったです。
移動子はずるいですわ。
4.100奇声を発する程度の能力削除
組み合わせも良く、面白かったです
5.80RーG削除
面白かったです。
7.100名前が無い程度の能力削除
とても楽しく読めました
8.100名前が無い程度の能力削除
いいドタバタだった……。
橋姫入浴中に妖怪どもが突撃してくるとこが特に好き。
締めの文章も、物語の続きを想像させて良い……。
10.100絶望を司る程度の能力削除
すごく楽しくてよかったです。
14.100名前が無い程度の能力削除
この四人組はほんといいなぁ…。楽しかったです。
でも移動子はないわーw
19.100名前が無い程度の能力削除
よっしゃ!!地底組の話大好きなんで凄く楽しみっす!!
22.100名前が無い程度の能力削除
手を浸けてみた時に無意識に何か願ってたとか予想してたら、そっちの無意識で落としてきましたかwこれは仕方ない
晴れ時々曇りの表情、という表現が絶妙で白眉
シリーズ化ということはいずれ地霊殿組も絡んでくるんでしょうか
期待が高まります
27.100名前が無い程度の能力削除
こういのを『

ノリが乗ってて良かったです。温泉は良いですよねー。
31.100名前が無い程度の能力削除
てっきり手を付けたときにもうちょっとぬるかったらいいのに、と願っちゃったというオチかと
パルスィは苦労人が似合いますね、振り回されてグチグチ文句を言うさまがありありと浮かびます
ついにやにや笑ってしまう楽しい作品でした!
32.100名前が無い程度の能力削除
安定感があってこの四人娘大好きです。一昨年の騒動…投稿されたのも一昨年(2013年)ですね!リアルタイム時空なんでしょうか。リアルタイム時空って頭痛が痛いみたいですね関係ないけど!
34.100名前が無い程度の能力削除
面白かったです
39.100名前が無い程度の能力削除
振り回されて移動子に突っ込んだりしてるパルスィ面白かったです。

モンゴリアンチョップをしているパルスィが例の絵で脳内再生されたのはヒミツ
40.90名前が無い程度の能力削除
勢いのあるお話でした!
42.100名前が無い程度の能力削除
ああいいですねこの四人娘は
気軽に読めて、充分に楽しめました
48.100とらねこ削除
おもしろかったです、温泉好きたちのむさくるしさ感がすごかったです。
何だかんだでみんな楽しそうでうらやましい4人組ですね。
51.80名前が無い程度の能力削除
伝説の内容は凄いのに、この話だけで見ると単なる疫病神っすわw
52.100名前が無い程度の能力削除
パルスィの般若面がネタにされてるのを見てとあるシリーズへの尊敬を感じニヤニヤしたのは私だけではないはず、たぶんきっと
54.100名前が無い程度の能力削除
もう本文の頭の三文読んだだけでも面白いのが判る程
このはずくさんの作品にハマってしまった