ある事象について、一部の情報が明らかになれば、その情報が十分であればその事象の全容が確定する。
回りくどい言い回しになったが、要は正方形なら一辺の長さがわかれば、その正方形の形が分かるというのと同じ話である。二乗すると面積がわかるし、四倍すると周囲の長さ、√2倍すると対角線の長さがわかる。
限られた情報から得られる限りの確定事項を得る。物理学や数学といった学問の歴史は、この一言に集約されると言っても過言ではない。
そのような理系学問の流れにおいて生まれた計算方法の中に、微分積分法がある。もしタイムトラベルができたなら、考案者は全国の高校生に命を狙われるであろう学問だが、仮に最初の考案者がいなかったとしても、それは間違いなく生まれていた概念である。
人間が足し算引き算を理解できなければ様々な技術の発展は無かったように、微分積分もまた、目を背けるにはあまりに現実の事象に密接過ぎる概念だからだ。
そして、魔法使いや妖怪のような現実離れした存在であっても、一足す一が二になるような基本概念から逃れ得ぬように、その現実離れした能力の一端が微分積分と深く関わる場合がある。
幻想も、時に勉強をしなければならないのだ。
───カランカラン
香霖堂のカウベルが鳴り、ドアが開いた。
カウンターで本を読んでいた店主、森近霖之助は本を閉じ、ドアの方に目を向ける。
入ってくるのが客とは限らないこの店では、もし客でなければ挨拶をする必要は無いし、霖之助は本を開き直す手間すら惜しいのだが、客であったなら本を開けたまま挨拶するのは失礼に当たる。
だから、霖之助は仕方なく本を閉じたのだ。
「香霖!仕事の依頼だぜ!」
入ってきたのは昔馴染みの魔法使い、霧雨魔理沙だった。
霖之助は彼女の姿を見て、本を開き直すべきか迷った。魔理沙がこの店に来る用事は、九割方が客としてでは無い。だが、今しがた発した言葉を聞く限りでは、今回は客として来たようだ。
だがしかし、魔理沙は割と人をおちょくる性格でもある。客として訪れる一割のうち、半分くらいは客のようで客でない、結局冷やかしに近い目的でこの店に来る。
「……いらっしゃい。どういう依頼だい?」
結局、霖之助は暫しの逡巡の末、魔理沙を客として迎えた。もし冷やかしだったら小言の一つでも言ってやればいいだけだ。
「微分積分ってやつを私に教えてくれ」
「ほう、君の年でそんなものに興味を持つというのは感心するが……生憎ここは道具屋でね、そんなものは扱っていない」
冷やかしかどうか、微妙なラインである。
香霖堂は寺子屋ではなく道具屋なので、微分積分の教授などという品物は無い。だが、魔理沙が霖之助に学問の教えを乞うことは今までにも何度かあった。
魔理沙は幼いころ人里の実家に暮らしており、その頃魔法について教わることの出来る人物は、かつて実家で働いていた霖之助くらいしかいなかった。
だが、魔理沙が一人暮らしをするようになってからは、魔法の勉強は独学が殆どになっていた。しかし、微分積分ともなれば彼女の年で独学で理解するのは骨が折れるのだろう。
「知識だって立派な道具だろ?香霖の頭の中にあるその道具を売ってくれよ」
「あるもの全てが商品とは限らない。大体、人里の寺子屋にでも行けばいいじゃないか」
「あー、一応行ってみたんだが……慧音は歴史や国語ばっかりで理系はとんと駄目みたいでな」
幻想郷において、数学というものはあまり発展していない。
技術発展を外の世界に依存しきりの幻想郷では、直接的に身近な生活で必要にならない、加減乗除以上の計算はあまり馴染みが無いのだ。
そんなことでは新たな技術は全て河童や天狗のものになってしまう、と危惧していた霖之助は、人里の守護者が寺子屋を開いたと聞いた時に多少なりとも期待したものだが、その水準はまだまだのようだ。
「それとも、まさか香霖は微分積分を知らなかったりするのか?」
魔理沙がニヤリとして言った。こう言われては霖之助も黙ってはいられない。彼女は霖之助の扱い方を心得ている。
「もちろん知っているさ」
霖之助は言ってから、しまった、と思った。知っていると言ってしまった以上、『知ってはいるが面倒だから教えない』などと言えるほど、魔理沙との関係は冷えたものでは無い。だがそれでも、微分積分ができないなどと言うのは霖之助のプライドが許さないし、そもそも霖之助は嘘をつける性格ではない。
「……だが、一から教えるには手間も時間もかかる。代金は高くつくよ?」
「いつもは頼まなくても勝手に喋るくせに、と言いたいところだがな。まあわかってるぜ。だから仕事の依頼と言ったんだ」
魔理沙はそう言うと、スカートの中から小瓶を一つ取り出した。そこに物を収納にするのは如何なものかと霖之助はいつも思っている。小瓶はともかく、彼女は山をも焼き払うミニ八卦炉までそこから出すのだ。
カウンターに置かれたその小瓶には、きらきらと輝く半透明の破片がいくつか入っている。
それを見た霖之助の目の色が変わった。
「これは……!」
「お前にはわかるだろうが、これは龍の爪の破片だ。この前ちょいと人助け、じゃなくて龍助けをしてな。その時に貰ったんだ」
「なんてこった……」
霖之助は魔理沙のこの頼みをほとんど断る気でいた。教師ではない霖之助が、十代前半の少女に微分積分を一から理解させるなどというのは、かなり骨の折れる作業になるだろう。それに、魔理沙の勤勉さであれば、今はわからなくとも数年もすれば独学で理解できるだろうと思ったからだ。
だが、龍の爪というのはとんでもない貴重品である。早い話、霖之助はこれがどうしても欲しくなった。
また僅かな破片とはいえ、いつものガラクタとは違って、魔理沙は龍の爪が非常に貴重なものだと知っていて差し出してきたのだ。それだけ真剣に、今すぐ微分積分を理解したいという熱意の表れでもあった。
「ほーれほれ、こいつが欲しいだろー?」
そんな事を言いながら、魔理沙は小瓶を霖之助の目の前で振って見せる。
「……しかし、何故君はそんな物を対価にしてまで───」
───カランカラン
魔理沙に質問を投げかけようとした霖之助を遮るように、香霖堂のカウベルが鳴った。
「おっ、レミリアと咲夜か」
「あら魔理沙、こんな所にいるなんて珍しくもないわね」
入ってきたのは言わずと知れた紅魔館主従、レミリア・スカーレットと十六夜咲夜だった。
ここで、二人を見た霖之助の頭に、ある閃きが舞い降りた。
「いらっしゃい!」
「……いつになくテンション高いわね、店主。顔に『丁度いいところに来た!良い事思いついたぞ!』って書いてあるんだけど、何なの?」
元気に歓迎されたレミリアが、普段とのギャップに少々鼻白んだ。
「顔に書いてある、という慣用句を使う表現としては些か具体的過ぎる気がするが……その通りだ。君達に頼みがある。今日は吸血鬼が映る鏡の受け取りに来たんだったね?」
レミリア達は数か月前に、霖之助に『吸血鬼が映る鏡』の製作を依頼していたのだ。そういった捻くれたアイテムの製作は、霖之助にはお手の物である。
そしてその代金はかなり高い。前金もいくらか受け取っていたが、今日は代金を受け取って商品の鑑を受け渡す日だった。
「ええ、後払いの分はここに」
そう言った咲夜の手の平の上に、分厚い封筒が出現した。取り出す動作は一切見えなかったから、能力を使ったのだろう。
「そう、その能力だ。時間を止められる君なら微分積分の計算ができるだろう?後払いの分はいらないから、魔理沙に微分積分を教えてやってほしいんだ」
「はあ?」
間抜けな声を上げたのは魔理沙である。時間を止められるから微分積分ができるとはどういう意味なのか、彼女には全くわからない。
だが、咲夜とレミリアには戸惑った様子は無い。
「まあ、出来ますが……しかし私にはメイドの仕事が」
「いいわよ!折角だから私も一緒に教えてあげるわ。暇だし」
咲夜は少し迷った素振りを見せたが、主人のレミリアがあっさりと承諾した。
「レミリアもできるのか!?」
魔理沙は驚愕して言った。よくよく考えれば、500年も生きていれば微分積分くらいできてもおかしくない気はするが、それでもレミリアはそんな勉強とは程遠い存在だと魔理沙は思っていた。
「あら、咲夜に微分積分を教えたのは私よ」
「ふーむ、なるほど」
「……んん?」
魔理沙は今度は疑問の声を上げた、レミリアが咲夜に微分積分を教えたというのも驚きだが、霖之助の言う『なるほど』とは一体何なのか。それに、時間が止められるから微分積分ができるという理屈もまだわからない。
「でも、なんでまた微分積分なんてやりたいのよ、魔法使いが」
「ああ、僕もそれをさっき聞きそびれていたんだ」
混乱する魔理沙をよそに、レミリアと霖之助が尋ねた。
「ん?ああ……新しい弾幕を考えててな、ブーメランみたいに飛ぶ弾幕ってのはどうかと思ったんだ。そしたらどうも正確な軌道を計算するには微分積分が必要らしい。ちゃんと計算しないと反則弾幕になったりしたら困るからな」
「ブーメラン?それは計算したことないわね……」
「大した話じゃないよ。運動方程式はd^2x/dt^2=-(F*cos(Ωt))/m、d^2y/dt^2=-(F*sin(Ωt))/mになる」
「あー、単純な話じゃないの。でも三角関数から教えないといけないかしら」
「そうそう、本で調べてたらそんな感じの計算式が出てきたんだが、お手上げだ。sinとかcosってのは調べたらまあ判ったんだけどな」
というか、レミリアは本当にわかるのか……という言葉を飲み込みながら、魔理沙は言った。
「まあそれは良いんだけど、どうして店主が鏡代タダにしてまで私達にこんなこと頼むのよ」
「魔理沙から僕が頼まれて代金を受け取ったんだがね、生憎と店が忙しいんだ。だからまあ、業務委託ってところかな」
もちろん店は忙しくない。
「ふーん。まあ良いわ、じゃあさっさと鏡受け取って行こうかしら」
「そうですね、丁度荷物持ちが手に入った事ですし」
「私が持つのかよ」
「生徒なんでしょう?先生の手伝いくらいしなさいよ。それにどの道紅魔館で教えるんだし」
「へいへい」
店を出る三人を見送りながら、金には替えられない貴重品である龍の爪を首尾よく手に入れた霖之助は、そっとほくそ笑んだのだった。
そして紅魔館、レミリアの部屋。
初めは何となく勉強する場所というイメージで大図書館に向かった三人だったが、喧騒を嫌う図書館の主に敢え無く追い出された。
結局、スペースが十分にあって、邪魔が入らないレミリアの私室が勉強会の場所に選ばれた。
三人はテーブルを囲み、魔理沙の前にノートと鉛筆、どこから持ってきたのか咲夜とレミリアの近くにはホワイトボードが置かれたところで、魔理沙が口を開いた。
「早速始めたいところなんだが、その前に一つ聞きたいことがある。さっき香霖が言ってた、時間が止められるから微分積分ができるってのはどういうことだ?」
「時間を微分すると時が止まるからよ」
「お、おう……?」
魔理沙の疑問には咲夜が簡潔に答えたが、魔理沙は全く意味が分からない。
「今の言葉を理解するためにも、まずは勉強。さあ、始めましょうか」
「……ああ、頼む」
レミリアと咲夜による主従講義が始まった。
数時間ほどの授業の結果、魔理沙は微分の基礎についてはほぼ理解するに至った。
微分の基礎、単純な乗数項のみで構成された式の微分は、計算するだけなら、微分の手前までの数学知識があれば五分で終わる。だがレミリアと咲夜は、微分の意味、積分の意味から詳しく教える方法を取った。
外の世界における受験勉強をするのであればこの上なく非効率だが、今の魔理沙に必要なのは正にレミリア達が教えているような事柄である。
「ふーむ、速度を微分すると加速度、積分すると距離になる、と……なるほどなあ」
「どう?微分積分って意外に身近にあるものでしょう?」
咲夜が得意気にそう言った。魔理沙を妹分のように思っている節がある咲夜は、魔理沙にこうして勉強を教えることを割と楽しんでいる。
「魔理沙、あなたなかなか飲み込みが早いわねえ。咲夜に教えた時とどっちが早いかしら」
「やだなあ、お嬢様。私はここまで三十分もかかりませんでしたよ」
「……へー」
魔理沙は咲夜の言葉を聞いて、多少落ち込んだ。レミリアの言うとおり、自分は結構飲み込みが早いのではないかと思っていたが、咲夜はここまで三十分かからなかったと言う。
三十分は無理かなあ、という思いが、わずかながら嫉妬の心を生んだ。
が、それも次のレミリアの言葉で消えることになる。
「それは咲夜が自分の時間を加速させまくってたからでしょ。通常時間に換算して、って話よ。私の感覚だと、ちょっとだけ魔理沙の方が早いかしらね」
「あ、いや、それは……現実で早いんだから良いじゃないですか」
「勉強なんてゆっくりやればいいのに、能力フル活用したりして慌てるからよ。咲夜の体感時間が長いんじゃ意味無いじゃない」
「そんなぁ……」
咲夜の情けない声を聞いて、魔理沙はくすりと笑いながら、少しだけ安心した。と同時に、魔理沙は一つ疑問を抱いた。
「……なんで加速なんだ?時間を止めちまえば、考える時間はゼロだから三十分どころじゃなく縮まるんじゃないのか?」
「あー、それね。じゃあ結構やったし、ここらで一旦休憩雑談タイムにしようかしら。今ならさっきの『時間を微分すると時が止まる』ってのも説明できるし」
「かしこまりました」
咲夜が了承の返事をするのと、三人の前に湯気が上る紅茶、こんがり焼けたクッキーが盛られた皿が置かれるのは完全に同時だった。
時を止めるという凄まじい能力、咲夜はこの能力を日常的に気軽に使うことを躊躇わない。
レミリアは満足そうに紅茶を啜り、話を始めた。
「どうして加速なのかって言えばね、咲夜はその時まだ時間を止められなかったからよ」
「ほう……となると、色々と予想がついてきたな。時間を微分すると時が止まる。その頃の咲夜は微分が出来ないから時を止められなかったわけだ」
「そういうこと。まあ、ここから先は咲夜に話して貰った方がいいかしら?」
レミリアはそう言って、咲夜に話を振った。
咲夜はふむ、と、少しだけ考える。自分が時を止めるに至った過程、止める前にも加速はできた理由。過去を語ることはほとんど無い彼女だが、別に後ろめたいものがあるでも無し、雑談のネタとして語るのは、魔理沙が相手なら別に良いか、と思った。
「そうですね……全部説明するとなると、結構長くなりますが」
「良いわよ良いわよ、たまにはゆっくり昔の事を話すのも。……というかもう夜じゃないの。話も長くなるし、今日の勉強はこれまでね。咲夜、紅茶はもういいからお酒持ってきて」
紅茶とお菓子が文字通り瞬く間に消え、代わりにワインとチーズが出現した。
「おっ、これは思わぬ収穫だな」
魔理沙が真っ先にチーズを一切れ口に放り込み、ワインを流し込んだ。
「店主に貰った授業料が結構多いからね、紅魔学園はサービスも豊富なのよ」
全く遠慮の無い魔理沙に咲夜は呆れ顔を向けたが、レミリアはそんな魔理沙を見てニコニコ笑いながら言った。今日の勉強会が楽しかったのだろう、少し珍しいくらいに機嫌が良い。
咲夜もそんなレミリアを見て気を取り直し、ワインを口に含みながら話を始めた。
「さて、私の話だったわね。この能力自体は生まれつきだから、そこまで話は遡るんだけど……」
私、十六夜咲夜は、生まれた時から時間と言うものを他人とは違う形で認識していたように思う。
───ああ、この名前はお嬢様に頂いたものだから、生まれた頃はもちろん違う。でも前の名前は捨てたし、めんどくさいからずっと咲夜。
生まれた時から時間を操れたかというと、その答えは否になる。でも、時間を操る能力なんてのは、普通の人間がある日突然目覚めたり、修行によって開花したりなんてことが有り得る能力じゃない。
つまり、私は生まれた時から能力そのものは持っていたけれど、使い方を知らなかった。
赤ん坊でも呼吸のし方や手足の動かし方を知っているのと違って、時間の操り方なんてのは本能のマニュアルに書いてはいない。
だから結局、時間に対する認識が多少違っても、操ろうなんてことはそもそも思わなかったし、自分に特別な能力があるなんて思っていなかった。
転機が訪れたのは、掛け算。学校に入ってそれを習った時、私は最初に『掛け算って、時間に適用できるんじゃない?』と、そう思った。
もちろん周りの誰にそんなことを言っても、何を言っているんだという目でしか見られなかった。だが私には、時間に対して人間が掛けたり割ったりできるのは、当たり前のことではないのかと思えた。
そして、やってみた。自分の中にある『力』を時間に働きかける。人間が時間を操るのが当たり前の世界であれば、私が時間に対して行ったこの行為に対して、何らかの動詞表現が存在するのだろうけど、そんなものは無いので曖昧な説明しかできない。
その結果、時間は加速した。減速させることもできた。その力は自分に対してだけでなく、あらゆるものに働かせることができることもこの時わかった。
この時初めて、私は自分が特別な能力を持っていることを知ったが、同時に周囲の人間もそれを知ることになった。
早回しのように動く女の子は、さぞかし不気味に見えたことだろう。
それからはまあ、よくあるパターン。迫害されたし、人の中では生きていけなくなった。
それは別に大した問題じゃなかった。時間を操る能力があれば、人の外で生きる分には困らなかったから。
とにかく生きていた私は、やがて吸血鬼狩りに手を出した。このあたりの心境は割愛するけど、刺激が欲しかったとか……まあ色々。
それでお嬢様に会ったわけだけど、お嬢様が何匹目の吸血鬼だったかは覚えていない。
お嬢様を狩ろうとしてどうなったかと言えば……こっ酷く負けた。いくら自分を加速してもお嬢様には追いつけなかったし、いくらお嬢様を減速させてもまるで遅くなったようには見えなかった。
死を覚悟した私だったが、お嬢様は私の能力に興味を持った。あるいはそれは、お嬢様の能力が何らかの形で作用したのかもしれない。
「その能力、時間を操ってるの?」
「……それがどうした」
この時の私はメイドじゃないから、お嬢様に酷い口のきき方である。ごめんなさい。
「いや、どうやって操ってるのかなーって」
「時間に掛け算するのよ。今まで同じことができる人間は見たことが無い。吸血鬼のお前にだって無理でしょうね」
私は身動きが取れないほど痛みつけられた体で床に這いつくばりながら、精いっぱいの虚勢でそう言った。
正直、この吸血鬼ならできてもおかしくないかもな、とちょっと思っていたけど。
「できないわよ、そりゃ。でもあなた、加速が百倍速、減速は百分の一倍速くらいが限界みたいね。通常の時間速度を基準として、加速、減速どちらに掛けられる力も同じくらいってことかしら」
「……?」
「……学は無いのね、あなた」
そう、この時の私は悲しいくらいに頭が悪かった。
だが仕方がないのだ。掛け算を習った時点で学校は愚か、人と暮らす事すら出来なくなっていたのだから。
「あなたの能力は時間の速さに対して数学的アプローチができる能力じゃないのかしら。単純に掛けたり割ったりしてるうちは、ちょっと速くなったり遅くなったりするだけだけど。もし周囲に流れる時間をゼロに、あるいは自分の時間を無限大にできたら……最高に便利な部下になれるわね、私の」
「……はあ?」
「それとね、時間を操ることと空間を操ることは同義。あなたはこれをいまいち認識できていないようね。時空間とは四次元の座標軸によって構成される世界だから、そのうちの一本である時間を延ばすと時空間の総量が増加する。逆も然り」
「……???」
もうわけがわからなかった。私の能力について語っている部分は全部、自分の知ってる言語とは思えなかったが、唯一聞こえた『最高に便利な部下になれるわね』も丸ごと意味がわからない。つまり全部わからない。
そしてわからないことに、この吸血鬼は私を治療し、名前をつけ、数学を教え始めた。数学はわかった。
「───そんなこんなで、私はいつの間にかお嬢様に心酔し、一生仕えていくことと相成ったのでした、めでたしめでたし」
「うん、良かったな。それで、どうして時間を微分すると時が止まるんだ?」
長い話を終えた咲夜に、魔理沙が言った。
話は概ね興味深かったので最後まで聞いたが、肝心要の部分がほとんど出てこなかった。
「やーねえ、魔理沙。ちゃんとその話も出てきたじゃない」
咲夜はとろんとした目でそう言った。気が付くと、咲夜の横に置かれたワインボトルが空になっている。
「……酔ってるのか、お前」
「うふふ、ちゃんと出てきたのよー。私の能力は時間の『速度』に干渉する。時間の速度は通常一定。つまり微分するとー?」
「ああ、ゼロか」
「そういうこと。百分の一倍速くらいが限界だった私が、微分の概念を理解したら殆どパワーを必要とせずに完全にゼロにできちゃったのよーお嬢様すごーい」
「はいはい、ありがとうね」
レミリアはそう言って、咲夜の頭を撫でた。
撫でられた咲夜はだんだんと目蓋が落ち始め、やがて机に突っ伏した。
「そういや、咲夜が宴会では飲みすぎたりする姿って見た事無かったな」
「この子は真面目だからねえ。ウチで飲むと結構こういう姿見られてかわいいのよ」
レミリアの保護者トークは、最早咲夜には聞こえていないだろう。咲夜は安らかな寝息を立てていた。
「しかし、どうして咲夜に微分を理解させたら時が止められるだなんて思ったんだ?」
「脳なんて単純で科学的な思考中枢が必要なうちはわからない、とでも言っておこうかしらね」
「ははは。いつだったかな、それ聞いたの」
「私にとってはつい昨日よ」
冗談のような、そうでも無いような軽口を交わし終わり、やがてレミリアと魔理沙も手持ち無沙汰になった。
「……さて、咲夜も寝たしそろそろ帰るかな。また次も頼むぜ。明日で良いか?」
「ええ。待ってるわ。次は三角関数の微分を教えてあげる。ブーメランに大分近づくわよ」
「ああ、楽しみだぜ。また明日」
魔理沙はレミリアの部屋を後にした。背後からは『咲夜、寝る前にちゃんと着替えなさいよー。ほら起きなさい、シワになっちゃうでしょ』なんて声が聞こえていた。
夜の幻想郷上空を、魔法の森の自宅へと向かって飛ぶ魔理沙。
彼女の心境は、友人との楽しい集まりのあと、夕餉のお供に酒を飲み、火照った体が冷えるのを妙に意識する夜の帰り道───とでも言えば、酒飲みのうちの何割かは共感するだろう。
そんなすっきりした気分の中で、魔理沙は今日の学習内容を反芻していた。
魔法に、弾幕にあらゆる努力を惜しまない少女、霧雨魔理沙。ブーメラン弾幕が成功するかどうかは神のみぞ知るが、身に着けた微分積分の知識は、決してブーメラン弾幕だけで完結するものではないだろう。
回りくどい言い回しになったが、要は正方形なら一辺の長さがわかれば、その正方形の形が分かるというのと同じ話である。二乗すると面積がわかるし、四倍すると周囲の長さ、√2倍すると対角線の長さがわかる。
限られた情報から得られる限りの確定事項を得る。物理学や数学といった学問の歴史は、この一言に集約されると言っても過言ではない。
そのような理系学問の流れにおいて生まれた計算方法の中に、微分積分法がある。もしタイムトラベルができたなら、考案者は全国の高校生に命を狙われるであろう学問だが、仮に最初の考案者がいなかったとしても、それは間違いなく生まれていた概念である。
人間が足し算引き算を理解できなければ様々な技術の発展は無かったように、微分積分もまた、目を背けるにはあまりに現実の事象に密接過ぎる概念だからだ。
そして、魔法使いや妖怪のような現実離れした存在であっても、一足す一が二になるような基本概念から逃れ得ぬように、その現実離れした能力の一端が微分積分と深く関わる場合がある。
幻想も、時に勉強をしなければならないのだ。
───カランカラン
香霖堂のカウベルが鳴り、ドアが開いた。
カウンターで本を読んでいた店主、森近霖之助は本を閉じ、ドアの方に目を向ける。
入ってくるのが客とは限らないこの店では、もし客でなければ挨拶をする必要は無いし、霖之助は本を開き直す手間すら惜しいのだが、客であったなら本を開けたまま挨拶するのは失礼に当たる。
だから、霖之助は仕方なく本を閉じたのだ。
「香霖!仕事の依頼だぜ!」
入ってきたのは昔馴染みの魔法使い、霧雨魔理沙だった。
霖之助は彼女の姿を見て、本を開き直すべきか迷った。魔理沙がこの店に来る用事は、九割方が客としてでは無い。だが、今しがた発した言葉を聞く限りでは、今回は客として来たようだ。
だがしかし、魔理沙は割と人をおちょくる性格でもある。客として訪れる一割のうち、半分くらいは客のようで客でない、結局冷やかしに近い目的でこの店に来る。
「……いらっしゃい。どういう依頼だい?」
結局、霖之助は暫しの逡巡の末、魔理沙を客として迎えた。もし冷やかしだったら小言の一つでも言ってやればいいだけだ。
「微分積分ってやつを私に教えてくれ」
「ほう、君の年でそんなものに興味を持つというのは感心するが……生憎ここは道具屋でね、そんなものは扱っていない」
冷やかしかどうか、微妙なラインである。
香霖堂は寺子屋ではなく道具屋なので、微分積分の教授などという品物は無い。だが、魔理沙が霖之助に学問の教えを乞うことは今までにも何度かあった。
魔理沙は幼いころ人里の実家に暮らしており、その頃魔法について教わることの出来る人物は、かつて実家で働いていた霖之助くらいしかいなかった。
だが、魔理沙が一人暮らしをするようになってからは、魔法の勉強は独学が殆どになっていた。しかし、微分積分ともなれば彼女の年で独学で理解するのは骨が折れるのだろう。
「知識だって立派な道具だろ?香霖の頭の中にあるその道具を売ってくれよ」
「あるもの全てが商品とは限らない。大体、人里の寺子屋にでも行けばいいじゃないか」
「あー、一応行ってみたんだが……慧音は歴史や国語ばっかりで理系はとんと駄目みたいでな」
幻想郷において、数学というものはあまり発展していない。
技術発展を外の世界に依存しきりの幻想郷では、直接的に身近な生活で必要にならない、加減乗除以上の計算はあまり馴染みが無いのだ。
そんなことでは新たな技術は全て河童や天狗のものになってしまう、と危惧していた霖之助は、人里の守護者が寺子屋を開いたと聞いた時に多少なりとも期待したものだが、その水準はまだまだのようだ。
「それとも、まさか香霖は微分積分を知らなかったりするのか?」
魔理沙がニヤリとして言った。こう言われては霖之助も黙ってはいられない。彼女は霖之助の扱い方を心得ている。
「もちろん知っているさ」
霖之助は言ってから、しまった、と思った。知っていると言ってしまった以上、『知ってはいるが面倒だから教えない』などと言えるほど、魔理沙との関係は冷えたものでは無い。だがそれでも、微分積分ができないなどと言うのは霖之助のプライドが許さないし、そもそも霖之助は嘘をつける性格ではない。
「……だが、一から教えるには手間も時間もかかる。代金は高くつくよ?」
「いつもは頼まなくても勝手に喋るくせに、と言いたいところだがな。まあわかってるぜ。だから仕事の依頼と言ったんだ」
魔理沙はそう言うと、スカートの中から小瓶を一つ取り出した。そこに物を収納にするのは如何なものかと霖之助はいつも思っている。小瓶はともかく、彼女は山をも焼き払うミニ八卦炉までそこから出すのだ。
カウンターに置かれたその小瓶には、きらきらと輝く半透明の破片がいくつか入っている。
それを見た霖之助の目の色が変わった。
「これは……!」
「お前にはわかるだろうが、これは龍の爪の破片だ。この前ちょいと人助け、じゃなくて龍助けをしてな。その時に貰ったんだ」
「なんてこった……」
霖之助は魔理沙のこの頼みをほとんど断る気でいた。教師ではない霖之助が、十代前半の少女に微分積分を一から理解させるなどというのは、かなり骨の折れる作業になるだろう。それに、魔理沙の勤勉さであれば、今はわからなくとも数年もすれば独学で理解できるだろうと思ったからだ。
だが、龍の爪というのはとんでもない貴重品である。早い話、霖之助はこれがどうしても欲しくなった。
また僅かな破片とはいえ、いつものガラクタとは違って、魔理沙は龍の爪が非常に貴重なものだと知っていて差し出してきたのだ。それだけ真剣に、今すぐ微分積分を理解したいという熱意の表れでもあった。
「ほーれほれ、こいつが欲しいだろー?」
そんな事を言いながら、魔理沙は小瓶を霖之助の目の前で振って見せる。
「……しかし、何故君はそんな物を対価にしてまで───」
───カランカラン
魔理沙に質問を投げかけようとした霖之助を遮るように、香霖堂のカウベルが鳴った。
「おっ、レミリアと咲夜か」
「あら魔理沙、こんな所にいるなんて珍しくもないわね」
入ってきたのは言わずと知れた紅魔館主従、レミリア・スカーレットと十六夜咲夜だった。
ここで、二人を見た霖之助の頭に、ある閃きが舞い降りた。
「いらっしゃい!」
「……いつになくテンション高いわね、店主。顔に『丁度いいところに来た!良い事思いついたぞ!』って書いてあるんだけど、何なの?」
元気に歓迎されたレミリアが、普段とのギャップに少々鼻白んだ。
「顔に書いてある、という慣用句を使う表現としては些か具体的過ぎる気がするが……その通りだ。君達に頼みがある。今日は吸血鬼が映る鏡の受け取りに来たんだったね?」
レミリア達は数か月前に、霖之助に『吸血鬼が映る鏡』の製作を依頼していたのだ。そういった捻くれたアイテムの製作は、霖之助にはお手の物である。
そしてその代金はかなり高い。前金もいくらか受け取っていたが、今日は代金を受け取って商品の鑑を受け渡す日だった。
「ええ、後払いの分はここに」
そう言った咲夜の手の平の上に、分厚い封筒が出現した。取り出す動作は一切見えなかったから、能力を使ったのだろう。
「そう、その能力だ。時間を止められる君なら微分積分の計算ができるだろう?後払いの分はいらないから、魔理沙に微分積分を教えてやってほしいんだ」
「はあ?」
間抜けな声を上げたのは魔理沙である。時間を止められるから微分積分ができるとはどういう意味なのか、彼女には全くわからない。
だが、咲夜とレミリアには戸惑った様子は無い。
「まあ、出来ますが……しかし私にはメイドの仕事が」
「いいわよ!折角だから私も一緒に教えてあげるわ。暇だし」
咲夜は少し迷った素振りを見せたが、主人のレミリアがあっさりと承諾した。
「レミリアもできるのか!?」
魔理沙は驚愕して言った。よくよく考えれば、500年も生きていれば微分積分くらいできてもおかしくない気はするが、それでもレミリアはそんな勉強とは程遠い存在だと魔理沙は思っていた。
「あら、咲夜に微分積分を教えたのは私よ」
「ふーむ、なるほど」
「……んん?」
魔理沙は今度は疑問の声を上げた、レミリアが咲夜に微分積分を教えたというのも驚きだが、霖之助の言う『なるほど』とは一体何なのか。それに、時間が止められるから微分積分ができるという理屈もまだわからない。
「でも、なんでまた微分積分なんてやりたいのよ、魔法使いが」
「ああ、僕もそれをさっき聞きそびれていたんだ」
混乱する魔理沙をよそに、レミリアと霖之助が尋ねた。
「ん?ああ……新しい弾幕を考えててな、ブーメランみたいに飛ぶ弾幕ってのはどうかと思ったんだ。そしたらどうも正確な軌道を計算するには微分積分が必要らしい。ちゃんと計算しないと反則弾幕になったりしたら困るからな」
「ブーメラン?それは計算したことないわね……」
「大した話じゃないよ。運動方程式はd^2x/dt^2=-(F*cos(Ωt))/m、d^2y/dt^2=-(F*sin(Ωt))/mになる」
「あー、単純な話じゃないの。でも三角関数から教えないといけないかしら」
「そうそう、本で調べてたらそんな感じの計算式が出てきたんだが、お手上げだ。sinとかcosってのは調べたらまあ判ったんだけどな」
というか、レミリアは本当にわかるのか……という言葉を飲み込みながら、魔理沙は言った。
「まあそれは良いんだけど、どうして店主が鏡代タダにしてまで私達にこんなこと頼むのよ」
「魔理沙から僕が頼まれて代金を受け取ったんだがね、生憎と店が忙しいんだ。だからまあ、業務委託ってところかな」
もちろん店は忙しくない。
「ふーん。まあ良いわ、じゃあさっさと鏡受け取って行こうかしら」
「そうですね、丁度荷物持ちが手に入った事ですし」
「私が持つのかよ」
「生徒なんでしょう?先生の手伝いくらいしなさいよ。それにどの道紅魔館で教えるんだし」
「へいへい」
店を出る三人を見送りながら、金には替えられない貴重品である龍の爪を首尾よく手に入れた霖之助は、そっとほくそ笑んだのだった。
そして紅魔館、レミリアの部屋。
初めは何となく勉強する場所というイメージで大図書館に向かった三人だったが、喧騒を嫌う図書館の主に敢え無く追い出された。
結局、スペースが十分にあって、邪魔が入らないレミリアの私室が勉強会の場所に選ばれた。
三人はテーブルを囲み、魔理沙の前にノートと鉛筆、どこから持ってきたのか咲夜とレミリアの近くにはホワイトボードが置かれたところで、魔理沙が口を開いた。
「早速始めたいところなんだが、その前に一つ聞きたいことがある。さっき香霖が言ってた、時間が止められるから微分積分ができるってのはどういうことだ?」
「時間を微分すると時が止まるからよ」
「お、おう……?」
魔理沙の疑問には咲夜が簡潔に答えたが、魔理沙は全く意味が分からない。
「今の言葉を理解するためにも、まずは勉強。さあ、始めましょうか」
「……ああ、頼む」
レミリアと咲夜による主従講義が始まった。
数時間ほどの授業の結果、魔理沙は微分の基礎についてはほぼ理解するに至った。
微分の基礎、単純な乗数項のみで構成された式の微分は、計算するだけなら、微分の手前までの数学知識があれば五分で終わる。だがレミリアと咲夜は、微分の意味、積分の意味から詳しく教える方法を取った。
外の世界における受験勉強をするのであればこの上なく非効率だが、今の魔理沙に必要なのは正にレミリア達が教えているような事柄である。
「ふーむ、速度を微分すると加速度、積分すると距離になる、と……なるほどなあ」
「どう?微分積分って意外に身近にあるものでしょう?」
咲夜が得意気にそう言った。魔理沙を妹分のように思っている節がある咲夜は、魔理沙にこうして勉強を教えることを割と楽しんでいる。
「魔理沙、あなたなかなか飲み込みが早いわねえ。咲夜に教えた時とどっちが早いかしら」
「やだなあ、お嬢様。私はここまで三十分もかかりませんでしたよ」
「……へー」
魔理沙は咲夜の言葉を聞いて、多少落ち込んだ。レミリアの言うとおり、自分は結構飲み込みが早いのではないかと思っていたが、咲夜はここまで三十分かからなかったと言う。
三十分は無理かなあ、という思いが、わずかながら嫉妬の心を生んだ。
が、それも次のレミリアの言葉で消えることになる。
「それは咲夜が自分の時間を加速させまくってたからでしょ。通常時間に換算して、って話よ。私の感覚だと、ちょっとだけ魔理沙の方が早いかしらね」
「あ、いや、それは……現実で早いんだから良いじゃないですか」
「勉強なんてゆっくりやればいいのに、能力フル活用したりして慌てるからよ。咲夜の体感時間が長いんじゃ意味無いじゃない」
「そんなぁ……」
咲夜の情けない声を聞いて、魔理沙はくすりと笑いながら、少しだけ安心した。と同時に、魔理沙は一つ疑問を抱いた。
「……なんで加速なんだ?時間を止めちまえば、考える時間はゼロだから三十分どころじゃなく縮まるんじゃないのか?」
「あー、それね。じゃあ結構やったし、ここらで一旦休憩雑談タイムにしようかしら。今ならさっきの『時間を微分すると時が止まる』ってのも説明できるし」
「かしこまりました」
咲夜が了承の返事をするのと、三人の前に湯気が上る紅茶、こんがり焼けたクッキーが盛られた皿が置かれるのは完全に同時だった。
時を止めるという凄まじい能力、咲夜はこの能力を日常的に気軽に使うことを躊躇わない。
レミリアは満足そうに紅茶を啜り、話を始めた。
「どうして加速なのかって言えばね、咲夜はその時まだ時間を止められなかったからよ」
「ほう……となると、色々と予想がついてきたな。時間を微分すると時が止まる。その頃の咲夜は微分が出来ないから時を止められなかったわけだ」
「そういうこと。まあ、ここから先は咲夜に話して貰った方がいいかしら?」
レミリアはそう言って、咲夜に話を振った。
咲夜はふむ、と、少しだけ考える。自分が時を止めるに至った過程、止める前にも加速はできた理由。過去を語ることはほとんど無い彼女だが、別に後ろめたいものがあるでも無し、雑談のネタとして語るのは、魔理沙が相手なら別に良いか、と思った。
「そうですね……全部説明するとなると、結構長くなりますが」
「良いわよ良いわよ、たまにはゆっくり昔の事を話すのも。……というかもう夜じゃないの。話も長くなるし、今日の勉強はこれまでね。咲夜、紅茶はもういいからお酒持ってきて」
紅茶とお菓子が文字通り瞬く間に消え、代わりにワインとチーズが出現した。
「おっ、これは思わぬ収穫だな」
魔理沙が真っ先にチーズを一切れ口に放り込み、ワインを流し込んだ。
「店主に貰った授業料が結構多いからね、紅魔学園はサービスも豊富なのよ」
全く遠慮の無い魔理沙に咲夜は呆れ顔を向けたが、レミリアはそんな魔理沙を見てニコニコ笑いながら言った。今日の勉強会が楽しかったのだろう、少し珍しいくらいに機嫌が良い。
咲夜もそんなレミリアを見て気を取り直し、ワインを口に含みながら話を始めた。
「さて、私の話だったわね。この能力自体は生まれつきだから、そこまで話は遡るんだけど……」
私、十六夜咲夜は、生まれた時から時間と言うものを他人とは違う形で認識していたように思う。
───ああ、この名前はお嬢様に頂いたものだから、生まれた頃はもちろん違う。でも前の名前は捨てたし、めんどくさいからずっと咲夜。
生まれた時から時間を操れたかというと、その答えは否になる。でも、時間を操る能力なんてのは、普通の人間がある日突然目覚めたり、修行によって開花したりなんてことが有り得る能力じゃない。
つまり、私は生まれた時から能力そのものは持っていたけれど、使い方を知らなかった。
赤ん坊でも呼吸のし方や手足の動かし方を知っているのと違って、時間の操り方なんてのは本能のマニュアルに書いてはいない。
だから結局、時間に対する認識が多少違っても、操ろうなんてことはそもそも思わなかったし、自分に特別な能力があるなんて思っていなかった。
転機が訪れたのは、掛け算。学校に入ってそれを習った時、私は最初に『掛け算って、時間に適用できるんじゃない?』と、そう思った。
もちろん周りの誰にそんなことを言っても、何を言っているんだという目でしか見られなかった。だが私には、時間に対して人間が掛けたり割ったりできるのは、当たり前のことではないのかと思えた。
そして、やってみた。自分の中にある『力』を時間に働きかける。人間が時間を操るのが当たり前の世界であれば、私が時間に対して行ったこの行為に対して、何らかの動詞表現が存在するのだろうけど、そんなものは無いので曖昧な説明しかできない。
その結果、時間は加速した。減速させることもできた。その力は自分に対してだけでなく、あらゆるものに働かせることができることもこの時わかった。
この時初めて、私は自分が特別な能力を持っていることを知ったが、同時に周囲の人間もそれを知ることになった。
早回しのように動く女の子は、さぞかし不気味に見えたことだろう。
それからはまあ、よくあるパターン。迫害されたし、人の中では生きていけなくなった。
それは別に大した問題じゃなかった。時間を操る能力があれば、人の外で生きる分には困らなかったから。
とにかく生きていた私は、やがて吸血鬼狩りに手を出した。このあたりの心境は割愛するけど、刺激が欲しかったとか……まあ色々。
それでお嬢様に会ったわけだけど、お嬢様が何匹目の吸血鬼だったかは覚えていない。
お嬢様を狩ろうとしてどうなったかと言えば……こっ酷く負けた。いくら自分を加速してもお嬢様には追いつけなかったし、いくらお嬢様を減速させてもまるで遅くなったようには見えなかった。
死を覚悟した私だったが、お嬢様は私の能力に興味を持った。あるいはそれは、お嬢様の能力が何らかの形で作用したのかもしれない。
「その能力、時間を操ってるの?」
「……それがどうした」
この時の私はメイドじゃないから、お嬢様に酷い口のきき方である。ごめんなさい。
「いや、どうやって操ってるのかなーって」
「時間に掛け算するのよ。今まで同じことができる人間は見たことが無い。吸血鬼のお前にだって無理でしょうね」
私は身動きが取れないほど痛みつけられた体で床に這いつくばりながら、精いっぱいの虚勢でそう言った。
正直、この吸血鬼ならできてもおかしくないかもな、とちょっと思っていたけど。
「できないわよ、そりゃ。でもあなた、加速が百倍速、減速は百分の一倍速くらいが限界みたいね。通常の時間速度を基準として、加速、減速どちらに掛けられる力も同じくらいってことかしら」
「……?」
「……学は無いのね、あなた」
そう、この時の私は悲しいくらいに頭が悪かった。
だが仕方がないのだ。掛け算を習った時点で学校は愚か、人と暮らす事すら出来なくなっていたのだから。
「あなたの能力は時間の速さに対して数学的アプローチができる能力じゃないのかしら。単純に掛けたり割ったりしてるうちは、ちょっと速くなったり遅くなったりするだけだけど。もし周囲に流れる時間をゼロに、あるいは自分の時間を無限大にできたら……最高に便利な部下になれるわね、私の」
「……はあ?」
「それとね、時間を操ることと空間を操ることは同義。あなたはこれをいまいち認識できていないようね。時空間とは四次元の座標軸によって構成される世界だから、そのうちの一本である時間を延ばすと時空間の総量が増加する。逆も然り」
「……???」
もうわけがわからなかった。私の能力について語っている部分は全部、自分の知ってる言語とは思えなかったが、唯一聞こえた『最高に便利な部下になれるわね』も丸ごと意味がわからない。つまり全部わからない。
そしてわからないことに、この吸血鬼は私を治療し、名前をつけ、数学を教え始めた。数学はわかった。
「───そんなこんなで、私はいつの間にかお嬢様に心酔し、一生仕えていくことと相成ったのでした、めでたしめでたし」
「うん、良かったな。それで、どうして時間を微分すると時が止まるんだ?」
長い話を終えた咲夜に、魔理沙が言った。
話は概ね興味深かったので最後まで聞いたが、肝心要の部分がほとんど出てこなかった。
「やーねえ、魔理沙。ちゃんとその話も出てきたじゃない」
咲夜はとろんとした目でそう言った。気が付くと、咲夜の横に置かれたワインボトルが空になっている。
「……酔ってるのか、お前」
「うふふ、ちゃんと出てきたのよー。私の能力は時間の『速度』に干渉する。時間の速度は通常一定。つまり微分するとー?」
「ああ、ゼロか」
「そういうこと。百分の一倍速くらいが限界だった私が、微分の概念を理解したら殆どパワーを必要とせずに完全にゼロにできちゃったのよーお嬢様すごーい」
「はいはい、ありがとうね」
レミリアはそう言って、咲夜の頭を撫でた。
撫でられた咲夜はだんだんと目蓋が落ち始め、やがて机に突っ伏した。
「そういや、咲夜が宴会では飲みすぎたりする姿って見た事無かったな」
「この子は真面目だからねえ。ウチで飲むと結構こういう姿見られてかわいいのよ」
レミリアの保護者トークは、最早咲夜には聞こえていないだろう。咲夜は安らかな寝息を立てていた。
「しかし、どうして咲夜に微分を理解させたら時が止められるだなんて思ったんだ?」
「脳なんて単純で科学的な思考中枢が必要なうちはわからない、とでも言っておこうかしらね」
「ははは。いつだったかな、それ聞いたの」
「私にとってはつい昨日よ」
冗談のような、そうでも無いような軽口を交わし終わり、やがてレミリアと魔理沙も手持ち無沙汰になった。
「……さて、咲夜も寝たしそろそろ帰るかな。また次も頼むぜ。明日で良いか?」
「ええ。待ってるわ。次は三角関数の微分を教えてあげる。ブーメランに大分近づくわよ」
「ああ、楽しみだぜ。また明日」
魔理沙はレミリアの部屋を後にした。背後からは『咲夜、寝る前にちゃんと着替えなさいよー。ほら起きなさい、シワになっちゃうでしょ』なんて声が聞こえていた。
夜の幻想郷上空を、魔法の森の自宅へと向かって飛ぶ魔理沙。
彼女の心境は、友人との楽しい集まりのあと、夕餉のお供に酒を飲み、火照った体が冷えるのを妙に意識する夜の帰り道───とでも言えば、酒飲みのうちの何割かは共感するだろう。
そんなすっきりした気分の中で、魔理沙は今日の学習内容を反芻していた。
魔法に、弾幕にあらゆる努力を惜しまない少女、霧雨魔理沙。ブーメラン弾幕が成功するかどうかは神のみぞ知るが、身に着けた微分積分の知識は、決してブーメラン弾幕だけで完結するものではないだろう。
この手の物語は、「こいつ、にわか仕込みの知識をひけらかしたいだけだろ」と受け取られることが少なからずあるので、どうせやるなら(今回でいえば、微分について)もっと本質的なところまで踏み込んだ方がいいかもしれません。「俺はそういう浅はかな自慢をしたいだけの奴らとは違うんだ、一つの考察としてこの物語を書いたんだ」というアピールとして。
もちろん内容との兼ね合いもありますから、そう簡単なことではないと思います。が、だからこそそれを見事に成し遂げれば素晴らしい作品になるのではないでしょうか。
と、いうことで、長々と失礼。興味深い物語をありがとうございました!
他には、物理学・数学の歴史に対する考察とか、時間の速度なる量の定義とか、突っ込みたい点は色々ありますが、ここはそういう場ではないので置いておいて……
微積をテーマに東方ssを書こうという試みは面白いと思いますし、微積も含めてフィクションだと思えば、お話自体も面白かったです。
つまり、レミリアは私の母ではありませんが、酔いつぶれた咲夜さんは私の隣で寝ています。
まあ、最初の歴史云々に関するツッコミは多くなりますよね……
他にも突っ込みどころは満載ですが。
寛容な皆様の仰る通り、その辺りは適当にフィクションってことでそれとなく雰囲気に誤魔化されて頂けると幸いです。
最近は確率を微分して方程式にして解いたりしますからね。レミリアが数学できるのも納得です。
「時間を微分すると時が止まるからよ」など,謎理論に理屈付けてハッタリかますのが好きなので楽しく読めました
高校時代を思い出して悲しくなりました。