一、
梅雨の初めのことだった。人影のない裏寂れた墓地の一画で、枝垂柳の木が音も無く揺れていた。空は曇天。先頃になって雨は止んだが、周りの景色は夕刻のように暗かった。
ぽつりと、柳の葉に溜まった雨水が滴となって零れ落ちた。滴は真下にある茂みの中に入っていく。茂みは花を付けていた。毒々しい程に濃い青だった。紫陽花の茂みだった。
紫陽花の中に隠れていた多々良小傘は、鼻の頭に滴が当たったのを感じた。鬱陶しそうに拭って舐めるが、少しも足しにはならなかった。
気を改めて墓地の方へ注意を向ける。一番大きな墓石の裏からチョロチョロと動く緑色の背中が現れた。緑色の背中は蜥蜴だった。待っていたかのように烏が舞い降りて蜥蜴を襲った。烏は狩りに失敗したようだ。後には青い尻尾だけが残された。
尻尾はうねうねと動いている。あの尻尾は食べられるだろうか。小傘は考える。何しろ酷く空腹だったのだ。
目当ての人物は、まだ現れない。
小傘の潜むこの紫陽花は、命蓮寺の連中が植えたものだった。命蓮寺は昨年の秋、墓地の端にある枝垂柳の下に紫陽花の成樹を植えた。墓場の陰気な空気を少しでも和らげんという意図に依るものだったが、効果の程は余り芳しくなく、そもそも紫陽花を植えたと知っている者が稀という有様だった。
墓地は唯それたけで人を遠避ける。仮に花を見つけたとして誰も気に懸けない。
小傘がこうして人を待つのは、必ず此処に来る人物を知っているからだった。
暫くじっと待っていると、こつこつと石畳を叩く音が聞こえてきた。足音だと判じた小傘は茂みの中で一層息を潜める。
来た。待ちかねていた人物の登場である。
その人は傘を持っていた。その人は紫陽花の茂みの前に立つと、背を丸めてその場に屈んだ。目の前には小さな石が立っていた。白い石だった。男のものと直ぐに解るような名前が彫られており、傍には花も添えられてあった。その人は両手を合わせて目を閉じた。
その人は女だった。何処か品のある顔立ちで、墨を塗ったような真黒な着物を着ていた。飾り気は余りなく、長い黒髪は後ろで纏めただけで、化粧は薄く口紅もしていなかった。何か拭い難い影のようなものを感じる。今にもまた降り出しそうなこの曇り空のような顔をしていた。
黒い着物の女がすっと立ち上がった。もう一度墓石に視線を送り、次に小傘の潜む紫陽花の方を向いた。どきりとした。目が合った気がした。飛び出す時期を逃した。女は柔らかな笑みを浮かべた。
「今日は紫陽花の中なのですか。多々良小傘さん」
女は驚きなどひとつもない平然とした顔をしていた。観念した小傘はゆっくりと茂みの中から抜け出した。紫陽花の葉が纏わり付いて不快だった。
「……なんでばれた?」
「茂みの中からそんな傘が飛び出していれば、誰だってわかりますよ」
「なるほど。盲点だった」
敗因はこの大きな唐傘のようだ。今日も狩りが失敗した小傘は、力なく肩を落とした。
小傘が待っていたのは、この人間の女だった。名前は夢乃と云う。人里の中では比較的裕福な暮らしをしている商家の娘だった。
夢乃は毎日のように小傘が縄張りとしている墓地へやって来た。当然墓参りである。あの紫陽花の茂みの前に在る白い小さな墓石は、彼女の元婚約者のものであった。
「今日も驚かせようとしたんですか」
夢乃は小傘に問い掛けた。咎めるようではなく、会話の流れからくる自然な応答のひとつとして訊いたようだった。
「腹が減っているんだ。とにかく驚いてくれないと困る。私は人の驚きを喰らう妖怪だから」
偉そうな小傘の物言いに夢乃は苦笑いを浮かべる。それは難しいですね、とゆるゆると首を振った。私はもう何事にも驚けそうにありません、と続ける。そうして一瞬だけ哀しげに眼を伏せて、
「一番の驚きはもう終わってしまいましたから」
と言った。
夢乃の婚約者が死んだのは、今より二カ月ほど前の事だった。虫垂炎である。発覚した時には既に重症化しており、直ぐに手術が必要な状態であった。手術は里の医師の手で行なわれた。永遠亭で修業したという優秀な医師で、手術は無事成功し、術後も安定していてこのまま快方に向かうと思われた。
だが、第三者のそんな楽観を他所に、男の容態はある晩急変し、そのまま朝を迎える事無く息を引き取った。夢乃は嘆き悲しんだという。婚約を交わしたのは彼が死ぬ三日前のことだった。
さて亡くなった婚約者であったが、人が死ねば当然墓に入れねばならない。しかし彼には親親族は疎か、親しい友人の一人もいなかった。金も無く、大層な夢ばかりを追いかけて地に足が着いておらぬ、そんな人物だった。おまけに里の有力者の娘である夢乃を嫁に取ろうとする。彼に墓石を呉れてやる者は誰も居なかった。
そうした事情あって出来たのが、この紫陽花の下の小さな白い石だった。石の下には遺体が眠っている。彼を哀れに思った命蓮寺の住職が、せめてもの慰みにと願を籠めて作ったものだ。元より死者の弔い等は生者の為に行われるべきものである。夢乃は住職に深く頭を下げ、このちっぽけな墓石に毎日のように通うようになった。
小傘と出会ったのはそう云った経緯からである。
「また明日も来るのか」
小傘が夢乃に尋ねた。彼女ははいと小さく頷いた。
「私が来なければあの人は寂しい思いをするでしょう」
「そんな如何にも哀しんでますという顔で会いに来られても嬉しくないと思うけどな」
そうかもしれませんね、と夢乃はまた哀しげな顔をした。夢乃はいつもそうだった。いつも哀しげな顔をして墓場に来る。当たり前だ。彼女は婚約者の死が哀しいから、自分を慰めるために通っているはずだ。
だけど小傘にはそれが不満だった。夢乃は自分の前に立っていながら自分の事を見ていない。彼女はいつも死んだ婚約者の事を想っていて、他の誰かなど眼中にないのだ。だから驚かない。だから空腹が収まらない。小傘は歯痒く思った。
「いつかお前を驚かせてやる。きっとだぞ」
小傘は夢乃にそう宣言した。彼女はやはり哀しげな笑みで応えるのみだった。この世の不幸を全て背負って居るかのような顔だった。哀しむために哀しんで居るようにも見えた。
それでは、と言って夢乃は墓地から去っていった。小傘は去っていく彼女の背中を見送った。ちっぽけな背中だった。足取りも頼りなく、身体は弱々しく揺れていた。彼女は別に病人ではないと聞いていた。
絶対に驚かせてやる。小傘はもう一度声に出して言った。
二、
紫陽花の花に雨粒が当たって砕けた。唸るような雨音が聞こえている。バケツを引っ繰り返したような土砂降りであった。水分を吸った枝垂柳は重々しく傾き、許しを乞うように頭を垂れていた。
石畳の上には幾つもの水溜りが出来ている。稲光が迸り、水溜りが鏡のように瞬いた。
誰もが外出を控えたくなるような天気だった。紫陽花の下の白い石にも人影はない。だが小傘は、夢乃は必ず来ると知っていた。
今日は彼女の背後から蜥蜴を投げつけてやろうと考えていた。墓地には蜥蜴が多く棲み付いている。その一匹を捕まえて、襟の後ろから服の中に入れてやろうと考えた。夢乃は爬虫類が苦手だった。きっと驚くに違いない。驚いて絶叫するかもしれない。
小傘は蜥蜴を捕まえるべく墓地の中を捜し歩いた。いつもは何処でも見かけるのに、こんな時に限って見つからない。小傘は墓地を一周して紫陽花の場所まで戻ってきた。僅かな期待を抱いて紫陽花の茂みを突いた。すると、運よく雨宿りしていた蜥蜴の一匹を見つけた。
驚いた蜥蜴は紫陽花の茂みから飛び出した。小傘はそれを追いかける。すばしっこい蜥蜴は簡単には捕まえられない。小傘は苛立ちながらも走って蜥蜴を追いかけた。
墓地には水溜りが多くできている。走り回っている内に、小傘は水溜りに足を滑らせて転んでしまった。大きな唐傘が転がった。尻もちを着いてびしょ濡れになった。追い打ちをかけるように雨が小傘を叩きつけた。
顔を上げると夢乃が立っていた。土砂降りの中を来たせいで、黒の着物の肩と裾は大きく染みになっていた。
「あら。風邪を引いてしまいますよ」
夢乃は着物の合わせからハンカチを取り出した。そうして膝を折って尻もちを着いたままの小傘に渡す。小傘は不貞腐れたように顔を背けて、ハンカチを払い除けた。
「今日は早いじゃないか。雨が止むまで待っていてもいいのに」
「いつも通りですよ。それにこの雨では今日一日降り続けるでしょう」
夢乃はそう言って立ち上がると、紫陽花の茂みの方へ歩いていった。「またか」と言えば「ええ」と夢乃は笑う。だけどその笑みは、やはり哀しげなものだった。
また別のある日のことだ。
その日は梅雨の中休みのようで、朝から気持ちのいい青空が広がっていた。但し風の強い日で、枝垂柳が時折ざわざわと音を立て、乾いた石畳の上を落ち葉が滑るように這っていた。
小傘は自慢の唐傘の裏に水を溜めていた。今日はそれを夢乃に叩きつけてやるつもりだった。こんな晴れた日にびしょ濡れにされるとは思わないだろう。今度こそ驚くに違いない。小傘は手水舎の水で傘を一杯にして、いつもの紫陽花の茂みまで向かった。
茂みの近くまで来ると、夢乃が墓石の前で屈み込んでいるのが見えた。今日もまた黒い着物だった。まだ小傘の事には気付いていないようだ。熱心に手を合わせ、祈るように目を瞑っている。小傘は夢乃が立ち上がって振り返る前に追い付こうと、石畳の上を走った。
傘に溜めた水が重くて走りづらい。小傘は目の前を黒い影が横切ったのを見た。それは蜥蜴を追い掛けていた烏で、烏は急に走って来た小傘に驚いて向きを変えて飛び去った。
小傘は烏のせいで体勢を崩した。前のめり倒れ込んで、持っていた傘がくるりと回った。
傘に溜めていた水は小傘の上に叩きつけられた。
「今日は水浴み、ですか?」
振り向いた夢乃は顔を変えないまま首を傾げた。
「……そうだよ。こんなに暑い日だからね」
「降れば煩わしいのに、降らねば恋しくなる。水とは不思議なものですね」
夢乃はまた哀しげに笑った。笑っているはずなのに、この青天を台無しにするような影があった。
小傘と夢乃の関係はいつもこんな調子だった。小傘は夢乃を驚かせようと必死に画策するが、全てが裏目に出て、今まで一度も驚かせることに成功していない。
ある時は落とし穴を掘ろうとして途中で眠ってしまったことがあった。ある時は枝垂柳の上に隠れようとして烏に突かれたこともあった。またある時は今夜月が落ちてきて世界が破滅すると嘘を吐いて、子供をあやす様に受け流されてこともあった。
夢乃はいつも哀しげに笑っていた。笑っているのではないと気付いていた。哀しい顔を貼り付かせたまま、形だけの笑みを作って拒絶しているのだと解っていた。
ある時夢乃は言っていた。
「あの人は私に、外の世界へ行こうと誘って下さいました」
あの人、とは夢乃の婚約者の事だ。夢乃は時折、思い出したようにあの人の話をする。
「外の世界? 結界の外の事か。行ってどうする積りだったんだ」
「外の世界には海があります。海があれば塩が取れる。塩を売って大儲けしようと言っていました。それが私たちの夢でした」
夢乃の婚約者は人里の中に居場所が無かった。碌に仕事にも就かず、馬鹿げた夢ばかりを語っていた。だが夢乃にとっては、そんな男の夢物語は新鮮なものに写った。夢乃は裕福な家庭の娘だった。何不自由なく暮らしてきた彼女に、男の語る壮大な野望は輝いて見えた。
……外の世界で塩を売ったところでそれ程の稼ぎになるとは思えない。幻想郷の中であれば確かに塩は貴重な品だが、元々塩が豊富に取れる環境であれば価値はぐっと下がるはずだ。男にはそれが見えていなかった。彼女もまた、現実が見えていなかった。
「それは叶わなくて良かったと思うな。その男が病で死んだのは、ある意味運が良かったかもしれない」
小傘は呆れたように言った。自分にもすぐ解るような馬鹿な妄言だと思った。夢乃が眉を吊り上げる。
「あの人への侮辱は誰であろうと許しません。まだ誰もあの人の素晴らしさを知らないのです。あの夢さえ叶えば、あの人だってきっと……」
夢乃は哀しげに顔を伏せた。小傘はそれ以上何も言わない。墓地の端を呑気な烏が歩いている。小傘はそれを見ていた。
小傘が夢乃と出会ってから一月以上が過ぎた。
その日は細かい霧雨が降っていた。風は無く、じめじめと湿度ばかりが高い嫌な日だった。枝垂柳の木は死んだように動かない。それだけ見ると、まるで時間が止まったようでさえあった。
今日は朝から烏が喧しく鳴いている。時折真っ黒な身体が思い出したように頭上を通り抜ける。紫陽花の茂みの上に黒い烏の羽根が一枚落ちた。
その日現れた夢乃はいつもの黒い着物ではなかった。前日までと打って変わって淡い水色の着物を着ていた。唇には紅を差し、化粧も少し載せているようだ。彼女はいつものように墓石の前に立つと、肩に傘を預けてその場に屈んだ。
手を合わせ、目を瞑り、何かに縋るように祈り続ける。瞑想の時間はいつもより数倍長かった。
「……宗旨替えか。今日は随分涼しそうじゃないか」
いい加減飽きてきた小傘が背後から声をかけた。夢乃はゆっくりと顔を上げて振り返った。傘のせいで顔はよく見えなかった。
「そうですね。少し暑くなってきましたし」
「前のは暑苦しそうだったからな。墓の下のそいつも、偶には変わったものが見れていいんじゃないか」
「ええ、本当に。そうだと思います」
嘘であることはすぐに解った。酷く弱々しい声だった。震えている様にも思えた。或いは、何かに恐れている様にも見えた。
傘の影に隠れて夢乃の顔がよく見えない。
「小傘さん」
名前を呼ばれる。声だけが聞こえる。どんな顔をしているのかが解らない。
細かい霧雨が降り続けていた。それは夢乃の傘に当たり、水滴となって布地に溜まっていく。溜まり過ぎた水滴が曲線に沿って流れる。水滴は露先で雫となった。まるで何かに耐えるように雫はじっと留まり、ある時弾かれたように零れ落ちた。
「私はもう此処には来れません」
そうして夢乃が傘を上げた。ようやく顔を見ることが出来た。夢乃の頬は水気で湿っていた。
「どうした。ついに飽きたのか」
「いいえ。ただ、やはり誰もあの人のことを解ってはくれなかった、そういうことです」
夢乃は紫陽花の下の墓石に視線を移した。石に刻まれた名前を、何かを思い出すように辿って行った。
「元々私の家の者はこの墓参りを善く思っていませんでした。皆、彼のことを嫌っていましたから。だからせめて四十九日が終わるまではと私が無理を言い続けてきたのです」
ですが、と夢乃は重々しく首を振った。
「昨日でその四十九日も終わりました。喪服も既に必要ありません。私は此処に来る理由を無くしてしまいました」
彼女の両親は元々彼女とその男との交際には反対だった。男の素行についての不満もある。名家の一人娘としての見栄もある。男が死んだとき、彼らは泣き縋る夢乃を突き放し、墓石を作る事もしなかった。命蓮寺が小さな墓を建てたときも、夢乃が其処に通うのは散々渋ったという。
夢乃はもう此処に来るための許しを失った。今日も無理矢理やって来たのだという。だけど明日以降はどうなるか解らない。彼女の家は彼女を軟禁してでも此処に来させない様にするかも知れない。
彼女は毎日一人で墓参り来ていた。大雨の日も風の強い日も、一日たりとも休むことなくこの紫陽花の茂みの前に来ていた。それは死んだ婚約者の事を想うばかりでは無かったかもしれない。哀しむ自分に酔っている部分も多分にあったかもしれない。それでも彼女がこの墓参りを心の拠り所にしていたのは事実だった。
紫陽花の、あの毒々しいまでの濃い青を、夢乃は目を瞑っても思い返すことが出来る。それ程までに日常の一部にしてしまっている。小傘はそんな彼女をずっと見ていた。
「じゃあ、明日からは私を理由にすればいい」
夢乃が顔を上げた。小傘の表情を窺おうとしたが、小傘は動かない枝垂柳を唯じっと見ていた。
柳の葉がはらりと落ちる。獲物と間違えた烏が舞い降りて暴れた。自分の起こした風のせいで、烏は木の葉さえ見失ってしまう。
「お前はまだ此処に来たいのだろう? 明日からは私に会いに行くのだと言えばいい」
烏は首を傾げている。久しぶりの風が吹いた。強い風で、枝垂柳が大きく靡いた。
夢乃が瞬きもせずに小傘を見ている。
「……有り難う、御座います」
「勘違いするなよ。私は未だお前を驚かせていない。利害の一致だ」
枝垂柳がざわざわと靡いている。大きな風が吹いていた。
小傘は振り返って夢乃の顔を見た。夢乃は穏やかな笑みを浮かべていた。頬の湿り気は、いつの間にか乾いていた。
三、
夢乃は四十九日が過ぎてからも連日墓場に通い詰めた。家の者はやはり善く思っていないが、「友達に会いに行く」という彼女の言葉に押し切られ、上手く口を挟めずに居るようだった。
また家の方で新しい商売を始めることになり、その準備に追われて夢乃の方まで気を遣っていられないという事情もあった。
喪服を止めた彼女は身に着ける物も毎日変わるようになった。生来移り気な質なのだろう、小紋や紬、或いは気楽に浴衣などを着て現れるようになっていた。
着物の色や柄も様々で、万華鏡のようにくるくる変わる彼女の衣装には、着物の種類などとんと解らない小傘にとっても、娯楽の少ない墓場でのちょっとした楽しみとして受け止められていた。
今日の彼女は目の覚めるような真っ赤な着物だった。明け方に少し降っていたが午後になって雨も上がり、青天を背後に赤い着物が揺れる様は中々趣も感じられた。
彼女はいつものように紫陽花の茂みの前に立つと、その場に屈んで墓石に手を合わせた。瞑想の時間は以前より大分少なくなっていた。
「知っているか。赤い服というのは死に装束なんだ。赤を着た人間は妖怪に狙われやすくなるんだぞ」
小さな水溜りを飛び越えながら小傘は夢乃に近付いた。彼女は瞑想を止めて振り返った。
「そうなんですか。だからあの博麗の巫女の周りには妖怪が寄って来るのですね」
「ちぇっ。やっぱり驚かないか。強情だな」
小傘は顔を顰めて舌打ちをした。水溜りを蹴り上げて、水滴は紫陽花の茂みに吸い込まれた。
墓石の前で手を合わせる時間が減るに連れ、夢乃は小傘と会話する時間が長くなっていた。彼女は死んだ婚約者の話であったり自分の家族の話、或いは家の稼業の手伝いの愚痴などを一頻り語って帰っていく。
どれも他愛もない物ではあったが、そうして小傘との会話が増えていくと、彼女に纏わりついていた哀しい影も少しずつ和らいでいくようであった。
一方の小傘は夢乃との会話の中で彼女を驚かせようと画策していたが、これは今のところ上手くいっていなかった。
「赤と言えば、私の家の近くにも紫陽花が咲いているのですよ。此処とは違う赤い花を付けていますが」
夢乃は墓石の前の紫陽花の花に触れた。青い花を付けていた。
「ふうん。場所によっては花の色が違うのか。じゃあこれはどうだ。紫陽花の色が赤いのはその下に人間の死体が埋まっているからなんだぞ」
「……小傘さん。此処の紫陽花の前にあるのは墓石なのですが」
墓地の紫陽花の茂みの下には、夢乃の婚約者の遺体が埋葬されていた。
「花の色が違うのは土が違うからです。紫陽花は土壌の酸性が強ければ青い花を。逆にアルカリ性が強ければ赤い花を付けます」
「酸性? アルカリ性?」
「私も詳しくは知りませんが土の持つ性質の種類だそうです。此処の紫陽花の花が青いのは土の酸性が強いからでしょう」
植物と言うのは水分と一緒に地中の栄養素を吸収して育つ。故に土の性質、状態は植物に直に影響するものであり、そうでなければ誰も土を耕したりはしないだろう。
「酸の濃度が非常に強い物質は人間の身体も溶かし、時間を掛ければ金属さえも溶かしてしまうそうですよ」
「へえ! それはすごいな」
小傘は思わず声に出してしまった。驚かせようという相手に対してこれである。
「夢乃は詳しいな。誰に教わったんだ?」
「私の……幼馴染です。彼は里で開業医を営んで居まして。名医と名高い竹林のお医者様の元で修業もなさったんですよ」
夢乃の声質が少し変わった。それは過ぎ去りし過去への憧憬か、或いはまた別の感傷か。
「彼にはあの人の、私の婚約者の手術をして頂きました。彼はお金を出せない私たちの為に随分骨を折って下さいました」
足元の墓石に、小さな蜥蜴がひょろりと登った。蜥蜴に尻尾は無いようだ。きっと身を護る為に置き去りにしてきたのだろう。誰だって自分の為に何かを切り捨てている。
爬虫類が苦手だという夢乃は、蜥蜴の存在にまだ気付かない。
「彼には感謝しても感謝しきれません」
夢乃は遠くの山々を見ていた。夏を前に新葉に生え変わった落葉樹が、鮮やかに山々を彩っている。まるで山全体が若返ったようですらある。山は時季の巡りに応じて絶えず姿を変えていく。
夢乃は結局、墓石の蜥蜴には最後まで気付かなかった。
また別のある日のことだ。
その日もまた、梅雨に珍しい青天の臨める日だった。本格的な夏に向けて気温は着々と上昇していたが、今日の夢乃はいつかも着ていた赤い着物姿だった。暑くないのかと尋ねれば、彼女は少しだけはにかんで、自分の幼馴染に綺麗な赤だと褒められたのだと嬉しそうに話した。
確か良い色だなと小傘は言った。一着用意致しましょうかと訊かれて、どうせすぐに汚れるからと答え、それよりそれが振袖という奴かと訊いて笑われた。
最近ではこのような会話が自然と為されていた。夢乃が墓石の前に屈む時間もほんの僅かなものになっており、既に墓参りより小傘との会話の方が主体になっていた。執拗に纏わりついていた暗い影も払われ、笑顔を見せることも多くなっている。よく会話に出されるのは彼女の家の商売の事だった。
夢乃の家はこの夏に向けて新たな商売を展開しようと計画を立てていた。発案者は彼女の幼馴染で、彼は永遠亭での修業時代に得た知識で食糧の新たな保管方法を提案していた。外の世界では御馴染の缶詰である。缶に詰めた生鮮食品は夏の暑さにも痛みにくく保管も容易であることから、その技術を永遠亭で習得させて貰っていたのだ。
永遠亭もまた夏場は食中毒患者が多く出るという経験から彼の計画に賛同し、必要な資材や技術を惜しみなく提供した。加えて商家と協力すればその流通網から広く浸透出来ると入れ知恵し、商家の方も物珍しさと利便性に商品価値を見出し、計画は現在とんとん拍子で進んでいた。
「私もこの前、試作品だという缶詰を見せてもらいました。成る程、便利なものだと思いました」
幼馴染の男は一番に見せたかったのだと試作品の缶を夢乃の元へ持って来た。まだ何処にも流通していない代物で、彼女も物珍しげにそれを眺めた。
綺麗なものですねと言えば、男は子供の様に喜んだ。
「ふうん。缶詰ねえ」
小傘は柳の枝にぶら下がって話を聞いていた。力を籠めれば枝が垂れ下がってぶらりぶらりと動くのが愉快だった。
「きっとそいつは缶詰に人肉を詰めているんだ。妖怪が化けているに違いない」
「……小傘さん。缶の中に入れるのは野菜か果物ですよ。缶は彼が作っていますが、中に入れる物はうちの家が用意しています」
「じゃあ缶に毒を入れるんだ。そしたら中の食べ物にも毒がついて……」
「すぐに犯人として捕らえられるでしょうね。あの人はそんな自暴自棄な人ではありませんし、人を傷付けて喜ぶような人でもありません」
夢乃は気を悪くした風でもなく穏やかに首を振った。直ぐに否定された小傘は唇を尖らせて柳の木から飛び降りる。
その時近くの水溜りに足が着き、水滴が飛沫となって紫陽花の葉に降りかかった。青々とした紫陽花の葉が水滴を湛えて輝いていた。
本当に人を驚かせるのが好きなんですね、夢乃はまるで母親のような目で微笑んだ。
「私は小傘さんのそういう冗談好きですよ」
「そう思っているのなら驚いてくれないと困る。笑ってばかりじゃなくて」
これは失礼しましたと夢乃はおどけた。顔は笑みを浮かべたままだ。彼女はよく笑うようになった。
楽しそうだなと呆れたように言えば、当たり前じゃないですかとまた笑った。
「私には、小傘さんが居て下さいますから」
その時、紫陽花に留まっていた水滴が葉の端から零れ落ちた。
今、小傘に見せた夢乃の表情は、その水滴の一瞬の煌めきのように輝いて見えた。或いは夏の陽射しと揺らめく水蒸気が見せる陽炎のように、手の届かない幻想的な光を持っているように見えた。
彼女が持っていた濃い影は完全に払拭されていた。まるで初めから存在しなかったように綺麗に霧散していた。代わりの持っていたのは、この温かくも眩い、はにかむような綻びだった。
小傘はすっと目を細めた。
夢乃は身に着けた赤の着物に手を当てた。
「それに、あの人も……」
夢乃がまた「あの人」と言った。恍惚とする彼女の瞳に、あの小さな墓石は写っていなかった。
夢乃はそれからも、幼馴染が綺麗だと言った赤い着物を身に着けるようになった。小傘に話すのは幼馴染の話が多くなり、時には墓石に祈ることを忘れる日もあった。小傘が指摘してやると思い出して手を合わせたが、すぐに立ち上がって、どうにも心が籠っているようには思えなかった。
あの人は誠実で優しい人、決断力や実行力に優れた逞しい人、周りからの評判のいい将来有望な人、彼女はそう言って彼を褒め称えた。そんな時の彼女は本当に幸せそうな顔をしていて、小傘が何を言っても何をやってもまるで動じることが無かった。
小傘の悪戯で頭から水を被っても涼しくなったと澄まして言い、苦手な蜥蜴が背中に貼り付いていても最後まで気付くことが無かった。
今夢乃の中に居るのは幼馴染の彼だけのようだ。小傘の前に立っているのに、その眼は小傘を写していない。小傘の前で話しているのに、声は小傘に向かっていない。だから驚かない。だから空腹が収まらない。
彼女はいつも赤い着物を着て、幸せそうに笑っていた。直ぐに会話に上るのは幼馴染の事だけになった。そして幼馴染の話が増えるに連れ、彼女の足は墓地から遠避かっていった。
次第に墓地に居る時間が短くなった。まる一日来ない日が続くようになった。そうしてとうとう彼女は墓地に来なくなった。
小傘は紫陽花の茂みの中でずっと待ち惚けを食らっていた。いつまで経ってもやって来ないから、次の日の朝まで眠ってしまうこともあった。目を開けていても来ないから、眠っていた方がましだと思うようになった。
ある日、小傘が目を覚ますと墓地は夕刻の影に覆われていた。人間の姿はひとつも無かった。枝垂柳だけがさわさわ揺れていた。ずっと眠っていた身体を伸ばせば、ぼきりぼきりと骨が軋んだ。音を聞いているのは小傘だけだった。
顔を上げると西の空が真っ赤に燃えていた。小傘はその赤に夢乃の着ていた着物を思い出した。驚きなどひとつもない澄ました声を思い出した。いつも話していた幼馴染の男を思い出した。だけどどうしてだか、彼女の顔だけがはっきり思い出せなかった。
枝垂柳の上では烏が喧しく鳴いていた。紫陽花の下の墓石に蜥蜴がひょろりと登った。雨の降る日が少なくなった。梅雨はとうの昔に終わっていた。
四、
夜の墓地には温い風が吹いていた。枝垂柳が囁くようにさわさわと鳴り、石畳の上を滑るように枯れ葉が飛んだ。厚い雲で月は見えない。大きな闇に閉じ込められたかのような夜だった。
紫陽花の茂みの近くで眠っていた小傘は、風の音で目を覚ました。
目の前にあるのは裏寂れたいつもの墓地だった。小傘は喉が渇いていた。だけど手水舎まで水を汲みに行くのはどうにも面倒で、代わりに紫陽花の葉についた水滴を一口舐めた。葉っぱの味が染み込んでいるみたいで、何となく不味かった。
ぺっぺっと吐き出して、持っていた唐傘で紫陽花の茂みをやけくそに叩いた。水滴がざっと落ちて、花も幾つか落ちてしまった。あんなに青かった紫陽花の花は、何時の間にか色が抜けて白っぽくなっていた。
暫くすると石畳を叩く音が聞こえてきた。人間の足音であることはすぐに解った。だけどどうやら夢乃の足音とは違うようで、小傘は近づいてくる人物が誰なのか測りかねていた。
やがて現れたのは男だった。大柄で、丸っぽい顔をしていた。
「お前がこの墓地に棲み付いている妖怪か」
男が低い声で言った。その物言いが威圧的に感じられて、小傘は「お前は誰だ」と直ぐに訊き返した。男は夢乃を知っているなと言った。男は彼女の幼馴染だった。
「お前に頼みがあって来た」
「人間が妖怪に頼み事か」
随分と酔狂な奴だなと小傘は笑ってやった。妖怪は頼み事には酷く不向きな存在だ。男は嫌そうな顔を隠しもせずに「夢乃のことだ」と続けた。
小傘は首を傾げた。最近夢乃は墓地には来なくなっていた。小傘は男に夢乃の近況を尋ねた。
男は顔を赤くした。「彼女は近く祝言を上げることになっている」と早口で言った。そうして一度小傘から視線を外し、
「相手は私だ」
と言った。
幼馴染の男は少し前から夢乃と結婚を前提とした正式な付き合いを始めていた。彼は幼少期の頃よりずっと夢乃に憧れており、彼女が前の婚約者を亡くした時も彼女の側でずっと支え続けた。彼女もまた気心知れた馴染みの仲であると同時に、前の婚約者が病に侵された時にも力を尽くしてくれた彼に深く感謝していた。
二人は互いに惹かれ合い、先頃ついに婚約を交わす。夢乃の両親もこれに賛同したという。彼の事は昔からよく知っていたし、現在は互いに商売の協力者でもある。夢乃がまたふらふらと気を変えない内にと、祝言の日取りまでさっさと決めてしまった。
「で、まさか披露宴に来てくれという訳じゃないだろうな」
小傘は男の話を聞きながら、初めに言っていた頼み事について疑問を持った。「お前が祝ってくれるというのなら拒みはしない」と男は少し冗談っぽく言った。それは間違いなく虚勢だった。
男は先程から紫陽花の方をずっと向いている。紫陽花の下には小さな墓石があった。墓は夢乃の前の婚約者のものだった。
「夢乃にはもう此処に来ないように言って欲しいのだ」
男はふっと息を吐いた。力なく首を振って、もう一度息を吐いた。
「彼女はあの男を慕っていた。あの男が死んだ時も、彼女は追いかけて自殺でもしそうな勢いだった」
「でも今はもう忘れているんじゃないか。ここ最近は墓参りにも来ていない」
「その通りだろう。だがまた此処に来てしまえば……」
男は三度息を吐き、今度は小傘の方も息を吐いた。男が何を恐れているか解ってしまった。
「つまりお前は、夢乃をまたあの男に盗られるのではないかと思っているんだな」
男は暫く沈黙した。やがて小さな声で「そうだ」と言った。
彼は幼い子供時代からずっと夢乃に恋をしていた。家が近く、また歳もそれ程離れていなかったので、一緒に寺子屋に通うことが多かった。可憐な少女だと思った。いつもにこにこと笑っており、同世代の子供たちには無い気品のようなものが既に備わっていた。
しかし同時に遠い存在だとも思っていた。彼女は金持ちのお嬢様だった。寺子屋でも人気者で、周りには多くの友達が集まっていた。品行方正で勉強もよくでき、教師陣の覚えも良い。小さな農家の息子で、運動も勉強も得意ではなかった彼は、寺子屋の中で彼女に声を掛けることも出来なかった、
医師を目指したのは彼女に少しでも近付きたいからだった。彼はよく勉強し、永遠亭で修業もして、里の中で診療所を開く事も出来た。里人達からも信頼され、頼られる人間になれた。彼は夢乃と釣り合うだけの男になれたと自信を持った。
だけどその頃には既に、彼女の心の中には別の男が棲み付いていた。
「もし夢乃の説得に成功したとしても、私には何の利も無いぞ。折角の獲物なのに」
男の事情を聞きつつも、小傘は冷たく突き放した。妖怪を動かすには、同情では不足だった。
「お前が空腹なのは知っている。手伝うと云うのならそれなりの礼はする積りだ」
そう言って男は背負っていた風呂敷を地面に下ろした。中から銀色の筒状の物を取り出す。それは缶詰で、夢乃の家と協力して作り上げたものだった。今日漸く完成したのだと彼は誇らしげに言った。
「中には里で獲れた果物が入っている。取り敢えず一缶だけお前に渡す。もし説得が上手くいったら、成功報酬としてこの夏食うに困らないくらい持ってきてやる」
小傘は男から缶を受け取った。それは硬い円柱で、両手で押し潰そうとしても上手くいかなかった。
仕方が無く小傘は缶の側面に口を当てた。何をやってるんだと男が直ぐに止めた。
「金属の缶だぞ。歯が立つ訳ないだろう」
よく解っていない風の小傘から缶を取り上げ、男は持ってきていた缶切りを使って缶の口を開けた。この缶切りも一緒に売る予定なのだと言って缶を小傘に返した。
缶の中には桃が入っていた。小傘は指を突っ込んで一切れ取り出した。口に入れると蕩けるような甘みが広がった。
「柔らかいな」
「缶はそういう風に保存が利くんだ。それより頼みは引き受けてくれるのか」
「まあ考えておくよ」
小傘は曖昧に答えた。そもそも夢乃がまた此処に来るという確証も無いのだ。全てはこの幼馴染の男の心配性で、婚礼を間近に控えたが故の要らぬ不安なのだろう。
小傘は人間の不思議に笑った。
「面倒な生き物だな。お前たちは」
「ふん、放っておけ」
男はばつの悪そうに吐き棄てた。その姿は図星を言い当てられた子供のようだった。或いは初めに威圧的に見えたのも、彼の中で蟠る言い表せぬ不安のせいだったのかも知れない。
男とはそれで別れた。彼は行きより幾らか軽い足音を響かせて帰っていった。小傘は缶の中の桃を凡て平らげ、暇潰しに缶をへこませたりして遊んだ。金属、というのは中々に面白いものだなと思っていた。
夢乃が墓地を訪れたのは、それから数刻も経たぬ内の事だった。
彼女はやはり赤い着物を着てやって来た。初めは重そうな足取りだった。暫く訪ねなかった事に後ろめたさを感じているのかも知れない。
しかし紫陽花の茂みの前に小傘の姿を認めると、漸く観念したのか苦笑いを浮かべて歩調を速めた。
「御無沙汰しておりました」
小傘は大きく頷いて同意を示す。まったくだ、と偉そうに言った。墓石はすっかり干乾びてしまったぞと、冗談を言った。夢乃は墓石には見向きもしなかった。
「大事な話があります」
随分と硬い口調だと小傘は思った。
「実は私、近々祝言を挙げることになりまして――」
夢乃が語ったのは先程幼馴染から聞いた話とほぼ同じものだった。前の婚約者を亡くして気落ちしていた所を慰められたこと。次第に惹かれ合ったこと。両親も今度の婚約には賛意を示したこと。夢乃は話している最中も心は幼馴染の男に向けられているようで、小傘の顔などまるで見ないまま、長々と熱っぽく馴れ初めを語った。
何時の間にか風が止んでいた。雲間から青い月の光が差し込んでいた。小傘がこれ見よがしに欠伸をし始めた頃、彼女は「だから私たちは夫婦になることを決めたのです」と話を締め括った。
「それで私にどうしろと言うんだ」
少々飽き飽きして咎めるような口調になってしまった。夢乃は一瞬怯えたような顔になって「申し訳ありません」と小さく頭を下げた。
夢乃は赤い着物の袖口をぎゅっと握った。次に顔を上げた時にはいつか見たような哀しげな表情を浮かべていた。そうして震えるような口調で、
「私が此処に来ることはもうありません」
と言った。
やっぱりなと小傘は内心思った。
曰く、もう祝言の日も決まったのだからと両親に散々説得されたのだという。幼馴染の方も口には出さないが余り墓地に行って欲しくないという空気を感じる。忙しくて来られない日が続いていたことだし、そろそろ区切りを付けようと思ったのだそうだ。
小傘にはそんな話は方便にしか聞こえなかった。死んだ男よりもっといい男を見つけたという、それだけ事に過ぎないのだと思う。健全な事だ。この世は死者の為でなく今を生きる者の為にあるのだから。
「今まで小傘さんにはお世話になりましたし、今日は最後のご挨拶にと思って参りました」
夢乃は深く頭を下げた。雲間から伸びる月の光が彼女の後ろ頭を照らしていた。まるで光に裁かれているような幻覚を持った。
また風が吹き始め、枝垂柳がさわさわと鳴り始めた。墓地全体が呼吸を始めたかのように俄かに活気付いた。紫陽花の茂みからは一匹の蜥蜴が現れた。
かあ、と烏が何処かで鳴いていた。
「じゃあご祝儀をあげないといけないな」
現れた蜥蜴がゆっくりと墓石に登った。
さわさわと枝垂柳が唸っている。
「ずっと考えていたんだ。この男が何故死んだのかを」
小傘は蜥蜴に占拠された小さな墓石に視線を向けた。釣られるように夢乃のその方を向く。前の婚約者の墓石だった。
彼は病で死んだと夢乃は言った。幼馴染が手術をし、だが術後暫くして容態が急変したのだと彼女は語った。
「知っているか。此処の紫陽花は去年は赤い花を付けていたんだ」
「そうだったんですか?」
「ああ。だけど今年に限って青い花を付けた。何故だと思う?」
恐らく土壌の酸性が強くなったからでしょう、夢乃はそう答えた。いつか話した花の色と土の性質についての話をもう一度話した。小傘はそうだと頷いた。それがどうしたと言うのですかと夢乃は尋ねた。
夢乃は小傘が何の話をしようとしているのか解らなかった。だが何故か心がざわざわと騒いで落ち着かなかった。
かあかあ。かあかあ。
烏が枝垂柳の上から小傘たちを見ている。
「今年と去年とでは土の性質が変わった。だけど、私はずっと此の場所にいるけど土が変わるような何かは一度も無かった。ただ一つを除いて」
「……あの人の遺体の事を言っているのでしょうか。彼の遺体は今年の梅雨入り前に埋められました」
「ああ。それだけが今年と去年とで大きく違う。ところで、酸の強い物質は花の色が変わる以外で、他にどういった特徴を持っているんだっけ」
小傘は以前、酸の性質について夢乃から聞いていた。夢乃は強い酸性の物質は金属をも溶かしてしまうと言っていた。そして更に人間の身体をも溶かしてしまうとも言っていた。
夢乃はごくりと息を呑んだ。その男は病で死んだんじゃない、小傘は断定するように言った。
「そいつは殺されたんだ。酸で身体を溶かされてな」
夢乃の表情が変わった。今まで見たこともない程口を荒げた。
「待ってください、そんなのはおかしいです! 彼の遺体に溶かされたような痕はありませんでした。それに術後彼の側にはずっと私が付いていました。誰かが近づくことも出来ません!」
「酸は既に小さな容器に入れられて体内に入っていたんだ。術後暫くしてそれが漏れ出し、内から身体の器官を壊され死に至った。ところで私は、強酸性の薬物と時限装置となる容器と、その両方を用意できる人物を知っている」
実はこの前墓を暴いて遺体を調べてみたんだ――、小傘はすっと目を細めた。
夢乃の幼馴染は医者だった。永遠亭とも繋がりがあり、色んな薬物を用意出来た。夢乃の婚約者の手術を担当したのも彼であり、彼は治療の為に婚約者の腹にメスを入れた。術後は暫く安定していたという。
時を同じくして、幼馴染は新しい商売を始めていた。それは缶詰だった。缶は金属で出来ていた。夢乃の話では、強い酸は金属を溶かすことも出来るという。
突風のような強い風が吹き始めた。まるで怒りを表すかのように枝垂柳が大きくしなり、ざわざわと大きな音を立てて騒めき始めた。
小傘はポケットの中に手を入れた。月の光が二人を照らし出していた。かあ、と烏が鳴いた。
墓石の上の蜥蜴はじっとしていて動かない。彼の目の前を小さな虫が飛び回っていた。虫は強風に流されたようで、地表近くまで落ちてくる。
虫の動きが鈍い。蜥蜴はその虫に狙いを定め、飛び掛かるための準備をする。
その上から舞い降りた烏が、隙だらけの蜥蜴を食い千切った。
「そしたら腹の中からこんな物が出てきたんだけど……」
小傘はポケットの中の物を取り出した。先ほど幼馴染の男から貰った空き缶だった。
夢乃は両目を見開いて驚いた。
五、
翌日。夢乃はまた小傘に会いに墓地に来た。身に着けているのは赤い着物ではない。久しぶりに見る墨を塗ったような黒の喪服だった。
彼女はすぐに紫陽花の方へ向かい、その下にある小石に手を合わせた。瞑想の時間は今までで一番長かった。
近くにいた小傘に気付くと、夢乃は立ち上がって頭を下げた。有り難う御座います、と彼女は言った。祝言は取り止めにしました、と苦しそうに続けた。もう一度墓石の方を向いて、もう絶対に彼を裏切ったりしません、と言った。
夢乃は小傘の話を信じたようだ。家の者達には猛反発されながらも自分の意思を貫いた。半ば勘当も同然に家を飛び出したのだという。
「私はいずれ全てを白日の下に晒す積りです。今はまだ誰も信じてはくれませんが、いつか私の手であの人の無念を晴らすんです」
「ふうん。そうか」
「このままではあの人が余りに哀れです。彼には必ず罪を償ってもらいます」
小傘さんも協力してくれますよね、と夢乃は当然のように言った。気が向いたらな、と適当に返事をしながら、小傘は墓地の端で空き缶と戯れる烏を見ていた。
光ものに目が無い烏は、今は食糧の蜥蜴より空き缶の方にご執心のようだった。彼は小傘が飽きて捨てたそれを大切な宝物のように持って飛び去った。塵が片付いて墓地は少し綺麗になった。
「それでは小傘さん。私はそろそろ……」
長い間小傘の隣で喋っていた夢乃は、そう謝辞を口にして墓地を去っていった。暫くは両親の元に帰らず、友達の家で寝泊まりをするのだという。その友達というのも夢乃に大層呆れていたらしいので、いつまで続くかは分からない。小傘は煩いのが居なくなって一息吐いた。
温い、舐めるような風が吹いている。枝垂柳が風に靡いてさらさらと音を立て、小傘の顔に重なっていた柳の影が震えるように揺らめいた。空は青い。穏やかな夏の午後。
陽気に惹かれたのか紫陽花の茂みから太った蜥蜴が現れた。天敵の烏が居ないから随分気を抜いているようだ。蜥蜴はかなりの老体らしい。尻尾は既に切り離されており、気怠そうにのそのそと歩いている。
ここまで大きくなるには切り捨てなければならない物も多かったはずだ。蜥蜴だって、烏だってそうだ。食い繋いでいく為には、誰かを何かを犠牲にしている。
小傘は気紛れにその蜥蜴を踏み潰した。
来た。待ちに待った人物の登場である。
石畳を叩く足音は真っ直ぐ紫陽花の茂みに向かっていた。小傘は唐傘をくるりと回し、泰然とその人物の到着を待った。
やがて姿が見えてくる。その人は男だった。その人は大粒の汗を額に浮かべていた。その人は焦っているようだった。その人は夢乃の幼馴染だった。
小傘にとって夢乃はもう興味の対象ではなくなっていた。彼女がこの先どうなろうか等知ったことではないし、自分の吐いた嘘を見抜く日が来たとしても関係ない事と思っていた。
そもそも稚拙な嘘だった。紫陽花が植えられたのは去年で、花を付けたのは今年が初めてだった。小傘に去年咲いた紫陽花の花の色など解るはずもないのだ。
無論、婚約者の死因についてもそうだ。余りに情報が少なすぎて真実など解る訳がない。そして小傘は真実などにも興味は無かった。
今、小傘の興味は近づいてくる男にある。
昨晩、彼が報酬として寄こした桃の缶詰は確かに美味いものだった。缶の中の桃は新鮮そのものだったし、長期の保存も効くという。金属の缶など珍しいから空き缶にも使い道はあるだろう。上手くすればいい商売になるに違いない。だが、小傘の腹はそれでは膨れないのだ。
昨夜の全てを話せば彼はどんな顔をするだろうか――、小傘が一番興味をもっているのはそこだった。
彼は表情を変えるだろう。動揺して奇声を発するかもしれない。その驚きはどんな味がするだろうか。
幼馴染の男が小傘の前に立った。その顔には絶望や混乱、理不尽な事態への怒りが見て取れる。
小傘は男と目が合った。赤く充血して不健康そうな目だった。眠れなかったか、或いは一晩中泣き腫らしたのかも知れない。
何故、と男が言った。お前が何か言ったのか、と震える声で言った。
小傘は満足そうに頷くと、揚々と口を開いた。
言葉は凄まじい凶器になる
不倶戴天な敵を友とすれば人生を喰われる
友だと思っているやつこそ不倶戴天な敵かも知れない
一見ジャンク菓子のような毒にも薬にもならないようなやつこそ最も恐ろしい敵なのかも知れない
伏線がビシリと決まるのは、読んでいる方も気持ちの良いものですね。面白かったです。
それと対比するは譲ることなく変わらないモノ。生命。妖怪。小傘の腹具合。
美しく設計されてます。あなた言葉を計算する書き方好きよね。
ただ、この後に巫女やら命蓮寺の皆からお仕置きされてしまいそうです
しっかりと妖怪やってる小傘は珍しいですね
絶対サイコパスだわ〜
一番近づいちゃいけたい人種だわ〜怖いわ〜驚いたわ〜
追い詰められた妖怪(サイコパス)は酷いことをするしいくらでも薄情になる
妖怪には徹底的に近づかないか徹底的にやっつけるか適当に餌をやって適当な距離感を維持して決して心を許すなということですかな
て俺こんなところにいるわ〜喰われるわ〜怖いわ〜