『深夜の空に二体の人影? 都内で目撃情報相次ぐ』
『巫女対赤マント情報まとめ(随時更新中)』
『【画像あり】空飛ぶ巫女VSマントマンはハリウッドの撮影だった?』
『#空飛ぶ巫女さん がトレンドワード急浮上。タイムラインに巫女イラストが満ちる』
『【悲報】プロジェクションマッピングに踊らされるお前らwwwwww』
タブレットの画面をスワイプするたびに零れ落ちて来るニュースソースに頬が緩む。
真実を追い求めることを端から放棄した軽薄短小な論調。ただ浮かれ踊るだけの観衆。常識に囚われた当たり障りの無い分析。無責任な流言飛語に口汚く同調し、時折未知の領域へ踏み出す者を異端と指さし頭を押さえ付ける自称常識人たち……。
やっぱり、この世界の人間には永遠にたどり着けない領域だったわね。
シニカルな笑みを浮かべながら端末をスリープさせ、宇佐見菫子はベッドに身を投げ出した。
幻想世界の存在に気付き行動を起こした数ヶ月が遥か昔のことに思えるほど、あちら側へ足を踏み入れてからはまさしく怒涛の如き数日であった。様々な危機に直面はしたが、それもまた過日となれば良い思い出であり胸踊る体験。
なのに現実はといえば、連綿と語り継がれた妖怪やオカルトの真相を蔑ろにし、人が空を飛び怪異を操る姿を目の当たりにしても、未だ己を疑い同調から逃れられずにいる。
だが、それでいい。私だけが気付き、私だけが実行に移したからこそ体験し得た世界の不思議。今更これ以上の理解者など現れるはずもあるまい。
だからと言って、軽々しく外へ吹聴しようなんて決して思わない。その断片を伝えたところで、生まれ持った超能力と同様、理解を前提に受け入れようなどと言う輩はこの世界には存在し得ないのだ。
「さて、JST 21:22:40 UTC +9:00:00っと……寝るには早いけどまあいいかな」
布団の上に放ったままのスマートフォンを取り上げアラームをセットすると、部屋の明かりを落とす。靴下をもどかしげに脱ぎ捨て、それ以上の着替えもそこそこに布団を被り目を閉じる。
このまま眠りに落ちれば、次に見えるのは文字通り夢見ていた世界。
そう、これは世の中の謎を秘して封じる、秘封倶楽部の記念すべき第一歩。
そして、これからの足跡は低俗で保守的な世界ではなく、幻想の向こうにのみ残すのだ。
高鳴る鼓動を抑えるように呼吸を整えていた表情はやがてあどけない寝顔へと変わり、意識は現実から束の間の楽園へと飛翔した。
§
「だから言ったじゃない、派手に動けば必ず向こうの人目に触れるって!」
賽銭箱を叩き割らん勢いの張り手一閃、茨木華扇は文字通り目を三角に吊り上げて声を荒げる。思わず身も竦む人外の怒気に、早朝の空気も清々しい博麗神社の境内から寝起きの雀が驚いて一斉に飛び立った。
「いいでしょ、写真に撮られるくらい。こっちでも嫌ってくらい撮られてるんだし」
此方柳に風か馬の耳に念仏か、今や外界で噂の空飛ぶ巫女さんこと博麗霊夢は片眉もしかめず暢気に竹箒で石畳を掃いている。
「あれ……なんか言わない方が良かった?」
深夜の幻想郷巡りから神社へと戻って来た菫子を待ち構えていた華扇から、問われるまま外の世界でのオカルトボール騒動の反応を伝えたところこの剣幕である。
華扇が小煩く言ってくるのはいずれ予想は付いていたが、霊夢もちょっとした有名人になったし、イラストコミュニティで美少女画(妄想による味付けは濃いが)がひと盛り上がりしたし喜ぶだろうと思いきや、なんとも薄い反応もまた拍子抜けだ。
「写真に撮られるくらい目立ったってだけで十分大事よ! わざわざ弾幕を撃ち合わなくたって、この子を誰にも悟られず消す手段ならいくらでもあったはずでしょう!?」
「ひ、ひどいっ……華扇ちゃんの鬼!」
「酷くありませんし鬼でもありませんし年長者に向かってちゃん付けとは何事ですか! そも諸悪の根源である貴女が、悪びれもせず顔を出している事自体も問題なのに!」
「しょうがないじゃない、寝たらこっち来ちゃうんだもん」
矛先とばかりに突き付けた指の先で、やはり反省なぞ微塵も見せず唇を尖らせる菫子の態度に怒気は沸点を超え尚上昇する。
「だったら大人しく身を隠すなりするものなの! それを我が物顔で方々ほっつき歩くなんて言語道断よ!」
「浮いてるから歩いてませーん」
「いちいち揚げ足を……そもそも自分がどれだけ大それたことをしでかしたか解ってるの!?」
「解ってるのに私の事を騙そうとした方も悪いと思いまーす」
「ああもう、最近の子供は口ばっかり達者なんだから! 大体貴女はね、何もかもの行動が軽……」
「はーいはい、そこまで」
次第に間の抜けてくる応酬を聴くに堪えず箒の手を止めると、霊夢はいよいようんざりした顔で舌戦を遮った。
「あのねぇ、朝っぱらから人んちで漫才しないでくれる? 掃除の邪魔なんだけど」
「これのどこが漫才に見えるの、説教よ説教! まさか貴女まで外の世界に毒されたんじゃないでしょうね?」
「毒されてないと思うわよ。少なくとも異変が終わったのに、外の情報をほじくり返して目くじら立てない程度には」
何ともあからさまな皮肉だが、説教より感情が先立ってしまったことを指されては返す言葉もない。華扇は怒りを鎮めるように大きな溜息を挟むと、目下の問題へと向き直る。
「それは、そうだけど……でも、まだこの問題は終わった訳じゃないでしょう」
「あ、オカルトボールに偽物が混じってたって話? そう言えばアレって結局どうなったの?」
「部外者である貴女が知る必要はありません」
「へー、さっき諸悪の根源とか言っときながら今度は部外者なんだ。ネンチョーシャはずるいなー」
黙殺はしたものの、尚口の減らない小娘の言い草に青筋を浮かべる横顔へ僅か同情の色を浮かべつつ、霊夢は見渡す山々の向こうへと視線を送った。
「それについては専門家に相談中よ。私より危機感覚えてるみたいだし、遅かれ早かれ次の仕事にはなりそうね」
「その台詞かっこいい……さっすが幻想郷の主人公! よっ、楽園の巫女!」
無邪気に目を輝かせ軽薄に調子を乗せると、菫子は華扇を押し退けるようにして霊夢へと迫る。
「ねえねえねえ、そんでその専門家って人は月のオカルトに詳しいの? むしろルナリアンとか? あっ、一寸法師がいるってことは、ひょっとしてかぐや姫? それともアポロ陰謀論で闇に葬られた……」
「いい加減になさいっ、この大ばかものーーっ!」
折角繕った苦労や虚しく、再び堪忍袋の緒が千切れ飛ばんばかりの怒号が境内に響き渡る。霊夢は問いに構う気力もなく、言わんこっちゃないと溜息しいしい落ち葉をまとめてさっさと裏手へと引っ込んだ。
「そうやって興味とあらば浅慮に首を突っ込むことで、どれだけ周囲が迷惑を被るか解ってるの貴女!? 火種は燃え広がる前に消さなければいけないのに、そうやって軽々しく煽るような真似をするから些細な事でも始末に……」
「ちょ、ちょっと待って……それ、長くなる?」
「当たり前でしょう、何を今更! この期に及んで小言程度で済むと思ってるの!?」
「うーん、済まないとは思うけど」
すわ火に油の様相ではあったが、菫子はまるで余裕の表情で徐々に朝の空気へ溶けてゆく自分の身体を指さした。
「あはは、ごめん。そろそろ起きそうだから手短にお願い」
「ぐ、ぐぬぬ……もういいから、さっさと起きて学校に行って来なさーいっ!」
憤怒すれど端正な華扇の怒り顔と、実体を伴っていたらただでは済まぬであろう拳骨が空を切るのを最後に、意識は穏やかに上昇し……
§
「んーっ……ふふっ、今日も面白かったなぁ」
大きく伸びを打ちながら枕元を探り、スマートフォンのアラームを切る。
時刻はきっかり午前七時半。たっぷり十時間睡眠で体調はすこぶる宜しく、夢の中でも存分に幻想を堪能し心身ともにこの上ない充足感だ。
「そんで、今日も待ち受けてるのがしょもない現実っていうねぇ……」
なんだか今日って概念がおかしくなってきそう。吹き出しつつキッチンへと向かうと、マグ一杯の牛乳とシリアルバーで朝食を取りつつ、朝のルーティンであるネットの巡回を始める。
オカルト騒動のニュースは早くも勢いを失い、タブレットのニュースリーダにはまた下世話な個人攻撃や、社会的無気力を思想の左右で煽るような無責任なトピックがサブジェクトの一覧を埋め始めていた。
「ふん、こうやって理解が行き詰まったらすぐ放り出して、噛み付きやすそうな餌に食いつくのよね」
斜に独り言ちるが、別段怒りも拍子抜けした感情も起きない、こんなもの想定の範囲内。世間は彼らの常識と普通とやらを頑なに守りながら、日々を無駄に費やしていけばいいのだ。真実は自分の中にだけあればいいこと……
そう鼻で笑い飛ばそうとした時、何か違和感のようなものが引っ掛かった。
別段、眺めていたニュースにおかしなものがあった訳ではない。
件の情報や分析だって、てんで的外れな方向へと向かっている。
今まで澱みなく流れていた場所に、何かが引っ掛かっているような。
否、それは今までそこにあったのに、見落としていたような。
「……まあ、いっか。色々変わったことは確かだし、もう焦ることもないし」
疑念を振り落とすように声に出すと、シリアルバーの包みを屑籠に放り捨てる。
ノーコンな放物線を描いて包みは的を外れたが、一人きりの台所に咎める者はいない。幼い頃から放任と言うにも疎遠過ぎる家庭環境ではあったが、今は自分の頭脳と口先で同年代より先に勝ち取った、何ら気後れのない自分本位の生活だ。
けれど、さっきまで顔を付き合わせていた生真面目な仙人の声が、ふと頭を過る。
「『さっさと起きて学校に行って来なさーい』か……初めて言われたなぁ、あんな漫画みたいな台詞」
少し面倒そうにしながらも屑籠の周りに散らばっていたゴミと共に包みを捨てると、来る憂鬱な世界をせめて快適に過ごすため、着のままだった制服を脱ぎ捨て浴室へと向かった。
§
「しかし、こっちはそんなに楽しいもんかのう」
呆れか皮肉か感心か、二ッ岩マミゾウは猪口をぐいと干して煙管を吸い付ける。
夢見る間の幻想旅行を始めて早十日は数えただろうか。いつものように博麗神社から幻想郷巡りを始めたところ人里で偶然鉢合わせた化け狸に捕まり、菫子は小料理屋の離れで晩酌に付き合わされていた。
「当たり前じゃない、こんなオカルトの巣窟がつまらない理由がないわ。まあ、真にその価値が解るのは私ぐらいなものでしょうけどね」
「ふむん、見る景色はそっちの田舎と変わらぬと思うが、まあそんなもんかの。妖怪変化も怪奇現象も、現代っ子はふぁんたじぃやらえすえふやらで慣らされておるからかのう」
当然酒も煙草も未経験ではあるし、むしろ能力と健康を減衰させるだけの毒物など一生近付くこともないと見下してはいたが、無縁故の興味も手伝い食客よろしく上座に居座り弁舌を振るっていた。
「ところで、そっちで出回っておる空飛ぶ巫女さんと赤マントのニュースに続きは無いのかえ?」
やがて二合徳利の二本目が空いた頃、最早何度目を数えるのも億劫な話を促され、菫子は小さく肩を竦めた。
「そんなのみんな一週間もしないで完全に飽きちゃったわよ。テレビは今更乗っかってオカルト特番とかやるみたいだけど、逆にネットでは擦り寄ってきたとか画像勝手に使われたとか大炎上だし。それでも結局釣られるんだから世話ないって言うか……」
酒席の雰囲気に流されるように、ついぞ他人に話す事の無かった外の世界の軽薄さについてまたぺらぺらと並べ立てる。
同じく世界へ行き来している者同士、あるいは先の騒動で自分を謀った程の相手であれば、同調までせずとも頷いてくれるといった期待があったのかも知れない。
しかし同調も反論もなくひとしきりを聞き流すと、マミゾウはどこか呆れたように肘掛けへ半身を預け溜息をひとつ。
「ふむん、つまるところ空飛ぶ巫女も赤マントも、その正体は杳と知れぬまま有耶無耶の彼方に消えかけておるのじゃな」
「そう、世間ではね」
「そう、世間ではの」
あからさまなおうむ返しに眉をひそめる表情に、もひとつ溜息を重ねる。そして空の徳利を引っ繰り返すと、面倒そうに襖の向こうへもう二合と肴の所望をと呼び付けた。
「ねえ、何が言いたいのよ」
「何がとな。さてはお前さん世間様に高説を打っておきながら己の事に何も気付いておらなんだか」
「私のことって、何も変わってなんか……」
「おめでたいもんじゃ。灯台下暗しなぞと説く気も失せるわい」
丸眼鏡の奥から呉れる失望にも似た一瞥に、菫子は言葉を詰まらせた。問いに対してわからない、と素直に答えるほどこの小賢しい娘に堪えることはないのだろう。その感情を殺すまでに及ばないのもまた子供の未熟故か。
やがて徳利と木の芽味噌が届き、改めて手酌を始めても未だ悔しそうに唇を噛む表情にやれやれと居住まいを直し、再び口を開く。
「博麗の巫女はともかく、お前さんまで赤マントとやらの都市伝説そのものになろうとしておるのではないのかえ?」
「えっ? いい……んじゃないの、別に。それに何の問題があるっていうのよ」
「ふん、問題に思わんのじゃったらもうそれで良かろ」
未だ伺えぬ真意に口籠もりながらも捻ねた口調で問い返すが、あっさり鼻で笑われると尚不安が積まれる。
「何よそれ……どうせ思わせぶり言って、また私を騙そうって言うんでしょう」
「だからもう良いと言っておろうに。儂もお前さんに手を焼かされた側、わざわざ親切をしてやる義理もないからの」
「そ、そんな事言われたら余計気になるじゃな……きゃっ!?」
猪口を膳に叩きつける音に尚食い下がろうと張る虚勢が破られ、少女らしい小さな悲鳴が上がった。
それは怪談講釈の小拍子が如く全ての音を飲み込むと、部屋の空気を重く冷たく湿らせ、じっとりと包み込んでいく。
「お前さん、もうこちら側に取り込まれつつあるぞ」
猿芝居だと一笑に付せぬ低い口調と睨め付けるような上目使いに、跳ねっ返りの気勢を根から削がれてしまった菫子は最早、怯えた表情で小さく息を飲むばかり。
「幽体まがいにこちら来ておるこの状況、始めは儂もオカルトボールの影響かと思うておったが、最早それだけではあるまい。否、状況は実体がこちらへ来ていた時よりも始末に終えぬやもしれん」
「それは、私が都市伝説化しつつあるから、オカルトとしてこっちに存在してるってこと……?」
今度はあっさりと返された頷きに、ぞわりと実体の無い肌が粟立つ感覚に身を震わせる。
「あまつさえ、境界を渡る本来の手続きを目茶苦茶にした挙句じゃからのう。最悪、意識だけをこちらに残したまま肉体が目覚めぬ事も考え得る。そうなれば恐らく朽ちることも無く、この世界を未来永劫幽体のまま彷徨う羽目にもなりかねんぞ」
「ね、ねぇ、それって何か解決する方法はないの?」
目の前に突き付けられた底の見えない恐怖に自尊心は脆くも克てず、菫子は縋るように身を乗り出してきた。
「単純な事よ。まずはお前さん自身の幻想郷と外の世界との均衡を取ればよかろ」
「均衡、って……?」
「変なところで鈍いのう、お前さんはその手の専門家じゃないのかえ」
最早皮肉に取り合う余裕も残っていないのか、今はただ口をつぐみ怪談に怯える少女の表情に、マミゾウも些か情を誘われ口調を和らげた。
「知っての通り都市伝説とは根も葉も無い、人口に膾炙したものの成れの果て。しかし今回の件は赤マントの実体であるお前さんが起こした紛れも無い事実なのじゃから、その事が僅かでも外の人間に知られれば……」
「無理……無理よ、そんなの」
尚色を失ったまま、食い気味に挟まれた否定から零れた違和感に僅か眉を寄せる。
「無理とな。何も世に広く知らしめろとは言っておらぬじゃろ、真相を信じさせなくても、身の回りの者に二三匂わせるだけでよかろうに」
「だから無理だって言ってるでしょう! そんなの誰に言えってのよ、誰も聞いてくれないに決まってるじゃない!」
突然、今まで押し込められていた鬱積が破裂するように菫子は幼子の癇癪にも似た悲鳴を上げた。
予想だにしなかった叫びに、マミゾウは取り落としかけた煙管を灰落としに据える。
この一瞬、化け狸の普段を知る者が居合わせたなら、その表情に驚きを覚えたに違いない。妖怪変化や幻想郷の食えない住人を相手にする前では見せることのない、我が子を慮るにも似た表情を。
「……お前さん……いや菫子や、あちらの世界に親しい者はおらんのかえ? 学舎に通うておるのなら、学友はおるじゃろう。なんとか倶楽部とかいう同好の者なら耳を傾けるじゃろうに」
「しら、ない……あんな奴ら……私のことなんか……」
それ以上、菫子は口を開くことはなかった。
重苦しい沈黙の中、マミゾウはオカルト騒動の終焉に博麗の巫女が対峙した時、菫子がかなり取り乱していたと聞いたことを思い出していた。
その時は自棄になり、己の持ち得る武器で死なば諸共の解決を図ろうとしたようだが、今はその武器さえも持っていないのだ。文字通りの絶望を突き付けられたに等しかろう。
傍目には、何を苦労することもない抜け道。しかし外の世界に同調することを拒み、自ら掲げた異端を依り処にして生きてきた少女には想像も及ばない高い壁が立ちはだかっているのだろう。
暫くの後、依然青い顔を俯かせたまま震える姿が滲むように薄れるのを見ると、遥か長い時間同じ世界を眺めていた古狸は一言一言を言い聞かせるように口を開いた。
「菫子や、お前さんは厭世を以て幻想へ消えるには、まだまだ若過ぎる。つまらんくだらんと嘆く世も、今一度見渡してみるがいい。案外捨てたものではないかも知れぬぞ」
しかしそれに応える素振りは無く、菫子の姿は忽然と消え去っていた。
久方振りに目にした外の世界は、それは綺羅びやかで栄華の留まるを知らぬ様子であった。それを無機質な虚栄と一目のみで高を括っていたが、地に降り、今を暮らす人々や未だ身を隠し生きる同族と同じ目線で世界語るに理解は程遠いものだ。いわんや多感な年頃の少女が抱く懊悩をや。
「……儂も高説を打ちはしたが、外の世界は云々と俯瞰した気になっておった点ではまた同じ穴の狢か。胡座をかいておれば、いずれ妖怪の太平天国と末路を辿るや知らん……」
体温も残り香も無い向かいの座布団を見遣りながら、マミゾウは静まり返った酒席を畳むように煙草盆をひとつ鳴らした。
§
その日を境に、眠る事への不安が菫子の中に芽生え始めた。
なかなか寝付くことが出来ず、睡眠時間が短くなり、鬱積した眠気は日中押し寄せ、日常生活にも支障を来し始める。
通学電車の中で一瞬意識が遠のきかけた時などは瞬時に交錯する風景の違和感が弱った身体に堪え、込み上げる嘔吐感に慌てて途中下車してうずくまってしまうほどだった。
そして、誰ひとりとして自分を見ていない現実への不安が募り始める。
学校生活の範囲でさえ、宇佐見菫子という居丈高で社交性のない実在の人物よりも、ある一夜にのみ現れ巫女と対峙した赤マントとしてのオカルトへの認知や好意の方が遥かに高かろう。
逃げ道は、自分自身で塞いでしまっていた。誰に言っても信じてくれない、誰も信じられるはずがない。真実を叫ぶほどに真実から遠ざかっていってしまうに違いない。そうやって、見下して突き放してきたのだから。
夢の中で幻想郷へ赴いても、誰かに会う事を避けてただ無為に時間を過ごすようになっていた。
結局は、幻想郷とてこの世界と一緒だ。一時は自分に興味を示し、あれこれと持ち上げてはいるが所詮は異端の余所者。自分より賢く、飛躍した能力を持つ者が跋扈するあの世界では、いずれ爪弾きに遭いやがて忘れ去られてしまうことだろう。
そんな世界を、幽体などという半端な状態で死ぬことも出来ず、永遠に独り彷徨うのだ。いつ訪れるとも知れない、その瞬間から。
そして何よりも……自分の日常に綻びが生じても、何も変わることのない二つの世界そのものが、怪異を恐れぬ菫子にとっての恐怖そのものになっていた。
光明も見えぬまま現実と幻想とを這いずるようにして、やがて一週間が過ぎようとしていた。
今日もまた、責め苦のような『何事もない一日』が遣り過されようとした夕暮れ時。
最寄り駅の改札を出ておぼつかない足を運んでいた菫子は、ふと自分のマンションより一本手前の小路へ踏み入っていたことに気が付いた。
ああ、いよいよ自分の家すら無意識に避けるようになっちゃったかな……鬱積を更に募らせながら、それでも引き返す力も無く歩みを進める。
別段珍しい何かがある訳でもない、どこにでもある住宅街の小路。なのに見慣れない景色の違和感は、白昼夢のまま幻想との境界がぼやかされてしまったよう。
やがて本来目指すべきマンションが屋根の向こうに見えた頃、ふと周囲と色合いの違う一軒の店が目に入った。
「こんな近くに……喫茶店があったんだ……」
駅前に乱立するコーヒースタンドに比べ、そこはあまりに小ぢんまりとした店構えだがしっかりと落ち着いた木造のダークブラウンが夕陽を馴染ませ、静かに存在を主張していた。
そう言えばこれまでオカルトを追う以外、周囲の環境に目を配ることなんて無かった気がする。あまつさえ通学圏内なんて、ただ往復するだけの面倒な回路という以上の意識をしたことも無い。
幻想郷の景色は、あれほど目に焼き付けようと躍起になっていたのに、近所にある喫茶店すら見落として何カ月も生活してたなんて……。
そう思うと、自然に入り口の扉に手が掛かっていた。
飲食店自体、無線ネットワークの入るファストフード店で味も気にせず適当な食事をするか、薄いアイスティの氷が溶けて更に薄くなるまで時間を潰すのに使うくらいで、こんな個人経営のような店など今まで入ったことは無い。
そもそもコーヒー自体飲み付けないが、カフェインを摂取すれば眠気も取れるだろう。何よりも今は部屋で鬱々としているより、少しでも気を紛らわせたかった。
思い切って重い扉を開くと心地よいドアベルの音と共に、カウンターの向こうから壮年の女性が落ち着いた口調で出迎えた。
客が誰もいないのは幸か不幸か、話し掛けられるのを避けるように俯きながらカウンターと離れたテーブル席へと足早に移動し、背の低い一人掛けのソファへと腰掛ける。
学生が一人で、しかもこんな態度で入ったら店だっていい気分などしないだろう。思いつきで踏み込んだことを早くも後悔しながら、顔も上げられず三角柱のメニューに目を落としていた時だった。
ご注文は? 短い、当たり前の言葉が、菫子の顔を自然と上げさせる。
白に占められたベリーショートに地味なモノトーンにまとまったエプロンとブラウス。赤い細縁の眼鏡越しの柔らかな笑顔が、この喫茶店の佇まいのような穏やかさでそんな自分を迎え入れてくれていた。
「あ、あの……コーヒー……あっ、ぶ、ブラックで……」
普段でもコーヒーなんて牛乳と砂糖を大量に入れて飲んでいるのに、雰囲気に背中を押されるようにそう口に出していた。
おぼつかない注文にも静かな頷きをひとつ返し、カウンターへと戻って行く。その後には、菫子も気付かないうちに水のグラスがコースターに乗って置かれていた。
ここって本当に自分の住んでいるすぐ側にある同じ世界なのかな……現実感を掴めないまま、改めて座りの良いソファに埋もれて店内をぼうっと見渡す。手癖にまでなっていたタブレットもスマートフォンも、今は取り出すことさえ忘れていた。
店内に提げられた暖かなオイルランプの照明は明るすぎず、また控えめな音量のインストゥルメンタルがコーヒーを支度する音と重なり耳に心地良い。調度品になんて今まで目を配ったこともないが、どこか古めかしさがありながら、全てが丁寧に磨かれ、それらの時間を保っている。
未だ回らない頭で映るままを感じていると、そっと一杯のコーヒーと小皿が無言で差し出される。あまりに自然に運ばれてきたそれに視線を上げると、マスターはやはり無言で会釈して、再びカウンターの向こうの景色へと溶け込んでいった。
どうやったら、あんなに自然に振る舞えるのだろう。自分が話し掛けて欲しくない態度だったからとか、所詮マニュアルどおりの接客だとか、いつも抱いている偏屈すら優しく撫で付けられるような……。
そんな思いを巡らせる菫子の鼻を、カップから立ちのぼる豊かな薫りがくすぐった。
「いい、かおり……」
薫りに誘われるままカップに口を付け、一口啜る。
まるで自分の猫舌を知っていたかのように合わせられた温度、苦さに怯えてた心を解きほぐすような柔らかい香ばしさと酸味……ああ、コーヒーってこんなに美味しかったんだ……驚きではない、穏やかな気付きがじわりと染みていく。
小皿に添えられていた茶色い菓子を口に運ぶ。
チョコレートかと思っていたそれは、黒砂糖だった。待ち受けていたよりも甘く、それ以上にさらりとした口溶けの良さが、舌を裏切りすうっとコーヒーと共に流れ落ちていく。
どうしてこんなに落ち着いてるんだろう、出口の見えない不安を抱えたまま彷徨っていたはずなのに。
……そういえば、あの時もそうだったかな。
ランプの火をぼうっと眺めているうちに、胸の奥から遠い記憶のようにひとつのイメージが浮んでくる。
幻想郷に投げ出され、怯えながらあてどなく彷徨っていた中で出会ったひとつの灯火。優しいと言うにはあまりに激しく燃え盛っているのに、身構えることも、謀ることもせず、包み込んでくれた暖かな炎。
ゆらり、ゆらりと揺らめく灯りに、いつしか瞼は下がり、眠りの淵を揺蕩い始める。
次第に遠くなる意識の中でも炎は絶えることなく、菫子を幻想の世界へと導いていった。
§
すとん、と落ちるような感覚と共に、菫子の意識は現実と幻想の境界を越えていた。
それは喫茶店で眠ってしまったこと示すに他ならないのだが、そんな体裁を気にするよりも先に、いつも降り立つはずの博麗神社とはまるで違う景色が目の前に広がっている事に呆然とする。
「えっ、ここ……どこ?」
いよいよこの現象自体も不安定になってしまったのかと息を呑んで周囲を伺う。
そこは夕闇に覆われた見渡す限りの竹林。
突然の闖入者に驚いた兎が数匹竹の間をぬって逃げ去ると、その音に雉が威嚇の鳴き声を上げ、鳴き声は狼の遠吠えを呼び、遠吠えは幽かな夜雀の歌を呼び。
もしかして、ここは……見慣れないまでも覚えのある場所が浮かびかけたその時、枯れ笹を踏む音と共に凜とした声が投げかけられた。
「そこにいるのは……菫子か?」
「あっ、も、妹紅さん……」
鬼火のような炎を掲げるようにして現れたのは、菫子と然して変わらぬ低い背丈に白髪の少女。倍数を数えるのも億劫なくらい年上の不死人藤原妹紅は、目が合うと子供のように嬉しそうに顔を綻ばせた。
「やっぱりか、なんかお前が来るような気がしていたんだ。虫の知らせってやつかな」
幻想郷でも数少ない、自分を好意的に迎えてくれる相手ではあるが、だからこそ菫子としては気不味いことこの上ない。体調を崩すほど悩んでいる上に、これまでと違う場所に飛ばされた不安を悟られたくないのに。
そんな忸怩たる思いはどこ吹く風、妹紅は俯きがちな顔をのぞき込みながら、どこか不満げに唇を尖らせていた。
「なんだよ、元気無いな。能天気なお前らしくない」
「えっ……? あっ、そ、そりゃあ、女子高生って悩みの多い生き物だもの。ここの人達みたいに年がら年中浮かれてないし」
あからさまに見透かされるような表情をしていただろうか。菫子は慌てていつもの減らず口を叩きつつ、いつもの斜に構えた笑みを浮かべる。
「まったく、幻想郷の人に能天気呼ばわりされるなんて私もいよいよ舐められてきちゃったかなぁ。外の世界でもっと文明的で理知的な生活を送ってるってところを、もっと知らしめてあげないと……」
あれだけ悩み、塞ぎ込んでいても、口を開けば結局変わらない言葉しか出てこない。それでも、自分を誤魔化す為にも必死になって舌を回す。
しかし聴いているのかいないのか、妹紅は相槌を打つことも無くしげしげと菫子の顔を覗きこんでいるばかり。
「……な、なによぅ、人の顔じろじろ見て」
あまりに薄い反応に言葉を切ると、いつしか色白の綺麗な顔がすぐ近くまで迫っていた。
慌てて身じろぎするが、追うように妹紅は再び迫ると、目を確りと合わせたまま神妙に頷く。
「うん、不細工な顔してんなぁと思ってさ」
いきなりなんて失礼な。そりゃあ評価されるような顔でないとは自覚しているが、改まってずけずけと言わなくても……あまりに突然の揶揄に言葉を失う菫子に、しかし悪びれるでもなく、むしろ不満そうにますます眉をひそめる。
「お前さ、何無理して笑ってるんだよ」
「む、り……? わ、私、無理なんてしてないんだけど」
「どんな美人でも、無理に笑おうとすれば不細工になるもんさ。子供が無理したんじゃ尚更だ」
「だから無理なんかしてないって言ってるでしょう、なに勝手に決めつけてるのよ!」
反駁を無視して突き付けられたにべもない子供扱いに図星を射られ、菫子はむきになって大声を上げる。
それでも勝ち気な瞳はまるで臆する事なく、次の矢を番えた。
「じゃあ、もういっぺん笑ってみなよ。私とやりあった時みたいに」
「わ、笑えって言われて笑えるわけないじゃない」
「じゃあ笑わなくたっていい、菫子の思った顔をすれば。私の事がムカついたなら目一杯怒ればいいさ」
感覚が及ぶはずもない吐息をも感じる距離まで近付いた顔は、無理に笑いを促すにはあまりに切なく、怒りを焚き付けるにはあまりに優しい表情だった。
その瞬間、菫子は自分が今どんな顔をしているのか、どんな表情を作ろうとしたのかが解らなくなってしまった。
表情を作ろうとするほどに頬が引きつり、瞼が震える。また理不尽に怒り、怒鳴って突き放そうと思っても、声が詰まり、唇が逆に歪む。
どうやっても、表情は一つにしか行き着かない。
違う、その表情じゃない、私はそんな顔したくない、彼女に絶対見せたくない……必死に抗うほどに近付くひとつの表情へ、妹紅はそっと背を押してやった。
「いいよ、泣いたって。ここには、私と菫子しかいないから」
触れられないことが解っていように、頬を撫でるように手を差し伸べてくる。
触れられていないことが解っているのに、炎を操る掌の温かさが頬に伝わってくる。
やがてその熱は小さな胸の中で詰まっていた大きな氷塊をゆっくりと溶かし、清らかな水を目から溢れ出させた。
「ほらな、泣きたい時には素直に泣くもんなんだ」
「ち、ちがぁ……ない、泣いてぇ……」
「違わない。だって今の菫子は、すごく綺麗な顔してるから」
なんて気障な、どこまで甘ったるい言葉だろう。少女漫画だってこんな台詞恥ずかしくて吐けやしない。
けれども、ぎりぎりまで張り詰めていた心の糸はその言葉に撫でられただけで、ふっつりと切れてしまうほど脆くなっていた。
「う……っ、えぅ……っ、うぇええぇ…………っ」
いつしか菫子はその場にへたりこむと、あられもなく声を上げ、零れ落ちない涙を流しながら泣きじゃくっていた。
「っなぅ……ないて、な……っぐ、泣いて、ぁいもぉ……っ!」
幼い頃から、泣くのが苦手な子供だった。
泣いても何も解決しない、泣けば弱さを見せる、泣いたら負けだ、ずっとそう思っていた。
菫子ちゃんは偉いね、菫子ちゃんはすごいね、菫子ちゃんは賢いね……泣きたくても我慢すれば、賛辞だけを浴びることができた。
けれども、そんな上辺だけの賛辞なんかよりも……
「ったく、泣きながら何言ってんだよ。菫子は馬鹿だなぁ」
そう呆れて微笑んでもらえることが、どれだけの救いになっただろう。
「ば、ばかじゃらいも……っぇえ……もこさん、がぁ、っいぢわるだかぁ……!」
「うん、うん……ごめんな。ってほら、鼻水まで垂れてるじゃないか」
妹紅は向かい合わせに腰を下ろすと、歳近い妹をあやすように微笑み掛けながら触れることのない髪を、頬を愛しげに撫で続けていた。
「うーん、そうか……こっちじゃ一時浮かれた程度の事だったが、お前にとっちゃ結局難儀な問題になっちまったんだな」
ひとしきり涙が枯れ、つっかえながらの経緯を聴いた妹紅は、小難しそうに腕組みをして誰彼時の空を見上げた。
「でも、あの狸の言う通りなら、誰かに話せばひとまず解決には近付くんだろ? さっさと誰か捕まえて話しちまえばいいのに」
「簡単に言うけど、誰に話せっていうのよ……」
「なんだ、友達いないのかお前。って私も人のこと言えるほどいないけどな、皆先に死んじまうし」
明け透けな指摘にむっとするも反応に困る重さの自虐でフォローされ、言葉に詰まってしまった。しかし当の妹紅は気にも掛けず、今ひとつ腑に落ちないといった風に首を傾げる。
「でもさ、こっちじゃそこら中に引っ張りだこらしいじゃないか。神社でお前が出て来るの待ってる奴らまでいるって聞いたぞ?」
「そんなのただ珍しいからってだけに決まってるじゃない。どうせ飽きたら誰も相手にしなくなるわ。私の世界も幻想郷も一緒よ……」
「そうか、菫子からはそう見えるんだな。でもそんな捨てたもんじゃないよ、自分のいる世界ってのは」
ふと、以前マミゾウにも投げ掛けられていた言葉に、俯いていた顔を上げる。
「まあまた偉そうなこと言っても、私もずうっとそう思ってたんだけどさ。どうせ誰も私を救ってくれない、どうせ誰も私の事なんか分かってくれないってな」
その言葉に、改めて気付く。この少女が自分が怯えていたことにも似た恐怖を、既に気の遠くなる時間その身に受けているのに親身になって考え込んでくれていることを。
「でもさ、こないだの騒動で久し振りに幻想郷をうろうろして、外の世界にまで出て気付いたんだ。何にも無いって思ってた世界って、実は私が何にも見ないで勝手に思っていた『私の』世界だったんだ」
千年以上も思い悩んでいた不死の呪いを、解決の糸口が見えているのに何を甘ったれているんだと突き放してもおかしくはない。実際、菫子が逆の立場ならば至らぬ弱さを指さして笑い、そうしていたに違いないのに。
「竹藪から一歩出ただけでも、人も景色も毎日目まぐるしく変わっててさ、毎日違う気付きにあふれてるもんなんだって。そんな切っ掛けも、オカルトボールが転がり込んで来たからなんだよ……菫子の、おかげだな」
「でも、わたし、そんなつもりでやったんじゃ……」
「ううん、今の私にとってはそれが全てなんだ。ありがとう、菫子」
真っ直ぐに向けられた言葉に、戸惑う。
誰にも理解されず、蔑まれることさえあった自分の欲求だけの産物が、まるで意図しないところで一人の少女をオカルトから日常へと還していたなんて。
「ま、都市伝説とやらになって死ねなくて難儀したら、いつでもここに来なよ。暇つぶしの仕方ぐらいなら千年分ぐらい教えてやれるし、話相手だったらそれこそ永遠になってやれる。なんなら同じ病気の奴も紹介してやるからさ」
根っからいけ好かない奴らだけど、まあアレも辛うじて友達に勘定してやるかな。またも重い事をからりと笑い飛ばす。
まったく、この不死人の少女はどこまでズレているのだろう。ここまで話したところで、何一つだって根本的な解決に近付きもしていないのに。
「だからこっちでの事は心配するな。菫子はまず、自分の世界で精一杯足掻いてみればいい。大丈夫、幻想郷の食えない連中を引っ張り回したんだ、絶対に解決出来るさ」
けれども今は、どんなもっともらしい理屈よりも、一言の『大丈夫』に救われる。
それは自分の世界から一歩も出ずに見下ろしていたら決して巡り合えない言葉だった。
「妹紅さん、その、ありが……んむ!?」
らしくない礼を口に出そうとしたその時、白く、細い指先が唇に当たった。
触れられるはずのない唇に、今度こそ実感を伴って温かくて柔らかな感触が伝わってくる。
「私はまだ、礼を言われることなんかしちゃいない。これからが本番だろ?」
気付いているのかいないのか、妹紅がまた顔を寄せると、熱い吐息がひっきりなしに頬にかかった。
不思議に思うよりも先に呼吸が乱れ、顔が茹だってくる。
「あとさ、たまにでいいから外のこと聞かせてくれよ。オカルトなんて小難しいのじゃなくて、菫子の周りのことが知りたいんだ。例えば……菫子? おーい、菫子ー?」
眼鏡越しにひらひらと手が舞うも、何の炎に焦がれたか、ぷすぷすと煙を上げそうなほど真っ赤な顔で固まるばかり。
こんなに目の前で泣きじゃくって、慰められて、撫でられて、励まされていたんだと改めて思うと、頭がぼうっとしてくる。
恥ずかしさで? いや、この気持ちは、この気持ちって、ひょっとして。
処理しきれない未知の感情は、温かな感触と共に頭の中をぐるりぐるりと廻り廻って意識をも巻き込んで……
「すみ……ふふっ、まあいいや。頑張ってきな、菫子」
言葉半ばで恥ずかしそうに自分の世界へ還ってしまった少女へ向けて、妹紅は愛おしげに呟きを送った。
§
「んぅ……んにゃ……?」
ふわふわとした暖かさに微睡みながら、意識は緩やかに現実へと浮上していく。
瞼を上げても心地よさに醒めやらず、掛けられていた肌触りの良いタオルケットを口元まで引き上げ、ぼやけた景色に目をこすりながら周囲を見渡す。
「あれ、めがねどこだっけ、めがね……」
「はい、眼鏡」
「ふぁああぁ……んむー、ありがと……って……」
久々の満ち足りた睡眠に大きな欠伸をしつつ手渡された眼鏡を掛けた瞬間、開けた視界と共に脳が現状を理解し始めた。
カップに残ったコーヒーの冷めた香りがこの場所を、すっかり陽が落ちた窓越しの景色が時計を見ずして過ぎた時間を否応なく覚えさせる。
そして……
「おはよう、よく眠れたみたいね」
「ひっ!?」
テーブルの対面には、ふわふわの金髪の少女が文庫本を片手に微笑み掛けていた。
久し振りに真っ直ぐ合わせたこちらの人の目線に、よりによって失態を見届けられてしまった焦りに、その上全く予想だにしない容姿に、パニックを通り越して腰砕けになりながらわたわたとソファの周りをまさぐる。
「すすす、すいません! え? ぁあ、あいむそーりー? いや、すぐ出ますすぐ出ますからっ! か、カバン……あれ、カバンどこっ!?」
「あ、気にしないで、もうお店閉めちゃってるから。あと日本語は通じるしカバンはカウンターの方で預かってるわ」
「へっ? あ、えっと……」
落ち着かせるようなゆったりとした口調に、改めて目の前の少女を確認する。
よく見てみれば、同じ学校の制服。留学生だろうか、ハーフだろうか。学校でも目立ちそうなのに今まで気付かなかったのは、それだけ自分が周囲を見渡せていなかったのだろうか。
「ああ、私ここの上で下宿してるの。東深見生のお客さんって珍しいし、疲れてるみたいだから起きるまで待ってあげてっておばあ……じゃなくて、マスターから鍵預かってて」
鈴のついた鍵を揺らして見せる向こうで見せる柔らかな笑顔は、口に出しかけた祖母譲りのものだろうか、不思議とそれ以上の気まずさや緊張感はなかった。
まだ夢から醒めていないような、夢の続きのような曖昧な意識の中で、菫子は何かに背中を押されるように……
「ねぇ、貴女……オカルトって、信じる?」
自然と、そう口に出していた。
「えっと、オカルトって……この本みたいな?」
突然の飛躍した話題にもかかわらず、彼女は軽く小首を傾げると革のブックカバーに包まれた文庫本の中表紙を開いてみせる。
それは、自分がまだ背伸びしてオカルトというものを知ろうとした頃に、暗記するくらい繰り返し読んだ民俗学の本と同じものだった。
「そ、それ……っ」
別段マイナーな本ではないし、読んだからといって語り合えるほどの本でもない。それでも今の菫子にとっては、暗闇を導く灯りそのもの。
「それも引っくるめて! それとメリーさんの電話もターボババァも八尺様も、最近の空飛ぶ巫女さんも、あと魔法も超能力も……ああもう、この世の中にある不思議の全てよ!」
喫茶店で閉店過ぎてまで熟睡しておきながら、起き抜けに何を突然切れて言い出したかと思われるだろう。自分だってそう思う。
ここは幻想郷じゃない。一瞬でも物珍しさで人目を引いて受け入れてくれる世界じゃない。自分だけを映している瞳が、自分の言葉を聴いてくれる耳が、自分に語りかけてくれる口が、この世界への入り口。
あの日、オカルトを集め始めて幻想へ近付いた時のように、一歩を踏み出さなければこの世界だって何も変わらない。
「わ、私、一年の宇佐見菫子って言うの。その、ひ、秘封倶楽部って同好会の会長なんだけど今会員が一人もいなくて……あで、でもっ、でも私は知ってるの、見たの、持ってるの、この世の中にある不思議を……!」
菫子は開きかけた扉の隙間へ爪を立てるように、一息にまくし立てる。
今まで誰も信じ得なかった、自分たちのある世界のオカルトを。それ以上に信じ得ない、この目で見た幻想の世界を。そして、誰も信じるに至らず内に秘めていた自分の超能力のことを。
言葉足らずを継ぎ足し、つっかえては言い直し、それは饒舌で流暢ないつもの口調とは程遠いものだった。
オカルト騒動の事情を知る者からすれば、見えない恐怖に駆られた情けない、独り善がりな動機だと笑うだろう。己の不始末を血眼になって埋め合わせようとする滑稽な画だと笑うだろう。
彼女を知る者からすれば、後ろ足で掛けた砂を必死で掘り起こす無様を指さして笑うに違いない。
「……それで、それで私、オカルトボールっていう……っ」
「ちょっと待って!」
突如眉間に皺を寄せ、金髪の少女は一方的な菫子の話を遮った。
「えっと、その話……まだ長くなる?」
あれほど穏やかだった表情の変化に、菫子は熱に浮かされた幻想から引き戻される。何も変わっていなかった、現実の世界へ。
もういいわ、所詮貴女程度じゃ解らないわよね……そう、いつもの言葉が口をつきかける。そう言って突き放せば、今まで傷付くことなんてなかったんだから。
でも本当は寂しくて、信じてって叫び出したかったんだ。傷ついて、泣き出したかったくせに、無理して嘲笑を浮かべていたつもりだった自分はどんなに不細工な表情をしていたんだろう。
でも、今は……
――だからこっちでの事は心配するな。菫子はまず、自分の世界で精一杯足掻いてみればいい。
今の私には、たとえ大失敗してぼろぼろに負けて泣いても、夢の向こうでまた私を励ましたり突っついたり拳骨したり、支えてくれる存在があるんだ。
大きく深呼吸すると、菫子はあるがままの表情で向き直った。
「そうね、長くなるわ。ここからは貴女が知りたい不思議の分だけね!」
傲慢の一歩手前の自信に満ちた、不敵で素敵な笑みが自然に浮かぶ。
その笑みに惹かれるように少女の表情は柔らかさを通り越して弾け、好奇心に満ちた不思議な色の瞳を一際輝かせた。
「よかったぁ! あのね、今の話で不思議に思うことがいっぱいあったの。えっとまずはその幻想郷っていう世界のことでしょう、それと……」
目の前の表情に、視界が音を立てて開かれたような気がした。
そうか、これが、私の見ていなかった世界。これから、歩き出す世界。
「あ、その前にコーヒーが足りないわね、ちょっと淹れてくるけど何飲みたい?」
「えっ? あ、私はもう……」
今はまだ、歩みはおぼつかないけれど、きっとその先を照らしてくれる灯りがある。
「おばあちゃんにツケちゃうから気にしないで。こう見えても修行中だから自信あるの、貴女は……菫子はそのカフェインレスのブラックでいい?」
「うん、私、コーヒーのことよくわかんないから任せる! あと牛乳とお砂糖目一杯入れたのも頂戴!」
いつしかランプの灯りの下は、温かなコーヒーとミルクの香りに包まれ、飾ることのない言葉が飛び交っていた。
この日夜通し語ったことは、女子高生の他愛ない雑談の範疇を出なかったかもしれない。出会った少女とは、もう顔も合わせる事がないのかもしれない。
それでも、この瞬間、確かに踏み出していた。
現世と幻想の不思議に敢然と立ち向かう秘封倶楽部、そして初代会長宇佐見菫子の新たな一歩を。
了
『巫女対赤マント情報まとめ(随時更新中)』
『【画像あり】空飛ぶ巫女VSマントマンはハリウッドの撮影だった?』
『#空飛ぶ巫女さん がトレンドワード急浮上。タイムラインに巫女イラストが満ちる』
『【悲報】プロジェクションマッピングに踊らされるお前らwwwwww』
タブレットの画面をスワイプするたびに零れ落ちて来るニュースソースに頬が緩む。
真実を追い求めることを端から放棄した軽薄短小な論調。ただ浮かれ踊るだけの観衆。常識に囚われた当たり障りの無い分析。無責任な流言飛語に口汚く同調し、時折未知の領域へ踏み出す者を異端と指さし頭を押さえ付ける自称常識人たち……。
やっぱり、この世界の人間には永遠にたどり着けない領域だったわね。
シニカルな笑みを浮かべながら端末をスリープさせ、宇佐見菫子はベッドに身を投げ出した。
幻想世界の存在に気付き行動を起こした数ヶ月が遥か昔のことに思えるほど、あちら側へ足を踏み入れてからはまさしく怒涛の如き数日であった。様々な危機に直面はしたが、それもまた過日となれば良い思い出であり胸踊る体験。
なのに現実はといえば、連綿と語り継がれた妖怪やオカルトの真相を蔑ろにし、人が空を飛び怪異を操る姿を目の当たりにしても、未だ己を疑い同調から逃れられずにいる。
だが、それでいい。私だけが気付き、私だけが実行に移したからこそ体験し得た世界の不思議。今更これ以上の理解者など現れるはずもあるまい。
だからと言って、軽々しく外へ吹聴しようなんて決して思わない。その断片を伝えたところで、生まれ持った超能力と同様、理解を前提に受け入れようなどと言う輩はこの世界には存在し得ないのだ。
「さて、JST 21:22:40 UTC +9:00:00っと……寝るには早いけどまあいいかな」
布団の上に放ったままのスマートフォンを取り上げアラームをセットすると、部屋の明かりを落とす。靴下をもどかしげに脱ぎ捨て、それ以上の着替えもそこそこに布団を被り目を閉じる。
このまま眠りに落ちれば、次に見えるのは文字通り夢見ていた世界。
そう、これは世の中の謎を秘して封じる、秘封倶楽部の記念すべき第一歩。
そして、これからの足跡は低俗で保守的な世界ではなく、幻想の向こうにのみ残すのだ。
高鳴る鼓動を抑えるように呼吸を整えていた表情はやがてあどけない寝顔へと変わり、意識は現実から束の間の楽園へと飛翔した。
§
「だから言ったじゃない、派手に動けば必ず向こうの人目に触れるって!」
賽銭箱を叩き割らん勢いの張り手一閃、茨木華扇は文字通り目を三角に吊り上げて声を荒げる。思わず身も竦む人外の怒気に、早朝の空気も清々しい博麗神社の境内から寝起きの雀が驚いて一斉に飛び立った。
「いいでしょ、写真に撮られるくらい。こっちでも嫌ってくらい撮られてるんだし」
此方柳に風か馬の耳に念仏か、今や外界で噂の空飛ぶ巫女さんこと博麗霊夢は片眉もしかめず暢気に竹箒で石畳を掃いている。
「あれ……なんか言わない方が良かった?」
深夜の幻想郷巡りから神社へと戻って来た菫子を待ち構えていた華扇から、問われるまま外の世界でのオカルトボール騒動の反応を伝えたところこの剣幕である。
華扇が小煩く言ってくるのはいずれ予想は付いていたが、霊夢もちょっとした有名人になったし、イラストコミュニティで美少女画(妄想による味付けは濃いが)がひと盛り上がりしたし喜ぶだろうと思いきや、なんとも薄い反応もまた拍子抜けだ。
「写真に撮られるくらい目立ったってだけで十分大事よ! わざわざ弾幕を撃ち合わなくたって、この子を誰にも悟られず消す手段ならいくらでもあったはずでしょう!?」
「ひ、ひどいっ……華扇ちゃんの鬼!」
「酷くありませんし鬼でもありませんし年長者に向かってちゃん付けとは何事ですか! そも諸悪の根源である貴女が、悪びれもせず顔を出している事自体も問題なのに!」
「しょうがないじゃない、寝たらこっち来ちゃうんだもん」
矛先とばかりに突き付けた指の先で、やはり反省なぞ微塵も見せず唇を尖らせる菫子の態度に怒気は沸点を超え尚上昇する。
「だったら大人しく身を隠すなりするものなの! それを我が物顔で方々ほっつき歩くなんて言語道断よ!」
「浮いてるから歩いてませーん」
「いちいち揚げ足を……そもそも自分がどれだけ大それたことをしでかしたか解ってるの!?」
「解ってるのに私の事を騙そうとした方も悪いと思いまーす」
「ああもう、最近の子供は口ばっかり達者なんだから! 大体貴女はね、何もかもの行動が軽……」
「はーいはい、そこまで」
次第に間の抜けてくる応酬を聴くに堪えず箒の手を止めると、霊夢はいよいようんざりした顔で舌戦を遮った。
「あのねぇ、朝っぱらから人んちで漫才しないでくれる? 掃除の邪魔なんだけど」
「これのどこが漫才に見えるの、説教よ説教! まさか貴女まで外の世界に毒されたんじゃないでしょうね?」
「毒されてないと思うわよ。少なくとも異変が終わったのに、外の情報をほじくり返して目くじら立てない程度には」
何ともあからさまな皮肉だが、説教より感情が先立ってしまったことを指されては返す言葉もない。華扇は怒りを鎮めるように大きな溜息を挟むと、目下の問題へと向き直る。
「それは、そうだけど……でも、まだこの問題は終わった訳じゃないでしょう」
「あ、オカルトボールに偽物が混じってたって話? そう言えばアレって結局どうなったの?」
「部外者である貴女が知る必要はありません」
「へー、さっき諸悪の根源とか言っときながら今度は部外者なんだ。ネンチョーシャはずるいなー」
黙殺はしたものの、尚口の減らない小娘の言い草に青筋を浮かべる横顔へ僅か同情の色を浮かべつつ、霊夢は見渡す山々の向こうへと視線を送った。
「それについては専門家に相談中よ。私より危機感覚えてるみたいだし、遅かれ早かれ次の仕事にはなりそうね」
「その台詞かっこいい……さっすが幻想郷の主人公! よっ、楽園の巫女!」
無邪気に目を輝かせ軽薄に調子を乗せると、菫子は華扇を押し退けるようにして霊夢へと迫る。
「ねえねえねえ、そんでその専門家って人は月のオカルトに詳しいの? むしろルナリアンとか? あっ、一寸法師がいるってことは、ひょっとしてかぐや姫? それともアポロ陰謀論で闇に葬られた……」
「いい加減になさいっ、この大ばかものーーっ!」
折角繕った苦労や虚しく、再び堪忍袋の緒が千切れ飛ばんばかりの怒号が境内に響き渡る。霊夢は問いに構う気力もなく、言わんこっちゃないと溜息しいしい落ち葉をまとめてさっさと裏手へと引っ込んだ。
「そうやって興味とあらば浅慮に首を突っ込むことで、どれだけ周囲が迷惑を被るか解ってるの貴女!? 火種は燃え広がる前に消さなければいけないのに、そうやって軽々しく煽るような真似をするから些細な事でも始末に……」
「ちょ、ちょっと待って……それ、長くなる?」
「当たり前でしょう、何を今更! この期に及んで小言程度で済むと思ってるの!?」
「うーん、済まないとは思うけど」
すわ火に油の様相ではあったが、菫子はまるで余裕の表情で徐々に朝の空気へ溶けてゆく自分の身体を指さした。
「あはは、ごめん。そろそろ起きそうだから手短にお願い」
「ぐ、ぐぬぬ……もういいから、さっさと起きて学校に行って来なさーいっ!」
憤怒すれど端正な華扇の怒り顔と、実体を伴っていたらただでは済まぬであろう拳骨が空を切るのを最後に、意識は穏やかに上昇し……
§
「んーっ……ふふっ、今日も面白かったなぁ」
大きく伸びを打ちながら枕元を探り、スマートフォンのアラームを切る。
時刻はきっかり午前七時半。たっぷり十時間睡眠で体調はすこぶる宜しく、夢の中でも存分に幻想を堪能し心身ともにこの上ない充足感だ。
「そんで、今日も待ち受けてるのがしょもない現実っていうねぇ……」
なんだか今日って概念がおかしくなってきそう。吹き出しつつキッチンへと向かうと、マグ一杯の牛乳とシリアルバーで朝食を取りつつ、朝のルーティンであるネットの巡回を始める。
オカルト騒動のニュースは早くも勢いを失い、タブレットのニュースリーダにはまた下世話な個人攻撃や、社会的無気力を思想の左右で煽るような無責任なトピックがサブジェクトの一覧を埋め始めていた。
「ふん、こうやって理解が行き詰まったらすぐ放り出して、噛み付きやすそうな餌に食いつくのよね」
斜に独り言ちるが、別段怒りも拍子抜けした感情も起きない、こんなもの想定の範囲内。世間は彼らの常識と普通とやらを頑なに守りながら、日々を無駄に費やしていけばいいのだ。真実は自分の中にだけあればいいこと……
そう鼻で笑い飛ばそうとした時、何か違和感のようなものが引っ掛かった。
別段、眺めていたニュースにおかしなものがあった訳ではない。
件の情報や分析だって、てんで的外れな方向へと向かっている。
今まで澱みなく流れていた場所に、何かが引っ掛かっているような。
否、それは今までそこにあったのに、見落としていたような。
「……まあ、いっか。色々変わったことは確かだし、もう焦ることもないし」
疑念を振り落とすように声に出すと、シリアルバーの包みを屑籠に放り捨てる。
ノーコンな放物線を描いて包みは的を外れたが、一人きりの台所に咎める者はいない。幼い頃から放任と言うにも疎遠過ぎる家庭環境ではあったが、今は自分の頭脳と口先で同年代より先に勝ち取った、何ら気後れのない自分本位の生活だ。
けれど、さっきまで顔を付き合わせていた生真面目な仙人の声が、ふと頭を過る。
「『さっさと起きて学校に行って来なさーい』か……初めて言われたなぁ、あんな漫画みたいな台詞」
少し面倒そうにしながらも屑籠の周りに散らばっていたゴミと共に包みを捨てると、来る憂鬱な世界をせめて快適に過ごすため、着のままだった制服を脱ぎ捨て浴室へと向かった。
§
「しかし、こっちはそんなに楽しいもんかのう」
呆れか皮肉か感心か、二ッ岩マミゾウは猪口をぐいと干して煙管を吸い付ける。
夢見る間の幻想旅行を始めて早十日は数えただろうか。いつものように博麗神社から幻想郷巡りを始めたところ人里で偶然鉢合わせた化け狸に捕まり、菫子は小料理屋の離れで晩酌に付き合わされていた。
「当たり前じゃない、こんなオカルトの巣窟がつまらない理由がないわ。まあ、真にその価値が解るのは私ぐらいなものでしょうけどね」
「ふむん、見る景色はそっちの田舎と変わらぬと思うが、まあそんなもんかの。妖怪変化も怪奇現象も、現代っ子はふぁんたじぃやらえすえふやらで慣らされておるからかのう」
当然酒も煙草も未経験ではあるし、むしろ能力と健康を減衰させるだけの毒物など一生近付くこともないと見下してはいたが、無縁故の興味も手伝い食客よろしく上座に居座り弁舌を振るっていた。
「ところで、そっちで出回っておる空飛ぶ巫女さんと赤マントのニュースに続きは無いのかえ?」
やがて二合徳利の二本目が空いた頃、最早何度目を数えるのも億劫な話を促され、菫子は小さく肩を竦めた。
「そんなのみんな一週間もしないで完全に飽きちゃったわよ。テレビは今更乗っかってオカルト特番とかやるみたいだけど、逆にネットでは擦り寄ってきたとか画像勝手に使われたとか大炎上だし。それでも結局釣られるんだから世話ないって言うか……」
酒席の雰囲気に流されるように、ついぞ他人に話す事の無かった外の世界の軽薄さについてまたぺらぺらと並べ立てる。
同じく世界へ行き来している者同士、あるいは先の騒動で自分を謀った程の相手であれば、同調までせずとも頷いてくれるといった期待があったのかも知れない。
しかし同調も反論もなくひとしきりを聞き流すと、マミゾウはどこか呆れたように肘掛けへ半身を預け溜息をひとつ。
「ふむん、つまるところ空飛ぶ巫女も赤マントも、その正体は杳と知れぬまま有耶無耶の彼方に消えかけておるのじゃな」
「そう、世間ではね」
「そう、世間ではの」
あからさまなおうむ返しに眉をひそめる表情に、もひとつ溜息を重ねる。そして空の徳利を引っ繰り返すと、面倒そうに襖の向こうへもう二合と肴の所望をと呼び付けた。
「ねえ、何が言いたいのよ」
「何がとな。さてはお前さん世間様に高説を打っておきながら己の事に何も気付いておらなんだか」
「私のことって、何も変わってなんか……」
「おめでたいもんじゃ。灯台下暗しなぞと説く気も失せるわい」
丸眼鏡の奥から呉れる失望にも似た一瞥に、菫子は言葉を詰まらせた。問いに対してわからない、と素直に答えるほどこの小賢しい娘に堪えることはないのだろう。その感情を殺すまでに及ばないのもまた子供の未熟故か。
やがて徳利と木の芽味噌が届き、改めて手酌を始めても未だ悔しそうに唇を噛む表情にやれやれと居住まいを直し、再び口を開く。
「博麗の巫女はともかく、お前さんまで赤マントとやらの都市伝説そのものになろうとしておるのではないのかえ?」
「えっ? いい……んじゃないの、別に。それに何の問題があるっていうのよ」
「ふん、問題に思わんのじゃったらもうそれで良かろ」
未だ伺えぬ真意に口籠もりながらも捻ねた口調で問い返すが、あっさり鼻で笑われると尚不安が積まれる。
「何よそれ……どうせ思わせぶり言って、また私を騙そうって言うんでしょう」
「だからもう良いと言っておろうに。儂もお前さんに手を焼かされた側、わざわざ親切をしてやる義理もないからの」
「そ、そんな事言われたら余計気になるじゃな……きゃっ!?」
猪口を膳に叩きつける音に尚食い下がろうと張る虚勢が破られ、少女らしい小さな悲鳴が上がった。
それは怪談講釈の小拍子が如く全ての音を飲み込むと、部屋の空気を重く冷たく湿らせ、じっとりと包み込んでいく。
「お前さん、もうこちら側に取り込まれつつあるぞ」
猿芝居だと一笑に付せぬ低い口調と睨め付けるような上目使いに、跳ねっ返りの気勢を根から削がれてしまった菫子は最早、怯えた表情で小さく息を飲むばかり。
「幽体まがいにこちら来ておるこの状況、始めは儂もオカルトボールの影響かと思うておったが、最早それだけではあるまい。否、状況は実体がこちらへ来ていた時よりも始末に終えぬやもしれん」
「それは、私が都市伝説化しつつあるから、オカルトとしてこっちに存在してるってこと……?」
今度はあっさりと返された頷きに、ぞわりと実体の無い肌が粟立つ感覚に身を震わせる。
「あまつさえ、境界を渡る本来の手続きを目茶苦茶にした挙句じゃからのう。最悪、意識だけをこちらに残したまま肉体が目覚めぬ事も考え得る。そうなれば恐らく朽ちることも無く、この世界を未来永劫幽体のまま彷徨う羽目にもなりかねんぞ」
「ね、ねぇ、それって何か解決する方法はないの?」
目の前に突き付けられた底の見えない恐怖に自尊心は脆くも克てず、菫子は縋るように身を乗り出してきた。
「単純な事よ。まずはお前さん自身の幻想郷と外の世界との均衡を取ればよかろ」
「均衡、って……?」
「変なところで鈍いのう、お前さんはその手の専門家じゃないのかえ」
最早皮肉に取り合う余裕も残っていないのか、今はただ口をつぐみ怪談に怯える少女の表情に、マミゾウも些か情を誘われ口調を和らげた。
「知っての通り都市伝説とは根も葉も無い、人口に膾炙したものの成れの果て。しかし今回の件は赤マントの実体であるお前さんが起こした紛れも無い事実なのじゃから、その事が僅かでも外の人間に知られれば……」
「無理……無理よ、そんなの」
尚色を失ったまま、食い気味に挟まれた否定から零れた違和感に僅か眉を寄せる。
「無理とな。何も世に広く知らしめろとは言っておらぬじゃろ、真相を信じさせなくても、身の回りの者に二三匂わせるだけでよかろうに」
「だから無理だって言ってるでしょう! そんなの誰に言えってのよ、誰も聞いてくれないに決まってるじゃない!」
突然、今まで押し込められていた鬱積が破裂するように菫子は幼子の癇癪にも似た悲鳴を上げた。
予想だにしなかった叫びに、マミゾウは取り落としかけた煙管を灰落としに据える。
この一瞬、化け狸の普段を知る者が居合わせたなら、その表情に驚きを覚えたに違いない。妖怪変化や幻想郷の食えない住人を相手にする前では見せることのない、我が子を慮るにも似た表情を。
「……お前さん……いや菫子や、あちらの世界に親しい者はおらんのかえ? 学舎に通うておるのなら、学友はおるじゃろう。なんとか倶楽部とかいう同好の者なら耳を傾けるじゃろうに」
「しら、ない……あんな奴ら……私のことなんか……」
それ以上、菫子は口を開くことはなかった。
重苦しい沈黙の中、マミゾウはオカルト騒動の終焉に博麗の巫女が対峙した時、菫子がかなり取り乱していたと聞いたことを思い出していた。
その時は自棄になり、己の持ち得る武器で死なば諸共の解決を図ろうとしたようだが、今はその武器さえも持っていないのだ。文字通りの絶望を突き付けられたに等しかろう。
傍目には、何を苦労することもない抜け道。しかし外の世界に同調することを拒み、自ら掲げた異端を依り処にして生きてきた少女には想像も及ばない高い壁が立ちはだかっているのだろう。
暫くの後、依然青い顔を俯かせたまま震える姿が滲むように薄れるのを見ると、遥か長い時間同じ世界を眺めていた古狸は一言一言を言い聞かせるように口を開いた。
「菫子や、お前さんは厭世を以て幻想へ消えるには、まだまだ若過ぎる。つまらんくだらんと嘆く世も、今一度見渡してみるがいい。案外捨てたものではないかも知れぬぞ」
しかしそれに応える素振りは無く、菫子の姿は忽然と消え去っていた。
久方振りに目にした外の世界は、それは綺羅びやかで栄華の留まるを知らぬ様子であった。それを無機質な虚栄と一目のみで高を括っていたが、地に降り、今を暮らす人々や未だ身を隠し生きる同族と同じ目線で世界語るに理解は程遠いものだ。いわんや多感な年頃の少女が抱く懊悩をや。
「……儂も高説を打ちはしたが、外の世界は云々と俯瞰した気になっておった点ではまた同じ穴の狢か。胡座をかいておれば、いずれ妖怪の太平天国と末路を辿るや知らん……」
体温も残り香も無い向かいの座布団を見遣りながら、マミゾウは静まり返った酒席を畳むように煙草盆をひとつ鳴らした。
§
その日を境に、眠る事への不安が菫子の中に芽生え始めた。
なかなか寝付くことが出来ず、睡眠時間が短くなり、鬱積した眠気は日中押し寄せ、日常生活にも支障を来し始める。
通学電車の中で一瞬意識が遠のきかけた時などは瞬時に交錯する風景の違和感が弱った身体に堪え、込み上げる嘔吐感に慌てて途中下車してうずくまってしまうほどだった。
そして、誰ひとりとして自分を見ていない現実への不安が募り始める。
学校生活の範囲でさえ、宇佐見菫子という居丈高で社交性のない実在の人物よりも、ある一夜にのみ現れ巫女と対峙した赤マントとしてのオカルトへの認知や好意の方が遥かに高かろう。
逃げ道は、自分自身で塞いでしまっていた。誰に言っても信じてくれない、誰も信じられるはずがない。真実を叫ぶほどに真実から遠ざかっていってしまうに違いない。そうやって、見下して突き放してきたのだから。
夢の中で幻想郷へ赴いても、誰かに会う事を避けてただ無為に時間を過ごすようになっていた。
結局は、幻想郷とてこの世界と一緒だ。一時は自分に興味を示し、あれこれと持ち上げてはいるが所詮は異端の余所者。自分より賢く、飛躍した能力を持つ者が跋扈するあの世界では、いずれ爪弾きに遭いやがて忘れ去られてしまうことだろう。
そんな世界を、幽体などという半端な状態で死ぬことも出来ず、永遠に独り彷徨うのだ。いつ訪れるとも知れない、その瞬間から。
そして何よりも……自分の日常に綻びが生じても、何も変わることのない二つの世界そのものが、怪異を恐れぬ菫子にとっての恐怖そのものになっていた。
光明も見えぬまま現実と幻想とを這いずるようにして、やがて一週間が過ぎようとしていた。
今日もまた、責め苦のような『何事もない一日』が遣り過されようとした夕暮れ時。
最寄り駅の改札を出ておぼつかない足を運んでいた菫子は、ふと自分のマンションより一本手前の小路へ踏み入っていたことに気が付いた。
ああ、いよいよ自分の家すら無意識に避けるようになっちゃったかな……鬱積を更に募らせながら、それでも引き返す力も無く歩みを進める。
別段珍しい何かがある訳でもない、どこにでもある住宅街の小路。なのに見慣れない景色の違和感は、白昼夢のまま幻想との境界がぼやかされてしまったよう。
やがて本来目指すべきマンションが屋根の向こうに見えた頃、ふと周囲と色合いの違う一軒の店が目に入った。
「こんな近くに……喫茶店があったんだ……」
駅前に乱立するコーヒースタンドに比べ、そこはあまりに小ぢんまりとした店構えだがしっかりと落ち着いた木造のダークブラウンが夕陽を馴染ませ、静かに存在を主張していた。
そう言えばこれまでオカルトを追う以外、周囲の環境に目を配ることなんて無かった気がする。あまつさえ通学圏内なんて、ただ往復するだけの面倒な回路という以上の意識をしたことも無い。
幻想郷の景色は、あれほど目に焼き付けようと躍起になっていたのに、近所にある喫茶店すら見落として何カ月も生活してたなんて……。
そう思うと、自然に入り口の扉に手が掛かっていた。
飲食店自体、無線ネットワークの入るファストフード店で味も気にせず適当な食事をするか、薄いアイスティの氷が溶けて更に薄くなるまで時間を潰すのに使うくらいで、こんな個人経営のような店など今まで入ったことは無い。
そもそもコーヒー自体飲み付けないが、カフェインを摂取すれば眠気も取れるだろう。何よりも今は部屋で鬱々としているより、少しでも気を紛らわせたかった。
思い切って重い扉を開くと心地よいドアベルの音と共に、カウンターの向こうから壮年の女性が落ち着いた口調で出迎えた。
客が誰もいないのは幸か不幸か、話し掛けられるのを避けるように俯きながらカウンターと離れたテーブル席へと足早に移動し、背の低い一人掛けのソファへと腰掛ける。
学生が一人で、しかもこんな態度で入ったら店だっていい気分などしないだろう。思いつきで踏み込んだことを早くも後悔しながら、顔も上げられず三角柱のメニューに目を落としていた時だった。
ご注文は? 短い、当たり前の言葉が、菫子の顔を自然と上げさせる。
白に占められたベリーショートに地味なモノトーンにまとまったエプロンとブラウス。赤い細縁の眼鏡越しの柔らかな笑顔が、この喫茶店の佇まいのような穏やかさでそんな自分を迎え入れてくれていた。
「あ、あの……コーヒー……あっ、ぶ、ブラックで……」
普段でもコーヒーなんて牛乳と砂糖を大量に入れて飲んでいるのに、雰囲気に背中を押されるようにそう口に出していた。
おぼつかない注文にも静かな頷きをひとつ返し、カウンターへと戻って行く。その後には、菫子も気付かないうちに水のグラスがコースターに乗って置かれていた。
ここって本当に自分の住んでいるすぐ側にある同じ世界なのかな……現実感を掴めないまま、改めて座りの良いソファに埋もれて店内をぼうっと見渡す。手癖にまでなっていたタブレットもスマートフォンも、今は取り出すことさえ忘れていた。
店内に提げられた暖かなオイルランプの照明は明るすぎず、また控えめな音量のインストゥルメンタルがコーヒーを支度する音と重なり耳に心地良い。調度品になんて今まで目を配ったこともないが、どこか古めかしさがありながら、全てが丁寧に磨かれ、それらの時間を保っている。
未だ回らない頭で映るままを感じていると、そっと一杯のコーヒーと小皿が無言で差し出される。あまりに自然に運ばれてきたそれに視線を上げると、マスターはやはり無言で会釈して、再びカウンターの向こうの景色へと溶け込んでいった。
どうやったら、あんなに自然に振る舞えるのだろう。自分が話し掛けて欲しくない態度だったからとか、所詮マニュアルどおりの接客だとか、いつも抱いている偏屈すら優しく撫で付けられるような……。
そんな思いを巡らせる菫子の鼻を、カップから立ちのぼる豊かな薫りがくすぐった。
「いい、かおり……」
薫りに誘われるままカップに口を付け、一口啜る。
まるで自分の猫舌を知っていたかのように合わせられた温度、苦さに怯えてた心を解きほぐすような柔らかい香ばしさと酸味……ああ、コーヒーってこんなに美味しかったんだ……驚きではない、穏やかな気付きがじわりと染みていく。
小皿に添えられていた茶色い菓子を口に運ぶ。
チョコレートかと思っていたそれは、黒砂糖だった。待ち受けていたよりも甘く、それ以上にさらりとした口溶けの良さが、舌を裏切りすうっとコーヒーと共に流れ落ちていく。
どうしてこんなに落ち着いてるんだろう、出口の見えない不安を抱えたまま彷徨っていたはずなのに。
……そういえば、あの時もそうだったかな。
ランプの火をぼうっと眺めているうちに、胸の奥から遠い記憶のようにひとつのイメージが浮んでくる。
幻想郷に投げ出され、怯えながらあてどなく彷徨っていた中で出会ったひとつの灯火。優しいと言うにはあまりに激しく燃え盛っているのに、身構えることも、謀ることもせず、包み込んでくれた暖かな炎。
ゆらり、ゆらりと揺らめく灯りに、いつしか瞼は下がり、眠りの淵を揺蕩い始める。
次第に遠くなる意識の中でも炎は絶えることなく、菫子を幻想の世界へと導いていった。
§
すとん、と落ちるような感覚と共に、菫子の意識は現実と幻想の境界を越えていた。
それは喫茶店で眠ってしまったこと示すに他ならないのだが、そんな体裁を気にするよりも先に、いつも降り立つはずの博麗神社とはまるで違う景色が目の前に広がっている事に呆然とする。
「えっ、ここ……どこ?」
いよいよこの現象自体も不安定になってしまったのかと息を呑んで周囲を伺う。
そこは夕闇に覆われた見渡す限りの竹林。
突然の闖入者に驚いた兎が数匹竹の間をぬって逃げ去ると、その音に雉が威嚇の鳴き声を上げ、鳴き声は狼の遠吠えを呼び、遠吠えは幽かな夜雀の歌を呼び。
もしかして、ここは……見慣れないまでも覚えのある場所が浮かびかけたその時、枯れ笹を踏む音と共に凜とした声が投げかけられた。
「そこにいるのは……菫子か?」
「あっ、も、妹紅さん……」
鬼火のような炎を掲げるようにして現れたのは、菫子と然して変わらぬ低い背丈に白髪の少女。倍数を数えるのも億劫なくらい年上の不死人藤原妹紅は、目が合うと子供のように嬉しそうに顔を綻ばせた。
「やっぱりか、なんかお前が来るような気がしていたんだ。虫の知らせってやつかな」
幻想郷でも数少ない、自分を好意的に迎えてくれる相手ではあるが、だからこそ菫子としては気不味いことこの上ない。体調を崩すほど悩んでいる上に、これまでと違う場所に飛ばされた不安を悟られたくないのに。
そんな忸怩たる思いはどこ吹く風、妹紅は俯きがちな顔をのぞき込みながら、どこか不満げに唇を尖らせていた。
「なんだよ、元気無いな。能天気なお前らしくない」
「えっ……? あっ、そ、そりゃあ、女子高生って悩みの多い生き物だもの。ここの人達みたいに年がら年中浮かれてないし」
あからさまに見透かされるような表情をしていただろうか。菫子は慌てていつもの減らず口を叩きつつ、いつもの斜に構えた笑みを浮かべる。
「まったく、幻想郷の人に能天気呼ばわりされるなんて私もいよいよ舐められてきちゃったかなぁ。外の世界でもっと文明的で理知的な生活を送ってるってところを、もっと知らしめてあげないと……」
あれだけ悩み、塞ぎ込んでいても、口を開けば結局変わらない言葉しか出てこない。それでも、自分を誤魔化す為にも必死になって舌を回す。
しかし聴いているのかいないのか、妹紅は相槌を打つことも無くしげしげと菫子の顔を覗きこんでいるばかり。
「……な、なによぅ、人の顔じろじろ見て」
あまりに薄い反応に言葉を切ると、いつしか色白の綺麗な顔がすぐ近くまで迫っていた。
慌てて身じろぎするが、追うように妹紅は再び迫ると、目を確りと合わせたまま神妙に頷く。
「うん、不細工な顔してんなぁと思ってさ」
いきなりなんて失礼な。そりゃあ評価されるような顔でないとは自覚しているが、改まってずけずけと言わなくても……あまりに突然の揶揄に言葉を失う菫子に、しかし悪びれるでもなく、むしろ不満そうにますます眉をひそめる。
「お前さ、何無理して笑ってるんだよ」
「む、り……? わ、私、無理なんてしてないんだけど」
「どんな美人でも、無理に笑おうとすれば不細工になるもんさ。子供が無理したんじゃ尚更だ」
「だから無理なんかしてないって言ってるでしょう、なに勝手に決めつけてるのよ!」
反駁を無視して突き付けられたにべもない子供扱いに図星を射られ、菫子はむきになって大声を上げる。
それでも勝ち気な瞳はまるで臆する事なく、次の矢を番えた。
「じゃあ、もういっぺん笑ってみなよ。私とやりあった時みたいに」
「わ、笑えって言われて笑えるわけないじゃない」
「じゃあ笑わなくたっていい、菫子の思った顔をすれば。私の事がムカついたなら目一杯怒ればいいさ」
感覚が及ぶはずもない吐息をも感じる距離まで近付いた顔は、無理に笑いを促すにはあまりに切なく、怒りを焚き付けるにはあまりに優しい表情だった。
その瞬間、菫子は自分が今どんな顔をしているのか、どんな表情を作ろうとしたのかが解らなくなってしまった。
表情を作ろうとするほどに頬が引きつり、瞼が震える。また理不尽に怒り、怒鳴って突き放そうと思っても、声が詰まり、唇が逆に歪む。
どうやっても、表情は一つにしか行き着かない。
違う、その表情じゃない、私はそんな顔したくない、彼女に絶対見せたくない……必死に抗うほどに近付くひとつの表情へ、妹紅はそっと背を押してやった。
「いいよ、泣いたって。ここには、私と菫子しかいないから」
触れられないことが解っていように、頬を撫でるように手を差し伸べてくる。
触れられていないことが解っているのに、炎を操る掌の温かさが頬に伝わってくる。
やがてその熱は小さな胸の中で詰まっていた大きな氷塊をゆっくりと溶かし、清らかな水を目から溢れ出させた。
「ほらな、泣きたい時には素直に泣くもんなんだ」
「ち、ちがぁ……ない、泣いてぇ……」
「違わない。だって今の菫子は、すごく綺麗な顔してるから」
なんて気障な、どこまで甘ったるい言葉だろう。少女漫画だってこんな台詞恥ずかしくて吐けやしない。
けれども、ぎりぎりまで張り詰めていた心の糸はその言葉に撫でられただけで、ふっつりと切れてしまうほど脆くなっていた。
「う……っ、えぅ……っ、うぇええぇ…………っ」
いつしか菫子はその場にへたりこむと、あられもなく声を上げ、零れ落ちない涙を流しながら泣きじゃくっていた。
「っなぅ……ないて、な……っぐ、泣いて、ぁいもぉ……っ!」
幼い頃から、泣くのが苦手な子供だった。
泣いても何も解決しない、泣けば弱さを見せる、泣いたら負けだ、ずっとそう思っていた。
菫子ちゃんは偉いね、菫子ちゃんはすごいね、菫子ちゃんは賢いね……泣きたくても我慢すれば、賛辞だけを浴びることができた。
けれども、そんな上辺だけの賛辞なんかよりも……
「ったく、泣きながら何言ってんだよ。菫子は馬鹿だなぁ」
そう呆れて微笑んでもらえることが、どれだけの救いになっただろう。
「ば、ばかじゃらいも……っぇえ……もこさん、がぁ、っいぢわるだかぁ……!」
「うん、うん……ごめんな。ってほら、鼻水まで垂れてるじゃないか」
妹紅は向かい合わせに腰を下ろすと、歳近い妹をあやすように微笑み掛けながら触れることのない髪を、頬を愛しげに撫で続けていた。
「うーん、そうか……こっちじゃ一時浮かれた程度の事だったが、お前にとっちゃ結局難儀な問題になっちまったんだな」
ひとしきり涙が枯れ、つっかえながらの経緯を聴いた妹紅は、小難しそうに腕組みをして誰彼時の空を見上げた。
「でも、あの狸の言う通りなら、誰かに話せばひとまず解決には近付くんだろ? さっさと誰か捕まえて話しちまえばいいのに」
「簡単に言うけど、誰に話せっていうのよ……」
「なんだ、友達いないのかお前。って私も人のこと言えるほどいないけどな、皆先に死んじまうし」
明け透けな指摘にむっとするも反応に困る重さの自虐でフォローされ、言葉に詰まってしまった。しかし当の妹紅は気にも掛けず、今ひとつ腑に落ちないといった風に首を傾げる。
「でもさ、こっちじゃそこら中に引っ張りだこらしいじゃないか。神社でお前が出て来るの待ってる奴らまでいるって聞いたぞ?」
「そんなのただ珍しいからってだけに決まってるじゃない。どうせ飽きたら誰も相手にしなくなるわ。私の世界も幻想郷も一緒よ……」
「そうか、菫子からはそう見えるんだな。でもそんな捨てたもんじゃないよ、自分のいる世界ってのは」
ふと、以前マミゾウにも投げ掛けられていた言葉に、俯いていた顔を上げる。
「まあまた偉そうなこと言っても、私もずうっとそう思ってたんだけどさ。どうせ誰も私を救ってくれない、どうせ誰も私の事なんか分かってくれないってな」
その言葉に、改めて気付く。この少女が自分が怯えていたことにも似た恐怖を、既に気の遠くなる時間その身に受けているのに親身になって考え込んでくれていることを。
「でもさ、こないだの騒動で久し振りに幻想郷をうろうろして、外の世界にまで出て気付いたんだ。何にも無いって思ってた世界って、実は私が何にも見ないで勝手に思っていた『私の』世界だったんだ」
千年以上も思い悩んでいた不死の呪いを、解決の糸口が見えているのに何を甘ったれているんだと突き放してもおかしくはない。実際、菫子が逆の立場ならば至らぬ弱さを指さして笑い、そうしていたに違いないのに。
「竹藪から一歩出ただけでも、人も景色も毎日目まぐるしく変わっててさ、毎日違う気付きにあふれてるもんなんだって。そんな切っ掛けも、オカルトボールが転がり込んで来たからなんだよ……菫子の、おかげだな」
「でも、わたし、そんなつもりでやったんじゃ……」
「ううん、今の私にとってはそれが全てなんだ。ありがとう、菫子」
真っ直ぐに向けられた言葉に、戸惑う。
誰にも理解されず、蔑まれることさえあった自分の欲求だけの産物が、まるで意図しないところで一人の少女をオカルトから日常へと還していたなんて。
「ま、都市伝説とやらになって死ねなくて難儀したら、いつでもここに来なよ。暇つぶしの仕方ぐらいなら千年分ぐらい教えてやれるし、話相手だったらそれこそ永遠になってやれる。なんなら同じ病気の奴も紹介してやるからさ」
根っからいけ好かない奴らだけど、まあアレも辛うじて友達に勘定してやるかな。またも重い事をからりと笑い飛ばす。
まったく、この不死人の少女はどこまでズレているのだろう。ここまで話したところで、何一つだって根本的な解決に近付きもしていないのに。
「だからこっちでの事は心配するな。菫子はまず、自分の世界で精一杯足掻いてみればいい。大丈夫、幻想郷の食えない連中を引っ張り回したんだ、絶対に解決出来るさ」
けれども今は、どんなもっともらしい理屈よりも、一言の『大丈夫』に救われる。
それは自分の世界から一歩も出ずに見下ろしていたら決して巡り合えない言葉だった。
「妹紅さん、その、ありが……んむ!?」
らしくない礼を口に出そうとしたその時、白く、細い指先が唇に当たった。
触れられるはずのない唇に、今度こそ実感を伴って温かくて柔らかな感触が伝わってくる。
「私はまだ、礼を言われることなんかしちゃいない。これからが本番だろ?」
気付いているのかいないのか、妹紅がまた顔を寄せると、熱い吐息がひっきりなしに頬にかかった。
不思議に思うよりも先に呼吸が乱れ、顔が茹だってくる。
「あとさ、たまにでいいから外のこと聞かせてくれよ。オカルトなんて小難しいのじゃなくて、菫子の周りのことが知りたいんだ。例えば……菫子? おーい、菫子ー?」
眼鏡越しにひらひらと手が舞うも、何の炎に焦がれたか、ぷすぷすと煙を上げそうなほど真っ赤な顔で固まるばかり。
こんなに目の前で泣きじゃくって、慰められて、撫でられて、励まされていたんだと改めて思うと、頭がぼうっとしてくる。
恥ずかしさで? いや、この気持ちは、この気持ちって、ひょっとして。
処理しきれない未知の感情は、温かな感触と共に頭の中をぐるりぐるりと廻り廻って意識をも巻き込んで……
「すみ……ふふっ、まあいいや。頑張ってきな、菫子」
言葉半ばで恥ずかしそうに自分の世界へ還ってしまった少女へ向けて、妹紅は愛おしげに呟きを送った。
§
「んぅ……んにゃ……?」
ふわふわとした暖かさに微睡みながら、意識は緩やかに現実へと浮上していく。
瞼を上げても心地よさに醒めやらず、掛けられていた肌触りの良いタオルケットを口元まで引き上げ、ぼやけた景色に目をこすりながら周囲を見渡す。
「あれ、めがねどこだっけ、めがね……」
「はい、眼鏡」
「ふぁああぁ……んむー、ありがと……って……」
久々の満ち足りた睡眠に大きな欠伸をしつつ手渡された眼鏡を掛けた瞬間、開けた視界と共に脳が現状を理解し始めた。
カップに残ったコーヒーの冷めた香りがこの場所を、すっかり陽が落ちた窓越しの景色が時計を見ずして過ぎた時間を否応なく覚えさせる。
そして……
「おはよう、よく眠れたみたいね」
「ひっ!?」
テーブルの対面には、ふわふわの金髪の少女が文庫本を片手に微笑み掛けていた。
久し振りに真っ直ぐ合わせたこちらの人の目線に、よりによって失態を見届けられてしまった焦りに、その上全く予想だにしない容姿に、パニックを通り越して腰砕けになりながらわたわたとソファの周りをまさぐる。
「すすす、すいません! え? ぁあ、あいむそーりー? いや、すぐ出ますすぐ出ますからっ! か、カバン……あれ、カバンどこっ!?」
「あ、気にしないで、もうお店閉めちゃってるから。あと日本語は通じるしカバンはカウンターの方で預かってるわ」
「へっ? あ、えっと……」
落ち着かせるようなゆったりとした口調に、改めて目の前の少女を確認する。
よく見てみれば、同じ学校の制服。留学生だろうか、ハーフだろうか。学校でも目立ちそうなのに今まで気付かなかったのは、それだけ自分が周囲を見渡せていなかったのだろうか。
「ああ、私ここの上で下宿してるの。東深見生のお客さんって珍しいし、疲れてるみたいだから起きるまで待ってあげてっておばあ……じゃなくて、マスターから鍵預かってて」
鈴のついた鍵を揺らして見せる向こうで見せる柔らかな笑顔は、口に出しかけた祖母譲りのものだろうか、不思議とそれ以上の気まずさや緊張感はなかった。
まだ夢から醒めていないような、夢の続きのような曖昧な意識の中で、菫子は何かに背中を押されるように……
「ねぇ、貴女……オカルトって、信じる?」
自然と、そう口に出していた。
「えっと、オカルトって……この本みたいな?」
突然の飛躍した話題にもかかわらず、彼女は軽く小首を傾げると革のブックカバーに包まれた文庫本の中表紙を開いてみせる。
それは、自分がまだ背伸びしてオカルトというものを知ろうとした頃に、暗記するくらい繰り返し読んだ民俗学の本と同じものだった。
「そ、それ……っ」
別段マイナーな本ではないし、読んだからといって語り合えるほどの本でもない。それでも今の菫子にとっては、暗闇を導く灯りそのもの。
「それも引っくるめて! それとメリーさんの電話もターボババァも八尺様も、最近の空飛ぶ巫女さんも、あと魔法も超能力も……ああもう、この世の中にある不思議の全てよ!」
喫茶店で閉店過ぎてまで熟睡しておきながら、起き抜けに何を突然切れて言い出したかと思われるだろう。自分だってそう思う。
ここは幻想郷じゃない。一瞬でも物珍しさで人目を引いて受け入れてくれる世界じゃない。自分だけを映している瞳が、自分の言葉を聴いてくれる耳が、自分に語りかけてくれる口が、この世界への入り口。
あの日、オカルトを集め始めて幻想へ近付いた時のように、一歩を踏み出さなければこの世界だって何も変わらない。
「わ、私、一年の宇佐見菫子って言うの。その、ひ、秘封倶楽部って同好会の会長なんだけど今会員が一人もいなくて……あで、でもっ、でも私は知ってるの、見たの、持ってるの、この世の中にある不思議を……!」
菫子は開きかけた扉の隙間へ爪を立てるように、一息にまくし立てる。
今まで誰も信じ得なかった、自分たちのある世界のオカルトを。それ以上に信じ得ない、この目で見た幻想の世界を。そして、誰も信じるに至らず内に秘めていた自分の超能力のことを。
言葉足らずを継ぎ足し、つっかえては言い直し、それは饒舌で流暢ないつもの口調とは程遠いものだった。
オカルト騒動の事情を知る者からすれば、見えない恐怖に駆られた情けない、独り善がりな動機だと笑うだろう。己の不始末を血眼になって埋め合わせようとする滑稽な画だと笑うだろう。
彼女を知る者からすれば、後ろ足で掛けた砂を必死で掘り起こす無様を指さして笑うに違いない。
「……それで、それで私、オカルトボールっていう……っ」
「ちょっと待って!」
突如眉間に皺を寄せ、金髪の少女は一方的な菫子の話を遮った。
「えっと、その話……まだ長くなる?」
あれほど穏やかだった表情の変化に、菫子は熱に浮かされた幻想から引き戻される。何も変わっていなかった、現実の世界へ。
もういいわ、所詮貴女程度じゃ解らないわよね……そう、いつもの言葉が口をつきかける。そう言って突き放せば、今まで傷付くことなんてなかったんだから。
でも本当は寂しくて、信じてって叫び出したかったんだ。傷ついて、泣き出したかったくせに、無理して嘲笑を浮かべていたつもりだった自分はどんなに不細工な表情をしていたんだろう。
でも、今は……
――だからこっちでの事は心配するな。菫子はまず、自分の世界で精一杯足掻いてみればいい。
今の私には、たとえ大失敗してぼろぼろに負けて泣いても、夢の向こうでまた私を励ましたり突っついたり拳骨したり、支えてくれる存在があるんだ。
大きく深呼吸すると、菫子はあるがままの表情で向き直った。
「そうね、長くなるわ。ここからは貴女が知りたい不思議の分だけね!」
傲慢の一歩手前の自信に満ちた、不敵で素敵な笑みが自然に浮かぶ。
その笑みに惹かれるように少女の表情は柔らかさを通り越して弾け、好奇心に満ちた不思議な色の瞳を一際輝かせた。
「よかったぁ! あのね、今の話で不思議に思うことがいっぱいあったの。えっとまずはその幻想郷っていう世界のことでしょう、それと……」
目の前の表情に、視界が音を立てて開かれたような気がした。
そうか、これが、私の見ていなかった世界。これから、歩き出す世界。
「あ、その前にコーヒーが足りないわね、ちょっと淹れてくるけど何飲みたい?」
「えっ? あ、私はもう……」
今はまだ、歩みはおぼつかないけれど、きっとその先を照らしてくれる灯りがある。
「おばあちゃんにツケちゃうから気にしないで。こう見えても修行中だから自信あるの、貴女は……菫子はそのカフェインレスのブラックでいい?」
「うん、私、コーヒーのことよくわかんないから任せる! あと牛乳とお砂糖目一杯入れたのも頂戴!」
いつしかランプの灯りの下は、温かなコーヒーとミルクの香りに包まれ、飾ることのない言葉が飛び交っていた。
この日夜通し語ったことは、女子高生の他愛ない雑談の範疇を出なかったかもしれない。出会った少女とは、もう顔も合わせる事がないのかもしれない。
それでも、この瞬間、確かに踏み出していた。
現世と幻想の不思議に敢然と立ち向かう秘封倶楽部、そして初代会長宇佐見菫子の新たな一歩を。
了
最後のはメリーの血縁かなぁとか妄想書きたてられる
菫子が今後どんな風に成長していくのか楽しみです
しかし妹紅のイケメン度がすごい…
これだけの体験をして誰にも話せないのは確かにつらいだろうな。
もこたんも相変わらずのたらしっぷりでよかったです笑
そう思えるくらいの出来だった!
妹紅さんこれはイケメンですわ。藤原・イケメン・妹紅ですわ