滋味が足りないのだと二ツ岩マミゾウは思った。
寺に居候しているから贅沢は言えないのだけれどしかしながら三食共に精進料理では閉口してしまうものだ。
勿論別に仏道に帰依した覚えもないので何を食べようと自由ではあるけれど、やはり瓦葺きの住処は居心地が良いという事で普段命蓮寺に居る事が多いから自然精進料理を口に入れる機会が多々なる。
無論味は悪くない。
献立も凝っている。
例えば今夜の膳は青呉汁に蓮根の饅頭、豆腐の蒲焼きにイチジクの寄せ物と全く悪くない。
むしろ食も進むしこれに一献付けば場所も相まって高級料亭の趣であろう。
しかしながら三食ともこの調子では如何にも根が狸である事がどれほど関わりがあるか疑問だったが物足りなさを感じてしまうのも致し方無いだろう。
聖白蓮の方針によって基本的に殺生を禁じられているからそこら辺に居る人間を取って食べる事は出来なかった。
これは幻想入りした際に大いに失望した点である。
幻想入りすれば人間は食べ放題だと勝手に思っていたので誘われてホイホイやってきたから落胆は大きかった。
勿論全く食べられないという訳でもないのでしかるべきコネからの手続きを踏めば年に数回は人間の肉を口に入れる事は出来るから外の世界よりはマシといえばマシであった。
「とはいえ」
こんな生活があと十数年も続くかと思うと若干気鬱になるというものである。
実は、外の世界では会社勤めをしていた過去がある。
日本橋は兜町の短資会社で主に銀行間市場を舞台に無担保及び有担保のコール物を扱っていた。
辣腕から初の女性営業部長に就任して精鋭の十数名の部下を従えて日々東京のど真ん中でデカイ取引に手を染めていた。
日銀の介入を具体的にオペレーションするなどは勿論日常業務だったし例の米投資銀行破綻から始まった市場の機能不全の際にはそれこそ八面六臂で諸々の銀行が破綻しないように資金を融通しようと血を吐く思いで頑張ったりもした。
けれど、あまり色々派手にやり過ぎた挙句各種マスコミにやり手の美人短資マン、働く女性の希望の星等と持ち上げられてしまい取材に次ぐ取材によって文字通り尻尾を掴まれそうになっていたタイミングで封獣ぬえという昔の馴染みの妖怪から幻想郷に来て欲しいというオファーがあったので一も二もなく飛びついた次第なのである。
殆どアイドル扱いをされ始めてからは自宅の代官山のマンションにまで記者とカメラマンが平気で張り付くようになって、自宅では素の姿を晒すようにしていたので気が気ではなかったからぬえの誘いはまさに渡りに船であった。
生来算術が得意であったからそれを実用できる商行為というものが好きだった。
特に金が金を生む金融という仕組みには大変な親和を感じていたし事実性に合っていたので幾つもの会社を渡り歩いたものだ。
銀行・証券の区別なく先物や不動産の会社に居たこともある。
業界は比較的人材が流動的だったから転職に転職を重ねても訝しがる者があまりいないドライな人間関係にも魅力を感じていた。
そして殆ど完璧な成果主義、即ち儲けたものが、実績を上げた者が報われるシステムも魅力的だった。
他人を蹴落とし儲けようとする人間の欲望が剥き出しの金融業界の最前線の激しい世界でしのぎを削る日々は大変な充実感があった。
人間風情が、と口では馬鹿にするけれども一握りの優秀な人間たちに関しては時に畏敬の対象となる者も居て刺激的だった。
そうして日々忙しなく働いていれば退屈から始まる気鬱や狸社会の今後という本来向き合わねばならぬ重大な課題から目を逸らす事が出来るから年を重ねる程に仕事に熱中していったのである。
このようにして明治の終わり頃から平成の二十数年まで二ツ岩マミゾウは時に手を変え品を変え姿を変えて日本経済の隆盛に関わって来たのであった。
それは時に震災で焼かれ戦災で焼かれてなお鮮やかに復興してきた日本や東京と歩んだ歴史でもあった。
戦後は女の容姿が得をする時代だから女の格好で働いていた奢りというかツケが回ってきたのである。
けれども時にそういう事もあるのだと受け入れるのは難しい事ではなかった。
ところで、会社員であった頃はそれこそ毎夜のごとく飲みに出歩いたものだ。
夜といえば浴びるほど酒を飲む時間だった。
なにせ金は唸るほど稼いでいるから使うに困るほどでまさか貯金などしても仕方がないので日々贅沢をしていた。
どれだけ飲んでも飲み足りず日々帰りは午前様であったけれど朝になればガバっと起床して狸特有の早着替えですっかり容姿を整えると満員電車をものともせず出勤したものだ。無論自炊など一度もしたことがない。
そういう生活を十年続けてある日会社を辞めて身を隠して身分を偽ってまたどこぞの会社で十年働くのである。
何故ならば十年もの間容姿が変わらないというのは人間社会において許される事ではなかったので訝しがられる前兆を感じたら会社を辞めるようにしていた。だいたい訝しがられるのが十年ほどだという訳だ。
この度はそのサイクルが訪れる前にまさに尻尾を掴まれそうになったから、そして幾つも用意してある偽りの身分証にも限界が来ていたので緊急避難として幻想郷に逃げ込む事にしたのだ。
如何にも幻想郷とは逃げこむのに好都合な世界であった。
この世界で十数年やり過ごしてほとぼりが冷めたらまたぞろ外の世界に帰る腹づもりだった。
それまでは多少長いバケーション。
激しい世界から離れての魂の休日だと決め込んだ次第である。
帰る方法は今のところ不明であったけれどまあそこは多分何とかなるだろうと楽観しているのであるが。
まあ、それはさておき滋味が足りないとマミゾウは雲居一輪とのお喋りに夢中な村紗水蜜の膳に乗っている白玉団子の胡麻酢和えをひとつ掠め取り口の中に入れた。
旨い、けれどそういう問題ではないのである。
もっと、こう、質の良い肉や魚を大量にガツンと食べたい。
それが無理ならせめて卵をたっぷり食べたいものだと心のなかで独りごちた。
この基本的に山間部に存在する幻想郷に十分な耕地面積は存在せず家畜を養う平地も存在しなかったから食料が如何に生産されて供給されているのかという問題については常に不安定で多くの謎に包まれていた。
別に、妖怪は物を食べなくても人間ほどは致命的な問題にはならない。
単に慣習的に食べていないと不安を感じるから何かを口にしているに過ぎない。
故にこの食料供給という普通は根源的で重大な問題はさほど追求されずに現在に至っている。やはり命に直結しない問題をイタズラに追求しても詮無き事ではあるが。
しかしながら特に人間社会でどっぷり暮らしていたマミゾウにとって日々の三度の喫食とはまさにそれは拭い難き慣習であった。
そしてどうせ口に食べ物を入れるのならば良い物を、と願うのはそんなに罪な事であろうか。
幻想郷にはどういう訳か卵も肉も海産物も存在する。
人里の市場に行けば高価であるが買うことも出来る。
けれどもそれらの素材を滋味にまで引き上げられてはいなかった。
人里の料理はマミゾウからすれば如何にも田舎料理で野暮で野卑ていた。
それは競争相手が不在している故に実に適当な調理品であっても売れてしまうので料理の質的向上が図られにくいという環境に原因があった。
そしてそれが当たり前の世界にあってはその事に対して不満を持つ者もまたいない訳であるからまさに如何ともし難かったのである。飲食業界をどうにか出来る力量はマミゾウに備わっていなかったのだ。
思い出されるのは日本橋の洋食屋だ。
それでなくとも東京の洋食屋の旨さというのはどうだろう。
本場のフランスやイタリアやドイツであろうとも引けをとらない味を実に廉価で提供しているではないか。
そして今、マミゾウが真剣に口にしたいと思っているのがオムライスであった。
それも只のオムライスではない。東京は日本橋のたいめいけんのタンポポオムライスだ。創業当時から知っている老舗の洋食屋である。
たかがオムライスと侮るなかれ。
その味わいは選びぬかれた素材と熟練の包丁人の業の結晶である。
たいめいけんは元々メニューに関しては普通の洋食屋であったがとある映画に取り上げられた事によってオムライスが名物料理になった。
名物タンポポオムライスはケチャップライスの上に乗せたオムレツを自分で切って広げて食べる。
如何にも老舗の店が拵えた白い洋皿にチキン、マッシュルーム、グリンピースを使ってケチャップで味付けされた伝統的なケチャップライスの上に燦然と輝く太陽のような黄色のオムレツが乗るその様は洋食屋の真髄だとマミゾウは信じて疑わなかった。
素朴であるがゆえに嘘や誤魔化しが利かない味だ。
オムレツの中身はそこいらの素人では到底作り出せない魅惑のトロトロふわふわである。
その魅惑の料理を洋食の包丁人はフライパンの火加減ひとつで作り出すのだ。
これこそは厳しい修行を積んだ包丁人が卵料理を極めて初めて提供出来る業の逸品なのである。
前菜のボルシチとコールスローも忘れてはならないだろう。
一口食べればこの店の志の高さを実感する事が出来る筈だ。
マミゾウはそれこそ東京中の名店という名店に足を運んで旨いものをたらふく食べてきたけれど、今、切実に食べたいのは何故かオムライスなのであった。
職人が作り出す洗練された洋食を口にしたいと切実に願っているのだ。
けれども、
今は我慢の子だ。
いずれ帰ってみせる。
今は、狸寝入りだがな。
二ツ岩マミゾウはオムライスの事ばかり考えながら気もそぞろにイチジクの寄せ物を食べ終えると私の白玉団子を盗っただろうと不毛な争いを続ける村沙水蜜と雲居一輪を横目に人里で一杯やるかと聖白蓮の咎めるような視線を躱しながら夜の里に消えていったのである。
寺に居候しているから贅沢は言えないのだけれどしかしながら三食共に精進料理では閉口してしまうものだ。
勿論別に仏道に帰依した覚えもないので何を食べようと自由ではあるけれど、やはり瓦葺きの住処は居心地が良いという事で普段命蓮寺に居る事が多いから自然精進料理を口に入れる機会が多々なる。
無論味は悪くない。
献立も凝っている。
例えば今夜の膳は青呉汁に蓮根の饅頭、豆腐の蒲焼きにイチジクの寄せ物と全く悪くない。
むしろ食も進むしこれに一献付けば場所も相まって高級料亭の趣であろう。
しかしながら三食ともこの調子では如何にも根が狸である事がどれほど関わりがあるか疑問だったが物足りなさを感じてしまうのも致し方無いだろう。
聖白蓮の方針によって基本的に殺生を禁じられているからそこら辺に居る人間を取って食べる事は出来なかった。
これは幻想入りした際に大いに失望した点である。
幻想入りすれば人間は食べ放題だと勝手に思っていたので誘われてホイホイやってきたから落胆は大きかった。
勿論全く食べられないという訳でもないのでしかるべきコネからの手続きを踏めば年に数回は人間の肉を口に入れる事は出来るから外の世界よりはマシといえばマシであった。
「とはいえ」
こんな生活があと十数年も続くかと思うと若干気鬱になるというものである。
実は、外の世界では会社勤めをしていた過去がある。
日本橋は兜町の短資会社で主に銀行間市場を舞台に無担保及び有担保のコール物を扱っていた。
辣腕から初の女性営業部長に就任して精鋭の十数名の部下を従えて日々東京のど真ん中でデカイ取引に手を染めていた。
日銀の介入を具体的にオペレーションするなどは勿論日常業務だったし例の米投資銀行破綻から始まった市場の機能不全の際にはそれこそ八面六臂で諸々の銀行が破綻しないように資金を融通しようと血を吐く思いで頑張ったりもした。
けれど、あまり色々派手にやり過ぎた挙句各種マスコミにやり手の美人短資マン、働く女性の希望の星等と持ち上げられてしまい取材に次ぐ取材によって文字通り尻尾を掴まれそうになっていたタイミングで封獣ぬえという昔の馴染みの妖怪から幻想郷に来て欲しいというオファーがあったので一も二もなく飛びついた次第なのである。
殆どアイドル扱いをされ始めてからは自宅の代官山のマンションにまで記者とカメラマンが平気で張り付くようになって、自宅では素の姿を晒すようにしていたので気が気ではなかったからぬえの誘いはまさに渡りに船であった。
生来算術が得意であったからそれを実用できる商行為というものが好きだった。
特に金が金を生む金融という仕組みには大変な親和を感じていたし事実性に合っていたので幾つもの会社を渡り歩いたものだ。
銀行・証券の区別なく先物や不動産の会社に居たこともある。
業界は比較的人材が流動的だったから転職に転職を重ねても訝しがる者があまりいないドライな人間関係にも魅力を感じていた。
そして殆ど完璧な成果主義、即ち儲けたものが、実績を上げた者が報われるシステムも魅力的だった。
他人を蹴落とし儲けようとする人間の欲望が剥き出しの金融業界の最前線の激しい世界でしのぎを削る日々は大変な充実感があった。
人間風情が、と口では馬鹿にするけれども一握りの優秀な人間たちに関しては時に畏敬の対象となる者も居て刺激的だった。
そうして日々忙しなく働いていれば退屈から始まる気鬱や狸社会の今後という本来向き合わねばならぬ重大な課題から目を逸らす事が出来るから年を重ねる程に仕事に熱中していったのである。
このようにして明治の終わり頃から平成の二十数年まで二ツ岩マミゾウは時に手を変え品を変え姿を変えて日本経済の隆盛に関わって来たのであった。
それは時に震災で焼かれ戦災で焼かれてなお鮮やかに復興してきた日本や東京と歩んだ歴史でもあった。
戦後は女の容姿が得をする時代だから女の格好で働いていた奢りというかツケが回ってきたのである。
けれども時にそういう事もあるのだと受け入れるのは難しい事ではなかった。
ところで、会社員であった頃はそれこそ毎夜のごとく飲みに出歩いたものだ。
夜といえば浴びるほど酒を飲む時間だった。
なにせ金は唸るほど稼いでいるから使うに困るほどでまさか貯金などしても仕方がないので日々贅沢をしていた。
どれだけ飲んでも飲み足りず日々帰りは午前様であったけれど朝になればガバっと起床して狸特有の早着替えですっかり容姿を整えると満員電車をものともせず出勤したものだ。無論自炊など一度もしたことがない。
そういう生活を十年続けてある日会社を辞めて身を隠して身分を偽ってまたどこぞの会社で十年働くのである。
何故ならば十年もの間容姿が変わらないというのは人間社会において許される事ではなかったので訝しがられる前兆を感じたら会社を辞めるようにしていた。だいたい訝しがられるのが十年ほどだという訳だ。
この度はそのサイクルが訪れる前にまさに尻尾を掴まれそうになったから、そして幾つも用意してある偽りの身分証にも限界が来ていたので緊急避難として幻想郷に逃げ込む事にしたのだ。
如何にも幻想郷とは逃げこむのに好都合な世界であった。
この世界で十数年やり過ごしてほとぼりが冷めたらまたぞろ外の世界に帰る腹づもりだった。
それまでは多少長いバケーション。
激しい世界から離れての魂の休日だと決め込んだ次第である。
帰る方法は今のところ不明であったけれどまあそこは多分何とかなるだろうと楽観しているのであるが。
まあ、それはさておき滋味が足りないとマミゾウは雲居一輪とのお喋りに夢中な村紗水蜜の膳に乗っている白玉団子の胡麻酢和えをひとつ掠め取り口の中に入れた。
旨い、けれどそういう問題ではないのである。
もっと、こう、質の良い肉や魚を大量にガツンと食べたい。
それが無理ならせめて卵をたっぷり食べたいものだと心のなかで独りごちた。
この基本的に山間部に存在する幻想郷に十分な耕地面積は存在せず家畜を養う平地も存在しなかったから食料が如何に生産されて供給されているのかという問題については常に不安定で多くの謎に包まれていた。
別に、妖怪は物を食べなくても人間ほどは致命的な問題にはならない。
単に慣習的に食べていないと不安を感じるから何かを口にしているに過ぎない。
故にこの食料供給という普通は根源的で重大な問題はさほど追求されずに現在に至っている。やはり命に直結しない問題をイタズラに追求しても詮無き事ではあるが。
しかしながら特に人間社会でどっぷり暮らしていたマミゾウにとって日々の三度の喫食とはまさにそれは拭い難き慣習であった。
そしてどうせ口に食べ物を入れるのならば良い物を、と願うのはそんなに罪な事であろうか。
幻想郷にはどういう訳か卵も肉も海産物も存在する。
人里の市場に行けば高価であるが買うことも出来る。
けれどもそれらの素材を滋味にまで引き上げられてはいなかった。
人里の料理はマミゾウからすれば如何にも田舎料理で野暮で野卑ていた。
それは競争相手が不在している故に実に適当な調理品であっても売れてしまうので料理の質的向上が図られにくいという環境に原因があった。
そしてそれが当たり前の世界にあってはその事に対して不満を持つ者もまたいない訳であるからまさに如何ともし難かったのである。飲食業界をどうにか出来る力量はマミゾウに備わっていなかったのだ。
思い出されるのは日本橋の洋食屋だ。
それでなくとも東京の洋食屋の旨さというのはどうだろう。
本場のフランスやイタリアやドイツであろうとも引けをとらない味を実に廉価で提供しているではないか。
そして今、マミゾウが真剣に口にしたいと思っているのがオムライスであった。
それも只のオムライスではない。東京は日本橋のたいめいけんのタンポポオムライスだ。創業当時から知っている老舗の洋食屋である。
たかがオムライスと侮るなかれ。
その味わいは選びぬかれた素材と熟練の包丁人の業の結晶である。
たいめいけんは元々メニューに関しては普通の洋食屋であったがとある映画に取り上げられた事によってオムライスが名物料理になった。
名物タンポポオムライスはケチャップライスの上に乗せたオムレツを自分で切って広げて食べる。
如何にも老舗の店が拵えた白い洋皿にチキン、マッシュルーム、グリンピースを使ってケチャップで味付けされた伝統的なケチャップライスの上に燦然と輝く太陽のような黄色のオムレツが乗るその様は洋食屋の真髄だとマミゾウは信じて疑わなかった。
素朴であるがゆえに嘘や誤魔化しが利かない味だ。
オムレツの中身はそこいらの素人では到底作り出せない魅惑のトロトロふわふわである。
その魅惑の料理を洋食の包丁人はフライパンの火加減ひとつで作り出すのだ。
これこそは厳しい修行を積んだ包丁人が卵料理を極めて初めて提供出来る業の逸品なのである。
前菜のボルシチとコールスローも忘れてはならないだろう。
一口食べればこの店の志の高さを実感する事が出来る筈だ。
マミゾウはそれこそ東京中の名店という名店に足を運んで旨いものをたらふく食べてきたけれど、今、切実に食べたいのは何故かオムライスなのであった。
職人が作り出す洗練された洋食を口にしたいと切実に願っているのだ。
けれども、
今は我慢の子だ。
いずれ帰ってみせる。
今は、狸寝入りだがな。
二ツ岩マミゾウはオムライスの事ばかり考えながら気もそぞろにイチジクの寄せ物を食べ終えると私の白玉団子を盗っただろうと不毛な争いを続ける村沙水蜜と雲居一輪を横目に人里で一杯やるかと聖白蓮の咎めるような視線を躱しながら夜の里に消えていったのである。
見える……バリバリやってた過去を過去とし、このまま幻想郷の停滞と自堕落に飲まれて動物園の狸になってしまうマミゾウさんが見える……
しかしただ物思いにふけているだけなのに、なんとも明るくて行動的な内容でした
お腹が減ってくる描写ですね。今度東京行った時に、機会があれば食べてみたい。
時代も変わり、今では定番であり、セブン&アイグループにも名を連ねる歴史の洋食屋。
その機微や今の世情を鑑みると、もう少し作品に味も出せたのでは?とは思いもすれ、マミゾウのキャラクターを新たに作ったようなこの作品こそはオムライスという洋食創世記の発明を鑑みるようである。