「これがその葛籠ですか?」
東風谷早苗は、古ぼけた葛籠を前に博麗霊夢に尋ねた。2人がいるのは博麗神社の倉庫。早苗は、見てもらいたいものがあると霊夢に招かれて神社へとやってきていた。
「ええ、そうよ」
「へぇ、どれどれ」
早苗は葛籠を手にとって眺めてみた。外見はなんの変哲もなく、手にかかる重さから中は空っぽであることが伺えた。
一見ただの葛篭であるが、この葛籠に何か見るべき所があるとすれば、それは底に張ってある紙の文面である。
早苗は葛籠をひっくり返して、それを口に出して読んだ。
「『巫女二人でのみ開く』……ですか。この葛籠はいつからここにあったんですか?」
早苗は葛籠を床に戻して、質問した。
「気づいたらあったって感じね。多分、私が産まれる前から神社にあったんじゃないの?」
霊夢は倉庫にある物は、その正体をほぼ把握していたが、この葛籠だけは唯一正体不明のままであったのだった。
気になるといえば気になる存在ではあったが、かといってどうしても中身を見てみたいかと言えばそうでもなく、霊夢はその葛籠のことを放ったらかしていたのだが、東風屋早苗という巫女の友人を得て、この葛籠のことを思い出したのであった。
『巫女が二人でのみ開く』
以前霊夢は思いつく限りの方法を一人で試してみたが、葛籠は開く事はなかった。
しかし今この場には巫女が二人いる。果たして。
「この中には何が入っているんですかね?」
早苗は再び葛籠を手に取って、軽く振りながら霊夢に尋ねた。
「中身が分からないから、貴女を呼んだんじゃない」
「あ、いえ、推測の話です。霊夢さんはこの中には何が入っていると思っているんですか?」
「この葛籠の中身ねぇ。あんまり気にした事もないわ。私としては開けられないから気になってるだけで、中に何が入ってるかはどうでもいいのよ」
霊夢はすげなく言う。
しかし、わざわざ巫女二人と指定してまで中を覗けなくなっているような葛籠である。中に容易ならざるものが入っている可能性も、霊夢は当然想定している。
中に、過去の博麗の巫女が封印した大妖怪か、はたまた稀少な神具が入っているかもしれない。
仮に中身が害ある物であっても対処できる自信くらいは霊夢はもっている。
「この文面『巫女二人』っていうのですが、やはり気になりますね。私は確かに守谷神社の巫女ですが、どんな巫女でも二人いればいいんでしょうか?」
「それは、どういう意味?」
「この葛籠の中には博麗の巫女にとって大事なものが入っているという可能性もあります。例えば代替わりをする時に必要な引き継ぎの道具とか。もしそうなら、この『巫女二人』というのは『博麗の巫女が二人』と意味であって、私では役者不足になってしまいますね」
霊夢は、ふむと頷いて早苗に応えた。確かにその可能性もなきにしもあらずである。わざわざ博麗神社の倉庫にあるのだから神社の備品として使われるものだとしても不思議ではない。
霊夢は自分に思いつかなかった想定をした早苗に対して『聡い』と感じた。
霊夢は、聡い人間は嫌いではない。博麗霊夢の近くにいる人間で、このタイプは珍しかった。霊夢にとって一番親しいであろう人間の霧雨魔理沙は早苗ほどに頭の回転は早くない。しかしそれは魔理沙の頭が悪いのではなく、彼女がまだ幼いという要因が大きい。
東風屋早苗は、魔理沙よりもいくつか歳上な分、思考が成熟している。自分の言葉に響くように返答をしてくれるのは、会話をしていて霊夢にとって心安かった。東風谷早苗は最近幻想郷に来たばかりの新参者であるが、いい友人を得たと改めて霊夢は思う。
しかし一方で、東風屋早苗が自分をどう思っているか、霊夢は想像してみたりもする。
新参者の早苗にとって幻想郷で影響力のある自分とのコネクションは、喉から手を出してでも欲しいものである。それくらいの自覚は霊夢にもある。
だから、もしかしたら早苗は、自分に対して上辺だけで付き合っているのではないかという漠然とした心配もあった。田舎育ちの自分と違って早苗があか抜けていることも、それに拍車をかける。
こんな心配は、幼なじみで能天気な魔理沙に対してはする必要のないものであった。
自分が他人にどう思われているか不安になるのは霊夢くらいの歳であればよくあることなのだが、同じ年頃の人間に余り触れずに育ってきた彼女にはそんなことは分からない。
「霊夢さん、それで、どうします?」
「どうって?」
「結局、この葛籠開けるんですか?」
早苗は葛籠の中身が、神社の外部の者に見られてはいけないものである可能性を心配していた。確かに、霊夢に誘われた上での行動であるが、知ってはいけないものを知ってしまった場合に、その過程が問われないことは、どこの世界でも常識である。
まさか消されるなんてことはないだろうけど、新参者がトラブルを、しかも博麗神社と起こすのは彼女にとって避けたい所である。
「もちろん開けるわよ。その為に貴女に来てもらったんだから」
「そうですか」
早苗は相槌をうって葛籠に目をやった。彼女もこの開かずの葛籠の中身を見てみたいという気持ちもある。元々好奇心の強い少女であった。
「さて……じゃあ早速開けてみましょう!」
いざ開けると決めた早苗は意気揚々と葛籠に手を伸ばした。霊夢は「どうやって葛籠が巫女二人を認識するのだろう。私も一緒に開けた方がいいのかしら」などと思っていたが、パカリと音がして葛籠の蓋が開いてしまった。霊夢があれほど工夫しても一切開かなかった葛籠の蓋があっさりと開いたのである。
「あら、簡単に開いちゃいましたね」
流石に早苗も拍子抜けしたようだった。
「……中には何が入ってるの?」
「ちょっと、待って下さい……これは、んん??」
葛籠を覗き込んだ早苗が不穏な気配に気づいたのは一瞬であった。気づいた時の声は間の抜けたものであったが、それが何か認識した時、早苗は戦慄せざるを得なかった。
「どうしたのよ、早苗。中に何があったの?」
「霊夢さんだめです! こっちにきちゃ!」
絶叫にも近い声で早苗が怒鳴ったのと、葛籠の中から数十の黒い手が飛び出してきたのは同時であった。
ヌルヌルと蠢く黒い手は素早く早苗と霊夢に襲いかかり、体に纏わり付いた。
「くっ、これは……」
瞬間、霊夢は早苗の身体を思い切り引き寄せて、倉庫の外の方向へ投げ飛ばした。その間に黒い手は凄まじいスピードで二人に襲いかかり、霊夢は反撃を試みる暇もなく、黒い手に動きを奪われ指一本動かせなくなってしまった。
霊夢に投げ飛ばされた早苗も、既に黒い手に足を押さえ込まれ、あっという間に数多の黒い手は体を顔をがんじがらめに縛り付け、黒い塊となりつつあった。
黒い手が霊夢と早苗の口を塞いでしまい、しばらくは二人のくぐもった声が聞こえていたが、数秒後にそれも聞こえなくなってしまった。
早苗と霊夢の二つの黒い塊はその源である葛籠に引き寄せられ、ガコンと中に吸い込まれた。黒い手もそれに続き、一本の手が葛籠の蓋を拾って被せた。
そして、倉庫にはシンとした静寂が戻る。
二人は葛篭の中へ。
☆ 幕間その1 ☆
『たぶん仲良くはなれない』
それが幻想郷に新しい巫女がやってきたと聞いた時の霊夢の素直な感想であった。
霊夢は、巫女という人種のろくでもなさを実によく理解していた。巫女の性格も当然人それぞれではあるのだが、しかし結局根っこの部分では神に仕える身であり、融通がきかず妄信的であることは彼女たち全てに共通していた。巫女同士はけして相容れない存在である。教義が違うのだから。
この国の場合は相手の教義と存在を全否定しないという点ではまだ寛容ではあったが、それでもやはり仲良しこよしとはいかないものである。ふとした瞬間に感じてしまう違和感や壁。それらが長く交わる事を許してくれない。経験上、霊夢はそれを知っている。
だから博麗霊夢は、新しい巫女に全く期待していなかったのである。けして上辺以上に自分とは交わる事はないと。
第一印象は悪くなかった。山へ向かった霊夢を弾幕で迎えた東風屋早苗の姿は、霊夢にどことない涼しさを感じさせた。見目もいいとも思った。きっと幻想郷に来る前は、男に好かれた事だろうと想像して、やっぱり自分とは合わなさそうと霊夢は感じた。
異変を終えたあとは、博麗の巫女としての職務を果たしに、霊夢は守矢神社へと近づいた。新参者に対して、幻想郷に早く慣れてもらえるようにするのも巫女である彼女の仕事である。
守矢神社からは代表者として、件の東風谷早苗が出てきた。触りだけの挨拶を交わした後に、幻想郷の基本的な知識について話しながら、ぶらりと郷を一周回ってここの有力者や名所などを早苗に教え込む。
東風谷早苗はどこか緊張しているようであった。会話は普通にできるのだが、どこか肩に力が入っていて、ぎこちない。霊夢は自分でも愛想がない方とは自覚していたので、それも仕方ないと考えた。こういう時に適当に笑顔でも作れるのならば、相手の堅さをとることが出来るのかもしれないが、そんな器用なことは彼女には難しかった。何事もそつなくこなすことの出来る霊夢でも、やれないこともある。
しかし、ぎこちないながらも二人だけで一日過ごしていれば、段々と慣れてくる事もある。早苗は霊夢の思っていたよりもずっと親しみやすい性格をしていた。霊夢の話をふむふむと真剣に聞いて、生真面目にメモなんかもとったりしながら、霊夢の興味に応じて外の世界の話もしてくれた。元々歳も近い同性同士であるので打ち解けるのも早かった。
「明日、時間ある?」
早苗にそう告げたのは、その日の別れ際であった。霊夢の義務は今日だけでおしまいであるが、この子が早く幻想郷に馴染めるように、もう少しだけ世話をしてやろうと彼女は考えたのである。
早苗は面食らったように驚いた様子を見せた。
「え、なんでですか?」
「なんでって……ほら、まだ里の中とか案内してないし。美味しい甘味処とか一緒にいかない?」
まるで好きな異性をデートに誘うようだなと霊夢は思った。早苗は少し間を開けてからOKの返事をする。
そして次の日。
「えっ、じゃあ霊夢さんって幻想郷のお偉いさんとかじゃないんですか!?」
「違うわよ、私はただの下っ端の境界守だから、あんたの勘違い」
「なーんだ、じゃあペコペコビクビクして損しちゃいましたよ。もし粗相でもして機嫌を損ねたら守矢神社存続の危機かと思って私すごい怖かったんですからね」
二度目ともなると二人の距離はもっと近づく。ちょっとした冗談や笑い話も会話の中に挟まれるようになる。
甘味処に寄ってから里をブラブラしたあと二人は居酒屋に入ったが、早苗は未成年だからと飲酒を断った。幻想郷ではそんなもの関係ないと霊夢が言っても聞かず、仕方なくウーロン茶で乾杯をする。
「っていうか、その『霊夢さん』っての止めなさいよ。私のが年下なんだし。敬語も使わなくていいから」
「霊夢さんのが幻想郷じゃあ古参ですし、巫女としても先輩になりますから、私としてはこの方がしっくりくるんですけどねぇ。敬語使われるのはイヤですか?」
「イヤって訳じゃないけどさ。敬語使われると何となく壁があるように感じちゃうっていうか……」
霊夢の言葉に、早苗はニコりと嬉しそうに笑った。脈絡のない早苗の笑みに、霊夢は怪訝そうな顔をする。
「あ、いえ済みません」
早苗はそう言って謝ったが、その笑顔の理由までは説明しなかった。
その日の別れ際、霊夢は「暇があったらうちに遊びにきなさいよ」と早苗に告げ、それを聞いた早苗はもう一度、満面の笑みを作った。
それからも二人は度々、同じ時間を過ごすようになるのだった。
霊夢の「仲良くなれない」という予想は外れた。未来予知とまではいかなくとも先をも見通す力に長けた彼女には珍しいことである。
東風屋早苗は、博麗霊夢にとって必ずしも相容れない存在ではなかった。
博麗霊夢は明るく人当たりのよい東風谷早苗に対して好感を持ち、一方の早苗も巫女の先輩として霊夢には敬意と友愛を持って接してくれた。
早苗は、霊夢にとっての数少ない人間の友達の一人になった。
☆ ☆ ☆
霊夢が目を覚ました時、辺りは真っ暗であった。長い間気を失っていた影響なのか、頭は朦朧として体がダルい。
一体私はどうしてしまったのか。霊夢は最後に残っていた記憶を辿る。
(確かあの時は、早苗が葛籠を開けて、そこから黒い手が出てきて……そうだ、私たちは妖怪に襲われたんだ……)
完全に油断であった。不意打ちとはいえ博麗の巫女が妖怪に身柄を拘束されるなんてことはあってはならないことである。弾幕ごっこが普及し終わったことで、自分の心に隙間が出ていたのか……こんなことでは、またあの人に叱られてしまうではないか。
霊夢は首をふって思考を鮮明にしようと試みた。
妖怪に囚われたとは言っても、まだ殺されてはいない。手も足も感覚があるから四肢を捥がれたわけでもないし、手錠や足枷もついていない。闇の中ではあるが、目をつむると光彩が見えるので、目を潰された訳でもなさそうだ。
妖怪がなぜ自分たちを引き込んだのかは分からないが、さっさとここから出なければ。
霊夢はそこまで考えて、自分の体にある違和感を覚えた。
(あれ、もしかして今、私……裸? ていうか全裸になってる?)
霊夢は襲われる前に着ていた巫女服はおろか、胸にまいていたさらしや下着すら身につけていなかった。髪飾りすらない。今の彼女は何一つ身に付けていない産まれたままの姿であった。
人間を性的に襲う妖怪というのも存在する。あるいは人間の女性の卵巣や直腸を自らの生殖に利用するという、霊夢からしても悍ましい妖怪というのも聞いた事がある。
(まさかその手の妖怪だったの!?)
霊夢はゾッと背筋を凍らせた。
体のどこにも痛みはない。霊夢が眠っている間に何かしらされていたのならば、どこかしらに痛みがあるだろうが、倦怠感はあれど痛みを感じることはなかった。だが、マヒ毒のようなものを使われていたら……。霊夢は恐る恐る、自分の体に手を這わせた。もし自分の体に異変があれば、血や精液など妖怪の(または霊夢の)体液が指に触れる筈である。
だが、霊夢の指に何の液体が触れることもなかった。これで完全に安心とは言えないが、霊夢はとりあえずほっと一息をつけることができた。
しかし、霊夢は思考が通常状態にもどるにつれ、もう一つあることに気づいた。自分は今仰向けになっているが、背中が随分柔らかい。これは妖怪の内臓の柔らかさではない。もっと、守ってくれるような暖かい柔らかさである。
その時の霊夢は、いわゆるお姫さまだっこの様な形で抱えられていた。
理由はともかく、今この状況で霊夢を抱えることできるのは一人しかいない。
「あ、霊夢さん、気がついたんですね」
真っ暗闇の中から東風屋早苗の声がした。
「早苗、貴女無事なの!?」
「う〜ん、無事か無事じゃないで言えば無事なんですが……あんまり無事じゃないかもしれないですねぇ」
早苗は曖昧な言葉でお茶を濁していたが、霊夢としては早苗がとりあえずは生きていて安堵した。
葛籠を開けようと誘った自分が無事で、無関係な早苗が死んでいては生きて戻っても周りに合わす顔がない。
「とりあえず状況が知りたいのだけれど、早苗はどれくらい把握してるの?」
早苗にききたいことは山ほどある。しかし慌てても仕方がない。喫緊の現状だからこそ、落ち着いた行動を取らなければいけないことを霊夢は知っていた。
久々ではあるけれど、妖怪に命を狙われるのはある程度慣れている。どんな時も冷静であったからこそ霊夢は今も生きている。
「霊夢さんがお休みしてる間、この……部屋? を色々調べたので大体の状況は分かっているつもりです」
「その分かった事を全部教えてちょうだい」
「はい。……そうですね、どうやらここは妖怪の体内のようです。妖怪の正体は不明ですが、目的は私たちの消化吸収でしょう。床が消化液で満たされて、肌が触れると火傷するように皮膚が溶けてしまうので気をつけて下さい」
何となく想像はしていたが、霊夢は改めて自分たちの今置かれている状況に冷たい汗を垂らした。明確に大ピンチである。
「あ、そうだ。霊夢さんも気づいたと思いますけど、今、霊夢さんは裸ですから」
「ええ、知ってる。脱がしたのは貴女なの?」
「はい。敷物にするために私が脱がさせてもらいました。この胃液は服のような物を溶かす事は苦手なようだったので。もちろん私の着ていたものも全て使っています。あの……すいません。寝てる間に勝手に脱がせちゃって」
「別にいいわよ。そんなこと」
「でも、出られないのなら、これも結局時間の問題ですね。いずれ服は全て溶けきって消化液が私たちの足に至ってしまいます。弾幕は放てませんでした。あと空にも浮かべなくなってます。色々考えたのですが、私にはここからの脱出法が浮かびませんでした。説明は……以上です」
早苗が早口の状況伝達を終えた。霊夢は早苗からの情報を元に頭を巡らせる。
「妖怪とのコミュニケーションは?」
「何度か呼びかけてみましたけど、反応はありませんでした。どうやら明確な自我を持たず本能のままに行動するタイプの妖怪のようですね。まるで食虫植物のようです」
普通の妖怪ならば、早苗はともかく、博麗の巫女たる霊夢を殺し食おうなんてことは考えない。霊夢を殺せば結界が不安定になってしまうからだ。だからまともな理性のある妖怪は霊夢を本気で襲おうとはしない。しかし逆にいえば理性のない妖怪は博麗の巫女だろうと襲うのだ。
妖怪の本質に従って、殺して食おうとする。
まさに今、この妖怪がしようとしているように。
「この部屋……体内はどれくらいの広さ、大きさがあるの?」
「軽く手をつけながら廻ってみましたけど、大体円形で半径2m程の広さでした。狭いですね。いえ、胃の中にしては広い方なのかもしれませんが……天井の高さは分かりませんが、この声の響き具合からしてそこまで高くもなさそうですが、かといって肩車程度で届く高さでもなさそうです」
「狭そうだけど、酸素は大丈夫かしら?」
閉鎖空間であれば酸素の残りも心配しなくてはならない。
「大丈夫だと思います。これくらいの広さで密封されていたら既に酸素が足りなくなっているはずですから」
「なるほど」
霊夢は早苗の回答を咀嚼する。
密封されていないというのは二人にとって良い情報であった。空気の通り道があるということは、狭くとも二人が通る道も存在するということだからだ。二人が入ってきた食道が完全密封されていたのなら、霊夢と早苗の脱出の難度は格段に上がっていただろう。
「壁はどれくらいの強度があるの?」
「肉厚ですね。私たちのパンチなんかじゃあ到底貫くことはできないと思います。やはり何らかの霊力を用いないといけないのですが、私の力は全て使えなくなっていました。霊夢さんはどうですか? 夢想封印を使う事が出来れば脱出は無理でも、消化液からは逃れられると思うのですが」
「無理ね、さっきから私も試してるけど夢想封印は使えないわ」
「だめですかー」
早苗は危機感のない声で落胆した。このような窮地に陥った経験が少なからずある霊夢ならまだしも、早苗も外の世界で生まれ育ったにしては随分落ち着いている。
しかし、こんな真っ暗闇で足下には胃酸の海という極限状態で、ここまで冷静に的確な状況認識と簡潔な説明を出来るというのは実に頼もしい。本来ならパニックになって泣き叫んでいてもおかしくないのだから。
(この子と二人なら大丈夫ね……)
霊夢は心の中で小さく笑った。しかし、霊夢にはもう一つ早苗に確かめておかなければいけないことがあった。
「大体状況は把握できたわ……じゃあ最後の質問」
「はい、なんですか」
「なんで貴女は私を抱えているの?」
早苗は今、自分の代わりに服を敷物を堺にして消化液に触れているという事実。闇の中とはいえ、それに気づかないほど霊夢は鈍感ではない。
「単に霊夢さんより先に私が目覚めただけですよ。放っておいたら霊夢さんが地面についちゃいますし」
「なら、頬を張ってでもして私を起こせばよかったのに」
「霊夢さんがどうなってるか分からない状態であまり動かしちゃいけないと思ったんですよ。もしかしたら頭に怪我してるかもしれませんから」
「……そう」
霊夢はまだ納得していなかったが、それ以上追及することもなかった。早苗が霊夢を抱えている理由は実際のところ、彼女が述べた通り、何となくやってるというのが最もしっくりくる理由だった。自己犠牲とかそんな大層なものは早苗は考えていない。
霊夢が気絶していて自分が起きていて、下は胃液の酸。だから自分が霊夢を支えないといけない。今の早苗が考えているのはその程度のものであった。
「でも、脱出策っていってもねぇ。すぐには思いつかないわよ」
「そこを何とか思いついてください。服はおそらく30分ほどしか保たないと思います」
「30分か……」
タイムリミットとしてはそこまで短くはないが、悠長にしている暇もなさそうだ。
「まぁ霊夢さんには私が消化されている時間が余分にありますが」
「……下らないこと言わないで」
笑えない冗談だった。その時になれば、霊夢は既に事切れた早苗の死体の上で胃酸を避けながら脱出を試みなければいけなくなるのだ。
霊夢はなんとかして30分以内での脱出をしようと改めて自分に言い聞かせる。
実のところ、妖怪の正体自体は既に掴めている。幼い頃から多くの妖怪に触れ、また文献でも妖怪のことを学んでいた霊夢の知識の中に、今の状況に近似したものを作れる妖怪がいた。
これは恐らくは土槌と呼ばれる妖怪の亜種であろう。
土槌は人間を餌で釣り、丸呑みして食らうという生態を持っている。『巫女二人』というのはこの個体の味の好みなのか、それとも思わせぶりな文面を書いて人を引く付けていたのかまでは分からないが、恐らくは両方だろうと霊夢は思った。
土槌の体内からの脱出方法は原則として3つの方法がある。食道を逆走するか、体内を破壊するか、胃の容量よりも大きな質量を出現させパンクさせることである。
霊夢は順に可能性を模索していく。
食道の逆走は出来るだろうか。空が飛べれば無理矢理にでも来た道を戻るのは不可能ではないかもしれないが、早苗が言うには空を今は空に浮かぶことが出来ないらしい。
内臓の壁をロッククライミングの要領で登るという方法も思いついたが、それも難しそうだ。獲物が壁を伝って登れる胃なんて聞いた事もない。最終的には一つの候補ではあるが、胃酸の海の中で試すには余りにリスキーだった。
胃酸の海の中を素足で進むにはある程度の勝算が欲しい。
ならば内部破壊はどうだろう。
破壊とまでは行かなくても、外壁を刺激することによって吐き出してもらうという作戦である。
だが少し考えて、これもどうやらダメそうだった。
この胃の中は明らかに葛籠よりも広くなっている。これは霊夢たちが何らかの力で小さくなっていると考えるべきであろう。
それに、全ての霊力を封じられたごく普通の少女二人の膂力で出来る刺激などたかが知れている。
三つ目、胃の中の容量をパンクさせるというものであるが……霊夢にはその方法が全く思いつかなかった。
(ちょっと……やばいかもしれないわね)
今までも妖怪によって命が危ういという状況に遭遇することはよくあった。しかし大体の場合は無敵の夢想封印でなんとかなったし、夢想封印が効かない時は距離をとって持久戦に持つこむか、最悪逃げることもできた。
しかし今はそれら全ての方法が使えない。夢想封印も、逃げることも選択肢から除外されてしまったのだ。
流石に、霊夢の額にも冷や汗が浮かんできた。
しかも今の霊夢は一人ではない。早苗もついているのだ。仮にここで霊夢が死んだとしても、それは彼女が油断したから悪かったというだけだが、早苗を巻き込んだとなっては博麗の巫女の名に泥を塗ってしまう。
それは出来れば避けたかった。
(誰か葛籠を外から叩いてくれないかな……)
霊夢は不意にそんな発想をしてしまう。
確かに伊吹萃香や霧雨魔理沙がこの葛籠を怪しんで霊夢達を助けてくれるという可能性も全くのゼロという訳ではない。
しかし、そんな偶然がそう都合良く起きる訳がないのである。
実行可能な脱出法が浮かばないからこそ、現実逃避的に偶然や奇跡に近い脱出法を思い浮かべる。とうとう霊夢は他力本願に陥ってしまったのだ。
これはすなわち、博麗霊夢の最期が近づいていることを示していた。博麗の巫女だろうと死ぬ時は死ぬ。普通の人間と同じように普通に妖怪に食われて死ぬ。その刻は間もなく訪れるだろう。
しかし、それは霊夢がこの窮地にて、独りであった場合である。
この場において、運のいい事に霊夢は一人きりではなかった。
「……っつ」
ほんの微かな……霊夢に聞こえないように必死で歯を食いしばっていた早苗が不意に漏らしてしまったうめき声は、他に何の音もない空間では霊夢の耳に届いてしまう
「早苗、大丈夫!?」
「え、ああ。大丈夫ですよ。ちょっと服から足がはみ出ちゃっただけです。まだ敷物には余裕があるみたいだから平気です」
だが、霊夢にはそれが強がりであると、すぐに分かってしまった。
時間の感覚はないが、先ほど早苗と喋っていた時からどれくらいの時間が経っただろうか。
感覚的には10分程度だが、この緊迫状態の中でどれだけ体内時計を信頼できるかは怪しいものであった。
もしかしたら既に早苗は胃酸にさらされているのではないか。霊夢に心配をかけまいと悲鳴をあげたいのを懸命に堪えているのではないか。
(どうにかしないと……)
霊夢にますます焦燥感が募る。しかし焦れば焦る程に考えはまとまらない。万策はまだ尽きていないがその前に精神の方がまいってしまいそうだった。
「霊夢さんどうですか?」
脱出方法は見つかりましたか? と続く早苗の問いかけに霊夢は何も答えることが出来なかった。早苗も霊夢が考えあぐねるていることを察する。
「それにしてもまさかこんなことになるなんて、思ってもみませんでした。ここから出たら温かいお風呂にでも入りたいものです」
焦りが限界に達していた霊夢は、その言葉についイラ立ちを覚えてしまう。
「ねぇ、早苗。さっきから、なんで貴女はそんなに危機感がないの!?」
ピンチの時にこそ冷静であること。それは何よりも大事なのは確かだ。
しかし早苗の平常との変わらなさは霊夢からみても最早異常といえるレベルであった。何とかしなければ、このまま二人とも10数分後には妖怪のエサとしてドロドロに溶かされてしまうというのに、早苗はまるで動じていない。
生粋の幻想郷生まれとして多くの人間の死に接していた霊夢でさえ、この状況には焦燥感を態度に出さずにはいられないというのに、外の世界。霊夢からしたら温室のような温い社会で育った早苗が自分よりもよっぽど冷静でいるのは実に異様なのだ。
もしかして余りにも突然すぎて今この瞬間が現実だと思えていないのか? あるいは霊夢が目覚める前から既に絶望しきって精神が現実逃避してしまっているのかもしれない。
霊夢はそんなことを考えながら早苗に詰問した。
「え、だって……」
しかし、霊夢の問いに対する早苗の答えはそのどちらでもなかった。
早苗の口から飛び出した、その返答は、
「霊夢さんがいるなら大丈夫でしょう?」
純粋な霊夢への信頼であった。早苗は確信しているのだ。霊夢ならこの最悪の窮地からでも結局最後は自分を救い出してくれると。
どこまでも無垢に自分を信じている東風谷早苗に、霊夢は絶句するしかないのであった。
☆ 幕間その2 ☆
東風谷早苗という少女は幻想郷の住人から思われているよりも、ずっと平凡な少女であった。
平凡という言葉がだめなら、普通。東風谷早苗はごく普通の少女なのだ。ごく普通の社会でごく普通に育ち、生きてきた十代半ばの少女である。小学校、中学校と地元にある学校で学び、そのまま彼女の偏差値にあった公立高校に進んだ。
クラスでの彼女はその容姿からそれなりに目立ってはいたが、それでもやはり特異な存在ではなかった。早苗は幼い頃から怪異に触れて育ち、人には見えないものが見える体質ではあったけれど、それ故に逆にその能力、見えることを隠して生きていくことも出来た。
人は3人集まれば軋轢が生まれる。学校やクラスという空間は誰にとっても楽しい訳ではない。争うことが得意ではなく、むしろ控えめな性格をしているのに、目立つ顔貌をしていた早苗は時に悪意の対象になった。それとて別段のものでもない。人間、様々な人種階級の者たちが強制的に雑多に詰め込められた教室という宇宙空間で十年以上生きていればイジメを受けたことのない割合の方が少ないのだ。その中に早苗が入っていても何らおかしなことではない。
早苗の受けたのは仲間はずれ、靴を隠される。よくある程度の低いイジメであった。理由は「自分の彼氏に早苗がちょっかいをかけた」「少し可愛いからってチョーシに乗っている」といった同じくレベルの低いものである。
とはいっても早苗自身は性格がよかったし、大義名分にも無理があったのでイジメはいつも長く続くことはなかった。
早苗はそんな経験をするたびに、他人という存在の恐ろしさ。人間関係の難しさと怖さを学んでいった。
昨日まで自分を無視し、陰口を叩いていた女の子は、今日は何事もなかったかのように友達面をして早苗に普通に挨拶をしている。早苗にはまるで理解できないものがそこにはあった。
他人がまるで理解できない。彼ら彼女たちは一体何を考えて自分と接しているのか分からないのだ。
人間への苦手意識は早苗の心の奥の方にまでしっかりと刻み込まれた。
早苗が幻想郷への引っ越しが決まったのは高校に入ってしばらくしてからの事であった。
それを知らされた時、早苗は強く恐慌した。
今まで普通に高校に通って友達と遊び語り、数学や英語の勉強をしていた自分が、今度から人を喰らう妖怪や魑魅魍魎が住む集落で暮らす事になるというのだ。
「出来る訳がない」と早苗は強く思った。
しかし彼女に拒否権はなかった。全ては神社の決定事項である。
なぜ自分の身にこんな理不尽なことが起こるのだろうと、早苗は生まれてはじめて守矢の巫女という自分の身分を呪った。せっかく頑張って入った高校も中退である。いや、それは瑣末な問題だ。
問題は……自分が本当に幻想郷という魔境で暮らしていけるのかどうかである。妖怪や魔法使いといった人外の存在もそうだが、それよりも山奥の更に奥にある幻想郷で自分が馴染める未来が全く見えない。
早苗の住んでいるところとて大都会とは言いがたいがそれでも駅前にはビルがあるし、電波もインターネットなどの文明の利器もある。聞く話によると幻想郷には電気すら限定的で大昔の暮らしを今でもしているというではないか。そんな閉鎖的なムラ社会に、今まで普通の人間社会で生まれ育った自分が入り込めるとは到底思えない。
だが、早苗がいくら嫌がろうが時間は無情にもすぎていく。
幻想郷で早苗がみた人里の様子は、本当にこれが21世紀の日本なのかと思うようなものであった。これから長いことここで過ごしていかなければいけないと考えると身震いがする。
その直後に八雲藍となのる狐耳の女性が現れて、もうすぐ守矢神社を襲撃する者達がやってくるから迎え撃って欲しいと言われた時は目眩すらした。自分はただの16歳の人間なのだ。なぜいきなりそんな襲撃だとか迎え撃つとかの剣呑な話になるのだろうか。よく聞くと、それはスペルカードルールという幻想郷特有の決闘法のチュートリアル的な儀式だと聞いて少し胸をなで下ろしたが、それでもやはり怖い。早苗は、今すぐに外の世界に戻りたくなった。
やってきたのは、怜悧な瞳を持った紅い巫女であった。
早苗はその眼を見た時にゾッとした。今まで早苗が生きてきて見た事のない程の深淵を携えたその眼は、安穏と暮らしていた自分や外の世界の少女には持ち得ないものであった。それだけで彼女が数多の死や生をその瞳に映してきたことが窺えた。幻想郷はそういう場所なのだと思い知らされる。
そして早苗が何より怖かったのは、霊夢のその眼に早苗を拒絶するものがあったからだ。それも当然である。早苗にとってその紅い巫女や幻想郷の住人が異質であるのと同様に、幻想郷側にとっても外からやってきた早苗は異質であるのだから受け入れられないのだ。
早苗は、その紅い巫女が自分との間に大きな壁を作っていることを見て透かす。
その夜、早苗は帰りたさと寂しさで布団を涙で濡らした。初日から彼女のホームシックは極めて深刻なものになっていた。
トラウマに近い印象を残したその紅い巫女が守矢神社を尋ねてきたのは、その翌日であった。幻想郷を案内するのが彼女の役目らしく、代表者を一人だして欲しいと彼女は言った。早苗は紅い巫女の応対をするように授かった。これにも当然早苗に拒否権はない。
早苗はイヤでイヤで仕方なかった。ただでさえ昨日今日会ったばかりの人と二人きりで一日を過ごすなんてことは早苗には堪え難いのに、紅い巫女は昨日と同じく、早苗に対して壁を作っていたからである。
その上、その紅い巫女は幻想郷では名の通っている少女らしく懇意を深めておくようにも言われている。なので早苗が苦手意識を持っているとは悟られてはならない。早苗は精一杯の作り笑顔で、紅い巫女に接した。
紅い巫女は無愛想な顔で事務的に早苗に幻想郷を紹介していった。代表的な組織や勢力。パワーバランス。有力人物など。早苗たちが幻想郷に馴染むには重要な情報ばかりである。緊張してばかりはいられないと、早苗は大事な所をメモに書き込んだ。
それなりに会話もあったが、やはりぎこちない。二人の間にはまだ大きな壁があったのだから。
やがて幻想郷を一周巡り、一応これでおしまいと紅い巫女が言った。早苗は心の中で、ようやく解放されると肩をなで下ろした。当然そんなことはおくびにも出さないのではあるが……
早苗が紅い巫女に挨拶をして神社へ帰ろうとした時、後ろから声をかけられた。
「明日、時間ある?」
早苗は完全に面食らった。案内は終わったのではないのか。やっとこの紅い巫女から離れられるというのに、また明日もこんな気まずい雰囲気で過ごさなければいけないのか。早苗はちょっとした絶望感に襲われた。
「え、なんでですか?」
思わず早苗はそう零してしまった。言った瞬間、早苗は「しまった」と思ったが、もうどうしようもない。
「なんでって……ほら、まだ里の中とか案内してないし。美味しい甘味処とか一緒にいかない?」
いかない? なんて言われても早苗には毎度のこと拒否権はない。早苗はOKの返事をしたものの暗鬱とした気分で家路についた。
次の日、その紅い巫女は約束を果たすためにまた守矢神社にやってきた。彼女は昨日言った通り、早苗を人里の甘味処に連れて行った。
そこで年頃の若い女の子同士でガールズトーク……なんて聞こえはいいが、早苗は緊張感をいまだ隠しきれていないし、紅い巫女はまだ近付き難い印象を持たせていた。二人の空気は良いとは言いがたい。
しかし、早苗はその紅い巫女と会話しているうちに、ある事に気づいた。
紅い巫女は確かに自分との間に壁を作っている。けれど、その一方でその壁を壊そうと……早苗に近づこうとしているのではないか。紅い巫女のそういう気持ちが早苗には感じられた。
それに気づいた早苗も、その紅い巫女ともっと近づきたいと思い始めていた。昨日のように言われて近づくのではない。早苗自身がそうしたいと思って紅い巫女に近づくのだ。
紅い巫女は名を博麗霊夢と言った。
彼女はこの幻想郷の結界を司る巫女であり、幻想郷を象徴する人物であると知った。しかし、彼女自身はそんな肩書きをまるでないかのように振る舞っている。早苗が外の世界のことを話すと興味深そうに頷く。
気づけば二人の間にあった壁はなくなっていた。
霊夢は帰り際に「神社に遊びに来なさい」と言った。早苗はその言葉が嬉しかった。そして嬉しがっている自分に驚いていた。たった二日一緒に過ごしただけで、早苗は霊夢のことを好ましく思い始めていたのである。
それ以降、早苗はヒマさえあれば博麗神社を訪れるようになった。
霊夢はそんな早苗のために沢山のことをしてくれた。幻想郷の生活に馴染めるように、色々な地域ルールを教えてくれたり、沢山の人に早苗や守矢神社のことを紹介してくれた。そのお陰で早苗には幻想郷での友達や知人が次々と増えていった。
早苗は、あれほどイヤだった幻想郷での生活が楽しいものに感じられていた。
自分がこんなにすんなりと幻想郷に馴染めたのも、霊夢がきっかけであることは間違いない。
早苗は、霊夢への深い恩を感じていた。この年下の少女のおかげで辛かった幻想郷での生活が楽しいものになったのだから。
そして何より、博麗霊夢は東風谷早苗の人生で初めてといってもよい……心の底から信じられる親友となったのだった。
☆ ☆ ☆
場所は妖怪の胃の中に戻る
「何言ってるのよ。私がいるから大丈夫なんて……保証は出来ないわ」
霊夢は呆気にとられてから早苗に告げた。
「正直いうとね、私にはもうここから出る方法が思いつく気がしないの。やばいのよ、このままじゃ……」
口に出してはならないと思っていた諦観の言葉を、霊夢はついつい漏らしてしまう。博麗の巫女はけして万能の存在ではない。百年以上続く博麗の巫女の系譜の中には妖怪に殺された者もいるのだ。
霊夢がそうならないという保証なんてどこにもない。まだデッドエンドには至っていなくても、崖っぷちであることは否定できない現実である。
だが、早苗は霊夢のそんな泣き言にもまるで動じていなかった。
「じゃあ逆に考えてみてはどうですか?」
「逆って……どういうこと?」
「どうやって外に出るか、ではなくて、なぜ私たちは外に出られないかを考えてみるんですよ」
早苗が明るい口調で提案をする。
「なぜ出られないからって言われても、いつもの力が使えないからでしょ」
霊夢はが間の抜けた答えをだす。あまりにも当たり前の結論である。
しかし早苗は懲りずに次の質問につなげる。
「じゃあなんで私たちは弾幕も放てないし、空も飛べなくなってるんでしょう」
「そりゃ……この妖怪の体内だからエネルギーの供給が出来ないからに決まってるじゃない」
「エネルギーの供給?」
「貴女も巫女なら知ってるでしょ。どんな巫女も本人はただの人間よ。ただし、巫女は神性の力をエネルギーに変換できる媒介装置としての力を修行で身につけているの。だから外界と隔たったこの体内では私たちは力を使えないって訳」
厳密にいえばこの説明は間違っているのだが、霊夢は早苗にも分かりやすい言葉を用いて説明をした。
「なるほど……ここには神様の力が届かないから私たちも力を使えないんですね」
「そう、だから空も飛べないし、弾幕も……」
「って、ちょっと待ってくださいよ。神様ならいるじゃないですか」
早苗が文字通り天啓を得たかのように言った。
「神様がどこにいるってのよ」
「私ですよ、私! 現人神!」
霊夢を抱きかかえているので体は動かせないが、もし彼女が自由であるならば今頃自分を指差して大喜びを全身で表現していたところだろう。
「私、神様ですし、私の力を使って霊夢さんが弾幕でも浮かんで逃げ出すも出来るじゃないですか!」
早苗は欣喜雀躍して霊夢の体を揺すった。とうとう脱出法が見つかったのだ。早苗の力を霊夢を媒介にして力を取り戻せば、宙に浮く事も再び出来るようになるし、夢想封印も使えるようになるだろう。そうなってしまえば後はどうとでもなる。早苗は一気に道が開けたように感じた。
そうと決まったらさっさとこんな所からオサラバしなければいけない。早苗は早速、霊夢に催促したが、しかし、
「悪くない考えだけど、それは無理ね」
霊夢がその喜びに水をさすかのように冷たく言い放つ。
「え、な、なんでですか!?」
「貴女は確かに神ではあるけれど、まだ穢れが多い現人神でしょ」
「け、けがれなんて、私は毎日ちゃんとお風呂に入ってますよ。あ、でも……確かにここに来るまでに結構汗かいちゃってますけど……」
「そういう意味じゃないわよ。あのね、生きた人間の体には根源的に穢れってものが宿っているのよ。確かに貴女の神性を用いて私が力を取り戻すことは可能でしょうけど、そこに生きた人間の穢れが付着していたら意味がないの。だから貴女の提案は却下せざるを得ないわ。良い線いってたけどね」
人は生きていくだけで多くの殺生をする。それは清廉潔白であることを旨とする精神の動きからすると、致命的な抵抗力となるのである。故に現人神というのは基本的に矛盾した存在で、そのほとんどがまがい物であるのだ。どれだけ信仰されていても人間それ自体はどこまでいっても人間の枠を超えることは出来ない。もし現人神という概念が成立することがあるとしたら、それはその人間の実像から離れて虚構の存在として外化した場合だけであろう。
しかしその時は、現人神を名乗る人間には外化された虚構の信仰の対象をどうこうする力を既に持ち得ない。その力を空想的に利用することは出来るかもしれないが、それは最早現人神というよりは、ただの虚偽意識に過ぎない。
早苗の場合の現人神は、「予約」という意味合いが強い。やがて早苗が肉体を捨てる時に、その胎内に宿る神性は穢れから解放され、その時にはじめて真の神といえる存在になる。だから今はただの神ではなくて現人神。
いずれにせよ、早苗の神の力は今この状態で使うことはできない。
霊夢はそんなことを早苗に説明した。
「そうですか……残念です……」
早苗は先ほどまでの歓喜はどこへいったのか、塩をふりかけられた青菜のようにしぼんでしまった。
(アイデアはよかったんだけどね……、この子が生きた人間である限り無理。どうしようもないわ……ん?)
その時、霊夢はある発想にたどり着いた。
先ほどの自分の説明から導きだされる恐ろしくも合理的な一つの解。選択肢。あるいは答え。その発想が浮かんでしまったのは彼女にとって良かったことなのかは分からない。
「あっ!」
霊夢は思わず叫んでしまった。
「どうしました霊夢さん!?」
「あ、ご、ごめんなさい……なんでもないわ」
早苗は頭に「?」を浮かべたが、霊夢が何でもないという以上それより先は追及できない。自分が霊夢の思考を乱してはならないのだから。
一方で霊夢は、自分が考えたそのアイデアに恐れ戦いていた。霊夢はついに脱出する方法を思いついてしまったのである。
(生きた人間に穢れがあるってことなら…………)
先ほどの自分の説明を聞くのならばその発想が浮かぶのもけして不思議ではない。
霊夢は恐る恐る、自分が想像してしまった可能性について再び思考を巡らせる。
早苗の現人神としての神性を使い脱出することは出来るが、しかし、その為には早苗の人間としての穢れが問題なのだ。
そして、早苗が将来的に肉体的を遺棄するときに神となるために前段階としての称号である。ここまでは客観的な事実である。ならば……
今、早苗が穢れた肉体を捨て去るのであれば、果たしてどうなるのか?
早苗が人間としての穢れを捨てる。穢れの満ちた人間の身体を放棄するのならば、そこに残るのは早苗の神性だけではないのだろうか。もし、それが霊夢に力を与えてくれるのなら……
徐々に霊夢の想像は現実味を帯びてくる。しかし、肉体を捨て去るというのは、つまるところ人間として死ぬということに他ならない。
この状況で早苗の命が絶えるとするならば、それは、早苗が自殺するか、あるいは……
霊夢は、妖怪の体内に入ってはじめて真に恐怖した。
幻想郷の巫女として多くの人間の終末に関わった彼女ですら、感じ事のない感覚。
”自分が早苗を殺すという未来”
霊夢は小さく首を横に振った。
(状況が最悪だからってよりにもよって何てことを考えつくのよ、私は……最低だわ)
霊夢は急いで自分の思いついたアイデアを否定する。しかし一度得てしまった活路は総簡単には手放す事は出来ない。
それは霊夢の心の弱さでもあった。そこで霊夢は一つ深呼吸して冷静になってから、逆にその活路を検討してみることにした。
きっとこれは自分の未熟さが生み出した、不可能な選択肢に違いない。ちゃんと考えてみれば、早苗を殺したからといってそう都合良く霊夢が使役できる霊体となれるはずがない。霊夢はそう考えて、自分の持つあらゆる知識を総動員してその選択肢を排除しようとした、しかし、
(早苗を使って外に出る事は………………多分、出来る。出来てしまう)
彼女の経験は皮肉にも、その選択肢を肯定する結論を出してしまったのだった。今まで霊夢は早苗と同じように生前から霊力が極めて高く、死後は神格化する人物を少なからず見てきた。そのような人間が生きている間は、霊夢は自分の身体に降ろすことはできなかったが、神格化したその人格であれば可能だった。ならば、早苗だけ例外であるとは考えられない。
仮定が確信に変わった時、霊夢は自分の心が二つに分かれたように錯覚した。普段の霊夢の心と、弱い心。その弱い心はまるで悪魔のように霊夢にこう囁いていた。
『早苗を殺せ。そうすれば自分は生きて出られる』
霊夢は自分で自分が恐ろしくなった。自分の心にこんな醜悪な部分があったなんて、今まで生きてきて気づきもしなかったのだ。
当然、理性では早苗を殺すなんてことは出来るはずもない。彼女は霊夢にとって大切な友人であるのだ。普段から早苗には色々と世話になっているし、異変を一緒に解決しにいった戦友でもある。そして何より、今の自分は一体誰に守ってもらっているというのか。この薄暗い胃の中で霊夢の代わりに胃酸に接し、その血の暖かさで霊夢を激励してくれているこの少女。早苗は心優しい、自分の友人なのだ。霊夢は到底、早苗を殺すことなんて出来るはずがない。
「霊夢さん?」
早苗に声をかけられた霊夢の心臓はまるで殴られたかのようにドキっと鼓動した。
「大丈夫ですか? さっきから何か焦っているようですけど……」
「え、ええ……そ、そりゃ焦るわよ。こんな状況で焦ってない貴女のが珍しいんだから。っていうか、なんで私が焦ってるって思ったの?」
霊夢は、早苗に自分が思い浮かべている邪悪な選択肢に気づかれないようにしどろもどろに対応した。
「なんでって、そりゃこんな身体くっつけてるんだから分かるに決まってますよ」
「あ……」
今の霊夢は早苗に全裸で抱きかかえられている状態なのだ。当然、霊夢の心臓の鼓動は早苗には直接響いている。早苗は霊夢の鼓動が急に早くなったことを察して声をかけてきたのだった。
「焦らなくて大丈夫ですよ。霊夢さんなら落ちついていれば、きっと良い脱出方法が思いつくはずです。私も一応は考えてるんですけど、中々……」
「そ、そうね。ええ」
早苗は霊夢の鼓動の早さを焦りと見て取ったようだった。霊夢は、早苗に自分の企みが伝わっていないと気づいて少しだけ安堵した。そして改めて、こんな子を殺すことなんて出来ないと確信した。
だが、しばらくして沈黙が戻ると、霊夢の心の悪魔は再び現れる。その悪魔は必死で抵抗する霊夢を容赦なく拐かした。
『じゃあどうやってここから抜け出すの? 仲良く二人で死ぬ?』
『さっき自分で言ってたじゃない、もう他に方法はないの』
『妖怪に襲われて仕方なかったから。誰も私を責めやしない』
逼迫した現実は、霊夢の理性を崩すには十分すぎた。死という現実。
死ぬ。
死。生きない。終わり。
博麗の巫女である霊夢でも、当然のように死は怖い。超然としているように見られる彼女でも、その本質は他の生物となんら変わりない。
死ぬのはイヤだ。
生き延びたい。
そのためには何をしてもいい。
早苗を殺してでも生きたい。
霊夢の本能が理性を完全に破壊していく。
『そもそも早苗を殺したってこの子は死なないのよ』
「殺しても死なないってどういうことよ」
『早苗は現人神だからね。普通の人間と違って身体を捨ててもその神性は残る。ということは早苗が死んだとしても今度は純粋な神として自我も理性も残したまま生きて行くことが出来るのよ』
「そ、そんなの……」
『早苗は現人神でなくなっても神になって守矢の神さまたちの仲間入りするだけなの。それに多分、諏訪子なら土から新しい身体を作ることも出来ると思うわよ? 神奈子と諏訪子だって元々は神性だけの存在だったのに今は実体があるでしょ。早苗もそうしてもらえばいいのよ』
「いや、いやよ。私は早苗を殺したくなんかない!!」
『冷静に考えるの。もし貴女が早苗を殺さなかったら、二人ともここで妖怪のエサになるわ。早苗の神性ごとね。早苗くらいの巫女の魂なんてこの妖怪にとっては最高のごちそうでしょうね』
考えれば考えるほどに霊夢は早苗を殺さなくてはならないように思えてくる。それが最も合理的な解答。ベストではなくてもベター。しかもその選択肢を選ばなければ時間切れというワーストな結果に至る。
この暗闇の中である。その上相手は何の力も持たないか弱い少女。そして何より早苗は自分を100%信じ切っているのである。ならば、霊夢が少し手を伸ばしてその首を握り、力を込めるだけで全ては終わる。おそらく五秒もかからずに、早苗は何の苦しみもなく死ぬことになる。そして二人で脱出すればいいのだ。
霊夢は選択を迫られる。二人で死ぬか、早苗を殺すか。
「うっ……うっううぅ……」
知らず知らずのうちに霊夢は自分が泣いていることに気づいた。理不尽な選択を迫られる苦しさ、悔しさ。
博麗の巫女として幻想郷はそういう場所だということは知っていたつもりだったのに。
覚悟は出来ていたはずなのに。
霊夢の涙は止まることはなかった。
☆ ☆ ☆
「お〜い霊夢きたぜ〜」
普通の魔法使い、霧雨魔理沙が博麗神社にやってきたのは、太陽が頭の上を通り過ぎようとしていた時刻であった。彼女の来訪には特に理由はなかった。あったとしても、適当に霊夢の顔でも見に行くかとそれくらいのものだ。
魔理沙は自分が今どんな研究をしているかを霊夢に話すのが好きだった。単純に雑談でもあるのだけれど、それだけではない。霊夢は魔法についてはそれほど詳しいという訳ではないが、その分だけ魔法使いからは出てこない発想があったりして、魔理沙が、はっとすることも多かった。
今日もそんな感じに雑談でもしようと魔理沙は神社にやってきたのだ。
魔理沙の気まぐれで今日は空を飛ばずに長い階段を登ってきたから、彼女は喉が渇いている。
さっそく霊夢にウーロン茶でも出してもらおうと、魔理沙は霊夢の姿を探した。
「霊夢〜?」
しかし、境内にも神社の内部にも霊夢の姿は見当たらなかった。しかたなく無断で冷蔵庫をあけて、中に入ったお茶で喉を潤しながら、魔理沙は再び友人を探した。
「お〜い、霊夢〜。きたんだけど〜」
だが、返事は帰ってこない。
(どこか行っちゃったのか?)
これだけ探しても見つからないのだ。そう考えるのは自然なことかもしれない。
けれど、霊夢が外出したというには神社の中に違和感がありすぎた。。
例えば、無造作に開かれた障子戸。障子を開け放しにして外出したら、中に砂埃が入ってしまう。大雑把にみえて非常に几帳面な霊夢にはありえないことである。どれだけ急いでいても、霊夢なら必ず閉めてから外に出るだろう。 他にも、普段から頻繁に神社に押し掛けている魔理沙にとって見逃しがたい異質感、今の神社にはあった。
そもそも霊夢の外履きが玄関に残されたままである。
それを踏まえて魔理沙が出した結論は、
(霊夢は誰かに連れ去られたんだ……)
そこまでならまるで問題はない。傍若無人な人妖に好意を持たれがちな霊夢のことだから、本人の都合などまるで無視で彼女を引っ張っていこうとする者は幻想郷には少なくない。
ただ、魔理沙が知っているそれは、霊夢に対する悪意があるものではない。
ここで魔理沙が考えなければいけないのは「今霊夢が神社にいないのは、霊夢に対して悪意ある者が連れ去ったからなのかどうか」である。
本来であれば、まるで考慮にも値しない選択肢であった。霊夢の知り合いに無理矢理連れ出されたというのが普通の考えだ。気まぐれな天狗だったり、わがままな紅魔館の吸血鬼だったりと、候補はいくらでもいる。
万が一、霊夢に悪意がある者がいたとしても、弾幕ごっこで勝負はつくし、魔理沙が気にするようなことでもない。
だが、魔理沙には……神社に来たときから何かイヤな予感がしてならなかった。今、予感と表現したが、それは正確ではないかもしれない。
予感ではなくて、もっと具体的な感覚。言葉では説明できないけれど、魔法とか霊力よりも更に抽象的な何かが魔理沙を捉えていた。
名状しがたい不安を持ちながら、魔理沙はより細かいところまで含めて霊夢の姿を探した。床の下。天井裏。タンスの中までしっかりと。
しかし、博麗霊夢は見つからない。
魔理沙の不安は、いつの間にか焦燥に変わっていた。
魔理沙は境内に出て、空の上から神社を俯瞰した。何か異変はないか。何か動いているものはないか。怪しい所が少しでもあれば飛んでいく勢いである。
「ん、あれは……」
魔理沙が視線を止めたのは、神社の裏にある倉庫であった。
(あそこは確か、霊道具や魔道具が入ってるところじゃなかったか)
珍しい道具がたくさん入っていると聞いて盗みに入って、霊夢にこっぴどく怒られた記憶が蘇る。曰く、この倉庫には危険なものが沢山入っているから、勝手に入ったら安全の保証はできないということだった。通常は、厳重に鍵がしてあって、解錠の技術を修めた魔理沙でもその時に鍵をあけるのには苦労したのだ。
その倉庫が、開いている。中に入っただけであれほど霊夢に叱られた倉庫の戸が不用心に開いている。
「あそこだ」と、魔理沙は考えるより先に体が動いていた。
中に入って魔理沙の目に真っ先に飛び込んできたのは、一つだけ戸棚にも置かれずにポツンと地面の上にある葛篭であった。
魔理沙は警戒心を最大限に高めながら、葛篭を持ち上げてみた。一見、ただの葛篭であったが、底に張ってある紙を見て魔理沙は、
「これか……」
と小さくつぶやいた。その張り紙に書かれていた文章。
『巫女二人でのみで開く』
果たしてその葛篭は、悪意をもって霊夢を連れ去った妖怪に他ならなかった。
☆ ☆ ☆
ドスン
「きゃあ」
心がねじ切れそうになるほどの霊夢の葛藤は、不意にやってきた落下によって終わった。霊夢を抱きかかえていた早苗が仰向けに倒れたのである。早苗は霊夢を離さなかったので、霊夢は早苗のお腹にのしかかる体勢になってしまった。
「さ、早苗。大丈夫なの?」
霊夢が慌てて呼びかけたが、しかし早苗の反応はない。その時霊夢は自分の間抜けに気づく。
自分の体重は一体何キロだったか。確か40キロちょっと。そんな荷物を両手で支えて、30分持つ女の子が一体どこにいるというのか。霊夢は動揺していてそんな簡単なことにも思い至らなかったのだ。
おそらく早苗は腕の限界を超えて霊夢を支えてくれたのだろう。そしてついに精根尽き果ててしまった。応答がない所をみると、気絶しているか答える体力もない程に弱っているか。
「悪かったわね。今度は私が貴女を支えるから」
霊夢は自分でも不思議な感覚であった。先ほどまで自分が殺そうとしていた早苗を助けようとしている。考えてそうした訳ではない。ただ単に身体が動いてしまったのだ。
「〜〜っつ」
胃の中に入れられて初めて霊夢は酸の海に降り立った。強い酸が霊夢の足の裏を焦がしていく。全く耐えられないという程ではないが、1分もいれば足の裏は爛れて無惨なことになるだろう。
霊夢は急いで早苗が服で作った足場を探した。しかし……、
「……どこよ、ないじゃない!」
霊夢が早苗の足下を探しても早苗が足場にしていたはずの二人分の服がない。
まさか早苗が倒れた時に蹴っ飛ばしてしまったのか。霊夢はそう考え、酸の海に這いつくばって服を探した。しかし、見つからない。
霊夢の焦りは極地に達していた。こうしている間にも早苗は酸に背中を焦がされているのである。霊夢はとりあえず服を探すのを諦め、早苗を抱きかかえることにした。
早苗を抱えたまま、足で服を探せばいい。そう考え、霊夢は早苗を先ほど早苗が自分にしてくれたように膝裏と背中に手を回して抱えようとした。
「…………え?」
だが、霊夢はそこで違和感を覚えた。
早苗の膝が見つからないのだ。
霊夢は混乱した。服が見つからないのは分かる。服は軽いものだから、ふとしたことでどこかに移動することは十分に考えられる。だが、なぜ早苗の膝が見つからないのだ? おかしいではないか。人間の構造上、どんなに暗くてもどこに膝があるかは分かる。なぜなら全ての人間の膝の場所は決まっているからだ。
つまり膝が見つからないなんてことはありえない。もし膝が見つからないなんてことが、ありえるとすれば、それは膝が存在しない場合だけである。
「あんた、まさか……」
霊夢はようやく現状を把握した。そして自分がもう足場となる服を探す必要もないことを知った。
もうそんなものはこの暗く汚い胃のどこにも存在しないのだから。
服はもうとうの昔に解け切っていた。
一体いつから早苗は酸の海に直接座っていたのだろうか。ついさっきまで早苗と自分は会話していたではないか。その時、早苗はなんの変哲もなかった。だが、もしかしたらあの時既に早苗の下半身は酸に焦がされていたのかもしれない。
酸に溶かされるのはとても痛い。足の裏に接しているだけの霊夢でも顔をしかめずにはいられない程だ。その上に10分、あるいはそれ以上座っていた早苗。
一体なんのために?
「そんなの決まってるじゃない……」
霊夢は独り言ちた。
不思議なことに霊夢の頭はさっぱりしていた。やることは既に決まっている。最早、霊夢に迷いはなかった。
霊夢は、眠ったままの早苗の首に両手を当てた。柔らかく儚げな早苗に流れる脈を霊夢は掌で感じる。
「ここから出るわよ、早苗!」
霊夢は早苗の首にかけた手に、強く力を込める。
☆ ☆ ☆
「さて……」
葛篭を前にして、魔理沙が取りうるべき行動は2パターン存在した。
1つは魔理沙だけでこの葛篭をどうにかするパターン。
2つ目は誰かに助けを求めるパターンだ。
この葛篭の中に霊夢が捕われていることは魔理沙にも容易に想像がついたが、いかんせんどうやって助け出していいかが分からなかった。
もちろん、既に葛篭の蓋を開けようと試みてはみたし、弾幕も放ってみたが葛篭はびくともしない。これだけでも尋常ならざる葛篭ということが分かる。
弾幕も効かなかった以上、魔理沙の持つ手札は極めて少ない。というより1つもないかもしれない。元々魔理沙は妖怪についてそれほどの知識を持っていないのだ。魔理沙はごく普通の魔法使いである。付け焼刃の知識なんて学んだとしても、妖怪が本気で襲ってくれば魔理沙にはどうしようもないのだ。故に魔理沙は妖怪の対処法を学ぶ時間を全くといっていいほど取ってこなかった。そもそも弾幕ごっこがある以上、妖怪に命を狙われる心配もしなくていい。事実、魔理沙は今までに妖怪に対して命の恐怖を覚えることはなかった。
しかし、今は明らかに危険な状況である。命の危険があるのは魔理沙本人ではないものの、仲のよい霊夢が危ないかもしれないのだ。
だが、かといって誰かに助けを求めるというのもベストな選択肢とは言えない。
そもそも誰に助けを求めればいいというのだろうか?
手助けが得られそうで、かつ神社からの距離が近いところに住んでいる人物といえば、魔理沙が真っ先に思い浮かんだのが魔法の森に住んでいるアリス・マーガトロイドであった。彼女なら魔理沙よりも圧倒的に知識も経験も豊富だ。だが、彼女の専門は魔理沙と同じく魔法の領域にある。アリスには妖怪に対抗する技術がどれほどあるだろうか。よしんば幾ばくかの対妖怪魔法があったとして、博麗霊夢が対処できなかったこの妖怪を本当に対処することができるのだろうか。
近いとはいっても神社からアリスの家まではどれだけ急いでも二十分はかかる。都合が悪い事に今日、魔理沙は箒をもってきていない。箒がなくても空を飛ぶ事はできるが、箒があった方が断然速い。
二十分。
一分一秒を争うかもしれない今の状況では、判断を誤れば致命的になる数字であった。
しかし、魔理沙が今ここで何をしていいか分からないのも事実である。魔理沙が動かずともジリ貧なのだ。
結局、魔理沙はアリスに頼る事に決めた。
葛篭をもって、大急ぎで神社を飛び立った。運がいいことに道中には何の邪魔も入る事はなかった。神社のまわりにはイタズラが好きな妖精がたむろしていて、時折来訪者にちょっかいをかけてくるのだ。
むろん、魔理沙は今そんな奴らが来たのなら問答無用で薙ぎ払うつもりではあったのだが。
「おい、アリス、ドアを開けてくれ。大至急なんだ!」
魔理沙はアリスの家につくなり、ドンドンドンと戸を叩いた。ガチャガチャとノブを回してみるも、扉には鍵がかかっていて、無断では入れない。体当たりでぶち破ってやろうかと思ったけれど、アリスの機嫌でも損ねたらやっかいだと思って自重した。
「おい、アリス。アリス!」
しかし、返事はない。「まさか留守か……こんな時に限って」と、魔理沙が思い始めた頃に、
「ちょっと、魔理沙、ドアが壊れちゃうじゃない。何よこんな朝早くから」
ドアの向こうからアリスの反応があった。
「朝早くじゃないぜ。もう昼じゃないか」
「そうなの? 昨日は夜遅くまで作業をしていたから寝過ごしちゃったのかしらね」
「そんなことよりドアを開けてくれよ。霊夢が大変なんだ」
「分かったわ。でも今、着替えるから少しだけ待ってて」
「おいおいおい、本当にやばいんだって。今すぐ中に入れてくれ!」
呑気なアリスに魔理沙の焦燥感が募る。しかし、
「落ちつきなさい魔理沙。魔法使いは冷静さを何よりも大事にしないといけないの。火急の事というのは分かるわ。でもね、魔法使いは常に『Cool head、warm heart(冷静な頭に、熱い心)』よ」
アリスはどこまでもマイペースだった。もしかしてアリスの家に来たのは失敗だったのか? 魔理沙が葛篭を発見してから既に二十五分は経っている。魔理沙が神社に来るまでの時間を考えると既に一刻の猶予もない状況なのだ。
魔理沙は腋に抱えてもってきた葛篭に目を移した。
魔理沙の最大火力にも耐えたこの葛篭はけっして木っ端妖怪なんかではない。博麗を捕縛しただけでもそのやっかいさが分かるというものだ。
「霊夢ぅ……」
今まで魔理沙は妖怪を死ぬ程恐ろしいものという実感をもっていなかった。知識としては、妖怪は人を襲い喰らう存在であるとは知っている。
だが弾幕ごっこの普及は魔理沙のような妖怪に対する恐ろさを失った人間を増やす事になった。
魔理沙は人生ではじめて妖怪への恐怖に震えた。焦りと恐ろしさで、魔理沙の目に涙が浮かび始めた。
カタカタ。
「ん?」
その時、葛篭の中から小さな音が魔理沙の耳に届いた。
「なんの……音だ?」
やがてその音は大きくなっていき、ついには
バンという爆音にもにた衝撃と共に、葛篭の蓋が吹き飛んだ。
魔理沙が目を丸くして驚いていると、葛篭の淵に一つの手がかかる。
「あ〜、出られた」
葛篭の中から出てきたのは、全裸の博麗霊夢であった。いつも整っている彼女の髪はボサボサで、体の所々に血のような汚れがついていた。しかしそれでも、言葉には力があり命に別状はなさそうだった。
「霊夢、無事だったのか!?」
魔理沙が喜んで霊夢にかけよろうとしたときに、霊夢の背にもう一人の人間があることに気づいた。
「あれ、そいつ……守矢神社の巫女じゃ」
魔理沙はその時になってはじめて、葛篭の裏にあった『巫女二人』という張り紙を思いだした。魔理沙は『巫女』という単語にだけ反応して、霊夢を連想したのだが、よくよく考えると『巫女は二人』いるはずなのだ。
東風谷早苗のことはもちろん魔理沙も知っている。初対面の弾幕ごっこをはじめとして何度か会話も交わした事がある。幻想郷にいる巫女といえば霊夢の他には早苗しかいなかったのだが、幻想郷に来てからの日が浅いということもあって、早苗のことはすぐには思い出せなかったのであった。
魔理沙は、霊夢に負われている早苗を姿を見た。
ぐったりとしていて体に全く力が入っていないように見える。体全体が弛緩してしまっているのだ。ちらりと伺える表情にはまるで生気というものを感じられなかった。目は虚ろに濁っていて、口元はだらしなく開いて、ヨダレのようなものが垂れて霊夢の肩を汚していた。
魔理沙はそのような姿をした人間を見た事がある。シチュエーションは様々であった。森の中での自殺。行き倒れ。人間による殺人。
霧雨魔理沙の目を通した東風谷早苗のその体は、どこをどのように見ても、到底生きているようにはみえなかった。
「なぁ霊夢」
魔理沙は、
「そいつ、生きてるのか?」
出来るだけ声に感情を込めずに聞いた。
「死んでるわ」
霊夢はあっけなく言った。
「妖怪にやられたか?」
「いえ、私が殺したの」
犯人まですぐに分かった。もっとよく観察すると、早苗の首もとには誰かに絞められたように真っ赤な跡が残っていた。おそらく扼殺されたのだ。
「なんで?」魔理沙はその言葉を喉まで上らせたが、それが口にだされることはなかった。
霊夢がそうしたのなら、そうせざるを得ない理由があったに決まっているからだ。
霊夢がこの葛篭に閉じ込められるまでの経緯も、中で何があったのかも魔理沙は知らない。
「あら、何だかすごいことになってるわね」
扉が開き姿を表したアリスの目に飛び込んできたのは、混乱して動けなくなっていた魔理沙と、全裸の霊夢と、霊夢に背負われた同じく全裸の早苗の死体であった。
「で、私は何をすればいいのかしら?」
アリスが何事もないように問うた。
「水をもってきて。急いで」
「わかった。すこし待ってて」
アリスが言い終わるやいなや、一つの人形が家の中から飛び出して霊夢にかけよった。その人形の両手には水がなみなみ入ったコップが握られていた。
「足りる?」
「ええ、十分よ」
霊夢は早苗の体をそっと地面に仰向けに横たわらせてから、コップを人形から受け取って、ぐいと口に含んだ。もちろん喉が乾いたから水が飲みたかっただけではない。
霊夢は口を水で満たしてから、勢いよく早苗の唇に自分の唇を重ねた。
「な、何やってんだよ!?」
魔理沙が驚いて大声を出した。
「何って、あの子を蘇生させようとしてるんでしょ?」
「蘇生!? そんなこと出来るのか?」
「可能性があるから霊夢もやってるんじゃない。まぁ、あの子なら多分大丈夫よ」
「だ、だって、さっき霊夢は、死んでるって……そ、それに蘇生? あいつがそんなこと……」
「あなた霊夢のこと何も知らないのね。霊を落とすなんてむしろ巫女の十八番じゃない。よく感じてみなさい。事情は知らないけど、もう霊夢の体にはその子の魂魄まで宿っているわよ。霊夢は今、霊魂を通しやすい水を媒介にして、直接体に戻してるの」
その場で一人パニックを起こしていた魔理沙は、言葉もしどろもどろであった。「この子にはまだまだ『Cool head』は遠いわね」とアリスは考える。
一分か二分か続いた霊夢と早苗の口づけは、霊夢が顔を離すことによって終わった。
はぁ、はぁ、と息づかいを荒くしていた霊夢の顔にはまだ安心の色は浮かんでいない。魂を入れることは上手くいっている。問題は魂を入れてもその器である身体が死んでいては物理的な活動として人間は蘇生しえない。
間髪入れず、霊夢は早苗のアゴに手をあてて気道を確保し人口呼吸を始めた。五秒息を吹き込んでから、両手を重ねて心臓マッサージ。救命の基本技術である。
「ふぅ〜、ふぅ〜」
霊夢は焦っていた。早苗が息を吹き返す兆候がみられない。心臓も止まったままだ。
人間は五分間心臓が止まると脳への酸素の供給がなくなることにより、命が助かっても身体に障がいが残ることがある。霊夢が早苗の息の根を止めてからどれだけの時間がたっただろうか。先ほどの魂入れを含めると、少なくとも既に3分は経っている。そろそろ心臓が動いてもらわなければ、致命的になる。
「どいて」
いつの間にか魔理沙の隣から姿を消していたアリスが、霊夢を押しのけて早苗の側に座った。
「なにするのよ!?」
霊夢が抗議の言葉を出す前に、アリスは手にもっていたシールのようなものを二つ早苗の胸に張り付けた。そのシールからは電線が伸びていて、小さな機械につながっていた。
バチィ、バチィ
炸裂音が辺りに轟いた。
「医療用電気マッサージ機を魔法で模倣したものよ。これでダメなら諦めなさい」
機械を操作しながらアリスが言う。
アリスがスイッチを押す度に電気の音は痛ましいく霊夢と魔理沙の耳に響く。
こんな力押しのマッサージなぞ、長くできるはずがない。あと何度ショックを与えられるだろうか。
アリスは4回電気ショックを流してからシールをはぎ取って、心臓マッサージを再開した。魔理沙もその傍らで固唾を飲んでことの経過を見守った。
「……ごほっ、うう……ごほっっ」
アリスが何度かマッサージをするうちに、早苗が咳き込み始めた。息を吹き返したのだ。半ば諦めていた魔理沙の顔に笑顔が戻った。
アリスはマッサージを停止して早苗の容態を確かめる。脈を確認すると、早苗の鼓動はしっかりと脈打っている。
「あ……」
「まだ動かないで」
わずかに戻った曖昧な意識で早苗がしゃべろうとしたのをアリスが制した。脈が戻ったとはい、先ほどまでの激しいマッサージで早苗の肋骨には沢山のヒビが入っていた。
アリスが止めるまでもなく早苗が痛みで顔をしかめる。
「早苗、生きてるわよ!」
霊夢が早苗に大声で叫んだ。
それを聞いて早苗は、そのまま目を閉じた。
「お、おい大丈夫かよ」
再び意識を失った早苗に、魔理沙が慌てて言う。
「ええ、大丈夫よ。たぶん痛みで気絶しただけ。脈もしっかりしてるし」
「な、ならいいけど……」
「とはいえ、重傷には変わらないから、今から緊急手術ね。骨の固定と……いえ、そんなことより足が酷い事になってるわね」
言われた魔理沙が早苗の足に目をやり、「うっ」と呻いてすぐに背けた。なぜ先ほどまで気づかなかったのか不思議なくらいに早苗の下半身は惨たらしいことになっていたのである。
「さ、魔理沙。この子を運ぶのを手伝ってちょうだい。急ぐわよ」
「あ、ああ」
「アリス!」
霊夢の呼びかけにアリスは手と足を止めないまま「なに?」と聞いた。
「早苗の足は元に戻るの?」
「…………」
アリスは霊夢の質問に少し黙ってから、
「魔理沙が私の所に連れてくるなんて、この子は運がいいわ。この手のことは医者よりももう人形師の領分よ。多分幻想郷では私が一番適しているわね」
「じゃ、じゃあ……」
霊夢が一瞬喜色ばんだが、
「元の状態に戻る確率は1割くらいかしらね。安心しなさい、義足を作るのはもっと得意だから」
そういってアリスは人形糸を使って早苗を家に中に運び入れ、バタンと扉を閉めた。
外に残された霊夢は、小さく一つため息をつく。
東風谷早苗は、古ぼけた葛籠を前に博麗霊夢に尋ねた。2人がいるのは博麗神社の倉庫。早苗は、見てもらいたいものがあると霊夢に招かれて神社へとやってきていた。
「ええ、そうよ」
「へぇ、どれどれ」
早苗は葛籠を手にとって眺めてみた。外見はなんの変哲もなく、手にかかる重さから中は空っぽであることが伺えた。
一見ただの葛篭であるが、この葛籠に何か見るべき所があるとすれば、それは底に張ってある紙の文面である。
早苗は葛籠をひっくり返して、それを口に出して読んだ。
「『巫女二人でのみ開く』……ですか。この葛籠はいつからここにあったんですか?」
早苗は葛籠を床に戻して、質問した。
「気づいたらあったって感じね。多分、私が産まれる前から神社にあったんじゃないの?」
霊夢は倉庫にある物は、その正体をほぼ把握していたが、この葛籠だけは唯一正体不明のままであったのだった。
気になるといえば気になる存在ではあったが、かといってどうしても中身を見てみたいかと言えばそうでもなく、霊夢はその葛籠のことを放ったらかしていたのだが、東風屋早苗という巫女の友人を得て、この葛籠のことを思い出したのであった。
『巫女が二人でのみ開く』
以前霊夢は思いつく限りの方法を一人で試してみたが、葛籠は開く事はなかった。
しかし今この場には巫女が二人いる。果たして。
「この中には何が入っているんですかね?」
早苗は再び葛籠を手に取って、軽く振りながら霊夢に尋ねた。
「中身が分からないから、貴女を呼んだんじゃない」
「あ、いえ、推測の話です。霊夢さんはこの中には何が入っていると思っているんですか?」
「この葛籠の中身ねぇ。あんまり気にした事もないわ。私としては開けられないから気になってるだけで、中に何が入ってるかはどうでもいいのよ」
霊夢はすげなく言う。
しかし、わざわざ巫女二人と指定してまで中を覗けなくなっているような葛籠である。中に容易ならざるものが入っている可能性も、霊夢は当然想定している。
中に、過去の博麗の巫女が封印した大妖怪か、はたまた稀少な神具が入っているかもしれない。
仮に中身が害ある物であっても対処できる自信くらいは霊夢はもっている。
「この文面『巫女二人』っていうのですが、やはり気になりますね。私は確かに守谷神社の巫女ですが、どんな巫女でも二人いればいいんでしょうか?」
「それは、どういう意味?」
「この葛籠の中には博麗の巫女にとって大事なものが入っているという可能性もあります。例えば代替わりをする時に必要な引き継ぎの道具とか。もしそうなら、この『巫女二人』というのは『博麗の巫女が二人』と意味であって、私では役者不足になってしまいますね」
霊夢は、ふむと頷いて早苗に応えた。確かにその可能性もなきにしもあらずである。わざわざ博麗神社の倉庫にあるのだから神社の備品として使われるものだとしても不思議ではない。
霊夢は自分に思いつかなかった想定をした早苗に対して『聡い』と感じた。
霊夢は、聡い人間は嫌いではない。博麗霊夢の近くにいる人間で、このタイプは珍しかった。霊夢にとって一番親しいであろう人間の霧雨魔理沙は早苗ほどに頭の回転は早くない。しかしそれは魔理沙の頭が悪いのではなく、彼女がまだ幼いという要因が大きい。
東風屋早苗は、魔理沙よりもいくつか歳上な分、思考が成熟している。自分の言葉に響くように返答をしてくれるのは、会話をしていて霊夢にとって心安かった。東風谷早苗は最近幻想郷に来たばかりの新参者であるが、いい友人を得たと改めて霊夢は思う。
しかし一方で、東風屋早苗が自分をどう思っているか、霊夢は想像してみたりもする。
新参者の早苗にとって幻想郷で影響力のある自分とのコネクションは、喉から手を出してでも欲しいものである。それくらいの自覚は霊夢にもある。
だから、もしかしたら早苗は、自分に対して上辺だけで付き合っているのではないかという漠然とした心配もあった。田舎育ちの自分と違って早苗があか抜けていることも、それに拍車をかける。
こんな心配は、幼なじみで能天気な魔理沙に対してはする必要のないものであった。
自分が他人にどう思われているか不安になるのは霊夢くらいの歳であればよくあることなのだが、同じ年頃の人間に余り触れずに育ってきた彼女にはそんなことは分からない。
「霊夢さん、それで、どうします?」
「どうって?」
「結局、この葛籠開けるんですか?」
早苗は葛籠の中身が、神社の外部の者に見られてはいけないものである可能性を心配していた。確かに、霊夢に誘われた上での行動であるが、知ってはいけないものを知ってしまった場合に、その過程が問われないことは、どこの世界でも常識である。
まさか消されるなんてことはないだろうけど、新参者がトラブルを、しかも博麗神社と起こすのは彼女にとって避けたい所である。
「もちろん開けるわよ。その為に貴女に来てもらったんだから」
「そうですか」
早苗は相槌をうって葛籠に目をやった。彼女もこの開かずの葛籠の中身を見てみたいという気持ちもある。元々好奇心の強い少女であった。
「さて……じゃあ早速開けてみましょう!」
いざ開けると決めた早苗は意気揚々と葛籠に手を伸ばした。霊夢は「どうやって葛籠が巫女二人を認識するのだろう。私も一緒に開けた方がいいのかしら」などと思っていたが、パカリと音がして葛籠の蓋が開いてしまった。霊夢があれほど工夫しても一切開かなかった葛籠の蓋があっさりと開いたのである。
「あら、簡単に開いちゃいましたね」
流石に早苗も拍子抜けしたようだった。
「……中には何が入ってるの?」
「ちょっと、待って下さい……これは、んん??」
葛籠を覗き込んだ早苗が不穏な気配に気づいたのは一瞬であった。気づいた時の声は間の抜けたものであったが、それが何か認識した時、早苗は戦慄せざるを得なかった。
「どうしたのよ、早苗。中に何があったの?」
「霊夢さんだめです! こっちにきちゃ!」
絶叫にも近い声で早苗が怒鳴ったのと、葛籠の中から数十の黒い手が飛び出してきたのは同時であった。
ヌルヌルと蠢く黒い手は素早く早苗と霊夢に襲いかかり、体に纏わり付いた。
「くっ、これは……」
瞬間、霊夢は早苗の身体を思い切り引き寄せて、倉庫の外の方向へ投げ飛ばした。その間に黒い手は凄まじいスピードで二人に襲いかかり、霊夢は反撃を試みる暇もなく、黒い手に動きを奪われ指一本動かせなくなってしまった。
霊夢に投げ飛ばされた早苗も、既に黒い手に足を押さえ込まれ、あっという間に数多の黒い手は体を顔をがんじがらめに縛り付け、黒い塊となりつつあった。
黒い手が霊夢と早苗の口を塞いでしまい、しばらくは二人のくぐもった声が聞こえていたが、数秒後にそれも聞こえなくなってしまった。
早苗と霊夢の二つの黒い塊はその源である葛籠に引き寄せられ、ガコンと中に吸い込まれた。黒い手もそれに続き、一本の手が葛籠の蓋を拾って被せた。
そして、倉庫にはシンとした静寂が戻る。
二人は葛篭の中へ。
☆ 幕間その1 ☆
『たぶん仲良くはなれない』
それが幻想郷に新しい巫女がやってきたと聞いた時の霊夢の素直な感想であった。
霊夢は、巫女という人種のろくでもなさを実によく理解していた。巫女の性格も当然人それぞれではあるのだが、しかし結局根っこの部分では神に仕える身であり、融通がきかず妄信的であることは彼女たち全てに共通していた。巫女同士はけして相容れない存在である。教義が違うのだから。
この国の場合は相手の教義と存在を全否定しないという点ではまだ寛容ではあったが、それでもやはり仲良しこよしとはいかないものである。ふとした瞬間に感じてしまう違和感や壁。それらが長く交わる事を許してくれない。経験上、霊夢はそれを知っている。
だから博麗霊夢は、新しい巫女に全く期待していなかったのである。けして上辺以上に自分とは交わる事はないと。
第一印象は悪くなかった。山へ向かった霊夢を弾幕で迎えた東風屋早苗の姿は、霊夢にどことない涼しさを感じさせた。見目もいいとも思った。きっと幻想郷に来る前は、男に好かれた事だろうと想像して、やっぱり自分とは合わなさそうと霊夢は感じた。
異変を終えたあとは、博麗の巫女としての職務を果たしに、霊夢は守矢神社へと近づいた。新参者に対して、幻想郷に早く慣れてもらえるようにするのも巫女である彼女の仕事である。
守矢神社からは代表者として、件の東風谷早苗が出てきた。触りだけの挨拶を交わした後に、幻想郷の基本的な知識について話しながら、ぶらりと郷を一周回ってここの有力者や名所などを早苗に教え込む。
東風谷早苗はどこか緊張しているようであった。会話は普通にできるのだが、どこか肩に力が入っていて、ぎこちない。霊夢は自分でも愛想がない方とは自覚していたので、それも仕方ないと考えた。こういう時に適当に笑顔でも作れるのならば、相手の堅さをとることが出来るのかもしれないが、そんな器用なことは彼女には難しかった。何事もそつなくこなすことの出来る霊夢でも、やれないこともある。
しかし、ぎこちないながらも二人だけで一日過ごしていれば、段々と慣れてくる事もある。早苗は霊夢の思っていたよりもずっと親しみやすい性格をしていた。霊夢の話をふむふむと真剣に聞いて、生真面目にメモなんかもとったりしながら、霊夢の興味に応じて外の世界の話もしてくれた。元々歳も近い同性同士であるので打ち解けるのも早かった。
「明日、時間ある?」
早苗にそう告げたのは、その日の別れ際であった。霊夢の義務は今日だけでおしまいであるが、この子が早く幻想郷に馴染めるように、もう少しだけ世話をしてやろうと彼女は考えたのである。
早苗は面食らったように驚いた様子を見せた。
「え、なんでですか?」
「なんでって……ほら、まだ里の中とか案内してないし。美味しい甘味処とか一緒にいかない?」
まるで好きな異性をデートに誘うようだなと霊夢は思った。早苗は少し間を開けてからOKの返事をする。
そして次の日。
「えっ、じゃあ霊夢さんって幻想郷のお偉いさんとかじゃないんですか!?」
「違うわよ、私はただの下っ端の境界守だから、あんたの勘違い」
「なーんだ、じゃあペコペコビクビクして損しちゃいましたよ。もし粗相でもして機嫌を損ねたら守矢神社存続の危機かと思って私すごい怖かったんですからね」
二度目ともなると二人の距離はもっと近づく。ちょっとした冗談や笑い話も会話の中に挟まれるようになる。
甘味処に寄ってから里をブラブラしたあと二人は居酒屋に入ったが、早苗は未成年だからと飲酒を断った。幻想郷ではそんなもの関係ないと霊夢が言っても聞かず、仕方なくウーロン茶で乾杯をする。
「っていうか、その『霊夢さん』っての止めなさいよ。私のが年下なんだし。敬語も使わなくていいから」
「霊夢さんのが幻想郷じゃあ古参ですし、巫女としても先輩になりますから、私としてはこの方がしっくりくるんですけどねぇ。敬語使われるのはイヤですか?」
「イヤって訳じゃないけどさ。敬語使われると何となく壁があるように感じちゃうっていうか……」
霊夢の言葉に、早苗はニコりと嬉しそうに笑った。脈絡のない早苗の笑みに、霊夢は怪訝そうな顔をする。
「あ、いえ済みません」
早苗はそう言って謝ったが、その笑顔の理由までは説明しなかった。
その日の別れ際、霊夢は「暇があったらうちに遊びにきなさいよ」と早苗に告げ、それを聞いた早苗はもう一度、満面の笑みを作った。
それからも二人は度々、同じ時間を過ごすようになるのだった。
霊夢の「仲良くなれない」という予想は外れた。未来予知とまではいかなくとも先をも見通す力に長けた彼女には珍しいことである。
東風屋早苗は、博麗霊夢にとって必ずしも相容れない存在ではなかった。
博麗霊夢は明るく人当たりのよい東風谷早苗に対して好感を持ち、一方の早苗も巫女の先輩として霊夢には敬意と友愛を持って接してくれた。
早苗は、霊夢にとっての数少ない人間の友達の一人になった。
☆ ☆ ☆
霊夢が目を覚ました時、辺りは真っ暗であった。長い間気を失っていた影響なのか、頭は朦朧として体がダルい。
一体私はどうしてしまったのか。霊夢は最後に残っていた記憶を辿る。
(確かあの時は、早苗が葛籠を開けて、そこから黒い手が出てきて……そうだ、私たちは妖怪に襲われたんだ……)
完全に油断であった。不意打ちとはいえ博麗の巫女が妖怪に身柄を拘束されるなんてことはあってはならないことである。弾幕ごっこが普及し終わったことで、自分の心に隙間が出ていたのか……こんなことでは、またあの人に叱られてしまうではないか。
霊夢は首をふって思考を鮮明にしようと試みた。
妖怪に囚われたとは言っても、まだ殺されてはいない。手も足も感覚があるから四肢を捥がれたわけでもないし、手錠や足枷もついていない。闇の中ではあるが、目をつむると光彩が見えるので、目を潰された訳でもなさそうだ。
妖怪がなぜ自分たちを引き込んだのかは分からないが、さっさとここから出なければ。
霊夢はそこまで考えて、自分の体にある違和感を覚えた。
(あれ、もしかして今、私……裸? ていうか全裸になってる?)
霊夢は襲われる前に着ていた巫女服はおろか、胸にまいていたさらしや下着すら身につけていなかった。髪飾りすらない。今の彼女は何一つ身に付けていない産まれたままの姿であった。
人間を性的に襲う妖怪というのも存在する。あるいは人間の女性の卵巣や直腸を自らの生殖に利用するという、霊夢からしても悍ましい妖怪というのも聞いた事がある。
(まさかその手の妖怪だったの!?)
霊夢はゾッと背筋を凍らせた。
体のどこにも痛みはない。霊夢が眠っている間に何かしらされていたのならば、どこかしらに痛みがあるだろうが、倦怠感はあれど痛みを感じることはなかった。だが、マヒ毒のようなものを使われていたら……。霊夢は恐る恐る、自分の体に手を這わせた。もし自分の体に異変があれば、血や精液など妖怪の(または霊夢の)体液が指に触れる筈である。
だが、霊夢の指に何の液体が触れることもなかった。これで完全に安心とは言えないが、霊夢はとりあえずほっと一息をつけることができた。
しかし、霊夢は思考が通常状態にもどるにつれ、もう一つあることに気づいた。自分は今仰向けになっているが、背中が随分柔らかい。これは妖怪の内臓の柔らかさではない。もっと、守ってくれるような暖かい柔らかさである。
その時の霊夢は、いわゆるお姫さまだっこの様な形で抱えられていた。
理由はともかく、今この状況で霊夢を抱えることできるのは一人しかいない。
「あ、霊夢さん、気がついたんですね」
真っ暗闇の中から東風屋早苗の声がした。
「早苗、貴女無事なの!?」
「う〜ん、無事か無事じゃないで言えば無事なんですが……あんまり無事じゃないかもしれないですねぇ」
早苗は曖昧な言葉でお茶を濁していたが、霊夢としては早苗がとりあえずは生きていて安堵した。
葛籠を開けようと誘った自分が無事で、無関係な早苗が死んでいては生きて戻っても周りに合わす顔がない。
「とりあえず状況が知りたいのだけれど、早苗はどれくらい把握してるの?」
早苗にききたいことは山ほどある。しかし慌てても仕方がない。喫緊の現状だからこそ、落ち着いた行動を取らなければいけないことを霊夢は知っていた。
久々ではあるけれど、妖怪に命を狙われるのはある程度慣れている。どんな時も冷静であったからこそ霊夢は今も生きている。
「霊夢さんがお休みしてる間、この……部屋? を色々調べたので大体の状況は分かっているつもりです」
「その分かった事を全部教えてちょうだい」
「はい。……そうですね、どうやらここは妖怪の体内のようです。妖怪の正体は不明ですが、目的は私たちの消化吸収でしょう。床が消化液で満たされて、肌が触れると火傷するように皮膚が溶けてしまうので気をつけて下さい」
何となく想像はしていたが、霊夢は改めて自分たちの今置かれている状況に冷たい汗を垂らした。明確に大ピンチである。
「あ、そうだ。霊夢さんも気づいたと思いますけど、今、霊夢さんは裸ですから」
「ええ、知ってる。脱がしたのは貴女なの?」
「はい。敷物にするために私が脱がさせてもらいました。この胃液は服のような物を溶かす事は苦手なようだったので。もちろん私の着ていたものも全て使っています。あの……すいません。寝てる間に勝手に脱がせちゃって」
「別にいいわよ。そんなこと」
「でも、出られないのなら、これも結局時間の問題ですね。いずれ服は全て溶けきって消化液が私たちの足に至ってしまいます。弾幕は放てませんでした。あと空にも浮かべなくなってます。色々考えたのですが、私にはここからの脱出法が浮かびませんでした。説明は……以上です」
早苗が早口の状況伝達を終えた。霊夢は早苗からの情報を元に頭を巡らせる。
「妖怪とのコミュニケーションは?」
「何度か呼びかけてみましたけど、反応はありませんでした。どうやら明確な自我を持たず本能のままに行動するタイプの妖怪のようですね。まるで食虫植物のようです」
普通の妖怪ならば、早苗はともかく、博麗の巫女たる霊夢を殺し食おうなんてことは考えない。霊夢を殺せば結界が不安定になってしまうからだ。だからまともな理性のある妖怪は霊夢を本気で襲おうとはしない。しかし逆にいえば理性のない妖怪は博麗の巫女だろうと襲うのだ。
妖怪の本質に従って、殺して食おうとする。
まさに今、この妖怪がしようとしているように。
「この部屋……体内はどれくらいの広さ、大きさがあるの?」
「軽く手をつけながら廻ってみましたけど、大体円形で半径2m程の広さでした。狭いですね。いえ、胃の中にしては広い方なのかもしれませんが……天井の高さは分かりませんが、この声の響き具合からしてそこまで高くもなさそうですが、かといって肩車程度で届く高さでもなさそうです」
「狭そうだけど、酸素は大丈夫かしら?」
閉鎖空間であれば酸素の残りも心配しなくてはならない。
「大丈夫だと思います。これくらいの広さで密封されていたら既に酸素が足りなくなっているはずですから」
「なるほど」
霊夢は早苗の回答を咀嚼する。
密封されていないというのは二人にとって良い情報であった。空気の通り道があるということは、狭くとも二人が通る道も存在するということだからだ。二人が入ってきた食道が完全密封されていたのなら、霊夢と早苗の脱出の難度は格段に上がっていただろう。
「壁はどれくらいの強度があるの?」
「肉厚ですね。私たちのパンチなんかじゃあ到底貫くことはできないと思います。やはり何らかの霊力を用いないといけないのですが、私の力は全て使えなくなっていました。霊夢さんはどうですか? 夢想封印を使う事が出来れば脱出は無理でも、消化液からは逃れられると思うのですが」
「無理ね、さっきから私も試してるけど夢想封印は使えないわ」
「だめですかー」
早苗は危機感のない声で落胆した。このような窮地に陥った経験が少なからずある霊夢ならまだしも、早苗も外の世界で生まれ育ったにしては随分落ち着いている。
しかし、こんな真っ暗闇で足下には胃酸の海という極限状態で、ここまで冷静に的確な状況認識と簡潔な説明を出来るというのは実に頼もしい。本来ならパニックになって泣き叫んでいてもおかしくないのだから。
(この子と二人なら大丈夫ね……)
霊夢は心の中で小さく笑った。しかし、霊夢にはもう一つ早苗に確かめておかなければいけないことがあった。
「大体状況は把握できたわ……じゃあ最後の質問」
「はい、なんですか」
「なんで貴女は私を抱えているの?」
早苗は今、自分の代わりに服を敷物を堺にして消化液に触れているという事実。闇の中とはいえ、それに気づかないほど霊夢は鈍感ではない。
「単に霊夢さんより先に私が目覚めただけですよ。放っておいたら霊夢さんが地面についちゃいますし」
「なら、頬を張ってでもして私を起こせばよかったのに」
「霊夢さんがどうなってるか分からない状態であまり動かしちゃいけないと思ったんですよ。もしかしたら頭に怪我してるかもしれませんから」
「……そう」
霊夢はまだ納得していなかったが、それ以上追及することもなかった。早苗が霊夢を抱えている理由は実際のところ、彼女が述べた通り、何となくやってるというのが最もしっくりくる理由だった。自己犠牲とかそんな大層なものは早苗は考えていない。
霊夢が気絶していて自分が起きていて、下は胃液の酸。だから自分が霊夢を支えないといけない。今の早苗が考えているのはその程度のものであった。
「でも、脱出策っていってもねぇ。すぐには思いつかないわよ」
「そこを何とか思いついてください。服はおそらく30分ほどしか保たないと思います」
「30分か……」
タイムリミットとしてはそこまで短くはないが、悠長にしている暇もなさそうだ。
「まぁ霊夢さんには私が消化されている時間が余分にありますが」
「……下らないこと言わないで」
笑えない冗談だった。その時になれば、霊夢は既に事切れた早苗の死体の上で胃酸を避けながら脱出を試みなければいけなくなるのだ。
霊夢はなんとかして30分以内での脱出をしようと改めて自分に言い聞かせる。
実のところ、妖怪の正体自体は既に掴めている。幼い頃から多くの妖怪に触れ、また文献でも妖怪のことを学んでいた霊夢の知識の中に、今の状況に近似したものを作れる妖怪がいた。
これは恐らくは土槌と呼ばれる妖怪の亜種であろう。
土槌は人間を餌で釣り、丸呑みして食らうという生態を持っている。『巫女二人』というのはこの個体の味の好みなのか、それとも思わせぶりな文面を書いて人を引く付けていたのかまでは分からないが、恐らくは両方だろうと霊夢は思った。
土槌の体内からの脱出方法は原則として3つの方法がある。食道を逆走するか、体内を破壊するか、胃の容量よりも大きな質量を出現させパンクさせることである。
霊夢は順に可能性を模索していく。
食道の逆走は出来るだろうか。空が飛べれば無理矢理にでも来た道を戻るのは不可能ではないかもしれないが、早苗が言うには空を今は空に浮かぶことが出来ないらしい。
内臓の壁をロッククライミングの要領で登るという方法も思いついたが、それも難しそうだ。獲物が壁を伝って登れる胃なんて聞いた事もない。最終的には一つの候補ではあるが、胃酸の海の中で試すには余りにリスキーだった。
胃酸の海の中を素足で進むにはある程度の勝算が欲しい。
ならば内部破壊はどうだろう。
破壊とまでは行かなくても、外壁を刺激することによって吐き出してもらうという作戦である。
だが少し考えて、これもどうやらダメそうだった。
この胃の中は明らかに葛籠よりも広くなっている。これは霊夢たちが何らかの力で小さくなっていると考えるべきであろう。
それに、全ての霊力を封じられたごく普通の少女二人の膂力で出来る刺激などたかが知れている。
三つ目、胃の中の容量をパンクさせるというものであるが……霊夢にはその方法が全く思いつかなかった。
(ちょっと……やばいかもしれないわね)
今までも妖怪によって命が危ういという状況に遭遇することはよくあった。しかし大体の場合は無敵の夢想封印でなんとかなったし、夢想封印が効かない時は距離をとって持久戦に持つこむか、最悪逃げることもできた。
しかし今はそれら全ての方法が使えない。夢想封印も、逃げることも選択肢から除外されてしまったのだ。
流石に、霊夢の額にも冷や汗が浮かんできた。
しかも今の霊夢は一人ではない。早苗もついているのだ。仮にここで霊夢が死んだとしても、それは彼女が油断したから悪かったというだけだが、早苗を巻き込んだとなっては博麗の巫女の名に泥を塗ってしまう。
それは出来れば避けたかった。
(誰か葛籠を外から叩いてくれないかな……)
霊夢は不意にそんな発想をしてしまう。
確かに伊吹萃香や霧雨魔理沙がこの葛籠を怪しんで霊夢達を助けてくれるという可能性も全くのゼロという訳ではない。
しかし、そんな偶然がそう都合良く起きる訳がないのである。
実行可能な脱出法が浮かばないからこそ、現実逃避的に偶然や奇跡に近い脱出法を思い浮かべる。とうとう霊夢は他力本願に陥ってしまったのだ。
これはすなわち、博麗霊夢の最期が近づいていることを示していた。博麗の巫女だろうと死ぬ時は死ぬ。普通の人間と同じように普通に妖怪に食われて死ぬ。その刻は間もなく訪れるだろう。
しかし、それは霊夢がこの窮地にて、独りであった場合である。
この場において、運のいい事に霊夢は一人きりではなかった。
「……っつ」
ほんの微かな……霊夢に聞こえないように必死で歯を食いしばっていた早苗が不意に漏らしてしまったうめき声は、他に何の音もない空間では霊夢の耳に届いてしまう
「早苗、大丈夫!?」
「え、ああ。大丈夫ですよ。ちょっと服から足がはみ出ちゃっただけです。まだ敷物には余裕があるみたいだから平気です」
だが、霊夢にはそれが強がりであると、すぐに分かってしまった。
時間の感覚はないが、先ほど早苗と喋っていた時からどれくらいの時間が経っただろうか。
感覚的には10分程度だが、この緊迫状態の中でどれだけ体内時計を信頼できるかは怪しいものであった。
もしかしたら既に早苗は胃酸にさらされているのではないか。霊夢に心配をかけまいと悲鳴をあげたいのを懸命に堪えているのではないか。
(どうにかしないと……)
霊夢にますます焦燥感が募る。しかし焦れば焦る程に考えはまとまらない。万策はまだ尽きていないがその前に精神の方がまいってしまいそうだった。
「霊夢さんどうですか?」
脱出方法は見つかりましたか? と続く早苗の問いかけに霊夢は何も答えることが出来なかった。早苗も霊夢が考えあぐねるていることを察する。
「それにしてもまさかこんなことになるなんて、思ってもみませんでした。ここから出たら温かいお風呂にでも入りたいものです」
焦りが限界に達していた霊夢は、その言葉についイラ立ちを覚えてしまう。
「ねぇ、早苗。さっきから、なんで貴女はそんなに危機感がないの!?」
ピンチの時にこそ冷静であること。それは何よりも大事なのは確かだ。
しかし早苗の平常との変わらなさは霊夢からみても最早異常といえるレベルであった。何とかしなければ、このまま二人とも10数分後には妖怪のエサとしてドロドロに溶かされてしまうというのに、早苗はまるで動じていない。
生粋の幻想郷生まれとして多くの人間の死に接していた霊夢でさえ、この状況には焦燥感を態度に出さずにはいられないというのに、外の世界。霊夢からしたら温室のような温い社会で育った早苗が自分よりもよっぽど冷静でいるのは実に異様なのだ。
もしかして余りにも突然すぎて今この瞬間が現実だと思えていないのか? あるいは霊夢が目覚める前から既に絶望しきって精神が現実逃避してしまっているのかもしれない。
霊夢はそんなことを考えながら早苗に詰問した。
「え、だって……」
しかし、霊夢の問いに対する早苗の答えはそのどちらでもなかった。
早苗の口から飛び出した、その返答は、
「霊夢さんがいるなら大丈夫でしょう?」
純粋な霊夢への信頼であった。早苗は確信しているのだ。霊夢ならこの最悪の窮地からでも結局最後は自分を救い出してくれると。
どこまでも無垢に自分を信じている東風谷早苗に、霊夢は絶句するしかないのであった。
☆ 幕間その2 ☆
東風谷早苗という少女は幻想郷の住人から思われているよりも、ずっと平凡な少女であった。
平凡という言葉がだめなら、普通。東風谷早苗はごく普通の少女なのだ。ごく普通の社会でごく普通に育ち、生きてきた十代半ばの少女である。小学校、中学校と地元にある学校で学び、そのまま彼女の偏差値にあった公立高校に進んだ。
クラスでの彼女はその容姿からそれなりに目立ってはいたが、それでもやはり特異な存在ではなかった。早苗は幼い頃から怪異に触れて育ち、人には見えないものが見える体質ではあったけれど、それ故に逆にその能力、見えることを隠して生きていくことも出来た。
人は3人集まれば軋轢が生まれる。学校やクラスという空間は誰にとっても楽しい訳ではない。争うことが得意ではなく、むしろ控えめな性格をしているのに、目立つ顔貌をしていた早苗は時に悪意の対象になった。それとて別段のものでもない。人間、様々な人種階級の者たちが強制的に雑多に詰め込められた教室という宇宙空間で十年以上生きていればイジメを受けたことのない割合の方が少ないのだ。その中に早苗が入っていても何らおかしなことではない。
早苗の受けたのは仲間はずれ、靴を隠される。よくある程度の低いイジメであった。理由は「自分の彼氏に早苗がちょっかいをかけた」「少し可愛いからってチョーシに乗っている」といった同じくレベルの低いものである。
とはいっても早苗自身は性格がよかったし、大義名分にも無理があったのでイジメはいつも長く続くことはなかった。
早苗はそんな経験をするたびに、他人という存在の恐ろしさ。人間関係の難しさと怖さを学んでいった。
昨日まで自分を無視し、陰口を叩いていた女の子は、今日は何事もなかったかのように友達面をして早苗に普通に挨拶をしている。早苗にはまるで理解できないものがそこにはあった。
他人がまるで理解できない。彼ら彼女たちは一体何を考えて自分と接しているのか分からないのだ。
人間への苦手意識は早苗の心の奥の方にまでしっかりと刻み込まれた。
早苗が幻想郷への引っ越しが決まったのは高校に入ってしばらくしてからの事であった。
それを知らされた時、早苗は強く恐慌した。
今まで普通に高校に通って友達と遊び語り、数学や英語の勉強をしていた自分が、今度から人を喰らう妖怪や魑魅魍魎が住む集落で暮らす事になるというのだ。
「出来る訳がない」と早苗は強く思った。
しかし彼女に拒否権はなかった。全ては神社の決定事項である。
なぜ自分の身にこんな理不尽なことが起こるのだろうと、早苗は生まれてはじめて守矢の巫女という自分の身分を呪った。せっかく頑張って入った高校も中退である。いや、それは瑣末な問題だ。
問題は……自分が本当に幻想郷という魔境で暮らしていけるのかどうかである。妖怪や魔法使いといった人外の存在もそうだが、それよりも山奥の更に奥にある幻想郷で自分が馴染める未来が全く見えない。
早苗の住んでいるところとて大都会とは言いがたいがそれでも駅前にはビルがあるし、電波もインターネットなどの文明の利器もある。聞く話によると幻想郷には電気すら限定的で大昔の暮らしを今でもしているというではないか。そんな閉鎖的なムラ社会に、今まで普通の人間社会で生まれ育った自分が入り込めるとは到底思えない。
だが、早苗がいくら嫌がろうが時間は無情にもすぎていく。
幻想郷で早苗がみた人里の様子は、本当にこれが21世紀の日本なのかと思うようなものであった。これから長いことここで過ごしていかなければいけないと考えると身震いがする。
その直後に八雲藍となのる狐耳の女性が現れて、もうすぐ守矢神社を襲撃する者達がやってくるから迎え撃って欲しいと言われた時は目眩すらした。自分はただの16歳の人間なのだ。なぜいきなりそんな襲撃だとか迎え撃つとかの剣呑な話になるのだろうか。よく聞くと、それはスペルカードルールという幻想郷特有の決闘法のチュートリアル的な儀式だと聞いて少し胸をなで下ろしたが、それでもやはり怖い。早苗は、今すぐに外の世界に戻りたくなった。
やってきたのは、怜悧な瞳を持った紅い巫女であった。
早苗はその眼を見た時にゾッとした。今まで早苗が生きてきて見た事のない程の深淵を携えたその眼は、安穏と暮らしていた自分や外の世界の少女には持ち得ないものであった。それだけで彼女が数多の死や生をその瞳に映してきたことが窺えた。幻想郷はそういう場所なのだと思い知らされる。
そして早苗が何より怖かったのは、霊夢のその眼に早苗を拒絶するものがあったからだ。それも当然である。早苗にとってその紅い巫女や幻想郷の住人が異質であるのと同様に、幻想郷側にとっても外からやってきた早苗は異質であるのだから受け入れられないのだ。
早苗は、その紅い巫女が自分との間に大きな壁を作っていることを見て透かす。
その夜、早苗は帰りたさと寂しさで布団を涙で濡らした。初日から彼女のホームシックは極めて深刻なものになっていた。
トラウマに近い印象を残したその紅い巫女が守矢神社を尋ねてきたのは、その翌日であった。幻想郷を案内するのが彼女の役目らしく、代表者を一人だして欲しいと彼女は言った。早苗は紅い巫女の応対をするように授かった。これにも当然早苗に拒否権はない。
早苗はイヤでイヤで仕方なかった。ただでさえ昨日今日会ったばかりの人と二人きりで一日を過ごすなんてことは早苗には堪え難いのに、紅い巫女は昨日と同じく、早苗に対して壁を作っていたからである。
その上、その紅い巫女は幻想郷では名の通っている少女らしく懇意を深めておくようにも言われている。なので早苗が苦手意識を持っているとは悟られてはならない。早苗は精一杯の作り笑顔で、紅い巫女に接した。
紅い巫女は無愛想な顔で事務的に早苗に幻想郷を紹介していった。代表的な組織や勢力。パワーバランス。有力人物など。早苗たちが幻想郷に馴染むには重要な情報ばかりである。緊張してばかりはいられないと、早苗は大事な所をメモに書き込んだ。
それなりに会話もあったが、やはりぎこちない。二人の間にはまだ大きな壁があったのだから。
やがて幻想郷を一周巡り、一応これでおしまいと紅い巫女が言った。早苗は心の中で、ようやく解放されると肩をなで下ろした。当然そんなことはおくびにも出さないのではあるが……
早苗が紅い巫女に挨拶をして神社へ帰ろうとした時、後ろから声をかけられた。
「明日、時間ある?」
早苗は完全に面食らった。案内は終わったのではないのか。やっとこの紅い巫女から離れられるというのに、また明日もこんな気まずい雰囲気で過ごさなければいけないのか。早苗はちょっとした絶望感に襲われた。
「え、なんでですか?」
思わず早苗はそう零してしまった。言った瞬間、早苗は「しまった」と思ったが、もうどうしようもない。
「なんでって……ほら、まだ里の中とか案内してないし。美味しい甘味処とか一緒にいかない?」
いかない? なんて言われても早苗には毎度のこと拒否権はない。早苗はOKの返事をしたものの暗鬱とした気分で家路についた。
次の日、その紅い巫女は約束を果たすためにまた守矢神社にやってきた。彼女は昨日言った通り、早苗を人里の甘味処に連れて行った。
そこで年頃の若い女の子同士でガールズトーク……なんて聞こえはいいが、早苗は緊張感をいまだ隠しきれていないし、紅い巫女はまだ近付き難い印象を持たせていた。二人の空気は良いとは言いがたい。
しかし、早苗はその紅い巫女と会話しているうちに、ある事に気づいた。
紅い巫女は確かに自分との間に壁を作っている。けれど、その一方でその壁を壊そうと……早苗に近づこうとしているのではないか。紅い巫女のそういう気持ちが早苗には感じられた。
それに気づいた早苗も、その紅い巫女ともっと近づきたいと思い始めていた。昨日のように言われて近づくのではない。早苗自身がそうしたいと思って紅い巫女に近づくのだ。
紅い巫女は名を博麗霊夢と言った。
彼女はこの幻想郷の結界を司る巫女であり、幻想郷を象徴する人物であると知った。しかし、彼女自身はそんな肩書きをまるでないかのように振る舞っている。早苗が外の世界のことを話すと興味深そうに頷く。
気づけば二人の間にあった壁はなくなっていた。
霊夢は帰り際に「神社に遊びに来なさい」と言った。早苗はその言葉が嬉しかった。そして嬉しがっている自分に驚いていた。たった二日一緒に過ごしただけで、早苗は霊夢のことを好ましく思い始めていたのである。
それ以降、早苗はヒマさえあれば博麗神社を訪れるようになった。
霊夢はそんな早苗のために沢山のことをしてくれた。幻想郷の生活に馴染めるように、色々な地域ルールを教えてくれたり、沢山の人に早苗や守矢神社のことを紹介してくれた。そのお陰で早苗には幻想郷での友達や知人が次々と増えていった。
早苗は、あれほどイヤだった幻想郷での生活が楽しいものに感じられていた。
自分がこんなにすんなりと幻想郷に馴染めたのも、霊夢がきっかけであることは間違いない。
早苗は、霊夢への深い恩を感じていた。この年下の少女のおかげで辛かった幻想郷での生活が楽しいものになったのだから。
そして何より、博麗霊夢は東風谷早苗の人生で初めてといってもよい……心の底から信じられる親友となったのだった。
☆ ☆ ☆
場所は妖怪の胃の中に戻る
「何言ってるのよ。私がいるから大丈夫なんて……保証は出来ないわ」
霊夢は呆気にとられてから早苗に告げた。
「正直いうとね、私にはもうここから出る方法が思いつく気がしないの。やばいのよ、このままじゃ……」
口に出してはならないと思っていた諦観の言葉を、霊夢はついつい漏らしてしまう。博麗の巫女はけして万能の存在ではない。百年以上続く博麗の巫女の系譜の中には妖怪に殺された者もいるのだ。
霊夢がそうならないという保証なんてどこにもない。まだデッドエンドには至っていなくても、崖っぷちであることは否定できない現実である。
だが、早苗は霊夢のそんな泣き言にもまるで動じていなかった。
「じゃあ逆に考えてみてはどうですか?」
「逆って……どういうこと?」
「どうやって外に出るか、ではなくて、なぜ私たちは外に出られないかを考えてみるんですよ」
早苗が明るい口調で提案をする。
「なぜ出られないからって言われても、いつもの力が使えないからでしょ」
霊夢はが間の抜けた答えをだす。あまりにも当たり前の結論である。
しかし早苗は懲りずに次の質問につなげる。
「じゃあなんで私たちは弾幕も放てないし、空も飛べなくなってるんでしょう」
「そりゃ……この妖怪の体内だからエネルギーの供給が出来ないからに決まってるじゃない」
「エネルギーの供給?」
「貴女も巫女なら知ってるでしょ。どんな巫女も本人はただの人間よ。ただし、巫女は神性の力をエネルギーに変換できる媒介装置としての力を修行で身につけているの。だから外界と隔たったこの体内では私たちは力を使えないって訳」
厳密にいえばこの説明は間違っているのだが、霊夢は早苗にも分かりやすい言葉を用いて説明をした。
「なるほど……ここには神様の力が届かないから私たちも力を使えないんですね」
「そう、だから空も飛べないし、弾幕も……」
「って、ちょっと待ってくださいよ。神様ならいるじゃないですか」
早苗が文字通り天啓を得たかのように言った。
「神様がどこにいるってのよ」
「私ですよ、私! 現人神!」
霊夢を抱きかかえているので体は動かせないが、もし彼女が自由であるならば今頃自分を指差して大喜びを全身で表現していたところだろう。
「私、神様ですし、私の力を使って霊夢さんが弾幕でも浮かんで逃げ出すも出来るじゃないですか!」
早苗は欣喜雀躍して霊夢の体を揺すった。とうとう脱出法が見つかったのだ。早苗の力を霊夢を媒介にして力を取り戻せば、宙に浮く事も再び出来るようになるし、夢想封印も使えるようになるだろう。そうなってしまえば後はどうとでもなる。早苗は一気に道が開けたように感じた。
そうと決まったらさっさとこんな所からオサラバしなければいけない。早苗は早速、霊夢に催促したが、しかし、
「悪くない考えだけど、それは無理ね」
霊夢がその喜びに水をさすかのように冷たく言い放つ。
「え、な、なんでですか!?」
「貴女は確かに神ではあるけれど、まだ穢れが多い現人神でしょ」
「け、けがれなんて、私は毎日ちゃんとお風呂に入ってますよ。あ、でも……確かにここに来るまでに結構汗かいちゃってますけど……」
「そういう意味じゃないわよ。あのね、生きた人間の体には根源的に穢れってものが宿っているのよ。確かに貴女の神性を用いて私が力を取り戻すことは可能でしょうけど、そこに生きた人間の穢れが付着していたら意味がないの。だから貴女の提案は却下せざるを得ないわ。良い線いってたけどね」
人は生きていくだけで多くの殺生をする。それは清廉潔白であることを旨とする精神の動きからすると、致命的な抵抗力となるのである。故に現人神というのは基本的に矛盾した存在で、そのほとんどがまがい物であるのだ。どれだけ信仰されていても人間それ自体はどこまでいっても人間の枠を超えることは出来ない。もし現人神という概念が成立することがあるとしたら、それはその人間の実像から離れて虚構の存在として外化した場合だけであろう。
しかしその時は、現人神を名乗る人間には外化された虚構の信仰の対象をどうこうする力を既に持ち得ない。その力を空想的に利用することは出来るかもしれないが、それは最早現人神というよりは、ただの虚偽意識に過ぎない。
早苗の場合の現人神は、「予約」という意味合いが強い。やがて早苗が肉体を捨てる時に、その胎内に宿る神性は穢れから解放され、その時にはじめて真の神といえる存在になる。だから今はただの神ではなくて現人神。
いずれにせよ、早苗の神の力は今この状態で使うことはできない。
霊夢はそんなことを早苗に説明した。
「そうですか……残念です……」
早苗は先ほどまでの歓喜はどこへいったのか、塩をふりかけられた青菜のようにしぼんでしまった。
(アイデアはよかったんだけどね……、この子が生きた人間である限り無理。どうしようもないわ……ん?)
その時、霊夢はある発想にたどり着いた。
先ほどの自分の説明から導きだされる恐ろしくも合理的な一つの解。選択肢。あるいは答え。その発想が浮かんでしまったのは彼女にとって良かったことなのかは分からない。
「あっ!」
霊夢は思わず叫んでしまった。
「どうしました霊夢さん!?」
「あ、ご、ごめんなさい……なんでもないわ」
早苗は頭に「?」を浮かべたが、霊夢が何でもないという以上それより先は追及できない。自分が霊夢の思考を乱してはならないのだから。
一方で霊夢は、自分が考えたそのアイデアに恐れ戦いていた。霊夢はついに脱出する方法を思いついてしまったのである。
(生きた人間に穢れがあるってことなら…………)
先ほどの自分の説明を聞くのならばその発想が浮かぶのもけして不思議ではない。
霊夢は恐る恐る、自分が想像してしまった可能性について再び思考を巡らせる。
早苗の現人神としての神性を使い脱出することは出来るが、しかし、その為には早苗の人間としての穢れが問題なのだ。
そして、早苗が将来的に肉体的を遺棄するときに神となるために前段階としての称号である。ここまでは客観的な事実である。ならば……
今、早苗が穢れた肉体を捨て去るのであれば、果たしてどうなるのか?
早苗が人間としての穢れを捨てる。穢れの満ちた人間の身体を放棄するのならば、そこに残るのは早苗の神性だけではないのだろうか。もし、それが霊夢に力を与えてくれるのなら……
徐々に霊夢の想像は現実味を帯びてくる。しかし、肉体を捨て去るというのは、つまるところ人間として死ぬということに他ならない。
この状況で早苗の命が絶えるとするならば、それは、早苗が自殺するか、あるいは……
霊夢は、妖怪の体内に入ってはじめて真に恐怖した。
幻想郷の巫女として多くの人間の終末に関わった彼女ですら、感じ事のない感覚。
”自分が早苗を殺すという未来”
霊夢は小さく首を横に振った。
(状況が最悪だからってよりにもよって何てことを考えつくのよ、私は……最低だわ)
霊夢は急いで自分の思いついたアイデアを否定する。しかし一度得てしまった活路は総簡単には手放す事は出来ない。
それは霊夢の心の弱さでもあった。そこで霊夢は一つ深呼吸して冷静になってから、逆にその活路を検討してみることにした。
きっとこれは自分の未熟さが生み出した、不可能な選択肢に違いない。ちゃんと考えてみれば、早苗を殺したからといってそう都合良く霊夢が使役できる霊体となれるはずがない。霊夢はそう考えて、自分の持つあらゆる知識を総動員してその選択肢を排除しようとした、しかし、
(早苗を使って外に出る事は………………多分、出来る。出来てしまう)
彼女の経験は皮肉にも、その選択肢を肯定する結論を出してしまったのだった。今まで霊夢は早苗と同じように生前から霊力が極めて高く、死後は神格化する人物を少なからず見てきた。そのような人間が生きている間は、霊夢は自分の身体に降ろすことはできなかったが、神格化したその人格であれば可能だった。ならば、早苗だけ例外であるとは考えられない。
仮定が確信に変わった時、霊夢は自分の心が二つに分かれたように錯覚した。普段の霊夢の心と、弱い心。その弱い心はまるで悪魔のように霊夢にこう囁いていた。
『早苗を殺せ。そうすれば自分は生きて出られる』
霊夢は自分で自分が恐ろしくなった。自分の心にこんな醜悪な部分があったなんて、今まで生きてきて気づきもしなかったのだ。
当然、理性では早苗を殺すなんてことは出来るはずもない。彼女は霊夢にとって大切な友人であるのだ。普段から早苗には色々と世話になっているし、異変を一緒に解決しにいった戦友でもある。そして何より、今の自分は一体誰に守ってもらっているというのか。この薄暗い胃の中で霊夢の代わりに胃酸に接し、その血の暖かさで霊夢を激励してくれているこの少女。早苗は心優しい、自分の友人なのだ。霊夢は到底、早苗を殺すことなんて出来るはずがない。
「霊夢さん?」
早苗に声をかけられた霊夢の心臓はまるで殴られたかのようにドキっと鼓動した。
「大丈夫ですか? さっきから何か焦っているようですけど……」
「え、ええ……そ、そりゃ焦るわよ。こんな状況で焦ってない貴女のが珍しいんだから。っていうか、なんで私が焦ってるって思ったの?」
霊夢は、早苗に自分が思い浮かべている邪悪な選択肢に気づかれないようにしどろもどろに対応した。
「なんでって、そりゃこんな身体くっつけてるんだから分かるに決まってますよ」
「あ……」
今の霊夢は早苗に全裸で抱きかかえられている状態なのだ。当然、霊夢の心臓の鼓動は早苗には直接響いている。早苗は霊夢の鼓動が急に早くなったことを察して声をかけてきたのだった。
「焦らなくて大丈夫ですよ。霊夢さんなら落ちついていれば、きっと良い脱出方法が思いつくはずです。私も一応は考えてるんですけど、中々……」
「そ、そうね。ええ」
早苗は霊夢の鼓動の早さを焦りと見て取ったようだった。霊夢は、早苗に自分の企みが伝わっていないと気づいて少しだけ安堵した。そして改めて、こんな子を殺すことなんて出来ないと確信した。
だが、しばらくして沈黙が戻ると、霊夢の心の悪魔は再び現れる。その悪魔は必死で抵抗する霊夢を容赦なく拐かした。
『じゃあどうやってここから抜け出すの? 仲良く二人で死ぬ?』
『さっき自分で言ってたじゃない、もう他に方法はないの』
『妖怪に襲われて仕方なかったから。誰も私を責めやしない』
逼迫した現実は、霊夢の理性を崩すには十分すぎた。死という現実。
死ぬ。
死。生きない。終わり。
博麗の巫女である霊夢でも、当然のように死は怖い。超然としているように見られる彼女でも、その本質は他の生物となんら変わりない。
死ぬのはイヤだ。
生き延びたい。
そのためには何をしてもいい。
早苗を殺してでも生きたい。
霊夢の本能が理性を完全に破壊していく。
『そもそも早苗を殺したってこの子は死なないのよ』
「殺しても死なないってどういうことよ」
『早苗は現人神だからね。普通の人間と違って身体を捨ててもその神性は残る。ということは早苗が死んだとしても今度は純粋な神として自我も理性も残したまま生きて行くことが出来るのよ』
「そ、そんなの……」
『早苗は現人神でなくなっても神になって守矢の神さまたちの仲間入りするだけなの。それに多分、諏訪子なら土から新しい身体を作ることも出来ると思うわよ? 神奈子と諏訪子だって元々は神性だけの存在だったのに今は実体があるでしょ。早苗もそうしてもらえばいいのよ』
「いや、いやよ。私は早苗を殺したくなんかない!!」
『冷静に考えるの。もし貴女が早苗を殺さなかったら、二人ともここで妖怪のエサになるわ。早苗の神性ごとね。早苗くらいの巫女の魂なんてこの妖怪にとっては最高のごちそうでしょうね』
考えれば考えるほどに霊夢は早苗を殺さなくてはならないように思えてくる。それが最も合理的な解答。ベストではなくてもベター。しかもその選択肢を選ばなければ時間切れというワーストな結果に至る。
この暗闇の中である。その上相手は何の力も持たないか弱い少女。そして何より早苗は自分を100%信じ切っているのである。ならば、霊夢が少し手を伸ばしてその首を握り、力を込めるだけで全ては終わる。おそらく五秒もかからずに、早苗は何の苦しみもなく死ぬことになる。そして二人で脱出すればいいのだ。
霊夢は選択を迫られる。二人で死ぬか、早苗を殺すか。
「うっ……うっううぅ……」
知らず知らずのうちに霊夢は自分が泣いていることに気づいた。理不尽な選択を迫られる苦しさ、悔しさ。
博麗の巫女として幻想郷はそういう場所だということは知っていたつもりだったのに。
覚悟は出来ていたはずなのに。
霊夢の涙は止まることはなかった。
☆ ☆ ☆
「お〜い霊夢きたぜ〜」
普通の魔法使い、霧雨魔理沙が博麗神社にやってきたのは、太陽が頭の上を通り過ぎようとしていた時刻であった。彼女の来訪には特に理由はなかった。あったとしても、適当に霊夢の顔でも見に行くかとそれくらいのものだ。
魔理沙は自分が今どんな研究をしているかを霊夢に話すのが好きだった。単純に雑談でもあるのだけれど、それだけではない。霊夢は魔法についてはそれほど詳しいという訳ではないが、その分だけ魔法使いからは出てこない発想があったりして、魔理沙が、はっとすることも多かった。
今日もそんな感じに雑談でもしようと魔理沙は神社にやってきたのだ。
魔理沙の気まぐれで今日は空を飛ばずに長い階段を登ってきたから、彼女は喉が渇いている。
さっそく霊夢にウーロン茶でも出してもらおうと、魔理沙は霊夢の姿を探した。
「霊夢〜?」
しかし、境内にも神社の内部にも霊夢の姿は見当たらなかった。しかたなく無断で冷蔵庫をあけて、中に入ったお茶で喉を潤しながら、魔理沙は再び友人を探した。
「お〜い、霊夢〜。きたんだけど〜」
だが、返事は帰ってこない。
(どこか行っちゃったのか?)
これだけ探しても見つからないのだ。そう考えるのは自然なことかもしれない。
けれど、霊夢が外出したというには神社の中に違和感がありすぎた。。
例えば、無造作に開かれた障子戸。障子を開け放しにして外出したら、中に砂埃が入ってしまう。大雑把にみえて非常に几帳面な霊夢にはありえないことである。どれだけ急いでいても、霊夢なら必ず閉めてから外に出るだろう。 他にも、普段から頻繁に神社に押し掛けている魔理沙にとって見逃しがたい異質感、今の神社にはあった。
そもそも霊夢の外履きが玄関に残されたままである。
それを踏まえて魔理沙が出した結論は、
(霊夢は誰かに連れ去られたんだ……)
そこまでならまるで問題はない。傍若無人な人妖に好意を持たれがちな霊夢のことだから、本人の都合などまるで無視で彼女を引っ張っていこうとする者は幻想郷には少なくない。
ただ、魔理沙が知っているそれは、霊夢に対する悪意があるものではない。
ここで魔理沙が考えなければいけないのは「今霊夢が神社にいないのは、霊夢に対して悪意ある者が連れ去ったからなのかどうか」である。
本来であれば、まるで考慮にも値しない選択肢であった。霊夢の知り合いに無理矢理連れ出されたというのが普通の考えだ。気まぐれな天狗だったり、わがままな紅魔館の吸血鬼だったりと、候補はいくらでもいる。
万が一、霊夢に悪意がある者がいたとしても、弾幕ごっこで勝負はつくし、魔理沙が気にするようなことでもない。
だが、魔理沙には……神社に来たときから何かイヤな予感がしてならなかった。今、予感と表現したが、それは正確ではないかもしれない。
予感ではなくて、もっと具体的な感覚。言葉では説明できないけれど、魔法とか霊力よりも更に抽象的な何かが魔理沙を捉えていた。
名状しがたい不安を持ちながら、魔理沙はより細かいところまで含めて霊夢の姿を探した。床の下。天井裏。タンスの中までしっかりと。
しかし、博麗霊夢は見つからない。
魔理沙の不安は、いつの間にか焦燥に変わっていた。
魔理沙は境内に出て、空の上から神社を俯瞰した。何か異変はないか。何か動いているものはないか。怪しい所が少しでもあれば飛んでいく勢いである。
「ん、あれは……」
魔理沙が視線を止めたのは、神社の裏にある倉庫であった。
(あそこは確か、霊道具や魔道具が入ってるところじゃなかったか)
珍しい道具がたくさん入っていると聞いて盗みに入って、霊夢にこっぴどく怒られた記憶が蘇る。曰く、この倉庫には危険なものが沢山入っているから、勝手に入ったら安全の保証はできないということだった。通常は、厳重に鍵がしてあって、解錠の技術を修めた魔理沙でもその時に鍵をあけるのには苦労したのだ。
その倉庫が、開いている。中に入っただけであれほど霊夢に叱られた倉庫の戸が不用心に開いている。
「あそこだ」と、魔理沙は考えるより先に体が動いていた。
中に入って魔理沙の目に真っ先に飛び込んできたのは、一つだけ戸棚にも置かれずにポツンと地面の上にある葛篭であった。
魔理沙は警戒心を最大限に高めながら、葛篭を持ち上げてみた。一見、ただの葛篭であったが、底に張ってある紙を見て魔理沙は、
「これか……」
と小さくつぶやいた。その張り紙に書かれていた文章。
『巫女二人でのみで開く』
果たしてその葛篭は、悪意をもって霊夢を連れ去った妖怪に他ならなかった。
☆ ☆ ☆
ドスン
「きゃあ」
心がねじ切れそうになるほどの霊夢の葛藤は、不意にやってきた落下によって終わった。霊夢を抱きかかえていた早苗が仰向けに倒れたのである。早苗は霊夢を離さなかったので、霊夢は早苗のお腹にのしかかる体勢になってしまった。
「さ、早苗。大丈夫なの?」
霊夢が慌てて呼びかけたが、しかし早苗の反応はない。その時霊夢は自分の間抜けに気づく。
自分の体重は一体何キロだったか。確か40キロちょっと。そんな荷物を両手で支えて、30分持つ女の子が一体どこにいるというのか。霊夢は動揺していてそんな簡単なことにも思い至らなかったのだ。
おそらく早苗は腕の限界を超えて霊夢を支えてくれたのだろう。そしてついに精根尽き果ててしまった。応答がない所をみると、気絶しているか答える体力もない程に弱っているか。
「悪かったわね。今度は私が貴女を支えるから」
霊夢は自分でも不思議な感覚であった。先ほどまで自分が殺そうとしていた早苗を助けようとしている。考えてそうした訳ではない。ただ単に身体が動いてしまったのだ。
「〜〜っつ」
胃の中に入れられて初めて霊夢は酸の海に降り立った。強い酸が霊夢の足の裏を焦がしていく。全く耐えられないという程ではないが、1分もいれば足の裏は爛れて無惨なことになるだろう。
霊夢は急いで早苗が服で作った足場を探した。しかし……、
「……どこよ、ないじゃない!」
霊夢が早苗の足下を探しても早苗が足場にしていたはずの二人分の服がない。
まさか早苗が倒れた時に蹴っ飛ばしてしまったのか。霊夢はそう考え、酸の海に這いつくばって服を探した。しかし、見つからない。
霊夢の焦りは極地に達していた。こうしている間にも早苗は酸に背中を焦がされているのである。霊夢はとりあえず服を探すのを諦め、早苗を抱きかかえることにした。
早苗を抱えたまま、足で服を探せばいい。そう考え、霊夢は早苗を先ほど早苗が自分にしてくれたように膝裏と背中に手を回して抱えようとした。
「…………え?」
だが、霊夢はそこで違和感を覚えた。
早苗の膝が見つからないのだ。
霊夢は混乱した。服が見つからないのは分かる。服は軽いものだから、ふとしたことでどこかに移動することは十分に考えられる。だが、なぜ早苗の膝が見つからないのだ? おかしいではないか。人間の構造上、どんなに暗くてもどこに膝があるかは分かる。なぜなら全ての人間の膝の場所は決まっているからだ。
つまり膝が見つからないなんてことはありえない。もし膝が見つからないなんてことが、ありえるとすれば、それは膝が存在しない場合だけである。
「あんた、まさか……」
霊夢はようやく現状を把握した。そして自分がもう足場となる服を探す必要もないことを知った。
もうそんなものはこの暗く汚い胃のどこにも存在しないのだから。
服はもうとうの昔に解け切っていた。
一体いつから早苗は酸の海に直接座っていたのだろうか。ついさっきまで早苗と自分は会話していたではないか。その時、早苗はなんの変哲もなかった。だが、もしかしたらあの時既に早苗の下半身は酸に焦がされていたのかもしれない。
酸に溶かされるのはとても痛い。足の裏に接しているだけの霊夢でも顔をしかめずにはいられない程だ。その上に10分、あるいはそれ以上座っていた早苗。
一体なんのために?
「そんなの決まってるじゃない……」
霊夢は独り言ちた。
不思議なことに霊夢の頭はさっぱりしていた。やることは既に決まっている。最早、霊夢に迷いはなかった。
霊夢は、眠ったままの早苗の首に両手を当てた。柔らかく儚げな早苗に流れる脈を霊夢は掌で感じる。
「ここから出るわよ、早苗!」
霊夢は早苗の首にかけた手に、強く力を込める。
☆ ☆ ☆
「さて……」
葛篭を前にして、魔理沙が取りうるべき行動は2パターン存在した。
1つは魔理沙だけでこの葛篭をどうにかするパターン。
2つ目は誰かに助けを求めるパターンだ。
この葛篭の中に霊夢が捕われていることは魔理沙にも容易に想像がついたが、いかんせんどうやって助け出していいかが分からなかった。
もちろん、既に葛篭の蓋を開けようと試みてはみたし、弾幕も放ってみたが葛篭はびくともしない。これだけでも尋常ならざる葛篭ということが分かる。
弾幕も効かなかった以上、魔理沙の持つ手札は極めて少ない。というより1つもないかもしれない。元々魔理沙は妖怪についてそれほどの知識を持っていないのだ。魔理沙はごく普通の魔法使いである。付け焼刃の知識なんて学んだとしても、妖怪が本気で襲ってくれば魔理沙にはどうしようもないのだ。故に魔理沙は妖怪の対処法を学ぶ時間を全くといっていいほど取ってこなかった。そもそも弾幕ごっこがある以上、妖怪に命を狙われる心配もしなくていい。事実、魔理沙は今までに妖怪に対して命の恐怖を覚えることはなかった。
しかし、今は明らかに危険な状況である。命の危険があるのは魔理沙本人ではないものの、仲のよい霊夢が危ないかもしれないのだ。
だが、かといって誰かに助けを求めるというのもベストな選択肢とは言えない。
そもそも誰に助けを求めればいいというのだろうか?
手助けが得られそうで、かつ神社からの距離が近いところに住んでいる人物といえば、魔理沙が真っ先に思い浮かんだのが魔法の森に住んでいるアリス・マーガトロイドであった。彼女なら魔理沙よりも圧倒的に知識も経験も豊富だ。だが、彼女の専門は魔理沙と同じく魔法の領域にある。アリスには妖怪に対抗する技術がどれほどあるだろうか。よしんば幾ばくかの対妖怪魔法があったとして、博麗霊夢が対処できなかったこの妖怪を本当に対処することができるのだろうか。
近いとはいっても神社からアリスの家まではどれだけ急いでも二十分はかかる。都合が悪い事に今日、魔理沙は箒をもってきていない。箒がなくても空を飛ぶ事はできるが、箒があった方が断然速い。
二十分。
一分一秒を争うかもしれない今の状況では、判断を誤れば致命的になる数字であった。
しかし、魔理沙が今ここで何をしていいか分からないのも事実である。魔理沙が動かずともジリ貧なのだ。
結局、魔理沙はアリスに頼る事に決めた。
葛篭をもって、大急ぎで神社を飛び立った。運がいいことに道中には何の邪魔も入る事はなかった。神社のまわりにはイタズラが好きな妖精がたむろしていて、時折来訪者にちょっかいをかけてくるのだ。
むろん、魔理沙は今そんな奴らが来たのなら問答無用で薙ぎ払うつもりではあったのだが。
「おい、アリス、ドアを開けてくれ。大至急なんだ!」
魔理沙はアリスの家につくなり、ドンドンドンと戸を叩いた。ガチャガチャとノブを回してみるも、扉には鍵がかかっていて、無断では入れない。体当たりでぶち破ってやろうかと思ったけれど、アリスの機嫌でも損ねたらやっかいだと思って自重した。
「おい、アリス。アリス!」
しかし、返事はない。「まさか留守か……こんな時に限って」と、魔理沙が思い始めた頃に、
「ちょっと、魔理沙、ドアが壊れちゃうじゃない。何よこんな朝早くから」
ドアの向こうからアリスの反応があった。
「朝早くじゃないぜ。もう昼じゃないか」
「そうなの? 昨日は夜遅くまで作業をしていたから寝過ごしちゃったのかしらね」
「そんなことよりドアを開けてくれよ。霊夢が大変なんだ」
「分かったわ。でも今、着替えるから少しだけ待ってて」
「おいおいおい、本当にやばいんだって。今すぐ中に入れてくれ!」
呑気なアリスに魔理沙の焦燥感が募る。しかし、
「落ちつきなさい魔理沙。魔法使いは冷静さを何よりも大事にしないといけないの。火急の事というのは分かるわ。でもね、魔法使いは常に『Cool head、warm heart(冷静な頭に、熱い心)』よ」
アリスはどこまでもマイペースだった。もしかしてアリスの家に来たのは失敗だったのか? 魔理沙が葛篭を発見してから既に二十五分は経っている。魔理沙が神社に来るまでの時間を考えると既に一刻の猶予もない状況なのだ。
魔理沙は腋に抱えてもってきた葛篭に目を移した。
魔理沙の最大火力にも耐えたこの葛篭はけっして木っ端妖怪なんかではない。博麗を捕縛しただけでもそのやっかいさが分かるというものだ。
「霊夢ぅ……」
今まで魔理沙は妖怪を死ぬ程恐ろしいものという実感をもっていなかった。知識としては、妖怪は人を襲い喰らう存在であるとは知っている。
だが弾幕ごっこの普及は魔理沙のような妖怪に対する恐ろさを失った人間を増やす事になった。
魔理沙は人生ではじめて妖怪への恐怖に震えた。焦りと恐ろしさで、魔理沙の目に涙が浮かび始めた。
カタカタ。
「ん?」
その時、葛篭の中から小さな音が魔理沙の耳に届いた。
「なんの……音だ?」
やがてその音は大きくなっていき、ついには
バンという爆音にもにた衝撃と共に、葛篭の蓋が吹き飛んだ。
魔理沙が目を丸くして驚いていると、葛篭の淵に一つの手がかかる。
「あ〜、出られた」
葛篭の中から出てきたのは、全裸の博麗霊夢であった。いつも整っている彼女の髪はボサボサで、体の所々に血のような汚れがついていた。しかしそれでも、言葉には力があり命に別状はなさそうだった。
「霊夢、無事だったのか!?」
魔理沙が喜んで霊夢にかけよろうとしたときに、霊夢の背にもう一人の人間があることに気づいた。
「あれ、そいつ……守矢神社の巫女じゃ」
魔理沙はその時になってはじめて、葛篭の裏にあった『巫女二人』という張り紙を思いだした。魔理沙は『巫女』という単語にだけ反応して、霊夢を連想したのだが、よくよく考えると『巫女は二人』いるはずなのだ。
東風谷早苗のことはもちろん魔理沙も知っている。初対面の弾幕ごっこをはじめとして何度か会話も交わした事がある。幻想郷にいる巫女といえば霊夢の他には早苗しかいなかったのだが、幻想郷に来てからの日が浅いということもあって、早苗のことはすぐには思い出せなかったのであった。
魔理沙は、霊夢に負われている早苗を姿を見た。
ぐったりとしていて体に全く力が入っていないように見える。体全体が弛緩してしまっているのだ。ちらりと伺える表情にはまるで生気というものを感じられなかった。目は虚ろに濁っていて、口元はだらしなく開いて、ヨダレのようなものが垂れて霊夢の肩を汚していた。
魔理沙はそのような姿をした人間を見た事がある。シチュエーションは様々であった。森の中での自殺。行き倒れ。人間による殺人。
霧雨魔理沙の目を通した東風谷早苗のその体は、どこをどのように見ても、到底生きているようにはみえなかった。
「なぁ霊夢」
魔理沙は、
「そいつ、生きてるのか?」
出来るだけ声に感情を込めずに聞いた。
「死んでるわ」
霊夢はあっけなく言った。
「妖怪にやられたか?」
「いえ、私が殺したの」
犯人まですぐに分かった。もっとよく観察すると、早苗の首もとには誰かに絞められたように真っ赤な跡が残っていた。おそらく扼殺されたのだ。
「なんで?」魔理沙はその言葉を喉まで上らせたが、それが口にだされることはなかった。
霊夢がそうしたのなら、そうせざるを得ない理由があったに決まっているからだ。
霊夢がこの葛篭に閉じ込められるまでの経緯も、中で何があったのかも魔理沙は知らない。
「あら、何だかすごいことになってるわね」
扉が開き姿を表したアリスの目に飛び込んできたのは、混乱して動けなくなっていた魔理沙と、全裸の霊夢と、霊夢に背負われた同じく全裸の早苗の死体であった。
「で、私は何をすればいいのかしら?」
アリスが何事もないように問うた。
「水をもってきて。急いで」
「わかった。すこし待ってて」
アリスが言い終わるやいなや、一つの人形が家の中から飛び出して霊夢にかけよった。その人形の両手には水がなみなみ入ったコップが握られていた。
「足りる?」
「ええ、十分よ」
霊夢は早苗の体をそっと地面に仰向けに横たわらせてから、コップを人形から受け取って、ぐいと口に含んだ。もちろん喉が乾いたから水が飲みたかっただけではない。
霊夢は口を水で満たしてから、勢いよく早苗の唇に自分の唇を重ねた。
「な、何やってんだよ!?」
魔理沙が驚いて大声を出した。
「何って、あの子を蘇生させようとしてるんでしょ?」
「蘇生!? そんなこと出来るのか?」
「可能性があるから霊夢もやってるんじゃない。まぁ、あの子なら多分大丈夫よ」
「だ、だって、さっき霊夢は、死んでるって……そ、それに蘇生? あいつがそんなこと……」
「あなた霊夢のこと何も知らないのね。霊を落とすなんてむしろ巫女の十八番じゃない。よく感じてみなさい。事情は知らないけど、もう霊夢の体にはその子の魂魄まで宿っているわよ。霊夢は今、霊魂を通しやすい水を媒介にして、直接体に戻してるの」
その場で一人パニックを起こしていた魔理沙は、言葉もしどろもどろであった。「この子にはまだまだ『Cool head』は遠いわね」とアリスは考える。
一分か二分か続いた霊夢と早苗の口づけは、霊夢が顔を離すことによって終わった。
はぁ、はぁ、と息づかいを荒くしていた霊夢の顔にはまだ安心の色は浮かんでいない。魂を入れることは上手くいっている。問題は魂を入れてもその器である身体が死んでいては物理的な活動として人間は蘇生しえない。
間髪入れず、霊夢は早苗のアゴに手をあてて気道を確保し人口呼吸を始めた。五秒息を吹き込んでから、両手を重ねて心臓マッサージ。救命の基本技術である。
「ふぅ〜、ふぅ〜」
霊夢は焦っていた。早苗が息を吹き返す兆候がみられない。心臓も止まったままだ。
人間は五分間心臓が止まると脳への酸素の供給がなくなることにより、命が助かっても身体に障がいが残ることがある。霊夢が早苗の息の根を止めてからどれだけの時間がたっただろうか。先ほどの魂入れを含めると、少なくとも既に3分は経っている。そろそろ心臓が動いてもらわなければ、致命的になる。
「どいて」
いつの間にか魔理沙の隣から姿を消していたアリスが、霊夢を押しのけて早苗の側に座った。
「なにするのよ!?」
霊夢が抗議の言葉を出す前に、アリスは手にもっていたシールのようなものを二つ早苗の胸に張り付けた。そのシールからは電線が伸びていて、小さな機械につながっていた。
バチィ、バチィ
炸裂音が辺りに轟いた。
「医療用電気マッサージ機を魔法で模倣したものよ。これでダメなら諦めなさい」
機械を操作しながらアリスが言う。
アリスがスイッチを押す度に電気の音は痛ましいく霊夢と魔理沙の耳に響く。
こんな力押しのマッサージなぞ、長くできるはずがない。あと何度ショックを与えられるだろうか。
アリスは4回電気ショックを流してからシールをはぎ取って、心臓マッサージを再開した。魔理沙もその傍らで固唾を飲んでことの経過を見守った。
「……ごほっ、うう……ごほっっ」
アリスが何度かマッサージをするうちに、早苗が咳き込み始めた。息を吹き返したのだ。半ば諦めていた魔理沙の顔に笑顔が戻った。
アリスはマッサージを停止して早苗の容態を確かめる。脈を確認すると、早苗の鼓動はしっかりと脈打っている。
「あ……」
「まだ動かないで」
わずかに戻った曖昧な意識で早苗がしゃべろうとしたのをアリスが制した。脈が戻ったとはい、先ほどまでの激しいマッサージで早苗の肋骨には沢山のヒビが入っていた。
アリスが止めるまでもなく早苗が痛みで顔をしかめる。
「早苗、生きてるわよ!」
霊夢が早苗に大声で叫んだ。
それを聞いて早苗は、そのまま目を閉じた。
「お、おい大丈夫かよ」
再び意識を失った早苗に、魔理沙が慌てて言う。
「ええ、大丈夫よ。たぶん痛みで気絶しただけ。脈もしっかりしてるし」
「な、ならいいけど……」
「とはいえ、重傷には変わらないから、今から緊急手術ね。骨の固定と……いえ、そんなことより足が酷い事になってるわね」
言われた魔理沙が早苗の足に目をやり、「うっ」と呻いてすぐに背けた。なぜ先ほどまで気づかなかったのか不思議なくらいに早苗の下半身は惨たらしいことになっていたのである。
「さ、魔理沙。この子を運ぶのを手伝ってちょうだい。急ぐわよ」
「あ、ああ」
「アリス!」
霊夢の呼びかけにアリスは手と足を止めないまま「なに?」と聞いた。
「早苗の足は元に戻るの?」
「…………」
アリスは霊夢の質問に少し黙ってから、
「魔理沙が私の所に連れてくるなんて、この子は運がいいわ。この手のことは医者よりももう人形師の領分よ。多分幻想郷では私が一番適しているわね」
「じゃ、じゃあ……」
霊夢が一瞬喜色ばんだが、
「元の状態に戻る確率は1割くらいかしらね。安心しなさい、義足を作るのはもっと得意だから」
そういってアリスは人形糸を使って早苗を家に中に運び入れ、バタンと扉を閉めた。
外に残された霊夢は、小さく一つため息をつく。
私気になります
続きを所望する
ところで魔理沙や早苗には命の保証なんて元からないよね
博麗の巫女でもなけりゃ人里の人間でもないから妖怪が襲っちゃいけない決まりもない
弾幕ごっこだってナイフ弾とか防御しなきゃ大怪我するし当たり所悪くて空中から落ちたら簡単に死ぬんだから
あと、霊夢全裸で屋外放置かよと。せめて家に入れてあげてアリスw
誤字報告
早苗がしゃべろうとしたのを早苗が制した←後ろの早苗はアリスかな
起承転結の最後の結がないと…
後日談は自分で想像するしかないのかな。
それはそれとしてこの作品で気にするべきか霊夢の決断なのでしょうね
作中で書かれている「普通」の少女である早苗の自己犠牲的行動、そこまでの信頼を受けたからこそ霊夢は早苗を殺すという選択をそれ以上迷わずに行うことができた
傍から見ればやった行いはまったくの反対の行動ではあるものの、霊夢の行動もけっして自己保身だけのものではなかったと思いました
それでも納得できないこともないので読み進めましたが、最後には投げっぱなし。
エンディングに繋がるであろうテーマは幾つも語られたのに何故中途半端に終わってしまったのでしょうか。