「私、霊夢さんに、殺されるかもしれません……!」
小鈴は魔理沙の胸の中で、泣きじゃくりながらそう言った。
魔理沙は彼女の肩をポンポンと優しく叩きながら、思う。
ああ、昔の自分を見ているみたいだ、と。
とある新月の夜、魔理沙の足は鈴奈庵へと向かっていた。既に人通りは無く、夜の闇が里を静かに覆っている。明かりは手元のミニ八卦炉のみだった。
「まったく、小鈴の奴どうしたんだ?」
魔理沙は訝しみながら、呟く。
昼間、また何か本を借りようと思い立ち、鈴奈庵にやって来ていた魔理沙は、小鈴から耳元でこう囁かれたのだ。
「日付が変わるころに、この店へまた来てください。私の命に関わることです」
その時見た小鈴の顔は、ぎょっとするものだった。目には何か鬼気せまるものが感じられ、大きな隈が出来ている。有無を言わさない雰囲気を漂わせており、魔理沙は思わず反射的に、うんとうなづいてしまった。
「命に関わるなんて、なんとも剣呑だな」
魔理沙は夜の道を歩き、鈴奈庵の正面までやってきた。
ぽとんと、帽子に何かが当たる感触がした。頭上を見てみる。
鈴奈庵には屋根裏があり、そこが小鈴の部屋になっているのだが、そこにある小さな窓から人間の手が出ていた。恐らく小鈴だろう。魔理沙はそう当たりをつけ、自らの帽子に乗っかったままである何かを手に取る。
『裏口まで来てください』。小鈴の字で書かれた、丸められたメモだった。
その通りに裏口まで行く。すると。
「わわ!」
魔理沙はいきなり腕を掴まれ、そのまま鈴奈庵の中に引きずり込まれた。同時に口をふさがれる。
「こっちまで、お願いします」
闇の中から小鈴の声が聞こえてきた。その声音には緊張の色がにじみ出ていた。
まったく。
「つくづく、剣呑だな」
魔理沙は小さく、ため息をついた。
二人は、本がみっしりと詰まっている印象を受ける、鈴奈庵の店の中に入った。小鈴がいつも座っている机の上に、ぼんやりと灯りがともっている。
その灯りの横に、一冊の本が置いてあった。
「この本です」
一緒に暮らしている両親に気づかれないようにしているのだろう。小鈴の声は小さい。だがそれでも、魔理沙には分かった。
小鈴の声は、震えている。
「この本を読んだせいで、私は、知ってしまったんです」
その本は一面の赤い表紙に、『規則』と黄色い字でタイトルがつけてあった。 そんなに厚みはない。
「……妖魔本か?」
魔理沙の問いに、小鈴はうなずく。
「……偶然、手に入れました。妖怪の賢者たちが、幻想郷のルールについてまとめたもののようです。妖怪は人里の人間を襲ってはいけないとか、スペルカードルールについてとか、ほとんどはよく知られた決まり事が書いてあります……けれど」
赤い表紙に、小鈴の白い指が伸びる。
彼女は妖魔本を手に取ると、魔理沙の前で、それをばっと勢いよく開いた。
「ここを、ここを読んでください!」
妖魔本は、魔理沙の顔に押し付けられんばかりに近づけられた。本の字が魔理沙の視界一杯に広がる。小鈴の声は、恐怖に染まりながら、一瞬大きくなった。
「ちょ、ちょっと待て小鈴! ちょっと落ち着け! 声が大きいと親御さんが起きるだろうし、そもそも、わたしはその本の字が読めないぞ」
「あ……ごめんなさい……」
小鈴はしゅんとしながら、机まで歩いていく。そこに背中をもたれさせる。
「……『人妖』って言葉にはもう一つ意味があったんですね。私、人と妖怪、っていうのを指す言葉だとばかり思っていました」
その声の震えは止まった。代わりに、生気が無いかすれたものになった。
小鈴は、そのルールを、話す。
……博麗大結界設置以後において、里の人間は妖怪になってはいけない。人間の妖怪化は絶対に禁止する。その意思があったか、なかったかは問わない。
妖怪化が確認され次第、博麗の巫女がこれを処刑する。
「妖怪化した、もしくは妖怪じみた人間のことも『人妖』と呼ぶ、らしいです……ははっ、ちょっとまってよ。なによ、それ。私、聞いたことがないよそんなルール。じゃあ、妖魔本を読むことができる私も処罰の対象なの? 妖怪じみた力を持つ私も、人妖、なの?」
その瞳には既に、涙が溢れんばかりに溜め込まれている。
「魔理沙、さん」
「……」
瞬間、小鈴は突進のような勢いで魔理沙の胸にすがりついた。
涙は、溢れた。
嗚咽をもらし、恐怖に震える。
いまはまだ処罰の対象ではないかもしれない。けれど、やがてこの力が増大していったら?
「私、霊夢さんに、殺されるかもしれません……!」
ぼんやりとした灯りのなかで、少女が少女にすがりつく。
夜の闇は濃く、二人を呑みこまんばかりに、深く広がっている。
ぽんぽんと、魔理沙は小鈴の肩を軽く叩く。まるであやすように、いや、事実あやしているのだ。むせび泣く一人の少女を。
「怖いです、私怖いです……! あのルールを知ってから一睡もしていません……! いま、この瞬間にも、霊夢さんが、博麗の巫女が私を殺しに来るかもしれないと思うと……!」
「……小鈴」
「私、一体どうしたら……!」
「……小鈴、ちょっといいか」
魔理沙の優しい声音。
「え……?」
けれど、それにはどこか強さのようなものが含まれている。
「知っちゃったんだな、おまえも」
「え、どういう……」
魔理沙は小鈴の肩を持ち、いったんその体を離す。
そして、静かに語りだした。
「わたしも知ってるんだ、そのルール」
「仮に、そのルールを『人妖ルール』とでも呼ぼうか。
『人妖ルール』について、わたしはある方に教えてもらったんだ。その方はわたしの魔法の師だった」
小鈴は魔理沙の話を、椅子に深く腰掛けながら聞いていた。いまだ目は赤く、顔には怯えが残っているが、しかし涙は止まっている。
「博麗と、そして幻想郷に詳しい方だったよ。そして、とても優しかった。悪霊だけどな」
魔理沙は小鈴の顔をしっかりと見つめ続ける。
「まず、考えなくてはいけないことが一つある。どうして『人妖ルール』というものが作られたのか、ということだ」
「……全部、妖怪のためじゃないんですか?」
どこか、吐き捨てるように。小鈴は憔悴した声の中に、わずかだか侮蔑の感情を盛り込んだ。
あの本に書かれたルールを読んでから、ずっと頭の隅で考え続けていた。
要するに、人間が減るのがいやなのだ、幻想郷の妖怪たちは。
この幻想郷を維持し続けるためには、妖怪を恐れる一定数の人間たちが必要だ。もし、人間が続々と人妖になってしまったら、バランスが崩れ幻想郷は崩壊してしまうかもしれない。そうなったら困るのは妖怪たちだろう。外の世界に放り出され、即座に消滅してしまう。
けれど、人間たちは消滅するわけではないのだ。
結局、妖怪優位である現在の幻想郷を維持するためのルールなのだ。
あれだけ超自然的な力を人間の目の前で見せびらかしておきながら、決して自分達には近づけさせない。
どこまでも、妖怪たちは支配者じゃないか。
「…ちょっと、違うな」
「え?」
「なあ、小鈴。おまえ妖怪になりたいか?」
魔理沙は一呼吸を置き。
「確かに妖怪になったらいろいろ良いことがあるよな。いろんなすごい能力が持てたり、寿命も人間の何倍も延びたり。自由気ままにやりたいほうだい、好き勝手して暮らせるんだ。
でもな。忘れちゃいけないことがある。
妖怪は人間を喰わなくちゃいけないんだ」
「あ……!」
確かにどこぞの傘お化けのように人間を食べない者もいる。だが、ほとんどの妖怪は人間を食さなければ、己の存在を保つことができないのだ。
人妖になる際、人肉食をしないタイプになることを選ぶことができるかもしれない。だが、そううまくいくのだろうか。ほんのちょっとした手違いで、今まで忌避の対象だったそれを、極上の美味として扱うようになってしまう可能性がないわけでもない。
「人間をうまそうだと感じてしまう時点で、その心は人間とは違うなにかになっているとわたしは考える。妖怪になっても心は変わらないだなんて、とても信じられない。
人間をやめるってことを、なめちゃだめだ」
「……」
小鈴は押し黙り、じっと何かを考えているかのようだった。
魔理沙は続ける。
「まあ、もっと簡単な理由としては、人間の敵である妖怪を人間の方から増やしてなんになる、っていうのもあるけれどな。なんにしても、人妖になることは、人間側にとっても禁忌なんだ。だから、『人妖ルール』は人間側にとっても守るべきものだということだ。
そうなると、当然、人間たちもまたこのルールを知っていてもおかしくないということなるよな」
「……私、さっきから驚いてばっかりです」
再び、小鈴の顔に驚愕の表情が浮かぶ。
人里も、『人妖ルール』について知っている……? だけど自分は生まれてこのかたそんな話は聞いたことがなかった。この『規則』と書かれた妖魔本を読むまでは全く知らなかった。
「里のお偉いさん連中しか知らないことだからな」
「そ、それおかしいですよ魔理沙さん! 重要なことなら皆に知らせてもらわないと! 聞いたことも無いルールに違反して、それで殺されてしまうなんて、そんなの道理に合わないじゃないですか!」
「しー」
少し声を荒げてしまった小鈴の口に魔理沙は手をあてる。
「いいか、小鈴。人間が妖怪になれるということは、誰だって妖怪になれるかもしれないということだ」
「……もがもが、そんなの当たり前じゃないですか」
「自分の父親も、母親も、兄弟も、姉妹も、友人も、隣近所も、恩師も、仕事仲間も、そして大好きな誰かも、ことごとく妖怪になる可能性を持つということになるんだ。いつのまにかそれまでとは全く違う何かに変貌してしまうかもしれないんだ。ぞっとするだろ。
人里は人々がそんな発想を持たないように、人妖について隠しているんだ。
知らないほうが幸せなこともあると、わたしは思うぜ」
「それは、うーん……」
「納得できないか?」
「……とりあえず、手を離してください。もごもご」
「おおっと、こりゃすまない」
魔理沙がぱっと自分の口から手を離すと同時に、小鈴は大きく深呼吸。
会話を続ける。
「あの、少し話がずれるかもしれませんけど、良いですか? 妖怪以外の人外になってしまったら、どうなるんでしょうか? 例えば、そう、魔理沙さんみたいな魔法使いとか」
「……」
「?」
「はは、ちっともずれてないぞ小鈴。これからしようと思ってたところだ。確か仙人は大丈夫なはずだが……魔法使いはだめだ。人間だったらまだしも、妖怪化したら、アウトだ」
「え? で、でも待ってください。魔理沙さんは、霊夢さんと」
ずっと一緒にいるではないか。
この質問をしたとき、小鈴は最初から魔法使いは大丈夫だろうと考えていた。けれどそこから話題が広がって、もっと色んなことが聞けると思っていたのだ。
霊夢と魔理沙が二人並んでいることはそれこそ、太陽が東からのぼり西へと沈むくらいに、当たり前のことに見えた。
里で暮らす同年代の少女たちとは少し違うだろうが、それでも二人の関係性には、確かな信頼の色があるように感じられた。
それが、実は違っていたのか?
もし魔法使いもアウトだというのならば。
魔理沙はいずれ、霊夢に殺されることになってしまう。
魔理沙は淡々と、話し始める。
「ちょっと昔話をしよう。わたしは小さなころから魔法使いになりたかった。
魔法のイロハをちょっとかじっただけで、この世界の外側をのぞけたような気がした。そうすると、自分の周りの環境がなんだか窮屈に感じられるようになってきたんだ。
わたしは親父に、もっと魔法を勉強したい、本物の魔法使いになりたい、って言った。今となっては甘ったれるとしか感じられないが、当時は親父の助力を得てがんばろうと思っていたんだな。
でも、親父の答えはノーだった。取り付く島もなかった。後から魔法の師が言っていたんだが、親父も『人妖ルール』については知っていたみたいだ。親父のやつ、なんだかんだいって有力者だからな。
言いたくはないが……あいつもわたしを守ろうとしてくれていたんだ。
で、だ。その後に魔法の師と出会って、わたしは『人妖ルール』について教えてもらったんだ」
そして、魔理沙は最後にさらりとあっけなく、一言を付け加えた。
「そして、『人妖ルール』で博麗の巫女に殺されない方法を教えてくれたんだ」
「!」
小鈴は先ほどと同じく、いや、さっきよりも早く魔理沙に走り寄った。そのまま魔理沙に掴みかからんとするような勢いだった。
「ど、どうするんですか? どうやったら殺されないんですか?」
「……人里の人間ではなくなればいいんだよ」
「? それって、人里の外の住むということですか?」
「違う。幻想郷の人間が受けている保護を捨てると、宣言するんだ」
幻想郷の人間は、基本的に妖怪に襲われない。ルールを理解できない一部低級妖怪は別として、その他ほとんどの妖怪は、幻想郷の人間たちがいるからこそ現在の状態が保てていると理解している。だから法を作り、人間を襲わないよう厳しく規制しているのだ。
しかし、外来人は別である。幻想郷に迷い込んできた外の世界の住人なら、いくら食べても全く問題がない。外来人はごちそうであり、妖怪の襲撃を逃れて無事人間の里や博麗神社に辿りつけられるのは総数の一割にもみたない。
外来人は幻想郷に住むことを決めると、人間の里で手続きを行う。これはいわば、幻想郷版の戸籍作成。幻想郷の人間であると宣言するのだ。宣言は妖怪たちにも通達され、これによってその人間は襲われなくなるのである。
『人妖ルール』の適用を逃れたければ、上記の事柄の逆を行えばよい。
つまり、もう自分は人里の人間ではない、外来人と同じでよいと宣言する。
その代わりに、人妖になってもよい権利を得る。
人里のほかの人間たちには人妖化のことを教えないという制限をつけられて、人里を追放される。もちろん妖怪たちのいいカモだ。十中八九、喰い殺される。
「わたしは幸運にも魔法の師に守ってもらうことになったから大丈夫だった。けれど、そんな保護を受けられないやつは、死ぬ」
「そ、そんな……」
へなへなと。小鈴は力を失っていく。
「じゃ、じゃ私も、結局死んじゃうの……!」
魔理沙の目の前で、小鈴はへたりこむ。
魔理沙は再び、思った。
ああ、あの時と何から何まで一緒だ、と。
自分も『人妖ルール』を最初に聞いたときは、腰が抜けたものだ。それまで博麗の巫女、つまり霊夢に会ったことはなく、巫女に対しては畏怖の感情を強く持っていた。間違いなく殺される、もう駄目だと思ったものだ。
そんな時に。
あの方はこう言ったのだったっけ。
「なあ、小鈴。人を喰う覚悟はあるか?」
「え……?」
私はある、と答えたんだぜ?
「わたしは、魔法使いになる夢を叶えるためだったらなんでもやってやろうと思っている。さっきも言ったが、妖怪になるってことは心が変わってしまうことだ。それは、魔法使いも同じかもしれない。その内、人間の肉を使う魔法を覚えなくてはいけなくなるかもな。でも、それでもかまわない。心のすべてが変わってしまってもいい。わたしは夢を追いかけたいんだ」
「魔理沙、さん。私に、どうしろと?」
「おまえに覚悟があるのならわたしがお前を守ってもいい。かつてわたしの師匠がそうしたように、一人で生きられるようになるまで面倒を見てやってもいい」
それでさ、お前が『手続き』を終えてそれから妖怪になったらさ。
魔理沙は笑みを浮かべた。覚悟を決めて、前へ進むことを決めた先輩からのメッセージ。
そんなに悪いことばかりじゃないと、伝えてやるつもりだった。
「博麗神社で宴会をしようぜ。きっと楽しいからさ」
小鈴は妖魔本『規則』を大事そうに抱き締めながら寝床に着いた。
嘘泣きだったんだけどなぁ。
あの『人妖ルール』を見つけたときの感想は、恐怖よりも興奮だった。人間が妖怪になれるということをあのルールは示している。
ゾクゾクした。ゾクゾクしすぎて寝不足になって隈ができてしまった。
妖怪になれるなんて、最高じゃないか。その興奮に比べれば、霊夢さんも怖くない。
あのルールを読んで腹がたったのが、妖怪が力をみせびらかしているくせに、人間を妖怪にしないということだった。まあ、理由があるのであれば許すけど。
魔理沙さんを呼んだのも、助けを求めるというよりも、情報収集という感じが強い。
いやぁ、勉強になった。
あーでも、もう本性は隠さなくてもいいかな。変に思われてもいやだったから、怯えた振りをしていたのだけど……もう私の心はだいぶ妖怪に近づいている。
ぜんぶ正直に話そう。
人を食べる覚悟は出来ている。
はやく、私を妖怪にして。
小鈴は魔理沙の胸の中で、泣きじゃくりながらそう言った。
魔理沙は彼女の肩をポンポンと優しく叩きながら、思う。
ああ、昔の自分を見ているみたいだ、と。
とある新月の夜、魔理沙の足は鈴奈庵へと向かっていた。既に人通りは無く、夜の闇が里を静かに覆っている。明かりは手元のミニ八卦炉のみだった。
「まったく、小鈴の奴どうしたんだ?」
魔理沙は訝しみながら、呟く。
昼間、また何か本を借りようと思い立ち、鈴奈庵にやって来ていた魔理沙は、小鈴から耳元でこう囁かれたのだ。
「日付が変わるころに、この店へまた来てください。私の命に関わることです」
その時見た小鈴の顔は、ぎょっとするものだった。目には何か鬼気せまるものが感じられ、大きな隈が出来ている。有無を言わさない雰囲気を漂わせており、魔理沙は思わず反射的に、うんとうなづいてしまった。
「命に関わるなんて、なんとも剣呑だな」
魔理沙は夜の道を歩き、鈴奈庵の正面までやってきた。
ぽとんと、帽子に何かが当たる感触がした。頭上を見てみる。
鈴奈庵には屋根裏があり、そこが小鈴の部屋になっているのだが、そこにある小さな窓から人間の手が出ていた。恐らく小鈴だろう。魔理沙はそう当たりをつけ、自らの帽子に乗っかったままである何かを手に取る。
『裏口まで来てください』。小鈴の字で書かれた、丸められたメモだった。
その通りに裏口まで行く。すると。
「わわ!」
魔理沙はいきなり腕を掴まれ、そのまま鈴奈庵の中に引きずり込まれた。同時に口をふさがれる。
「こっちまで、お願いします」
闇の中から小鈴の声が聞こえてきた。その声音には緊張の色がにじみ出ていた。
まったく。
「つくづく、剣呑だな」
魔理沙は小さく、ため息をついた。
二人は、本がみっしりと詰まっている印象を受ける、鈴奈庵の店の中に入った。小鈴がいつも座っている机の上に、ぼんやりと灯りがともっている。
その灯りの横に、一冊の本が置いてあった。
「この本です」
一緒に暮らしている両親に気づかれないようにしているのだろう。小鈴の声は小さい。だがそれでも、魔理沙には分かった。
小鈴の声は、震えている。
「この本を読んだせいで、私は、知ってしまったんです」
その本は一面の赤い表紙に、『規則』と黄色い字でタイトルがつけてあった。 そんなに厚みはない。
「……妖魔本か?」
魔理沙の問いに、小鈴はうなずく。
「……偶然、手に入れました。妖怪の賢者たちが、幻想郷のルールについてまとめたもののようです。妖怪は人里の人間を襲ってはいけないとか、スペルカードルールについてとか、ほとんどはよく知られた決まり事が書いてあります……けれど」
赤い表紙に、小鈴の白い指が伸びる。
彼女は妖魔本を手に取ると、魔理沙の前で、それをばっと勢いよく開いた。
「ここを、ここを読んでください!」
妖魔本は、魔理沙の顔に押し付けられんばかりに近づけられた。本の字が魔理沙の視界一杯に広がる。小鈴の声は、恐怖に染まりながら、一瞬大きくなった。
「ちょ、ちょっと待て小鈴! ちょっと落ち着け! 声が大きいと親御さんが起きるだろうし、そもそも、わたしはその本の字が読めないぞ」
「あ……ごめんなさい……」
小鈴はしゅんとしながら、机まで歩いていく。そこに背中をもたれさせる。
「……『人妖』って言葉にはもう一つ意味があったんですね。私、人と妖怪、っていうのを指す言葉だとばかり思っていました」
その声の震えは止まった。代わりに、生気が無いかすれたものになった。
小鈴は、そのルールを、話す。
……博麗大結界設置以後において、里の人間は妖怪になってはいけない。人間の妖怪化は絶対に禁止する。その意思があったか、なかったかは問わない。
妖怪化が確認され次第、博麗の巫女がこれを処刑する。
「妖怪化した、もしくは妖怪じみた人間のことも『人妖』と呼ぶ、らしいです……ははっ、ちょっとまってよ。なによ、それ。私、聞いたことがないよそんなルール。じゃあ、妖魔本を読むことができる私も処罰の対象なの? 妖怪じみた力を持つ私も、人妖、なの?」
その瞳には既に、涙が溢れんばかりに溜め込まれている。
「魔理沙、さん」
「……」
瞬間、小鈴は突進のような勢いで魔理沙の胸にすがりついた。
涙は、溢れた。
嗚咽をもらし、恐怖に震える。
いまはまだ処罰の対象ではないかもしれない。けれど、やがてこの力が増大していったら?
「私、霊夢さんに、殺されるかもしれません……!」
ぼんやりとした灯りのなかで、少女が少女にすがりつく。
夜の闇は濃く、二人を呑みこまんばかりに、深く広がっている。
ぽんぽんと、魔理沙は小鈴の肩を軽く叩く。まるであやすように、いや、事実あやしているのだ。むせび泣く一人の少女を。
「怖いです、私怖いです……! あのルールを知ってから一睡もしていません……! いま、この瞬間にも、霊夢さんが、博麗の巫女が私を殺しに来るかもしれないと思うと……!」
「……小鈴」
「私、一体どうしたら……!」
「……小鈴、ちょっといいか」
魔理沙の優しい声音。
「え……?」
けれど、それにはどこか強さのようなものが含まれている。
「知っちゃったんだな、おまえも」
「え、どういう……」
魔理沙は小鈴の肩を持ち、いったんその体を離す。
そして、静かに語りだした。
「わたしも知ってるんだ、そのルール」
「仮に、そのルールを『人妖ルール』とでも呼ぼうか。
『人妖ルール』について、わたしはある方に教えてもらったんだ。その方はわたしの魔法の師だった」
小鈴は魔理沙の話を、椅子に深く腰掛けながら聞いていた。いまだ目は赤く、顔には怯えが残っているが、しかし涙は止まっている。
「博麗と、そして幻想郷に詳しい方だったよ。そして、とても優しかった。悪霊だけどな」
魔理沙は小鈴の顔をしっかりと見つめ続ける。
「まず、考えなくてはいけないことが一つある。どうして『人妖ルール』というものが作られたのか、ということだ」
「……全部、妖怪のためじゃないんですか?」
どこか、吐き捨てるように。小鈴は憔悴した声の中に、わずかだか侮蔑の感情を盛り込んだ。
あの本に書かれたルールを読んでから、ずっと頭の隅で考え続けていた。
要するに、人間が減るのがいやなのだ、幻想郷の妖怪たちは。
この幻想郷を維持し続けるためには、妖怪を恐れる一定数の人間たちが必要だ。もし、人間が続々と人妖になってしまったら、バランスが崩れ幻想郷は崩壊してしまうかもしれない。そうなったら困るのは妖怪たちだろう。外の世界に放り出され、即座に消滅してしまう。
けれど、人間たちは消滅するわけではないのだ。
結局、妖怪優位である現在の幻想郷を維持するためのルールなのだ。
あれだけ超自然的な力を人間の目の前で見せびらかしておきながら、決して自分達には近づけさせない。
どこまでも、妖怪たちは支配者じゃないか。
「…ちょっと、違うな」
「え?」
「なあ、小鈴。おまえ妖怪になりたいか?」
魔理沙は一呼吸を置き。
「確かに妖怪になったらいろいろ良いことがあるよな。いろんなすごい能力が持てたり、寿命も人間の何倍も延びたり。自由気ままにやりたいほうだい、好き勝手して暮らせるんだ。
でもな。忘れちゃいけないことがある。
妖怪は人間を喰わなくちゃいけないんだ」
「あ……!」
確かにどこぞの傘お化けのように人間を食べない者もいる。だが、ほとんどの妖怪は人間を食さなければ、己の存在を保つことができないのだ。
人妖になる際、人肉食をしないタイプになることを選ぶことができるかもしれない。だが、そううまくいくのだろうか。ほんのちょっとした手違いで、今まで忌避の対象だったそれを、極上の美味として扱うようになってしまう可能性がないわけでもない。
「人間をうまそうだと感じてしまう時点で、その心は人間とは違うなにかになっているとわたしは考える。妖怪になっても心は変わらないだなんて、とても信じられない。
人間をやめるってことを、なめちゃだめだ」
「……」
小鈴は押し黙り、じっと何かを考えているかのようだった。
魔理沙は続ける。
「まあ、もっと簡単な理由としては、人間の敵である妖怪を人間の方から増やしてなんになる、っていうのもあるけれどな。なんにしても、人妖になることは、人間側にとっても禁忌なんだ。だから、『人妖ルール』は人間側にとっても守るべきものだということだ。
そうなると、当然、人間たちもまたこのルールを知っていてもおかしくないということなるよな」
「……私、さっきから驚いてばっかりです」
再び、小鈴の顔に驚愕の表情が浮かぶ。
人里も、『人妖ルール』について知っている……? だけど自分は生まれてこのかたそんな話は聞いたことがなかった。この『規則』と書かれた妖魔本を読むまでは全く知らなかった。
「里のお偉いさん連中しか知らないことだからな」
「そ、それおかしいですよ魔理沙さん! 重要なことなら皆に知らせてもらわないと! 聞いたことも無いルールに違反して、それで殺されてしまうなんて、そんなの道理に合わないじゃないですか!」
「しー」
少し声を荒げてしまった小鈴の口に魔理沙は手をあてる。
「いいか、小鈴。人間が妖怪になれるということは、誰だって妖怪になれるかもしれないということだ」
「……もがもが、そんなの当たり前じゃないですか」
「自分の父親も、母親も、兄弟も、姉妹も、友人も、隣近所も、恩師も、仕事仲間も、そして大好きな誰かも、ことごとく妖怪になる可能性を持つということになるんだ。いつのまにかそれまでとは全く違う何かに変貌してしまうかもしれないんだ。ぞっとするだろ。
人里は人々がそんな発想を持たないように、人妖について隠しているんだ。
知らないほうが幸せなこともあると、わたしは思うぜ」
「それは、うーん……」
「納得できないか?」
「……とりあえず、手を離してください。もごもご」
「おおっと、こりゃすまない」
魔理沙がぱっと自分の口から手を離すと同時に、小鈴は大きく深呼吸。
会話を続ける。
「あの、少し話がずれるかもしれませんけど、良いですか? 妖怪以外の人外になってしまったら、どうなるんでしょうか? 例えば、そう、魔理沙さんみたいな魔法使いとか」
「……」
「?」
「はは、ちっともずれてないぞ小鈴。これからしようと思ってたところだ。確か仙人は大丈夫なはずだが……魔法使いはだめだ。人間だったらまだしも、妖怪化したら、アウトだ」
「え? で、でも待ってください。魔理沙さんは、霊夢さんと」
ずっと一緒にいるではないか。
この質問をしたとき、小鈴は最初から魔法使いは大丈夫だろうと考えていた。けれどそこから話題が広がって、もっと色んなことが聞けると思っていたのだ。
霊夢と魔理沙が二人並んでいることはそれこそ、太陽が東からのぼり西へと沈むくらいに、当たり前のことに見えた。
里で暮らす同年代の少女たちとは少し違うだろうが、それでも二人の関係性には、確かな信頼の色があるように感じられた。
それが、実は違っていたのか?
もし魔法使いもアウトだというのならば。
魔理沙はいずれ、霊夢に殺されることになってしまう。
魔理沙は淡々と、話し始める。
「ちょっと昔話をしよう。わたしは小さなころから魔法使いになりたかった。
魔法のイロハをちょっとかじっただけで、この世界の外側をのぞけたような気がした。そうすると、自分の周りの環境がなんだか窮屈に感じられるようになってきたんだ。
わたしは親父に、もっと魔法を勉強したい、本物の魔法使いになりたい、って言った。今となっては甘ったれるとしか感じられないが、当時は親父の助力を得てがんばろうと思っていたんだな。
でも、親父の答えはノーだった。取り付く島もなかった。後から魔法の師が言っていたんだが、親父も『人妖ルール』については知っていたみたいだ。親父のやつ、なんだかんだいって有力者だからな。
言いたくはないが……あいつもわたしを守ろうとしてくれていたんだ。
で、だ。その後に魔法の師と出会って、わたしは『人妖ルール』について教えてもらったんだ」
そして、魔理沙は最後にさらりとあっけなく、一言を付け加えた。
「そして、『人妖ルール』で博麗の巫女に殺されない方法を教えてくれたんだ」
「!」
小鈴は先ほどと同じく、いや、さっきよりも早く魔理沙に走り寄った。そのまま魔理沙に掴みかからんとするような勢いだった。
「ど、どうするんですか? どうやったら殺されないんですか?」
「……人里の人間ではなくなればいいんだよ」
「? それって、人里の外の住むということですか?」
「違う。幻想郷の人間が受けている保護を捨てると、宣言するんだ」
幻想郷の人間は、基本的に妖怪に襲われない。ルールを理解できない一部低級妖怪は別として、その他ほとんどの妖怪は、幻想郷の人間たちがいるからこそ現在の状態が保てていると理解している。だから法を作り、人間を襲わないよう厳しく規制しているのだ。
しかし、外来人は別である。幻想郷に迷い込んできた外の世界の住人なら、いくら食べても全く問題がない。外来人はごちそうであり、妖怪の襲撃を逃れて無事人間の里や博麗神社に辿りつけられるのは総数の一割にもみたない。
外来人は幻想郷に住むことを決めると、人間の里で手続きを行う。これはいわば、幻想郷版の戸籍作成。幻想郷の人間であると宣言するのだ。宣言は妖怪たちにも通達され、これによってその人間は襲われなくなるのである。
『人妖ルール』の適用を逃れたければ、上記の事柄の逆を行えばよい。
つまり、もう自分は人里の人間ではない、外来人と同じでよいと宣言する。
その代わりに、人妖になってもよい権利を得る。
人里のほかの人間たちには人妖化のことを教えないという制限をつけられて、人里を追放される。もちろん妖怪たちのいいカモだ。十中八九、喰い殺される。
「わたしは幸運にも魔法の師に守ってもらうことになったから大丈夫だった。けれど、そんな保護を受けられないやつは、死ぬ」
「そ、そんな……」
へなへなと。小鈴は力を失っていく。
「じゃ、じゃ私も、結局死んじゃうの……!」
魔理沙の目の前で、小鈴はへたりこむ。
魔理沙は再び、思った。
ああ、あの時と何から何まで一緒だ、と。
自分も『人妖ルール』を最初に聞いたときは、腰が抜けたものだ。それまで博麗の巫女、つまり霊夢に会ったことはなく、巫女に対しては畏怖の感情を強く持っていた。間違いなく殺される、もう駄目だと思ったものだ。
そんな時に。
あの方はこう言ったのだったっけ。
「なあ、小鈴。人を喰う覚悟はあるか?」
「え……?」
私はある、と答えたんだぜ?
「わたしは、魔法使いになる夢を叶えるためだったらなんでもやってやろうと思っている。さっきも言ったが、妖怪になるってことは心が変わってしまうことだ。それは、魔法使いも同じかもしれない。その内、人間の肉を使う魔法を覚えなくてはいけなくなるかもな。でも、それでもかまわない。心のすべてが変わってしまってもいい。わたしは夢を追いかけたいんだ」
「魔理沙、さん。私に、どうしろと?」
「おまえに覚悟があるのならわたしがお前を守ってもいい。かつてわたしの師匠がそうしたように、一人で生きられるようになるまで面倒を見てやってもいい」
それでさ、お前が『手続き』を終えてそれから妖怪になったらさ。
魔理沙は笑みを浮かべた。覚悟を決めて、前へ進むことを決めた先輩からのメッセージ。
そんなに悪いことばかりじゃないと、伝えてやるつもりだった。
「博麗神社で宴会をしようぜ。きっと楽しいからさ」
小鈴は妖魔本『規則』を大事そうに抱き締めながら寝床に着いた。
嘘泣きだったんだけどなぁ。
あの『人妖ルール』を見つけたときの感想は、恐怖よりも興奮だった。人間が妖怪になれるということをあのルールは示している。
ゾクゾクした。ゾクゾクしすぎて寝不足になって隈ができてしまった。
妖怪になれるなんて、最高じゃないか。その興奮に比べれば、霊夢さんも怖くない。
あのルールを読んで腹がたったのが、妖怪が力をみせびらかしているくせに、人間を妖怪にしないということだった。まあ、理由があるのであれば許すけど。
魔理沙さんを呼んだのも、助けを求めるというよりも、情報収集という感じが強い。
いやぁ、勉強になった。
あーでも、もう本性は隠さなくてもいいかな。変に思われてもいやだったから、怯えた振りをしていたのだけど……もう私の心はだいぶ妖怪に近づいている。
ぜんぶ正直に話そう。
人を食べる覚悟は出来ている。
はやく、私を妖怪にして。
あと妖怪になったとしても人間の体制にがっちり食い込むでもセーフだと思います。慧音がいますから
更にこの魔理沙がマミゾウさんが化けたとかで考え誘導してたらもっと好みでしたね
魔理沙は人間の魔法使いです
妖怪の魔法使いになった時にどうなるかは…どうなるのでしょうね
唯でさえ友達が少ないのだから、もう少し考えてあげようよ。
レイマリについては私も同じように悩んでいましたが、私は私の想うレイマリを保持していこうと思います。
あと小鈴ちゃんは反則的に可愛いよ。
その場しのぎだからとんでもないボロが出ていることに本人が気付いていないのが哀れ。