「おい霊夢、お前がこの世界の中心だとわかったぞ」
霧雨魔理沙は霊夢の向かいに腰掛けるなり言った。魔理沙は研究が煮詰まると神社に押しかけて、この数日で見つけたことをだらだら話し続けることがある。帽子の下からはぼさぼさの髪が覗いていて、霊夢は話が終わったら櫛を入れてやろうと思った。それよりも、霊夢の名前が出たことが興味を引いた。
「この世界のな、中心なんだ」
「どういうこと」
「うん、これだけじゃ分かんないよな。資料を全部持ってきたからまずは見てくれ」
魔理沙は頷いて、帽子から紙束を引っ張り出した。ちゃぶ台に広げていく。霊夢は邪魔にならないように二人の湯飲みを退かした。
「ふうむ」
霊夢は唸った。紙は小難しそうな数式や専門用語だと思われる物で埋め尽くされていて、霊夢にはさっぱり分からない。
「まずはこの式を……あ、いや」
魔理沙は言いかけて口をつぐんだ。言葉を探すように目が泳いで、それから紙のうち一枚をひっくり返した。裏にも数式やメモの走り書きのようなものがたくさん書いてあった。帽子の中から取りだした鉛筆を指の間でくるりと回す。
「自分の整理がてら、図にして説明するから聞いてな」
「うん」
空いているスペースを見つけ出して、魔理沙は円を一つ描いた。
「これがまずは幻想郷だとする。円周が大結界」
続けて、真ん中に棒人間を描いた。ちょうど、空を飛ぶ人間を上から見た形にも見える。
「これは私?」
「そうだ。そして、これが私の発見の重要なポイントなんだが、お前はここから一歩も動いていない」
「動いてない、って……そんなはずはないわ」
「うん。それはどうしてそう思ったんだ?」
「ええと、だって、ほら」
霊夢は魔理沙が使った鉛筆を取り上げて、紙を引き寄せ、魔理沙が描いた円周の内側に鳥居のアイコンを描き足した。
「うちの神社はここ、幻想郷の端っこにあるのよ。私はここで暮らしているんだから、幻想郷の真ん中に釘付けってことはないはずよ」
「そうだな。霊夢の言うとおりだ。霊夢が動かないと、神社には帰ってこられないように思える。でも……」
いったんは頷いた魔理沙の「でも」に、霊夢は膨れっ面をした。魔理沙は身を乗り出して紙を覗き込んだ。
「なによ」
「まあ、それは実演してみせてやろう。鉛筆貸して」
霊夢は素直に鉛筆を渡した。魔理沙は棒人間のすぐ近くに角張った建物のアイコンを描いた。
「これは紅魔館?」
「よく分かったな。伝わらなかったらコウモリの絵でも描こうかと思ってたんだが。さて、お前は紅魔館に遊びに行ってて、幻想郷の端っこにあるここ、博麗神社へ今から帰るところだとしよう」
「うん」
「しかし、このとき、霊夢は今いるところから一歩も動かない」
「無理だと思う」
「いいや、無理じゃないんだな」
魔理沙が紙に手をかざした。棒人間の絵が震えたかと思うと、紙の上でもぞもぞと動き出した。
「わあ」
「簡単な魔法だよ。主張がブレそうでちょっと困ってるんだけど、これは説明をしやすくするための小細工で本題とは関係ないからな」
「うん」
棒人間はちょうど神社と反対の方向を向いている。
「まずは、神社に真っ直ぐ帰れるようにしないといけないな」
魔理沙が言うと、棒人間はその場で向きを変え始めた。それと同時に、魔理沙は紙全体を反対に回した。棒人間の動きと紙の動きとが打ち消し合って、棒人間は動いていないようにも見える。
「あっ、ずるい」
「けけけ、ずるいもんか」
机をぱんぱん叩く霊夢とにやにや笑う魔理沙が顔をつきあわせる下で、棒人間はじりじりと神社へ近付いていく。
「おっとと、しまった」
魔理沙は急いで紙を動かした。今度は進行方向の反対向きに。棒人間と紙の移動距離が打ち消し合って、今度も棒人間は静止した。棒人間が鳥居のマークに重なったところで魔理沙の手が止まった。
「ねえ、魔理沙が言ってたのってこういうことなの」
霊夢はほとんど呆れて尋ねた。
「簡単に言えばこういうことだな」
「ねえ、魔理沙。貴女は馬鹿よ」
「おや。それはどういう理由で?」
「だって。簡単なことじゃない」
霊夢はすっと立ち上がると魔理沙のそばに膝をついた。
「おお、なんだなんだ」
見上げる魔理沙に微笑みかけてから座布団を一気に引き抜く。魔理沙は小さな悲鳴とともに転がった。
「ね?」
「ね、じゃなくて。口で言えばいいじゃないか……でも言いたいことは分かった。幻想郷の土地が急に動いたら、上に立っている人間がみんな転んでしまうと言いたいんだな」
「そうよ。魔理沙ったらこんなことにも気付かないで、馬鹿ねえ」
霊夢は安心した。危うく、大きな責任をむやみに押しつけられるところだった。
「馬鹿、馬鹿って言うな。それに、その意見についてはちゃんと答えを用意している」
「言ってごらんなさいよ」
「あのな、私は幻想郷が、土地だけとは言っていない」
「……えぇ?」
魔理沙はいよいよ熱弁を振るうように、大きく手を動かした。
「いいか、霊夢。幻想郷は土地だけじゃあない。そこで暮らす人間や妖怪、そして建物や空気だって。大結界の内側にあるものは全て幻想郷だ。……と、私は思う」
「そんなのただの……何て言うのかしら、屁理屈みたい」
「そう、これだけならただの思考実験で机上の空論だ。……でもな、私がこう考えるに至った理由はもう一つある」
「……なによ」
魔理沙は身を乗り出した。肘をついて指を組む。霊夢はその分身を引いた。
「お前、慣性を感じたことってないだろ」
「慣性?」
耳慣れない言葉だった。霊夢はオウムのように聞き返した。
「慣性。お前、動いている状態から静止するのに力が要るか?」
「立ち止まるのに、ってこと? そんなの、みんな一緒じゃないの。歩くのをやめれば止まれるわ」
「そうだな。それとか、空を飛んでいて止まるときのことも。進む向きと反対に力を加えた経験はあるか?」
霊夢は思い返す。自分が飛行中に止まるときは、どうしていたっけ?
訊かれてみれば霊夢は、空中で速度を落とすのに特に制動力を必要としないような気がした。空中に静止することだって、意識することなくできた。霊夢にとってはこれは生まれ持った能力で、当然のことだった。しかし、他の空を飛ぶ者からすればとんでもないことなのだ。魔理沙のような魔女だけではない。天狗や吸血鬼のような、空を自由に飛ぶ種族だって、そうなのだ。霊夢の表情に、魔理沙は我が意を得たりとばかりに話を続ける。
「やっぱりそうか。慣性っていうのは、動いている物は動いているまま、止まっている物は止まっているままの状態でいたがる性質のことだ。ビー玉を転がしたら、誰かが止めてやるまで転がり続けるだろ? ビー玉だけじゃなく、重さのある物体は全て慣性を持つんだ」
「うん」
「でも、お前には、その慣性が備わっていないように見える」
「……」
霊夢は自分が質量を持たない幽霊か何かだと言われているようであまりいい気はしなかったが、黙って続きを促した。
「そんなはずはないんだ。物理法則からしたら、慣性を持たないということはあり得ない。慣性が働いていないように見えるなら、それは物体――ここでいう霊夢、お前のことだが、お前の運動の様子が変化していないからにほかならないんだ。ここでさっきの仮説が活きてくる。霊夢の代わりに幻想郷が運動していることにすれば、霊夢は自分の運動の様子を変化させることなしに、霊夢が回りから運動しているように見える」
どうだ、と魔理沙はふんぞり返ってお茶を飲み干した。霊夢の湯飲みはほとんど湯気が消えていた。お代わりを入れようと席を立つと、魔理沙は「ほら、今も霊夢は本当は動いていないんだぜ。動いているのは私のほうだ」とからかった。
帰るときになって、魔理沙はまたさっきの話を蒸し返した。
「ああ、あれもそうだ」
「なによ」
「香霖が昔よく言ってたこと覚えてるか。『ここは幻想郷の中心だ』ってやつ」
「えっと、自分のお店を持ったときに言ってたような」
「そうそう。あれさあ、どういう意味か最近また考えてたんだよ」
「どういうこと」
「香霖堂があそこにできてから、私たち、よく入り浸ってたじゃないか」
「うん」
「それであいつ、幻想郷の中心だって言ってたんじゃないかな、って思ったんだ」
「私たちがよく通っていたから?」
「正確には、お前が、だよ、霊夢」
魔理沙は最後にそう言い残した。
魔理沙が帰ってから、霊夢は魔理沙が話したことをもう一度思い返してみた。
霊夢には魔理沙の説明の半分も理解できなかった。ただ、一生懸命勉強して魔女になった、学のある魔理沙の言うことだから、突拍子もないことではないのだろうと思った。
(仮に私が幻想郷の中心だったとして)
霊夢は考え始めた。霊夢は、魔理沙の言ったことが少しだけ嫌だった。鵜呑みにしたくなかった。自分自身をそんな大仰な存在と自認したくなかった。
(何か不都合はあるのかしら)
もしおかしなことが起こるなら、この考えは正しくないと言っていいはずだ。魔理沙の唱えた説をきっぱり否定する根拠になるはずだ。霊夢は知らなかったが、それは背理法と呼ばれる手法だった。霊夢は正しく勘を働かせていた。
霊夢は想像してみた。霊夢が歩くとき、霊夢の主観では、たしかに世界が背後に流れていくように見える。でも、それは霊夢の主観でしかない。客観ではそうではない。どこか別の場所に、どこか霊夢の知らない場所に基準になる場所が決まっていて、その基準から見れば霊夢がちゃんと移動している。今まで霊夢はそう思っていた。
(……でも、霖之助さんは)
霊夢の知る森近霖之助は、不必要な修辞を使わない人間だった。その森近霖之助が、博麗霊夢のことを幻想郷の中心――基準点だと言った。それは……。
(私がここに、ピンで留められているようなものよね)
霊夢はいつか見た、昆虫の標本を思いだした。
それからというもの、霊夢はすっかり憂鬱になってしまった。空間のある一点に見えない押しピンで磔にされている想像がついて回って、何をしていても気分が晴れないのだった。
楽園の巫女が一つのことに心を囚われているなんて、どう考えても望ましい状況ではなかった。いつまでもこうしているわけにはいかない。気分転換をしようと、霊夢は縁側を蹴って空へ飛び上がった。
当てもなく飛び回っていると、耳元で風切り音が鳴った。背後から霊夢の進んでいく方向へ、クナイの形をしたエネルギーの塊が飛び去っていった。霊夢は肩を竦めた。
「やっほー、霊夢」
「ご挨拶ね、ルーミア」
渋い顔を向ける。闇妖は悪びれずに笑った。
「当てなかったじゃん。ちょっと遊んでほしいだけよ」
「そうねえ。たまにはいいわね」
闇妖がポケットに手を突っ込むのに合わせて、巫女服の袖から符を取り出す。
「私は三枚! 一枚は新作よ、ご期待あれ!」
「同じ数だけ。新作、一枚目に出しておいた方が良いと思うわよ」
二人は同時に動いた。距離が一気に離れる。牽制の符と光弾が激突して散った。
闇妖が一枚目のカードを破り捨てた。込められていた妖力が解放され、幾つもの光弾を形作る。放射状に広がった光弾のうちいくつかが殺到する。霊夢は身を翻して躱した。ぐるりと視界が反転する。やり過ごしたままの体勢で符を放つ。放物線を描いて飛ぶ符を見送って、霊夢は体勢を戻した。ぐるん。また視界が半回転して元に戻る。
霊夢はこの感覚が好きだった。まるで、世界の方が彼女を軸に回転しているような――。
(あ)
霊夢は急に魔理沙との会話を思いだした。
(回っているのは本当に、世界のほうなのかしら)
霊夢が楽しみで飛び回っているせいで、幻想郷中が飛んだり回転したりしている?
気付くといくつかの光弾がすぐ近くに迫っていた。あっという間に視界いっぱいに大きくなった。霊夢はもう、避けようと思えなかった。直撃。
「え、あれっ!? 霊夢!?」
遠のく意識の中で、ルーミアの声だけが小さく聞こえた。
霊夢は神社に閉じこもるようになった。ルーミアが助けてくれたお陰で、怪我はなかった。原因は彼女の体ではなく心にあった。
身体を激しく動かそうと思うと、幻想郷がそれにつられて激しく動く様子を想像してしまう。のみならず、霊夢が何の気なしに動いたころで、彼女から遠いところではその動きは想像もできないような速さになるはずだった。
霊夢はそれが気がかりで仕方なくなってしまったのだった。彼女一人のために幻想郷中がくるくる廻る。それを想像すると申し訳なく思えた。霊夢の一歩が、幻想郷全ての物事に影響を与えていくことを。
幻想郷は、霊夢が知るほとんど全てだった。まるで深い水の底にいるように手足が重くなった。指一本を動かすことさえ恐ろしかった。弾幕ごっこも、考えてもいけないほど罪深いことのように思えた。
霊夢はじきに本当の必要最低限のことにしか活動しなくなった。空を飛ぶことなんて考えられず、できるだけゆっくり歩いて移動するようになった。振り返ったりするのもなるべく避けた。どうしても後ろのほうに用があるときは、幻想郷の果てのことを考えて、ゆっくりゆっくり振り返った。そのうち、一日の大半を布団に寝転がって、天井を眺めて過ごすようになった。
霊夢は、すっかりノイローゼになってしまったのだった。
「お、お、おい、霊夢、どうしたんだ」
そんなある日、魔理沙がおっとり刀で駆けつけた。ずさあ、と音が立つくらいの勢いで枕元に滑り座った魔理沙に肩を揺すられ、霊夢は鬱陶しそうな表情を向けた。
「……ちょっと、揺らさないでよ……幻想郷が……回っちゃうじゃない……」
「今日はあれが冗談だって言いに来たんだよ!」
「……違うのよ、そうじゃないの。私が……」
霊夢は言い淀んだ。悩まされ続けていることがいよいよ言葉になろうとしていた。天井の木目がにじんだ。霊夢は目を擦った。
「な、泣くな。大丈夫、今からお前の心配を全部取り去ってやるから」
霊夢の乱れた髪を、魔理沙の手が不器用に撫でた。声を震わせながら「だって」と「でも」しか言えない霊夢に苦笑して魔理沙は続ける。
「ようは、あれだよな。お前が幻想郷の中心では絶対にありえないって分かれば安心できるんだよな」
「私だって、考えたもん……考えたけど、分からないのよ。私が中心でも、全部、問題なく回るように思える」
「……星の運行」
「……ほし?」
「ああ、そうだ。分かりやすく太陽のことを考えてくれてもいい。太陽は幻想郷だけのものか?」
「違う、と思う」
霊夢はぽつりと答えた。太陽は、みんなのものだ。幻想郷だけでなく。
「太陽は毎日、幻想郷の同じ山に沈むな?」
「……うん。妖怪の山に沈む、わね」
「仮に霊夢の代わりに幻想郷がくるくる回転していたら、太陽はいっつも霊夢に対して同じ方向に沈まないとおかしい。それに、太陽が妖怪の山以外に沈むのを見たことがないとおかしいよな。……私が言ってること、分かる?」
「……」
「……霊夢?」
霊夢は寝返りを打った。魔理沙に対して背を向けた。
「れ、霊夢ってば」
その顔を覗き込もうと、魔理沙が霊夢の身体の向こうに手をついたとき。
「絶対許さないんだから……!」
「わ、ちょっ……」
霊夢は魔理沙のその腕を掴んで、引き倒した。
「泣かす、私と同じだけ泣くまで許してあげない……!」
二人は転げ回ってもみくちゃになった。怒声はすぐに笑い声に変わった。黒い服の少女が神社を裸足のまま駆けだして、境内にうち捨てられていた箒を掴んで空へと飛び上がった。少し遅れて襦袢の少女が飛び出して、やっぱり裸足のまま、追うように空へ飛び立った。襦袢の少女が力一杯投げつけた符を、魔女の放つレーザーが焼き払う。
魔女は帽子も八卦路も持ち合わせていない。霊夢も、十分な量の符を用意していない。
でも、楽しかった。久しぶりに飛ぶ空は、最高に爽快で楽しかった。太陽が妖怪の山の向こうへすっかり沈んでしまうまで、笑い声が止むことはなかった。
霧雨魔理沙は霊夢の向かいに腰掛けるなり言った。魔理沙は研究が煮詰まると神社に押しかけて、この数日で見つけたことをだらだら話し続けることがある。帽子の下からはぼさぼさの髪が覗いていて、霊夢は話が終わったら櫛を入れてやろうと思った。それよりも、霊夢の名前が出たことが興味を引いた。
「この世界のな、中心なんだ」
「どういうこと」
「うん、これだけじゃ分かんないよな。資料を全部持ってきたからまずは見てくれ」
魔理沙は頷いて、帽子から紙束を引っ張り出した。ちゃぶ台に広げていく。霊夢は邪魔にならないように二人の湯飲みを退かした。
「ふうむ」
霊夢は唸った。紙は小難しそうな数式や専門用語だと思われる物で埋め尽くされていて、霊夢にはさっぱり分からない。
「まずはこの式を……あ、いや」
魔理沙は言いかけて口をつぐんだ。言葉を探すように目が泳いで、それから紙のうち一枚をひっくり返した。裏にも数式やメモの走り書きのようなものがたくさん書いてあった。帽子の中から取りだした鉛筆を指の間でくるりと回す。
「自分の整理がてら、図にして説明するから聞いてな」
「うん」
空いているスペースを見つけ出して、魔理沙は円を一つ描いた。
「これがまずは幻想郷だとする。円周が大結界」
続けて、真ん中に棒人間を描いた。ちょうど、空を飛ぶ人間を上から見た形にも見える。
「これは私?」
「そうだ。そして、これが私の発見の重要なポイントなんだが、お前はここから一歩も動いていない」
「動いてない、って……そんなはずはないわ」
「うん。それはどうしてそう思ったんだ?」
「ええと、だって、ほら」
霊夢は魔理沙が使った鉛筆を取り上げて、紙を引き寄せ、魔理沙が描いた円周の内側に鳥居のアイコンを描き足した。
「うちの神社はここ、幻想郷の端っこにあるのよ。私はここで暮らしているんだから、幻想郷の真ん中に釘付けってことはないはずよ」
「そうだな。霊夢の言うとおりだ。霊夢が動かないと、神社には帰ってこられないように思える。でも……」
いったんは頷いた魔理沙の「でも」に、霊夢は膨れっ面をした。魔理沙は身を乗り出して紙を覗き込んだ。
「なによ」
「まあ、それは実演してみせてやろう。鉛筆貸して」
霊夢は素直に鉛筆を渡した。魔理沙は棒人間のすぐ近くに角張った建物のアイコンを描いた。
「これは紅魔館?」
「よく分かったな。伝わらなかったらコウモリの絵でも描こうかと思ってたんだが。さて、お前は紅魔館に遊びに行ってて、幻想郷の端っこにあるここ、博麗神社へ今から帰るところだとしよう」
「うん」
「しかし、このとき、霊夢は今いるところから一歩も動かない」
「無理だと思う」
「いいや、無理じゃないんだな」
魔理沙が紙に手をかざした。棒人間の絵が震えたかと思うと、紙の上でもぞもぞと動き出した。
「わあ」
「簡単な魔法だよ。主張がブレそうでちょっと困ってるんだけど、これは説明をしやすくするための小細工で本題とは関係ないからな」
「うん」
棒人間はちょうど神社と反対の方向を向いている。
「まずは、神社に真っ直ぐ帰れるようにしないといけないな」
魔理沙が言うと、棒人間はその場で向きを変え始めた。それと同時に、魔理沙は紙全体を反対に回した。棒人間の動きと紙の動きとが打ち消し合って、棒人間は動いていないようにも見える。
「あっ、ずるい」
「けけけ、ずるいもんか」
机をぱんぱん叩く霊夢とにやにや笑う魔理沙が顔をつきあわせる下で、棒人間はじりじりと神社へ近付いていく。
「おっとと、しまった」
魔理沙は急いで紙を動かした。今度は進行方向の反対向きに。棒人間と紙の移動距離が打ち消し合って、今度も棒人間は静止した。棒人間が鳥居のマークに重なったところで魔理沙の手が止まった。
「ねえ、魔理沙が言ってたのってこういうことなの」
霊夢はほとんど呆れて尋ねた。
「簡単に言えばこういうことだな」
「ねえ、魔理沙。貴女は馬鹿よ」
「おや。それはどういう理由で?」
「だって。簡単なことじゃない」
霊夢はすっと立ち上がると魔理沙のそばに膝をついた。
「おお、なんだなんだ」
見上げる魔理沙に微笑みかけてから座布団を一気に引き抜く。魔理沙は小さな悲鳴とともに転がった。
「ね?」
「ね、じゃなくて。口で言えばいいじゃないか……でも言いたいことは分かった。幻想郷の土地が急に動いたら、上に立っている人間がみんな転んでしまうと言いたいんだな」
「そうよ。魔理沙ったらこんなことにも気付かないで、馬鹿ねえ」
霊夢は安心した。危うく、大きな責任をむやみに押しつけられるところだった。
「馬鹿、馬鹿って言うな。それに、その意見についてはちゃんと答えを用意している」
「言ってごらんなさいよ」
「あのな、私は幻想郷が、土地だけとは言っていない」
「……えぇ?」
魔理沙はいよいよ熱弁を振るうように、大きく手を動かした。
「いいか、霊夢。幻想郷は土地だけじゃあない。そこで暮らす人間や妖怪、そして建物や空気だって。大結界の内側にあるものは全て幻想郷だ。……と、私は思う」
「そんなのただの……何て言うのかしら、屁理屈みたい」
「そう、これだけならただの思考実験で机上の空論だ。……でもな、私がこう考えるに至った理由はもう一つある」
「……なによ」
魔理沙は身を乗り出した。肘をついて指を組む。霊夢はその分身を引いた。
「お前、慣性を感じたことってないだろ」
「慣性?」
耳慣れない言葉だった。霊夢はオウムのように聞き返した。
「慣性。お前、動いている状態から静止するのに力が要るか?」
「立ち止まるのに、ってこと? そんなの、みんな一緒じゃないの。歩くのをやめれば止まれるわ」
「そうだな。それとか、空を飛んでいて止まるときのことも。進む向きと反対に力を加えた経験はあるか?」
霊夢は思い返す。自分が飛行中に止まるときは、どうしていたっけ?
訊かれてみれば霊夢は、空中で速度を落とすのに特に制動力を必要としないような気がした。空中に静止することだって、意識することなくできた。霊夢にとってはこれは生まれ持った能力で、当然のことだった。しかし、他の空を飛ぶ者からすればとんでもないことなのだ。魔理沙のような魔女だけではない。天狗や吸血鬼のような、空を自由に飛ぶ種族だって、そうなのだ。霊夢の表情に、魔理沙は我が意を得たりとばかりに話を続ける。
「やっぱりそうか。慣性っていうのは、動いている物は動いているまま、止まっている物は止まっているままの状態でいたがる性質のことだ。ビー玉を転がしたら、誰かが止めてやるまで転がり続けるだろ? ビー玉だけじゃなく、重さのある物体は全て慣性を持つんだ」
「うん」
「でも、お前には、その慣性が備わっていないように見える」
「……」
霊夢は自分が質量を持たない幽霊か何かだと言われているようであまりいい気はしなかったが、黙って続きを促した。
「そんなはずはないんだ。物理法則からしたら、慣性を持たないということはあり得ない。慣性が働いていないように見えるなら、それは物体――ここでいう霊夢、お前のことだが、お前の運動の様子が変化していないからにほかならないんだ。ここでさっきの仮説が活きてくる。霊夢の代わりに幻想郷が運動していることにすれば、霊夢は自分の運動の様子を変化させることなしに、霊夢が回りから運動しているように見える」
どうだ、と魔理沙はふんぞり返ってお茶を飲み干した。霊夢の湯飲みはほとんど湯気が消えていた。お代わりを入れようと席を立つと、魔理沙は「ほら、今も霊夢は本当は動いていないんだぜ。動いているのは私のほうだ」とからかった。
帰るときになって、魔理沙はまたさっきの話を蒸し返した。
「ああ、あれもそうだ」
「なによ」
「香霖が昔よく言ってたこと覚えてるか。『ここは幻想郷の中心だ』ってやつ」
「えっと、自分のお店を持ったときに言ってたような」
「そうそう。あれさあ、どういう意味か最近また考えてたんだよ」
「どういうこと」
「香霖堂があそこにできてから、私たち、よく入り浸ってたじゃないか」
「うん」
「それであいつ、幻想郷の中心だって言ってたんじゃないかな、って思ったんだ」
「私たちがよく通っていたから?」
「正確には、お前が、だよ、霊夢」
魔理沙は最後にそう言い残した。
魔理沙が帰ってから、霊夢は魔理沙が話したことをもう一度思い返してみた。
霊夢には魔理沙の説明の半分も理解できなかった。ただ、一生懸命勉強して魔女になった、学のある魔理沙の言うことだから、突拍子もないことではないのだろうと思った。
(仮に私が幻想郷の中心だったとして)
霊夢は考え始めた。霊夢は、魔理沙の言ったことが少しだけ嫌だった。鵜呑みにしたくなかった。自分自身をそんな大仰な存在と自認したくなかった。
(何か不都合はあるのかしら)
もしおかしなことが起こるなら、この考えは正しくないと言っていいはずだ。魔理沙の唱えた説をきっぱり否定する根拠になるはずだ。霊夢は知らなかったが、それは背理法と呼ばれる手法だった。霊夢は正しく勘を働かせていた。
霊夢は想像してみた。霊夢が歩くとき、霊夢の主観では、たしかに世界が背後に流れていくように見える。でも、それは霊夢の主観でしかない。客観ではそうではない。どこか別の場所に、どこか霊夢の知らない場所に基準になる場所が決まっていて、その基準から見れば霊夢がちゃんと移動している。今まで霊夢はそう思っていた。
(……でも、霖之助さんは)
霊夢の知る森近霖之助は、不必要な修辞を使わない人間だった。その森近霖之助が、博麗霊夢のことを幻想郷の中心――基準点だと言った。それは……。
(私がここに、ピンで留められているようなものよね)
霊夢はいつか見た、昆虫の標本を思いだした。
それからというもの、霊夢はすっかり憂鬱になってしまった。空間のある一点に見えない押しピンで磔にされている想像がついて回って、何をしていても気分が晴れないのだった。
楽園の巫女が一つのことに心を囚われているなんて、どう考えても望ましい状況ではなかった。いつまでもこうしているわけにはいかない。気分転換をしようと、霊夢は縁側を蹴って空へ飛び上がった。
当てもなく飛び回っていると、耳元で風切り音が鳴った。背後から霊夢の進んでいく方向へ、クナイの形をしたエネルギーの塊が飛び去っていった。霊夢は肩を竦めた。
「やっほー、霊夢」
「ご挨拶ね、ルーミア」
渋い顔を向ける。闇妖は悪びれずに笑った。
「当てなかったじゃん。ちょっと遊んでほしいだけよ」
「そうねえ。たまにはいいわね」
闇妖がポケットに手を突っ込むのに合わせて、巫女服の袖から符を取り出す。
「私は三枚! 一枚は新作よ、ご期待あれ!」
「同じ数だけ。新作、一枚目に出しておいた方が良いと思うわよ」
二人は同時に動いた。距離が一気に離れる。牽制の符と光弾が激突して散った。
闇妖が一枚目のカードを破り捨てた。込められていた妖力が解放され、幾つもの光弾を形作る。放射状に広がった光弾のうちいくつかが殺到する。霊夢は身を翻して躱した。ぐるりと視界が反転する。やり過ごしたままの体勢で符を放つ。放物線を描いて飛ぶ符を見送って、霊夢は体勢を戻した。ぐるん。また視界が半回転して元に戻る。
霊夢はこの感覚が好きだった。まるで、世界の方が彼女を軸に回転しているような――。
(あ)
霊夢は急に魔理沙との会話を思いだした。
(回っているのは本当に、世界のほうなのかしら)
霊夢が楽しみで飛び回っているせいで、幻想郷中が飛んだり回転したりしている?
気付くといくつかの光弾がすぐ近くに迫っていた。あっという間に視界いっぱいに大きくなった。霊夢はもう、避けようと思えなかった。直撃。
「え、あれっ!? 霊夢!?」
遠のく意識の中で、ルーミアの声だけが小さく聞こえた。
霊夢は神社に閉じこもるようになった。ルーミアが助けてくれたお陰で、怪我はなかった。原因は彼女の体ではなく心にあった。
身体を激しく動かそうと思うと、幻想郷がそれにつられて激しく動く様子を想像してしまう。のみならず、霊夢が何の気なしに動いたころで、彼女から遠いところではその動きは想像もできないような速さになるはずだった。
霊夢はそれが気がかりで仕方なくなってしまったのだった。彼女一人のために幻想郷中がくるくる廻る。それを想像すると申し訳なく思えた。霊夢の一歩が、幻想郷全ての物事に影響を与えていくことを。
幻想郷は、霊夢が知るほとんど全てだった。まるで深い水の底にいるように手足が重くなった。指一本を動かすことさえ恐ろしかった。弾幕ごっこも、考えてもいけないほど罪深いことのように思えた。
霊夢はじきに本当の必要最低限のことにしか活動しなくなった。空を飛ぶことなんて考えられず、できるだけゆっくり歩いて移動するようになった。振り返ったりするのもなるべく避けた。どうしても後ろのほうに用があるときは、幻想郷の果てのことを考えて、ゆっくりゆっくり振り返った。そのうち、一日の大半を布団に寝転がって、天井を眺めて過ごすようになった。
霊夢は、すっかりノイローゼになってしまったのだった。
「お、お、おい、霊夢、どうしたんだ」
そんなある日、魔理沙がおっとり刀で駆けつけた。ずさあ、と音が立つくらいの勢いで枕元に滑り座った魔理沙に肩を揺すられ、霊夢は鬱陶しそうな表情を向けた。
「……ちょっと、揺らさないでよ……幻想郷が……回っちゃうじゃない……」
「今日はあれが冗談だって言いに来たんだよ!」
「……違うのよ、そうじゃないの。私が……」
霊夢は言い淀んだ。悩まされ続けていることがいよいよ言葉になろうとしていた。天井の木目がにじんだ。霊夢は目を擦った。
「な、泣くな。大丈夫、今からお前の心配を全部取り去ってやるから」
霊夢の乱れた髪を、魔理沙の手が不器用に撫でた。声を震わせながら「だって」と「でも」しか言えない霊夢に苦笑して魔理沙は続ける。
「ようは、あれだよな。お前が幻想郷の中心では絶対にありえないって分かれば安心できるんだよな」
「私だって、考えたもん……考えたけど、分からないのよ。私が中心でも、全部、問題なく回るように思える」
「……星の運行」
「……ほし?」
「ああ、そうだ。分かりやすく太陽のことを考えてくれてもいい。太陽は幻想郷だけのものか?」
「違う、と思う」
霊夢はぽつりと答えた。太陽は、みんなのものだ。幻想郷だけでなく。
「太陽は毎日、幻想郷の同じ山に沈むな?」
「……うん。妖怪の山に沈む、わね」
「仮に霊夢の代わりに幻想郷がくるくる回転していたら、太陽はいっつも霊夢に対して同じ方向に沈まないとおかしい。それに、太陽が妖怪の山以外に沈むのを見たことがないとおかしいよな。……私が言ってること、分かる?」
「……」
「……霊夢?」
霊夢は寝返りを打った。魔理沙に対して背を向けた。
「れ、霊夢ってば」
その顔を覗き込もうと、魔理沙が霊夢の身体の向こうに手をついたとき。
「絶対許さないんだから……!」
「わ、ちょっ……」
霊夢は魔理沙のその腕を掴んで、引き倒した。
「泣かす、私と同じだけ泣くまで許してあげない……!」
二人は転げ回ってもみくちゃになった。怒声はすぐに笑い声に変わった。黒い服の少女が神社を裸足のまま駆けだして、境内にうち捨てられていた箒を掴んで空へと飛び上がった。少し遅れて襦袢の少女が飛び出して、やっぱり裸足のまま、追うように空へ飛び立った。襦袢の少女が力一杯投げつけた符を、魔女の放つレーザーが焼き払う。
魔女は帽子も八卦路も持ち合わせていない。霊夢も、十分な量の符を用意していない。
でも、楽しかった。久しぶりに飛ぶ空は、最高に爽快で楽しかった。太陽が妖怪の山の向こうへすっかり沈んでしまうまで、笑い声が止むことはなかった。
あれこれ想像を巡らしたり突拍子もないことで思い悩んだりは思春期の少女たちならではですねぇ(香霖の影響も大きそうだけど)。
スケールが大きい発想で面白いです。まさにショートショート。
この二人は普段からこんな他愛ない話をして笑ったり落ち込んだりしていそうですね
いいレイマリでした!
霊夢という自機が「幻想郷の中心」というのはあながち間違いでもないかも
世界の中心はレイマリ!
それはそれとして良いレイマリでした
魔理沙の説にも屁理屈ながらもそれっぽさがあって良かったです