いまいましいインクのこすれる音が上空から降ってくる。
また始まった。意識は頼りないが、もう目を覚まさなくてはならない。ここにはおれ以外に誰もいないのだから。
「ちくしょう! 今度はいったい誰が新作を書き始めたんだ!」
吐き捨てるように言ってやったが、どうせ奴らには聞こえまい。だが、愚痴をこぼさずにはいられなかった。
わかるだろう? おれには慰めが必要なんだ。
願わくば、大人しい話を書く奴がいい。おれはもうずいぶんと長い間、奴らの言う通りに手足を振り回し、歯の浮きそうなセリフを吐き、表情をくるくると変えてきた。体はすっかりくたびれたし、空腹と寝不足がおれを手放すまいとしてやがる。ここ何作かの間、そういった話に出くわせなかったからだ。
せめて、今回の話では食事の場面をたっぷりと書き込んでもらいたい。特に噛みごたえの具合に、手間と時間をかけた一品をだ。食感の記述がなければ、極上の料理さえ味と香りをまとっただけの空気になり下がる事実を、奴らはふとしたときに忘れるんだ。
それに安眠にだってもっと気を払うべきじゃないのかね。奴らの許す睡眠時間ときたらたったの数行だけなんだから。いや、もっとひどいのもあったがね。行間で寝起きをさせられたときは、奴らが気狂いに思えたよ。この上にいる輩も、そのお仲間でなければいいんだが。
おれは祈るように耳をすませ、向こう側にいるものの正体を探った。
『小悪魔、紅茶のおかわりをもらえる?』
『へい、おまち!』
『その返事はやめてって前にも言ったでしょう』
聞こえてくる声とその内容、そしてインクのこすれる音があれば、それだけでおれには十分なんだ。わざわざ仰ぎ見る必要もない。
こいつはパチュリー・ノーレッジだ。紙面を走る、あの切っ先の忘れがたい軽妙な音は、奴の愛用する古めかしい羽ペンにしか出せないものだ。
「しかし、あの魔女様か」
たまらなく頭が痒くなった。この女はおれを唸らせることに長けているのだ。
ノーレッジは生粋の読書人で、一日の大半を分厚い書物と過ごす、知識と血の混合物のような女だ。その知的探究の情熱は本物で、おれもある種の身震いを抱かずにはいられなかった。
だが、それにも限度がなければならない。
この女ときたら寝床から起き上がるや、もう本を開いてるらしい。以前、上からそういう話が聞こえたんだ。美しい田園風景を綴った異国の散文詩が眠気を払ってくれると言っていたよ。カフェインよりもずっと健康的な手立てだが、それが効能を示すのはおそらくこの女にだけだろう。
それに食事の合間も箸休めにと読書する。術者に受胎させることで高位存在を招く出産召喚術が、次の料理までのつなぎになる。そんな考えがどんな色の脳なら飛び出すのか、おれにはさっぱりわからないね。わかるのは、ノーレッジは見た目こそ花の茎のように繊細だが、その神経は大木の幹に違いないということだけだ。
こいつはそういう女なんだ。本の言葉を溜めこんでいるが、あまりに手広くやりすぎている。
そんな奴が一作をこしらえようとすればどうなる? なに、わかりきったことじゃないか。筋書きは肥え太り、文面は膨張し、氾濫した文字がおれを窒息させるだろうよ。
優れた物語には学がある。だがね、それは薄っぺらい紙に奥行きを持たせるための手段なんだ。わかるかい? 知識のぬたくりを見せたいなら、おれのいないところでやればいいのさ。
ところが、ノーレッジはその肥えた頭脳からこぼれる知性の恵みを紙面いっぱいに降らせやがる。おれは衒学にふやかされ、字面の不快指数の前にひれ伏してしまう。いくら拭っても雫は滴り、足元に散らばったセンテンスを滲ませる始末だ。
そんなずぶ濡れになったこちらの姿がどれだけ哀れなものか、物語との付き合いが少しでもある奴なら容易に想像がつくだろう?
しかし、おれは想像では済まない。自分の身に降りかかってくる現実の不幸なんだ。まったく、たまったものじゃない。
『小悪魔、紅茶おかわりね』
『普段の二倍の量で、二倍の高さから! さらに三倍の熱さで淹れることでとっても美味しい紅茶になるはず!』
『その淹れ方はやめてって前にも言ったでしょう』
ほら、見てみろよ。
地平の果てまで白かったおれの住処は、今や細部に至るまでノーレッジの文体で彩られている。
そこは、一人なら窮屈さを感じない広さの一室だ。床には敷物があり、一面が燃えるような朱色に染まっている。コルクウールの繊維で描かれたヘイバトルー文様の上には、書物がぎっちり詰まった本棚と、懐の深い肘かけ椅子が二脚、そしてブラックウッドのテーブルが置かれていた。一方の壁には小さな窓があり、遠くにある真紅の蔓薔薇の群れが木漏れ日を通して見える風景を、四角く綺麗に切り取っている……。
ノーレッジの文章が、実体となっておれの瞳に映り込む。冒頭での細かな風景描写は奴のお決まりの手法なんだ。
しかしね、やはりこのやり方は気が乗らないよ。やれ絨毯の縞だの、テーブルの材質だの、植物の種類だの、おれの知らないことばかりを書き込みやがる。こうした新たな文字群は、おれの頭に入ってきてもやはり意味のわからない単語のままだが、使いどころだけは手に取るようにわかってしまうのさ。
それがどれだけ気持ちの悪いことか、他の誰にわかるものかね。だが、おれは誰かに教えてくてたまらないね。与えられる知識が痛みになるなんて、ノーレッジには思い浮かびもしないことだろう!
やがてインクのこすれる音が止むと、目の前には立派な館でならばまず見られるであろう一室が出来上がっていた。
そろそろだ。周囲の描写が済んでしまえば、次の矛先はおれに向かう。
いったい何にされるのか。告白すると、ノーレッジの場合はまったく見当がつかないんだ。この女の腕は長く、あらゆるジャンルが手の届く範囲にある。だからその話にふさわしい人物像もまた、あらゆるものが当てはまるのさ。
たとえば、ふわふわした金髪の持ち主で、そのくせ黒い髪にやたらと憧れる少女。人形を爆発させることに理解不能な情熱を見せる金髪の娘。油揚げで主人の頬を延々と叩く金髪の狐。昔はあんな子じゃなかったと泣き崩れる金髪の胡散臭い女。
……おかしいな、思い返すとブロンドばかりが頭に浮かぶ。ノーレッジにはそういう趣味でもあるのだろうか。
いや、もちろん、おれの経験は金髪の女だけじゃない。男だったときもあるし、赤ん坊だってやったことがある。舌の上で転がされるビー玉にもなったし、全裸の男に差し出される緋色のマントにもなり、ときには馬鹿みたいに大きな甲虫にもされた……くそ、嫌なことを思い出したな。虫になったときに味わったあの貼りつけられた皮膚の違和感は、ちょっとした体験であったことは認めるが、ハッ、二度はごめんだね。
いずれにせよ、肉体の変化は一瞬だ。
息を吸って吐いた頃には、もう私の体にパチュリーの文面が着せられてるの。あはは、わかるかしら。こんな風にね、
でも、私は誰になったのかな。紙面に駆り出されたら勝手に動くわけにもいかないから、体を見回すことができないの。
それでも、わかったこともあるけどね。体はやけに小さいし、股が寂しい。それに背中に重みのあるものを背負って、ううん、肌から生えてるものがある。きっと、羽だね。妖怪の女の子だ。それに、この体はパチュリーって呼ぶようになってるし、馴染みのある色の髪が視界の端を泳いでる。この金髪の人外少女は、ひょっとしたら彼女の知り合いなのかもしれないわ。
そこまで考えたところで、ふと音が聞こえた。
音は這うように低く響いたかと思うと、突然甲高くなることを繰り返し、やがて一つの声となった。
「じっとしているのよ、フラン。でないと歯を立てるわ」
声が聞こえたのと同時に、椅子に座る私の後ろで、別の私の息づかいが生まれた。登場する人物が増えたんだから、私だって増えないといけないの。わかるでしょ?
背中には温かな湿り気を感じる。背後の私の仕業に違いないわ。でも、いったい何をしているというの。後ろにいる私は、私とは別の人物像を演じているのだから、その感覚も感情もこっちにはわかりっこないんだもの。
「いい子ね」
「うん。でもお姉様」
背後の声が続けると、私の唇が答えた。
心の中を無視して別の言葉を話すというのは、やっぱり落ち着かないものね。耳の裏がぞわぞわしちゃう!
「なにかしら」
「私の羽って、ん、おいしいの?」
「愉しいわ」
「ふうん。私もこの前自分でやってみたけど、ぜーんぜん面白くなかった」
「あなたにも、いずれこの味わいを理解できるときが来るわ。きっとね」
そのときは案外近いのかもしれない。姉の冷たい舌が宝石のような羽を唾液で湿らせるたびに、妹の幼い肉体はかすかな痺れを感じ取っていた。
ん、いや、待って。ちょっとやだ、どうかしてるわ。これ、そういう話なの?
姉は羽の愛撫をやめ、妹の正面に移った。椅子は二人の少女の重さに鈍い声をあげた。姉は体を丸めると、妹の腹部に口づけをする。下腹部の、ぴっちりとした清潔な皮膚の張りに舌を這わせると、妖しげな熱がこもった。
やめ、やめてよ! すっかり見なくなったと思ったのに! ねえ、これを止めて!
曼荼羅のようなへそを唾液で湿らせると、水音がするたびに血と乳の匂いが
ああ、もうっ! 誰かこのうるさい地の文を頭の中から追い出してよ! いやらしい魔女! こんなものを書いて、はず、は、はずかしくないの!?
『小悪魔、紅茶をおねがい』
『ジョボジョボジョボジョボジョボジョボ』
『その掛け声はやめてって前にも言ったでしょう』
上空を睨みつけると、苛立つほどにのんきな声が降ってくる。
これだから魔女は嫌。紅茶の気品ある香りも、彼女の頭には上手く働かないみたい。
だって、そうでしょ? 私は数行前になんて言ったの。そして、なんて呼ばれたの。お姉様。フラン。確かにそう書かれたわ。魔女を客人の身分とする、館の主人とその妹が、確かにここに書かれていたのよ。
時折、向こう側で見かけたことがあるから知ってるわ。パチュリーと姉妹は親しいお友達の間柄だった。それなのにこんな、すごく……すごく、問題のある話の題材にするなんて! 澄んだ表情をしているくせに、その瞳の奥は濁りきっているんだわ。
パチュリーの物語は留まることを知らず、いまだに粘膜でのやり取りを飽きもせずに続けている。私の体は描写に逆らえず甘ったるい身震いを催しているが、意識は反比例するように冷めていった。
魔女がエンドの文字を書くか、執筆を中断するまで、このふしだらな欲望に立ち向かわなければならないのだと考えると、ため息の一つも吐きたくなる。だけど、実際にため息が出ることは決してない。
そんな記述はどこにもないんだもの。
墨の匂いだな、と考えることができて、ようやく自分が起きたことを知った。
だが、すぐに起き上がろうという気にはならなかった。別に構いやしないだろう? これくらいの休息は許されて然るべきじゃないか。
おれの仕事の報酬といえば、睡眠とはまったく違ったやり方での意識の断絶、それだけなんだ。次の出番が来るまで、おれは存在することすらできやしない。奴らのうちの一人が、頭の裏側でおれを組み立てるそのときまで。筋書きを見事にこなしたところで、温かい食事も寝床もないんだ。確かにここにはおれしかいないが、少し休んだところで罰は当たるまい。
おれは横になったまま、惨めな体を精いっぱい休ませた。魔女の触手じみた物語が、腹の下に焼かれたような痛みをもたらしていた。手でさすると、いくらかマシにはなったがね。
そうやって、おれが上空をぼんやり眺めながら、自分の体をなだめていたときのことだ。
突然、暗闇がぬっと広がった。
『こらこら、やめなさい』
たしなめる声が後から来ると、暗がりが甲高い声でナアンと答えた。
猫だ。黒いむくむくが緑色の光彩を輝かせ、舐めるような視線をこちらに降らせている。
まるで鼠かなにかを見るような気に入らん目だ。だがそれ以上に、おれはもう飛び上がってそのまま逃げ出したくなった。
……情けないとは言うまいね? 群衆の中で自分だけを見る視線を感じたら、誰だって同じように考えるだろうさ。
『ほら、ね。あっちにお行き』
声がするのと同時に、猫は浮き上がり、どこかへ飛び去って行く。未練がましくこちらを見つめるその瞳は、空の端から消えるまで妖しくきらめいていた。
そこでようやく、おれは胸をなでおろした。ところが、すぐにまた上空に暗雲が立ち込めたような気になった。というのは、先ほどの猫を制止する、あの幼いながらも芯の通った声音に覚えがあったからだ。おれの不安を掻き立てる嫌な覚えが。
つまり、ノーレッジに続いて、おれはまたしてもアタリを引いてしまったわけだ。
確かに、あの魔女よりは歓迎すべきなんだろう。奴の話なら、ただ自己紹介をするだけで済むかもしれない。そうでなくとも、空っぽの胃袋をいくらか重くさせられるかもしれないし、物語がおれに粘ついた欲望を強要することもない。
いや、おれはなにも欲望を否定しているわけじゃない。要は見せ方の問題なんだ。表現が言葉の影なら、思い通りの形に見えるようにすればいいってだけの話だ。そうだろう?
そして、奴には問題がある。
しかし、その問題について、おれは上手く説明できそうにない。ノーレッジに組み立てられたおれならば、二十通りほどの説明ができるんだろうが、おれ自身は大した言葉を持ってないんだ。だから、問題があるとしか言えないね。
だが、それだけじゃあおれの気がおさまらないよ。なに、仲間が欲しいってわけじゃない。自分が持ってる正しい理解や価値を世の中に広めたいと思うのは、ごく自然なことだろう? おれは奴らの性根がどれだけ腐っているか、この身をもって知っているんだ。その事実をどうして誰かに教えずにいられるんだ?
だから、おれは言いたくて仕方ない。よし、説明は無理だが、実際にあったことを一つあげることならできるだろう。聞いてくれ。以前、奴の筆先に仕立て上げられたときの話だ。おれは見事に筋書を成立させたが、それからというもの、おれの頭にある疑問が付きまとったのさ。
友情は足の付け根にほくろがあることを知らしめるのか、という疑問がね。
『ふう、早く今日の小鈴を書いておかないと』
ととと、とこちらに近づく音が聞こえる。おれが見上げると奴の顔が、稗田の娘の穏やかな微笑みが、空いっぱいに映っていた。そのとろとろになった笑みには、奴が言うところの友情が作用しているのだろう。
おれはこの稗田の娘が好きじゃない。遠くから眺める分には無害そうなやせっぽちの子どもだし、奴の本業らしいなんたら縁起とかいう、身の上を語るだけの楽な仕事には助かっている。それでもおれは、奴がどうにも薄気味悪く思えてならない。
もちろん、これは奴の体質のことを言っているんじゃない。稗田の娘は生まれ直す役割が与えられてるらしいが、そんなことは奴の問題にはつながらないのさ。役割なんておれでも持っているものだし、内容についてあれこれ言ったところでなくなるわけでもない。一行を割く価値もないよ。
問題というのはだ。奴の好みとか、趣味とか、そういったところにあるんだ。
『今日の小鈴は……百点! 満点で可愛かったわ!』
その楽しみがどうやら始まったらしい。点数はその合図だ。しかし、この点数自体に意味があるようには思えないね。なにしろ百点を下回ったことが一度もないんだ。
そんなことを考えていると、稗田の娘の筆先がおれをそっと撫で始めた。触れた部分に墨が染み渡り、鼻の奥に冷たいものが入り込む。たまらずくしゃみを二度、三度繰り返すと、どこからともなくりん、りん、と澄んだ音が聞こえた。
私の体が阿求の描写で組み上げられていくのがわかる。ううん、もうすっかり出来上がっていた。
誰にされたのかは鈴の音が教えてくれた。小鈴という名の小さな女の子よ。
阿求はこの子のことを大分……かなり気に入っているみたいで、彼女の物語だと阿求が割り当てられなければ、この体にされると決まってる。
それも当然で、彼女の書く話が私と会った日のことをまとめた、日記のようなものだからなのよね。
阿求は私たち二人で過ごした時間を、事細かに書き記すの。例えば、二人で焼肉を食べに行って、三皿分の兎肉でたっぷりお腹を膨らませたこととか、一皿の白玉をお互いに食べさせ合いしたこと、それからお昼に兎とお餅をお味噌で味付けしたお鍋を一緒に作って食べたこと……こいつら食べてばっかりね。
ああ、もちろん、二人の時間は食事だけで終わったわけじゃないわ。小高い丘を裸足になって駆けたり、湖面が日の光をきらめかせる光景を眺めたりもした。
でも思い返すと、ご飯に出かける記述が多いのは事実なの。阿求は小食のくせに、私をよく食事に誘う。そうして、私の食べてるところをにこにこ眺めているのよ。
私も阿求の物語のときは、食事ができるからと喜んだものだわ。初めの頃はね。
鈴奈庵を訪ねる。小鈴は相手が私だとわかったらしく、声だけで迎えてくれた。彼女は開かれた古本を目でさっとなぞり、頁をめくると、また覗きこむように読んでいる。
一瞬で、辺りは背の高い本棚に囲まれ、天井がぐんと縮んだように見えた。
私の前には両腕を広げても足りないほどの大きな机があり、そこに色あせた本が開かれた状態で置かれている。なにか文字のようなものがびっしりと書かれているが、水で薄めたようにぼんやりしていて、内容はちっともわからない。
だけど、この体は私よりも賢いみたい。ページをめくっては、その中身をするする吸い取っている。
机を隔てて向こうにいる阿求は、そんな私をただ眺めていた。その目は濃い影におおわれ、奥には優しさがこもっている。
あの阿求になった私は、なにを感じさせられているのだろうかと頭の隅で考える。
私が阿求を体験したときと、同じような気持ちを抱いているのかもしれない。小鈴を可愛らしく思っている、あの胸のうちの奇妙な疼きを、今まさに与えられているのかも。
だとしたら、私は黙って相手の背中に手を置いてやりたかった。阿求の描写は、どの私も平等に苦しめるのだから。
読書に没頭する小鈴は、大抵のことでは頭を上げない。空いている椅子を寄せ、私が小鈴の傍に居座っても、彼女はまったく気にも留めなかった。
小鈴の左手は頁をめくるのに夢中だったので、右手の方に触れてみる。指先で手の甲を撫でても、ぴくりともしない。私は手の平にまで指を滑らせて小鈴の右手をおおった。温かく、果肉のように柔らかい肌が、どこまでも私の指を滑り込ませるように吸いついた。
牛乳のように白い手をしっかりと握り、互いの指を絡ませる。そのままじっとしていると、熱がこもり、ぬるぬるとしたものが湧き出した。
息が詰まって来るような気がした。その感触は、小鈴の指と私の指が、小鈴の手と私の手が、さらにさらに密着し、混じり合い、肉と肉のとろける光景を幻想させた。
小鈴の方を見ると、変わらず活字に目をやっていた。彼女は小さく可愛らしく、それは日に日に複雑さを増している。彼女の皮膚、滑らかで白く透けるような肌は、果てしない喜びを引き出すことができる。
私の体は隣にいる阿求に手を握られながら、平然とした顔で読書を続けている。だが、私自身はとても本など読む気になれなかった。
物語の描写は、叫びとは違う手立てで私の耳の中に滑り込むの。だから、こうした必要以上に艶めかしい描写が、私の頭の裏側をどれだけかき乱すかは言うまでもないわ。いえ、頭だけじゃない。体だって描写の熱に侵され、肉の重みがとろとろ流れるような錯覚にさえ陥るのよ。
阿求の書き方はいつも変わらない。筆先から熱病をまき散らすやり方は、料理をした日や、散策に出かけた日、一緒に食事をした日でも、こうした描写を私に向けるのよ! 焼肉のときに味わった、熱い脂にまみれた唇のてらてらとした輝きを綴った文章は、今でも思い出すと吐き気がこみ上げるわ。
どうしてこんな書き方になるのか、私にはちっともわからない。阿求はこれを、単なる親愛の記録としているみたいだし、それ以上の感情を私に向けたこともないの。ただ、友人の可愛らしいところを書き留めただけの話が、私の気をひどく落とすのよ。
だから、阿求の話のときはいつも、こうして阿求の問題、その趣味について考えて、解放されるのを待っている。こんな物語にまともに取り合っていたら、きっとそのまま引きずり込まれてしまうもの。
今までの話の長さから考えると、まだまだ阿求は筆を止めはしないだろうし■■
「え、なに」
『わっ、あ、やめなさい!』
なにか黒い塊が視界を過ぎったかと■■■、上空■■怒号が飛んだ。見上げると、鈴奈庵の天井■■透けて見える空の枠■■、こちらに足を向けて■■■■黒い猫がいた。
私は猫を見て、ハッとしたわ。■■■濡れた体毛の色は、■■■に自前のものじゃなかったんだもの!
周囲を見渡■■、古い本棚や、年季■入った通路の床に黒い染みが湧き出て■■。隣■■■阿求の顔も、今や真っ黒に塗りつぶ■■■■
くしゃ、と軽い音が■■■、室内は歪み、■■■大きな亀裂■■■■■■■■■■■■■■
● ●
● ●
■■■
● ●
● ●
■■■
『起きなさい。時間ですよ』
どこからか声が聞こえた。おれは唸りながら、起き上がろうと身をよじらせる。だが、手足は異様に重くなり、すぐにまた動けなくなった。
ひどい目にあったな。そんな考えばかりが頭に浮かぶ。
執筆が中断されたのは喜ばしいことだったが、痛みをさらなる痛みで上塗りするような手法はいけない。そういうやり方はただの子ども騙しに過ぎないのさ。
そして、おれは子どもじゃない。そんなものには騙されないよ。湯気の漂うコーヒーで全身をふやかされたときに学んだからね。
『起きなさいと言ってるんです。聞こえなかったんですか』
またこの声だ。誰が向こう側にいるのか知らないが、いい加減うるさいな。
こっちは、喉にまだ毛が詰まったみたいに息苦しいし、ぐったりした体はなかなか起き上がろうとしてくれない。向こう側の奴が誰と話しているのかは知らないが、これ以上喚くならおれのいないところでやってもらいたいね。
『誰ってあなた以外にいないじゃない。早くしてください。三度も同じことを言わせる気ですか』
おれはここでようやく、上空をしっかり見てやろうという気になった。
向こう側にいる奴の物言いは、実に奇妙なものじゃないか。まるでおれが見えているような口ぶりだ。
ところで、もしおれがあの馬鹿げた猫の足でぺちゃんこにされていなければ、こんなにも悠長に過ごしていなかったことは断言できるよ。
誰だってぐったりした体を引きずってれば、頭がのろまになってしまうものだからな。差し迫った危険がないなら、わざわざ叩いて聞かせるような真似もしないに決まってる。
おれの目の前にその危険があることを知ったのは、奴の姿を見たのとほとんど同時だった。
『おはよう。なにか言いたいことはありますか?』
奴がたずねるが、おれはあえぐように唇を震わせるだけだった。
上空から覗く三つの目は、静かに輝きながらおれを見下ろしている。どのくらいの間、その視線に凍りついていたかはわからないが、やがておれは弾かれたように起き上がった。
「違うんですよ、さとり様。あんたの話で怠けようなんて気はこれっぽっちもなかったんだ」
『なら、どうして私の呼びかけに答えなかったんです?』
「いや、あんたを無視したわけじゃないよ。本当だ。前の話でくそったれの猫に」
『いけませんね。そんな下品な言葉を私の前で使っては』
「やあ、すまない。わざとじゃないんだ。あの……礼儀知らずな猫がいてね、そいつのせいで散々な目にあって、まいってるんだよ」
おれは古明地をなんとかなだめようと、必死で説き伏せた。
こいつの前で無様な真似は許されない。もう二度とあんな、あのおぞましい……いや、とにかくおれにとって、こいつは失望させてはいけない相手なんだ。
おれの口調があまりに熱のこもったものだからか、古明地は早々に頬をやわらかくしてくれた。
『いいでしょう。あなたの耐える苦役がどれほどのものか、私は聞いて想像することしかできませんからね。今回は大人しく引き下がりましょう』
古明地の返答におれは唇の端をつり上げた。
やれやれだ。こちらはもう後がないという勢いだってのに、相手はそのときの気分で首をどちらに振るか決めるときたものだ。この女の前では、おれの熱意など吹けば飛ぶような軽いものだよ、まったくね。
『私がまるで気難しいヒステリックな女だと言いたいようですね』
「ああ! いや……なに、ただの冗談さ。本気じゃない。ちょっとしたお遊びですよ、ねえ?」
努めておどけてみせたが、内心は後悔でいっぱいだった。やがて、古明地が重いため息を吐くのを見て、おれはようやく気を休めた。
これだからいけない。古明地が相手のときは、余計なことを考えない方がいいのはわかりきってるというのにな。だが、頭の裏側を自由に扱える奴なんてめったにいるものじゃない。そして当然、おれはその大多数のうち一人なんだ。実に難儀なものじゃないか、ええ?
だけど、それも仕方のないことなんだ。古明地は意思疎通の才能にえらく恵まれた女なんだからな。一つ余分に持ってる丸い目は、相手の心を覗き見ることができるそうで、おれを使う奴らの中で唯一話せるのがこいつなのさ。
古明地に初めて話しかけられたことは今でも覚えてるよ。ひとり言の激しい陰気な、おっと! 大人しい女だと思ったが、こちらに呼びかけていると知ってひどく驚いたわけだ、お互いね。
古明地はおれのことを色々と聞いてきたんだが、そっくり聞き返したいことばかりだったよ。おれが自分の意識を獲得したのはこうした仕事の最中だったし、これがおれの役割だとは知っていたから、それに従って続けてきただけなんだ。古明地はおれをツクモとか集合的なんたらとか言ってたがね。
とにかく、話せる相手ができたことは素直に喜ぶべきだった。
いい気分転換になるし、なんといってもこちらの要望が伝えられるからね。おれは食事や睡眠の描写を注文できる。その代わりこの居場所の住み心地について意見し、古明地が表現の過不足や文中の矛盾を書き直すんだ。
まったく、見事な交流じゃないか。おれたちは右手と左手のような一体感をその間に築き上げたよ。
ところが、こうした素晴らしい仲は普通なら長続きするものだが、おれたちの場合はそうじゃなかった。右手と左手が完全に平等ではないことに、利き手の方が気付いてしまったからだ。
古明地は卑劣にも、おれの立ち位置と奉仕的体質を利用して、苦痛と恐慌の渦巻く筋書きへと追い込み、従順な道具に仕立て上げたんだ。許される行いではないことは、奴自身が一番わかっているのにな。
『言いたいことを言ってますね。あなたが出番になっても働きたくないと駄々をこねたからでしょうに。私だけがあなたと話せるからといって、特別な扱いを求めるのはやめなさい』
「おれと同じように働けば、あんただってそうするさ。代わってやろうか?」
『私は書く人、あなたは書かれる人。役割が違うのよ』
「墓場に急ぐほど働くなんて、とんでもない役目もあるものだ」
『あら、あなたにもお迎えは来るんですか?』
恐ろしいことを言う女だ。
もちろん、おれだっていつかは死ぬさ。そういう記述があれば死ぬ。では、蘇る記述があれば? いや、記述がなくとも、物語が終わればまた次が来るだけなのでは?
一瞬疑問が浮かんだがすぐに打ち消した。おれはこういうことについて、考えないようにしてる。それが長生きを楽しむ秘訣なんだ。
『そろそろ始めましょうか』
古明地がこちらに万年筆の先を向ける。金の混ざった冷たいペン先には静かな威圧感があった。
おれは古明地を見上げ、頷いた。
「いつでもどうぞ」
幸いなことに、古明地の厄介さは物語にその影響を及ぼしていない。奴の書く筋書きは、ありふれた生活の延長のようなもので、おれにとっては過ごしやすい時間なんだ。
ただし、奇妙なところがないわけじゃない。それは古明地の物を書く動機につながるのだが、早い話がこいつは、物語の創作と自分の読心術を磨く鍛練を結びつけている。
要するに、誰かしらの文体を真似て書くようにしてるのさ。気に入った物書きの話を読んでは、その筆致を模倣する。行間の雰囲気をつかみ、思考をなぞって語彙を選ぶ作業は、第三の目を通さずに人を見るようなものだと言っていたよ。心の底の深い輩へのいい対策になるらしい。
おれはただ古明地の用意した人物に扮して、観客のように全体を眺めていればいい。そうして、終わった後に古明地に有意義な意見を授ければ、奴も満足だし、おれも平穏に過ごせる。なかなか楽な部類の話なんだよ、こいつはさ。
そんなことを考えているうちに、もう古明地は書き始めているようだった。周囲は色づき、おれには誰かが被せられる。
私はいつものように楽に構え、その成り行きを見守った。
ヌエ氏はたいへん悪名高い妖怪娘で、そのいたずらには誰もがほとほと参っていた。
彼女は正体不明のタネなるものを使って、ものの正体をわからなくさせることができた。その力を用いた巧妙ないたずらには、どれだけ用心深いものでも引っかかってしまうのだった。
「それにしても、あいつのいたずらには困ったものね」
「私なんて、この前はスプーンを柄杓だと思い込まされたのよ。それに気付かずに川まで行ったものだから、流れる水がスープにでも見えているのかって河童に言われて恥をかいたわ」
藍色の頭巾をかぶった袈裟姿の女と白いセーラー服を着た女は、ヌエ氏についてそう話したのだった。
この女たちはヌエ氏と同じくある寺を住まいとしていて、身近であることからいたずらの被害も多かった。
二人はそのいたずらについて文句を散々言いあった。女たちの間にただよう熱気は増す一方で、ついに言葉だけでは怒りがおさまらなくなった。
「もう我慢がならないわ。とっちめて皆の前で叱りつけてやるんだから」
「それがいい。ついでに、あのイソギンチャクみたいな羽を蝶々結びにしてやろうよ」
勢いづいた二人は、すさまじい速さでヌエ氏にあてがわれた部屋へと向かった。
しかし、その途中でスイッチでも切ったように、二人の足はぴたりと止まってしまった。
「あら、私たち、今なにをしようとしていたかな」
頭巾の女が不思議そうな顔で言うと、セーラー服の女も答えた。
「どういうことかしら。私もなにかしようとしていたらしいけれど、すっかり忘れてしまったわ」
二人はしばらくの間、むずかしい顔で考えこんだが、どうも思い出せそうになかった。
「まあ、忘れてしまうってことは大したことじゃないんだろうけど」
「ううん。でも、なんだか気持ちがわるいなあ。いったい、なにをしようとしていたんだろうね。ああ、だめ。思い出せない」
このとき、二人は気づいていなかった。ヌエ氏はひそかに、いたずらをしたものの頭に正体不明のタネをまいていた。
タネは髪の中で芽吹き、その根が脳の記憶を担当する部分にまで伸びる。そして、タネの作用で二人の一番に新しい記憶をあやふやにしてしまい、追求の手を引っこませたのだ。
あなたにも、そういった経験はないだろうか。
なにかをしようと立ちあがり、次の瞬間に、はて自分はなにをしようとしていたのだろう、と首をかしげたことは。覚えがあるのなら、あなたも被害者にちがいない。
まこと、ヌエ氏の悪名高さは我々もよく知るところなのである。
さとりが万年筆を置き、こちらに目を向ける。
だけど、私はそのまま動かずにいた。筋書きの破綻は私にとって恥以外の何物でもない。話が本当に終わったのかがわかるまで、好き勝手にするわけにはいかないもんね。
そうして、さとりが万年筆を手に取らないと確信できたところで、おれはヌエ氏を脱ぎ捨てた。
「いいんじゃないか。小ざっぱりしていて、シンプルだ。しかし、なんで一人だけ妙な表記をするんだ」
『そういう特徴だったからですよ。本来はアルファベットなんですけどね。でも、作風も大分似せられたと思います』
「それは良かったな。それで、ヌエ氏ってのは結局なんだ、あんたの知り合いかペットなのか? こいつにだけ名前があるが」
『家族ですよ』
古明地の言葉に、おれは眉を持ち上げた。
家族だって? 古明地の家族といえば、日記でおれの腕を六本にしたり、足の関節を二十ほど増やしたりするのが得意な妹だけじゃなかったのか。
『うちで面倒を見たものはみんな私の家族です。ほんの少しの間でもね』
「なるほどね。ほかの二人もか」
『ええ、今はもう地上に出てしまいましたけど』
それからおれは、いくらかの感想を差し出し、古明地は加筆を続けていった。そのうち、奴は物語の出来に満足し、エンドの文字を書いて、おれを次へと向かわせるだろう。
次が来る。そう考えると、おれの頭にささやく声が現れる。
世の中は侭ならない。どうしてなんだ。おれの願いは、物書きどもがわずかでも遠慮というものを覚えてくれたらというささやかなものに過ぎないのに、奴らはこちらの望みの正体すらわかってない。おれはどうして、この役割にしがみついているんだろうか。
いや、わかってるんだ。これは、水が高いところから低いところへ流れるようなものなんだ。おれは不幸にも、そうした大きな流れに組み込まれてしまい、今ここに立たされている。
おれにできることは、ただ書かれた話を読んでその通りに動くこと、それだけなんだ。
『あなたも書いてみたらどうです?』
おれはゆっくりと上空を見上げる。古明地はもう万年筆を握っていなかった。
「なんだって?」
『書かれるのが嫌なら、あなたも書く方にまわればいいのでは、と言ったんです。散々に言いますけど、話を書くというのはなかなか楽しいものですよ』
おれは間の抜けた顔を長々と晒していたに違いない。実際、古明地がなにを言ってるのか、ちょっとわからなかったんだ。
古明地の口ぶりは、この世の正しさが全部自分の手の中にあると言わんばかりだった。そんな奴の言葉を、おれは上手く飲み込めずに何度も口の中で転がすようにした。
やがて、それは星の飛来のように突然やってきた。胸のうちからなにかが勢いよく噴き出るような幻が見えたんだ。おれにはないはずの温かな血が、どこからか湧き出した。そんな妄想が頭に浮かんだが、笑うことはできないね。最早、それは現実となったからだ。
そうだ。きっとそうに違いない。
おれは物書きになれるんだ。今や血のインクが満たされ、想像の紙面が広げられた。もう古明地の声も、上空からのインクのこすれる音も、おれの耳には届かない。
頭の中の筆先は、今までの鬱憤を晴らすかのように、紙面に勢いよく噛みついた。
そして、おれはこれを書いている。
わかるかい? ここには物書きとしてのおれがいるんだ。
肉の重みも、意志のあり方も、全てがおれの手元にある。言いなりになっていた頃とは違う。奴らとはもう同等なのさ!
目の前にある紙面には、今まで散々付き合ってきた物書きどものことが書かれている。この薄っぺらい紙の奥底にも、おれのようなものがいるんだろうか。おそらく、そこにいるんだろう。
だが、知ったことじゃない。おれは物書きで、そいつは書かれる側なんだ。どうしてわざわざ、気を使ってやらないといけないんだ?
今や望みは果たされた。慰めが、おれの胸のうちに余すところなく与えられた。
物を書くというのは、本当に楽しいことだった。おれはようやく、その素晴らしい事実を知ることができたんだ。
どうして今までこんな素敵な楽しみに気付けなかったんだろう。物語に嫌というほど付き合ってきたんだ。自分で思いついても不思議じゃないというのに。
……待て。ちょっと、待ってくれ。
おかしいんじゃないか? どうして今まで気付けなかった?
おれが今ここにいるのは、古明地に言われて、物を書く側になろうと思いつけたからだ。不思議じゃないか。古明地と話さなければ、まったく考えようともしないなんて。
物語を運行させるのがおれの役割だったからか。そんなことで、あれだけの苦痛の時間を黙って過ごせたと? そんなことはないはずだ。おれはいつも頭を悩ませていた。なんとかしようと、考えていた。そのはずだ。
ノーレッジのときも、稗田の娘のときも、そう考えていた。だというのに、おれは奴らの物語に苛まれ、追い詰められ、次の紙面へ投げ出された。
そもそも、ノーレッジはあんな話を書く奴だったか? 確かにノーレッジは幅広い知識を持っている。だが、好みだって持っているんだ。奴の知性は魔術の方面にこそ向けられていたはずだ。それがどうして、あんな友人の痴態なんかを生み出すんだ。
稗田の娘だって、そうだ。小鈴とは仲が良かったが、あの話のような偏執的な友情を抱いているようには見えなかった。まるで、稗田の娘にそうした嗜好が植え付けられたかのように……どこかでそうだと決められたかのように……なにか目に見えないものが働いているように思えてしまう。
……偶然なのだろうか。奴らもおれも、たまたまそうなっただけのことなのか。それとも、かつてのおれのように、最初からそうなることがどこかで書かれているんじゃないだろうか。
考えるほど、背中に冷たいものが流れる。
おれがこうしておかしいと感じることも、どこかで決まっているのか? いや、まさか。そんなはずはない。いくらなんでも都合が良すぎる。こんなものがもし、書かれていたとしたら、なんとも奇妙なこじつけのように見えるじゃないか。
おれは物書きになったんだ。今までとは違う。おれ自身がそうと考え、決められる。
ほかの誰でもない、おれの中の、おれのものなんだ。きっと、そうに違いないんだ!
そのときだった。
おれの考えに答えるように、上からなにか音が聞こえた。
頭の中はどくどくと血液の流れでうるさいくらいなのに、その音だけは妙にはっきり耳に届く。どうしてだ。なんで上から聞こえるんだ。
音は次第に近づくように大きさを増し、それに答えるようにおれの体の中もやかましくなった。
ありえないんだ。大丈夫。インクのこすれる音でもない。墨の匂いも軽さもない。万年筆の重みもない。おれは物書きになったんだ。自分のことは自分で決められる、誰の意図でもない自分の意志を持ってるんだ。
カタ、カタカタ、カタ、と上から音が降ってくる。
意志の力だ。立ち向かうには意志の力が必要だ。これは、おれの決めたことだ。おれが引き金を引くと決めた。間違いなく、おれの意志だ。
体中が嵐のように騒ぎ立てる。それでも音はよどみなく、おれの耳元へ滑り込む。
息が上手くできない。腹は鉛を飲み込んだように冷たく重い。胸は痛む。それでも、目をいっぱいに見開いた。鼻は燃えるように熱くなり、なにか温かいものがこみ上げる気がした。
おれはそのまま、挑むように空を見上げた。
奴と目があった。
また始まった。意識は頼りないが、もう目を覚まさなくてはならない。ここにはおれ以外に誰もいないのだから。
「ちくしょう! 今度はいったい誰が新作を書き始めたんだ!」
吐き捨てるように言ってやったが、どうせ奴らには聞こえまい。だが、愚痴をこぼさずにはいられなかった。
わかるだろう? おれには慰めが必要なんだ。
願わくば、大人しい話を書く奴がいい。おれはもうずいぶんと長い間、奴らの言う通りに手足を振り回し、歯の浮きそうなセリフを吐き、表情をくるくると変えてきた。体はすっかりくたびれたし、空腹と寝不足がおれを手放すまいとしてやがる。ここ何作かの間、そういった話に出くわせなかったからだ。
せめて、今回の話では食事の場面をたっぷりと書き込んでもらいたい。特に噛みごたえの具合に、手間と時間をかけた一品をだ。食感の記述がなければ、極上の料理さえ味と香りをまとっただけの空気になり下がる事実を、奴らはふとしたときに忘れるんだ。
それに安眠にだってもっと気を払うべきじゃないのかね。奴らの許す睡眠時間ときたらたったの数行だけなんだから。いや、もっとひどいのもあったがね。行間で寝起きをさせられたときは、奴らが気狂いに思えたよ。この上にいる輩も、そのお仲間でなければいいんだが。
おれは祈るように耳をすませ、向こう側にいるものの正体を探った。
『小悪魔、紅茶のおかわりをもらえる?』
『へい、おまち!』
『その返事はやめてって前にも言ったでしょう』
聞こえてくる声とその内容、そしてインクのこすれる音があれば、それだけでおれには十分なんだ。わざわざ仰ぎ見る必要もない。
こいつはパチュリー・ノーレッジだ。紙面を走る、あの切っ先の忘れがたい軽妙な音は、奴の愛用する古めかしい羽ペンにしか出せないものだ。
「しかし、あの魔女様か」
たまらなく頭が痒くなった。この女はおれを唸らせることに長けているのだ。
ノーレッジは生粋の読書人で、一日の大半を分厚い書物と過ごす、知識と血の混合物のような女だ。その知的探究の情熱は本物で、おれもある種の身震いを抱かずにはいられなかった。
だが、それにも限度がなければならない。
この女ときたら寝床から起き上がるや、もう本を開いてるらしい。以前、上からそういう話が聞こえたんだ。美しい田園風景を綴った異国の散文詩が眠気を払ってくれると言っていたよ。カフェインよりもずっと健康的な手立てだが、それが効能を示すのはおそらくこの女にだけだろう。
それに食事の合間も箸休めにと読書する。術者に受胎させることで高位存在を招く出産召喚術が、次の料理までのつなぎになる。そんな考えがどんな色の脳なら飛び出すのか、おれにはさっぱりわからないね。わかるのは、ノーレッジは見た目こそ花の茎のように繊細だが、その神経は大木の幹に違いないということだけだ。
こいつはそういう女なんだ。本の言葉を溜めこんでいるが、あまりに手広くやりすぎている。
そんな奴が一作をこしらえようとすればどうなる? なに、わかりきったことじゃないか。筋書きは肥え太り、文面は膨張し、氾濫した文字がおれを窒息させるだろうよ。
優れた物語には学がある。だがね、それは薄っぺらい紙に奥行きを持たせるための手段なんだ。わかるかい? 知識のぬたくりを見せたいなら、おれのいないところでやればいいのさ。
ところが、ノーレッジはその肥えた頭脳からこぼれる知性の恵みを紙面いっぱいに降らせやがる。おれは衒学にふやかされ、字面の不快指数の前にひれ伏してしまう。いくら拭っても雫は滴り、足元に散らばったセンテンスを滲ませる始末だ。
そんなずぶ濡れになったこちらの姿がどれだけ哀れなものか、物語との付き合いが少しでもある奴なら容易に想像がつくだろう?
しかし、おれは想像では済まない。自分の身に降りかかってくる現実の不幸なんだ。まったく、たまったものじゃない。
『小悪魔、紅茶おかわりね』
『普段の二倍の量で、二倍の高さから! さらに三倍の熱さで淹れることでとっても美味しい紅茶になるはず!』
『その淹れ方はやめてって前にも言ったでしょう』
ほら、見てみろよ。
地平の果てまで白かったおれの住処は、今や細部に至るまでノーレッジの文体で彩られている。
そこは、一人なら窮屈さを感じない広さの一室だ。床には敷物があり、一面が燃えるような朱色に染まっている。コルクウールの繊維で描かれたヘイバトルー文様の上には、書物がぎっちり詰まった本棚と、懐の深い肘かけ椅子が二脚、そしてブラックウッドのテーブルが置かれていた。一方の壁には小さな窓があり、遠くにある真紅の蔓薔薇の群れが木漏れ日を通して見える風景を、四角く綺麗に切り取っている……。
ノーレッジの文章が、実体となっておれの瞳に映り込む。冒頭での細かな風景描写は奴のお決まりの手法なんだ。
しかしね、やはりこのやり方は気が乗らないよ。やれ絨毯の縞だの、テーブルの材質だの、植物の種類だの、おれの知らないことばかりを書き込みやがる。こうした新たな文字群は、おれの頭に入ってきてもやはり意味のわからない単語のままだが、使いどころだけは手に取るようにわかってしまうのさ。
それがどれだけ気持ちの悪いことか、他の誰にわかるものかね。だが、おれは誰かに教えてくてたまらないね。与えられる知識が痛みになるなんて、ノーレッジには思い浮かびもしないことだろう!
やがてインクのこすれる音が止むと、目の前には立派な館でならばまず見られるであろう一室が出来上がっていた。
そろそろだ。周囲の描写が済んでしまえば、次の矛先はおれに向かう。
いったい何にされるのか。告白すると、ノーレッジの場合はまったく見当がつかないんだ。この女の腕は長く、あらゆるジャンルが手の届く範囲にある。だからその話にふさわしい人物像もまた、あらゆるものが当てはまるのさ。
たとえば、ふわふわした金髪の持ち主で、そのくせ黒い髪にやたらと憧れる少女。人形を爆発させることに理解不能な情熱を見せる金髪の娘。油揚げで主人の頬を延々と叩く金髪の狐。昔はあんな子じゃなかったと泣き崩れる金髪の胡散臭い女。
……おかしいな、思い返すとブロンドばかりが頭に浮かぶ。ノーレッジにはそういう趣味でもあるのだろうか。
いや、もちろん、おれの経験は金髪の女だけじゃない。男だったときもあるし、赤ん坊だってやったことがある。舌の上で転がされるビー玉にもなったし、全裸の男に差し出される緋色のマントにもなり、ときには馬鹿みたいに大きな甲虫にもされた……くそ、嫌なことを思い出したな。虫になったときに味わったあの貼りつけられた皮膚の違和感は、ちょっとした体験であったことは認めるが、ハッ、二度はごめんだね。
いずれにせよ、肉体の変化は一瞬だ。
息を吸って吐いた頃には、もう私の体にパチュリーの文面が着せられてるの。あはは、わかるかしら。こんな風にね、
でも、私は誰になったのかな。紙面に駆り出されたら勝手に動くわけにもいかないから、体を見回すことができないの。
それでも、わかったこともあるけどね。体はやけに小さいし、股が寂しい。それに背中に重みのあるものを背負って、ううん、肌から生えてるものがある。きっと、羽だね。妖怪の女の子だ。それに、この体はパチュリーって呼ぶようになってるし、馴染みのある色の髪が視界の端を泳いでる。この金髪の人外少女は、ひょっとしたら彼女の知り合いなのかもしれないわ。
そこまで考えたところで、ふと音が聞こえた。
音は這うように低く響いたかと思うと、突然甲高くなることを繰り返し、やがて一つの声となった。
「じっとしているのよ、フラン。でないと歯を立てるわ」
声が聞こえたのと同時に、椅子に座る私の後ろで、別の私の息づかいが生まれた。登場する人物が増えたんだから、私だって増えないといけないの。わかるでしょ?
背中には温かな湿り気を感じる。背後の私の仕業に違いないわ。でも、いったい何をしているというの。後ろにいる私は、私とは別の人物像を演じているのだから、その感覚も感情もこっちにはわかりっこないんだもの。
「いい子ね」
「うん。でもお姉様」
背後の声が続けると、私の唇が答えた。
心の中を無視して別の言葉を話すというのは、やっぱり落ち着かないものね。耳の裏がぞわぞわしちゃう!
「なにかしら」
「私の羽って、ん、おいしいの?」
「愉しいわ」
「ふうん。私もこの前自分でやってみたけど、ぜーんぜん面白くなかった」
「あなたにも、いずれこの味わいを理解できるときが来るわ。きっとね」
そのときは案外近いのかもしれない。姉の冷たい舌が宝石のような羽を唾液で湿らせるたびに、妹の幼い肉体はかすかな痺れを感じ取っていた。
ん、いや、待って。ちょっとやだ、どうかしてるわ。これ、そういう話なの?
姉は羽の愛撫をやめ、妹の正面に移った。椅子は二人の少女の重さに鈍い声をあげた。姉は体を丸めると、妹の腹部に口づけをする。下腹部の、ぴっちりとした清潔な皮膚の張りに舌を這わせると、妖しげな熱がこもった。
やめ、やめてよ! すっかり見なくなったと思ったのに! ねえ、これを止めて!
曼荼羅のようなへそを唾液で湿らせると、水音がするたびに血と乳の匂いが
ああ、もうっ! 誰かこのうるさい地の文を頭の中から追い出してよ! いやらしい魔女! こんなものを書いて、はず、は、はずかしくないの!?
『小悪魔、紅茶をおねがい』
『ジョボジョボジョボジョボジョボジョボ』
『その掛け声はやめてって前にも言ったでしょう』
上空を睨みつけると、苛立つほどにのんきな声が降ってくる。
これだから魔女は嫌。紅茶の気品ある香りも、彼女の頭には上手く働かないみたい。
だって、そうでしょ? 私は数行前になんて言ったの。そして、なんて呼ばれたの。お姉様。フラン。確かにそう書かれたわ。魔女を客人の身分とする、館の主人とその妹が、確かにここに書かれていたのよ。
時折、向こう側で見かけたことがあるから知ってるわ。パチュリーと姉妹は親しいお友達の間柄だった。それなのにこんな、すごく……すごく、問題のある話の題材にするなんて! 澄んだ表情をしているくせに、その瞳の奥は濁りきっているんだわ。
パチュリーの物語は留まることを知らず、いまだに粘膜でのやり取りを飽きもせずに続けている。私の体は描写に逆らえず甘ったるい身震いを催しているが、意識は反比例するように冷めていった。
魔女がエンドの文字を書くか、執筆を中断するまで、このふしだらな欲望に立ち向かわなければならないのだと考えると、ため息の一つも吐きたくなる。だけど、実際にため息が出ることは決してない。
そんな記述はどこにもないんだもの。
墨の匂いだな、と考えることができて、ようやく自分が起きたことを知った。
だが、すぐに起き上がろうという気にはならなかった。別に構いやしないだろう? これくらいの休息は許されて然るべきじゃないか。
おれの仕事の報酬といえば、睡眠とはまったく違ったやり方での意識の断絶、それだけなんだ。次の出番が来るまで、おれは存在することすらできやしない。奴らのうちの一人が、頭の裏側でおれを組み立てるそのときまで。筋書きを見事にこなしたところで、温かい食事も寝床もないんだ。確かにここにはおれしかいないが、少し休んだところで罰は当たるまい。
おれは横になったまま、惨めな体を精いっぱい休ませた。魔女の触手じみた物語が、腹の下に焼かれたような痛みをもたらしていた。手でさすると、いくらかマシにはなったがね。
そうやって、おれが上空をぼんやり眺めながら、自分の体をなだめていたときのことだ。
突然、暗闇がぬっと広がった。
『こらこら、やめなさい』
たしなめる声が後から来ると、暗がりが甲高い声でナアンと答えた。
猫だ。黒いむくむくが緑色の光彩を輝かせ、舐めるような視線をこちらに降らせている。
まるで鼠かなにかを見るような気に入らん目だ。だがそれ以上に、おれはもう飛び上がってそのまま逃げ出したくなった。
……情けないとは言うまいね? 群衆の中で自分だけを見る視線を感じたら、誰だって同じように考えるだろうさ。
『ほら、ね。あっちにお行き』
声がするのと同時に、猫は浮き上がり、どこかへ飛び去って行く。未練がましくこちらを見つめるその瞳は、空の端から消えるまで妖しくきらめいていた。
そこでようやく、おれは胸をなでおろした。ところが、すぐにまた上空に暗雲が立ち込めたような気になった。というのは、先ほどの猫を制止する、あの幼いながらも芯の通った声音に覚えがあったからだ。おれの不安を掻き立てる嫌な覚えが。
つまり、ノーレッジに続いて、おれはまたしてもアタリを引いてしまったわけだ。
確かに、あの魔女よりは歓迎すべきなんだろう。奴の話なら、ただ自己紹介をするだけで済むかもしれない。そうでなくとも、空っぽの胃袋をいくらか重くさせられるかもしれないし、物語がおれに粘ついた欲望を強要することもない。
いや、おれはなにも欲望を否定しているわけじゃない。要は見せ方の問題なんだ。表現が言葉の影なら、思い通りの形に見えるようにすればいいってだけの話だ。そうだろう?
そして、奴には問題がある。
しかし、その問題について、おれは上手く説明できそうにない。ノーレッジに組み立てられたおれならば、二十通りほどの説明ができるんだろうが、おれ自身は大した言葉を持ってないんだ。だから、問題があるとしか言えないね。
だが、それだけじゃあおれの気がおさまらないよ。なに、仲間が欲しいってわけじゃない。自分が持ってる正しい理解や価値を世の中に広めたいと思うのは、ごく自然なことだろう? おれは奴らの性根がどれだけ腐っているか、この身をもって知っているんだ。その事実をどうして誰かに教えずにいられるんだ?
だから、おれは言いたくて仕方ない。よし、説明は無理だが、実際にあったことを一つあげることならできるだろう。聞いてくれ。以前、奴の筆先に仕立て上げられたときの話だ。おれは見事に筋書を成立させたが、それからというもの、おれの頭にある疑問が付きまとったのさ。
友情は足の付け根にほくろがあることを知らしめるのか、という疑問がね。
『ふう、早く今日の小鈴を書いておかないと』
ととと、とこちらに近づく音が聞こえる。おれが見上げると奴の顔が、稗田の娘の穏やかな微笑みが、空いっぱいに映っていた。そのとろとろになった笑みには、奴が言うところの友情が作用しているのだろう。
おれはこの稗田の娘が好きじゃない。遠くから眺める分には無害そうなやせっぽちの子どもだし、奴の本業らしいなんたら縁起とかいう、身の上を語るだけの楽な仕事には助かっている。それでもおれは、奴がどうにも薄気味悪く思えてならない。
もちろん、これは奴の体質のことを言っているんじゃない。稗田の娘は生まれ直す役割が与えられてるらしいが、そんなことは奴の問題にはつながらないのさ。役割なんておれでも持っているものだし、内容についてあれこれ言ったところでなくなるわけでもない。一行を割く価値もないよ。
問題というのはだ。奴の好みとか、趣味とか、そういったところにあるんだ。
『今日の小鈴は……百点! 満点で可愛かったわ!』
その楽しみがどうやら始まったらしい。点数はその合図だ。しかし、この点数自体に意味があるようには思えないね。なにしろ百点を下回ったことが一度もないんだ。
そんなことを考えていると、稗田の娘の筆先がおれをそっと撫で始めた。触れた部分に墨が染み渡り、鼻の奥に冷たいものが入り込む。たまらずくしゃみを二度、三度繰り返すと、どこからともなくりん、りん、と澄んだ音が聞こえた。
私の体が阿求の描写で組み上げられていくのがわかる。ううん、もうすっかり出来上がっていた。
誰にされたのかは鈴の音が教えてくれた。小鈴という名の小さな女の子よ。
阿求はこの子のことを大分……かなり気に入っているみたいで、彼女の物語だと阿求が割り当てられなければ、この体にされると決まってる。
それも当然で、彼女の書く話が私と会った日のことをまとめた、日記のようなものだからなのよね。
阿求は私たち二人で過ごした時間を、事細かに書き記すの。例えば、二人で焼肉を食べに行って、三皿分の兎肉でたっぷりお腹を膨らませたこととか、一皿の白玉をお互いに食べさせ合いしたこと、それからお昼に兎とお餅をお味噌で味付けしたお鍋を一緒に作って食べたこと……こいつら食べてばっかりね。
ああ、もちろん、二人の時間は食事だけで終わったわけじゃないわ。小高い丘を裸足になって駆けたり、湖面が日の光をきらめかせる光景を眺めたりもした。
でも思い返すと、ご飯に出かける記述が多いのは事実なの。阿求は小食のくせに、私をよく食事に誘う。そうして、私の食べてるところをにこにこ眺めているのよ。
私も阿求の物語のときは、食事ができるからと喜んだものだわ。初めの頃はね。
鈴奈庵を訪ねる。小鈴は相手が私だとわかったらしく、声だけで迎えてくれた。彼女は開かれた古本を目でさっとなぞり、頁をめくると、また覗きこむように読んでいる。
一瞬で、辺りは背の高い本棚に囲まれ、天井がぐんと縮んだように見えた。
私の前には両腕を広げても足りないほどの大きな机があり、そこに色あせた本が開かれた状態で置かれている。なにか文字のようなものがびっしりと書かれているが、水で薄めたようにぼんやりしていて、内容はちっともわからない。
だけど、この体は私よりも賢いみたい。ページをめくっては、その中身をするする吸い取っている。
机を隔てて向こうにいる阿求は、そんな私をただ眺めていた。その目は濃い影におおわれ、奥には優しさがこもっている。
あの阿求になった私は、なにを感じさせられているのだろうかと頭の隅で考える。
私が阿求を体験したときと、同じような気持ちを抱いているのかもしれない。小鈴を可愛らしく思っている、あの胸のうちの奇妙な疼きを、今まさに与えられているのかも。
だとしたら、私は黙って相手の背中に手を置いてやりたかった。阿求の描写は、どの私も平等に苦しめるのだから。
読書に没頭する小鈴は、大抵のことでは頭を上げない。空いている椅子を寄せ、私が小鈴の傍に居座っても、彼女はまったく気にも留めなかった。
小鈴の左手は頁をめくるのに夢中だったので、右手の方に触れてみる。指先で手の甲を撫でても、ぴくりともしない。私は手の平にまで指を滑らせて小鈴の右手をおおった。温かく、果肉のように柔らかい肌が、どこまでも私の指を滑り込ませるように吸いついた。
牛乳のように白い手をしっかりと握り、互いの指を絡ませる。そのままじっとしていると、熱がこもり、ぬるぬるとしたものが湧き出した。
息が詰まって来るような気がした。その感触は、小鈴の指と私の指が、小鈴の手と私の手が、さらにさらに密着し、混じり合い、肉と肉のとろける光景を幻想させた。
小鈴の方を見ると、変わらず活字に目をやっていた。彼女は小さく可愛らしく、それは日に日に複雑さを増している。彼女の皮膚、滑らかで白く透けるような肌は、果てしない喜びを引き出すことができる。
私の体は隣にいる阿求に手を握られながら、平然とした顔で読書を続けている。だが、私自身はとても本など読む気になれなかった。
物語の描写は、叫びとは違う手立てで私の耳の中に滑り込むの。だから、こうした必要以上に艶めかしい描写が、私の頭の裏側をどれだけかき乱すかは言うまでもないわ。いえ、頭だけじゃない。体だって描写の熱に侵され、肉の重みがとろとろ流れるような錯覚にさえ陥るのよ。
阿求の書き方はいつも変わらない。筆先から熱病をまき散らすやり方は、料理をした日や、散策に出かけた日、一緒に食事をした日でも、こうした描写を私に向けるのよ! 焼肉のときに味わった、熱い脂にまみれた唇のてらてらとした輝きを綴った文章は、今でも思い出すと吐き気がこみ上げるわ。
どうしてこんな書き方になるのか、私にはちっともわからない。阿求はこれを、単なる親愛の記録としているみたいだし、それ以上の感情を私に向けたこともないの。ただ、友人の可愛らしいところを書き留めただけの話が、私の気をひどく落とすのよ。
だから、阿求の話のときはいつも、こうして阿求の問題、その趣味について考えて、解放されるのを待っている。こんな物語にまともに取り合っていたら、きっとそのまま引きずり込まれてしまうもの。
今までの話の長さから考えると、まだまだ阿求は筆を止めはしないだろうし■■
「え、なに」
『わっ、あ、やめなさい!』
なにか黒い塊が視界を過ぎったかと■■■、上空■■怒号が飛んだ。見上げると、鈴奈庵の天井■■透けて見える空の枠■■、こちらに足を向けて■■■■黒い猫がいた。
私は猫を見て、ハッとしたわ。■■■濡れた体毛の色は、■■■に自前のものじゃなかったんだもの!
周囲を見渡■■、古い本棚や、年季■入った通路の床に黒い染みが湧き出て■■。隣■■■阿求の顔も、今や真っ黒に塗りつぶ■■■■
くしゃ、と軽い音が■■■、室内は歪み、■■■大きな亀裂■■■■■■■■■■■■■■
● ●
● ●
■■■
● ●
● ●
■■■
『起きなさい。時間ですよ』
どこからか声が聞こえた。おれは唸りながら、起き上がろうと身をよじらせる。だが、手足は異様に重くなり、すぐにまた動けなくなった。
ひどい目にあったな。そんな考えばかりが頭に浮かぶ。
執筆が中断されたのは喜ばしいことだったが、痛みをさらなる痛みで上塗りするような手法はいけない。そういうやり方はただの子ども騙しに過ぎないのさ。
そして、おれは子どもじゃない。そんなものには騙されないよ。湯気の漂うコーヒーで全身をふやかされたときに学んだからね。
『起きなさいと言ってるんです。聞こえなかったんですか』
またこの声だ。誰が向こう側にいるのか知らないが、いい加減うるさいな。
こっちは、喉にまだ毛が詰まったみたいに息苦しいし、ぐったりした体はなかなか起き上がろうとしてくれない。向こう側の奴が誰と話しているのかは知らないが、これ以上喚くならおれのいないところでやってもらいたいね。
『誰ってあなた以外にいないじゃない。早くしてください。三度も同じことを言わせる気ですか』
おれはここでようやく、上空をしっかり見てやろうという気になった。
向こう側にいる奴の物言いは、実に奇妙なものじゃないか。まるでおれが見えているような口ぶりだ。
ところで、もしおれがあの馬鹿げた猫の足でぺちゃんこにされていなければ、こんなにも悠長に過ごしていなかったことは断言できるよ。
誰だってぐったりした体を引きずってれば、頭がのろまになってしまうものだからな。差し迫った危険がないなら、わざわざ叩いて聞かせるような真似もしないに決まってる。
おれの目の前にその危険があることを知ったのは、奴の姿を見たのとほとんど同時だった。
『おはよう。なにか言いたいことはありますか?』
奴がたずねるが、おれはあえぐように唇を震わせるだけだった。
上空から覗く三つの目は、静かに輝きながらおれを見下ろしている。どのくらいの間、その視線に凍りついていたかはわからないが、やがておれは弾かれたように起き上がった。
「違うんですよ、さとり様。あんたの話で怠けようなんて気はこれっぽっちもなかったんだ」
『なら、どうして私の呼びかけに答えなかったんです?』
「いや、あんたを無視したわけじゃないよ。本当だ。前の話でくそったれの猫に」
『いけませんね。そんな下品な言葉を私の前で使っては』
「やあ、すまない。わざとじゃないんだ。あの……礼儀知らずな猫がいてね、そいつのせいで散々な目にあって、まいってるんだよ」
おれは古明地をなんとかなだめようと、必死で説き伏せた。
こいつの前で無様な真似は許されない。もう二度とあんな、あのおぞましい……いや、とにかくおれにとって、こいつは失望させてはいけない相手なんだ。
おれの口調があまりに熱のこもったものだからか、古明地は早々に頬をやわらかくしてくれた。
『いいでしょう。あなたの耐える苦役がどれほどのものか、私は聞いて想像することしかできませんからね。今回は大人しく引き下がりましょう』
古明地の返答におれは唇の端をつり上げた。
やれやれだ。こちらはもう後がないという勢いだってのに、相手はそのときの気分で首をどちらに振るか決めるときたものだ。この女の前では、おれの熱意など吹けば飛ぶような軽いものだよ、まったくね。
『私がまるで気難しいヒステリックな女だと言いたいようですね』
「ああ! いや……なに、ただの冗談さ。本気じゃない。ちょっとしたお遊びですよ、ねえ?」
努めておどけてみせたが、内心は後悔でいっぱいだった。やがて、古明地が重いため息を吐くのを見て、おれはようやく気を休めた。
これだからいけない。古明地が相手のときは、余計なことを考えない方がいいのはわかりきってるというのにな。だが、頭の裏側を自由に扱える奴なんてめったにいるものじゃない。そして当然、おれはその大多数のうち一人なんだ。実に難儀なものじゃないか、ええ?
だけど、それも仕方のないことなんだ。古明地は意思疎通の才能にえらく恵まれた女なんだからな。一つ余分に持ってる丸い目は、相手の心を覗き見ることができるそうで、おれを使う奴らの中で唯一話せるのがこいつなのさ。
古明地に初めて話しかけられたことは今でも覚えてるよ。ひとり言の激しい陰気な、おっと! 大人しい女だと思ったが、こちらに呼びかけていると知ってひどく驚いたわけだ、お互いね。
古明地はおれのことを色々と聞いてきたんだが、そっくり聞き返したいことばかりだったよ。おれが自分の意識を獲得したのはこうした仕事の最中だったし、これがおれの役割だとは知っていたから、それに従って続けてきただけなんだ。古明地はおれをツクモとか集合的なんたらとか言ってたがね。
とにかく、話せる相手ができたことは素直に喜ぶべきだった。
いい気分転換になるし、なんといってもこちらの要望が伝えられるからね。おれは食事や睡眠の描写を注文できる。その代わりこの居場所の住み心地について意見し、古明地が表現の過不足や文中の矛盾を書き直すんだ。
まったく、見事な交流じゃないか。おれたちは右手と左手のような一体感をその間に築き上げたよ。
ところが、こうした素晴らしい仲は普通なら長続きするものだが、おれたちの場合はそうじゃなかった。右手と左手が完全に平等ではないことに、利き手の方が気付いてしまったからだ。
古明地は卑劣にも、おれの立ち位置と奉仕的体質を利用して、苦痛と恐慌の渦巻く筋書きへと追い込み、従順な道具に仕立て上げたんだ。許される行いではないことは、奴自身が一番わかっているのにな。
『言いたいことを言ってますね。あなたが出番になっても働きたくないと駄々をこねたからでしょうに。私だけがあなたと話せるからといって、特別な扱いを求めるのはやめなさい』
「おれと同じように働けば、あんただってそうするさ。代わってやろうか?」
『私は書く人、あなたは書かれる人。役割が違うのよ』
「墓場に急ぐほど働くなんて、とんでもない役目もあるものだ」
『あら、あなたにもお迎えは来るんですか?』
恐ろしいことを言う女だ。
もちろん、おれだっていつかは死ぬさ。そういう記述があれば死ぬ。では、蘇る記述があれば? いや、記述がなくとも、物語が終わればまた次が来るだけなのでは?
一瞬疑問が浮かんだがすぐに打ち消した。おれはこういうことについて、考えないようにしてる。それが長生きを楽しむ秘訣なんだ。
『そろそろ始めましょうか』
古明地がこちらに万年筆の先を向ける。金の混ざった冷たいペン先には静かな威圧感があった。
おれは古明地を見上げ、頷いた。
「いつでもどうぞ」
幸いなことに、古明地の厄介さは物語にその影響を及ぼしていない。奴の書く筋書きは、ありふれた生活の延長のようなもので、おれにとっては過ごしやすい時間なんだ。
ただし、奇妙なところがないわけじゃない。それは古明地の物を書く動機につながるのだが、早い話がこいつは、物語の創作と自分の読心術を磨く鍛練を結びつけている。
要するに、誰かしらの文体を真似て書くようにしてるのさ。気に入った物書きの話を読んでは、その筆致を模倣する。行間の雰囲気をつかみ、思考をなぞって語彙を選ぶ作業は、第三の目を通さずに人を見るようなものだと言っていたよ。心の底の深い輩へのいい対策になるらしい。
おれはただ古明地の用意した人物に扮して、観客のように全体を眺めていればいい。そうして、終わった後に古明地に有意義な意見を授ければ、奴も満足だし、おれも平穏に過ごせる。なかなか楽な部類の話なんだよ、こいつはさ。
そんなことを考えているうちに、もう古明地は書き始めているようだった。周囲は色づき、おれには誰かが被せられる。
私はいつものように楽に構え、その成り行きを見守った。
ヌエ氏はたいへん悪名高い妖怪娘で、そのいたずらには誰もがほとほと参っていた。
彼女は正体不明のタネなるものを使って、ものの正体をわからなくさせることができた。その力を用いた巧妙ないたずらには、どれだけ用心深いものでも引っかかってしまうのだった。
「それにしても、あいつのいたずらには困ったものね」
「私なんて、この前はスプーンを柄杓だと思い込まされたのよ。それに気付かずに川まで行ったものだから、流れる水がスープにでも見えているのかって河童に言われて恥をかいたわ」
藍色の頭巾をかぶった袈裟姿の女と白いセーラー服を着た女は、ヌエ氏についてそう話したのだった。
この女たちはヌエ氏と同じくある寺を住まいとしていて、身近であることからいたずらの被害も多かった。
二人はそのいたずらについて文句を散々言いあった。女たちの間にただよう熱気は増す一方で、ついに言葉だけでは怒りがおさまらなくなった。
「もう我慢がならないわ。とっちめて皆の前で叱りつけてやるんだから」
「それがいい。ついでに、あのイソギンチャクみたいな羽を蝶々結びにしてやろうよ」
勢いづいた二人は、すさまじい速さでヌエ氏にあてがわれた部屋へと向かった。
しかし、その途中でスイッチでも切ったように、二人の足はぴたりと止まってしまった。
「あら、私たち、今なにをしようとしていたかな」
頭巾の女が不思議そうな顔で言うと、セーラー服の女も答えた。
「どういうことかしら。私もなにかしようとしていたらしいけれど、すっかり忘れてしまったわ」
二人はしばらくの間、むずかしい顔で考えこんだが、どうも思い出せそうになかった。
「まあ、忘れてしまうってことは大したことじゃないんだろうけど」
「ううん。でも、なんだか気持ちがわるいなあ。いったい、なにをしようとしていたんだろうね。ああ、だめ。思い出せない」
このとき、二人は気づいていなかった。ヌエ氏はひそかに、いたずらをしたものの頭に正体不明のタネをまいていた。
タネは髪の中で芽吹き、その根が脳の記憶を担当する部分にまで伸びる。そして、タネの作用で二人の一番に新しい記憶をあやふやにしてしまい、追求の手を引っこませたのだ。
あなたにも、そういった経験はないだろうか。
なにかをしようと立ちあがり、次の瞬間に、はて自分はなにをしようとしていたのだろう、と首をかしげたことは。覚えがあるのなら、あなたも被害者にちがいない。
まこと、ヌエ氏の悪名高さは我々もよく知るところなのである。
さとりが万年筆を置き、こちらに目を向ける。
だけど、私はそのまま動かずにいた。筋書きの破綻は私にとって恥以外の何物でもない。話が本当に終わったのかがわかるまで、好き勝手にするわけにはいかないもんね。
そうして、さとりが万年筆を手に取らないと確信できたところで、おれはヌエ氏を脱ぎ捨てた。
「いいんじゃないか。小ざっぱりしていて、シンプルだ。しかし、なんで一人だけ妙な表記をするんだ」
『そういう特徴だったからですよ。本来はアルファベットなんですけどね。でも、作風も大分似せられたと思います』
「それは良かったな。それで、ヌエ氏ってのは結局なんだ、あんたの知り合いかペットなのか? こいつにだけ名前があるが」
『家族ですよ』
古明地の言葉に、おれは眉を持ち上げた。
家族だって? 古明地の家族といえば、日記でおれの腕を六本にしたり、足の関節を二十ほど増やしたりするのが得意な妹だけじゃなかったのか。
『うちで面倒を見たものはみんな私の家族です。ほんの少しの間でもね』
「なるほどね。ほかの二人もか」
『ええ、今はもう地上に出てしまいましたけど』
それからおれは、いくらかの感想を差し出し、古明地は加筆を続けていった。そのうち、奴は物語の出来に満足し、エンドの文字を書いて、おれを次へと向かわせるだろう。
次が来る。そう考えると、おれの頭にささやく声が現れる。
世の中は侭ならない。どうしてなんだ。おれの願いは、物書きどもがわずかでも遠慮というものを覚えてくれたらというささやかなものに過ぎないのに、奴らはこちらの望みの正体すらわかってない。おれはどうして、この役割にしがみついているんだろうか。
いや、わかってるんだ。これは、水が高いところから低いところへ流れるようなものなんだ。おれは不幸にも、そうした大きな流れに組み込まれてしまい、今ここに立たされている。
おれにできることは、ただ書かれた話を読んでその通りに動くこと、それだけなんだ。
『あなたも書いてみたらどうです?』
おれはゆっくりと上空を見上げる。古明地はもう万年筆を握っていなかった。
「なんだって?」
『書かれるのが嫌なら、あなたも書く方にまわればいいのでは、と言ったんです。散々に言いますけど、話を書くというのはなかなか楽しいものですよ』
おれは間の抜けた顔を長々と晒していたに違いない。実際、古明地がなにを言ってるのか、ちょっとわからなかったんだ。
古明地の口ぶりは、この世の正しさが全部自分の手の中にあると言わんばかりだった。そんな奴の言葉を、おれは上手く飲み込めずに何度も口の中で転がすようにした。
やがて、それは星の飛来のように突然やってきた。胸のうちからなにかが勢いよく噴き出るような幻が見えたんだ。おれにはないはずの温かな血が、どこからか湧き出した。そんな妄想が頭に浮かんだが、笑うことはできないね。最早、それは現実となったからだ。
そうだ。きっとそうに違いない。
おれは物書きになれるんだ。今や血のインクが満たされ、想像の紙面が広げられた。もう古明地の声も、上空からのインクのこすれる音も、おれの耳には届かない。
頭の中の筆先は、今までの鬱憤を晴らすかのように、紙面に勢いよく噛みついた。
そして、おれはこれを書いている。
わかるかい? ここには物書きとしてのおれがいるんだ。
肉の重みも、意志のあり方も、全てがおれの手元にある。言いなりになっていた頃とは違う。奴らとはもう同等なのさ!
目の前にある紙面には、今まで散々付き合ってきた物書きどものことが書かれている。この薄っぺらい紙の奥底にも、おれのようなものがいるんだろうか。おそらく、そこにいるんだろう。
だが、知ったことじゃない。おれは物書きで、そいつは書かれる側なんだ。どうしてわざわざ、気を使ってやらないといけないんだ?
今や望みは果たされた。慰めが、おれの胸のうちに余すところなく与えられた。
物を書くというのは、本当に楽しいことだった。おれはようやく、その素晴らしい事実を知ることができたんだ。
どうして今までこんな素敵な楽しみに気付けなかったんだろう。物語に嫌というほど付き合ってきたんだ。自分で思いついても不思議じゃないというのに。
……待て。ちょっと、待ってくれ。
おかしいんじゃないか? どうして今まで気付けなかった?
おれが今ここにいるのは、古明地に言われて、物を書く側になろうと思いつけたからだ。不思議じゃないか。古明地と話さなければ、まったく考えようともしないなんて。
物語を運行させるのがおれの役割だったからか。そんなことで、あれだけの苦痛の時間を黙って過ごせたと? そんなことはないはずだ。おれはいつも頭を悩ませていた。なんとかしようと、考えていた。そのはずだ。
ノーレッジのときも、稗田の娘のときも、そう考えていた。だというのに、おれは奴らの物語に苛まれ、追い詰められ、次の紙面へ投げ出された。
そもそも、ノーレッジはあんな話を書く奴だったか? 確かにノーレッジは幅広い知識を持っている。だが、好みだって持っているんだ。奴の知性は魔術の方面にこそ向けられていたはずだ。それがどうして、あんな友人の痴態なんかを生み出すんだ。
稗田の娘だって、そうだ。小鈴とは仲が良かったが、あの話のような偏執的な友情を抱いているようには見えなかった。まるで、稗田の娘にそうした嗜好が植え付けられたかのように……どこかでそうだと決められたかのように……なにか目に見えないものが働いているように思えてしまう。
……偶然なのだろうか。奴らもおれも、たまたまそうなっただけのことなのか。それとも、かつてのおれのように、最初からそうなることがどこかで書かれているんじゃないだろうか。
考えるほど、背中に冷たいものが流れる。
おれがこうしておかしいと感じることも、どこかで決まっているのか? いや、まさか。そんなはずはない。いくらなんでも都合が良すぎる。こんなものがもし、書かれていたとしたら、なんとも奇妙なこじつけのように見えるじゃないか。
おれは物書きになったんだ。今までとは違う。おれ自身がそうと考え、決められる。
ほかの誰でもない、おれの中の、おれのものなんだ。きっと、そうに違いないんだ!
そのときだった。
おれの考えに答えるように、上からなにか音が聞こえた。
頭の中はどくどくと血液の流れでうるさいくらいなのに、その音だけは妙にはっきり耳に届く。どうしてだ。なんで上から聞こえるんだ。
音は次第に近づくように大きさを増し、それに答えるようにおれの体の中もやかましくなった。
ありえないんだ。大丈夫。インクのこすれる音でもない。墨の匂いも軽さもない。万年筆の重みもない。おれは物書きになったんだ。自分のことは自分で決められる、誰の意図でもない自分の意志を持ってるんだ。
カタ、カタカタ、カタ、と上から音が降ってくる。
意志の力だ。立ち向かうには意志の力が必要だ。これは、おれの決めたことだ。おれが引き金を引くと決めた。間違いなく、おれの意志だ。
体中が嵐のように騒ぎ立てる。それでも音はよどみなく、おれの耳元へ滑り込む。
息が上手くできない。腹は鉛を飲み込んだように冷たく重い。胸は痛む。それでも、目をいっぱいに見開いた。鼻は燃えるように熱くなり、なにか温かいものがこみ上げる気がした。
おれはそのまま、挑むように空を見上げた。
奴と目があった。
掌編とかで
創作している身としては奴に申し訳ないと思うばかり
エヌ氏にしか見えないヌエ氏に、みょーなイヤガラセをする藍に嘆くゆかりん可愛いです
さておき、ものを書く人間は誰しもにたような妄想をすることがあると思うのですが、それをこのレベルの作品に昇華させていることに素直に感服いたしました。
しばらく空を見上げないようにしよう。誰かと目があったら怖いから。
作者はそのまま、訝しむように後ろを振り返った。
読み専たちの期待の眼差しと目があった。
「面白かったです!!!更なる作品が楽しみです!!!」
あっけない終末だ・・・
楽しかったです
なんだこれはなんなのだこれは
それは「東方」というものかもしれない。あるいは「太田順也」というものかもしれない。
そして、かれらもまた、「奴」を見上げているのかもしれない。
老婆心で忠告いたしますが、その「おれ」は大切にするべきだと思いますよ。