「もふもふー、もふもふー!」
八雲藍は主を愛している。どんな時であれ、八雲紫という冷たく鋭利な幻想郷の管理者を畏れ、敬い、愛している。
例え主が何を思い何を考え何を為そうと、主の行う事は全て幻想郷を維持する為に必要なのである。例えそれが一見そうは見えなくとも、そう見えないのは己が深遠なる主の思考を汲み取る事が出来ていないだけであり、主を間違っていると断じる事は、畢竟己が愚かであると証明する事に他ならない。
つまり八雲紫の行動には全て意味がある。
だから、きっと今こうして、
「あー、もふもふ! やっぱり藍の尻尾は最高!」
八雲紫が尻尾に埋もれ、情けない声を上げているのにだって何か意味があるのだと、藍は紫の痴態について小一時間程考えているのだが、未だに動機の欠片も見いだせていなかった。
「もふもふー、もふもふー!」
「紫様」
もう限界だ。
どう考えても、主の行動が理解出来無い。
数百年という長い付き合いであるにも関わらず、主の事を理解出来ていない事は本当に悲しく、答えを主に聞いてしまう事は敗北以外の何物でも無かったが、これ以上考えても答えを出せない事は目に見えていた。
「何? 藍?」
「先程から、一体何をなさっているのでしょうか?」
きっとそれは愚者の考えでは及びもつかない事に違いない。今まで主がこうして尻尾の中に頭を突っ込んでもふもふと言っていた事等一度も無い。だからきっと、今幻想郷には未曾有の、そして非常に大変な自体に落ちいている事に相違無いのだ。もしかしたそれは、危機かもしれない。幻想郷滅亡クラスの危険が迫っていて、主は己の誇りを捨ててでも、その危険を一人孤独に解決しようとしているのかもしれない。
「分からない?」
「はい」
一体、主は何を。
それが如何にして幻想郷の維持に繋がっているのか。
一体このもふもふという行為にどんな深遠な意味があるのか。
「もふもふ祭り」
「そうですか」
そうか、もふもふ祭りか。
藍は頷いた。
頷く事しか出来なかった。
成程、道理で先程からもふもふもふもふ言い続けている訳である。
「ああ、ごめんなさい。訂正するわ」
「そうですか」
良かった。もふもふ祭りじゃ意味が分からなかった。何だ、もふもふ祭りって。
「藍の尻尾でもふもふ祭りね」
「そうですか」
そうか、私の尻尾で、か。成程、道理で先程から私の尻尾に埋もれていた訳である。
これで繋がった。
どうして私の尻尾に埋もれてもふもふ言っていたのか。
それは、私の尻尾で、もふもふ祭りをしていたからなんだ。
そうか、そういう事だったのかって。
「そんな訳あるか!」
藍が炬燵の卓の上を思いっきり叩いた。蜜柑の詰まった籠が宙に跳ねた。
「え?」
「え、じゃ、ありませんよ! なんですか、もふもふ祭りって!」
「違うわ。藍の尻尾でもふもふ祭り」
「だからそれは何なんですか!」
「藍の尻尾に突っ込んで、もふもふするの」
「何の為に!」
「気持ち良いから」
駄目だ。話が通じない。
「もふもふー、もふもふー!」
そしてまたもふもふ祭りに入ってしまった。
藍は自分の尻尾の中で主がぐねぐねと身を捩っているのを感じると、こそばゆい気持ちになった。お尻にまで達しそうな程、主が自分の尻尾に深く潜り込んでいるのがはっきりと感じられる。主がもふもふと言いながら体を動かす度に、それが尻尾を通って、お尻から頭へと痒みの様な心地良さが突き抜けていく。それが何か癖になりそうで、藍は恐ろしかった。
「紫様、この様なお戯れは止めて下さい」
紫が尻尾の中でぴたりと止まった。
「戯れ? 止めろ?」
紫の冷たい声音に、藍は本来の紫を思い出し、恐怖で頭から尻尾の先までぴんと緊張で伸びきった。
「いえ! ただ、私には、あなたの深慮が理解出来ずにいて」
主がそろりそろりと尻尾から抜け出すのを、藍は感じる。主の居た場所に冷たな空気が入り込み、寒寒しい思いが湧いてきた。
「どうやらあなたは随分と私が恐ろしい様ね、藍」
「それは、当然、貴方様を思う気持ちには十全に畏れが」
「こんなもふもふ言っているおばさんが恐ろしいの?」
それは今だけだ。
本当の紫様は、
「もっと恐ろしい?」
こうやって心を読む。
相手の全てを見透かし、その上で冷徹に物事を見据え、情も無く、躊躇も無く、誰がどんなに悲しみ苦しみ幻想郷にどんな混乱、悲哀が振りまかれようと、主はその場に最も適した対応を取り続ける。例えそれが反発を招こうと、例えそれが誰にも理解されずとも。
「本当の私とは何かしら? 先程もふもふ祭りを催していた私は本物では無い?」
話しぶりも、匂いも、姿も、何も、確かに主のものである。だがたった一つ、もふもふ祭りだけがどうしても普段の主とそぐわない。八雲藍から見た、八雲紫という存在は、もっと凛としていて、それを崩す事が無い。
「あなたは確かに本物の紫様です」
「ええ、その通り。正解よ」
「ですが、いつもと違う」
「いつもの私とはどの様な存在かしら?」
「もっと、静かで、鋭い」
「切れの良い刃物の様な?」
「そうです」
いつもの主と明らかに違う。だが一体どうして急に。前兆は無かった。今日も昨日も一昨日も何ら変わった事は起こっていない。今日という日が何か特別な日だという覚えもない。今日になったら突然。
「少し短絡ね、藍」
「と言うと?」
「もっと昔を思い出してみなさい」
昔?
昔。
思い出そうとするが、難しい。
何故ならこの幻想郷では六十年毎に記憶の忘却が行われ、昔を思い出す事が困難になるから。少なくとも今回の六十年の間でこんな情けない紫を見た事は無かった。紫はいつだって冷静で冷徹だった。
ならばその前はどうだと考える。
だが駄目だ。
「もふもふー、もふもふー!」
思い出すのは、大勢の妖怪を率い帝都へ侵攻した猛猛しい姿。雪景色の中で血化粧に彩られた凄惨な姿。そして幻想郷の主として収まる凛とした姿。藍の知る紫はこんな事しないし、こんな事言わない。
再び尻尾の中に入り込んできた主を感じる。それを我慢して、過去に思いを巡らせるが、どうしても合致する過去を引き出せない。
「六十年以上前の話ですか?」
「思い出したかしら?」
「いえ、ですが幻想郷は六十年毎に還る。だから私の記憶も六十年を境に殆ど残っていない。そう教えてくれたのは紫様でしょう?」
「そうね。そういう風に、八雲紫という妖怪が作ったの。だからあなたは覚えていないのね。私の事を」
「いえ、紫様の事は覚えていますけど。ただもふもふというのは」
「覚えていない?」
「はい、申し訳ありません」
「別に謝る必要は無いわ。そういう風に作ったのは私なのだもの」
「一体これに何の意味が?」
「息抜きよ」
「息抜き?」
「そう、偶には藍の尻尾に頭を突っ込みたい。そんな風に思う私は嫌かしら?」
何処か哀愁の篭った声だ。尻尾の中で蹲っているというのに。
「嫌かどうかと言われると」
嫌では無い。むしろ少し嬉しい様な、心地良い様な。
だが違和感がある。尻尾に入り込んでいる間の抜けた状況で、妙に真剣な事を言っているというのもそうだが、それ以上に、あの八雲紫が自分を、言うなれば必要としている状況に、違和感がある。
八雲紫は孤高であるべきだと、思う。
だから藍は、紫が本当の意味で自分を必要としている等あり得る筈が無いと信じている。
「ねえ、藍。こっちを見て」
藍が振り返ると、紫が尻尾の間から顔だけを出して、微笑みを浮かべていた。
「私は、八雲紫に見えるかしら」
「見えます」
見える。
そこに居るのは八雲紫だ。
八雲紫の顔をして、八雲紫の声をして、何処からどう見ても八雲紫の筈だった。
だが何かがおかしい。
紫は藍の葛藤を見透かした様に微笑むと、尻尾の中から這い出てきた。
「もふもふ祭りはお終い」
「紫様」
「少し出掛けてくるわ」
何かその姿が寂しそうに見えて、藍は自分がいけない事をしてしまった様な罪悪感に襲われた。
「申し訳ありません」
「何を謝っているの?」
「分かりません」
分からない。
何が何だか。
「分からないのなら謝らなくて良いのよ」
「はい、ですが」
「それに泣かなくたって良いの」
「ですが、紫様」
藍は涙を拭い、紫に追いすがろうとした。
「藍、夕飯はとびっきり豪華にね」
だが藍が捉える前に、紫は隙間の中へその姿を消した。
山の中腹の何の変哲も無い茂みにやって来た。紫は苔生した岩に腰を下ろし、森の中を見渡した。その鬱蒼と木木が林立する様子はまるで財宝を守るかの様で、何物も寄せ付けようとしていない。事実、長い間、人や妖怪どころか、小動物の一匹もこの森を通った事が無い。この森には植物だけが蔓延っている。だが植物の楽園かというと、そうでもない。紫が近くの垂れ下がった葉を撫でる。弾力のまるで無いその葉は既に死んでいた。一見青青としたその葉は、見かけこそ生気を迸らせているが、実のところ、既に生き物としての生を終えている。周りにある木木は皆そうだ。全ての植物が山の豊かさを模造する為だけに存在させられている。この森は見た目こそ精彩に飛んでいるが、最早成長する事も、枯れる事も無い。
辺りに耳を澄ませても、誰の声も聞こえない。人も妖怪も動物も虫も、そして妖精すらも。自然豊かな場所には必ず妖精達が居る筈なのに、何者の声も姿も見当たらない。風が吹く事も無い。雨が降る事も無い。木木の切れ目から見える空には底抜けの青空が広がっている。そこには不自然な程、雲一つ漂っていない。
何も無い。
紫の知るこの場所には、風祝の巫女が治める神社があった。だがその姿も見当たらない。
「えーっと、あれは」
早苗は思わず固まった。
境内に変なものが紛れ込んでいる。
道を挟んで一方には妖怪の子供達が固まっている。十人程か。お互いがお互いを守り合う様にして寄り添い合い、警戒心を露わにしている。もう一方には妖怪がただの一人で立っている。扇子で口元を隠し笑っている。
八雲紫だ。
子供達の睨む様な視線の先にあのスキマ妖怪が居るという状況から只事で無い事は一目瞭然だ。
子供達の一団から一人が進み出た。目に涙を浮かべているのは紅魔館のフランドール・スカーレット。思わぬ存在に早苗は目を見張る。
「良くも! 良くも家族を殺したな!」
ころ、殺された?
あまりの事に、早苗は言葉を失った。フランの家族といえば、姉のレミリアしか居ない。それを八雲紫が殺したというのか。
フランの後ろには天狗や鬼の子供、それに秦こころや古明地こいしも居る。それ等の妖怪達も声を揃えていった。
「私達の家族まで!」
嘘。
早苗を口元を押さえて目を眩ませた。
八雲紫が妖怪達を殺し回っている?
天狗や鬼にまで手を出したとなれば、幻想郷を巻き込んだ戦争になる。
あまりの大事態にに早苗は思考がついていかない。
茫然自失している早苗の視界の中で、子供達は口口に、馬鹿だとか、阿呆だとか、八雲紫を罵っている。だが罵られている八雲紫はあくまで悠然と、子供達を見つめて微笑んでいる。そこには、子供達の家族を殺した事への罪悪感なんて感じられない。まるで妖怪を殺すのなんて、それが当然自然の理だとでも言うみたいに、平静とした状態で立っている。
その無感情な八雲紫の姿を見て、ぞくりと早苗は背に緊張を走らせた。他者を殺しても、家族を失い涙を零し罵る子供達を前にしても、憐憫も同情も不快も殺意も、何ら心を動かしていない。理解の範疇から外れた不気味さ。まるで心なんてないかの様に、純粋な冷酷さを備えた化け物だ。
子供達は必死で気勢を上げ、化け物に立ち向かおうとしている。だが対する化け物は怨嗟に曝されようと何ら憚る事無く佇んでいる。一触即発。そして一度事が起これば、幾ら天狗や鬼が居るとはいえ、あの八雲紫は一方的に嬲り殺してしまうだろう。
それでも子供達は立ち向かおうとしている。
子供と化け物。
それを見ている自分。
どうするべきか。
足を震わせ、喉を乾かせ、今にも逃げ出したいと思っている自分はどうするべきか。
決まっている。
怖い。
恐怖で体が萎みそうになる。
だがそれを理由に子供達を見捨てる事なんて出来無い。
「待ちなさい!」
飛び出した早苗は躓きながら御幣を振り上げ子供達の下へと駆けた。
「事情は分かりませんが、これ以上の横暴は許しません!」
そう言って、紫から子供達を守ろうとしたが、紫と目が合った瞬間、足が竦んですっ転んだ。地面に突いた手が恐怖で震えていた。心の底から恐怖で縛られてしまった。紫の表情は微笑んでいて、敵意なんて感じられなかったのに。けれど目が合った瞬間理解した。歯向かえば殺される。何の抵抗も出来ずに殺される。
一瞬、恐怖で思考が吹き飛んだ。
体中が諦めで力を抜こうとしている。
だがそれでも早苗は必死で立ち上がる。子供達に手を差し伸べられるのは、今この場に自分しか居ないから。
だがそんな早苗の健気さを、紫のとどめの一言がぶち壊した。
「はっはっは、ここにも勇者の仲間が居たとはな!」
紫の高笑いにまた体が竦む。
足が固まり動けなくなる。
怖かった。
怖くて怖くて堪らなかった。
勇者の仲間として、はっきり紫と敵対してしまえば。
ん?
違和感で思考が停止した早苗を見た子供達が希望の声を上げる。
「予言の巫女様だ!」
予言の巫女?
早苗が子供達の方を向く。声を上げたこころと目が合いった。早苗が自分の顔を指さすと、こころが大きく頷いた。
私が、予言の巫女?
子供達が棒切れを掲げて、紫を指し示した。
「魔王スキマババア! これでこっちが有利だぞ! 今日こそ、お前を倒す!」
魔王スキマババアって。
魔王スキマババアは両手を思いっきり広げて高笑う。
「はっはっは、何度やっても同じ事よ! 貴様の父親と同じ目に合わせてくれる!」
「よくも父さんを! この剣は巫女様がくれた光の剣! スキマババアを倒す為に作られた剣だ!」
ですよね巫女と振られたので、早苗は「う、うん」と返す。すると勇者達は歓声を上げ、今にも飛び掛かろうと態勢を取った。それを紫が迎え撃つ。
「来い! 勇者よ!」
「うおお!」
諸手を広げた紫へ、子供達が突進する。手に持った棒切れが紫に当たると、紫は「やーらーれーたー」と言いながらあっさりもんどりうって倒れた。そこへ子供達が次次のしかかりはしゃいぎだす。
「参ったか、ババアめ!」
もう魔王もスキマもついていない。
「参った参った。私の負けだ」
すると子供達は勝利に喜び辺りを飛び跳ね出した。一人、紫の上で跳ねているのが居て、飛び跳ねる度に踏みつけられている紫が呻き声を上げている。早苗が慌てて止めると、「ごめん、無意識だった」と答え、他の皆と一緒に喜び勇んで森の奥へと消えていった。
すっかり子供達が消え、辺りが閑散とすると、足元から紫の声が聞こえた。
「ありがとう、助かったわ」
倒れた紫を見下ろし、どうしたら良いだろうと早苗は悩む。
起こしてあげた方が良いのか。でも自分から倒れた様なものだから手を貸すのは失礼かもしれない。相手はあの八雲紫、プライドだってあるだろうし。起き上がる素振りを見せないのは、倒れていたいのかもしれないし。いやそんな訳無いとは思うけれど。
何だかあの八雲紫が足元で倒れているのを見ると、今ここが現実なのかという馬鹿馬鹿しい疑問が湧いた。
「あの、何をしていたんですか?」
「魔王」
そう真顔で答えられても困る。
「何かあったんですか?」
「子供達と遊んでいたの」
「でも、紫さんが子供と遊ぶなんて」
失礼と思いつつそう言うと、紫は不思議そうな顔をする。
「あら、あなたと知り合いだった?」
「え? 何ですか急に」
もしかして忘れられていたのだろうか。
確かに二柱と比べれば陰が薄いのかもしれないが。
「いえ、ごめんなさい」
どっこいしょと言って紫は立ち上がり、守矢神社の境内を眺め回してから、綺麗な神社ねと言った。早苗はその言葉を聞いて、何だか恥ずかしくなった。毎日掃除をしているからそれなりに綺麗だという自負はある。だが今日はまだだ。まだ掃き掃除の一つもしていない。しかも子供達と紫が遊んでいたから石畳に砂が被っている。そんな隙を、幻想郷の管理者に見られてしまった事が、何だか畏れ多い事の様な気がした。
「神様は居ないの?」
悶悶としていた早苗は、そう問われて、慌てて顔を上げた。
「え? ああ、もしかして神奈子様と諏訪子様にご用事が? でしたら少し待って下さい。今、丁度地底に出かけていて」
あの二人に何の用事だろうと早苗は不安に思った。
八雲紫が出張ってきたという事は、大変な面倒事の可能性がある。
まさか幻想郷から出て行けと言われたり。
「別に用事がある訳では無いの。ただ気になったから」
どういう事だ?
早苗には訳が分からない。
何が気になったと言うのだろう。
「ちょっと天狗に会った帰り道は歩いてみようかなって思い立ったら、途中で神社なんてあったでしょ? もしかしたら博麗神社が移転したのかと思って」
「は、はあ」
さっぱり分からない。
新手のスキマギャグなのかもしれないが、早苗には理解不能だった。
「一応、博麗神社の方にも守矢神社の分社が建っていますけど、それがまずかったとか?」
「いえ、悪いとかじゃなくて。ごめんなさい、混乱させてしまっているわね。とにかく何でも無いの」
何だか歯切れが悪い。
紫の様子がおかしい。
子供と遊んだり、今もあまりに人当たりが良すぎる。早苗の知る紫は、丁寧な事はあれ、温和な事は無い。
「ねえ、あなたは、もしも幻想郷に居られなくなったらどうする?」
「は?」
唐突な問いに早苗は警戒する。
やっぱり何かの牽制か? 脅しているのか?
身を守る様に早苗が退くと、紫は慌てて手を横に振った。
「いえ、違うのよ。あなたをどうこうするって言う訳じゃなくて。それにしても、私怖がられ過ぎ」
何なんだろう、本当に。
疲れる。早く帰って欲しい。
早苗は次次と襲い来る疑問に疲れきって、なんだかやけになり、はっきりと言った。
「幻想郷に居られなくなったら、と言われても、同じです。外の世界に居られなくなって、幻想郷に来て、頑張って。幻想郷に居られなくなるのなら、また外の世界に出て、また頑張るだけです。厳しい事になるとは思いますが、諦めません」
「外の世界から? ああ。ねえ、あなたは外の世界の事をどう思っている?」
何だ。恋しいと言ったら追い出すのか。
「知りません。私は、とにかくここで頑張る事に精一杯ですから、他の事に気を取られている暇なんて無い」
早苗が喧嘩腰でそう言うと、紫は優しい笑顔になった。その笑みに蕩かされそうになった。警戒心が薄れる。必死で敵意を保とうと睨みつけるが、扇子を指で撫でるのを見ると、何だか艶かしく、眩暈を覚えた。
「そうよね。その場で頑張るしか無い。その通りだわ」
「さっきから何が言いたいんですか?」
「何でしょうね。今更時が何が出来る訳でもないでしょうに。そう、生きる事にどんな意味があるというのでしょう」
「生きる事に意味なんて」
「無いというのなら、どうして生きているのかしら」
「私は、私の周りに私を大切にしてくれる方達が居て、私と仲良くしてくれる人が居るから」
「ごめんなさい。私の話。あなた達が毎日を大切に生きている事は分かっていたわ。ずっと見ていたもの」
「はあ」
そして早苗と紫の会話が終わる。
早苗は最後の最後まで何も分からなかった。紫が近づいて来るので、なんだろうと思っていたら、突然抱き締められて、早苗の体が固また。「きっとあなたは幻想郷を素敵にしてくれるわ。お願いね」という声と共に耳に息を吹きかけられて早苗の体が跳ねた。硬直している早苗を放した紫は手を振りながら隙間を開き、「有意義だったわ。御機嫌よう」と言って消えた。早苗は何だか色色な感情に襲われてぼんやりと境内の掃除を開始したが、しばらくして神奈子と諏訪子が帰ってきたので、掃除を中断し、何故か呆然としている二柱を居間へ通し、お茶を淹れる為、台所に立った。
一つ息を吐いて、紫は自分の上ってきた階段を振り返った。泥と苔に塗れ、落ち葉が溜まり、植物に侵食されて、山の傾斜と見間違えてしまいそうだ。だが確かにそれは博麗神社に続く階段だった。もうその面影は殆ど残っていないけれど。
紫が前を向くと、道の向こうには崩れかかった博麗神社が立っていた。壁は剥がれ、穴が空き、辛うじて大まかな外形は保っているが一部が崩れ、屋根には樹の枝が突き出している。思わず息を呑み、そして驚きを振り払う為に頭を振る。もう何度も見た光景だ。これが初めてではない。だが慣れない。見る度に驚き、そして恐怖が胸の内に広がる。博麗神社は幻想郷を司る秩序の象徴だ。その博麗神社が崩れている。それが紫には何よりも恐ろしかった。
目の前の博麗神社が崩壊している恐怖は紫の心の底に染み付いている。少し前に天人が神社を崩した時も、その破壊自体は幻想郷に大した影響を与えず、すぐに復旧出来ると分かっていたのに、この神社の崩壊を思い出して、思わず犯人に対して常に無い怒りを見せてしまった。
紫は胸を押さえながら、草生した荒野を歩いて、博麗神社に近付いた。本堂まで続いている筈の道は無い。石畳は砂の下に埋もれ切っている。紫は踏みしめる度にいつもならある石畳の感触が無い事に違和感を覚えてしまう。博麗神社に近付いてみると、建物の痛み様が尚更目についた。手で触れれば崩れてしまいそうだ。戸の無くなった玄関から土間に足を踏み入れると、虫食いや風化で傷みきった内装があまりに酷い有り様で、見ていると胸が苦しくなった。鼻腔には砂の臭いばかりが漂ってきて神社の匂いがまるでしない。
ここに立っているのは博麗神社であって博麗神社ではない。博麗結界も無い。博麗の巫女も居ない。何も無い。
これを死んだと言わずして何と言おう。
「うげえ」
博麗神社の縁側に座り何か真剣に話し合っていた魔理沙とアリスに声を掛けたら、物凄く失礼な声を出されたので、紫は些か落ち込んだ。何もそんな邪険にしなくても良いではないか。会う度会う度、幻想郷の皆からこんな反応ばかり返されるので好い加減嫌になる。
「何よその態度」
「聞いてるわ。あなたがおかしくなったって」
「失礼ね。おかしくなんかなっていないわ」
紫が腰に手を当てて憤慨してみせると、魔理沙がおずおずと尋ねてきた。
「誰彼構わず抱き着いてるって聞いたんだけど、ありゃ嘘か?」
「単に愛を振りまいているだけよ」
「やっぱりじゃねえか!」
魔理沙とアリスが立ち上がり後ずさった。
紫が靴を脱いで縁側に上がると、魔理沙とアリスは悲鳴を上げて飛び退く。
「近寄るな、変態!」
「何よ、単なるスキンシップじゃない。愛と友好を深める為よ。あなた達だってよくしてるでしょ?」
「してな、してねーよ!」
「何で一瞬噛んだのよ」
「してないわ。例えしていたとしてもあなたのとは違うのよ」
「急にお前が抱きついてきたって、気持ち悪いだけだぜ」
「そ、じゃあいいわよ。後でやっぱり抱き締めて欲しいって言ったってしてあげないから」
「いや、言わないから」
警戒する魔理沙とアリスに背を向けて紫は寂しそうに裏庭を見つめた。
「あーあ、神綺ならちゃんと抱き締めさせてくれるのにな」
「誰だよ、それ!」
「誰って」
振り返った紫は言葉を切って、首を横に振った。
「じゃあ、魅魔は?」
「みま? 何が?」
「いえ、何でも無い。そうだったわね。そう言えば」
「何がだよ」
不審な態度をとる紫に、二人が警戒して更に距離を取る。紫はそれを見て、悲しげに笑った。
「そんなに嫌わなくても良いじゃない。私、何か酷い事した?」
「いや、そりゃあ、今回は抱き着いただけだし、酷い事はしてないけど」
「私頑張ったのよ。それが駄目だっただけ。それなのにどうして離れていってしまうの?」
何だか紫の声が湿り始めたので、魔理沙達は訳が分からないながらも罪悪感で狼狽える。
「だって、何か、いつもと違うからさ。別に嫌ってるって訳じゃ無いぜ」
「でも近付いたら逃げるんでしょ?」
「まあ」
「酷い!」
紫がおよよと顔を覆ったので、いよいよ心苦しくなった魔理沙達は仕方無く紫に近付いた。
「ほら、逃げないから」
「本当?」
「本当本当。だからあんまり落ち込むなよ」
「本当に逃げない?」
「逃げない」
紫が一歩近付く。
魔理沙達は体を震わせたが、立ち止まっている。
それを確認した紫は目を見開いた。
「隙あり!」
紫が両腕を広げて魔理沙とアリスに飛びかかる。
「くそ!」
魔理沙とアリスは為す術無く抱きつかれ、畳に倒れた。紫が二人を抱き締めて頬ずりをする。
「騙された!」
魔理沙とアリスは暴れたが、あまりにも強い力で引き剥がせない。諦めた魔理沙は力を抜いて溜息を吐いた。
「何かしんみりしてるから、落ち込んだのかと思ってたのに」
「心配してくれたの?」
紫が頬ずりをやめて、魔理沙の顔を覗き込む。
目が合った魔理沙は真面目な顔で答えた。
「当たり前だろ」
紫は嬉しそうに笑って、また頬ずりをし始める。
「ありがとう。でも大丈夫よ。それは勘違い。私が落ち込む訳無いじゃない」
紫がおかしそうに言うと、魔理沙は呆れて苦笑した。
「そうなら良いんだけどな」
襖が開いた。
三人が顔を上げると、霊夢が冷めた目をして立っていた。
「ああ、紫がおかしくなったって言うのは本当だったのね」
その瞬間、紫は体を跳ね上げて霊夢に跳びかかり、そのまま胸へ飛び込んだ。
「霊夢! 久しぶり!」
体当たりを食らった霊夢は、痛みに顔を顰めて畳に倒れながらも、紫の頭を叩き、更に後頭部に頭突きを食らわせた。変な声を出した紫から力が抜け、開放された霊夢は立ち上がって紫を足蹴にする。
「これは相当の異変ね。どんだけぶっ叩けば治るのかしら」
そう言って冷酷な目で御幣を構えた霊夢を、魔理沙が慌てて制止する。
「霊夢、死んじゃう、死んじゃう」
「いやでも異変だし」
「いやでも完全にのしてるから」
霊夢が足をどかすが、紫は倒れたまま動かない。
不安になって魔理沙とアリスで脇腹をつつくと、紫が身をくねらせた。
生きてたかと安堵した魔理沙だが、紫がまた息を殺して動かなくなったので、目を細める。もう一度、指で腹をつつくと、また紫が身を捻らせ、そしてまた動かなくなった。
「紫」
魔理沙が名前を呼んでも紫は起きようとしない。
魔理沙が細めた目をアリスへ向けると、アリスもまた呆れた顔で頷いた。
「霊夢さん、やっちゃって下さい」
途端に紫が目を開けた。
「失神してた。霊夢の所為で完全に失神してたわ」
「霊夢先生、この嘘吐きをやっちゃって下さい」
「失神してたわー。死ぬところだったわー」
目が泳いでいる。
霊夢は溜息を吐いて、手を差し伸べた。
「ほら、起きなさい」
「ありがとう」
紫は起き上がり伸びをした。外を見ると、もう夕暮れだ。日が沈む前に帰らないといけない。名残惜しく思っていると、霊夢に袖を引かれた。
「急におかしくなって。本当に何があったの?」
「心配してくれるの?」
「別にあんたを心配している訳じゃ無いわ。ただあんたがおかしくなると結界が危ないし」
「霊夢は本当に心配してたんだぜ。どうしたら良いか一緒に考えてって私とアリスが呼ばれたんだしな」
「馬鹿!」
魔理沙を怒鳴りつけた霊夢は慌てて、紫を睨んだ。
「違うから。魔理沙が嘘を言っているだけで」
「それで結局宴会でもすりゃ気も晴れるだろうって事で、幻想郷中に声掛けたんだ。日が沈んだらっつってあるから、もう少ししたらみんな集まってくるんじゃないか」
魔理沙がにやにやと笑いながら頭の後ろで手を組んだ。
紫は呆然として魔理沙達を見つめる。
「私の為に?」
「そうだぜ」
「違うわよ。宴会がしたかっただけ」
霊夢が顔を赤らめて目を逸らすと、魔理沙とアリスと紫は揃って口の端を吊り上げた。
「素直じゃないなぁ」
「うるさい!」
紫はくすくすとおかしそうに笑い、そして「心地良い。でも違うのよね」と呟きながら、霊夢達から一歩距離を取った。
「やっぱり素敵ね、幻想郷は」
「何を当たり前な事を」
「ええ、当たり前の事。でも最近忘れてしまう事がある」
「紫?」
「名残り惜しいけど、戻るわね」
「え? 宴会は?」
「またすぐに戻ってくるわ。藍も連れてこないといけないし」
「もうみんな集まるからあまり遅くならないでよ」
「ええ、分かったわ。すぐに戻ってくる」
紫は微笑みを残して、隙間に消えた。
三人は紫が消えた虚空を見つめていたが、やがて揃って外を見た。障子の開け放たれた向こうに夕暮れの空が見える。そこに黒い点がぽつりぽつりと見えた。それはどんどん多くなり、更に階段を上ってきた客達も見えた。しばらくすると話し声や笑い声が聞こえ始めたので、三人は急いで宴会の準備に取り掛かった。
紫は隙間をくぐり、紫の家に辿り着いた。紫の家だけは今まで見てきた幻想郷と違って、はっきりと生の様相を呈している。幾分の安堵を覚えて廊下を歩き、居間の襖を開いた。そこに先客を見つけて、普段は見せない柔らかな微笑みを浮かべた。
「お久しぶりです、お祖母様」
「どうだった、幻想郷は」
「以前見た通り、酷い荒れ様ですわ」
「まだ良い方よ。私の居る方はもっと酷い。うんざりする位にね」
「心しております」
先客は恭しく頭を下げる紫に憐憫の混じった苦笑を漏らした。
「まあとにかく座って。まだ時間があるから話を聞かせてよ。あなたの幻想郷の話」
「分かりました」
紫は炬燵に腰を降ろすと、この六十年の自分が覚えている限りの事を話し始めた。
「ただいま、藍」
「おかえりなさい、紫様」
出迎えた藍の頭に手を置き、紫は微笑みを浮かべる。
「出かける準備をして。博麗神社で宴会をやるから」
「え? そうなのですか? 急に?」
「おかしくなった私を励ます為ですって」
「ああ、それは素晴らし、いえ、紫様の徳の成せる事ですね」
じろりと紫の目に見つめられた藍は、失礼な事を言ってしまったと恥じ、身を縮こまらせる。だが紫の眦が下がり、笑みになる。
「そうね。その通り。だから、私はそれに応えなくちゃいけない」
「え? はい」
「藍、今日の晩御飯を宴会に供してくれないかしら」
「それは、構いません。はい、そう取り計らいます」
「ありがとう」
紫は藍の頭を撫でると、廊下の奥へ歩き出す。
「私は宴会に出る為におめかしをするから。藍も準備して、そして、そうね、三十分したら私に声を掛けて。博麗神社の宴会に行く時間だって」
「畏まりました」
紫の手が藍の頭から離れる。すれ違い奥へ進む紫を目で追って、藍が振り返る。紫の背が何だか寂しく遠く見えた。廊下の置くを進むと、何処か遠くに言ってしまってそのまま戻って来ない様な不安を覚えた。藍が声を掛けようか迷っていると、紫が突然立ち止まって、秋波の様な視線を送ってきた。
「藍、ごめんなさい」
謝られる覚えが無くて藍は戸惑う。
「夕飯の事。折角私の為にとびっきりを準備してくれたのに」
そんな事かと藍は首を横に振る。その程度、何て事は無い。
「紫様のお役に立てるのであれば」
そう答えたが紫の感謝の言葉は終わらなかった。振り返った紫がまるで慈母の様な笑みで近付いて来る。
「いつでも私の傍に居てくれて、いつだって私に力を貸してくれた。藍、あなたには本当に感謝してる。どれだけの時間、感謝しても感謝し切れない程に」
「紫様?」
「ずっと、本当にずっと、昔からあなたは私の傍に居てくれた。ずっとずっと。あなたが私の傍から離れるなんて考えられない位に。それがとても嬉しかった」
凄まじい言葉だった。今まで仕えてきて、ここまでの言葉を掛けられた事が無く、藍は感動のあまり涙が出そうになった。
「も、勿体無いお言葉です。が、当たり前の事です。私はあなたを」
「藍」
紫が間近まで迫ってきて、藍の言葉が切れた。首に腕を回せれて、抱き寄せられる。抱きしめられた藍は、言葉を発する事も出来無い位に緊張して、涙を零しながら目を瞑り、紫の腕の中で体を強ばらせ続けた。
「今日はね、幻想郷の皆を抱き締めてきたの」
それは橙からの報告で既に知っていた。その理由について藍は考え続けていたが、結局答えは分からなかった。
「何故ですか?」
「私が、幻想郷を愛していると知って欲しかったから。そしてもしかしたら、私を愛して欲しかったから」
「私はあなたを」
「藍」
また藍の言葉は紫に止められた。思いを告げる言葉を押し留められて、もどかしく、体が落ち着かなくなる。藍が体を揺すると、紫は藍を放し、背を向けて歩き出した。
「その言葉はまだ早い。宴会が終わった後に言ってくれると嬉しいわ」
「どうしてですか?」
「そうねぇ、私が私の幻想郷を愛している事が分かったから、かしら?」
藍はその言葉の意味を考える間に、紫は隙間の中に消えた。
紫が消えても尚、藍は紫の言葉の意味を考え続け、そしてはっと気が付いた。
もしや今日は紫様の誕生日なのでは?
誕生日は自分の好き勝手に振る舞って良い日だと聞いた事がある。
そう考えると、辻褄が合う。
紫様にとってそれが今日という日だったのだ。何かもふもふ言っていたのも、幻想郷中で抱き着き魔と化したのも、普段の重圧から開放された反動なのだ。あれは日頃のストレスを発散していたのだ。
そうに違いない。ああ、何と私は馬鹿だったのだ。
昔を思い出せと言った紫の言葉。私の事を忘れてしまったと言っていたのは、誕生日の事を忘れてしまっているという意味だったのだ。きっと六十年前までは誕生日を祝っていたのだ。それなのにそれを忘れて誕生日を祝わなくなっていた。
きっと悲しませてしまったに違いない。失望させてしまったに違いない。
もしかしたらずっと誕生日を祝って欲しかったのかもしれない。
何て、何て馬鹿な従者だったんだ、私は。
誕生日の事だけじゃない。ずっと自分なんて必要無いと思い続けていた。でも主は自分を必要としてくれていた。そんな事すら気がついていなかった。
だが幸いにも今、思い出せた。過去はやり直せる。
そうなると、宴会というのは丁度良い。皆で紫様の誕生日をお祝いするのだ。盛大に妙なる日を祝うのだ。きっと紫様も喜んでくれるに違いない。今までの事を忘れ、今日という日を素晴らしい日だと思ってくれるに違いない。
そうと決まれば、準備をしなければ。
藍は急いで、台所へと駈け出した。
確か材料はあった筈。作るのは宴会中で良いし。問題無い。そのケーキをもって、皆で紫様を祝うのだ。
はっきりと喜ぶ紫の姿が目に浮かんだ。
プレゼントは無いが、いや、また尻尾に潜ってもらうとかどうだろう。あんなに喜んでいたし。
ちょっと恥ずかしくなって顔を赤らめたが、敬愛する主の誕生日を祝うのに、そんな事で躊躇する藍ではない。
よーし、紫様に素敵な誕生日をプレゼントするぞ!
藍は飛び跳ねながら台所に向かう。
紫は自宅の居間に戻るなり、迷わず居間へ向かった。
「久しぶり。終わったわよ」
居間の襖を開けると先に来ていた紫が顔を上げる。
「お帰りなさい、お母様。たった今、御祖母様へのお土産話を話し終えたところですわ」
「そのお母様って言うのはやめて頂戴。あなたも私も同じ八雲紫でしょう?」
「ですが違う存在ですわ」
「堅苦しいわねぇ、私の癖に」
するともう一人の紫が、笑って言った。
「私の前の代もそうだったわ。きっとその私は先代と先先代、つまり私達を反面教師にしたのよ」
「どうしてそう思うの?」
「何故って、私達が行き来できるのは、自分の幻想郷に幻想入りしてきた幻想郷と、自分の幻想郷が幻想入りした幻想郷だけだから。私達が知る事の出来るのは、自分の先代と先先代、そして次代と次次代までだから。今こうして、あなたの幻想郷に幻想入りした私と、この幻想郷のあなた、そしてあなたの幻想郷が幻想入りしたそちらが出会えているみたいにね。つまり二代前までの自分を省みられる。私の前の代も言っていたわ。前二人が情けないからしっかりしなくちゃいけないと思って行動していたって」
「そうすると何? 私とあなたが駄目駄目だから、こっちの私はそれを反面教師に、こんな堅苦しい性格になっちゃったの?」
「一応言っておきますが、あなた達を見習った訳ではないですし、自分を堅苦しいと思ってはいませんわ。ただ幻想郷を長続きさせようと、必要な事をこなす為には、淡淡と決められた通りに事を為し、隙を見せてはならないと考えていただけです。そういう意味で、お母様とお祖母様は、言っちゃなんですが、隙がありすぎる」
紫に指摘された紫達は頬を膨らませてそっぽを向いた。
「まあ、否定はしませんけどね。結局自分の幻想郷を存続させる事が出来ずに幻想郷入りさせてしまった訳ですし」
「そんな可愛く拗ねられても気持ち悪いですわ」
涼しい笑顔で紫がそんな事を言うと、紫達は胸を押さえて呻きだした。
「うー、心が抉られるー」
「流石、幻想郷を完璧に管理する私だわ。言葉も完璧に容赦が無い」
紫は痛がる二人に対して呆れた溜息を吐き、それから顔を曇らせた。
「完璧、ではありませんわ。結局私がしているのは恐怖統治。六十年毎の忘却とあらゆる事件への介入で、現状を維持するのが精一杯。忘却も、時が戻る訳ではないから、少しずつ埃が積もる。いずれ、きっと、嫌気が差して、皆幻想郷から出て行ってしまうでしょう。現にこの間、決定的な反逆者が出て来てしまいました。幻想郷の永続どころか、あなた達が保たせた年月にも遠く及ばない。システムと恐怖だけでは治めきれない限界がある」
落ち込んだ紫を見て、紫は不思議そうに首を傾げる。
「そんな子、居たかしら? みんな素直な良い子だと思ったけど」
「ええ、おりました。鬼人正邪という者です。結局恐怖を与える事でしか彼女を鎮める事は出来なかった。それでは駄目だと気が付いていながら」
すると紫がぽんと手を打った。
「ああ、あの子ね。居た居た。でもそんな事無いわ。むしろあなたの事が大好きみたいよ。抱きしめたらね、ぶるぶる震え出して、こんな事されたって私は怖くないぞ、嬉しすぎるだけだって。よっぽど八雲紫に抱き締められたのが嬉しかったのね」
「ちゃっかり、私以上の恐怖を与えないで下さい」
紫が冷静につっこむと、紫は再度首を傾げた。
そんな二人のやり取りを眺めながら顔を綻ばせていた紫が、羨ましそうに炬燵の卓に額を当てて突っ伏した。
「良いわね。そっちの幻想郷も面白そうで」
それに紫が同調した。
「そうなのよ。みんな凄く良い子でね。私の事を愛しているのよ。羨ましいわ」
それを紫が否定した。
「そんな事、ありません。もし従順そうに見えていたとしても、それは私への恐怖で従っているだけですわ」
「そんな事無いと思うわよ。ま、私にこんな事を言っても信じないでしょうけど」
「私って頑固だものねぇ」
笑い合う二人を前に、紫は不機嫌そうな顔になった。
「ええ、信じません。信じませんとも」
「ちょっと嬉しい癖に」
「甘言は無駄ですわ」
「甘言て言っちゃった」
紫が言葉を詰まらせた。
それを笑いながら、紫は先程見てきた博麗神社の三人を思い出す。
「宴会に出れば分かるでしょう」
「宴会ですか?」
「そう。きっと嬉しすぎて失神しちゃうんじゃない? 私だったら失神するわ」
「意味が分かりませんが、ええ、では次の宴会を楽しみにしていましょう。いつあるのか分かりませんし、私がお呼ばれするかも分かりませんが」
「そう。なら期待していなさいな。幸せはあなたが思うよりもずっと近くにあるものよ」
不服そうにする紫を無視して、紫は体を反らし、天井を見上げた。
「羨ましいわ、本当に。とても素敵な幻想郷。思わずずっと居たいと思う位」
「なら、私と代わりますか。幻想郷にとっても、私より、甘甘なあなたの方が良いでしょう。私は己の過ちに気が付いていながら、それを正す事も出来無い頑固者ですから」
「そうねぇ、許されるのならそれも良いかなと思ったけど。でも、やっぱり私の幻想郷はここだけで、そして本当に愛せるのは私の良く知る幻想郷だけだわ。例えもう死んでしまっていたとしてもね」
だからねと、紫は紫を見つめる。
「早く帰ってあげなさい。あなたの好意のお陰で生命ある幻想郷を回れて、とても楽しい。でもあなたの幻想郷にお邪魔する度、私は罪悪感も覚えてしまう。私があなたの幻想郷へ行く度に、あなたが幻想郷で楽しく過ごす大切な時間を奪ってしまう事になるんだもの」
「たった半日ですわ。私の幻想郷が打ち捨てられ幻想入りするまでの時間に比べれば遥かに短い」
「でももしも、あなたの幻想郷が幻想入りしたその時、あなたは……いえ、あなたの幻想郷は優しさに満ちていて、きっと永久に続く幻想郷になると信じているわ。でも万が一、そうならなかったら。生きた幻想郷の温かさは、死に絶えた廃墟の冷たさに遠く及ばない。私がこの幻想郷の廃墟で過ごさなければならない時間の長さに比べれば、半日も、幻想郷の一生も大した差は無い。今はまだ分からないと思うけれど、いずれ分かる。幸せな半日は、永遠と一緒だという事に」
紫の忠告に、紫は体を強張らせる。
「だから早く帰りなさい。もうすぐ三十分経ってしまうから」
「三十分?」
「気にしないで。行けば分かる」
理解出来ないでいる紫だったが、頭を振り、隙間を生み出した。
「それでは答えを確認する事にします」
「ええ、きっとびっくりするわ」
「また面白い話を聞かせてね」
紫は頷くと、隙間の中に消えた。
隙間が閉じると、二人の紫は無言のまま炬燵に入り込んだ。
いつも以上に重たい静寂が立ち込めて、息苦しさが二人を取り巻いた。
やがて沈黙に耐えかねた紫が言った。
「これでまた、次の報告に焦がれる孤独な日日が始まるのね。毎日でも聞きたいけど、さっきあなたが言った通り、新しい私の時間を奪うのは忍びないわよね」
「孤独が嫌なら話し相手になるわ」
「自分と喋るっていうのもね。好い加減退屈よ。もう何万年話し合ってきたか」
「何億年じゃなかった?」
「かもね。数えるのも億劫よ」
「流石に億劫までは経っていないと思うけど」
紫は蜜柑を取って皮を剥き始めた。対する紫はじっとその手元を見つめる。
完全に蜜柑の皮を取り払い、筋まできっちり取ってから、紫は思い出した様に言った。
「億劫と言えば、最初の私が生まれてからその位の時間だわ」
「ええ、そうみたいね。果てしない時間だけど、いずれ来るものなのね」
「これはまだ生きた幻想郷に接点のあるあなたに伝えるべきか迷ったのだけれど」
「あら何?」
「遂に最初の私が死んだみたい」
紫が顔を上げ、二人の目が合った。
お互いに動じた様子は無い。
紫が蜜柑の実を口に運ぶ。
一方、紫は蜜柑に手を伸ばし、紫と同じ様に皮を剥き始めた。
「死因は?」
「分からない。ある日、突然幻想郷が無くなったんですって。幻想郷が無くなったっていう事は私も死んだという事。私が死んだのが先なのか幻想郷が無くなったのが先かは分からないけれど」
「本当かしら」
「さあね。果てしない伝言ゲームで伝わってきたのだもの。何処かで捻じ曲がった可能性はある」
「いずれ来るものとは分かっても何だか不思議な感じがするわ。私も死ねるのね」
「そうね」
蜜柑を食べ終えた紫は手を払って立ち上がった。
「ごちそうさま。そろそろ帰るわ」
「ええ、次もまた十年後?」
「そうね。そうしましょう。じゃあね」
紫が手を振りながら隙間を開けた。
隙間に入ろうとした紫を、紫が呼び止める。
「ねえ、あなた死のうとした事ある?」
振り返った紫は、柔らかに微笑んだ。
「私なら分かるでしょう? 思わない訳無いじゃない」
そうよねと頷いて、紫は俯いた。
「あなたは、生きている事が幸せだと思う? この死に絶えた幻想郷で孤独を味わい続けなければならない事を苦痛だと思わない?」
俯いた紫の発した問いに、紫が苦笑する。
「こうして死なずに生きている事が答えだわ」
「自分が消えたら、幻想郷が消えて、幻想入りしている先代の私達も消えてしまうから、責任感で死を躊躇っているだけじゃない?」
紫は首を横に振り、優しく諭す様に言った。
「あなたもさっきの私と同じ様に履き違えている。私は私よ。もしもあなたが死ぬのなら、その前に私達は皆死んでいる。だってあながたそれを選択したのなら、前の私達が選択しない筈が無いもの。もし、あなたの言う通り先代の私達が生きているにも関わらずあなたが死んだとしても、それは結局私一人が死んだだけ。何も気にする事なんて無いわ」
「そうよね。ごめんなさい、変な事を言って」
「いいえ。まだ生きている幻想郷を訪れたらそんな風に落ち込むものよ。私も同じ。そうだった。私はあなただもの」
「そうね。ええ、その通りだわ」
「じゃあね。辛い時は呼んで。話相手になるわ」
「ええ、ありがとう」
紫が手を振ると、紫も手を振って、隙間の中に消えた。
紫は紫が消えてもしばらく手を振っていた。
だがやがて力が抜けた様に手が垂れる。
意思の感じられない機械的な動きで炬燵にもぐり、蜜柑の籠を卓の端にどかす。
紫はしばらくじっと何も無い卓の上を見つめていたが、やがてゆっくりと手を振り上げ、炬燵の卓を思いきり叩いた。
蜜柑の籠が跳ねて炬燵から落ちる。
蜜柑が辺りに散らばる。
だが気にせずに、紫はまた卓を叩く。
何度も何度も。
顔を歪ませながら拳を叩きつける。
しばらくして手が止まる。
糸が切れた様に顔を伏せ、炬燵の上に突っ伏した。
嗚咽が漏れる。
張り裂ける様な悲鳴に変わる。
誰もその叫びを聞く事が無い。
幻想郷には誰も居ない。
だが紫の耳には遠く懐かしい沢山の笑い声が聞こえていた。
耳を塞いでも、責め苛む様に、その笑いが消える事はなかった。
八雲藍は主を愛している。どんな時であれ、八雲紫という冷たく鋭利な幻想郷の管理者を畏れ、敬い、愛している。
例え主が何を思い何を考え何を為そうと、主の行う事は全て幻想郷を維持する為に必要なのである。例えそれが一見そうは見えなくとも、そう見えないのは己が深遠なる主の思考を汲み取る事が出来ていないだけであり、主を間違っていると断じる事は、畢竟己が愚かであると証明する事に他ならない。
つまり八雲紫の行動には全て意味がある。
だから、きっと今こうして、
「あー、もふもふ! やっぱり藍の尻尾は最高!」
八雲紫が尻尾に埋もれ、情けない声を上げているのにだって何か意味があるのだと、藍は紫の痴態について小一時間程考えているのだが、未だに動機の欠片も見いだせていなかった。
「もふもふー、もふもふー!」
「紫様」
もう限界だ。
どう考えても、主の行動が理解出来無い。
数百年という長い付き合いであるにも関わらず、主の事を理解出来ていない事は本当に悲しく、答えを主に聞いてしまう事は敗北以外の何物でも無かったが、これ以上考えても答えを出せない事は目に見えていた。
「何? 藍?」
「先程から、一体何をなさっているのでしょうか?」
きっとそれは愚者の考えでは及びもつかない事に違いない。今まで主がこうして尻尾の中に頭を突っ込んでもふもふと言っていた事等一度も無い。だからきっと、今幻想郷には未曾有の、そして非常に大変な自体に落ちいている事に相違無いのだ。もしかしたそれは、危機かもしれない。幻想郷滅亡クラスの危険が迫っていて、主は己の誇りを捨ててでも、その危険を一人孤独に解決しようとしているのかもしれない。
「分からない?」
「はい」
一体、主は何を。
それが如何にして幻想郷の維持に繋がっているのか。
一体このもふもふという行為にどんな深遠な意味があるのか。
「もふもふ祭り」
「そうですか」
そうか、もふもふ祭りか。
藍は頷いた。
頷く事しか出来なかった。
成程、道理で先程からもふもふもふもふ言い続けている訳である。
「ああ、ごめんなさい。訂正するわ」
「そうですか」
良かった。もふもふ祭りじゃ意味が分からなかった。何だ、もふもふ祭りって。
「藍の尻尾でもふもふ祭りね」
「そうですか」
そうか、私の尻尾で、か。成程、道理で先程から私の尻尾に埋もれていた訳である。
これで繋がった。
どうして私の尻尾に埋もれてもふもふ言っていたのか。
それは、私の尻尾で、もふもふ祭りをしていたからなんだ。
そうか、そういう事だったのかって。
「そんな訳あるか!」
藍が炬燵の卓の上を思いっきり叩いた。蜜柑の詰まった籠が宙に跳ねた。
「え?」
「え、じゃ、ありませんよ! なんですか、もふもふ祭りって!」
「違うわ。藍の尻尾でもふもふ祭り」
「だからそれは何なんですか!」
「藍の尻尾に突っ込んで、もふもふするの」
「何の為に!」
「気持ち良いから」
駄目だ。話が通じない。
「もふもふー、もふもふー!」
そしてまたもふもふ祭りに入ってしまった。
藍は自分の尻尾の中で主がぐねぐねと身を捩っているのを感じると、こそばゆい気持ちになった。お尻にまで達しそうな程、主が自分の尻尾に深く潜り込んでいるのがはっきりと感じられる。主がもふもふと言いながら体を動かす度に、それが尻尾を通って、お尻から頭へと痒みの様な心地良さが突き抜けていく。それが何か癖になりそうで、藍は恐ろしかった。
「紫様、この様なお戯れは止めて下さい」
紫が尻尾の中でぴたりと止まった。
「戯れ? 止めろ?」
紫の冷たい声音に、藍は本来の紫を思い出し、恐怖で頭から尻尾の先までぴんと緊張で伸びきった。
「いえ! ただ、私には、あなたの深慮が理解出来ずにいて」
主がそろりそろりと尻尾から抜け出すのを、藍は感じる。主の居た場所に冷たな空気が入り込み、寒寒しい思いが湧いてきた。
「どうやらあなたは随分と私が恐ろしい様ね、藍」
「それは、当然、貴方様を思う気持ちには十全に畏れが」
「こんなもふもふ言っているおばさんが恐ろしいの?」
それは今だけだ。
本当の紫様は、
「もっと恐ろしい?」
こうやって心を読む。
相手の全てを見透かし、その上で冷徹に物事を見据え、情も無く、躊躇も無く、誰がどんなに悲しみ苦しみ幻想郷にどんな混乱、悲哀が振りまかれようと、主はその場に最も適した対応を取り続ける。例えそれが反発を招こうと、例えそれが誰にも理解されずとも。
「本当の私とは何かしら? 先程もふもふ祭りを催していた私は本物では無い?」
話しぶりも、匂いも、姿も、何も、確かに主のものである。だがたった一つ、もふもふ祭りだけがどうしても普段の主とそぐわない。八雲藍から見た、八雲紫という存在は、もっと凛としていて、それを崩す事が無い。
「あなたは確かに本物の紫様です」
「ええ、その通り。正解よ」
「ですが、いつもと違う」
「いつもの私とはどの様な存在かしら?」
「もっと、静かで、鋭い」
「切れの良い刃物の様な?」
「そうです」
いつもの主と明らかに違う。だが一体どうして急に。前兆は無かった。今日も昨日も一昨日も何ら変わった事は起こっていない。今日という日が何か特別な日だという覚えもない。今日になったら突然。
「少し短絡ね、藍」
「と言うと?」
「もっと昔を思い出してみなさい」
昔?
昔。
思い出そうとするが、難しい。
何故ならこの幻想郷では六十年毎に記憶の忘却が行われ、昔を思い出す事が困難になるから。少なくとも今回の六十年の間でこんな情けない紫を見た事は無かった。紫はいつだって冷静で冷徹だった。
ならばその前はどうだと考える。
だが駄目だ。
「もふもふー、もふもふー!」
思い出すのは、大勢の妖怪を率い帝都へ侵攻した猛猛しい姿。雪景色の中で血化粧に彩られた凄惨な姿。そして幻想郷の主として収まる凛とした姿。藍の知る紫はこんな事しないし、こんな事言わない。
再び尻尾の中に入り込んできた主を感じる。それを我慢して、過去に思いを巡らせるが、どうしても合致する過去を引き出せない。
「六十年以上前の話ですか?」
「思い出したかしら?」
「いえ、ですが幻想郷は六十年毎に還る。だから私の記憶も六十年を境に殆ど残っていない。そう教えてくれたのは紫様でしょう?」
「そうね。そういう風に、八雲紫という妖怪が作ったの。だからあなたは覚えていないのね。私の事を」
「いえ、紫様の事は覚えていますけど。ただもふもふというのは」
「覚えていない?」
「はい、申し訳ありません」
「別に謝る必要は無いわ。そういう風に作ったのは私なのだもの」
「一体これに何の意味が?」
「息抜きよ」
「息抜き?」
「そう、偶には藍の尻尾に頭を突っ込みたい。そんな風に思う私は嫌かしら?」
何処か哀愁の篭った声だ。尻尾の中で蹲っているというのに。
「嫌かどうかと言われると」
嫌では無い。むしろ少し嬉しい様な、心地良い様な。
だが違和感がある。尻尾に入り込んでいる間の抜けた状況で、妙に真剣な事を言っているというのもそうだが、それ以上に、あの八雲紫が自分を、言うなれば必要としている状況に、違和感がある。
八雲紫は孤高であるべきだと、思う。
だから藍は、紫が本当の意味で自分を必要としている等あり得る筈が無いと信じている。
「ねえ、藍。こっちを見て」
藍が振り返ると、紫が尻尾の間から顔だけを出して、微笑みを浮かべていた。
「私は、八雲紫に見えるかしら」
「見えます」
見える。
そこに居るのは八雲紫だ。
八雲紫の顔をして、八雲紫の声をして、何処からどう見ても八雲紫の筈だった。
だが何かがおかしい。
紫は藍の葛藤を見透かした様に微笑むと、尻尾の中から這い出てきた。
「もふもふ祭りはお終い」
「紫様」
「少し出掛けてくるわ」
何かその姿が寂しそうに見えて、藍は自分がいけない事をしてしまった様な罪悪感に襲われた。
「申し訳ありません」
「何を謝っているの?」
「分かりません」
分からない。
何が何だか。
「分からないのなら謝らなくて良いのよ」
「はい、ですが」
「それに泣かなくたって良いの」
「ですが、紫様」
藍は涙を拭い、紫に追いすがろうとした。
「藍、夕飯はとびっきり豪華にね」
だが藍が捉える前に、紫は隙間の中へその姿を消した。
山の中腹の何の変哲も無い茂みにやって来た。紫は苔生した岩に腰を下ろし、森の中を見渡した。その鬱蒼と木木が林立する様子はまるで財宝を守るかの様で、何物も寄せ付けようとしていない。事実、長い間、人や妖怪どころか、小動物の一匹もこの森を通った事が無い。この森には植物だけが蔓延っている。だが植物の楽園かというと、そうでもない。紫が近くの垂れ下がった葉を撫でる。弾力のまるで無いその葉は既に死んでいた。一見青青としたその葉は、見かけこそ生気を迸らせているが、実のところ、既に生き物としての生を終えている。周りにある木木は皆そうだ。全ての植物が山の豊かさを模造する為だけに存在させられている。この森は見た目こそ精彩に飛んでいるが、最早成長する事も、枯れる事も無い。
辺りに耳を澄ませても、誰の声も聞こえない。人も妖怪も動物も虫も、そして妖精すらも。自然豊かな場所には必ず妖精達が居る筈なのに、何者の声も姿も見当たらない。風が吹く事も無い。雨が降る事も無い。木木の切れ目から見える空には底抜けの青空が広がっている。そこには不自然な程、雲一つ漂っていない。
何も無い。
紫の知るこの場所には、風祝の巫女が治める神社があった。だがその姿も見当たらない。
「えーっと、あれは」
早苗は思わず固まった。
境内に変なものが紛れ込んでいる。
道を挟んで一方には妖怪の子供達が固まっている。十人程か。お互いがお互いを守り合う様にして寄り添い合い、警戒心を露わにしている。もう一方には妖怪がただの一人で立っている。扇子で口元を隠し笑っている。
八雲紫だ。
子供達の睨む様な視線の先にあのスキマ妖怪が居るという状況から只事で無い事は一目瞭然だ。
子供達の一団から一人が進み出た。目に涙を浮かべているのは紅魔館のフランドール・スカーレット。思わぬ存在に早苗は目を見張る。
「良くも! 良くも家族を殺したな!」
ころ、殺された?
あまりの事に、早苗は言葉を失った。フランの家族といえば、姉のレミリアしか居ない。それを八雲紫が殺したというのか。
フランの後ろには天狗や鬼の子供、それに秦こころや古明地こいしも居る。それ等の妖怪達も声を揃えていった。
「私達の家族まで!」
嘘。
早苗を口元を押さえて目を眩ませた。
八雲紫が妖怪達を殺し回っている?
天狗や鬼にまで手を出したとなれば、幻想郷を巻き込んだ戦争になる。
あまりの大事態にに早苗は思考がついていかない。
茫然自失している早苗の視界の中で、子供達は口口に、馬鹿だとか、阿呆だとか、八雲紫を罵っている。だが罵られている八雲紫はあくまで悠然と、子供達を見つめて微笑んでいる。そこには、子供達の家族を殺した事への罪悪感なんて感じられない。まるで妖怪を殺すのなんて、それが当然自然の理だとでも言うみたいに、平静とした状態で立っている。
その無感情な八雲紫の姿を見て、ぞくりと早苗は背に緊張を走らせた。他者を殺しても、家族を失い涙を零し罵る子供達を前にしても、憐憫も同情も不快も殺意も、何ら心を動かしていない。理解の範疇から外れた不気味さ。まるで心なんてないかの様に、純粋な冷酷さを備えた化け物だ。
子供達は必死で気勢を上げ、化け物に立ち向かおうとしている。だが対する化け物は怨嗟に曝されようと何ら憚る事無く佇んでいる。一触即発。そして一度事が起これば、幾ら天狗や鬼が居るとはいえ、あの八雲紫は一方的に嬲り殺してしまうだろう。
それでも子供達は立ち向かおうとしている。
子供と化け物。
それを見ている自分。
どうするべきか。
足を震わせ、喉を乾かせ、今にも逃げ出したいと思っている自分はどうするべきか。
決まっている。
怖い。
恐怖で体が萎みそうになる。
だがそれを理由に子供達を見捨てる事なんて出来無い。
「待ちなさい!」
飛び出した早苗は躓きながら御幣を振り上げ子供達の下へと駆けた。
「事情は分かりませんが、これ以上の横暴は許しません!」
そう言って、紫から子供達を守ろうとしたが、紫と目が合った瞬間、足が竦んですっ転んだ。地面に突いた手が恐怖で震えていた。心の底から恐怖で縛られてしまった。紫の表情は微笑んでいて、敵意なんて感じられなかったのに。けれど目が合った瞬間理解した。歯向かえば殺される。何の抵抗も出来ずに殺される。
一瞬、恐怖で思考が吹き飛んだ。
体中が諦めで力を抜こうとしている。
だがそれでも早苗は必死で立ち上がる。子供達に手を差し伸べられるのは、今この場に自分しか居ないから。
だがそんな早苗の健気さを、紫のとどめの一言がぶち壊した。
「はっはっは、ここにも勇者の仲間が居たとはな!」
紫の高笑いにまた体が竦む。
足が固まり動けなくなる。
怖かった。
怖くて怖くて堪らなかった。
勇者の仲間として、はっきり紫と敵対してしまえば。
ん?
違和感で思考が停止した早苗を見た子供達が希望の声を上げる。
「予言の巫女様だ!」
予言の巫女?
早苗が子供達の方を向く。声を上げたこころと目が合いった。早苗が自分の顔を指さすと、こころが大きく頷いた。
私が、予言の巫女?
子供達が棒切れを掲げて、紫を指し示した。
「魔王スキマババア! これでこっちが有利だぞ! 今日こそ、お前を倒す!」
魔王スキマババアって。
魔王スキマババアは両手を思いっきり広げて高笑う。
「はっはっは、何度やっても同じ事よ! 貴様の父親と同じ目に合わせてくれる!」
「よくも父さんを! この剣は巫女様がくれた光の剣! スキマババアを倒す為に作られた剣だ!」
ですよね巫女と振られたので、早苗は「う、うん」と返す。すると勇者達は歓声を上げ、今にも飛び掛かろうと態勢を取った。それを紫が迎え撃つ。
「来い! 勇者よ!」
「うおお!」
諸手を広げた紫へ、子供達が突進する。手に持った棒切れが紫に当たると、紫は「やーらーれーたー」と言いながらあっさりもんどりうって倒れた。そこへ子供達が次次のしかかりはしゃいぎだす。
「参ったか、ババアめ!」
もう魔王もスキマもついていない。
「参った参った。私の負けだ」
すると子供達は勝利に喜び辺りを飛び跳ね出した。一人、紫の上で跳ねているのが居て、飛び跳ねる度に踏みつけられている紫が呻き声を上げている。早苗が慌てて止めると、「ごめん、無意識だった」と答え、他の皆と一緒に喜び勇んで森の奥へと消えていった。
すっかり子供達が消え、辺りが閑散とすると、足元から紫の声が聞こえた。
「ありがとう、助かったわ」
倒れた紫を見下ろし、どうしたら良いだろうと早苗は悩む。
起こしてあげた方が良いのか。でも自分から倒れた様なものだから手を貸すのは失礼かもしれない。相手はあの八雲紫、プライドだってあるだろうし。起き上がる素振りを見せないのは、倒れていたいのかもしれないし。いやそんな訳無いとは思うけれど。
何だかあの八雲紫が足元で倒れているのを見ると、今ここが現実なのかという馬鹿馬鹿しい疑問が湧いた。
「あの、何をしていたんですか?」
「魔王」
そう真顔で答えられても困る。
「何かあったんですか?」
「子供達と遊んでいたの」
「でも、紫さんが子供と遊ぶなんて」
失礼と思いつつそう言うと、紫は不思議そうな顔をする。
「あら、あなたと知り合いだった?」
「え? 何ですか急に」
もしかして忘れられていたのだろうか。
確かに二柱と比べれば陰が薄いのかもしれないが。
「いえ、ごめんなさい」
どっこいしょと言って紫は立ち上がり、守矢神社の境内を眺め回してから、綺麗な神社ねと言った。早苗はその言葉を聞いて、何だか恥ずかしくなった。毎日掃除をしているからそれなりに綺麗だという自負はある。だが今日はまだだ。まだ掃き掃除の一つもしていない。しかも子供達と紫が遊んでいたから石畳に砂が被っている。そんな隙を、幻想郷の管理者に見られてしまった事が、何だか畏れ多い事の様な気がした。
「神様は居ないの?」
悶悶としていた早苗は、そう問われて、慌てて顔を上げた。
「え? ああ、もしかして神奈子様と諏訪子様にご用事が? でしたら少し待って下さい。今、丁度地底に出かけていて」
あの二人に何の用事だろうと早苗は不安に思った。
八雲紫が出張ってきたという事は、大変な面倒事の可能性がある。
まさか幻想郷から出て行けと言われたり。
「別に用事がある訳では無いの。ただ気になったから」
どういう事だ?
早苗には訳が分からない。
何が気になったと言うのだろう。
「ちょっと天狗に会った帰り道は歩いてみようかなって思い立ったら、途中で神社なんてあったでしょ? もしかしたら博麗神社が移転したのかと思って」
「は、はあ」
さっぱり分からない。
新手のスキマギャグなのかもしれないが、早苗には理解不能だった。
「一応、博麗神社の方にも守矢神社の分社が建っていますけど、それがまずかったとか?」
「いえ、悪いとかじゃなくて。ごめんなさい、混乱させてしまっているわね。とにかく何でも無いの」
何だか歯切れが悪い。
紫の様子がおかしい。
子供と遊んだり、今もあまりに人当たりが良すぎる。早苗の知る紫は、丁寧な事はあれ、温和な事は無い。
「ねえ、あなたは、もしも幻想郷に居られなくなったらどうする?」
「は?」
唐突な問いに早苗は警戒する。
やっぱり何かの牽制か? 脅しているのか?
身を守る様に早苗が退くと、紫は慌てて手を横に振った。
「いえ、違うのよ。あなたをどうこうするって言う訳じゃなくて。それにしても、私怖がられ過ぎ」
何なんだろう、本当に。
疲れる。早く帰って欲しい。
早苗は次次と襲い来る疑問に疲れきって、なんだかやけになり、はっきりと言った。
「幻想郷に居られなくなったら、と言われても、同じです。外の世界に居られなくなって、幻想郷に来て、頑張って。幻想郷に居られなくなるのなら、また外の世界に出て、また頑張るだけです。厳しい事になるとは思いますが、諦めません」
「外の世界から? ああ。ねえ、あなたは外の世界の事をどう思っている?」
何だ。恋しいと言ったら追い出すのか。
「知りません。私は、とにかくここで頑張る事に精一杯ですから、他の事に気を取られている暇なんて無い」
早苗が喧嘩腰でそう言うと、紫は優しい笑顔になった。その笑みに蕩かされそうになった。警戒心が薄れる。必死で敵意を保とうと睨みつけるが、扇子を指で撫でるのを見ると、何だか艶かしく、眩暈を覚えた。
「そうよね。その場で頑張るしか無い。その通りだわ」
「さっきから何が言いたいんですか?」
「何でしょうね。今更時が何が出来る訳でもないでしょうに。そう、生きる事にどんな意味があるというのでしょう」
「生きる事に意味なんて」
「無いというのなら、どうして生きているのかしら」
「私は、私の周りに私を大切にしてくれる方達が居て、私と仲良くしてくれる人が居るから」
「ごめんなさい。私の話。あなた達が毎日を大切に生きている事は分かっていたわ。ずっと見ていたもの」
「はあ」
そして早苗と紫の会話が終わる。
早苗は最後の最後まで何も分からなかった。紫が近づいて来るので、なんだろうと思っていたら、突然抱き締められて、早苗の体が固また。「きっとあなたは幻想郷を素敵にしてくれるわ。お願いね」という声と共に耳に息を吹きかけられて早苗の体が跳ねた。硬直している早苗を放した紫は手を振りながら隙間を開き、「有意義だったわ。御機嫌よう」と言って消えた。早苗は何だか色色な感情に襲われてぼんやりと境内の掃除を開始したが、しばらくして神奈子と諏訪子が帰ってきたので、掃除を中断し、何故か呆然としている二柱を居間へ通し、お茶を淹れる為、台所に立った。
一つ息を吐いて、紫は自分の上ってきた階段を振り返った。泥と苔に塗れ、落ち葉が溜まり、植物に侵食されて、山の傾斜と見間違えてしまいそうだ。だが確かにそれは博麗神社に続く階段だった。もうその面影は殆ど残っていないけれど。
紫が前を向くと、道の向こうには崩れかかった博麗神社が立っていた。壁は剥がれ、穴が空き、辛うじて大まかな外形は保っているが一部が崩れ、屋根には樹の枝が突き出している。思わず息を呑み、そして驚きを振り払う為に頭を振る。もう何度も見た光景だ。これが初めてではない。だが慣れない。見る度に驚き、そして恐怖が胸の内に広がる。博麗神社は幻想郷を司る秩序の象徴だ。その博麗神社が崩れている。それが紫には何よりも恐ろしかった。
目の前の博麗神社が崩壊している恐怖は紫の心の底に染み付いている。少し前に天人が神社を崩した時も、その破壊自体は幻想郷に大した影響を与えず、すぐに復旧出来ると分かっていたのに、この神社の崩壊を思い出して、思わず犯人に対して常に無い怒りを見せてしまった。
紫は胸を押さえながら、草生した荒野を歩いて、博麗神社に近付いた。本堂まで続いている筈の道は無い。石畳は砂の下に埋もれ切っている。紫は踏みしめる度にいつもならある石畳の感触が無い事に違和感を覚えてしまう。博麗神社に近付いてみると、建物の痛み様が尚更目についた。手で触れれば崩れてしまいそうだ。戸の無くなった玄関から土間に足を踏み入れると、虫食いや風化で傷みきった内装があまりに酷い有り様で、見ていると胸が苦しくなった。鼻腔には砂の臭いばかりが漂ってきて神社の匂いがまるでしない。
ここに立っているのは博麗神社であって博麗神社ではない。博麗結界も無い。博麗の巫女も居ない。何も無い。
これを死んだと言わずして何と言おう。
「うげえ」
博麗神社の縁側に座り何か真剣に話し合っていた魔理沙とアリスに声を掛けたら、物凄く失礼な声を出されたので、紫は些か落ち込んだ。何もそんな邪険にしなくても良いではないか。会う度会う度、幻想郷の皆からこんな反応ばかり返されるので好い加減嫌になる。
「何よその態度」
「聞いてるわ。あなたがおかしくなったって」
「失礼ね。おかしくなんかなっていないわ」
紫が腰に手を当てて憤慨してみせると、魔理沙がおずおずと尋ねてきた。
「誰彼構わず抱き着いてるって聞いたんだけど、ありゃ嘘か?」
「単に愛を振りまいているだけよ」
「やっぱりじゃねえか!」
魔理沙とアリスが立ち上がり後ずさった。
紫が靴を脱いで縁側に上がると、魔理沙とアリスは悲鳴を上げて飛び退く。
「近寄るな、変態!」
「何よ、単なるスキンシップじゃない。愛と友好を深める為よ。あなた達だってよくしてるでしょ?」
「してな、してねーよ!」
「何で一瞬噛んだのよ」
「してないわ。例えしていたとしてもあなたのとは違うのよ」
「急にお前が抱きついてきたって、気持ち悪いだけだぜ」
「そ、じゃあいいわよ。後でやっぱり抱き締めて欲しいって言ったってしてあげないから」
「いや、言わないから」
警戒する魔理沙とアリスに背を向けて紫は寂しそうに裏庭を見つめた。
「あーあ、神綺ならちゃんと抱き締めさせてくれるのにな」
「誰だよ、それ!」
「誰って」
振り返った紫は言葉を切って、首を横に振った。
「じゃあ、魅魔は?」
「みま? 何が?」
「いえ、何でも無い。そうだったわね。そう言えば」
「何がだよ」
不審な態度をとる紫に、二人が警戒して更に距離を取る。紫はそれを見て、悲しげに笑った。
「そんなに嫌わなくても良いじゃない。私、何か酷い事した?」
「いや、そりゃあ、今回は抱き着いただけだし、酷い事はしてないけど」
「私頑張ったのよ。それが駄目だっただけ。それなのにどうして離れていってしまうの?」
何だか紫の声が湿り始めたので、魔理沙達は訳が分からないながらも罪悪感で狼狽える。
「だって、何か、いつもと違うからさ。別に嫌ってるって訳じゃ無いぜ」
「でも近付いたら逃げるんでしょ?」
「まあ」
「酷い!」
紫がおよよと顔を覆ったので、いよいよ心苦しくなった魔理沙達は仕方無く紫に近付いた。
「ほら、逃げないから」
「本当?」
「本当本当。だからあんまり落ち込むなよ」
「本当に逃げない?」
「逃げない」
紫が一歩近付く。
魔理沙達は体を震わせたが、立ち止まっている。
それを確認した紫は目を見開いた。
「隙あり!」
紫が両腕を広げて魔理沙とアリスに飛びかかる。
「くそ!」
魔理沙とアリスは為す術無く抱きつかれ、畳に倒れた。紫が二人を抱き締めて頬ずりをする。
「騙された!」
魔理沙とアリスは暴れたが、あまりにも強い力で引き剥がせない。諦めた魔理沙は力を抜いて溜息を吐いた。
「何かしんみりしてるから、落ち込んだのかと思ってたのに」
「心配してくれたの?」
紫が頬ずりをやめて、魔理沙の顔を覗き込む。
目が合った魔理沙は真面目な顔で答えた。
「当たり前だろ」
紫は嬉しそうに笑って、また頬ずりをし始める。
「ありがとう。でも大丈夫よ。それは勘違い。私が落ち込む訳無いじゃない」
紫がおかしそうに言うと、魔理沙は呆れて苦笑した。
「そうなら良いんだけどな」
襖が開いた。
三人が顔を上げると、霊夢が冷めた目をして立っていた。
「ああ、紫がおかしくなったって言うのは本当だったのね」
その瞬間、紫は体を跳ね上げて霊夢に跳びかかり、そのまま胸へ飛び込んだ。
「霊夢! 久しぶり!」
体当たりを食らった霊夢は、痛みに顔を顰めて畳に倒れながらも、紫の頭を叩き、更に後頭部に頭突きを食らわせた。変な声を出した紫から力が抜け、開放された霊夢は立ち上がって紫を足蹴にする。
「これは相当の異変ね。どんだけぶっ叩けば治るのかしら」
そう言って冷酷な目で御幣を構えた霊夢を、魔理沙が慌てて制止する。
「霊夢、死んじゃう、死んじゃう」
「いやでも異変だし」
「いやでも完全にのしてるから」
霊夢が足をどかすが、紫は倒れたまま動かない。
不安になって魔理沙とアリスで脇腹をつつくと、紫が身をくねらせた。
生きてたかと安堵した魔理沙だが、紫がまた息を殺して動かなくなったので、目を細める。もう一度、指で腹をつつくと、また紫が身を捻らせ、そしてまた動かなくなった。
「紫」
魔理沙が名前を呼んでも紫は起きようとしない。
魔理沙が細めた目をアリスへ向けると、アリスもまた呆れた顔で頷いた。
「霊夢さん、やっちゃって下さい」
途端に紫が目を開けた。
「失神してた。霊夢の所為で完全に失神してたわ」
「霊夢先生、この嘘吐きをやっちゃって下さい」
「失神してたわー。死ぬところだったわー」
目が泳いでいる。
霊夢は溜息を吐いて、手を差し伸べた。
「ほら、起きなさい」
「ありがとう」
紫は起き上がり伸びをした。外を見ると、もう夕暮れだ。日が沈む前に帰らないといけない。名残惜しく思っていると、霊夢に袖を引かれた。
「急におかしくなって。本当に何があったの?」
「心配してくれるの?」
「別にあんたを心配している訳じゃ無いわ。ただあんたがおかしくなると結界が危ないし」
「霊夢は本当に心配してたんだぜ。どうしたら良いか一緒に考えてって私とアリスが呼ばれたんだしな」
「馬鹿!」
魔理沙を怒鳴りつけた霊夢は慌てて、紫を睨んだ。
「違うから。魔理沙が嘘を言っているだけで」
「それで結局宴会でもすりゃ気も晴れるだろうって事で、幻想郷中に声掛けたんだ。日が沈んだらっつってあるから、もう少ししたらみんな集まってくるんじゃないか」
魔理沙がにやにやと笑いながら頭の後ろで手を組んだ。
紫は呆然として魔理沙達を見つめる。
「私の為に?」
「そうだぜ」
「違うわよ。宴会がしたかっただけ」
霊夢が顔を赤らめて目を逸らすと、魔理沙とアリスと紫は揃って口の端を吊り上げた。
「素直じゃないなぁ」
「うるさい!」
紫はくすくすとおかしそうに笑い、そして「心地良い。でも違うのよね」と呟きながら、霊夢達から一歩距離を取った。
「やっぱり素敵ね、幻想郷は」
「何を当たり前な事を」
「ええ、当たり前の事。でも最近忘れてしまう事がある」
「紫?」
「名残り惜しいけど、戻るわね」
「え? 宴会は?」
「またすぐに戻ってくるわ。藍も連れてこないといけないし」
「もうみんな集まるからあまり遅くならないでよ」
「ええ、分かったわ。すぐに戻ってくる」
紫は微笑みを残して、隙間に消えた。
三人は紫が消えた虚空を見つめていたが、やがて揃って外を見た。障子の開け放たれた向こうに夕暮れの空が見える。そこに黒い点がぽつりぽつりと見えた。それはどんどん多くなり、更に階段を上ってきた客達も見えた。しばらくすると話し声や笑い声が聞こえ始めたので、三人は急いで宴会の準備に取り掛かった。
紫は隙間をくぐり、紫の家に辿り着いた。紫の家だけは今まで見てきた幻想郷と違って、はっきりと生の様相を呈している。幾分の安堵を覚えて廊下を歩き、居間の襖を開いた。そこに先客を見つけて、普段は見せない柔らかな微笑みを浮かべた。
「お久しぶりです、お祖母様」
「どうだった、幻想郷は」
「以前見た通り、酷い荒れ様ですわ」
「まだ良い方よ。私の居る方はもっと酷い。うんざりする位にね」
「心しております」
先客は恭しく頭を下げる紫に憐憫の混じった苦笑を漏らした。
「まあとにかく座って。まだ時間があるから話を聞かせてよ。あなたの幻想郷の話」
「分かりました」
紫は炬燵に腰を降ろすと、この六十年の自分が覚えている限りの事を話し始めた。
「ただいま、藍」
「おかえりなさい、紫様」
出迎えた藍の頭に手を置き、紫は微笑みを浮かべる。
「出かける準備をして。博麗神社で宴会をやるから」
「え? そうなのですか? 急に?」
「おかしくなった私を励ます為ですって」
「ああ、それは素晴らし、いえ、紫様の徳の成せる事ですね」
じろりと紫の目に見つめられた藍は、失礼な事を言ってしまったと恥じ、身を縮こまらせる。だが紫の眦が下がり、笑みになる。
「そうね。その通り。だから、私はそれに応えなくちゃいけない」
「え? はい」
「藍、今日の晩御飯を宴会に供してくれないかしら」
「それは、構いません。はい、そう取り計らいます」
「ありがとう」
紫は藍の頭を撫でると、廊下の奥へ歩き出す。
「私は宴会に出る為におめかしをするから。藍も準備して、そして、そうね、三十分したら私に声を掛けて。博麗神社の宴会に行く時間だって」
「畏まりました」
紫の手が藍の頭から離れる。すれ違い奥へ進む紫を目で追って、藍が振り返る。紫の背が何だか寂しく遠く見えた。廊下の置くを進むと、何処か遠くに言ってしまってそのまま戻って来ない様な不安を覚えた。藍が声を掛けようか迷っていると、紫が突然立ち止まって、秋波の様な視線を送ってきた。
「藍、ごめんなさい」
謝られる覚えが無くて藍は戸惑う。
「夕飯の事。折角私の為にとびっきりを準備してくれたのに」
そんな事かと藍は首を横に振る。その程度、何て事は無い。
「紫様のお役に立てるのであれば」
そう答えたが紫の感謝の言葉は終わらなかった。振り返った紫がまるで慈母の様な笑みで近付いて来る。
「いつでも私の傍に居てくれて、いつだって私に力を貸してくれた。藍、あなたには本当に感謝してる。どれだけの時間、感謝しても感謝し切れない程に」
「紫様?」
「ずっと、本当にずっと、昔からあなたは私の傍に居てくれた。ずっとずっと。あなたが私の傍から離れるなんて考えられない位に。それがとても嬉しかった」
凄まじい言葉だった。今まで仕えてきて、ここまでの言葉を掛けられた事が無く、藍は感動のあまり涙が出そうになった。
「も、勿体無いお言葉です。が、当たり前の事です。私はあなたを」
「藍」
紫が間近まで迫ってきて、藍の言葉が切れた。首に腕を回せれて、抱き寄せられる。抱きしめられた藍は、言葉を発する事も出来無い位に緊張して、涙を零しながら目を瞑り、紫の腕の中で体を強ばらせ続けた。
「今日はね、幻想郷の皆を抱き締めてきたの」
それは橙からの報告で既に知っていた。その理由について藍は考え続けていたが、結局答えは分からなかった。
「何故ですか?」
「私が、幻想郷を愛していると知って欲しかったから。そしてもしかしたら、私を愛して欲しかったから」
「私はあなたを」
「藍」
また藍の言葉は紫に止められた。思いを告げる言葉を押し留められて、もどかしく、体が落ち着かなくなる。藍が体を揺すると、紫は藍を放し、背を向けて歩き出した。
「その言葉はまだ早い。宴会が終わった後に言ってくれると嬉しいわ」
「どうしてですか?」
「そうねぇ、私が私の幻想郷を愛している事が分かったから、かしら?」
藍はその言葉の意味を考える間に、紫は隙間の中に消えた。
紫が消えても尚、藍は紫の言葉の意味を考え続け、そしてはっと気が付いた。
もしや今日は紫様の誕生日なのでは?
誕生日は自分の好き勝手に振る舞って良い日だと聞いた事がある。
そう考えると、辻褄が合う。
紫様にとってそれが今日という日だったのだ。何かもふもふ言っていたのも、幻想郷中で抱き着き魔と化したのも、普段の重圧から開放された反動なのだ。あれは日頃のストレスを発散していたのだ。
そうに違いない。ああ、何と私は馬鹿だったのだ。
昔を思い出せと言った紫の言葉。私の事を忘れてしまったと言っていたのは、誕生日の事を忘れてしまっているという意味だったのだ。きっと六十年前までは誕生日を祝っていたのだ。それなのにそれを忘れて誕生日を祝わなくなっていた。
きっと悲しませてしまったに違いない。失望させてしまったに違いない。
もしかしたらずっと誕生日を祝って欲しかったのかもしれない。
何て、何て馬鹿な従者だったんだ、私は。
誕生日の事だけじゃない。ずっと自分なんて必要無いと思い続けていた。でも主は自分を必要としてくれていた。そんな事すら気がついていなかった。
だが幸いにも今、思い出せた。過去はやり直せる。
そうなると、宴会というのは丁度良い。皆で紫様の誕生日をお祝いするのだ。盛大に妙なる日を祝うのだ。きっと紫様も喜んでくれるに違いない。今までの事を忘れ、今日という日を素晴らしい日だと思ってくれるに違いない。
そうと決まれば、準備をしなければ。
藍は急いで、台所へと駈け出した。
確か材料はあった筈。作るのは宴会中で良いし。問題無い。そのケーキをもって、皆で紫様を祝うのだ。
はっきりと喜ぶ紫の姿が目に浮かんだ。
プレゼントは無いが、いや、また尻尾に潜ってもらうとかどうだろう。あんなに喜んでいたし。
ちょっと恥ずかしくなって顔を赤らめたが、敬愛する主の誕生日を祝うのに、そんな事で躊躇する藍ではない。
よーし、紫様に素敵な誕生日をプレゼントするぞ!
藍は飛び跳ねながら台所に向かう。
紫は自宅の居間に戻るなり、迷わず居間へ向かった。
「久しぶり。終わったわよ」
居間の襖を開けると先に来ていた紫が顔を上げる。
「お帰りなさい、お母様。たった今、御祖母様へのお土産話を話し終えたところですわ」
「そのお母様って言うのはやめて頂戴。あなたも私も同じ八雲紫でしょう?」
「ですが違う存在ですわ」
「堅苦しいわねぇ、私の癖に」
するともう一人の紫が、笑って言った。
「私の前の代もそうだったわ。きっとその私は先代と先先代、つまり私達を反面教師にしたのよ」
「どうしてそう思うの?」
「何故って、私達が行き来できるのは、自分の幻想郷に幻想入りしてきた幻想郷と、自分の幻想郷が幻想入りした幻想郷だけだから。私達が知る事の出来るのは、自分の先代と先先代、そして次代と次次代までだから。今こうして、あなたの幻想郷に幻想入りした私と、この幻想郷のあなた、そしてあなたの幻想郷が幻想入りしたそちらが出会えているみたいにね。つまり二代前までの自分を省みられる。私の前の代も言っていたわ。前二人が情けないからしっかりしなくちゃいけないと思って行動していたって」
「そうすると何? 私とあなたが駄目駄目だから、こっちの私はそれを反面教師に、こんな堅苦しい性格になっちゃったの?」
「一応言っておきますが、あなた達を見習った訳ではないですし、自分を堅苦しいと思ってはいませんわ。ただ幻想郷を長続きさせようと、必要な事をこなす為には、淡淡と決められた通りに事を為し、隙を見せてはならないと考えていただけです。そういう意味で、お母様とお祖母様は、言っちゃなんですが、隙がありすぎる」
紫に指摘された紫達は頬を膨らませてそっぽを向いた。
「まあ、否定はしませんけどね。結局自分の幻想郷を存続させる事が出来ずに幻想郷入りさせてしまった訳ですし」
「そんな可愛く拗ねられても気持ち悪いですわ」
涼しい笑顔で紫がそんな事を言うと、紫達は胸を押さえて呻きだした。
「うー、心が抉られるー」
「流石、幻想郷を完璧に管理する私だわ。言葉も完璧に容赦が無い」
紫は痛がる二人に対して呆れた溜息を吐き、それから顔を曇らせた。
「完璧、ではありませんわ。結局私がしているのは恐怖統治。六十年毎の忘却とあらゆる事件への介入で、現状を維持するのが精一杯。忘却も、時が戻る訳ではないから、少しずつ埃が積もる。いずれ、きっと、嫌気が差して、皆幻想郷から出て行ってしまうでしょう。現にこの間、決定的な反逆者が出て来てしまいました。幻想郷の永続どころか、あなた達が保たせた年月にも遠く及ばない。システムと恐怖だけでは治めきれない限界がある」
落ち込んだ紫を見て、紫は不思議そうに首を傾げる。
「そんな子、居たかしら? みんな素直な良い子だと思ったけど」
「ええ、おりました。鬼人正邪という者です。結局恐怖を与える事でしか彼女を鎮める事は出来なかった。それでは駄目だと気が付いていながら」
すると紫がぽんと手を打った。
「ああ、あの子ね。居た居た。でもそんな事無いわ。むしろあなたの事が大好きみたいよ。抱きしめたらね、ぶるぶる震え出して、こんな事されたって私は怖くないぞ、嬉しすぎるだけだって。よっぽど八雲紫に抱き締められたのが嬉しかったのね」
「ちゃっかり、私以上の恐怖を与えないで下さい」
紫が冷静につっこむと、紫は再度首を傾げた。
そんな二人のやり取りを眺めながら顔を綻ばせていた紫が、羨ましそうに炬燵の卓に額を当てて突っ伏した。
「良いわね。そっちの幻想郷も面白そうで」
それに紫が同調した。
「そうなのよ。みんな凄く良い子でね。私の事を愛しているのよ。羨ましいわ」
それを紫が否定した。
「そんな事、ありません。もし従順そうに見えていたとしても、それは私への恐怖で従っているだけですわ」
「そんな事無いと思うわよ。ま、私にこんな事を言っても信じないでしょうけど」
「私って頑固だものねぇ」
笑い合う二人を前に、紫は不機嫌そうな顔になった。
「ええ、信じません。信じませんとも」
「ちょっと嬉しい癖に」
「甘言は無駄ですわ」
「甘言て言っちゃった」
紫が言葉を詰まらせた。
それを笑いながら、紫は先程見てきた博麗神社の三人を思い出す。
「宴会に出れば分かるでしょう」
「宴会ですか?」
「そう。きっと嬉しすぎて失神しちゃうんじゃない? 私だったら失神するわ」
「意味が分かりませんが、ええ、では次の宴会を楽しみにしていましょう。いつあるのか分かりませんし、私がお呼ばれするかも分かりませんが」
「そう。なら期待していなさいな。幸せはあなたが思うよりもずっと近くにあるものよ」
不服そうにする紫を無視して、紫は体を反らし、天井を見上げた。
「羨ましいわ、本当に。とても素敵な幻想郷。思わずずっと居たいと思う位」
「なら、私と代わりますか。幻想郷にとっても、私より、甘甘なあなたの方が良いでしょう。私は己の過ちに気が付いていながら、それを正す事も出来無い頑固者ですから」
「そうねぇ、許されるのならそれも良いかなと思ったけど。でも、やっぱり私の幻想郷はここだけで、そして本当に愛せるのは私の良く知る幻想郷だけだわ。例えもう死んでしまっていたとしてもね」
だからねと、紫は紫を見つめる。
「早く帰ってあげなさい。あなたの好意のお陰で生命ある幻想郷を回れて、とても楽しい。でもあなたの幻想郷にお邪魔する度、私は罪悪感も覚えてしまう。私があなたの幻想郷へ行く度に、あなたが幻想郷で楽しく過ごす大切な時間を奪ってしまう事になるんだもの」
「たった半日ですわ。私の幻想郷が打ち捨てられ幻想入りするまでの時間に比べれば遥かに短い」
「でももしも、あなたの幻想郷が幻想入りしたその時、あなたは……いえ、あなたの幻想郷は優しさに満ちていて、きっと永久に続く幻想郷になると信じているわ。でも万が一、そうならなかったら。生きた幻想郷の温かさは、死に絶えた廃墟の冷たさに遠く及ばない。私がこの幻想郷の廃墟で過ごさなければならない時間の長さに比べれば、半日も、幻想郷の一生も大した差は無い。今はまだ分からないと思うけれど、いずれ分かる。幸せな半日は、永遠と一緒だという事に」
紫の忠告に、紫は体を強張らせる。
「だから早く帰りなさい。もうすぐ三十分経ってしまうから」
「三十分?」
「気にしないで。行けば分かる」
理解出来ないでいる紫だったが、頭を振り、隙間を生み出した。
「それでは答えを確認する事にします」
「ええ、きっとびっくりするわ」
「また面白い話を聞かせてね」
紫は頷くと、隙間の中に消えた。
隙間が閉じると、二人の紫は無言のまま炬燵に入り込んだ。
いつも以上に重たい静寂が立ち込めて、息苦しさが二人を取り巻いた。
やがて沈黙に耐えかねた紫が言った。
「これでまた、次の報告に焦がれる孤独な日日が始まるのね。毎日でも聞きたいけど、さっきあなたが言った通り、新しい私の時間を奪うのは忍びないわよね」
「孤独が嫌なら話し相手になるわ」
「自分と喋るっていうのもね。好い加減退屈よ。もう何万年話し合ってきたか」
「何億年じゃなかった?」
「かもね。数えるのも億劫よ」
「流石に億劫までは経っていないと思うけど」
紫は蜜柑を取って皮を剥き始めた。対する紫はじっとその手元を見つめる。
完全に蜜柑の皮を取り払い、筋まできっちり取ってから、紫は思い出した様に言った。
「億劫と言えば、最初の私が生まれてからその位の時間だわ」
「ええ、そうみたいね。果てしない時間だけど、いずれ来るものなのね」
「これはまだ生きた幻想郷に接点のあるあなたに伝えるべきか迷ったのだけれど」
「あら何?」
「遂に最初の私が死んだみたい」
紫が顔を上げ、二人の目が合った。
お互いに動じた様子は無い。
紫が蜜柑の実を口に運ぶ。
一方、紫は蜜柑に手を伸ばし、紫と同じ様に皮を剥き始めた。
「死因は?」
「分からない。ある日、突然幻想郷が無くなったんですって。幻想郷が無くなったっていう事は私も死んだという事。私が死んだのが先なのか幻想郷が無くなったのが先かは分からないけれど」
「本当かしら」
「さあね。果てしない伝言ゲームで伝わってきたのだもの。何処かで捻じ曲がった可能性はある」
「いずれ来るものとは分かっても何だか不思議な感じがするわ。私も死ねるのね」
「そうね」
蜜柑を食べ終えた紫は手を払って立ち上がった。
「ごちそうさま。そろそろ帰るわ」
「ええ、次もまた十年後?」
「そうね。そうしましょう。じゃあね」
紫が手を振りながら隙間を開けた。
隙間に入ろうとした紫を、紫が呼び止める。
「ねえ、あなた死のうとした事ある?」
振り返った紫は、柔らかに微笑んだ。
「私なら分かるでしょう? 思わない訳無いじゃない」
そうよねと頷いて、紫は俯いた。
「あなたは、生きている事が幸せだと思う? この死に絶えた幻想郷で孤独を味わい続けなければならない事を苦痛だと思わない?」
俯いた紫の発した問いに、紫が苦笑する。
「こうして死なずに生きている事が答えだわ」
「自分が消えたら、幻想郷が消えて、幻想入りしている先代の私達も消えてしまうから、責任感で死を躊躇っているだけじゃない?」
紫は首を横に振り、優しく諭す様に言った。
「あなたもさっきの私と同じ様に履き違えている。私は私よ。もしもあなたが死ぬのなら、その前に私達は皆死んでいる。だってあながたそれを選択したのなら、前の私達が選択しない筈が無いもの。もし、あなたの言う通り先代の私達が生きているにも関わらずあなたが死んだとしても、それは結局私一人が死んだだけ。何も気にする事なんて無いわ」
「そうよね。ごめんなさい、変な事を言って」
「いいえ。まだ生きている幻想郷を訪れたらそんな風に落ち込むものよ。私も同じ。そうだった。私はあなただもの」
「そうね。ええ、その通りだわ」
「じゃあね。辛い時は呼んで。話相手になるわ」
「ええ、ありがとう」
紫が手を振ると、紫も手を振って、隙間の中に消えた。
紫は紫が消えてもしばらく手を振っていた。
だがやがて力が抜けた様に手が垂れる。
意思の感じられない機械的な動きで炬燵にもぐり、蜜柑の籠を卓の端にどかす。
紫はしばらくじっと何も無い卓の上を見つめていたが、やがてゆっくりと手を振り上げ、炬燵の卓を思いきり叩いた。
蜜柑の籠が跳ねて炬燵から落ちる。
蜜柑が辺りに散らばる。
だが気にせずに、紫はまた卓を叩く。
何度も何度も。
顔を歪ませながら拳を叩きつける。
しばらくして手が止まる。
糸が切れた様に顔を伏せ、炬燵の上に突っ伏した。
嗚咽が漏れる。
張り裂ける様な悲鳴に変わる。
誰もその叫びを聞く事が無い。
幻想郷には誰も居ない。
だが紫の耳には遠く懐かしい沢山の笑い声が聞こえていた。
耳を塞いでも、責め苛む様に、その笑いが消える事はなかった。
面白かったですが、後半がちょっと意味わからなかった…