「もし、もし。そこな道行く死の少女、お慈悲を」
アリスの優雅なアフタヌーンウィンドウショッピングタイムはその一言で完全に粉々になった。
弥生の頃である。人里における恒例の人形劇を喝采のうちに終えたあとの話であった。
誰だ、その恥ずかしい過去の二つ名で私を呼ぶのは誰だ。
「死の少女」。
よりにもよって「死の少女」である。
我ながらなんという病的な二つ名を自称していたものだと時々そんな過去を思い出してはベッドの上で苦悶するアリスである。
そんなアリスが往来でそんな風に呼ばれた時の傷心がいかばかりかは、想像するに哀れであろう。
アリスは鬼のような形相で周囲を見回した。
敵見必殺、敵見必殺である。さあ古傷を抉ってくれたのはどこのどいつだ?
魔理沙ではないだろう。彼女は共に心に傷を持つ同胞だ。
彼女がその二つ名を持ち出してきたなら、アリスは容赦なく魔理沙にうふふと優しく笑って返してあげることができる。二人はそういう仲だ。
それがわかっているから魔理沙は決してアリスをそう呼ぶことはない。
ついでに言えば霊夢でもない。霊夢は確かに無神経だが、一方で霊夢はそんな風に過去に頓着する方ではない。
アリスがアリス・マーガトロイドと名乗ったらアリス・マーガトロイドと認識するし、本を封じて人形を操るならばアリスは人形遣いである。
問われれば無論、過去を思い出すこともあるが、今の霊夢にとって今のアリスはあくまで七色の人形遣いなのだ。
さらに重ねるならば魅魔や幽香でもないだろう。彼女らは人を小馬鹿にすることはあっても、アリスに助けを請うはずがない。
無論冗談としてならアリスに助けを請う可能性は必ずしもゼロではないが、だとしたらこんな切羽詰った声は出さないだろう。
それに何より彼女らの声はこんな低いバリトンではない。
はてさて、鬼気迫る面持ちで周囲を探っていたアリスの目に留まったのは、
「こちらです、死の少女。お助けくだされ……!」
「玄!?」
亀であった。
いや、正確に言えば、子供たちの容赦ない打擲から身を守るかの如くに頭と四肢を収納した、裏路地に転がる甲羅であった。
――シルバーシートがまごころとともに――
「ふぅ、助かりました。最近の子供たちは妖怪に対して容赦がありませぬなぁ」
そう述懐した亀はお盆の上の湯飲みを手に取ると、面目なさげな面持ちでそっと湯気をくゆらせる。
そんな様にアリスは「面倒くさい相手に捕まっちゃったなぁ」と内心では思いつつも、完璧なまでの作り笑い――もっとも、実際にはやや口元が引きつっていたのだが――で対応した。
チラ、と周囲を見やると、アリスの眼前。対面にちょこんと腰掛けた亀はやはり客たちのチラチラ横目を集めているようである。
とりあえずゆっくりと話をするために甘味処の奥まった席に移動したのだが、来客の視線だけは妨げようがない。
とはいえこれが敵意や迫害の視線でないあたりはありがたいもので、なるほど人外と言えど鶴やら亀やらお目出度いとされる生物は何かと得らしい、なんて若干アリスは棘のある感想を抱いてしまう。
もっとも、そこら辺は子供たちにとってはどうでもよいようであったが。
「逃げようにも無理をして怪我をさせるわけにもいかず、困っておったのです」
ずずりと緑茶を啜って、ホゥと一息。ようやく安堵したように老亀は両目を細めた。
「で、何で人里なんかに下りてきたの?」
相手が落ち着きを取り戻したのを見計らって、アリスは即座に本題を切り出した。
できれば係わり合いになりたくない相手ではある。アリス自身人付き合いは得意なほうではないし、何より老人の相手ははっきりと苦手であると自覚している。
とはいえ目の前で困っている知人を無視するほどアリスは魔法使いとして完成されてはいなかったし、あのままあの二つ名を連呼されてはたまったもんじゃない。
こういうところが未熟なのだ、とパチュリーなどは指摘するのだが、アリスとしては別段、焦って魔法使いとして完成に至る必要もないと思っていた。
そういうところはパチュリーから見れば回りくどい、ということになるらしいのではあるが。
「ほわいとでい、というものをご存知でしょうか?」
そんな人間臭いアリスであるからして、この問いかけには流石に驚きを隠せなかった。
まさか、横文字とは程遠い世界に生きているであろうこの老亀から、そんな言葉が飛び出そうとは。
思わず串団子にかじりついたまま、唖然と凍り付いてしまう。
「……もし?」
目の前で平べったい手をひよひよさせられて、ハッと我に変える。
「あ、ええ。知ってるわ。バレンタインのお返しをする日よね?」
「そう伺っておりますじゃ」
「それで? ホワイトデーがどうかしたの? まさか誰かにチョコを貰ったとか?」
「いただきました」
「なんだと」
重ねられた言葉の重みにアリスは震撼した。
カメが、チョコを、貰った?
「ど、どなたからでしょう?」
思わず敬語になってしまう。
目の前のカメはカメではなくその辺に転がる有象無象を全力でブッチギリで超越した御亀様なのだ。当然である。
なんてアリスの驚愕も、
「霊夢殿に。義理チョコだそうで」
「あ……さいですか、なるほど」
よくよく考えてみればそれ以外のルートなどないであろうし、納得できる理由である。アリスは冷静さを取り戻した。
アリスはクールでデキるいい女なのだ。取り乱すなんてあってはならないし恥ずかしい過去だって当然のように存在しないのである。
「それで、何がしかのお返しを用意しなければなるまいと思いましてな」
「人里にやってきたら子供たちに取り囲まれた、と」
アリスは軽い眩暈に襲われた。
目の前の亀は只のしょぼくれた老妖なんぞではない。
かの博麗霊夢のお眼鏡に適い、その結果使い魔兼保護者として陰日向に幼き日の霊夢を支えていた霊妙なる霊亀であるのだ。
それが里の子供たちに囲まれてサッカーボールなど、何の冗談か。
呆れ果てるアリスの前で、老亀は顎に手を当ててうんうんと頷いてみせる。
「いやはやしかし子供らをさらりと追い払った手管、見事な人形繰りでありましたなぁ。流石は死の少――」
「お願いだからその呼び方やめてホントやめて!」
モガ、と口に無理矢理団子を突っ込まれた老亀は串を皿に戻すと、ゆっくり咀嚼してゴクリ。困ったように目を伏せる。
「そう申されましても私、御身の姓を知らぬものでして。流石に御名前で呼ぶのは馴れ馴れしいかと」
ああ、と納得しつつもアリスの口元は大きく引きつらざるを得ない。
ならば魔法使いとか呼べばいいだけの話じゃないか。
「アリス・マーガトロイド。ぶっちゃけ名前でもいいから、言い難ければ名前でもいいから。呼び捨てでもいいから、ね?」
「? そう必死になって否定しなくてもよろしいではありませぬか。以前拝見した魔術の数々、なるほど死の少女と言うに相応しき技の――」
「やめてぇ!!」
ついにアリスはムンク画の如き形容し難い悲鳴をあげた。
周囲からの好機の視線がアリスに突き刺さるが、それを気にしている余裕なんて最早アリスには微塵も残ってはいなかった。
そうだ。確かにかつてのアリスは頑張った。そりゃあもう禁断の魔法すら持ち出して、魔界の、そして母の名誉の為にと超頑張った。
まだスペルカードルールが制定されていない、しかも幻想郷でない魔界での話である。
一撃毎に極大魔方陣を展開しての、直撃すれば即死は免れようが無い大魔術の連発はなるほど、アリスの非凡さを裏付ける確たる証拠ではあろう。
だがそれすらもこの老亀と霊夢のコンビは易々と――そう、易々と打ち破ったのである。
自分が井の中の蛙であったことを知らしめてくれた相手からの率直な賞賛。
それを侮蔑と受け止め、自身の未熟を棚に上げて相手を恨むような子供からはアリスはもう卒業している。
だが一方でアリスは自らの恥ずかしすぎる慢心を「幼少の頃に誰にでもありがちな自己拡張に過ぎない」と冷静に切って捨てられるほどの大人でもなかったのだ。
「そ、そうだ、ホワイトデーのお返しよね? 私が何とかしてあげるからマジでホントマジでお願いします!」
「なんと、よろしいのですか?」
「もちろんよだから約束して二度とその呼び方はやめて頂戴、ね!?」
「ありがとうございます、ありがとうございます死の――」
「全然分かってないじゃない! ……ああもうほら買い出しに行くわよ! 今すぐ!」
「お待ちくだされアリス殿、まだお団子が残っておりますじゃ。食べ残して行ったりすればもったいないお化けが」
「でません!」
仕方が無いので二体の人形を操作し、残っていた串団子二本を回収。
卓上に小銭を散らばし「さあ行くわよ!」老亀を店舗から引きずり出して、はたと気がついた。
あれだけしつこく死の死の連呼していた老亀が至極あっさりと「アリス殿」、である。
上海が差し出してきた串団子を噛み千切って、咀嚼。甘辛い絶妙な味わいのそれをもぐもぐごくんと飲み込んで、
「……嵌めてくれたわね」
「なんのことでしょうか?」
蓬莱からもう一本の串団子を受け取ってやはりもぐもぐしている老亀はどこ吹く風のそ知らぬ顔だ。
まぁ、いい。
元々お菓子作りは嫌いじゃないし、大した手間でもないわけだし。
はぁと溜息をついたアリスは隣に浮かぶ老亀の甲羅にひょいと腰を下ろす。
「まだまだ未熟ね、私も」
「何を仰います。以前はただ叩き付けるだけだった魔力が今や指使いに沿って踊る様。アリス殿は間違いなく腕をあげておりますよ」
「……本当に、そう思う?」
「霊夢様より、おべっかを使うなと厳命されておりますゆえ」
僅かに思案した、後。アリスは小さく微笑んだ。
「そ。じゃ、そういうことにしておきましょう。……クッキーでいいわよね」
老亀は頷いた。
「よろしくお願いします」
◆ ◆ ◆
「おや、魔理ちゃんではありませんか」
「こりゃまた、珍しい奴がいるもんじゃないか」
胞子漂う魔法の森の外れ付近。
箒片手にご機嫌ランラン、足取りも軽く目的地を目指していた魔理沙が背後からの声に振り向いてみれば、なんとまぁ。
「よう玄。こんな僻地に何の用だ? 異変か? 引退宣言撤回か?」
「いやいやこの老骨の出番など最早ございますまい」
「ちぇっ、錆付いた振りなんかしちゃってさ、よく言うよ」
老亀のそんな謙遜に魔理沙はムッと眉根を寄せて頬を膨らませた。
この亀の実力なんて魔理沙が一番、誰よりも霊夢よりもよく知っている。
人一人背中に乗せて、しかも負ぶった人間に傷一つ負わせず酔わせもせずに弾幕を潜り抜けるのは口で言うほど容易なことではない。
箒に他人を乗せることも多々ある魔理沙だからこそ、誰よりも霊夢よりもよくそれを理解しているのである。
「あと魔理ちゃんはやめてくれ、こちとらもうティーンエイジなんだからさ」
「ほほ、了解ですじゃ。ところで魔理ちゃん」
「ボケはいらんぞ、なんだ?」
ふむ、と魔理沙の若干弾んだ応答に、老亀は確信したように頷いた。
「なにやらご機嫌のようですが、いいことでもありましたか?」
「べ、別にそんなことはないぞ?」
どきり、と。
焦ったように魔理沙は帽子の鍔に手をやった。
ぐい、と逃れるようにそれで表情を隠そうとしたのだが、
「図星を射られると帽子の鍔に手をやる癖、変わりませんなぁ」
「……ちょっと帽子のすわりが悪かったから調整しただけだよ」
「お洒落は女の子の基本ですからなぁ。よいことです」
魔理沙は頭を振って諦めたように息を吐いた。
この老亀は現状、この世で四番目に家出以降の魔理沙と付き合いが長い存在なのだ。
しかも幼いころに霊夢とない交ぜに色々と面倒を見てもらった過去もあって、どうにも魔理沙はこの老亀が苦手なのである。
嫌いでは、無論ないのであるが。
二三、言葉を探るようにあらぬ方を見やった後、どうせ知るまいとたかをくくった魔理沙は、
「今日が何の日か知ってるか?」
「確か魔理ちゃんが社務所で入浴中に猫の鳴き声をお化けと勘違いして全裸で飛び出してきた記念――」
真っ赤になって老亀の肩(肩?)を掴むと、ガクガクと揺さぶって紡がれる過去を遮断した。
「何でそんなこと未だに覚えてんだよ!? しかも日付まで! ああもぅとっととボケちまえよ畜生!」
「ボケてみました」
「ああなるほど……じゃないよ! ホワイトデーだよ馬鹿!!」
「ほわいとでぇ、ですか?」
疲れたように老亀の肩から手を離した魔理沙はその背中にひょいと腰を下ろし、憮然と脚を組む。
「そうだ。野郎が女子にプレゼントをくれてやらなきゃならない日だ」
「ほほう、そうすると、ひょっとすると」
さわり、と老亀は平べったい手で己の顎をさする。
「私も何か魔理ちゃんに差し上げないといけませんかな」
そう返されて魔理沙は返答につまった。
「予約制だ、バレンタインデーのお返しだから玄が私になんかくれる必要はないぞ」と返すのは簡単である。
だがそれを口にすれば当然この老亀は「自分がお返しを心待ちにしている」と捉えること疑いあるまい。
魔理沙は慎重に言葉を選んだ。
「いや、これは若者文化だ。老人が参加するのはちょっとハッスルしすぎというもんだろう」
「恋人同士の語らいですか。若いっていいですなぁ」
「そこまでは言ってないだろ!」
どう言葉を選んでも結果は同じであったようだ。
頬の紅潮が止められぬ魔理沙は老亀の背中から飛び降りて、彼に背を向けた。
敗北宣言ではあるが、これ以上この老亀におちょくられていたら表情に翳りが生じてしまうではないか。
お洒落よりもまず表情こそが女の子の基本であると、魔理沙はそう信じているのである。
「とにかく私は今日はボンガボンガお宝を手に入れるんだ、邪魔するなよ!」
「はい、健闘を祈っております」
◆
カランカラン、とベルが唄う。
「よう、香霖」
「魔理沙か、いらっしゃい」
これあるを予想していたためか、それとも流していた冊子が別段興味をひく物ではなかったためか。
霖之助は冊子をあっさり閉じると、ごくいつもと変わらない表情で魔理沙を出迎えた。
そのあまりにも普段どおりの態度に魔理沙の顔が少しだけ翳りを帯びる。
まさか、とは思うが相手はこの男である。万が一という可能性は捨てきれない。
「なぁ、香霖」
とんとんと踵で床板を叩きながら、魔理沙はよく分からない雑貨で埋め尽くされたカウンターをじっと眺めやる。
「今日が何の日かは知ってるよな?」
「先月聞いたさ。ホワイトデー、だろう? そのために君は今日、ここに来たのではないのかい?」
お茶を用意しながら霖之助が返してきた言葉に、魔理沙はホッと胸をなでおろした。
どうやら完全に忘れている、ということはないようである。
「OK流石だ香霖。さあ私から催促するのもなんだがチョコのお返しを貰おうじゃないか!」
「本当に、自分から催促するものじゃないね」
芝居がかった所作で呆れたように肩をすくめると、どうぞ、と魔理沙の前。
カウンター上に二人分の湯飲みを用意した霖之助は再度、定位置に腰を下ろした。
「まぁ普段は奪ってばっかりの君が珍しくも僕に贈り物をしてくれたわけだからね。忘れたりなんかしないさ」
「なんだよ。夕飯作ってやったりはいつもしてるだろ?」
「うちの食材を使ってね」
「文句があるのか?」
「ないよ。とまれ、僕は何かしらの礼を返さねばいけないことくらいは承知しているさ。だから、魔理沙」
そう前置きした霖之助は一度、店内をぐるりと見渡すと、きわめて真面目な表情で、
・・・・・・・・・・
「好きな物を選ぶといい」
…………
……
「え?」
「だから、今店内にある物、どれでも好きなものを持って行くといい。一つだけだけどね」
「どれでも……って……香霖がなんか用意してくれたんじゃないのか?」
「僕が選ぶより、君が好きなものを選んだほうがよっぽど効率的だろう?」
細い声でそう問い返す魔理沙に、霖之助はしかつめらしい顔でうなずいてみせる。
「本来ならこれまで色々な物を只で持っていかれてるんだ、差し引き0でもよかったんだけどね。流石にそれは君に悪いと思ったし」
「……」
魔理沙の呆とした面持ちを、霖之助は至極好意的に把握したようだった。
「不要な物を押し付けられても君だって困るだろう? だからこれが最適……魔理沙? どうかしたのかい?」
「……ああ、香霖。いや、別に、何でもないよ」
魔理沙は一度、霖之助に小さな笑みを返して、そして霖之助に背を向けた。
「香霖、その、選ぶのは後日でも、いいか」
「無論、構わないが」
「そっか、すまん。今日は、その、急用を思い出したから、帰るよ」
「……魔理沙?」
「またな」という一言は、ドアベルにかき消されて、霖之助のもとへと届くことはなかった。
◆
「貴方は何をやっておるのです」
店のドアを開け放つやいなや開口一番そう宣う腕組み二足歩行亀様である。
これは温厚な霖之助でもまなじりを吊り上げざるを得ないだろう。
「失礼ながらマナーがなっていないのではないかな、初見さん」
「まなぁがなってないのは貴方のほうでしょう」
「ここは僕の店だ。いきなり踏み込んできてわけの分からないことを言う亀よりかはよっぽどマシだと思うよ」
そう返しつつも、霖之助はにわかに不安を覚えた。
目の前の亀が放つ霊気、威圧感たるやそんじょそこいらの妖怪とは比較にすらならず、ましてやある種の聖性のようなものすら伺えるとあらば。
「これは、怒らせないほうがいい相手かもしれない」。
商人としての、またこれまでを生き延びてきた半妖としての感には従っておいたほうがいいだろう。
「はて、どこかで僕は貴方に非礼を働いたかな? トンと覚えが無いのですが」
「私にではなく、魔理ちゃんにです」
「魔理沙に? ……ひょっとしてさっきの会話を聞いて? だとしたら趣味が悪いと言わざるを得ませんが」
「妖怪ですので、耳は人並み以上なのです。そこはご勘弁願いたい」
「ま、そういうことにしておきましょう。それで?」
「それで、ではありませぬ!」
ひょこひょことカウンターへ歩み寄ってきた亀は、その平べったい両前足をカウンターにバンと叩き付ける。
「あんまりではありませぬか。なぜ魔理ちゃんの想いにきちんと応えてあげぬのです!」
「応えているじゃないか。僕は魔理沙への礼として、この店の中のもの全てを魔理沙に提示したんだよ? これ以上の礼があるとでも?」
軽く店内を見回した老亀は胡散臭そうに霖之助を見やってくる。
「そのわりには貴重そうなものはキチンと隠されているように見えますが」
「貴方にとって貴重と見える物が僕や魔理沙にとって貴重なものとは限らないと思いますがね」
「……まぁ良いでしょう。貴方にも生活があるでしょうし、それは実際どうでも良いことです」
魔理沙の湯飲みに手を伸ばして、ずずり、と一口。老亀は舌を湿らせる。
店主の性格を現しているかのような、美味くもなく不味くもない、喉を潤すためのお茶の味だ。
「それでも、貴方は魔理ちゃんの為に何かを選んであげるべきだった筈です」
「失礼ながら貴方は魔理沙の家の状態を知らないと見える」
お茶を一口すすった霖之助の瞳に、ようやく突破口を得たとばかりの余裕が浮かぶ。
「コレクターにとっていらない物を押し付けられるほど苦痛なことはないのですよ。ましてや家が玩具箱をひっくり返したような有様とあってはね」
「それは平時の物の見方でしょう。祭時には御祭色に装った見方というものがありましょうに?」
「お祭りではビー玉も輝いて見える、か。僕も商人だ。そういう心理が在ることは理解しています。ですがご老体、魔理沙はあれで冷静で、周囲に流されない子です」
「同時に年相応の少女でもありますな」
視線が、互いの尾を喰らう蛇のように絡み合う。
「魔理沙のことを僕よりもよくご存知だと、そう仰りたいように伺えますが」
「貴方より詳しいかは分かりませぬが、少なくとも広い視野で見られてはいるでしょう」
「ほほう」
ことん、と湯飲みをカウンターに戻した霖之助は悠然と脚を組んだ。
「では、ぜひ貴方のご高説をお聞かせ願いたい」
「その前に一つ確認しておきたいのですが」
「なんでしょう?」
「ホワイトデー、というものがどういう日かをご存知ですかな? 照れ隠しなしに口にしていただきたい」
「照れ隠しもなにも……バレンタインデーに頂いた贈り物のお返しをする日、でしょう?」
そうですな、と老亀は頷いた。
「ではバレンタインデーというものがどういう日かをご存知ですかな?」
「女性が親しい男性にチョコレートを送る日、と伺っていますが?」
「左様、外界の文化ですな。それをどなたからお聞きなさった?」
「先月に魔理沙からですが、それが何か?」
「結構。よく分かり申した。そんなことだろうとは思っていたのですが」
老亀は深く、深く息を吐いた。
「バレンタインデーというのは、『好きな殿方に』チョコレートを送る日でもあるのだそうです」
二、三秒の、沈黙の後、
「……待ってくれ」
霖之助は意図せず立ち上がっていた。
カウンターの向こう側。老亀を見下ろす瞳が、愕然と揺れている。
「魔理ちゃんが他の誰かにチョコを渡したとお思いですか?」
「ま、待ってくれ! 魔理沙はそんなこと一言も言わなかったぞ!?」
「当たり前です。あの魔理ちゃんがそんなこと、照れくさくて口にできるはずが無いでしょう」
「いや、いや……」
霖之助は頭を抱えた。
ようやく合点がいったのだ。だが、だからといって、
「待ってくれ。そう言われたって、そんな日だって、今日だって魔理沙は一言も……」
「左様。店主殿は悪くありませぬ。恥ずかしがって最も重要なことを隠した魔理ちゃんが悪いのです」
「そうとも、自慢じゃないがこの僕がそこまで思い至れるはずが無いだろう!? 情報が足らな過ぎるじゃないか!」
「左様。確かに店主殿は悪くありませぬ。ですが罪ではあります」
何か言い返した気に霖之助は口を開いたが、返す言葉が思いつかない。
老亀がお茶を啜る音だけが、静かな店内に響きわたっている。
「魔理ちゃんの仕草や態度、口調の端々から貴方はそれに気がつくことができたのではないのですか?」
「……理不尽なことを仰らないで頂きたい。四六時中魔理沙の態度を気にかけていろ、と?」
「理不尽、かもしれませぬ。ですがそういった機微に気づいてあげられるのが甲斐性というものではないですか」
よろよろと、力尽きたように霖之助は腰を下ろした。
湯飲みに手を伸ばすが、それまで。それを口元に運ぶ余力もなく、項垂れる。
「……僕にそんなものを求めないでくれ。僕はそんなことに気付ける男じゃない」
「左様。魔理ちゃんは店主殿の鈍さを、店主殿は魔理ちゃんの真意をそれぞれ読みきれなかった。どちらかが一方的に悪いという話ではありませぬでしょう」
しかし、それはここまでの話だ。
知ってしまった以上は、示さねばなるまい。
隠しようのない冷酷なる事実か、はたまた一世一代の甲斐性のどちらかを。
老亀は甲羅の中から道具と具材を取り出して、カウンターの上に並べ立てた。
「こんなところに小麦粉と砂糖とショートニングと卵その他諸々のクッキーの材料があります」
「……ああ、あるね」
「型抜きも、アリス嬢直筆のアンチョコもあります。鉄板があれば八卦炉でも焼けるレシピです」
「……用意がいいことで」
「今店内にある物、どれでも好きな物を持って行ってよいのでしたな。では」
言うが早いか老亀は床板の一枚を引っぺがすと、そこに隠されていた物を手に取った。
それを目にした途端、霖之助の眼が驚愕に見開かれた。
それの隠し場所をあっさりと見抜かれたことも驚きだが、なによりその道具、その剣は、
「ちょ、ちょっと待ってくれ! 貴方はそれがなんだか分かっているのか!?」
「これとそれらを交換といたしましょうか。如何でしょう」
「だから、それはたかだか菓子の材料なんかとは比べ物にならない――」
「比べるのはクッキーとではありません。この剣と、魔理ちゃんとの未来です」
霖之助は言葉を失った。
なんてこった。
「如何でしょう」
選択肢なんて、ないじゃないか。
◆ ◆ ◆
「やはり、間に合いませなんだなぁ……」
里の日も暮れ、黄昏時。
街が昼の華やかさから夜の賑わいへと移り変わる狭間の時間に、老亀は門戸が閉ざされた粉轢き屋の前で悲嘆に暮れる。
クッキーの材料は失われてしまった。
里で購入しようにも、何かと移動が遅い老亀が里にたどり着いたときには、既に夕暮れ。店じまいの時間。
再度アリスに懇願すれば材料を分けてくれたのかもしれないが、流石にそれは厚かましいというものだろう。
そんな風に剣を背負った老亀が薄闇の中で悲嘆に暮れていると、
「あらレオナルド。完全武装でどうしちゃったの? またフット団の陰謀?」
「やぁエイプリル、今日も綺麗だね。いや、鉄板頭は関係ないよ。石頭はいたけどね!」
「……」
「……」
聖獣と霊亀は互いに顔を突き合わせ、珍妙な顔で押し黙る。
「……何故、乗ったのです」
「いや、お約束かなと……」
「……」
「……」
「この歴史はなかったことに」
「ええ」
両者はさっくりと過去を切り捨てた。
念のため数秒前の歴史をゴリゴリ噛み砕いて飲み込んだ後、慧音は何事もなかったかのように口を開いた。
「珍しいですね。貴方が里に下りてくるなんて。しかも剣など背負って」
「いえ、この剣はたまたまでして。只の買い物です」
「このようなお時間に、ですか?」
「ええ。ですがやはり出遅れてしまったようですなぁ」
ちら、と両者は閉ざされた雨戸、次いで隠れ始めたお天道様を見やる。
「多少は日も長くなってきたとはいえ、まだ寒いですからね。仕方ありません」
「ですな。しかし、慧音殿こそこのようなお時間に如何なさったのですか? そろそろ夕食のお時間ですが」
「いやなに、妖怪が不当に打擲を受けているという話を耳にしたので軽く見回りをしていたのですよ」
「……」
流石に「それは私だ」と返すのも情けなかったので、老亀は口をつぐんだ。
そんな老亀の内心を知らぬまま、慧音は胸を押し上げるように一度腕を組み、憂鬱そうな面持ちで首を振った。
「最近の子供たちは妖怪を甘く見すぎているようで。困ったものです」
「決闘法が広まった弊害かも知れませぬな。ふむ、一度紫殿にお伺いをたててみましょう」
「衝突と流血による畏怖の浸透は避けたいもの。そうしていただけるとありがたいです――と、そうだ」
腕組みを解いた慧音は閃いた、とばかりに両手をポンと鳴らした。
「ご老体の買い出しとはもしや食材であったりはしませんか?」
「食材と言えば食材ですが……それがなにか?」
それは好都合、と頷いた慧音は背に結んでいた荷を解くと、風呂敷から小包を一つ取り出して老亀に手渡してきた。
「これは?」
老亀が中を覗いてみれば、茹で小豆である。
「よろしいのですか?」
「先ほど子供たちから救いだしたあずきとぎが礼に、とお裾分けしてくれたのですが。一人暮らしにはいささか多すぎまして」
「ありがとうございます。とするとこちらも何かお礼を……ふむ。では、これで」
ひょい、と事も無げに直剣を手渡された慧音は流石に狼狽した。
たかだか小豆一包みに剣が一本。それだけでも割が合わぬというのに、ましてや手渡されたのが世界に一本だけしかないこの国の至宝とあっては。
「ご、ご老体。ご老体はこの剣が何かご存知で……?」
「刀を振るえぬ者にとってはどんな名刀もただの棒切れに過ぎませぬゆえ、お納めくだされ」
「いや、いや、しかし……!」
言っていることはもっともである。
もっともであるが、たかだか小豆なんかと交換されては神器の立つ瀬が無いではないか、と慧音は思うのである。
もっとも既にその至宝は小麦粉なんぞと交換済であるわけで、慧音の狼狽は無駄以外の何物でもないのであるが。
「そ、そうだ。それに私は私自身の力でこの剣を具現化できますので。これをいただくことに利を見いだせませんし」
「それでしたら森の外れにある古道具屋にでも二束三文で売り払ってくだされ。それでカタがつきますじゃ」
妙に具体的な指定だな、と首をかしげた慧音は、その次には声を上げて笑い出していた。
理由と過程は不明なれど、老亀の意図だけは理解できたからだ。
「お礼にお使いを押し付けるとはひどいのではないですかな、ご老体?」
「そこは売却額に利を見いだしてくだされ」
「ぬけぬけと仰る」
「年の功より亀の甲、と申しまして」
空惚けた後、「それでは」と踵を返した老亀の背中に、慧音はやれやれとかぶりを振った。
これだから老人というのは煮ても焼いても食えぬものだ、とつくづく思う。
たとえ、それが亀であっても、だ。
◆ ◆ ◆
「お邪魔いたしますじゃ」
老亀が社務所の居間にのっそりと踏み込むと、神社の主は灯りもつけずにちゃぶ台に頬をべったりつけた垂れ巫女になっていた。
「ん? あら、お帰り。めずらしいのね」
「ちょっと近くを通りかかりましたもので、挨拶がてら。ご主人様はもう夕食は?」
「まだ。さっきまで新しくできた寺のやつらと話しててそれどころじゃなかったわ。あとご主人様はもういい」
「それはそれは、お疲れさまです」
むすっ、と顔をしかめてちゃぶ台から上半身を起こすと、そのまま巫女は後方へパタンと倒れ伏す。
「疲れたー。お風呂沸かして」
「その前に夕食にいたしましょう。小豆などが手に入ったので少々お汁粉でも、と思ったのですが」
「あ、いいわね。私玄のお汁粉好きよ。早く早く」
「はいはい」
勝手知ったる社務所である。
弛んだ顔でベチャリと床に垂れた巫女を放置して、老亀は土間の竃へと向かう。
竃に火を熾し、水を張った鍋に茹で小豆を投入、一煮立ちさせていると、
「んしょっと」
いつの間にやら復活した巫女が背後で七輪に火を熾している。
「二枚」
「左様です。霊夢殿は――今は三枚」
「正・解」
「小さく切ってくだされ」
「分かってるわよ、お爺ちゃんだもんね」
「お餅でウッ! はお年寄りを容赦なく殺しますからなぁ」
気だるげな巫女が、まな板の上で包丁を切り餅に押し当てて、ダンと。
「あぁあぁ、堅いでしょう。やはり爺めが切りましょうか?」
「子供扱いは、やめて欲しいんだけど」
巫女がむすっと膨れるが、こればっかりは仕方が無い。
体重をかけて包丁で硬い切り餅を切り分ける様を目の前にすると、老亀はどうにもハラハラ落ち着かないのである。
「以前、そうやってかぼちゃと一緒に指を切っちゃった子がいましたなぁ」
「そんな昔のことは忘れたわ」
無事、一口大のサイコロに成った切り餅を七輪の上に乗せて、
「霊夢殿」
「なに?」
「なにやら、魚臭いですな」
「そういえば前に魚焼いたままだったわ、網」
呆れたものだ、と溜息一つついて背を向けると、老亀は味の微調整に戻る。
この巫女の味の好みに合わせて、砂糖はちょっと少なめに。
お塩を、一つまみ摘んで。
「前から気になってたんだけど」
「はい」
「玄ってそれ、その手でどうやってお玉握ってるの?」
「魅力的な六重結界を手の先に小さく展開してですね、こう」
「吸着?」
「正・解」
漆塗りの器にお汁粉をよそって、箸を手にとって。お盆に載せて巫女の元へ。
「霊夢殿はまだ、魅力的にはなりませぬか?」
「『私の二重結界は』、でしょ。言葉を削らない」
膨らみ、焦げ目のついた賽の目お餅を投入し、居間に戻って灯りをつける。
二人そろってちゃぶ台前に腰を下ろして、
「「いただきます」」
お餅をぐにょーんと噛みきって咀嚼、ずずりと一口、お汁粉を啜る。
「うん、美味しい。やっぱり洋菓子よりこっちよね」
「洋菓子は、あまり?」
「嫌いってわけじゃ、ないんだけど。アリスとか咲夜が時々くれるんだけど、ちょっと余らせがちね」
「戸棚で腐らせてしまう?」
霊夢は笑った。
「まさか、魔理沙が漁って全部食べっちゃうわ」
「なるほど」
玄も笑った。
どうやら己が思っているよりも、この世の中は、
「あるべき物があるべき場所に納まるようにできているようですなぁ」
おしまい。
かっこいい
次も氏の作品を楽しみにしております。
こういう話大好きです
なんだかとてもほのぼのできました