● ねぇ、どうかしら?
創作料理なんてのは、この世から消えてなくなればいい。真面目にそう思う。
料理に限らず『目新しい何か』というのは誰もが気付かなかった事ではなくて『皆が試したけどダメだった何か』だと言うではないか。だから――だからこの目の前の皿を何とかしてくれと、ゲンナリした顔で魔法使いは辺りを見回す。テーブルは既に皿でいっぱいである。唯一の救いは隣で黙々と口と手を動かし続けている巫女で、斜向かいの魔女などは食卓についているくせに本を開いて活字に目を落としている。
「あきらめなさい魔理沙。そんな顔しても皿は空にならないわ。ただで食事できるのだからもうちょっといい顔しなさい」
「お前もだろ。読んでないで食えよ」
「食べてるわ。新しい皿が来るたびに一口」
「一口ってお前なぁ」
「食を捨てた魔女に期待しないで」
それで、諦めてナイフとフォークを取ってまた食べ始める。決して、不味くは無い。のだが、しかし美味くもない。食べる側として食欲をそがれるのは、これらの品々が手間も暇もかけて、かつ頭も捻って作られたであろう事がひしひしと感じられるからだ。楽をしようと手を抜いて、結果不味い料理が出来ました、というのは判る。一人暮らしの魔法使いにとってそれは日常である。しかし、手を尽くして別に美味くもない物を作りましたというのは判らない。理解不能である。なぜならこの料理を作っている人形使いは普段はごく普通の、とても美味しい料理をつくるのだから。普通にやれば上手くできるのに手を掛けた結果質が下がっていて、それが普段の彼女の料理を食べ慣れている魔法使いにはやりきれないのである。
「なんでこーなった」
と、こぼれるのもしようがない。もう一度隣をうかがって巫女の食いだめスキルは後どれくらい持つだろうかと考えた。
「なんでこうなったかは、長い話になるわ。発端は貴方よ」
「私か」
「あら、納得?」
「そーじゃない。そーじゃないが、そう言われても『んなわけあるかい』と自信を持って言えん」
「心当たりはあるのね」
魔女がページをめくりながら言う。よくも、読みながらまったく別のことを喋れるものだと感心しながら魔法使いはもぐもぐと口を動かす。不味くはないんだ。
「日常生活は意味を失い定型化した行いが大部分を占めるわ。習慣という奴ね。特に食事の場ではそれが激しい。食前の挨拶祈りに始まってどちらの手に何を持つか、どう食べるかまで。食事の場では習慣は支配者だといっていい」
「はぁ? なんか前に聞いたような」
「そして、その習慣に支配された場で、毎回繰り返される言葉があった」
◇◇◇
ことり、と音がして、分厚い具の挟まったトーストサンドの乗った皿が目の前に置かれると、図書館の魔女はじろりとメイドを睨んだ。そんな魔女の湿った視線を軽く無視して、メイドはコーヒーを淹れている。大机の向こう側では魔法使いが頬を食べ物でいっぱいにしている。
場所は、言うまでもない。紅魔館の地下図書館である。朝早くにそこを訪れた魔理沙は、メイドにねだって軽食を作ってもらったのだ。前夜の残り物を適当にパンに挟んだだけだとメイドは言っていたが、味も見栄えもなかなかのもので魔法使いはウマイウマイと何度も言った。
「気に入ってもらえたみたいで嬉しいけど、それ手抜き料理なのよね」
「手抜きだろうが何だろうが美味いもんは美味い」
「そ、アリガト」
そっけなく言うメイドがおかわりのコーヒーを注ぐ。その香ばしい香りがまた心地よい。
「なぁ、咲夜はあんまり『美味いか?』って訊かないよな。作る側としちゃ気になるだろ」
「それは気にならない訳じゃないけれど。ウチは気に入らなかったら手さえつけないタイプばかりだから」
と、魔女の方をちらりと見て言った。魔女の方はもう書見台の上の活字を追っている。その前の皿には出されたときのままである。
アリスはさ――。
と、ソースのついた指を舐めながら魔法使いが言う。
「アリスは毎回訊くんだ、『ねぇどうかしら?』って」
「毎回ねぇ」
「食卓についても私が食うの待ってるんだよ。んで私が一通り手つけたの見ると『ねぇ、どうかしら?』と来るわけだ」
「ふうん」
「んで、私も『ああ、アリスはいい嫁になるな』と。世辞を垂れるわけだ」
「世辞? それが世辞ねぇ」
「なんだよ? いや、実際アイツの飯は美味いんだが。まぁ世辞だよ。いいだろ別にそれは」
熱いコーヒーを一啜りして、魔法使いはどうも飲みなれないなと思った。香りは好きだが、味は苦いばっかりだ。
「ま、そんなだからさ。咲夜は気にならんのかと。それとも自信があるからか」
「自信も無いではないけど。アリスのそれは毎回訊くって言うならそれはもう習慣じゃない?」
「習慣か」
「訊くタイミングまで同じなんでしょ。習慣よ」
「そーかもしれん。私が返す世辞も毎回一緒だしな」
そう言って魔法使いは肩を揺すって笑った。
メイドは魔法使いとしばらく無駄話などして、それから「ごゆっくり」と言って行ってしまった。肩越しにメイドを見送った魔法使いが顔を正面に戻すと、いつのまにか魔女の書見台は脇に寄せられていている。
「食事の価値は――」
「ああ?」
「どう食べようが、どう評しようが変わりはしないわ」
「はぁ」
「したがって毎回毎回同じことを言い、同じ食べ方をする必要は本来無い。出来上がった料理に何を言おうと料理が変わったりはしないし、手づかみで食べようが箸で食べようが味は変わらない」
「何言ってんだお前」
「にも拘らず、食前の挨拶祈りに始まってどちらの手に何を持つかまで、食事の場というのは意味を失い定型化した習慣に支配されつくしている」
「食い方はマナーだろ」
「フォークを左手に持つのに意味はある? ないでしょう。マナーは強制力を持った習慣よ」
「はぁ。で?」
「習慣は毎度毎度同じ時、同じように意味無く繰り返される。しかし、同じように繰り返されるからそれは習慣だとは言えないわ」
「ああ、そういう話か。つまりアリスの『ねぇ、どうかしら』は習慣じゃないと?」
「かも知れないわね」
「かも知れないって、お前。アリスはさ、料理する様はそらスムーズでさ、よどみがないって言うのかな。見るからに自信満々なんだ。味に不安があるようには思えないが」
「アリスは料理をする時、味見をしないでしょう?」
「どうだったかな。そうかもしれん」
「そのはずよ。彼女は記憶で料理してるの」
「つまり、憶えてるレシピをそのまんま再現してるだけって言いたいのか」
イスに埋まりこむように姿勢を崩した魔法使いが、んんんと唸る。頭の中ではいつもの夕食の風景が再現されてる。いつもの光景、いつもの台詞。
「お前、なんか知ってるな? アリスが記憶頼りに料理してるなら、なおさら『ねぇ、どうかしら?』はおかしいだろ? 記憶通りにやってるなら味もわかってるだろ。なんでそんな事訊くんだ」
魔女は両手でコーヒーカップを持つと長いこと香りを嗅いで、一口だけ舐めるように飲んだ。彼女の皿の上のものはまだ手を付けられていない。
「『価値』を確かめるために。彼女は失いつつあるんだわ」
「なんだそりゃ。わかるように言え」
「じきに魔理沙にもわかるわ」
「ほぉ、時期にな。最近わかってきたがお前は言いたがり教えたがりだ。だからそういう言い方をするって事はそもそも教える気がない時だ」
「他人のことを本人が居ない場であれこれ言うのは善い行いとはいえないでしょ」
「魔女に言われるとは思わなかったぜ」
自分から話し出したくせに、と魔法使いは垂れるが魔女はもう書見台を戻して活字の世界に戻ってしまっている。その脇の出された時のままの皿からいい匂いが漂ってくる。
こういう食い物はサッと食べなければダメなのだ。と魔女の方を見ていたはずの視線がいつの間にか脇にずれているのに魔法使いも気付いている。普通のサンドウィッチならともかく、これはソースの多いものを挟んだトーストサンドなのだからパンがふやけぬ内に食わねばいけないのだ。ああ、このままではせっかくのゴチソウが台無しだ。
「そんな目をしないで、物足りないならそう言いなさい」
魔女が皿を押し出すのと、魔理沙が席から腰を浮かして手を出すのと、どちらが早かったろう。
「へへっ、サンキューパチュリー」
「いいのよ。私が食べないのは知ってるでしょ」
「知ってるけどさ」
「これも習慣かしらね」
と、小さく魔女が言った。捨食の法を得た魔女の事、ごく稀な例外の場合を除いて物を食べない。それでも咲夜は図書館の客に物を出す際、いつも魔女の前にも同じものを置く。
「咲夜もいい加減私に食べさせようとするのを止めるべきだわ。無意味よ。無意味に繰り返されるという所からすれば、やはりこれは習慣ね」
「そりゃお前、食わそうとしてるんじゃないだろ」
「なら何のつもりよ」
お前なぁ、と言いかけてから魔法使いは口をつぐみ、しばらく考えてから、言い直した。
「んー。ま、いいけどさ。意味がないから必要ないってもんでもないだろ」
「何よそれ。わかるように言いなさい」
◇◇◇
部屋は明るい朝の陽に満たされ、半分ほど開かれた窓からは心地よい風と小鳥達の声が入ってくる。今日もアリスの世界はアリスがそうあるべしと念じた程度には完璧だった。
カップに注がれたコーヒーの香ばしい湯気が眠気を押しやるのを感じながらテーブルにつく。トーストに塗られるジャムは昨日と同じマーマレードで、したがって昨日の朝に食べたのと同じ味がするはずだった。きっと、そのはずだ。それに、何日か前に魔理沙に味見させた時、彼女はウマイウマイと随分な量を舐めていった。だからきっと、このマーマレードは美味しいはずだし、同じように食卓のコーヒーもトーストもアリスがそうあるべしと考える程度には美味しい筈だ。
アリスの世界は、やはり完璧であるに違いない。
バターナイフでマーマレードを掬ったところで、手が止まった。頭の中でその味を何度もおもいだして、それから少し焦げたトーストの苦味も思い出して、そうしてやっとアリスはバターナイフを動かし始めた。トーストの上でバターナイフが立てる音など何千回聴いた音かわからない。その回数と同じ数だけ自分はトーストを食べている筈で、この音を聞き慣れていると思うのと同じくらいにこの味にも慣れていて、慣れていると言う事はよく知っているという事で、だからこのマーマレードを塗ったトーストは慣れ親しんだ、思ったとおりの味がする筈なのだ。
そうして、アリスはゆっくりとトーストを齧った。それはやはり、思ったとおりの味がした。
よく確かめるように咀嚼して顔を上げて見ると、窓枠の向こうの景色が白黒に見えた。口の中のトーストは、思ったとおり何の味もしなかった。
◇◇◇
アリスの目の前を不恰好な土人形が歩いている。よたよたのそのそソレは歩いて、生垣から飛び出た枝の前まで来ると、手にした剪定バサミでパチリとやる。切り落とした枝を自分の身体に突き刺して、それからまたソレは生垣に沿って歩いてゆく。
特に、用事も無い。ただ独りでいるのが物憂くなってアリスは家を出た。柔らかし日差し、吹き出した若葉、初夏のこの世界は美しいに違いないないのに、なぜか色褪せて見えた。
目的も無く行く出て行って、アリスが時間を潰せる場所などそう多くない。湖の辺りまで来た時には、すでにアリスは当たり前のように紅魔館に向かっていた。彼女を出迎えたのは、いつもの勤勉な門番ではなく不細工な土人形達だった。腰の高さほどしかないその土人形達は枝を切ったり、花壇の土を均したりして紅魔館の広い前庭を動き回っている。初夏を迎えてそこでは一斉に剪定作業が行われているようだった。門前に居なかった門番も庭木にかけた梯子の上で大きなハサミを使っている。
土人形はこの館の魔女が造ったゴーレムに違いない。ならば普段は地下に篭りきりの魔女もこの明るい庭のどこかにいるかもしれない。そう思って見渡すと生垣の向こうに大きなパラソルが見えた。その下は隠れて見えないが、きっと陽光にさいなまれてぐったりとした日陰の魔女がガーデンチェアに凭れていることだろう。
「図書館なら休館日よ」
「どうやら、そうみたいね」
声は、いつにも増して不機嫌そうだった。この日陰の魔女はゴーレム達を監督するために陽の降り注ぐこの場所にいるのだろうが、視線は地下にいるときと同じように手元の活字に注がれていた。もっとも彼女が今手にしているのは、いつもの革装の重そうな魔道書ではなく、薄い文庫本だ。パラソルのトーチカがあっても彼女の体力は日差しのために刻々と削られているのだろう。
あいているガーデンチェアに座ると、身体中に落ち葉やら枝やらゴミをまとった土人形が前を通り過ぎた。ゴミまみれのソレはそのまま隅の方の堆肥置き場まで行くと、そこで体を震わせどさりと自壊した。うまくした物である。
「こういうのは、妖精メイドじゃなくてゴーレムの仕事なのね」
「浮かれた妖精なんかに庭弄りさせたら酷い事になるわよ。あの子達、指示なんてまるで聞かないんだから」
それから魔女は無駄に創造性を発揮させた妖精メイド達が庭木をシーツで覆って大量の「お化け」を作った話や、通りが落とし穴だらけになった話などした。
また別の土人形が熊手を引き摺りながら前をいく。太くて短い四肢がずんぐりした身体を支えている。肩の上には辛うじて頭と思われる盛り上がりがあるが、もちろん顔など造形さえされていない。
「不細工ね」
「ゴーレムにハンサムも何も無いでしょ」
「土が良くないわ。もっときめ細かい粘土のような土で作れば、細部まで造形できるんじゃない?」
「出来るかもしれないけど、奴隷は命令どおり動けばそれでいいの」
「美しくないわ」
「美しさに意味があるなら努力するわ」
「『意味』ね。嫌だわ余裕がなくて」
土くれ達はたまに転んだり土くれ同士でぶつかって崩れたりはしているが、総体で見ればなるほどよく働いている。総勢で2,30体はいるだろうか。上海が近くの一体の頭の上を飛び回るが彼はそれを意にも介さない。
「あれは貴方が操ってるという訳じゃないんでしょ?」
「生成時に命令を与えてるだけよ。タスクが済めば勝手に自壊するわ」
「壊すのを躊躇うことはない? よく見れば愛嬌があるわ」
「……そうならないように細部を造りこまないのよ。貴方ならよく判ってるはず」
「愛着に『意味』はないものね。きっとパチュリーにはこの世界が白黒に見えているのね」
「図書館が開いてないからって、私に当たるのはやめて欲しいわね」
別に調べものに来た訳じゃないと言おうかとも思うが、ならばなぜ来たと訊かれると答えは無い。話し相手と言うには刺々しい相手だが、今は魔法使いにも巫女にも会いたくなかった。彼女達は、眩しすぎる。パラソルの下でなお日光を疎む日陰の魔女くらいがちょうどいい。
その時ふと魔女が顔を上げると、遠くに目をやった。つられて見れば、上海に纏わり付かれていたゴーレムがどたどたと彼女を追っている。腕を振り上げ、のっぺらぼうの頭をめぐらせ、見るからに彼は必死だが、上海はひらりひらりとそれをかわす。上海が後ろに回りこむたびに彼はどたりと倒れ、腕をふるうたびに土の欠片が飛ぶ。その土の欠片が上海の頭に当たる。生垣の花が背景の滑稽劇だ。
上海の悪戯についに我慢ができなくなった、というのは無いだろう。彼はタスクと遂行するだけの土人形だ。ならば僅かの間に魔女が命令を書き換えたのだろうか。戯れを解さない魔女の仕業にしては悪くない風景だと思った。
初夏の柔らかい日差しに包まれて、とても醜い人形と、とても可憐な人形が踊る。その様子をアリスは目を細めて眺めていた。
言葉がこぼれる、というのはある。言おうと思っていたわけでもないのに、場の空気につられてか、それとも本当の本心は言わんとしていたのか、その両方かもしれない。その時の言葉もこぼれたに違いない。ポツリと、消えるように、
「ねぇパチュリー。……私、味覚を失いそうなの」
そう、人形使いが言った。向こうの二体の人形に顔を向けたまま。魔女の視線はもう手元に戻っている。
「いつか来ることよ。むしろ遅いくらいだわ。普段から食事を欠かさなかったのが功を奏したわね」
「……そうね」
「自ら食を棄てておいて、なお食の快楽を得ようだなんて、罪深いとは思わない?」
「魔女に罪の何たるかを説かれるとは思わなかったわ」
「肉体は永遠を得たとしても心は人のままなのよ、私達は。そして老いるのは肉体だけではないの。味覚の喪失はただの始まりに過ぎない。これからも貴方は失い続ける。次々に」
「私も……パチュリーみたいになるのかしらね……」
「なるわ。遠からずね」
「ふふ。当てこすりを言ったつもりなんだけど」
「皮肉になってないわ。私にとって世界は象徴としての『意味』しか持たない」
味覚を失うのが始まりなら、次は何だ。睡眠の快楽を失えば朝の清々しさも、夕の寂しさも失うかもしれない。陽の光はただの光度になり、世界は色を失って、その次もあるのか。そのまた次も。次々と。
「貴方も、じきに物事から『価値』を見出せなくなる。『意味』だけが在る透明な世界が来るわ。心して置くことよ」
美味しいとか不味いとか、面白いとか詰らないとか、美しいとか醜いとか、珍しいとかありふれたとか、そういう全ての『価値』を失った世界を透明と表現できる魔女の神経に感心する。
「人として産まれておいて、人の心を保ったままに永遠を手に入れようなんて――傲慢というものよ」
「この感覚を……傲慢と言うのね。あなたは」
「幼子が成長して内なる友人を失うように、木々が冬に葉を落とすように、自然な変化だと言いたいのよ。逆らっても仕方が無いわ」
「今更言いつくろわないでっ!」
「落ち着きなさい。アリス」
透明な世界。今朝、窓から見えたあの白黒の風景も、彼女が見たなら歓迎すべき透明な世界に見えるのだろうか。もしかしたら、と思う。それどころか隣の書痴には全てが文字に見えているのかもしれない。
あの生垣の前でじゃれあうあの二体のことも。
その時もまだ、人形使いの視線は生垣の方に注がれたままだった。アリスが『意味』も無く踊る二体に『価値』を見出したのはその時だった。
「そう、コロラドがいいわ」
唐突な台詞が効いたのか、魔女が手元から顔を上げた。
「……何?」
「あの子の名前」
指差した先には上海を追うゴーレムがいる。図書館の魔女は息を呑んで、それから大きくため息をついた。
「呆れるわね。アレに名を付けようと言うの?」
人形使いはなおも二体のほうに顔を向けたまま、平然と「ええ、そうよ」と答える。
「アレは私ので貴方に名付けられる覚えは無いわ」
「関係ないでしょ?」
「アリス、アレは今日の作業に使うためだけに造ったものよ。何日も持たないわ」
「いいの。私は彼を記憶に留めたい」
「やめなさい。後悔するわよ」
「随分と臆病ね」
「臆病? 私が?」
「そうよ。パチュリーは臆病。『意味』のみの世界を歓迎してるふうに装って、その実『価値』を怖れてるだけよ。あなたが自分の使い魔にさえ名を付けないのはなぜ? 彼女との記憶に思っても見なかった『価値』がうまれるのが怖いんでしょ」
「貴方に私の往き方をどうこう言われる筋合いは無いわ」
「私にだって無いわ。私はね、あなたの様にはならないの」
人形使いは立ち上がって歩き始めた。パラソルの下を出ると、思っていたより強い陽光に世界が白くぼやけて見えたが、それは決して朝に見たようなものではなかった。近づいた花壇から腐葉土と花の匂いがする。遠くで門番がメイドを呼ぶ声がする。髪をわずかに揺らすほどの風が頬を通り過ぎる。
そうして人形使いはじゃれあう二体の前まで来た。上海を後ろにやって、彼の頭(と思われる盛り上がり)に手をやり、宣言した。
「貴方をコロラドと名付けます。貴方は今からコロラドよ」
きっと混乱したのだろう、彼はしばらく固まってしまったかのように止まって、それからどこか不安そうによたよた歩いて生みの親の傍まで寄った。彼女は眉間に皺を寄せて名付け親を睨んでいる。
「全く……。余計なことをしてくれたわね」
「私とパチュリーは往き方が違うんでしょ。私はその子を記憶にとどめたいの。今日の『価値』を、失いたくないの」
「さっきも言ったけど、この子は何日も持たないわ」
「わかってる」
図書館の魔女はそこでまた大きくため息をつき、そばにいるコロラドに指示して落ちている枝を持ってこさせた。それを手に魔女はガリガリと地面に魔方陣を書き、彼をその中に入れると小さく幾度か詠唱し、彼はそのたびに光に包まれた。
「これで何日か持つ筈よ。さぁコロラド! この庭でせいぜい主に尽くしなさい!」
「あらパチュリー、あなたも『価値』を思い出したのかしら?」
「黙りなさいアリス。これは貸しよ。高くつくから憶えておきなさい」
口元に手を当てて笑う名付けの親と、苦々しい顔の生みの親を見上げて彼はその間で行ったり来たりするのだった。
◇◇◇
それから、森の人形使いは数日置きに紅魔館を訪れるようになった。もっとも、館内まで行くことは少ない。アリスが行くと、彼は生垣を整えていたり、ゴミを運んでいたり、門番と並んで門前に立っていたり、前庭に何匹も住み着いている猫に襲われたりしていた。脆い身体の彼は、しばしば四肢の一部を失って小さくなっていたが、週に一度ほどの頻度で元の大きさに戻っていた。それを見るたび、アリスの脳裏には渋い顔で彼の体を修繕する図書館の魔女の姿が思い浮かんで、堪えきれずに笑ってしまうのだった。
彼を動かす魔力は生みの親たる図書館の魔女のもので、彼を構成するのは紅魔館の南の端に立つ樫の樹の根元の土だ。自分の人形を美しく飾ることに余念が無いアリスも、土の身体の彼には名前以外の何も、与えることができなかった。それで、アリスは幾度か彼の頭に花を挿してやったりした。
「何日か持つ」と言った魔女の言葉に反して、紅魔館の前庭では短い足でのそのそ歩く小さな園丁がひと夏のあいだ見られた。
彼がいなくなったのは、秋の兆しとともに訪れた台風が過ぎたある朝の事だった。
予感は、すでにあった。土でできた彼の事、風雨に強い筈もない。紅魔館のメイドは絨毯を汚す彼を館内に入れることを断固として拒んでいたから、その朝アリスは日の出と共に家を出た。低くて分厚い雲が走るように流れていた。なのに、その後ろに見える空は抜けるような青さだ。台風の過ぎた朝の風景としては当たり前のものだったが、アリスは自分の心にこの朝の風景が刻み付けられるのを感じていた。
空から見渡しても、前庭のどこにも彼はいなかった。せめて彼の最後の場所を見出そうと歩き回った。敷石の上に散乱した枝葉が前夜の風雨を物語っていた。吹き付ける雨粒に身体を毀たれながら、彼はじっと朝を待ったことだろう。
結局、アリスは何も見つけることができなかった。激しい雨は彼の存在だけでなく、その痕跡さえも洗い流してしまった。わかっていた事だ。彼が遠からず居なくなってしまうのは図書館の魔女が幾度も警告したことだった。むしろ、よく持ったのだ。昨夜まで続いた幸運がついに現実に打ち勝てなくなっただけだ。理性は、全て承知していた。
同じ時、館の魔女も前庭への窓から外を見澄ましていた。何かを、もしくは誰かを探して。彼女もまた向こうの噴水のそばで立ち尽くす人形使いの姿を忘れないことだろう。
◇◇◇
いつ来ても変わらない。この場所には日付の区別どころか昼夜さえない。いつも通り図書館は薄暗くて少しカビ臭くて、魔女は定位置で本を広げていた。相変わらず客には目もくれない。人形使いの方も挨拶もなく魔女の大机の前を通り過ぎると、少しはなれたソファに腰を降ろしてただ黙っていた。普段は彼女の周りを飛び回る人形も行儀正しく隣に座った。そうして半刻もすぎてやっと魔女が口を開いた。
「私は警告したわよ。後悔するって」
「……してないわ」
「アリス、わかっているとは思うけど言っておくわ。あの子は私のプログラムに沿って動いていただけ。彼に自由意志などなかった。コロラドは生きてはいなかった」
「わかってるわ。私を誰だと思ってるの」
「なら、どうして名付けたりしたの。妙な振る舞いは止めなさい」
「私はね、裁ちバサミにだって名前を付けてるのよ? クラリスっていうの。鋭利なクラリス、かわいいでしょ?」
ふわりと人形が浮いて、踊り始めた。独りだけの踊りだが、それを操る人形使いには相手を務める不恰好な土人形の姿が見えているのかもしれない。
「ただ忘れたくないと思っただけよ。あの風景、彼と上海が遊んでるの、とてもいい風景だったわ。『価値』があったのよ私には」
「……」
「あとはお節介な誰かさんを困らせてやりたかったのもあるかも」
「気は済んだ?」
「ええ。済んだわ」
「老いを憂うのも幼さのうちだというわ。貴方は気付けた分だけまだ幸運よ。私は気付かないうちに、気づけないままにもっと多くを失ったわ」
「そんな事ないわ。貴方がここでクッキー食べるの、私は何度も見てるわ」
「"あの子"が焼いたから口にしているだけよ。味は……わからないわ」
「それが『価値』よ。判っているじゃない」
上海が書見台の上の本に腰かける。ページは上海のスカートやら足やらで殆どが隠れてしまっているが魔女は人形をどけようともしないし、視線を動かそうともしない。
「ねぇパチュリー、なんで私の我侭に付き合ってくれたの?」
「我侭だという自覚はあったのね」
「話をそらさないで」
「…………気まぐれよ、ただの」
「気まぐれに『意味』なんて無いわよね?」
「……そうね」
溜息とともにそう漏らして魔女はついに上海を追い払って本を閉じた。人形使いに目が合うと彼女は口角を上げて少しおかしそうに言う。
「『透明な世界』はまだまだ遠くみたいね、私も、あなたも」
魔女はそれに答えなかったが、その必要はなかった。いつものように湿った視線をちらりと返してそれだけ。
立ち上がった人形使いが背を伸ばしながらどこか晴れ晴れとした顔で言う。
「ねぇ、今度うちに来なさいよ。我侭のお礼にご馳走してあげるわ」
「貴方のレシピに興味は無いわ」
「レシピは無しよ。創作料理ってヤツね」
「味覚を無くしかけてる魔女の創作料理ねぇ。身の危険を感じるわね」
「酷い出来なら魔理沙を呼ぶわ。あの子何でも美味しそうに食べるの」
「それなら巫女も呼ぶといいわ。あの子も何でもよく食べると聞くし」
◇◇◇
「なるほど、そして私がここにいると」
何か、黄色い塊を口に入れつつ魔法使いが迷惑そうに言う。黄色いのだからきっと卵由来の何かだと思って口にしたそれは全く違う味だった。この予想外というのも創作料理の欠点だ。よっぽど美味いなら別だが、人間は見た目で味を予想して、こういう味がするだろうと考えながら食うのだ。そこでまったく予想を裏切られると美味い不味い以前の話になってしまう。
「気が済んだなら、黙って食べなさい」
「お前も食えって」
「魔理沙、話をちゃんと聞きなさい。ここにある料理がこれほど減っているのは何故?」
「卑しい巫女が黙々と食ってるからな」
「その巫女を呼ぶべきだと提案したのは誰かしら。そこから考えればこれだけ減っているのは私の功績よ」
「お前なァ……」
「そんな事より――」
言いながら、魔女が新しい皿のものをひとすくいスプーンでとって、ながいこと匂いをかいでから口に入れた。そういえば魔女は茶やコーヒーの香りをよく嗅いでいる。表情からはその評価は読み取れない。
「魔理沙、ちゃんと考えてる?」
「何を?」
「もうすぐアリスが料理を終えてテーブルにつくわ。そうして見渡せば全ての料理にはもう手が付けられている」
「ああ……」
「今この食卓には習慣という支配者は居ないわよ。貴方も頼ることはできないわ」
「『いい嫁になるな』は無しか」
もぐもぐと口を動かしながら、さてと魔法使いは考える。毎回毎回自分は同じ事を言ってきたわけだが、あれは世辞であって世辞ではなかった。なにせ実際美味かったのだから。しかし、習慣を脱してついに本当の意味で世辞を言わねばならないのだ。
「食事の『価値』は――」
と、魔法使いは声に出す。
「――料理の味で決まるものではないし、ましてや栄養素なんかでもない」
自分の放つ一言こそがアリスにとっての『価値』になるかも知れない。
キッチンからは鍋やらを片す音が聞こえる。もう猶予は無い。すぐにパタパタとスリッパの音がして、きっと顔を輝かせた人形使いがそこの空いたイスに座るのだ。そしてそこの紅魔館謹製のワインなど口に含んで一座を見渡して言うだろう。
「ねぇ、どうかしら?」
(了)
呑気に描かれてはいても、やはり何かを捨てて人間でなくなるというのは罪深いことですね
それでも手に入れた永遠の中を自分なりに生きている二人の魔女がとても、何だろう、いい作品でした。
人間臭く悩んだり戸惑ったりしているのが
愛しい。
この作風、好きですよ。
その辺は人も妖怪も大して変わらないと思いますね。
いいお話でした。
やっぱり貴方の作品は未来に希望がある終わり方が素敵です
次第に五感が薄くなるって悲しいはずなのに、どこか明るいというか希望のある雰囲気なのは良いですね
素敵なお話でした
その辺りのレッテルで思考しない(させない)と云う在り方に、作者さんの臨む(創作)姿勢も籠められてるのかしら?
このお話は人外故の葛藤だけど、自分と重ねて共感を持てるテーマがありとても良かったです。
レミリア様は強いなあ。本当に強い。
そしてひたすら食い続ける赤白巫女さん…(笑)