Coolier - 新生・東方創想話

フェアウェル,マイ・ヴィンテージ・デイズ 前編

2015/02/22 04:51:32
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Farewell, My Vintage Days

「何か召し上がらなくちゃいけませんよ」とパン屋は言った。「よかったら、あたしが焼いた温かいロールパンを食べて下さい。ちゃんと食べて、頑張って生きていかなきゃならんのだから。こんなときには、ものを食べることです。それはささやかなことですが、助けになります」と彼は言った。
 彼はオーヴンから出したばかりの、まだ砂糖が固まっていない温かいシナモン・ロールを出した。バターとバター・ナイフをテーブルの上に置いた。パン屋は二人と一緒にテーブルについた。彼は待った。二人がそれぞれに大皿からひとつずつパンを取って口に運ぶのを彼は待った。「何かを食べるって、いいことなんです」と二人を見ながら言った。「もっと沢山あります。いくらでも食べて下さい。世界じゅうのロールパンを集めたくらい、ここにはいっぱいあるんです」
――レイモンド・カーヴァー『ささやかだけれど、役にたつこと』より。 


Table of Contents
 Prologue
 Chapter 01 Chapter 02 Chapter 03 Chapter 04 Chapter 05
 Chapter 06 Chapter 07 Chapter 08 Chapter 09 Chapter 10
 Epilogue


Prologue

   #01

 初めまして。私の名前は本居小鈴と云います。突然このようなお返事を差し上げたこと、お詫びいたします。よろしければ、お話を聞いて頂けないでしょうか。

◆     ◆     ◆

 屋敷には先客がいて、すでに訪問を終えたようだった。正門の傍で立ち話をしていた。マフラーを下にずらし、コートのポケットから手を出して、私は二人に近づいた。最初に気がついたのは、天狗の少女だった。
「貸本屋さん、でしたっけ」
「小鈴です。本居の」
「お久しぶりです」射命丸さんが微笑んだ。「寒くなりましたね」
「ええ。小町さんも、ご無沙汰してます」
 小野塚さんが眼を細める。「こんちは。別嬪さんになったね」
「そんな」
「当主様はご在宅だよ。今日のお茶菓子は期待して好い」
「もう、呆れました」
 小町さんは後ろ髪に手をやって笑った。射命丸さんもつられて翼を揺らした。手帳も、写真機も携えていなかった。
「取材じゃないんですよ」視線に気づいて、彼女は云う。「ちょっと野暮用で」
「勝手について来たんだよ」と小町さん。「同行したいって云うから、仕方なくね」
 文さんが小野塚さんを横目で見た。
「話は済んだから、あたいはもう帰るよ。仕事があるしね」
「さっさと寝転びたいだけじゃないですか。記事のネタが少なくて、彼岸はつまらないです」
「そう云いなさんな。自分のペースでやれる職場が一番だよ」
 小町さんは文さんの肩を叩いてから、往来を見渡した。しっかりやりな、と言葉を残してから、跡形もなく消え去った。遅れて舞い込んだ冷たい風が、地面の枯れ草をもてあそぶ。
「やれやれ」射命丸さんが首を振る。「ところで、本居さん。何か里で面白い事件は起きませんでしたか」
「いえ、近頃は平和に暮らしてます」
「天狗は幻想郷の観察者です。何かありましたら、この射命丸文をお忘れなく」
 翼を広げて、風神の少女は飛び立った。後に残された私は、鴉の羽を拾い上げて、鉛色の雲の向こうに遠ざかってゆく彼女の影を見送っていた。

◆     ◆     ◆

 お手紙を下さり、感謝いたします。今回もまた、楽しい時間を、そして大きな慰めを得ることができました。私は今、石炭ストーヴの傍でこの手紙を書いています。雪の積もった往来を駆ける、子供達の笑い声が表から聞こえてきます。それもまた慰めのひとつですね。
 あの子は、今も床に就いています。脳に刺激を与えないためにも、あまり外出することができません。そちらも、未だに意識が戻らないそうですね。春を迎える頃には、芽生えの季節には、すっかり元通りになっていれば好いのにと、曇り空を見上げながらふと考えることがあります。何が切っかけだったのか、今から思い返してみてもはっきりとしたことは分かりません。ただ、貴方が書いて下さった通り、その兆候は確かにあったのです。彼女はその日が来るまでに、何度もサインを送ってくれていたのだと思います。私は気づかない振りをして、何の準備も整えていなかった。
 まだ年が明ける前の、木々の葉がすっかり散ってしまった時分のことでした。私は友人の屋敷に伺ったのです。すでに来客がいて、話をされていました。珍しい組み合わせだと思いました。二人とも、本当に時たまにしかお見かけしない方々でしたから。


Chapter 01

   #02

 幺樂団の調べが絶えて、友人は別のレコードを蓄音機にセットする。ベートーヴェンの交響曲・第六番「田園」だった。畳張りの座敷に西洋の交響曲が満ちる。阿求の飼っている黒猫が、メロディを飲み込んで喉を鳴らした。珍しいね、と云うと、たまにはね、という返事。
「表にいたの?」
 友人の言葉に、私はイチゴ風味の最中(もなか)をふがふがしながら答えた。「うん。小町さんと文さん」
「死神と天狗」
「他人行儀ね。好いじゃない、名前で」
「何か話したの」阿求は首を振って云い直した。「何を聞かされたの」
「特に何も。世間話かな。美味しいね、この最中」
 阿求は眼を伏せて、黒猫を抱き上げた。文机には原稿と毛筆。硯(すずり)に墨は磨られていなかった。
「食べないの?」煎茶を飲んで私は云う。「何だかぼうっとしてない、大丈夫?」
「……最近ね、同じ夢を見るの」
 親友は猫のお腹をなでながら答える。
「同じ夢、ね。妖怪の仕業?」
「分からないわ。箱みたいな物に閉じこめられる夢よ。直方体で、向かい合うように座席があって、左右が全面ガラスになってる。電車だと思うけど」
「それで」
「私は窓際に座っているの。それで窓から景色を眺めてる。外には上から下まで夜空が広がっていて、星が本当に綺麗なのよ」
「地面がない、線路も?」
 阿求は頷いた。「美しい夢だけど、少し怖いわね」
 友人は眼を伏せた。「田園」が過ぎ去りし夏の風景を部屋に運び続けていた。波のように揺れる稲の青葉。蝉時雨。微かな雨の匂い。手持ち無沙汰になった私は阿求の最中にも手をつけようとして、黒猫に引っかかれそうになった。
「小鈴」阿求は顔を上げた。「本の返却、いつだっけ」
「まだ余裕あるよ。来週だから」
「今から返しに行っても好い?」
「どうして」私は首を傾げた。「稗田家もとうとう経費削減?」
「『縁起』の編纂が忙しくて、しばらく会えそうにないから」
 私は呼吸を置いた。編纂が忙しいのなら、それこそ資料となる貸本が必要なのではないだろうか。
「後で女中さんに頼めば好いじゃない」
「ええ、そうね」
「三者対談で『縁起』もひと区切り付いたんじゃなかったっけ」
「…………」
「そんなに急がなくても好いと思うけど」
 阿求は猫を離して、額に手のひらを押しつけた。煎茶を飲み終えた私は、湯呑みを膝に置いて「阿求?」と呼びかけた。
 彼女が答えなかったので、私は頷いてから続ける。「あんたが望むのなら、もちろん受け付けるけど」
「ありがとうね、小鈴」
 友人は眼を逸らしたまま云った。膝の横を黒猫が通り過ぎた。

 木枯らしが過ぎ去り、妖怪の山は雪の冠を被り始めた。人びとは冬支度を始めた。薪の煙。往来をうつむき加減に、人びとは身を縮めて歩いてゆく。入り口の鈴を鳴らして、店の本を借りてゆく。私は忙しく働いた。例年通りに。
 使いの女性が本を返しに来た。冬場はお身体に障りますから、と女中さんは云う。でも私は幼い頃、雪の積もった土手を二人で滑り降りた日々を思い出してしまう。別れた日に借りたレコード、「田園」に耳を澄ませながら、冬の到来と、その後に続くはずの目覚めの季節を待ち続けた。
 師走になって空気が澄み渡ると、晴れた日を選んで里の近辺を散歩するようになった。道端で常連さんに出会った。首に市松模様のマフラーを巻いて、土手でしゃがみ込んでいた私に声をかけてくれた。
「具合でも悪いのかい」
「これは、その――」慌てて立ち上がった。「何でもないんです。柳の運河を見ていました」
 あのひとが眉を上げたので、私は説明する。「子供の頃、友達と好く遊んだんです。絵を描いたり、本を読んだりして」
「ほう」
「その子、絵を描く練習をしなきゃいけなかったんです」妖怪を記録するために。「私も付き合って描いていました。その時のスケッチ・ブック、今も大切に取ってあるんですよ」
 彼女は何度も頷いた。私は癖で髪に手をやり、指で鈴を鳴らした。
「ごめんなさい。つまらない話、ですよね」
 常連さんは首を振った。手を伸ばして頭をなでてくれた。私の背丈はいつの間にか、彼女の眼の高さにまで達していた。
「貴方の前じゃ、私、いつまでも子供みたい」
「懐かしむことは罪ではないぞ」彼女は云う。「振り返るようになったということは、それだけおぬしが大人になったということじゃよ」

   #03

 大人になるということ。季節の移り変わりに鈍感になるということ。空を見上げる気持ちを忘れてしまうということ。どの地点で道は別れていたのでしょうか。始めから道は分岐しておらず、選択の余地はなかったのでしょうか。それとも、どの道を選んでも最終的に辿り着く場所は同じだったのでしょうか。
 友人のことは好く知っているつもりでした。彼女は特別なんだと教えられました。決して失礼のないように、と。あの方が授かった使命をお助けする役目を、私達は承っている。それは本当に誇らしいことなんだよ。そう云って視線を逸らした父の顔は、今でも忘れられません。
 父の表情から何かを読み取ったのでしょうか。幼い日の私は、ごく自然に彼女と打ち解けることができました。それは彼女にとって、そして私にとって幸福なことでした。私達は運が好かった。上手くやってこれた。これ以上ないくらいに、好き親友で在れたのだと思います。

 また長くなってしまいました。次は私がお聴きする番でしたね。貴方からのお手紙を読んでいる間、私の靴は軽くなります。時計の針が刻む音を忘れることができます。そこにあるのは私の大好きな、鈴の音だけです。お手紙、楽しみにしていますね。心から。

敬具   
本居小鈴   

◆     ◆     ◆

 陽が昇っては、また沈んでゆく。寒さに耐えかねて散歩も止めた。降ってもいないのに、雪の匂いがした。石炭ストーヴで足を暖めながら、私は本を読み耽った。師走の中頃、再び阿求が訪れた。鈴が鳴った。抜け出して来たの、と最初に彼女は云った。私は蓄音機を止めて、久しぶり、と声をかけた。
「寒いのは厭ね」阿求は困ったように笑った。「頭が痛くなるから」
 私は色あせたスケッチ・ブックを開いていた。向かいに腰かけた阿求が眼を留めて、口元を緩ませた。
「小鈴。覚えてる?」
「ん」
「土手に腰かけていたら、――そう、絵を描いていた」
「うん」
「私が花や山をスケッチする隣で、あんたは本を読んでいて」
「ええ」
「それまでは独りで描いていたのよ。小鈴が声をかけてくれるまで」
「そうね。懐かしい」
「あの時、何か聞かされていなかった?」友人は声を落とした。「つまり、小鈴のお父さんや、お母さんに。私について」
「聞いた。でも、私達には関係のない話だわ」
 阿求は本棚に顔を巡らせた。考え込むように言葉を紡いだ。
「私の『縁起』は読んだの?」
「当たり前じゃない。うちで製本してるんだから」
「最後の独白も」
 私は喉を鳴らした。「ええ」
「もうすぐなのよ」阿求は云った。「多分、屋敷から出るのは難しくなると思う。仕上げもあるし、準備もあるし」それでね、と手で訳の分からないジェスチャーをしながら、早口で喋った。「できれば、手紙を書いて欲しいの。私も沢山書くから。それなら――」
「私が行っちゃ駄目なの? あの仰々しいお屋敷に」
 彼女は首を振った。
「どうして」
 答えはなかった。
 私は椅子を引いて立ち上がり、阿求に顔を近づけた。「確かに読んだわよ、独白。ずっと前に。でもあれって要は、あんたの身体が弱いからそう書いただけでしょう。今は竹林の薬師さんもいる。前は絶対に治せなかった病気だって治るようになってる。健康に気をつけていればきっと」
「小鈴。ねえ」
 阿求に手の甲を握られて、私は話すのを止めた。手を動かそうとしたけれど、友人の力は思っていた以上に強かった。机を挟んで私達は向かい合っていた。先に眼を逸らしたのは私だった。
「……分かった」彼女からは見えないように、エプロンの裾を握って云う。「でも、阿求の気持ちを尊重しただけよ。納得はしてないからね。手紙なんていくらでも書くから。後でちゃんと教えてちょうだい」
 阿求はうん、と答えた。手を握る力が強まった。握り返すことも、また振り払うこともできずに、彼女の白い手首に浮いた青い血管を私は見下ろしていた。彼女はいつも通りの不敵な笑みを浮かべてこちらを見返すのだった。
「まだまだ先の話よ。冬ごもりに文通するのも風流じゃない。折りを見て、説得してみるから。そうしたら顔を合わせることもできるし、また二人で本を読むことだってできる。だから小鈴、落ち込まないで。きっと上手くいくから」


Chapter 02

   #04

 市街地のあちこちから黒い煙が上がっていた。道路が隆起して、断線した地下ケーブルが骸(むくろ)をさらしている。街の中心部は特に損壊が酷く、蟻塚のようにクレーターが穿たれている。複数のビルディングが倒壊していて、砂塵を吸い込んだ空は黄土色に濁っていた。
 マエリベリー・ハーンは荒廃した首都の大路を歩いていた。他に人間の姿はなかった。街のランドマークであるタワーはピサの斜塔のように傾いており、隣の高層ビルに寄りかかっていた。時折、余震が引き起こされたかのように大地が揺れるため、その度にマエリベリーは地面に四つん這いにならなければいけなかった。瓦礫の落下を避けて、街の中心部から離れていくうちに、山間の療養施設に通じる坂道に辿り着いた。首都でも有数のサナトリウムだ。葉を散らして丸裸となった人工林のアーチを抜けて、息を切らしながら坂を昇り切った。サナトリウムもまた、廃墟になっていた。白と緑を基調とした施設の壁面は、赤黒い錆で汚れていた。
 辿り着いた頃にはすでに夕暮れで、黄土色の空は群青に飲まれつつあった。無人の受付の前を通り過ぎ、階段を昇り終えたところで、メリーは足を止めた。たった一室だけ、廊下に明かりが漏れていた。壁に手を這わせながら、足音を消して近づき、室内に顔を覗かせた。
 そこには友人がいた。そして自分がいた。
 宇佐見蓮子はベッドの脇に置かれた椅子に座り、丸テーブルに向かって何かを書いているようだった。アナログな紙に、アナログなペンで。ベッドに横たわったマエリベリーは、身動きひとつせずに呼吸を続けていた。彼女はやつれていた。食料を蓄えられなかった動物のように。友人は眠り続けるメリーに眼差しを配った。その瞳は気遣わしげに細められていた。割れた窓の向こうには、無人のビルディングの葬列が広がっていた。廃墟へと変わり果てた世界に、二人きり。
 蓮子、と呼びかけた。唇を動かした。音はなかった。彼女が瞳をこちらに向けたが、焦点は定まっていない。首を傾げてから姿勢を戻し、ペンを手に視線を落とした。もう一度、呼びかけようと唇を開いた。
 そこで、マエリベリーは眼を覚ました。

◆     ◆     ◆

 宇佐見蓮子は頬杖を解いて、車窓に光を投げかける夕陽から視線を離す。向かいに腰かけた友人が瞬きをしている。手を伸ばして、髪に付いた糸くずをつまみ取ってやる。マエリベリーは礼を述べてから、背筋を伸ばして深呼吸する。
「おはよう」蓮子は笑って云った。「今度は、どちらまで?」
「あまり気乗りしない場所だったわ」メリーは気怠げに答えた。「歩きにくいし、変な臭いはするし、猫いっぴきいないし」
「居眠りしがちだけど。寝不足なの?」
「規則正しく生活してます。蓮子と違って」
「そう」蓮子は云った。「樹懶(なまけもの)って動物は、一日に十五時間から二十時間は眠っていたそうよ。環境の変化に弱くて、もう絶滅したけど」
「縁起でもないわね」
 メリーは水筒から麦茶を飲んで、合成された大豆バーを口に運んだ。アナウンスが流れて、列車が停止し、人びとの乗り降りを経て、僅かな揺れもなく発進する。次だよ、と伝えると、メリーは無言で頷いた。
 列車が橋に差し掛かった。蓮子は再び頬杖を突いて、車窓の奥に向かって流れてゆく河川を眺めた。窓の端から化粧品の広告が自己主張してきたので、指をフリップさせて追い払った。
「これってオフにできないのかな」
「諦めなさい」
「帰り道の風景くらい、ゆっくり楽しませて欲しいわね」
 手のひらで額をさすりながら、メリーが云う。「どうも近頃、夢を視る時間が長くなってる気がする」
「それだけ別の世界を探検できるってことじゃない」
「実生活に支障が出るのは勘弁よ」
「まぁ、そうね」
「現実感が増してきてるような気がするのよ。引っ張られてるって云うか」
「羨ましい。メリーさんの瞳はとうとう境界を捉えつつあるわね」
 蓮子は鞄から薄塩味のクラッカーを取り出した。一枚、咀嚼してから飲み込んだ。そして云った。「そういやさ、メリーは結局、冬休みどうするの」
「まだ決めてないわ」
「今年は短いから、大したこともできないけど」
「ええ」マエリベリーはまだ額に手を当て続けていた。「ねえ、蓮子。出発を遅らせるか、早めに帰ってくることはできないの?」
「ごめん。今回ばかりは本当にごめんね。進路の相談とか、親戚への挨拶もあるから。日帰りだけは駄目だって云われちゃってさ。せめて三箇日まではいてくれって」
 蓮子は手を合わせて、拝むように友人を見上げた。メリーは疲れたような微笑みを浮かべた。夕陽が頬に差し込んで、顔の左右の色を塗り分けていた。
「メリー?」
「仕方ないわよ。正月だもの。でもね、いつかは二人で遠いところまで旅行したいわね。それもスケールの大きいやつ」
「例えば」
「前に話してた、月面ツアーとか」
「いくら掛かると思ってんのよ」蓮子は笑って返した。「夢の中だけでも、充分楽しめたわ」
「そうね」メリーはうつむいた。「そうね」
 再びアナウンスが流れる。会話は切り上げられる。

   #05

 ブザーが鳴った。今年最後の講義が終わった。マエリベリーは荷物をまとめて頭にキャップを被ると、足早に講義室から出た。込み合う階段を降りて、一階のラウンジを目指す。蓮子が丸テーブルで読書している。コーヒー・カップからは湯気が立っている。
「蓮子」
「メリー、お疲れ」
「ええ。お疲れさま」マエリベリーは椅子を引いて座った。「文庫本ってやつよね、それ」
 蓮子は頷いた。「童話集よ。宮沢賢治の。ちょうど『銀河鉄道の夜』に差し掛かったわ」
「珍しい。蓮子が小説なんて」
 友人は本に指を挟んで閉じ、カップを持ち上げた。
「小さい頃から好きなのよ。こっちに来てから読まなくなってたけど」
「好く紙の本が手に入ったわね」
「田舎だからね、東京。探せば掘り出し物が見つかるのよ」
 メリーは感心したように頷いた。
「デジタルだと雰囲気が出ない?」
「他の作家は好いのよ。これだけはね、印刷された文字で読みたいの」
「『風の又三郎』とか」
 蓮子は楽しげに頷いた。「私は『グスコーブドリの伝記』や『セロ弾きのゴーシュ』の方が好きだけど」
 友人は物語について語った。マエリベリーは蓮子の珈琲をひと口頂いてから、熱心に耳を傾けた。倶楽部や物理学に関すること以外で夢中になって話す友人の姿を、メリーは初めて見た。
「――最後には頑張りが認められて、ゴーシュは楽長や仲間達に褒められる。好くやったって。でも帰宅してから、遠くの空を眺めて云うの。『ああかっこう。あのときはすまなかったなあ。おれは怒ったんじゃなかったんだ』って呟くのよ」
 蓮子は手振りを交えて続けた。メリーは黙って頷いていた。
「資質や能力は認められたけど、独りでいる自分の心を分かってもらえたわけじゃない。ゴーシュは最後まで嬉しそうな様子を見せなかった。手放しのハッピー・エンディングじゃないと思う、あの物語は」
 蓮子は目蓋に指を当てた。星を読み解き、月を見通す真っ黒なその瞳は、マエリベリーの世界の中心できらきらと輝いていた。珈琲はもう湯気を立てていなかった。メリーは断ってから立ち上がり、機械に学生カードを通し、新しいカップに温かいカフェ・オレを注いで、席に戻ってきた。
 蓮子は眼から指を離して云う。「今では、ほとんどの病気は根絶されたわ。細胞の問題さえクリアすれば、不老不死も夢じゃないって云われてる。人類最後の敵は老化なんだって」彼女は手のひらを開閉した。「でも、科学世紀においても、未だに自殺は発生しているわ。これだけ精神的にも豊かになったのに。多分だけど、私達の最後の敵は老化じゃない。もっと別の何かよ」
 周りの学生達は冬休みの予定について話し合っていた。どのテーブルにも談笑があった。どうして私は蓮子とこんなシリアスな話をしているんだろう、とマエリベリーは思った。蓮子が帽子を目深に被り直した。「……メリー、ごめん。何か熱くなっちゃった」
「好いのよ。蓮子の新しい面が見れたから」メリーはカフェ・オレを飲んで云った。「意外と繊細なところもあるのね、貴方」
 蓮子は帽子の庇(ひさし)をさらに下げた。
「いつか行ってみたいわね、宇宙」メリーは話題を変えた。「お金を稼いで、シャトルに乗って、月面ステーションから青い星を眺めるの。そう、銀河鉄道の切符を持ってね」
「死後の世界じゃなくて」
「もちろん」
 二人は笑い合った。マエリベリーの瞳に、焼けるような痛みが走ったのは、その時だった。反射的に手を動かして両目を覆った。払い落とされたカップからカフェ・オレがぶちまけられた。立ち上がった蓮子の声に、周りの学生や大学のスタッフが振り向く。
「大丈夫、蓮子。大丈夫だから。もう痛くないわ」
 メリーは手をどかした。蓮子の眼が見開かれた。容態を看ようと隣にいたスタッフは短い悲鳴を上げた。メリーは手のひらを見た。赤色のペンキのような、粘度の濃い血潮がへばりついていた。涙のように頬を伝った血の筋が、シャツの襟に紅いアートを描いてゆく。
「メリー、メリーっ」
「平気よ、痛くないの。蓮子、ねえ」
 マエリベリーは蓮子に伝えた。自分の発した言葉の響きが、雛鳥のさえずりよりも頼りなく、紙風船のように脆く浮かんでゆくことを知りながら。

   #06

 蓮子は何度か提案してみたが、友人は首を縦に振らなかった。両眼に包帯を巻いて、病室のベッドに横たわったマエリベリーの姿を見ていると、内緒で実家に連絡を入れたいという衝動に駆られた。
「駄目よ」メリーは気丈に云った。「気にかけてくれるのは嬉しいわ、本当に。でも、正月はちゃんと帰省しなきゃ。お父さんやお母さん、待ってるんでしょう」
「そうだけど」
「学費だって負担してもらってるんだから」
 蓮子は言葉を失くして窓を見た。年末になって初雪が降り出した。病室に備えつけられた端末を動かす。この雪は今年いっぱい止まないらしい。画面をスライドさせる。「ヒロシゲ」の発着時刻が迫っている。
「分かった」蓮子は諦めて云った。「でも、大丈夫なの。メリー?」
「ええ」
「またコールするから」
「メッセージでも好いわ」
 蓮子は帽子を被った。好いお年を、と声を掛け合って、ドアの開閉スイッチを押そうとした。後ろからメリーが呼びかけてきたので、すぐに振り向いた。彼女は指で包帯をずらし、マリン・ブルーの瞳を露わにした。二人は眼を合わせた。
 メリーは笑って云った。「……おっけー。好いわよ。今年最後だからね、蓮子の顔」
 患者服を身に纏った友人の身体は、思っていたよりも痩せていた。エア・コンディショナーの稼働音だけが、取り残された彼女の世界の音響だった。蓮子は再び帽子を外してベッドに近づき、マエリベリーの手を握った。
「また来年、メリー」
「ええ。旅行のこと、忘れないで」
「いつかね」

 ビルディングの群れ、雑踏を成す人びと、雪を降らせる灰色の空を、蓮子は眺める。駅ビルに入り、エスカレーターに乗って地下階に向かった。酉京都駅の改札を潜って「ヒロシゲ」のホームに降り立った。卯東京駅まで、五十三分。並んで列車の到着を待っていると、コールが鳴った。列から離れて、ポケットからポータブル・デヴァイスを取り出し、通話アイコンを押して耳に当てた。マエリベリーからだった。病院の端末から掛けたのか。
『蓮子』
「ええ、メリー。どうしたの」
『何だろ』メリーは声を詰まらせた。『どうして電話したのか、忘れちゃったわ』
「私もコールしようかと思ってた、ちょうど」
『お互い様ね』
 蓮子はデジタル表示板を見上げる。「もう列車が来るわ」
『気をつけてね、蓮子』
「メリーこそ、養生しなさいよ」
 間が空いた。白く濁った息を吐き出す。
『……蓮子』
「メリー?」
『また、来年ね』
「さっきも云ったわ、それ」
『元気でね』
「うん」
『話し合い、上手くいくことを願ってるわ。進路とか、色々』
「今はあまり、考えたくないかな。そういうこと」
『ごめんなさい』
「好いのよ」
『元気でね』
「メリーこそ」
『元気で』
「分かってるって。そんな念を押さなくても」
『どうか、元気で』


Chapter 03

   #07

 手帳を新しくした。少し費用が嵩んだ。スケッチ・ブックと同じで、大切な道具にはお金をかけたいから、気にしないことにする。今日は何処まで行こうかと考える。何処まで飛んでゆこう。何処までも、と貴方は云う。
 貴方は寒がりだった。でも怖いもの知らずだった。だから私の腕の中で貴方が震えていたのは、空を飛ぶ恐怖からではなくて、単に空気が冷えていたからだろう。事実、貴方は笑っていたから。
 私は庭に降り立つ。貴方が別れの挨拶を述べる。お菓子を包んで渡してくれる。お礼です、と貴方は云う。私の知らない世界を見せてくれて、ありがとう。私は受け取って飛び立つ。空を滑りながら、貴方が渡してくれた甘味を頬張る。珍しい、西洋のお菓子だ。それがカステラという名前であることを、私は後から知る。貴方が永い眠りに就いた後のことだ。永い眠り、人間は好い言葉を考える。あれは眠りなのだと子供に教える。幻想だとしても、幻想だからこそ。
 私が意外と甘い物好きであることを、貴方は私に気づかせてくれた。私は貴方に何を気づかせることができたのだろう。このような文章を手帳に綴ることで、私は後どれくらいの時間、貴方との想い出を保つことができるのだろう。
 甘いお菓子を食べる度に、貴方と過ごした部屋のことを考える。あの部屋、あの季節、あの笑顔。私は他のひとに気づかれないようそっと軒先に降り立つ。貴方が障子を開けて微笑みながら唇に指を立てる。肩に雪が降り積もっていれば、私はそれを払い落としてから部屋に入る。

◆     ◆     ◆

 季節が巡る。年の瀬を迎える。私は首にマフラーを巻く。貴方が似合うと云った首巻き。あれはもうぼろぼろになったから、自宅にしまい込んである。私が手荒く扱ったせいだ。冷たい風に浴びせ過ぎたせいだ。貴方は冬を越えることができなかった。春を迎えるだけの力は残されていなかった。最後に貴方の姿を描き写したのはいつだろう。貴方が寝込みがちになってから、永い眠りに就くまでに、どれだけの距離が私達を隔てたのだろう。
 きっと。
 きっと、手を繋げる以上には、離れていなかったはずだ。貴方の手はいつもそこにあった。痩せ細っていても、動かせなくなっても。あれから幾人もの人間や妖怪に私は出会った。星の数ほど、社交辞令を口にした。お近づきの握手を交わしたことも沢山ある。それで確信を持った。貴方ほどに柔らかい手の持ち主には、未だに出会っていない。
 今は、比較的簡単にお菓子が手に入る。カステラも、最中も、奮発すればケーキさえも、里や山で味わうことができる。貴方がこれを食べたらどんな反応をするだろう、と考える。貴方が居た頃に比べて、カステラは同じ物とは思えないくらい美味しくなっている。しっとりとしていてより甘い。申し訳なく思うが、この味わいは文字には起こせない。
 里を廻っていると、子供達の声が聞こえてくる。雪を丸めて遊んでいる。私は振り返ってその笑顔を心の中でファインダーに収める。目的地に着くと、同行する女性が取り次ぎを頼む。私は彼女に気づかれないように息を吸い込む。白い吐息が冬の空に溶けてゆく。灰色の雲の海原に、貴方の欠片が沈んではいないかと空想を巡らせる。

   #08

 神社に帰り着くと、博麗霊夢は幣(ぬさ)にこびり付いた血を払い落とした。麻の部分は染みになってしまっていた。顔をしかめて縁側の敷石に放り出すと、念入りに手を洗った。社務所に入り、お茶の支度を始めた。手が滑って茶葉を落とした。溜め息をついて掃除した。ちゃぶ台に伏せて長い間、じっとしていると、境内に降り立つ靴音が聞こえた。彼女はブーツを脱いで茶の間に入ってきた。
「よう」
「なに」
「きのこと野菜、持ってきた。何か食おうぜ」
 霊夢は顔を上げた。霧雨魔理沙がバスケットを掲げて笑っていた。彼女は霊夢に勧められる前に、戸棚から湯呑みを出し、急須を手に取って緑茶を注いだ。それから座布団を引っ張って霊夢の向かいに座った。
「寒いな」
「そうね」霊夢は努力して微笑んだ。「お鍋とか、どうかしら」
「ああ。その響きだけで腹の虫が鳴りそうだ」
「準備するわ」
「霊夢。スカーフ」
「は?」
「血が付いてる」
 魔理沙は胸元を指さした。霊夢は黄色のスカーフを手に取った。紅い血が数滴、付着している。念のために服のあちこちも検めてみたが、こちらが怪我を負った訳ではない。頭のリボンも外して髪を流すと、霊夢は深く息を吸って吐き出した。
「お疲れだな」魔理沙が苦笑いして云った。「私も呼んでくれりゃ好かったのに」
「あんたは巫女じゃないでしょ」
「まぁな。でも、今更だろ」
「抜け駆けは許せないって?」
「ンなことはどうでも好いんだが」
 魔理沙は湯呑みに視線を落とした。
「……あれさ、改心させる訳にはいかなかったのか」
「改心?」
「ずっと前に華扇がさ、野鉄砲になりかけたマミを導いただろ。あんな風に」
「面倒ね。なんでそんな回りくどいことをしなきゃなんないのよ」霊夢は頬杖を突いた。「今日みたいに右も左も分かりゃしない、弾幕ごっこの“だ”の字も知らない、こっちの話を聞こうともしない奴にいったい何を――」
「どうどう」魔理沙は両手を挙げた。「ま、妖怪の数もだいぶ増えたしな。そういう奴が出てくるのも仕方ないだろ」
「それで」
 友人は肩をすくめた。「別に。ただこういうことがあるとさ、霊夢さんはいつも元気を失くすからな。魔理沙さんがありがたい方策をご教授してやろうかと思っただけだ」
 霊夢はお茶を飲み干した。「元気がないって、いつも通りじゃない。ぼうっとしてるだけよ」
「なら好い。と云うか、もう好い。それよりさ、せっかくだから他にも誰か呼ぼうぜ」
「そんないきなりは集まらないわよ。今夜は新月だし」
「じゃあ、人間だけでも」
「プチ宴会ね」
「そんなところ」
 善は急げ、と魔理沙は縁側に立てかけていた箒を手に取った。霊夢はまた頬杖を突いた。去り際に魔理沙がこちらを振り向いたのが分かったが、気づかない振りをした。

   #09

 その夜、神社にやって来たのは十六夜咲夜と東風谷早苗だった。妖怪はひとりもいなかった。四人でちゃぶ台を囲んで鍋を突(つつ)いた。それぞれが具材を持ち込んだので、出汁が好く染みて思わず頬が緩んだ。雑炊にもできそうだった。中でも、咲夜が持ち込んだ赤ワインに早苗は舌鼓を打った。甘味があって癖がなく、身体が芯から暖まる。
「グリューワインって云うのよ」咲夜が解説する。「カベルネ・ソーヴィニヨンの赤ワインに、蜂蜜とシナモン、クローブを加えて温めたの」
「ホット・カクテルですか」
「ええ。アルコールが飛んでるから飲みやすいでしょ」
 霊夢と魔理沙が揃って不平をこぼした。咲夜は肩をすくめる。
「酔いたいならウィスキーでも足しなさい。そこに置いてあるから」
 小じんまりとしていながらも、宴会は盛り上がった。早苗は霊夢を観察していた。彼女はあまり鍋を口にせずに、グラスばかりを空けていた。
「霊夢さん、その飲み方は危険ですよ」
 声をかけると、霊夢は早苗を真正面から見つめた。
「早苗は、今もやってるの?」
「何を、ですか」
「妖怪退治」
「ええ」
「弾幕ごっこで」
「そうです」
「楽しい?」
「たのし、――え?」
「…………」
 霊夢は酒を呷った。意味が分からずに、咲夜と顔を見合わせる。
「その、な」魔理沙が笑って云った。「今日はこいつ、なり損ないを相手にしたんだ。それで不機嫌なんだよ。――ま、今夜は霊夢のお疲れ様会ってことでひとつ」
 咲夜は「ああ」と云って頷いた。早苗は話についていけなかった。
 グラスを置いた霊夢は首を振ると、取り繕うように微笑んだ。
「長いこと巫女をやってると、たまに話の通じない奴が出てくる。それだけのことよ」彼女は頭を下げた。「ごめんね、早苗。変なこと訊いちゃって」
 早苗は両手を振った。

 咲夜と宴の片づけをした。霊夢は倒れるように眠ってしまい、魔理沙は介抱で手が放せない。霊夢さんが酔い潰れるなんて珍しいですね、と早苗が云うと、疲れてるんでしょう、と悪魔の従者は答えた。
「妖怪の流入に歯止めが掛からないからね。ここ数年で随分増えた。密度が大きくなるとそれだけ諍いも多くなる。何処でも変わらないわ」
「産業革命期のロンドンみたいですね」
 早苗は何の気なしに云った。咲夜が横目で見つめてきた。
「霊夢だって人間だもの。消耗する時もあるわよ」彼女は拭き終えた皿を篭に置いて続けた。「いや、擦り切れるって云った方が近いわね」
「擦り切れる……」
「慣れないことをすると疲れるってことよ。貴方だって幻想郷に来たばかりの頃は苦労したでしょ」
「そうですね。それはそうですが」
 早苗は思い出し笑いをした。咲夜も口元を綻ばせた。そのやり取りをきっかけに、早苗は咲夜と約束を取りつけた。甘味が好きな二柱も、きっとグリューワインを気に入ってくれるだろうと思った。咲夜は快く了承してくれた。
「お嬢様の許可を頂ければ、だけど」
 洗い物を終えて茶の間に戻ると、霊夢と魔理沙が折り重なって眠っていた。静寂の中で二人の寝息が部屋の中空をたゆたう。咲夜と笑みを交わしてから、早苗は二人に毛布をかけて縁側に出た。火照った頬に夜風が当たる。月のない夜空に、星が瞬いている。
「新月の夜は」隣に腰かけた咲夜が云った。「お嬢様は独りを好まれるの。今夜は丁度好い息抜きになった」
「紅魔館には、夜にお伺いした方が宜しいでしょうか」
 早苗は顔を戻して云う。咲夜は笑顔で首を振る。
「いつでも歓迎する。お嬢様ならそう仰るわ」

   #10

 年の瀬で里の往来は混雑していた。魔理沙は帽子を目深に被って歩いていた。大通りを逸れて水路に架かる橋を渡り、鈴奈庵の暖簾を潜った。机に乗った蓄音機から、耳慣れない音楽が流れていた。
「いらっしゃいませ」小鈴が顔を上げる。「ああ、魔理沙さん。お久しぶりですね」
「邪魔するぜ」魔理沙はトンガリ帽子を脱いで片目をつむった。「何書いてるんだ。手紙か」
「ええ」
「今日は幺樂団じゃないんだな」
「外の世界の音楽です。『田園』という名前だそうで」
 魔理沙はしばらく文机に寄りかかって、蓄音機が奏でる旋律に耳を澄ませた。それから順番に本棚を巡っていった。小鈴も手紙を伏せて立ち上がった。
「何をお探しでしょう」
「妖魔本、かな。記録でも好い。人間に取りついて徐々に衰弱させる妖怪とか、気力を減退させる質(たち)の悪い病気とか、記憶にないか」
「それは亡霊や怨霊の類なのでは」
「何でも好いんだ。妖怪でも怨霊でも」
「そうですか」
 小鈴は目的を訊ねて来なかった。具体的な書名を挙げることもなく、本棚を巡る魔理沙の後を付いて回った。店の奥まで辿り着いてから、魔理沙は振り返って彼女の顔を見た。
 小鈴が首を傾げた。髪留めの鈴がちりんと鳴った。
「何でしょう」
 魔理沙は言葉を選びかねて、咳払いした。「……最近はどうだ、繁盛してるのか」
「ええ、お陰様で」
「そうか。私には不景気の真っ只中に見えたんだが」魔理沙は胸を叩いてみせた。「困った時や、悩み事がある時は、この魔理沙さんに相談してみな。割引の礼だ」
 小鈴は瞬(まばた)きしてから、顔を伏せた。
「じゃあ、頼んでも好いですか」
「おう」
 彼女は机の方を振り返った。「あの手紙を、阿求にこっそり渡して欲しいんです。それで、できればあの子の様子について教えて下さい。塞ぎ込んでいないか心配なんです」
 魔理沙は小鈴の話を聞きながら、いくつかの疑問が口をついて出そうになるのを押し留めた。回転を続ける思考が、ある結論を導き出した。
「まさか、な」魔理沙は指で前髪に触れた。「もうそんな時期なのか。まだ何年も先だと思っていたが」
「私も信じたくないです。でも、阿求本人に云われました」
 もう会えないかもしれない、って。
 小鈴は顔を伏せて、着物の袖で目尻を拭った。魔理沙は箒の柄を握り直してから、彼女の肩を叩いた。蓄音機が唄うのを止めて、鈴のような声が後を継いだ。よろしくお願いします、と彼女は頭を下げた。

 様子を伺ってから、魔理沙は屋敷の中庭に侵入した。里中で空を飛ぶのは気が引けたが、雪に足跡がついては台無しだ。記憶を頼りに阿求の居室に向かう。障子の窓から透かし見る。膨らみを帯びた敷き布団が確認できたので、爪でガラスを軽く叩いた。起き出してきた阿求を見た魔理沙は、表情を変えないよう努力しなければならなかった。笑顔で手を挙げて挨拶すると、阿求は呆れたように肩をすくめた。
「庭に雪を払い落として下さい。畳が濡れますから」
 魔理沙は云われた通りにした。阿求が唇に指を当てて笑った。
「前にもありましたね、こんなこと」
「初めての筈だがな、お前の屋敷に忍び込んだのは」
 ブーツを脱いで部屋に上がり込む。硯の墨は乾いていて、干からびたオタマジャクシみたいにこびり付いていた。花の香りと汗の匂いが混じって漂っていた。黒猫の姿はなかった。
「パンダみたいな隈だな。寝てないのか」
「失礼な」阿求は目元に触れた。「発作のように頭痛が襲ってきて、眠れないんです。今は落ち着いていますが」
「先代の時もそうだったのか」
「記録にはありませんでした。穏やかな最期を迎えた、と」
「病気には、見えないな」
 魔理沙にはお手上げだった。手紙を渡して、小鈴から頼まれた旨を伝えると、阿求の表情が輝いた。
「あの子との文通が、今は一番楽しみなんです」彼女は手紙を抱き寄せて続ける。「小鈴には私のこと、内緒にして下さいね」
 心配、かけたくないから。阿求はそう云って微笑んだ。火鉢の炭が音を立てて爆ぜた。魔理沙は口を開きかけて閉じ、黙って頷いた。
 雪が降っていた。魔理沙は帽子のつばを下げ、ポケットに手を突っ込んで歩いた。鈴奈庵に差し掛かった際、東の方角に眼を向けた。冬の夕暮れ、おまけに雪模様となっては、鳥居は霞んで見えなかった。阿求は変わらず元気そうだと伝えると、小鈴は表情を和らげた。何度もお礼を述べてきたので、魔理沙は資料探しを諦めて退散することにした。入り口の鈴の音が頭にこびりついて離れなかった。

   #11

 メイド妖精やホフゴブリンが、紅魔館のエントランスや大ホール、部屋から部屋へと忙しく動き回っている。はたきやモップを手にした妖精達が、廊下の角で衝突して大惨事になっている。
「ごめんなさいね、騒がしくて」
「賑やかなのは好きですよ」
「年の瀬とか、特別な時節にでもならないと妖精って真面目に働かないのよ。ゴブリンのお陰でちょっとは楽になったかしら」
 地下へと続く階段を降りながら、咲夜は早苗に説明した。鉄枠で補強された木製の扉を開けると、その先はワイナリーだった。斜めに立てかけられたワインが所狭しと並んでいる。樽に詰め込まれたウィスキーもあれば、少量ながらラムやブランデーもある。
 背後で早苗が息を吸い込んだ。「スゴい」
「樽の香りが好きなのよ」
「私もです。落ち着きます。これはもう、まさに宝物庫ですね」
「大げさ」
 咲夜は笑いながら、作りおきのグリューワインが並んだ棚に向かう。声をかけようと振り返ったが、夢中で視線をさまよわせていたので、しばらく好きなようにさせた。
「穀物酒も好きなんですけど」早苗は手のひらを合わせて云う。「やっぱり私は果実酒ですね。悪酔いしちゃうので、あまり多くは頂けないんですけど」
 こちらは何ですか、と早苗が続き部屋のドアに近づいた。咲夜は時を止めて彼女の隣に立つと、取っ手に触れようとする手首を握った。
「ひゃっ」
「ごめんなさい」咲夜は手を離した。「こっちは立入禁止なの」
「秘蔵のお酒でもあるんですか」
 咲夜は表情を変えずに繰り返した。「立入禁止」

 ワインを選び終えたところで、階段から足音が転がった。咲夜は相手の姿が見える前から、背筋を伸ばして姿勢を正した。
「やあ」レミリア・スカーレットが顔を覗かせた。「ようこそ」
「お邪魔してます、レミリアさん」
 早苗が頭を下げる。主人は無言で近づく。羽をはためかせて浮き上がり、風祝の頬に西洋式の挨拶を贈った。
「ひゃっ」
「歓迎するよ。咲夜が友人を連れてくるなんて珍しい」
「お嬢様」咲夜は横目で早苗を窺いながら答える。「その、友人という訳では――」
「このバスケットは何だ」
「グリューワインです。東風谷様がお気に召されたので、お嬢様の許可さえ頂ければ」
 レミリアは手を振った。「構わないよ。代金も要らない」
「そんな」早苗が懐からがま口財布を引っ張り出す。「きちんとお支払いします」
「初回はサービス。次からで好いよ」
 その代わり、と吸血鬼は牙を見せつけて微笑んだ。
「これからも、咲夜の好き友人であって欲しいな」
「お嬢様」
「こっちに来て、もう何年かな。ずっと仕事づくめだったから、大した交友関係を築けなくてね。主(あるじ)としては心配なわけ」
 早苗がワイン・ボトルを胸に抱きしめた。
「勿論です、はい」
 レミリアは満足げに頷くと、ドレスを翻して階段を昇っていった。咲夜は早苗から顔を背けた。言葉を探して頭の中は大車輪で働いていた。
 先に口を開いたのは早苗だった。
「レミリアさん、前と雰囲気が変わりましたね。丸くなったと云うか、大人っぽくなったと云うか」
「……そうね、人間に対する考え方を改められたのは確かだわ」
 それ以上は声にならなかった。早苗が期待のこもった眼差しで見つめてくるのを、首筋で感じ取っていた。

   #12

 早苗の要望で大図書館にも足を運んだ。パチュリー・ノーレッジの他にも、二人の魔女が思い想いにくつろいでいた。アリス・マーガトロイドはパチュリーと話し込んでおり、魔理沙は小悪魔の案内で熱心に資料を漁っているようだった。
 パチュリーらとの挨拶を済ませてから、早苗が立ち止まって呟いた。
「魔理沙さんは努力家だなぁ」
 咲夜は答えた。「人間から魔法使いになるんだもの。時間はいくら有っても足りないでしょうね」
「ああ、それでお二人も協力してるんですか」
「パチュリー様の知識と、アリスの経験があるから。そう云う意味では魔理沙も幸運ね。優秀な先輩方がいて」
 早苗が拳を握った。「私も頑張らないといけませんね」
「貴方も魔法使いになるの?」
「まさか。でも、幻想郷では似たようなものかもしれませんね」
 私、これでも現人神ですから。早苗は蛇と蛙の髪飾りを指さした。
「成る程、すでに半分は妖怪ってことね」
「んん、妖怪と云いますか、神霊と云いますか……」
 本棚の林の中を歩きながら、咲夜は早苗の背中を見つめた。背丈を除いては、昔と比べて特に目立った変化は見受けられなかった。
「末永く、神奈子様と諏訪子様にお仕えしたいんです」
「それは大変ね」
「咲夜さんだって大変でしょう」
「どうして」
 早苗が振り向いた。「だって、咲夜さんにはレミリアさんがいらっしゃるじゃないですか」
「……私は人間を辞めるつもりはないわよ」
 彼女が立ち止まった。追い越してから、咲夜は振り返った。
「何で、ですか」
「人間として生まれたんだから、人間として死ぬ。それだけよ」
「レミリアさんに、少しでも永くお仕えしたいとは」
「考え方の違い。価値観の相違ね」
 早苗から視線を離して、適当な本を手に取った。ロマンスだった。嘘でも好いから誤魔化せば好かった、と頭の隅で思った。
「ねえ、早苗」今日初めて、彼女の名を呼んだ。「人間の貴方が、自分の意思で幻想郷にやって来たということは、当然、全てを捨ててきたんでしょう?」
 早苗の身体が強ばるのが分かった。咲夜は刺々しい言葉遣いにならないよう注意しながら喋った。
「何て云えば好いのかしら、――私はお嬢様に、やり直す機会を与えられたのよ。お前は人間として生きても好いんだ、って」こんな言葉じゃ分かってもらえないだろうな、と感じながら、それでも咲夜は話した。「人間として死ぬってことは、あの頃の私にとっては決して当たり前の確定事項じゃなかった。人間として生きることそのものが、私にとっては数ある幸せのひとつなの。それだけが理由の全てじゃないけれど」
 早苗は、必死に言葉を探しているように窺えた。眼を伏せて、今受け取った話の意味を理解しようと努めているようだった。咲夜は視線を移して、資料と格闘している魔理沙を見つめた。彼女の真剣な横顔を眺め続けていた。


Chapter 04

   #13

 お手紙をありがとうございました。店の仕事が多忙につき、お返事が遅れてしまいました。申し訳ありません。冬場は貸本をご利用する方が増えるので、嬉しい悲鳴ではあるのですが。

◆     ◆     ◆

 私も昔のように、ただ店番をしていれば好いと云う訳にもいかなくなりました。父の代わりに仕入や回収に出向くことが多くなりましたし、母を手伝って家事をする機会も増えました。
 それでも、私は今まで自分が大人になったということは考えもしませんでした。確かに背も伸びましたし、言動も少しは落ち着いたかな、と思っています。ただ、これまでの日常の延長線上で、変わらずに私はやっていけるだろうという期待が胸の奥にありました。私が信じたお伽話は、決して結びを迎えることはないだろう、と。
 私は選択すべき時期に入っていました。それは友人も同じでした。手紙の中で“いつ打ち明けるべきか、ずっと迷っていた”と彼女は書いていましたから。いったん決定がなされると、他の選択の可能性は全て失われてしまいます。私は今更になって、その事実を思い知らされたのでした。

◆     ◆     ◆

 師走の暮れになって、阿求からの便りが途絶えた。私は朝早くから何度も店先に出ては、使いのひとが手紙を持ってこないかと往来を見渡した。数え切れないほど「田園」や「ジャパニーズ・サーガ」を繰り返し聴いて、灰色の冬空から耳を塞ぎ続けた。
 雪のちらつく午後、引き戸を開けてお客さんが入ってきた。私は頬杖を解いて彼女を見つめた。「本居さん、こんにちは」と射命丸さんが手を挙げる。翼は隠れている。マフラーに着物姿、湯気の立つ鯛焼きを手にして、人当たりの好い笑顔を浮かべていた。
 その姿はとても、妖怪には見えなかった。
「本居さんも頂きますか」
「……遠慮しておきます」
「毒は入ってないですよ。和菓子屋さんで買ったんです。また一段と美味しくなりましたね、あのお店は」
 私は喉を鳴らして、差し出された鯛焼きを見つめた。餡子でお腹が膨らんでいた。指を伸ばしかけて、引っ込めた。文さんが本棚を巡りながら鯛焼きを食べている間に、私はお茶の用意をした。
 天狗の少女は礼を述べて、湯呑みを手に取った。「ちゃんと食事を取らないといけませんよ。特に人間は」
 奥の様子を窺ってから、私は小声で訊ねた。「本当に天狗なんですよね、射命丸さんって」
「ええ。どうして今更そのような」
「阿求が云ってました。特に天狗には関わるなって。風の噂を立てられて、里には住んでいられなくなってしまうからって」
 文さんは苦笑した。「間違ってはいませんが。でも、これだけ取材を重ねても信用して頂けないなんて、ちょっと哀しいですね」
「お願いですから、店の前で翼を広げたりしないで下さいね」
「貴方を御山までさらってしまっても好いんですよ?」
 私は話題を変えた。「そ、それで、今日は本をお借りに?」
「いえ」
「取材でしたら――」
「取材でも広告でもないんです」彼女は焙じ茶を飲み干して云う。「稗田のご当主様から、伝言を承って来ました。本当は貴方に会いたいと、あの子は云ってましたよ」
 私は湯呑みを取り落としそうになった。「阿求が、伝言を?」
「正確には、直接伺った訳じゃないんです」
 私は目つきを鋭くした。「盗み聞きですか」
「風に聴いたんです。確信があります」
「誤魔化さないで下さい」
「私は真面目ですよ。割と真剣です」
「でも、しばらく会えないって、阿求は手紙に書いてきたんです」文机に散らばる友人の言葉に、視線を落とす。「準備があるからって、ごめんなさいって、そう書いてきたんですよ」
 文さんは淡々とした口調を崩さなかった。「本居さんだって会いたいんでしょう。だったら互いに結論は出てるじゃないですか。私は協力しますよ」
「そんな、どうやって」
「私が彼女に伝えます。風の助けを借りて、ね」

   #14

 訊ねてきた私を見て、女中さんは言葉を失ってしまった。何度も頭を下げながら、お引き取り下さいと声を絞り出した。しばらく押し問答を続けて、危うく門前払いになりそうだったところを、阿求本人が駆けつけて来てくれた。致命的な沈黙を挟んでから、私は微笑みを繕って声をかけた。阿求も笑って答え、屋敷の中に通してくれた。阿求に付いて歩いてゆく間、誰も声をかけて来なかった。私達も無言だった。屋敷全体が静寂の砦を守っていた。
「風で窓が鳴ったの」最初に阿求は云った。「ここまで声が届いたような気がしたわ。小鈴が来たんだって」
 私は友人の顔を見つめながら、言葉を探して途方に暮れる。
「……ちゃんと食べなさいよ」
「小鈴こそ、前より痩せたんじゃない?」
「そうね。師走は忙しいから」
「手紙、返せなくてごめんね」
「それは好いんだけど」私は思い出して云った。「この前、魔理沙さんが来たはずよね。手紙を届けてもらったんだけど」
「ええ。気遣ってくれて、ありがとう」
 私はようやく悟った。魔理沙さんは嘘をついたんだ。阿求の手に触れることさえ、今の私にはためらわれた。
 友人は湯気の絶えた緑茶を口に含んだ。代償かしらね、と呟いた。
「輪廻の環から逃れることは、想像以上の罪らしいわ。もうちょっと楽なものかなって期待してたんだけど、……頭がどうも痛くてね。夜になって冷え込むと特に」
 私は膝に指の爪を突き立てていた。
「でも、まだ大丈夫よ」阿求は云った。「先代のことだから記憶が曖昧なんだけど、もし不測の事態が起こって『縁起』の編纂が滞ってしまったら、彼岸の閻魔様が寿命を延ばしてくれるかもしれないの」
「……そんなこと、できるんだ」
「恐らくね。ほら、ここ数年で妖怪の数も増えたし、まだまだ私のやるべきことは残ってるはず。私の『幻想郷縁起』は、まだ終わってはいないわ。そうでしょ、小鈴」
 彼女が手を伸ばして、私の手の甲に重ねた。機械のように、私は何度も頷いた。
「阿求。私は何をすれば好いの。また手紙で――」
「それはもう好い。やっぱり、小鈴に会いに来て欲しいの。気分がずっと楽になるから。少しの時間なら話せると思うわ。家のひと達は、みんなどんどん私から距離を取るようになっちゃって、つまらないのよ」
 私はもう片方の手で、阿求の手を包み込んだ。外の寒さで手先はかじかんでいた。彼女の指を芯から暖めたかったのに、私の手のひらは余りに力不足だった。
 屋敷を出た。ふと気づいて立ち止まった。往来に真っ黒な物が横たわっていた。鴉の羽根だった。拾い上げて左右を見渡したが、天狗の少女の姿は何処にもなかった。私はその羽根を胸に抱き留めながら、一度も振り返らずに店に帰った。

◆     ◆     ◆

 岐路に立たされた時、選び取る道に迷った時、いつも隣には友人の姿がありました。豊富な知識と、鋭い見識で私に助言を授けてくれた彼女のことを、心の中では羨ましく思っていました。恵まれた能力を持って生まれた友人を、私は眩しく思っていたのです。ちょうど、貴方が書いて下さった事と同じように。
 でも、力を持つが故に、彼女はあまり友達に恵まれていなかったようでした。寺子屋に行く必要もありませんでしたし、同年代の子供と遊ぶ機会も時間も得られなかったように思います。同じ人間として彼女と時間を共有することができたのは、私にとって何よりの幸運でした。
 いつか彼女が、彼岸でのお勤めに励むようになった時、私との思い出を欠片でも覚えていてくれたなら、と考えます。そして、もしも、私との日々の記憶が重荷となるならば、砂の一粒も残さずに綺麗に消え去って、彼女が新しい人生を軽やかに歩めるようになってくれることを願ってやみません。

敬具   
本居小鈴   

   #15

 暮れの大掃除を終えて、私は店の外にさまよい出た。手元にある妖魔本を片っ端から読み返して、前に進むためのヒントを探していた。収穫はなかった。阿求の屋敷に赴くこともできず、眼をこすりながら、里の往来を放浪する。団子屋で見知った顔を見かけた。屋外からでも梅色の髪は好く目立った。私は暖簾を潜ると、彼女の了解を取ってから向かいに座った。相談料のみたらし団子を注文して、彼女に云うべき言葉を探した。
「小鈴ちゃん。浮かない顔だけど、何かあったの?」
 茨木さんは云った。私はまだ言葉を見つけられずにいた。華扇さんは三色団子ときな粉餅、さらに餡子の点心を咀嚼して煎茶で流し込むと、その倍の注文を伝えてひと息をついた。オーダーしたみたらし団子を彼女の方に滑らせてから、私は口を開いて事情を説明した。話を聞くうちに彼女は食事の手を止め、頷きながら眉を上げたり下げたりした。
「本は、何も教えてくれませんでした。このままじゃ、阿求を助けることができないと思ったんです。それなら、いっそのこと私が人間を辞めて、――例えば仙人になって、せめて阿求が独りぼっちにならなくて済むようになれば好いなって、そう考えたんです」
 華扇さんは頭のシニョン・キャップに手を触れて、しばらく考え込んでいた。往来の喧噪が別の世界の出来事のように感じられた。長い沈黙だった。団子屋のご主人が、心配そうにこちらを見つめていた。
「まず最初に」彼女は口を開く。「私も前に取材を受けたけど、あの子は自分の御阿礼の子としての使命を、とても誇りに思っているようだった。代償を憂うことはあっても、決してお役目そのものを疎んではいない。そうよね?」
「ええ、そうだと思います」
「じゃあ、“助ける”と云うのは違うと思う。それを聞いたら、あるいはあの子は侮辱されたように受け止めるかもしれない。少なくとも、彼女は悲劇の主人公じゃない。私はそう考えるのだけど」
「それは、……はい。そうです」
 私は呼吸を整えた。頷いて、次の言葉を待った。
 茨木さんは包帯だらけの手首を左手で握りしめた。「私は、弟子は取らないことにしているの。小鈴ちゃんは、人間から仙人になるというのがどういうことか、分かる?」
 私は小さく首を振った。
「俗世から完全に姿を消して、親しい者が死に絶えた後も生き続け、常に死神に命を狙われ続ける。霊力を求める妖怪にだって狙われるし、数多くの災難に見舞われるわ」
 私は顔を上げた。「華扇さんは、失礼ですが、ある面では楽しんでいらっしゃるように見えるのですが」
 彼女は団子の串だらけのテーブルに視線を落とした。「わっ、――私は特別な事情があって、その……」
 諸手を振って慌てる華扇さん。私はお父さんやお母さん、常連の方々に別れを告げ、かつて寺子屋に通った同級生の全員の死を見送る未来を想像しようと努めた。それだけで全身から力が抜けそうになった。
 華扇さんが咳払いした。
「人間であるのを辞めるということは、人間であった事実の全てを捨て去るということでもあるの。食事の内容から、生活のリズム、昔を振り返る時の視線の柔らかさに至るまで、何もかもが変わってしまう」
 私は呟いた。「好く、分かりました」
「それに」華扇さんは続けた。「御阿礼の子は、先代の記憶をほとんど引き継がないと読んだことがあるわ。次代が受け継ぐのは『縁起』に関するデータだけ。そこに想い出はない」
「知ってます。もう充分です」
「仮に小鈴ちゃんが仙人になれたとして、転生したあの子が貴方のことを覚えている保証は何処にもない。小鈴ちゃんが功徳を積んで再び人間として生を受けたとしても、今度は貴方が彼女のことを覚えていない可能性が――」
「もう分かりました」
 テーブルに向かって叫んだ。手のひらを耳に押しつけた。
「もう、止めて下さい」
 他にお客さんがいなかったことが、何よりの幸いだった。私は身を伏せて声を噛み殺した。それでも喉の奥からせり上がってきて唇を震わせ、背筋が痙攣するように引きつった。
「ごめんなさい」華扇さんが背中をなでてくれた。「でも、分かって欲しいの。仙人になるのは、人間を辞めるのはお勧めしない。貴方はこの社会の中で、こうして立派に生きているのだから」
 奔流のような渦が治まるまで、茨木さんは私の髪に手を置いてくれていた。袖で拭って顔を上げると、目の前には彼女に譲ったはずのみたらし団子があった。黒蜜のような砂糖醤油が、涙で滲んで虹色の光を放っていた。
「これは頂けないわ。貴方が食べなさい」
「要らないんです。食欲がなくて……」
 彼女は首を振った。「こんな時には、物を食べなくちゃ。それも甘くて力の出る物を食べた方が好い。甘い物を食べると、空っぽじゃない本当の元気が出るわ。ここの団子屋の味は、小鈴ちゃんも知ってるでしょう?」
 私は頷いて串を手に取った。団子を口に運んだ。時間をかけて咀嚼した。砂糖醤油の甘味に、引っ込んだはずの涙がまた浮かんできた。私はひと言も話さずに団子を食べ続けた。茨木さんも食事を再開した。二人で無言のままに味わい続けた。
 華扇さんにお礼を述べて、私は精算のために帳台に向かった。ご主人は首を振った。憂いの帯びた皺を曲げて微笑んだ。彼は代金を受け取らなかった。何度かの応答を挟んで、私は頼み込むような形でお金を支払い、店から出た。

   #16

 阿求の屋敷への訪問を終えると、門前にあの方がいた。市松模様のマフラーを巻いた常連さんだ。前髪に掛かった木の葉は、寒さにも負けずに新緑の輝きを保っていた。
「ご無沙汰してます」私は頭を下げた。「先日は、ありがとうございました」
「儂が何かしたかえ」
「お話を聞いて下さいました」
「ああ。そうだったの」
 彼女は頷いて、塀から身体を離した。
「どうじゃろう。付き合って欲しい場所があるんじゃが」
「今からですか?」
「店が忙しいかね」
「いえ」私は顔を伏せた。「掃除も終えましたし、事情を話したら、両親も時間をくれました」
 彼女はもう一度頷いた。それ以上は阿求について訊ねることはしなかった。眼鏡のレンズに息を吹きかけ、布で汚れを拭き取ると、私に向かって手を差し伸ばした。
「それじゃ、行こうか。気晴らしには丁度好いぞい」

 再思の道を通った。里から随分離れたと思う。枯れた彼岸花が土手に葬列を成していた。雪に獣の足跡が残っていた。私は常連さんにぴたりと引っ付いて歩いた。阿求の『縁起』の記述が思い起こされた。
「あの、この先って確か……」
「無縁塚じゃな」
「危険じゃないですか。結界が緩んでるって」
「気をつけておればどうと云うことはない」
 妖怪の姿も、動物の姿もなかった。乾燥した空気に湿気が混じったように感じられた。崖や丘の傍をいくつか通り過ぎた。まだ夕暮れには早いのに、景色に霞がかかっていて見通しは悪かった。獣道と云っても好い林の小道を抜けると、彼女は立ち止まった。私は彼女の背中から頭を覗かせた。最初に目についたのは錆びついた電車だった。巨人の斧で叩き割られたかのように、枕木とレールが綺麗に寸断されていた。河童の市で見かけたテレビや冷蔵庫もあった。そのどれもが使い物にならないくらいに傷んでいた。
「寂しいところ、ですね」
「じゃが、珍しいもんが落ちとる」常連さんは笑って云う。「宝の山じゃよ。好きなだけ拾っていきなさい。ただし、あまり遠くには行かないようにな。向こうに飛び出してしまうぞ」
 私は前に踏み出そうとして立ち止まった。土壌から白い棒状の物が顔を覗かせていた。それは骨だった。黒ずんだ皮がこびり付いていた。私は腰を抜かしそうになって、彼女に背中を受け止めてもらった。
「ま、無縁塚じゃなからな」彼女は頭を掻いた。「穴が浅いからこうなる。この土じゃろくな墓も作れんし、野ざらしよりはマシじゃろ」
「やっぱり、私――」
 立ちくらみがした。ブーツの爪先が曲がって見えた。
「すまんの。こういうの、苦手だったかえ」
「想像してしまったんです。阿求の……」
 言葉にならなかった。口元を押さえて深呼吸する。常連さんが背中をさすってくれた。
「おぬしが元気を出してくれれば、と思ったんじゃが。場所が悪かったのう。不覚じゃった」
「好いんです。ありがとうございました」
 私は顔を上げて、瞬きをした。電車の陰から誰かが現れた。桃色の髪を風にさらして、頭に狐のお面を着けていた。こちらに気づくと、福の神を被って駆けてきた。
「マミゾ――っふが」
 常連さんが面霊気さんの口を塞いだ。眼にも留まらぬ早業だった。
「こころじゃないか。久しぶりだのう」
「離せこの野郎ッ」
「野郎とは何じゃ野郎とは」
 秦こころさんが見つけたと云う掘り出し物は、無縁塚の奥にあった。結界を踏み越えてしまうかもしれないと思うと、足取りが覚束なくなった。でも、それを見かけた途端に、不安は消えてしまった。
「これだ」こころさんが火男を踊らせて云った。「何の道具かな」
「ポスト、ですか」
 私は呟いた。常連さんが驚きの声を上げた。
「雑誌で見たんです。手紙を集めるための道具ですよね」
 私の記憶では、ポストは赤色のはずだった。でもそれは、積もりたての雪のように白かった。汚れもなく、塗装の剥げもなく、まるで新品のようだった。常連さんと面霊気さんがポストに触れて議論を戦わせている間、私はその白さに見とれていた。夏の青空を思い出した。ベートーヴェンの「田園」の世界で空を流れていたに違いない、雲の色だった。
 私も近づいてポストに触れると、それは音を立てて開いた。中には封筒があった。細長い形の、真新しい封筒だ。私達は三人とも凍りついてその便りを見つめた。
「……おぬし宛てじゃな」
 常連さんが私の肩に触れた。
「私が見つけたんだぞ」
「儂らでは開かなかった。それが全てじゃよ。手紙には、届けられるべき宛先人がおるものじゃ」
 阿求の便りを思い出した。朝顔の絵が印刷された、丸い字で綴られた手紙を。ためらいながら、封筒を手に取った。それは熱を持っていた。ストーヴにかざして暖めてあったかのように。
 こころさんが云う。「後で私も読みたいな。外の世界からの便りなのかもしれないのだろう?」
「ごめんなさい、面霊気さん」封筒を胸に抱き寄せる。「本当にごめんなさい。これだけは、私ひとりで読みたいんです」

   #17

 稗田阿求は箱の中に閉じこめられていた。
 そこには眼に見える壁がなかった。床と天井だけがあった。磨き上げられたガラスのような板で側面は成り立っていて、外の景色を映し出していた。上から下まで星の海だった。まるで重力が反転して、夜空の中に放り出されたかのようだった。それが電車であることは阿求も知っていた。阿求の知る鉄道には吊革があり、レールがあり、側面の全てが窓にはなっていなかったはずだった。ドアさえも見当たらなかった。夢から目覚めるまで、その箱から抜け出すことはできないのだ。
 夜空を眺めながら、阿求は友人のことを考えていた。牡丹のような色の髪と、髪留めの鈴を思い返した。夏の昼下がりに、土手に腰掛けてスケッチしていた時分のこと。何気なさを装って、自分の身体について話した。病気なの、と彼女は訊ねた。阿求は首を振った。彼女は何も気にしていないかのように読書を再開した。彼女は知っているのだろうか。その軽やかさが、距離の近さが、変わらない親しみが、どれほど自分を救ってくれたのか。
 声が聞こえて、阿求は我に返った。
「“ヒロシゲ”かしら」その女性は云った。「カレイド・スクリーン。それにしてはヴァーチャルっぽくないわね。本物の宇宙、まさか」
 立ち上がって、コンパートメントから顔を出した。音もなく首を覗かせたので、彼女は悲鳴を上げて達磨のように転がってしまった。謝りながら助け起こすと、女性はブロンドの髪を整えて阿求を凝視した。
「……もしかして、カムパネルラ?」
「違います」

「これが死後の世界だとしたら、悪くはないわね」
 彼女は云った。コスモスのような色のドレスを着て、何処か懐かしい帽子を被っていた。
「でも、何か大事なものを忘れてきた気がする」
「ここは宇宙空間なのですか?」
「ええ。素晴らしいわ。夢にまで見た月面ツアーじゃない」
「月ならとっくの昔に通り過ぎちゃいましたよ」
 そんな、と彼女は座席にもたれた。身体が沈み込んだように見えるほど、その肌触りと材質は柔らかだった。
「この座席、快適ですよね」
「高分子素材で出来てるからね。身体にちゃんとフィットするようになってるのよ。これが“ヒロシゲ”なら、の話だけど」
 阿求は曖昧に頷いた。外の世界の方なのですか、と訊ねたが、彼女には質問の意味が分からないようだった。逆に彼女が訊いた。
「貴方は、昔のひと?」
「こう見えても永く生きてはいますよ」
「道理で着物姿だと思った。貴方も何か患っていたの? 私は病院のベッドで眠っていたはずなんだけど、今は普段着になっているわね」
「病気という訳では……」
「もう気にしなくて好いわね。ここなら」
 列車の汽笛が鳴った。鵲(かささぎ)の鳴き声ように哀しい音色だった。鳴り終わるのを待ってから、阿求は口を開いた。
「死後の世界とは、どういう意味なんですか」
「そのままの意味。北十字から南十字へ抜けて、石炭袋に辿り着くの」
「亡くなった方は、河を渡るものだと思っていたのですが」
「河なら渡るわよ。銀河とか」
 阿求は会話を諦めた。列車は巨大な石の塊の群れの中を縫いながら進んでいった。今にもぶつかりそうだった。阿求は窓から身体を遠ざけて座り直した。
「小惑星帯だわ」ブロンドの女性が窓にへばり付いて云った。「凄い。こんな間近で観察できるなんて。重力は大丈夫なのかしら。揺れがまったくないわ。流石“ヒロシゲ”ね。今は何両編成なの?」
「分かりません。隣の車両に移れないんです」
「そう。残念ね」
「他には誰もいません。私達だけみたいです」
 彼女は呼吸を整えて、それでも眼を輝かせながら、宇宙の景色に見とれているようだった。やがて、雨雲が訪れたかのように表情が陰った。
「……いつまでも、このままという訳にはいかないわね」
「そうですね」
「車掌さんに云わなきゃ。私はまだ死んでないのに」
「居ないんじゃないでしょうか」
「この速度じゃ白鳥座まで何百万年かかるか分かったもんじゃないわ。早く地球に戻ってもらわないと」
 彼女はコンパートメントを飛び出していった。阿求は座席にもたれて深く息をついた。少なくとも、夢を視ている間は退屈せずに済みそうだった。


Chapter 05

   #18

 ポータブル・デヴァイスをポケットに戻して、宇佐見蓮子は座席にもたれた。年明けを境に、マエリベリーからの連絡が途絶えている。メッセージにも、コールにも応答がない。「ヒロシゲ」の五十三分が遅く感じられて、蓮子は腕を組んで座っていた。瞳から紅い液体を流していた友人の姿が、頭から離れてくれない。蓮子は帽子を握りしめた。吸収素材がすぐに元の形を取り戻す。何をしても無駄だよ、と諭してくるかのように。
 昨夜の両親との会話が思い起こされた。正月だけは喧嘩しないでおこうと心に決めていたのだが、結局、メリーにお叱りを受けそうな別れ方になってしまった。都会かぶれと田舎者。今から思えば、どっちもどっちだった。
 アナウンスが流れて、「ヒロシゲ」は酉京都駅に到着した。蓮子は自宅に荷物を置いてから、すぐにメリーのアパートメントに向かった。ゲートで認証を受け、訪問先の部屋ナンバーを入力した。外出中、と返答があった。次に病院に向かった。受付でまた認証を挟んだ。看護士は端末のディスプレイを確認してから、ひと呼吸の間を挟んで、メリーの現在の居場所を告げた。蓮子は看護士の顔を見つめた。どうしてですか、と疑問が口をついて出た。

「誤解しないで頂きたいのですが」サナトリウムの担当医は前置きして云った。「脳死ではありません。マエリベリー・ハーンさんは、ただ意識を失っているだけです。身体も健康そのもの。脳波にも異常は見当たりませんでした」
 蓮子は彼の胸元を見つめて訊ねた。「本当に原因は分からないんですか」
「残念ですが」彼は首を振った。「現代の医学をもってしても、このようなケースは何件か報告されています。原因不明で、快復が難しいと判断されるケースが。このサナトリウムは、そうした患者の方々の転地療養を目的として設立されました」
「前にも、メリーは信州の施設に入っていたことがあるんです」
「ええ。参照いたしました」彼は頷いた。「信州の管轄は疾病ですね。あちらも非常に珍しいケースです。ほとんど全ての伝染病は前時代に駆逐されましたから」
 蓮子は再びうつむいた。「突然、意識が戻らなくなるなんて……」
 担当医は組み合わせた指を跳ね橋のように動かした。「何をもって意識不明と診断するのか、人間の脳とはどのような仕組みで動いているのか、科学の発達と共にますます謎が深まっています」彼は語った。「脳の機能のうち、どれが停止していたら脳死と判断すべきなのか。意識とは、脳のモジュールがいくつ反応している場合において定義すべきなのか。未だに論争が絶えません」ハーンさんは、と彼は続けた。「彼女は、私がこれまでに見たことのないケースです。先ほども申し上げましたが、脳機能は極めて落ち着いています。まるで永い夢を見ているようです」
「少なくとも、メリーは苦しんでいる訳ではないんですよね」
「それは私が保証します。苦痛の波形は検出されませんでした」
 蓮子は息をついた。担当医は額に皺を作って、考え込むように瞬きを繰り返していた。
「ハーンさんのご家族とは未だに連絡が取れません。過去の症例から、親しい方が定期的に声をかけ続ければ、奇跡的に快復する場合もあるのですが。……宇佐見さんがよろしければ」
「勿論です。毎日来ます。メリーが眼を覚ますまで」
「ありがとうございます。お辛いとは思いますが、私達も出来うる限りのサポートをいたします。ここは病院とは違って通信制限がありませんし、設備も整っていますから、退屈はなされないと思いますよ」

   #19

 病室で、蓮子はマエリベリーの傍に腰かけた。担当医の言葉通り、彼女の呼吸は落ち着いていた。今にも微笑みそうなくらいに穏やかな表情だった。ベッドに横たわった友人の髪は、枕に放射状に広がって金色の川のように見えた。帽子を丸テーブルに置いて、蓮子は清潔感のある真っ白な病室を見渡した。昔ながらのカーテンが窓に備え付けられていた。壁に設置された端末の他には、機械の類は見当たらなかった。これならメリーも落ち着いていられるだろう、と蓮子は独り頷いた。
 友人の声を最後に聞いたのは、去年の暮れだった。元気で、と繰り返していた彼女は、自分に何らかのメッセージを送ろうとしていたのだろうか。あの時どうしていれば、私はメリーの声に気づくことができたのだろう。
 マエリベリーの髪をなでてから立ち上がり、階段を降りて売店に入った。カカオ風味の調味料を合成したウエハースをカードで買った。緑茶も購入してマシンから携帯水筒に注ぎ、サナトリウムの広場に出た。それから保温機能で暖められた椅子に座り、レクリエーションをしている患者達を眺めた。それは、蓮子とは全く違う生活を営んでいる人びとだった。でも表面上は、自分と何ら変わりないように見えた。ボールがゴール・リングに飛び込み、彼らは歓声を上げる。同じ服を着た、同じ人びと。蓮子は合成ウエハースを食べながら、患者達の姿を熱心に眺め続けた。このように他の人間を観察することは、生まれて初めてだった。
 首都の喧噪は遠くに離れていた。山間に設置されたこのサナトリウムには、不思議な静寂があった。患者もスタッフも、足音が立たない靴で広場や通路を歩いていた。バスケット・ボールに興じる患者達の声は、録音されたクラシックの演奏のように聴こえた。ウエハースを食べ終えてもなお、蓮子は両手で水筒を持ちながら、サナトリウムの人びとの姿を眺め、施設を包む静寂に耳を澄ませ、メリーとの今後の日々に想いを巡らせ続けていた。

 エルトン・ジョンの「ユア・ソング」。準古典と云っても差し支えないこの歌を、友人は好んで聴いていた。定められた規則に従って音量を抑え、蓮子はその曲を繰り返し聴き続けた。
 大学も始まっていた。蓮子は講義の終了後、サナトリウムに毎日足を運んだ。図書館でダウンロードした資料を漁っては、メリーと似た症例の記録を読み耽った。歌が最後のパートに差し掛かると、蓮子はメロディに合わせて口ずさんだ。

気にしないで欲しい。こんな言葉、書き留めてみたんだけど。

 一月の中旬だったが、気温は柔らかだった。新しい年の、新しい陽射しが真っ白なカーテンの隙間から差し込んでいた。僅かに開かれた窓の向こうには、絨毯のように敷かれた青空の他に、首都のビルディングが遠くに広がっていた。
 ふと思い出して、デヴァイスから東京の両親にメッセージを送った。進級の単位については心配ない旨の連絡事項を書いた。顔を上げてためらってから、正月の件についての謝罪を、末尾に短く付け加えた。
 端末の電源をオフにする。マエリベリーに眼差しを配る。曲が再び末尾に差し掛かる。彼の歌に合わせて、蓮子は口ずさんだ。

君がいるだけで、人生はなんて素晴らしく思えることだろう。

   #20

 休日になると、蓮子は広場に出て読書や自習に励んだ。紙の本を珍しく思ったのか、患者の女性が何人か声をかけてきた。会話を重ねるうちに彼女らと親しくなり、スタッフの許可を取って本を貸した。今のこの国で、宮沢賢治を読むひとは何人いるのだろう、と蓮子は思った。
 彼女らは、率直な表現を借りれば精神疾患者だった。蓮子にとって見れば、大学や京都の街を歩く人びとよりも遙かに大人しく思えた。彼女達は静かであることを尊び、そして傷つきやすい心を持っていた。ホット・チョコレートを好んで飲み、エリック・サティの「ジムノペディ」を好んで聴いた。
 自習の手を休めて空を見上げていると、メリーの担当医がコップを差し出してきた。中にはコーン・ポタージュが注がれていた。蓮子はお礼を云った。彼は向かいに腰かけて微笑んだ。
「今日もお越し下さり、ありがとうございました」
「いえ」
「ここには、色んな方がいらっしゃるんです」彼は広場で憩う人びとを見渡した。「ご家族やご友人がいらっしゃることもありますが、半数以上の方は、半年に一度面会があれば多い方です。面会がなければ、患者の方は外との繋がりを失ってしまいます。それで、療養を終えても施設から去るのが怖くなってしまうことが多いのです」
「どれだけの方が、社会復帰を」
 彼は笑みを引っ込めた。「地域に受け皿がないので、また施設に戻られる場合が多いですね。どのような生き方が人間として十全であるのか、彼らには選び取れないんです。人生における選択の自由が、彼らにとっては重すぎるということです。今では人口調整が当たり前の時代になっていますから、なおさら社会的リソースとみなされる彼らの責任は重くなります。無力感を覚えることも多々ありますが、私達もここのケアで手いっぱいなので。……すみません、つまらない愚痴でした」
 担当医は自分のポタージュを飲み干してから、もう一度来訪の礼を述べて立ち上がった。蓮子は彼の背中を見送ってから、ポタージュを口にした。それは合成食品ではなかった。香ばしくも甘い味わいが喉の奥を通り過ぎていった。儚くも強(したた)かな火が胸に灯ったように感じられた。まるで蝋燭の炎のように。

 午後になってから、サナトリウムに教授がやって来た。流石の彼女も施設では、紅色尽くしの格好は自重した。ベージュのコートを着込んで、蓮子と同じつばの付いた帽子を被っていた。見舞いだよ、と云って本物のリンゴを袋から取り出した。
「こんな貴重なもの頂けませんよ」
「一緒に食べましょう。それなら問題ないでしょ」
 教授は帽子を脱いでマエリベリーの容態を確認し、読みかけの小説を無断で手に取った。
「宮沢賢治か。珍しいわね」
「教授も読まれるんですか」
「少し前にね。評論の執筆が詰まった時に、好く読み返していたかな」
「例の、魔法世界についての」
「いや、大手のパブリッシャーに頼まれて書いたやつ。報酬に釣られて引き受けたんだけど、後で死ぬほど後悔する羽目になった」
「どんな内容なんですか」
「『科学世紀と倫理』というテーマで書いてくれだって。“我が国最先端の物理学者に是非”って頼まれたら、誰だって断れないでしょ」
 蓮子は苦笑した。評論のことを思い出しているのか、教授はベッドに視線を固定したまま動かなくなった。
「宇佐見は、どう思う」
「何がですか」
「我々の科学世紀は、本当に精神的にも豊かな社会なのか」
「そうだと思いますよ。昔ながらの物質主義は修正されました」
「それなら、どうして政府は自殺者や精神病患者の数を公表しない」
 蓮子は口ごもった。「知りませんでした」
「普通は調べないからね」教授は紅い前髪を指に巻きつけながら話した。「私は、科学世紀を否定するつもりは毛頭ないよ。合成食品がなければ今頃、私達は虫を食べていただろうから。イナゴの佃煮とか、セミの唐揚げとか、マスカットみたいな味のタガメを乗っけたピザとか」
「止めて下さいよ。メリーもいるのに」
「今では、人間よりも優れた小説をコンピューターが書く。音楽だってそうだし、映画のシナリオだってそう。本当に優れた僅かなクリエイターだけが、細々と活動を続けているだけ。病気は根絶間近で、貧困は地上から姿を消した。でも、宇佐見が好きな物語を、今の時代の人間は絶対に書けない。科学世紀の人間に、魔法のような奇跡は起こせない。私達は安寧の代わりに、物語を永遠に失ってしまった」
 教授は顔を上げて蓮子を見た。
「だからこそ、私は宇佐見達を気に入っている」
 どう答えれば好いのか、蓮子は分からなかった。
「宇佐見とハーンは、夢を現実に変える力を持ってる。素晴らしいことだと思うよ、それは。これから辛い選択をすることも沢山あると思うけど、この子との繋がりを絶ってはいけないよ。大人になる以上は、選ばなかった可能性の全てを捨てなければならないけれど、この子だけは」
 声が詰まった。「教授は、メリーが眼を覚ますと思われますか」
「ええ。もちろん」彼女は頷いた。「秘封倶楽部は終わらない。そうでしょう?」
「私、まだ迷ってるんです。卒業とか、進路とか。頭が全然働いてくれないんです。メリーも眠ったままだし、これから本当にどうすれば好いんだろって……」
 発作のように咳が出た。身体の震えが止まらなかった。教授が背中をさすってくれた。落ち着いてから、蓮子は見舞いのリンゴを口にした。担当医が渡してくれたコーン・ポタージュのことを思い浮かべた。フェイクの食品も、フェイクの言葉も、フェイクの温もりも、そこにはなかった。全部が全部、本物だった。
「諦めてはいけないよ」教授は励ますように云う。「たっぷり睡眠を取って、美味しい物でも食べなさい。焦りは禁物。好い言葉ね」

   #21

 マエリベリーは再び、廃墟と化したサナトリウムの前に立っていた。背後には鉄クズの山に変わってしまった首都の廃墟。倒壊したビルディングと、クレーターのような穴が空いた街路。煙が灰色の空に吸い込まれ、塵芥が中空に舞っている。
 受付を抜けて階段を昇る。前と同じく、一室だけ明かりが点いている。読書をしている蓮子と、ベッドに横たわった自分の姿。友人はやつれていた。心労だろうか、体調不良だろうか。メリーの呼びかけにも気づかず、本を読み続けている。
 マエリベリーは蓮子の頬に手を伸ばした。感触はなかった。手のひらは身体をすり抜けた。メリーがもう一度名前を呼ぶと、蓮子はこちらを向いた。意を決して身を乗り出し、額と額を合わせようとした。メリーの頭はすり抜けて、瞳と瞳が直に触れ合った。蓮子は驚いたように身を引いた。唇が動いた。メリー、と。
 続きの言葉を聴き取ろうとしたところで、マエリベリーは目を覚ました。

 座席にもたれて、深く息を吸った。向かいの席の女性が肩から手を離した。髪についた糸くずをつまみ取ってくれた。前にもこんなことがあったな、と思った。
「すみません、起こしてしまいました」
「どうしたの」
 彼女は無言で視線を移した。追いかけると、コンパートメントの外に男が立っていた。青色の、ポケットが沢山ついた服を着ていた。メリーが見たことのない帽子を被っていた。
「切符を拝見だそうです」
 彼女に云われるままにポケットを探ると、黄金(こがね)色の紙が出てきた。彼は受け取って切符の端を切り取り、頷いてから去っていった。彼が手をかざすと、連結部のドアは独りでに開いた。メリーは座席から身を乗り出して、彼の背を見送った。
「誰なの、あのひと」
「車掌さんでしょう」
「車掌、ねえ」
 メリーはふと気づいて、着物姿の女性を振り返った。
「貴方、切符は?」
 彼女は首を振った。「私は持ってないんです」
「無賃乗車じゃない」
「無くても利用できるそうですよ」
 マエリベリーは座席に腰を下ろした。ふと気づいたように、彼女が瞳を覗き込んできた。
「どうしたの」
「いえ、気のせいだと思います」
 そう云いながらも、彼女はメリーの眼から視線を離さなかった。困り果ててスクリーンを見ると、すでに列車は小惑星帯を抜けていた。砂漠のように果てしない宇宙に敷かれた眼に見えないレールを、銀河鉄道「ヒロシゲ」は進み続けていた。

◆     ◆     ◆

 大学の試験が始まってからも、蓮子は市バスに乗ってサナトリウムに通い続けた。山間に築かれた施設は、まるで『魔の山』に登場する療養所のように見えた。自分のことを「虚無主義者」だと評したメリーの笑顔を思い出す。今なら私もナフタになれるかもしれない、と蓮子は思った。
 病室でメリーの寝顔を見守っていると、時折、彼女に名前を呼ばれたように感じることがあった。後ろから「蓮子」という言葉が聴こえて、振り返ってみても彼女はいない。例えようのない暖かさが頬に宿り、瞳が熱を持ったように感じられた。
「……メリー、貴方なの?」
 蓮子の問いは病室の壁や天井に吸い込まれ、余韻も残さずに消えた。
 カフェに寄って、依存性を弱めた調整大麻を吸ったこともあった。薬効が切れた途端に、反動で余計に気が塞いでしまった。マエリベリーの担当医は近辺を散歩するようアドヴァイスしてくれた。携帯端末からエルトン・ジョンのアルバムを流しながら、蓮子は定められたコースに従って緩やかな山道を歩いた。
 最終日の試験を終えて、同じように森林浴に親しんでいると、脇道に逸れる場所を発見した。木に結ばれた紐に「立入禁止」と書かれた板がぶら下がっていた。毎日のように散歩しているのに、蓮子はその脇道に一度も気づかなかった。無線イヤフォンを外して、その場に立ち尽くした。メリーとの倶楽部活動を思い出したのだ。立入禁止になっている場所にこそ、結界の切れ目があるんだって。周囲を見渡してから吸い寄せられるように紐を潜り、蓮子は脇道を進んでいった。道は次第に細くなり、最後には雑草の生い茂る獣道となった。引き返そうかと迷った。人間の管理が行き届いていない場所。諦めずに十分ほど歩き続けると、唐突に道が開けた。蓮子は立ち止まって、目の前に広がる光景を見つめた。
 藻のように錆がこびり付いた電車、ブラウン管出力のテレビ、街から姿を消した道路標識。博物館でしか見ることのできないようなかつての文明の遺物が、粗大ゴミの山脈を成していた。蓮子は口を半開きにして電車に近づいた。手のひらで表面に触れる。今にも皮膚がすり剥けそうな感触だった。レールと枕木は、水圧カッターで切断されたかのように綺麗な断面を空気にさらしていた。空間ごと移転されたのだろうか、と思ってしまうほど唐突だった。
 ゴミ山の谷間を一歩ずつ確かめながら進んだ。こんな場所は初めてだった。迷路のように曲がりくねった過去の残照。ガス式の冷蔵庫を踏みつけ、8ビットCPUのパソコンをまたぎ、ホーンがねじ折れた蓄音機を乗り越えた先に、それはあった。
 雪のように真っ白な郵便ポストだった。初めて見る蓮子も、本来のポストが赤色なのは知っている。そのポストだけが錆びもなく、汚れもなく、新品同然に遺物の中で立ち尽くしていたのだ。郵便箱の口は開いていた。中身は空だった。まるで新しい郵便物の投函を今か今かと待ち受けているかのようだった。蓮子は郵便ポストに手のひらを置いた。病室で触れた暖かい感触が蘇った。コートとマフラーが必要なくらい気温が低いのに、と思った。周囲の山々を見渡し、続いて灰色の冬空を見上げた。蓮子は高鳴りを続ける胸を手で押さえながら、その場に立ち尽くしていた。

 届くはずがない。そう思って何度も筆を折りかけたが、今にも鬱屈しそうになっていた想いは止められなかった。何も告げずに去っていった友人に対する気持ちを、――好い言葉も悪い言葉も含めて、紙にぶちまけた。その間も時を置いて、部屋にマエリベリーの存在を感じた。
 書き上げた手紙を封筒に入れた。真っ白なポストに投函して蓋を閉めた。何度も振り返りながら山道を戻った。数日後に舞い戻り、郵便箱の口を開けると、蓮子の便箋とは別の封筒が中に入っていた。病室に戻っても身体の震えは続いていた。友人の寝顔を見つめてから封を解いた。
 返信の差出人は、メリーではなかった。
 初めて目にする名前だった。
 蓮子は手紙を三回読み返し、目薬を挿してもう一度、頭から読み直した。それから指で頬をつまみ、淹れたての熱い珈琲を飲み、洗面所で顔を念入りに洗いもした。顔を拭いてふと鏡を見た蓮子は、その場に凍りついた。
 瞳の色が、黒から青に変わっていた。
 それはマエリベリーの色だった。


Chapter 06

   #22

 生まれた時代が悪かった、と私は云った。貴方は首を振った。崩壊寸前とまで云われたこの世界で生を受け、人間らしい生活をほとんど送れないと知りながらも、貴方は私の言葉を否定した。では、幸せなのかと私は訊ねた。貴方は時間を置いてから頷いた。
 妖怪同士が相争い、人間は乏しい食料を分け合って生きていた。貴方が生まれた世界では、他人を信じるのは簡単なことではなかった。毎日のように窃盗があり、時には殺人があり、報復としての私刑があった。力と力の均衡によって秩序は保たれていた。
 今だから知り得たことだが、生物の利他行動は進化の産物だと云われている。生き残るためには相手を騙して、少しでも自分の取り分を増やした方が好いと誰もが考える。しかし、進化の過程で生物は知るようになる。共同体を形成して団結した方が、遙かに安全に、かつ長期的に種を保存することができるのだ、と。
 私達の世界は一度、原始時代のレヴェルにまで転がり落ちそうになった。カオスがはびこる、秩序なき箱庭。でも今は違う。貴方はきっと喜んでくれるはずだ。貴方と私が結んだような奇跡を、貴方が託した願いを、こうして不完全ながらも形にすることができたのだから。
 この世界に暮らす妖怪と人間は、滅びかけたことによって、逆に奇妙な共生関係を築くことができたのだ。生き残るために。より安全であるために。貴方を喪って今なお、私が笑い続けることのできる最大の理由は、それだ。

◆     ◆     ◆

 あの日、私は貴方に嘘をついた。戻ってきた私を見て、貴方は最初に何処か具合が悪くないかと声をかけた。まるで自分の生死よりも、私の身体の方が大事だとでも云うように。貴方は首尾について訊ねてこなかったから、私から話し始めた。今になって思う。貴方は私の嘘を見抜いていたのだろう。根も葉もない噂話をさも事実のように書き立てることを、私は嫌っていた。貴方はそれを覚えていて、私の言葉の頼りなさを見破ったのだ。でも、その笑顔を崩すことなく、貴方は私を迎え入れた。手を離す時が来るまで。
 時どき考えることがある。貴方の願いを無視して、最期まで寄り添うべきだったのだろうか。その度に首を振って否定する。それが貴方の意思だったのだ。手遅れになる前に、想い出を想い出として保存しておくために、後悔なく旅立てるように、貴方は私を遠ざけた。不幸ではなかった、と貴方は云う。歩き通すことができたのは、何よりの幸運だったと貴方は云う。それが自分の意思で選び取った道。私は今まで自分が何も選択してこなかったと思っていた。だが、貴方は気づかせてくれた。道を選ぶ自由はあったのだということ。
 寄り添うだけの自由。
 私はすでに選び取っていたのだ。それが小さなことであれ、自分が誰かの人生に影響を与えたという意味で。この世界もまた、数多くの選択を行い、その度に試練に耐えてきた。私はその過程を全て観てきた。私はこの世界の観察者だ。選択を行わず、ただ記録する。
 貴方と過ごした日々は、あるいは私にとっては間違いだったのかもしれない。
 生涯でただ一度きりの、幸福な過ちだ。

   #23

 忘年会は例年通り盛況だった。あらゆる種族の妖怪達が、残雪のちらつく神社に集まり、座敷の長机を囲んで酒を呑み交わした。博麗霊夢は頃合いを計って一座を抜け出し、縁側から月を見上げていた。レミリア・スカーレットが隣に座ったのは、丁度酒のお代わりを注ごうとしている時だった。レミリアは無言で霊夢の傍に腰かけ、カベルネ・ソーヴィニヨンのワイン・ボトルを掲げてみせた。
「最近付き合いが悪いじゃないか」
「そうかしら」
 毛玉を転がすようなしゃっくりをこぼして、レミリアは話した。
「タチの悪い酔っ払いの絡みだと考えてもらっちゃ困るよ。これでも私なりに心配してるんだから」
 霊夢は月から視線を離した。「……あんたが、心配?」
「変かい」
「別に」杯を口にする。「あんたらのペースに合わせていたら、肝臓がいくつあっても足りないのよ」
「昔の霊夢だったら、そんなの気にもしなかったのに」
 弱気になったか、とレミリアは無邪気に笑う。霊夢は首を振った。永遠に幼い吸血鬼が、肩に体重を預けてきた。火照った頭には、座敷からの喧噪が音楽のように感じられた。
「今でも思い出すよ」彼女は呟く。「あの弾幕は本当に美しかった。眼が覚めるような気持ちだった。霊夢は最近、弾幕ごっこしてる?」
 もちろん、と答えようとして口ごもった。血が付着したスカーフが脳裏に浮かんだ。あれを弾幕ごっこと呼んで好いのだろうか、と逡巡した。
 レミリアは囁くように続ける。「ちゃんと飛んでいるのか。今でも、息を吸うように宙に浮かんでいられるのか」
「舐めないでよ。当然でしょう」
「なら好いけど」レミリアは身体を離した。「少し気になってね。それよりさ、せっかく好い酒があるんだ。今夜は特別に私が酌をするよ」
 レミリアは空になった杯にワインを注いだ。霊夢には、葡萄酒の紅がスカーフの血の色と重なって見えた。注ぎ終わっても口をつけず、赤ワインと彼女の顔とを交互に見つめた。
「霊夢、どうしたの」
 レミリアは羽を揺らめかせた。牙が覗いていた。
 身体をずらして距離を取る。
「何を入れたの」
「は?」
「ワインに何を入れたのよ、レミリア」
「別に何も――」
「嘘おっしゃい」
「本当に何も入れてない」
 霊夢はレミリアを睨みつけていた。彼女は何度か瞬きしてから、眼を細めて立ち上がった。
「……怖いのか、私のことが」
 霊夢は動かなかった。
「悪魔は信用できないって?」
 吸血鬼の頬は酒気で紅潮していた。里の往来で雪だるまを作って遊んでいる、幼子の顔と同じように。霊夢が何かを云いかける前に、彼女は立ち去った。再び独りになった霊夢は、音を立てずに杯の葡萄酒を口に含んだ。
 咲夜謹製の、上質な味わいだった。
 変わったところなど、何もなかった。

 朝日が昇った。普段より酒を控えていた霊夢は、早起きして片づけに取りかかった。魔理沙も早苗も、他の妖怪達も、夏の日照りに当てられたモグラのごとく座敷に横たわっていた。射命丸文が起き出してきて、片づけを手伝ってくれた。髪は乱れていたが、二日酔いの兆候は見られなかった。
「珍しいわね」
「いつもお世話になってますから」
「あんたが勝手に記事にしてるだけでしょうが」
 霊夢が食器を洗い、文が皿や器を持ってきた。運び終えた天狗は、霊夢の背後で手持ちぶさたに壁に寄りかかった。食器のこすれる音と、水の跳ねる音がウサギのように台所を駆け回る。
「霊夢さん、大きくなられましたね」
 皿を拭きながら答える。「そうかしら。あまり実感がないんだけど」
「いつの間にか追い越されちゃいましたよ、背丈」
 霊夢は首を振り向かせて、横目に天狗の少女を見た。彼女の額が目線の高さにあった。その顔は無表情だった。いつもの飄々とした笑みではなかった。
「近頃は、派手な異変解決もされていないのでは?」
「妖怪退治ならこの前にもやったわよ。弾幕ごっこじゃないけど」
「伺いました。でも、そういう暗い話は記事にしたくないので」
 霊夢は笑った。「勝手なものね」
「天狗ですから」
 彼女もようやく笑った。誰かの呻き声が聞こえた。すぐに元の静寂に帰った。
「あまり私を当てにしないでよ」
「私は霊夢さんを高く買っているんですよ?」
「記事になるから」
「ええ」彼女が声を落とした。「やっぱり、いつかは辞められるんですよね。こう云っちゃなんですが、残念です」
「何処まで本心なのやら」
「人間を辞めても博麗の巫女は続けられるのでは?」
 水気を拭き取った皿を、篭に入れる。
「それはどうかしらね」
「霊夢さんの代から改めても好いんじゃないでしょうか。弾幕ごっこに異変解決、史上稀に見るぐうたらを始めとして、霊夢さんが達成した偉業は枚挙に暇がないくらいです」
「喧嘩売ってんの、あんた」霊夢は振り返って睨みつけた。「まぁ、私の次でも記事にはなるわよ。ひょっとしたら、私よりずっと面白い子かもしれないじゃない」
「そうですね、確かに」
「前向きに考えましょうよ」
「はい」
「レミリアもそうだけど、あんたら最近どうしたの。気味が悪い」
 天狗の少女は答えなかった。羽のこすれる音がした。ここに至って霊夢の心に疑問が浮かんできた。どうしてこいつは、取材でもないのに、完全なプライヴェートなのに、今日に限って敬語で話しかけてくるのだろう。
 文はさらに声を低めて云った。囁くようだった。「霊夢さん」
「なに」
「実は折り入って、お頼みしたいことがあるんです」

 起床した妖怪達が、頭を抱えたり笑い合ったりしながら、次々と神社を去っていった。賽銭箱の隣に座って見送る霊夢に、誰もが「新年おめでとう」と挨拶していった。空を遠のいてゆく影が、今年初めて顔を出した太陽に溶けてゆくようだった。霊夢は眼を見開いて、幻想郷を織りなす風景の欠片を拾い集めていった。そこには自由があった。遠ざかってゆく影のひとつひとつに、何かしらの言葉をかけてやりたいという気持ちになった。冬の朝なのに、不思議と寒さを感じなかった。
 最後に、咲夜を伴ってレミリアが去ろうとした。挨拶もせずに飛び立とうとしたので、霊夢は呼び止めた。彼女は横目で睨みつけてきた。霊夢は勢いに任せて両手を合わせ、昨夜の一件を謝った。少女は彫像のように凍りついてしまった。硬直が解けてから、レミリアは笑顔になって何度か頷いた。早足で近づいてきたかと思うと、霊夢の頬に触れて顔を近づけ、唇で額に挨拶を贈った。ハッピー・ニュー・イヤー、と彼女は囁いた。
 やがて、神社は静かになった。新しい静寂が境内の隅々にまで満ちていった。霊夢は飽きもせずに空を眺め続けていた。縞模様の細長い雲が、浜辺に打ち寄せる波のように山の向こうへと遠ざかっていった。

   #24

 里で買い物を済ませて、東風谷早苗は守矢神社の境内に降り立った。ちょうど、霧雨魔理沙が本殿を回り込んで歩いてくるところだった。お汁粉、頂きませんか、と早苗が誘うと、彼女は笑顔を浮かべて応じた。買い求めた小豆餡をお湯でゆるめ、焼いた丸餅を白玉と一緒に入れた。
「懐かしい味だな」魔理沙は大喜びだった。「久しぶりに食べたよ。やっぱり和食だよな、うん」
 気に入ってもらえて何よりだった。早苗も箸を進めながら訊ねた。
「先ほどまで、何をされていたんですか」
「話を聞いてたんだ。お前んちの神様にな。お酒持参で」
「神奈子様と、諏訪子様に?」
 魔理沙は頷いた。「ちょっと、気になることがあってな」
「何です」
「秘密だぜ」
「誰のお汁粉だと思ってるんですか」
 魔理沙は食事の手を止めて、眉をひそめた。つまらんことだぞ、とでも云うように。早苗は甘い汁を飲んで、続きを待った。真っ赤に熱せられた古いストーヴの上で、薬缶が湯気を吹いていた。
「……霊夢のことだよ。前に集まったことがあったろ。どうにも気になって、去年からあちこちで調べてたんだ」
「忘年会の時も途中から独りで飲まれてましたね、そう云えば」
 魔理沙はもう早苗の方を見ていなかった。「最初は疲れてるんじゃないかと思ったんだ。あちこちでしょうもない諍いが起きてるからな。もしくは蛇の怨念にでも憑かれちまったのか、あるいは病気にでもなったんじゃないかって私は考えたわけだ」
「それで」
「何もなかった」魔理沙は肩をすくめた。「原因なんて何もない。強いて云うなら自然の成り行きだな。まぁ、霊夢は最後まで霊夢だったってだけの話だよ」付け加えるようにして、言葉を結ぶ。「……私がどうこう口出しする問題じゃなかったんだな」
 魔理沙は食事を再開した。淡々と箸を動かした。まるで通り雨にでも遭ったみたいに、いつもの調子を取り戻していた。お代わり貰えるか、と茶碗を差し出されても、早苗は受け取ることができなかった。
「魔理沙さんは、それで好いんですか」
「…………」
「それじゃ霊夢さんが」
「――好いか悪いかの問題じゃない。それが霊夢の意思だってんなら尊重するさ。咲夜だってそうだ。あいつがあいつの生き方を貫くってんなら、私だって同じだよ」
 魔理沙は餅を飲み込んで、緑茶を一気に飲み干した。
「私は霊夢とは違う。自分の人生に全然満足してない。もっと色んなことを知りたいし、学びたい。星にだって手が届く可能性が残されてるってのに、むざむざ彼岸を渡っちまうなんて勿体ないだろ。これは云ってみればエゴだよ。私のエゴだ」
「エゴ、ですか」
「自分の選んだ道だなんて、格好付けたことは口が裂けても云えない。だって、完全に私ひとりのためだもんな。魔法使いなんて突き詰めればみんなそんなもんだ。お前は別の目的があるんだから、また話は違ってくるだろうが――」
「もう二度と、友達を捨てたくないって思うのも、エゴですか」
 言葉を区切って、魔理沙に打ち込んだ。彼女は押し黙った。早苗が思い出していたのは、捨てられずにタンスの奥にしまい込んでいたアルバムのことだった。二柱に黙って持ち込んだ。学園祭の集合写真だって、修学旅行で撮った写真だって沢山あった。幻想郷に来てから再びアルバムを開いた時、写真には早苗以外に誰も写っていなかった。携帯電話の写メールにも、通話履歴にも、アドレス帳にも、彼女達の痕跡は何処にも残っていなかった。想い出とは紙切れだった。風に遊ばれる紙切れだ。
 柱時計が夕刻を告げた。魔理沙がお汁粉を食べ終えて、トレード・マークの帽子を被った。彼女は微笑みを繕ってみせると、炬燵を備えつけたちゃぶ台に両腕を乗せた。今にも眠り込みそうだった。
「ほんと、どうしてだろうな」
 彼女は呟いた。早苗は指で目尻を拭って、顔を上げた。
「私達は、ある意味では同じだ。皆が皆、何もかもを捨てて今を生きてる。早苗は外の世界から忘れられて、こっちにやって来た。私だって里を飛び出して、自分で云うのも何だがあんな辺鄙な場所に住んでる。咲夜は悪魔に仕えてるくらいなんだから、人間としては碌な半生を送れちゃいなかっただろう。それで、霊夢は……」
 魔理沙はその先を云わなかった。
「同じように流れ着いたのに、これからの生き方は違うんだもんな。当たり前だと思ってたんだが、考えてみれば不思議だよな」
 彼女は両手を合わせた。美味しかったぜ、ありがとな、といつも通りの声で云った。早苗は返事をすることができなかった。立てかけていた箒を手にとって、彼女はブーツを履いた。雪の解けきらぬ世界に戻っていった。
「――早苗、魔理沙は?」
 諏訪子が顔を出した。後から神奈子も続く。「せっかちだな。もう帰ったのか」
 早苗は声がつっかえないよう注意しながら、二柱を出迎えた。彼女達もまた、お汁粉を本当に美味そうに食べた。魔理沙が献上した酒を飲み交わして、朗らかに笑い合った。早苗は眼を逸らさずに二柱の姿を眺め続けた。今更のように、胸にかっと太陽が燃え上がったように思えた。訳もなくこみ上げてくる衝動をこらえて、神様の聖餐を見守っていた。どうしたんだい、と声を掛けられたが、早苗は笑って首を振った。

   #25

 年明けムードも一段落して、紅魔館に日常が戻ってきた。十六夜咲夜が給仕に図書館を訪れると、三人の魔女が激しく議論を戦わせていた。咲夜に気づくと、会話は中断された。紅茶を注いで、ビスケットの大皿を並べた。パチュリーとアリスが礼を述べ、魔理沙が片手を挙げた。
「魔理沙、来てたのなら云ってくれれば好かったのに」
 そう云ったのは咲夜ではなく、給仕を手伝ってくれたフランドール・スカーレットだった。危なっかしい手つきだったが、今日は紅茶を一滴もこぼさなかった。カップも割れなかった。
 フランドールは笑って云う。「また新しい魔法を考えたの」
「妹様」
「好いのよ、咲夜」パチュリーが手を挙げた。「ちょうど休憩しようと思っていたところ」
 フランは拳大のガラス玉を浮かべてみせた。咲夜は念のため、後ろ手に銀時計を握りしめた。悪魔の妹は自分に注目が集まっていることを確かめてから、瞳を輝かせて話し始めた。
「この中にね、魔法の煙を詰めるの。煙は、持っているひとの気持ちに合わせて色を変えるわ。哀しい時は青に、怒っている時は赤に。このガラス玉をみんなが持っていれば、周りのひとの気分がひと眼で分かるようになると思うの」
 ガラス玉は挨拶するように中空を飛び回った。
「――例えば、お姉様が不機嫌な時は、私もぐっと我慢して大人しくしていられるわ。もし私が困っている時は、パチュリーが察してくれて、私の相談に乗ってくれるかもしれないでしょ」
 全員に見つめられた図書館の魔女は、咳払いして頷いた。
「妹様がお困りとなれば、無視はできないわね」
 フランドールは喜んだ。「これさえあれば、つまらないことで喧嘩したりせずに済むし、大切なひとの悩み事にすぐ気づくことができると思うの。どうかしら」
 咲夜は何を云うべきなのか迷った。最初に応じたのは魔理沙だった。
「けっこう素晴らしい発明だと思うぜ、それ」
「本当?」
「でもな、フラン。外には眼が見えなかったり、眼が見えても色の違いが分からない奴もいるんだ。そいつらには煙の色が分からないだろう」
「どうなるの」
「自分だけ気づくことができずに、取り残されるだろうな」
「それじゃ、……駄目ね」
「いんや」魔理沙は首を振った。「そういう奴のために、また別の魔法を作れば好い。眼が駄目なら、耳がある。鼻だってあるな」
「そっか」
「魔法ってのは組み合わせて使えば、効果が増すんだ。パチュリーだってそうだろ。火とか、水とか、色んな属性を組み合わせて戦うぜ」
「分かった。ありがと、魔理沙」
 フランドールは他の聴衆にも礼を述べ、ビスケットを数枚失敬して出て行った。残された四人は互いに顔を見合わせた。
 アリスが紅茶のカップを置いて云う。「成長したのね、あの子。驚いちゃった」
「感情を抑えられない時もあるけど、妹様はとても真面目よ。妖精メイドにも見習って欲しいくらい」
「妖怪だって、変わるのね」
「ええ。お嬢様も」
 咲夜は頷いた。パチュリーが身を乗り出し、描かれた術式の間違いを指摘した。三人の議論が再開された。咲夜は頭を下げて給仕を終えた。

 帰宅する魔理沙を、咲夜は玄関まで見送った。雲に包まれた太陽が、周りのカーテンを淡いオレンジに染めながら沈んでいった。パチュリーから許可を取って借りた書物の具合を、彼女は点検していた。その様子を見つめながら、咲夜は云った。
「お二人とも、好く協力してくれたわね」
 魔理沙は苦笑した。「その代わり、後から雑用で嫌というほど走り回る羽目になるけどな。無償で働く魔法使いなんて居ないんだと。あいつらと来たら、わざわざ羊皮紙の契約書まで持ち出してきたんだぜ」
「そう、人間を辞めてからも大変なのね。今はどんな具合なの」
「捨食の魔法ならそう苦労はしない。問題は捨虫だな」
「随分と急ぐのね」
「婆さんになると若返りの魔法をかけ続けなきゃいけなくなるからな。いくらなんでもそりゃ面倒だ。やるなら早めにやっておきたいんだよ。食事や睡眠を捨てたら研究の時間も取れるしな」
 咲夜は頬に指を当てた。「それなら、神社で夕餉をたかる必要もなくなるわね」
 魔理沙はしばらくその場に固まってから、押しつけるように帽子へ手を置いた。
「……あいつの飯が食えないのは、惜しいかな」
「でもまあ、しばらくは人間の習慣が抜けないんじゃないかしら。アリスだってそうだったんだし」
 魔理沙は無言で頷いた。咲夜の顔を真っ直ぐに見て、何かを云おうとしたようだった。それは喉の奥に留まった。箒にまたがって、彼女は宙に浮き上がった。
「じゃあな。紅茶にビスケット、今日も好かったぜ」
「お粗末様」
 咲夜は手をかざして、魔理沙の後ろ姿を見送った。今までにも何度か訪れた、魔法の森の景色を再現しようと試みた。あんな陰気な場所で冬の夜を独りで過ごすというのは、どんな気持ちなのだろうと思った。要らない記憶が骨を焼こうとしてきたので、咲夜は首を振って考えを打ち消した。玄関の扉を後ろ手に閉めた。

   #26

 頭を下げる女中や下男の訴えに頷きながら、霊夢は稗田阿求の居室に向かった。寝床に臥した彼女を見つめた。眉をひそめて袖から呪符を抜き出した。
「霊夢さん、どうしたんですかいきなり」
 阿求がこめかみから手を離して起き上がった。青い血管が浮いているのが見てとれた。
「診療の時間よ」
 霊夢は答えて彼女の傍に腰を落とし、首筋に符を貼り付けた。小さな悲鳴を上げて、阿求は両手を呪符に押しつけた。しばらく身体を折り曲げていた彼女が顔を上げた時には、眉間の皺が消えていた。
「痛く、ない」
「応急処置だけど」
「あぁ……」彼女は深く息をついた。「ありがとうございます。ずっと、ずっと楽になりました」
「麻酔みたいなものよ。原因を取り除いた訳じゃないからね」
「ええ。それでも、本当に」
 声は続かなかった。突発的に雪崩が引き起こされたかのようだった。阿求が縋るようにして、肩に顔を埋めてきた。声を殺して服を濡らす彼女の背を、霊夢はさすり続けた。骨の感触が痛々しかった。彼女が落ち着いて身体を離すまで、霊夢はひと言も喋らなかった。
 水を飲んでから、阿求は云った。「小鈴に、聞いたんですか」
「小鈴ちゃん? 知らないわよ。私は頼まれて来ただけ」
「屋敷の者が」
 霊夢は首を振った。それよりも、と話頭を転じた。
「いよいよという時は、彼岸の連中が来るんじゃなかったの。病気で往くなんて聞いてなかったけど」
「私にも分からないんです。去年の中頃から、少しずつ痛むようになってきてしまって。間隔も短くなりました」
「転生の準備だって、まだ本格的には始めていないんでしょう?」
「ええ」
 おかしいな、と霊夢は思った。考えていても答えは出なかった。女中が煎れたての玉露を持ってきてくれた。彼女は深々と頭を下げて退室した。入れ替わるように黒猫が姿を現した。猫は霊夢の膝に顔をすり寄せてきた。
「この前、『縁起』を読み返したんだけど」霊夢は黒猫の耳に触れながら云った。「……やっぱり、続けてゆくの? これからも」
 阿求は頷いた。「始めたのは私ですから。形こそ今とは違うものになってしまうかもしれませんが、時代が変われば『縁起』も変わります。今では人間だけでなく、妖怪も『縁起』に深い関心を寄せるようになりました。幻想郷がある限り、稗田も続きます」
 霊夢さんだって、そうでしょう。
「そうね」猫の背に手を置いて、霊夢は云う。「妖怪は好いわね。どいつもこいつも揃って暢気で。でもま、おかげであんたは転生してからも続けて会えるんだし、釣り合いは取れているのかしらね」
「ええ。でも……」
 阿求は眼を伏せた。霊夢は先んじて云った。「小鈴ちゃんね」
「はい。ご迷惑をおかけしますが、小鈴が無茶しないよう、見守ってあげて下さいませんか」
「昔から危なっかしいものねぇ、あの子」
 阿求が唇の下に指を当てて笑った。花の髪飾りが揺れていた。ひとしきり笑いをこぼしてから、彼女は呟いた。
「……以前までは、幻想郷での暮らしが仮初めのように思えました。彼岸でお勤めする時間の方が、私にとってはずっと長いですから。この身体だってお借りした物ですし、生活の手応えが全くなかったんです」
 霊夢さんはお笑いになるかもしれません。今回のことで、野分のような痛みを知ることで、枕元であの子が心配そうに座っていることで、ようやく私は自分が生きていることについて実感することができたんです。
「――辛い想いをするくらいなら、友達は作らない方が好かったのでしょうか。最初から独りであったなら、私は今頃何をしていたんだろうって、時どき想像しちゃうんです」
 霊夢の脳裏を、幾人もの人妖が通り過ぎていった。新年を迎えた朝の風景。自分に手を振る少女達。遠ざかってゆく影。賽銭箱の隣に腰かけて、飽きることなく空を眺めていた。
「そう好いことばかり続かないわよ」霊夢は云う。「表があるのなら当然、裏もある。楽しい想いをした分だけ、寂しさは募るもの。でもね、阿求。独りぼっちのお祭りなんて、やっぱりつまらないじゃない。それはもう、お祭りとは呼べないんじゃないかしら」


~ つづく ~


(引用元)
 Raymond Carver:A Small, Good Thing, the fifth story in Carver's collection;Cathedral, Alfred A.Knopf, 1983.
 村上春樹 訳(邦題『ささやかだけれど、役にたつこと』)短編集『大聖堂』(ライブラリー版)所収,中央公論新社,2007年。

 宮沢賢治『銀河鉄道の夜』『セロ弾きのゴーシュ』,童話集『新編 銀河鉄道の夜』所収,新潮文庫,1989年。

(原題)
 Die beste Auswahl für sich treffen

.
 ここまでお読み下さり、ありがとうございました。後編に続きます。

 山桃氏がお話のイメージ・イラストを描いて下さりました。URL は以下になります。
 >“Farewell, My Vintage Days” http://www.pixiv.net/member_illust.php?mode=medium&illust_id=49602218

--------------------------------------------------
 以下、コメント返信になります。長文を失礼します。

>>1
 お読み下さり、ありがとうございます。
 後編も楽しんで頂けたら幸いです。

>>3
 今回もご感想を残して下さり、心から感謝いたします。
 このお話は、これまでの物語よりも人物の感情の揺れ幅が大きいので、調整に苦労した覚えがあります。
 次のお話は、あまり視点をバラけさせることなく、例えば連作短編のように区切りをつけて書いてみたいですね。

>>9
 ありがとうございます。全体の流れは書き始める前に決めていたのですが、
 細かい修正については改稿の段階でかなり手を入れました。その成果が出ていれば嬉しいです。
 ノスタルジアはかねてより描いてみたい題材のひとつだったので、そう云って頂けると救われます。

>>10
 どうもありがとうございます。素敵というご評価、ありがたく頂戴いたします。
 いつかは全ての場面や描写に意味を持たせられるようになりたいですね。

>>12
 コメント、感謝いたします。後編でもよろしくお願いします。

>>13
 お気づきになって頂けて嬉しいです。無駄を削ぎ落とす作業は楽しいですね。
 後編も楽しんで頂けたら、と願います。

>>14
 お褒めの言葉をありがとうございます。次の物語でもお会いできることを願っています。

>>19
 このように長いお話をお読みくださり、まことにありがとうございます。
 お話の雰囲気は大事にしたいです。お褒めくださり、とても嬉しいです。

>>22
 長篇も読んでくださり感激です。
 季節の描写は幻想郷の醍醐味ですね。これからも大切にしたいです。
Cabernet
http://twitter.com/cabernet5080
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コメント



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後編へゴー
3.100名前が無い程度の能力削除
 相変わらず氏は人物描写が瑞々しいですね。素晴らしい。
お話の中にお話が入る効果も良いのですがシーケンシャルなお話の流れも見てみたいかもしれません(いえ、勝手な望みです無礼をお許しください)
9.100名前が無い程度の能力削除
伏線の張り方が、この先の展開を示唆するやり方が、とってもおしゃれで東方チックです。このノスタルジア感じさせる雰囲気が良いです。
10.100名前が無い程度の能力削除
素敵な伏線と感情描写、これは良い評価を付けざるを得ないです
12.100名前が無い程度の能力削除
感想は後半を読み終わってそちらに
とりあえずここまででつけられる点数を
13.100名前が無い程度の能力削除
読んでなかったのに今さら気づいたのだがなんという緻密な描写。
前篇ではあるけれどこの点数をば。
14.100名前が無い程度の能力削除
とても素敵な雰囲気
たまらないです。
19.100名前が無い程度の能力削除
この空気感最高ですね読んでいるとなんだか心が落ち着きます
22.100名前が無い程度の能力削除
秋、冬の曇り空って好きです
そんな感じが漂ってます
24.100名前が無い程度の能力削除
とにかく続編に行ってきます
25.無評価名前が無い程度の能力削除
この文字運び、選び方、構成、唸る他ない。
まだ、読んでる途中だけど。
26.無評価名前が無い程度の能力削除
言葉の一つ一つに、意味と感情が籠っている様に感じます。集積した歳月と瞬間の起状が、読み飽きない理由でしょうか。視点、視点での文、人、情の重なりと違いも、やはり唸る他ない作品でした。