6
そうだ、
それは叡智の、最高の結論だが、
「日々に自由と生活とを闘い取らねばならぬ者こそ、
自由と生活とを
そしてこの土地ではそんな風に、危険に取囲まれて、
子供も大人も老人も、まめやかな歳月を送り迎えるのだ。
己はそういう人の群を見たい、
己は自由な土地の上に、自由な民とともに生きたい。
そういう瞬間に向かって、己は呼びかけたい、
「とまれ、お前はいかにも美しい」と。(※1)
気を紛らすために読みはじめた本だったけれど、内容はちっとも頭に入らなかった。
窓の外はもうすっかり暗くなっていた。
早苗は本をベットの上に放りだし、部屋を出て階段を下りた。静かだった。玄関にも廊下にもキッチンにも灯りはなかった。
廊下の電灯をつけた早苗は居間のふすまが少しだけあいているのに気付いた。
「誰かいるの?」
――沈黙。
神経過敏なのは自分でもわかっていた。
早苗は暗い居間に入って手探りで電灯のスイッチを探した。電灯をつけた彼女は明るくなった室内を見て息をのんだ。幽霊みたいに蒼白い顔をした宗一郎が座卓の向こうに無言で座っていた。
「おどかさないでよ」
「ああ、早苗か、すまん、ちょっと考えごとをしてた」
「顔真っ蒼だよ、どこか具合悪いの? 今夕飯つくるから、今日は早く寝たほうがいいよ」
退室しようとした早苗を宗一郎が呼びとめた。その声が思いがけず真剣な響きを帯びていたので早苗はびくりと肩をすくめた。
「すまない、大声を出してしまって」宗一郎はしどろもどろになりながら言った。「お前に大事な話があるんだ」
――妙な既視感。
つい今しがた同じような台詞を聞いた気がする。どこかで……
緊張した空気を和ませようと早苗は無理に笑顔を作った。ことなかれ主義の安っぽい笑顔ができた。
「これは秘匿事項だ」と宗一郎は沈んだ声で話しはじめた。「三年前、松本で大きな地震があったとき、あの地震とお前を直接結びつけて考えたのは、政府内でもごく限られた人間だけだった。だから……安全保障上の理由からも、お前自身を守るためにも、そうしなければならなかったんだ。それが最善の策だと、政府のお偉方はそう判断した。その選択は誤りではなかったし、その認識は今でも変わらないとわたしも思う……」
さっぱりわからなかった。けれど、愚直な父がわざと遠まわしに話を進めようとしていることだけはよくわかった。と同時に、この話題が聞き手にそれなりの準備期間を要すると父に判断させるくらいには刺激の強い内容ということも……。聞くべきじゃない、と早苗は思った。
「やっぱりお薬飲んで寝た方がいいよ」
まだ何か話を続けようとしている父の言葉を無視して強引に立ち去ろうとした早苗の前に、眼鏡をかけたスーツ姿の男が立ちふさがった。
「田上……」と宗一郎がつぶやいた。
おどろいて腰が抜けたみたいに畳の上にぺたりと座り込んだ早苗を、田上の爬虫類のような目が冷淡に見下ろした。彼は無言のまま居間の敷居をまたいだ。早苗はしりもちをついたままじりじりと後退した。座卓の前まできて、田上は腰を下ろした。
「時間をくれと言ったはずだ」宗一郎がきびしい口調で言った。
「やるとは言わなかったがね」すぐに早苗の方を向いて田上は続ける。「あの男が言いたいのはつまりこうだ。自分はきみの本当の父親じゃない。きみの父親は三年前にすでに亡くなっている。きみの記憶は改ざんされている。改ざんしたのは我々だ」
早苗は恐るおそる父の顔を見た。宗一郎はうつむいたままじっと黙っていた。
「最前線で」と田上。「敵と遭遇したの兵士の発砲率は第二次世界大戦当時の統計で十五から二十パーセント程度と言われている。つまり残りの八十パーセントは敵を発見しても満足に引き金を引くことができない。戦争になったからって誰もが人殺しになれるわけじゃない。だが戦場ではそうした心の弱さが命取りになる。任務遂行の妨げとなるある種の感情の抑圧、感覚の遮断、記憶の抹消――技研でそうした催眠暗示の応用研究に従事をしていたその男を僕が引き抜いたんだ、きみの記憶を封じるためにね」
がっくりと肩を落とした宗一郎が観念したように弱々しい声で「その人の言うことはすべて本当だ」と言った。
早苗は世界の壊れる音を聞いた。
上演中の舞台の照明が突然落とされ、背景の書割が乱雑に撤去されるように、早苗の世界は解体され、終わりを告げた。むき出しになった舞台裏の骨組み、はずされた看板に書かれていた演目は『家族ごっこ』、演者はわたし一人……
足もとからゾワゾワと這い上がって来る得体の知れない嫌悪感が早苗の自律神経を揺さぶった。脈拍は早くなり、背筋が冷たくなって、手足の末端がしびれた。頭に詰まった感情が出口を求めて頭蓋骨の内側でパンパンに膨らんでいた。頭痛がした。不思議と涙は出なかった。ただひたすら気分が悪かった。視野が狭くなった。足もとの地面がぐにゃぐにゃと波打っていた。男の話し声が実際よりもずっと遠くから聞こえた。「
田上はしゃべり続けたが、真っ蒼な顔で肩で息をしている早苗にはほとんど聞こえていなかった。田上は左耳につけた無線機のイヤホンマイクに向かってぼそぼそと小声で指示を出した。「鎮静剤を用意しておいてくれ、もしもの用心だ」
夜空を赤く染める巨大な〝かがり火〟を八坂神奈子は複雑な気持ちで見つめていた。覚悟はできていた。はずだった。実際にこの光景をまのあたりにするまでは……
同じく〝かがり火〟を見つめる紫の顔を、神奈子はちらと盗み見た。上気してほんのり赤く染まる白磁のような頬。色素の薄い
生命力、活力、充実感、自信、希望、信念……彼女の美しさがそれら内面的なエネルギーの発露であることに神奈子は気付いていた。それだけに彼女の顔を直視することが今の神奈子には余計にはばかられた。
神奈子は古い記憶を思い返していた。はるか昔、自分がはじめてこの地に攻め入った日の記憶――炎上する村々、赤く染まる大地、女の悲鳴、男の罵声、
誰かから奪い、誰かに奪われる。そんな繰り返しの中で、これから手に入れるものと失うものを乗せた天びんは、いずれ均衡を失って後者に傾く。思考は保守的になり、リスクを避けることが最善の策であると信じ込もうとする。神奈子自身そうした心の変遷を経験したうえで、隠棲という道に逃げ込まざるを得なかったのだ。
千年のときを経てなお輝きを増す瞳!
神奈子はもう一度紫を見た。この女は本当にそれだけのときを生きた大妖怪なのだろうか? いったんは鎮火したはずの疑念の炎が、神奈子の中で再び黒い煙を上げてくすぶりはじめていた。
数時間前、
「まるで創世記の神だね」と言ったのは諏訪子だった。「社を焼くのは単に我々の未練を断ち切るためさ、途中で気が変わってもあと戻りできないようにね」
「どう解釈していただいても結構ですわ」紫が涼しい口調で答えたので、諏訪子はいっそう不機嫌な顔になった。
「そもそも妖怪であるそなたがなぜ傭兵稼業なぞ?」と神奈子がたずねた。
焼けてもろくなった
やはりショックがでかいか、と顔面蒼白の早苗を見ながら田上は思った。だが、想定の範囲内だ。心の問題は時が経てば回復する。いずれ現実と折り合いをつけなきゃならん時がくる。否定していてもはじまらん。受け入れるんだ、現実を。
『課長』と無線機のイヤホンから緊迫した若い部下の声。『神社で火災です。侵入者の形跡はありません。おそらく時限式の発火装置かと……』
田上は大声で警備の不備を叱責したい気持ちに駆られたがやめた。今はそんなことをしているときじゃない。浮き足立てばこちらが不利になる。
無線の内容が聞かれたはずはないのだが、何かを察したように早苗が突然立ち上がり、制止する田上の手をうまくかわして出て行ってしまった。すぐにあとを追おうとして足がもつれた。田上は日ごろの運動不足を悔いた。
早苗の自宅から洩矢神社まで数十メートル、たったそれだけの距離を走るのさえ息が切れた。神社は完全に炎に包まれていた。鳥居のわきにしゃがみ込んで嘔吐している早苗の姿が見えた。早苗は涙と唾液と鼻汁でぐしゃぐしゃになった顔で田上をにらみつけていた。田上は身震いした。いい表情だ。蒼い顔で震えているよりずっと魅力的だ!
そのとき猛スピード走り込んできた一台の4WDが対峙する早苗と田上の間に急ブレーキでとまった。助手席のドアがあいて、運転席の男が叫んだ。「乗って、早く」
早苗は迷わなかった。早苗が飛び乗ると同時に、4WDはタイヤをきしませながら猛然と夜の闇の中に走り去った。テールランプのオレンジ色の光だけが見えていたが、やがてそれも見えなくなった。
我々が今日ここに来ることを事前に知り得た人物は何人いた? と、田上は思い当たる人物を一人ひとり頭の中でリストアップする。狩野の報告を受けて以降、田上は情報を開示する範囲を意図的に制限していた。むろん内通者をしぼり込むためだ。
田上は無線機を使わずに、スーツの内ポケットから取り出した私物の携帯で電話をかけた。「藤島君、悪いが大至急兵隊を集めてくれ、キツネ狩りだ」
「国家が果たすべき最も重要な役割ってなに?」境内の玉砂利を踏みながら八雲紫は歩いた。「税金の再分配? それもまあ重要ですけど。最も重要な役割、それは暴力の管理です。軍隊という名の暴力機関は唯一国家のみに帰属する。これは大前提です。国家に帰属する軍隊は必然的に国家のエゴによってのみ動きます。国家という枠組みがある限り戦争は永久になくならないわけです。脱国家の試みとしてはすでに国連がありますけど、所詮は国家の寄合所帯、常任理事国の拒否権というしがらみを排さない限り彼らに真の活躍の場は巡ってきません。PMCとは国家に帰属しない暴力、一つの可能性ですわ」
「あんたが世界の警察をやろうっての?」諏訪子がニヤニヤ笑いながら食ってかかる。「世界中に敵を作るよ」
「はじめはそうなります。場合によっては対立する勢力――おそらく米国を中心とする多国籍軍になりますが――との衝突も避けられないでしょう。しかし全面戦争にまでは及びません。比較的早い段階で
「なぜそう言いきれる?」諏訪子の顔から笑みが消えた。
「米国がすでに〝我々の実力を知っている〟からです。冷戦時代に生み出された大量の熱核兵器は、超大国どうしが直接戦火を交える時代に
「早苗は兵器じゃない」
紫はくすりと微笑して「実戦で早苗ちゃんの出番はありません。抑止力は最後まで使用されないがゆえに抑止力なのです。もちろん早苗ちゃん一人にすべてを委ねるなんて愚かなまねはしませんし、責任を押しつけるつもりもありません。あくまで早苗ちゃんのような能力を持った人材を我々がすでに擁している、という既成事実が必要なのです。我々はホワイトハウスの直下に巨大地震を引き起こすことができる。クレムリンに隕石を降らせることも」
「互いに銃を突きつけあって身動き取れない状態が平和かよ?」
「現実をご覧なさい」紫はぴしゃりと言い放った。「武器なしで達成された平和が世界中のどこにあります? 戦争の根絶に必要なのは〝平和の祈り〟でも〝博愛の精神〟でもない。唯一〝報復〟というリスクのみが、実際の戦争を回避する現実的な実行力を有するのです」紫は両腕を広げてさらに演説を続ける。「まず我々の力を世界に示しましょう。我々の実力を知れば超大国に虐げられてきた小国は必ずついてきます。次に日和見主義の中規模国家が周囲の顔色をうかがいながらおずおずと賛同しはじめる。EU諸国が賛同すれば世界のパワーバランスは大きく塗り替えられることになります。世界世論という同調圧力に押されるかたちで、いずれは超大国も賛同せざるを得なくなる」
「ブラーヴォ! あんたノーベル平和賞取れるよ」パチ、パチとまばらな拍手をしながら諏訪子が言った。「戦争根絶へのプロセスはよくわかったよ。それで、あんた自身の最終的な目論見はなんだ? 平和の神として世界中に祀られるか?」
「学問的探究心と言ったら、信じてもらえるかしら?」紫は少し照れたような表情になって、ためらいがちに言った。「わたしは世界を統治するまったく新しいシステムを作りたいのです。統治者が滅べば崩壊するような脆弱な体制では意味がありません。わたしが死んでもシステムは機能し続けなければならない。システムの中枢を担う幻想郷の意思決定を〝賢者達〟による合議制としたのも、大結界の管理を〝巫女〟というポストに委ねているのもそのためです。国家、民族、人種、宗教、思想、あらゆるイデオロギーを超越してシステムは存在します。超大国の高官も、アラブの大富豪も、アフリカの部族長もシステムの前では等しく平等です。正義でも悪でもない。ただシステムが存在する結果として人類史から戦争が消滅するのですわ」
「それだ、維持費はどうすんのさ? 戦争そのものがなくなったら傭兵稼業は食っていけなくなるじゃん」
「各国のGDPから算出した公平な額を平和税として納めていただきます。自前で軍隊を整備するよりもずっと安上がり、経済的ですわ」
紫の言を信じるなら、と神奈子は思った。結界によって隔離された幻想郷の位置を外部から特定することは不可能だ。つまり我々は幻想郷にいる限り先制攻撃を受けるリスクを負わない。世界のどこかで紛争が起こる。するとどこからともなく幻想郷の使者が現れて、当事国の双方に対して和解を勧告する。「勧告に従わない場合は妖怪たちによる制裁が待っているぞ」と。人類は自らの意思で戦争を起こせなくなる。
「近代国家が政治と宗教を分離したように、政治と軍事を完全に切り離すことができたとしたら、とても素敵な世の中になると思いません?」と紫がふいに屈託のない笑みを見せたので、神奈子はドキッとした。
妖怪が作る新しい秩序! 政軍分離! 見てみたい、神奈子はそう思った。そう思ってしまった。実現にどれほどの時間を要するのか? そもそも実現の可能性はあるのか? 神奈子には想像もつかなかったが、紫の語る未来に強く惹かれてしまったのは事実だった。
「わたしの仕事を手伝っていただけますね?」と紫がたずねたとき、神奈子の返事はすでに決まっていた。
諏訪子は返答を保留した。
ロバート・アルトマンの運転する四駆の助手席で、早苗はじっと黙り込んでいた。
途中一度停車して、自販機で買ったミネラルウォーターで汚れた手と顔を洗い、口をゆすいだあとは、またずっと走り続けていた。どこへ行くのかたずねようともしなかった。
家には帰れない。今後の身の振り方は何一つ決まっていなかったけど、あそこに戻るのだけは御免だと思った。考えをまとめるだけの時間が必要だった。
四駆は中山道を一時間ほど北上して、どこかのリゾートホテルの駐車場に停車した。ロバートに連れられて早苗はホテルに入った。フロントの係員は全員外国人だった。ロバートは係員の一人と何かしきりに英語でやりとりをしていたが、早口で早苗には聞き取れなかった。ロバートが戻ってきて言った。「行こう、最上階のスイートだ」
部屋の前には白人と黒人のマッチョな二人組みが立っていた。おびえる早苗にロバートは笑いながら言った。「彼らはボディーガードだよ、もしものときに備えてね。何か必要なものがあれば彼らに言うといい。決して一人で出歩かないこと、いいね?」
早苗は首をたてに振った。
「いい子だ。中に部屋着がある。シャワーを浴びて着替えるといい。汚れた服はクリーニングに出そう。あとで係りの者が取りに来るようにフロントに伝えておく。僕はこれから用事があってそばにいてあげられないけど。明日の朝また迎えにくる。それじゃ、おやすみ、早苗」
部屋に入り、ドアを閉めた早苗はしばらくその場から動くことができなかった。一人になるとまた諸々の感情がよみがえってくる。早苗はドアにもたれたまま、その場に座り込んで泣いた。しばらくして、再び顔を上げた早苗の泣き腫らした目はどんよりと濁っていた。
学校をサボったせいかもしれない、と早苗はなかば本気で考えていた。何かのきっかけで
早苗は汚れた制服を脱ぎ捨てながら、ふらつく足取りでバスルームへ向かった。
早苗を部屋に入れ、ドアが閉まるのを確認してから、ロバートは黒人マッチョの胸に人差し指を突きつけながら脅すような口調で言った。「この部屋のベットで寝てるのは十六歳の女の子じゃねえ、核弾頭搭載した
マッチョの二人組みはブーツの踵を合わせて敬礼した。
ロバートはエレベーターで一階へ下り、フロントに一言告げてから、ホテルの駐車場にとめてあった四駆に乗り込んだ。車は中山道を再び諏訪に向けて走りだした。
ほどなくして、車は深夜営業のハンバーガーショップの駐車場に停車した。ロバートは車を降りて店に入った。アルバイト店員の営業スマイルがロバートを迎える。
カウンターでアイスコーヒーを注文したロバートは、代金を払ってコーヒーを待つ間に店内の様子をざっと見渡した。この時間でも学生やフリーターと思しき若者たちが結構いた。奥の窓際の席で、黒のジャージを着てキャップを目深にかぶった男が、一人ハンバーガーをほおばっているのが見えた。店員からコーヒーを受け取ったロバートはそれを持って、男のすぐうしろの席に背中合わせに座った。
すぐにジャージの男が口をひらいた。「きみのお友達なら来ないぜ」
ジャージの男は田上だった。
ロバートがジャケットのふところに右手をつっ込んだ瞬間、店内の空気がビリビリと殺気を帯びたものに変わった。何ごともなく会話を続ける客たちの中に、銃を所持した田上の部下が紛れ込んでいるのは間違いない。気配でわかる。
「よしなよ、カウボーイ」と田上は振り向きもせずに言った。「ことを荒立てたくはないだろう?」
ロバートはゆっくりとふところから手を出した。
「きみのことも拘束したいところだけど」と田上。「あいにく隊の外には権限が及ばない身でね」
「何が望みだ?」
「今回だけは見逃してやる。さっさとこの国から出て行け、
アイスコーヒーの容器を握るロバートの手に思わず力がこもる。
「帰ってボスに伝えろ」席を立とうとしたロバートの背中に向かって、田上は続けた。「彼女の記憶を封じたのは我々だ。封印を解けるのも我々だけだ。身柄を引き渡す気になったらいつでも言ってくれ。我々はいつでも交渉に応じる用意がある、とな」
ロバートは立ち上がり、まだ口もつけてないコーヒーをゴミ箱にぶん投げて足早に店を出た。
「ありがとうございましたー」場違いに明るいアルバイト店員の声が店内に響いた。
イヤホンマイクに逐一上がってくる部下からの報告に耳を傾けながら、田上は心の中でつぶやく。さて、うまく怒ってくれたかな? 怒りは思考を停止させる。怒りは人を愚鈍にする。判断力を失えばいずれボロを出す。この業界、先に怒った方が負けだ。
しばらくして店に入ってきた藤島一尉が、手の平に乗るくらいの小さな機械を田上に手渡しながら言った。「やつの車に仕掛けておいたGPSロガーっス」
一見USBメモリのようなこの小さな機械が、過去七十二時間分の
「やれやれ、ダイエット云々言ってたのにまた食っちまったぞ」田上は食べ終わったハンバーガーの包み紙を両手で丸めながら毒づいた。
7
その日の朝、紫と藍は宿泊中のホテルのフロントからタクシーを手配した。ほどなくしてやってきたタクシーに乗り込む二人の姿を、狩野大輔は張り込の車の中から見ていた。諏訪に来てからというもの、昼は観光と買い物、夜は酒飲んでドンチャン騒ぎを繰り返していた二人がタクシーで移動するのはこれがはじめてだ。
「追うぞ」と狩野が言ったのを合図に、運転席の芹沢が静かに車を発進させる。
車は付かず離れずの距離を保ちながらタクシーのあとを追った。やがて軽井沢にほど近いとあるホテルの正面玄関前でタクシーは停車した。芹沢はいったんホテルの前をやり過ごし、Uターンしてホテルの死角に車を着けた。同じく狩野の部下を乗せた別の車両がホテルの入り口をはさんで反対側の死角に停車した。
助手席のドアをあけて車から降りた狩野が服の袖口に隠した無線機の小型マイクにぼそぼそと指示を出しながらホテルの玄関に近づく。カップルに偽装した若い捜査員の男女がさりげなく雑談しながら狩野のあとに続き、出入り口を見張るべくその場に待機する。頬髯の老人に扮した部下の一人が痛む足を引きずる演技をしながらホテルの裏口に向かってゆっくりと歩いていくのを確認してから、狩野はホテルに入った。
ホテルに入った狩野はそれとなく周囲を見渡した。豪華なシャンデリア、毛足の長い絨毯、セレブな客層、従業員も客もほとんどが外国人……。ナイロン製の安物のジャケットを着た日本人丸出しの狩野は完全に場違いだった。かまうもんか。狩野はズボンのポケットに両手をつっこみ、ずかずかと無遠慮にロビーを突き進んだ。廊下の突き当たりの扉に入っていく紫のうしろ姿が見えた。すぐにあとを追おうとする狩野を白人のボーイが呼びとめた。ボーイは早口の英語で何かしきりにまくし立てていたが、狩野にはほとんど聞き取れなかった。身振りから、どうやらこの先は立ち入り禁止だとわめいているらしかった。
「何言ってっかわかんねぇよ」狩野は小指で耳の穴をほじくりながら悪態をついた。「アイム、ジャパニーズオンリー、オーケー?」
がたいのいい狩野よりもさらに頭一つ分長身のボーイの長い腕が、狩野の襟首を乱暴につかんだ。間髪を容れずにボーイのひざ蹴りが狩野の顔面をとらえた。飛び散った鼻血がボーイの白いシャツを赤く染めた。前のめりに倒れそうになるのをなんとか踏みとどまった狩野は低い姿勢でボーイにタックルをかまし、その体勢まま廊下の突き当たりの扉めがけて猛然と突進しはじめた。
「なめるなあァァァァッ!」
二人は扉にぶちあたり、その衝撃で扉は簡単にひらいた。扉の向こうは五段ほどの短い下り階段になっていた。二人はもつれあったまま階段を転げ落ちた。
後頭部を強打してうめき声を上げているボーイをさらに拳固でニ、三発殴りつけておとなしくさせてから、狩野はゆっくりと視線を上げた。そこは駐車場だった。
目の前に白いバンが停まっているのが見えた。ちょうどその車に乗り込もうとしていた男に狩野は見覚えがあった。
髪を短く刈り込んだ体格のいい見るからに軍隊ふうの護衛と思しき連中が男の周囲を取り巻き、戦争映画みたいにごついライフル銃をこっちに向けてかまえていた。紫の姿はどこにもなかった。
「やれやれ、ハメられたか……」狩野は空を見上げてひとりごちた。
戦後GHQに接収され、進駐軍の保養施設として利用された某ホテル。現在は大手外資系ホテルグループの系列会社が経営している。客もほとんどが外国人。おそらく在日米軍の将校とその家族だろう。周囲にはゴルフ場やテニスコート等のレジャー施設、高級外車……
「ここってCIAもよく利用するのかな?」少し離れた商業ビルの屋上から双眼鏡を手にホテルの様子をうかがっていた田上がたずねた。返事はなかった。田上のすぐそばには
田上はもう一度双眼鏡をのぞき込んだ。駐車場に見覚えのある青い4WDと白のバンが並んでとまっていた。これみよがしにM16をさげた屈強そうな連中――海兵隊か?――が周囲を護衛しているので間違いようがない。
搬入路の扉がひらいて、さらに二人の護衛、続いてCIAの男と早苗が出てくるのが見えた。CIAと護衛の一人が互いに敬礼を交わす。思ったとおり、連中はお嬢ちゃんをどこかの基地へ護送する気だ。
「あせって動くなァ良くないぜ……おっと、ありゃなんだ?」
再び搬入路の扉がひらいて、何か大きなかたまりが跳びだしてくるのが見えた。田上はすぐに双眼鏡の倍率を上げてその部分にズームする。跳びだしてきたのはホテルの従業員と取っ組み合いをする狩野大輔だった。
「おいおいマジかよ?」一瞬戸惑った田上だったが、すぐに思考を切り替える。「いや、これはチャンスだ。警備に隙ができる。突入班の準備を急がせろ」
田上の命令を受けて、作戦変更の細かい指示を伝える無線が慌ただしく飛び交いはじめた。
憔悴しきった早苗の顔を見下ろしながら、八坂神奈子はやりきれない気持ちでホテルの屋上を囲む墜落防止のフェンスの金網を握りしめた。
音もなく背後の空間が裂けて、中から一仕事終えた八雲紫が現れた。この状況を楽しんでいるかのように、紫は終始不敵な薄笑いを顔に貼りつけていた。神奈子にはそれが気に入らなかった。神奈子のそばまで歩いた紫はフェンス越しに駐車場を見下ろしながら言った。「どうなさいました? これからおもしろくなってまいりますのに……」
ニタニタと笑う紫の横顔を、神奈子は鋭い視線でにらみつけた。
「なぜさっさと助けない?」
「なぜ助けないといけませんの?」紫の言葉に場の空気が凍りつく。「わたしがほしいのは洩矢の秘伝であって、あんなふぬけた田舎女子高生じゃありませんわ」
神奈子はギリと歯噛みをした。握りしめた拳が怒りにぶるぶると震える。
「騙された、とおっしゃる? きかれなかったら、答えなかっただけです。今どき入社試験もなしに内定がもらえるなんて、都合が良すぎると思いません? それともタダで養ってもらえるとでも?」
紫の導師服に描かれた模様がぐにゃりと溶けだし、形を変える。新たに現れた卦はよろこびを意味する十六番の『
〝諸侯を建て
「いやなら降りていただいても結構ですよ? もっとも、わたしを信頼する以外に選択肢があればの話ですが……藍ッ!」動物じみた跳躍力で紫の陰から素早く跳びだした八雲藍が、神奈子の先制の拳をぎりぎりのところで制す。紫は口を三日月の形につり上げて続ける。「神様のお相手をしてちょうだい、藍。少々気が立っていらっしゃるようなので、くれぐれもそそうのないように」
「承知」ちらと主人を横目で見ながら、「して紫様はどちらへ?」
「早苗ちゃんにちょっと発破をかけてくるわ。いつまでも学生気分じゃ困りますからね」
「うへぇ、お手柔らかに」
にらみあう二人にくるりと背を向けて、紫は眼下のパノラマを再び見下ろす。ぴんとのばした右手の人差し指をピストルに見立て、その照準をゆっくりと地上に向ける。
紫は見えないピストルの撃鉄を起こす。
「状況開始します」
強い横風にあおられて洋服の裾が一瞬大きくはためき、そして――
――銃声を耳にした狩野大輔はすぐに自分の身体をあちこちまさぐってどこにも穴があいていないことを確認した。目の前でライフルを構える海兵隊員の一人がスローモーションで地面に倒れ込む。
「
『あれッ、今の班長じゃなかったんですか?』玄関前でカップルに偽装していた捜査員のコンビが異口同音に応答を返す。二人とも別の柱の陰ですでに銃を構えている。足の悪い頬髯の老人が駐車している車の陰を低い姿勢で素早く走り抜けていく。三人を援護できる位置について、こちらも銃を構えながら、『班長以外の誰が撃つっていうんです?』
「お前らなぁ……」眉を八の字にして抗議しかけたところで、M16の小気味よい連射音。NATO規格の五.五六×四十五ミリ弾が硬い柱の角を容赦なく削り取っていく。
『ひえぇ、あいつらマジで撃ってきましたよ。おっかない』
「ガタガタ言ってねえでこっちも応射しろ」とは言ったものの、自動小銃相手に拳銃じゃはなから勝負にならない。一発撃つ間に1ダースは撃ち返してくる。
『班長、女の子ですよ。女子高生がいます』
「おいおい、しっかりしてくれよ、ストレスで頭おかしくなっちまったか?」
弾幕が途切れるのを待って一瞬だけ柱の陰から顔をのぞかせた狩野は、目の前を制服姿の女子高生がすっと横切ったのを見て、小さな目をぱちくりとさせながら言った。「まあ無理もねえ。こんな状況、俺だってはじめてだからな」
「撃つな。おい、やめろっつってんだろこのマヌケ」景気よくM16を乱射する海兵隊員の一人に向かってロバートは叫んだ。
「何だよさっきからピーピーうるせーな」銃を下ろしたリーダー格の
隊員たちの下卑た笑い声を無視してロバートは続けた。「この作戦で指揮権を持つのは俺だ。俺の指示に従ってもらう」
「残念だが俺たちのボスはあんたじゃない。俺たちが受けた任務はあんたとそっちのお嬢ちゃんを無事に基地まで送り届けることだけだ。CIAだか何だか知らんが、お荷物はおとなしく黙っていてもらおう」
カッとなったロバートはバンのタイヤを思いきり蹴りあげ、「ザコ相手にいつまでも無駄弾撃ってないで、ヘリでも装甲車でもさっさと応援呼べっつってんだよクソったれ」
ヒューと口笛が鳴って、またゲラゲラと笑い声が巻き起こる。
「やられたらやり返せ、ハイスクールでそう教わらなかったか?」そう言って男は手近な車に向けて銃を乱射する。ホテルの宿泊客のものらしいベンツSクラスがたちまち穴だらけになって、もれたガソリンに引火して盛大に火の手が上がる。「見たか? これが俺たちのやり方だ。俺たちにケンカ売ったクソ野郎どもはみんなこうなる」
ロバートはめまいがした。時間がなかったとはいえ、もう少しマシな連中は手配できなかったのか? 横田がこんなふざけた連中をよこしてきたおおよその理由は見当がついた。基地指令が
考えながらふととなりを見たロバートは、銃撃戦の中を一人フラフラと歩く早苗の姿を見て卒倒しそうになった。
ロバートは田上の
早苗は振り向きもせずに、空の一点をじっと見つめたまま動こうとしなかった。
銃弾の雨が飛びかう中をまるで散歩でもするように早苗は歩いた。晴れときどき銃声、ところにより激しい集中砲火となるでしょう。お出かけの際は防弾ベストをお忘れなく……
ふと顔を上げると、目線の少し上、地上から10フィートくらいの高さに日傘をさした金髪の女性が浮いていた。道路工事の騒音のような銃声はいつしかやんでいた。まるですべての生き物が死に絶えたか、あるいは時間がとまってしまったみたいに、周囲は深い静寂に包まれていた。
早苗はさしておどろきもせず、昨日読んだ本の一節を思い出していた――
私は陰気な魔女エリクトーです。
いつものように、今夜の
私は不届きな女ではありません…… (※1)
「あなたはどっちだと思う?」魔女の声が早苗の思考を中断させた。ささやくような魔女の声は距離感を無視してやけにはっきりと早苗の耳に届いた。魔女は続けた。「壊れているのは世界、それともあなた自身?」
世界を壊したのはきっとこいつだ、と早苗は思った。この魔女こそがすべての元凶に違いない。
「正解は〝どちらも正常〟よ。世界もあなたも、どこも壊れてなんかないの。都合の悪いことすべて欠陥のせいにして生きるのって楽よね。わかるわ。でもこれからはそれじゃ通らない。あなたには強くなってもらわないと困るの。ところで、あなた運命って信じる?」魔女は早苗の返答を待たずに一方的に話しを続けた。「運命って生まれた日の星の位置ですべてが決まっちゃうような、そんな単純なものではないの。あなたの運命は周囲の人々の意思が複雑にからみあってできている。運命は強い意志の力によってねじまげられる。たとえばこんなふうに……」
魔女は何も持っていない両手で弓矢を射るまねをして見せた。恋のキューピットさながらに、魔女の放った架空の矢はみごと海兵隊の一人の男の
「あの人たちにはね、わたしの姿が見えてないの。この意味わかる?」
わかりたくなかった。けれど、問われるまでもなく、隊員たちが目の色を変えたことで早苗は事態を把握せざるを得なかった。ある者は人外のバケモノに対する恐怖のまなざしで、ある者は同胞を殺した敵に対する復讐のまなざしで早苗を見ていた。どの目にもほどほどの警戒心と、たっぷりの殺意……
「世界は本質的に不条理で残酷にできている。それは決して世界が壊れているわけではなくて、もとからそういうものなの。あなたにこの事実を受け入れることができて?」
難聴の耳が本来の機能を取り戻すように、早苗の耳に急に周囲の喧騒が戻った。兵隊が銃を構えるときのチャッという短い音まではっきりと聞き取ることができた。狂気に駆られた目と無数の銃口が早苗を見ていた。魔女はすでに姿を消していた。
早苗はバカみたいに突っ立っていた。どうすればいい? 何も思いつかなかった。
「耳をふさいで伏せて」背後の物陰からかすかにそんな声が聞こえた気がした。次いで、アスファルトの上を何か金属の筒が転がるような音がして、直後に強烈な閃光と爆音が早苗をのみ込んだ。
どこからともなく取り出した
「戦場って人生の縮図だと思いません?」柄付眼鏡をのぞき込んだまま紫が言った。
「あんたの人生に心底同情するよ」と諏訪子は答える。「千年も生きてそんな感慨しか持てないのだとしたら」
紫はふふっと短く笑って、「お友達の助太刀はしませんの?」
「式神に負けるほどあいつは弱かないよ、それに」と、はるか上空で拳をまじえる神奈子と藍を見上げながら、「あんたに頼る以外に選択肢がないってことくらい、あいつだってちゃんと理解してると思うよ。このところナーバスになってたからさ、ちょっと憂さ晴らしでもしたかったんじゃないかな」
紫は諏訪子の視線の先を追ってまぶしそうに目を細める。
「ずっと考えていたんだ」と諏訪子。「妖怪が戦争の抑止力たり得るって話……暴力を管理するってことは、それって恐怖も管理できるってことじゃないかな? 妖怪であるあんたがこんなおいしい話に気付かないはずはない。戦場の恐怖を妖怪に対する恐怖にすり替えて自分たちの糧にする。これがあんたの真のねらいだ。あんたは戦争を根絶する気なんてはなから持っちゃいない。むしろ戦争を好きなだけ長引かせる方があんたにとってのメリットは大きい……どうだ、図星だろ?」
「〝恐れ〟は敬意ですから、恐怖の対象はそのまま信仰の対象ともなり得ます。それは神様にとっても悪い話ではないはず」紫はずるそうな笑みを浮かべ、続ける。「諏訪様もその昔、恐怖によって民を治めたことがあるのでは?」
「利害は一致するってか?」
「さあ、どうでしょう」
地上では外壁の一部を破壊してホテルの敷地内に侵入した特殊作戦群の一団が壁にはりついて突入の機会をうかがっていた。その様子を眼下に見ながら諏訪子がつぶやくように、「この作戦はきっと失敗する。あんたが邪魔をするからね」
スタングレネードの爆音。
「ご名答」たった今二人の憐れな海兵隊員の命を奪った残酷な魔女の指先が、今度はグレーの都市迷彩に身を包んだ陸自の特殊部隊員たちに容赦なく襲いかかる。まるで指揮棒でも振るみたいに魔女の指先が人々の運命を蹂躙する。
「なあ、一つ聞いていいか?」どこか投げやりな口調で諏訪子がたずねる。「どうしてこんなまわりくどいことやってんだ? あんたの能力なら他にやりようがあるんじゃないの? 早苗の記憶をよみがえらせるのが目的だとしたら……」
「美少女をなぶるのが趣味」露骨に顔をしかめる諏訪子を見て、ひきつったみたいに身をよじって笑いをこらえる紫。「冗談。たとえるなら、そう――
〝求めよ、さらば与えられん〟
ってことかもしれませんわ」(※3)
「早苗自身が求めなきゃダメってこと?」
「たとえ話ですよ。そろそろ藍が音を上げるころね、では失礼」
紫は見えない糸につり上げられるように音もなく上空へ昇っていった。
両手に持ったあぶらげをひらひらさせながら「がんばれ、がんばれ」と応援する主人の無邪気な笑顔を、八雲藍は曇ったガラス球のような目で見つめた。過去に見たことがないほどいきいきとした紫の表情が、憐れな式を絶望の淵に突き落とした。この人はたぶん、わたしが八つ裂きにされるところを見たがっている……
信仰を失くしたとはいえ八坂神奈子はやはり神だった。足どめ程度ならともかく、式風情が神と互角に渡りあうなど、どだい無理な話だ。式の最大の弱みである単調な攻撃パターンはすでに完全に見切られていた。万に一つも勝ち目はない。
「早うかかって来ようぞ」目もとに退廃的な闇を、口もとに嗜虐的な笑みをたたえた神奈子が藍を挑発する。
殺される。藍は一歩あとじさりした。背後には主人の残酷な微笑。逃げ場はない。握りしめた掌に汗がにじむ。
「来ぬならこちらから行くぞ?」一足飛びに距離をつめた神奈子の全体重を乗せた重い拳が藍の顔面めがけて襲いかかる。とっさにガードした両腕がビリビリとしびれる。すぐさまカウンター狙いで放った蹴りは、しかしむなしく空を切った。
「ざーんねん。そいつぁ残像だぁ」背後からおどけた神奈子の声。
振り向く藍の顔面めがけて神奈子の渾身の右ストレートが再び襲いかかる。今度はガードも間に合わない。視界が闇に包まれる寸前、主人の満足げな笑顔が一瞬だけ見えた気がした。
「紫様……」藍の意識は漆黒の闇の中に沈んでいった。
早苗は目を閉じ、両手で耳をふさいだ状態で小さくうずくまっていた。爆音の余韻がまだ頭の中でわんわんと反響しているみたいだった。
早苗は恐るおそる目をあけた。周囲には都市迷彩の特殊部隊員が数人倒れてうめき声を上げていた。一人の隊員が早苗を抱きかかえるようにして銃弾から守っていた。
隊員は顔を覆う黒い覆面を自ら外した。宗一郎だった。
「と、父さん、どうして……?」早苗は震える声で言った。言ってしまってから、この男をまだ父と呼んでいる自分に気付いて、早苗はバツが悪そうに目を伏せた。
ふっと短く笑った男の顔は蒼ざめて、額に大粒の汗が光っていた。ふいに体勢を崩した男が早苗に寄りかかるようにして倒れた込んだ。生暖かいぬるぬるとした感触、白いブラウスにべっとりとついた血――早苗はそこでようやく男が撃たれていることに気付いた。男はきれぎれに言った。
「一度しか言わないからよく聞きくんだ」
――まただ、またこの既視感。わたしはこの台詞をすでに知っている!
「わたしにはもう時間がない」
――知っている。このあと何か良くないことが起こるのを、わたしは確かに知っている!
「今からお前の記憶の封印を解く。これが父としてわたしのやり残した最後の仕事だ」
革のグローブをはめた男の手が早苗の髪をやさしくなでた。
「赦してくれとは言わない。わたしのことを憎んでもらってもかまわない。我々はそれだけのことをしたんだ」
その指先が早苗の細い首にのびて、頸動脈をそっと圧迫する。
「我々の言いなりになるな、早苗。お前の進むべき道はお前自身が決めるんだ。お前は強い。お前はわたしの……」
男の最後の言葉を聞く前に、早苗の意識は催眠の闇の中に深く沈んでいった。
泣いていた。
青い髪の女性が泣いているわたしを必死にあやしていた。
「あのね……早苗、お母さんは、その、ちょっと大事な用があって、しばらく帰ってこれないけれど、決して早苗のこときらいになったわけじゃないから、あの、その……」
〝きらい〟という単語を聞いて不安になったわたしは、またわんわんと声を上げて泣きはじめてしまった。
「ホント子供あやすのへたくそだなー」と黄色い髪の女性が言った。「へっへっへー、これなーんだ?」
女性はうしろ手に隠して持っていた黄色いゴム製のボールをわたしの目の前に突き出した。女性はボールを床にバウンドさせた。ボールは勢いよく弾んで女性の手もとに戻った。
「いくぞー、さなえー」
今度はわたしに向かって、女性はゆっくりとボールをほうった。ボールはわたしの手をすり抜けて床をてんてんと転がった。わたしは夢中でボールを追いかけた。ようやく追いついてボールを拾い上げたわたしに、女性は〝こっちに投げろ〟とジェスチャーをした。わたしは両手で力いっぱいボールを投げた。それでもボールは女性まで届かず足もとに転がった。
「こうやるんだ。いいか見てろよ」女性は片手で拾い上げたボールを壁に向かっておもいきり投げつけた、けれどボールは手をすっぽ抜けて、青い髪の女性の側頭部に命中した。
「すまん、手もとが狂った」
「てめぇ、わざとだろ」
この光景がおもしろくて、いつの間にかわたしはころころと笑いころげていた。つられて青い髪の女性がくすりと笑った。黄色い髪の女性も笑った。
「……なえ、いつまで寝てんだよ、早苗」
誰かの手がそっと肩に触れて、早苗は正気を取り戻した。早苗は声のする方を振り返って言った。「神奈子……様?」
「やっと思い出したよ、この子は」あきれた口調とは裏腹に、神奈子は今にも涙がこぼれ落ちそうなほど目をうるませていた。
「悪いが感動の再会はあとだ」言いながら諏訪子は赤く輝く二体の分身を駆使して、飛びかう銃弾から早苗を守っていた。
「諏訪子様……」
振り向いた諏訪子は白い歯を見せてニッと笑い、すぐにまた前を向いて分身の制御に戻った。
最後の仕事をやりとげた男の身体が目の前の地面に静かに横たわっていた。その表情には満足げな笑みが浮かんでいるように見えた。
早苗の小さな肩が小刻みに震えた。両目から大粒の涙がボロボロとこぼれ落ちた。
「なあ、早苗」と神奈子が静かに語りかけた。「あいつら、みんなやっちまおうぜ。神だとか、人だとか、正義だとか、悪だとか、そういうのもうホントどうでもよくなっちまったんだ。我々は人じゃない、神でも、まして妖怪でもない。我々は我々だ。それ以上にも以下にもなれない。利用できるものがあれば利用するし、じゃまなものがあれば排除もする。単純にそれでいいんじゃないかって気になってきたんだ」
「同感だね」と諏訪子が前を向いたまま同意した。
「だから、なあ、やっちまおう。あいつらみんなぶっとばして、家に帰ろう」
わたしにはまだ帰る場所があった! わたしは一人ぼっちじゃなかった!
早苗は大きく深呼吸をした。体の震えはもうとまっていた。彼女は決然と顔を上げた。
「秘伝の呪文は覚えているね?」
「はいッ!」
「いい返事だ」
「はいッ!」
「我々の前に立つものはすべて敵だ、遠慮はするな」
「はいッ!」
「やれッ、早苗ッ!!」
「はいッ!!!」
目を閉じて意識を集中させる。今ならあらゆるものの中に〝
早苗は深くゆっくりと呼吸しながら、厳かに呪文を唱えはじめた。
晴天の空に雷鳴をともなう真っ黒い雲がうずを巻いて集まりはじめていた……
8
あぐらをかいて頬杖をつきながらたたみの上に広げた新聞を険しい顔でながめる神奈子のとなりで、諏訪子はうつ伏せに寝転がったまま一昔前の携帯ゲーム機をいじくりながら子供みたいに足をばたつかせて言った。「ねえー、ゴハンまーだー?」
「はいはい、すぐ仕度しますからね」青い巫女装束の上から割烹着をつけた早苗がちょうどお盆にのせた料理を持って部屋に入ってきたところだった。早苗はちゃぶ台の上に手際よく料理を並べはじめた。
あけ放たれた障子戸から穏やかな秋の日差しが差し込んでいた。標高が高いせいか、少しだけ風が冷たかったけど、気候は諏訪とさほど変わらない気がした。案外、距離は離れていないのかもしれない。
わたしたちは八雲紫の〝入社試験〟にパスしたのだった。三人の冷たい視線を、紫は「みごとな奇跡」だの「早苗ちゃんの記憶が戻ってよかった」だの「すべてわたしの計算通り」だのと調子のいい言葉を並べて、すっかり煙に巻いてしまった。確かに彼女はうさん臭い人物だったけど、どこか飄々としてつかみどころがなく、そのくせ周囲を納得させる術を心得ていた。結局、わたしたちは彼女を利用する道を選んだ。つまり幻想郷への移住に同意したのだ。
「また、外の世界のこと考えてる?」料理の並んだちゃぶ台を囲みながら、箸をとめてぼーとしている早苗に向かって神奈子がたずねた。「友達と離れてさびしい?」
早苗は左右に首を振った。
「しっかしあれは傑作だったね」諏訪子が意地悪な顔でイヒヒと笑いながら言った。「まさかあそこでカエルを降らせるとは思わなかった」
「いや、あれは、その」早苗がしどろもどろになって取り繕う。「適当な呪文が思いつかなくて……」実は竜巻を起こそうとして呪文を間違えた、とは口が裂けても言えない。
「でも、早苗ちゃんらしい奇跡でホッとしましたわ」
「そうそう、実に早苗らしい……って、あんたいつからそこにいたんだ?」
いつの間にかマイ茶碗とマイ箸を持った八雲紫が、ちゃぶ台の隅にちゃっかりと座り込んでいた。彼女はとぼけた顔で言った。「いつって、最初からですけど」
「ダメだ、あんたに早苗の手料理を食う資格はないッ!」
「なんですって! わたしは幻想郷の管理者ですよ……(中略)……よって女子高生の手料理食べる権利は十二分にありますッ!」
ギャーギャーとケンカをはじめる諏訪子と紫を見ながら早苗はぼんやりと考えた。もし、あのとき秘伝を思い出すことができていなかったら、この人はわたしを殺しただろうか? きっと微塵の躊躇もなく殺しただろう。この人は妖怪なのだ。せめて思い通りに奇跡が起こせるようになっておかなくては、神奈子様や諏訪子様はともかく、自分はいつ役立たずとして切り捨てられてもおかしくない身なのだから……
紫はいつの間にかケンカをやめ、今度は神奈子に何やら怪しい商談を持ちかけていた。
「ですから、人里の近くにもう一つ神社があってですね……」
「なるほど、てっとり早く信仰を稼ぐためにはそこを乗っ取ればいいわけか……」
「お互い損はいたしませんわ……」
まるで悪代官と越後屋の会話そのままだ。越後屋、おぬしも悪よのう。
早苗は二人の会話に耳を傾けながら、しかし意識はまた別のことを考えていた。あの人はどうなったのだろうか? 障子戸に切り取られた秋晴れの空を見ながら、早苗は遠く諏訪の地に思いを馳せるのだった。
おびただしい数のカエルを踏まないように注意しながら田上信彦は歩いた。
「やれやれ、やっとやんだみたいだな」
田上はさしていた大きなこうもり傘を閉じた。傘に乗っていた小さなアマガエルがぴょんと地面に跳ね下りた。
頭上の黒雲は嘘のように消え去り、またもとの晴天に戻っていた。
田上は周囲を見渡した。地面に倒れたまま動かない者、負傷者の救護にあたる者、黒煙を上げて炎上する車、それに大小様々な種類のカエル、かえる、蛙!
もう一度震度6クラスの大地震を引き起こされるくらいの事態は覚悟していただけに、正直拍子抜けもいいところだ。ファフロツキーズ程度で済んだのがむしろ奇跡だ。
CIAと海兵隊はすでに撤収していた。
田上は宗一郎の前まできて足をとめた。地面に仰向けに倒れたまま動かない宗一郎の顔を見下ろしながら田上はつぶやいた。「損な役まわりを引き受けちまったな」
「そうでもないさ」宗一郎は閉じていた目をゆっくりとひらいた。彼は生きていた。いつの間にか出血のとまった自分の腹部をさすりながら彼は言った。「これもあの子の力なのか?」
「さあな……立てるか?」
田上の手を借りて、宗一郎はよろよろと起き上がった。
「まったく、ひでぇ目に遭わされたぞコンチクショーめ」
破壊されたコンクリートの粉塵にまみれて真っ白になった狩野大輔が、遠くから大声で悪態をつきながら歩いてくるのが見えた。
「よぉ、きみも生きてたか。銃撃戦、見ものだったぜ」田上は拳銃を撃つまねをしてニヤリと笑った。
「てめぇ見てたなら、もっと早く助けに来いよ」
「侵入路を確保するのに手間取ってね」
「PMCの女社長を追ってたら突然謎の武装集団に出くわし、ドンパチに巻き込まれたところをたまたま居合わせた陸自の特殊部隊に救助された――こんな報告書誰が信じるってんだ、え? それにこのカエルの山は何だ? ここで何があったか全部話してもらうぜ」
「まあ落ち着け。誰も騒ぎが大きくなることを望んじゃいない。それは敵方も同じだ。方々から圧力がかかって、すべて闇に葬られる。時間の問題だ。最終的に全部なかったことになる。まあ、上層部の連中はしばらくマスコミ対応に奔走することになるかもしれないけどね」
「なら一つだけ教えてくれ」
「何だ?」
「例のアメ公といっしょにいた娘、あれはいったい何だったんだ? どこへ消えた?」
「さあね」田上は空を見上げて言った。「きっと神様にでもなっちまったんじゃないかなぁ」
田上と宗一郎は互いに顔を見合わせて大声で笑いはじめた。
狩野には何がなんだかさっぱりわからなかった。
9
携帯電話の着信画面を見たロバート・アルトマンは眉をひそめた。本部からだと? こんなときに!
ロバートは携帯を耳にあて、もう一方の耳を指でふさいでM16の騒音に負けじと大声で話した。「今作戦行動中だ、あとにしてくれ」
すぐに落ち着いた口調の低い男の声が返ってきた。
『いそがしいところ申し訳ないが、緊急の用件でね』
「部長?」
無能な海兵隊員はあいかわらず無駄玉を撃ち続けていた。景気よくばらまいた五.五六ミリNATO弾はすべて早苗に届く直前に、見えない手でつかみとめられたみたいにぴたりと動きをとめ、推力を失って地面に落ちた。
『その作戦の件なんだが』と電話の声は続けた。『アルトマン君。悪いが作戦は中止だ。すぐに帰国したまえ』
「なッ?」ロバートは絶句した。「しかし部長、本作戦はまだ……」
『何度も言わせるな。きみには一週間後に別件でジャカルタに飛んでもらう、それまでは休暇だ。早く帰ってきたまえ、いいな?』
それだけ言って電話は一方的に切れた。
「くそったれッ!」ロバートは携帯電話を思いきり地面に叩きつけた。
にわかに頭上に広かった黒雲から、ぽつりぽつりと異物が降りはじめていることにロバートはまだ気付いていなかった。
バージニア州マクレーンにあるCIA本部のオフィスで、ロナルド・アンダーソン部長は電話を切ってため息をついた。
白髪まじりの初老の部長は黒い革張りの椅子にゆったりと腰かけ、しばらく疲れたように目もとを指でさすっていたが、やがて意を決したようにもう一度受話器に手を伸ばし、プッシュボタンを操作した。三度目の呼び出し音のあと電話がつながった。
「たった今作戦中止命令を出したよ」
『こちらでも部隊の撤収を確認しました、ご協力感謝します部長』
受話器越しに若い女の声が答えた。
「終始きみの指示どおりにコマを動かしたつもりだが、これでよかったのかな?」
『ええ、おかげさまで、万事滞りなく』
「欲しいものは手に入ったかね?」
女性は答えなかった。
「では約束どおり」と部長は一方的に話を進めた。「これで例の件はすべて水に流してくれるね?」
『何のことでしょう?』
年相応に深いしわの刻まれた部長の顔がみるみる蒼白になり、次いで真っ赤になった。彼は受話器を持つ手を震わせながら、唇の端をひくひくと痙攣させた。
たっぷり二分間も残酷な沈黙を演出してから、女性はようやく口をひらいた。
『いやですわ部長、そんなものはもうこの世に存在しないし、わたしもきれいさっぱり忘れてしまいましたって、そういう意味ですよ?』
「そうか、なら結構だ……」歯の間から押し出すように部長は言った。受話器の向こうで女性が必死に笑いをこらえている気配がした。部長はかろうじて声に出さずに唇だけを動かして罵った。この売女め!
『部長、わたくしどもは今後もCIAの良きビジネスパートナーであり続けます。戦力がご入用の際にはぜひ弊社にご相談ください。後方支援からウェットワークまで、公式、非公式を問わず、弊社はジャストインタイムで最適な戦力をご提供します。そうですね……今回の一件もございましたし、次回は格安でご奉仕させていただきますわ。では部長、ごきげんよう』
電話は切れた。
叩きつけるように受話器を置いた部長はデスクにひじをついた姿勢で頭を抱えたまま、しばらく動くことができなかった。
スマホの通話を切った紫は「んー終わった終わった」と言いながらおもいきり身体をのばした。
「さて、あの子たちを連れて帰るわよ、藍……」そこでようやく藍を今まで放置していたことを紫は思い出した。紫は持っていた日傘をくるりとまわして空間に小さな穴をあけた。何もない漆黒の円窓から八雲藍がひょっこりと顔を出した。
「さあ、藍、みんなで幻想郷に帰るわよ。あなたもよくがんばったから何かご褒美をあげなくちゃね。あっ、そうだ、帰りにみんなでもう一度あのお蕎麦屋さんに寄りましょう。やぁねえ、この子ったら何泣いてるのよ。そんなにあぶらげが好きだったの?」
藍はまだ自分がこの世に生きていたことをかみしめるように、ボロボロと泣きながら言った。「ふぁい……好きです、あぶらげ……大好きですぅ!」
(了)
面白かったです
でも、もっと読みたいと思ってしまうなぁ。
ほんに東方に無くてはナラないキャラよね早苗さん。
狂言回しな八雲は今後も物語の中核を担うとして、今までの話も同世界っぽいし野望シリーズ?
関係ないですけど『悪霊』 あれすごく好きです。もっと読まれるとよいね。
にしても藍しゃま脆すぎwww
デカルトの方がまだ近い。
このゆかりんは悪い顔してそうだわ
藍様が愛おし過ぎる。