1
JR中央本線長野行きの列車を降りた東風谷早苗は携帯プレーヤーから流れる音楽を止め、イヤホンをはずした。
CDショップに寄ってから帰ろう、と早苗は思った。たぶんオーペスの新譜が出てるはずだ。
下校途中のショッピングは早苗のささやかな楽しみの一つだ。白いブラウスに紺のスカート、同じく紺のソックスにローファー。どこにでもいる普通の女子高生。ただ一つ、陽光に当たると緑がかって見える色素の薄い頭髪を除いて……
駅前のショッピングモールでお目当ての新譜をゲット、ほくほく顔で帰路につく早苗。JR岡谷駅から自宅まで約1㎞、通い慣れた道、いつもの風景。はるか頭上には岡崎
平日の午後、ひと気のない公園を突っ切る早苗は、ベンチにサラリーマン風の男が一人座っていることに気付いた。
――違和感。
でっぷりと腹の突き出た四十がらみの中年男性、整髪料を塗りたくったカッチリ七三分けに分厚い黒ぶち眼鏡、典型的なお役所スタイル。スーツの上着を脱ぎ、ワイシャツの袖をまくって、赤地に黄色い文字で〝M〟と印刷された目立つ紙袋からハンバーガーの包みを取り出して、一人でパクついている。
周囲は閑静な住宅地、昼休みにオフィスを抜け出したサラリーマンやOLがくつろぐような場所ではない。そもそも今は昼ですらない。
君子危うきに近寄らず。間違っても「こんなところでお昼ですか?」などと話しかけたりはしない。横目でちらと様子をうかがうだけで、足早に男の前を通り過ぎる。
「ガキのころからの好物でね」男がぼそりとつぶやいたので、早苗は思わず足を止めた。
話しかけられた? 違う、これは独り言だ。
「ガキのころ」と男はかまわず続ける。「よくおふくろにせがんで連れて行ってもらったのを思い出す。これでも僕にとってはなつかしの故郷の味なんだな。意外に思えるかもしれんが、今どき都市部で育った大人なんてみんなそんなもんさ」
午後の強い日差しを反射して、男の眼鏡はまるでミラーグラスのように光っていた。男の視線がどこへ向けられているのか、早苗の位置からでは確認できない。
「つまり、戦後アメリカの占領政策が功を奏したってわけだ。僕はコレなしじゃ生きていけない。BSDだ何だと一時騒いだが、牛肉消費量の五〇パーセント以上は未だ輸入に頼っている。飼料作物の自給率も加味すればなお悪い。いまさら一汁一菜の質素な生活に戻れるか? 我々は欧米の良き消費者であり続けなければならない」
ハンズフリー、と早苗は思った。きっとイヤホンマイクで会話しているに違いない。そういうことにしておこう。頭のイカれたおっさんに話しかけられたと思うより、その方がずっといい。何というか、心が平和だ。
早苗は再び歩きはじめた。
「〝奇跡〟ってやつを、きみはどう思うね?」ふいに声のトーンを一段上げて男がたずねた。
びくッと肩を震わせて硬直する早苗。その反応を見た男の口もとにかすかに笑みが浮ぶ。そうだろうさ、きみはこの呪縛から逃れることはできない、とでも言いたげな不敵な表情で。
不快だ、と早苗は思った。〝奇跡〟というたった一つフレーズが早苗を極度にイラつかせた。早苗は奇跡を否定も肯定もしない。ただそのフレーズを聞くと、ガラスをつめで引っかく音を聞くときのように、生理的な嫌悪感に全身が総毛立つのだ。生理的なものはどうしようもない。原因もわからない。ゆえに対処法もない。
「これは東日本大震災のときのエピソードなんだが」と前置きしつつ男は再び話しはじめる。「地震とその後押し寄せた巨大な津波によって、東北地方の沿岸部が軒並み壊滅的な打撃を受けたことは知っているな? これは津波の被害を受けたある漁師町の話だ。周囲のすべてが津波に呑み込まれ、海中に没した中で、どういうわけか、その地区に建てられた祠だけがすべて無傷で残っていたそうだ。奇跡だ何だって、当時はマスコミでずいぶん騒がれもしたんだがね……」
ハンバーガーを一口かじり、男はさらに続ける。
「だけど、僕はこう考える。東北地方ってのはこれまでにもたびたび大きな津波に襲われてきた場所だ。例の漁師町が津波にのまれたのだって今回がはじめてってわけじゃない。そこに祠を建立した大昔の人々が『そこが津波の被害をまぬがれる安全な場所だ』とあらかじめ知っていたとしても、何の不思議もない。つまり、これは順序が逆なんだ。宗教的オブジェクトが奇跡を起こすわけじゃない。もともと奇跡的なエピソードが起こりやすい土地に宗教的オブジェクトが作られるんだ」
不快だ、不愉快だ。早苗は奥歯をかみしめて嫌悪感に耐えた……が、それももう限界だ。彼女は振り返り、血走った目でイライラの原因をにらみつけた。
男はそこではじめて早苗の方に顔を向けた。爬虫類のように冷淡な目が眼鏡の分厚いレンズ越しに早苗を見ていた。昆虫の生態でも観察しているような冷たい視線。まるで機械だ、と早苗は思った。
「東風谷早苗さんだね? 失礼、僕は神社庁の職員でね、きみのお父上とは昔よくいっしょに仕事をしたもんさ。そのころきみはまだ小さかったから……たぶん覚えてないよね?」
そんな話、むろん早苗は聞いたことがない。しかし、現にこの男はわたしの名前を知っている。
男はハンバーガーの最後のひとかけを口に放り込み、包み紙を両手で丸めてベンチ脇のくずかごに捨ててから、スーツの上着を持って立ち上がった。
「なに、ちょっと仕事で近くを通りかかったもんでね。懐かしさについふらっと立ち寄ったまでさ。お父上によろしく。いずれまた……」
手に持った上着を右肩に引っかけ、左手をひらひらと振りながら、男は振り向きもせずに行ってしまった。
防衛省情報本部の会議室で、田上信彦は毎週行われる部の定例会議に出席していた。
「……木曜に異常接近した二機のロシア軍機ですが。幕僚監部によりますと機影はツポレフ95戦略爆撃機、いずれも機首にレドームを装備したベアHです。飛行コースは――お手元の資料に詳細な図面がありますが――対馬海峡から東シナ海を南下して、日本列島の太平洋岸に沿って飛行、宗谷岬をぐるっとまわってシベリアへ帰投するコースです。領空侵犯はありませんでした」
配布資料に添付された地図には、反時計周りに日本を一周する飛行経路が赤い矢印で示されていた。
「これに対応するため北空、中空、西空の各飛行隊からそれぞれ要撃機が上がっています。ロシア軍機に対するスクランブルは
一週間分のロシア軍の動向を報告する佐伯第一課長に向かって、茂木分析部長が言った。「多いね、クリミアがだいぶきな臭くなってきたから、『後方で妙な動きしてくれるなよ』ってプーチンのメッセージだろうね、コレ。北方領土にちょっかいだすならちょうどいいチャンスなんだけどね。
出席者一同の笑い声。
各課の情報共有を目的に行われる恒例の部課長会議――時間の無駄だ、と田上は思った。重要な情報は週一回の会議を待たずとも、ずっと早く人づてでまわってくる。会議の報告は「すでにみなさんご承知のことと思いますが……」の前置きではじまるネタがほとんどだ。
田上はしきりに時計を気にしていた。こんな会議より今は重要な案件がある。
「田上君からは、何かある?」
会議卓の一番隅の席でむっつりと黙り込む田上に向かって部長がたずねた。
「いいえ、何も」田上は毎週決まってこの台詞を口にする。
田上の課が他の部署と情報を共有することはまずないと言っていい。田上だけではない、同課に配属された歴代の課長は皆そうしてきたのだ。どいつもこいつも腫れ物を見るような目つきで俺を見やがる……まあいいさ、と田上は心の中でつぶやく。お前らの仲良しクラブなんざこっちから願い下げだ、反吐がでる。
「皆知ってると思うけど」と部長。「木、金と海外出張で本部長不在になるから、決裁が必要な案件は早めに頼むね。ほか何かある? ないならこれで終了。解散」
会議室を出た田上は長い廊下を早足で歩きながら考えていた。予想外に長引いたな。部長のやつ、今日に限ってくだらないことばかり質問しやがって。こんなことなら最初から会議を欠席するんだった。今何時だ?
田上は腕時計を確認して、それから携帯を取り出して電話をかけた。「藤島君? ああ、僕だ。今終わったところだ。悪いが正面に車をまわしてくれ。気が変わった。すぐに出発しよう」
田上を乗せたエレベーターがちょうど一階のホールに到着したとき、正面玄関の車付けに一台の黒塗りのセダンがすべり込んだ。
車の後部座席に乗り込んだ田上は、運転席でハンドルを握る若い部下に向かって言った。「藤島君、めいっぱい飛ばしてくれ、今ならまだお嬢ちゃんの下校時間にぎりぎり間に合うと思う。ぜひ一度実物に会っておきたいんでね」
「それより課長」藤島が車を出しながらたずねた。「お昼まだじゃないスか? よかったら途中の
「いや、時間が惜しい。諏訪の
「また太るっスよ」
「はっはっは、きみも言うようになったじゃないか」
車はのものものしいゲートをくぐり、市ヶ谷の防衛省本部庁舎をあとにした。
2
岡谷から甲府まで各駅停車で片道約一時間半の道程。
甲府市内の私立高校に通う東風谷早苗はこの道程を毎日往復していた。私立高校への進学を強くすすめたのは父だったけど、早苗としても地元の公立高校を避けたい理由がないわけではなかった。
『解離性健忘の疑い』医師の診断書には確かそう書かれていた。要するに過去のある期間の記憶がすっぽりと抜け落ちているのだ。
早苗は過去の記憶をさかのぼってみる。一年前――修学旅行で行った京都の町並み、金閣寺、覚えてる。ニ年前――林間学校の
その日、いつもどおり岡谷駅のホームに降りた早苗は、背後から「チョットいいデスか?」と声をかけられた。欧米人特有のイントネーション。
振り返ると、そこには若い白人の青年が立っていた。きれいな金髪に青い瞳、鼻筋の通った端整な顔立ち、なかなかのハンサム。身長は高いが痩せ型で威圧感はなく、少し幼さの残るその顔はむしろ人懐こい印象を早苗に与えた。肩から大きなカメラケースを下げ、手には諏訪湖周辺のガイドマップを持っている。どうやら観光客らしい。
「洩矢神社にはどう行けばよいデスか?」と彼はたずねた。
「諏訪大社じゃなくて?」と早苗は聞き返した。
「ノー」と彼は否定の意を示した。「諏訪大社にはもうマイリマシタ」
マイリマシタ?……ああ〝お参りしました〟ってことか。
「洩矢神社はウチですけど、よかったらご案内しましょうか?」
「本当に?」
欧米人特有のオーバーリアクションで驚きと感激を余すことなく表現しようとする彼。そんなに喜ばれるとさすがに照れる。
それにしても、と早苗は思った。海外からの観光客が洩矢神社を知っているとは、正直おどろいた。どういう経緯でウチを知ったのか? 海外ではどんな扱いになっているのか? 紹介しているのはよほどマニアックなメディアに違いない。ひょっとして、穴場的スポットとして密かなブームになっているとか? 知る人ぞ知る下諏訪の隠れた新名所 観光地化されていない本物のパワースポット 洩矢神社へようこそ! マスコミが取材に来たりして……
そんな考えはおくびにも出さず「ウチは小さいですから、きっとがっかりすると思いますよ」と言いながら、早苗は男と歩きはじめた。
「そんなことないデス。日本の神社どれもトテモ美しい。ワタシ、フリーのキャメラマンで、神社の写真いっぱい撮ってマス」彼はカメラケースから大きな望遠レンズのついた一眼レフを取り出し、レンズを早苗に向けてファインダーをのぞき込んだ。「記念に一枚、はい笑ッテ」
シャッターを切る音。少しぎこちない早苗の笑顔、プライスレス。
「アナタの神社ステキな写真撮れそうデス。それに」と彼は付け足した。「ぜひアナタの写真も、できれば伝統的な巫女の装束で」
彼はまっすぐに早苗の目を見つめた。
「その……わたしでよければ……」言ってからハッと我に返った早苗は、すぐに顔を真っ赤にしてあわてて言い直した。「か、考えておきます……!」
新宿区内にある居酒屋、その窓際のテーブル席で田上信彦は焼き鳥をつまみに一人ビールを飲んでいた。
決して広くない店内を田上は見渡した。充満する焼き鳥と煙草のにおい、ゼロ年代のヒットソングをたれ流すだけのBGM。案の定、若い客は少ない。
「いよぅ信ちゃん久しぶりだな」つい今しがた入店したばかりで、店内をキョロキョロと見まわしていた狩野大輔が、田上の姿を見つけて声を上げた。「また太ったんじゃねえか?」
「きみこそなんだそのツラは?」田上が笑いながら応戦する。「ひどい白髪だな、六十でも通るぜ」
「ぬかせ」狩野は田上の向かいの席に腰を下ろした。店員を呼び、生ビールと焼き鳥を何本か適当に注文してから言った。「煙草、いいか?」
「ああ」と田上は答えた。
狩野とは幼なじみだった。ラガーマンのようにがっしりとした体格、短く刈り込んだ白髪交じりのごま塩頭、こわもての顔、胸元に金の鎖、これでサングラスでもかければおよそカタギの人間には見えんな、と田上は心の中で苦笑する。
狩野は煙草を一服してから話しはじめた。「例の写真に写っていた外国人な……」
「何かわかったか?」
「失礼しまーす」と店員がビールと焼き鳥をテーブルに運んできたので、しばし沈黙。店員が立ち去ると同時に狩野が投げやりな口調で答えた。
「ああ、わかったぜ、ありゃ白だ」
白、つまり容疑性なし。
「ロバート・アルトマン、二十七歳、アメリカ人、フリーランスの写真家兼ジャーナリスト。外国人登録証にもビザにも問題はなかった。経歴も洗ったがきれいなもんだ。ただなぁ……」狩野はそこで言いよどんだ。「きれいすぎるんだ、まるで作り物みてえによ」
「それって
「刑事じゃねえ、
警視庁公安部外事第一課作業班長、それが狩野の肩書きだった。
狩野は中ジョッキのビールを半分ほど一気に飲み干して言った。「叩いてホコリの出ねえやつなんかいねえ。出ねえのは叩き方が足りねえからだ」
さすがは戦前の特高警察の流れをくむ警視庁公安部、と田上は心の中で礼賛する。きみたちの手にかかれば、もはや疑わしくない市民など存在しない。ところできみたちは何を守るために働いてる?
中ジョッキの残り半分も飲み干して、早々におかわりを注文する狩野。「空いたグラスおさげしまーす」と店員。立ち去るのを待って会話を再開。
「もう少し時間をくれ、まだやり残したことがある」
「アテがあるのか?」
「まあな」
「わかった、まかせる」
「ところで、一つ聞きたいことがあるんだが」と狩野がたずねた。「あの写真にいっしょに写ってる女子高生、ありゃ誰だ?」
「知りたいか?」中指で眼鏡を押し上げながら、田上が聞き返した。
「なんだよ、もったいぶってねえでさっさと教えろよ」
「だめだ、きみには教えられん」田上はずるそうな笑みを浮かべて言った。「あれは防衛秘密なんでね」
3
幼いころのおぼろげな記憶。
わたしはゴム製のボールを追いかけるのに夢中になって、境内の敷石につまづいてころんでしまった。あれはたぶん四つか五つくらい……いや、もっと小さかったかもしれない。泣きじゃくるわたしをやさしく抱き起こしてくれた女性――
「大丈夫、ケガはない?」
「ったく早苗はおっちょこちょいだなぁ」
これは誰の声? 母さん? それから三人で仲良くボール遊びをしたっけ。……あれ、三人? わたしと、青い髪の母と、黄色い髪の……違う、写真で見た母の髪は黒かった。
もともと身体が丈夫でなかった母は、わたしがものごころつく前にすでに他界している。わたしは実物の母を知らない。なら、今わたしと遊んでいるこの人たちはいったい誰?
「さなえー、ボールいくよー」
「今度はしっかり取れよさなえー」
思い出せない。近くにいるはずなのに、まるでピンぼけの写真みたいに顔だけがはっきりしない。
ざわざわ――
風が強くなって、境内の木々がざわめきはじめる。ざわめきはしだいに大きくなり、彼女たちの声をかき消していく。
「さなえー……」
「さーなーえー……」
ざわざわ。ざわざわ。ざ――
「……さなえー……さーなーえー」
早苗はハッと我に返った。
教室中がざわつき、クラスメイトの視線が集中していた。右手にチョーク、左手に教科書を持って、あきれ顔でこちらを見ている老教師。すぐうしろの席で、クラスメイトの一人がさっきからシャーペンで背中をつつきながら、くり返し早苗の名を呼んでいるのだった。
つまり、これはアレだ。今は授業中で、心地よく居眠りしていたわたしはみごとにあてられたわけだ。
「あの……その……す、すみません……聞いてませんでした……」
クラスメイトの爆笑と、老教師のため息。とんだ赤っ恥だ。悪いのは自分だけど。
「教科書の九十六ページだ。もういい。次、斉藤、読んでみろ」
「えっ、あ、はい。ゴホン……下人は、六分の恐怖と四分の好奇心とに動かされて、
退屈な教科書の朗読を聞きながら、早苗はさっき見た夢のことを考えていた。覚醒した直後から夢の印象は急速に失われていく。もう思い出すことさえ困難だった。何かひどく懐かしい感覚だけが胸に残った。ような気がする。たぶん。
早苗は外の景色に目を向けた。校庭を囲むフェンスの向こうに、見慣れない黒塗りのセダンが止まっているのが見えた。早苗は意味もなくそれを見つめ続けた。明滅するオレンジ色のハザードランプ。ちかちか、ちかちか……
部活動に所属していない早苗は放課後すぐに帰路につく。往復三時間の通学時間に、父と分業でこなす家事。あまりのんびりはしていられない。
右手に通学かばん、左手にスーパーの買い物袋をさげた下校途中の早苗は、行く手に黒塗りのセダンが停車しているのに気付いた。明滅するハザード。ちかちか、ちかちか……
同じ車? まさか、甲府から諏訪まで約七〇㎞、同じ車であるはずが……。そこまで考えて、早苗は急に不安におそわれた。もしも同じ車なら、ここにいる理由はただ一つ……
車の横を通り過ぎるとき、早苗はそれとなく車の中を確認した。運転席と助手席に男が二人。その二人が、二人とも……こっちを見ている?
早苗はぞっとなった。冷静になろう。偶然、そう、これはたまたま偶然が重なっただけ。
早苗の願望とは裏腹に、車がハザードを消して音もなくすべりだす。
なんで! なんでついてくるの?
ほとんどパニック寸前の早苗は、それでも歩調だけはかろうじて一定のペースを保ち続けた。走れば余計に追ってくるかもしれない。いやな汗が背中をつたう。
いっそ全力で家まで走ろうか? 相手は車だ、すぐに追いつかれるに決まってる。車が通れないせまい路地に逃げ込めば? だめだ、すぐに車から降りて追ってくる。大の男の脚力には勝てない。それにひと気のない路地なんかに入れば、それこそやつらの思うツボだ。こういうときは、とにかく人の多い方へ走る。それがセオリー。
方針は決まった。次の交差点を右に折れたら、そこからは全力で走る。すぐに人通りのある大きな通りに出られるはずだ。
交差点に近づく。まだ走らない。右折する早苗の姿がセダンの視界から消える。今だッ! と思った次の瞬間、誰かの手が背後から早苗の肩を強くつかんだ。心臓が凍りつく。全身が総毛立ち、口から声にならない悲鳴がもれる。万事休す。
「ゴメンナサイ。おどかすつもり、アリマセンでした」緊張感のかけらもない外国人なまり、ロバート・アルトマンがそこにいた。「チョウドよかった。この前撮った写真できたので、記念に差し上げマス。ドウシマシタ、顔色悪いデスよ?」
「い、いえ……大丈夫です」言いながら早苗はうしろを振り返った。黒塗りのセダンはすでに消えていた。
「よかったら家マデ送りましょうか?」と心配そうにたずねるロバート。彼のうしろにはレンタカー会社のステッカーが貼られた青い四輪駆動車が止まっていた。
男の人の車に乗るのはさすがに気が引けた。けれど、それ以上にさっきのセダンの行方が気になった。家に先まわりしているかもしれない。
結局、早苗はロバートの提案を受け入れることにした。
その夜、狩野大輔は部下の芹沢洋平と共に公園の植え込みの陰に隠れていた。
「やっと動きだしたぜ。明日には東京に帰らにゃならんところだ」
狩野の視線の先にはベンチに腰かける一人の男。黒いジャージの上下にジョギングシューズ、キャップを目深にかぶっている。仕事のあとに夜の公園で軽く運動、といったいでたち。ただし、さっきからベンチに座ったままいっこうに動く気配がない。
「しかし暗いな」と狩野が小声でささやくように言った。「こんなことなら
「無茶言わないでください」とこちらも小声の芹沢。「諏訪に来れただけでも奇跡なんですから。この上装備品の無断持ち出しとか無茶すぎですから」
「しッ、誰か来るぞ」
常夜灯の下にもう一人の男の姿が一瞬見えた。すかした金髪野郎。間違いねえ、ロバート・アルトマンだ。
ロバートはジャージ男のとなりに腰を下ろした。お互い正面を向いたままで口だけを動かしている。
「ちくしょう、何しゃべってやがんだ?」
突然、何かを察した狩野がするどい口調で言った。「芹沢、写真だ」
ロバートがジーンズのポケットから何か小さな包みを取り出しベンチの上に置く、男がそれを素早く回収してジャージのポケットにねじ込む。時間にして1秒程度、一瞬のできごと。
「撮れたか、今の?」
「デジカメの赤外線モードとデジタルズームですから、仕上がりは期待しないでくださいよ」
「上等、今はそれで十分だ」
常夜灯の下に、立ち去るロバートの姿が一瞬浮かび上がり、すぐにまた見えなくなった。
それからきっかり五分後、男もまた闇の中に消えていった。
4
警視庁公安部外事第一課のデスクでイスの背にもたれたまま、狩野大輔は静かに目を閉じた。
「昨夜は飲みすぎた」と狩野は一人ごちた。「若いころはいくら飲んでも平気だったんだがなぁ。これが年をとるということか」
「感慨にひたってるとこ恐縮ですが」と同僚の声。「課長が探してましたよ、班長のこと」
「課長が、俺のこと? 朝から何だろね、あーやだやだ」思い当たる節が多すぎる。実際嫌な予感しかしない。狩野は重い身体を引きずるようにして課長室へ向かった。
「失礼します」
「おう、入れ」
課長室には石井外事第一課長のほかに、理事官の船越、それに芹沢洋平がいた。この場に芹沢がいることで、狩野はすべてを理解した。諏訪での一件がバレたのだ。
「まあ座れ」と石井課長。
応接用のソファーに腰を下ろしながら芹沢に目だけで訴えかける。てめぇ、チクりやがったな!
芹沢が同じく目だけで反論する。僕じゃありません、信じてください!
「なぜここに呼ばれたか、もうわかってると思うが」と船越理事官の詰問がはじまった。「諏訪での単独行動の件だ、きみらは誰を追ってた? 何を調べてた?」
狩野は答えなかった。助けを求めるような芹沢の視線が視界に入ったが無視する。
「答えたくないなら答えんでもいいさ、芹沢君、きみは外国人犯罪のデータベースに無断でアクセスしたな? 答えんでもいいぞ、ログを調べればすぐにわかることだからな」
芹沢はまっ青になってふるえ上がった。
狩野は内心で舌打ちした。データベースのアクセスログから足がついたか、世知辛い時代になったもんだ。
「も、申し訳ありませんでしたッ!」突然、芹沢が猛烈な勢いで謝罪しはじめた。「狩野班長に頼み込まれて、どうしても断れなかったものですから、自分は、自分は……」
「はっはっは、もうその辺にしといてあげなよ」と石井課長。「独断専行は確かに問題だけどね、十分反省してるみたいだしさ。それに」声のトーンを少し落として石井は続けた。「狩野君が追ってた彼ね、ありゃ黒だ」
狩野はゆっくりと顔を上げて石井課長の方を見た。
石井は軽くうなずいてから話しを続けた。「黒も黒、まっ黒だ。ありゃ俺たちの手に負える相手じゃない。朝一で参事官に呼び出されてな、すごい剣幕で『この件から今すぐ手を引け』と言ってきた。部長か、下手すりゃもっと上からの指示かもしれん」
「だからこの件はこれでおしまい。きみらは諏訪に行ってもいないし、当然お咎めもなしだ。最初から何もなかったんだ。いいな?」
東京から諏訪に向かう車中、セダンの後部座席で田上信彦は上着の内ポケットから携帯を取り出し、電話をかけた。
「あっ、大ちゃん? いや、なに、最近私物の携帯、執務室への持ち込みが禁止されちゃってね。情報セキュリティがどうとかって、いや、ホント迷惑な話だよ。それより、こないだメールで送ってくれた写真ありがとね。いや上出来だ、よく撮れてる」
田上はA4用紙にプリントアウトした写真を茶封筒から取り出して見ていた。赤外線モードで撮られた白黒の写真。そこには外国人スパイが
キャップを目深にかぶってうつむく情報提供者の顔は判別できなかったが、田上はそのことについてとやかく言うつもりはなかった。限られた時間、限られた人員、限られた機材で、実際よくやってくれたと思う。
「あとはキツネを穴から追い出して始末するだけだ。どうした、元気ないな」
『すまんが、これ以上は追えなくなった』携帯越しに聞こえる狩野の声は沈んでいた。
圧力か、と田上は思った。この業界に長くいると、ちょくちょくこういう場面に出くわす。これ以上聞くな、それ以上探るな、すべて忘れろ。
『俺だって納得いかねえ。けど、俺にも女房とガキがいるんだ。今仕事クビになるわけにはいかねえ』
「きみはよくやってくれたじゃないか、十分だよ」
『なあ、俺たちの仕事って何なんだろうな。はっきりとした手ごたえがある、こいつは間違いなく悪党だって手ごたえがな。だのに……何もできねえ』
この男に必要なのは休息かもしれん。
「何言ってやがる。僕も、きみも単なる公務員だぜ、正義の味方にでもなったつもりか? この件はすっぱり忘れて……そうだな、家族連れて旅行にでも行ってくればいい。そのうち、また飲みに行こう。おごるぜ。はっはっは、じゃあな、切るぞ」
電話を切った田上は考えた。警察の、それも公安警察の上層部に圧力をかけることのできる組織となれば、数はそう多くない。状況から見て動いているのは――
こいつはおもしろくなってきたぞ。田上の口もとに不敵な笑みが浮かぶ。
「なんか楽しいことでもあったんスか、課長?」ハンドルを握る藤島一尉がルームミラー越しにちらちら田上の様子を見ながらたずねた。
「ああ、楽しいね。藤島君、めいっぱい飛ばしてくれ。お姫様のピンチだ。お姫様を怪物たちから守るのが我々の任務だ」
「はあ、なんか楽しそうっスね、それ」
「だろ?」
車は諏訪に向けて快調に走り続けていた。
5
灯りのない真っ暗な部屋だった。
早苗は板張りの床の上に正座していたが、床板を通して外の冷気が身体にしみこんでくるみたいだった。早苗は白い襦袢一枚きりで、ほかには何も身に着けていなかった。寒い、と早苗は思った。たぶんここは拝殿だろう。床板の質感に覚えがある。こんなところに長くいたら風邪をひいてしまう。
外は強い風が吹いていた。木々のざわめき、ギシギシと鳴る戸口、ときおり突風が野生動物の遠吠えみたいなうなり声を上げて通り過ぎていく。怖い。
「早苗」と闇の中から厳かな声が響いた。
たぶん父だろう、と早苗は思った。わたしの正面に座っているのか、暗くてよく見えない。
「今からとても大事な話をする。一度しか言わないからよく聞きなさい」父はそこでしばらく黙りこみ、意を決したように再び口をひらいた。「わたしはもう長くない。医師の話ではもって数ヶ月、半年は無理だろう。悪性の腫瘍だそうだ……」
あまりに唐突な父の告白を早苗はほとんど理解できなかった。個々の単語の意味はもちろん知っているし、理解もできるのだが、それらを結びつけて一個の文として解釈することを、脳が無意識のうちに拒否していた。医者? 腫瘍? 半年? それと父さんに何の関係が?
早苗の小さな身体は闇の中で小刻みに震えていた。
「これからお前に洩矢の秘伝を伝授する」父は早苗の返答を待たずに話を進めた。「本来ならお前が成人するまで待つべきだが、今言ったとおりわたしにはもう時間がない」
そんな大事なものなら、どうしてそんなにあせって渡そうとするの? わたしがもっと大きくなるまでどうして待てないの? 大事なものをわたしに押しつけて、いったいどこへ行こうっていうの? どうしてここはこんなに寒いの? どうして灯りをつけないの? どうして? どうして?
「これから話すことは決して聞き漏らしてはいけない。メモを取ってもいけない。一語一句、すべて暗記するんだ。いいね?」
いやだ。秘伝なんてもらってもちっともうれしくない。父さんがいなくなるくらいなら、秘伝なんていらない。父さんがずっとそばにいてくれればそれでいい。
秘伝の暗唱をはじめる父。必死に両手で耳を覆う娘。
聞きたくない。これを聞いたら、父さんはどこか遠くへ行ってしまう。いやだ。そんなのいやだ、絶対に。
いくら強く耳をふさいでも、父の言葉は呪いのように頭の中に直接流れ込んでくる。どうして? と早苗は思った。わたしはすでにこれを知っている! はじめて聞くはずなのに、一語一句覚えている!
耳を覆う手に力がこもる、指先が掻きむしるようにこめかみの皮膚に深く食い込んでいく。冷たい床板にひたいを擦りつけながら、早苗は心の中で見えない誰かに助けを求めた。いやだ! こんなのいやだ! 聞きたくない! 聞きたくない! 助けて! 助けて! 助けて! 誰か!
父の声が頭の中でぐるぐると回転する。意識が急速に薄れてゆく……
自室のベットの上で早苗は目を覚ました。カーテンの隙間から差し込む日差しがちょうど彼女の顔の上に落ちていた。まぶしい……
日が高い、と早苗は思った。今何時だ?
小学校のころから使い古した愛用の目覚まし時計は、自らの任務をまっとうすることなく午前二時五十三分を指したまま無常にもその動きを止めていた。
老兵は死なず……か、早苗は長年寝起きを共にした戦友に心の中で敬礼をしながら、単三電池の買い置きがあったことを思い出していた。確か居間の戸棚の中だ、あとで取ってこよう。
早苗はのろのろと身じたくをはじめた。今からではとうてい始業のベルに間に合いっこない。遅刻確定。この期に及んでじたばたするのは見苦しいだけだ。
洗面所で顔を洗った早苗は、キッチンでトーストとハムエッグを焼いて遅い朝食を食べた。父の姿はなかった。お祓いの予約でも入っていたか? それとも自治会の寄り合い?
ゆっくりと朝食を味わい、歯磨きを済ませ、制服を着て、通学かばんを持った早苗は、またベットの上にごろりと横になって、窓から見える四角く切り取られた空をながめていた。雲がものすごい速さで流されていく。風が強い。
静かだ、と早苗は思った。学校という定められた日々のサイクルの中に突如現れた非日常――遅刻という名の異世界がぽっかりと口をあけたのだ。わたしは知らないうちにこの異世界に迷い込み、囚われてしまったらしい。ありえない時間、ありえない場所でくつろぐ背徳感に満ちた愉悦。く、せ、に、な、る。
いっそこのまま体調不良ということにしてサボるか。それに――
それに、昨日わたしをつけてきた黒い車……あれは本当にわたしをつけてきたのだろうか。一日経って冷静になってみるとイマイチ確証が持てない。単なる被害妄想かもしれない。早苗は体を起こして窓から見える家のすぐ前の道を見下ろした。もちろん黒い車など止まっていない。
だとしても、やはり気味が悪かった。できれば外に出たくない。
あとで学校に電話しよう、と早苗は思った。幸い学校でのわたしはまじめキャラで通っているのだ。担任を騙すくらいはわけないだろう。体調の悪そうな声色を使って、咳の一つでもして見せればいい。コロッと騙されるはずだ。
早苗はもう一度ベットに横になり空を見上げた。何やってんだろ、わたし……
遠くに飛行機雲が見えた。
JR上諏訪駅前のレトロな商業地区を歩きながら八雲紫は藍に向かって言った。「ねえ、藍、気付いてる?」
紫はデニムのショートパンツにハイヒール、ノースリーブのシャツの上から蛍光色のパーカーを羽織り、長いブロンドをアップにしている。手には愛用の日傘。
「今で三人目ですかね」と八雲藍が答える。こちらはモスグリーンのタンクトップにジーンズ、登山靴のようなごついブーツを履いていた。
「五人目よ」と紫が訂正した。「上諏訪の駅出てからずっとよ。やんなっちゃう。にしても、連中手馴れてるわ。地元の県警じゃなさそうね。動きがいいわ」
「本庁でしょうか? あッ、また入れ替わった」
――六人目。
尾行者が短いスパンで頻繁に入れ替わる公安警察特有の尾行術。普通の人間相手ならまず気付かれない。人間相手なら……
「有名人はつらいですね」と藍。
「ほんとファンが多くて困っちゃうわ。それより藍、お昼にしましょ。もうおなかペコペコだわ」
「この辺って何がおいしいんでしょうねぇ?」手ごろな飲食店がないかキョロキョロと周囲を見渡す藍。
「信州っていったら、やっぱりお蕎麦かしら。ちょっとコレお願い」日傘を藍に押しつけて鼻歌まじりにスマホの液晶を指ではじく紫。『上諏訪』『蕎麦』『おいしい』でAND検索。大手検索サイトの巨大サーチエンジンが全世界に散らばる無数のサーバー群から目的の情報を一瞬で探り当てる。〇.ニ七秒後に約二十万件のリザルト。わたしたちはひと昔前の近未来に暮らしている、そう考えると妙に感慨深い。
「このお店近いわね。お値段も手ごろ。やだ『地酒も豊富』だって」
「昼間っからやめてくださいよー。幻想郷じゃないんですよ、ここ」
「何よ、良い子ぶっちゃって、藍も飲みたいくーせーにー。あっ、見て、藍の好物あぶらげのたっぷり入った『スペシャルきつね蕎麦』ですって」
「その、わたしが無類のあぶらげ好きみたいな扱いなんとかなりませんか? 言うほど好きじゃないですよ、あぶらげ」
「何その冷めた反応、そんな冷静な藍なんて、わたし見たくないわ」
「わたしにどうしろとおっしゃるんですか?」
「んほぉおおおおっ!!! あぶらげ好きすぎぃぃぃ!!!!!……今わたしのこと見下したでしょ」
「尾行の捜査員ドン引きしてますよ?」
「やめてッ!」両手で耳を覆う紫。「養豚場の豚を見るような目でわたしを見ないでッ!」
「あーはいはい、わかりましたから、とりあえずそこのお店行きましょう」
藍は面倒くさい主人の肩を押して歩きはじめた。
洗面台の鏡にうつった自分の顔を見て、われながらひでぇツラだ、と狩野大輔は思った。よどんだ目と無精ヒゲのせいだろうか、急に十歳ほど老けこんだみたいに見える。酒量は最近増える一方だ。
顔を洗ってデスクに戻った狩野は卓上のノート型パソコンに黄色い付箋紙が貼られているのに気付いた。
『10:20 理事官よりTEL 至急課長室にきてくれとのこと 受:芹沢』
狩野はいぶかしんだ。例の一件の続きか? あれは〝なかったこと〟にされたんじゃないのか?
課長室には石井課長と、例によって船越理事官がいた。芹沢はいなかった。
ソファーに腰を下ろすなり船越が話しはじめた。「
例の件じゃないのか、と狩野は思った。俺はいったい何を期待してたんだ?
「出どころは知らんが――まあ、おそらく
「重要人物とは?」という狩野の質問に対して、船越理事官はクリアファイルからニ枚の写真を取り出し、机の上に並べながら説明を続けた。「大手
狩野は写真に目を落とした。遠距離から望遠レンズで隠し撮りされたらしい二枚の写真には、それぞれ金髪女性の姿が写っていた。一人はショートカットで、野生動物を思わせる鋭い目つきでこちらをにらみつけている。もう一人は長い髪をアップにして、かけていたサングラスをわざとずらしてアイドルのスナップ写真のような笑みを見せている。二人ともカメラ目線。尾行は完全にバレている。ふざけやがって。
「EMA社は東アジア地域で四十五パーセント以上のシェアを誇るPMCの最大手だ。海運から武器売買のブローカーを経て現在の姿に成長、最近じゃ中央アジア、中東、北アフリカの一部にも進出しているらしい。PMCというと物資の輸送や兵站などの後方支援のイメージが強いが、大手ともなるとそれだけじゃない。ヒューミントその他による対立国の情報収集、反体制派の扇動、現地民兵の教育と組織化、要人の暗殺、テロ……もう特殊部隊か何かだな、こりゃ」
なるほど、警察ごときがうかつに手を出せない戦争ヤクザってわけか。背後に軍事力が控えている分マフィアのボスよりたちが悪い。狩野はようやく事情が飲み込めた。
「我々は彼女と事を構えるつもりはない」石井課長が船越の話を引き継いだ。「
さあね、と心の中で返事をする。
「諏訪だ」石井の言葉に狩野の全身がカッと熱くなる。何の冗談だ?
「さっき諏訪市内で彼女を尾行中の岡野から『応援をよこせ』と催促の電話があったんだが」石井は狩野を見て目を細めながら言った。「お前、行くか?」
紫とCIAはおそらく同じ目的で動いている。だとすると、紫を追っていけばいずれあの男にぶつかる。やつを直接探ることは「NO」と言われたが、紫の捜査線上に偶然やつが現れたとしたら……
おもしろい、と狩野は思った。やつの目的さえつかめれば、逮捕は無理でも妨害くらいはできるかもしれん。課長のやつめ、俺を使ってCIAに意趣返ししようって腹か。まったく、食えない人だ。いいさ、乗ってやるよ。
「ぜひ行かせてください」
狩野の双眸は再びぎらぎらと輝きはじめていた。
玄関の呼び鈴を鳴らした田上信彦はインターホンからの応答を待っていた。
留守か? 田上がもう一度呼び鈴を鳴らそうと手を伸ばしたところで、インターホンから男の声が聞こえた。「どなたですか?」
「防衛省の田上だ、話がある」
やや時間をおいてインターホンから再び男の声。「入れ。鍵はあいている」
引き戸をあけて中に入った田上は、玄関で靴を脱ぎ、廊下を歩いた。家の間取りは覚えていた。彼は迷わず居間のふすまをあけた。座卓の向こうに
うしろ手にふすまを閉めた田上は座卓をはさんで男の向かいにあぐらをかいた。「ひさしぶりだな、宗一郎。三年ぶりか」
「一佐に昇格したそうだな」と宗一郎と呼ばれた男が言った。
「ああ、今じゃきみの上司だ」
沈黙。
「僕がここに来たってことは」先に沈黙を破ったのは田上だった。「言わなくてもわかるよね?」
「任務は〝早苗が成人するまで〟のはずだ」宗一郎が歯の間から押し出すように言った。
「状況が変わった。他国の情報機関がすでに彼女の獲得に向けて動きはじめている。現状では彼女の回収が最優先だ」
回収という言葉を聞いて宗一郎がわずかに眉をひそめるのを、田上は見逃さなかった。良くない兆候だ、と田上は思った。三年という月日で情が移ったか?
「彼女は兵器だ」と田上はことさら淡々とした口調で言った。「それも国連が秘密裏に査察団を組織するレベルのな」
宗一郎は何も言わなかった。田上は話を続けた。
「三年前、長野県中部を震源とする震度5強の大地震――通称松本地震。一般的には東日本大震災を引き起こした東北地方太平洋沖地震の誘発地震の一つとされているが、これは
「早苗の能力……」宗一郎が震える声で言った。
「そう考えるのが妥当だ。彼女の父親の命日は地震発生の前日、深夜に入院先の病院で亡くなっている。知らせを受けた彼女が松本市内の病院に到着したのがその翌朝、直後にあの地震だ。当時まだ幼かった彼女が父の訃報に動揺して能力を暴走させた、というのが我々の最終的な結論だ。ここから先は……きみの方が詳しかったな」
「情報本部で催眠暗示の戦術利用について研究していたわたしは、当時中学生になったばかりの早苗に後催眠暗示をかけて記憶を封じた。父親の死、秘伝の伝授、自身の能力にまつわるすべての記憶……」
「悪いが家族ごっこはこれで終わりだ。彼女に真実を告げねばならん」
「待ってくれ。一週間、いや三日でいい、時間をくれ。早苗にはわたしの口から直接伝えたいんだ」宗一郎の口調は真剣だった。「父親としての務めを果たさせてくれ、たのむ」
宗一郎はかつての同僚、現在の上司に向かって深々と頭を下げた。
洩矢神社の拝殿の軒下で、ぼんやりと境内の景色をながめながら
ただ者ではないな、と神奈子は思った。
女性は淡いむらさき色のドレスの上から、太極図と易経をあしらった導師服を重ね着した奇妙な身なりをしていた。導師服に描かれた卦は四爻と五爻が陽、残りがすべて陰で四十五番の『
〝願い事は叶う
王者は宗廟に祖先を祀り
人民は賢者に会って従えばよろし
思うように事は運ぶ
ただし正しい道を守り続けた場合にのみ利を得られる
大きないけにえを用いて祭祀を行うに吉
進んでよい〟
「八坂様でいらっしゃいますね、お目にかかれて光栄ですわ」女性は洋服の裾を持ち上げ、地面に片膝をついて、まるで中世の騎士がやるように深々とおじぎをした。
「よせよせ」と手をひらひらさせながら神奈子。「忘れ去られた場末の神ぞ。それより我の姿が見えるなら、そなたも人ではないな?」
「八雲紫、妖怪ですわ」と彼女は名乗った。
ずいぶんと生々しい肉体を持った妖怪だ、と神奈子は思った。
明治維新を皮切りに推し進められた急速な近代化と西洋合理主義の流入、神仏分離令による混乱とその後の統廃合、戦後GHQの徹底した政教分離政策――、結果ここ百年ばかりの間に、著名な神仏は次々と信仰を失い、存在を否定され、消えていった。もちろん神奈子も例外ではない。妖怪もまたしかり。
神奈子の思考を察してか、紫はくすりと笑って「都市部では『都市伝説』というかたちで、まだまだ多くの妖怪たちが活躍しているのです」と言った。
神奈子は自分が都市伝説の主題になっているところを想像する。本当にあった怖い話~たたり神編~ 諏訪湖周辺に新たな怪奇スポット 深夜の洩矢神社に決死の潜入取材……イケる! 内心でガッツポーズを決める神奈子。
「流行んないよ」いつのまにか背後に立っていた洩矢諏訪子が、神奈子の後頭部を勢いよく張り倒す。
「まだ何も言ってねーよ」と頭をさすりながら抗議する神奈子。
「言わなくても顔見りゃわかるよ」と凄む諏訪子。すぐに今度は紫に食ってかかる。「で、あんた誰? 怪奇特番のディレクターか何か?」
「スカウトに来た、という点では間違いじゃありませんが」言いながら紫が指先をついと動かすと、二人の頭上にどこからともなく二枚の名詞が現れた。名詞はひらひらと舞い落ちて二人の手の中におさまった。神奈子が名詞の文面を声に出して読み上げた。「
「民間軍事請負企業……平たく言えば傭兵の派遣業ですわ」
「神奈子聞いた? この人あたしたちに傭兵になれってさ」おどけた口調で諏訪子が言った。
「神様の傭兵というのも魅力的ですが」と紫。「わたしが将来性を見込んでいるのはこちらのお嬢さんですわ」
早苗の話題が出た途端、神奈子の表情がにわかに曇ったのを紫は見逃さなかった。
早苗に特別な才能があることは神奈子も知っていた。普通の人間には知覚できないほど存在が希薄になった神奈子や諏訪子の姿を、幼いころのあの娘は普通に見ることができた。それどころか、話すことも、触れることさえできた。二人にしてみれば、実に百年ぶりに接することのできる人間。そのときの諏訪子のはしゃぎようときたら……
「早苗はもう普通の人間だよ」諏訪子がどこか投げやりな口調で言った。
「よろしければその辺の話、詳しくお聞かせ願えないでしょうか?」きらりと目を輝かせて紫がたずねた。
「身内の恥をさらすみたいで本当は嫌なんだけどね」と前置きしてから諏訪子は語りだした。「洩矢の秘伝は一子相伝だ。三年前、自分の身体が不治の病におかされていると知った先代、つまり早苗の父親は選択を迫られた。跡取りは娘が一人だけ、しかもまだ幼い。配偶者、つまり早苗の母親もすでに他界している。残された選択肢は三つだ。精神的に未成熟な娘に秘伝の伝授を強行するか、どこか遠縁の子でも養子にもらって跡取りに据えるか、千年以上続いた秘伝の継承をあきらめるか……。先代は早苗の才能に賭けたんだ。結果……」
「どうなりました?」と先をうながす紫に、首を左右に振って答える諏訪子。
「秘伝の伝授自体は成功した。だが精神的にまだ未熟だった早苗はさっそくそれを暴走させてしまったんだ。結果あの惨事だ」
長野県中部地震、と神奈子は心の中でつぶやいた。
満足そうに目を細めながら話を聞いていた紫は、そこらへんの事情をある程度事前に調べ上げ、知っているらしかった。紫は諏訪子の話を引き取ってしゃべりはじめた。「直後、あの連中が現れて早苗ちゃんを保護する。早苗ちゃんが再び暴走するのをおそれた連中は、早苗ちゃんから秘伝に関するすべての記憶を封印してしまう。その日から、早苗ちゃんにはあなたがた二人の姿が見えなくなった」
諏訪子はくやしそうに歯噛みをし、神奈子はうなだれたように視線を落とした。八雲紫は……笑っていた。
「それで、素直にあきらめたのですか?」
紫の挑発的な物言いに、神奈子と諏訪子の表情が瞬時に険しくなる。
あの状況でいったいどうしろと? 神奈子は紫の顔をにらみつけたまま、ふいにありったけの感情をすべてぶちまけてしまいたい衝動に駆られた。連中に神罰でも与えるか? かりそめとはいえ、今の早苗にとってあの男は紛れもない父親だぞ? 父の不幸に早苗がよろこぶとでも? ならば、どうにかして早苗の失われた記憶を取り戻す方法でも考えるか? 実の父が病死するつらい現実を、天涯孤独の身であることを、早苗の記憶をわたしたちの手で掘り起こせと? わたしたちに何ができる? さあ言ってみろ、何ができる?
「神様であれ妖怪であれ」と紫は静かに話しはじめた。「あきらめた者から順に消えてゆくのです。周囲の状況がどうあれ、決してあきらめないこと。現状に満足しないこと。圧力に屈しないこと。己が信念の命ずるままに、百年だろうと、千年だろうと、あがき続け、あらがい続けること。運命そのものを拒絶すること。それが我々妖怪の本質ですわ」
我ハ妖怪ナリ、総テヲ拒ム者ナリ――
この女を支えているのは野心だ、と神奈子は唐突にそう思った。早苗にしろ、PMCにしろ、彼女にとっては何かとてつもなく大きな野望を実現するための巨大な計画の一部にすぎない。彼女はその計画に我々も「一枚噛め」と言っているのだ。いいのか、彼女の誘いに乗って……
「能書きはいいよ。で、あんたなら具体的にどうすんのさ?」と諏訪子。
「要は信仰が集まりさえすればよいのですわ。昔みたいに人間と触れあえるようになって、あなたがたが早苗ちゃんの家族になればよいのです」
「はッ、大見得切っといてそれだけかよ? 信仰集めなんてとっくに……」
「……そのためにわたしは」声のトーンを一段上げて諏訪子の発言を強引にさえぎる紫。「百三十年前から密かに信仰を温存してきたのです」ここでまた彼女は声のトーンを落として、にっこりと微笑みながら続けた。「そこでなら早苗ちゃんも神様になれますわ。皆でまいりましょう、幻想郷へ……」
続きまってます。
生きる楽しみが一つ増えた。
大好きな作風。