二ッ岩マミゾウがその老人を初めて見かけたのは、鈴奈庵でのことだった。
鈴奈庵に流れてくる外来本は多種多様で、遥か昔の和綴じのものもあれば、外の世界の書店で普通に見かけるような四六判や文庫本も紛れ込んでいる。最近まで外の世界にいたマミゾウにしてみれば、懐かしい背表紙がいろいろあるわけだ。
文庫本は著者別にまとめられて並べられている。その背表紙を眺めていたマミゾウは、一箇所で、おや、と目を留めた。以前見かけて、そのうち読もうかと思っていた本が、棚から消えているのだ。貸し出されているのか、それとも買われてしまったのか。小鈴に訊いてみようか、と思ったところで、店の入口からしわがれた声が掛かった。
「ごめんください、松葉屋です」
「あ、はーい」
暖簾越しに掛けられた声に、小鈴がそちらへ駆け寄っていく足音。マミゾウは書棚の影からひょいと顔を出したが、店の入口にいる人物の姿は逆光になってよく見えない。マミゾウはそちらに歩み寄った。
「お預かりしていた着物ですわ」
老人が差し出したのは女物の和服だった。寸法からして小鈴のものだろう。
「ああ、ありがとうございます。あ、ちゃんと綺麗になってる」
「三つ鈴の紋はこの歳になって初めて描きましたわ。この店の屋号もそれが由来で?」
「はい。ええと、お代です」
小鈴が貨幣を取り出して、数えながら老人の手に載せる。老人はそれを頷きながらぎゅっと握りしめ、「では、確かに――」と言って、それを懐にしまおうとした。
「おや」
が、その手が止まり、老人は小鈴の前でぱっと握りしめていた手を開いた。
「おかしいな。お代が消えちまいましたよ」
「えっ?」
小鈴が目を見開く。確かに、老人の手のひらの中から小鈴の渡した貨幣は消えている。
「あれ、落としましたか?」
足元に視線を落とす小鈴。だが、床に貨幣は見当たらない。「あれぇ……?」と小鈴がしゃがみこんだ瞬間、ちゃりん、とそのエプロンから音がした。
不思議そうに小鈴はポケットを叩き、それから慌ててそこに手を入れた。そこから出てきたのは、小鈴が老人に渡したのと同じ貨幣である。小鈴はきょとんとした顔で、貨幣と老人の顔を見比べた。老人は好々爺然とした笑みを浮かべる。
「おやおや、銭もこんなしわくちゃの爺さんではなく、お嬢ちゃんのような可愛らしい女の子の懐の方がいいらしい」
「え? あ、あれ? どうして」
「ま、うちも商売ですわ。それじゃあお代はいりませんとはいきませんで。一枚だけいただきましょうか」
と、老人は小鈴の手から貨幣を一枚だけ取り上げる。そしてそれを指の間に挟むと、手を軽く一振り。――次の瞬間、老人の指の間に挟まれた貨幣は、四枚に増えていた。
「おっと、銭の方があたしに気を遣って増えてくれたようですわ。では、お代は確かに頂戴しましたよ。またよろしくお願いしますわ」
呵々と笑って、老人はくるりと背を向けると、ひょこひょこと歩き出す。小鈴はぽかんとした顔で老人の背中を見送っていたが、我に返ったようにその後を追って走り出した。
「ちょ、ちょっと待って、天沢さん!」
「おや、何か?」
「――天沢さんって、魔法使いなんですか?」
追いついた小鈴の言葉に、天沢と呼ばれた老人は皺だらけの顔いっぱいに笑みを浮かべた。
「いやいや、そんなに大したもんじゃあありません。あたしはただの上絵師です」
目を細めて、老人はそう言い残し、またひょこひょこと歩き出す。
呆然とそれを見送っている小鈴の背中に追いついて、マミゾウはぽんと肩を叩いた。
「あっ、えっと、すみません、何か」
「いや――ありゃあ何者だい?」
マミゾウが問うと、「ああ、天沢さんですか」と小鈴は首を傾げる。
「紋屋さんですよ」
「紋屋? ってーと、和服に家紋を描き込む、あれかい?」
「ええ。何年か前に幻想郷に迷い込んだ外来人さんらしいんですけど。腕のいい紋屋さんで、このへんの家の人はけっこうお世話になってます」
「へえ、外来人でねえ。まだそんな商売が外でも生き残ってたのかい」
外の世界では、普段着として和服を着る文化は既に滅びて久しい。洗張屋、染抜屋、紋屋、悉皆屋――そういった職人たちは時代の流れの中で滅びたものだと、マミゾウも勝手に思っていたが、細々と生き残っている職人がいたのだろう。しかし、そんな職人もこの幻想郷に流れてきたということは、やはりそれらの滅びは避けられないのだろうが――。
「この服、この前阿求のところで汚してしまって。綺麗になって良かったです」
抱えた着物を見下ろして、嬉しそうに小鈴は言う。鈴が三つの家紋が、そこに描かれているのがマミゾウにも見えた。印刷ではなく、紋屋が筆で描き込んだものらしい。
「でも、さっきのあれ、見ました?」
「ん? ああ、コインを出したり消したりのアレかい」
「ええ、凄かったですね! あれ、やっぱり魔法でしょうか」
「――さてねえ」
マミゾウは小さく苦笑する。おそらく、あれはタネも仕掛けもある手品だろう。ただ、それを教えて小鈴の夢を壊すこともないか、とマミゾウは思った。
しかし、である。マミゾウは手品とは別のところで、あの老人に対して首を捻った。
あの老人の顔、どこかで見た記憶があるのだが、どこでだったかが思い出せない。
「天沢、ねえ」
結局、その引っかかりを思い出せないまま、マミゾウは小鈴に訊こうと思っていた本のことも、そのときは忘れてしまっていた。
◇
次にその老人と顔を合わせたのは、鈴奈庵での朗読会のことであった。
小鈴が里の子供におとぎ話を語って聞かせるイベントで、マミゾウの書いた『文服茶釜』や『たぬきの糸車』もそのレパートリーに取り入れられている。その日は『たぬきの糸車』を読むというので、マミゾウも顔を出していたのである。
「『気をつけないと、うちの人にタヌキ汁にされてしまうよ』おかみさんはタヌキの引っかかった罠をそっと外してやりました。助けられたタヌキは、何度も頭を下げ、何度もおかみさんの方を振り返りながら、森の方に帰っていきました……」
小鈴の話がそこまで進んだところで、誰かが店の暖簾をくぐる気配があり、小鈴とマミゾウはそちらを振り向いた。小鈴の話に聞き入っていた子供たちも、一斉に振り返る。
「おや……こいつは失礼。お邪魔でしたかね」
ぽりぽりと頭を掻いたのは、紋屋の老人、天沢である。小脇に抱えた袋に果物が見える。買い物帰りに立ち寄った、という風情だった。
「天沢さん。あれ、何か着物の紋入れ、お願いしていましたっけ?」
「いやいや、今日はこの店にお客として来さしていただきました。あたしは棚の本を見てますんで、どうぞ続けてください」
「そうですか。――それじゃあみんな、続きを読むからね」
小鈴が子供たちに向き直り、『たぬきの糸車』の続きを読み始める。マミゾウはそれを聞き流しながら、横目で天沢老人の様子をうかがった。やはり、どこかで見たような記憶のある顔である。歳の頃は七十代だろうか。腰も曲がっておらず、かくしゃくとしたものだ。
天沢老人は、和綴じの本が並ぶ棚を興味深そうに眺めたあと、四六判の単行本や文庫本が並んでいる棚に目を留めた。その棚の前に立ち、何か懐かしげに目を細めている。外来人だというから、外の世界で見慣れた本が懐かしいのかもしれない。
「『タヌキや、ありがとう。お前のおかげで、今年は楽ができるよ』おかみさんは恩返しをしてくれたタヌキを、いつまでもいつまでも見送っていました。……おしまい」
小鈴がぱたんと本を閉じる。それまで黙って大人しく聞いていた子供たちのざわめきが、にわかに鈴奈庵の店内に満ちた。前の方に座っていた子供が、「もう一冊読んで!」と声をあげ、賛同の声が他の子供たちからもあがる。
「ええ? 今日はこれで終わりの予定だったんだけど……」
小鈴が困り顔で首を傾げるが、子供たちからは「もう一冊!」コールが止まない。「読んでやればいいじゃないかい」とマミゾウが苦笑混じりに声をかけると、「そうですね、じゃあ、何にしようかしら……」と小鈴が立ち上がり――天沢老人の姿に目を留めた。
「あ、天沢さん!」
「はい? お呼びですかね」
「この前のあれ、またやってもらえませんか!」
小鈴が天沢老人の元に駆け寄り、目を輝かせて言う。子供たちも、「おお?」と興味深げな顔を天沢老人に向けた。天沢老人は驚いたように目を見開き、それから後頭部を掻く。
「この前のといいますと」
「ほら、お金を出したり消したりしてみせたあの魔法ですよ!」
「小鈴ねーちゃん、このじーちゃん魔法使いなの?」
「いやいや、だからそんな大したもんじゃありゃあしませんが……」
照れたように天沢老人は言うが、子供たちの間では「魔法使い?」「魔法使いだってよ」と話が勝手に伝わっていく。何より小鈴が期待に目を輝かせているのだから、その期待感はあっという間に子供たちに伝播していく。
「わかった、わかりました。あたしの拙い芸でよければ、それではちょいとばかり」
歓声が弾ける。天沢老人は苦笑していたが、まんざらでもないといった様子で、「それじゃあ、お嬢さん。お椀を三つばかり、拝借してよろしいですかい」と小鈴に告げた。
小鈴はすぐに店の奥にとって返し、塗り物のお椀を三つ持ってくる。天沢老人はそれを受け取ると、小鈴の普段使っている机に向かった。子供たちも小鈴とともにぞろぞろとそれについていく。天沢老人は机にお椀を三つ伏せて並べると、小脇に抱えていた買い物袋からサクランボを三つ取りだして、ヘタを取ってお椀の手前に置いた。それから一本の短い棒を取り出す。
「さてさて皆様。このお椀にはタネも仕掛けもありませんな」
天沢老人は、伏せた三つのお椀を子供たちに向けて開いてみせ、それから手にした棒で叩いたり突いたりしてみせる。何の変哲もない、食卓で見慣れた塗り物のお椀だ。
「しかし、このお椀をこの棒で叩くと、不思議なことが起こるんです」
子供たちがざわめく。天沢老人は不適な笑みを浮かべ、サクランボを手に取った。
「まずは、このサクランボを、お椀の中に入れるとしましょう」
サクランボを、伏せたお椀の中にひとつずつ入れる。三つのお椀の中に、三つのサクランボがひとつずつ入ったところで手を離し、天沢老人はひょうきんな顔をして棒を手に取った。
「さて、この中にはサクランボが入ってますね? しかし、これをほれ、こう叩くと」
かん、と棒がひとつ右のお椀を叩いて音をたてる。そして天沢老人がそのお椀を持ち上げると、中からサクランボは消え失せていた。小鈴ら子供たちが一斉にどよめいた。
老人は同じように、真ん中のお椀、左のお椀からも同様にサクランボを消してみせた。「さあ、消えたサクランボはどこへ行ったのか――」言いながら、老人は三つのお椀を縦に重ねて、かん、かん、かん、と三回叩いた。そしてお椀を持ち上げると――その下から、三つのサクランボが顔を出す。子供たちの歓声が弾けた。
典型的なカップ&ボールのマジックである。マミゾウも同じ奇術は何度か見たことがあった。お椀とサクランボを自在に操り、出したり消したりを繰り返す天沢老人の手さばきは、年齢を感じさせぬ鮮やかさで、観客を引き込む呼吸にも長けている。単なる趣味の領域ではない、明らかに舞台の上で観客を相手に演じた経験のある者の手つきだ。おそらくプロかセミプロだろう。彼の顔に見覚えがあるのも、外の世界のどこかで彼の奇術を見たことがあるからかもしれない――。
マミゾウがそんなことを考えている間にも、老人の手からサクランボは消えてはカップの中に現れ、カップから消えては別のところに現れる。いつしか子供たちの誰もが目を輝かせて、固唾を呑んでお椀とサクランボを見つめていた。
老人は最後に、サクランボを入れたカップの中から三つのミカンを取り出してみせ、「どうもありがとうございました」と優雅に一礼する。歓声と拍手が弾け、子供たちが一斉に天沢老人にまとわりついた。それを止めるはずの小鈴も一緒に老人に駆け寄っているのだから世話がない。マミゾウは苦笑した。
その後、マジックの再演をせがむ子供たちをどうにか小鈴がなだめ、その代わりに熱烈な交渉で天沢老人に再び奇術を演じる約束を取りつけたのは、言うまでもなかった。
◇
紋屋の老人が不思議な術を使う――という噂は、あっという間に里に広まったらしい。
天沢老人はあれ以来しばらく、外に出れば子供からはマジックをせがまれ、大人からは眉をひそめられて大層難儀したそうである。里の大人からは、怪しげな術で子供たちを惑わす不審人物と受け取られたらしい。とうとう自警団に呼び出されて取り調べを受ける羽目になり、種も仕掛けもある奇術であることを公表した上で演じることが条件として付されることになった。――という経緯を、マミゾウは小鈴から聞くことになった。
「おかげで里の子供は最近、みんなにわかマジシャンです」
「子供だけじゃなさそうじゃがの」
しとしとと雨の降る日、鈴奈庵の客はマミゾウだけだった。
天沢老人のマジックは種も仕掛けもあり、練習すれば誰でもできる――と公表したことで、かえって里では空前の奇術ブームが巻き起こった。天沢老人が一部のマジックの種を明かしたことで、里のあちこちに子供たちがお椀と玉を相手に格闘する姿が溢れている。子供だけでなく、一部の大人もこっそりと楽しんでいるようだった。
「おかげで朗読会の人の入りがこのところどうも……」
「ま、そのうち沈静化するじゃろ」
ため息をつく小鈴に、マミゾウは苦笑する。――と、そこへ不意に第三者の声が割り込んだ。
「いやいや、そいつはご迷惑をおかけしました」
「あ、天沢さん? いえいえ、そんな――」
天沢老人である。手にした傘を閉じた老人は、皺だらけの顔に柔和な笑みを浮かべて、ひょこひょこと鈴奈庵の店内に足を踏み入れた。手にはここで借りていたのだろう本が抱えられている。
「いやあ、こんな本があったとは知りませんでしたわ」
「それ、そんなに珍しい本だったですか?」
「ええ、あたしも長年奇術マニアをやっていますから、大抵の奇術本は知っているつもりだったんですがね。そうでなくてもここには、向こうじゃ滅多に手に入らない奇術本がいろいろあって、あたしには宝の山です」
「それはどうも――」
老人が差し出した本を受け取り、小鈴は眼鏡をかけて中身をチェックし始める。
「それはそうと、この店じゃあ、自分で書いた本も買い取ってくれると聞いたんですがね」
「ああ、はい。自分で製本しなくても、原稿があればうちで本にすることもできますよ。たとえばこちらの方からも、何冊か自作の本を購入しています」
小鈴がマミゾウの方を見やって言う。マミゾウは頷いた。「ほうほう」と天沢老人は目を細めて笑う。
「それじゃあ、あたしもそのうちお願いするかもしれません」
「何か書かれるんですか?」
「いやあ、大したもんじゃあ、ありませんがね」
ふっと遠い目をして、天沢老人は呟くように言った。
「心残りが、ありましてね」
「心残り?」
「いや、年寄りの繰り言ですわ。それじゃあ、失礼しますよ」
踵を返し、天沢老人は傘を取ってひょこひょこと店を出て行く。マミゾウはそれとなく老人の背中を店の入口まで追いかけた。店の前の地面は降りしきる雨にぬかるんで、半歩踏み出したマミゾウの足がはっきりとした跡を土の上に残す。
その足元を見下ろして、マミゾウは、はっと顔を上げた。天沢老人のさした青い番傘が、雨にけぶる里の通りに遠ざかっていく。
「どうしたんですか?」
「――いや、なんでもないさ」
不思議そうにこちらを見上げた小鈴に、マミゾウは小さく首を横に振った。
それから、ぶらりとマミゾウは本棚の方に足を向ける。老人の正体がマミゾウの想像通りだったとしても、だからといってマミゾウにできることは何もない。いずれ、勝手にけりのつく問題なのだろう。――そんなことを思いながら、マミゾウはぼんやり文庫本の棚を眺め、それからいつぞや気になったそこの空白のことを思い出した。前に見たときと同じく、文庫一冊か二冊分の空白が、そこには空いている。確かそこに並んでいた本は――。
「なあ。ここの本は売れちまったのかい?」
「え? ……ええと、ちょっと待ってください」
小鈴が台帳を手に、マミゾウの元に駆け寄ってきた。台帳と背表紙を照らし合わせながら、小鈴はそこの空白を確かめ――「ああ」と頷く。
「そこの二冊は、この前、消えちゃったんです」
「消えた? 紛失したのかい」
「いえ――たまにあるんです、特にこのへんの棚の綺麗な本は。誰も借りてないし売ってもいない、もちろん盗まれたはずもないのに、突然消えてしまうことが」
小鈴は笑って、棚に並んだ文庫本の背表紙を指でなぞる。
「ここに流れ着く外来本は、外の世界で忘れ去られた本ですから。たぶん、外の世界で、その存在を思い出してもらえたんじゃないでしょうか」
「……なるほどのう」
つまりは、外の世界で復刊されたということなのだろう。それは外の世界では喜ぶべきことだろうが、おかげで儂は読めなくなってもうたのう――と思いながら、マミゾウはその棚の空白の隣にある文庫本を手に取り、何気なく表紙を開いて――息を飲んだ。
ああ、そうか――そういうことか。マミゾウは口元を押さえて息を吐き出す。
「どうしたんですか?」
「……なあ、小鈴や。あの天沢って爺さんの下の名前、知っておるかい?」
「天沢さんの? ええと、確か――」
「ひょっとして、かつお、って言うんじゃないかね?」
「――はい、そうです。天沢勝夫さん、のはずですけど……どうして解ったんですか?」
「いや、なに――」
マミゾウは文庫本を棚に戻しながら、ただ曖昧に小鈴に向かって笑いかけた。
「それは、儂のマジックってことにしとこうかのう」
「はあ……」
釈然としない顔で、小鈴は首を傾げた。
◇
それから数ヶ月後。里の奇術ブームも一段落し、鈴奈庵の朗読会にもまた子供たちの姿が戻ってきていた。マミゾウはまた新しい本を売りつけに鈴奈庵に向かっているところだったが、店の前で不意に足を止めた。
店からちょうど、天沢老人が頭を下げながらひょこひょこと姿を現したところだった。その顔には、長年の肩の荷を下ろしたような開放感が溢れている。――ああ、とマミゾウは悟った。それと同時に、マミゾウは思わず、天沢老人を呼び止めていた。
「おおい、天沢さんや――いや」
足を止めた天沢老人に歩み寄って、マミゾウは眼鏡の奥の目を細める。
「上絵師で奇術師のあんたは、厚川昌男さん、と呼んだ方がいいのかね」
マミゾウのその言葉に、老人は目を見開き――そして、いたずらのばれた子供のようにばつの悪そうな顔をして、後頭部をひとつ掻いてみせた。
「いやいや、まさかここで、その名前で呼ばれるとは思いませんでしたわ。こっちではずっと、天沢勝夫の名前で通してたんですがね」
「儂は最近まで外の世界におったからのう。あんたの顔、どこかで見た記憶があると、初めて見たときからずっと気になっとったんだが――天沢勝夫ってのも、あっちの名前と同じく、本名のアナグラムだろう?」
「ええ、お察しの通りです」
里の茶屋。通りに面したベンチで、マミゾウは天沢老人と肩を並べて茶を飲んでいた。
「紋屋で奇術師って時点で、気付くべきだったよ。あんたの本、外の世界で何冊か読んでたのに、すっかり忘れてた。儂も耄碌したもんだ」
「いやいや。あたしの本は、ほとんどあの店に並んでるようですから。上絵師の仕事と同じく、忘れられていくもんだったんでしょう。あたし自身、絵師と物書きを具合よく両立するために、あんまり売れないような本ばかり書いてきましたし。そんなんですが、お嬢さんみたいな綺麗な女性に読んでいただけてたなら、ありがたい話です」
茶をすすりながら、天沢老人は微笑んで言う。「世辞を言っても、何も出ないがね」とマミゾウも笑い返して――そして、老人に向き直った。
「心残りは、片付いたのかい?」
「……ええ。おかげさまで、いや、この世界に慣れるのと、筆で原稿を書くのに慣れるのとに時間がかかって、五年ばかりかかっちまいましたが」
がちゃん、と近くで固いものが割れる音が響いた。振り返ると、近くのテーブルで湯飲みがひとつ床に落ちて割れている。そのテーブルには他にもうふたつの湯飲みが伏せられていて、いびつな毛糸玉が並んでいた。テーブルの主らしい男性が、恥ずかしそうに頭を掻きながら割れた湯飲みの破片を拾い上げている。
おいおいしっかりしろよ、と別の客から野次が飛んだ。どうやらカップ&ボールを湯飲みで実演しようとしてトチったらしい。天沢老人がそれをひどく感慨深げに見つめていることに、マミゾウは気付いた。
「……あたし、ここにやってきたときには、こりゃあ大変なところに来てしまったぞと思ったもんです。何しろ、人が空を飛んで、魔法みたいに光の玉を飛ばすんですから。こんな世界じゃあ、あたしのような奇術師なんぞ、到底お呼びじゃないだろうと思いましてね。幸い、紋屋の仕事にありつけましたから、奇術は封印して、紋屋一本でやっていこうと思ったんです」
「じゃあ、あのとき小鈴に見せたのは」
「いやあ、封印したつもりでも、つい手が動いちまいました」
天沢老人は恥ずかしそうに笑い、「けれど――」と言葉を継いだ。
「不思議なもんですわ。儂にとっちゃ摩訶不思議な、夢のような光景をね。奇術なんかよりずっと不思議なものを見慣れてるはずのこの世界の子供たちが、あたしのカップ&ボールやカードマジックに歓声をあげてくれるんですから」
「そんなもんだろうさ。たとえどれだけ不思議なことを見慣れていても、それまで見たことのない不思議は、誰だってわくわくするもんさね」
「――なるほど、確かにその通りですな」
満足げに、天沢老人が頷く。それから、先ほどのテーブルの方をまた振り向いた。男性は新しい湯飲みを受け取って、それでおぼつかない手つきでカップ&ボールを演じ始めている。素人のマミゾウから見ても危なっかしい演技で、外野からは「タネが見えるぞー」と冗談交じりの野次が飛んでいるが、演じている本人は懸命に湯飲みと毛玉に意識を集中させていた。
「最初は、自分の心残りを晴らせれば、それでいいと思ってましたがね。――ああいうのを見ると、この世界に来て良かったと思うんですよ」
「……そうさね」
マミゾウが頷いたところで、天沢老人はゆっくりと立ち上がった。そして懐から一枚の貨幣を取り出して、マミゾウに差し出す。
「すみませんが、お茶代はこれで払っておいてもらえますかね」
「――ちいっとばかり、足りなくないかい?」
「おっと、これは失敬」
マミゾウの言葉に、老人は笑って、貨幣を手にした手を閃かせる。次の瞬間、貨幣は四枚に増えていた。それを受け取って、「確かに」とマミゾウは頷く。
「それじゃあ、あたしはこれで失礼します。――美人の死神さんは、別にいつまででもここにいていいと言ってくれてるんですが、あたしみたいなのがいつまでもこっちにしがみついてたら、閻魔様に怒られますんでね」
「――そうかい。達者でな」
「ええ、そちらさんもお元気で」
世間話のような軽い口調でそう言い残して、天沢老人はひょこひょこと歩み去っていく。
マミゾウはその背中を、ただ目を細めて見送った。
――老人の歩いていく土の上に、足跡は残らない。
それはあの天沢老人が、最初から亡霊だったことを示している。
この世に残した未練を晴らすために、外来人の振りをして、里で暮らしていたのだろう。
彼がマミゾウの知る人物なら、つまりはそういうことだった。
茶屋を後にして、マミゾウは鈴奈庵へと向かった。
暖簾をくぐると、「あ、いらっしゃいませ」と小鈴が机から顔を上げてマミゾウを迎える。
「なあ、さっきまであの奇術師の爺さんが来てなかったかい?」
「天沢さんですか? ええ、いらしてましたよ。自分で書いた本を置いていかれました」
小鈴が手にしていた本を、ばさりと机の上に置いた。和綴じの拙い製本のその本には、マミゾウのよく知る、外の世界でのあの老人の名前と――その本のタイトルが記されている。
ヨギ ガンジー、最後の妖術――泡坂妻夫・著、と。
鈴奈庵に流れてくる外来本は多種多様で、遥か昔の和綴じのものもあれば、外の世界の書店で普通に見かけるような四六判や文庫本も紛れ込んでいる。最近まで外の世界にいたマミゾウにしてみれば、懐かしい背表紙がいろいろあるわけだ。
文庫本は著者別にまとめられて並べられている。その背表紙を眺めていたマミゾウは、一箇所で、おや、と目を留めた。以前見かけて、そのうち読もうかと思っていた本が、棚から消えているのだ。貸し出されているのか、それとも買われてしまったのか。小鈴に訊いてみようか、と思ったところで、店の入口からしわがれた声が掛かった。
「ごめんください、松葉屋です」
「あ、はーい」
暖簾越しに掛けられた声に、小鈴がそちらへ駆け寄っていく足音。マミゾウは書棚の影からひょいと顔を出したが、店の入口にいる人物の姿は逆光になってよく見えない。マミゾウはそちらに歩み寄った。
「お預かりしていた着物ですわ」
老人が差し出したのは女物の和服だった。寸法からして小鈴のものだろう。
「ああ、ありがとうございます。あ、ちゃんと綺麗になってる」
「三つ鈴の紋はこの歳になって初めて描きましたわ。この店の屋号もそれが由来で?」
「はい。ええと、お代です」
小鈴が貨幣を取り出して、数えながら老人の手に載せる。老人はそれを頷きながらぎゅっと握りしめ、「では、確かに――」と言って、それを懐にしまおうとした。
「おや」
が、その手が止まり、老人は小鈴の前でぱっと握りしめていた手を開いた。
「おかしいな。お代が消えちまいましたよ」
「えっ?」
小鈴が目を見開く。確かに、老人の手のひらの中から小鈴の渡した貨幣は消えている。
「あれ、落としましたか?」
足元に視線を落とす小鈴。だが、床に貨幣は見当たらない。「あれぇ……?」と小鈴がしゃがみこんだ瞬間、ちゃりん、とそのエプロンから音がした。
不思議そうに小鈴はポケットを叩き、それから慌ててそこに手を入れた。そこから出てきたのは、小鈴が老人に渡したのと同じ貨幣である。小鈴はきょとんとした顔で、貨幣と老人の顔を見比べた。老人は好々爺然とした笑みを浮かべる。
「おやおや、銭もこんなしわくちゃの爺さんではなく、お嬢ちゃんのような可愛らしい女の子の懐の方がいいらしい」
「え? あ、あれ? どうして」
「ま、うちも商売ですわ。それじゃあお代はいりませんとはいきませんで。一枚だけいただきましょうか」
と、老人は小鈴の手から貨幣を一枚だけ取り上げる。そしてそれを指の間に挟むと、手を軽く一振り。――次の瞬間、老人の指の間に挟まれた貨幣は、四枚に増えていた。
「おっと、銭の方があたしに気を遣って増えてくれたようですわ。では、お代は確かに頂戴しましたよ。またよろしくお願いしますわ」
呵々と笑って、老人はくるりと背を向けると、ひょこひょこと歩き出す。小鈴はぽかんとした顔で老人の背中を見送っていたが、我に返ったようにその後を追って走り出した。
「ちょ、ちょっと待って、天沢さん!」
「おや、何か?」
「――天沢さんって、魔法使いなんですか?」
追いついた小鈴の言葉に、天沢と呼ばれた老人は皺だらけの顔いっぱいに笑みを浮かべた。
「いやいや、そんなに大したもんじゃあありません。あたしはただの上絵師です」
目を細めて、老人はそう言い残し、またひょこひょこと歩き出す。
呆然とそれを見送っている小鈴の背中に追いついて、マミゾウはぽんと肩を叩いた。
「あっ、えっと、すみません、何か」
「いや――ありゃあ何者だい?」
マミゾウが問うと、「ああ、天沢さんですか」と小鈴は首を傾げる。
「紋屋さんですよ」
「紋屋? ってーと、和服に家紋を描き込む、あれかい?」
「ええ。何年か前に幻想郷に迷い込んだ外来人さんらしいんですけど。腕のいい紋屋さんで、このへんの家の人はけっこうお世話になってます」
「へえ、外来人でねえ。まだそんな商売が外でも生き残ってたのかい」
外の世界では、普段着として和服を着る文化は既に滅びて久しい。洗張屋、染抜屋、紋屋、悉皆屋――そういった職人たちは時代の流れの中で滅びたものだと、マミゾウも勝手に思っていたが、細々と生き残っている職人がいたのだろう。しかし、そんな職人もこの幻想郷に流れてきたということは、やはりそれらの滅びは避けられないのだろうが――。
「この服、この前阿求のところで汚してしまって。綺麗になって良かったです」
抱えた着物を見下ろして、嬉しそうに小鈴は言う。鈴が三つの家紋が、そこに描かれているのがマミゾウにも見えた。印刷ではなく、紋屋が筆で描き込んだものらしい。
「でも、さっきのあれ、見ました?」
「ん? ああ、コインを出したり消したりのアレかい」
「ええ、凄かったですね! あれ、やっぱり魔法でしょうか」
「――さてねえ」
マミゾウは小さく苦笑する。おそらく、あれはタネも仕掛けもある手品だろう。ただ、それを教えて小鈴の夢を壊すこともないか、とマミゾウは思った。
しかし、である。マミゾウは手品とは別のところで、あの老人に対して首を捻った。
あの老人の顔、どこかで見た記憶があるのだが、どこでだったかが思い出せない。
「天沢、ねえ」
結局、その引っかかりを思い出せないまま、マミゾウは小鈴に訊こうと思っていた本のことも、そのときは忘れてしまっていた。
◇
次にその老人と顔を合わせたのは、鈴奈庵での朗読会のことであった。
小鈴が里の子供におとぎ話を語って聞かせるイベントで、マミゾウの書いた『文服茶釜』や『たぬきの糸車』もそのレパートリーに取り入れられている。その日は『たぬきの糸車』を読むというので、マミゾウも顔を出していたのである。
「『気をつけないと、うちの人にタヌキ汁にされてしまうよ』おかみさんはタヌキの引っかかった罠をそっと外してやりました。助けられたタヌキは、何度も頭を下げ、何度もおかみさんの方を振り返りながら、森の方に帰っていきました……」
小鈴の話がそこまで進んだところで、誰かが店の暖簾をくぐる気配があり、小鈴とマミゾウはそちらを振り向いた。小鈴の話に聞き入っていた子供たちも、一斉に振り返る。
「おや……こいつは失礼。お邪魔でしたかね」
ぽりぽりと頭を掻いたのは、紋屋の老人、天沢である。小脇に抱えた袋に果物が見える。買い物帰りに立ち寄った、という風情だった。
「天沢さん。あれ、何か着物の紋入れ、お願いしていましたっけ?」
「いやいや、今日はこの店にお客として来さしていただきました。あたしは棚の本を見てますんで、どうぞ続けてください」
「そうですか。――それじゃあみんな、続きを読むからね」
小鈴が子供たちに向き直り、『たぬきの糸車』の続きを読み始める。マミゾウはそれを聞き流しながら、横目で天沢老人の様子をうかがった。やはり、どこかで見たような記憶のある顔である。歳の頃は七十代だろうか。腰も曲がっておらず、かくしゃくとしたものだ。
天沢老人は、和綴じの本が並ぶ棚を興味深そうに眺めたあと、四六判の単行本や文庫本が並んでいる棚に目を留めた。その棚の前に立ち、何か懐かしげに目を細めている。外来人だというから、外の世界で見慣れた本が懐かしいのかもしれない。
「『タヌキや、ありがとう。お前のおかげで、今年は楽ができるよ』おかみさんは恩返しをしてくれたタヌキを、いつまでもいつまでも見送っていました。……おしまい」
小鈴がぱたんと本を閉じる。それまで黙って大人しく聞いていた子供たちのざわめきが、にわかに鈴奈庵の店内に満ちた。前の方に座っていた子供が、「もう一冊読んで!」と声をあげ、賛同の声が他の子供たちからもあがる。
「ええ? 今日はこれで終わりの予定だったんだけど……」
小鈴が困り顔で首を傾げるが、子供たちからは「もう一冊!」コールが止まない。「読んでやればいいじゃないかい」とマミゾウが苦笑混じりに声をかけると、「そうですね、じゃあ、何にしようかしら……」と小鈴が立ち上がり――天沢老人の姿に目を留めた。
「あ、天沢さん!」
「はい? お呼びですかね」
「この前のあれ、またやってもらえませんか!」
小鈴が天沢老人の元に駆け寄り、目を輝かせて言う。子供たちも、「おお?」と興味深げな顔を天沢老人に向けた。天沢老人は驚いたように目を見開き、それから後頭部を掻く。
「この前のといいますと」
「ほら、お金を出したり消したりしてみせたあの魔法ですよ!」
「小鈴ねーちゃん、このじーちゃん魔法使いなの?」
「いやいや、だからそんな大したもんじゃありゃあしませんが……」
照れたように天沢老人は言うが、子供たちの間では「魔法使い?」「魔法使いだってよ」と話が勝手に伝わっていく。何より小鈴が期待に目を輝かせているのだから、その期待感はあっという間に子供たちに伝播していく。
「わかった、わかりました。あたしの拙い芸でよければ、それではちょいとばかり」
歓声が弾ける。天沢老人は苦笑していたが、まんざらでもないといった様子で、「それじゃあ、お嬢さん。お椀を三つばかり、拝借してよろしいですかい」と小鈴に告げた。
小鈴はすぐに店の奥にとって返し、塗り物のお椀を三つ持ってくる。天沢老人はそれを受け取ると、小鈴の普段使っている机に向かった。子供たちも小鈴とともにぞろぞろとそれについていく。天沢老人は机にお椀を三つ伏せて並べると、小脇に抱えていた買い物袋からサクランボを三つ取りだして、ヘタを取ってお椀の手前に置いた。それから一本の短い棒を取り出す。
「さてさて皆様。このお椀にはタネも仕掛けもありませんな」
天沢老人は、伏せた三つのお椀を子供たちに向けて開いてみせ、それから手にした棒で叩いたり突いたりしてみせる。何の変哲もない、食卓で見慣れた塗り物のお椀だ。
「しかし、このお椀をこの棒で叩くと、不思議なことが起こるんです」
子供たちがざわめく。天沢老人は不適な笑みを浮かべ、サクランボを手に取った。
「まずは、このサクランボを、お椀の中に入れるとしましょう」
サクランボを、伏せたお椀の中にひとつずつ入れる。三つのお椀の中に、三つのサクランボがひとつずつ入ったところで手を離し、天沢老人はひょうきんな顔をして棒を手に取った。
「さて、この中にはサクランボが入ってますね? しかし、これをほれ、こう叩くと」
かん、と棒がひとつ右のお椀を叩いて音をたてる。そして天沢老人がそのお椀を持ち上げると、中からサクランボは消え失せていた。小鈴ら子供たちが一斉にどよめいた。
老人は同じように、真ん中のお椀、左のお椀からも同様にサクランボを消してみせた。「さあ、消えたサクランボはどこへ行ったのか――」言いながら、老人は三つのお椀を縦に重ねて、かん、かん、かん、と三回叩いた。そしてお椀を持ち上げると――その下から、三つのサクランボが顔を出す。子供たちの歓声が弾けた。
典型的なカップ&ボールのマジックである。マミゾウも同じ奇術は何度か見たことがあった。お椀とサクランボを自在に操り、出したり消したりを繰り返す天沢老人の手さばきは、年齢を感じさせぬ鮮やかさで、観客を引き込む呼吸にも長けている。単なる趣味の領域ではない、明らかに舞台の上で観客を相手に演じた経験のある者の手つきだ。おそらくプロかセミプロだろう。彼の顔に見覚えがあるのも、外の世界のどこかで彼の奇術を見たことがあるからかもしれない――。
マミゾウがそんなことを考えている間にも、老人の手からサクランボは消えてはカップの中に現れ、カップから消えては別のところに現れる。いつしか子供たちの誰もが目を輝かせて、固唾を呑んでお椀とサクランボを見つめていた。
老人は最後に、サクランボを入れたカップの中から三つのミカンを取り出してみせ、「どうもありがとうございました」と優雅に一礼する。歓声と拍手が弾け、子供たちが一斉に天沢老人にまとわりついた。それを止めるはずの小鈴も一緒に老人に駆け寄っているのだから世話がない。マミゾウは苦笑した。
その後、マジックの再演をせがむ子供たちをどうにか小鈴がなだめ、その代わりに熱烈な交渉で天沢老人に再び奇術を演じる約束を取りつけたのは、言うまでもなかった。
◇
紋屋の老人が不思議な術を使う――という噂は、あっという間に里に広まったらしい。
天沢老人はあれ以来しばらく、外に出れば子供からはマジックをせがまれ、大人からは眉をひそめられて大層難儀したそうである。里の大人からは、怪しげな術で子供たちを惑わす不審人物と受け取られたらしい。とうとう自警団に呼び出されて取り調べを受ける羽目になり、種も仕掛けもある奇術であることを公表した上で演じることが条件として付されることになった。――という経緯を、マミゾウは小鈴から聞くことになった。
「おかげで里の子供は最近、みんなにわかマジシャンです」
「子供だけじゃなさそうじゃがの」
しとしとと雨の降る日、鈴奈庵の客はマミゾウだけだった。
天沢老人のマジックは種も仕掛けもあり、練習すれば誰でもできる――と公表したことで、かえって里では空前の奇術ブームが巻き起こった。天沢老人が一部のマジックの種を明かしたことで、里のあちこちに子供たちがお椀と玉を相手に格闘する姿が溢れている。子供だけでなく、一部の大人もこっそりと楽しんでいるようだった。
「おかげで朗読会の人の入りがこのところどうも……」
「ま、そのうち沈静化するじゃろ」
ため息をつく小鈴に、マミゾウは苦笑する。――と、そこへ不意に第三者の声が割り込んだ。
「いやいや、そいつはご迷惑をおかけしました」
「あ、天沢さん? いえいえ、そんな――」
天沢老人である。手にした傘を閉じた老人は、皺だらけの顔に柔和な笑みを浮かべて、ひょこひょこと鈴奈庵の店内に足を踏み入れた。手にはここで借りていたのだろう本が抱えられている。
「いやあ、こんな本があったとは知りませんでしたわ」
「それ、そんなに珍しい本だったですか?」
「ええ、あたしも長年奇術マニアをやっていますから、大抵の奇術本は知っているつもりだったんですがね。そうでなくてもここには、向こうじゃ滅多に手に入らない奇術本がいろいろあって、あたしには宝の山です」
「それはどうも――」
老人が差し出した本を受け取り、小鈴は眼鏡をかけて中身をチェックし始める。
「それはそうと、この店じゃあ、自分で書いた本も買い取ってくれると聞いたんですがね」
「ああ、はい。自分で製本しなくても、原稿があればうちで本にすることもできますよ。たとえばこちらの方からも、何冊か自作の本を購入しています」
小鈴がマミゾウの方を見やって言う。マミゾウは頷いた。「ほうほう」と天沢老人は目を細めて笑う。
「それじゃあ、あたしもそのうちお願いするかもしれません」
「何か書かれるんですか?」
「いやあ、大したもんじゃあ、ありませんがね」
ふっと遠い目をして、天沢老人は呟くように言った。
「心残りが、ありましてね」
「心残り?」
「いや、年寄りの繰り言ですわ。それじゃあ、失礼しますよ」
踵を返し、天沢老人は傘を取ってひょこひょこと店を出て行く。マミゾウはそれとなく老人の背中を店の入口まで追いかけた。店の前の地面は降りしきる雨にぬかるんで、半歩踏み出したマミゾウの足がはっきりとした跡を土の上に残す。
その足元を見下ろして、マミゾウは、はっと顔を上げた。天沢老人のさした青い番傘が、雨にけぶる里の通りに遠ざかっていく。
「どうしたんですか?」
「――いや、なんでもないさ」
不思議そうにこちらを見上げた小鈴に、マミゾウは小さく首を横に振った。
それから、ぶらりとマミゾウは本棚の方に足を向ける。老人の正体がマミゾウの想像通りだったとしても、だからといってマミゾウにできることは何もない。いずれ、勝手にけりのつく問題なのだろう。――そんなことを思いながら、マミゾウはぼんやり文庫本の棚を眺め、それからいつぞや気になったそこの空白のことを思い出した。前に見たときと同じく、文庫一冊か二冊分の空白が、そこには空いている。確かそこに並んでいた本は――。
「なあ。ここの本は売れちまったのかい?」
「え? ……ええと、ちょっと待ってください」
小鈴が台帳を手に、マミゾウの元に駆け寄ってきた。台帳と背表紙を照らし合わせながら、小鈴はそこの空白を確かめ――「ああ」と頷く。
「そこの二冊は、この前、消えちゃったんです」
「消えた? 紛失したのかい」
「いえ――たまにあるんです、特にこのへんの棚の綺麗な本は。誰も借りてないし売ってもいない、もちろん盗まれたはずもないのに、突然消えてしまうことが」
小鈴は笑って、棚に並んだ文庫本の背表紙を指でなぞる。
「ここに流れ着く外来本は、外の世界で忘れ去られた本ですから。たぶん、外の世界で、その存在を思い出してもらえたんじゃないでしょうか」
「……なるほどのう」
つまりは、外の世界で復刊されたということなのだろう。それは外の世界では喜ぶべきことだろうが、おかげで儂は読めなくなってもうたのう――と思いながら、マミゾウはその棚の空白の隣にある文庫本を手に取り、何気なく表紙を開いて――息を飲んだ。
ああ、そうか――そういうことか。マミゾウは口元を押さえて息を吐き出す。
「どうしたんですか?」
「……なあ、小鈴や。あの天沢って爺さんの下の名前、知っておるかい?」
「天沢さんの? ええと、確か――」
「ひょっとして、かつお、って言うんじゃないかね?」
「――はい、そうです。天沢勝夫さん、のはずですけど……どうして解ったんですか?」
「いや、なに――」
マミゾウは文庫本を棚に戻しながら、ただ曖昧に小鈴に向かって笑いかけた。
「それは、儂のマジックってことにしとこうかのう」
「はあ……」
釈然としない顔で、小鈴は首を傾げた。
◇
それから数ヶ月後。里の奇術ブームも一段落し、鈴奈庵の朗読会にもまた子供たちの姿が戻ってきていた。マミゾウはまた新しい本を売りつけに鈴奈庵に向かっているところだったが、店の前で不意に足を止めた。
店からちょうど、天沢老人が頭を下げながらひょこひょこと姿を現したところだった。その顔には、長年の肩の荷を下ろしたような開放感が溢れている。――ああ、とマミゾウは悟った。それと同時に、マミゾウは思わず、天沢老人を呼び止めていた。
「おおい、天沢さんや――いや」
足を止めた天沢老人に歩み寄って、マミゾウは眼鏡の奥の目を細める。
「上絵師で奇術師のあんたは、厚川昌男さん、と呼んだ方がいいのかね」
マミゾウのその言葉に、老人は目を見開き――そして、いたずらのばれた子供のようにばつの悪そうな顔をして、後頭部をひとつ掻いてみせた。
「いやいや、まさかここで、その名前で呼ばれるとは思いませんでしたわ。こっちではずっと、天沢勝夫の名前で通してたんですがね」
「儂は最近まで外の世界におったからのう。あんたの顔、どこかで見た記憶があると、初めて見たときからずっと気になっとったんだが――天沢勝夫ってのも、あっちの名前と同じく、本名のアナグラムだろう?」
「ええ、お察しの通りです」
里の茶屋。通りに面したベンチで、マミゾウは天沢老人と肩を並べて茶を飲んでいた。
「紋屋で奇術師って時点で、気付くべきだったよ。あんたの本、外の世界で何冊か読んでたのに、すっかり忘れてた。儂も耄碌したもんだ」
「いやいや。あたしの本は、ほとんどあの店に並んでるようですから。上絵師の仕事と同じく、忘れられていくもんだったんでしょう。あたし自身、絵師と物書きを具合よく両立するために、あんまり売れないような本ばかり書いてきましたし。そんなんですが、お嬢さんみたいな綺麗な女性に読んでいただけてたなら、ありがたい話です」
茶をすすりながら、天沢老人は微笑んで言う。「世辞を言っても、何も出ないがね」とマミゾウも笑い返して――そして、老人に向き直った。
「心残りは、片付いたのかい?」
「……ええ。おかげさまで、いや、この世界に慣れるのと、筆で原稿を書くのに慣れるのとに時間がかかって、五年ばかりかかっちまいましたが」
がちゃん、と近くで固いものが割れる音が響いた。振り返ると、近くのテーブルで湯飲みがひとつ床に落ちて割れている。そのテーブルには他にもうふたつの湯飲みが伏せられていて、いびつな毛糸玉が並んでいた。テーブルの主らしい男性が、恥ずかしそうに頭を掻きながら割れた湯飲みの破片を拾い上げている。
おいおいしっかりしろよ、と別の客から野次が飛んだ。どうやらカップ&ボールを湯飲みで実演しようとしてトチったらしい。天沢老人がそれをひどく感慨深げに見つめていることに、マミゾウは気付いた。
「……あたし、ここにやってきたときには、こりゃあ大変なところに来てしまったぞと思ったもんです。何しろ、人が空を飛んで、魔法みたいに光の玉を飛ばすんですから。こんな世界じゃあ、あたしのような奇術師なんぞ、到底お呼びじゃないだろうと思いましてね。幸い、紋屋の仕事にありつけましたから、奇術は封印して、紋屋一本でやっていこうと思ったんです」
「じゃあ、あのとき小鈴に見せたのは」
「いやあ、封印したつもりでも、つい手が動いちまいました」
天沢老人は恥ずかしそうに笑い、「けれど――」と言葉を継いだ。
「不思議なもんですわ。儂にとっちゃ摩訶不思議な、夢のような光景をね。奇術なんかよりずっと不思議なものを見慣れてるはずのこの世界の子供たちが、あたしのカップ&ボールやカードマジックに歓声をあげてくれるんですから」
「そんなもんだろうさ。たとえどれだけ不思議なことを見慣れていても、それまで見たことのない不思議は、誰だってわくわくするもんさね」
「――なるほど、確かにその通りですな」
満足げに、天沢老人が頷く。それから、先ほどのテーブルの方をまた振り向いた。男性は新しい湯飲みを受け取って、それでおぼつかない手つきでカップ&ボールを演じ始めている。素人のマミゾウから見ても危なっかしい演技で、外野からは「タネが見えるぞー」と冗談交じりの野次が飛んでいるが、演じている本人は懸命に湯飲みと毛玉に意識を集中させていた。
「最初は、自分の心残りを晴らせれば、それでいいと思ってましたがね。――ああいうのを見ると、この世界に来て良かったと思うんですよ」
「……そうさね」
マミゾウが頷いたところで、天沢老人はゆっくりと立ち上がった。そして懐から一枚の貨幣を取り出して、マミゾウに差し出す。
「すみませんが、お茶代はこれで払っておいてもらえますかね」
「――ちいっとばかり、足りなくないかい?」
「おっと、これは失敬」
マミゾウの言葉に、老人は笑って、貨幣を手にした手を閃かせる。次の瞬間、貨幣は四枚に増えていた。それを受け取って、「確かに」とマミゾウは頷く。
「それじゃあ、あたしはこれで失礼します。――美人の死神さんは、別にいつまででもここにいていいと言ってくれてるんですが、あたしみたいなのがいつまでもこっちにしがみついてたら、閻魔様に怒られますんでね」
「――そうかい。達者でな」
「ええ、そちらさんもお元気で」
世間話のような軽い口調でそう言い残して、天沢老人はひょこひょこと歩み去っていく。
マミゾウはその背中を、ただ目を細めて見送った。
――老人の歩いていく土の上に、足跡は残らない。
それはあの天沢老人が、最初から亡霊だったことを示している。
この世に残した未練を晴らすために、外来人の振りをして、里で暮らしていたのだろう。
彼がマミゾウの知る人物なら、つまりはそういうことだった。
茶屋を後にして、マミゾウは鈴奈庵へと向かった。
暖簾をくぐると、「あ、いらっしゃいませ」と小鈴が机から顔を上げてマミゾウを迎える。
「なあ、さっきまであの奇術師の爺さんが来てなかったかい?」
「天沢さんですか? ええ、いらしてましたよ。自分で書いた本を置いていかれました」
小鈴が手にしていた本を、ばさりと机の上に置いた。和綴じの拙い製本のその本には、マミゾウのよく知る、外の世界でのあの老人の名前と――その本のタイトルが記されている。
ヨギ ガンジー、最後の妖術――泡坂妻夫・著、と。
文化祭でやったマジックショーを思い出してわくわくしました
失われた言葉が、こうしてどこかにたどり着いて、花開いていますように
それはそうと、完結まで書かれた絶筆、確かに読みたい。
好きだったのにもう永遠に続きが出る事のないあれらは・・・TT
絶筆本が完結した形で存在する。
うごご・・・。またひとつ幻想入りしたい理由が出来ました。
実在の人物を出すというのは結構な冒険だと想うのですが、違和感無く、魅力的なキャラクターとして書かれていて、初めから幻想郷の住人だったようにさえ思えました。幻想郷の住民に違和感無く混じる厚川氏のプロフィールもすごいですね、これを読んでからWikipediaで調べてみて初めて知りました。
ともすれば、幻想郷の成立を考えれば明治や大正の文豪のもあるのかも!
よいお話でした
・・・でも泡坂さんって、ごく自然に幻想郷に居そうですよねw。