今日の稗田の屋敷は大いに慌ただしかった。屋敷に奉公している女中という女中がまるで石を退けたときの虫たちのように慌てふためいていて、それを階段の低いところに座って眺めるのは大変に面白かった。あちらで廊下の水拭きをしているかと思えば、こちらで柱を磨いていたり、向こうで出会い頭の女中たちが荷物を抱えて足踏みをし、近くの障子の影でなにかしらひっくり返したのか悲鳴が上がったり。師走の忙しなさがここにきて頂点に達したようで、あふれ出た女中それぞれの草草が、舞い上げられた埃のように屋敷一杯に充満していた。それを、屋敷の主である私は、頬杖ついて観察していた。
階段の冷たさがお尻に纏わり付いて少々寒かったが、もはやここしか落ち着ける場所がなく、ちょっとした高みの見物といった風情で、それが余計にこの慌ただしさを情緒豊かに味わわせてくれるある種の隠し味として、私の目と耳を肥えさせてくれていた。
や、本当のところを言えば、ある女中に邪魔だからとここに押し上げられたのであるが、言わずとも宜しいことなので、お客人には黙っておくことにした。
「こんな忙しい時期に呼びつけるなんて、お前は本当に暇なのだな」
と言いながら、上白沢慧音教諭はまるで一年放っとかれた鏡餅を見るような哀れんだ眼差しを私へと寄越した。私はふくれた。まだまだ白く柔肌であるし、もちろんかびなど生えていない。
「暇なのは良いことじゃないですか。忙しいより、余程ゆとりと優しさがある」
「女中の方々と同じく、私も年末は忙しいんだ。お前の売れ残った寂しいゆとりとやらに付き合ってやれるのは今日だけだぞ」
ゆとりはあればあるほど良い。上白沢教諭はさっと私の隣に腰掛けた。お尻が冷えるな、と、難しい顔をしていた。
「芯まで冷える前に用件を聞こう」
「うむ、これさ」
懐に手を入れて、私は少しもったいぶってそれをゆっくりと取り出した。上白沢教諭の視線は、掲げた私の手先に注がれた。彼女は束の間だけ口を開けて関心しているふうだったが、すぐに眉を針金のように曲げて訝しげに首を傾げさせた。ついでに両腕を胸の前で固く組んでしまう。
羽箒か。上白沢教諭は少しだけつまらなそうにつぶやいた。
「そう、羽箒。さっき暇つぶしに、ごほん。以前から決めていた倉の整理をしていると、行李の中に茶道具が一式入っていてね、そのどれもが古くさくて別段興味も湧かなかったのだけれど、この羽箒は、ほらこうして傾けると色味が変わって不思議でさ。気に入ったからこれだけ選別したんだ。綺麗でしょ」
私が羽箒を摘まんだ指先で回してやると、その黒色は水面に油が広がるかのようにじんわりと色味を変化させていった。幽かに灰色を滲ませながら艶を帯び、光が透けると端の方が雪山の稜線のように鋭く輝く。全体的に暗色ではあるが、夜の海を眺めるような底知れぬ不安さがあって、それが心惹きつけてやまない。これを見つけたとき、思わず身震いしてしまった。
隣でそれを見つめる上白沢教諭も次第に良く想えてきたのか、こくりこくりと頷いてこちらにさらに寄りかかってくる。やがて肩同士が触れると、私の視界のほとんどが上白沢教諭の後頭部で占められてしまった。
「重い。重いな」
「羽箒は茶道の裏方の道具ではあるが、茶の道が研ぎ澄まされるとともにその存在感が変わっていった道具のひとつだ。他の茶碗や釜などと同じく美しさが重要視されるようになったのだな。この羽箒は、そのとおり、見事なものだ」
「そ、そうでしょう」
身体全部で上白沢教諭を押しやり、私は彼女の言葉によく実った稲穂のように深く頷いた。そうであろうと、まるで自分が羽箒元来の美しさを見出したかのような気持ちになる。
「この美しさ、このまま倉の奥で眠って使われぬのはあまりにももったいない。そこでね、羽箒を羽ペンに出来ないかと想ってさ。里でこれを仕立て直せる職人の人はいらっしゃらないかと、先生を呼んだわけだ。知りませんか」
言った途端、上白沢教諭は目を丸くして私の方へ顔を向けた。そして眉間に皺が急速に集まり、冬の朝方に見られる霜柱のように硬く盛り上がっていた。
「そんな、羽ペンにすることの方がもったいない。この羽箒に込められた想いを無下にしてしまうぞ」
「だって羽箒だと使わないから」
「最初に作られたそのままの形で残しておくからこそ価値があるのではないか。それに、この羽箒がどれだけ大事にされてきたか、分からないだろう」
私は黙って唇を突き出した。上白沢教諭の問いに答えられず、さりとて素直に首肯するにしても癪に障る気がしたのだ。
上白沢教諭は私から羽箒を奪い取ると、なにやらつぶさにそれを観察し、やがて羽軸を指で示しながら突き付けてきた。それがなんともはや急で、すぐ目の前に持ってくるものだから、私は驚いて階段から落ちそうになった。いくら低い段とは言え、尻餅くらいはついてしまいそうである。
「ここを見ろ、ここを」
「なんですかいきなり。どこですか」
「この銘だ。それにその下、使った羽の鳥の名前まで記してある。ただの羽箒でここまで大事にされるというのは大変なことだぞ。さぞ名のある職人による仕事に違いない。美術的にも価値のある工芸品ということだ」
「ふむ。価値があるというと、おいくらくらい」
ばか、と、上白沢教諭は私をなじる。
「銘は、掠れきって全部読めないが、鳥の名前は読める。黒鶴(ナベヅル)だ。遠く大陸から旅してくる渡り鳥だ。私もずっと昔に空を飛んでゆくのを眺めたことがある。その羽根がこんなにも美しいとは想わなかったが、そのことを教えてくれただけでも十分に価値がある」
「なるほど」
「それにな、茶の湯に通ずる茶人たちはこういった羽箒をよくよく愛でたと言われているんだ。ある茶人には、出来上がってくる羽箒を知人に見せたくてたまらないという心情を綴った書状が残っていたり、千利休の弟子である古田織部などは」
「ふるたおりべとは」
「知らないか。織部好み、織部焼きの古田織部だ。その古田織部は黒鶴などを特に愛用し、侘び茶には野雁か黒鶴、と用途を限定するほどのこだわりを持っていたらしい。そういった茶人の心をくすぐり、同じく掃き清めてきた羽箒だ。これを粗末にするのは、やはり気が進まないと想わないか」
そう言って視線を遠ざける上白沢教諭である。私も同じ方向を見た。うちの女中が転んでいた。
「先生がそこまでおっしゃるならそうしましょう。しかし、私には使い道が無いというのは実に惜しい。なんだか悔しい」
「今から茶の湯を始めるか。それとも、また倉に戻して眠らせるか、だな」
指先でくるりと回し、上白沢教諭は羽箒を私に返してくる。そうして彼女はこちらを見遣ってくる。なにかしらを楽しんでいるかのように、腕で抱えた膝に頬を預けて見つめてきた。
上白沢教諭が茶道に明るいことは意外であったがこの際それは放っておくとして。
確かに、そんな話を聞くと羽箒を羽根ペンにするのは気が引けてくる。この羽箒も誰かに愛され、幾度もの茶会を掃き清め、その美しい姿で茶人の目を癒やしてきたと考えると、なにか罪深いことをしようとしているとさえ、想ってしまう。もし羽箒に惹かれた茶人たちに恨まれ、枕元に立たれたらどうしよう。困る。
それだけが理由ではないが、果たして私の気持ちは変わった。
「では、こうしましょう」
悩ましげな上白沢教諭の視線を振り切り、私は階段の低いところから飛び降りた。束の間の浮遊感を終えて足の裏に重い衝撃が響く。私の様子を見とがめたのか、女中のひとりが向こうの障子裏へ微笑みながら消えてゆく。
「この羽箒だけでなく、倉にある茶道具一式、どなたかにお譲りしようかと想います」
背後で上白沢教諭の感嘆とした声が上がる。
「然らば先生、お心当たりを。そして荷物持ちを」
落胆するようなため息が聞こえると同時に、私はお尻を叩かれた。
「茶人なら、おひとりだけ心当たりがあった」
「あった、とは」
「その方は外からの流れ者だったのだが、いつの間にやら人里に居て、そしていつの間にやら、居なくなっていた」
淡々とした口調で上白沢教諭が外套を羽織りながら、言う。私はそのまま玄関から出て行こうとする彼女を、危うく呆けた顔して見送るところだった。私も支度を整え、すぐに後を追いかける。
「これから出かけようというのに、なんでそんな大事なことを今頃言うのです」
「私だって突然呼び出されてなんの準備もしてないんだ、情報としては、これでも上等な方だと想うがな」
茶道具一式が入った行李を不服そうに持ち、上白沢教諭はずんずんと先をゆく。そしてその横顔はどこか悲しそうな色味も含んでいた。
上白沢教諭曰く、その茶人の方は人里に突如として現れ、老若男女分け隔て無く茶の湯を振る舞い、大いにみなの心を潤してまわったそうだ。見立ては初老の男性、しかし性格は緑多き森林のように懐深く、茶の湯をたてているときは研ぎ澄まされし手腕をいかんなく発揮し、しかし変に偉ぶる気もなく、ひとの話をよく聞き、そして自らもよく話す、明朗な人物であったようだ。上白沢教諭が茶の湯に明るいのはその方の影響があると、照れくさそうに語った。
「本当に不思議なおひとだった。聞き上手というのはああいったひとを言うのだろうな、それでいて私も色々なことを聞けたから、話し上手でもあった。茶の湯をごちそうになるたびに自分の気持ちが軽くなっていくのが分かるんだ。普段の生活からはそうそう味わえない、貴重な体験をさせていただいたものだよ」
「私にはその方の記憶はないです」
「阿求が生まれる前のことだ。僅かな期間だけだったのに多くのことをお話ししたな」
その頃を想い出しているのだろうか、懐かしそうに下へ目を伏せる上白沢教諭の口元は緩く丸くなっていた。
「お名前を聞いてはいないのですか」
「ああ。残念なことにそれだけは最後までお話ししてはくださらなかった。私たちもよもや居なくなりはすまいと想っていたから、聞きそびれてしまった。しかし呼び名が無ければ不便であるし、みんな鶴さん、鶴さんと愛称をつけて呼んでいたよ」
「鶴さん、ですね。どうしてそのような呼び名が」
「うむ」
それは鶴さんが住んでいた家を見れば分かる。上白沢教諭はそう言って私をその家に案内してくれた。
場所は人里の北側、こんもりとそこだけ林が茂る一帯に、埋もれるようにして家が建っていた。元来は夏場の避暑地として建てられたものだったが、持ち主が亡くなって管理も手が届かずに捨て置かれたところを、流れてきた鶴さんがちょうど良いとして住み始めたらしい。なんでも、侘び寂びに通ずるとして。
最初は里の気の良い者たちが幾人かで家の補強をし、お礼に振る舞った茶の湯が素晴らしかったと人気が出た。そこから、鶴さんの噂が広まってゆくことになる。なんともはや、流行り物を好む人里の癖が良き方向に出たようだ。
「茶の湯とは、ひたすらに飲むにかぎる。鶴さんはそうおっしゃっていたものだ。その言葉の意味するところを私たちは茶会の席で顔を見合わせながら考えたが、鶴さんご自身は、それを微笑みながら眺めてらっしゃったよ。そしてせっせと茶の湯をたてていた」
「先生は鶴さんがおっしゃった意味を?」
「分かったような、分からないような、だな。正直なところ、私は知識だけで茶の湯の心は薄氷の部分しか理解していない気がするよ。その下に泳ぐ色鮮やかで様々なものをきっと鶴さんはお話ししてくださっていたはずなのだが、陰が泳いでいる程度にしか私には見えなかった」
苦笑いをかぶせつつ、上白沢教諭は鶴さんが住んでいた家の引き戸を開けた。人が住んでいない場所特有の、空っ風のような静けさが身体をすり抜けて外へ逃げていった。暗がりに糸が垂れていると想い、そちらを見遣った。上白沢教諭は糸に向かって進むとそれに手をかけて一気に左右へと広げた。そこは窓であった。格子の隙間から、今度は整然とした外の光が木の床に並んで焼き付いている。
明るくなった家の中は荒れているふうでもなく、すぐにでもひとが住めるほど整理整頓、掃除もされていてよほど私の部屋の方が散らかっている気がする。鶴さんが居なくなってからも里の者たちが管理をしていたのであろう、玄関の外も中も、きれいなものだった。
「私が住んでしまいたいくらいですね」
「ふふふ。でもだめだぞ、鶴さんがいつ戻ってもいいように里の者たちが交代で掃除しているんだから」
「わかります。やはりとても慕われていたのですね、鶴さんは」
上白沢教諭は静かに頷くと、右手を畳に触れさせてさらに語った。
「実はいまでもみんなで茶の湯を交わす催しを続けているんだ。鶴さんが居なくなってもう二十年近いが、それでもちゃんと集まってくれる。ありがたいことだ」
悲しんでいるふうな、しかしちゃんと聞くとどこか優しさにあふれた言い方であった。鶴さんを偲ぶというよりも、いま居る者に感謝しているからこその言葉だからであろう。
上白沢教諭だって、誰かから慕われることが多いと想われる。それは職業柄もそうであるが、その人柄が、その物腰が、その性格が多くの者たちに好感として受け取られているからである。上白沢教諭は、それを意識せずに発揮させている。持って生まれた才能であると言えよう。
では鶴さんはどうだったのだろうか。いま現在から見るに、確かに鶴さんも慕われている。これは誰の目にも明らかだし、覆されぬ人々の想いというものであろう。
それなのに、どうして鶴さんは居なくなったのだろうか。
この平和なご時世、妖怪に襲われたなどということはないだろうし、ましてや人里が嫌になったなんてこともなかろう。こればかりはご本人に聞かねば分からぬことだ。否、たとえご本人に、鶴さんに直に問うたとしても果たして真実が聞けるかどうか。誰にも言わず、誰にも知られず。上白沢教諭など残される者たちに、そういった質問をされたくないからとった行動なのである。分からなくもない。
どうして居なくなるのか、などと聞かれても、そうしたいからとしか答えようがない気がする。細かい差異や理由はあるとしても、結局の行動として居なくなるということになるのだから、本人がしたいことは居なくなることなのだろう。正確であるし、分かりやすい。しかしそれを正直素直に答えてやれば、途端に批難の声がそこかしこから上がり、四面楚歌の風情となる。こうなってしまっては健康的に居なくなることなど不可能に近い。そこはかとない見張りの眼差しに付き纏われ、常に誰かが付いてくるようになったあげくに本願である居なくなることを成就出来なくなってしまう。だから言わない。居なくなりたいなどとは決して言わずに居なくなるのだ。
ここまで考えて誠身勝手、我が儘三昧の利己主義の不幸者と想う真摯な方も多くいらっしゃることだろう。それはその通りで、ぐうの音も出ない正論である。既述の言わない理由の中に、この正論によって完膚なきまでに屈服を強いられるからということも付け足しておきたいほどに道理に適っている。居なくなるということの罪深さは何事にも代えがたい。それだけ幸せの余分があるということでもある。誰かに心配されるという幸せである。
「鶴さんは、きっと、居なくなるために幻想郷に来たのではないのでしょうか」
猫だましをもらったような驚きの表情のすぐ後に、今度は少し怒ったような眉の上げ方で上白沢教諭は私に詰め寄ってきた。私としても怒られるのを覚悟して言ったのだが、さすがに平生の条件反射からか、多少なりとも生まれる恐れが首筋を強ばらせる。怖じ気づきながらも、私は上白沢教諭に、言う。
「いや、その。ここに来たのはもしかしたらやんごとない理由があったからかもしれないけれど、ここから居なくなったのにもやはり理由があるはずだし、それを残ったひとびとが深く考えすぎるのは、どうにも精神に良くない気がします」
上白沢教諭は考えているふうに眉をひそめ、そしてしばらくしてその眉を解き、
「理由が分かれば誰も心配などしない。阿求、お前は鶴さんが居なくなった理由が分かるのか」
「鶴さんの気持ちが分かろうはずはありません。お目にかかったこともないのに。しかし分かったところで先生や皆さんの心配が静まることもないでしょう」
「お前がなにを言おうとしているのかも分かりづらい」
「ふむ」
私は少しだけ間を置いてから、
「鶴さんの目的、それはやはり私にも完全に理解出来ることはないと想う。想うけれど、もしかしたらと考えることがあります」
「それはなんだ。言ってほしい」
「ある目的のために鶴さんが行った手段が『居なくなる』ことで、その目的がいま成就されているのだとしたら、鶴さんはもう戻ってはこないでしょう。鶴さんには鶴さんの願いとやり方があった。それは自らが居なくとも、みなの中に茶の湯の心が残り続けること。先生や茶会に集まる人々がすでに実践なさっていることです」
言の葉をひねり出して話す私を、上白沢教諭はくっきりとした眼差しで見つめてくる。
「や、私も浅薄な知識ではありますが。茶の湯の心とは、もてなしの心だと、先生のお話を聞いていて想いました。門戸を開いて迎える茶会で言葉を交わし心を交わす行いは、そのとおり器の大きさに、優しさに繋がる気がします。茶の湯とはひたすらに飲むにかぎるとは、鶴さん自身のお言葉なのでしょう。飲み交わした言葉と心に、そのすべてが込められているのではないでしょうか。私はそれを知りませんから、大変に残念です」
うんうんと頷きながら語りを終えて私は座敷の畳へと目を転じた。少しだけ色褪せたい草が、外からの陽光にそよぐようにして息をしていた。本当に手が行き届いている。これも茶の湯の心、もてなしの心の成せることなのだろう。
上白沢教諭も黙ったまま私の視線をたどったようで、もてなす心か、と、い草の色味をその瞳にたたえていた。なにかしら分かったことがあるのだろう。
私もなんだか分かったような気がしてくるから不思議である。ふむ。
「ん、ところで鶴さん、茶道具の一式はすでにお持ちだったのでは」
「そうだ。それがどうした」
どうしたとか言っちゃうのか。
「どうしたもこうしたもないです。私は私の茶道具一式を寄贈するためにですね」
「運んだのは私だがな」
「いまはそんなことを問題にしているのではないのです」
私はてっきり、鶴さんに差し上げるのだとばっかり想っていたのに、上白沢教諭の言からしてどうやらそうではないらしい。それを軽く、あっけなく伝えてくるものだから、私がここに来た意味合いが急に薄くなって、出涸らしのような気持ちになってしまう。暗がりの残滓がこびり付く、人気の薄まったこの家の空気に溶けてしまいそう。
「あ、もしや他のどなたかが欲しがっているとか」
「ああいや、茶会にご出席される方々も一通り持っていてな。その心配はない」
ならばどうして。そう問いただそうと私が前のめりになると同時に、上白沢教諭はいそいそと家の奥に進んでゆく。後を追えば、そこは囲炉裏の備わった茶室で、拵えられた引き戸の中から彼女は茶道具を取り出している。なるほどこれらが鶴さんの茶道具かと眺めていると、なにかが足りない、と想えた。
「こちらが鶴さんの茶道具なのですか」
「そうだ」
「羽箒、が無いようですね」
実はな、と上白沢教諭は難しそうな顔のわりに軽く断りをしてから、
「鶴さんの残した羽箒、つい先日付喪神になってどこかへ行ってしまったんだ」
「はあ」
飼い主ならぬ持ち主に似たというところだろうか。
「雪のように真っ白なタンチョウの風切り羽を使っていてな、見事なものだったのに」
「はあ」
「鶴さんが戻ってきたときに残念がらないよう、そのナベヅルの羽箒を代わりに置いておこうと想って」
「はあ」
もうなんだか、どうでもよくなってきたので、いっそのこと茶道具ももう一式置いておけと、私はいい加減に引き戸の中にそれを押し込んだ。戻ったときの鶴さんには悪いがこういうときは、情けをかけずに一等いい加減にやってしまった方が後先考えなくて良いの由。
丁寧にやれよ、と上白沢教諭の片付け直している後ろ姿を見ながら、ふと想った。
「タンチョウの羽箒をお持ちになっていたから、鶴さん」
そうだろう、そうに違いないと私は持てる限りの自負心で威張ってみた。なるほど鶴さんという愛称に相応しい物持ちである。しかし実際は違ったようで、上白沢教諭の鼻で笑う声で我に帰る。
「違う違う。それが愛称の名付け理由じゃあない。見せてやろう」
引き戸を閉めた上白沢教諭は急に私の腕を掴み、外へと引っ張っていく。そうして傾きかけたお日様の下まで来ると、刹那の笑顔ののち素早い動きで私を羽交い締め、そのまま上空へと浮き上がる。
「ふひゃああ」
つい出てしまう悲鳴とも動転とも取れる声を寒い空気にさらしながら、私は軽く両足を突っ張らせた。伸びきったつま先によく知った地面の感触は無く、袴の隙間をかいくぐった師走の空気が、ふてぶてしく私の膝小僧を撫でてゆく。
な、なんだとて。
「先生、先生。どういうことです、なにをどうして」
「あんまり暴れるな。鶴さんの愛称の元を見せてやろうというんだ。ほら、下だ」
言われて私も眼下を見る。震える視界に、鶴がいた。
「あの家を囲んでいる林。地面から見上げるとなんの変哲も無いが、それをこうして上から見下ろすと、鶴の姿に見えるんだ。それをご本人がおっしゃられて、だから鶴さんとみんな呼んだわけだ」
上白沢教諭が言うとおり、林は南北へと翼を広げ、くちばしを南東に刺すようにした鶴の姿が、そこにあった。大きく優雅に空を舞う鶴、それがちょうど着地するような風情で、私は想わず感嘆とした声を出す。
「合点が、いきました」
冷たい風が鼻っ柱になかなか辛い。しかしそれすら放っておくくらい見入ってしまう。鶴さんもこの同じ光景を見ていたのだとしたら、それを考えただけで、逢ったこともないのに身近に感じてしまう。不思議な感覚、共感というもてなしを受け取ってしまった。
暫く、上白沢教諭とともに、ほろほろとした気持ちをしながら鶴の姿、果ては幻想郷の、人里の景色を眺める。普段感じる暢気さとはまた違った種類の暢気さ。
まるで、一服たててもらったかのよう。
心が緩やかに動いているの感じている最中、ぴんと癖っ毛が跳ねるように気づいたことがあった。
「あん。あれ、おかしくないですか」
「なんだなにがだ」
「鶴さんはこの光景を知っていらっしゃったのですよね」
「そうらしい。私だって鶴さんに教えてもらうまで気づかなかったしな」
「じゃあやはり変です。どのようにして鶴さんはこの景色をご覧になったのでしょう」
「あん」
鶴さん、本当にただの人間だったのであろうか。
「せ、先生。鶴さんはきっとそのうちに帰ってきますよ」
「私もそんな気がしてきた」
ひとしきり笑ったあと、私たちは鶴さんの家を掃除してから別れた。
屋敷に戻って正月を迎えねばならない。
・
・
・
お正月三が日が終わってすぐ、今度はあのナベヅルの羽箒が付喪神になってどこぞに消えたという噂を耳にした。人里は様々な噂で溢れているらしい。
「もう、知らぬよ」
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階段の冷たさがお尻に纏わり付いて少々寒かったが、もはやここしか落ち着ける場所がなく、ちょっとした高みの見物といった風情で、それが余計にこの慌ただしさを情緒豊かに味わわせてくれるある種の隠し味として、私の目と耳を肥えさせてくれていた。
や、本当のところを言えば、ある女中に邪魔だからとここに押し上げられたのであるが、言わずとも宜しいことなので、お客人には黙っておくことにした。
「こんな忙しい時期に呼びつけるなんて、お前は本当に暇なのだな」
と言いながら、上白沢慧音教諭はまるで一年放っとかれた鏡餅を見るような哀れんだ眼差しを私へと寄越した。私はふくれた。まだまだ白く柔肌であるし、もちろんかびなど生えていない。
「暇なのは良いことじゃないですか。忙しいより、余程ゆとりと優しさがある」
「女中の方々と同じく、私も年末は忙しいんだ。お前の売れ残った寂しいゆとりとやらに付き合ってやれるのは今日だけだぞ」
ゆとりはあればあるほど良い。上白沢教諭はさっと私の隣に腰掛けた。お尻が冷えるな、と、難しい顔をしていた。
「芯まで冷える前に用件を聞こう」
「うむ、これさ」
懐に手を入れて、私は少しもったいぶってそれをゆっくりと取り出した。上白沢教諭の視線は、掲げた私の手先に注がれた。彼女は束の間だけ口を開けて関心しているふうだったが、すぐに眉を針金のように曲げて訝しげに首を傾げさせた。ついでに両腕を胸の前で固く組んでしまう。
羽箒か。上白沢教諭は少しだけつまらなそうにつぶやいた。
「そう、羽箒。さっき暇つぶしに、ごほん。以前から決めていた倉の整理をしていると、行李の中に茶道具が一式入っていてね、そのどれもが古くさくて別段興味も湧かなかったのだけれど、この羽箒は、ほらこうして傾けると色味が変わって不思議でさ。気に入ったからこれだけ選別したんだ。綺麗でしょ」
私が羽箒を摘まんだ指先で回してやると、その黒色は水面に油が広がるかのようにじんわりと色味を変化させていった。幽かに灰色を滲ませながら艶を帯び、光が透けると端の方が雪山の稜線のように鋭く輝く。全体的に暗色ではあるが、夜の海を眺めるような底知れぬ不安さがあって、それが心惹きつけてやまない。これを見つけたとき、思わず身震いしてしまった。
隣でそれを見つめる上白沢教諭も次第に良く想えてきたのか、こくりこくりと頷いてこちらにさらに寄りかかってくる。やがて肩同士が触れると、私の視界のほとんどが上白沢教諭の後頭部で占められてしまった。
「重い。重いな」
「羽箒は茶道の裏方の道具ではあるが、茶の道が研ぎ澄まされるとともにその存在感が変わっていった道具のひとつだ。他の茶碗や釜などと同じく美しさが重要視されるようになったのだな。この羽箒は、そのとおり、見事なものだ」
「そ、そうでしょう」
身体全部で上白沢教諭を押しやり、私は彼女の言葉によく実った稲穂のように深く頷いた。そうであろうと、まるで自分が羽箒元来の美しさを見出したかのような気持ちになる。
「この美しさ、このまま倉の奥で眠って使われぬのはあまりにももったいない。そこでね、羽箒を羽ペンに出来ないかと想ってさ。里でこれを仕立て直せる職人の人はいらっしゃらないかと、先生を呼んだわけだ。知りませんか」
言った途端、上白沢教諭は目を丸くして私の方へ顔を向けた。そして眉間に皺が急速に集まり、冬の朝方に見られる霜柱のように硬く盛り上がっていた。
「そんな、羽ペンにすることの方がもったいない。この羽箒に込められた想いを無下にしてしまうぞ」
「だって羽箒だと使わないから」
「最初に作られたそのままの形で残しておくからこそ価値があるのではないか。それに、この羽箒がどれだけ大事にされてきたか、分からないだろう」
私は黙って唇を突き出した。上白沢教諭の問いに答えられず、さりとて素直に首肯するにしても癪に障る気がしたのだ。
上白沢教諭は私から羽箒を奪い取ると、なにやらつぶさにそれを観察し、やがて羽軸を指で示しながら突き付けてきた。それがなんともはや急で、すぐ目の前に持ってくるものだから、私は驚いて階段から落ちそうになった。いくら低い段とは言え、尻餅くらいはついてしまいそうである。
「ここを見ろ、ここを」
「なんですかいきなり。どこですか」
「この銘だ。それにその下、使った羽の鳥の名前まで記してある。ただの羽箒でここまで大事にされるというのは大変なことだぞ。さぞ名のある職人による仕事に違いない。美術的にも価値のある工芸品ということだ」
「ふむ。価値があるというと、おいくらくらい」
ばか、と、上白沢教諭は私をなじる。
「銘は、掠れきって全部読めないが、鳥の名前は読める。黒鶴(ナベヅル)だ。遠く大陸から旅してくる渡り鳥だ。私もずっと昔に空を飛んでゆくのを眺めたことがある。その羽根がこんなにも美しいとは想わなかったが、そのことを教えてくれただけでも十分に価値がある」
「なるほど」
「それにな、茶の湯に通ずる茶人たちはこういった羽箒をよくよく愛でたと言われているんだ。ある茶人には、出来上がってくる羽箒を知人に見せたくてたまらないという心情を綴った書状が残っていたり、千利休の弟子である古田織部などは」
「ふるたおりべとは」
「知らないか。織部好み、織部焼きの古田織部だ。その古田織部は黒鶴などを特に愛用し、侘び茶には野雁か黒鶴、と用途を限定するほどのこだわりを持っていたらしい。そういった茶人の心をくすぐり、同じく掃き清めてきた羽箒だ。これを粗末にするのは、やはり気が進まないと想わないか」
そう言って視線を遠ざける上白沢教諭である。私も同じ方向を見た。うちの女中が転んでいた。
「先生がそこまでおっしゃるならそうしましょう。しかし、私には使い道が無いというのは実に惜しい。なんだか悔しい」
「今から茶の湯を始めるか。それとも、また倉に戻して眠らせるか、だな」
指先でくるりと回し、上白沢教諭は羽箒を私に返してくる。そうして彼女はこちらを見遣ってくる。なにかしらを楽しんでいるかのように、腕で抱えた膝に頬を預けて見つめてきた。
上白沢教諭が茶道に明るいことは意外であったがこの際それは放っておくとして。
確かに、そんな話を聞くと羽箒を羽根ペンにするのは気が引けてくる。この羽箒も誰かに愛され、幾度もの茶会を掃き清め、その美しい姿で茶人の目を癒やしてきたと考えると、なにか罪深いことをしようとしているとさえ、想ってしまう。もし羽箒に惹かれた茶人たちに恨まれ、枕元に立たれたらどうしよう。困る。
それだけが理由ではないが、果たして私の気持ちは変わった。
「では、こうしましょう」
悩ましげな上白沢教諭の視線を振り切り、私は階段の低いところから飛び降りた。束の間の浮遊感を終えて足の裏に重い衝撃が響く。私の様子を見とがめたのか、女中のひとりが向こうの障子裏へ微笑みながら消えてゆく。
「この羽箒だけでなく、倉にある茶道具一式、どなたかにお譲りしようかと想います」
背後で上白沢教諭の感嘆とした声が上がる。
「然らば先生、お心当たりを。そして荷物持ちを」
落胆するようなため息が聞こえると同時に、私はお尻を叩かれた。
「茶人なら、おひとりだけ心当たりがあった」
「あった、とは」
「その方は外からの流れ者だったのだが、いつの間にやら人里に居て、そしていつの間にやら、居なくなっていた」
淡々とした口調で上白沢教諭が外套を羽織りながら、言う。私はそのまま玄関から出て行こうとする彼女を、危うく呆けた顔して見送るところだった。私も支度を整え、すぐに後を追いかける。
「これから出かけようというのに、なんでそんな大事なことを今頃言うのです」
「私だって突然呼び出されてなんの準備もしてないんだ、情報としては、これでも上等な方だと想うがな」
茶道具一式が入った行李を不服そうに持ち、上白沢教諭はずんずんと先をゆく。そしてその横顔はどこか悲しそうな色味も含んでいた。
上白沢教諭曰く、その茶人の方は人里に突如として現れ、老若男女分け隔て無く茶の湯を振る舞い、大いにみなの心を潤してまわったそうだ。見立ては初老の男性、しかし性格は緑多き森林のように懐深く、茶の湯をたてているときは研ぎ澄まされし手腕をいかんなく発揮し、しかし変に偉ぶる気もなく、ひとの話をよく聞き、そして自らもよく話す、明朗な人物であったようだ。上白沢教諭が茶の湯に明るいのはその方の影響があると、照れくさそうに語った。
「本当に不思議なおひとだった。聞き上手というのはああいったひとを言うのだろうな、それでいて私も色々なことを聞けたから、話し上手でもあった。茶の湯をごちそうになるたびに自分の気持ちが軽くなっていくのが分かるんだ。普段の生活からはそうそう味わえない、貴重な体験をさせていただいたものだよ」
「私にはその方の記憶はないです」
「阿求が生まれる前のことだ。僅かな期間だけだったのに多くのことをお話ししたな」
その頃を想い出しているのだろうか、懐かしそうに下へ目を伏せる上白沢教諭の口元は緩く丸くなっていた。
「お名前を聞いてはいないのですか」
「ああ。残念なことにそれだけは最後までお話ししてはくださらなかった。私たちもよもや居なくなりはすまいと想っていたから、聞きそびれてしまった。しかし呼び名が無ければ不便であるし、みんな鶴さん、鶴さんと愛称をつけて呼んでいたよ」
「鶴さん、ですね。どうしてそのような呼び名が」
「うむ」
それは鶴さんが住んでいた家を見れば分かる。上白沢教諭はそう言って私をその家に案内してくれた。
場所は人里の北側、こんもりとそこだけ林が茂る一帯に、埋もれるようにして家が建っていた。元来は夏場の避暑地として建てられたものだったが、持ち主が亡くなって管理も手が届かずに捨て置かれたところを、流れてきた鶴さんがちょうど良いとして住み始めたらしい。なんでも、侘び寂びに通ずるとして。
最初は里の気の良い者たちが幾人かで家の補強をし、お礼に振る舞った茶の湯が素晴らしかったと人気が出た。そこから、鶴さんの噂が広まってゆくことになる。なんともはや、流行り物を好む人里の癖が良き方向に出たようだ。
「茶の湯とは、ひたすらに飲むにかぎる。鶴さんはそうおっしゃっていたものだ。その言葉の意味するところを私たちは茶会の席で顔を見合わせながら考えたが、鶴さんご自身は、それを微笑みながら眺めてらっしゃったよ。そしてせっせと茶の湯をたてていた」
「先生は鶴さんがおっしゃった意味を?」
「分かったような、分からないような、だな。正直なところ、私は知識だけで茶の湯の心は薄氷の部分しか理解していない気がするよ。その下に泳ぐ色鮮やかで様々なものをきっと鶴さんはお話ししてくださっていたはずなのだが、陰が泳いでいる程度にしか私には見えなかった」
苦笑いをかぶせつつ、上白沢教諭は鶴さんが住んでいた家の引き戸を開けた。人が住んでいない場所特有の、空っ風のような静けさが身体をすり抜けて外へ逃げていった。暗がりに糸が垂れていると想い、そちらを見遣った。上白沢教諭は糸に向かって進むとそれに手をかけて一気に左右へと広げた。そこは窓であった。格子の隙間から、今度は整然とした外の光が木の床に並んで焼き付いている。
明るくなった家の中は荒れているふうでもなく、すぐにでもひとが住めるほど整理整頓、掃除もされていてよほど私の部屋の方が散らかっている気がする。鶴さんが居なくなってからも里の者たちが管理をしていたのであろう、玄関の外も中も、きれいなものだった。
「私が住んでしまいたいくらいですね」
「ふふふ。でもだめだぞ、鶴さんがいつ戻ってもいいように里の者たちが交代で掃除しているんだから」
「わかります。やはりとても慕われていたのですね、鶴さんは」
上白沢教諭は静かに頷くと、右手を畳に触れさせてさらに語った。
「実はいまでもみんなで茶の湯を交わす催しを続けているんだ。鶴さんが居なくなってもう二十年近いが、それでもちゃんと集まってくれる。ありがたいことだ」
悲しんでいるふうな、しかしちゃんと聞くとどこか優しさにあふれた言い方であった。鶴さんを偲ぶというよりも、いま居る者に感謝しているからこその言葉だからであろう。
上白沢教諭だって、誰かから慕われることが多いと想われる。それは職業柄もそうであるが、その人柄が、その物腰が、その性格が多くの者たちに好感として受け取られているからである。上白沢教諭は、それを意識せずに発揮させている。持って生まれた才能であると言えよう。
では鶴さんはどうだったのだろうか。いま現在から見るに、確かに鶴さんも慕われている。これは誰の目にも明らかだし、覆されぬ人々の想いというものであろう。
それなのに、どうして鶴さんは居なくなったのだろうか。
この平和なご時世、妖怪に襲われたなどということはないだろうし、ましてや人里が嫌になったなんてこともなかろう。こればかりはご本人に聞かねば分からぬことだ。否、たとえご本人に、鶴さんに直に問うたとしても果たして真実が聞けるかどうか。誰にも言わず、誰にも知られず。上白沢教諭など残される者たちに、そういった質問をされたくないからとった行動なのである。分からなくもない。
どうして居なくなるのか、などと聞かれても、そうしたいからとしか答えようがない気がする。細かい差異や理由はあるとしても、結局の行動として居なくなるということになるのだから、本人がしたいことは居なくなることなのだろう。正確であるし、分かりやすい。しかしそれを正直素直に答えてやれば、途端に批難の声がそこかしこから上がり、四面楚歌の風情となる。こうなってしまっては健康的に居なくなることなど不可能に近い。そこはかとない見張りの眼差しに付き纏われ、常に誰かが付いてくるようになったあげくに本願である居なくなることを成就出来なくなってしまう。だから言わない。居なくなりたいなどとは決して言わずに居なくなるのだ。
ここまで考えて誠身勝手、我が儘三昧の利己主義の不幸者と想う真摯な方も多くいらっしゃることだろう。それはその通りで、ぐうの音も出ない正論である。既述の言わない理由の中に、この正論によって完膚なきまでに屈服を強いられるからということも付け足しておきたいほどに道理に適っている。居なくなるということの罪深さは何事にも代えがたい。それだけ幸せの余分があるということでもある。誰かに心配されるという幸せである。
「鶴さんは、きっと、居なくなるために幻想郷に来たのではないのでしょうか」
猫だましをもらったような驚きの表情のすぐ後に、今度は少し怒ったような眉の上げ方で上白沢教諭は私に詰め寄ってきた。私としても怒られるのを覚悟して言ったのだが、さすがに平生の条件反射からか、多少なりとも生まれる恐れが首筋を強ばらせる。怖じ気づきながらも、私は上白沢教諭に、言う。
「いや、その。ここに来たのはもしかしたらやんごとない理由があったからかもしれないけれど、ここから居なくなったのにもやはり理由があるはずだし、それを残ったひとびとが深く考えすぎるのは、どうにも精神に良くない気がします」
上白沢教諭は考えているふうに眉をひそめ、そしてしばらくしてその眉を解き、
「理由が分かれば誰も心配などしない。阿求、お前は鶴さんが居なくなった理由が分かるのか」
「鶴さんの気持ちが分かろうはずはありません。お目にかかったこともないのに。しかし分かったところで先生や皆さんの心配が静まることもないでしょう」
「お前がなにを言おうとしているのかも分かりづらい」
「ふむ」
私は少しだけ間を置いてから、
「鶴さんの目的、それはやはり私にも完全に理解出来ることはないと想う。想うけれど、もしかしたらと考えることがあります」
「それはなんだ。言ってほしい」
「ある目的のために鶴さんが行った手段が『居なくなる』ことで、その目的がいま成就されているのだとしたら、鶴さんはもう戻ってはこないでしょう。鶴さんには鶴さんの願いとやり方があった。それは自らが居なくとも、みなの中に茶の湯の心が残り続けること。先生や茶会に集まる人々がすでに実践なさっていることです」
言の葉をひねり出して話す私を、上白沢教諭はくっきりとした眼差しで見つめてくる。
「や、私も浅薄な知識ではありますが。茶の湯の心とは、もてなしの心だと、先生のお話を聞いていて想いました。門戸を開いて迎える茶会で言葉を交わし心を交わす行いは、そのとおり器の大きさに、優しさに繋がる気がします。茶の湯とはひたすらに飲むにかぎるとは、鶴さん自身のお言葉なのでしょう。飲み交わした言葉と心に、そのすべてが込められているのではないでしょうか。私はそれを知りませんから、大変に残念です」
うんうんと頷きながら語りを終えて私は座敷の畳へと目を転じた。少しだけ色褪せたい草が、外からの陽光にそよぐようにして息をしていた。本当に手が行き届いている。これも茶の湯の心、もてなしの心の成せることなのだろう。
上白沢教諭も黙ったまま私の視線をたどったようで、もてなす心か、と、い草の色味をその瞳にたたえていた。なにかしら分かったことがあるのだろう。
私もなんだか分かったような気がしてくるから不思議である。ふむ。
「ん、ところで鶴さん、茶道具の一式はすでにお持ちだったのでは」
「そうだ。それがどうした」
どうしたとか言っちゃうのか。
「どうしたもこうしたもないです。私は私の茶道具一式を寄贈するためにですね」
「運んだのは私だがな」
「いまはそんなことを問題にしているのではないのです」
私はてっきり、鶴さんに差し上げるのだとばっかり想っていたのに、上白沢教諭の言からしてどうやらそうではないらしい。それを軽く、あっけなく伝えてくるものだから、私がここに来た意味合いが急に薄くなって、出涸らしのような気持ちになってしまう。暗がりの残滓がこびり付く、人気の薄まったこの家の空気に溶けてしまいそう。
「あ、もしや他のどなたかが欲しがっているとか」
「ああいや、茶会にご出席される方々も一通り持っていてな。その心配はない」
ならばどうして。そう問いただそうと私が前のめりになると同時に、上白沢教諭はいそいそと家の奥に進んでゆく。後を追えば、そこは囲炉裏の備わった茶室で、拵えられた引き戸の中から彼女は茶道具を取り出している。なるほどこれらが鶴さんの茶道具かと眺めていると、なにかが足りない、と想えた。
「こちらが鶴さんの茶道具なのですか」
「そうだ」
「羽箒、が無いようですね」
実はな、と上白沢教諭は難しそうな顔のわりに軽く断りをしてから、
「鶴さんの残した羽箒、つい先日付喪神になってどこかへ行ってしまったんだ」
「はあ」
飼い主ならぬ持ち主に似たというところだろうか。
「雪のように真っ白なタンチョウの風切り羽を使っていてな、見事なものだったのに」
「はあ」
「鶴さんが戻ってきたときに残念がらないよう、そのナベヅルの羽箒を代わりに置いておこうと想って」
「はあ」
もうなんだか、どうでもよくなってきたので、いっそのこと茶道具ももう一式置いておけと、私はいい加減に引き戸の中にそれを押し込んだ。戻ったときの鶴さんには悪いがこういうときは、情けをかけずに一等いい加減にやってしまった方が後先考えなくて良いの由。
丁寧にやれよ、と上白沢教諭の片付け直している後ろ姿を見ながら、ふと想った。
「タンチョウの羽箒をお持ちになっていたから、鶴さん」
そうだろう、そうに違いないと私は持てる限りの自負心で威張ってみた。なるほど鶴さんという愛称に相応しい物持ちである。しかし実際は違ったようで、上白沢教諭の鼻で笑う声で我に帰る。
「違う違う。それが愛称の名付け理由じゃあない。見せてやろう」
引き戸を閉めた上白沢教諭は急に私の腕を掴み、外へと引っ張っていく。そうして傾きかけたお日様の下まで来ると、刹那の笑顔ののち素早い動きで私を羽交い締め、そのまま上空へと浮き上がる。
「ふひゃああ」
つい出てしまう悲鳴とも動転とも取れる声を寒い空気にさらしながら、私は軽く両足を突っ張らせた。伸びきったつま先によく知った地面の感触は無く、袴の隙間をかいくぐった師走の空気が、ふてぶてしく私の膝小僧を撫でてゆく。
な、なんだとて。
「先生、先生。どういうことです、なにをどうして」
「あんまり暴れるな。鶴さんの愛称の元を見せてやろうというんだ。ほら、下だ」
言われて私も眼下を見る。震える視界に、鶴がいた。
「あの家を囲んでいる林。地面から見上げるとなんの変哲も無いが、それをこうして上から見下ろすと、鶴の姿に見えるんだ。それをご本人がおっしゃられて、だから鶴さんとみんな呼んだわけだ」
上白沢教諭が言うとおり、林は南北へと翼を広げ、くちばしを南東に刺すようにした鶴の姿が、そこにあった。大きく優雅に空を舞う鶴、それがちょうど着地するような風情で、私は想わず感嘆とした声を出す。
「合点が、いきました」
冷たい風が鼻っ柱になかなか辛い。しかしそれすら放っておくくらい見入ってしまう。鶴さんもこの同じ光景を見ていたのだとしたら、それを考えただけで、逢ったこともないのに身近に感じてしまう。不思議な感覚、共感というもてなしを受け取ってしまった。
暫く、上白沢教諭とともに、ほろほろとした気持ちをしながら鶴の姿、果ては幻想郷の、人里の景色を眺める。普段感じる暢気さとはまた違った種類の暢気さ。
まるで、一服たててもらったかのよう。
心が緩やかに動いているの感じている最中、ぴんと癖っ毛が跳ねるように気づいたことがあった。
「あん。あれ、おかしくないですか」
「なんだなにがだ」
「鶴さんはこの光景を知っていらっしゃったのですよね」
「そうらしい。私だって鶴さんに教えてもらうまで気づかなかったしな」
「じゃあやはり変です。どのようにして鶴さんはこの景色をご覧になったのでしょう」
「あん」
鶴さん、本当にただの人間だったのであろうか。
「せ、先生。鶴さんはきっとそのうちに帰ってきますよ」
「私もそんな気がしてきた」
ひとしきり笑ったあと、私たちは鶴さんの家を掃除してから別れた。
屋敷に戻って正月を迎えねばならない。
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お正月三が日が終わってすぐ、今度はあのナベヅルの羽箒が付喪神になってどこぞに消えたという噂を耳にした。人里は様々な噂で溢れているらしい。
「もう、知らぬよ」
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それとも題名に掛かる何やかや、深~い意味があったりする? 解る人教えてPlease!!
けど中々面白かったです
もしかして鶴さんは羽箒の精霊だった? でも羽箒は最近無くなったらしいしなぁ……
と勝手にサイドストーリーを考えてしまう謎の多いお話でした。
でも柔らかな文体と、阿求と慧音のほどほどに力の抜けた会話が読みやすかったです。
この雰囲気なら具体的な結論や正解を出すのは無粋かも、なんてお茶の心得がある人みたいに言ってみたり(笑)
何はともあれ、今年もよろしくおねがいいたします。
現実に形あるものとして鶴さんが居続けては人々の心は凝り固まる。渡り鳥のように忽然と消えて心(お茶の心)として生き続けることこそ人間には合っているのかもしれない。ナベヅルもタンチョウも渡り鳥でしたね。
そーんなことを考えました。