Coolier - 新生・東方創想話

漱石、そうじゃないでしょう

2015/01/18 23:49:40
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『そっか。そんなに好きなんだ』
『ええ、貴方もそうでしょう』
『そうだけど、欲張りだね、世界を作ろうとしているなんて』
『そう。その世界はとても優しい。そして没頭できる。もちろん全部がハッピーエンドです』
『そうだね。わかるよ。でもさ』
『はい?』
『ハッピーエンドって、周りから見たらってことじゃないかな。
 たとえそれがバットエンドに見えても、自分が良いと思ったらそれでいいんだと思う』
『むつかしいですね』
『そうかな』
『……そうね。では、こういうのはどうでしょう』
『なになに?』



◇◆◇◆◇◆



 私は既にけむたいと感じる量降り積もっている埃を息でふうふうと吹きながら
 倉庫内の整理をしていた。
 私が生まれた頃、あるいはそれより昔からあるこの倉庫だ。
 私が見慣れないものも、記憶に薄いものも多く
 こうして一点一点埃を吹き記憶を掘り返しながら必要なものかどうか確認しないとどう処分すべきかわからない。
 今日中にこなしてしまおうと思ったがどうにもそれは達成できなそうだ。

「こほこほ」

 それにしても埃がひどい。
 私は煩雑に散らかされた倉庫をみやる。
 懐かしいものだ、と感じる。
 昔は、よくここを隠れ家にしたものだ。
 両親の目から逃れ、この大きな地霊殿の中の私だけの小さな地霊殿。
 それがこの倉庫であった。
 それにしても今は。

「放置しすぎて、埃がじゅうたんのようになっていますね」

 整理するために倉庫内のものを並べてみたのだが
 自分が片付けているのか散らかしているのかわからなくなってしまう
 私はひとまず体内に入ってしまった空気を入れ替えるためにドアーを開けた。
 そして紅茶でも飲んで一息つこうと思い、膝小僧についた埃をはらう。

 その時ふと、『それ』が目についた。見慣れない、緑のハードカヴァーだ。
 最近は書を嗜むのに『或る一定の心地よさ』を感じるようにはなってきた私なので
 それを取ったのは偶然でもこいしのせいでもなく、あくまでも私の意識下の行動だったのであろう。
(読書家の皆様にはわかっていただけるのではないだろうか。印刷の匂い、新品の紙の香り。
 古書のカビの匂い。それらを全て含めて本を持っている自分自身に快感を覚えるもの
 あるいは書を知らない人への一種の優越感なのかもしれない)
 私はそのハードカヴァーを手に取り、高鳴る鼓動を抑えつつ倉庫を後にした。

 私は紅茶が好きだ。香りも良いし、味も良い。
 甘くもできるし柑橘系で刺激を加えても良い。
 コーヒーでもだいたい同じことが言えてしまうが、ついつい紅茶を手にとってしまうのは日頃の習慣からか。
 鴛鴦茶(えんおうちゃ)というコーヒーと紅茶を混ぜあわせたものもあるらしいがそれはなんとも粋ではない。
 私はアイスクリームだとバニラが好きだし、プリンには生クリームが乗っていない
 しかも卵の味がふんだんに味わえる固いものが好きなのだ。

 茶葉が開くまでの間、ちらりと先ほどの緑のハードカヴァーをみやる。
 埃はもう取ってやったのに、どうにも古びてみえるそのハードカヴァーは既に書斎の机に馴染んで立派に『佇んで』いた。
 表紙、背表紙に書いてあったであろうタイトルや著者名などは既に剥げてしまったのか
 その外装に文字らしいものは書かれていなかった。
 私に自己紹介したくなかったのか、それとも恥ずかしがり屋の本なのか。
 私は先程からそのハードカヴァーに釘付けで、紅茶を淹れる時間というものがひどく長く感じられた。

「ふう。やはりミルクを入れる場合はオレンジペコですね」

 紅茶で唇を湿らせ、それとなく通ぶった事を言いつつ一息ついたところで
 件のハードカヴァーにとりかかることにした、のだが。

「さとり様、良いですか?」

 ノックと共におくうが私の書斎へと入ってきた。
 私は手にかけた表紙を戻し、いいですかと聞きながらドアーをあけるんじゃあありませんと返事をした。

「すみません。ただいま戻りました」
「おかえりなさいおくう。手は洗った?」
「はい」
「今日のお仕事の内容を、忘れないように日記に付けた?」
「もちろんです」
「お燐にちゃんと確認してもらった?」
「はなまるをもらいました」
「よろしい。冷蔵庫にババロアがあるのでお燐と仲良く食べなさいな」
「はい!」
「最後におくう、ドアーは静かに」

 しめなさい。
 私の最後の忠告はおくうの耳に入らず勢いよくしまったドアーの音にかき消されてしまった。
 あまりに大きな音だったので心臓がぴくんと動き
 再び沈黙が支配する私の部屋に鳴り響いた。

 ハードカヴァーをめくる。
 タイトルは『はじめの恋、おわりの恋』と明記されていた。
 次のページはもくじ。どうやらフィクションの恋物語のようだ。
 初めに『これは私の妄想である』と記されている。
 フィクションをこういう言い方で読者に伝えるのは面白いなと感じ、参考にさせていただこうと
 机の隅に追いやってある書き損じた原稿用紙にメモを残しておいた。
 そしてこの『私』はどんな人物なのかと著者名を探してみたが、どうにも明記されていない。
 ふむと私はあごに手をやる。

「これは卑怯なのではないでしょうか」

 妄想とは確かに恥ずかしいものだ。
 欲望と希望と願望と幻想が入り混じり、自分の解釈通りに世界が味方をし
 最後にはすべて丸くおさまりハッピーエンド。
 『世の中そんな甘くないよ』という言葉なんてそっちのけ。それがフィクションの面白いところだと、私は思う。
 だからそれは恥じるべきではない。ましてや著者名を明記しないなど――と、文句を言っていたのだが
 それは杞憂だったようだ。裏表紙の右下、かすれきっていったと思われる外装の隅っこ、そこにひっそりと著者は潜んでいた。

「えす……文字がかすれて見えづらいですね。……おー、えす、いーけーあい。そせき、そーせき?」

 『SOSEKI』、そーせき。そうせき、漱石。なるほど、これはかつての文豪、夏目漱石の書であったのか。
 思い返してみる。
 私は漱石の名前は知っているけれど、どうにも読んだ覚えがない。
 『こころ』『坊っちゃん』『吾輩は猫である』どれも有名な著書ばかりだ。
 しかし私は、著名な著者の著書よりも、名も無き小説家のにっちフィクションの方に食指が動いてしまうという
 いかにも『さとり妖怪』なひねくれ具合を醸しだした悪い癖を持っている。
 ふむ、これは漱石を知るいい機会だと思い
 私は気を引き締めて漱石を味わうことにした。
 適温になった紅茶を今度は喉を鳴らして飲んだ。
 少しだけ顔が火照った気がする。



◇◆◇◆◇◆



 漱石の書く恋物語は掴みどころがなく、とてもふわふわとして、私の頭をゆっくりと
 しかしながら確実に蹂躙していった。
 この『はじめの恋、おわりの恋』はまさしくフィクションとしてはとてもありがち。
 一人の少女の最初で最後である恋物語を描いた作品であった。

『少女はある青年に恋をする。冴えない自分に相手をしてくれる、唯一の男性であった』
『しかし、少女の恋した青年は、既婚者であった』
『少女は諦めきれなかった』
『少女はどうしても諦めきれなかった』
『少女は青年の妻に毒を盛った』
『青年の妻は亡くなった』
『悲しみを背負う青年に、少女は慰めの言葉を投げかけ続けた』
『青年は自分のことをひたむきに想ってくれる少女の気持ちに気が付いた』
『そして、ひとつになった』
『しかしその恋は長くは続かなかった』
『少女の犯した罪が青年に発覚してしまったのだ』
『青年は絶望し、自ら命を断った』
『少女は自分のはじめの恋が終わりを告げる音を聞いた。そしてそれは、少女のおわりの恋でもあった』
『少女は悔いた』
『自分の犯した愚かな罪を悔いた』
『青年の墓の前で、毒を飲んだ』
『青年に謝るために』
『その、未来を信じて』
「さとり様!」
「わっ!」

 顔をあげると、おくうの顔が目の前にあった。
 私は涙と鼻水とその他なにやらいろんな穴から出た体液だらけの顔を見られたくなく
 ハンケチーフで顔を覆ってから、今年の花粉はしつこいわねと静かにつぶやいた。

「おくう、人の部屋にはいるときはノックをしなさいと何度も」
「なんどもしましたよ! それはもう、ええと、数えきれないくらいに」
「……そうですか、失礼しました。それで何か用でしょうか。ババロアが綺麗に二つに切れないのですか?」
「ババロアなんてとうに食べちゃいましたよ。晩ごはんの時間です。お燐も待っているんですから」
「え?」

 ふと机上の懐中時計を開けてみると時刻はすでに夜のいい時間、みなで晩御飯を取る時間であった。
 こんなにも集中しまったか、と私は鼻をかんでから、お腹をならしている家族の元へと向かったのであった。
 鼻か目が赤いと注意されなければいいのだけど。



◇◆◇◆◇◆



 食事と入浴を済ませてから、ベッドに潜り込む。
 枕元には読み終えた本が山積みにされている。
 無精だとは思いつつも、読みながらうつらうつらするとベッドが恋しくなってしまいどうにも置きっぱなしになってしまう。
 これはいつもの事だが今日は読書をせず、枕元の間接照明を消してすぐに目を閉じた。
 漱石の『はじめの恋、おわりの恋』を脳内で反芻しようと思ったのだ。
 自慢するわけではないが、私は相当な量の書籍を読んでいる。
 現代小説、歴史もの、ファンタジー、SF、たまにミステリーやホラーもだ(怖すぎるのは控えるけど)。
 今回のような恋愛小説も、というか恋愛小説が一番多いかもしれない。
 私は空想の恋に恋をしている。文字上で踊り愛する二人が好きなのだ。

「さとり様起きていますか」
「起きていますかさとり様。あ、忘れてたこんこん」
 二人のペットの声が重なり、ドアーが開かれる。おくう、ドアーを開いてからノックをするのは意味が無いわよ。
「さとり様、読み聞かせをして下さい!」
「読み聞かせてください!」
「ちょうど寝るところでしたが、いいですよ。そういえば最近読み聞かせの機会がなかったですね。
 ふたりともベッドに入ってきなさい」
「やった!」
「私のベッドは狭いから工夫してね」
「ちょっと待って下さい。いま羽をたたみますから」
「じゃああたいはしっぽをくるくるとしときますね」
「あまり埃をたてないでね、ふたりとも」
「はーい! さとり様、今日はどんなお話ですか?」
「この間の『ぶんぶくちゃがま』はあたいにはおこちゃま過ぎました。もっとオトナのお話がいいですねえ」
「なにそれお燐。オトナのお話って響きがちょっとわくわくするね」
「そうですね。それではちょうどいい話があります。
 ……それとおくう、この話にはおくうが考えているようなおっぱいは出てきませんよ」
「でもオトナのお話って必ずおっぱいが出てくるのではないのですか?」
「誰が言ったのですかそんなこと」
「お燐が……」
「お燐、あとでわかってるわね?」
「あ、あはは」
「そうね、それでは始めます。おくう、その緑のハードカヴァーを取って下さい。
 これは、ある女の子の、悲しく切ない恋物語……」


「うじゅ、あじゅる、ぐじゅ」
「くすん、くすん」
「そうして少女は自ら毒を飲みました。天国で青年に出会うために、今度こそ彼と永遠に結ばれるために……」
「うじゅじゅ、うじゅる、ぢーん!」
「うう、ぐすっ。悲しいけど良い話だねえ。おくう、鼻水をさとり様の枕でかんじゃだめだよ」
「うじゅじゅ、らっで、ごんなの、あんばりだよお、ぢーん!」
「さとり様、これはいい話ですね。あたい不覚にもうるっときてしまいました」
「ぐじゅ、うじゅじゅ、お、おりん、ごんや、いっじょに、ねよう……ひっく」
「はいはい。じゃあさとり様、ありがとうございました。部屋に戻ります。おくうを寝かしつけてやらなくちゃ」
「ぼざずびばざい、ざぞびさば」
「おやすみなさい、ふたりとも」

 話を聞き終えた二人は目をうるませながら(一人は顔面水浸しになりながら)自室へと戻っていった。
 このまま三人で寝てもいいのだけど、甘やかせていると気軽に私の部屋に入ってきてしまうのでそれは避けなければいけない。
 主の部屋の扉というのは、総じて重いのが常識なのだ。

 一息ついて、時計を見る。日を越してしまっている。
 あの二人には少し夜更かしをさせすぎてしまったかと少し反省。
 読み聞かせで無理矢理にも反芻することとなった『はじめの恋、おわりの恋』だが
 やはり名作というのは何度読んでもやめられなく、そして読むたびに発見があり、とても面白い。
 面白いの一言ではその評価が足りないと感じしまうほどに。再び静まり返った自室。
 私はあの緑のハードカヴァーを手に取った。

「もう一度、もう一度だけ」

 私はみたび、漱石の世界に入り込んだ。



◇◆◇◆◇◆




「え、えと。○○○円です」
「……領収書ください。宛名は『是非曲直庁」で」

 いつも通り、面白い本を読んだ後は作者の名前買いをするに限る。
 私は本屋にある漱石の書籍を全て買い占めて店を出た。
 店員は私の寝不足のせいでさらに不機嫌が増してしまった私の顔に驚いていたが、仕方がない。
 昨夜は漱石で忙しかったのだ。
 あとはそこそこの規模になる予定の一人読書会の際につまむ濃い味付けの缶詰と少量のお酒を買えば完璧だ。
 馴染みの乾物屋に入り缶詰を吟味していると、後ろから不意に声をかけられた。

「おねいちゃん」

 私の事を姉と呼ぶのはもちろんのこと、妹こいしだけだ。

「おねいちゃん」
「『おねえちゃん』です、こいし。日本語はしっかりと発しましょうね」
「ひゃい。ほっぺをつままないで」
「すみません、あまりに可愛く美味しそうなほっぺだったもので」
「ならしょうがないね。私は可愛いから」

 こいしは笑顔で私の真横に並び、一緒に手元に並ぶ缶詰を眺め始めた。
 こいしのミルクのような匂いが私の鼻と脳を蹂躙した。興奮する。

「重そうな荷物だね」
「いまから缶詰とお酒を買うので更に重くなるのですよ、こいし」
「大変だね」
「大変なんですよ、こいし。ああ、手が痛い」
「そうなんだ。じゃあ私はここで」
「ダメですよこいし、レディが困っているのならば助けないといけません」
「あ、そうだったね。ええと、お姉ちゃんが困っていること……お便秘にはあっちのヨーグルトを食べると」
「こいし」
「はいはい、お荷物お持ちしますよ」
 
 こいしは気だるそうに荷物を受け取った。
 めったにうちに帰らないのだから、少しくらい甘えたってばちはあたらない。
 なにせ妹はこんなにも可愛いのだから。
 それに、目を離すとすぐいなくなってしまうので、荷物持ちは鎖の意味でもあるのだけど。

「こんなにいっぱい、何の本を買ったのよう」
「教えて欲しいですか」
「別にいいや」
「実はですね」
「お姉ちゃんのその自分の話したいことは話すスタイル、私好きだよ」
「じゃーん」
「ふうん、夏目漱石かあ」
「そうです漱石さんです」
「珍しいね、いつもは馬鹿そうなB級の恋愛小説しか読んでいないお花畑な頭のお姉ちゃんが漱石なんて。
 また作家買い? そんなのより、もっと為になる本があるのに」
「若干言い方が気になります。ですがこいし、貴方がおすすめしてくれた……ええと
 『もけらもけら』みたいなタイトルの本はわけが分からなくて途中でやめてしまいました」
「未熟ねえ」
「まあそれはいいのです。漱石読書会を行おうかと思っていまして。
 ああそうだ、合同読書会でもいいですね。
 こいし、ここらへんに読書好きで暇そうな可愛くておしゃれな帽子のさとり妖怪を知りませんか?」
「……」
「ちらっちらっ、どうですかこいし。心当たりは……ちらっちらっ」
「ああもう、お姉ちゃんって本当に面倒臭いね」

 とても心外だ。私はただ暇そうなさとり妖怪を知りたかっただけなのに。
 結局、こいしは合同読書会には参加してくれなかった。
 なんでも既に世に出ている漱石は読破したそうだ。忘れていたけれど、こいしは相当な本の虫だ。
 どのくらいかというと、読み過ぎたせいで精神をこじらせ目を閉じてしまうほどに。
 私はこいしと他愛のない会話をしながら帰路についた。こういう時間こそ、私とこいしには必要なのだ。
 晩御飯は久しぶりに私がキッチンに立って、こいしの好きなビーフストロガノフを作りましょう。
 そしてその後は漱石が私を待っている。今日は贅沢で忙しい日になりだ。



◇◆◇◆◇◆



「はい、さとり様。お呼びでしょうか」
「お燐……来てくれたわね……」
「さとり様、呼び鈴は一回鳴らしていただければわかります。それでどうしたのですか?
 おしりから生えてきた根っこが椅子にくっついて取れなくなったのです?」
「……面白い冗談ね。ともかく、お願いがあるの」
「は、はい、なんでしょう。さとり様、目が血走ってて怖いです!」
「コーラを持ってきてくれる……? できるだけ早く……」
「わ、わかりました!」

 お燐は怖い怖いと心の声を漏らしつつ一度しっぽをドアーにはさんでにゃあいと鳴いてから
 駆け足でキッチンへと向かっていった。
 今の私の心のもやもやは、刺激物でしか癒してくれない。
 それに、眠っていないのでカフェインも欲しい。
 ああ、はやくコーラが飲みたい。コーラが愛しい。
 喉を痛いくらい刺激してくれる黒い液体が……

「持ってきました!」
「ごくっごくっ、ぷはあ、お燐」
「は、はい!」
「もういっぱい」
「え、わ、わかりました!」

 この後お燐を三往復させて、やっと私の心は少しだけ落ち着いた。
 コーラの入ったグラスを手に、買った書籍を見やる。
 買った四十冊の内、三冊を既に読んだ。やはり漱石は面白い。
 あまり見ない独特な言い回しは私を飽きさせないし、作品全体から感じさせるユーモアは類を見ない。
 無駄にむつかしい文章にしたがる自称中級者のそれは一切感じさせない簡潔で読みやすい文章。
 久しぶりに当たりだと感じた。
 だけど。
 だけど。
 『はじめの恋、おわりの恋』で感じたあの心のときめきはいくら読んでも満たされることはなかった。
 私は四冊目を手に取る。

「はあ、面白かった。けど違う。これは私が愛した『あの』漱石じゃない」

 四冊目が終わる。
 これはとてもけったいな地の文を楽しむ、珍しい小説だった。
 ヴィンテージもののワインを耳で味わっているような気分になり
 陶酔するほど心地が良い地の文だ。
 だけど、違う。五冊目を手にとった。お燐をまた五往復させた。

「これはまた違った面白さですね……でも」

 五冊目、六冊目を一気に読み終えた。五冊目は恋愛と言えるジャンルだった。
 ロマンティックな文章は私を高揚させたが、まだなにかひとつ足りなかった。
 六冊目は反対に孤独をうたった小説であった。人間は誰しもが孤独。
 人間の本質は孤独であると、また先ほどとは違った漱石を味わえた。
 しかし、私の漱石はまだあのときめきを私に与えてくれない。
 あのいじらしくも、切なく、行く先の無い感情で私を悩ませてはくれない。
 ページをめくる。
 めくる。
 めくる。
 めくる。
 お燐をもう十二往復させた。

「ちがう、面白いけれど、漱石、貴方は、そうじゃないでしょう」

 ページをめくる。
 めくる。
 めくる。
 めくる。
 めくる。
 めくる。
 見える。
 見える。
 見える。
 
 漱石は私を手招きしている。
 もっと入りこめと言っている。
 こちらの世界へ。
 自分の文学の世界へ入り込めと。
 やはり漱石、貴方は素晴らしい。
 貴方は私に新しい感情を芽生えさせ、その名の通り感動させる。
 七冊目はストーリがあまり動かない話だった。
 私の好きな恋愛小説はストーリはめまぐるしく動き、はらはらどきどきさせて何度も話をひっくり返す
 言うなれば茶番劇だ。
 しかしこれは違う。物語は淡々と進んでいくものの主人公の思想がしっとりとかつじんわりと展開していく。
 自分とは違う思考の主人公なのになぜか親近感がわく。
 これは冒頭からこの主人公の考えを飽きさせない程度にじっくりと表現しているからこそなせる書き方だ。
 私は新しい趣向を好きになる。漱石にしてやられる。
 八冊目、九冊目、お燐を十六往復させ、十冊目、十一冊目。
 そして、十二冊目。全てが私の想像を超えて頭のなかに入ってくる。
 新しすぎる技術は拒絶されやすい。しかし漱石はするすると私の脳内に情報を押しこんでくる。
 決して複雑でも煩雑でも無理矢理でもない、そう、こういうのをきっと『しっくりとくる』と言うのであろう。
 私の脳内にあるタンスの中に、漱石の著書は隙間なく入ってくる。
 その心地よさに陶酔する。
 更にお燐を十九往復させた。
 読み始めてから何日が経ったのだろうか。何冊目まで読んだかは、もう覚えていない。ああ、駄目だ。眠い。



「さ、さと、さとり様。こ……コーラをお持ちさまひた」
「……あ、お、お燐」
「は、はひ、もう一杯ですねおう、おまちくだ……むぎゅう」

 ついにお燐が倒れてしまった。まだ入っているコーラが床に転がる。急いで拭かなくては。立ち上がろうと足に力を入れる。

「あ、あれ?」

 力が入らない。体が動かない。それどころかめまいがして、どうしようもなく私は書斎の机に突っ伏した。

「ああ、少し無理をしすぎてしまいました」

 少し、眠ることにしよう。疲れてしまった。
 私はうっすらを暗転する視界の中にあの緑のハードカヴァーが有ることに気づいた。
 ……ああ、そうだ。やっと分かった。
 あれは、あのお話を書いたのは。



「……漱石ではなく、『SOSEKI』、貴方なのでしょう」




























「うん、そうだよ」




◇◆◇◆◇◆



 ぱちぱちという音で、意識が覚醒する。
 ここは。
 私の書斎だ。
 だが、違和感がある。
 ああ、そうだ。私がいる。
 本を読んでいる私がいる。
 それを私が眺めている。
 だから違和感があるのだ。
 私は……本を読んでいる。
 まだ幼い私が本を読んでいる。
 近くには暖炉がある。
 暖炉があり、私はロッキングチェアーに座り、ハードカヴァーをめくっている。
 本を読んでいる私は……楽しそうだ。本に没頭している。本に心を奪われている。

『……え、……』

 ちかくに誰かがいるようで、私はその声の方へ顔を向けた。

『……なに、……が好……の?』

 私は頷いた。

『そっか』

 声の主が去っていく。私は再び恋する本の中へと旅立っていった。私はこんなに楽しそうに本を読んでいたのか。

『貴方は好きじゃないの? 本』

 本を読む私は、私に語りかけた。

『ねえ、本読むの好き?』

 もちろん、好きよ。

『私もよ。本はいいわ。こんなに小さいのに別の世界がここに有るんだもの』

 わかるわ。その本だけの、その本のための世界。贅沢よね。

『そう、だから私はいつかこの世界を作ってやろうと思うの』 

 うん、それがいいわ。私もそうしてる。

『本当? 楽しみだな』

 楽しいわよ、世界を作るのは。

『どんな世界を作ろうかな』

 そうねえ……たしか一番最初に書いた本は……

『こんな世界はどう? お姉ちゃん』
『え?』

 え?



◇◆◇◆◇◆




「お燐、具合は大丈夫?」
「さっきちょっと寝たからね、でもさとり様はどうかな」
「不安なこと言わないでよ!」
「しーっ。まあ寝不足なだけだから、大丈夫でしょ。おくう、あんまり騒いじゃいけないよ」
「うん、じゃあさとり様がいつ起きてもいいように、あったかいミルクを用意してようよ」
「おくうにしてはいいアイデアじゃない。じゃあお勝手にいこうかね」
「そうだね。ええっと、ドアーはそうっと……」






 バタン!






「……はっ」

 目覚める。
 寝起きは最悪だった。
 汗で服も髪も肌に張り付き、布団の中は地獄のように暑かった。
 少しでも涼を取ろうと布団をのけた。
 ぼうとした頭で夢を反芻させた。

「……夢を、何か見ていた気がしますが」

 呟いてから、枕元においてある水差しの水を思い切り飲んだ。
 きっと二人が用意してくれたのであろう。
 呼び鈴を鳴らそうと考えたが、お燐の事を思い出し、やめておいた。
 少し無理をさせすぎてしまった。
 
 しばらく夢と現実のはざまを行き来していると
 ふとどちらかの世界でミルクの匂いがしてくることに気付いた。
 ああ、きっと私の出来のいいペットたちがホットミルクなどを作って持ってきてくれたのだろう。
 思わず頬が緩んでしまう。

「あ、笑った」

 ミルクが喋った?

「ん……あれ、こいしですか」
「お姉ちゃんおはよう。だめだよ無理して。お燐もおくうも心配してたよ」
「面目ないです」
「特別に許したげる。じゃあね、お姉ちゃん。もうすぐ二人がホットミルクを持ってくると思うよ」
「そうですか…… こいし」
「ん、なあに?」
「昔した約束を覚えていますか?」
「何のこと?」
「……いえ、なんでもないです」
「そ。じゃあね」
「あ、待ってこいし」
「なあによ」
「まだ、うちに居るんでしょう? しばらくは居なくならないで下さい」
「……わからないよ。私は風来坊だもの。でも、努力はするよ。ばいばい」
「あ……」

 こいしはそう言って、音もなく去っていった。
 次にドアが開いたのは、こいしの言ったとおりホットミルクを持ったお燐とおくうであった。

「あ! さとり様。起きましたか!」
「お、おくう。ボリュームを少し落として下さい」
「あ、ごめんなさい!」
「う、うう……響く」
「こらおくう。はい、さとり様。たんと甘くしたホットミルクですよ」
「ありがとうお燐。いただきます」
 
 ゆっくり、ゆっくりとホットミルクを味わった。
 飲むたびに頭が覚醒していくようで、私は倒れる前の記憶を徐々に取り戻していった。
 流石にコーラを飲み過ぎた。

「ごちそうさま」
「おそまつさまです」
「ねえさとり様。聞いてもいいですか」
「なんでしょうおくう」
「さとり様の読んでたご本、そんなに面白いのですか?」
「え?」
「私が部屋に行った時、お燐もさとり様も倒れてたから誰かにやられたのかと思ったんですけど
 そんな感じではなかったですし、お燐が言うにはさとり様が狂ったように本を読んでいたのが原因だって」
「ちょっ、ちょっとおくう」
「いいのですよお燐。たしかに少しおかしかったですもの」

 ペット達が疑問に思うのもしようがない。
 私はたまに書斎にこもることもあるけれど、ここまで長時間のめり込むのは初めてだったから。
 私は二人に事の顛末を説明した。

「ああ、この前読み聞かせしてくれたあの本ですね」
「はい、ですがあの作者の『SOSEKI』と漱石は違っていたようです。
 よく考えればわかることでした。まず本の装飾がぜんぜん違う。
 『はじめの恋、おわりの恋』はハードカヴァーでしたが、本屋で買ったものは全て文庫です」
「なるほど、勘違いってよくありますもんね。あたいもこの前……」
「……」
「あれ、どうしたのおくう」
「さとり様、その『はあどかばあ』というのはあのあつぼったくて重い本ですよね」
「そうですが……おくう!」
「はい、それ倉庫にありますよ。緑じゃなくて、確かピンク色の……あ、さとり様!」
「さとり様、まだ安静にしていなきゃ駄目ですよう!」

 安静になんてしていられない。
 おくうの声と同時に私は倉庫へ急ぎ足で向かった。

「それにしてもおくう、鳥頭のあんたがよく覚えてたね」
「うん、だってその『はあどかばあ』置いたの、私だもん。頼まれちゃってね」
「へ?」





◇◆◇◆◇◆







『ある少女が、青年に恋をした』
『少女は青年に振り向いてもらおうと努力した』
『青年は病に冒されていた』
『青年は全てを諦めていた』
『少女は何度も見舞いに通った』
『青年が否定しようとも、少女は諦めなかった』
『時間が経つにつれ、青年は少女に心を許すようになった』
『しかし、現実は残酷だった』
『青年の病状は悪化した』
『青年の命は、未来はもう無いと医者に告げられた』
『少女は神に願った』
『来る日も来る日も少女は神に願った』






『すると、青年の病は治り、二人は無事寄り添うことが出来た。ハッピーエンド』



「なんじゃこりゃ。くすくす」
「はあ、はあ、やはりここでしたか」

 私はSOSEKIの前に座った。
 相変わらずこの倉庫は埃だらけで空気が悪い。
 できるだけ呼吸を抑えようとしばらく目をつぶって休む。
 そして、SOSEKIからピンクのハードカヴァーを奪い取り、ページをめくった。

「恥ずかしいですね。自分の書いた、しかも忘れていたお話を読むなんて」
「お互い様だよ。私だって自分の読んだもん、ほら」

 SOSEKIは緑のハードカヴァーを懐から出して、ページをぱらぱらとめくった。
 そして、最後のページまでいくと、目を細めてかすれた裏表紙の名前を見つめた。

「SとOの間のYがかすれて見えないね。そっか、これでそうせきか」
「そうですね。私の方はそのままSATORIと書いてあります。貴方はなぜわざわざペンネームを?」
「恥ずかしいじゃない。きっと当時の私はそう思ったんだよ」
「そうですね、SYOUSEKI」

 SYOUSEKIはミルクの匂いと埃をはためかせて
 くるくると倉庫を舞った。
 やめなさい、と制する。

「それにしても、気になる点があります」
「なあに?」
「この小説」

 私は緑色のハードカヴァーをめくり、最後のページを見せつけた。

「少女が自ら命を断ってまで、青年や青年の妻に謝りたかったのはわかります」
「うん」
「でも、この最後のフレーズは少しだけずれている気がしますね。
 『未来を信じて』」
「何がおかしいの?」
「この場合の『未来』とはなんでしょうか?
 みんな死んでいるのに」
「わからない?」
「わかりませんね」
「じゃあ、そのままのほうがいいよ」
「はい?」
「『それ』として死んだって、生き続けるものだってあるんだよ。私みたいなね」

 SYOUSEKIはそう言うと、ピンクのハードカヴァーを大事そうに懐に入れた。
 そして私に、紅茶を飲もうよ、そう言った。

「その小説はあげるよ。そういう約束だもんね。
 二人の世界を見せ合うって」
「約束、覚えてるじゃないですか」
「私だけ覚えているのがなんか癪だったんだもん」

 確かに、この娘はそういうものか。
 きっとこの緑のハードカヴァーが私の目につく所に置いてあったのも
 結局のところ、この娘のしわざだろう。

「紅茶を飲みましょう。お燐とおくうも一緒に」
「うん。そういえば、ねえ」
「なんでしょうか?」
「私は『今』けっこう悪く無いと思っているよ?」
「……そうですか」
「うん」
「まあ、貴方がそれで良いなら……」
「それにしても、この小説はひどいよねえ」

 SYOUSEKIはくすくすと笑い、再度ハードカヴァーを取り出した。
 むっとした顔を全面に押し出すと、なおも可笑しそうに笑った。

「何故ですか」
「だって、ひどいじゃないこのご都合主義」
「いいんですよ。お話というものはハッピーエンドでなくてはいけません。その点貴方のお話は駄目ですね」
「私のお話が駄目だって? なんでさ」
「こんなバッドエンドはいけません。みんな死んでしまいますし」
「いいじゃん、バッドエンド。そして誰もいなくなった、ミステリーだと特に面白くなるよ」
「ミステリーは怖い描写があるから苦手です」
「駄目だねえ、お姉ちゃんは」
「いいえ。小石、そうじゃないでしょう。お話というのはですね」














◇◆◇◆◇◆



「わくわく」
「どきどき」
「二人共、羽としっぽは小さくしておいてね」
「がってんです!」
「しょうちのすけ!」
「おー!」
「……なぜこいしまで居るのですか」

 私のベッドは、そこまで大きくない。
 もっとも、私とこいしは体が小さいので入らなくはないが。

「それでは始めますが」
「楽しみです。これ、さとり様が書いた本なんですよね」
「そうですよお燐。しかもだいぶ昔のお話です」
「楽しみですねこいし様」
「うん、そうなんだけどさ」
「なんですかこいし」
「今日はみんなに、私が読み聞かせてあげるよ。お姉ちゃんの書いたお話」

 こいしはそう言うと、ピンクのハードカヴァーを手に取った。
 ね? と微笑むこいしがどうにも可愛かったので、私は頷いた。

「二人もいいでしょ?」
「もちろんです!」
「もちのろんです!」
「……じゃあこいし。お願いね」
「うん。じゃあ、始めるよ。
 これは、ある女の子の、幸せで切ない恋物語……」









『漱石、そうじゃないでしょう』
おわり
お燐・おくう「なんじゃこのオチ」
こいし「でしょ?」
さとり「……」

ともあれ、さとり妖怪として思いの違いを、お互いわかれば良いんじゃないでしょうか
投げっぱなしですかね。そうですかね?
でも、こいしちゃんは幸せそうですよ

この場を借りてですが、秋季例大祭にてわざわざスペースに来てくださって
わざわざ私の小説をわざわざ購入してくれたわざわざな方々、ありがとうございました。
訪れてくれた方の名前を聞いていちいち喜んだり驚いたりと、とても楽しかったです また機会があればお会いしたいものです。

今年もどうぞよろしくお願い致します。
ばかのひ
http://blog.livedoor.jp/atukainayamubakanohi/
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コメント



0.1190簡易評価
2.100名前が図書程度の能力削除
小石でしょうせき、なるほど
途中まで漱石ってそんな小説かいてたっけか、と本気で悩んでいました。
それにしても創想話でもけらもけらの名前を見るなんて

あちこちに込められた小説というものへの愛情が心地良い作品でした。
3.100名前が無い程度の能力削除
文章全体からやわらかさがにじみでていて、ほんわかをいただきました。
さとりが倒れるところでは、すわ毒殺かとびっくりしてしまいました。なんとなく。
こいしはきっと、さとりに自分の世界をわかってもらいたかったんですね。しかしそれは難しいことです。覚り妖怪だと誤解も出来ませんからね。
さとりはきっと、自分よりもひとの世界に楽しみを見出していた。だからずっとさとりであり続け、だからこそ、約束をこいしが覚えていて、さとりが忘れていた。
さとりにとっての『妄想』と、こいしにとっての『妄想』。どちらもいいものです。

漱石の本を読むシーンは、読書観にかなり共感させられました。色々と。
5.100奇声を発する程度の能力削除
おお、なるほど
とても面白く良かったです
14.100名前が無い程度の能力削除
そうじゃないでしょう、なるほど
なんだか小説を書きたくなるような、気持ちのいい読後感をありがとうございました
16.100名前が無い程度の能力削除
なるほど、小石ですか。これは盲点でした
さとりが小説を書いているのは求聞口授の通りですが、こいしが書いていても何らおかしくないですね
ぜひとも書いた本を読んでみたいです。ああ、もちろんさとりが書いた本も
読書に没頭するさとり、謎が解けていく様、最後はみんなでベッドで読書、どれも素敵でした
17.100南条削除
かわいらしいお話でした。
SYOUSEKI→小石→こいし に最後まで気づかなくてorz
小説を見せ合うことを世界を見せ合うと言い表す詩的な表現が特に素敵でした。
19.100名前が無い程度の能力削除
本に没頭するさとりの疾走感というかなんというかすごい。
20.70名前が無い程度の能力削除
とても面白かったです。
21.100名前が無い程度の能力削除
思わず唸ってしまいました。
最初から最後までがぴたっと繋がるこの感じ!
こういうのはまさに読書の醍醐味の一つですね(書、ではありませんが)

キャラクターも、全員が個性を出していてとても魅力的でした。
良い作品に出会えました。100点です。
25.100手乗り霜削除
丁寧な文体で非常に読みやすかったです。
中盤、さとりの「何か違う」感に親近感が湧いてきました。
とても良い作品でした。
30.100名前が無い程度の能力削除
良かったです