春爛漫。
桜舞えども花より団子の宴。
空になった皿や盃が放り出されている。
「仕方ないわねぇ」
どうせ誰も片づけやしない。
ため息をついてから、人形を使って器を集める。
喧噪から離れて洗い場に向けて歩き始めると、松明の代わりに辺りを照らすのは月光になる。
石畳を踏みしめ、洗い場につくと水の音が聞こえた。
先客だ。
「霊夢かしら?」
記憶が正しいなら、霊夢は大きな盃片手に談笑していたはず。
瞬間移動でもしなければ、ここにはいられない。
だが、可能性はゼロではない。
「そこに置いてくれれば、洗っておきますよ」
洗い場にいたのは霊夢ではなかった。
大量も洗い物をこなしているのは2本の刀を差した銀髪の少女。
「えっと、白玉楼の……」
「魂魄妖夢と申します。博麗の巫女様に招待されて、今日は参加しました」
ペコリと剣士は頭を下げる。
突然の丁寧な挨拶。
霊夢や魔理沙、紅魔館の連中とはまったく違うタイプだ。
「アリス・マーガトロイドよ。わたしは魔理沙に呼ばれて参加したわ」
笑みを作って腰を軽く下げる。
こんな挨拶をしたのは、いつ以来だろう。
「でしたら、マーガトロイドさんは戻ってください。わたしが全部洗っておきますから」
「あっ、えーと。わたしも手伝うわ」
魂魄さんの隣にならんで、自分も食器洗いを始める。
彼女の前に並んだ食器の量は、一人でやるには酷な量だった。
にも関わらず、健気に食器洗いを続けている。
こんな具合では、霊夢や魔理沙にはいいように使われてしまうだろう。
「マーガトロイドさん、本当に戻らなくて大丈夫ですか? 霧雨さんもいらっしゃってるんですよね?」
黙って洗い物をしていると、魂魄さんが心配そうな声で言った。
「大丈夫よ。魔理沙ならどうせ誰かと花より団子で飲んでるから」
「桜、綺麗ですよね」
魂魄さんは、洗い物をする手をとめて、桜の木を見上げる。
月明かりの下。
はらはらと花を散らす桜と、それを見上げる魂魄さん。
銀色の髪が月光を透かしながらゆらゆら揺れる。
その姿に、言葉を失った。
一枚絵のような光景の中で、魂魄さんは桜が散ると同時に消えてしまう桜の精のように見えた。
「マーガトロイドさん、続けましょうか」
魂魄さんに促されて、自分の手が止まっていたことに気付く。
「桜の花には、やっぱり魅力がありますよね。幽々子様は狂気だともおっしゃってましたけど」
「狂気?」
洗い物を続けながら、魂魄さんに尋ねる。
「人を引き付けて止まない魅力ですかね。わたしには、幽々子様の考えていることはわからないですけど。マーガトロイドさんも、先ほど見とれてましたよね」
「そうね……」
自分が見とれていたのは、桜だったのだろうか?
たしかに視界に桜は入っていた。
でも、桜は何度も見てきた。
その時、吸い込まれるように見とれてしまったことは…………、ない。
「あっ……」
一人考え事をしてるうちに、洗い物は全て終わっていた。
「マーガトロイドさん、ぼんやりしているようですけど、大丈夫ですか? 飲みすぎてるようなら、休んだ方がいいですよ」
言いながら、魂魄さんはじっと瞳を覗き込もうとしてくる。
「だっ、大丈夫だから! さ、洗い物運んでおきましょ。たくさんあるから、一度は無理かしら?」
慌てて魂魄さんから顔をそむけて、皿をまとめはじめる。
そのあとは、2人の間に会話はほとんどなかった。
時間にして、わずか10分ほどの最初の出会い。
その間、自己紹介以外でお互いが名前を口にすることはなかった。
☆☆☆
夏本番。
しつこい蝉の声をかき消すように賑やかな祭囃子が聞こえる。
りんご飴の甘い匂い。
お好み焼きのソースの香り。
射的のコルク銃の音。
どれもが非日常で、通りなれた道でも、今日がハレの日なのだと感じる。
だからってどうした話でもないが。
お祭りと出くわしたのは偶然なので、浴衣も着ていない。
「あ、マーガトロイドさん。ごきげんよう」
人ごみも面倒だし、帰ろうと思ったところで、声をかけられた。
鈴の鳴る様な高い声。
振り向くと、薄い桜色の浴衣に白い帯を付けた魂魄さんがいた。
手にはふわふわとした綿菓子を持っている。
「魂魄さんも来てたんだ」
「お祭り、結構好きなので。マーガトロイドさんは」
「わたしは偶然よ。ちょっと人ごみは苦手なの」
「歩くのも大変ですもんね。ちょっと、ここで立っているのは邪魔になるかもしれませんね」
そう言うと魂魄さんは綿菓子を持ったまま歩き始める。
その後を、一瞬ためらってからついていった。
お祭りが好きと言っていたとおり、魂魄さんの歩みは、跳ねるように軽い。
ハレの日の服である浴衣もよく似合っていて、襟の上には雪のように白い項が覗いている。
以前会ったときは月明かりの下ではっきりと解らなかったが、魂魄さんは美しい少女だった。
「なにか気になるお店とかあります?」
「うーん、特には。魂魄さんは?」
「わたしも、もう食べたいものはほとんど食べてしまいましたし」
本当はクレープとか、チョコバナナが気になったのだが、子供っぽく見えそうなのが気恥ずかしくて口を閉ざしてした。
最初はどうでもいいと思っていたのに、人が食べているのをみると、自分も欲しくなってしまう。
お祭りの屋台は不思議だ。
「少しだけいいですか?」
そろそろ屋台の列も終わるところで、魂魄さんが言った。
魂魄さんの視線の先にあるのは、小瓶を使ったキーホルダーを売っている店。
「気になるの?」
「ちょっと可愛い小物を見つけたので」
「気にしなくていいのに。わたしも付き合うわ」
2人で並んで屋台の前まで歩いていく。
こうして歩いていると、魔理沙や霊夢といるときと変わらない気分になる。
でも、魂魄さんと会うのはまだ2回目。
まだまだ彼女とは距離を感じてしまう。
「見ていいですか?」
「構わんよ。ゆっくり見てきな」
「わーっ。ありがとうございます」
魂魄さんは店のおじさんに断わってから、目をキラキラさせて悩みはじめる。
小指くらいの小瓶の中に、ビーズやぬいぐるみを入れたキーホルダー。
魂魄さんはこういう可愛いものが好きらしい。
手に綿菓子を持っているのも忘れて、キーホルダー選びに夢中になっている。
時々見える横顔は無垢な子供のようで、ただキーホルダーを選んでるだけなのに、魂魄さんから目を離すことができなかった。
たぶん、本人はわたしがいることも忘れているのに……。
「これにします」
じっくり15分悩んでから選んだのは、ピンク色のビーズの上に、小さな熊のぬいぐるみと、モミの木が飾られた小瓶だった。
熊のぬいぐるみもよくできていて、胸元には赤いリボンが結ばれている。
「ようやく決まったか。後ろのお友達も、ずいぶん待ってたぞ」
「わーっ! ま、マーガトロイドさん。すいません。すっかり忘れてしまって」
魂魄さんは大きく跳ね上がってから、何回も「すいません」と頭を下げる。
「いいのよ。選んでる魂魄さん、楽しそうだったから」
「おい。お友達の嬢ちゃんも買ってかないか? 今なら安くするぞ」
「あ、そうですよ。マーガトロイドさんも買いませんか? 一緒に買いますよ」
「え? わたし?」
店のおじさんと魂魄さんに言われて、思わずキョトンとしてしまう。
たしかに、これは小物としてなかなかよくできてるけど……。
「どうだい? これなんか、お友達とお揃いだ」
おじさんが手にとったのは、魂魄さんとほとんど同じものだった。ビーズの色だけが異なっていて、ピンク色の代わりに水色になっている。
「え、でも……」
「ほら、一緒に買ってやんなよ。銀髪の嬢ちゃん。お友達、ずいぶん待ってたぜ?」
「ここの小物が可愛すぎるのが悪いんですよ」
「なら、もう1個買ってたらどうだい。いまなら1個と半分の値段にしようじゃないか」
「本当ですか? じゃあ、このピンクと水色ので」
展開に戸惑っている間に、魂魄さんは2つキーホルダーを買ってしまう。
「ほい、2つ。友達と大事に使ってくれな」
「本当に、友達になれれば嬉しいんですけどね。ありがとうございます」
「毎度ありー」
「マーガトロイドさん、よかったら1個もらっていただけませんか?」
魂魄さんの上には、ピンク色のビーズと水色のビーズが入った小瓶が2つ。
色違いの、お揃いのアクセサリー。
「本当にいいの? 魂魄さん、お気に入りなのに」
「1つで十分なので。もしいらなければ捨てていただいて構わないですから」
「そんなことしないわよ。それなら、こっちの水色をもらうわ」
「ありがとうございます。マーガトロイドさん」
「そんな。お礼を言うのはこっちよ。ありがとう。魂魄さん」
「なんか、恥ずかしいですね」
真っ白な頬を薄いピンク色に染めて魂魄さんが笑う。
この子と友達になれれば、もっとこの笑顔を見ることができるのだろうか?
魂魄さん言った「友達になれれば嬉しいんですけどね」の一言。
裏を返せば、まだ友達ではないということ。
もっと、魂魄さんのいろんなところを見てみたい。
そのためには。
「それじゃあ、そろそろ帰りましょうか」
決心が口から出る前に、魂魄さんに先を越されてしまった。
人付き合いの苦手な自分には、この後「友達になって」と言うのは途方もない難題。
「そうね。楽しかったわ」
「わたしもです。また機会があれば」
無難な挨拶を交わして、魂魄さんと別れる。
この日も2人の口からそれぞれの名前が出ることはなかった。
☆☆☆
秋の色は極彩色。
紅や黄色に紅葉した木の葉が舞い落ちてくる。
どこか落ち着いた雰囲気がある秋は、本を読むのに最適。
紅魔館の図書館にこもって、古今東西様々な知識を手に入れる。
もっとも、今読んでいるのは魔法に関する本ではなく、お菓子に関する本なのだが。
「あれ……?」
そのことに気付いたのは、本の一番最後のページのさらに先。
背表紙についている一枚の紙を見たときのことだった。
「魂魄……さん」
貸出カードに、魂魄さんの名前があった。
日付はちょうど夏祭りで出会ったころ。
魂魄さんが借りた後には、誰も借りた形跡がない。
「魂魄さん? あ、妖夢のことね」
何事もないように、パチュリーは言った。
「魂魄さん、よくこの図書館くるの?」
「滅多にあの子は来ないわね。1月か2月に1回くらい来て、何冊か借りてく感じ。どうかしたの?」
「ううん。たまたま貸出カードに名前があったから」
「魔理沙なんかより、よっぽど来てほしいけどね。ちゃんと本も返してくれるし。なかなかいい話相手だし」
「魂魄さんとよく話すんだ」
「来れば普通に話すわよ。けっこう面白い子だわ」
パチュリーも魂魄さんと普通に話していた。
でも、わたしもそれなりには話せるし。
それなのに、どうしても他人行儀のようになってしまうのはどうしてなのだろう。
魂魄さんと友達になれていないからだろうか。
こっそりとポケットに手を入れて、鍵につけたキーホルダーをそっとなでる。
「魂魄さんって、どんな感じ?」
「なに? 妖夢のことが気になるの? ついにアリスにも春かしら」
「べっ、別に、そういう方向じゃないから! ただ、ちょっと話しただけで」
「アリス、顔、赤くなってるわよ」
面白いものを見つけたとばかりに、パチュリーが読んでいた本を閉じる。
まさか、恋愛なんて考えたつもりもない。
でも、わたしが魂魄さんと感じてる余所余所しさは、そういうことなのだろうか?
本当は、もう十分友達で。
自分が求めてるのは、それ以上のことで。
けれども妖夢は「友達になれれば」と言ってるし……。
「なんか、アリス変よ。秋だからセンチメンタルにでもなってるの?」
「そうかも……」
そうだ。
たぶんこれは秋のせい。
ちょっと思い悩んでいるだけ。
放っておけば、そのうちどうにかなるはず。
「結構重症っぽいけど……。別に妖夢も普通よ? ただ話して、ちょっとお菓子食べて。あ、ハチミツ系が好きみたい」
「ハチミツ?」
「紅茶に入れたりとか。香水も時々つけてるみたいだし。たまに、本に香りが残ってたりするのよね」
言われた瞬間、さっきまで読んでいた本から、ハチミツの香りがしたような気がした。
魂魄さんが借りてから、ずいぶん経ってるから、そんなはずないのに。
「ほかには?」
「それ以外? お酒がけっこう好きとか、甘いものが好きとか……。それくらい」
「随分知ってるのね。魂魄さんと友達なんだ」
「友達? そんなこと、考えたこともなかったわ。アリス、本当に重症ね」
「重症?」
「ま、分かってないから悩むわけよね」
クスクスと面白そうにパチュリーは笑う。
重症?
何に?
「だって、わたしとアリス、友達になろう、なんて言った?」
「言ってないけど……」
「でしょ。友達って、そういうものじゃない?」
「そういうものかしら?」
「質問に質問で返さないでよ。まぁ、それはいいとして」
そこでパチュリーは一度言葉を切る。
「とりあえず、アリスはちゃんと妖夢って呼べるようになることね。話はそれからよ」
「う……。それは」
「なんで、妖夢だけ『魂魄さん』なのよ」
「最初に会ったときからの流れよ。そのあと訂正するタイミングがなくて。なんか気恥ずかしいし」
「名前で呼ぶくらい、普通よ。友達だったらね」
「わたしと魂魄さん、まだ友達じゃないのよ」
「もーー、めんどくさいわねぇ」
パチュリーが背もたれに背中を預けながら大きく息を吐く。
自分だってわかってる。
本当は、もっと簡単な話のはずなのに。
「小悪魔ー、次に妖夢が来るのいつ?」
「妖夢さんですかぁ? すこし待ってくださいね」
パタパタと走りながら小悪魔が1冊のノートを持ってくる。
「次に来るのは、12月の頭ですね。どうかしましたか?」
「ううん。こぁには関係ないわ。アリス、あなたこの日は図書館に来ること。やることは、わかってるわよね?」
「そんな! 無茶苦茶よ。いきなり合って魂魄さんのこと名前で呼ぶなんて!」
「偶然来たってことにすればいいのよ。それから『魂魄さん』って呼んでる限り、もう本は貸さないから」
「う……そでしょ」
「ほんとよ。ここに来て愚痴られたらたまんないわ」
「…………」
返す言葉がない。
確かに、今日の自分は愚痴を言いすぎた。
秋で感傷的になっていたのかもしれないが、それにしても愚痴が多すぎる。
「本当に大変なのはその後だけどね……。普通友達程度で、そんなに気にしないし……」
ぐったりと項垂れてるなか、パチュリーのつぶやきは確かにアリスに届いていたが、その言葉がとどまることはなかった。
☆☆☆
冬の重たい空の下。
しんしんと雪が降っても、図書館の中は暖かい。
おまけに生クリームの乗ったホットココアなんて出されたら、本を枕にして寝たくなってしまう。
だが、今そんな余裕はない。
本を読んでもまったく頭に入らないし、書き物をしてもペンは進まない。
「あ、マーガトロイドさん。ごきげんよう」
魂魄さんがやってきたのは、午後の3時前だった。
緑色の洋服の上に紺のコートをきて、白いマフラーを巻いている。
「ごきげんよう、魂魄さん」
「パチュリーは?」
「今、ちょっと席を外してるわ」
「本を返しに来たんですけど、どうしましょうか……」
言いながら魂魄さんは、3冊くらい本を重ねる。
「ここで待っていれば、すぐに戻ってくると思うわ」
「それならいいですけど。今日は本当に寒いですね」
魂魄さんは、マフラーを外し、コートを脱いだ後、「はーっ」と両手に息を吐く。
「本当にね。パチュリーが戻ってきたら、温かい物でも用意してもらうといいわ」
「マーガトロイドさん、結構ここに来るんですか?」
「そこそこね。魂魄さんは?」
「わたしはたまにです。1、2か月に1回くらいですかね。でも、やっぱりよく来てるんですね」
「やっぱり?」
「よく名前を見るので」
魂魄さんは重ねた本の中から1冊を抜き出す。
裁縫関係のその本は昔読んだ記憶がある本。
そしてその本の読書カードに書かれているのは。
「結構趣味が被ってるみたいで。よく見たんですマーガトロイドさんの名前」
魂魄さんの細い指が示す先にあるのは「アリス・マーガトロイド」と筆記体で書かれた文字。
その下には流れるような字で「魂魄妖夢」と書かれている。
今まで、見ることはあっても呼ぶことはできなかった名前。
しっかり、その字を目に焼き付けてから、儀式のようにポケットの小瓶を撫でる。
「『妖夢』って、綺麗な名前ね」
そっと「魂魄妖夢」の文字をなぞりながら告げた。
魂魄さんは、恥ずかしそうにはにかんでから、その上にあるアリス・マーガトロイドの文字を指して。
「『アリス』も、可愛い名前でよく似合ってますよ」
魂魄さんの口から「アリス」という名前が出た瞬間、瞬間冷凍されたように固まった。
冷たすぎて、体が熱く感じてるのか、それとも本当に体が熱くなっているのかまったくわからない。
この日、初めて知った。
自分の「アリス」という名前を呼ばれることが、恥ずかしくて、くすぐったくて、それ以上に嬉しいことを。
「マーガトロイドさん」
数秒なのか数分なのかわからない沈黙のあと、魂魄さんが言った。
「もう一回、わたしの名前、呼んでくれませんか?」
話す魂魄さんの声はわずかに震えている。
「妖夢……」
でも、わたしの声はもっと震えている。
まるで自分の声でないみたいだ。
「妖夢も、わたしのこと、マーガトロイドさんって言わないで。もうこれからは」
不思議なほど響く自分の声。
「『Dear』のアリスのお願いなら」
妖夢の声は不思議なほど近くから聞こえた。
同時に、額にほんの一瞬の柔らかな感覚。
「額の上なら、友情です」
アリスの友達は、目の前で悪戯っぽい笑みを浮かべていた。