「ゆゆこ様」
「はい」
「ゆゆゆこ様」
「はぁい」
「ゆゆゆゆこ様」
「ねえ、ごはんはまだかしら?」
「ゆゆゆゆゆゆ……あれ?」
「私はゆゆゆゆこよ」
「ゆゆゆゆこは私よ。あなたはゆゆゆゆゆこ」
「そうだったかしら」
「ねえ、ところで、ごはんはまぁだ?」
きゃいきゃい、きゃいきゃい。ゆゆこ様たちはかしましい。
大抵の変なことは慣れてしまったと思っていたけれど、私は慣れたというより磨り減ってしまっただけのようだった。平静な心のまま、どうすればいいか、惑っている。
幽々子様が増えた。夜、眠る際には、微睡みの中で、夢と混じって、現実のことか分からなくなるけれど、朝になれば、幽々子様の部屋ではゆゆこ様たちが積み上がって眠っている。何人いるのかも数えたことはない。段々と増えているように思えた。何しろ、ゆゆこ様たちは白玉楼じゅうにいっぱいいる。
起きてきたゆゆこ様たちはご飯を食べて、白玉楼じゅうに散ってゆく。あちこちで二、三人ずつで固まって、中庭に面した部屋では扇を手に互いを扇ぎあったり、縁側ではお茶を飲んで語り合い、奥の部屋で花札に興じていたり。ちょうちょを追っかけているのがいることもあるし、花びらを摘んで放り捨てているのもいれば、睦み合っているのもいるし、きまぐれに力を行使して、ゆゆこ様同士で殺し合いをしているのもいる。私はなんだか、ゆゆこ様を眺めていることに、慣れてしまった。飽いている、というのが、一番近いかもしれない。飽いている、というのは、ゆゆこ様に? それとも、何もかもに、だろうか。私には何か、飽くことなく打ち込めるものがあるのだろうか。
観察をしていると、ゆゆこ様の群れの中で、本物かそうでないものか、見分けがつくようになる。たぶんそうだ、という感覚で、ゆゆこ様でないゆゆこ様を見つける。偽物を見つけると、私はゆゆこ様を連れて山へ捨てに行く。ゆゆゆゆゆゆゆこ様やゆゆゆゆゆゆゆゆゆゆゆゆこ様とささやきあっているゆゆこ様の手を引いて立ち上がらせ、引き離す。二人は一瞬ゆゆこ様を見上げるけれど、最初からいなかったみたいに、向き合って、またお喋りを続ける。
山は、妖怪の山ではなくて、名前のない、冥界にある山に行く。白玉楼を裏口から出て真っ直ぐ行くとある山は、特に理由もないけれど、たぶん、地上にある霊山とか、霊峰とか、山の下のほうではそういうのに繋がっている気がする。手を引いてあとについてくるゆゆこ様は、今から捨てられることを分かっているのかいないのか、とりとめのないことを喋りながら、ただついてくる。疲れたら、ようむ、おぶって、と無邪気に要求して、私は言われた通りにする。それで、山奥にゆゆこ様を捨てて、私は一人で帰ってくる。ゆゆこ様は、足萎えみたいに、立ち上がる素振りさえ見せず、私の名前を呼ぶ。ようむ、ようむ。あーん、あーん。声が離れていって、聞こえなくなって、それっきり。山奥に捨てたゆゆこ様のそのあとのことなんて、知らない。何しろゆゆこ様たちは殺し合いをしたりもするし、慣れてしまった。
そうやって、本物でないゆゆこ様を捨てていっても、ゆゆこ様たちは、減っていくことがない。日に日に増えていくようだった。いつか、最後の日に、ゆゆこ様が一人になって、いつもの幽々子様(ここで言う幽々子様は、以前の幽々子様のこと。いまいるゆゆこ様たちは、ゆゆこ様たち)に戻って、以前の生活が戻ってくる光景があるだろうか。私には想像できない。現実感がなく、ふわふわとした、遠いところへ来てしまったような気がしている。
いっそ、全て斬って捨ててしまえば。私は刃を持って中庭に立つ私の姿と、奇形になって転がるゆゆこ様たちの姿を幻視する。庭の木々を剪定するように、撫で切りにしてしまえば。すっきりとするのではないか、と。いっそ。
いけない。原因を見極めて、解決を図らないと。……私は、事態の先が見えないことに、苛立ちを覚えている。苛立ちなのか、むしろ諦めなのか。私には先が見えない。
霊夢がやってきた。霊夢め、こんな時に。ゆゆこ様たちは幸い外に出て行こうとはしないので、これまで事態には誰も気付いていなかったというのに。霊夢を待たせて邸じゅうを回り、ゆゆこ様たちを回収し、一つの部屋に詰め込んだ。襖には外からつっかい棒を噛ませて、ふう、と額の汗を拭うと、真後ろから「何やってんの」と霊夢の声がして、びっくりして口から心臓が飛び出しそうになった。
「な、な、な、何を勝手に入ってんのよ」
「待たせるからでしょ。何をばたばたやってんのよ。夜逃げでもするの?」
「しないわよっ」
「ん? なんかその部屋から異変の臭いがするわね。開けなさいよ」
待て、と言う前に身体が動いた。刃を抜くのと霊夢に突きつけるのを一つの動作のうちに済ませた。身内の恥、とか、理由を考える前に、見られてはいけない、と思った。……見られたくない。
「本気? ……どういうつもりかしら」
「……自分でも分からない」
霊夢が下がり、私は刃を構え直した。ようむー、と、場に合わない呑気な声がして、ゆゆこ様が襖を開けていた。よくよく考えれば、外側の襖だけを閉じても、内側の襖は普通に開く。
「ようむー、おやつー。……あら。なにこれ」
ゆゆこ様がつっかい棒を外すと、襖が倒れて、中から大量のゆゆこ様たちが雪崩落ちてきた。ぐらあり、とゆゆこ様たちが傾いて影が広がり、私も霊夢もゆゆこ様たちを見上げて絶句したまま、ピンク色の津波に飲み込まれた。
邸はあっというまに元の風景に戻った。庭先では四人のゆゆこ様たちが蹴鞠をしている。暖かな風が吹き、木々が揺れ、木の葉の擦れる音がする。穏やかな昼下がりの風景だった。
霊夢は増えたゆゆこ様たちを眺めて、お茶をすすっている。奇妙なことも、変に穏やかな、自然なことのように思える空気が満ちていた。
「で、どうしたいの」
「さあ……」
さあ、ってねえ。霊夢が呆れたように言い、はあ、と溜息をついた。
「元に戻ってほしいような気もしますが、別段困っていることもないんです。いざとなれば、一人を残して斬ってしまえば、それで良いような気もしています」
はあ、と霊夢はもう一度溜息をついた。
「……最近、宴会でも見ないと思えば。色々と問題ね」
私はぼうっとしてしまって、霊夢の言っていることにもはっきりと答えを返せなかった。そのうちに霊夢もぼうっとしてしまった。ここには諦めにも似た怠惰な空気が漂っている。そのうち、霊夢は「とにかく、なんとかしないといけないわ。幽々子は一応冥界を管理しているんだから、何か起こらないとも限らないでしょ」と言って、帰っていった。
何も考えなくても、身体は動く。家事と庭の剪定を作業的に終わらせてしまうと、刃を握る。刃を握ると、何も考えなくても、身体は動く。
刃を振っていると、ゆゆこ様たちが寄ってくる。技の型を確かめる私の前に立って、斬られることを望むように、刃に向かってゆく。ふわり、と刃を躱し、また次のゆゆこ様が正面に立つ。躱し、替わり、また躱し。繰り返し、繰り返し、しているうちに、私も斬ってやろう、という気になってくる。昔の剣豪が、時に落ちる木の葉を斬ろうとし、羽虫を斬ろうとし、猫を斬ろうとしたのと同じことだ。むきになって、ゆゆこ様たちを追っても、一人も斬れる気配がしない。
無心になると、不思議と疲れている自分を客観的に見るようになってくる。疲れた、もう止めたい、という気持ちが薄れてゆく。刃を躱すだけのゆゆこ様たちが、鉄扇を次々に構え、私の刃を受け流していく。後ろに回ったゆゆこ様が、私の頭をぺし、振り返り様に刃を振れば、更に後ろのゆゆこ様がぺち。ぺしぺしぺし、と鬱陶しいほどに頭を叩かれて、私は次第に疲れよりも、呆れのようなもので、刃を振る気力を失う。刃を下ろすと、疲れがどっと出て、へたりこむ。そうするとゆゆこ様たちは遊び道具を失った~、つまんない~、と言うふうに、ぱたぱたとそれぞれどこかへ散ってゆく。
疲れを超えて身体を動かすと、身体が痛む。ゆゆこ様たちが増えて以来、湿布が身体から手放せない。
白玉楼の管理と、刃を握ること。その二つで、私はできているようだ。他には何もない。自分が何をするべきなのか、分からない。焦燥感よりももっと柔らかな、形のないぼんやりとした不安感に、私は包まれている。
祖父は何と言っていただろうか。私自身がどう生きるかということについて、祖父が言ってくれたことはあっただろうか。姿も覚えておらず、いたかどうかも不明な母と父は。
祖父はただ剣を使うことを教えてくれた。祖父は何を思って私に剣を教えてくれたのだろう。祖父はもっと多くのことを教えようとして、だけど、祖父には剣を使うことしか教えられなかったのかもしれない。今になって、私は剣そのものだ、と思うことを、祖父は思っただろうか。私には剣を振ることしかない。剣を振っている時だけ、静かな気持ちになる。自分と向き合う私は、ぞわぞわして、落ち着かない。
「紫がうざい」
再び訪れた霊夢は、開口一番にそう言った。
「ゆゆこたちのことを話したらね。『もっとしっかりしないといけないわ』『近頃修行もさぼってるみたいだし』『何があっても対応できるようにしないと』……だって。助けてくれって言った覚えはないっての。保護者ぶってるんだか知らないけどさ……」
今日は気分を変えてみようとコーヒーをいれてみた。幽々子様も、ゆゆこ様たちも、コーヒーは嫌いだから、せっかく作れるようにしても、甲斐がない。表面を吹いて、冷ましながら、霊夢が口に運んでいる。
「あんたんとこは、そういうのないの。幽々子は、そういうの言わない?」
幼い頃はあったかもしれない。だけど、今は、そういうことに覚えがない。
「幽々子様はあまりそういうことは言いません。そもそも幽々子さまは剣術に長けているわけでもありませんし」
「そうよね。幽々子って保護者って柄でもないし。ね、あんたって子供の時は誰に育てられたの? お母さん?」
「物心ついた時から、祖父と暮らしていました。その前は分かりません。……両親が、今どこにいるのかも」
ふうん、と霊夢は言った。ぶらぶらと縁側に投げ出した足を揺らしていた。
「私はね。両親はいないし、誰が両親かも分からない。生まれた時からここにいて、何かが私の世話をしてくれてた。人間じゃないわね。時には姿が見えなくて、気配だけのこともあった。むしろ、大半が姿のないものだった気がする。そういうのが、私の身体に触れていた感触だけを覚えている。ご飯を食べさせてくれたり、着替えをしてくれたり、遊んでくれたり。その中に、紫もいた。紫は、他の誰もしないことをしてくれた。言葉を教えてくれたの。一つ一つ、これは何、これは何。紫が言う言葉を、私は繰り返し繰り返し、言葉にした。それで、私は言葉を使って、考えを自分の頭の中で組み立てることができるようになった。それから、紫は、手を使わずにものを動かしたり、別の場所に移動したり、そういう、人間離れしたことを教えてくれるようになった。……思えば、あれは巫女をやらせるための準備だったのね。
それから、これは陰陽道、道術、インドの密教、修験道……そういう名前のある法術だと、一つ一つ教えてくれた。だけど、それらに由来するものではあるけれど、本当のところは一つのことでしかない。そう言ったわ。
本質は流れの中にある。
存在しているものだけが存在しているわけではない。名前のあるものは、世界の流れの中で生まれた。生まれなかったものは、存在していないわけではなく、ただ表れていないだけ……全ては流れの中にあって、表れるのを待っている、と言ったわ。物事の、全ての新しい形は流れの中にある、と。新しい力は、新しい名前を持つ、と」
分かる? と霊夢は私に聞いた。いいえ、と私は首を振った。
「当然よね。物事には流れがあって、全ては流れに沿って動いている。流れは隣のものに影響を及ぼす。低いものは高いものの程度を低くしようとし、高いものは低いものの程度を高くしようとする。例えるなら、優秀な学生の集団に混じった学力の低いものは、ついてゆこうと自らを高めようとするし、低い平屋建ての村がやがて、技術の進歩に従って高い建築物が現れ、人が集まり、次第に村そのものの高さがあがってゆく。逆もあるわ。学生の集団であれば、周りの程度が低ければ、優秀なものが堕落することもあるでしょう。高い建物を作っても、人がいなければ、やがては高い建物も朽ちる。そして、最終的には互いと互いの間、平均値の辺りで留まるようになる。全ての人々が高みへ昇れるわけもないし、もっとも低いところで満足するものでもない。中庸の部分に留まるようになってゆく。
流れは新しい事物を生み、あるいは失う。世の中には完璧な肯定と否定があるのではなくて、肯定と否定はあらゆるものに存在する。だから、流れに逆らわず、また流されず、世の中が行くべきところを見極めなさい。あるべきところへ行くように、動きなさい。紫はそう言ったわ。幻想郷も流れの一つ。大いなる流れの中に存在している。失う流れと肥大する流れ、どちらも大きくならないようにしなさい。紫はそんな風にも言った。
でも……紫って、馬鹿だと思わない? そんな風にできたらいいけど、できるわけないじゃない。馬鹿みたい。結局、頑張ってやるしかないってことよ。ねえ?」
私、何言ってんだろ、と霊夢は一人で呟いた。
「つまりね。……ええと……紫がうざいってことよ。あいつは賢いふりして、何も分かってないの。紫が本当に賢いなら、私を自由自在に操って、幻想郷なんてどうとでもしてしまえるはずでしょ。ふん。あいつが何もかも自由にできたって、私だけはあいつの自由にできないんだ」
紫様は難しいお方だ。そういうところは、幽々子様も同じだ。苦労をするという部分では、私と霊夢は似ているかもしれない。
「妖夢は、幽々子が鬱陶しいって思ったりすることはないの?」
「幽々子様が?」
幽々子様に対して、どういった感情を持っているのか、自分で明確に言葉にしたことはなかった。また、言葉にするような相手もいなかった。幽々子様が鬱陶しい、うざい、面倒臭い、と普段から口にしていれば、今、霊夢に聞かれた問いに対して、あっさりと言葉を返してしまうことができただろう。だけど、私は言葉に詰まった。
「私は……祖父がいなくなってから、幽々子様と二人で……」
ぼそぼそと、考えを、思いつくまま、言ってよいことか思案しながら、慎重に、言葉にした。
「家のことをするのも、剣を修めるのも、庭を整備するのも……何もかも、全て、うまくいきませんでした。でも、幽々子様は何も教えてくれませんでした。だから……」
「ふうん。うちのは煙に巻いてばっかりだけどね。教えてくれないのもひどいわね」
「ひどい……いえ……」
そうとは思えない。幽々子様は、何を考えているのかはっきりしない方だ。それに、他の人のことをあまり、私は知らない。だから、幽々子様がひどいのかどうかさえ、私にははっきりしない。私は人間を知らない。幽々子様がひどいのか、そうでないのか。外の人間は幽々子様より優しいのかひどいのか。私は世間知らずなのだ。
「幽々子様のことは、はっきり言って分かりません。何を考えているのか、よく分からない方ですから。だけど……」
「だけど?」
「私の全ては、幽々子様次第で動いてきた気はしています。生活も、考えも、何もかも……幽々子様がいなくなれば、どうなるのか、想像もつきません。それが不甲斐なくもあり、不安で、また窮屈なところも……あります。私は、私自身が何を持っているのか、今ひとつ分かっていないのです」
「……私も同じだわ。言うのも恥ずかしいけど」
「考えを持っても、幽々子様は同じ考えを既に持っている。大きくなって、知識を持って……幽々子様の間違いを見出したり、自分なりの正しさを持つこともあります。でも、きっと、幽々子様の方が正しいのだろうな、と……」
私はうつむき、瞳を閉じ……顔を上げて、開いた。庭ではゆゆこ様たちが群れになって、遊んでいる。
「あんたは、幽々子がうざいっていうより、自分がはっきりしてないから、苛つくのかもね。……ううん、私も同じかも」
「……どちらかと言えば。幽々子様がはっきりしない、というより、はっきりしていないのは自分です。自分なりの意見があれば、幽々子様に従うことも、決別することも、はっきりとできるはずです」
子供だ、子供だ、と思う。脱却したいと思うわけでもないのに、ただ鬱屈している。
ゆゆゆゆゆゆゆゆこ様が、ようむー、と寄ってくる。コーヒーの入ったカップを渡すと、一口飲んで、苦いー、と私に返してくる。それで、ゆゆゆゆゆ子さまが来て、ようむー。コーヒーを飲んで、苦いー。
幽々子様、何をやっているのですか、と聞いても、仕方ないだろう、と思う。ここにいるのはゆゆこ様たちであって、幽々子様ではないのだ。
「紫はぜんぜん手伝ってくれそうにないわ。友達なんでしょう、幽々子の。友達なのにさ。友達なのにね。……ま、私にはどうでもいいんだけど。でも、幽々子のことは放っておけないわ。そうでしょ」
そうだろうか。どうにかするべきなのは、幽々子様ではないのではないか。幽々子様はここにいなくても、実際、仕事を滞りなくやっているのではないか。冥界の管理のことで、他から怒られることもない。白玉楼の中でさえ、こんなに穏やかだ。穏やかでないのは、私と、騒いでいる霊夢だけのこと。霊夢さえ、見知らぬふりをすれば、何事もないように穏やかなのだ。
「なんとかしないと。なんとかって言っても、方法なんて思いつきもしないけどさ」
あんたたち、元に戻りなさいよ。ゆゆこ様たちに言うと、ゆゆこ様たちは首を傾げて不思議そうにし、霊夢が立ち上がるとわー、と言って散らばって逃げていく。霊夢が立ち上がって追い掛ける。待ちなさい、と、わー、と言い合って追いかけっこをしているのはどうしようもなく牧歌的だ。
「あんたの言うとおりね。一匹ずつ減らしてやりたくなるわ」
走り疲れた霊夢が息を切らしながら帰ってくる。最後に残った一人を、幽々子様だと言い張ってしまえば、少なくとも外聞は保てる。
私にとって、幽々子様とは何なのだろう。私自身と密接に関わりすぎていて、ただ主人とだけは言い難い。
幽々子様なんて嫌いだ、いなくなれば良い、と思うだろうか。思い返してみても、幽々子様は私を煙に巻きはするが、私を責めたり、追い詰めたりするようなことはなかった。幽々子様の振舞は、私を不幸にさせなかった。
ただ、幽々子様は超えられない、という茫漠とした感覚があるだけだ。温ま湯、心地よく、怠惰で、だけど私は、それでは一人では存在していられない。幽々子様が常にいる。抜け出したい、抜け出さなければならない。
私が疎ましく思うのは、具体的に変わろうとしない私自身なのかもしれない。幽々子様がいなくなれば、とさえ思う。そうでもなければ、私は一人にはなれない。……なんてエゴイスティックな、自儘に過ぎる感情だ。私は私を取り囲む何もかもを、疎ましく思う。何のために存在しているのか分からない血肉と、ろくな考えを持たない脳を。
……『なんだ、それって鬱陶しいってことよ。妖夢、あんたは普段あんまり考えないかもしれないけど、鬱陶しく思ってんの。たまには吐き出したら気持ちよくなるわよ』なんて、霊夢なら言うかもしれない。霊夢のことを羨ましく思う。霊夢は、あっさりと色んなことに答えを見出してみせる。そう言われると、そうなのかな、と思う部分を見つける。それは、本当のことではなくても、真実の一端を捉えているのだろう。そもそも、全くの真実というものが、存在するものだろうか。
幽々子様とは何なのだろう。そもそも、どうして増えたのかさえ、全く分からない。理解が追いつかない。幽々子様が分身できるという話を聞いたことはない。私はできる。私には半霊があるから、半霊が私の姿を写し取ることによって、分かれたように見せかけることができる。だけど、幽々子様ができるかどうかも分からないし、そんな風にする理由もない。もっとも、理由なんてあっても言ってくれないだろうし、なくてもする人かもしれないけれど。
だけど、そういう人だから、理解の及ばないことだから、ですませていれば、思考が停止してしまう。何も考えなくなってしまう。かと言って、何か考えるべき事柄も、ないように思える。斬ってしまえば良いのだ、という考えばかり浮かぶ。私は短絡的だ。私には斬ることしかできない。幽々子様でなければ偽物なのだし、斬っても問題はない。幽々子様であれば私程度にあっさり斬られることはないだろう。だけど、取り返しのつかないことになれば、と思う。惑ってしまう。迷いを抱くことそのものが、私の未熟さを示しているのかもしれない。
刃を握れば、ゆゆこ様たちに斬りかかることはできる。だけど、刃を握っていない時に、はっきりと斬る、と決意することはできない。
「紫がさあ」
また紫様か、とは言わない。
「うざいのよ。ほんとに。……何も教えてくれないの。むしろ、何もするな、と言わんばかり。こっちは悩んでるってのにさ」
「悩んでるんですか?」
「他人事みたいに言うわね。悩んでるわよ。当たり前でしょ。未熟だのしっかりしろだの、言われてそのままにはしておけないでしょ。だからって相談もできないし。外にはバレない方がいいんでしょ」
ええ、まあ、それは助かります、と答える。
「全く。先の見えない状況だからって、あんたも何かしなさいよね。私ばっかり空回りしてるみたいだわ」
とは、言われても。とは、言わない。何もしていないのはその通りだからだ。
「でも、仕方ないのかもね。こんな風景ばっかり見てたら、平和的すぎて何もする気分になれないわ。正直、神社にいるより気が楽よ。誰も文句も言わないし、悩んでることもない。それに、同じ悩みを持ってる奴もいるし」
今日のゆゆこ様たちは、皿を持って一列に並び、切り分けられたおやつのカステラを皿に載せてもらうのを待っている。妙に規則正しいのは、皆におやつを分ける時、どうしても自分勝手に好きなだけ食べるものがいるから、きちんと並んで全員に回るように言い渡したからだ。そうしないと、おやつはなし、ということにすると、みるみるうちに規則ができていった。
「別に、そのままでもいいのかなって気分になるわ。……実際そうなのかもしれないけどね。問題も起こってないし」
切羽詰まった問題がないのは確かだ。そのために、私は無為に日々を過ごしている。
「何も、することもないし、できることもないし。……こんな風なのも悪くないのかもね」
「それはいけないわね」
ずるりと空中から紫様が現れてきた。私は少し驚いたけど、霊夢さんは驚きもせず、露骨に嫌そうな顔をして見せた。
「こんなところにまで、来ないでほしいわね」
「そうもいかない。妖夢のことを妖夢にさせるのはいいけれど、諦めの気持ちを学ぶのは良くない。妖夢が諦めるのは勝手だけど、あなたが諦めの気持ちを抱いていては、ダメになるわ。何もかも」
「うるさい。あんたの説教なんて聞きたくないのよ。問題を解決させたいなら、ちょっとくらい助言してくれたっていいでしょ。何もしてくれないくせに、文句だけ言って」
「あらあら、幽々子ったら、こんなに増えちゃって」
「聞きなさいよ」
ゆかりー? と一人のゆゆこ様がゆかりを見ると、ゆかりー、ともう一人が続き、ゆかりー、ゆかりー、と、途端にゆゆこ様たちに紫様は囲まれて、あらあらうふふと紫様は笑った。
「可愛いわねえ。確かに、何だかどうでもよくなるわ。でも、いいのかしら?一度諦めを覚えると、後を引くものよ。良くないと思うけれどねえ」
ふん、と霊夢はそっぽを向いて、知らんふりをした。
「あらあら。ごめんなさいね、妖夢。あなたも、どうにかしなさいね。どうにかしたいなら。幽々子のことは心配いらないけれど、あなたがそんな風だと、私も心配だわ。ではね。ああ、あと、一人貰っていくわね。かわいいから」
紫様はゆゆこ様を一人抱えて、隙間の中へ帰っていった。
「何しに来たのよ、あいつ。鬱陶しいやつ」
「紫様は、霊夢さんを心配してくれてるのですよ、きっと」
「心配? あいつは嫌な奴よ。鬱陶しいことばかり言って。それに、思い返したら、異変を解決したって、あいつは褒め言葉の一つもよこしてくれたこともない。決めたわよ、誰があんな奴のために、異変なんか解決してやるもんか。これから先もずっと」
「霊夢さんは、紫さんに褒めてほしいんですか?」
「はあ!? 誰がいつそんなことを言ったのよ」
霊夢さんはそう言ったけど、やっぱり霊夢さんは褒められたいのではないのかしら。紫様が褒めて、悪く言えばおだてるようにしたら、問題はないのではないのかしら、と思った。
「分かるかしら」
「分かりません」
紫様が来ていた。珍しく、歩いてきて、ゆゆこ様たちとしばらく戯れ、一緒になって遊び回り、一緒におやつも食べて、紫様は言った。何も分からない。
「分からないのねえ」
ふう、と紫様は息をついた。どうやら分からなければならないことらしい。
「この幽々子たちは本当かしら。あなた、本当の幽々子を知っている?」
「知りません」
「知らなければならないことではないかしら」
「その通り、かもしれません。だけど、幽々子様は自分を見せようとはなさらなかった。どう分かれと言うんです」
「それはそうよ。幽々子だって、自分が何者か、なんて分かっていないもの」
いいこと、妖夢、と紫様は言った。
「分かる、というのは何も、全てが全て、世の中の真実全てを分かれ、というのではないのよ。自分なりの答えを見出すということ。疑問を持たない、ということが、迷いなくあらゆる事柄に答えを出すということよ。答えは間違っていたっていい。何もしないよりは、よほど良いわ」
いいこと、妖夢、と紫様は繰り返し言った。幽々子様はこんな風に諭してくれたことはない。霊夢は拗ねるが、余程良い師なのではないかと、勘ぐってしまう。
「誰も、何かを分かっている人なんていないのよ。私だって、幽々子のことも知らなければ、あなたのことも知らない。だけど、私はこう言うのが良いと思って言っている。あなたも、あなたが良いと思う行いをしなさい。それで良いのよ」
ま、この現象は何か、知っているけどね、と紫様は言った。
「教えてもらう訳には、いかないのですか」
「いかないわね。別にあなた一人が困っているのなら、別にいいけれど。霊夢が顔を突っ込んでいることを、私が解決してしまっては、問題があっても紫が解決してくれる、と思うかもしれない。それに、いま私が勝手にすると、あの子は怒るわ、きっと。へそを曲げられても困るわ。まったく、思春期ってやつはねえ」
「そうさせたのは、あなたではないのですか」
ふふふん、と笑って、紫様はどこかへ行ってしまわれた。
私の見ているのは、私の生み出した幻かもしれない。
何が本当のことで、何が本当のことでないのだろう。幽々子様が、私の全てを見ている。監視して、管理している。幽々子様の目が私を見、幽々子様の口が私を諫める。私の身体は強張って、何もできなくなる。
幽々子様にそのつもりがなくても、私はそう感じ、それに怯えていた。私の生活の全ては、幽々子様を中心に回っている。
増えた幽々子様は、私の心の表れかもしれなかった。
では、本物の幽々子様は?
「…………」
霊夢が来て、縁側にむっすりと座っている。
「今日は、紫がさ、とは言わないのですか」
「…………」
霊夢は何も言わない。何だか、不機嫌そうなので、私はどうすべきか迷った。とは言え、言いたいことがあるのなら、そのうち話し始めるだろう、と私は鷹揚に構えておいた。そもそも、何か言いたいからここに来ているのだろう。
「殴りつけてやったわ」
「誰を?」
「紫をよ。あいつ、いつまでもしつこく言うもんだから」
霊夢は立ち上がって、私を睨み付けた。きょとん、として、見返す私の顔は、さぞかしバカらしく見えただろう。霊夢の行動は唐突で、睨み付けられる理由も分からなかった。
「殴りつけてやったの! あいつ、私を見てたわ。傷付いたような顔して。馬鹿みたい。痛いはずなんてないのに、なんで痛いような顔をするの。私、苛々して、出て来たのよ」
それで、行く先がなくて、ここに来たんですか。私はまず、そう思ってから、そのまま言ったら怒るだろうな、と思った。だけど、ここで何を言えば気に障らないだろう。気を遣って喋っても、気を遣われていると思えばまた気を悪くするかもしれない。
「何か言いなさいよ」
黙っているという選択肢もないらしい。
「あんまり良くないと思います」
「良くないわよ。分かってるわ。要するに、解決すればいいのでしょ」
そう言うと、霊夢は立ち上がって、ゆゆこ様たちに弾幕を浴びせはじめた。途端にゆゆこ様たちは一塊でぱちぱち弾けてゆく。まるで道中の雑魚妖精みたいだ。わー、わー。ぎゃくさつよー。しゅくせいだわー。おじひ、おじひー。あんまり危機感はない。
「解決してしまえばいいんでしょ。本物がいたって、ちょっと服が破けるぐらいで済むわ。そうすればいいのよ。それでいつも済んでたんだから。ちょっと待ってなさい。4、5分もあれば片付くから」
私は霊夢のしたいようにさせておいた。私は、ゆゆこ様たちを必死に見分けたり、これまでと変わらないように白玉楼の運営をしてきたのが、馬鹿らしくなった。霊夢は宣言通り、ゆゆこ様たちを粗方片付けて、満足げに帰ってきた。それで、神社に帰っていった。次の日になると、ゆゆこ様たちは元通りくらいの数に戻っていた。それを見て、霊夢は落胆して、また攻撃していたけど、結果は同じだった。
霊夢は謝ったかな、と思った。どうしたって、良くないかもしれない。殴ってしまったのなら、殴ってしまったことは消えはしない。
殴って、殴ったことを悪いと思うのなら、やらなければいい。私はどうしただろう。幽々子様がここにいて、不手際を責められたら。大人しく頷いて、ごめんなさい、と言うだけだろうか。幽々子様が私を責めることも、考えにくい。幽々子様は正面切って褒めも、責めもしない人だ。それはそれで、私はどうすれば良いか分からなくなる。
「ただいまあ」
幽々子様が唐突に帰ってくるので、私は驚いた。驚いたのは私だけではなかった。
ゆゆこ様たちが、一斉にざわめき、ざざざ、と後ずさる音で邸内はいっぱいになった。あらあら、と幽々子様が柔らかく笑い、ゆゆこ様たちを見た。
「ずいぶん、変わったことになっているのねえ」
幽々子様が両手をあげた。ゆゆこ様たちが、人魂に変わって、一斉に邸の扉へと向かって飛び、そのまま外へと飛び去ってしまった。
「何を、したんですか」
「何をやったって」
私が聞くと、幽々子様は不思議そうに言った。
「幽霊は、輪廻の環に載せないと。妖夢、本来はあなたがしておかなければいけないことよ。家の中をあんなに幽霊だらけにして。きちんと追い出しておかないと」
「……幽霊?」
「そうよ。幽霊が人魂の姿をしていると、すぐに追い出されてしまうわ。だから追い出されないようにしたの。冥界に来た幽霊は、裁きをできるだけ逃れようとして、その場に留まろうとするわ。ここに来て、追い出されないような姿を取ったのよ。あなたの心の中から、私の姿を映し取った。私がいない間に」
「そもそも、幽々子様はどこに」
「あら。地獄の閻魔様のところに、用事で行ってくるって言ったでしょう。忘れたのかしら?」
覚えていない。というよりも、ゆゆこ様たちのことで、忘れてしまっていたのかもしれない。失態だ。
「仕方ないわねえ。ああ、これおみやげ。はー、久々に長いこと遊んだわあ」
そう言って、幽々子様は『地底名物 マカダミアナッツ』を手渡してくる。見れば、大荷物で、随分長いこといたような感じだ。それに良く見れば、ほんのり肌が小麦色になっている。まるでビーチで焼いてきたようだ。
「幽々子様。用事というのは、一週間か二週間か、かかるものですか」
「あら。そんなに経ってたかしら。地獄ってのは案外居心地のいいところねえ。温泉もあるしリゾートも最近出来てるし。再開発が進んでるのよ。エネルギーが豊富だから」
「その肌の色も」
「日焼けマシーンがあったから、つい……」
でも、ゆゆこ様たちを比べて見分けがつくのは、いいことだ。混乱しなくていい。それに、この物言いも幽々子様そのものだ。
「まあ、妖夢もその様子だと困っていたようだし。帰ってきたわよ。ただいま」
「……お帰りなさいませ。幽々子様」
「うん」
幽々子様は私の髪をくしゃくしゃ撫でて、邸を奥へと入っていった。私は何となく、釈然としない。
それで、幽々子様が帰ってきて、私の日々は元のようになった。幽々子様の為に食事を用意し、掃除をして、庭を整える。
庭は刃で切ることもあれば、枝切り鋏、剪定鋏、手鋏を使うこともある。それらは季節と伸び具合と気分によって使い分ける。剪定用の鋏が一番正確で思った形が出るけれど、刃で切ることによる粋さも私は好きだ。私の好みで庭をしては、本来いけないのだけど、幽々子様は特に文句も言わなければ、注文も付けない。つまりは自由にして良いのだろう。
幽々子様は、庭先に興味がないというより、自分で好みになさる。むしろ、好きな方だと思う。お茶を点てる時には茶室よりも庭を使うことが多い。庭先を見て、風景に合わせた創意で場を作る。一度、私が剪定を大失敗してしまった時……幽々子様は創意で見事に場を整えて見せた。庭先の定型など、無いのだ、と言わんばかりで、私は幽々子様に驚いた。
庭先を整えるのは好きだ。長いことやって慣れている、というだけではなくて、幽々子様が無言で肯定してくれているような気がするからだ。今日も、整えるところは整え、斬り拓くところは斬り拓く。
紫様が来ているようだった。私が気付いて仕事の手を休めようとすると、いいからいいから、と紫様は言い、しばらく私の仕事を眺めていた。今は机を挟んで、幽々子様と話をされているみたい。仕事が一段落したら、お茶を持って行こう、と思った。
紫様にお茶を煎れていくと、あら、ありがとう、と紫様は言った。
「普通のお茶ね。やっぱり、その方がいいわ」
「普通?」
「前は、メロンフロートを出してきたわよ」
「変わったものを出してみようと思って」
「幽々子がいなくなって、混乱してたんじゃない。今の方がいいわ」
そうでしょうか、と答える。私は私なりに思うところがあったし、コーラやコーヒーを作っているのも、嫌いじゃなかったんだけどな。
「メロンフロート。何よそれ。飲みたい。飲ーみーたーいー」
はいはい、と頷いて、私は部屋を出た。
紫様、大丈夫だったのだろうか。霊夢に殴られたらしいけれど。そう言えば、あれ以来、霊夢は来ない。
紫様の帰り際、私はそっと顔を探り見た。顔に、傷痕は見えない。綺麗な白い頬のままだ。紫様なら、傷痕もすぐさま隠してしまえるのかもしれないけれど、少なくとも外見や立ち振る舞いからは伺えなかった。
紫様が帰ったあと、幽々子様は私を呼び寄せた。
「妖夢、霊夢のところに行ってあげなさい」
「え、いきなりですね」
「いきなりもいかさまもない。すぐ行って来なさい。あ、ちょっと待って。さっきのメロンフロート美味しかったから、もう一個作ってから」
はいはい、と答える。あんなのメロンソーダにバニラアイス乗っけるだけだから、自分でしたらいいのに。
霊夢のところへ行くと、霊夢は神社にいた。いつも通り庭先の掃除をしていた。霊夢は庭先の掃除をしているか、縁側に座ってお茶を飲んでいるかだ。行動パターンは私によく似ている。
冥界の外は秋が深かった。冥界は不思議に暖かいが、外に出ると途端に寒さを実感する。もう一枚上着を羽織ってくるか、マフラーを巻くか、タイツを穿いてくれば良かったと思う。
霊夢は私を見ると、無表情っぽい顔で私を見上げてから、うへえ、という顔をしてみせた。霊夢は私を縁側に座らせて、湯飲みを私に渡して、「口、つけてないから」と言った。それで、自分のを入れ直してきて、私の隣に座った。
「どうしたの。あんたが来るなんて、珍しいじゃない」
「それは、幽々子様が……」
「幽々子が? どうしたっていうのよ。どれか一人が言ったの?」
「どれか? ああ……」霊夢は幽々子様が帰ってきたことをまだ知らないのだ。「幽々子様、帰ってきました。いっぱいいたのは霊魂で、私の心の中の幽々子様の姿を映していたんです」
「霊魂? ……まあ、そうね。幽霊はどんな姿にもなれるし、人の心を映し出すわ。見たいと思うもの、見たくないと思うもの……そんなことだったの」
「ええ。……私は未熟です」
霊夢ははあ、と溜息をついて、空を見上げた。
「道理で、いくら倒しても沸いてきたはずね。はあ……幽々子がいたから沸かなかったのかしら。幽々子がいたら、すぐに追い払われるもんね……幽々子は?」
「幽々子様は、地獄に行ってたみたいです。バカンスをしてたみたいで……マカダミアナッツ、いただきました」
「はあ? 私にはないの」
「ないです」
「何よ。なら言うんじゃないわよ。嫌がられるわよ」
はあ、と霊夢は溜息をついた。ちょっと気が立っているみたいだった。
「紫さんとは、あのあと、どうなりました?」
「紫と? どうもしないわよ。何も言ってこないわ」
「あれきり話していないのですか」
「そうよ。元々、言いたいことがあればあいつが勝手に出てくるだけだもの。私が何か言いたくても、あいつがいなけりゃ言い様もないわよ」
そういうものか。霊夢と紫さんの関係は、どこか真っ当じゃない。霊夢は紫に、不満を抱いている。けれど、それを素直に言い表す術を持たない。だから、暴力に走ってしまうのだ。
「でも……謝った方が、いいですよ。良くないです。きっと」
「謝れって? それはそうよ。謝った方がいいのは分かってる。でも、出て来ないんだもの。どうしようもないでしょう。あいつもさ、鬱陶しいほど忠告は言いに来たくせに、こういう時に来ない」
「霊夢さんが憤っているから、紫さんも遠慮して……」
「紫が遠慮? 誰が遠慮なんて、そんな謙虚なことをする奴よ。ふん。嫌いよ、あんな奴」
霊夢さんは強情で、意地っ張りだ。私がどう言おうとも聞きようがない。ふん、とそっぽを向く顔は、一生そのままなように思えた。まあ、いいか、と思った。紫さんとのことは、何とかなるだろう。紫さんは大人だし、霊夢さんが意地を張っても、そのうちに何とかしてしまうだろう。私は話を変えて、他愛もない話題を二つ三つ話し、帰った。
帰ってから、幽々子様に顛末を話すと、「ふうん」とだけ言った。失敗したのかな、と私はなんとなく、思った。
しばらくすると、霊夢さんと紫さんは前のように仲良しに戻ったみたいだった。私には分からないけど、幽々子様が何かしたような気がする。
日々が過ぎた。幽々子様は変わらずのほほんとして見えたし、私の日々も家事と庭師と剣の修練で過ぎていた。時折、庭の隅で数人のゆゆこ様がいることがあった。そういう時、私は少しご飯を分けてあげて、それから外に連れ出していった。山に捨てていた時もそうだけど、きっと外ではゆゆこ様は幽々子様の姿を取らないだろう。その場にいる誰かの姿を取り、やがて裁きを受けた後輪廻に乗る。転生してゆくのだ。
霊夢が遊びに来た。これはまた、久々のことだ。いつものように庭先に座った。
「問題が起きてた時は嫌なものだったけど、すっきりすると何だか寂しいわねえ」
私がお茶を持って行くと、霊夢はのんびりと朗らかに、そう言った。
「紫さんとは、仲直りしたみたいですね」
「そう見える? ……まあ、喋るようにはなったわよ。あっちから話しかけてきたから話しただけだけど」
霊夢さんの口ぶりを聞いていると、嘘だろう、という気がした。霊夢さんがこんなに朗らかだというのは、全部すっきりさせたからだろう。
「何笑ってんのよ」
「いいえ、別に。仲直りしたのなら良いことです」
「あいつと仲良し、みたいに言わないでくれる?」
で、妖夢の方はどうよ、と霊夢は言った。
「あんた、悩みがあったでしょう。ゆゆこ達のことより、幽々子のことで」
「まあ、ゆゆこ様たちは幽々子様と見分けがつきませんでしたから、幽々子様と言えば幽々子様ですが……」
「幽々子とのことで悩んでたのが、ゆゆこ達のことではっきりした訳でしょ。どうなの」
「別に、どうもしません。いつもの通りです。私は剣術の稽古をして、家事をして……」
ふうん、と霊夢は言った。
「別に、あんたがそれでいいんなら、いいんだけどね。たまには鬱憤晴らしも必要よ」
「鬱憤晴らしって……いくら何でも、主人を殴るような真似はちょっと……」
「な、殴るったって、あいつが大袈裟なのよ。ちょっとはたいたくらいで泣きべそかくんだもの。信じられないって目をしてさ」
「ちょっとはたいただけなんですか? 前は、殴ったって」
「殴ったようなものだからそう言ったのよ。はたいた、って言ったら、なんだそんなことか、って思うでしょう。あの時はそれくらい大事だったのよ。……いや別に大事でもないけど。別に殴ってもいいやつなのよ。紫のことなんて全然大切じゃないし」
大体ねえ、あいつは嫌な奴なのよ。霊夢は紫の話を始めた。紫の話をする霊夢は不機嫌で、でも、楽しそうだった。本当に嫌いな奴なら、言葉にもしないだろう。
私はどうだろう? 正直なところ、幽々子様が好きなのか嫌いなのか、自分でも今ひとつ分からない。
上着を脱いで諸肌になり、刃を握る。直接肌に感じる空気が、冷たく心地よい。
日に、二度に分けて鍛錬を行うことは、もはや身に染みついた習慣と言えた。食事や睡眠と同じように、いつ始めたか分からないほど、古い習慣だ。
刃を振ることに、疑問を持ったことはない。だが、刃を持って何をするのか、それが何になるのかを思ったことはあまりない。それは幽々子様が決めることだ。刃を振る時、何かを考えながらしていても仕方がない。敵を前にして、あれこれと考えていてはいけない。斬る時はひたすらに斬るものだ。
汗をかき、足が震えるほど剣を振っても、何も思いはしなかった。だけど、どうしてか、これではいけないと思った。闇雲に刃を振っても、見えるものは何もないのではないか。身体を苛めるだけでは、それ以上にはならないのではないか。
幽々子様に従っていて、良いのだろうか。
決まった型を外れ、刃を上段に振り上げて一度、静止する。二の腕に筋肉の重みを感じる。そのまま数秒静止して、刃を振り下ろす。そんなことをしても、気持ちは晴れはしない。
眼前に幽々子様が現れる。そのまま、刃へと向かってくる。ああ、これはゆゆこ様か。幽々子様がそんな風にしたことはない。幽々子様は私の修練を邪魔するようなことはしない。ゆゆこ様が溢れていた時、刃の修練にじゃれつくゆゆこ様たちのことを思い出した。あの時の真似だ。私は、ゆゆこ様を斬るつもりで、そのまま斬り下ろした。ゆゆこ様はどのみち霊魂だ。
じゃりん、と音がした。
鉄扇が刃を組み伏せて、ゆゆこ様は私のすぐ前にいた。剣士の言い方で言えば、間合いに踏み込まれている。ゆゆこ様は幽々子様だった。幽々子様、申し訳ありません、と機敏に膝をつくには、私は疲れていた。頭の判断が追いつかない。
「……刃に迷いがあるわ、妖夢」
それは幽々子様だった。もう一度、と言わんばかりに、幽々子様が鉄扇を返し、ちゃりん、と軽く剣の鳴る音がし、私は一歩引いて刃を振り上げた。刃を振り下ろすと、幽々子様はそれを捌き、流した。容易なことではない。刃と鉄扇にはそのものの重さが違うし、振り下ろす勢いと腕の力がある。幽々子様はいとも容易く受け流す。技量もそうだけど、刃に怯えてその芸当はできない。
「自分が何をすればいいか、分からないの?」
「……はい。幽々子様」
素振りのように、繰り返し、刃を振り上げる。最早、幽々子様に刃を向けているという忌避感はない。振り下ろし、受け流される。
「ふうん、妖夢。なら教えてあげる。できるだけはっきりとした言い方で言ってあげる」
繰り返す。振り下ろし、受け流し。
「妖夢、あなたは変わったことはする必要はない。今のままで良いわ。魂魄家の者は、西行寺家――つまり私を守るのが務め。あなたのご先祖様達も、そういう風にしてきた」繰り返す。「だから、妖夢。あなたは私を守ること、家を守ることの他に、何も考えることはいらないのよ」
流れだ、と私は思った。霊夢は言っていた。全ての物事には流れがあると。魂魄家も流れの一つだ。古い血の中にある、大いなる流れ。その中に私はいる。
従うことは、きっと正しいだろう。正しいとはなんと安らぐことだろう。否定する私は、大いなる流れからすれば、きっとちっぽけな存在だ。従って、従って、やがて終われば、私の存在は肯定されることだろう。だから、魂魄家の使命を果たすことは、正しい。
――本当にそうか? 魂魄妖夢。
私は、まだ表れていない流れの一つだ。私は一人の魂魄妖夢だ。魂魄家とは違う。
私の中で流れが揺らぐ。流れとは、私の心一つのことだ。何もかもが、それで変わってゆく。
「幽々子様。……斬ります。斬らせていただきます」
本当にそれが正しいことか? ……答えの出ない類の問いを、心にぶつける。迷っている。刃は未だ中空にあり、どこへも届いてはいない。
だけど、それはそれでいい。幽々子様を試す。幽々子様を斬り、一人になる。生まれたものは結果だ。結果を生むには、今の私には、斬るしかない。迷いを抱えていたっていい。何かが生まれるなら。
私が耳元で囁いた言葉を、幽々子様は鼻白んで聞いたように思えた。少なくとも、大きな反応は示さなかった。一歩を引いて、構えを取った私を前に、鉄扇をふわりと掲げただけ。幽々子様は関係ない。私が斬るのだ。
鍛錬をしていたぶん、身体は疲れている。だけど力はまだ入る。身体は動く。幽々子様に斬りかかる、という禁忌の壁は、すでに超えている。
身体が動くならば、何をするのも自由だ。私は何もかもをすることができる。幽々子様を斬ってしまうことだって、本当にできるかもしれない。
刃は、音さえ鳴ることなく、幽々子様に躱された。二歩目で踏み込んだ切り上げは、鉄扇で触れて、すぐに弾かれる。
幽々子様の受け太刀は熟練の腕に到達している。躱し、捌き、流しの技術には、私は遠く及ばない。時に鋭く、雷撃のように踏み込んで抉り込むように切り返し、鉄扇を突き出してくる。幽々子様が斬り込む際、私は受けに徹さざるを得ない。相手の攻めの隙を見つけることもできない。幽々子様は一度、二度突くと、すう、と引いてしまう。攻めに徹することは少ない。受けては引き、引いては攻める。そのリズムが掴めない。
私ばかりが振り回されて、身体が重たく疲労する。
今もそうだが、幽々子様に、きっと敵意などない。幽々子様は私に鉄扇を向けているのではない。私は、誰に刃を向けている?
私は私の刃で疲労している。誰も私に敵意なんて向けはしない。
幽々子様を斬って何になる? きっと、何にもならない。私の中には迷いがある。たぶん、一生、消えはしない。
私の迷いは、私自身が何一つ考えず、選んでこなかったことから発している。
私は私のままでいい。本当の私は、幽々子様に付き従う私でいい。そこから変わろうとすれば、まずは従者に戻ってからだ。戻ってから、考えればいい。いま、何かを決めつけてしまえば、道を誤ってしまう。
だけど、どうして、私は幽々子様に刃を向けている? どうして主人を斬ろうとしている?私は私の、考えも及ばなかった激情によって、刃を振ろうとしている。激情に身を委ねようとする際で、私は未だ迷っている。
左への横払いを受け流されて、足がもつれた。身体の動きが追いつかない。幽々子様が素早く動き、私の首の背を打った。痺れが全身を周り、目の後ろで光が走った。
倒れ伏してから、自分が倒れているのだと気付いた。刃を杖代わりに身体を起こし、立ち上がれず、膝を付く。
「いいこと、妖夢。あなたはいつか私を殺すわ。刃によって、ではなく、考えによってね。あなたは私と、ずっと一緒ではないわ。……たぶん。いつか、離れた時、離れた後、あなたは私の思う行動とは別の行動を取る。別の考えを持つようになる。その時になって、私の思考から離れて、一人になってゆく。妖夢。いつか、子供は親を殺すものなのよ。いないものとして扱うようになるものなの」
幽々子様が鉄扇を開く。私と幽々子様を隔てる壁のように私は思う。
「あなたのしていることは間違いではない。必要なことよ。親代わりの、私の考えに違和感を持ち、不信感を募らせ、苛立ちの中に一人立ちすくむ。そうやって自我を育てていけばいいのよ」
幽々子様は優しいのだ。たぶん、何も言わないのは、何かを言うべき人ではないのだ。私は幽々子様が好きだ。主人としては良い人ではないかもしれない。幽々子様は、私の主人だ。主人と、好きである人というのは、両立しても良いのだ。
霊夢は言った。紫は何もしてくれない、何も教えてくれない、鬱陶しい、と。飜って考えると、幽々子様はどうだっただろう? いつも、幽々子様には悩まされてきたように思う。普段はどちらかと言えば家事をしているのは私だ。だけど、それで保護者の立場にあるのは私、ということではないだろう。むしろ危急の際にはいつも幽々子様を頼ってきた。普段は謎かけのように、何かを聞いてもはぐらかされるばかりで、幽々子様の考えに、自分の考えが追いついたことはなかった。私はいつも幽々子様の手の平の上だった。自立など、考えられもしない。いつも、私の行動を批評する幽々子様が頭の中にいて、決して離れることはなかった。私は幽々子様に管理されているも同じで、私は幽々子様の指示されるままに動いた。幽々子様の管理下から、離れたことはなかった。
『主人に、早くいなくなって欲しい。死ぬものではないけれど、死ぬものなら』『そうすれば、私は私のままで、生きられるのではないか』『私の生き死にも、私以外のところで、他人に煩わせることなどなくなるのではないか』
私は幽々子様にも言えず、誰にも言えず、そんな言葉を溜め込んだことさえあった。なんてエゴイスティックで、ナルシスティックな考え……。
「幽々子様、私は……」
私は、泣きたくなどないのに、涙を止められなかった。自分が情けなくて、仕方なかった。
「私は、あなたのためを思ってあのゆゆこ様たちを斬らなかったんです。あなたがいなくなれば困ると思って。あなたがいなくなったと思った。あなたを元に戻すことを考えた。だけど、私には何も浮かばなかった。いつものように家を保つことしかできない。こんなことでどうするんです。私は、剣の腕の他に、なにもない。もっと物事を知りたいんです。こんなことで狼狽えている自分自身が恥ずかしく、あっさり解決されてしまわれた幽々子様が羨ましく、妬ましいのです」
泣き顔を見せたくない。けれど、幽々子様の顔を見つめることを、止められなかった。
「幽々子様、私はあなたになりたい。聡明で、狼狽えず、躊躇わず、いつも飄々と泰然でいるあなたに。……私は、こんな未熟で中途半端な、焦りばかりの私は嫌なんです」
私は、手から刃を離した。土の上に刃が落ちた。私は座っていられなくなって、へたり込んだ。
幽々子様を見ていられなくなって、俯いた。地面を見て、涙ばかりこぼしていた。幽々子様が私を見ているのは分かった。私が声もなく涙をこぼしていると、やがて、幽々子様の手が背中に触れた。
「妖夢、私が焦らないなんて、本当に思う?」幽々子様が私に言う。「今、結構焦ったわよ。妖夢がそんな風になることなんて、なかったことだもの」
よしよし、と背中に触れながら、幽々子様が私を慰めようとしてくれているのが分かった。私は幽々子様が好きだ。幽々子様も、きっと未熟な部分があるのだ。霊夢だって、紫様だって。誰だってそうだし、誰だって悩みと迷いを抱えている。
ごめんなさい、幽々子様、と私は謝った。きっと、私は間違ってしまったのだ。それに、そもそも、主人に刃を向けるなんて。
「ごめんなさい、ごめんなさい、幽々子様……」
「こちらこそ……」
ごめんなさい、妖夢、と言った幽々子様の声が裏返った。私が顔を上げると、幽々子様の頬を一筋、涙が伝って落ちた。ひっ、と幽々子様は声を飲み込み、顔を擦った。それで、幽々子様の涙も止まらなくなった。
「ごめんなさい、妖夢、妖夢……」
ああん、ああ、ああん、と幽々子様は泣いた。私は、哀しくもないのに、つられて、泣いてしまった。二人して何をやっているんだろうと思うほど、私と幽々子様は泣いていた。
辺りにはゆゆこ様たちがいて、なんだなんだと言うように、泣いている私達を眺めていた。
忘れてしまいがちですが、みんな少女ですもんね
なにか思春期特有の世迷いごとをコメントに書こうかと思ったのだけど、読み進めてひとたび異変が解決してしまうと、なにを書こうとしていたのか忘れてしまう罠。
月並みだけど、みんな悩んで大きくなっていくのですね。
山に捨てられるゆゆ(略)様とか霊夢に殴られて泣きそうな紫とか、地底をエンジョイしてきた幽々子とか、テーマとは裏腹に皆可愛いのが個人的な評価ポイント
>ようむ、ようむ。あーん、あーん。
これ、妖夢は最初心痛んだやろなぁ
例え本物じゃなくても、他人の自分が見ててもなんか捨て置けない気分になるもん
最後の最後までゆゆみょんであったことに感謝します。
カオスも妖夢幽々子も
カオスギャグ迷い狂気哲学愛全てがあって見事でした
ただ、いつかはこんな感覚を理解する時が来るのかな、とは思った。
これぞ少女たちの幻想郷。
繊細微妙な心情が上手に描かれていたと思います。最後は少し、涙腺が緩みました。