(一)
前兆はあった。その一週間前から……二週間前からだったかもしれない。なんとなく調子の出ない日がつづいていた。
体調が悪かったわけじゃない。ご飯はきちんと食べられたし、熱っぽかったりだるかったりもしなかった。ただ、へんに力が出なかった。力というのは、巫女の力(みこみこパワー)のことだ。お札を飛ばしたり、結界を張ったり、勘をはたらかせたり、空を飛んだりする、あの力のこと。
いつもどおり、普通に妖怪退治をしているつもりでも、なんだか符の飛び具合が悪くて狙ったところに向かわなかったり、あまり相手を追いかけずにどこかへ飛んでいってしまったりした。空を飛ぶスピードも遅くなっていて、逃げる妖怪に追いつけなかったりした。博麗の巫女は妖怪退治が生業のひとつであるので、そうやって敵を逃してしまうのは、どうにも困ったことだった。
でも、まあ、こんなこともあるか、と思っていた。長い人生、私だってそう毎日毎日絶好調じゃいられないだろう、というくらいの気持ちだった。
あとから思ったことだけど、このときにもっときちんと考えておけばよかった。自分の体をくわしく観察して、変化をじっと見極めればよかった。でも、あの頃の私は、いまとちがって大変のん気だったのだ。
ええっと、それで、あれが起こった日のことだった。
その日私はいつものように起きて、朝ごはんを食べて、お茶を飲んで、境内の掃き掃除をして、そしてお茶を飲んでいた。
もう大晦日も近くて、雪はなかったけれどとても寒い日だった。神社の周りにある常緑樹の葉の表面に霜が降りかぶさっていて、風景は寒々としていた。吐く息も白かった。首にマフラーを巻き、足元をブーツで固めて、それでも私は風の通る縁側でお茶を飲んでいたのだ。そういう習慣だったから。
いつものように魔理沙がやってきた。箒から降りると、開口一番
「お前寒そうだな」
とこちらを見て言った。こっちは一年中腋を完全にあけた格好だから、言われてもしかたない。「よけいなお世話。あんたは夏暑そうよ」と言ってやった。魔理沙は魔理沙で一年中黒白だ。
それから家の中にひっこんでこたつにあたった。自分のぶんと、魔理沙のぶんの新しいお茶を用意してやった。お茶菓子は魔理沙が家から持ってきてくれた。
ぬくぬくしながらだべっていると、そのうち魔理沙が「香霖堂へ行こう」と言い出した。
私は渋った。
「いやあよ。寒い。あんた一人で行ってきなさい」
「そう言うなよ、そろそろ新しい品物が入荷してる頃なんだ。掘り出し物があるかもしれない。それにあそこに行けば、いつかみたいに鍋が食えるかもしれないぞ」
「あのときはうちで朱鷺を捕まえたんじゃない。ふだんのあそこには食べ物なんかないわよ……他に行きたい理由があるんでしょう」
「実はミニ八卦炉の調子が悪いんでメンテに行きたいんだ」
「ほら見なさい。一人で行けばいいのに……」
ぶつぶつ言いながらも、まあ、一緒に行くことにした。思えばこのとき、勘がはたらいていたのかもしれないし、もう狂っていたのかもしれない。
◆
香霖堂は人里と魔法の森の狭間、ちょうど魔法の森の入り口のところにある。魔理沙が「朱鷺でなくてもせめてきのこくらいは持っていってやろう」と言うので、私たちは森のはじっこあたりで地面に降りて散策をはじめた。私には知識がないので、うろついてきのこを探すのは専ら魔理沙の役目だったが。
ひょこひょこ歩いてはきのこを見つけ、ぶちぶち摘んではかご代わりの帽子にぽいぽい入れていく。ぽいぽい。魔理沙の背中を眺めていると、なんとなくつまらない気分になった。
八卦炉のメンテが、なんて言うけれど、ほんとはただ霖之助さんに会いたいだけなのかもしれない。だったらほんとに一人で行けばいいのに、わざわざ私を連れて行くのは、恥ずかしかったり、照れくさかったりするからだろう。男言葉を使っているけれど、魔理沙はとても女の子らしい女の子なのだ。後ろから見ているので表情はわからないが、リズミカルに動く背中と肩に嬉しさがにじみ出ているような気がした。私はなんだか馬鹿らしい。
魔理沙を見ていても仕方ないので、私は私で鳥でも探そうか、と周囲を見回すと、木と木が重なって見通しの悪い視界のうちに、隠れて移動している何かを見つけた。
鳥よりもはるかに大きかった。はじめは何かわからなかったが、注意してそれを追うと、それは女のむき出しの脚だった。
足首から上、引き締まったふくらはぎから肉付きの良い太ももの肌色が私の頭上を飛び、木々の枝と葉の間に隠れていった。妖怪だ。魔理沙のそばに近寄ろうとしたとき、羽の生えた大きな灰色のものが上から突っ込んできて、私はそれをまともにくらってしまった。私は妖怪に打ち倒され、あお向けになって押さえつけられてしまった。
巨大な虫の頭が私の顔のすぐ上にあった。米俵くらいあるだろうか。大人の頭ほどもある両の複眼は表面が複雑に突起しており、その突起のひとつひとつが小さな目で、それらが震えるように動きながら私を注視していた。下顎にあたるところから一対の毛に覆われた口吻が突き出ており、それを突き刺して体液を吸おうとしているのだ。頭の後ろに視界のすべてを覆うほどの大きな羽が見える。毒々しいまだら模様をしているそれから鱗粉が落ちてきて、私はそれを少し吸い込んでしまった。私を地面に押さえつけているのは妖怪の手だった。裸の、むき出しの女の手だ。それが妖怪の虫の体から生えている。
妖怪の口吻が私の喉に突き刺さる前に、どう、とか、ごう、とかの大きな音がし、目の前が光で真っ白になって、妖怪は吹き飛ばされ、私は勢いで地面をごろごろ転がった。起き上がると、魔理沙が八卦炉を構えてこちらを見ていた。
「油断してたか? 霊夢にしちゃめずらしいな、というか、空前絶後だな。ぼっとしてるのはいつもどおりだが」
口の端を上げてにやにや笑っている。言われるまでもなく私は焦っていたが、魔理沙に言われるとその焦りが倍増するようだった。何かがおかしい、とはっきりわかった。普段であれば、あんな攻撃をくらうことはありえないし、もしヘマをしたって、私はもっと落ち着いているのだ。魔理沙に軽口を返せるくらいには。
魔理沙がす、と私から視線を外した。私も同じ方を見た。
ぷすぷす焦げた煙を上げながら、蛾の妖怪が立ち上がっていた。私たちの二倍も、三倍も大きな体をしている。先ほど目の前で見た巨大な蛾の頭と羽の間から人間の女の手と足が突き出ていた。むき出しで血色が良く、人間そっくりの太ももの筋肉の動きまでよく見えた。複眼が複雑に動いて私と魔理沙を等分に見た。短い毛がみっしりと生えた顔の口が動き、ぎいい、というような声を立てた。私は袖から符を取り出し、妖怪に向かって投げつけた。
それは少しだけ飛んで、半分もいかないうちに力を失って地面に落ちた。
もう一度投げた。すると今度は符はひらひらとその場で落ちてしまった。いつもなら意志を持つように勝手に飛んでいく符が、まるでただの紙のようだった。私は呆然とした。少しだけ意識が飛んでしまったかもしれない。
また、どおん、と音がして、前を見ると、妖怪の頭が砕けて飛び散っていた。後ろから、「霊夢?」と魔理沙が声をかけてきた。
下腹のあたりに、針で刺されるような痛みが、突然やってきた。あんまりにも痛くて、初めて感じる痛みで、おへそから下がなくなってしまいそうな気がした。私はその場でうずくまってしまった。
私の名前を呼びながら魔理沙が駆け寄ってきた。ずいぶんあわてているみたいだった。私はくらくらして、目の前が暗くなって、返事もできなかった。
魔理沙が屈んで私の顔を見た。私を心配しているのがわかる。あの妖怪の毒を吸ったのか、と魔理沙が言った。そうかもしれない、と思った。けれどそうじゃないって気もしていた。すごく久しぶりのことだけど、私は泣きそうになっていた。
「大丈夫か。大丈夫じゃないよな。香霖堂へ行こう。近くだからすぐ着くぜ、だから我慢しろ」
「ううん」
「心配するな、私が助けてやる。掴まれ、箒に乗るぜ」
「嫌だ」
「霊夢」
「香霖堂に行くのは嫌。神社に連れてって」
「何だって? 何でだ。香霖とこのほうが近いぜ。お前大丈夫なのか?」
「お願い、魔理沙。神社に帰りたい」
「……わかったよ」
魔理沙は私を箒に乗せて、神社まで連れて帰ってくれた。とても体が重かった。途中で一度、箒から落っこちそうになった。それでそのとき、自分はもう飛べなくなってしまったんだ、とわかった。
家に着き、厠へ行った。下着に茶色いものがべっとりとついていた。話としては聞いていたから、自分にもそれが起こったんだ、ということがわかった。初潮だった。
よくわからない悲しみが襲ってきて、厠の中で、私はほんとうに少しだけ泣いた。
喉に言葉をつっかえさせながら、魔理沙に事情を話し、その日は帰ってもらった。魔理沙は帽子を深くかぶり、なるべく表情を見せないようにしていたが、驚いているようだったし、またはなぜだか、傷ついているようでもあった。
私はというと、どんな顔をしていたのかわからない。でもたぶん、混乱のきわみみたいな表情をしていたんじゃないかと思う。で、思うには、私がそんな顔をしていることこそが、魔理沙にとってショックだったのかもしれない。
股から七日間血が出つづけた。二日目が一番大変で、体の中から内臓をわし掴みにされて絞りあげられているような気分だった。あとはだんだん楽になった。けれど、血が止まらないことが、とてもうっとうしかった。
食欲はあったりなかったりしたから、適当に布団から出て適当に食べた。食べるときと厠に行くとき以外はだいたい布団の中にいた。この血が止まれば力は戻ってくるだろうか、と、ずっと考えていた。それで七日目に、やっと風呂に入り、体をきれいにしてから、境内に出た。
自分はいつもどうやって飛んでいただろう? 飛び上がる前に、そんなことを考えてしまった。
足で地面を蹴った。ぴょん、と私は跳ねて、すぐに地面に落ちた。何度も何度も、痙攣するみたいに私はぴょんぴょんその場で跳び上がった。けれど、体が空に浮かぶことはなかった。
生理になる前に作っていた符を持ちだして、以前、そうしていたはずの集中の仕方をなるべく思い出して、そのとおりにやり方をなぞるようにして……的に向って投げつけた。符はひらひらとどこへも飛ばずに落ちた。呼吸が荒くなり、息を吸い込むのが大変になった。私は縁側に戻り、座った。お茶を飲むのも忘れて考え込んだ。
いまはまだ、生理があけてすぐの状態だから、力が戻ってきていないんだ。もう二三日も待てば、いつものように空を飛べるようになるんだ――そう思い込もうとした。でも、だめだった。生まれたときから自分とともにあり、さんざんそれと付き合ってきた関係のものが、もはや自分に愛想をつかして出て行ってしまって、二度と戻らない――そういう実感があった。
ふと思いついて、「裏」とつぶやいてから履物を足でぽいと遠くに放った。靴は表側になって落ちた。
(二)
出かける気になれず、私はそれから数日の間ずっと神社にこもっていた。そうこうしているうちに食べものの備蓄がなくなった。
博麗神社は幻想郷と外の世界の境界線上にあり、人里からはけっこう離れている。歩いて行けない距離ではないが、いつも飛んで行っていることを考えると、どうにもおっくうだった。でも、そろそろどうしても買い出しに行かないといけない。
そう考えていると、アリスが神社にやってきた。
魔理沙じゃなかったことに、私は驚いた。アリスはぺたんと境内に着地すると、驚いている私の顔を見て、「そろそろ元気でた?」と言った。
「……あの」
「話を聞いたのは私だけだから、安心していいわ。私は生理時に異様にテンションが上がるタイプだけど、霊夢はそうでもないみたいね。でも、まあ、慣れよ慣れ。一応言っときましょう」
とアリスは微笑んで「おめでとう」。
私はアリスをぶん殴ってしまった。人形遣いは吹っ飛び、石畳をごろごろ転がった。巫女パワーを失ったとはいえ、アリスくらいだったら暴力で勝てるようだ。
「何すんのよ!」
倒れて打たれた頬を手でおさえながらアリスが吼えた。さらにムカついたのでもっとボコボコにしてやろうかとも思ったが、既にアリスは泣きそうになっているので勘弁してやった。それで「何しに来た!」と尋ねた。
「何しに、って、女の先輩としていろいろ面倒を見てやりに来たのよ。上海、蓬莱」
「よっす」
「どうも」
「なんか声ちがわない?」
「ヴァージョンアップしたのよ。はい、荷物をほどいて……家のなかのほうが良いわね。寒いし。あがるわよ」
「あ、うん」
全然掃除をしていなかったし……それに何だか自分の血の臭いが部屋に染み付いているようで……家に他人を入れるのは恥ずかしかったが、アリスは何も言わなかった。こたつにあたりながらアリスの持ってきた荷物を開けると、ナプキンと生理用の下着、それから痛みを止める薬が何ヶ月かぶん入っていた。アリスはそれらをひとつひとつ説明してくれた。もらっていいの、と聞くと、当然、そのために持ってきたのよ、とのこと。私はど、どどどうも、とお礼を言った。
アリスは妖怪だけど生理になるんだ。と訊くと「そうなのよ、やっかいなことにねえ」。
ほんとうにやっかいに思っているようでもあったし、こちらを見て、くすくす苦笑いをしているようでもあった。二人でお茶を飲み、だべった。お昼になると、アリスがお昼ごはんをつくってくれた(食材も一緒に持ってきてくれていた)。
アリス丼(豚バラ肉をウスターソースとにんにくで炒めてねぎと海苔を散らし卵黄を乗せたどんぶり)をかっこみながら、巫女の力がなくなってしまった、とぼそぼそアリスに告げた。それも魔理沙から聞いてた、よくある話だと思うけどね、と、アリス。
「女はいろいろ面倒なのよね。体のバランスが変わると、心のありようも変化する。男と比べてその変化が激しすぎるから、自分で制御できなくなっちゃうことも多いわ……慣れないうちはとくにそうね」
「うん。そうなのかな?」
「あんまり重く考えないことよ。来月だって同じことがあるんだから。そしてその来月も、その次の月も……これからずっと、ね。だから、うまく折り合いをつけていかなくちゃ」
「私はもう空も飛べない。巫女のつとめをはたしていけない」
「考えすぎるな、と言ったでしょ。一時的なもので、きっとすぐに戻るわ。ほら、おかわりあるからもっと食べなさい。ちゃんと栄養をつけて、失った血を取り戻さないといけない。血圧高い人のケツあたたかい、なんつってウフフ」
「お腹いっぱいです……」
アリスと話していると二分に一度くらい最高にムカつくが、気は紛れた。カロリーの高いものを食べたからか、元気も出てきたようだった。たぶん来てないと思うけど、と前置きして、アリスは私に尋ねた。「藍は来た?」
「来てないけど」
「ね。もしあなたが永久に巫女の力を失ったのだとしたら、幻想郷の一大事よ。結界が維持できなくなるんだからね。あいつらがすぐに気づくだろうし、気づいたらすぐにやってくるわ。いまは冬だから紫は寝てるんだろうけど、真面目な藍がほっておくはずはない。そいつがやってこないっていうことは、つまり、たいしたことじゃないのよ」
なるほど、と思った。それで、ほんとうに安心できる材料がはじめて胸のうちに生まれたようになって、私は大きく息をついた。
それを見計らったようなタイミングで
「そうでもない」
自分の真後ろから声がした。
私はどんぶりを持ったまま、あわてて振り向いた。八雲藍が、私のすぐ後ろに座っていた。
両手をそれぞれたがいの袖の中に入れるいつものポーズで、行儀よく正座していて、太い九本の尻尾が正面からでも体からはみ出て見えている。藍に会うのは久しぶりだった。金色の髪と尻尾が、薄暗い冬の室内でもきらきら輝いているように見えた。びっくりして、私は手をちゃぶ台にぶつけてしまった。
「いつからいたの」
アリスが言った。アリスもびっくりしたような顔をしていた。
「いま来たところだよ。ずっと結界の様子を見て、計算をしていてね。それで結論が出た。霊夢」
「うるさい」
「残念だが」
「うるさいってば! 後にしてよ!」
「後にしても変わらないよ。お前は巫女の力を失い二度と取り戻すことはない。もはや博麗であることはかなわない。私たちは新しい巫女を探しはじめる。つらいことだが、わかってくれ。いままでよくやってくれた」
藍は真っ直ぐ私を見て言った。同情はするが、こちらに悪びれるところはない、といったふうだ。少しの間、私は藍と視線を合わせてにらみつけたが、それはただの虚勢で、すぐに目を逸らしてしまった。
体の芯が冷えて、手足がしびれるような感覚があった。自分がこんなにショックを受けることがあるんだ、と冷静にも考えたことを、いま思い出している。そのとき、
「いきなり現れて何言ってくれてるのよ」
アリスが、私に代わって怒ってくれた。ちゃぶ台にどんぶりを置き、私をはさんで藍をにらみつけた。
「勝手すぎるわ。突然すぎるわ。何かの間違いじゃないの? 紫の式は礼儀をわきまえないの? 許さないわよ」
「お前に許される筋合いじゃない。仕方ないんだ。同じような巫女はいままで何人もいた……きっかけはいろいろだけど、突然巫女の力を失うことがある。私は結界の管理者として、早急に次の巫女を見つけなければならない。紫様が眠っているいまだから、なおさら仕事をきちんとしなくてはね。霊夢」一度アリスに向けられた視線が私に帰ってくる。
「すまないがここから出て行ってもらう。といってもそんなにすぐじゃなくていい。数ヶ月は大丈夫だから、春になるまで――紫様が目を覚ます前には、ここを引き払っておいてくれ。私にできることがあれば言ってほしい。何でも協力しよう。荷物を運んでくれ、とかね。じゃあ、頼んだぞ」
「だから!」
「失礼する。アリス、お前も力になってやってくれ」
藍が立ち上がり、腕を袖に入れたままぺこりとお辞儀をした。するとその姿が大気に溶けこむように薄くなり、煙のように消えてしまった。
◆
そのまま少しの間、じっとしていた。居たたまれなくなって、首を動かしてアリスのほうを見ると、アリスは顔を真赤にして、ずっと藍の消えていったあたりを見つめていた。アリスらしくないことに、本気で怒っているのがわかった。私はというと、なんだか気が抜けて、なにもする気がなくなってしまった。
またお腹が痛くなってきた。立ち上がり、厠に行って確かめたけど、血は出ていなかった。今度は別の理由だった。
厠から出ると、扉の前でアリスがガンバスターのように腕を組んで仁王立ちしていた。
「行くわよ」
「……どこへ?」
「紫を叩き起こして話を聞きにいくの! 藍じゃらちがあかない!」
アリスは私の手を引き、お姫様抱っこをして、空に飛び上がった。縁側からふわりと飛び上がったとき、ふっ、と、何かが私のなかに取り戻され、体のなかに溜まっていたいろいろの悪いものが、重力とともに抜け出ていくような気がした――久しぶりの空だった。魔理沙の箒に乗って飛んで以来の空だ。
上空から神社や、森や、人里や――幻想郷を見るのが、とてもなつかしいことのように思えた。白と黄と緑の景色のなかに大きな集落がひとつあり、それが人里で、その北側には湖があって紅い屋敷が見える。森も湖も家もそのどれもがなんだか冷たそうだ――前に目を向けると妖怪の山がある。山頂のあたりに雪をたたえていて、稜線にしたがって降りてきては消えるその線がまるで雲のようにも見えるし、お店で売っている上等のお菓子のようにも見えて――ああ、と私は思った。冬に見る景色はこんなふうだ。冬に、幻想郷の空から見える景色は。冷たい風が服と肌の表面をすべり、後ろに抜けていく――私は落ちないように、アリスの腕の中で身を縮こまらせた。首を伸ばして、アリスの耳に口をつけるようにして、私はアリスに話しかけた。
「ねえ」
「何よ」
「魔理沙は何か言ってた? このことについて。私のことについて」
「ふふん」アリスがやっと少し笑った。
「あいつ、焦っちゃってさ。混乱しちゃって、わたわたしちゃって、見てらんなかったわよ。私じゃあいつの力になれないから、なんて言ってさ。悲しそうというか、悔しそうというか。あのね、……あいつ、まだきてないのよ……。あとは……早く霊夢に元気になってもらって、また一緒に異変解決したい、とか、まあそんなこと言ってたかな」
「ふふん」私も笑った。
そうか。
「ね。アリス」
「何よ。あんまり喋ってると舌噛むわよ」
「紫のところに行く、って言うけどさ。あんたあいつがどこにいるか知ってるの? どこに向かって飛んでるの?」
「……あの」
「ねえ」
「そこはそれ、博麗の巫女の勘パワーで、適当に飛んでたら正解にぶち当たるという」
「だから巫女パワーは使えないんだってば。……いまはね」
その日は結局、お互い家に帰って、明日の朝からまた出かけようということになった。明日はアリスが魔理沙を連れてきてくれる。
(三)
翌日、私は歩いて神社を出た。空を飛ばずに地面を踏んで出かけるのは、何年ぶりだかわからない。地面の高さから見る神社の周りの景色は、空から見るときよりも、なんだかごみごみしているように思えた。
前の日のうちにアリスと相談して、まずは人里に行こう、ということになっていた。阿求に会いに行くのだ。
橙のいるマヨヒガならば概ねの場所はわかっているが、紫と藍の寝所、というのはどこにあるのかわからない。誰に聞いても正確な場所はわからないだろうが(そもそも普通に行けるところにあるとは思えなかった)、でも人間のうちでは(私を除けば)阿求だけが紫と関係を持っている。何世代も転生を繰り返して蓄えた知識のうちに、あの隙間婆あかしこいかわいいゆかりん(作者修正済)の居場所の手がかりもあるかもしれない。
歩きだと時間がかかるし危険だから、ということで、アリスは私を迎えに来たがったが、断った。自分がなんだかとても情けないようで、意地を張りたかったのだ。神社から人里までは一人で歩いて行く、と私は強く言い張った。アリスは心配したが、最後には折れてくれた。
長い階段をてくてく降りていくと、だんだん膝が痛くなってしまった。まるでお年寄りのようだ、と思って、私はへこんだ。
気配がした、というのは、それまで、生理になる前に使えていた巫女の勘とは別の感覚があった、ということだ。いまでもよく覚えているが、あのとき私が感じたあの感覚こそが、いわゆる普通の人間が備えている敏感さなんだろう。私は立ち止まった。
二十歩くらい先の階段の踊場に、何か不吉なものがあるように思えたのだ。目を凝らして見たが、そこには何も見えない。注意深く、ゆっくりと、私は階段を降りていった。
橙が出てきた。藍とはちがう方法で、単純に階段の横の茂みから出てきたのだ。私は安心した。
あの日の蛾の妖怪とはちがって、橙は私を襲おうとはしないだろう。橙の主人である藍が私の安全を保障しているはずだ(と、私は思い込んでいた)。何しに来たのかはわからないが、邪魔はしないと思う。橙は子供だから、単純に力を失った巫女を見たい、というような好奇心で来たのかもしれない。
私はすたすた歩いて橙の前まで行った。私の胸の高さくらいの身長の橙が、手を組んで頭の後ろに置いてにやにや笑いながら、じろじろ無遠慮に私を見ていた。橙と視線を合わせて、少しの間にらみ合うような格好になった。やがて、ふん、と言って私は橙の横を通り過ぎた。何も話してやるもんか、と思った。
後ろから、どん、と背中を押された。
転げ落ちそうになりながら、私は階段を駆け下りた。なんとか体勢を整えることができたが、心臓がひやりとした。振り返ると、橙が意地悪そうな顔をして笑っていた。
「何すんのよ! 危ないでしょう!」私は目を吊り上げて怒った。
橙は笑みを崩さず、
「いつもとちがって間抜けな台詞だね。ちょっと前の霊夢ならもっとかっこいいことを言ったよ」
「……何よ」
「それとも、何も言わずに私をぶちのめしてしまうか。いまの霊夢って、なんだか別人みたいだ」橙はにゃはは、と声を出して笑って
「どこ行くの? 危ないよ?」こちらを小馬鹿にするような調子で言った。
「あんたには関係ないでしょ」
「関係あるよ。霊夢にとって危ないのは、わ、た、しだもん。紫様のところに行こうとしてるんでしょ? 藍様の言ったとおりだ。そうはさせないにゃーん」
橙は笑顔を引っ込めて、猫らしく屈んで四ツ足になった。
「すきま妖怪の式の式、凶兆の黒猫・橙が、博麗の巫女をやっつけてやる!」
そう宣言すると、橙は階段を蹴って、恐ろしい速度で私に向かって一直線に飛んできた。私は石の階段に倒れこんで、何とか体当たりを避けた。肩が石にぶつかってひどく傷んだ。血が出たかもしれない。遠くまで落ちていった橙が、すごい速度で駆け戻ってきた。
私は立ち上がり、下から襲いかかってくる橙に対して「なめるなあ!」と言いながら渾身の力を込めて前蹴りを出した。そして、吹っ飛ばされた。まるで紙くずが風に吹っ飛ばされるみたいに。
頭から落ちたら、たぶん死んでいただろう。背中を強く打ち付けて、私は呼吸ができなくなってしまった。くらくらする目で前を見ると、橙が馬鹿にしたようにこちらを見ていた。
「ほんとに弱いねえ。何だか信じられないや。股から血が出るだけでそんなに変わるの? いままで修行とかしてこなかったの?」
「う……るさいっ」
血を吐きそうになりながら、私は身を起こした。
まったく訓練をしていない――ということはない。
ほとんどの修行をさぼっていたが、それでもわずかに身につけたものはある。あるのだ。
それは私の生まれつきの能力ではなく、巫女の力でもない。それは私の内にまだ残っているはずだった。私は腰に挿していたお祓い棒を引き抜き、橙に向かって静かに構えた。
「叩き斬ってやる」
橙は目を丸くして笑った。「ひねりつぶしてやる!」
私は左足を大股に前に出し、体を深く沈めて、前傾姿勢をとった。本来は平地で使用する技なので、階段で行うとひどく体が不安定になる。橙が誘いに乗ってくる確信がなければ、とても使えない技だった。お祓い棒を左手に持ち、腕を伸ばして真っ直ぐに橙を指し示す。
「来なさい、野良猫。楽園の素敵な巫女が相手してあげる」
「貧乏巫女め」
橙はにやりと笑い、猫らしく舌を出して一度ぺろりと手の甲を舐めると、また四ツ足になり――爆発するような速度で、私に向かって飛んできた。
かろうじて目に見える速度だった――私は左手で持ったお祓い棒で、左前方の階段を一度こぉん、と叩いた。小さな音が猫の速度よりもわずかに早く私たちの間にひろがった――それで橙の突進の方向が、彼女自身意識できないほど小さく寄れた。音の方向に体が引かれるのだ。
私は左足にうんと力を込め、体を後ろに引き戻し――そしてできた距離と時間を利用して――お祓い棒を両手に持ち変える。橙はもう目の前にいた。音のためにできたわずかな隙間に身をねじ込むようにしながら、橙の肩口を狙って思い切り棒を振り下ろした。
弾き飛ばされないようにするのが精一杯だった。小さく軽い橙の体が、速度のために圧倒的な質量を持って私にぶつかろうとする。私がしたことはその速度と質量に微々たる衝撃を与えただけだ。けれどそれで方向がねじ曲げられ――川の流れに翻弄される浮葉みたいに、橙の体はぐるんぐるん回って後ろの階段に突っ込んだ。酷い音がして、石の階段が壊れて大きく砕けた。
「みこみこ剣技奥義! ジャスティス両斬剣!
ジャスティス!」
衝撃でしびれる両手をなんとか支えながら、私は橙に向かって見栄を切った。もう一度言った。
「ジャスティス!」
瓦礫のなかから「ううーん」と声を出して橙が起き上がった。
私を見る。
もう笑顔ではなかった。眉間に皺を寄せている。はじめて見る表情だ。橙はぱんぱん、と服の埃を払い、また舌を出してぺろりと手を舐めた。その間ずっと私から視線を外さなかった。私は動くことができなかった。
橙が大きく口を開けた。
「ばぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁか!」
叫ぶような声でそう言うと橙はまた私に向かって突っ込んできて――私もまたわずかに身を逸しつつお祓い棒を振り下ろしたが、今度は空振りした。お祓い棒の軌道に入る直前に、橙が急停止したのだ。
橙が腰を落とし身を沈めた。瞬間、彼女の目がずっと私の目を捉えていたことに気がついた。
体ごと突き上げた橙の拳が私の顎に入った。顎の骨が砕けたと思った。目から火花が出て、一瞬何も見えなくなった。かち上げられ、跳ね上がった勢いで、首の骨が折れそうになった。木の葉のように吹き飛ばされる私を、空中で橙が捕まえた。
恐ろしい力でぶん投げられて、私は石の階段に激突した。
橙にしてみれば、ずいぶん気を使って、優しく扱ったぶんなんだろう。なんせ、私は意識を失っていなかったから。ただ体じゅうがばらばらになるほど痛かった。骨の何本かが折れたかもしれない。血の気が引き、指一本も動かせなかった。あお向けで苦しむ私の胸を橙が片足で踏みつけた。
私を見下ろしながら、橙がぼそぼそ言った。
「藍様から、言うことをきかなかったら殺せ、って言われたの」
眉間の皺は消えていた。橙の顔を、下から見上げるのは、はじめてだったかもしれない。
橙は少しずつ、言葉を選ぶように言った。
「でも、別に殺したくない。ねえおとなしく神社に帰ってよ。私は別にね、霊夢が巫女じゃなくなったっていいと思うの。
普通の人間になって人里で暮らしてさ、それで、たまにはまた私たちとお酒飲もうよ。私遊びに行くよ。
ね、そうしよう」
間髪入れずに私は答えた。
「嫌だ」
強い力で胸を踏まれていて息をするのも苦しかった。だから短く、吐き捨てるように言った。「どけ」
「考えなおさない?」ため息をつきながら橙が言った。今度は、私は答えられなかった。かわりに下から橙の目を精一杯にらみつけてやった。
橙はあきらめるように首を振った。
「残念」
それでも、橙はまだ何か考えている様子だったが、やがて小さく「謝らないよ」と言った。
「仕方ない。死ね」
橙の足に力がこもり、胸骨がみりみり嫌な音を立てた。絞りきったと思っていた肺からさらに少量の空気が出てくる。
日が陰った、と思った。死ぬ寸前だから、目の前が暗くなっているのか、と思った。でもそうではなかった。
私たちの頭の上に誰かがいて、その影が日を遮り私たちを包んでいた。
私より数瞬遅れて橙がそれに気づき、上を見上げた。何かが飛んできた。上空から放たれたそれはおかしな曲線を描き、橙の頬に横からぶち当たって、ふっ飛ばした。すごいスピードだったのでよく見えなかったが、それは紙のようなものに見えた。
足がどけられて、私は息を吸えるようになった。げほげほ咳き込みながら体に空気を入れる。上を見る。
逆光のためはっきりとは見えなかったが、それは紅白の服を着ていた。お祓い棒を持っていて、腋の部分がぽっかり開いた特徴的な服を着ている。黒い髪で、頭に大きな赤いリボンをしている。
私の服だった。それが空から降りてきて、私の目の前にすとんと着地した。私とそっくりの顔をしていた。
私がもう一人いた。
そいつは目をぱちぱちさせて、じっくり私を見た。そいつが喋った。「痛いでしょう」
「何……」
「少し待ってて」
階段を何十段も下に飛ばされた橙が、駆けて戻ってくる。私ともう一人の私を見て、目を白黒させていた。頭がいっぱいいっぱいになって、どうしていいかわからない様子だ。符がぶち当たった頬が焼け焦げて、赤黒い肉を晒している。橙の方向に向かって、もう一人の私が真っ直ぐお祓い棒を指した。
「宝具――」
「ちょ、ちょっと待、お前誰……にゃああ!」
「――『陰陽鬼神玉』!」
構えを取り、突き出した手の先から巨大な陰陽玉の形をした青白く光る力のかたまりが射出され――橙を飲み込み、鉄の扉をがんがん叩くような音をさせて進んでいった。石の階段が壊れ、その破片もまた光に触れるとさらに細かく砕ける。やがて光が消えると、橙は潰されて、ぺしゃんこになっていた。
頭が真っ白になって、時間が止まったみたいに、私は何も考えられなかった。
間違いなく私の――博麗の巫女の術だった。
もう一人の私がこちらに向き直り、私を見ると、困ったように笑った。
夢を見ているんだ、と思った。そいつが私の名を呼んだ。「霊夢」
「そこまで」
ゆったりとしていて、間の抜けた、それでいて品のある調子の声が突然に聞こえた。聞き覚えのある声だった。階段の下から、水色の帽子と、桃色の髪の毛が現れる。西行寺幽々子がふわふわ浮いてやってきた。
幽々子が胸の前で、ぽん、と両手を打ち合わせると、目の前にいた私がふっと消えて、あとにはひとつの大きな人魂が残された。
◆
幽々子が私を神社まで連れ帰り、一応、傷の手当をしてくれた(橙はそのままほっておかれた)。
一応、というのは、やったことがないからだろう、とても下手くそで、打ち身をしたところに湿布を貼ってくれるくらいしかしてくれなかったからだ。擦り切れたところを水で洗ったり、消毒したり、包帯を巻いたりするのは自分でやった。でもそれで、まあまあ動けるようになった。
あれは何、と私は訊いた。「あの、もう一人の私は何?」
幽々子はいつもと同じ、何を考えてるかわからない顔で、何を言っているのかわからないようなことを言った。
「幽霊に向かって、私は何? なんて、まるで死にたてみたいな台詞ね。アイデンティティの喪失かしら」
「あのね、私はいま、あんたの調子に合わせてやれる気分じゃない……ぶん殴るわよ」
「力を失った巫女など死んだも同然。ふてくされても、やけっぱちになっても、物事はうまくいかないわよ」
「この初代淫ピめ! ゆゆっぱい揉みしだいてやる!(飛びかかる)」
「ひらり(避ける)」
「ずてーん。あ、痛たたたた……」
私はこけて体を打ち、痛みに悲鳴をあげた。そんな私を不憫に思ったのか、幽々子が自分でお茶を淹れてきてくれた。意外なことにずいぶんおいしいのを淹れてきたので、私はますます不機嫌になった。
昨日魔理沙がうちに来たのよ、と幽々子は語った。
「魔理沙が?」
何しに行ったんだろう。白玉楼は遠いから、ここしばらくはお宝漁りにも行かない、とあいつは言っていたけど。
「紫の居場所を聞きに来たのよ。あなたの力になりたい、って、そうは言わなかったけど、まあそういうことよね。話は聞きました。もぐもぐ」
幽々子は私の秘蔵の甘納豆(棚の奥に隠してあった)を口いっぱいに頬張りながら
「もぐもぐ、くちゅくちゅ。私なら紫の寝所を知っていると思ったのね。教える義理があるとは思わなかったけど、おみやげにメロンパンをくれたので教えてあげたわ。といっても、それで彼女がたどり着けるかどうかは微妙だと思ってた。そこで昨日はさよならして、すると今朝、紫の式がこれを届けに来たの。ちゅぱ、ちゅぱ……」
幽々子は食べながら胸元に手を入れ、何かを取り出して私に見せた。魔理沙のミニ八卦炉だった。この前見たときよりも薄汚れていて、ところどころ焼け焦げていて、少しひびが入っていた。
「……魔理沙」
「次の宴会はいつだったかしら。あの子がいないと、幹事に困るわね。新年会の仕切りは妖夢にやらせようかしら。むぐむぐ、れろんれろん……」
大きく息をすると踏まれた胸骨が痛んだが、私はそれを無視して思い切り深呼吸をした。目を閉じた。落ち着いたほうがいい。
魔理沙は藍に捕まったんだろう。あいつのことだから弾幕戦を仕掛けて、途中で八卦炉が故障したのかもしれない。メンテをしなければ、と言っていたし。まさか殺されることはないだろうが、怪我をしたかもしれない。
「まったく、迷惑をかける奴」
「びちゃびちゃ、ぬるぬる、ぬぷぬぷ……」
「迎えに行ってやらないとね。私が」
私はそう言って立ち上がり、庭に出て、井戸の冷たい水で顔を洗った。凍るような冷たさの水をびしゃびしゃ顔に叩きつけると、余計な考えが頭から消えて目の前がすっきりするようだった。髪の毛を濡らし、乱れた髪を整えた。幽々子のところに戻り、立ったまま亡霊を見下ろす。
「幽々子。私にも教えなさい。紫の居場所を」
「(食べ終わった)はあ。……何しに行くのかしら? あなたいま、役に立たないでしょう。橙ちゃんにも負けるくらいなのに」
「あんたが食べた甘納豆ね、古来より博麗に代々伝わる秘蔵のスーパー甘納豆よ。協力してもらうわ」
「代々っていつから……あの、賞味期限……?」
「さっきの人魂を貸しなさい。私の姿をした、私の力を持ったあいつを」
幽々子は、んー、と首をかしげつつ、嬉しそうに笑った。
水色の袖のフリルがひらひらと動き、すると私たちの真ん中に大きな人魂がひとつ現れた。人魂はふよふよと浮かんで、前も後ろもよくわからない人魂のことだからたしかなことではないけど、私と幽々子を交互に見ているような、そんな動きかたをした。
「あまり彼女の力に頼ってはだめよ。けっこう、無理をしているんだからね」
「……こいつ、何なの?」どうして私の姿をしているの、とか、陰陽玉を使えるのは巫女だけなのに、とか訊こうと思っていたけれど、うまく言葉が出てこなかった。幽々子のことだから、何でもありか、と思えたし。
「幽霊の正体見たり枯れ尾花、と言うでしょう。幽霊の正体を知ったときその幽霊はもうそこにいない。幽霊なんていないんだ、と人は信じこむ――けれど彼らはまた次の幽霊に怯える。お化けを怖がる気持ちそのものをなくすことはできない。そういうものよ」
「はあ。まあ、あんたがまともに答えるとは思ってなかったけど」
「あなたのファン、みたいなものよ。当代の博麗の巫女のね。そしてお目付け役であり、監査役でもあり、審査役でもある……これは紫が認めていることでもあります」
「何よそれ? 紫は私に初潮が来ることを知ってたの?」
「さ、さあ、そこまでは……(ぽっ)まあ、いいから楽しんでくるといいわ。これが最後になるかもしれないのだし」
「不吉なこと言うな。……私は絶対にみこみこパワーを取り戻すわよ」
「あら、勇ましい」
幽々子は頬を染めて(幽々子は輝夜と並ぶ幻想郷屈指の生理フェチである)微笑み、ぽん、と手を叩くと、人魂がするする変化して、階段で見たのと同じ私そっくりの姿になった。
先ほどよく観察できなかったぶん、私はそいつをじっくり、前から後ろから、穴があくほど観察した。服は同じだし、背丈も一緒で、ほんとうに双子みたいによく似ていた。ただ、彼女のほうが少しつり目で、それと反対をいくように眉毛は下がり眉だったから、生意気な顔をしている(と言われる)私よりもなんだか恥ずかしがりなように見えた。それと、私よりも胸が大きかった。
「チクショウ」
「霊夢」彼女が話しかけてきた。
「あ、はい」
「あなたはどうして博麗の巫女になりたいの? もう力を失ったんだから、普通の人間になって、人里で暮らしてもいいんじゃない? そっちもきっと楽しいわよ。そうしない理由が何かあるの?」
「ううーん、えっと」私は頬をぽりぽり掻いた。
「なんだかんだ、私は妖怪を退治したり、異変を解決したりするのが好きなのよ。それにさ……ずっとできていたことが、できなくなる、って単純に嫌じゃない?それにね」照れくさいので、一呼吸間を置いて、息を整えてから言う。
「……私は空を飛ぶのが大好きなんだ、とこの前思ったの。いままで当たり前のようにそうしていたから気づかなかったけど、意識しなかったけど……だから私は力を取り戻して、もう一度博麗の巫女になるの。これでいいかな」
「なれるかどうか、わからないけどねえ」と幽々子。
「うるさい。もう帰れ」
「ひどい」
「いいわ」彼女――幽霊はそう言って私の肩に両手を乗せた。
「紫の家への行き方は私が知っている。準備がよければ、早速出かけましょう。魔理沙ちゃんを早く助けなきゃいけないしね。はい、おんぶしてあげる」
そう言ってしゃがみ、後ろを向いて私に背中を見せた。
「……えっと」
「おんぶ」
「……はい」
私は彼女におんぶしてもらって、空を飛んだ。出掛けに一応、妖夢はどうしてるの、と幽々子に訊くと、咲夜とデートしてる、とのことだった(幽々子は泣きそうになった)。
(四)
幽霊の彼女はどうやらお喋り好きみたいで、飛んでいる最中、いろんなことを私に訊いてきた。いつもどんなものを食べてるの、とか、友達はどれくらいいるの、とか、ひまなときは何してるの、とか。
私はそれにいちいち答えた。普段であれば面倒に思うはずだが、彼女が聞き上手だからか、それともやっぱり不安になっていたのか、話しているとなんだか気分が落ち着いたので、ありがたかった。
友達は妖怪ばかりだ、と言うと、彼女は「うーむ」と複雑そうな声を出した。
私のほうからは、ほとんど質問しなかった。ただ、紫の家はどのあたりにあるの、と訊くと
「博麗神社のちょうど反対側、幻想郷の果ての逆端。一番遠い位置にあるのよ」とのことだった。
「知ってるでしょうけど、八雲紫は大変な妖怪よ。霊夢がこれからも博麗の巫女で在ろうとするなら、あいつのことについてもっと詳しく知っておかなければならない」
「幽霊なんかが何をえらそうに。……でも、そうね。注意するわ」
魔理沙のことを考えた。まさか殺されることはないだろうが、ひどい目にあわされてやしないだろうか?
たとえば、エッチなことをされていないだろうか?
想像すると興奮した。おのれ藍……。
そんな与太話をしながら、けっこう長い間飛んでいたと思う。気がつけば太陽がずいぶん高い位置にきていた。彼女も私と同じで、速く飛ぶのは不得手みたいだ。狭い幻想郷だけど、まだ目的地にたどり着けていなかった。そうこうしているうちに、目の前にまた、橙が現れた。
「またあんたか!」私はうんざりしながら言った。
「さっき負けたんだから、おとなしくアイテムを落として引っ込みなさい」
橙はあからさまに苛々している様子で、空中で地団駄を踏みながら言った。
「うるさい、うるさい、あんなの認めるもんか。助っ人なんて卑怯じゃないか。だいたいなにさそいつ、霊夢の親戚か何か? 今までどこにいたのよ?」
「私もよく知らないんだけど(堂々と)この子は紫の関係者、つまりあんたのご主人様のご主人様の関係者よ。少なくとも、ご主人様のご主人様の友達の連れよ。そんな口きいていいの? 叱られるわよ」
「ば、ばかな。何を高田純次的(適当の意味)なことを。……ほんとなの?」
「ほんとよ。英語で言うとトゥルーよ。さあ、わかったら、さっさと逃げ帰ってお茶菓子でも用意してなさい。今日はあんたのせいで疲れたから甘いものがいいわ」
「ええい、馬鹿にして!(考えるのをやめた顔)もう怒った、飛べるなら容赦しないわ。弾幕戦だ!」
「まったく手のつけられないガキね。(へらへら笑いながら)しようのない……じゃあ、やるわよ! 幽霊さん、バシッと決めちゃって!」
「霊夢」
「ホワット」
「実は私、スペルカードを三枚しか使えないの」
「何ィィィーーーーーーー???」
「さっき『陰陽鬼神玉』を使っちゃったから、残りは二枚ね。『八方鬼縛陣』と……」
「と、と?」
「『夢想封印』だけね。どうしよう」
「どうしようってあんた……なるようになれ、よ。でもね」私は彼女の耳に口を近づけ、小声で言った。
「夢想封印は温存しといて。このあと、藍とも戦うはずだから」
「ん、わかった」
「こらぁ! 聞こえたぞ!」と、橙。ケモノだけあって耳はいいようだ。
「この凶兆の黒猫、橙様に対して手を抜く宣言とは、度胸だな! ほっぺた引っ掻いてやる!」
「あんた、その二つ名気に入ってるんでしょう。かっこいいもんね」
「うん。いくぞ!」橙がスペルカードを宣言し発動した。「方符『奇門遁甲』!」
橙が大量のクナイ弾をばらまきはじめる。典型的なばらまき弾幕で、橙の持つ術のなかでは難しい部類に入るが、普段の私であれば問題なく避けられるものだった。私を背に乗せた幽霊もあぶなげなくかわしていく。回避性能も私とほぼ同じであるようだ。乳がでかいのでそこだけ当たり判定がでかかったが。
袖から大量の符をほぼオートで射出する。私たちの弾幕は威力は低いが、ホーミングが売りだ。ほとんど白い流れのように見えるそれが左右から橙に襲いかかる。スペルカード発動時に自動展開される障壁のために一撃で目立ったダメージは与えられないが、一定量を当てていけば確実にスペルブレイクできる。
密度の高い弾幕を軽々とかわしていく私たちを見て、橙は歯噛みしていた。こちらはスペカが二枚だけという不利な状況だったが、橙相手ならそう苦労することもなく勝てそうだ。
と、思った瞬間、弾のひとつが私の頭のリボンをかすめた。「ひゃっ」と私は声を上げた。
「ちょっと危なかった。気をつけて」背中から声をかける。
「……」彼女は無言だった。
もうひとつの弾が、今度は私の袖をかすめる。袖の一部が焼け焦げ、ソフトボールくらいの大きさの布が失われる。右、左、左、右、……彼女は正確に弾幕をかわしつづけたが、背中に乗っている私のぶんの判定を把握できないようだ。弾はだんだん頻度を増して私の体をかすめるようになった。私は必死に背中にしがみついて縮こまり、なるべく体を小さくしてはみ出さないようにがんばる。
「だめねえ」彼女が喋った。「ぎりぎりで避ける癖がついてるから、どうにも大きくかわせないわ」
「ファ、ファイト」震える声で私は応援した。一発二発弾をくらうくらいなら我慢できるが、もしその衝撃で空に放り出されたら、落っこちて死ぬばかりだ。
「次に危なくなったら、もう使っちゃおうかしら。『八方鬼縛陣』」
「ま、まだだめよ。もったいない。それにあれは近寄らないと当たらないでしょ……ひらめいた! ひらめいたぞ! バカヤロウコノヤロウ!」
「何が? いま集中してるからあとにしてね」
「突っ込んで」
「ええ?」
「もうすぐいまのスペカは終わる。そしたら次のを宣言してくるはずだから、そしたら思い切り突っ込んで、適当なところでこっちもぶっ放しちゃって!」
「はあ。いいの? もったいないんじゃなかったの?」
「考えがあるわ……さあ、お願い。いくわよ!」
橙の体を取り囲んでいた障壁が限界を迎えて割れ、スペルカードの弾幕が消えた。橙はいまいましそうにこちらをにらみつけている。一呼吸、二呼吸と間を置くと、橙は二枚目のスペルカードを宣言しようとした。
「星符『飛び重ね――」
その橙に向かって、私たちは最大速度で突っ込んだ!
自分に向かってくる私たちを見て、橙が心底驚いた顔をする。避けてホーミング弾を撃つだけの相手だと思っていたのだろう――実際、それが私たちの基本的な戦い方だ。だが、いまの私はスタンダードな戦い方ができる状態じゃない。
距離をつめたところで私は幽霊の背で身を起こし、吹き飛ばされそうな逆風に耐えながらお祓い棒を構える。
「みこみこ剣技奥義! 見よう見まね『現世斬』!」
渾身の力を込めて私はお祓い棒を横薙ぎし――そのままの勢いで、それを橙に投げつけた!
ぐるぐる回転する棒が橙に向かって飛び、次の瞬間顔面にぶち当たる。スペルカードが宣言され、障壁が展開される前の一瞬を狙った不意打ちだった。威力としてはたいしたことはないが、ちょうど目のあたりに当たったそれは橙の視界を奪う。その隙を逃さず、
「いまよ!」
「神技『八方鬼縛陣』!」
幽霊のスペルカードが発動し、空中に光の柱が立った。私たちを中心として広がるそれは橙を飲み込み、連続した打撃音を立てて化け猫を調伏する。光の中に橙の影が見えた。のけぞり、もがいて、のたうち回っている。――手にまだ、スペルカードを持っている。
「――鱗』」激しい音の隙間に橙の声が聞こえたような気がした。
光の中から橙の影が消えた。私たちのスペルカードはまだ持続している。やがて光が消えたとき、橙の姿はどこにもなかった。
私たちは慌てて振り返る。
空中をジグザグに高速移動する猫がいた――ぐるぐるぐるぐる、彼女の主人である藍の真似をするように回転しながら、橙が恐ろしい速度で私たちの周りを飛び、弾幕を撒き散らし、空間を埋めていく。
「これは……」
幽霊が驚く。彼女は見たことがないんだろう――私だって、文の新聞で読んだことがあるだけだ。そして文への対策として開発されたこれは、弾消しが前提のスペルだ。避ける隙間はない。
移動するタイプのスペルカードを選んでいたのが橙の幸運だった。その発動と同時に八方鬼縛陣から逃れることができた。そして私たちにはもうこの弾幕を避けることができない――と、橙は思っているだろう。
私は幽霊の肩に手をかけ、彼女の体をよじ登り、足をかけ、そして跳んだ!
はじめの弾幕を打ち終わった橙が空中の一点で静止する。幽霊に向かって自分の射出したおびただしい量の鱗弾が殺到しているのを見る。そして満足そうに笑う。私たちのスペルカードを半分ほども受け、ぼろぼろになった体で。
そして気づく。幽霊の背に私が乗っていないことに。
迫る弾幕を無視するように、幽霊は右手をぴんと上に伸ばし、高く空を指す。
「ヘイ、ゲーオ(Girlのネイティブっぽい発音)。空を見なよ」
言われるがままに上を見る橙の顔面に向かって――私が落ちていく。
「くらえ! 博麗メガギガトン!
爆殺!」
重力にしたがい、加速度をつけた私の足が橙の顔面にめり込んだ。ぼきり、とか、ごきり、とか、顔の骨やら首の骨やらが折れるような音がして、橙の動きがぴたりと静止する。
そのまま、私と橙は一緒に落ちていった。
「はぁっはぁっはぁっーーー! 見たか、みこみこ奥義! ちなみに爆発はしない! って落ちるぅぅぅーーー助けてぇぇぇーーー……」
「よいしょっと」
ひゅるる~と落ちる私を下に回り込んだ幽霊が受け止めてくれた(橙はそのまま落ちていった。さらば強敵(とも)よ)。私ははぁ、はぁ、と荒い息をつく。心臓にひやりとした氷をつめ込まれたような気分だった。動いて疲れたのではない。
「無茶するわねえ。肝を冷やしたわ」幽霊が興奮したように言う。頬が上気して、なんだか色っぽかった。呼吸を整えてから、私は返事をした。
「ありがとう。……怖かった……。空から落ちるって、こんなに怖いことだったのね」
「うん」
幽霊がうなずいた。
「ともあれ、橙ちゃんを撃退したわ……はい、ちゃんと私におぶさって。先に進むわよ」
「うん。よろしく」
「もう落ちちゃだめよ」
「うん。……えっと、なるべくね……」
さて、いらない邪魔が入ったが、紫の居場所までもうすぐだ。冬眠してるんだろうが、あいつもみこみこ奥義でぶっ飛ばしてやる――そう思ったときだった。私たちの目の前に、突然大きなスキマがあらわれ、ぱくりと口を開けた。
私たちは吸い込まれるようにそのスキマに飛び込んでしまった。
◆
目の前に家があった。家のなかから赤子の声が聞こえた。
「いい子にしててね」と私は言った。すると赤子は泣きはじめた。
とてもうるさい泣き声だった。赤子が急に二人にも、三十人にも増えたみたいで、それがそれぞれ重なり合って泣くから、少しも絶え間なく泣き声が響くみたいだった。それが私には音楽のように聞こえた。
私は目を閉じた。黙って音楽に耳を傾けた。
泣き声のなかに私をくすぐるようなかわいい笑い声が聞こえた。それは何度も繰り返された。聞こえるたびに波のように私の感情を揺さぶった。
やがて私は波の底に横たわる海になった。海のなかの浅い部分は日を通して青く、深い部分は黒く見えた。海のなかに雪が降りはじめた。
なにかの生きものなのかもしれない。とても小さくて白いものが上からちらちらと絶え間なく降りてきて、そのはじまりは見えなかった。赤んぼの声が遠ざかり、とぎれとぎれになり、ときどき聞こえるそれが雪の白い粒に反射して私の周りを取り囲んだ。私に当たる雪と声が跳ねてどこかに行き消えた。「良い子、良い子」と私は言った。私はこの音楽のことをよく知っている。
青い部分がだんだん消えて私のすべてが黒くなった。夜がやってきたのだ。
「……きなさい。起きなさい、霊夢」
「ハッ。ウェイクアップ」
私は覚醒した。少しの間眠っていたようだ。眠る前のことを思い出すのに時間がかかった……私たちは橙を倒し、そしてスキマに飲み込まれたのだった。幽霊が私の顔を上から覗きこんでいた。私と同じ、でもちょっとちがう顔がさかさ向きになっている。自分が彼女に膝枕されて、地面に大の字に寝そべっているんだ、ということを理解すると、私は恥ずかしくなって跳ねるように飛び起きた。幽霊はくすくすと笑っていた。
あたりを見回すと、夜になっていた。
「……ここは?」
「あそこ」
幽霊がお祓い棒で先を指した。夜のなかに、小さな家がぽつんと建っていた。神社の周りとはちがう枯れ木がその周りを取り囲んでおり、ゆるやかな坂道がそこまでつづいている。私は舌打ちをした。
「ご招待ってこと? 余裕かましてくれるわねえ」
「わかるの?」
「ええ。あれが八雲紫の家。来たことがあるわ……小さい頃に」
「場所は忘れてたのにねえ」
「うっさい。たぶん小さい頃も、いまみたいにしてスキマで連れて来られてたのよ。……と、いうことは」
「そうね」彼女は一呼吸置いてから、決意を固めるように言った。
「八雲紫は起きている。手間が省けたと言うべきか、厄介事が増えたと言うべきか」
「両方よ」
そう言って、私は歩き出した。前に進みながら、考え事をした。さっきの夢はなんだろう?
わけがわからなくて、抽象的な夢だった。ただの夢なんだと言われれば、たしかにそうであるように思えた。けれど、私の勘は――巫女の勘ではなく、ただの人間としての博麗霊夢の勘は――あの夢になにか意味があると告げていた。とても短い夢だったようでもあるし、その逆に、ずうっと昔から私はあの夢を見つづけているのだ、というような、へんてこりんな感じもした。抽象的であるにもかかわらず、ものすごく印象に残る夢だった。けれどそれが何であるのか、どんな意味があるのか、さっぱりわからない。
紫か、ことによると藍が、私にあの夢を見せたのだろうか? 何の目的で?
腕組みをして、頭を悩ませながら歩いていると、地面にあった石をひとつ蹴っ飛ばしてしまった。石はひゅうと飛んで、もっと大きな石にぶつかって、かちりと音を立てた。
後ろから、彼女が話しかけてきた。
「紫に会って、どうするつもり?」それで私の考え事は中断された。振り向かずに、私は言葉を返した。
「何よ。前に言ったじゃない。どうにかして私に巫女パワーを取り戻させるのよ。藍はあんな言い方をしたけど、紫ならなんとかできるでしょう。妖怪の賢者様なんだからさ。あいつにできないことなんてないわ」
「ずいぶん紫を信用してるのねえ。仲良しなのかしら?」
「仲良し? ふん」私は吐き捨てるように言った。
「あんなうさんくさい奴、誰が信用するもんか。怠け者だし、ねぼすけだし、わざわざ難しいこと言ってこっちをけむにまこうとするし――でも、能力だけは認めてやってもいいかな。それにあいつがいないと幻想郷が成り立たないのはほんとうだし……私はあいつの部品にすぎない」
「部品?」
「私は、博麗の巫女は、紫の、幻想郷の部品にすぎない。あんたも知ってるでしょ? 幻想郷の住民みんなが知ってるわ――博麗の巫女が、ただの便利な使い捨ての管理者にすぎないことを」
「そこまでわかっていて、何でお前はまた博麗の巫女になりたいんだ?」幽霊の声が変わった。
「だから、言ったでしょ。私は巫女の仕事が好きなんだって。空を飛ぶのが大好きなんだって」
「本音を言えよ。博麗霊夢」幽霊の声がまた変わった。私は振り向いた。
魔理沙がそこに立っていた。
「博麗の巫女でなくなれば、もう私と会えなくなる、と思っただろう」
生理になる前、私が博麗であった最後の日に会ったままの姿の魔理沙が、私を見てにやにや笑っていた。人を見透かすような、底意地の悪い笑顔だった。私は嫌悪感を抱いた。
「巫女でなくなれば、もう私と友達でいられない、と思っただろう。ただの人間になったお前になんか、私はもう興味をなくし、愛想をつかしてしまう、と思っただろう」
「……図に乗るな」
「いいんだぜ。私はそこまで酷薄な女じゃない。たまには遊びに行ってやって、面白いみやげ話でも聞かせてやるさ――お前にはもう縁のない、不思議でわくわくする異変の話をな」
「いいかげんにしろ、って言ってるの!」
私は魔理沙に殴りかかった。思い切り力を込めて殴りつけた拳は、魔理沙の手のひらに軽く受け止められた。ぎり、と歯ぎしりをした瞬間、足を払われて、私はその場でべちゃっと潰れた。
立ち上がる私を尻目に、魔理沙はそばの大きな石に腰かけ、あいかわらずにやにや笑いながら
「お前のみじめな姿を見るのは楽しいよ。ずっと嫌いだったんだ。お前のことが」と言った。
「私がどんなに努力しても、必ずお前はその上をいっちまう。何の修行もせず、ただの生まれつきで――ただ博麗の巫女である、というだけで、だ。どんなに目障りだったか、わかるか? 殺してやりたかったぜ。でもいまとなっては、その必要もないな。ただの人間であるお前は、もう私に追いつけない。私と同じ景色を見ることができない。スカッとするぜ」
「黙れ、と言ってるのがわからないの」転んだ拍子に口の中に入った土を吐き出しながら、私は言った。
「藍」
「おや。気づいていたか」魔理沙はわざとらしく驚いた。
「でも、私の言葉は真実を言い当てているだろう。霊夢」
魔理沙の姿が消え、藍の姿に変わった。大きな九本の尻尾を持つ、金色の狐――八雲紫の式である、最強の妖獣の姿だ。
「紫様に会っても無駄だよ。というか、私が会わせないよ。紫様は寝ているからね。起こさないよう、厳しく言いつけられているんだ――とくに、こんなくだらない用事ではね。じゃ、帰ろうか。お前は飛べないから、私が抱っこして送り届けてあげるよ」
藍のにやにや笑いが先ほどまで見ていた魔理沙の笑いに重なって見えた。私は藍をにらみつけた。でも、言葉が出てこない。いまの私では、何をどうやってもこいつに勝てないだろう。お祓い棒は橙との戦いで空から落としてしまった。彼女は――幽霊はどこにいってしまったんだろう?
私が黙っていると、やがてやれやれ、といった調子で、藍が立ち上がった。私は無言のまま、両手を突き出してそれを制しようとした。自分でも腰が引けているのがわかる。藍は止まらない。こちらに歩み寄ってくる。
「やめてください、のポーズかな? お前もおとなしくなったもんだ。でも、やめないよ。橙をやってくれたお返しに、腕の一本でも折ってやろうか」
「ば……」
「ば?」
「ばぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁか!」
私は最後に、思いっきり藍に向けて舌を突き出してやって、それで――後ろを向いて逃げ出した。
(五)
大きな月が私を照らしていた。暗い夜のなかを枯れ木の間を縫うようにして私は逃げた。全速力で走るといくらもいかないうちに息が切れた。転ばなかっただけでも僥倖だ。
とにかく、幽霊を探さないと。私一人では絶対に勝ち目がない。彼女がいれば空中戦もできるし、残った一枚のスペルカードで勝負をかけることもできる。彼女は符を使えるし、見てはいないけど針も使えるだろう――それにひきかえ――
(私は何もできない、か)
荒い息をつき、それでもなんとか前に進みながら、私はそう考えた。悔しくて涙が出そうだった。
(待て、考えろ、考えるんだ……)
いまの私にあるのは何だ? 巫女の力はない。空は飛べないし、直感もはたらかない。走るのだって遅いし、ぶん殴ったってこっちが痛いだけだ。私はただの人間で、特別な力は何ももっていない。だから――ええっと……そうなんだ。
藍の言うとおりだ。魔理沙はいつでもこうだったんだ。
そう思い当たると、ついに涙がこぼれてしまった。あいつはただの少女で、それが必死に工夫して、力をつけて、巫女であった私と肩を並べて異変を解決していたんだ。魔理沙はほんとうに凄い奴だった。私はそれをずっと知っていた。知っていたけど、無視していたんだ。
胸が苦しくなった。呼吸と疲れのせいばかりではなかった。
私はついに立ち止まってしまった。畜生、畜生、とつぶやきながらそばの木に頭を何度もぶつけた。藍は追ってこない。私が逃げ出して、もう戻ってこないと思っているのか。自分の脅しに屈したと思っているのか。そこまで私を馬鹿にしているのか。どうでもいいと思っているのか?
(私は――)
ある程度呼吸を落ち着けると、私はこわごわ振り返った。誰もいなかった。遠くに月とはちがう灯りが見えている。家屋そのものは見えないが、あそこが藍と紫の家だ。私はあそこから逃げ出してきたんだ。
自分の仕事から、あっさり逃げ出してきたんだ。戦うことすらしないで。
周りをよく見た。月と灯りと、枯れ木以外には何もなかった。スキマで飛ばされてきたんだから、帰り方もわからなかった。何の気配もしない。ここに生きものはいないのだろうか? もしオオカミでもいたら、私は抵抗もできずに、襲われて死んでしまうだろう。寒気がした。火を起こそう、と思ったが、火打ち石もマッチも持ってきていなかった。
動くのも嫌になって、私はその場でへたりこんでしまった。
雪が降ってきた。
空から降ってくる白い雪が視界にあらわれ、上を見上げると、空の一番高いところから大粒の雪が止めどなく産み出されてくるようで、肌につくとそれはすぐに溶けて水になった。月や星はもう姿を隠していたが、けれど不思議にあたりはぼんやりと明るく、雪の白い粒がやけにはっきりと見えた。私は精一杯縮こまり、木の根元に寄り添った。みるみるうちに地面に雪が積もり、枯れ木の森を白く染めてゆく。夜の黒と雪の白が入り混じって目がちらちらした。とても寒かった。このまま死んでしまうのかな、と思った。
目を閉じた。
夢を思い出した。幽霊の膝で眠りながら見た夢を。
あのときも雪が降っていた。けれどあのときは寒くなかった。いまとちがって無音ではなく、常に何かの音楽が聞こえていた。どんな音楽だったろう? 一生懸命、私は思い出した。夢のなかで聞いた音を。たくさんの音が重なり合っていた。それはひとつの音が幾重にも高低や長短を変えてできあがった旋律のようだった。――はじめのひとつの声。
赤ん坊の声。それがあの夢のはじまりだった。あの赤ん坊はどこにいただろう。私の知ってる赤ん坊だっただろうか。あの子はたしか――家のなかにいた。私はその家に入った。私の知っている家。
あの家は、八雲紫の家ではなかったか?
頭が痛くなってきた。寒さのためなのか、考えすぎのためなのか、わからない。必死で思い出そうとした。自分の記憶がずっと前とつい先ほどと一緒くたになってこんがらがって、最後には一直線につながるようになった――あの赤子は私だ。
赤子の頃の自分の姿を、私は夢見ていた。
でも、すると――私を見ていた「私」は誰だったんだろう。
夢のなかだから、どんなことが起きても不思議ではないのかもしれない。自分の赤子の姿を、自分で見ることもあるんだろう。そう思おうとした。でも、どうしても不自然なことがそこにはあって――私は赤子の声を聞きながら海になっていた。
海ってなんだ?
幻想郷には海がない。私は海を見たことがない。話で聞いたことがある、というだけだ。でも夢のなかの私は、波や、その上に差す光、すべての時間が魔法のように思えるあの海の底の記憶――それらを鮮明に感じることができた。あれは誰の記憶だったんだろう?
あの夢は、ほんとうは誰が見ている夢だったんだ?
私は目を開けた。
目の前が、真っ赤に染まっていた。
空から舞い降りる雪が、いつからか、白ではなく、血のような赤に染まっていた。夜の黒のなかに赤が入り混じり、積もる雪の赤が白を覆い隠していた。地面はまるで血をぶち撒けたようだったし、枯れ枝はまるでそれ自体が血を流しているみたいだった。自分の体にも赤い雪がついていた。髪の毛に、服に、露出している肌に赤い雪が降り、溶けて赤い色のついた水になって染みこむ。私は悲鳴をあげてしまった。
すると、
「よい夢が見れたかな」
すぐ後ろから声がした。弾かれたように私は振り返った。藍が、私が座っているのと同じ木に、背中を合わせるようにして立ったままもたれかかっていた。私は飛びのいて藍に向き合った。自分の体がそれだけ動くのが自分で不思議だった。
藍が話しだした。目を伏せ、私のほうを見ないままで。
「役の行者が大峯山の釈迦ヶ岳に分け入り、背丈九尺ほどの骸骨が木の枝に刺さっているのを見出した。骸骨は左手に鈴(れい)、右手に独鈷を握っていた。その夜、弥勒菩薩が『汝は前生七生、この山で修行した。これは汝の前生の骸骨だ』と、役の行者に夢告をする」
藍はまるでひとりごとのように
「霊夢お前の夢はとても気持ちが悪いね。趣味が悪いよ。けれど人間というのは皆こうなのか。とりわけお前のような年頃の娘の夢は」
「何、言ってる」落ち着いていた呼吸がまた荒くなった。
「これはお前の夢だよ。お前の夢とこの世界はつながっている。他の誰でもなくね。けれど私はこの夢が好きじゃない。お前の夢はまるでただの影だ。もうわかった。お前は夢をみる種類の人間じゃないんだ。それがわかった。だから」藍がこちらを見た。
「私はお前を殺してしまう」
藍が一歩で私の前に現れた。その一歩が私には見えなかった。藍が下から爪を振り上げ、私の胸を深く切り裂き、肉を削いだ。
◆
いままでで一番大きな悲鳴を、私はあげた。自分がこんな声を出せるとは思わなかった。それはいつまでも長くつづいた。声をあげつづけていないと、気を失ってしまいそうだった。実際、意識を保っていたのが奇跡みたいなものだった。
鳩尾から首元まで達するような大きな傷口から大変な勢いで血が流れた。地面の赤に血が上塗りされさらにどす黒い赤になった。バランスを失い、私は倒れた。もう二度と立ち上がれなそうだった。藍が上から無慈悲に私を見つめた。
藍は何も言わず、倒れた私にとどめを刺そうと爪を振り上げた。
私は体ごと地面をごろごろ転がった。
自分が何をしているかわからなかった。あとから考えても、どうして自分にそんなことができたのか、わからない。体が勝手に動いた、とそのときは思った。自分はまだあきらめず、この敵から逃げようとしている。
自分は生きていたいんだ、ということを、氷のように冷たい心臓を抱えながら、このときに思った。
できるだけ遠くまで転がった。力が尽きて、転がれなくなってからは、なんとかして足を動かして、這って逃げようとした。けれど、当たり前だけど、動けたのは大した距離じゃなかった。少しだけ離れた私を、藍が呆れたような顔をして見つめていた。
「お前は他の巫女とちがうかもしれない、と思った。でもおんなじだ。生き汚い、生に執着する、ただの人間だ。いやむしろ他の巫女よりさらに劣等だ。落第生だよ。お前は」
「ふっ……ざけ……ないで」
私の腹のなかに炎のような怒りが生まれた。それは氷のような心臓を溶かし、冷たくなっていく体に活力を与えた。消える前の最後の炎、というやつだったのかもしれない。目の前の藍に対する煮えたぎるような憎しみを私は抱いた。それがそのまま口をついて出た。
「馬鹿にすんじゃないわよ! あんたなんかの都合で、生かされたり殺されたりしてたまるもんか! 私は私だ、好きなように生きてやる! お前なんかが私に点数をつけるな! 調子乗ってんじゃないわよ馬鹿狐!」
藍はほう、と感心したように少し笑った。
「その意気やよし。しかし遅かったな」
藍の爪が私の頭に振り下ろされた。
がきぃん、と、金属と金属がぶつかり合うような音がした。巫女の針が、藍の爪を止めていた。
もう一人の私が突然あらわれ――いままでどこにいたんだろう?――藍の爪を両手で持った針で止め、はじき返した。
藍が驚いた顔をした。
幽霊が間を詰め藍の腹に手を当てた。
「ゼロ距離ね」
早口でそう言ったのが聞こえた。あいている方の手で、スペルカードを宣言する。
「神霊『夢想封印』!」
幽霊の体から様々な色に光る球体が次々と生み出され――藍の体に吸い込まれていった。ひとつひとつが大岩を砕くほどの威力のある力のかたまりだ。一度に何発も藍はそれをくらい、跳ね飛ばされた先にまた球体が殺到する。轟音が重なりあい、音の衝撃が耳を打って、何も聞こえなくなるほどだった。藍の服がはじけ飛び、その下の肉が焼け焦げ、一部はちぎれて血とともにびちゃびちゃと地面に落ちる。先ほどの傷で私が失ったぶんの何倍もの血が、藍の体から一瞬で失われた。光が止むと、あとには血塗れで赤い雪の上に倒れ伏す藍が残された。
はじけ飛び、離れた藍の体に、幽霊がすたすたと近寄った。
右手に針を持った幽霊が、その針を藍の背中に突き刺した。心臓のある場所だ。その針を引き抜きもせず、そのままにしておくと、今度は幽霊は手近にあった大人の頭くらいの大きさの岩を抱えて持ってきて、それを上から藍の頭に落とした。
ぐしゃり、と頭蓋の割れる音がした。私の位置からでは見えなかったが、たぶん脳みそがはみ出ているだろう。
幽霊はふー、と大きく肩で息をつくと、振り返り、私のところまで戻ってきた。
「ごめんなさいね。道に落ちていたおまんじゅうを拾い食いしていたらはぐれてしまって……薄皮の、あんこのたっぷり入っているおまんじゅうだったわ。少し残しておいたから食べる?」
「痛い、痛い」
「あっ、怪我してたわね。困ったわね。私じゃちゃんと治せないわ」
「あ、あんたねえ……ちなみにおまんじゅう、いくつ落ちてたの」
「十三個」
「いくつ残してあるの」
「いっこの半分」
「死ねえ!」
私はさんざんわめきちらし悪態をついたが立ち上がることはできなかった。幽霊が手早く止血をしてくれた。といっても、傷口にぺたぺた符を貼るだけだったが。博麗の治療符の効果はたしかに高いが、あくまでもこれは応急処置で、すぐに治るなんてことはない。私はまた、彼女におんぶされた。
「一旦帰りましょう。藍はもう追ってこないわ……傷を治して、体勢を立て直し、またここへ来ましょう」
「だめよ」
「だめよ、って言ったって」
「紫の家へ向かって。私はもう、二度と逃げない。藍をやっつけたくらいで、気がおさまるもんですか。こんな怪我までさせられて……紫に一言、文句を言ってやらなきゃ気がすまない」
「(こっちは頭蓋骨割ってやったけど)でも、私はもうスペルカードを持ってないわよ。勝ち目はないわ」
「あんたが行かないなら、私一人で行く。下ろして」
「ねえ霊夢、わがままを言わないで」
「それに、あそこには魔理沙がいるのよ」
「……」
「あいつの顔が見たいわ。……あのね、魔理沙は」
「しょうがない」幽霊はぐっ、ぐっ、と背中を振って、私をおぶりなおした。
「具合が悪くなったら言うのよ。あなたには体を大事にしてほしいんだけどね、ほんと」
そう言うと、彼女は飛び立った。私たちは八雲紫の家に向かった。
(六)
申し訳程度の背の低い囲いを飛び越えると飛び石がつづいた玄関がある。私たちは舞い降り、引き戸の横についている鈴をちりんちりん、と鳴らした。
誰も出てこない。家のなかからは何の音もしない。鍵がかかっていなかったので、私たちはそのまま家にあがった。髪や服についた赤い雪をさっさっと拭うと、ゆるく固まった血が飛び散ったように見えた。
大妖怪の家らしくなく、紫の家はとてもかわいらしい、小さな家だった。靴を脱ぐとすぐに居間があり、その右手に台所、その奥に紫の寝室、というだけの間取りだ。居間にはこたつがあり、その上に藍が飲んでいたんだろう、飲み差しの湯のみが置かれている。中身はただのお茶みたいだ。灯りがつけっぱなしだったところからみても、藍はほとんど準備らしい準備もせず出てきたんだろう。あるいは、すぐに戻ってくるつもりだったか。
次の部屋につづく襖を開けると真っ暗闇のなかで紫が寝ていた。
布団を頭までかぶっているから顔は見えない。はみ出た金髪が枕をこえて畳までひろがっているところをみると、寝相が悪いんだろう。居間から差し込む明かりが紫の金色の髪を照らして際立たせた。
幽霊が私より先に寝室に入り、布団の上から紫を揺すって起こそうとした。
「紫、紫、起きて、起きなさいよ、このねぼすけ」
紫は起きない。死んでるんじゃないか、っていうくらい静かだ。
彼女はしばらくそうやって紫を起こそうと努力したが、やがてふうーと大きく息をついて肩をすくめた。
「だめね。起きないわ。私たちも休憩しましょうか……あまりのんびりはしていられないけどね」
私は彼女の背中に向かって語りかけた。
「ねえ。あなた何者?」
彼女の動きが不自然にぴたりと止まり、それからゆっくりこちらを振り返ろうとしたが、その動きも途中で止まった。
幽霊は私を見ないままで
「何、って、ただの幽霊よ、私は」
「紫は寝ている。私たちをここに連れてきたスキマは紫の仕業ではない――あれは、あんたの使った『亜空穴』ね。あんたは紫の居場所を最初から知っていた――私をすぐにここに連れてくることも、きっとできたんでしょう。さあ、白状なさい。あんた、いったい何者なの?」
「察しはついてるんでしょう?」
彼女は後ろを向いたまま立ち上がり、首を曲げてこちらを見た。私よりつり目がちの、私と同じ黒い瞳が灯りを照り返して輝きを放っているようだった。
「そうよ、霊夢。私があなたの最後の『試練』。博麗の試練そのものよ。準備はできたかしら――と言いたいところだけど」
彼女は片手でぽい、とお祓い棒を私に放った。私はそれを受け取った。
「使いなさい。そのくらいのお目こぼしはしてあげる」
私はお祓い棒を、畳にぽいと投げ捨てた。
「あんたごときに獲物はいらん。殴り殺してやる」
「あら、あら」彼女はおかしそうに笑った。「勇ましいこと。でも、いいのかしら。胸の傷口が開いたままでしょう。それに――女の子が、殺す、なんて言葉を使うもんじゃありません――よ、っと!」
袖から取り出されたスペルカードが光を放った。彼女の体が淡く光る水色の障壁に包まれる。
「符の参『魔浄閃結』!」
彼女の体を中心にした四角形が床に描かれ、その四隅を結んだ辺から天井まで伸びる結界が発生してひろがる。腕を組み、私は身を守ったが、結界に触れると衝撃で居間の向こう側まで弾き飛ばされてしまった。背中で戸をぶち破り、そのまま倒れて木枠にはめられたガラスが砕ける。ダメージは少ないが、肩口から露出した二の腕を少し切ってしまった。冬なのに腋丸出しの服はこういうときに具合がよくない。寒いし。
廊下に出た私はひとまず紫の寝室からいちばん遠いところに位置取り、柱を背にして体勢を整えた。彼女が声を大きく上げて私に呼びかけた。
「霊夢ゥ~。勝ち目ないわよぉ。わかってるでしょぉぉ~」
「うるさい、うるさい! スペルカードが三枚だけっていうのも嘘か! この嘘つき! 民主党政権!」
「当たり前でしょ。それでもあなたはよく戦ったわ。――でも、ここまで。巫女になるのはあきらめなさい。博麗の巫女じゃなくったって、楽しいことはいっぱいあるわ。できることはたくさんあるのよ」
「巫女の力なんてもうどうでもいいわ!」
彼女は黙った。
「魔理沙みたいに戦ってやる! 普通の人間として、あんたたち化け物と戦ってやる! 殺す!」私は柱の陰から飛び出して縁側を走って紫の寝室に向かった。
居間方向とは別、縁側からの紫の寝室への襖を開けると――紫の寝ている布団の足元が見え居間からの明かりがわずかに部屋に形を与えていた。幽霊の姿は見えなかった。
寝室のなかを手探りで私は進んだ。壁があり、何か置物でも置いているのか、でこぼこしたものがある。空気が揺れた。私はとっさにしゃがんだ。一瞬前まで胸があったあたりの高さで、飛んできた符が炸裂した。置物が砕け、ばらばらと陶器の欠片が降ってくる。手で触ると、そのあとで畳が濡れていた。直接体に水は触れなかったが、砕けたのは花瓶だったのだろう。符が次々と飛んできた。私は畳に四つん這いになって、必死でそれを避けた。部屋のなかの空気がかき乱され、炸裂音で方向感覚が狂った。私は布団のなかの紫の体に思い切り乗り上げてしまった。バランスを崩し、私は「あいてっ」と声をあげた。
布団がはがれて紫の顔が見えた。こんな騒ぎのなかでも紫は安らかそうにすやすや眠っている。紫の顔を見るのは久しぶりだ。こいつが寝る前だから、秋の中頃あたり、数ヶ月ぶりになる。何千年も生きてるくせにしみにひとつないきれいな肌が居間からの明かりを照り返し、閉じた目の睫毛は化粧もしていないのにとても長く、唇は薄い赤に色づいていて口づけを乞うように軽くちょこんと突き出されて――風が吹いた。
縁側方向からの風が突然部屋のなかに吹き込み、風のなかを舞う雪が二三ほど紫の頬についた。赤い雪だ。風の吹いてきた方を私は見た。赤い雪の降るなか、庭の上に、もう一人の私が浮いていた。
「家を壊すと悪いからね。出てきなさい。私を殴り殺すんでしょう?」
逃げ出そうとしたが最後の矜持が私にそれをさせなかった。さっき言った啖呵が私の行動を縛っていた。魔理沙みたいに戦ってやる……私は立ち上がり縁側に出た。宙に浮いている彼女を見上げる。片手にお祓い棒を持ち、腕を組んだ彼女が私を見下ろしていた。
「わかっているのかいないのか」彼女はとても厳しい顔をしていた。赤く降る雪よりもさらに冷たい視線が私を貫いた。
「何をよ」
「橙にやられても、藍にやられても、あなたはあきらめなかった。そしてそのうちに変化した……ように思える。けれどその変化は本物か? ただのやけっぱちじゃないかしら? 普通の人間である、という言葉の重さを、あなたはほんとうにわかっているの?」
「紫や幽々子みたいなものの言い方をするじゃない。何が言いたいの? はっきり喋りなさいよ」
「私が言いたいのはね」彼女の後ろに七つの回転する陰陽玉が浮かんだ。「博麗の巫女でなくなった、普通の人間のあなたが死んだところで、誰も困らない――ということよ」
彼女が私に向かって飛んできた。避けたつもりだったが、彼女の振りかぶった拳が私の頬にきれいにぶち当たった。
吹っ飛んで倒れた私を彼女の手が引っ張り起こす。そのまま彼女は私に平手打ちをくらわせた。二つの陰陽玉に光がともる。光は明滅し、一度消えてはまた光るたびに際限なく力を蓄えるように見える。
「『夢想天生』」
後付けの宣言が私の耳を打ち――その言葉を追いかけるように鳩尾を膝で蹴り上げられた。激しい痛みとともに呼吸ができなくなり、私は縁側にまるでごみのように投げ捨てられた。三つ目の光がともるのが見えた。倒れた拍子にどこかを切ったのか、口のなかに血が溜まっている。木の床に頭がぶつかってくらくらした。よろよろと体を支えながら、私は頭のリボンを解いた。
「何の真似かしら。いまさら降参?」彼女の声がすぐ後ろから聞こえる。
私は力を振り絞り、勢いをつけて立ち上がり振り返ると、彼女の目に向かって溜まっていた血を噴きつけた。
幽霊の顔が真っ赤に染まり、目に入った血が視界を奪う。あわてて彼女は目を閉じる。そこを狙って、思い切り私は彼女の頬を殴りつけた。彼女と私がそろって床に転がる。
倒れる彼女の後ろに回り込み、私は手にしたリボンを使って首を締めあげた。
彼女の喉から空気が漏れる不自然で汚い音がする。締めあげられたのは、一瞬だった。彼女の肘が私の鳩尾――ちょうど膝で蹴られたのと同じところ――に当たって、私は悶絶し、彼女から離れてしまった。
彼女は袖で目と顔を拭いた。
「やるじゃない」彼女のつま先が私の頭を蹴った。四つ目の陰陽玉に光がともった。動けない私を、彼女は体ごと抱え上げ、雪の積もる庭に投げつけた。背中を打ち、私は声にならない声をあげた。五つ目。
私を追って彼女が庭に降りてくる。
まだやるのよね、と目で語りかけられた気がした。彼女は私の気持ちを理解しており――そして私のほうでも、彼女の心がわかった。彼女は私を深く哀れんでおり、そしてその上で本気で殺そうとしていた。もはや他の選択は閉ざされており、私の死だけが彼女と私の関係に決着をつけるただひとつの結末だった。
私はスカートのポケットに手をやった。そのなかにあるものは、まだ、壊れていなかった。
立ち上がるのも難しいので、私は雪のなかに腰を下ろしたまま彼女を下からにらみつけた――もう何度目だろう? 今日一日で、橙にも、藍にも、私は痛めつけられ、私はこうして下から彼女たちをにらみつけた。そしてことごとく敗北した。彼女たちを退けられたのは目の前にいる幽霊の力であり、私の力ではなかった。――そして、いま、最後。
彼女は無防備に私に近寄ってきた。積もった赤い雪を踏むたびにぎゅっぎゅっと音がした。私たちの服はすでに全体が赤く染まり、白い部分は残っていなかった。真っ赤な雪景色のなかで血のかたまりのような巫女服の二人が対峙している。これが最後だ、というように、彼女が口を開いた。
「残念ね。あなたは博麗の巫女にはなれなかった。途中で帰って、普通の人間として暮らしていく道もあった。でもあなたはそれを拒否した。意地かしら、それともこの死こそがあなたの望むものだったのか。まあ、言い訳は幽霊になってから聞きましょう。あなたが幽々子のところに来れるかどうかはわからないけど」
彼女は手にしたお祓い棒で私をなぶるように叩いた。六つ目の光がともった。
私は手を伸ばし、下から彼女の手を握った。
手を引っ張りながら全身の力を使ってなんとか立ち上がり――すぐに力尽きて前に倒れ、彼女に体をあずけた。彼女は私の背中に手を回した。まるで抱きしめられるような格好だった。
ぜえ、ぜえ、私は荒い息をついた。彼女の手が私の頭を撫でた。
「お疲れ様、霊夢。がんばったのは認めてあげる」
「ぜえ、ぜえ……ぜ」
「ぜ?」
「ゼロ距離ね」
私はスカートのポケットから魔理沙のミニ八卦炉を取り出し、密着した彼女の腹に砲口を当てた。
「恋符『マスタースパーク』」
つぶやくように私はそう宣言し八卦炉の引き金を引き――八卦炉に残っていた最後の魔力が光の奔流になって彼女を吹き飛ばし飲み込んだ。紫の寝室ごと。
(七)
魔理沙は単純で馬鹿なのでスペルカードの威力だけとってみれば私よりはるかにすごい。マスタースパークの魔力は紫の家を飲み込み、ぶち壊し、屋根を吹き飛ばしてしまった。
光が私の目を眩ませ、熱が手を焼いた。壊れかけの八卦炉だから、リミッターが効かなくなっているのかもしれない。熱すぎてもう持てず、手からそれを取り落としそうになったころ、ばきぃん、と鈍く響く音がして、やっと光の奔流が止まった。あとには広い範囲で焼け焦げ、消失した家と、それから今度こそほんとうに壊れたミニ八卦炉だけが残された。外枠の木が大きく幾つもの破片に砕け、中身の機構がはみ出していた。慎重に、私はそれをポケットに戻した。その間注意して、ずっと前を見ていた。周りの気配にもこれ以上ないほど気を配った。幽霊はどこにもいなくなっていた。まるでふっと、消えてしまったようだった。
焼け焦げた寝室にあがると、呆れたことに、紫はまだぐうぐうと寝ていた。布団も半分以上が焦げてなくなり、畳からも壁からも、紫の体自身からもぷすぷす煙が出ている。きれいな金髪は見事にアフロになっていた。すごくソウルフルだった。
私は紫のねまき(ムカつくことに色っぽいスケスケのネグリジェだった)の胸元をひっつかみ、引き起こして、頬にぺしぺしと平手打ちを見舞ってやった。
「オラ、オラ。起きなさいよ。このファンクの帝王。ミスターダイナマイト。オラ、オラ」
「むにゃむにゃ……もう食べられない……」
「こっこの野郎なんて古典的な。許されない。博麗頭突き!」
「げろっぱ!」
ファンキー・プレジデントめいた悲鳴を上げて紫はようやっと起きた。眠そうな寝ぼけた目が片方だけ開きまるでウインクしているようになった。そのまままた寝そうになったのでもう何発か霊夢ヘッドバットをお見舞いしてやった。いい加減頭が割れるかと思ったところでやっと紫は覚醒した。
「あら、霊夢……に似た露出コスプレの人……」
「本人よ。服はあんたの式たちがぼろぼろにしたのよ!」
「リボンがない。あとなんか全体的に真っ赤だし」
「うっさい、アフロ。いいから私に質問させなさい」
「ほえ」
まだ眠そうな目で、紫はゆっくりあたりを見回した。真っ赤な雪原のなかに焼け焦げて半壊した自分の家が建っている。さすがの紫も、唖然とした表情を見せた。月も星もないのに不思議に明るい空から、大粒の赤い雪が止めどなく降ってくる。少し風が出てきて、それは私たちを中心に巻いていて、流される雪がそのなかをひらひらとたゆたうように飛んでいた。
紫は私に向き直り、強い調子で言った。
「なんで私アフロなのよ!」
「うるせえ! 説明はしねえ!」
「そんな堂々と……」
「魔理沙はどこにいるの」
紫の目が私を見据えた――不思議な色をしていた。濃い紫色にも見えるし、ときどきそれがきらめいて髪と同じような金色の光を放つようにも見えた。星々や月がまるごとそのなかに閉じ込められているような、こいつ特有の、夜そのもののような瞳だ。
やがて紫は私のことをすっかり理解した――んだと思う。宣言したとおり、私は何も説明しなかったけど、次に口を開いた時には何もかもの話がつながっていた。
「魔理沙はええと……ええと……家にいるわよ。どこも怪我なく、ピンピンしてるわ。藍はときどき手荒になるけど、無駄な乱暴をする子じゃありません」
「なあんだ……」
私は疲れてへたりこんでしまった。でも、この家に魔理沙がいなくてよかった。
「もしこの部屋に魔理沙がいたら、あなた殺してたわよ。無茶するわねえ」
「うっさい。私だってギリギリだったのよ。……じゃあさ」
「巫女の力、戻してほしい?」
先回りをされて、私は渋い顔をした。紫は、しまった、というような顔をして黙った。
こいつはそういう奴だ。――とてもとても強くて、偉大な妖怪で、考えられないくらい頭がいいから、私なんかの考えることはすぐに察知してしまうし、それどころかずっと遠くまで、はるか先までの結果を瞬時に予見してしまう。そしてこちらの思考をことごとく読み、操作するすべに長けている。私だけじゃなくって、魔理沙でも橙でも藍でも、そして幽々子だって、こいつがその気になれば思うがままに操られてしまうんだろう。でも、こいつは――長く生きていてそういう操作が第二の天性みたいになっているはずの妖怪の賢者は――そういった自分の習癖に逆らい、闘っている。それが躊躇いになって表にあらわれる。
少なくとも、私といるときのこいつはそういう奴だ。だから、私は紫を好きだし、信用している。――つまるとこ、彼女は私に気に入られたがっているのだ。それがわかる。
「みこみこパワー、ねえ。なんだかどうでもよくなっちゃったわ。ううん、ほんとは最初から、どうでもよかったのかもしれない」
自分の考えを整理して、確かめるようにしながら、私は話しだした。
「はじめはただただショックだった。また空を飛べるようになりたい、と思ったのもほんと。魔理沙に負けたくない、という思いだってたしかにあったわ――でも、いまの私が魔理沙に劣っているとしても、博麗の巫女になることだけがあいつに追いつく方法じゃない。もっとずっと地道で、あんまり目立たないような、特別じゃない生き方だって、同じように大事だし、大変なんだと思うわ――自分で自分の生き方を決めることは」私は息をついた。
「他の選択肢をなくしてしまうこと。自分に自分という役割をかぶせて他を見えなくしてしまうこと。限られた時間を何に使うかっていう選択を自分ですること。世界に向かって飛び込むこと。自分に見える範囲の世界を自分で切り出すこと。――そういうふうに思う」
「そうね」紫はにこにこ笑った。まるで私の母親のように。
「博麗の巫女として生まれたからって、かならずしもずっとそうじゃなきゃいけないわけじゃないことがわかった。でも、どうしよう? 他のこと、私できるかな?」
「十やそこらの子供が何言ってるの」紫は呆れたような顔をした。「なんだってできるわよ。博麗の巫女じゃなくなることだって、どんな仕事につくことだって、恋をすることだって、アフロになることだって……ね」
「いやアフロにはなりたくないけど……」
「とりあえず、今日は帰る? 送りますわよ」
「そうね。寒いし、眠いし、体じゅうバッキバキで血がだらだら出ていて内蔵もやばいし……げぶっ(血を吐く)」
「私も眠いですわ……ぐうぐう」
「寝るなあ!(口から血ダラー)」
寝そうになる紫をがっくんがっくん揺さぶって起こしていると、ふいに時間が止まったような気がした。
びっくりした――降っていた赤い雪が、突然、空中でぴたりと静止した。自分たちの周りだけでなく、見えている範囲の雪すべてがそうだった。風も止まったようだった。赤い雪の粒がまるで夜のなかに描きこまれた模様のように見える。私たちだけがそのなかで動いている。まるで絵のなかに迷い込んだみたいだった。
ひとつひとつの赤い粒が止まったまま成長するようにだんだん大きくなった――ひとひらの雪が、赤い羽をつけた、一匹の大きな蝶になった。
視界すべての雪が蝶に変わっていった。私たちの周りに浮かぶ雪も、遠くに見える雪も、地面に降り積もっていた雪も、木の枝に、壊れた屋根に、畳に積もっていた雪も。何千何万という雪の粒が蝶になり、一斉に羽ばたいた!
蝶たちはばらばらに動いているようでありその実整然とひとつの目的に向けてまとまった進行をしているようでもあり、けれどそのひとつひとつはやっぱり自在で――赤い蝶の群れがつながりとなり、流れになって夜をかき回していく――私たちはその渦の中心に入れられた小さな人形のようだ。私たちの服や髪についた雪も蝶になって飛び立った。それはこの夜の、この世界の一部になってわずかに変化を加えていく。
この夢のような世界の。
音楽が聞こえた――蝶の羽ばたくかすかな音が何万も重なって耳に響いているのかと最初は思った――でも、そうじゃなかった。もっとはっきりした、それはひとつの声だった。赤ん坊の泣き声が聞こえた。
赤い蝶の流れのなかから、誰かが姿を現した――もう一人の私だった。さっきまで戦っていた、つり目がちで、下がり眉の、恥ずかしそうな顔をしたもう一人の私。彼女は胸に赤ん坊を抱いていた。その赤ん坊の泣き声が私の胸に響いた。
私も泣いてしまった。
「お母さん」
私は素直にそう言った――心の内側から、自分でも知らないところから出てきた言葉だった。でも声に出すと、ずっと前から自分はそれを当たり前のように知っていたんだ、という気がした。彼女は表情に困っているようだった。くすぐったそうにも見えるし、私と同じように、泣き出しそうにも見えた。涙がどんどんあふれてきて、すぐに何も見えなくなった。
私は目を閉じなかった。ぼやける視界のなかでも、できるだけ長くお母さんを見ていたかったから。
お母さんは私に近寄ると、跪いて、私と視線を同じ高さにした。そして言った。
「死んじゃって、ごめんね」
こらえきれず嗚咽が漏れた。恥ずかしいとかなんとか、言ってられなかった。お母さんは私を後ろから抱きしめた――胸に抱いていた赤子がすうっと溶けるように私の体に入ってきた。それで私は、自分が強く愛されていたことを知った。
ずっと長いこと泣いていた。やがて空が白み、私はこの世界にも朝が来ることを知り――蝶が消え、雪も消え、お母さんも消えた。紫が私を神社に連れて帰ってくれた。私は布団に入って眠った。眠りのなかでも、ずっと泣いていた。
(八)
「で、どういうことだったんだ」
「なんかねえ、あれが博麗に伝わる試練なんだって。代々の巫女は、みんな同じ試練を受けるらしいのよ」
私は魔理沙にかいつまんでことの説明をした――もちろん、泣いたとか、あんたに勝ちたいと思った、とかそういう照れくさいことは端折ってだ。八卦炉をぶち壊したことについては「すまん」と謝った。魔理沙はぶうぶう言っていたが二三度尻を撫でるセクハラをしてやったらおとなしくなった。
「抜き打ちテストとは趣味が悪いな。途中で帰ってたらどうなってたんだ?」
「そりゃ、不合格で、失格よ。巫女の力を永遠に失い、おしまい。それからあとは普通の人間として生きることになる」
「ハードだな。ヘヴィだぜ。博麗の力っていうのはめんどくさいな」
「私もそう思う。まあ、楽じゃないわね」
「私はやっぱり普通の魔法使いがいいや」
そう言うと、魔理沙はニカッと笑って箒を誇らしげに庭に突き立てた――掃除が終わったあとだったので、地面には何も落ちていなかった。私は縁側に座り、例によって熱いお茶を飲みながら魔理沙をながめた――寒いのに元気そうだった。
魔理沙はあのとき、幽々子から情報を聞き出し、紫の家の近くまで飛んで、そして藍に負けた。普通の弾幕勝負だったから、私のように怪我をしたり命が危険になることはなかったそうだ。八卦炉を藍に盗られたのに気づいたのは家に帰ってからだ。何かの術を使われたんだろう……八卦炉は魔理沙の家の暖房器具もかねているから、その日は寒さに震えながら何枚もの毛布に包まって眠った。アリスが迎えに来たのは次の日の朝だ。
あの日魔理沙は、アリスと一緒に人里で私を待っていた。いつまでたっても私がやってこないから、心配になって神社に来たが、そこには誰もいなかった(幽々子はもう帰ってしまっていた)。魔理沙とアリスは私を探して幻想郷じゅうをかけずり回った。やがて見当をつけて私を追うように紫の家へ向かったが――その前に藍が現れた。
「霊夢はいま母親と会っているから、邪魔しないように。あいつはそう言ったぜ」
藍は魔理沙とアリスにそう告げると神社から消えたときのように忽然と姿を消し――二人はそのあとも、相談しながら私を探しまわり、紫の家へ行くこともあきらめなかったが、今度はどうしても見つけることができなかった。
で、けっきょくのところ、
「アリスチャーハンできたわよーーー」
「おう、いま行くぜー」
アリスが台所から大きな声を上げて私たちに呼びかけた。魔理沙がそれに応えた。
魔理沙とアリスは私の神社で、私の帰りを待っていたのだ。一晩中まんじりともせず、私のことを心配していた。だから私が紫に連れられて家に帰ったときには、この魔女っ子二人が居合わせて、私は二人に泣き顔を見られてしまった。恥ずかしいところは端折って話をしたけれども、あんまり意味はなかったかもしれない。
でもまあ、別にいいか、とも思う。
昼まで寝て、起きたときには、私は自分で驚くほどに落ち着きを取り戻していた。昨日一日でしたいろんな経験がすんなり、ありのままに自分に溶け込んで、まったくの苦労なしに自分の一部になったと思った――私はすべての事柄を鮮やかに明確に思い出すことができた。戦いの興奮、力を使えない絶望、ざっくりと切りつけられた傷の痛み、血塗れの森と庭と雪……夢のような一日の夢のような記憶。血でできた蝶、赤ん坊の泣き声の音楽、母親の胸の温度……すべての時間が魔法みたいに思えた。それらが順番に整理されて私の心に入り込み、位置を占めて、いつでも取り出せるようになった。
アフロの紫を思い出すと笑えた。
「ねえ」
私の横を通りすぎて食卓へ行こうとする魔理沙を呼び止めた。
「何だよ。アリスチャーハン(塩豚とニラとレタスとにんにくで作ったアリス特製のチャーハン。アリスはこれをアリス中華鍋で作る)はうまいんだぞ。あつあつで食いたいんだ。お前も早く来い」
「魔理沙はどうして魔法使いになったの?」
魔理沙は立ち止まり、少し黙って、考えをまとめているようだった。私はどきどきしながら答えを待った。つとめて、何の気なしに聞こえるように言ったつもりだったが、私にしては十年に一度あるかないかくらいの、真剣な問いであることが伝わったようだ。魔理沙が口を開いた。
「お前、魔法ってなんだと思う?」
「はあ?」
よくわからない答えを返されたので、へんな声が出てしまった――というか、答えでもなんでもなく質問を返されただけだった。肩透かしをくらったような気持ちになって、私は少しいらっとした。すると魔理沙が解説をはじめた。
「こういう問いって大事なんだぜ。少なくとも私にとってはな――私は子供の頃、家にあった魔法の本を読んだ。魔法の本、と言っても、いま私が読んでいるような力を持つ魔導書ってやつじゃない。ただの魔女や魔女の使う魔法やそれに関連する用語をならべてちょっとばかりの解説をくわえた、辞典みたいなもんだ――私はどきどきしながらそれを読んだ。その最初のページにこうあった。
『魔法とは人間の意志を宇宙の事象に適用することによって何らかの変化を生じさせることを意図して行われる行為、その手段、そのための技術と知識の体系である』、と」
「ええと……」読むのならともかく、耳で聞くには長い定義だったので、私はそれを頭のなかで何度か反芻した。そして言った。
「なにそれ。そんなの私たちのやること全部じゃない」
「そうだよ。私たちのやること全部が『魔法』なんだ」
魔理沙は面白そうに笑った。私は面白くない。
「聖書は読んだことあるか? ないよな。ヨーロッパの……西洋の宗教の聖典なんだが、これが人類の起源について語っている。神話って全部そうだけどな。で、その聖書によると、私たちのご先祖ははじめ楽園にいた。神様の創った楽園で、勝手に生る果物を食べ、きれいな水をたっぷり飲み、やることがないから働きもせずただ寝て起きて、毎日ぽかぽか陽気だったから服も着ず裸で、ええっとそれで、男と女がいたから、その……だぜ、だぜ。その、だぜ」
「うん、わかった。そこについてはあとで詳しく訊くから話をつづけて」
「いや訊くなよ。それでまあ、楽しく暮らしてたんだそうだ。でも、そこに蛇が現れた。楽園には一本だけ、神が人間に命じてこの木の果実を食べてはならないと戒めていた木があった。それが善悪の知識の木だ。蛇はエバ(ご先祖様の女のほうだ)をそそのかし、その果実を食べさせてしまう。
かくして神の怒りを買った人間は楽園から追放され、額に汗して土を耕さなければならないほど地の実りは失われ、女は妊娠と出産の痛みに耐えなければなくなり、寒くなった上に羞恥心も芽生えたから服を着なくてはいけなくなった、というわけだ」
「それが何なのよ。私は魔法について訊いたのよ」
「蛇とは悪魔のことだ」と、魔理沙。「私たちの使う魔法の語源になってる奴らだ。蛇がいなければ、私たちはまだ楽園にいたはずだ……と、思う奴もいるけど」
魔理沙は自慢の帽子に手をやって一度ぐっとそれを引き下ろし深くかぶりなおした。
「私たち魔女はそう思わない。人間は遅かれ早かれ、知識の実を口にしたはずだ。人間ってそういうもんだ。というか、私だったらそうする。神様を出し抜いて、禁じられた果実を齧るチャンスを伺う。その結果楽園を追放されたって、かまうもんか。むしろせいせいするくらいだ。そのおかげで私たちは耕作し、好きな作物を育てることを覚えた。火を起こし、肉を焼けるようになった。道具を使って家を建てられるようになった。布を織り衣服を作り、ユニクロや無印で買い物ができるようになった。ドンキでもな。それが魔法だ。人間の意志で宇宙の事象をつくりかえていくことだ」
魔理沙がこっちを見た。私と目が合った。とてもきらきらした目をしている、と思ったが、あるいはこのときは、私の目のほうがきらきらしていたかもしれない。
「ドンキも……」
「そう、ドンキもだ。だからそういう意味で、私たちのやることは全部魔法なのさ。お前の巫女パワーだって、私たちから言わせれば『魔法』なんだぜ。私がことさら『普通の魔法使い』を名乗るのには、そういう気持ちがあるんだ」
魔理沙が私の手を握り、さ、そろそろ行こうぜ、飯が冷めちまう、と言って私を引っ張り立たせた。私は魅入られたように魔理沙を見つめた。私と同じ年頃の、私よりも背の低い、ただの少女だ。それが世界をつくりかえる力を持っている。
私は何も考えずにそのとき思ったことをそのまま口にした。あとから考えれば、これも魔法のひとつだったかもしれない。
「魔理沙。私はあんたを愛してるんだと思う」
魔理沙はきょとんとして、私が何を言ったのか一瞬わからない様子で、それからみるみるうちに真っ赤になった。遅れて私も、自分が何を言ってしまったのか理解して、同じように真っ赤になった。二つのりんごのように真っ赤になって固まっている私たちを、痺れをきらせたアリスが呼びにやってきた。
「こらあ! 何してるのよ! アリスチャーハン私が全部食べちゃうわよ!」
私はものすごくあわてて――昨日一日でもこれほどはなかったほどびっくりして――魔理沙から離れるように後ろに飛び上がってしまった。縁側から足が離れて、私は庭に落っこちるところだった。
なかなか地面に足がつかなかった――私は縁側の先、冬の神社の庭先で、飛び上がった格好のまま、ふわふわ浮きつづけていた。
私は呆然とした。魔理沙も私を見て、目を丸くしていた。ただ一人驚かなかったアリスが、へらへら笑いながら言った。
「ほうらね、言ったじゃない。重く考えることないって。女の子は誰でも空を飛ぶのよ。体と心のバランスを取るすべを、少しずつ覚えていくのよ。あなた自身毎日変化していき、つくりかえられていく――この宇宙と同じようにね」
前兆はあった。その一週間前から……二週間前からだったかもしれない。なんとなく調子の出ない日がつづいていた。
体調が悪かったわけじゃない。ご飯はきちんと食べられたし、熱っぽかったりだるかったりもしなかった。ただ、へんに力が出なかった。力というのは、巫女の力(みこみこパワー)のことだ。お札を飛ばしたり、結界を張ったり、勘をはたらかせたり、空を飛んだりする、あの力のこと。
いつもどおり、普通に妖怪退治をしているつもりでも、なんだか符の飛び具合が悪くて狙ったところに向かわなかったり、あまり相手を追いかけずにどこかへ飛んでいってしまったりした。空を飛ぶスピードも遅くなっていて、逃げる妖怪に追いつけなかったりした。博麗の巫女は妖怪退治が生業のひとつであるので、そうやって敵を逃してしまうのは、どうにも困ったことだった。
でも、まあ、こんなこともあるか、と思っていた。長い人生、私だってそう毎日毎日絶好調じゃいられないだろう、というくらいの気持ちだった。
あとから思ったことだけど、このときにもっときちんと考えておけばよかった。自分の体をくわしく観察して、変化をじっと見極めればよかった。でも、あの頃の私は、いまとちがって大変のん気だったのだ。
ええっと、それで、あれが起こった日のことだった。
その日私はいつものように起きて、朝ごはんを食べて、お茶を飲んで、境内の掃き掃除をして、そしてお茶を飲んでいた。
もう大晦日も近くて、雪はなかったけれどとても寒い日だった。神社の周りにある常緑樹の葉の表面に霜が降りかぶさっていて、風景は寒々としていた。吐く息も白かった。首にマフラーを巻き、足元をブーツで固めて、それでも私は風の通る縁側でお茶を飲んでいたのだ。そういう習慣だったから。
いつものように魔理沙がやってきた。箒から降りると、開口一番
「お前寒そうだな」
とこちらを見て言った。こっちは一年中腋を完全にあけた格好だから、言われてもしかたない。「よけいなお世話。あんたは夏暑そうよ」と言ってやった。魔理沙は魔理沙で一年中黒白だ。
それから家の中にひっこんでこたつにあたった。自分のぶんと、魔理沙のぶんの新しいお茶を用意してやった。お茶菓子は魔理沙が家から持ってきてくれた。
ぬくぬくしながらだべっていると、そのうち魔理沙が「香霖堂へ行こう」と言い出した。
私は渋った。
「いやあよ。寒い。あんた一人で行ってきなさい」
「そう言うなよ、そろそろ新しい品物が入荷してる頃なんだ。掘り出し物があるかもしれない。それにあそこに行けば、いつかみたいに鍋が食えるかもしれないぞ」
「あのときはうちで朱鷺を捕まえたんじゃない。ふだんのあそこには食べ物なんかないわよ……他に行きたい理由があるんでしょう」
「実はミニ八卦炉の調子が悪いんでメンテに行きたいんだ」
「ほら見なさい。一人で行けばいいのに……」
ぶつぶつ言いながらも、まあ、一緒に行くことにした。思えばこのとき、勘がはたらいていたのかもしれないし、もう狂っていたのかもしれない。
◆
香霖堂は人里と魔法の森の狭間、ちょうど魔法の森の入り口のところにある。魔理沙が「朱鷺でなくてもせめてきのこくらいは持っていってやろう」と言うので、私たちは森のはじっこあたりで地面に降りて散策をはじめた。私には知識がないので、うろついてきのこを探すのは専ら魔理沙の役目だったが。
ひょこひょこ歩いてはきのこを見つけ、ぶちぶち摘んではかご代わりの帽子にぽいぽい入れていく。ぽいぽい。魔理沙の背中を眺めていると、なんとなくつまらない気分になった。
八卦炉のメンテが、なんて言うけれど、ほんとはただ霖之助さんに会いたいだけなのかもしれない。だったらほんとに一人で行けばいいのに、わざわざ私を連れて行くのは、恥ずかしかったり、照れくさかったりするからだろう。男言葉を使っているけれど、魔理沙はとても女の子らしい女の子なのだ。後ろから見ているので表情はわからないが、リズミカルに動く背中と肩に嬉しさがにじみ出ているような気がした。私はなんだか馬鹿らしい。
魔理沙を見ていても仕方ないので、私は私で鳥でも探そうか、と周囲を見回すと、木と木が重なって見通しの悪い視界のうちに、隠れて移動している何かを見つけた。
鳥よりもはるかに大きかった。はじめは何かわからなかったが、注意してそれを追うと、それは女のむき出しの脚だった。
足首から上、引き締まったふくらはぎから肉付きの良い太ももの肌色が私の頭上を飛び、木々の枝と葉の間に隠れていった。妖怪だ。魔理沙のそばに近寄ろうとしたとき、羽の生えた大きな灰色のものが上から突っ込んできて、私はそれをまともにくらってしまった。私は妖怪に打ち倒され、あお向けになって押さえつけられてしまった。
巨大な虫の頭が私の顔のすぐ上にあった。米俵くらいあるだろうか。大人の頭ほどもある両の複眼は表面が複雑に突起しており、その突起のひとつひとつが小さな目で、それらが震えるように動きながら私を注視していた。下顎にあたるところから一対の毛に覆われた口吻が突き出ており、それを突き刺して体液を吸おうとしているのだ。頭の後ろに視界のすべてを覆うほどの大きな羽が見える。毒々しいまだら模様をしているそれから鱗粉が落ちてきて、私はそれを少し吸い込んでしまった。私を地面に押さえつけているのは妖怪の手だった。裸の、むき出しの女の手だ。それが妖怪の虫の体から生えている。
妖怪の口吻が私の喉に突き刺さる前に、どう、とか、ごう、とかの大きな音がし、目の前が光で真っ白になって、妖怪は吹き飛ばされ、私は勢いで地面をごろごろ転がった。起き上がると、魔理沙が八卦炉を構えてこちらを見ていた。
「油断してたか? 霊夢にしちゃめずらしいな、というか、空前絶後だな。ぼっとしてるのはいつもどおりだが」
口の端を上げてにやにや笑っている。言われるまでもなく私は焦っていたが、魔理沙に言われるとその焦りが倍増するようだった。何かがおかしい、とはっきりわかった。普段であれば、あんな攻撃をくらうことはありえないし、もしヘマをしたって、私はもっと落ち着いているのだ。魔理沙に軽口を返せるくらいには。
魔理沙がす、と私から視線を外した。私も同じ方を見た。
ぷすぷす焦げた煙を上げながら、蛾の妖怪が立ち上がっていた。私たちの二倍も、三倍も大きな体をしている。先ほど目の前で見た巨大な蛾の頭と羽の間から人間の女の手と足が突き出ていた。むき出しで血色が良く、人間そっくりの太ももの筋肉の動きまでよく見えた。複眼が複雑に動いて私と魔理沙を等分に見た。短い毛がみっしりと生えた顔の口が動き、ぎいい、というような声を立てた。私は袖から符を取り出し、妖怪に向かって投げつけた。
それは少しだけ飛んで、半分もいかないうちに力を失って地面に落ちた。
もう一度投げた。すると今度は符はひらひらとその場で落ちてしまった。いつもなら意志を持つように勝手に飛んでいく符が、まるでただの紙のようだった。私は呆然とした。少しだけ意識が飛んでしまったかもしれない。
また、どおん、と音がして、前を見ると、妖怪の頭が砕けて飛び散っていた。後ろから、「霊夢?」と魔理沙が声をかけてきた。
下腹のあたりに、針で刺されるような痛みが、突然やってきた。あんまりにも痛くて、初めて感じる痛みで、おへそから下がなくなってしまいそうな気がした。私はその場でうずくまってしまった。
私の名前を呼びながら魔理沙が駆け寄ってきた。ずいぶんあわてているみたいだった。私はくらくらして、目の前が暗くなって、返事もできなかった。
魔理沙が屈んで私の顔を見た。私を心配しているのがわかる。あの妖怪の毒を吸ったのか、と魔理沙が言った。そうかもしれない、と思った。けれどそうじゃないって気もしていた。すごく久しぶりのことだけど、私は泣きそうになっていた。
「大丈夫か。大丈夫じゃないよな。香霖堂へ行こう。近くだからすぐ着くぜ、だから我慢しろ」
「ううん」
「心配するな、私が助けてやる。掴まれ、箒に乗るぜ」
「嫌だ」
「霊夢」
「香霖堂に行くのは嫌。神社に連れてって」
「何だって? 何でだ。香霖とこのほうが近いぜ。お前大丈夫なのか?」
「お願い、魔理沙。神社に帰りたい」
「……わかったよ」
魔理沙は私を箒に乗せて、神社まで連れて帰ってくれた。とても体が重かった。途中で一度、箒から落っこちそうになった。それでそのとき、自分はもう飛べなくなってしまったんだ、とわかった。
家に着き、厠へ行った。下着に茶色いものがべっとりとついていた。話としては聞いていたから、自分にもそれが起こったんだ、ということがわかった。初潮だった。
よくわからない悲しみが襲ってきて、厠の中で、私はほんとうに少しだけ泣いた。
喉に言葉をつっかえさせながら、魔理沙に事情を話し、その日は帰ってもらった。魔理沙は帽子を深くかぶり、なるべく表情を見せないようにしていたが、驚いているようだったし、またはなぜだか、傷ついているようでもあった。
私はというと、どんな顔をしていたのかわからない。でもたぶん、混乱のきわみみたいな表情をしていたんじゃないかと思う。で、思うには、私がそんな顔をしていることこそが、魔理沙にとってショックだったのかもしれない。
股から七日間血が出つづけた。二日目が一番大変で、体の中から内臓をわし掴みにされて絞りあげられているような気分だった。あとはだんだん楽になった。けれど、血が止まらないことが、とてもうっとうしかった。
食欲はあったりなかったりしたから、適当に布団から出て適当に食べた。食べるときと厠に行くとき以外はだいたい布団の中にいた。この血が止まれば力は戻ってくるだろうか、と、ずっと考えていた。それで七日目に、やっと風呂に入り、体をきれいにしてから、境内に出た。
自分はいつもどうやって飛んでいただろう? 飛び上がる前に、そんなことを考えてしまった。
足で地面を蹴った。ぴょん、と私は跳ねて、すぐに地面に落ちた。何度も何度も、痙攣するみたいに私はぴょんぴょんその場で跳び上がった。けれど、体が空に浮かぶことはなかった。
生理になる前に作っていた符を持ちだして、以前、そうしていたはずの集中の仕方をなるべく思い出して、そのとおりにやり方をなぞるようにして……的に向って投げつけた。符はひらひらとどこへも飛ばずに落ちた。呼吸が荒くなり、息を吸い込むのが大変になった。私は縁側に戻り、座った。お茶を飲むのも忘れて考え込んだ。
いまはまだ、生理があけてすぐの状態だから、力が戻ってきていないんだ。もう二三日も待てば、いつものように空を飛べるようになるんだ――そう思い込もうとした。でも、だめだった。生まれたときから自分とともにあり、さんざんそれと付き合ってきた関係のものが、もはや自分に愛想をつかして出て行ってしまって、二度と戻らない――そういう実感があった。
ふと思いついて、「裏」とつぶやいてから履物を足でぽいと遠くに放った。靴は表側になって落ちた。
(二)
出かける気になれず、私はそれから数日の間ずっと神社にこもっていた。そうこうしているうちに食べものの備蓄がなくなった。
博麗神社は幻想郷と外の世界の境界線上にあり、人里からはけっこう離れている。歩いて行けない距離ではないが、いつも飛んで行っていることを考えると、どうにもおっくうだった。でも、そろそろどうしても買い出しに行かないといけない。
そう考えていると、アリスが神社にやってきた。
魔理沙じゃなかったことに、私は驚いた。アリスはぺたんと境内に着地すると、驚いている私の顔を見て、「そろそろ元気でた?」と言った。
「……あの」
「話を聞いたのは私だけだから、安心していいわ。私は生理時に異様にテンションが上がるタイプだけど、霊夢はそうでもないみたいね。でも、まあ、慣れよ慣れ。一応言っときましょう」
とアリスは微笑んで「おめでとう」。
私はアリスをぶん殴ってしまった。人形遣いは吹っ飛び、石畳をごろごろ転がった。巫女パワーを失ったとはいえ、アリスくらいだったら暴力で勝てるようだ。
「何すんのよ!」
倒れて打たれた頬を手でおさえながらアリスが吼えた。さらにムカついたのでもっとボコボコにしてやろうかとも思ったが、既にアリスは泣きそうになっているので勘弁してやった。それで「何しに来た!」と尋ねた。
「何しに、って、女の先輩としていろいろ面倒を見てやりに来たのよ。上海、蓬莱」
「よっす」
「どうも」
「なんか声ちがわない?」
「ヴァージョンアップしたのよ。はい、荷物をほどいて……家のなかのほうが良いわね。寒いし。あがるわよ」
「あ、うん」
全然掃除をしていなかったし……それに何だか自分の血の臭いが部屋に染み付いているようで……家に他人を入れるのは恥ずかしかったが、アリスは何も言わなかった。こたつにあたりながらアリスの持ってきた荷物を開けると、ナプキンと生理用の下着、それから痛みを止める薬が何ヶ月かぶん入っていた。アリスはそれらをひとつひとつ説明してくれた。もらっていいの、と聞くと、当然、そのために持ってきたのよ、とのこと。私はど、どどどうも、とお礼を言った。
アリスは妖怪だけど生理になるんだ。と訊くと「そうなのよ、やっかいなことにねえ」。
ほんとうにやっかいに思っているようでもあったし、こちらを見て、くすくす苦笑いをしているようでもあった。二人でお茶を飲み、だべった。お昼になると、アリスがお昼ごはんをつくってくれた(食材も一緒に持ってきてくれていた)。
アリス丼(豚バラ肉をウスターソースとにんにくで炒めてねぎと海苔を散らし卵黄を乗せたどんぶり)をかっこみながら、巫女の力がなくなってしまった、とぼそぼそアリスに告げた。それも魔理沙から聞いてた、よくある話だと思うけどね、と、アリス。
「女はいろいろ面倒なのよね。体のバランスが変わると、心のありようも変化する。男と比べてその変化が激しすぎるから、自分で制御できなくなっちゃうことも多いわ……慣れないうちはとくにそうね」
「うん。そうなのかな?」
「あんまり重く考えないことよ。来月だって同じことがあるんだから。そしてその来月も、その次の月も……これからずっと、ね。だから、うまく折り合いをつけていかなくちゃ」
「私はもう空も飛べない。巫女のつとめをはたしていけない」
「考えすぎるな、と言ったでしょ。一時的なもので、きっとすぐに戻るわ。ほら、おかわりあるからもっと食べなさい。ちゃんと栄養をつけて、失った血を取り戻さないといけない。血圧高い人のケツあたたかい、なんつってウフフ」
「お腹いっぱいです……」
アリスと話していると二分に一度くらい最高にムカつくが、気は紛れた。カロリーの高いものを食べたからか、元気も出てきたようだった。たぶん来てないと思うけど、と前置きして、アリスは私に尋ねた。「藍は来た?」
「来てないけど」
「ね。もしあなたが永久に巫女の力を失ったのだとしたら、幻想郷の一大事よ。結界が維持できなくなるんだからね。あいつらがすぐに気づくだろうし、気づいたらすぐにやってくるわ。いまは冬だから紫は寝てるんだろうけど、真面目な藍がほっておくはずはない。そいつがやってこないっていうことは、つまり、たいしたことじゃないのよ」
なるほど、と思った。それで、ほんとうに安心できる材料がはじめて胸のうちに生まれたようになって、私は大きく息をついた。
それを見計らったようなタイミングで
「そうでもない」
自分の真後ろから声がした。
私はどんぶりを持ったまま、あわてて振り向いた。八雲藍が、私のすぐ後ろに座っていた。
両手をそれぞれたがいの袖の中に入れるいつものポーズで、行儀よく正座していて、太い九本の尻尾が正面からでも体からはみ出て見えている。藍に会うのは久しぶりだった。金色の髪と尻尾が、薄暗い冬の室内でもきらきら輝いているように見えた。びっくりして、私は手をちゃぶ台にぶつけてしまった。
「いつからいたの」
アリスが言った。アリスもびっくりしたような顔をしていた。
「いま来たところだよ。ずっと結界の様子を見て、計算をしていてね。それで結論が出た。霊夢」
「うるさい」
「残念だが」
「うるさいってば! 後にしてよ!」
「後にしても変わらないよ。お前は巫女の力を失い二度と取り戻すことはない。もはや博麗であることはかなわない。私たちは新しい巫女を探しはじめる。つらいことだが、わかってくれ。いままでよくやってくれた」
藍は真っ直ぐ私を見て言った。同情はするが、こちらに悪びれるところはない、といったふうだ。少しの間、私は藍と視線を合わせてにらみつけたが、それはただの虚勢で、すぐに目を逸らしてしまった。
体の芯が冷えて、手足がしびれるような感覚があった。自分がこんなにショックを受けることがあるんだ、と冷静にも考えたことを、いま思い出している。そのとき、
「いきなり現れて何言ってくれてるのよ」
アリスが、私に代わって怒ってくれた。ちゃぶ台にどんぶりを置き、私をはさんで藍をにらみつけた。
「勝手すぎるわ。突然すぎるわ。何かの間違いじゃないの? 紫の式は礼儀をわきまえないの? 許さないわよ」
「お前に許される筋合いじゃない。仕方ないんだ。同じような巫女はいままで何人もいた……きっかけはいろいろだけど、突然巫女の力を失うことがある。私は結界の管理者として、早急に次の巫女を見つけなければならない。紫様が眠っているいまだから、なおさら仕事をきちんとしなくてはね。霊夢」一度アリスに向けられた視線が私に帰ってくる。
「すまないがここから出て行ってもらう。といってもそんなにすぐじゃなくていい。数ヶ月は大丈夫だから、春になるまで――紫様が目を覚ます前には、ここを引き払っておいてくれ。私にできることがあれば言ってほしい。何でも協力しよう。荷物を運んでくれ、とかね。じゃあ、頼んだぞ」
「だから!」
「失礼する。アリス、お前も力になってやってくれ」
藍が立ち上がり、腕を袖に入れたままぺこりとお辞儀をした。するとその姿が大気に溶けこむように薄くなり、煙のように消えてしまった。
◆
そのまま少しの間、じっとしていた。居たたまれなくなって、首を動かしてアリスのほうを見ると、アリスは顔を真赤にして、ずっと藍の消えていったあたりを見つめていた。アリスらしくないことに、本気で怒っているのがわかった。私はというと、なんだか気が抜けて、なにもする気がなくなってしまった。
またお腹が痛くなってきた。立ち上がり、厠に行って確かめたけど、血は出ていなかった。今度は別の理由だった。
厠から出ると、扉の前でアリスがガンバスターのように腕を組んで仁王立ちしていた。
「行くわよ」
「……どこへ?」
「紫を叩き起こして話を聞きにいくの! 藍じゃらちがあかない!」
アリスは私の手を引き、お姫様抱っこをして、空に飛び上がった。縁側からふわりと飛び上がったとき、ふっ、と、何かが私のなかに取り戻され、体のなかに溜まっていたいろいろの悪いものが、重力とともに抜け出ていくような気がした――久しぶりの空だった。魔理沙の箒に乗って飛んで以来の空だ。
上空から神社や、森や、人里や――幻想郷を見るのが、とてもなつかしいことのように思えた。白と黄と緑の景色のなかに大きな集落がひとつあり、それが人里で、その北側には湖があって紅い屋敷が見える。森も湖も家もそのどれもがなんだか冷たそうだ――前に目を向けると妖怪の山がある。山頂のあたりに雪をたたえていて、稜線にしたがって降りてきては消えるその線がまるで雲のようにも見えるし、お店で売っている上等のお菓子のようにも見えて――ああ、と私は思った。冬に見る景色はこんなふうだ。冬に、幻想郷の空から見える景色は。冷たい風が服と肌の表面をすべり、後ろに抜けていく――私は落ちないように、アリスの腕の中で身を縮こまらせた。首を伸ばして、アリスの耳に口をつけるようにして、私はアリスに話しかけた。
「ねえ」
「何よ」
「魔理沙は何か言ってた? このことについて。私のことについて」
「ふふん」アリスがやっと少し笑った。
「あいつ、焦っちゃってさ。混乱しちゃって、わたわたしちゃって、見てらんなかったわよ。私じゃあいつの力になれないから、なんて言ってさ。悲しそうというか、悔しそうというか。あのね、……あいつ、まだきてないのよ……。あとは……早く霊夢に元気になってもらって、また一緒に異変解決したい、とか、まあそんなこと言ってたかな」
「ふふん」私も笑った。
そうか。
「ね。アリス」
「何よ。あんまり喋ってると舌噛むわよ」
「紫のところに行く、って言うけどさ。あんたあいつがどこにいるか知ってるの? どこに向かって飛んでるの?」
「……あの」
「ねえ」
「そこはそれ、博麗の巫女の勘パワーで、適当に飛んでたら正解にぶち当たるという」
「だから巫女パワーは使えないんだってば。……いまはね」
その日は結局、お互い家に帰って、明日の朝からまた出かけようということになった。明日はアリスが魔理沙を連れてきてくれる。
(三)
翌日、私は歩いて神社を出た。空を飛ばずに地面を踏んで出かけるのは、何年ぶりだかわからない。地面の高さから見る神社の周りの景色は、空から見るときよりも、なんだかごみごみしているように思えた。
前の日のうちにアリスと相談して、まずは人里に行こう、ということになっていた。阿求に会いに行くのだ。
橙のいるマヨヒガならば概ねの場所はわかっているが、紫と藍の寝所、というのはどこにあるのかわからない。誰に聞いても正確な場所はわからないだろうが(そもそも普通に行けるところにあるとは思えなかった)、でも人間のうちでは(私を除けば)阿求だけが紫と関係を持っている。何世代も転生を繰り返して蓄えた知識のうちに、あの
歩きだと時間がかかるし危険だから、ということで、アリスは私を迎えに来たがったが、断った。自分がなんだかとても情けないようで、意地を張りたかったのだ。神社から人里までは一人で歩いて行く、と私は強く言い張った。アリスは心配したが、最後には折れてくれた。
長い階段をてくてく降りていくと、だんだん膝が痛くなってしまった。まるでお年寄りのようだ、と思って、私はへこんだ。
気配がした、というのは、それまで、生理になる前に使えていた巫女の勘とは別の感覚があった、ということだ。いまでもよく覚えているが、あのとき私が感じたあの感覚こそが、いわゆる普通の人間が備えている敏感さなんだろう。私は立ち止まった。
二十歩くらい先の階段の踊場に、何か不吉なものがあるように思えたのだ。目を凝らして見たが、そこには何も見えない。注意深く、ゆっくりと、私は階段を降りていった。
橙が出てきた。藍とはちがう方法で、単純に階段の横の茂みから出てきたのだ。私は安心した。
あの日の蛾の妖怪とはちがって、橙は私を襲おうとはしないだろう。橙の主人である藍が私の安全を保障しているはずだ(と、私は思い込んでいた)。何しに来たのかはわからないが、邪魔はしないと思う。橙は子供だから、単純に力を失った巫女を見たい、というような好奇心で来たのかもしれない。
私はすたすた歩いて橙の前まで行った。私の胸の高さくらいの身長の橙が、手を組んで頭の後ろに置いてにやにや笑いながら、じろじろ無遠慮に私を見ていた。橙と視線を合わせて、少しの間にらみ合うような格好になった。やがて、ふん、と言って私は橙の横を通り過ぎた。何も話してやるもんか、と思った。
後ろから、どん、と背中を押された。
転げ落ちそうになりながら、私は階段を駆け下りた。なんとか体勢を整えることができたが、心臓がひやりとした。振り返ると、橙が意地悪そうな顔をして笑っていた。
「何すんのよ! 危ないでしょう!」私は目を吊り上げて怒った。
橙は笑みを崩さず、
「いつもとちがって間抜けな台詞だね。ちょっと前の霊夢ならもっとかっこいいことを言ったよ」
「……何よ」
「それとも、何も言わずに私をぶちのめしてしまうか。いまの霊夢って、なんだか別人みたいだ」橙はにゃはは、と声を出して笑って
「どこ行くの? 危ないよ?」こちらを小馬鹿にするような調子で言った。
「あんたには関係ないでしょ」
「関係あるよ。霊夢にとって危ないのは、わ、た、しだもん。紫様のところに行こうとしてるんでしょ? 藍様の言ったとおりだ。そうはさせないにゃーん」
橙は笑顔を引っ込めて、猫らしく屈んで四ツ足になった。
「すきま妖怪の式の式、凶兆の黒猫・橙が、博麗の巫女をやっつけてやる!」
そう宣言すると、橙は階段を蹴って、恐ろしい速度で私に向かって一直線に飛んできた。私は石の階段に倒れこんで、何とか体当たりを避けた。肩が石にぶつかってひどく傷んだ。血が出たかもしれない。遠くまで落ちていった橙が、すごい速度で駆け戻ってきた。
私は立ち上がり、下から襲いかかってくる橙に対して「なめるなあ!」と言いながら渾身の力を込めて前蹴りを出した。そして、吹っ飛ばされた。まるで紙くずが風に吹っ飛ばされるみたいに。
頭から落ちたら、たぶん死んでいただろう。背中を強く打ち付けて、私は呼吸ができなくなってしまった。くらくらする目で前を見ると、橙が馬鹿にしたようにこちらを見ていた。
「ほんとに弱いねえ。何だか信じられないや。股から血が出るだけでそんなに変わるの? いままで修行とかしてこなかったの?」
「う……るさいっ」
血を吐きそうになりながら、私は身を起こした。
まったく訓練をしていない――ということはない。
ほとんどの修行をさぼっていたが、それでもわずかに身につけたものはある。あるのだ。
それは私の生まれつきの能力ではなく、巫女の力でもない。それは私の内にまだ残っているはずだった。私は腰に挿していたお祓い棒を引き抜き、橙に向かって静かに構えた。
「叩き斬ってやる」
橙は目を丸くして笑った。「ひねりつぶしてやる!」
私は左足を大股に前に出し、体を深く沈めて、前傾姿勢をとった。本来は平地で使用する技なので、階段で行うとひどく体が不安定になる。橙が誘いに乗ってくる確信がなければ、とても使えない技だった。お祓い棒を左手に持ち、腕を伸ばして真っ直ぐに橙を指し示す。
「来なさい、野良猫。楽園の素敵な巫女が相手してあげる」
「貧乏巫女め」
橙はにやりと笑い、猫らしく舌を出して一度ぺろりと手の甲を舐めると、また四ツ足になり――爆発するような速度で、私に向かって飛んできた。
かろうじて目に見える速度だった――私は左手で持ったお祓い棒で、左前方の階段を一度こぉん、と叩いた。小さな音が猫の速度よりもわずかに早く私たちの間にひろがった――それで橙の突進の方向が、彼女自身意識できないほど小さく寄れた。音の方向に体が引かれるのだ。
私は左足にうんと力を込め、体を後ろに引き戻し――そしてできた距離と時間を利用して――お祓い棒を両手に持ち変える。橙はもう目の前にいた。音のためにできたわずかな隙間に身をねじ込むようにしながら、橙の肩口を狙って思い切り棒を振り下ろした。
弾き飛ばされないようにするのが精一杯だった。小さく軽い橙の体が、速度のために圧倒的な質量を持って私にぶつかろうとする。私がしたことはその速度と質量に微々たる衝撃を与えただけだ。けれどそれで方向がねじ曲げられ――川の流れに翻弄される浮葉みたいに、橙の体はぐるんぐるん回って後ろの階段に突っ込んだ。酷い音がして、石の階段が壊れて大きく砕けた。
「みこみこ剣技奥義! ジャスティス両斬剣!
ジャスティス!」
衝撃でしびれる両手をなんとか支えながら、私は橙に向かって見栄を切った。もう一度言った。
「ジャスティス!」
瓦礫のなかから「ううーん」と声を出して橙が起き上がった。
私を見る。
もう笑顔ではなかった。眉間に皺を寄せている。はじめて見る表情だ。橙はぱんぱん、と服の埃を払い、また舌を出してぺろりと手を舐めた。その間ずっと私から視線を外さなかった。私は動くことができなかった。
橙が大きく口を開けた。
「ばぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁか!」
叫ぶような声でそう言うと橙はまた私に向かって突っ込んできて――私もまたわずかに身を逸しつつお祓い棒を振り下ろしたが、今度は空振りした。お祓い棒の軌道に入る直前に、橙が急停止したのだ。
橙が腰を落とし身を沈めた。瞬間、彼女の目がずっと私の目を捉えていたことに気がついた。
体ごと突き上げた橙の拳が私の顎に入った。顎の骨が砕けたと思った。目から火花が出て、一瞬何も見えなくなった。かち上げられ、跳ね上がった勢いで、首の骨が折れそうになった。木の葉のように吹き飛ばされる私を、空中で橙が捕まえた。
恐ろしい力でぶん投げられて、私は石の階段に激突した。
橙にしてみれば、ずいぶん気を使って、優しく扱ったぶんなんだろう。なんせ、私は意識を失っていなかったから。ただ体じゅうがばらばらになるほど痛かった。骨の何本かが折れたかもしれない。血の気が引き、指一本も動かせなかった。あお向けで苦しむ私の胸を橙が片足で踏みつけた。
私を見下ろしながら、橙がぼそぼそ言った。
「藍様から、言うことをきかなかったら殺せ、って言われたの」
眉間の皺は消えていた。橙の顔を、下から見上げるのは、はじめてだったかもしれない。
橙は少しずつ、言葉を選ぶように言った。
「でも、別に殺したくない。ねえおとなしく神社に帰ってよ。私は別にね、霊夢が巫女じゃなくなったっていいと思うの。
普通の人間になって人里で暮らしてさ、それで、たまにはまた私たちとお酒飲もうよ。私遊びに行くよ。
ね、そうしよう」
間髪入れずに私は答えた。
「嫌だ」
強い力で胸を踏まれていて息をするのも苦しかった。だから短く、吐き捨てるように言った。「どけ」
「考えなおさない?」ため息をつきながら橙が言った。今度は、私は答えられなかった。かわりに下から橙の目を精一杯にらみつけてやった。
橙はあきらめるように首を振った。
「残念」
それでも、橙はまだ何か考えている様子だったが、やがて小さく「謝らないよ」と言った。
「仕方ない。死ね」
橙の足に力がこもり、胸骨がみりみり嫌な音を立てた。絞りきったと思っていた肺からさらに少量の空気が出てくる。
日が陰った、と思った。死ぬ寸前だから、目の前が暗くなっているのか、と思った。でもそうではなかった。
私たちの頭の上に誰かがいて、その影が日を遮り私たちを包んでいた。
私より数瞬遅れて橙がそれに気づき、上を見上げた。何かが飛んできた。上空から放たれたそれはおかしな曲線を描き、橙の頬に横からぶち当たって、ふっ飛ばした。すごいスピードだったのでよく見えなかったが、それは紙のようなものに見えた。
足がどけられて、私は息を吸えるようになった。げほげほ咳き込みながら体に空気を入れる。上を見る。
逆光のためはっきりとは見えなかったが、それは紅白の服を着ていた。お祓い棒を持っていて、腋の部分がぽっかり開いた特徴的な服を着ている。黒い髪で、頭に大きな赤いリボンをしている。
私の服だった。それが空から降りてきて、私の目の前にすとんと着地した。私とそっくりの顔をしていた。
私がもう一人いた。
そいつは目をぱちぱちさせて、じっくり私を見た。そいつが喋った。「痛いでしょう」
「何……」
「少し待ってて」
階段を何十段も下に飛ばされた橙が、駆けて戻ってくる。私ともう一人の私を見て、目を白黒させていた。頭がいっぱいいっぱいになって、どうしていいかわからない様子だ。符がぶち当たった頬が焼け焦げて、赤黒い肉を晒している。橙の方向に向かって、もう一人の私が真っ直ぐお祓い棒を指した。
「宝具――」
「ちょ、ちょっと待、お前誰……にゃああ!」
「――『陰陽鬼神玉』!」
構えを取り、突き出した手の先から巨大な陰陽玉の形をした青白く光る力のかたまりが射出され――橙を飲み込み、鉄の扉をがんがん叩くような音をさせて進んでいった。石の階段が壊れ、その破片もまた光に触れるとさらに細かく砕ける。やがて光が消えると、橙は潰されて、ぺしゃんこになっていた。
頭が真っ白になって、時間が止まったみたいに、私は何も考えられなかった。
間違いなく私の――博麗の巫女の術だった。
もう一人の私がこちらに向き直り、私を見ると、困ったように笑った。
夢を見ているんだ、と思った。そいつが私の名を呼んだ。「霊夢」
「そこまで」
ゆったりとしていて、間の抜けた、それでいて品のある調子の声が突然に聞こえた。聞き覚えのある声だった。階段の下から、水色の帽子と、桃色の髪の毛が現れる。西行寺幽々子がふわふわ浮いてやってきた。
幽々子が胸の前で、ぽん、と両手を打ち合わせると、目の前にいた私がふっと消えて、あとにはひとつの大きな人魂が残された。
◆
幽々子が私を神社まで連れ帰り、一応、傷の手当をしてくれた(橙はそのままほっておかれた)。
一応、というのは、やったことがないからだろう、とても下手くそで、打ち身をしたところに湿布を貼ってくれるくらいしかしてくれなかったからだ。擦り切れたところを水で洗ったり、消毒したり、包帯を巻いたりするのは自分でやった。でもそれで、まあまあ動けるようになった。
あれは何、と私は訊いた。「あの、もう一人の私は何?」
幽々子はいつもと同じ、何を考えてるかわからない顔で、何を言っているのかわからないようなことを言った。
「幽霊に向かって、私は何? なんて、まるで死にたてみたいな台詞ね。アイデンティティの喪失かしら」
「あのね、私はいま、あんたの調子に合わせてやれる気分じゃない……ぶん殴るわよ」
「力を失った巫女など死んだも同然。ふてくされても、やけっぱちになっても、物事はうまくいかないわよ」
「この初代淫ピめ! ゆゆっぱい揉みしだいてやる!(飛びかかる)」
「ひらり(避ける)」
「ずてーん。あ、痛たたたた……」
私はこけて体を打ち、痛みに悲鳴をあげた。そんな私を不憫に思ったのか、幽々子が自分でお茶を淹れてきてくれた。意外なことにずいぶんおいしいのを淹れてきたので、私はますます不機嫌になった。
昨日魔理沙がうちに来たのよ、と幽々子は語った。
「魔理沙が?」
何しに行ったんだろう。白玉楼は遠いから、ここしばらくはお宝漁りにも行かない、とあいつは言っていたけど。
「紫の居場所を聞きに来たのよ。あなたの力になりたい、って、そうは言わなかったけど、まあそういうことよね。話は聞きました。もぐもぐ」
幽々子は私の秘蔵の甘納豆(棚の奥に隠してあった)を口いっぱいに頬張りながら
「もぐもぐ、くちゅくちゅ。私なら紫の寝所を知っていると思ったのね。教える義理があるとは思わなかったけど、おみやげにメロンパンをくれたので教えてあげたわ。といっても、それで彼女がたどり着けるかどうかは微妙だと思ってた。そこで昨日はさよならして、すると今朝、紫の式がこれを届けに来たの。ちゅぱ、ちゅぱ……」
幽々子は食べながら胸元に手を入れ、何かを取り出して私に見せた。魔理沙のミニ八卦炉だった。この前見たときよりも薄汚れていて、ところどころ焼け焦げていて、少しひびが入っていた。
「……魔理沙」
「次の宴会はいつだったかしら。あの子がいないと、幹事に困るわね。新年会の仕切りは妖夢にやらせようかしら。むぐむぐ、れろんれろん……」
大きく息をすると踏まれた胸骨が痛んだが、私はそれを無視して思い切り深呼吸をした。目を閉じた。落ち着いたほうがいい。
魔理沙は藍に捕まったんだろう。あいつのことだから弾幕戦を仕掛けて、途中で八卦炉が故障したのかもしれない。メンテをしなければ、と言っていたし。まさか殺されることはないだろうが、怪我をしたかもしれない。
「まったく、迷惑をかける奴」
「びちゃびちゃ、ぬるぬる、ぬぷぬぷ……」
「迎えに行ってやらないとね。私が」
私はそう言って立ち上がり、庭に出て、井戸の冷たい水で顔を洗った。凍るような冷たさの水をびしゃびしゃ顔に叩きつけると、余計な考えが頭から消えて目の前がすっきりするようだった。髪の毛を濡らし、乱れた髪を整えた。幽々子のところに戻り、立ったまま亡霊を見下ろす。
「幽々子。私にも教えなさい。紫の居場所を」
「(食べ終わった)はあ。……何しに行くのかしら? あなたいま、役に立たないでしょう。橙ちゃんにも負けるくらいなのに」
「あんたが食べた甘納豆ね、古来より博麗に代々伝わる秘蔵のスーパー甘納豆よ。協力してもらうわ」
「代々っていつから……あの、賞味期限……?」
「さっきの人魂を貸しなさい。私の姿をした、私の力を持ったあいつを」
幽々子は、んー、と首をかしげつつ、嬉しそうに笑った。
水色の袖のフリルがひらひらと動き、すると私たちの真ん中に大きな人魂がひとつ現れた。人魂はふよふよと浮かんで、前も後ろもよくわからない人魂のことだからたしかなことではないけど、私と幽々子を交互に見ているような、そんな動きかたをした。
「あまり彼女の力に頼ってはだめよ。けっこう、無理をしているんだからね」
「……こいつ、何なの?」どうして私の姿をしているの、とか、陰陽玉を使えるのは巫女だけなのに、とか訊こうと思っていたけれど、うまく言葉が出てこなかった。幽々子のことだから、何でもありか、と思えたし。
「幽霊の正体見たり枯れ尾花、と言うでしょう。幽霊の正体を知ったときその幽霊はもうそこにいない。幽霊なんていないんだ、と人は信じこむ――けれど彼らはまた次の幽霊に怯える。お化けを怖がる気持ちそのものをなくすことはできない。そういうものよ」
「はあ。まあ、あんたがまともに答えるとは思ってなかったけど」
「あなたのファン、みたいなものよ。当代の博麗の巫女のね。そしてお目付け役であり、監査役でもあり、審査役でもある……これは紫が認めていることでもあります」
「何よそれ? 紫は私に初潮が来ることを知ってたの?」
「さ、さあ、そこまでは……(ぽっ)まあ、いいから楽しんでくるといいわ。これが最後になるかもしれないのだし」
「不吉なこと言うな。……私は絶対にみこみこパワーを取り戻すわよ」
「あら、勇ましい」
幽々子は頬を染めて(幽々子は輝夜と並ぶ幻想郷屈指の生理フェチである)微笑み、ぽん、と手を叩くと、人魂がするする変化して、階段で見たのと同じ私そっくりの姿になった。
先ほどよく観察できなかったぶん、私はそいつをじっくり、前から後ろから、穴があくほど観察した。服は同じだし、背丈も一緒で、ほんとうに双子みたいによく似ていた。ただ、彼女のほうが少しつり目で、それと反対をいくように眉毛は下がり眉だったから、生意気な顔をしている(と言われる)私よりもなんだか恥ずかしがりなように見えた。それと、私よりも胸が大きかった。
「チクショウ」
「霊夢」彼女が話しかけてきた。
「あ、はい」
「あなたはどうして博麗の巫女になりたいの? もう力を失ったんだから、普通の人間になって、人里で暮らしてもいいんじゃない? そっちもきっと楽しいわよ。そうしない理由が何かあるの?」
「ううーん、えっと」私は頬をぽりぽり掻いた。
「なんだかんだ、私は妖怪を退治したり、異変を解決したりするのが好きなのよ。それにさ……ずっとできていたことが、できなくなる、って単純に嫌じゃない?それにね」照れくさいので、一呼吸間を置いて、息を整えてから言う。
「……私は空を飛ぶのが大好きなんだ、とこの前思ったの。いままで当たり前のようにそうしていたから気づかなかったけど、意識しなかったけど……だから私は力を取り戻して、もう一度博麗の巫女になるの。これでいいかな」
「なれるかどうか、わからないけどねえ」と幽々子。
「うるさい。もう帰れ」
「ひどい」
「いいわ」彼女――幽霊はそう言って私の肩に両手を乗せた。
「紫の家への行き方は私が知っている。準備がよければ、早速出かけましょう。魔理沙ちゃんを早く助けなきゃいけないしね。はい、おんぶしてあげる」
そう言ってしゃがみ、後ろを向いて私に背中を見せた。
「……えっと」
「おんぶ」
「……はい」
私は彼女におんぶしてもらって、空を飛んだ。出掛けに一応、妖夢はどうしてるの、と幽々子に訊くと、咲夜とデートしてる、とのことだった(幽々子は泣きそうになった)。
(四)
幽霊の彼女はどうやらお喋り好きみたいで、飛んでいる最中、いろんなことを私に訊いてきた。いつもどんなものを食べてるの、とか、友達はどれくらいいるの、とか、ひまなときは何してるの、とか。
私はそれにいちいち答えた。普段であれば面倒に思うはずだが、彼女が聞き上手だからか、それともやっぱり不安になっていたのか、話しているとなんだか気分が落ち着いたので、ありがたかった。
友達は妖怪ばかりだ、と言うと、彼女は「うーむ」と複雑そうな声を出した。
私のほうからは、ほとんど質問しなかった。ただ、紫の家はどのあたりにあるの、と訊くと
「博麗神社のちょうど反対側、幻想郷の果ての逆端。一番遠い位置にあるのよ」とのことだった。
「知ってるでしょうけど、八雲紫は大変な妖怪よ。霊夢がこれからも博麗の巫女で在ろうとするなら、あいつのことについてもっと詳しく知っておかなければならない」
「幽霊なんかが何をえらそうに。……でも、そうね。注意するわ」
魔理沙のことを考えた。まさか殺されることはないだろうが、ひどい目にあわされてやしないだろうか?
たとえば、エッチなことをされていないだろうか?
想像すると興奮した。おのれ藍……。
そんな与太話をしながら、けっこう長い間飛んでいたと思う。気がつけば太陽がずいぶん高い位置にきていた。彼女も私と同じで、速く飛ぶのは不得手みたいだ。狭い幻想郷だけど、まだ目的地にたどり着けていなかった。そうこうしているうちに、目の前にまた、橙が現れた。
「またあんたか!」私はうんざりしながら言った。
「さっき負けたんだから、おとなしくアイテムを落として引っ込みなさい」
橙はあからさまに苛々している様子で、空中で地団駄を踏みながら言った。
「うるさい、うるさい、あんなの認めるもんか。助っ人なんて卑怯じゃないか。だいたいなにさそいつ、霊夢の親戚か何か? 今までどこにいたのよ?」
「私もよく知らないんだけど(堂々と)この子は紫の関係者、つまりあんたのご主人様のご主人様の関係者よ。少なくとも、ご主人様のご主人様の友達の連れよ。そんな口きいていいの? 叱られるわよ」
「ば、ばかな。何を高田純次的(適当の意味)なことを。……ほんとなの?」
「ほんとよ。英語で言うとトゥルーよ。さあ、わかったら、さっさと逃げ帰ってお茶菓子でも用意してなさい。今日はあんたのせいで疲れたから甘いものがいいわ」
「ええい、馬鹿にして!(考えるのをやめた顔)もう怒った、飛べるなら容赦しないわ。弾幕戦だ!」
「まったく手のつけられないガキね。(へらへら笑いながら)しようのない……じゃあ、やるわよ! 幽霊さん、バシッと決めちゃって!」
「霊夢」
「ホワット」
「実は私、スペルカードを三枚しか使えないの」
「何ィィィーーーーーーー???」
「さっき『陰陽鬼神玉』を使っちゃったから、残りは二枚ね。『八方鬼縛陣』と……」
「と、と?」
「『夢想封印』だけね。どうしよう」
「どうしようってあんた……なるようになれ、よ。でもね」私は彼女の耳に口を近づけ、小声で言った。
「夢想封印は温存しといて。このあと、藍とも戦うはずだから」
「ん、わかった」
「こらぁ! 聞こえたぞ!」と、橙。ケモノだけあって耳はいいようだ。
「この凶兆の黒猫、橙様に対して手を抜く宣言とは、度胸だな! ほっぺた引っ掻いてやる!」
「あんた、その二つ名気に入ってるんでしょう。かっこいいもんね」
「うん。いくぞ!」橙がスペルカードを宣言し発動した。「方符『奇門遁甲』!」
橙が大量のクナイ弾をばらまきはじめる。典型的なばらまき弾幕で、橙の持つ術のなかでは難しい部類に入るが、普段の私であれば問題なく避けられるものだった。私を背に乗せた幽霊もあぶなげなくかわしていく。回避性能も私とほぼ同じであるようだ。乳がでかいのでそこだけ当たり判定がでかかったが。
袖から大量の符をほぼオートで射出する。私たちの弾幕は威力は低いが、ホーミングが売りだ。ほとんど白い流れのように見えるそれが左右から橙に襲いかかる。スペルカード発動時に自動展開される障壁のために一撃で目立ったダメージは与えられないが、一定量を当てていけば確実にスペルブレイクできる。
密度の高い弾幕を軽々とかわしていく私たちを見て、橙は歯噛みしていた。こちらはスペカが二枚だけという不利な状況だったが、橙相手ならそう苦労することもなく勝てそうだ。
と、思った瞬間、弾のひとつが私の頭のリボンをかすめた。「ひゃっ」と私は声を上げた。
「ちょっと危なかった。気をつけて」背中から声をかける。
「……」彼女は無言だった。
もうひとつの弾が、今度は私の袖をかすめる。袖の一部が焼け焦げ、ソフトボールくらいの大きさの布が失われる。右、左、左、右、……彼女は正確に弾幕をかわしつづけたが、背中に乗っている私のぶんの判定を把握できないようだ。弾はだんだん頻度を増して私の体をかすめるようになった。私は必死に背中にしがみついて縮こまり、なるべく体を小さくしてはみ出さないようにがんばる。
「だめねえ」彼女が喋った。「ぎりぎりで避ける癖がついてるから、どうにも大きくかわせないわ」
「ファ、ファイト」震える声で私は応援した。一発二発弾をくらうくらいなら我慢できるが、もしその衝撃で空に放り出されたら、落っこちて死ぬばかりだ。
「次に危なくなったら、もう使っちゃおうかしら。『八方鬼縛陣』」
「ま、まだだめよ。もったいない。それにあれは近寄らないと当たらないでしょ……ひらめいた! ひらめいたぞ! バカヤロウコノヤロウ!」
「何が? いま集中してるからあとにしてね」
「突っ込んで」
「ええ?」
「もうすぐいまのスペカは終わる。そしたら次のを宣言してくるはずだから、そしたら思い切り突っ込んで、適当なところでこっちもぶっ放しちゃって!」
「はあ。いいの? もったいないんじゃなかったの?」
「考えがあるわ……さあ、お願い。いくわよ!」
橙の体を取り囲んでいた障壁が限界を迎えて割れ、スペルカードの弾幕が消えた。橙はいまいましそうにこちらをにらみつけている。一呼吸、二呼吸と間を置くと、橙は二枚目のスペルカードを宣言しようとした。
「星符『飛び重ね――」
その橙に向かって、私たちは最大速度で突っ込んだ!
自分に向かってくる私たちを見て、橙が心底驚いた顔をする。避けてホーミング弾を撃つだけの相手だと思っていたのだろう――実際、それが私たちの基本的な戦い方だ。だが、いまの私はスタンダードな戦い方ができる状態じゃない。
距離をつめたところで私は幽霊の背で身を起こし、吹き飛ばされそうな逆風に耐えながらお祓い棒を構える。
「みこみこ剣技奥義! 見よう見まね『現世斬』!」
渾身の力を込めて私はお祓い棒を横薙ぎし――そのままの勢いで、それを橙に投げつけた!
ぐるぐる回転する棒が橙に向かって飛び、次の瞬間顔面にぶち当たる。スペルカードが宣言され、障壁が展開される前の一瞬を狙った不意打ちだった。威力としてはたいしたことはないが、ちょうど目のあたりに当たったそれは橙の視界を奪う。その隙を逃さず、
「いまよ!」
「神技『八方鬼縛陣』!」
幽霊のスペルカードが発動し、空中に光の柱が立った。私たちを中心として広がるそれは橙を飲み込み、連続した打撃音を立てて化け猫を調伏する。光の中に橙の影が見えた。のけぞり、もがいて、のたうち回っている。――手にまだ、スペルカードを持っている。
「――鱗』」激しい音の隙間に橙の声が聞こえたような気がした。
光の中から橙の影が消えた。私たちのスペルカードはまだ持続している。やがて光が消えたとき、橙の姿はどこにもなかった。
私たちは慌てて振り返る。
空中をジグザグに高速移動する猫がいた――ぐるぐるぐるぐる、彼女の主人である藍の真似をするように回転しながら、橙が恐ろしい速度で私たちの周りを飛び、弾幕を撒き散らし、空間を埋めていく。
「これは……」
幽霊が驚く。彼女は見たことがないんだろう――私だって、文の新聞で読んだことがあるだけだ。そして文への対策として開発されたこれは、弾消しが前提のスペルだ。避ける隙間はない。
移動するタイプのスペルカードを選んでいたのが橙の幸運だった。その発動と同時に八方鬼縛陣から逃れることができた。そして私たちにはもうこの弾幕を避けることができない――と、橙は思っているだろう。
私は幽霊の肩に手をかけ、彼女の体をよじ登り、足をかけ、そして跳んだ!
はじめの弾幕を打ち終わった橙が空中の一点で静止する。幽霊に向かって自分の射出したおびただしい量の鱗弾が殺到しているのを見る。そして満足そうに笑う。私たちのスペルカードを半分ほども受け、ぼろぼろになった体で。
そして気づく。幽霊の背に私が乗っていないことに。
迫る弾幕を無視するように、幽霊は右手をぴんと上に伸ばし、高く空を指す。
「ヘイ、ゲーオ(Girlのネイティブっぽい発音)。空を見なよ」
言われるがままに上を見る橙の顔面に向かって――私が落ちていく。
「くらえ! 博麗メガギガトン!
爆殺!」
重力にしたがい、加速度をつけた私の足が橙の顔面にめり込んだ。ぼきり、とか、ごきり、とか、顔の骨やら首の骨やらが折れるような音がして、橙の動きがぴたりと静止する。
そのまま、私と橙は一緒に落ちていった。
「はぁっはぁっはぁっーーー! 見たか、みこみこ奥義! ちなみに爆発はしない! って落ちるぅぅぅーーー助けてぇぇぇーーー……」
「よいしょっと」
ひゅるる~と落ちる私を下に回り込んだ幽霊が受け止めてくれた(橙はそのまま落ちていった。さらば強敵(とも)よ)。私ははぁ、はぁ、と荒い息をつく。心臓にひやりとした氷をつめ込まれたような気分だった。動いて疲れたのではない。
「無茶するわねえ。肝を冷やしたわ」幽霊が興奮したように言う。頬が上気して、なんだか色っぽかった。呼吸を整えてから、私は返事をした。
「ありがとう。……怖かった……。空から落ちるって、こんなに怖いことだったのね」
「うん」
幽霊がうなずいた。
「ともあれ、橙ちゃんを撃退したわ……はい、ちゃんと私におぶさって。先に進むわよ」
「うん。よろしく」
「もう落ちちゃだめよ」
「うん。……えっと、なるべくね……」
さて、いらない邪魔が入ったが、紫の居場所までもうすぐだ。冬眠してるんだろうが、あいつもみこみこ奥義でぶっ飛ばしてやる――そう思ったときだった。私たちの目の前に、突然大きなスキマがあらわれ、ぱくりと口を開けた。
私たちは吸い込まれるようにそのスキマに飛び込んでしまった。
◆
目の前に家があった。家のなかから赤子の声が聞こえた。
「いい子にしててね」と私は言った。すると赤子は泣きはじめた。
とてもうるさい泣き声だった。赤子が急に二人にも、三十人にも増えたみたいで、それがそれぞれ重なり合って泣くから、少しも絶え間なく泣き声が響くみたいだった。それが私には音楽のように聞こえた。
私は目を閉じた。黙って音楽に耳を傾けた。
泣き声のなかに私をくすぐるようなかわいい笑い声が聞こえた。それは何度も繰り返された。聞こえるたびに波のように私の感情を揺さぶった。
やがて私は波の底に横たわる海になった。海のなかの浅い部分は日を通して青く、深い部分は黒く見えた。海のなかに雪が降りはじめた。
なにかの生きものなのかもしれない。とても小さくて白いものが上からちらちらと絶え間なく降りてきて、そのはじまりは見えなかった。赤んぼの声が遠ざかり、とぎれとぎれになり、ときどき聞こえるそれが雪の白い粒に反射して私の周りを取り囲んだ。私に当たる雪と声が跳ねてどこかに行き消えた。「良い子、良い子」と私は言った。私はこの音楽のことをよく知っている。
青い部分がだんだん消えて私のすべてが黒くなった。夜がやってきたのだ。
「……きなさい。起きなさい、霊夢」
「ハッ。ウェイクアップ」
私は覚醒した。少しの間眠っていたようだ。眠る前のことを思い出すのに時間がかかった……私たちは橙を倒し、そしてスキマに飲み込まれたのだった。幽霊が私の顔を上から覗きこんでいた。私と同じ、でもちょっとちがう顔がさかさ向きになっている。自分が彼女に膝枕されて、地面に大の字に寝そべっているんだ、ということを理解すると、私は恥ずかしくなって跳ねるように飛び起きた。幽霊はくすくすと笑っていた。
あたりを見回すと、夜になっていた。
「……ここは?」
「あそこ」
幽霊がお祓い棒で先を指した。夜のなかに、小さな家がぽつんと建っていた。神社の周りとはちがう枯れ木がその周りを取り囲んでおり、ゆるやかな坂道がそこまでつづいている。私は舌打ちをした。
「ご招待ってこと? 余裕かましてくれるわねえ」
「わかるの?」
「ええ。あれが八雲紫の家。来たことがあるわ……小さい頃に」
「場所は忘れてたのにねえ」
「うっさい。たぶん小さい頃も、いまみたいにしてスキマで連れて来られてたのよ。……と、いうことは」
「そうね」彼女は一呼吸置いてから、決意を固めるように言った。
「八雲紫は起きている。手間が省けたと言うべきか、厄介事が増えたと言うべきか」
「両方よ」
そう言って、私は歩き出した。前に進みながら、考え事をした。さっきの夢はなんだろう?
わけがわからなくて、抽象的な夢だった。ただの夢なんだと言われれば、たしかにそうであるように思えた。けれど、私の勘は――巫女の勘ではなく、ただの人間としての博麗霊夢の勘は――あの夢になにか意味があると告げていた。とても短い夢だったようでもあるし、その逆に、ずうっと昔から私はあの夢を見つづけているのだ、というような、へんてこりんな感じもした。抽象的であるにもかかわらず、ものすごく印象に残る夢だった。けれどそれが何であるのか、どんな意味があるのか、さっぱりわからない。
紫か、ことによると藍が、私にあの夢を見せたのだろうか? 何の目的で?
腕組みをして、頭を悩ませながら歩いていると、地面にあった石をひとつ蹴っ飛ばしてしまった。石はひゅうと飛んで、もっと大きな石にぶつかって、かちりと音を立てた。
後ろから、彼女が話しかけてきた。
「紫に会って、どうするつもり?」それで私の考え事は中断された。振り向かずに、私は言葉を返した。
「何よ。前に言ったじゃない。どうにかして私に巫女パワーを取り戻させるのよ。藍はあんな言い方をしたけど、紫ならなんとかできるでしょう。妖怪の賢者様なんだからさ。あいつにできないことなんてないわ」
「ずいぶん紫を信用してるのねえ。仲良しなのかしら?」
「仲良し? ふん」私は吐き捨てるように言った。
「あんなうさんくさい奴、誰が信用するもんか。怠け者だし、ねぼすけだし、わざわざ難しいこと言ってこっちをけむにまこうとするし――でも、能力だけは認めてやってもいいかな。それにあいつがいないと幻想郷が成り立たないのはほんとうだし……私はあいつの部品にすぎない」
「部品?」
「私は、博麗の巫女は、紫の、幻想郷の部品にすぎない。あんたも知ってるでしょ? 幻想郷の住民みんなが知ってるわ――博麗の巫女が、ただの便利な使い捨ての管理者にすぎないことを」
「そこまでわかっていて、何でお前はまた博麗の巫女になりたいんだ?」幽霊の声が変わった。
「だから、言ったでしょ。私は巫女の仕事が好きなんだって。空を飛ぶのが大好きなんだって」
「本音を言えよ。博麗霊夢」幽霊の声がまた変わった。私は振り向いた。
魔理沙がそこに立っていた。
「博麗の巫女でなくなれば、もう私と会えなくなる、と思っただろう」
生理になる前、私が博麗であった最後の日に会ったままの姿の魔理沙が、私を見てにやにや笑っていた。人を見透かすような、底意地の悪い笑顔だった。私は嫌悪感を抱いた。
「巫女でなくなれば、もう私と友達でいられない、と思っただろう。ただの人間になったお前になんか、私はもう興味をなくし、愛想をつかしてしまう、と思っただろう」
「……図に乗るな」
「いいんだぜ。私はそこまで酷薄な女じゃない。たまには遊びに行ってやって、面白いみやげ話でも聞かせてやるさ――お前にはもう縁のない、不思議でわくわくする異変の話をな」
「いいかげんにしろ、って言ってるの!」
私は魔理沙に殴りかかった。思い切り力を込めて殴りつけた拳は、魔理沙の手のひらに軽く受け止められた。ぎり、と歯ぎしりをした瞬間、足を払われて、私はその場でべちゃっと潰れた。
立ち上がる私を尻目に、魔理沙はそばの大きな石に腰かけ、あいかわらずにやにや笑いながら
「お前のみじめな姿を見るのは楽しいよ。ずっと嫌いだったんだ。お前のことが」と言った。
「私がどんなに努力しても、必ずお前はその上をいっちまう。何の修行もせず、ただの生まれつきで――ただ博麗の巫女である、というだけで、だ。どんなに目障りだったか、わかるか? 殺してやりたかったぜ。でもいまとなっては、その必要もないな。ただの人間であるお前は、もう私に追いつけない。私と同じ景色を見ることができない。スカッとするぜ」
「黙れ、と言ってるのがわからないの」転んだ拍子に口の中に入った土を吐き出しながら、私は言った。
「藍」
「おや。気づいていたか」魔理沙はわざとらしく驚いた。
「でも、私の言葉は真実を言い当てているだろう。霊夢」
魔理沙の姿が消え、藍の姿に変わった。大きな九本の尻尾を持つ、金色の狐――八雲紫の式である、最強の妖獣の姿だ。
「紫様に会っても無駄だよ。というか、私が会わせないよ。紫様は寝ているからね。起こさないよう、厳しく言いつけられているんだ――とくに、こんなくだらない用事ではね。じゃ、帰ろうか。お前は飛べないから、私が抱っこして送り届けてあげるよ」
藍のにやにや笑いが先ほどまで見ていた魔理沙の笑いに重なって見えた。私は藍をにらみつけた。でも、言葉が出てこない。いまの私では、何をどうやってもこいつに勝てないだろう。お祓い棒は橙との戦いで空から落としてしまった。彼女は――幽霊はどこにいってしまったんだろう?
私が黙っていると、やがてやれやれ、といった調子で、藍が立ち上がった。私は無言のまま、両手を突き出してそれを制しようとした。自分でも腰が引けているのがわかる。藍は止まらない。こちらに歩み寄ってくる。
「やめてください、のポーズかな? お前もおとなしくなったもんだ。でも、やめないよ。橙をやってくれたお返しに、腕の一本でも折ってやろうか」
「ば……」
「ば?」
「ばぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁか!」
私は最後に、思いっきり藍に向けて舌を突き出してやって、それで――後ろを向いて逃げ出した。
(五)
大きな月が私を照らしていた。暗い夜のなかを枯れ木の間を縫うようにして私は逃げた。全速力で走るといくらもいかないうちに息が切れた。転ばなかっただけでも僥倖だ。
とにかく、幽霊を探さないと。私一人では絶対に勝ち目がない。彼女がいれば空中戦もできるし、残った一枚のスペルカードで勝負をかけることもできる。彼女は符を使えるし、見てはいないけど針も使えるだろう――それにひきかえ――
(私は何もできない、か)
荒い息をつき、それでもなんとか前に進みながら、私はそう考えた。悔しくて涙が出そうだった。
(待て、考えろ、考えるんだ……)
いまの私にあるのは何だ? 巫女の力はない。空は飛べないし、直感もはたらかない。走るのだって遅いし、ぶん殴ったってこっちが痛いだけだ。私はただの人間で、特別な力は何ももっていない。だから――ええっと……そうなんだ。
藍の言うとおりだ。魔理沙はいつでもこうだったんだ。
そう思い当たると、ついに涙がこぼれてしまった。あいつはただの少女で、それが必死に工夫して、力をつけて、巫女であった私と肩を並べて異変を解決していたんだ。魔理沙はほんとうに凄い奴だった。私はそれをずっと知っていた。知っていたけど、無視していたんだ。
胸が苦しくなった。呼吸と疲れのせいばかりではなかった。
私はついに立ち止まってしまった。畜生、畜生、とつぶやきながらそばの木に頭を何度もぶつけた。藍は追ってこない。私が逃げ出して、もう戻ってこないと思っているのか。自分の脅しに屈したと思っているのか。そこまで私を馬鹿にしているのか。どうでもいいと思っているのか?
(私は――)
ある程度呼吸を落ち着けると、私はこわごわ振り返った。誰もいなかった。遠くに月とはちがう灯りが見えている。家屋そのものは見えないが、あそこが藍と紫の家だ。私はあそこから逃げ出してきたんだ。
自分の仕事から、あっさり逃げ出してきたんだ。戦うことすらしないで。
周りをよく見た。月と灯りと、枯れ木以外には何もなかった。スキマで飛ばされてきたんだから、帰り方もわからなかった。何の気配もしない。ここに生きものはいないのだろうか? もしオオカミでもいたら、私は抵抗もできずに、襲われて死んでしまうだろう。寒気がした。火を起こそう、と思ったが、火打ち石もマッチも持ってきていなかった。
動くのも嫌になって、私はその場でへたりこんでしまった。
雪が降ってきた。
空から降ってくる白い雪が視界にあらわれ、上を見上げると、空の一番高いところから大粒の雪が止めどなく産み出されてくるようで、肌につくとそれはすぐに溶けて水になった。月や星はもう姿を隠していたが、けれど不思議にあたりはぼんやりと明るく、雪の白い粒がやけにはっきりと見えた。私は精一杯縮こまり、木の根元に寄り添った。みるみるうちに地面に雪が積もり、枯れ木の森を白く染めてゆく。夜の黒と雪の白が入り混じって目がちらちらした。とても寒かった。このまま死んでしまうのかな、と思った。
目を閉じた。
夢を思い出した。幽霊の膝で眠りながら見た夢を。
あのときも雪が降っていた。けれどあのときは寒くなかった。いまとちがって無音ではなく、常に何かの音楽が聞こえていた。どんな音楽だったろう? 一生懸命、私は思い出した。夢のなかで聞いた音を。たくさんの音が重なり合っていた。それはひとつの音が幾重にも高低や長短を変えてできあがった旋律のようだった。――はじめのひとつの声。
赤ん坊の声。それがあの夢のはじまりだった。あの赤ん坊はどこにいただろう。私の知ってる赤ん坊だっただろうか。あの子はたしか――家のなかにいた。私はその家に入った。私の知っている家。
あの家は、八雲紫の家ではなかったか?
頭が痛くなってきた。寒さのためなのか、考えすぎのためなのか、わからない。必死で思い出そうとした。自分の記憶がずっと前とつい先ほどと一緒くたになってこんがらがって、最後には一直線につながるようになった――あの赤子は私だ。
赤子の頃の自分の姿を、私は夢見ていた。
でも、すると――私を見ていた「私」は誰だったんだろう。
夢のなかだから、どんなことが起きても不思議ではないのかもしれない。自分の赤子の姿を、自分で見ることもあるんだろう。そう思おうとした。でも、どうしても不自然なことがそこにはあって――私は赤子の声を聞きながら海になっていた。
海ってなんだ?
幻想郷には海がない。私は海を見たことがない。話で聞いたことがある、というだけだ。でも夢のなかの私は、波や、その上に差す光、すべての時間が魔法のように思えるあの海の底の記憶――それらを鮮明に感じることができた。あれは誰の記憶だったんだろう?
あの夢は、ほんとうは誰が見ている夢だったんだ?
私は目を開けた。
目の前が、真っ赤に染まっていた。
空から舞い降りる雪が、いつからか、白ではなく、血のような赤に染まっていた。夜の黒のなかに赤が入り混じり、積もる雪の赤が白を覆い隠していた。地面はまるで血をぶち撒けたようだったし、枯れ枝はまるでそれ自体が血を流しているみたいだった。自分の体にも赤い雪がついていた。髪の毛に、服に、露出している肌に赤い雪が降り、溶けて赤い色のついた水になって染みこむ。私は悲鳴をあげてしまった。
すると、
「よい夢が見れたかな」
すぐ後ろから声がした。弾かれたように私は振り返った。藍が、私が座っているのと同じ木に、背中を合わせるようにして立ったままもたれかかっていた。私は飛びのいて藍に向き合った。自分の体がそれだけ動くのが自分で不思議だった。
藍が話しだした。目を伏せ、私のほうを見ないままで。
「役の行者が大峯山の釈迦ヶ岳に分け入り、背丈九尺ほどの骸骨が木の枝に刺さっているのを見出した。骸骨は左手に鈴(れい)、右手に独鈷を握っていた。その夜、弥勒菩薩が『汝は前生七生、この山で修行した。これは汝の前生の骸骨だ』と、役の行者に夢告をする」
藍はまるでひとりごとのように
「霊夢お前の夢はとても気持ちが悪いね。趣味が悪いよ。けれど人間というのは皆こうなのか。とりわけお前のような年頃の娘の夢は」
「何、言ってる」落ち着いていた呼吸がまた荒くなった。
「これはお前の夢だよ。お前の夢とこの世界はつながっている。他の誰でもなくね。けれど私はこの夢が好きじゃない。お前の夢はまるでただの影だ。もうわかった。お前は夢をみる種類の人間じゃないんだ。それがわかった。だから」藍がこちらを見た。
「私はお前を殺してしまう」
藍が一歩で私の前に現れた。その一歩が私には見えなかった。藍が下から爪を振り上げ、私の胸を深く切り裂き、肉を削いだ。
◆
いままでで一番大きな悲鳴を、私はあげた。自分がこんな声を出せるとは思わなかった。それはいつまでも長くつづいた。声をあげつづけていないと、気を失ってしまいそうだった。実際、意識を保っていたのが奇跡みたいなものだった。
鳩尾から首元まで達するような大きな傷口から大変な勢いで血が流れた。地面の赤に血が上塗りされさらにどす黒い赤になった。バランスを失い、私は倒れた。もう二度と立ち上がれなそうだった。藍が上から無慈悲に私を見つめた。
藍は何も言わず、倒れた私にとどめを刺そうと爪を振り上げた。
私は体ごと地面をごろごろ転がった。
自分が何をしているかわからなかった。あとから考えても、どうして自分にそんなことができたのか、わからない。体が勝手に動いた、とそのときは思った。自分はまだあきらめず、この敵から逃げようとしている。
自分は生きていたいんだ、ということを、氷のように冷たい心臓を抱えながら、このときに思った。
できるだけ遠くまで転がった。力が尽きて、転がれなくなってからは、なんとかして足を動かして、這って逃げようとした。けれど、当たり前だけど、動けたのは大した距離じゃなかった。少しだけ離れた私を、藍が呆れたような顔をして見つめていた。
「お前は他の巫女とちがうかもしれない、と思った。でもおんなじだ。生き汚い、生に執着する、ただの人間だ。いやむしろ他の巫女よりさらに劣等だ。落第生だよ。お前は」
「ふっ……ざけ……ないで」
私の腹のなかに炎のような怒りが生まれた。それは氷のような心臓を溶かし、冷たくなっていく体に活力を与えた。消える前の最後の炎、というやつだったのかもしれない。目の前の藍に対する煮えたぎるような憎しみを私は抱いた。それがそのまま口をついて出た。
「馬鹿にすんじゃないわよ! あんたなんかの都合で、生かされたり殺されたりしてたまるもんか! 私は私だ、好きなように生きてやる! お前なんかが私に点数をつけるな! 調子乗ってんじゃないわよ馬鹿狐!」
藍はほう、と感心したように少し笑った。
「その意気やよし。しかし遅かったな」
藍の爪が私の頭に振り下ろされた。
がきぃん、と、金属と金属がぶつかり合うような音がした。巫女の針が、藍の爪を止めていた。
もう一人の私が突然あらわれ――いままでどこにいたんだろう?――藍の爪を両手で持った針で止め、はじき返した。
藍が驚いた顔をした。
幽霊が間を詰め藍の腹に手を当てた。
「ゼロ距離ね」
早口でそう言ったのが聞こえた。あいている方の手で、スペルカードを宣言する。
「神霊『夢想封印』!」
幽霊の体から様々な色に光る球体が次々と生み出され――藍の体に吸い込まれていった。ひとつひとつが大岩を砕くほどの威力のある力のかたまりだ。一度に何発も藍はそれをくらい、跳ね飛ばされた先にまた球体が殺到する。轟音が重なりあい、音の衝撃が耳を打って、何も聞こえなくなるほどだった。藍の服がはじけ飛び、その下の肉が焼け焦げ、一部はちぎれて血とともにびちゃびちゃと地面に落ちる。先ほどの傷で私が失ったぶんの何倍もの血が、藍の体から一瞬で失われた。光が止むと、あとには血塗れで赤い雪の上に倒れ伏す藍が残された。
はじけ飛び、離れた藍の体に、幽霊がすたすたと近寄った。
右手に針を持った幽霊が、その針を藍の背中に突き刺した。心臓のある場所だ。その針を引き抜きもせず、そのままにしておくと、今度は幽霊は手近にあった大人の頭くらいの大きさの岩を抱えて持ってきて、それを上から藍の頭に落とした。
ぐしゃり、と頭蓋の割れる音がした。私の位置からでは見えなかったが、たぶん脳みそがはみ出ているだろう。
幽霊はふー、と大きく肩で息をつくと、振り返り、私のところまで戻ってきた。
「ごめんなさいね。道に落ちていたおまんじゅうを拾い食いしていたらはぐれてしまって……薄皮の、あんこのたっぷり入っているおまんじゅうだったわ。少し残しておいたから食べる?」
「痛い、痛い」
「あっ、怪我してたわね。困ったわね。私じゃちゃんと治せないわ」
「あ、あんたねえ……ちなみにおまんじゅう、いくつ落ちてたの」
「十三個」
「いくつ残してあるの」
「いっこの半分」
「死ねえ!」
私はさんざんわめきちらし悪態をついたが立ち上がることはできなかった。幽霊が手早く止血をしてくれた。といっても、傷口にぺたぺた符を貼るだけだったが。博麗の治療符の効果はたしかに高いが、あくまでもこれは応急処置で、すぐに治るなんてことはない。私はまた、彼女におんぶされた。
「一旦帰りましょう。藍はもう追ってこないわ……傷を治して、体勢を立て直し、またここへ来ましょう」
「だめよ」
「だめよ、って言ったって」
「紫の家へ向かって。私はもう、二度と逃げない。藍をやっつけたくらいで、気がおさまるもんですか。こんな怪我までさせられて……紫に一言、文句を言ってやらなきゃ気がすまない」
「(こっちは頭蓋骨割ってやったけど)でも、私はもうスペルカードを持ってないわよ。勝ち目はないわ」
「あんたが行かないなら、私一人で行く。下ろして」
「ねえ霊夢、わがままを言わないで」
「それに、あそこには魔理沙がいるのよ」
「……」
「あいつの顔が見たいわ。……あのね、魔理沙は」
「しょうがない」幽霊はぐっ、ぐっ、と背中を振って、私をおぶりなおした。
「具合が悪くなったら言うのよ。あなたには体を大事にしてほしいんだけどね、ほんと」
そう言うと、彼女は飛び立った。私たちは八雲紫の家に向かった。
(六)
申し訳程度の背の低い囲いを飛び越えると飛び石がつづいた玄関がある。私たちは舞い降り、引き戸の横についている鈴をちりんちりん、と鳴らした。
誰も出てこない。家のなかからは何の音もしない。鍵がかかっていなかったので、私たちはそのまま家にあがった。髪や服についた赤い雪をさっさっと拭うと、ゆるく固まった血が飛び散ったように見えた。
大妖怪の家らしくなく、紫の家はとてもかわいらしい、小さな家だった。靴を脱ぐとすぐに居間があり、その右手に台所、その奥に紫の寝室、というだけの間取りだ。居間にはこたつがあり、その上に藍が飲んでいたんだろう、飲み差しの湯のみが置かれている。中身はただのお茶みたいだ。灯りがつけっぱなしだったところからみても、藍はほとんど準備らしい準備もせず出てきたんだろう。あるいは、すぐに戻ってくるつもりだったか。
次の部屋につづく襖を開けると真っ暗闇のなかで紫が寝ていた。
布団を頭までかぶっているから顔は見えない。はみ出た金髪が枕をこえて畳までひろがっているところをみると、寝相が悪いんだろう。居間から差し込む明かりが紫の金色の髪を照らして際立たせた。
幽霊が私より先に寝室に入り、布団の上から紫を揺すって起こそうとした。
「紫、紫、起きて、起きなさいよ、このねぼすけ」
紫は起きない。死んでるんじゃないか、っていうくらい静かだ。
彼女はしばらくそうやって紫を起こそうと努力したが、やがてふうーと大きく息をついて肩をすくめた。
「だめね。起きないわ。私たちも休憩しましょうか……あまりのんびりはしていられないけどね」
私は彼女の背中に向かって語りかけた。
「ねえ。あなた何者?」
彼女の動きが不自然にぴたりと止まり、それからゆっくりこちらを振り返ろうとしたが、その動きも途中で止まった。
幽霊は私を見ないままで
「何、って、ただの幽霊よ、私は」
「紫は寝ている。私たちをここに連れてきたスキマは紫の仕業ではない――あれは、あんたの使った『亜空穴』ね。あんたは紫の居場所を最初から知っていた――私をすぐにここに連れてくることも、きっとできたんでしょう。さあ、白状なさい。あんた、いったい何者なの?」
「察しはついてるんでしょう?」
彼女は後ろを向いたまま立ち上がり、首を曲げてこちらを見た。私よりつり目がちの、私と同じ黒い瞳が灯りを照り返して輝きを放っているようだった。
「そうよ、霊夢。私があなたの最後の『試練』。博麗の試練そのものよ。準備はできたかしら――と言いたいところだけど」
彼女は片手でぽい、とお祓い棒を私に放った。私はそれを受け取った。
「使いなさい。そのくらいのお目こぼしはしてあげる」
私はお祓い棒を、畳にぽいと投げ捨てた。
「あんたごときに獲物はいらん。殴り殺してやる」
「あら、あら」彼女はおかしそうに笑った。「勇ましいこと。でも、いいのかしら。胸の傷口が開いたままでしょう。それに――女の子が、殺す、なんて言葉を使うもんじゃありません――よ、っと!」
袖から取り出されたスペルカードが光を放った。彼女の体が淡く光る水色の障壁に包まれる。
「符の参『魔浄閃結』!」
彼女の体を中心にした四角形が床に描かれ、その四隅を結んだ辺から天井まで伸びる結界が発生してひろがる。腕を組み、私は身を守ったが、結界に触れると衝撃で居間の向こう側まで弾き飛ばされてしまった。背中で戸をぶち破り、そのまま倒れて木枠にはめられたガラスが砕ける。ダメージは少ないが、肩口から露出した二の腕を少し切ってしまった。冬なのに腋丸出しの服はこういうときに具合がよくない。寒いし。
廊下に出た私はひとまず紫の寝室からいちばん遠いところに位置取り、柱を背にして体勢を整えた。彼女が声を大きく上げて私に呼びかけた。
「霊夢ゥ~。勝ち目ないわよぉ。わかってるでしょぉぉ~」
「うるさい、うるさい! スペルカードが三枚だけっていうのも嘘か! この嘘つき! 民主党政権!」
「当たり前でしょ。それでもあなたはよく戦ったわ。――でも、ここまで。巫女になるのはあきらめなさい。博麗の巫女じゃなくったって、楽しいことはいっぱいあるわ。できることはたくさんあるのよ」
「巫女の力なんてもうどうでもいいわ!」
彼女は黙った。
「魔理沙みたいに戦ってやる! 普通の人間として、あんたたち化け物と戦ってやる! 殺す!」私は柱の陰から飛び出して縁側を走って紫の寝室に向かった。
居間方向とは別、縁側からの紫の寝室への襖を開けると――紫の寝ている布団の足元が見え居間からの明かりがわずかに部屋に形を与えていた。幽霊の姿は見えなかった。
寝室のなかを手探りで私は進んだ。壁があり、何か置物でも置いているのか、でこぼこしたものがある。空気が揺れた。私はとっさにしゃがんだ。一瞬前まで胸があったあたりの高さで、飛んできた符が炸裂した。置物が砕け、ばらばらと陶器の欠片が降ってくる。手で触ると、そのあとで畳が濡れていた。直接体に水は触れなかったが、砕けたのは花瓶だったのだろう。符が次々と飛んできた。私は畳に四つん這いになって、必死でそれを避けた。部屋のなかの空気がかき乱され、炸裂音で方向感覚が狂った。私は布団のなかの紫の体に思い切り乗り上げてしまった。バランスを崩し、私は「あいてっ」と声をあげた。
布団がはがれて紫の顔が見えた。こんな騒ぎのなかでも紫は安らかそうにすやすや眠っている。紫の顔を見るのは久しぶりだ。こいつが寝る前だから、秋の中頃あたり、数ヶ月ぶりになる。何千年も生きてるくせにしみにひとつないきれいな肌が居間からの明かりを照り返し、閉じた目の睫毛は化粧もしていないのにとても長く、唇は薄い赤に色づいていて口づけを乞うように軽くちょこんと突き出されて――風が吹いた。
縁側方向からの風が突然部屋のなかに吹き込み、風のなかを舞う雪が二三ほど紫の頬についた。赤い雪だ。風の吹いてきた方を私は見た。赤い雪の降るなか、庭の上に、もう一人の私が浮いていた。
「家を壊すと悪いからね。出てきなさい。私を殴り殺すんでしょう?」
逃げ出そうとしたが最後の矜持が私にそれをさせなかった。さっき言った啖呵が私の行動を縛っていた。魔理沙みたいに戦ってやる……私は立ち上がり縁側に出た。宙に浮いている彼女を見上げる。片手にお祓い棒を持ち、腕を組んだ彼女が私を見下ろしていた。
「わかっているのかいないのか」彼女はとても厳しい顔をしていた。赤く降る雪よりもさらに冷たい視線が私を貫いた。
「何をよ」
「橙にやられても、藍にやられても、あなたはあきらめなかった。そしてそのうちに変化した……ように思える。けれどその変化は本物か? ただのやけっぱちじゃないかしら? 普通の人間である、という言葉の重さを、あなたはほんとうにわかっているの?」
「紫や幽々子みたいなものの言い方をするじゃない。何が言いたいの? はっきり喋りなさいよ」
「私が言いたいのはね」彼女の後ろに七つの回転する陰陽玉が浮かんだ。「博麗の巫女でなくなった、普通の人間のあなたが死んだところで、誰も困らない――ということよ」
彼女が私に向かって飛んできた。避けたつもりだったが、彼女の振りかぶった拳が私の頬にきれいにぶち当たった。
吹っ飛んで倒れた私を彼女の手が引っ張り起こす。そのまま彼女は私に平手打ちをくらわせた。二つの陰陽玉に光がともる。光は明滅し、一度消えてはまた光るたびに際限なく力を蓄えるように見える。
「『夢想天生』」
後付けの宣言が私の耳を打ち――その言葉を追いかけるように鳩尾を膝で蹴り上げられた。激しい痛みとともに呼吸ができなくなり、私は縁側にまるでごみのように投げ捨てられた。三つ目の光がともるのが見えた。倒れた拍子にどこかを切ったのか、口のなかに血が溜まっている。木の床に頭がぶつかってくらくらした。よろよろと体を支えながら、私は頭のリボンを解いた。
「何の真似かしら。いまさら降参?」彼女の声がすぐ後ろから聞こえる。
私は力を振り絞り、勢いをつけて立ち上がり振り返ると、彼女の目に向かって溜まっていた血を噴きつけた。
幽霊の顔が真っ赤に染まり、目に入った血が視界を奪う。あわてて彼女は目を閉じる。そこを狙って、思い切り私は彼女の頬を殴りつけた。彼女と私がそろって床に転がる。
倒れる彼女の後ろに回り込み、私は手にしたリボンを使って首を締めあげた。
彼女の喉から空気が漏れる不自然で汚い音がする。締めあげられたのは、一瞬だった。彼女の肘が私の鳩尾――ちょうど膝で蹴られたのと同じところ――に当たって、私は悶絶し、彼女から離れてしまった。
彼女は袖で目と顔を拭いた。
「やるじゃない」彼女のつま先が私の頭を蹴った。四つ目の陰陽玉に光がともった。動けない私を、彼女は体ごと抱え上げ、雪の積もる庭に投げつけた。背中を打ち、私は声にならない声をあげた。五つ目。
私を追って彼女が庭に降りてくる。
まだやるのよね、と目で語りかけられた気がした。彼女は私の気持ちを理解しており――そして私のほうでも、彼女の心がわかった。彼女は私を深く哀れんでおり、そしてその上で本気で殺そうとしていた。もはや他の選択は閉ざされており、私の死だけが彼女と私の関係に決着をつけるただひとつの結末だった。
私はスカートのポケットに手をやった。そのなかにあるものは、まだ、壊れていなかった。
立ち上がるのも難しいので、私は雪のなかに腰を下ろしたまま彼女を下からにらみつけた――もう何度目だろう? 今日一日で、橙にも、藍にも、私は痛めつけられ、私はこうして下から彼女たちをにらみつけた。そしてことごとく敗北した。彼女たちを退けられたのは目の前にいる幽霊の力であり、私の力ではなかった。――そして、いま、最後。
彼女は無防備に私に近寄ってきた。積もった赤い雪を踏むたびにぎゅっぎゅっと音がした。私たちの服はすでに全体が赤く染まり、白い部分は残っていなかった。真っ赤な雪景色のなかで血のかたまりのような巫女服の二人が対峙している。これが最後だ、というように、彼女が口を開いた。
「残念ね。あなたは博麗の巫女にはなれなかった。途中で帰って、普通の人間として暮らしていく道もあった。でもあなたはそれを拒否した。意地かしら、それともこの死こそがあなたの望むものだったのか。まあ、言い訳は幽霊になってから聞きましょう。あなたが幽々子のところに来れるかどうかはわからないけど」
彼女は手にしたお祓い棒で私をなぶるように叩いた。六つ目の光がともった。
私は手を伸ばし、下から彼女の手を握った。
手を引っ張りながら全身の力を使ってなんとか立ち上がり――すぐに力尽きて前に倒れ、彼女に体をあずけた。彼女は私の背中に手を回した。まるで抱きしめられるような格好だった。
ぜえ、ぜえ、私は荒い息をついた。彼女の手が私の頭を撫でた。
「お疲れ様、霊夢。がんばったのは認めてあげる」
「ぜえ、ぜえ……ぜ」
「ぜ?」
「ゼロ距離ね」
私はスカートのポケットから魔理沙のミニ八卦炉を取り出し、密着した彼女の腹に砲口を当てた。
「恋符『マスタースパーク』」
つぶやくように私はそう宣言し八卦炉の引き金を引き――八卦炉に残っていた最後の魔力が光の奔流になって彼女を吹き飛ばし飲み込んだ。紫の寝室ごと。
(七)
魔理沙は単純で馬鹿なのでスペルカードの威力だけとってみれば私よりはるかにすごい。マスタースパークの魔力は紫の家を飲み込み、ぶち壊し、屋根を吹き飛ばしてしまった。
光が私の目を眩ませ、熱が手を焼いた。壊れかけの八卦炉だから、リミッターが効かなくなっているのかもしれない。熱すぎてもう持てず、手からそれを取り落としそうになったころ、ばきぃん、と鈍く響く音がして、やっと光の奔流が止まった。あとには広い範囲で焼け焦げ、消失した家と、それから今度こそほんとうに壊れたミニ八卦炉だけが残された。外枠の木が大きく幾つもの破片に砕け、中身の機構がはみ出していた。慎重に、私はそれをポケットに戻した。その間注意して、ずっと前を見ていた。周りの気配にもこれ以上ないほど気を配った。幽霊はどこにもいなくなっていた。まるでふっと、消えてしまったようだった。
焼け焦げた寝室にあがると、呆れたことに、紫はまだぐうぐうと寝ていた。布団も半分以上が焦げてなくなり、畳からも壁からも、紫の体自身からもぷすぷす煙が出ている。きれいな金髪は見事にアフロになっていた。すごくソウルフルだった。
私は紫のねまき(ムカつくことに色っぽいスケスケのネグリジェだった)の胸元をひっつかみ、引き起こして、頬にぺしぺしと平手打ちを見舞ってやった。
「オラ、オラ。起きなさいよ。このファンクの帝王。ミスターダイナマイト。オラ、オラ」
「むにゃむにゃ……もう食べられない……」
「こっこの野郎なんて古典的な。許されない。博麗頭突き!」
「げろっぱ!」
ファンキー・プレジデントめいた悲鳴を上げて紫はようやっと起きた。眠そうな寝ぼけた目が片方だけ開きまるでウインクしているようになった。そのまままた寝そうになったのでもう何発か霊夢ヘッドバットをお見舞いしてやった。いい加減頭が割れるかと思ったところでやっと紫は覚醒した。
「あら、霊夢……に似た露出コスプレの人……」
「本人よ。服はあんたの式たちがぼろぼろにしたのよ!」
「リボンがない。あとなんか全体的に真っ赤だし」
「うっさい、アフロ。いいから私に質問させなさい」
「ほえ」
まだ眠そうな目で、紫はゆっくりあたりを見回した。真っ赤な雪原のなかに焼け焦げて半壊した自分の家が建っている。さすがの紫も、唖然とした表情を見せた。月も星もないのに不思議に明るい空から、大粒の赤い雪が止めどなく降ってくる。少し風が出てきて、それは私たちを中心に巻いていて、流される雪がそのなかをひらひらとたゆたうように飛んでいた。
紫は私に向き直り、強い調子で言った。
「なんで私アフロなのよ!」
「うるせえ! 説明はしねえ!」
「そんな堂々と……」
「魔理沙はどこにいるの」
紫の目が私を見据えた――不思議な色をしていた。濃い紫色にも見えるし、ときどきそれがきらめいて髪と同じような金色の光を放つようにも見えた。星々や月がまるごとそのなかに閉じ込められているような、こいつ特有の、夜そのもののような瞳だ。
やがて紫は私のことをすっかり理解した――んだと思う。宣言したとおり、私は何も説明しなかったけど、次に口を開いた時には何もかもの話がつながっていた。
「魔理沙はええと……ええと……家にいるわよ。どこも怪我なく、ピンピンしてるわ。藍はときどき手荒になるけど、無駄な乱暴をする子じゃありません」
「なあんだ……」
私は疲れてへたりこんでしまった。でも、この家に魔理沙がいなくてよかった。
「もしこの部屋に魔理沙がいたら、あなた殺してたわよ。無茶するわねえ」
「うっさい。私だってギリギリだったのよ。……じゃあさ」
「巫女の力、戻してほしい?」
先回りをされて、私は渋い顔をした。紫は、しまった、というような顔をして黙った。
こいつはそういう奴だ。――とてもとても強くて、偉大な妖怪で、考えられないくらい頭がいいから、私なんかの考えることはすぐに察知してしまうし、それどころかずっと遠くまで、はるか先までの結果を瞬時に予見してしまう。そしてこちらの思考をことごとく読み、操作するすべに長けている。私だけじゃなくって、魔理沙でも橙でも藍でも、そして幽々子だって、こいつがその気になれば思うがままに操られてしまうんだろう。でも、こいつは――長く生きていてそういう操作が第二の天性みたいになっているはずの妖怪の賢者は――そういった自分の習癖に逆らい、闘っている。それが躊躇いになって表にあらわれる。
少なくとも、私といるときのこいつはそういう奴だ。だから、私は紫を好きだし、信用している。――つまるとこ、彼女は私に気に入られたがっているのだ。それがわかる。
「みこみこパワー、ねえ。なんだかどうでもよくなっちゃったわ。ううん、ほんとは最初から、どうでもよかったのかもしれない」
自分の考えを整理して、確かめるようにしながら、私は話しだした。
「はじめはただただショックだった。また空を飛べるようになりたい、と思ったのもほんと。魔理沙に負けたくない、という思いだってたしかにあったわ――でも、いまの私が魔理沙に劣っているとしても、博麗の巫女になることだけがあいつに追いつく方法じゃない。もっとずっと地道で、あんまり目立たないような、特別じゃない生き方だって、同じように大事だし、大変なんだと思うわ――自分で自分の生き方を決めることは」私は息をついた。
「他の選択肢をなくしてしまうこと。自分に自分という役割をかぶせて他を見えなくしてしまうこと。限られた時間を何に使うかっていう選択を自分ですること。世界に向かって飛び込むこと。自分に見える範囲の世界を自分で切り出すこと。――そういうふうに思う」
「そうね」紫はにこにこ笑った。まるで私の母親のように。
「博麗の巫女として生まれたからって、かならずしもずっとそうじゃなきゃいけないわけじゃないことがわかった。でも、どうしよう? 他のこと、私できるかな?」
「十やそこらの子供が何言ってるの」紫は呆れたような顔をした。「なんだってできるわよ。博麗の巫女じゃなくなることだって、どんな仕事につくことだって、恋をすることだって、アフロになることだって……ね」
「いやアフロにはなりたくないけど……」
「とりあえず、今日は帰る? 送りますわよ」
「そうね。寒いし、眠いし、体じゅうバッキバキで血がだらだら出ていて内蔵もやばいし……げぶっ(血を吐く)」
「私も眠いですわ……ぐうぐう」
「寝るなあ!(口から血ダラー)」
寝そうになる紫をがっくんがっくん揺さぶって起こしていると、ふいに時間が止まったような気がした。
びっくりした――降っていた赤い雪が、突然、空中でぴたりと静止した。自分たちの周りだけでなく、見えている範囲の雪すべてがそうだった。風も止まったようだった。赤い雪の粒がまるで夜のなかに描きこまれた模様のように見える。私たちだけがそのなかで動いている。まるで絵のなかに迷い込んだみたいだった。
ひとつひとつの赤い粒が止まったまま成長するようにだんだん大きくなった――ひとひらの雪が、赤い羽をつけた、一匹の大きな蝶になった。
視界すべての雪が蝶に変わっていった。私たちの周りに浮かぶ雪も、遠くに見える雪も、地面に降り積もっていた雪も、木の枝に、壊れた屋根に、畳に積もっていた雪も。何千何万という雪の粒が蝶になり、一斉に羽ばたいた!
蝶たちはばらばらに動いているようでありその実整然とひとつの目的に向けてまとまった進行をしているようでもあり、けれどそのひとつひとつはやっぱり自在で――赤い蝶の群れがつながりとなり、流れになって夜をかき回していく――私たちはその渦の中心に入れられた小さな人形のようだ。私たちの服や髪についた雪も蝶になって飛び立った。それはこの夜の、この世界の一部になってわずかに変化を加えていく。
この夢のような世界の。
音楽が聞こえた――蝶の羽ばたくかすかな音が何万も重なって耳に響いているのかと最初は思った――でも、そうじゃなかった。もっとはっきりした、それはひとつの声だった。赤ん坊の泣き声が聞こえた。
赤い蝶の流れのなかから、誰かが姿を現した――もう一人の私だった。さっきまで戦っていた、つり目がちで、下がり眉の、恥ずかしそうな顔をしたもう一人の私。彼女は胸に赤ん坊を抱いていた。その赤ん坊の泣き声が私の胸に響いた。
私も泣いてしまった。
「お母さん」
私は素直にそう言った――心の内側から、自分でも知らないところから出てきた言葉だった。でも声に出すと、ずっと前から自分はそれを当たり前のように知っていたんだ、という気がした。彼女は表情に困っているようだった。くすぐったそうにも見えるし、私と同じように、泣き出しそうにも見えた。涙がどんどんあふれてきて、すぐに何も見えなくなった。
私は目を閉じなかった。ぼやける視界のなかでも、できるだけ長くお母さんを見ていたかったから。
お母さんは私に近寄ると、跪いて、私と視線を同じ高さにした。そして言った。
「死んじゃって、ごめんね」
こらえきれず嗚咽が漏れた。恥ずかしいとかなんとか、言ってられなかった。お母さんは私を後ろから抱きしめた――胸に抱いていた赤子がすうっと溶けるように私の体に入ってきた。それで私は、自分が強く愛されていたことを知った。
ずっと長いこと泣いていた。やがて空が白み、私はこの世界にも朝が来ることを知り――蝶が消え、雪も消え、お母さんも消えた。紫が私を神社に連れて帰ってくれた。私は布団に入って眠った。眠りのなかでも、ずっと泣いていた。
(八)
「で、どういうことだったんだ」
「なんかねえ、あれが博麗に伝わる試練なんだって。代々の巫女は、みんな同じ試練を受けるらしいのよ」
私は魔理沙にかいつまんでことの説明をした――もちろん、泣いたとか、あんたに勝ちたいと思った、とかそういう照れくさいことは端折ってだ。八卦炉をぶち壊したことについては「すまん」と謝った。魔理沙はぶうぶう言っていたが二三度尻を撫でるセクハラをしてやったらおとなしくなった。
「抜き打ちテストとは趣味が悪いな。途中で帰ってたらどうなってたんだ?」
「そりゃ、不合格で、失格よ。巫女の力を永遠に失い、おしまい。それからあとは普通の人間として生きることになる」
「ハードだな。ヘヴィだぜ。博麗の力っていうのはめんどくさいな」
「私もそう思う。まあ、楽じゃないわね」
「私はやっぱり普通の魔法使いがいいや」
そう言うと、魔理沙はニカッと笑って箒を誇らしげに庭に突き立てた――掃除が終わったあとだったので、地面には何も落ちていなかった。私は縁側に座り、例によって熱いお茶を飲みながら魔理沙をながめた――寒いのに元気そうだった。
魔理沙はあのとき、幽々子から情報を聞き出し、紫の家の近くまで飛んで、そして藍に負けた。普通の弾幕勝負だったから、私のように怪我をしたり命が危険になることはなかったそうだ。八卦炉を藍に盗られたのに気づいたのは家に帰ってからだ。何かの術を使われたんだろう……八卦炉は魔理沙の家の暖房器具もかねているから、その日は寒さに震えながら何枚もの毛布に包まって眠った。アリスが迎えに来たのは次の日の朝だ。
あの日魔理沙は、アリスと一緒に人里で私を待っていた。いつまでたっても私がやってこないから、心配になって神社に来たが、そこには誰もいなかった(幽々子はもう帰ってしまっていた)。魔理沙とアリスは私を探して幻想郷じゅうをかけずり回った。やがて見当をつけて私を追うように紫の家へ向かったが――その前に藍が現れた。
「霊夢はいま母親と会っているから、邪魔しないように。あいつはそう言ったぜ」
藍は魔理沙とアリスにそう告げると神社から消えたときのように忽然と姿を消し――二人はそのあとも、相談しながら私を探しまわり、紫の家へ行くこともあきらめなかったが、今度はどうしても見つけることができなかった。
で、けっきょくのところ、
「アリスチャーハンできたわよーーー」
「おう、いま行くぜー」
アリスが台所から大きな声を上げて私たちに呼びかけた。魔理沙がそれに応えた。
魔理沙とアリスは私の神社で、私の帰りを待っていたのだ。一晩中まんじりともせず、私のことを心配していた。だから私が紫に連れられて家に帰ったときには、この魔女っ子二人が居合わせて、私は二人に泣き顔を見られてしまった。恥ずかしいところは端折って話をしたけれども、あんまり意味はなかったかもしれない。
でもまあ、別にいいか、とも思う。
昼まで寝て、起きたときには、私は自分で驚くほどに落ち着きを取り戻していた。昨日一日でしたいろんな経験がすんなり、ありのままに自分に溶け込んで、まったくの苦労なしに自分の一部になったと思った――私はすべての事柄を鮮やかに明確に思い出すことができた。戦いの興奮、力を使えない絶望、ざっくりと切りつけられた傷の痛み、血塗れの森と庭と雪……夢のような一日の夢のような記憶。血でできた蝶、赤ん坊の泣き声の音楽、母親の胸の温度……すべての時間が魔法みたいに思えた。それらが順番に整理されて私の心に入り込み、位置を占めて、いつでも取り出せるようになった。
アフロの紫を思い出すと笑えた。
「ねえ」
私の横を通りすぎて食卓へ行こうとする魔理沙を呼び止めた。
「何だよ。アリスチャーハン(塩豚とニラとレタスとにんにくで作ったアリス特製のチャーハン。アリスはこれをアリス中華鍋で作る)はうまいんだぞ。あつあつで食いたいんだ。お前も早く来い」
「魔理沙はどうして魔法使いになったの?」
魔理沙は立ち止まり、少し黙って、考えをまとめているようだった。私はどきどきしながら答えを待った。つとめて、何の気なしに聞こえるように言ったつもりだったが、私にしては十年に一度あるかないかくらいの、真剣な問いであることが伝わったようだ。魔理沙が口を開いた。
「お前、魔法ってなんだと思う?」
「はあ?」
よくわからない答えを返されたので、へんな声が出てしまった――というか、答えでもなんでもなく質問を返されただけだった。肩透かしをくらったような気持ちになって、私は少しいらっとした。すると魔理沙が解説をはじめた。
「こういう問いって大事なんだぜ。少なくとも私にとってはな――私は子供の頃、家にあった魔法の本を読んだ。魔法の本、と言っても、いま私が読んでいるような力を持つ魔導書ってやつじゃない。ただの魔女や魔女の使う魔法やそれに関連する用語をならべてちょっとばかりの解説をくわえた、辞典みたいなもんだ――私はどきどきしながらそれを読んだ。その最初のページにこうあった。
『魔法とは人間の意志を宇宙の事象に適用することによって何らかの変化を生じさせることを意図して行われる行為、その手段、そのための技術と知識の体系である』、と」
「ええと……」読むのならともかく、耳で聞くには長い定義だったので、私はそれを頭のなかで何度か反芻した。そして言った。
「なにそれ。そんなの私たちのやること全部じゃない」
「そうだよ。私たちのやること全部が『魔法』なんだ」
魔理沙は面白そうに笑った。私は面白くない。
「聖書は読んだことあるか? ないよな。ヨーロッパの……西洋の宗教の聖典なんだが、これが人類の起源について語っている。神話って全部そうだけどな。で、その聖書によると、私たちのご先祖ははじめ楽園にいた。神様の創った楽園で、勝手に生る果物を食べ、きれいな水をたっぷり飲み、やることがないから働きもせずただ寝て起きて、毎日ぽかぽか陽気だったから服も着ず裸で、ええっとそれで、男と女がいたから、その……だぜ、だぜ。その、だぜ」
「うん、わかった。そこについてはあとで詳しく訊くから話をつづけて」
「いや訊くなよ。それでまあ、楽しく暮らしてたんだそうだ。でも、そこに蛇が現れた。楽園には一本だけ、神が人間に命じてこの木の果実を食べてはならないと戒めていた木があった。それが善悪の知識の木だ。蛇はエバ(ご先祖様の女のほうだ)をそそのかし、その果実を食べさせてしまう。
かくして神の怒りを買った人間は楽園から追放され、額に汗して土を耕さなければならないほど地の実りは失われ、女は妊娠と出産の痛みに耐えなければなくなり、寒くなった上に羞恥心も芽生えたから服を着なくてはいけなくなった、というわけだ」
「それが何なのよ。私は魔法について訊いたのよ」
「蛇とは悪魔のことだ」と、魔理沙。「私たちの使う魔法の語源になってる奴らだ。蛇がいなければ、私たちはまだ楽園にいたはずだ……と、思う奴もいるけど」
魔理沙は自慢の帽子に手をやって一度ぐっとそれを引き下ろし深くかぶりなおした。
「私たち魔女はそう思わない。人間は遅かれ早かれ、知識の実を口にしたはずだ。人間ってそういうもんだ。というか、私だったらそうする。神様を出し抜いて、禁じられた果実を齧るチャンスを伺う。その結果楽園を追放されたって、かまうもんか。むしろせいせいするくらいだ。そのおかげで私たちは耕作し、好きな作物を育てることを覚えた。火を起こし、肉を焼けるようになった。道具を使って家を建てられるようになった。布を織り衣服を作り、ユニクロや無印で買い物ができるようになった。ドンキでもな。それが魔法だ。人間の意志で宇宙の事象をつくりかえていくことだ」
魔理沙がこっちを見た。私と目が合った。とてもきらきらした目をしている、と思ったが、あるいはこのときは、私の目のほうがきらきらしていたかもしれない。
「ドンキも……」
「そう、ドンキもだ。だからそういう意味で、私たちのやることは全部魔法なのさ。お前の巫女パワーだって、私たちから言わせれば『魔法』なんだぜ。私がことさら『普通の魔法使い』を名乗るのには、そういう気持ちがあるんだ」
魔理沙が私の手を握り、さ、そろそろ行こうぜ、飯が冷めちまう、と言って私を引っ張り立たせた。私は魅入られたように魔理沙を見つめた。私と同じ年頃の、私よりも背の低い、ただの少女だ。それが世界をつくりかえる力を持っている。
私は何も考えずにそのとき思ったことをそのまま口にした。あとから考えれば、これも魔法のひとつだったかもしれない。
「魔理沙。私はあんたを愛してるんだと思う」
魔理沙はきょとんとして、私が何を言ったのか一瞬わからない様子で、それからみるみるうちに真っ赤になった。遅れて私も、自分が何を言ってしまったのか理解して、同じように真っ赤になった。二つのりんごのように真っ赤になって固まっている私たちを、痺れをきらせたアリスが呼びにやってきた。
「こらあ! 何してるのよ! アリスチャーハン私が全部食べちゃうわよ!」
私はものすごくあわてて――昨日一日でもこれほどはなかったほどびっくりして――魔理沙から離れるように後ろに飛び上がってしまった。縁側から足が離れて、私は庭に落っこちるところだった。
なかなか地面に足がつかなかった――私は縁側の先、冬の神社の庭先で、飛び上がった格好のまま、ふわふわ浮きつづけていた。
私は呆然とした。魔理沙も私を見て、目を丸くしていた。ただ一人驚かなかったアリスが、へらへら笑いながら言った。
「ほうらね、言ったじゃない。重く考えることないって。女の子は誰でも空を飛ぶのよ。体と心のバランスを取るすべを、少しずつ覚えていくのよ。あなた自身毎日変化していき、つくりかえられていく――この宇宙と同じようにね」
アリスはブン殴られても甲斐甲斐しく世話焼いてくれるとか聖母じゃないか
紫も気に留めてないみたいだしやはり試練といっても酷いもんだ
逆にそれだけ霊夢のかあさんが試練とはいえ霊夢が傷つけられたことに怒っていたというわけなんだろうな
それと時々下手なギャグが入るけど笑いは基本的に殺意なんだと改めて思う
殺意は陰険なもんだがその冷淡な陰険さがあるからこそ致命的な事態に対して陽気になれて闘い易いという面もあると思う
真剣なことは真剣に考えないといけないけど本当に真剣だからこそ嘘でも茶化して真剣さを殺さないと真剣に対応出来ないみたいなことはあると思う
この霊夢みたいにある意味いい加減だからこそ真剣な試練をクリア出来た
事態の重大さをよく考え真剣に悩み抜いてたら多分試練を諦めていたんじゃないかと思う
あと橙とかこんくらい好戦的な方がらしい気がする 霊夢も橙も藍もお疲れ様
橙も霊夢かあさん相手によく頑張ったと思う とてもその勇敢さは真似出来ないわ 凄いと思う
面白かったです
安酒飲んで変な酔い方をしながら書いたとしか思えない出来
ギャグも寒いというかなんか気持ち悪い
やっぱキャラ傷つける話はなんかが変だわ
ただ僕は凄く好きです。霊夢が力を失って初めて魔理沙と同じ視点になるのが凄く良かった。この話の中の霊夢、魔理沙、アリスが大好き。
霊夢に降りかかる藍たちからの試練………
何が起こるのかずっとハラハラしてました
最後までずっとドキドキして、楽しかったです
アリスチャーハン食べてみたい(ボソッ