何の前触れもないにわか雨は、まこと、晩夏の厄介ごとの筆頭だ。
友人の家に向かう慧音もまた、油断をして傘を持たずに外に出てしまったものだから、何とかして傘を借りるか雨宿りをするかしなければならなかった。
辺りに人の通りはない。犬猫の影すらもない。
ばしゃばしゃと泥を跳ね上げて近くの家々を見回したが、天が気まぐれに鉛の弾を撃ち込むかのような雨の中で、わざわざ外に出ようと思う者はひとりも居るまい。眉の根を八の字に曲げながら、慧音は傘を借りることを早々に諦めなければならなかった。そうなると、どこかの店や誰かの家の軒先に頭を突っ込んで雨をやり過ごすのも気が引けてしまうというもの。奇妙なところで、彼女は臆病な性分だ。
未だ雨は降り続く。
遠方では、山の頂に数条の雷が落ちているのが見えた。そこから否応なく漏れ聞こえる轟々の遠雷に、びくりと肩を震わした。
ならば……と、茶色い泥の水鏡に映った自分の顔を踏みつけて、慧音は道端に茂った下草の向こうを目指す。草の根元に分け入ると、葉の部分に張りついた――雨粒なのか泥なのかよく判らないものがいやに冷たい。が、気にしている暇はなかった。さらに向こうの松の林の中には、一件の空き家が取り残されている。地面に散乱した松笠を踏みつけながら、慧音は走りに走った。
まるで戸を蹴破るかのような勢いで、その家の軒下に転がり込んだ。建物は、空き家とはいえ廃屋というほど古びているわけではない。辺りを雑草に侵されて、いささか煤けた庵のような影を背負ってはいるものの、屋根も梁も、柱も戸も、少しも破れてはいないのだ。なるほど、雨宿りにはちょうど良い。
慧音の記憶が正しければ、ここは十年ばかり前、毒茸に中って一家全員が死んでしまったという家である。そんな不幸な“曰く”があるものだから、その辺の往来に石を投げれば妖怪だの亡霊だのに当たる幻想郷という土地柄でも、何となく人には敬遠されて、後に住む者も現れなかった。その代わり、十年から前は未だ若木だった松の木たちが、人が居ないのなら代わりに自分たちが棲んでやろうと言わんばかりによく成長して、今や建物を自らの木陰の下にすっぽりと覆い隠している始末だ。軒下からその松を見上げれば、まるで慧音の侵入に抗議しているみたいに、鋭い針の葉から雨粒が垂れ落ちてくるのだった。
そんな思いもよらぬ『攻撃』を怖れ、慧音はひゅっと首を引っ込める。
いつか妹紅と観た太平記の芝居で奏でられていた音楽を鼻歌で歌いながら、雨が行き過ぎるのをおとなしく待つばかりである。
それにしても、大急ぎで雨中を駆けてきたものだから服は濡れ、身体は寒々として、夏の終わりというのに風邪でもひいてしまいそうだ。これはたまらない、と、彼女は少しでも暖を取ろうと思って、肘から膝からしきりに撫でまわした。同時に鼻歌は盛り上がっていく。何かしら身体を使っていないと、雨に濡れた寒さも、軒下で雨止みを待っていなければならない退屈さも、どうにも凌げそうもない。友人との約束の刻限に、遅れねば良いのだが――――。
「あのう。も少し、奥で待たれてはいかがですか」
ようやく衣服の裾くらいは乾いてきただろうか、という頃合いに、そう声を掛ける者があった。びくりと肩を震わせて、慧音は二度、三度と振り返り、あちこちを見回す。木々と草々が群れ飾る松林の底の空き家には、人の姿らしいものは見えなかった。訝しんでさらに目を凝らすと、いつのまにか――自分の横に、声の主が立っている。
「どうせ、空き家なのです。雨降りを凌ぐなら、土間にでも上がるが良いでしょう」
少女である。歳のころ、見立てて十四、五ほど。絣の着物に半幅の帯を締めた格好は様になっていると言えなくもないが、色柄の方は、どういうわけか、三年ばかり前に街の少女たちの間で流行ったものだ。早い話が流行遅れである。少女はにっこりとほほ笑むと「どうぞ、遠慮なさらず」と手招く。奇妙な『先客』だが、導かれるまま、慧音は彼女の後を追った。
土間にでも、と自分から言ったからなのか、少女は本当に空き家の土間にまで慧音を案内してくれた。そこから先へは相手を導きもしないし、自分も上がろうとする気配がない。慧音は、ぺこりと頭を下げた。そういえば、突然のことに驚いて、少女へは礼を言ってもいなかった。
「ありがとう。確かに、軒下よりは土間の方が雨を凌げる。きみのおかげで風邪をひかずに済みそうだ」
慧音が礼を述べると、少女はにこりと微笑んで応じた。
やはり家の中まで上がり込みはしなかったが、彼女は床の端に腰だけ下ろし、足をぶらぶらさせながら言を継ぐ。その手には、幾つかの松笠をお手玉として弄んでいる。そういえば、この建物の周りには松笠がたくさん落ちていたな、と、慧音は思い返す。たぶん、ここ最近の雨風で松の木から振り落とされてしまったのだろう。
「お役に立てそうなら何よりです。ええと……」
「上白沢慧音という。ご存知ないかな。寺子屋で先生をやっている。史書を手掛けたり、史学の講義なんかも」
「まあ、それは……申し訳ありませんが」
「なに、その実態は、あれこれと手を出してはあくせくと日々の糧を稼ぐ、高等遊民の成り損ない」
「それでもなお、二足の草鞋とはいえましょう。いいえ、三足の? でも、おみ足は二本のようですけれど」
少女がころころと笑うと、慧音も可笑しくなって笑みを見せる。
まるで、久方ぶりに旧友と再会したときのように。
「しかし、雨宿りの先客がいたとは驚いたな。私の鼻歌も聴かれてしまったか」
「お上手でしたよ。何の曲かは解りません。でも、良い曲でした。何という曲なのです」
「名前までは私にも解らないが。いつだったか、友人と観てきた太平記の芝居で耳にしたものでね。弁々の琵琶と八橋の琴、それに雷鼓の鼓を合わせた三人の嬢の楽の音ほど、桜井の別れを劇的に演出するものもなかろうと思った」
「先生がそのように仰るのなら、とても良いお芝居なのでしょう。……雨は未だ止みそうにありませんね。よろしければもう少し、何かお話をしていきませんか」
少女から乞われるまま、慧音は色々な話題を雄弁に語った。
せっかく見つけた貴重な史料の貸し出しが所有者から許されなかったこと、家譜編纂の仕事がためにその一族の経歴を知らねばならないことの下世話ぶり、老後の教養にと歴史の講義を頼んでくる人々の礼儀の悪さ、太平記は平家物語に及ぶだけの作か否か、友人である藤原妹紅の無鉄砲さと奔放さへの憧れ、自分が教えている子供たちへ思うこと、かつての教え子がもう直ぐ祝言を挙げるのだということ……そんな諸々を。次第に熱を帯びた口調は、教師という職業の為せるところであっただろうか。
「それで妹紅ときたら、自分は金を持っていないものだから私の財布を目当てに芝居見物をねだってきたのだが、実際に行ってみたら合戦の場面にしか興味がないときたものだ。そこだけは歓声を上げて見入っていたくせに、他の段では寝息を立てている。楠木兄弟最期の段で、悠々と昼寝を始める者など私は彼女をおいて他に知らな……おっと!」
少女の隣に腰かけていた慧音は、自分ばかりが語り過ぎていたことに気づいて顔を赤くする。外に眼を遣ると、あれほどに大地を撃ちつけていた雨の弾幕も、もうだいぶ弱まっているみたいだった。もうあと少しで、晴れ間が顔を見せるだろう。
「済まないことをした。私ばかりが勝手に話し続けてしまったな。人にものを教えていると、つい誰に対しても同じように“講義”をせずにはいられない性分が身についてしまって。それに、雨宿りの最中に誰かと一緒に居られると思うと、何だか嬉しかったんだ」
「何も気にしてはいませんから。それに、私も、未だ来ない人を待つまでの暇を、先生のおかげで埋めることができました」
「来ない人?」
慧音は訝しんだ。少し前、この少女に声を掛けられたとき以上に訝しんだ。
てっきり、慧音は、少女もまた自分と同じように、傘を忘れてこの空き家で雨宿りをしているものだと思い込んでいたのである。ふうん……と、鼻を鳴らして、改めて少女を観察する。流行遅れの着物も、腰の近くまで伸びた黒い髪も、真新しい緒を通してある洒落た草履もみなすべて、濡れている気配がまったくない。未だ生乾きである自分の衣服を思いながら、慧音は考える。私のように雨中を急いできたのなら、この娘の着ているものも大いに濡れていなければおかしい。見たところ、やはり傘らしいものを持っている気配とてない。どうやら雨が降るずっと以前から、彼女はこの空き家に身を置いていたらしい。『来ない人』を待ち人として。
「こんな空き家で――人もそうは来ない場所で――きみはいったい誰を待っているんだ? 友達か、両親か、兄弟か。下世話な問いだが恋人との逢引のためか。もっとも、逢引であるのなら人目につかないところを選ぶのも合点が行くか」
こちらばかりが話し過ぎた償いとばかり、今度は慧音から少女へと話を振る。
「さあ、それが……私にも、いっこう解らないのです。誰を待てば良いのか、どうしてここで待たなければならないのか」
「解らない? どういうことだ? 誰が来るかも解らないのに、その誰かを待っているのか?」
「ええ、そうです。それが私という人なのです。私はそうしなければならないのです」
眉根に皺を刻んで、慧音はフと考え込む。
彼女は、何か病みついた気持ちでこういう物言いをしているのだろうか。それとも、一見して計り知れないほどの犯罪や触法に利用されるために、何者かの指示で空き家に連れてこられたのだろうか。そうまで深刻に考えずとも、彼女くらいの年頃なら、他人とは違う自分を演じるために奇抜な趣味や言動に憧れるということもある。だが、少女自身が「なぜここに居るのか」「誰を待っているのか」、それを言いもしないし、そもそも解らないという以上、慧音にはどうすることもできなかった。
何の収穫もない問答をしているうちに、雨雲には少しずつ太陽が穴を開け、その向こうから剣の切っ先のように鋭く輝く日の光が降り注いでいた。雨上がりである。傘がないのだから、また雨が降りだしたりせぬうちに、慧音は急いで目的地へとたどり着かなければいけない。
「晴れてきたので、私はそろそろここを出るが……きみは未だここで“待つ”のか?」
頭のてっぺんに帽子をしっかりと被り直しながら、最後にひとこと問う。
少女は、初めて出会ったときと同じ笑みを、一枚の絵のように湛えて答える。
「ええ。私は“待つ”ことしかできない者ですから。誰か、ふさわしい人が来るまで、ここで“待ち続ける”のです」
そうか、と、慧音は呟き、少し名残惜しげに少女と過ごした空き家を後にする。
彼女の待つ、ふさわしい人というのが自分ではなかったことを、ほんの少しだけ残念に思いながら。
――――――
「そのように濡れてしまわれて。傘を買うお金がないのなら都合できますよ」
「あいにくと、家に忘れてきただけだよ。返すあてのない金を借りる気はない」
「それはそれは。こちらとしても、貸せはしますが貸す気はないのでありがたいところです。稗田の御家は高利貸しにまで手を出してはおりませんので」
憎まれ口を叩きはするが、阿求の皮肉に悪意はない。
彼女が斯様にずけずけと相手を小馬鹿にしたような物言いをするのは、慧音相手がせいぜいだ。その慧音を除けば、家中で使っている下女や下男の類にさえ、嫌味ひとつ言うことのないお嬢様を演じている。
その阿求から、言葉とは相反するかのように差し出された手ぬぐいを受け取ると、慧音は顔から首、腕に残った雨の滴と汗とを順繰りに拭き取った。雨宿りを要するほどではないにせよ、あれからまた、もういちど小雨に祟られたせいだ。
返却した手ぬぐいを、阿求が、かたわらに控えていた下女に渡すのを見届けながら、慧音は脱いだ靴を稗田の屋敷の玄関に揃えた。上がり框を踏み遣ると、きしりと家鳴りが耳に入る。いつの間にか下女はすっかり退散していて、一方で客人が追いつくのを待つでもなく、阿求はすたすたと廊下を歩き始める。里いちばんの分限者にしてこの屋敷の所有者である稗田阿求の背を、慧音は追う格好になる。
「本日は何用でこの慧音を呼んだのだろう」
慧音の来意は、単純に阿求から屋敷に招かれたからだが、そもそも、阿求自身が何のために慧音を呼んだのかまでは明かされていなかった。慧音の問いに、相手は歩みを止めることなく少しだけ振り返って、
「先生にしか、頼めぬことがあったからですよ」
とのみ、答えた。
「ほう。それは恐悦だな」
皮肉なのか感謝なのか、発した慧音にも判らない言葉である。
――――――
二人が行き着いたのは、阿求の自室だ。
最新型の蓄音器。無造作に積み上がった玄樂団の音盤。頁に折り目のついた漫画本。書棚に並べられた幾多もの史書。壁中を装飾するように下げられた流行の色柄の小袖。長らく使い込まれて墨のにおいが染み込んだ文机。『鬼人正邪』の稿の中途で筆が置かれた幻想郷縁起の草稿。それらのものが、いちどに眼に飛び込んでくる。
この年頃の少女がひとり棲むにしては、いささか広い部屋である。それは稗田家の幻想郷での地位と財産を物語ってはいたけれど、同時に、何か阿求がひどく生き急いでいるような印象をも見る者に与えずにはおかなかった。慧音は、この歳の離れた小さな友人の部屋に招かれるたびにそう考えるのだ。稗田阿求という少女の縮図が、一から十まで何もかもこの部屋に詰まっているのではなかったかと。
これ以上なく勝手知ったる自分の家、阿求はすぱんと開かれた襖の向こうに飛び込むと、部屋の隅に備えつけの押入を開けた。「早く襖を締めてくれ」の意思を仕草と目配せで慧音に合図しながらである。
「何だ、何をそんなに慌てている?」
ひとまずは言われた通りに襖を締める慧音。
密室――というわけはないが、これで部屋には上白沢慧音と稗田阿求、そのふたりだけ。あらかじめ人払いも済んでいるのか、近くに下女や下男の気配はまったくない。
阿求は、押入に詰まっている行李のうち奥から二番目を取り出すと、中に収められていた木箱の蓋を開け、さらにその蓋の裏にぴったりと取りつけられていたもう一枚の蓋をぱかりと外した。その中からは、藤色の布に包まれた何かが取り出される。結構な厚みがあるようだ。阿求の小さな手が重そうに抱える様を見ると、その包みはあたかも鉄塊のごとくである。
「その包みが私を呼んだ理由?」
何の躊躇いも衒いもない態度で、慧音の問いにうなずく阿求。
「これ以上もったいぶっても意味がないので、すべて教えます。先生、今日はしばし、稗田の宅で催される供養にお付き合いくださいな」
「供養?」
予想だにしない言葉だった。飼っていた金魚でも死んだというのか。
「なに、生き物のことなどではありません」
相も変わらぬ皮肉げの笑みひとつ、阿求は包みを解いて、その中身を慧音に手渡した。かさかさとした音が連なり、両手にずンとかさばる積年の重み。決して少なくはない紙の束である。
「急に何なんだ、この紙束は? 供養とは何事だ?」
「先生、日頃は人からよくものを尋ねられるお立場というのに、今日はご自分がものをお尋ねになってばかりですね。よくお読みになってくださいな。原稿ですよ。物語の」
む、……と、慧音は目を白黒させた。
物語――この何百枚とありそうな紙の束が、だろうか?
ふたりはどちらからともなく座りこみ、原稿だという紙の束の一枚一枚に眼を通していった。阿求の言う通り、確かにそれは物語を記した原稿だった。ときには小説を、ときには童話を、ときには寓話を、ときには詩歌を。およそ思いつく限りの物語が書き連ねられた、実にたくさんの原稿だ。けれど。
「いずれもが未完成のようだな」
「書くのを投げ出したんです。どの作品も中途で」
互いの顔を見交わしていたふたりだったが、突然、阿求が笑いながら目を逸らした。
「ほんの“手すさび”のつもりで三年ほど前から――それこそ稗田が使っている下女や下男にさえ隠して続けてきた趣味でしたが、どうしても“もの”にはならなかった。物を書くこと、語ることには慣れていますよ、ええ。初代阿礼から続く語り部の血と魂と御家なのですからね。でも、それは歴史に関することだけです。しかしながら、ありもせぬことを夢想する瞬間はこの阿求にもありますよ。ひょっとしたらわたしにも何か別の才覚があって、老い先もなく閉じていく人生をそれで愉しくできるんじゃあないかとね。でも、ものにならないことをいつまでも続けていたとして、それが結局何になりましょう。御阿礼たる者、現世の品々に執着ひとつ持ってはいられないのです」
慧音からは尋ねてもいない事の真相を、阿求は矢継ぎ早にまくし立てた。
改めて、友人が書き連ねてきた原稿を読む。
実に多種多様な物語が、そこには展開されていた。
化け物の胎、英雄の失敗、人情、義理、世の黒さ、裏切り、愛、天地の理、翡翠の生る森、蛟の逆鱗、終わらない旅、大義ある戦争、大義なき虐殺、不尽の勇気、好奇心、功名心、土俗の祭礼、卑しき交合、産まれ来たることへの喜び、生きることへの言祝ぎ、生きたいという一心、それは叶わないと悟った者だけが吐き出すことを許される悲嘆。それらはみなすべて小説であり、絵本であり、寓話であり、十四行詩であり、七言絶句であり、童歌であり、狂歌であり、七五調の謡であり、風景の華美な描写にのみ偏愛を注いだ冗長な長編であり、心の有りようばかりを粘ついた文体で綴った掌編であった。
十と幾年という短い間、阿求が決して忘れることのなかった、忘れることのできなかった物語が、そこには吐き出せるだけ吐き出されていた。ようにも見える。それが、どうやら長い長い時間を掛けて書き継がれてきたようで――ひとつひとつは確かに未完成だが、古い作では紙が黄ばんでいて、劣化した本に特有の、甘菓子めいた心地よいにおいを発しているくらいなのだ。
慧音は、その原稿をいったん阿求に突き返した。
相手が鷹揚な態度でそれを受け取るのを見、再び問う。
「先ほど、供養をすると言った」
「はい。言いました」
「これらの物語を」
「はい。その通りです」
「針や人形を供養するみたいにして」
「はい。そのために先生(あなた)を読んだのです。何せ、斯様なことは恥ずかしいことです。そんな頼みごとをできるのは、わたしの伝手では先生しか居りませぬ」
またいっそう、阿求はにっこりと笑う。
慧音と阿求とのつき合いは長いが、初めて慧音は相手のことを不気味だと思った。計り知れず、底知れない、暗闇が彼女から漏れ出てきていると思ったのだ。額に指を遣って、しばし考え込む。阿求はそこまで自分を買ってくれている。しかし、あるいは、一世一代の壮挙に他人を巻き込んで、相手の心に自分の名を刻みつけようとする、そういう悪人じみた恋情の色も感じる。それこそが、物語じみた仮定でしかないのだけど。
「私は何をすれば良いというのだろう」
ぽつり、と、問うた。
史(ふびと)の能を持つ者なればこそ、阿求の心は看過しがたいものがある。
書き連ねた物語の破棄は、己の歴史の一端を破却するにも等しい行為だ。
原稿の束を胸にかき抱きながら、阿求は答える。
「死するべき物語を前にして何らか物思うだけで、先生の役目は事足ります」
――――――
火打ち石を持ち出して、阿求と慧音は屋敷の中庭に下りた。
雨が上がってからは結構な時が経っている。太陽が西への傾きを強くしつつある今の刻限だとはいえ、それまでたっぷりと日の光を浴びた地面はもうほとんどが乾いてしまっているようだった。雨天の名残は、日影に呑み込まれた植え込みの葉に、流れきらなかった滴が必死にしがみついている、という程度。
慧音に見守られながら、阿求は何枚か重ねた原稿に向け、勢いよく火打ち石をぶつけ合わせた。
かちかちと火花が舞い、明々とした火の色が紙の真ん中から生えてくる。
その下に敷き詰められた焚き付けの松藁もまた燃え盛り、阿求が物語の執筆に費やした三年という月日を火勢の中に押し込めていった。
自分のせいで母が死んでしまったことを恐れたヴァジャク青年が家を飛び出して、けれど、ひとり残してきた弟のヴォズク少年に手紙を書くというだけの中途半端な物語が、瞬く間に消え去っていく。一枚一枚、阿求はときに慈しむように、ときに憎むかのように、火の中に未完の原稿を投げ入れる。ときどきは、いま燃えている原稿は後にどんな話になるはずだったのかを慧音にも教えてくれた。どうして書くのを止めてしまったかも明かしてくれた。全部に全部、その真相を聞くことができたわけではなかったけれど。
幾十枚目か、幾百枚目か。
物語への供養がくり返されるうち、またさらに日は傾きかけている。
稗田の屋敷に着いたのは昼過ぎのはずだったが、この供養という遊びにずいぶんと入れ込んでしまったものだと慧音はひとりで苦笑した。そういえば雨宿りの途中で出会ったあの少女は、無事にふさわしき待ち人を見つけ出すことができただろうか。多くの原稿を葬りながら、ふとそんなことを考えたとき。阿求の背後から、火に投げ込まれるべき最後の原稿を目にして――慧音の唇は、わなわなと震えた。
「先生? どうしました」
客人のただならぬ様子に気づいた阿求が訊ねる。
その問いには努めて笑顔をつくり「いいや、なんでもない」と、ぎこちなく応ずることしかできそうになかった。
もういちど慧音は、阿求が手にした最後の原稿を注視する。
やはり、見間違いではない。そこには、数刻前に空き家で一時を共に過ごした、あの少女の姿が描かれているのだ。ごくありふれた、恋の物語が始まろうとしている。『松笠』と題された作品は、そんな冒頭だけで放置された未完作に過ぎない。ひとりの少女が、松林に隠れた空き家で人を待っている。絣の着物に半幅の帯。黒い髪の毛は腰まで伸びて。待つ間の手慰みに、松笠を拾って弄びながら。そうした幾つかの描写で飽きられたのか、作品はすっかりと途切れていて――最後に、阿求自身の筆で少女の姿を示した挿絵が描かれていた。絵の少女は、空き家で出会ったあの少女が、別れ際に慧音に向けたのとまるっきり同じ笑顔をしているのであった。
「初めて書いた――書こうと思った――物語なのですよ、それ」
火打ち石を指先で撫でながら、阿求は慧音を振り向いていた。
真黒い燃えかすが地面に張り突いている。それを忌々しげに御阿礼は踏む。
「どうやって待ち人に出会わせようか、誰に出会わせようか、そもそも待ち人はやって来るのか。ずっとずっとそんなことを考えていたら、そのうち考えることだけが愉しくなって、筆を動かす方はだめになってしまったんです。どうせなら女の子は鬼にでも喰われてしまったと、そんな風に落ちをつけても良かったのに。でも、できなかったんです。何度も何度も完成させようと思ったのに。結局形にならなくて、わたしは次の物語を、次の次の物語を。欲張るだけ欲張って、結局いまのこの有り様」
自嘲の混じった溜め息。
反対に、慧音は何も言えずに息を呑む。
「ねえ、先生。古い古い物語では、男と駆け落ちした女は突然鬼に食べられてしまって、それきりその話はおしまいだそうですけれど。わたしには、そうやって殺したり攫ったり食べたりしてくれる相手もいないのです。そうした者が、好い物語を書くことができましょうか」
それが嬉しいとも虚しいとも、阿求は一言も言わなかった。
ただひとつだけ――人を待つ少女が描かれただけの、荒く拙い、物語とも言い難いこの未完作に止めを与えるための鬼には、阿求も、自分も、成れはしないのだ。慧音には、なぜだかそうした確信があった。鬼の居ないまま、この物語は完成される。そうやって記憶の淵にこびりついたまま、いつまでもいつまでも、少女は待ち続けるのだろう。
とうとう未完のままだった物語は、それからようやく火中へ投ぜられた。
もう何も言わなくなったふたりの前で、稗田阿求の処女作は、真っ黒いかすになって、燃え尽きていった。
――――――
稗田家での『供養』からの帰り道。
慧音は、あの少女と出会った松林の中の空き家に足を運んでみたけれど、夕暮れの薄闇の中で、彼女ともういちど会うことはできなかった。ふたりで腰かけて語らったあの土間は、滔々たる夜の闇の虚無だけを湛えていた。鬼一口(おにひとくち)に呑まれる女が最後に垣間見たのは、あたかもこれなる暗闇であっただろうか。
あの少女は、ひょっとしたらほんとうの人間で、ほんとうのほんとうに鬼に喰われてしまったのではないかと慧音は何度か考えたが――もはや確かめる術などあるはずもない。幻想郷は芥川のほとりにはないのだから、雷鳴にかき消えた悲鳴の行方もまた誰も知らない。
家に帰りついてから、彼女は寝る前の日課として続けている日記に、今日わが身に起こった不思議な出来事についての所感を記した。その旨はこうである。
『唯、心が、人の思いが現を歪め、神の姿をもつくり上げる。それが幻想郷の在りようである。阿求は、もっとも初めに手掛けて、もっとも初めに諦めた自作への執着を棄てることができなかったに違いない。その悔恨と羞恥が、本当は居もしない少女を物語の中からさ迷い出させたのだろう』
これが、この小さな異変についての、上白沢慧音の見解だ。
とはいえさすがの彼女であっても、少女と共に一時を過ごしたあの空き家が、その晩、松林からにわかに発した怪火によって跡形もなく焼失するということまでは、まったく予想することができなかったのである。
友人の家に向かう慧音もまた、油断をして傘を持たずに外に出てしまったものだから、何とかして傘を借りるか雨宿りをするかしなければならなかった。
辺りに人の通りはない。犬猫の影すらもない。
ばしゃばしゃと泥を跳ね上げて近くの家々を見回したが、天が気まぐれに鉛の弾を撃ち込むかのような雨の中で、わざわざ外に出ようと思う者はひとりも居るまい。眉の根を八の字に曲げながら、慧音は傘を借りることを早々に諦めなければならなかった。そうなると、どこかの店や誰かの家の軒先に頭を突っ込んで雨をやり過ごすのも気が引けてしまうというもの。奇妙なところで、彼女は臆病な性分だ。
未だ雨は降り続く。
遠方では、山の頂に数条の雷が落ちているのが見えた。そこから否応なく漏れ聞こえる轟々の遠雷に、びくりと肩を震わした。
ならば……と、茶色い泥の水鏡に映った自分の顔を踏みつけて、慧音は道端に茂った下草の向こうを目指す。草の根元に分け入ると、葉の部分に張りついた――雨粒なのか泥なのかよく判らないものがいやに冷たい。が、気にしている暇はなかった。さらに向こうの松の林の中には、一件の空き家が取り残されている。地面に散乱した松笠を踏みつけながら、慧音は走りに走った。
まるで戸を蹴破るかのような勢いで、その家の軒下に転がり込んだ。建物は、空き家とはいえ廃屋というほど古びているわけではない。辺りを雑草に侵されて、いささか煤けた庵のような影を背負ってはいるものの、屋根も梁も、柱も戸も、少しも破れてはいないのだ。なるほど、雨宿りにはちょうど良い。
慧音の記憶が正しければ、ここは十年ばかり前、毒茸に中って一家全員が死んでしまったという家である。そんな不幸な“曰く”があるものだから、その辺の往来に石を投げれば妖怪だの亡霊だのに当たる幻想郷という土地柄でも、何となく人には敬遠されて、後に住む者も現れなかった。その代わり、十年から前は未だ若木だった松の木たちが、人が居ないのなら代わりに自分たちが棲んでやろうと言わんばかりによく成長して、今や建物を自らの木陰の下にすっぽりと覆い隠している始末だ。軒下からその松を見上げれば、まるで慧音の侵入に抗議しているみたいに、鋭い針の葉から雨粒が垂れ落ちてくるのだった。
そんな思いもよらぬ『攻撃』を怖れ、慧音はひゅっと首を引っ込める。
いつか妹紅と観た太平記の芝居で奏でられていた音楽を鼻歌で歌いながら、雨が行き過ぎるのをおとなしく待つばかりである。
それにしても、大急ぎで雨中を駆けてきたものだから服は濡れ、身体は寒々として、夏の終わりというのに風邪でもひいてしまいそうだ。これはたまらない、と、彼女は少しでも暖を取ろうと思って、肘から膝からしきりに撫でまわした。同時に鼻歌は盛り上がっていく。何かしら身体を使っていないと、雨に濡れた寒さも、軒下で雨止みを待っていなければならない退屈さも、どうにも凌げそうもない。友人との約束の刻限に、遅れねば良いのだが――――。
「あのう。も少し、奥で待たれてはいかがですか」
ようやく衣服の裾くらいは乾いてきただろうか、という頃合いに、そう声を掛ける者があった。びくりと肩を震わせて、慧音は二度、三度と振り返り、あちこちを見回す。木々と草々が群れ飾る松林の底の空き家には、人の姿らしいものは見えなかった。訝しんでさらに目を凝らすと、いつのまにか――自分の横に、声の主が立っている。
「どうせ、空き家なのです。雨降りを凌ぐなら、土間にでも上がるが良いでしょう」
少女である。歳のころ、見立てて十四、五ほど。絣の着物に半幅の帯を締めた格好は様になっていると言えなくもないが、色柄の方は、どういうわけか、三年ばかり前に街の少女たちの間で流行ったものだ。早い話が流行遅れである。少女はにっこりとほほ笑むと「どうぞ、遠慮なさらず」と手招く。奇妙な『先客』だが、導かれるまま、慧音は彼女の後を追った。
土間にでも、と自分から言ったからなのか、少女は本当に空き家の土間にまで慧音を案内してくれた。そこから先へは相手を導きもしないし、自分も上がろうとする気配がない。慧音は、ぺこりと頭を下げた。そういえば、突然のことに驚いて、少女へは礼を言ってもいなかった。
「ありがとう。確かに、軒下よりは土間の方が雨を凌げる。きみのおかげで風邪をひかずに済みそうだ」
慧音が礼を述べると、少女はにこりと微笑んで応じた。
やはり家の中まで上がり込みはしなかったが、彼女は床の端に腰だけ下ろし、足をぶらぶらさせながら言を継ぐ。その手には、幾つかの松笠をお手玉として弄んでいる。そういえば、この建物の周りには松笠がたくさん落ちていたな、と、慧音は思い返す。たぶん、ここ最近の雨風で松の木から振り落とされてしまったのだろう。
「お役に立てそうなら何よりです。ええと……」
「上白沢慧音という。ご存知ないかな。寺子屋で先生をやっている。史書を手掛けたり、史学の講義なんかも」
「まあ、それは……申し訳ありませんが」
「なに、その実態は、あれこれと手を出してはあくせくと日々の糧を稼ぐ、高等遊民の成り損ない」
「それでもなお、二足の草鞋とはいえましょう。いいえ、三足の? でも、おみ足は二本のようですけれど」
少女がころころと笑うと、慧音も可笑しくなって笑みを見せる。
まるで、久方ぶりに旧友と再会したときのように。
「しかし、雨宿りの先客がいたとは驚いたな。私の鼻歌も聴かれてしまったか」
「お上手でしたよ。何の曲かは解りません。でも、良い曲でした。何という曲なのです」
「名前までは私にも解らないが。いつだったか、友人と観てきた太平記の芝居で耳にしたものでね。弁々の琵琶と八橋の琴、それに雷鼓の鼓を合わせた三人の嬢の楽の音ほど、桜井の別れを劇的に演出するものもなかろうと思った」
「先生がそのように仰るのなら、とても良いお芝居なのでしょう。……雨は未だ止みそうにありませんね。よろしければもう少し、何かお話をしていきませんか」
少女から乞われるまま、慧音は色々な話題を雄弁に語った。
せっかく見つけた貴重な史料の貸し出しが所有者から許されなかったこと、家譜編纂の仕事がためにその一族の経歴を知らねばならないことの下世話ぶり、老後の教養にと歴史の講義を頼んでくる人々の礼儀の悪さ、太平記は平家物語に及ぶだけの作か否か、友人である藤原妹紅の無鉄砲さと奔放さへの憧れ、自分が教えている子供たちへ思うこと、かつての教え子がもう直ぐ祝言を挙げるのだということ……そんな諸々を。次第に熱を帯びた口調は、教師という職業の為せるところであっただろうか。
「それで妹紅ときたら、自分は金を持っていないものだから私の財布を目当てに芝居見物をねだってきたのだが、実際に行ってみたら合戦の場面にしか興味がないときたものだ。そこだけは歓声を上げて見入っていたくせに、他の段では寝息を立てている。楠木兄弟最期の段で、悠々と昼寝を始める者など私は彼女をおいて他に知らな……おっと!」
少女の隣に腰かけていた慧音は、自分ばかりが語り過ぎていたことに気づいて顔を赤くする。外に眼を遣ると、あれほどに大地を撃ちつけていた雨の弾幕も、もうだいぶ弱まっているみたいだった。もうあと少しで、晴れ間が顔を見せるだろう。
「済まないことをした。私ばかりが勝手に話し続けてしまったな。人にものを教えていると、つい誰に対しても同じように“講義”をせずにはいられない性分が身についてしまって。それに、雨宿りの最中に誰かと一緒に居られると思うと、何だか嬉しかったんだ」
「何も気にしてはいませんから。それに、私も、未だ来ない人を待つまでの暇を、先生のおかげで埋めることができました」
「来ない人?」
慧音は訝しんだ。少し前、この少女に声を掛けられたとき以上に訝しんだ。
てっきり、慧音は、少女もまた自分と同じように、傘を忘れてこの空き家で雨宿りをしているものだと思い込んでいたのである。ふうん……と、鼻を鳴らして、改めて少女を観察する。流行遅れの着物も、腰の近くまで伸びた黒い髪も、真新しい緒を通してある洒落た草履もみなすべて、濡れている気配がまったくない。未だ生乾きである自分の衣服を思いながら、慧音は考える。私のように雨中を急いできたのなら、この娘の着ているものも大いに濡れていなければおかしい。見たところ、やはり傘らしいものを持っている気配とてない。どうやら雨が降るずっと以前から、彼女はこの空き家に身を置いていたらしい。『来ない人』を待ち人として。
「こんな空き家で――人もそうは来ない場所で――きみはいったい誰を待っているんだ? 友達か、両親か、兄弟か。下世話な問いだが恋人との逢引のためか。もっとも、逢引であるのなら人目につかないところを選ぶのも合点が行くか」
こちらばかりが話し過ぎた償いとばかり、今度は慧音から少女へと話を振る。
「さあ、それが……私にも、いっこう解らないのです。誰を待てば良いのか、どうしてここで待たなければならないのか」
「解らない? どういうことだ? 誰が来るかも解らないのに、その誰かを待っているのか?」
「ええ、そうです。それが私という人なのです。私はそうしなければならないのです」
眉根に皺を刻んで、慧音はフと考え込む。
彼女は、何か病みついた気持ちでこういう物言いをしているのだろうか。それとも、一見して計り知れないほどの犯罪や触法に利用されるために、何者かの指示で空き家に連れてこられたのだろうか。そうまで深刻に考えずとも、彼女くらいの年頃なら、他人とは違う自分を演じるために奇抜な趣味や言動に憧れるということもある。だが、少女自身が「なぜここに居るのか」「誰を待っているのか」、それを言いもしないし、そもそも解らないという以上、慧音にはどうすることもできなかった。
何の収穫もない問答をしているうちに、雨雲には少しずつ太陽が穴を開け、その向こうから剣の切っ先のように鋭く輝く日の光が降り注いでいた。雨上がりである。傘がないのだから、また雨が降りだしたりせぬうちに、慧音は急いで目的地へとたどり着かなければいけない。
「晴れてきたので、私はそろそろここを出るが……きみは未だここで“待つ”のか?」
頭のてっぺんに帽子をしっかりと被り直しながら、最後にひとこと問う。
少女は、初めて出会ったときと同じ笑みを、一枚の絵のように湛えて答える。
「ええ。私は“待つ”ことしかできない者ですから。誰か、ふさわしい人が来るまで、ここで“待ち続ける”のです」
そうか、と、慧音は呟き、少し名残惜しげに少女と過ごした空き家を後にする。
彼女の待つ、ふさわしい人というのが自分ではなかったことを、ほんの少しだけ残念に思いながら。
――――――
「そのように濡れてしまわれて。傘を買うお金がないのなら都合できますよ」
「あいにくと、家に忘れてきただけだよ。返すあてのない金を借りる気はない」
「それはそれは。こちらとしても、貸せはしますが貸す気はないのでありがたいところです。稗田の御家は高利貸しにまで手を出してはおりませんので」
憎まれ口を叩きはするが、阿求の皮肉に悪意はない。
彼女が斯様にずけずけと相手を小馬鹿にしたような物言いをするのは、慧音相手がせいぜいだ。その慧音を除けば、家中で使っている下女や下男の類にさえ、嫌味ひとつ言うことのないお嬢様を演じている。
その阿求から、言葉とは相反するかのように差し出された手ぬぐいを受け取ると、慧音は顔から首、腕に残った雨の滴と汗とを順繰りに拭き取った。雨宿りを要するほどではないにせよ、あれからまた、もういちど小雨に祟られたせいだ。
返却した手ぬぐいを、阿求が、かたわらに控えていた下女に渡すのを見届けながら、慧音は脱いだ靴を稗田の屋敷の玄関に揃えた。上がり框を踏み遣ると、きしりと家鳴りが耳に入る。いつの間にか下女はすっかり退散していて、一方で客人が追いつくのを待つでもなく、阿求はすたすたと廊下を歩き始める。里いちばんの分限者にしてこの屋敷の所有者である稗田阿求の背を、慧音は追う格好になる。
「本日は何用でこの慧音を呼んだのだろう」
慧音の来意は、単純に阿求から屋敷に招かれたからだが、そもそも、阿求自身が何のために慧音を呼んだのかまでは明かされていなかった。慧音の問いに、相手は歩みを止めることなく少しだけ振り返って、
「先生にしか、頼めぬことがあったからですよ」
とのみ、答えた。
「ほう。それは恐悦だな」
皮肉なのか感謝なのか、発した慧音にも判らない言葉である。
――――――
二人が行き着いたのは、阿求の自室だ。
最新型の蓄音器。無造作に積み上がった玄樂団の音盤。頁に折り目のついた漫画本。書棚に並べられた幾多もの史書。壁中を装飾するように下げられた流行の色柄の小袖。長らく使い込まれて墨のにおいが染み込んだ文机。『鬼人正邪』の稿の中途で筆が置かれた幻想郷縁起の草稿。それらのものが、いちどに眼に飛び込んでくる。
この年頃の少女がひとり棲むにしては、いささか広い部屋である。それは稗田家の幻想郷での地位と財産を物語ってはいたけれど、同時に、何か阿求がひどく生き急いでいるような印象をも見る者に与えずにはおかなかった。慧音は、この歳の離れた小さな友人の部屋に招かれるたびにそう考えるのだ。稗田阿求という少女の縮図が、一から十まで何もかもこの部屋に詰まっているのではなかったかと。
これ以上なく勝手知ったる自分の家、阿求はすぱんと開かれた襖の向こうに飛び込むと、部屋の隅に備えつけの押入を開けた。「早く襖を締めてくれ」の意思を仕草と目配せで慧音に合図しながらである。
「何だ、何をそんなに慌てている?」
ひとまずは言われた通りに襖を締める慧音。
密室――というわけはないが、これで部屋には上白沢慧音と稗田阿求、そのふたりだけ。あらかじめ人払いも済んでいるのか、近くに下女や下男の気配はまったくない。
阿求は、押入に詰まっている行李のうち奥から二番目を取り出すと、中に収められていた木箱の蓋を開け、さらにその蓋の裏にぴったりと取りつけられていたもう一枚の蓋をぱかりと外した。その中からは、藤色の布に包まれた何かが取り出される。結構な厚みがあるようだ。阿求の小さな手が重そうに抱える様を見ると、その包みはあたかも鉄塊のごとくである。
「その包みが私を呼んだ理由?」
何の躊躇いも衒いもない態度で、慧音の問いにうなずく阿求。
「これ以上もったいぶっても意味がないので、すべて教えます。先生、今日はしばし、稗田の宅で催される供養にお付き合いくださいな」
「供養?」
予想だにしない言葉だった。飼っていた金魚でも死んだというのか。
「なに、生き物のことなどではありません」
相も変わらぬ皮肉げの笑みひとつ、阿求は包みを解いて、その中身を慧音に手渡した。かさかさとした音が連なり、両手にずンとかさばる積年の重み。決して少なくはない紙の束である。
「急に何なんだ、この紙束は? 供養とは何事だ?」
「先生、日頃は人からよくものを尋ねられるお立場というのに、今日はご自分がものをお尋ねになってばかりですね。よくお読みになってくださいな。原稿ですよ。物語の」
む、……と、慧音は目を白黒させた。
物語――この何百枚とありそうな紙の束が、だろうか?
ふたりはどちらからともなく座りこみ、原稿だという紙の束の一枚一枚に眼を通していった。阿求の言う通り、確かにそれは物語を記した原稿だった。ときには小説を、ときには童話を、ときには寓話を、ときには詩歌を。およそ思いつく限りの物語が書き連ねられた、実にたくさんの原稿だ。けれど。
「いずれもが未完成のようだな」
「書くのを投げ出したんです。どの作品も中途で」
互いの顔を見交わしていたふたりだったが、突然、阿求が笑いながら目を逸らした。
「ほんの“手すさび”のつもりで三年ほど前から――それこそ稗田が使っている下女や下男にさえ隠して続けてきた趣味でしたが、どうしても“もの”にはならなかった。物を書くこと、語ることには慣れていますよ、ええ。初代阿礼から続く語り部の血と魂と御家なのですからね。でも、それは歴史に関することだけです。しかしながら、ありもせぬことを夢想する瞬間はこの阿求にもありますよ。ひょっとしたらわたしにも何か別の才覚があって、老い先もなく閉じていく人生をそれで愉しくできるんじゃあないかとね。でも、ものにならないことをいつまでも続けていたとして、それが結局何になりましょう。御阿礼たる者、現世の品々に執着ひとつ持ってはいられないのです」
慧音からは尋ねてもいない事の真相を、阿求は矢継ぎ早にまくし立てた。
改めて、友人が書き連ねてきた原稿を読む。
実に多種多様な物語が、そこには展開されていた。
化け物の胎、英雄の失敗、人情、義理、世の黒さ、裏切り、愛、天地の理、翡翠の生る森、蛟の逆鱗、終わらない旅、大義ある戦争、大義なき虐殺、不尽の勇気、好奇心、功名心、土俗の祭礼、卑しき交合、産まれ来たることへの喜び、生きることへの言祝ぎ、生きたいという一心、それは叶わないと悟った者だけが吐き出すことを許される悲嘆。それらはみなすべて小説であり、絵本であり、寓話であり、十四行詩であり、七言絶句であり、童歌であり、狂歌であり、七五調の謡であり、風景の華美な描写にのみ偏愛を注いだ冗長な長編であり、心の有りようばかりを粘ついた文体で綴った掌編であった。
十と幾年という短い間、阿求が決して忘れることのなかった、忘れることのできなかった物語が、そこには吐き出せるだけ吐き出されていた。ようにも見える。それが、どうやら長い長い時間を掛けて書き継がれてきたようで――ひとつひとつは確かに未完成だが、古い作では紙が黄ばんでいて、劣化した本に特有の、甘菓子めいた心地よいにおいを発しているくらいなのだ。
慧音は、その原稿をいったん阿求に突き返した。
相手が鷹揚な態度でそれを受け取るのを見、再び問う。
「先ほど、供養をすると言った」
「はい。言いました」
「これらの物語を」
「はい。その通りです」
「針や人形を供養するみたいにして」
「はい。そのために先生(あなた)を読んだのです。何せ、斯様なことは恥ずかしいことです。そんな頼みごとをできるのは、わたしの伝手では先生しか居りませぬ」
またいっそう、阿求はにっこりと笑う。
慧音と阿求とのつき合いは長いが、初めて慧音は相手のことを不気味だと思った。計り知れず、底知れない、暗闇が彼女から漏れ出てきていると思ったのだ。額に指を遣って、しばし考え込む。阿求はそこまで自分を買ってくれている。しかし、あるいは、一世一代の壮挙に他人を巻き込んで、相手の心に自分の名を刻みつけようとする、そういう悪人じみた恋情の色も感じる。それこそが、物語じみた仮定でしかないのだけど。
「私は何をすれば良いというのだろう」
ぽつり、と、問うた。
史(ふびと)の能を持つ者なればこそ、阿求の心は看過しがたいものがある。
書き連ねた物語の破棄は、己の歴史の一端を破却するにも等しい行為だ。
原稿の束を胸にかき抱きながら、阿求は答える。
「死するべき物語を前にして何らか物思うだけで、先生の役目は事足ります」
――――――
火打ち石を持ち出して、阿求と慧音は屋敷の中庭に下りた。
雨が上がってからは結構な時が経っている。太陽が西への傾きを強くしつつある今の刻限だとはいえ、それまでたっぷりと日の光を浴びた地面はもうほとんどが乾いてしまっているようだった。雨天の名残は、日影に呑み込まれた植え込みの葉に、流れきらなかった滴が必死にしがみついている、という程度。
慧音に見守られながら、阿求は何枚か重ねた原稿に向け、勢いよく火打ち石をぶつけ合わせた。
かちかちと火花が舞い、明々とした火の色が紙の真ん中から生えてくる。
その下に敷き詰められた焚き付けの松藁もまた燃え盛り、阿求が物語の執筆に費やした三年という月日を火勢の中に押し込めていった。
自分のせいで母が死んでしまったことを恐れたヴァジャク青年が家を飛び出して、けれど、ひとり残してきた弟のヴォズク少年に手紙を書くというだけの中途半端な物語が、瞬く間に消え去っていく。一枚一枚、阿求はときに慈しむように、ときに憎むかのように、火の中に未完の原稿を投げ入れる。ときどきは、いま燃えている原稿は後にどんな話になるはずだったのかを慧音にも教えてくれた。どうして書くのを止めてしまったかも明かしてくれた。全部に全部、その真相を聞くことができたわけではなかったけれど。
幾十枚目か、幾百枚目か。
物語への供養がくり返されるうち、またさらに日は傾きかけている。
稗田の屋敷に着いたのは昼過ぎのはずだったが、この供養という遊びにずいぶんと入れ込んでしまったものだと慧音はひとりで苦笑した。そういえば雨宿りの途中で出会ったあの少女は、無事にふさわしき待ち人を見つけ出すことができただろうか。多くの原稿を葬りながら、ふとそんなことを考えたとき。阿求の背後から、火に投げ込まれるべき最後の原稿を目にして――慧音の唇は、わなわなと震えた。
「先生? どうしました」
客人のただならぬ様子に気づいた阿求が訊ねる。
その問いには努めて笑顔をつくり「いいや、なんでもない」と、ぎこちなく応ずることしかできそうになかった。
もういちど慧音は、阿求が手にした最後の原稿を注視する。
やはり、見間違いではない。そこには、数刻前に空き家で一時を共に過ごした、あの少女の姿が描かれているのだ。ごくありふれた、恋の物語が始まろうとしている。『松笠』と題された作品は、そんな冒頭だけで放置された未完作に過ぎない。ひとりの少女が、松林に隠れた空き家で人を待っている。絣の着物に半幅の帯。黒い髪の毛は腰まで伸びて。待つ間の手慰みに、松笠を拾って弄びながら。そうした幾つかの描写で飽きられたのか、作品はすっかりと途切れていて――最後に、阿求自身の筆で少女の姿を示した挿絵が描かれていた。絵の少女は、空き家で出会ったあの少女が、別れ際に慧音に向けたのとまるっきり同じ笑顔をしているのであった。
「初めて書いた――書こうと思った――物語なのですよ、それ」
火打ち石を指先で撫でながら、阿求は慧音を振り向いていた。
真黒い燃えかすが地面に張り突いている。それを忌々しげに御阿礼は踏む。
「どうやって待ち人に出会わせようか、誰に出会わせようか、そもそも待ち人はやって来るのか。ずっとずっとそんなことを考えていたら、そのうち考えることだけが愉しくなって、筆を動かす方はだめになってしまったんです。どうせなら女の子は鬼にでも喰われてしまったと、そんな風に落ちをつけても良かったのに。でも、できなかったんです。何度も何度も完成させようと思ったのに。結局形にならなくて、わたしは次の物語を、次の次の物語を。欲張るだけ欲張って、結局いまのこの有り様」
自嘲の混じった溜め息。
反対に、慧音は何も言えずに息を呑む。
「ねえ、先生。古い古い物語では、男と駆け落ちした女は突然鬼に食べられてしまって、それきりその話はおしまいだそうですけれど。わたしには、そうやって殺したり攫ったり食べたりしてくれる相手もいないのです。そうした者が、好い物語を書くことができましょうか」
それが嬉しいとも虚しいとも、阿求は一言も言わなかった。
ただひとつだけ――人を待つ少女が描かれただけの、荒く拙い、物語とも言い難いこの未完作に止めを与えるための鬼には、阿求も、自分も、成れはしないのだ。慧音には、なぜだかそうした確信があった。鬼の居ないまま、この物語は完成される。そうやって記憶の淵にこびりついたまま、いつまでもいつまでも、少女は待ち続けるのだろう。
とうとう未完のままだった物語は、それからようやく火中へ投ぜられた。
もう何も言わなくなったふたりの前で、稗田阿求の処女作は、真っ黒いかすになって、燃え尽きていった。
――――――
稗田家での『供養』からの帰り道。
慧音は、あの少女と出会った松林の中の空き家に足を運んでみたけれど、夕暮れの薄闇の中で、彼女ともういちど会うことはできなかった。ふたりで腰かけて語らったあの土間は、滔々たる夜の闇の虚無だけを湛えていた。鬼一口(おにひとくち)に呑まれる女が最後に垣間見たのは、あたかもこれなる暗闇であっただろうか。
あの少女は、ひょっとしたらほんとうの人間で、ほんとうのほんとうに鬼に喰われてしまったのではないかと慧音は何度か考えたが――もはや確かめる術などあるはずもない。幻想郷は芥川のほとりにはないのだから、雷鳴にかき消えた悲鳴の行方もまた誰も知らない。
家に帰りついてから、彼女は寝る前の日課として続けている日記に、今日わが身に起こった不思議な出来事についての所感を記した。その旨はこうである。
『唯、心が、人の思いが現を歪め、神の姿をもつくり上げる。それが幻想郷の在りようである。阿求は、もっとも初めに手掛けて、もっとも初めに諦めた自作への執着を棄てることができなかったに違いない。その悔恨と羞恥が、本当は居もしない少女を物語の中からさ迷い出させたのだろう』
これが、この小さな異変についての、上白沢慧音の見解だ。
とはいえさすがの彼女であっても、少女と共に一時を過ごしたあの空き家が、その晩、松林からにわかに発した怪火によって跡形もなく焼失するということまでは、まったく予想することができなかったのである。
慧音が出会った少女も、阿求の未完結の作品群も、心にこびりつくように残るような感傷を齎してくれます。
わたしも未完成の作品をいくつか残しているので、少し耳に痛い話ですが…。
趣きというのは理屈で計れないなぁ
ぐううう
グッと来ました
そんなことを夢想しました。素敵な絵面だったので御座います。
幻想郷が舞台だと、ファンタジーがホラーサスペンスになるらしい。
一貫して物語を覆っていた寂寥感が何とも言えない味を出していたと思います
素晴らしい作品をありがとうございました
動きが少なく静かに展開するSSですが、
それが余計に不気味さと言いますか、そういうものを感じさせてくれます。
最後の締め方はショートショートに近いところがありますね。
こんな感じの文章を書いてみたいです。
それ以上にうまい文章でした
すっきり
作品世界が延々と生き続けてると考えると空恐ろしいですね。
懐かしい雰囲気の素敵なSFでした。
まぁある意味過去が今にやってきたようなものですか。
歴史喰いが依頼される、自分史喰い。あの少女は、あるいは白澤の腹の内に?脳裏に?
>玄樂団
→幺楽団
あ、あと太平記と付喪神で口の端が持ち上がりました。