「蓮子、体の調子はどう?」
「ん? ……あぁ、メリー」
病室に入ってきたメリーの姿を見て、ベット上の蓮子は上半身を起こして笑いかけた。
メリーの手には様々な色をした花束が握られていた。
笑顔で返しながらメリーは花瓶を手にして病室内に設置された洗面台へと向かう。
「綺麗な花だね。ありがとう、メリー」
「いいのよ。ところで蓮子。体は大丈夫?」
メリーが花瓶に新鮮な水を入れて、再び蓮子に話しかけた。
しかし、蓮子は何も答えない。
小さな笑みを浮かべたまま、視線を窓の外へ移す。
年末の京都の町には粉雪が降り注いでいた。
「……蓮子」
活け直した花瓶を手にして、蓮子の元に戻る。
その顔が一瞬、真顔になる。
が、すぐに笑顔を浮かべ直すと明るく蓮子に話しかけた。
「そうそう、蓮子。家の中を整理していたらこんなのが出てきたの」
そう言うと、愛用の小さなカバンから一枚の写真を取り出す。
蓮子がようやくメリーに向いて、差し出された写真を受け取ると、そこには十年も前――二人が大学生の頃、『秘封倶楽部』の活動をしていた時の写真だ。
写真の中の二人は、乗り物の中にいた。
偶然乗り合わせた客にお願いして撮ってもらった、ツーショット。
肩を並べて、笑顔を浮かべていた。
「うわぁ……懐かしい。たしかヒロシゲで撮ったやつだ」
「そうそう。初めての東京。楽しかったわ。ヒロシゲの中は退屈だったけど」
くすくす笑いながらメリーも写真の中の二人を覗き込む。
互いの頭を寄せて写真を眺めていた二人だったが、ふと蓮子がメリーの顔を見つめた。
「ねぇ、メリー。さっき家の中を整理したって言ってたけど、引っ越しでもするの?」
「ええ、そうなの! 今度、この近くに引っ越しをするつもりよ。そしたらもっと蓮子のお見舞いに来れるから」
胸を張って笑うメリーに、蓮子の顔からまた笑みが消えて暗い顔つきになる。そして視線を逸らせた。写真が蓮子の膝元に落ちる。
「早く蓮子の病気が治るように私、これからも応援し続けるから。ね、早くよくなって、また二人で旅行に行きましょうよ……蓮子?」
口早く次から次へと蓮子に話しかけるメリー。
だが蓮子は何も答えない。
メリーの顔もだんだん真顔になる。
「……なんでそんな顔をするの? ねぇ、蓮子!」
詰問するように鋭い声を荒げる。
蓮子はゆっくりと振り返ると、小さく笑った。
「メリー……もう、ダメなんだって。医者に言われたんだ。来年の桜が咲く前には、もう……」
その告白にメリーは目を丸くした。
言葉が出なかった。
蓮子が病気にかかったのは二年前の事だ。
最初は大したことないと、二人して楽観視していたが、やがて蓮子の病状は重くなっていった。
医者からここ数年で新たに発見された難病の一つにかかっていると宣告された時には、蓮子はこの狭い病室の世界でしか過ごせなくなっていた。
「……な、何を。何を言ってるの?」
喉の奥から絞り出すように言葉を紡ぐメリー。
次の瞬間にはベット上の蓮子に飛びかかっていた。
その胸倉をつかむ。
「何を言ってるの? 何を言ってるの!? ねぇ! 馬鹿なことを言わないで! 下手な冗談ほど腹が立つのはないわ! 嘘だと言ってよ! ……お願いだから」
「……ごめん」
蓮子は小さな声で謝った。
部屋の中に沈黙が包む。
その沈黙を破るように、小さな泣き声が上がった。
「……蓮子、貴女がいなくなったら。私、私は……どうしたらいいのよ。蓮子が病気になってから、私、なんだか自分が自分でいられないように感じるの。世界から消えてしまうような気がして、怖いの……お願いだから、嘘だと言ってよ」
「メリー……」
涙を零すメリーの頭を抱き寄せて、蓮子はじっとメリーの背中を見つめた。
まだ二人が『秘封倶楽部』の活動をしていた時から覚えていた感触。
メリーがどんどん離れていくのを。人間ではない何かに変わっていくのを蓮子は感じ取っていた。
そしてメリーが言ったように、自分が病気になってから蓮子はメリーを取り囲む『それ』が見えるようになっていた。
影。
ただ黒い影。
その奥からは無数の目が覗かせて蓮子を見つめていた。
不気味な影がメリーの体に纏わりつくように漂っていた。
メリーは気が付いていないようだった。
「……メリー。本当に貴女は泣き虫ね。『秘封倶楽部』の頃から心配な顔ばかりして」
「うるさい! だって、だって……」
蓮子の胸元で泣き続けるメリー。
そんな彼女に優しい声で話しかけた。
「でもね。そんなメリーのこと、私は好きだよ」
「え?」
泣きじゃくりながらメリーはゆっくり顔を上げる。
目の前の蓮子はにっこりと笑っていた。
だが、次の瞬間には蓮子の体は後ろへと倒れていく。
「れ、蓮子? 蓮子!!」
メリーは必死に蓮子の体を揺さぶる。
しかし蓮子は小さな笑みを浮かべたまま、目を閉じて返事をしない。
「誰か! 誰か来て! 蓮子が、蓮子を助けて! お願い……お願いだから誰か――」
その後、自分が何を言ったのかわからない。
メリーの意識がどんどん遠くなり、やがて視界も思考も、真っ暗な影が包んだ。
※
「――かり、ゆかり? おーい、紫!」
「……うーん?」
体をゆさゆさ揺らされて、紫が目を覚ますと目の前で霊夢が呼びかけていた。
「どうしたのよ? あんたがうちで昼寝してしまうなんて、珍しい」
「あら? ……私どれくらい寝てたのかしら?」
「まぁ、一時間ほどだけど」
「そう」
紫はそう言うと、視線を外へと移す。
幻想郷は春に包まれていた。
桜の木が花びらをまいていた。
博麗神社に遊びに来て、いつの間にか寝てしまっていたようだ。
「冬眠から目が覚めたばかりだから、まだ体がなまっているのかしらねぇ」
「まったく意外とのんきね。ところで……何か嫌な夢でも見たのかしら? なんだかうなされているようだったけど」
「そうなの? そうね」
紫は指を口元に当てて、今見たばかりの夢を思い出そうとする。
だが首を振って弱弱しく笑う。
「よくわからないわ」
「はぁ? 何それ?」
「思い出せそうで、思い出せないのよ……忘れちゃいけないことのはずだったのにね」
紫は肩をすくめてみせる。
その後でため息が一つ漏れた。
「ため息なんて吐いて……本当にどうしたのよ? 弱気になっちゃって」
「ふふ。霊夢、一ついいことを教えてあげるわ」
弱弱しい紫に調子が狂う霊夢。
そんな彼女に紫は寂しい笑みを浮かべて、話した。
――妖怪って、人間よりもずっと弱い者なのよ。
人間でいられなくなった者。
人間でいられることに耐え切れなくなった者。
その者は人間でなくなり、妖怪となる。
妖怪となれば人間以上の強い力を得る。
同時に多くのものを失う。
自分を――自分がどこで生まれ、どう生きてきたかその過去を失う。名前すらも。
そして、大切だった人の存在も失う。
思い出そうとしても、はっきりとしない彼女の顔の輪郭。その声も、名前も思い出すことができない。
長い長い、人間よりも数百倍の年月を経て、彼女は遠い遠い過去に消え去りそうだった。
「忘れたくない人だったはずなのにね。一体いつから彼女のことを忘れてしまっていたのかしら。それすら覚えてないわ」
「ふーん、紫にも意外と感傷的なところがあるのね」
話を聞いた霊夢は髪をくしゃくしゃに撫でながら紫を見つめる。
紫はじっと縁側の向こうに広がる幻想郷を眺めていた。
ふと、昔の事を思い出そうと努めたことがあった。
しかし、頭が上手く働いてくれない。
遠い昔、幽々子と出会った頃の事は覚えているのだけど。
彼女のことだけが頭に浮かんでこない。
幽々子よりも以前に知り合ったはずの彼女は、幽々子と出会った時よりも昔の人だったのかしら。
いくら頭の中を掻き出してきても、やはり浮かんでこない。
もう、いっそ忘れてしまおうか。
何度そう思ったか、紫はわからない。
だが、霊夢に話したのがいい機会。今度こそ忘れてしまおう。遠い遠い過去の中に捨てよう。
紫がそう決意を固めた時だ。
「でも、そんな紫のこと、私は好きかもね」
言葉を失った。
紫の思考が止まる。
目を丸くして霊夢に振り返ると、霊夢はにっこりと笑っていた。
そんな霊夢の顔に重なるように。
彼女は笑っていた。
傍で見せてくれた、紫が好きだった――メリーが好きだった笑顔を浮かべていた。
目の前で彼女の輪郭がはっきりとし出した。
彼女の声も。
彼女の名前も。
遠い過去から飛び出してきて、紫の目の前に突き付けられた。
「……蓮子」
か細い声で、彼女の名前を口にした。
大切な、大切だった人の名前を。
「ん? れんこ? 誰? まさかその人が紫の――って、紫!?」
霊夢が首を傾げて紫に寄ると、紫は霊夢の胸元に抱きついた。
頭を霊夢の胸に押し付ける。
「ちょっと! 本当にどうしちゃったのよ? 紫?」
「――がい」
「え?」
「お願い。しばらく、このままにさせて」
震える紫の言葉に霊夢は目を丸くした。
しかし、すぐにため息を一つ漏らしてから、紫の髪を優しく撫でた。
「後で賽銭を入れてよね」
「……ありがとう」
桜の花びらが博麗神社に舞った。
温かい春の空気が、静かに二人を包んだ。
やがて紫は霊夢の胸元で、小さな泣き声を上げた。
「ん? ……あぁ、メリー」
病室に入ってきたメリーの姿を見て、ベット上の蓮子は上半身を起こして笑いかけた。
メリーの手には様々な色をした花束が握られていた。
笑顔で返しながらメリーは花瓶を手にして病室内に設置された洗面台へと向かう。
「綺麗な花だね。ありがとう、メリー」
「いいのよ。ところで蓮子。体は大丈夫?」
メリーが花瓶に新鮮な水を入れて、再び蓮子に話しかけた。
しかし、蓮子は何も答えない。
小さな笑みを浮かべたまま、視線を窓の外へ移す。
年末の京都の町には粉雪が降り注いでいた。
「……蓮子」
活け直した花瓶を手にして、蓮子の元に戻る。
その顔が一瞬、真顔になる。
が、すぐに笑顔を浮かべ直すと明るく蓮子に話しかけた。
「そうそう、蓮子。家の中を整理していたらこんなのが出てきたの」
そう言うと、愛用の小さなカバンから一枚の写真を取り出す。
蓮子がようやくメリーに向いて、差し出された写真を受け取ると、そこには十年も前――二人が大学生の頃、『秘封倶楽部』の活動をしていた時の写真だ。
写真の中の二人は、乗り物の中にいた。
偶然乗り合わせた客にお願いして撮ってもらった、ツーショット。
肩を並べて、笑顔を浮かべていた。
「うわぁ……懐かしい。たしかヒロシゲで撮ったやつだ」
「そうそう。初めての東京。楽しかったわ。ヒロシゲの中は退屈だったけど」
くすくす笑いながらメリーも写真の中の二人を覗き込む。
互いの頭を寄せて写真を眺めていた二人だったが、ふと蓮子がメリーの顔を見つめた。
「ねぇ、メリー。さっき家の中を整理したって言ってたけど、引っ越しでもするの?」
「ええ、そうなの! 今度、この近くに引っ越しをするつもりよ。そしたらもっと蓮子のお見舞いに来れるから」
胸を張って笑うメリーに、蓮子の顔からまた笑みが消えて暗い顔つきになる。そして視線を逸らせた。写真が蓮子の膝元に落ちる。
「早く蓮子の病気が治るように私、これからも応援し続けるから。ね、早くよくなって、また二人で旅行に行きましょうよ……蓮子?」
口早く次から次へと蓮子に話しかけるメリー。
だが蓮子は何も答えない。
メリーの顔もだんだん真顔になる。
「……なんでそんな顔をするの? ねぇ、蓮子!」
詰問するように鋭い声を荒げる。
蓮子はゆっくりと振り返ると、小さく笑った。
「メリー……もう、ダメなんだって。医者に言われたんだ。来年の桜が咲く前には、もう……」
その告白にメリーは目を丸くした。
言葉が出なかった。
蓮子が病気にかかったのは二年前の事だ。
最初は大したことないと、二人して楽観視していたが、やがて蓮子の病状は重くなっていった。
医者からここ数年で新たに発見された難病の一つにかかっていると宣告された時には、蓮子はこの狭い病室の世界でしか過ごせなくなっていた。
「……な、何を。何を言ってるの?」
喉の奥から絞り出すように言葉を紡ぐメリー。
次の瞬間にはベット上の蓮子に飛びかかっていた。
その胸倉をつかむ。
「何を言ってるの? 何を言ってるの!? ねぇ! 馬鹿なことを言わないで! 下手な冗談ほど腹が立つのはないわ! 嘘だと言ってよ! ……お願いだから」
「……ごめん」
蓮子は小さな声で謝った。
部屋の中に沈黙が包む。
その沈黙を破るように、小さな泣き声が上がった。
「……蓮子、貴女がいなくなったら。私、私は……どうしたらいいのよ。蓮子が病気になってから、私、なんだか自分が自分でいられないように感じるの。世界から消えてしまうような気がして、怖いの……お願いだから、嘘だと言ってよ」
「メリー……」
涙を零すメリーの頭を抱き寄せて、蓮子はじっとメリーの背中を見つめた。
まだ二人が『秘封倶楽部』の活動をしていた時から覚えていた感触。
メリーがどんどん離れていくのを。人間ではない何かに変わっていくのを蓮子は感じ取っていた。
そしてメリーが言ったように、自分が病気になってから蓮子はメリーを取り囲む『それ』が見えるようになっていた。
影。
ただ黒い影。
その奥からは無数の目が覗かせて蓮子を見つめていた。
不気味な影がメリーの体に纏わりつくように漂っていた。
メリーは気が付いていないようだった。
「……メリー。本当に貴女は泣き虫ね。『秘封倶楽部』の頃から心配な顔ばかりして」
「うるさい! だって、だって……」
蓮子の胸元で泣き続けるメリー。
そんな彼女に優しい声で話しかけた。
「でもね。そんなメリーのこと、私は好きだよ」
「え?」
泣きじゃくりながらメリーはゆっくり顔を上げる。
目の前の蓮子はにっこりと笑っていた。
だが、次の瞬間には蓮子の体は後ろへと倒れていく。
「れ、蓮子? 蓮子!!」
メリーは必死に蓮子の体を揺さぶる。
しかし蓮子は小さな笑みを浮かべたまま、目を閉じて返事をしない。
「誰か! 誰か来て! 蓮子が、蓮子を助けて! お願い……お願いだから誰か――」
その後、自分が何を言ったのかわからない。
メリーの意識がどんどん遠くなり、やがて視界も思考も、真っ暗な影が包んだ。
※
「――かり、ゆかり? おーい、紫!」
「……うーん?」
体をゆさゆさ揺らされて、紫が目を覚ますと目の前で霊夢が呼びかけていた。
「どうしたのよ? あんたがうちで昼寝してしまうなんて、珍しい」
「あら? ……私どれくらい寝てたのかしら?」
「まぁ、一時間ほどだけど」
「そう」
紫はそう言うと、視線を外へと移す。
幻想郷は春に包まれていた。
桜の木が花びらをまいていた。
博麗神社に遊びに来て、いつの間にか寝てしまっていたようだ。
「冬眠から目が覚めたばかりだから、まだ体がなまっているのかしらねぇ」
「まったく意外とのんきね。ところで……何か嫌な夢でも見たのかしら? なんだかうなされているようだったけど」
「そうなの? そうね」
紫は指を口元に当てて、今見たばかりの夢を思い出そうとする。
だが首を振って弱弱しく笑う。
「よくわからないわ」
「はぁ? 何それ?」
「思い出せそうで、思い出せないのよ……忘れちゃいけないことのはずだったのにね」
紫は肩をすくめてみせる。
その後でため息が一つ漏れた。
「ため息なんて吐いて……本当にどうしたのよ? 弱気になっちゃって」
「ふふ。霊夢、一ついいことを教えてあげるわ」
弱弱しい紫に調子が狂う霊夢。
そんな彼女に紫は寂しい笑みを浮かべて、話した。
――妖怪って、人間よりもずっと弱い者なのよ。
人間でいられなくなった者。
人間でいられることに耐え切れなくなった者。
その者は人間でなくなり、妖怪となる。
妖怪となれば人間以上の強い力を得る。
同時に多くのものを失う。
自分を――自分がどこで生まれ、どう生きてきたかその過去を失う。名前すらも。
そして、大切だった人の存在も失う。
思い出そうとしても、はっきりとしない彼女の顔の輪郭。その声も、名前も思い出すことができない。
長い長い、人間よりも数百倍の年月を経て、彼女は遠い遠い過去に消え去りそうだった。
「忘れたくない人だったはずなのにね。一体いつから彼女のことを忘れてしまっていたのかしら。それすら覚えてないわ」
「ふーん、紫にも意外と感傷的なところがあるのね」
話を聞いた霊夢は髪をくしゃくしゃに撫でながら紫を見つめる。
紫はじっと縁側の向こうに広がる幻想郷を眺めていた。
ふと、昔の事を思い出そうと努めたことがあった。
しかし、頭が上手く働いてくれない。
遠い昔、幽々子と出会った頃の事は覚えているのだけど。
彼女のことだけが頭に浮かんでこない。
幽々子よりも以前に知り合ったはずの彼女は、幽々子と出会った時よりも昔の人だったのかしら。
いくら頭の中を掻き出してきても、やはり浮かんでこない。
もう、いっそ忘れてしまおうか。
何度そう思ったか、紫はわからない。
だが、霊夢に話したのがいい機会。今度こそ忘れてしまおう。遠い遠い過去の中に捨てよう。
紫がそう決意を固めた時だ。
「でも、そんな紫のこと、私は好きかもね」
言葉を失った。
紫の思考が止まる。
目を丸くして霊夢に振り返ると、霊夢はにっこりと笑っていた。
そんな霊夢の顔に重なるように。
彼女は笑っていた。
傍で見せてくれた、紫が好きだった――メリーが好きだった笑顔を浮かべていた。
目の前で彼女の輪郭がはっきりとし出した。
彼女の声も。
彼女の名前も。
遠い過去から飛び出してきて、紫の目の前に突き付けられた。
「……蓮子」
か細い声で、彼女の名前を口にした。
大切な、大切だった人の名前を。
「ん? れんこ? 誰? まさかその人が紫の――って、紫!?」
霊夢が首を傾げて紫に寄ると、紫は霊夢の胸元に抱きついた。
頭を霊夢の胸に押し付ける。
「ちょっと! 本当にどうしちゃったのよ? 紫?」
「――がい」
「え?」
「お願い。しばらく、このままにさせて」
震える紫の言葉に霊夢は目を丸くした。
しかし、すぐにため息を一つ漏らしてから、紫の髪を優しく撫でた。
「後で賽銭を入れてよね」
「……ありがとう」
桜の花びらが博麗神社に舞った。
温かい春の空気が、静かに二人を包んだ。
やがて紫は霊夢の胸元で、小さな泣き声を上げた。
良いお話でした