博麗神社社務所の屋根をぶち抜いて座敷にそそり立った巨大な黒い柱は、さてどうしたらよいやらと所在なさげに目を動かしていた。
が、ふと己がまだ大事なことを告げていない点に気がついたのだろう。おもむろに口を開いた。
「クジラです」
霊夢は返事を返さなかった。いや、焼き魚を咥えていたために返事を返せなかったのである。
「もうすぐ死にます」
「あっそ」
咥えていた鮎の塩焼きをもぐもぐごっくんしてからの霊夢の返事は実に素っ気なかった。
致し方ない話だ。
驚異的な巫女の勘によって左手で茶碗を、右手で味噌汁を、口で焼き魚をあらかじめ回収できていたとはいえである。誰だって朝食の最中、いきなりちゃぶ台ごと朝食をズドンとぶっ潰されれば腹が立つものだ。
「なぜ死ぬのか、疑問に思ったりはしませんか?」
「興味ないもの」
ずずり、と霊夢は味噌汁を啜った。
まずはクジラよりも朝食だ。朝食は一日を乗り切るエネルギーを取り込むために欠かせないものである。
朝食を取った妹紅は朝食を取らなかった妹紅よりも輝夜をパゼストで焼き殺せる確率が二割もアップするのはもんぺ科学省の発表からも明らかである。朝食を抜いてよい道理はない。
もっとも早苗さんなどは何やかやと理由をつけてやれ朝食を抜いたりおやつを残念そうな顔で遠慮したりしているが、正直どうしてそんな馬鹿な事をするのか霊夢にはまったく理解できなかった。
「あ、今日の味噌汁おいしいわ」なんて自画自賛した後にお椀を畳の上に置き、転がっていた箸を手にとってふっくらつやつやに米が立ったご飯を口に運ぶ。
ほかほかご飯とお味噌汁。おかずが欲しいところであるが、残念なことにおかずだった鮎の塩焼きは最初に一口で処分してしまったのでもうない。他のおかずは今やクジラの頭の下だ。全てはクジラのせいである。
「私のおかずを返しなさいよ」
「では鯨肉などいかがでしょうか?」
「あのね、」
霊夢は苛立たしげに目の前の黒い壁を箸で突っついた。
「私は暇人じゃないの。朝食を食べたいって時に、『焼き魚ってどこから? 捕獲から始めるの?』なんてやってらんないのよ」
「いえ、もう目の前にいるので捕鯨の段階はとばしてもよいと思います。そろそろ死にますし」
「……なんで死ぬの?」
いよいよ霊夢は疑問を口にした。空気を読んだのではない。自分のためだけに生きているこの巫女はそんな事をしたりしない。
単純にここでクジラが死んだらこの、視界に収まりきらないほどに巨大な死体を処分するのは己であると、そう気がついただけの話である。
「自重で、内臓が今にも潰れそうでして」
「あんた、アメリカ人なの?」
「なぜでしょうか?」
「アメリカ人は太りすぎで死ぬんだって。早苗がそう言ってた」
「私は断固ああなったりはしません!」と語る早苗の顔がなぜああも悲痛だったのか、霊夢にはよく分からない。
なにせ早苗は髪が緑色であることを除けば日本人であり、アメリカ人でない事は疑いあるまいである。なぜそんな心配をするのだろうか? 霊夢にはよく分からない。
「会話が成り立たない、と言われることはありませんか?」
「結構言われるわ。早苗とかよく怒るし。私、何か足りないのかな?」
「コミュニケーション能力が足りないと思います」
まったく持ってその通りであるが、ここで霊夢を責めるのは酷というものだ。何せ霊夢は神社で一人成長し、早苗さんはJC with ケータイという地獄の如き戦場を周囲と上手く同調することで何とか生き延びてきた学生戦士である。だから早苗さんが「霊夢さんも体重、気になりますよね?」と口にしたとき、「別に? そうそう増減するものでもないし」なんて相手の胸を抉る返事をしてしまうのである。嘘でも「わかるわー」なんて返す女性特有の共感コミュニケーションが霊夢にはできないのだ。別に早苗さんの胸を抉ってやりたいからそう口にしているのではない。まったく他人と合わせることを知らない霊夢が早苗さんを怒らせてしまうのは致し方ないことなのだ。
もっともこれらは物語の本筋とはまったく関係ない話であるが。
「水生生物なので、陸上では自重に耐えられないのです」
なんと、クジラが話の筋を元に戻してくれた。
何せクジラのコミュニケーション能力は……と、クジラの歌について語り出すとまた話が長くなるのでここでは割愛する。
「ふぅん」
霊夢はしげしげとクジラを眺めた。
今頃興味を持った――わけではなく、ただ単純に朝食を今食べ終わり、そちらに意識を向ける余裕ができただけの話である。
「じゃあ、水中に戻ればいいわけだ」
「なのですが、どうにも移動ができないものでして。気付いたら空にいて、そのまま落下してここです。お家を破壊してしまい申し訳ありませんでした」
「ふぅん」
霊夢は僅かに感心した。きちんと謝罪ができる存在は幻想郷では稀有な善人である。
幻想郷の連中はまるで、弾幕ごっこで敗れるよりも謝罪することのほうがある意味負けだ、私の心が死ぬのだと言わんばかりにとにかく謝らないのである。
きちんと謝罪できる相手には恩を売っておいて損はないだろう。
お茶碗を手に台所へと戻り、それを水桶に漬けて帰ってきた霊夢はおもむろに縁側から空へ飛び立つと、社務所から生えている巨体の尾びれを掴んで、ひょいと引っこ抜いた。
「おお?」
と、書くとさも霊夢が怪力を発揮したように感じるがなんてことはない。ただ自身の能力で「宙に浮かせた」だけの話である。だからここで調子に乗って、
「おっ、さすが鬼巫女様だ! 外見だけじゃなくて腕力まで鬼じみてやがるぜ!」
なんてぬかすと可哀想な目にあうのでオススメはしない。相手が親友だろうがゴリラだろうが関係無い。平然と敵のレバーに全力の拳をねじ込めるのが我らが博麗の巫女である。
さてそんな霊夢は引っこ抜いた巨大なクジラの胴体を右手の平に軽々と乗せると、それをおもむろに投擲し、
「さ、行くわよ。でかぶつ」
「かしこまりました」
一直線に空を飛ぶクジラの上にひょいと亜空穴でワープし、その巨体の後頭部にすたりと着地して悠然と空を往くのであった。
真っ向クジラ ――あなたの頭の中にあるメロン――
雲ひとつない――という出だしが使えれば楽だったのだが生憎雲量は三、北よりの風四メートル。もはや身を切るほどの冷たさを孕んだ霜月の空。
まあ一言で言えば普通の秋晴れである幻想郷の空を巫女が往く。
今日の随伴は天狗でも鬼でもない。全長二十mを超えるほどの黒い巨体を持つ、ええと……
「マッコウクジラです」
ええと、いわゆる幻想入りを果したマッコウクジラである。
「名前はまだありません」
雲海を掻き分けてマッコウクジラが進む。違和感はない。ないところがなんと言うか、まぁ、幻想郷らしいと言うかなんと言うか。
「ご主人様にはこの度危ないところをお助けいただきまして、なんとお礼を言ったらよいか」
今やマッコウクジラの体内も無重力。自重による圧死を回避できたマッコウクジラは恭しく目を伏せた。
「ま、新入りの誘導も仕事の内だし、別にいいわ。……ご主人様はやめなさい」
「ふむ、では博麗様と」
「ん? 私の名前知ってるんだ?」
「ええと、神社に自由落下する途中に『この下博麗神社』という札を掲げて微笑む金髪の婦人とすれ違いまして」
「あのスキマめ……気付いてたんなら何とかしろっつの」
「お友達か何かですか?」
霊夢はクジラの上で胡座をかいた。忌々しげに頬杖をつく。
「近所の口うるさいオバサンよ。言うこと聞いてると面倒に巻き込まれるの」
「オバサンと言ってしまうのは失礼ではないかと」
「……あんた、オスね」
「分かりますか?」
「まぁね」
当然である。少女からすれば三十歳を過ぎた生物は一切の例外なくオッサンだしオバサンだ。そう残酷に言い切れるのが少女の資格でもある。
「それにメスだったらあんた、少女の姿になってるはずだし」
「その……仰る意味がよくわかりませんが」
無論、霊夢にもよくわからない。だがそれが幻想郷の自然法則である。法則に対して疑問を投げ掛けるのは時間の無駄だ。
誰だって弁々が美脚であることを疑ったりはしないだろう。それと同じことだ。
「しかし、クジラか。クジラって初めて見たわ」
「そうなのですか?」
「幻想郷には海が無いから」
「ふむ……でもクジラ自体は知っているのですね」
「妖怪を除いて一番大きい動物は何か、って話してたときに早苗が笑顔で語ってくれたわ」
無論、当然のようにそのあと早苗さんのレバーには霊夢の拳がめり込んだのだが。
早苗さんもそろそろ外の世界を語るときのドヤ顔を改めないと命に関わると気付いてもよい頃ではないだろうか。
「ああ、でもクジラの外見を聞きそびれてたわ。……あんた、本当にクジラなの?」
「信じてホエール――あっ、痛い」
無言で霊夢が拳をクジラ? の背中に降り下ろすと、途端にクジラ? が苦痛にあえぐかのように尾びれをバタバタと忙しなく動かし始めた。
別に霊夢さんのパンチ力が凄かったわけではない。一時的にクジラ? 内の無重力が解除されただけの話である。
「あんた、私を馬鹿にしてるわけ?」
「ちょっとクジラっぽく振舞ってみただけホエール――すみません冗談です」
背中の霊夢さんが拳を振り上げたのを看過したクジラ? は大人しく矛を収めた。霊夢さんの威圧感を肌で感じたわけだが、こういうとき、
「流石は霊夢、抜かずの刀で争いを収めるとは。私はまだまだ修行が足らないか」
なんて庭師みたいな真面目一徹真剣そのものの言葉を放たれると、霊夢さんとしてもレバーを抉るべきか否か困ってしまうため口にしてはいけない。
「……語尾にだぜだぜつければ魔理沙になれるわけじゃないし、あたいって呼称すればチルノになれるわけじゃないのよ」
「小町さんかもしれませんしね」
「あれ、小町知ってるんだ」
「ええ。神社にいるときにちょっと三途の川を渡りかけましたので」
「よかったわね、帰ってこれて」
「博麗様のおかげです」
すんと霊夢は鼻を鳴らした。
基本、神社で一人暮らし。妖怪退治で報酬を得ている身としては、報酬無しの感謝には照れる以前にどう対応していいか本気で分からないのである。
「まあ、なんで海が無いから湖に向かうんだけど、大丈夫? 淡水」
「そこらへんは何とかします。これ以上博麗様にご迷惑をかけられませぬゆえ」
何とかなるなら自重も何とかしなさいよ、と霊夢としては思うのであるが。
まぁ欲をかきすぎると人間、自滅するものである。霊夢は押し黙った。
「ホエール」
クジラが幻想郷の空を往く。その様はいっそ悠然として翳りなく、まるで此処こそが我が往くべき大海と言わんばかりに初めての風の海を泳ぎ往く。
それもまたむべなるかな。クジラは当然のように理解していたのである。
彼がその背に乗せるは幻想郷の王。王をその背に背負いて往く身は華燭にして堂々たらねばならぬ。
なればこそ、
「嵐ですね」
眼前に迫る、よもや龍の巣かとばかりにとぐろを巻いた積乱雲を両者は傲然と睨みつける。
「自然の物じゃないわね。あれは強大な魔力が大気に干渉したマジックストーム……」
「ええと、その様なその……中二っぽい台詞を真顔で口にするのは恥ずかしくないでしょうか」
「うっさい! 私の台詞じゃないわよ!!」
赤面して歯ぎしりする霊夢をよそに、クジラは猛然と気勢を上げて加速し、雲の中へと突撃する。
さあ、敵の実力がいかなるものでも関係ない。王に後退はない。蹂躙し、前へ前へと進むのみだ。
◆
「くっ、やるわね!」「お見事、完敗よ!」
嵐は去った。
道中に弾幕勝負を挑んできた、九十九姉妹との勝負は何とかクジラの勝利に終わった。
王が歩む錦に泥はぬれぬ。故の奮戦、奥義を尽くしての勝利を得たわけであるが、
「あ、終わったの?」
その背で大あくびをして身を起こした霊夢からすればそんなことはどうでもよい話だった。
「勝負は弾幕ごっこで、って。私そう言わなかったっけ?」
そもそも眼前では唯一つの弾も放たれることなく三十分、空中で制止しエア琵琶&エアお琴。
その後に一方的に敗北を認めて去っていった九十九姉妹を前に霊夢はどないせいっちゅーのだ。
「はい、なので弾幕で制しました。手ごわい相手でしたが」
「何が弾幕よ。私には何も見えなかったわよ?」
「はい、私にも見えてはおりませぬ。もともとよくは見えぬのです」
はて? と、首を傾げる霊夢に、
「眼球の位置がこんななので立体視が苦手なのです。相手様がそれを察知してくれての、故に『音』での勝負でした」
「……私には何も聞こえなかったわ」
「それは失礼いたしました。可聴域を超えていたのですね」
フン、と不快げに眉をひそめた霊夢ではあったが、それ以上の非難を口にはしなかった。
弾幕ごっこは相互の間で共通の認識が及ぶのならば、別に不可視でも勝負は成立するのだ。
他者同士の弾幕ごっこの取り決めに難癖つける権利は霊夢にはない。美しく、死者の出ない勝負ならそれでいいのだ。
「と、するとあんたもなんか楽器、持ってるわけ?」
「ええ、頭の中に内蔵されております」
「へぇ、どんな楽器なの?」
「メロンです」
一瞬、霊夢は自分の耳が腐ったのかと思った。
「え?」
「ですから、メロンです」
「メロンか……」
「はい」
霊夢は一生懸命想像した。狭い世界で生きてきた小娘なりに一生懸命想像した。
例えばあのマスクメロンの表面を覆うネットを弓でそっとこすったりだとか。
はたまた大きさの違うメロンを並べ、それを撥で叩いて音の違いを楽しむのだとか。
もしくは乾燥させて中をくりぬいたメロンに同じく乾燥させたメロンの種を詰め込んでマラカスのように使うのだとか。
どのような音がするのだろう。無論メロンのような音がするのだろう。
何とかメロンが発する音を想像しようと知恵を捻ってみても、頭の中に響くのは「メロンメローン!」などというわけの分からない音で、しかも次第にメロンが食べたくなってきた霊夢は考えるのをやめた。今はメロンの旬ではない。望んでもメロンは手に入らないのである。霊夢にメロンが発する音が聞き取れなかったのは嘆くべきことではなく、むしろ幸運だったのだ。
「ホエール」
一つ頷いた霊夢は雲海の中でたなびく前髪をそっと掻き分けて、ふっと小さく笑った。
「世界は広いわね」
「はい、広い世界には色々な生物がたくさんおります」
その通り。
だが、幻想郷は狭いのである。
◆
「ひゃっはーまたドリルが来たぜぇ! 稼ぎ時だ!」
クジラの頭部から発射されたるドリル、その正面に踊り出た魔理沙は実に嬉々とした面持ちでドリルにミサイルを叩き込み始める。
やはりと言うかなんと言うか、空を往くクジラは魔理沙に捕捉された。
どうせ来るだろう、と霊夢は思っていたのだ。なんだかんだで魔理沙は鼻がよくきく。
霊夢が異変解決に飛び立つと、なんだかんだでいつの間にか隣にいるような奴なのだ。
ましてやメロンである。鼻のきく魔理沙がこれを無視するはずもあるまい。
「まだ落とせないの?」
「すみません。彼女、とんでもなく順応性が高いようで」
第一回戦はクジラの圧勝だった。
今度は見える形での弾幕ごっこにしろ、という霊夢の声に応えたクジラの火力は圧倒的だった。
全身に備えたホーミングミサイル発射管。頭部、背部、腹部のレーザー砲塔、前頭部のドリルミサイルと尾部砲塔からのホーミングレーザー。
さらには口腔内から発艦するくじら12号からくじら12号までの全十二機のイルカ型スレイブによる組織的な砲撃は、モノの数秒で魔理沙を撃墜してのけたのだ。
「そっちが二人だから二回だ!」
だが魔理沙はこういう負けず嫌いでしつこい女なのである。
二度目の魔理沙は相手の挙動をよく観察していて実にしぶとかった。
そしてドリルミサイルを迎撃するとボーナスが入ることに気がついた魔理沙はそのまま稼ぎモードに移行した。
加えて弾幕ごっこ初心者だったクジラが弾幕に制限時間を設定するのを忘れたのが何よりもいけなった。
クジラの頭の中からは今も延々と魔理沙を落とすためのドリルが湧いて出てきている。
「なんなの、これ」
霊夢はそろそろ限界だった。霊夢は少女だったので、頭にドリルを装備するというロマンを解しなかったのだ。
ましてやメロンである。クジラの頭の中にはメロンとドリルが内蔵されているのだ。
それでも霊夢は何とか現状を理解しようと想像の翼を羽ばたかせる。
そんな霊夢の頭の中では魔理沙が狂ったような雄叫びを上げてメロンをドリルで延々と貫いていた。
悪夢のような光景である。何をやるにしたって理由というものが欲しいものだが、そんな光景のどこに理由があるというのだ。
魔理沙、何であんたはそんな楽しげにメロンに穴を開けているの?
「ホエール」
メロンである。なるほど、霊夢は唐突に理解した。
つまり魔理沙はたわわに実ったメロンが許せないのだ。だからドリルで貫くのだ。魔理沙は貧乳である。
魔理沙がドリルで穣子の胸を突き、小町の胸を突き、そして幽々子の胸を突きに行って逆に返り討ちにあったところで霊夢は目を覚ました。
夢だったのだ。酷い悪夢である。
「ひゃっはーまたドリルが来たぜぇ! 稼ぎ時だ!」
そしてこちらはまだ現実であった。
◆
霊夢は亜空穴を開いて博麗神社社務所とクジラの背中を繋げると、おゆはんの準備を始めた。
今日の夕飯はメロンにしようと思う。生ハムとメロンだ。
「紫」「はいはい」
メロンが出てきた。生ハムも出てきた。
粛々と包丁で八等分して種を取り除いたメロンに生ハムを載せていてふと、霊夢は気がついた。
おかしい、何かがおかしい。なんでメロンに生ハムを自分は載せているのだろう。どう考えたって合わないだろうに。絶対別々に食べたほうがおいしい。
「日本のメロンは甘いですから。致し方ありませんわ」
なら載せる前に言えこのスキマ妖怪。やはりこいつは役に立たぬ。
霊夢は紫を追い払った。紫が食材をただで提供してくれたことには気がついていたが、それに対する感謝の念など微塵も存在しなかった。家族に一々感謝はしない。
微妙な味わいの夕食を終えた霊夢はクジラの上にお布団を敷くと、ゴロンと横になって毛布に包まった。
霊夢に風呂は必要ない。トイレも必要ない。
アイドルだからではない。ありとあらゆるものから浮ける霊夢は、排泄物や老廃物といったものからも当然のように開放されている。
だから霊夢がかく汗はただの水であり、そういった意味ではフェロモンのような香りすなわち霊夢の香りというものは存在しない。彼女は二色透明なのだ。
じゃあいっそのこと汗からも浮いてしまえばいいと普通の人間は思うのだろうが、霊夢はそうは思わない。少女は美しい汗をかくものだと、そう信じている。
さてそんな霊夢は普段は風呂に入る。当然、これも不要な行為ではない。霊夢が風呂に入るのは、あくまで霊夢の信者のためのいわゆるファンサービスである。
だが霊夢は己の入浴を覗いたやつを消すだろう。それを誰もが肌で感じているから、誰も霊夢の入浴を覗こうとしない。
そして誰も風呂を覗きに来ないであろうことを肌で感じ取っている霊夢はゆえにこう思うのである。
「私には女としての魅力がないのかな」
霊夢の頭の中にある湯船にはメロンが浮いていた。メロンは豊かさの象徴である。
メロンは早苗の顔をしていた。
霊夢は寝ることにした。疲れているのである。
「ホエール」
弾幕ごっこは未だ続いている。
◆
まぶたの向こうに朝日を感じて目が覚めたとき、魔理沙は既に沈んでいた。欲をかきすぎたのである。
愚かな。落ちてしまえば全てはゼロだというに。貧乏な魔理沙のコインはいつだっていっこしかない。
「おはようございます」
「おはよう、お疲れさま」
「申し訳ありません、時間がかかってしまいまして」
いいわ、と応えた霊夢は伸びをして布団を亜空穴の向こうにしまい、朝日を浴びながら「あーたーらしーいーあーさがきた」クジラの歌に合わせてラジオ体操を始めた。無論、第二までキチンとである。
ラジオ体操第二のあのポーズと言えば諸賢にはお分かりいただけるであろう。クジラの上であのポーズを取っている霊夢を偶然目撃した二羽の鴉天狗の行動は綺麗に分かれた。
一方はピントを合わせ、シャッターを切ろうとしたところで手がガタガタ震えだして写真を撮れなかった。もう一方はそんな臆病者の横でキャラキャラ笑いながら撮影キーを押下した。
この選択がどういう結果をもたらしたかは、後日文々。新聞がいつもの笑顔と共にバラ撒かれていたのに対し、花果子念報を配るその天狗の顔はまるで何かの影に怯えているかのように恐怖に歪んでいたことから明らかであろう。どうでもよいことであるが。
「霧の湖と山の湖、二つあるんだけどどっちがいい?」
クジラは即答した。
「ハーレムを形成したいので、女性が多いほうを」
無論クジラがハーレムを所望するのは、あくまでそれがクジラの生態だからであってオリキャラだからではない。
「どっちにも結構いるわ。可愛いやつらが」
悩んだ末に、霊夢は霧の湖を選択した。決め手となったのはその周囲に住まう者たちの変人度数だった。
腋にメロンを抱えてドリルを構える早苗の姿はどこか狂気じみていて薄ら寒く、霊夢にはまるで爆弾の起爆スイッチを手にした三歳児めいて見えた。その一方でメロン片手にドリルを構える咲夜はいつもとなんらイメージが異ならなかったからである。
もっともドリルを構える姿に奇異を見るほうと、違和感が全く無いほう。どちらが健全かは諸賢の間でも意見が分かれるだろうが。
◆
クジラは快晴の空を泳ぐ。
いっそ悠然としたその態度はまるで、これまでもずっとこうであったかのように幻想郷の空に溶けこんでいた。
道中、簡単に幻想郷についてを説明していた霊夢だったが、ふと自分が大事な話を聞いていなかったことに気がついた。
「あんたさ」
「はい」
「なんでここに来たの」
クジラはすっと目を眇めた。
「ホエール」
そうやって一声啼いたのち、クジラはそっと口を開いた。
「外の世界には、クジラは必要ないのです」
「そうなの?」
「ええ」
クジラは嘆息した。メロンで嘆息の意を霊夢の耳から逸らしたのはクジラの気遣いである。
「かつて人とクジラは対立していました。クジラが人が生きるために必要だったからです」
「そうなの?」
「骨は日用品の作製に、肉は食用、油をオイルに用い、髭は工芸品の材料と、余すところなく使えるのです」
「メロンは食用よね?」
「お勧めはしません。機械油や蝋燭として用いたり、また皮革原料として用いるのが一般的です」
霊夢は混乱の極みに達した。メロンを燃やしたり、メロンの皮を皮として用いる方法がよく分からないのだ。
一応、メロンレザーのジャケットを羽織った早苗の姿などを想像してみたりもしたが、ハッキリ言ってただの宇宙怪人だった。しかもこれがよく燃えるのだと言う。
霊夢は燃え上がる早苗を見た。燃え上がる早苗の表情は霊夢のあまりにも貧相な想像力に呆れているように見えた。
仕方ないじゃない。そう霊夢は思う。
仕方ないじゃない、私はあんたと違ってちゃんとした教育を受けてないんだから。
「ちなみにイチモツの皮は最高級皮革原料として、ゴルフバッグや椅子になったりします」
「……いい趣味してるわ」
哀れだな、と霊夢は思った。クジラがではない。人間がである。
クジラの皮は高級品としてありがたがられるのに、人間の皮は存在していると馬鹿にされるのだ。これ以上哀れな話もあるまい。
「なのでもしどこかで見かけたら、『これはまた立派なモノをお持ちで』と声をかけてやってください」
「オヤジギャグね」
「すみません」
ギャグは不発に終わった。
クジラは寒くなった空気を振り払うかのように一声啼いた。
「ホエール」
それでもやはり空は寒い。霜月なのである。
「外の人間にはもうクジラは必要ないの?」
「もっと便利で、高性能で、安価な素材が次々と用意されましたから」
ふぅん。と霊夢は首をかしげた。
ならばクジラは人間に狩られなくなったということではないか。それはよい事であるはずなのに、どこかしらクジラが不満そうに見えるのである。
「クジラは便利な道具に成り下がったのです」
「最初から道具だったんでしょ?」
「命がけで戦った結果、道具の部品となることは致し方ない。我々も狩猟者の船を転覆させて狩猟者を海の藻屑に変えます。死体は他の魚の餌になるでしょう」
ごう、と何かを訴えるかのようにクジラが尾びれで空を切った。
「クジラの存在そのものが道具となったのです。クジラを保護し、見学しよう。ホエールウォッチングなどと。そんな言葉自体が不遜です。そうは思いませんか?」
「わかんないわ。幻想郷の人間も妖怪に保護される側だけど……まぁ、観察なんかされたら嫌よね」
「外ではクジラの生存を支援することが、あたかも善行のように支持されるのです。そんな彼らの生活にクジラはこれっぽっちも関与してないのですが、クジラ保護を訴えると讚美されるゆえ」
「へぇ」
「逆もまた然りです。クジラを必要としていないのに、ただクジラを狩ることが支持される。クジラから得るものなんて、もう殆どないはずなのですが」
クジラは淡々と、その内にある感情を無理矢理隠すかのように語る。
だがなんとなく、霊夢にはクジラの想いが理解できるような気がした。
仮に人間がクジラと出合ったとて。相対するのはクジラではなくて、その先にある人間なのだ。
クジラを狩るという行為がクジラを得たいと願う感情に端を発してないということに気がついたクジラの、その尊厳たるや。
「正確には私はマッコウクジラではないのでしょう。野生のクジラという概念が、多分私なのです」
「野生のクジラ、か」
己の名誉欲を満たすためにクジラの生存を支持する。クジラ生存を訴えれば博愛主義者として絶賛される。他の獣や家畜の死はどうでもいいくせに。
己の名誉が汚されることを防ぐために、クジラ狩猟を支持する。ちっぽけなプライドを守るためにクジラを狩る。他の獣や家畜を食って生きていけるくせに。鯨肉なんて食わないくせに。
真に生きるためにクジラを欲している人間なんて最早僅かばかり。
そう。外界は鬼を駆逐した時と同様に、クジラという存在をほぼ駆逐してしまったのだ。
野生のクジラと純粋に呼べる存在なんて、外界にはほとんど残ってはいない。地球規模でクジラは人類の支配下に置かれたのだ。
◆
二日に及んだ飛行の後、クジラが――否、霊夢がぐんぐんと高度を下げ始めた。
目的の場所、夕日に照らされた霧の湖はもう霊夢たちの眼前に広がっている。
胸びれを広げて空気抵抗を確保、霊夢のぞんざいな重力制御をフォローするかのように展開されたそれが風を受け止めて、制動。そして着水。
圧倒的質量と体積のクジラ進水に、霧の湖は一転して狂乱に包まれた。
慌てふためく妖精たち、すわ何事かと一斉に湖から顔を出すわかさぎびとの群れ、動転した隙を突かれて美鈴に一本釣りされた巨大ナマズ。
変革のときだ。霧の湖の歴史は変わる。湖の主はこれで世代交代となるだろう。幻想郷はクジラという存在を受け入れたのだ。
「ホエール」
雄叫びと共に潮が吹き上げられる。
その黒い巨体はただただ雄雄しく、その佇まいは我こそが海の王者であると言わんばかりの覇気に満ち溢れていて、荘厳である。
『ホエール!』
わかさぎびとたちがクジラに唱和した。
なぜかはわからない。だが彼ら彼女らは正しく、ただただ正しくそうせねばならないと魂で――ヒレでかもしれないが――理解したのだ。
我らが新たなる王に祝福あれ。
『ホエール!!!』
妖精たちもまた唱和した。新たなる仲間を妖精は一も二も無く受け入れた。
妖精とは自然の化身。自然の体現。大自然の一部にしてその意志であるのだから、野生動物を受け入れない理由がどこにあろうや?
『ホエ――「ええいあんたたち五月蝿いのよ!!」
そして博麗霊夢はどこまでも博麗霊夢だった。
彼女の咆哮に妖精たちは蜘蛛の子を散らすように姿を消し、わかさぎびともまた怯えるがままに湖底へと戻った。
たとえクジラが海の王だとしても、博麗霊夢は幻想郷の王である。
「ここまでありがとうございました、博麗様」
「霊夢でいいわ。さ、ここは食えるものは人妖問わずすべて食料。狩れるものは全て餌。原始の魂が今なお生きる世界よ。派手にやったら退治してあげるから、それまでは好きにやんなさい」
「では早速ですが、ハーレムの一員になりませんか?」
霊夢は笑って、ふわりと空に浮かび上がった。
「私を空から落とせたなら、考えてあげてもいいわ……落とせるのならば」
弾幕ごっこではない野生の本気を剥き出しにした博麗霊夢は無敵にして、いまだ不敗である。
◆
珍しくレミリアからの食事のお誘い。ふわりと紅魔館に赴いた霊夢は中庭に視線を落とし、なるほどと頷いた。
紅魔館の中庭では今、何本ものグングニルが突き刺さった巨体が美鈴の手によって絶賛解体中である。
「いらっしゃい、霊夢。もう少し待ってなさいな」
テラスに着地した霊夢の前で、レミリアは満足げに紅茶を啜っていた。
周囲に薄く漂う蘭の花のような香り。キームンである。女王の紅茶であった。
「狩ったの?」
そう問うた霊夢に、レミリアは誇らしげな、しかし少しだけ寂しそうにも見える笑みを返す。
「なかなかの強敵だった。久々に良い戦いを堪能したわ」
「そう」
霊夢の淡白な返事に少しだけムッと眉根を寄せた後、レミリアは変わらず本に視線を落としたまま顔を上げようともしない魔女をチラリと見やる。
「パチェ曰く、クジラって全身余さず資材になるんだってさ。あの巨体で捨てるところが無いってすごいわね」
クジラはハーレムを作るのに失敗したようだった。それでも、本懐ではあっただろう。
クジラは全力で戦ったのだ。真っ向から銛に挑み、そして敗北し、これから食材と素材になるのだ。
野生動物として、資源を求める敵に真っ向から討ち負けたのだ。残念はあっても、無念はあるまい。
「うちもここに来てからは収入に苦労してるからね。これで少しは足しになるといいのだけど」
解体されたクジラは人里に持ち込まれるだろう。
それは工業資源の乏しい幻想郷において、まさにクジラ的革命をもたらすに違いない。
霊夢はテラスから霧の湖に視線を向けた。
視線の先にはくじら12号たちがいた。くじら12号からくじら12号までの十二匹のイルカ型スレイブはいまだ健在である。
なぜ1号から11号が存在せず、すべて12号なのかは霊夢には分からなかった。だがゼロ戦が何機あったってゼロ戦なのと同じなのだろう。そう納得し、考えるのをやめた。
霧の湖では12号たちが元気に跳ね回っている。そのうち早苗たちがずるいと文句を言い出すだろうし、狭い場所でハーレム争いをさせても仕方が無い。
彼らの一部をあとで山の湖や、その他の水源に連れて行こう。霊夢はそう考える。
彼らは移り住んだ先で立派に成長するだろう。そして体内でくじら12号を生成し、繁殖するだろう。そして銛を手に資源を求める人と熾烈な戦いを繰り広げるだろう。
クジラ漁が幻想郷に根付き、新たな文化となる、まさに今日は魁の日である。
「どうぞ」
突如現れた咲夜が差し出してきたくじらカツバーガーに霊夢はかぶりついた。
それほど上等な味とも思えなかったが、とりたてて不味い肉とも思えぬ。
コメントに困る味ね、なんて考えながらむぐむぐしていた霊夢はふと気になった。
「咲夜」
「なに?」
「クジラの体内にメロン、無かった?」
咲夜はこれ見よがしに額に手を当てて、苦い顔をした。
「霊夢。貴女まで常識から浮かび上がるのはやめなさい。水生生物の体内にメロンが生えていると思って?」
「あるわよ。あんた、見逃したんじゃないの?」
「あるわけないでしょ。どんなメロンよそれ。ハイエロファントじゃあるまいし」
そんな二人の会話を横で聞いていたパチュリーには当然、二人の勘違いを正してやることができた。
資源としてのクジラの有用性をレミリアに説いたのは彼女なのだから当然である。
だがパチュリーはそんな二人の口喧嘩を止めようとはしなかった。
パチュリーの仕事は終わったのだ。ならばもう次のページをめくるだけが、パチュリーが優先すべきことである。
「ある!」「ない」「あるってば!」「ありません」
テラスで騒ぎ立てる少女達の姦しい声を受けて、中庭。クジラの頭の中のメロンがふっと小さく揺れた。
―了―
そのクジラの出身地は多分地球じゃねぇw
そして咲夜さんは捌いたのかアレを。
では向こうを読んできます
今の人間からしたらクジラの尊厳なぞ知ったこっちゃないんだろうけど、やっぱり狩るからには感謝と敬意を持つべきなんでしょうかねぇ。
それが野生動物との本来の付き合い方って気がします。
オーストラリアの連中は反省するべし
>命がけで戦った結果、道具の部品となることは致し方ない。
こんなことをクジラ自身に言わせるのは、クジラ狩りを一方的に正当化することでしかありません。主語を「人間」にしても同じことが言えますか?
主張の偏りを隠そうとして「クジラ狩りにも非はある」ようなことを述べていますが、全体としては明らかにクジラ保護を全否定したい意図しか見えません。
幻想郷や幻想入りをこんな幼稚な政治的主張の道具にされるのは非常に不公平で不愉快です。
やれ正しいだの間違っているだの、その影響を受けているモノのことなどお構い無しに。
中盤がやや過剰にシュールで、読みづらかった分を引いてこの点数で。
掴みとラストは好みでした。
ここはその正当性を求められるような場所でもないのだろうけれど
感想欄で愚直に影響を受けている人を見ると、やっぱこれは罪だよなあって思うのです
そう思ったので10点
理解を超えるようなシュールさも含めて面白かったです。
ちなみにイチモツの骨を見た事がありますが、椅子何脚分なんだろう、アレ。
荒唐無稽な話なのに相変わらず光景がきちんと目に浮かぶ文章でした
と思ったけどやっぱりメロンの話なのかな?
相手が自分を害するのか。そこに重心があるのかもしれません。
深く考えるきっかけをくださる作品でした。
ネタを理解出来ずに必死に想像する霊夢はシュールですね
元ネタが分かればニヤリとする事が出来て面白かったです
わかさぎびとがツボでした。荒唐無稽で暑い日に二度寝した時の夢みたいなお話しだなぁと思いました。なんて言うか癖になるお話しです
メロンは海中で音を増幅させるための頭にある厚い脂肪のことだからな
確かにメスなら少女の姿になるのは不思議
だからこそ居場所がなくなって幻想入りしたんだろうし。