人里に夕暮れが差していた。
先ほどまで寺子屋に残って遊んでいた子どもたちも家路について、今は誰もいない。
机や椅子の足が床を踏む音も。
チョークが黒板を擦る音も。
物音一つしない。
そんな寂しい寺子屋の中で、慧音は教壇横の自分の席に座り、じっと窓から外の景色を眺めていた。
片手には赤筆が握られている。が、動くことはなく、宙に止まっているままだった。
彼女のことを、想っていた。
彼女の笑顔を思い浮かべて、慧音は一つため息を漏らす。
もう三日。言葉も交わしていない。
「慧音ー。迎えに来たよー」
寺子屋の戸が開いて、夕陽を背中に顔を見せたのは妹紅だった。
「ん? あぁ、妹紅か」
「ああ、じゃないよ。そろそろ行かないと、あのわがまま姫に拗ねられちゃうぞ」
慧音は一瞬、きょとんした顔つきになって、すぐに約束を思い出す。
「そうだった……すまん、すぐに行く」
席を立ち上がりながら、ちらりと視線を机の上に落とすと、まだ採点されていない解答用紙が重なっていた。
休校日だがら、明日にでもすればいい。
少し解答用紙を整えて、そのまま机の上に置く。
「じゃあ、行こう」
「ん」
妹紅と外へ出る。
目の前の夕陽は赤一色に染まり、山の向こうへ落ちようとしていた。
(あの時もこんな空だった)
じっと見つめそうになりそうなのを、ぐっと堪えて施錠をする。
やがて妹紅と肩を並べて歩き出す。
「そうだ、妹紅。何か手土産は用意しているのか?」
「手土産? そんなもん用意してないよ。だって輝夜だぞ?」
「そんなことじゃいけないな。相手の家へお邪魔するときは手土産は必ず持参しないと。そうだな。松本堂の饅頭がいいんだが、混雑してそうだから、稲葉屋で果物を買おう」
「もう、慧音は細かいんだよ。そんなに堅苦しくなくてもさ」
「妹紅の為に言っているんだぞ」
そう言葉を交わしながら人里の商店が並ぶ地区へと足を運んでいく。
稲葉屋で慧音たちは、この時期並べられ始めた柑橘を購入した。
端正な顔つきをした若々しい体つきの主人から商品を受け取る。
「あ。阿求じゃん」
店の外で待っていた妹紅の声がした。
とたんに商品を手にした慧音がそのまま固まった。
慧音の顔から血の気がさっと引いた。
「妹紅さん、こんにちは……あ」
三日ぶりに耳にした、恋人の声だった。
ゆっくりと振り返ると、そこには慧音が好きだった笑顔はなく――阿求は困惑した顔を隠せないままだった。
その顔に、慧音の胸が苦しくなる。
「……慧音さん。お買い物ですか?」
「あ、あぁ……」
慧音はようやく重い足を動かして店の外へ出る。
妹紅と阿求の元へ寄るが、阿求は顔を俯いてしまう。
だから慧音も何も言えなかった。
「こ、これから慧音と永遠亭へ行くんだ。輝夜に夕飯誘われてさ」
妹紅が慌てて弁解めいたことを話す。阿求は顔を妹紅に向けて「ああ、そうなんですね」と笑って見せた。作り物の笑顔で。
「阿求は、貸本屋から帰ってきたとこ?」
持っていた風呂敷から顔を覗かせている数冊の本を見つけて、妹紅が訊ねる。
「ええ。小鈴から何冊か資料になりそうなのを借りてきたんですよ」
「そうか。あのさ、もしこの後予定がなければ私たちと一緒に行かない?」
「……ごめんなさい。早く資料を見たいもので。また今度お誘いください。本当にすみません」
阿求は小さく頭を下げると、足早に立ち去ってしまった。
その背中を、慧音は呼び止めることが出来ず、ただじっと見つめていた。
「慧音……前から言おうと思っていたんだけどさ」
妹紅の言葉に慌てて振り返ると、そこには妹紅が言いにくそうな顔をしていた。
しばらく戸惑ってから、妹紅は言った。
「阿求と、何かあった?」
※
一月ほど前のことである。
その時も夕陽が赤く落ちようとしていた。
人里から少し外れた小さな丘の上。
大きな桜の木の下で、慧音と阿求は向き合っていた。
秋風に吹かれて、芒が小さく揺れていた。
「阿求……その。お前の事が、好きみたいなんだ。私と、付き合ってくれないか?」
告白をしたのは、慧音の方だった。
顔を真っ赤にしながら阿求の顔を見つめていると、彼女の目がどんどん丸くなっていった。
「……慧音さん、嬉しい。でも、私は」
やがて阿求は寂しそうな表情を浮かべて俯いてしまう。
阿求は代々『幻想郷縁起』を編纂する家系の九代目。
慧音は寺子屋で人里の子どもたちに歴史を教えている教師。
二人は長く繋がっている関係だった。
そのうちに親しくなるのは自然の流れだった。
慧音から見て阿求は豊富な知識を有していて尊敬の念も覚えていたが、一方でどこか子どもっぽいところもあり、小鈴と一緒に人里での小さな異変を楽しげに調査してまわることもあった。
そんな阿求に慧音は徐々に惹かれていった。
だが、ある日。
阿求の屋敷へ資料を借りにいった際、雑談していると阿求はふと寂しそうな顔をして慧音に『御阿礼の子』の辿る運命の事を話し出したのだった。
御阿礼の子は寿命が短く三十まで生きることは出来ない、という事を。
慧音は目を丸くして「どうして、それを今?」と訊ねた。
阿求はやはり寂しそうな顔つきのまま、「慧音さんだから……慧音さんには知ってほしくて」と驚く慧音の目を見つめて言った。その阿求の目には涙が溜まっていた。
言葉を失う慧音。阿求もそれきり口をつぐんだ。
部屋の中に思い空気が溜まっていく。
それから阿求と何か一つ二つ言葉を交わしたような気がするが、慧音はよく覚えていない。
気が付けば資料を片手に阿求の屋敷の門を出ていた。
ふと振り返ると、縁側に阿求が立って慧音を見つめていた。
泣いていたように思う。
が、慧音に気が付いて阿求は部屋の中へとゆっくり入ってしまう。
慧音の心の奥で、阿求に対する想いがはっきりと自覚した瞬間だった。
秋風が二人の顔を撫でる。
「私は……長くは生きられません。慧音さんを残して、死にたくはないです! だから……嬉しいけど」
「阿求は私のことが好きか?」
「え?」
阿求はとうとう涙を零しながら慧音の顔をもう一度見つめると、慧音も涙を必死に堪えながらそれでも阿求から目を逸らさなかった。
「それでも私は阿求のことが好きだ。最期まで阿求の傍にいたい。阿求が私のことが好きでいてくれているのなら、付き合ってくれないか?」
阿求が両手で口元を抑えた。言葉が出ない。
ゆっくりと阿求に近づいて、慧音は優しく彼女を抱きしめた。
しばらく、二人は重なったまま動かなかった。
「……いいんですか? 私で?」
慧音は頷いてみせた。
阿求は目を閉じて、慧音の腰に両手を回した。
二人は、恋仲になった。
※
「慧音さん! 小鈴のところで面白そうな本をたくさん借りてきたんですよ! ほら! 一緒に読んでみませんか」
「おぉ、たくさん借りてきたなぁ。重いだろう、そら。私が持ってやる」
「え? あ、慧音さん。悪いですよ」
「かまわん。こんなに重いのを無理して持ったらダメじゃないか」
人里では慧音と阿求が仲良く寄り添って歩く姿がみられるようになった。
人々はすぐに二人の仲を察して、温かく見守ってくれた。
妹紅も、永遠亭の皆も言葉にしなかったが笑顔で祝福してくれた。
誰も二人の交際に異議を唱えるものはいなかったのである。
一方で、慧音は思っていた以上に阿求が活発な性格であることに驚きを隠せない。
ある時。阿求は一人で太陽の畑へと赴いて風見幽香に取材を申し込んだことがあった。
阿求が家へと戻ると、そこには落ち着きのない慧音が阿求の帰りを待っていた。
「風見幽香のところへ行っていただと!? 阿求! そんな無茶なことはしないでくれ! お前の身に何かあったらどうするんだ! 心配したんだぞ!」
「大丈夫ですよ。私は御阿礼の子の九代目。例え相手が大妖怪でも、簡単に命を落とすようなことはしませんから」
「馬鹿っ! 思わぬことが起きないとも限らないだろう! 次からは妖怪たちへの取材をする時は私に一声かけてくれ。一緒に行ってやるから」
「でも、慧音さん。寺子屋の方があるでしょう?」
「そこのところは、なんとかするから。な。無茶はしないでくれ」
息を絶え絶えに阿求に詰め寄る慧音に、阿求は「はぁーい」と面白くなさそうに返事をした。
それでも慧音が寺子屋で授業をしている間に、また思いついたまま妖怪たちに一人で取材を申し込んだり、霊夢や小鈴たちと異変の調査に乗り出す阿求に、慧音はその度に小言を言ってしまう。
二人で言い合いをして、次の日には人里を肩を並べて楽しそうに歩く。
そんな日が続いた。
唐突に、その時はやってきた。
雨が強く降りしきる日だった。
寺子屋から阿求の屋敷へ行くと、阿求の姿が見えない。
「またか!」
使用人に訊ねてみても阿求の行先は知らなかった。慧音は傘を差すのも忘れて飛び出した。
雨の中を慧音は走り出す。
以前、阿求が吸血鬼たちのことを口にしていたのを思い出し、紅魔館へと走って行く。心臓がバクバク鳴った。
やがて慧音の視線の先に、道端でしゃがみ込む二人の姿が見えた。
「阿求さん! 大丈夫ですか?」
「あー、大丈夫です……あ、慧音さん」
そこには傘を阿求に差してあげる紅美鈴と、道端で弱弱しく座り込む阿求の姿だった。
「阿求!」
慧音が傍によると美鈴が「慧音さん」と声をかけた。
「取材で紅魔館に来られたんですよ。お嬢様と何事もなくお話しをされていたのですが、雨が降りそうだったので阿求さん、お帰りになることになって……傘を貸してあげますと申したのですが、大丈夫と言われまして。でも雨が降ってきて、咲夜さんに言われて追いかけたら、ここで倒れてまして」
「ちょっと転んじゃっただけですよ」
「馬鹿っ! 何がちょっとだ! 足が擦りむいているじゃないか!」
阿求の右足から血が流れていた。
慧音は阿求を背中に負った。
「慧音さん、どうぞ。傘をお持ちください。私の分はありますから」
「すまない」
美鈴に深々と頭を下げてから、慧音は受け取った傘で阿求の屋敷へと走り出した。
背中の阿求は小さく「すみません」と呟いたが、走る慧音の耳には入らない。
屋敷へと着くと、慧音は雨に濡れた阿求の体を拭いてやり、足の怪我の手当てをした後、布団の上へそっと寝かした。
「……阿求。私が言いたいことはわかるな?」
「…………」
怖い顔をして阿求を睨み付ける慧音。
だが阿求は何も答えなかった。
慧音は「はぁー」と大きくため息をついて、阿求の額に手をやる。熱かった。
「風邪だな。今日は大人しく寝るんだぞ……明日は休みだから、一日傍にいてやる。もう、こんな真似は絶対にしないでくれよ。お前の身に何かあったら、私はいたたまれないんだ」
そう言うと慧音は濡らした布地を阿求の額に乗せてあげた。
しかし、阿求は返事をしなかった。
翌日。
慧音は朝早くから阿求の屋敷へと向かった。
使用人に挨拶をして、阿求の部屋へ入る。
そこには阿求が上半身を起こしていた。
「阿求、寝てないとダメじゃないか。体に障るぞ」
やれやれ、と慧音は小さく笑みを浮かべて阿求を寝かしてあげようと両腕を阿求に伸ばす。
びくり、と阿求の体が震えた。
慧音の腕が止まる。
「阿求……?」
様子がおかしい阿求に慧音の顔から笑顔が消えていく。
阿求は慧音から目を逸らせたままだ。
「どうした? やっぱりまだ具合が悪いのか?」
それでも阿求は顔を慧音に向けない。
部屋の中に沈黙が走った。
「……慧音さん」
小さく、阿求は話し出す。
「しばらく、私たち。会わないようにしましょう」
時間が止まった。
そんな風に慧音は思った。
阿求に返す言葉がとっさに浮かばない。
なんとか口にしようと、慧音は喉の奥から声を絞り出す。
「……なんで……なんでだ、阿求」
しかし阿求は体を静かに横たえると、頭から布団を被ってしまう。
阿求からの拒絶。
慧音は呆然としたまま阿求を見つめていた。
どれだけ時間が過ぎようとしても、阿求は布団から顔を出さなかった。
この日から、二人の間で言葉が交わすことがなくなってしまった。
三日前のことだった。
※
「ずいぶん、思い悩んでいるみたいね。慧音ちゃん」
ふと慧音が気が付くと、永琳が湯呑を差し出していた。
中には温かい緑茶が入っていた。
「あ、ありがとう……」
ふと向こうを見ると、妹紅は輝夜や二人のイナバたちと花札をして遊んでいた。
永遠亭で夕食をご馳走になってから、慧音は縁側で阿求と付き合ってからのことを思い返していたのだった。
慧音が緑茶を啜ると、永琳はまた話しかける。
「話はもこちゃんから聞いたわよ……阿求ちゃんと喧嘩でもしたの?」
「……わからないんだ」
慧音は静かに湯呑を置いた。
二人は静かに竹林を見つめる。
永琳はそれ以上話しかけることはせず、慧音の聞き役に回っていた。
言葉を待っていると、慧音がぼそりぼそりと呟いた。
「阿求のことが、好きで。彼女の為に想って。でも、なんでこんなことになってしまったのか……嫌われたのかな」
「どうして?」
「私は、口うるさいからな……」
慧音は小さく「はは」と笑ってみせる。自虐の笑み。
だが、永琳も笑みを浮かべることはない。
じっと慧音の横顔を見つめていた。
永琳が慧音に話しかけた。
「どうするの?」
「どうするって……わからないんだ」
「このままでいい、って慧音ちゃんは思うの?」
慧音は力なく首を振った。
永琳の顔に笑みが浮かぶ。そして慧音の背中を――バシッと叩く。
「い、痛い!!」
「いつまでも迷っていても答えは出ない。行動をしてこそ答えは出るのよ。慧音ちゃん。阿求ちゃんが慧音ちゃんのことをどう思っているのか、ちゃんと聞いてきなさい。こうして悪戯に時間を過ごしていたら、本当に何も知ることがないまま別れ別れになっちゃうわよ……千年でも万年でも、今の一瞬に敵う物は無いの。ね?」
慧音が振り返ると永琳はにっこり笑っていた。
その顔を見つめているうちに、慧音の心の奥に阿求の笑顔が浮かんでくる。
会いたい。
声が聞きたい。
話がしたい。
慧音は立ち上がった。
「永琳。ありがとう、そしてすまない」
そう言い残すと慧音は玄関へと走り出す。
その顔は吹っ切れたような表情だった。
「何も今すぐ行きなさい、とは言っていないんだけどね」
永琳がくすくす笑うと、プピーと高く音が鳴った。
振り返ると輝夜が不満気に、どこからか取り出したリコーダーを適当に吹き鳴らしていた。
「永琳? 今、私の真似をしなかったかしら」
「あら? 覚えてないわ」
とぼけてみせると輝夜は頬を餅みたいにプクーと膨らませる。
「ありがとな、永琳」
妹紅が永琳にお礼を言う。鈴仙は俯いて心配そうな顔をしていた。
「もこちゃん。私は大したことはしてないわよ。二人がどうなるかなんて、二人にしか決められないことだわ。後は慧音ちゃん次第よ」
「さぁーて。この月夜にどんな風が吹くかな? 『月見で一杯』っと」
てゐが『芒に満月』の札を場に放り投げた。
※
慧音は走った。
薄暗い迷いの竹林を。
竹林を抜けて、月の下を。
灯りが落ちようとしている人里の中を。
阿求の屋敷に向かって、走った。
たどり着いたときには慧音は荒く肩で呼吸をしていた。
屋敷の門は何故だか開いていた。
門を潜り、玄関で呼びかけると使用人が出てきた。
「阿求様ですか? それが……先ほど出かけられたきり戻ってこられないのですよ」
「……わかった。ありがとう!」
慧音は再び門を出ると走り出す。
阿求がどこへ行ったのかはわからない。
しかし慧音の足は自然と動き出す。
二人が想いを打ち明けた、あの場所へ。
「……阿求」
「慧音さん?」
人里から少し離れた小さな丘の上。
芒に囲まれた桜の木の下で阿求は佇んでいた。
慧音が声をかけると、阿求は驚いたように振り向いた。
「探したぞ。まったく」
「…………」
慧音が阿求の傍へ寄る。すると阿求は慧音に背中を向けてしまう。
そんな阿求に慧音の胸が締め付けられる。
しかし。
(話すんだ。阿求と会って、向き合って話をするんだ。彼女の口から聞くんだ)
慧音の目からは戸惑いは消えていた。
慧音は一つ深呼吸をして、阿求に話しかける。
「阿求。お前が私のことを嫌いになっているのは、わかっているさ。私は不器用だからな。ついつい小言を言ってしまう、厭な性格だと自分でも思う。でも、ちゃんと阿求の口から聞きたいんだ……私のこと、嫌いになったか」
ドキドキと高鳴る心臓を必死に抑える。
しかし、阿求の返事は慧音の予想を超えていた。
「……嫌いになるわけないじゃないですか。好きですよ。慧音さんのこと」
慧音の顔に驚きの色が浮かぶ。
阿求の言っている意味が、とっさに理解できなかった。
「じゃ、じゃあなんであんなことを?」
「苦しいの!」
阿求が振り返って慧音を見つめる。
その目には――あの時と同じように大粒の涙が溢れていた。
月夜に照らされる阿求の白い肌をした顔。
慧音は息を飲んで見つめていた。
「私が辿る運命を知らされた時、私は自分に絶望したの。どうしてこんな目に合わないといけないのって。目の前が真っ暗になった。でも、これが『幻想郷縁起』を編纂する御阿礼の子の運命だと、無理矢理受け入れようとした。でも、慧音さん……貴女に会って、貴女のことが好きになってしまった」
阿求は俯いて言葉を続ける。
慧音は黙っていた。
「慧音さんに好きだって言われて、こんな私でも好きだって言ってくれて、嬉しかった。慧音さんが傍にいてくれると思うと、体が楽になった。だから御阿礼の子として、自分にしか出来ない役割を果たそうって思ったの。私は御阿礼の子だから。慧音さんが寺子屋で忙しいのに、私の為に無理をしてほしくなかったから、一人で勤めを果たそうした……でも私は不器用だから。慧音さんの優しさが、慧音さんが私の為に言ってくれることが、また私が辿る運命のことを思い出させて辛かったの。慧音さんをここに残してしまうことが怖くて仕方がないの!」
慧音は知った。
自分が彼女の為に言ったことが彼女を苦しめていたのを。
彼女の為にしたことが、好意からしたことが、彼女をより死を意識させていたことを。
呆然としながら、慧音は小さく呟いた。
「そうだったのか……阿求、すまなかった。私はお前の身のことを想っていたのだが、それが阿求を苦しめていたなんて気が付かなかった。はは、私は本当にダメだな……阿求。これからは……その、これからはな」
「……これから、どうするんです?」
はっと慧音が気が付くと、阿求は顔を上げて慧音を見つめていた。
慧音の言葉を待つように。
慧音は何も言えなかった。
頭の中に、言いたいことは頭の中に浮かんでいたのだが。
取材に一人で行っても何も言わない。
霊夢たちと無茶して異変を調査しても何も言わない。
阿求の好きなようにしたらいい。
私はもう何も言わないから。
しかし、口に出したら終わってしまうような気がした。
そして慧音はようやく気が付いた。
終わっていたのだ。とっくに。
初めから、二人の恋が終わっていたことに。
慧音は何も言えなかった。
「……から……慧音さん……」
阿求が声を絞らせて慧音に話しかける。
「慧音さんのことが、好きだから。誰よりも、大好きだから……だから、私と別れてください。お願いします……別れてください」
両手で涙を拭いながら、阿求は泣きじゃくる。
そんな彼女を見つめて、慧音は大きく息を吐いた。
桜の木の下。
二人の間に冷たい風が吹く。
慧音がそっと阿求に近寄った。
両腕を伸ばして、阿求を抱きしめようとした。
だが。
次の瞬間、慧音の頭に衝撃が走った。
追いかけるように左頬にじんじんと痛みが走る。
目の前で阿求が右腕を振り切っていた。
平手打ちされたのだ。
「……慧音さん、さよなら!」
そう言い残すと、阿求は涙を零しながら走り去ってしまう。
そんな彼女の背中が小さくなるのを、慧音は黙って見つめたままだった。
「……さよなら、阿求」
小さく呟いて、慧音の顔に小さく笑みが浮かんだ。
「阿求のこと、私は何も気が付かなかったなぁ。大好きな人だったのに……あはは」
その小さな笑い声が大きくなる。
月夜が照らす小さな丘の上。
桜の木の下で、慧音の泣き声が響き渡る。
秋風が吹いて、枯れかけた芒を小さく揺らした。
先ほどまで寺子屋に残って遊んでいた子どもたちも家路について、今は誰もいない。
机や椅子の足が床を踏む音も。
チョークが黒板を擦る音も。
物音一つしない。
そんな寂しい寺子屋の中で、慧音は教壇横の自分の席に座り、じっと窓から外の景色を眺めていた。
片手には赤筆が握られている。が、動くことはなく、宙に止まっているままだった。
彼女のことを、想っていた。
彼女の笑顔を思い浮かべて、慧音は一つため息を漏らす。
もう三日。言葉も交わしていない。
「慧音ー。迎えに来たよー」
寺子屋の戸が開いて、夕陽を背中に顔を見せたのは妹紅だった。
「ん? あぁ、妹紅か」
「ああ、じゃないよ。そろそろ行かないと、あのわがまま姫に拗ねられちゃうぞ」
慧音は一瞬、きょとんした顔つきになって、すぐに約束を思い出す。
「そうだった……すまん、すぐに行く」
席を立ち上がりながら、ちらりと視線を机の上に落とすと、まだ採点されていない解答用紙が重なっていた。
休校日だがら、明日にでもすればいい。
少し解答用紙を整えて、そのまま机の上に置く。
「じゃあ、行こう」
「ん」
妹紅と外へ出る。
目の前の夕陽は赤一色に染まり、山の向こうへ落ちようとしていた。
(あの時もこんな空だった)
じっと見つめそうになりそうなのを、ぐっと堪えて施錠をする。
やがて妹紅と肩を並べて歩き出す。
「そうだ、妹紅。何か手土産は用意しているのか?」
「手土産? そんなもん用意してないよ。だって輝夜だぞ?」
「そんなことじゃいけないな。相手の家へお邪魔するときは手土産は必ず持参しないと。そうだな。松本堂の饅頭がいいんだが、混雑してそうだから、稲葉屋で果物を買おう」
「もう、慧音は細かいんだよ。そんなに堅苦しくなくてもさ」
「妹紅の為に言っているんだぞ」
そう言葉を交わしながら人里の商店が並ぶ地区へと足を運んでいく。
稲葉屋で慧音たちは、この時期並べられ始めた柑橘を購入した。
端正な顔つきをした若々しい体つきの主人から商品を受け取る。
「あ。阿求じゃん」
店の外で待っていた妹紅の声がした。
とたんに商品を手にした慧音がそのまま固まった。
慧音の顔から血の気がさっと引いた。
「妹紅さん、こんにちは……あ」
三日ぶりに耳にした、恋人の声だった。
ゆっくりと振り返ると、そこには慧音が好きだった笑顔はなく――阿求は困惑した顔を隠せないままだった。
その顔に、慧音の胸が苦しくなる。
「……慧音さん。お買い物ですか?」
「あ、あぁ……」
慧音はようやく重い足を動かして店の外へ出る。
妹紅と阿求の元へ寄るが、阿求は顔を俯いてしまう。
だから慧音も何も言えなかった。
「こ、これから慧音と永遠亭へ行くんだ。輝夜に夕飯誘われてさ」
妹紅が慌てて弁解めいたことを話す。阿求は顔を妹紅に向けて「ああ、そうなんですね」と笑って見せた。作り物の笑顔で。
「阿求は、貸本屋から帰ってきたとこ?」
持っていた風呂敷から顔を覗かせている数冊の本を見つけて、妹紅が訊ねる。
「ええ。小鈴から何冊か資料になりそうなのを借りてきたんですよ」
「そうか。あのさ、もしこの後予定がなければ私たちと一緒に行かない?」
「……ごめんなさい。早く資料を見たいもので。また今度お誘いください。本当にすみません」
阿求は小さく頭を下げると、足早に立ち去ってしまった。
その背中を、慧音は呼び止めることが出来ず、ただじっと見つめていた。
「慧音……前から言おうと思っていたんだけどさ」
妹紅の言葉に慌てて振り返ると、そこには妹紅が言いにくそうな顔をしていた。
しばらく戸惑ってから、妹紅は言った。
「阿求と、何かあった?」
※
一月ほど前のことである。
その時も夕陽が赤く落ちようとしていた。
人里から少し外れた小さな丘の上。
大きな桜の木の下で、慧音と阿求は向き合っていた。
秋風に吹かれて、芒が小さく揺れていた。
「阿求……その。お前の事が、好きみたいなんだ。私と、付き合ってくれないか?」
告白をしたのは、慧音の方だった。
顔を真っ赤にしながら阿求の顔を見つめていると、彼女の目がどんどん丸くなっていった。
「……慧音さん、嬉しい。でも、私は」
やがて阿求は寂しそうな表情を浮かべて俯いてしまう。
阿求は代々『幻想郷縁起』を編纂する家系の九代目。
慧音は寺子屋で人里の子どもたちに歴史を教えている教師。
二人は長く繋がっている関係だった。
そのうちに親しくなるのは自然の流れだった。
慧音から見て阿求は豊富な知識を有していて尊敬の念も覚えていたが、一方でどこか子どもっぽいところもあり、小鈴と一緒に人里での小さな異変を楽しげに調査してまわることもあった。
そんな阿求に慧音は徐々に惹かれていった。
だが、ある日。
阿求の屋敷へ資料を借りにいった際、雑談していると阿求はふと寂しそうな顔をして慧音に『御阿礼の子』の辿る運命の事を話し出したのだった。
御阿礼の子は寿命が短く三十まで生きることは出来ない、という事を。
慧音は目を丸くして「どうして、それを今?」と訊ねた。
阿求はやはり寂しそうな顔つきのまま、「慧音さんだから……慧音さんには知ってほしくて」と驚く慧音の目を見つめて言った。その阿求の目には涙が溜まっていた。
言葉を失う慧音。阿求もそれきり口をつぐんだ。
部屋の中に思い空気が溜まっていく。
それから阿求と何か一つ二つ言葉を交わしたような気がするが、慧音はよく覚えていない。
気が付けば資料を片手に阿求の屋敷の門を出ていた。
ふと振り返ると、縁側に阿求が立って慧音を見つめていた。
泣いていたように思う。
が、慧音に気が付いて阿求は部屋の中へとゆっくり入ってしまう。
慧音の心の奥で、阿求に対する想いがはっきりと自覚した瞬間だった。
秋風が二人の顔を撫でる。
「私は……長くは生きられません。慧音さんを残して、死にたくはないです! だから……嬉しいけど」
「阿求は私のことが好きか?」
「え?」
阿求はとうとう涙を零しながら慧音の顔をもう一度見つめると、慧音も涙を必死に堪えながらそれでも阿求から目を逸らさなかった。
「それでも私は阿求のことが好きだ。最期まで阿求の傍にいたい。阿求が私のことが好きでいてくれているのなら、付き合ってくれないか?」
阿求が両手で口元を抑えた。言葉が出ない。
ゆっくりと阿求に近づいて、慧音は優しく彼女を抱きしめた。
しばらく、二人は重なったまま動かなかった。
「……いいんですか? 私で?」
慧音は頷いてみせた。
阿求は目を閉じて、慧音の腰に両手を回した。
二人は、恋仲になった。
※
「慧音さん! 小鈴のところで面白そうな本をたくさん借りてきたんですよ! ほら! 一緒に読んでみませんか」
「おぉ、たくさん借りてきたなぁ。重いだろう、そら。私が持ってやる」
「え? あ、慧音さん。悪いですよ」
「かまわん。こんなに重いのを無理して持ったらダメじゃないか」
人里では慧音と阿求が仲良く寄り添って歩く姿がみられるようになった。
人々はすぐに二人の仲を察して、温かく見守ってくれた。
妹紅も、永遠亭の皆も言葉にしなかったが笑顔で祝福してくれた。
誰も二人の交際に異議を唱えるものはいなかったのである。
一方で、慧音は思っていた以上に阿求が活発な性格であることに驚きを隠せない。
ある時。阿求は一人で太陽の畑へと赴いて風見幽香に取材を申し込んだことがあった。
阿求が家へと戻ると、そこには落ち着きのない慧音が阿求の帰りを待っていた。
「風見幽香のところへ行っていただと!? 阿求! そんな無茶なことはしないでくれ! お前の身に何かあったらどうするんだ! 心配したんだぞ!」
「大丈夫ですよ。私は御阿礼の子の九代目。例え相手が大妖怪でも、簡単に命を落とすようなことはしませんから」
「馬鹿っ! 思わぬことが起きないとも限らないだろう! 次からは妖怪たちへの取材をする時は私に一声かけてくれ。一緒に行ってやるから」
「でも、慧音さん。寺子屋の方があるでしょう?」
「そこのところは、なんとかするから。な。無茶はしないでくれ」
息を絶え絶えに阿求に詰め寄る慧音に、阿求は「はぁーい」と面白くなさそうに返事をした。
それでも慧音が寺子屋で授業をしている間に、また思いついたまま妖怪たちに一人で取材を申し込んだり、霊夢や小鈴たちと異変の調査に乗り出す阿求に、慧音はその度に小言を言ってしまう。
二人で言い合いをして、次の日には人里を肩を並べて楽しそうに歩く。
そんな日が続いた。
唐突に、その時はやってきた。
雨が強く降りしきる日だった。
寺子屋から阿求の屋敷へ行くと、阿求の姿が見えない。
「またか!」
使用人に訊ねてみても阿求の行先は知らなかった。慧音は傘を差すのも忘れて飛び出した。
雨の中を慧音は走り出す。
以前、阿求が吸血鬼たちのことを口にしていたのを思い出し、紅魔館へと走って行く。心臓がバクバク鳴った。
やがて慧音の視線の先に、道端でしゃがみ込む二人の姿が見えた。
「阿求さん! 大丈夫ですか?」
「あー、大丈夫です……あ、慧音さん」
そこには傘を阿求に差してあげる紅美鈴と、道端で弱弱しく座り込む阿求の姿だった。
「阿求!」
慧音が傍によると美鈴が「慧音さん」と声をかけた。
「取材で紅魔館に来られたんですよ。お嬢様と何事もなくお話しをされていたのですが、雨が降りそうだったので阿求さん、お帰りになることになって……傘を貸してあげますと申したのですが、大丈夫と言われまして。でも雨が降ってきて、咲夜さんに言われて追いかけたら、ここで倒れてまして」
「ちょっと転んじゃっただけですよ」
「馬鹿っ! 何がちょっとだ! 足が擦りむいているじゃないか!」
阿求の右足から血が流れていた。
慧音は阿求を背中に負った。
「慧音さん、どうぞ。傘をお持ちください。私の分はありますから」
「すまない」
美鈴に深々と頭を下げてから、慧音は受け取った傘で阿求の屋敷へと走り出した。
背中の阿求は小さく「すみません」と呟いたが、走る慧音の耳には入らない。
屋敷へと着くと、慧音は雨に濡れた阿求の体を拭いてやり、足の怪我の手当てをした後、布団の上へそっと寝かした。
「……阿求。私が言いたいことはわかるな?」
「…………」
怖い顔をして阿求を睨み付ける慧音。
だが阿求は何も答えなかった。
慧音は「はぁー」と大きくため息をついて、阿求の額に手をやる。熱かった。
「風邪だな。今日は大人しく寝るんだぞ……明日は休みだから、一日傍にいてやる。もう、こんな真似は絶対にしないでくれよ。お前の身に何かあったら、私はいたたまれないんだ」
そう言うと慧音は濡らした布地を阿求の額に乗せてあげた。
しかし、阿求は返事をしなかった。
翌日。
慧音は朝早くから阿求の屋敷へと向かった。
使用人に挨拶をして、阿求の部屋へ入る。
そこには阿求が上半身を起こしていた。
「阿求、寝てないとダメじゃないか。体に障るぞ」
やれやれ、と慧音は小さく笑みを浮かべて阿求を寝かしてあげようと両腕を阿求に伸ばす。
びくり、と阿求の体が震えた。
慧音の腕が止まる。
「阿求……?」
様子がおかしい阿求に慧音の顔から笑顔が消えていく。
阿求は慧音から目を逸らせたままだ。
「どうした? やっぱりまだ具合が悪いのか?」
それでも阿求は顔を慧音に向けない。
部屋の中に沈黙が走った。
「……慧音さん」
小さく、阿求は話し出す。
「しばらく、私たち。会わないようにしましょう」
時間が止まった。
そんな風に慧音は思った。
阿求に返す言葉がとっさに浮かばない。
なんとか口にしようと、慧音は喉の奥から声を絞り出す。
「……なんで……なんでだ、阿求」
しかし阿求は体を静かに横たえると、頭から布団を被ってしまう。
阿求からの拒絶。
慧音は呆然としたまま阿求を見つめていた。
どれだけ時間が過ぎようとしても、阿求は布団から顔を出さなかった。
この日から、二人の間で言葉が交わすことがなくなってしまった。
三日前のことだった。
※
「ずいぶん、思い悩んでいるみたいね。慧音ちゃん」
ふと慧音が気が付くと、永琳が湯呑を差し出していた。
中には温かい緑茶が入っていた。
「あ、ありがとう……」
ふと向こうを見ると、妹紅は輝夜や二人のイナバたちと花札をして遊んでいた。
永遠亭で夕食をご馳走になってから、慧音は縁側で阿求と付き合ってからのことを思い返していたのだった。
慧音が緑茶を啜ると、永琳はまた話しかける。
「話はもこちゃんから聞いたわよ……阿求ちゃんと喧嘩でもしたの?」
「……わからないんだ」
慧音は静かに湯呑を置いた。
二人は静かに竹林を見つめる。
永琳はそれ以上話しかけることはせず、慧音の聞き役に回っていた。
言葉を待っていると、慧音がぼそりぼそりと呟いた。
「阿求のことが、好きで。彼女の為に想って。でも、なんでこんなことになってしまったのか……嫌われたのかな」
「どうして?」
「私は、口うるさいからな……」
慧音は小さく「はは」と笑ってみせる。自虐の笑み。
だが、永琳も笑みを浮かべることはない。
じっと慧音の横顔を見つめていた。
永琳が慧音に話しかけた。
「どうするの?」
「どうするって……わからないんだ」
「このままでいい、って慧音ちゃんは思うの?」
慧音は力なく首を振った。
永琳の顔に笑みが浮かぶ。そして慧音の背中を――バシッと叩く。
「い、痛い!!」
「いつまでも迷っていても答えは出ない。行動をしてこそ答えは出るのよ。慧音ちゃん。阿求ちゃんが慧音ちゃんのことをどう思っているのか、ちゃんと聞いてきなさい。こうして悪戯に時間を過ごしていたら、本当に何も知ることがないまま別れ別れになっちゃうわよ……千年でも万年でも、今の一瞬に敵う物は無いの。ね?」
慧音が振り返ると永琳はにっこり笑っていた。
その顔を見つめているうちに、慧音の心の奥に阿求の笑顔が浮かんでくる。
会いたい。
声が聞きたい。
話がしたい。
慧音は立ち上がった。
「永琳。ありがとう、そしてすまない」
そう言い残すと慧音は玄関へと走り出す。
その顔は吹っ切れたような表情だった。
「何も今すぐ行きなさい、とは言っていないんだけどね」
永琳がくすくす笑うと、プピーと高く音が鳴った。
振り返ると輝夜が不満気に、どこからか取り出したリコーダーを適当に吹き鳴らしていた。
「永琳? 今、私の真似をしなかったかしら」
「あら? 覚えてないわ」
とぼけてみせると輝夜は頬を餅みたいにプクーと膨らませる。
「ありがとな、永琳」
妹紅が永琳にお礼を言う。鈴仙は俯いて心配そうな顔をしていた。
「もこちゃん。私は大したことはしてないわよ。二人がどうなるかなんて、二人にしか決められないことだわ。後は慧音ちゃん次第よ」
「さぁーて。この月夜にどんな風が吹くかな? 『月見で一杯』っと」
てゐが『芒に満月』の札を場に放り投げた。
※
慧音は走った。
薄暗い迷いの竹林を。
竹林を抜けて、月の下を。
灯りが落ちようとしている人里の中を。
阿求の屋敷に向かって、走った。
たどり着いたときには慧音は荒く肩で呼吸をしていた。
屋敷の門は何故だか開いていた。
門を潜り、玄関で呼びかけると使用人が出てきた。
「阿求様ですか? それが……先ほど出かけられたきり戻ってこられないのですよ」
「……わかった。ありがとう!」
慧音は再び門を出ると走り出す。
阿求がどこへ行ったのかはわからない。
しかし慧音の足は自然と動き出す。
二人が想いを打ち明けた、あの場所へ。
「……阿求」
「慧音さん?」
人里から少し離れた小さな丘の上。
芒に囲まれた桜の木の下で阿求は佇んでいた。
慧音が声をかけると、阿求は驚いたように振り向いた。
「探したぞ。まったく」
「…………」
慧音が阿求の傍へ寄る。すると阿求は慧音に背中を向けてしまう。
そんな阿求に慧音の胸が締め付けられる。
しかし。
(話すんだ。阿求と会って、向き合って話をするんだ。彼女の口から聞くんだ)
慧音の目からは戸惑いは消えていた。
慧音は一つ深呼吸をして、阿求に話しかける。
「阿求。お前が私のことを嫌いになっているのは、わかっているさ。私は不器用だからな。ついつい小言を言ってしまう、厭な性格だと自分でも思う。でも、ちゃんと阿求の口から聞きたいんだ……私のこと、嫌いになったか」
ドキドキと高鳴る心臓を必死に抑える。
しかし、阿求の返事は慧音の予想を超えていた。
「……嫌いになるわけないじゃないですか。好きですよ。慧音さんのこと」
慧音の顔に驚きの色が浮かぶ。
阿求の言っている意味が、とっさに理解できなかった。
「じゃ、じゃあなんであんなことを?」
「苦しいの!」
阿求が振り返って慧音を見つめる。
その目には――あの時と同じように大粒の涙が溢れていた。
月夜に照らされる阿求の白い肌をした顔。
慧音は息を飲んで見つめていた。
「私が辿る運命を知らされた時、私は自分に絶望したの。どうしてこんな目に合わないといけないのって。目の前が真っ暗になった。でも、これが『幻想郷縁起』を編纂する御阿礼の子の運命だと、無理矢理受け入れようとした。でも、慧音さん……貴女に会って、貴女のことが好きになってしまった」
阿求は俯いて言葉を続ける。
慧音は黙っていた。
「慧音さんに好きだって言われて、こんな私でも好きだって言ってくれて、嬉しかった。慧音さんが傍にいてくれると思うと、体が楽になった。だから御阿礼の子として、自分にしか出来ない役割を果たそうって思ったの。私は御阿礼の子だから。慧音さんが寺子屋で忙しいのに、私の為に無理をしてほしくなかったから、一人で勤めを果たそうした……でも私は不器用だから。慧音さんの優しさが、慧音さんが私の為に言ってくれることが、また私が辿る運命のことを思い出させて辛かったの。慧音さんをここに残してしまうことが怖くて仕方がないの!」
慧音は知った。
自分が彼女の為に言ったことが彼女を苦しめていたのを。
彼女の為にしたことが、好意からしたことが、彼女をより死を意識させていたことを。
呆然としながら、慧音は小さく呟いた。
「そうだったのか……阿求、すまなかった。私はお前の身のことを想っていたのだが、それが阿求を苦しめていたなんて気が付かなかった。はは、私は本当にダメだな……阿求。これからは……その、これからはな」
「……これから、どうするんです?」
はっと慧音が気が付くと、阿求は顔を上げて慧音を見つめていた。
慧音の言葉を待つように。
慧音は何も言えなかった。
頭の中に、言いたいことは頭の中に浮かんでいたのだが。
取材に一人で行っても何も言わない。
霊夢たちと無茶して異変を調査しても何も言わない。
阿求の好きなようにしたらいい。
私はもう何も言わないから。
しかし、口に出したら終わってしまうような気がした。
そして慧音はようやく気が付いた。
終わっていたのだ。とっくに。
初めから、二人の恋が終わっていたことに。
慧音は何も言えなかった。
「……から……慧音さん……」
阿求が声を絞らせて慧音に話しかける。
「慧音さんのことが、好きだから。誰よりも、大好きだから……だから、私と別れてください。お願いします……別れてください」
両手で涙を拭いながら、阿求は泣きじゃくる。
そんな彼女を見つめて、慧音は大きく息を吐いた。
桜の木の下。
二人の間に冷たい風が吹く。
慧音がそっと阿求に近寄った。
両腕を伸ばして、阿求を抱きしめようとした。
だが。
次の瞬間、慧音の頭に衝撃が走った。
追いかけるように左頬にじんじんと痛みが走る。
目の前で阿求が右腕を振り切っていた。
平手打ちされたのだ。
「……慧音さん、さよなら!」
そう言い残すと、阿求は涙を零しながら走り去ってしまう。
そんな彼女の背中が小さくなるのを、慧音は黙って見つめたままだった。
「……さよなら、阿求」
小さく呟いて、慧音の顔に小さく笑みが浮かんだ。
「阿求のこと、私は何も気が付かなかったなぁ。大好きな人だったのに……あはは」
その小さな笑い声が大きくなる。
月夜が照らす小さな丘の上。
桜の木の下で、慧音の泣き声が響き渡る。
秋風が吹いて、枯れかけた芒を小さく揺らした。
果物屋の主人の外見描写の必要性とは…?