Coolier - 新生・東方創想話

人間「聖白蓮」 最終話

2014/10/25 19:27:31
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最終話 人間「聖白蓮」

 丸められた原稿用紙の山に半ば埋もれるようにして、古明地さとりは黙々と執筆を続けていた。
 忠実なしもべであるお燐は先日地上へ向かったきり、一度も地霊殿には戻っていない。さとりの部屋が散らかり放題なのもそのためだった。
 一度執筆活動にのめり込むと、さとりにとってはそれ以外の行動の全てが無駄なものに思えてしまう。食べることも飲むことも、時には息をするのも忘れて、一心に書くだけの存在と成り果てる。
 そうなると、彼女の生活は麻のように乱れきってしまうのだ。
 だが、彼女には、その生活を改めるつもりはなかった。書くことに熱中している間は、辛い思い出や直視したくない現実も忘れることができるからだ。
(あともうひと息……!)
 紙の上を筆が滑る。一行一文が、小説世界に彩りをもたらしてゆく。登場人物たちが紙上に命を紡いでゆく。
 かつてない生産性を見せるさとりの執筆活動に水を差したのは、他でもない忠実なるペット、お燐だった。
「さとり様、さとり様! こいし様が……」
 勢い良く部屋の中に飛び込んできた妖怪猫は、息を切らしながらもう一人の主人の名前を口に出した。
 さとりの肩がビクリと震え、滑っていた筆が止まる。
「こいし? こいしがどうかしたの……?」
 おそるおそるさとりが尋ねる。すると、お燐は頭を垂れつつ上目遣いでさとりを見上げ、言い訳じみた報告を始めた。
「こいし様が、地上の人里の騒動に首を突っ込んでしまって……。引き止めはしたんですよ? でも……」
「でも、何!?」
「き、気づいた時にはもう、姿が見えなくて……見失ってしまいました……。たぶん、こいしさまはまだ人間の里に……」
「あの子! 何を考えてるの!」
 さとりは声を荒らげ、思わず机から立ち上がった。お燐は主人の怒りをやり過ごそうと首をすくめる。
 しばらくの間机の周りを思案げにうろうろ歩き回った末、さとりは意を決したように目を上げてお燐を見やった。
「お燐、お帽子の用意をして。私が直接、こいしを連れ戻します……!」

 ***

 白蓮は朝露ののった下生えを踏みしめ、まだ日の出前の魔法の森を歩いていた。
 魔法の森は妖気を多分に含んだ空気に満ちており、魔法使いである白蓮にとっては心地よい場所のはずだった。だが、今の彼女はひどく憔悴しており、そのような場の力もさほど効果がないようだった。
 人里の騒動から一週間が過ぎていた。この一週間の間に、幻想郷は元の平穏な日常を取り戻しつつあった。
 だが、白蓮の精神は未だ不安定に揺れていた。最近は床に入っても、悪夢に酷くうなされてまんじりともできない日が続いていた。今日とて床から跳ね起きた後寝付くこともできず、仕方なくあてどない逍遥に出たというわけなのだ。
 ともかくも精神の疲労が激しかった。その影響は日常生活にも及び、些細な事で激昂し弟子を責めたり、そうかと思えば、何事も手につかず長いこと呆けたようになることもあった。
 妖術で強化した肉体は疲労とはほぼ無縁と言っても過言ではない。だが、それに比して精神の方は格段に脆弱だった。これは妖怪の宿命とも言えるが、白蓮の場合は人間の頃からの性質がいまだに残っていると考えるべきだろう。
 しかし――。と白蓮は自問する。なぜこうもひどく消耗しているのか。何が原因で自分はこうも苦しむのか。大きな騒動も解決し、もう悩むことなど何もない筈ではないのか。
 冷静になって理由を探らなければならないと白蓮は決心していた。少なくとも、弟子の前で取り乱すような真似はもうしたくはなかった。
 彼女は路端に横たわっている岩に腰掛け、静かに目を閉じた。そして、己の内面の中へと徐々に沈んでいった。
 封印から開放され幻想郷に居着いて以来、白蓮には心休まる時がなかった。弟子たちの面倒を見たり、彼女らの引き起こしたトラブルの尻拭いをしつつ、参拝客や檀家の相手もしなければならないのだから、それもやむないことかもしれない。
 だが、多忙とはいえ、そのような日々の中に充実を見出していたことも確かだった。毎日眠りの床につく折には、淡い幸福感に包まれながら、仏の慈悲に感謝したものだ。
 それでは、先日の人間たちとのいざこざが直接の原因だろうか? ……それも違う。問題の本質はそんなところにはない。
 外界からどのような刺激を受けるにせよ、心の乱れは、あくまで自らの心自体に由来がある。目に映る他者への印象は、そのほとんどが、己の心のありようを模した虚像に他ならない。
 ならば、と、白蓮は己の心の裡を観察してみることにした。彼女は自らの中に渾然としている感情を一つ一つ腑分けし、心の目でじっくりと確かめ始めた。
 すると、次第に己の中の感情の区別がついてきた。
 焦燥、不安、怒り、悲しみ、失意……。心の表層に浮かび上がってくる感情の一つ一つを改め、名前をつけていく。そうして細かな感情を選り分けていくと、心の底に巨大な黒い感情が横たわっているのが見えてきた。
 敢えて目をそらし続けてきた感情だった。最近になって地底の妖怪に喝破され、再び首をもたげ始めたもの。
 ――それは、恐怖だった。
 不意に、心象の暗黒の中に声が響く。
『無様な姿だな、白蓮』
 心象の闇の中にぼんやりと人影が浮かび上がってきた。それは、あの人里の奸物、佐伯吾郎の姿だった。ひどく耳障りな声が、白蓮の剥き晒しの心を抉る。
『人間を辞めて千年をゆうに越したが、妖怪如来は生まれたかね?』
 これは妄執だ。白蓮は頭の片隅でそう判断していた。自我妄執が、吾郎の姿を借りて言葉を語っているのだ。
 彼は皮肉めいた笑みを口元に浮かべて、大仰に肩をすくめて見せた。
『人間ごときには悟りを開くことなどできないのだよな? 妖怪様じゃなけりゃ無理なんだよな? 所詮俺たち人間は、一生泥の中で足掻くしかないもんな』
 ククと喉の奥で笑うと、吾郎は白蓮に背を向けて闇の中に消えていった。
 白蓮の額から一筋の汗が伝い落ちる。
 心に響く声は、たとえ耳を塞いだところで決して鎮まりはしない。心をいたぶるこの手合は、無視していればいずれは大人しくなるものだ。
 だが、白蓮にはどうしてもこの声を無視する事ができなかった。
 白蓮の妄執は、恐怖という巨大な背景に大写しとなり、あくまでも彼女の気持ちを引きつけた。そうして気づかないうちに、彼女は暗い感情の泥沼の中に沈み込んでいった。
 左の耳の奥で、別の誰かが訥々と語り出す。
『人間というものは往々にして、今に行き詰まると、何か別のものに救いを求め始めるものだ。貴女は、人間である限り涅槃に至れないと判断した結果、妖怪の道に救いを求めた』
 豊聡耳神子が、白蓮の傍らに佇んでいた。
 彼女は訳知り顔で流し目をよこしつつ言葉を継いだ。
『あの子供を助ける時、随分と貴女は迷ったわね。彼を人間として救うか、妖怪として救うか……。そんなこと、自分の都合を抜きにすれば、考えるまでもないことなのに。貴女は、本当は他者の救いなどどうでも良いと思っているのではないか? 本当は、自分を救うために人妖を利用しているだけなのではないか? その気持ちを悟られたくないから、利他行などという言葉をもてあそんで善意の押し売りをしているのではないか?』
「違う!」
 神子の姿をした妄執は、なおも執拗に問い詰める。
『妖怪たちに対してしきりに仏法を説くのは、妖怪でも悟りに到れることを証明したかっただけなのではないのか?』
「違うッ!」
 悲鳴にも似た声で叫ぶ白蓮の顔は、今にも泣き出しそうなほどゆがんでいた。
 すると、今度は右の耳から別の声が突き刺さる。
『不妄語戒』
 短く発せられた厳しい声に、白蓮はびくりと肩を震わせる。傍らにあった神子の姿は、既に消えていた。
 代わりに立ち現れたのは、一人の小さな老婆の姿だった。襤褸を身にまとい樫の木を削っただけの棒切れを杖代わりにつく彼女の姿は、まるで乞食か世捨て人のようだったが、その目元には豊かな理性の輝きが垣間見えた。
 その姿を白蓮が見まごうはずもなかった。
 それは、人間だった頃の白蓮自身の姿だったのだ。
 おののく白蓮に対し、老白蓮は菩薩のような笑みを向け、穏やかな口調で語りかけてきた。
『切っ掛けは、本当に個人的なできごとでした。そうですね?』
 そう言って、老白蓮は遠くを見るように目を細める。かつての懐かしき日々を思い出すように。
『弟は慈悲深く聡明で、この世に二人といないすばらしい人でした。あの草庵で弟と一緒に過ごした日々は、本当に幸せでした』
 白蓮もまた思い出す。愛する弟と共に粗末な食事をした時のこと。共に仏法について語り合った時のこと。山の頂で共に奈良の平原を眺めた時のこと。信州からはるばる訪ねた弟に紙衣を渡した時のこと。その時の弟の嬉しそうな笑顔……。
 老白蓮は、そんな白蓮の追憶を容赦なく断ち切った。
『でも、無理です。もう二度と命蓮に会うことはできない。何度死んだって、何度転生を繰り返したって、貴女は彼の居る世界に辿り着くことはできない。……たとえ輪廻の果てに至ったとしても……』
 彼女はひと息つくと、諦めに似た表情とともに低く呟いた。
『なぜなら、貴女は愚かな人間だったから』
 白蓮の顔に暗い色が広がってゆく。
 老白蓮は彼女の顔を覗き込み、慰めるような声で囁いた。
『人間である限り、再び弟に相まみえることなど叶わない。ならば捨ててしまえばいいのです。己の中の人間の全てを』
 老婆の姿が消えた後も、白蓮の心の中には彼女の言葉が反響していた。それらの言葉の中に、耳の奥から聞こえる心臓の鼓動音が入り混じる。
 息が荒れる。寒気を感じ身体を腕で抱えると、ひどく身体が汗ばんでいるのがわかった。
 己のものとは思えない言葉の数々が心の中を跋扈する。だが、それらは紛れも無く白蓮自身の心が生み出した言葉だった。
 ――脱しなければ……。
 朦朧とする意識の端で、僅かに残された正気がそう警告する。
 しかし、もはや逃げることは叶わなかった。追い打ちを掛けるように、背後から鋭い声が飛ぶ。
『「私が寺に居た頃と人間は変わっていないな。誠に愚かで自分勝手であるッ!」』
 背後に浮かび上がっていたのは、地霊殿の主・古明地さとりの姿だった。彼女は両手に挟み込むようにして第三の眼をつかみ、不敵な笑みを浮かべながら白蓮を見つめていた。
『貴女は恐れている。棄てたはずの人間の残滓が、自分の中に未だ潜むことを』
 白蓮はさとりから目を逸らした。さとりは構わず語り続ける。
『貴女は足掻いている。妖怪としての生の先に、如来への道があると信じて』
 ……でもね、と、さとりは続けた。
『貴女は人間よ、聖白蓮。浅はかで、愚かで、自分勝手な……』
 さとりの姿は溶けるように消えていった。後には、白蓮一人が心象の闇の中にぽつねんと取り残されていた。
 耳の奥には、恐ろしい妄執が未だ響き渡っている。ことに、つい今しがた様々な人妖の口から放たれた言葉の数々は、残響のように耳から離れなかった。
 誰かの口を借りて語られたその言葉は、他でもない白蓮自身が心の奥底に秘めていたものだ。自分自身のものとは信じたくなかった言葉。数千年もの間目をそらし続けてきた本心だった。
 ――最初は、ただ自分のために。それが、いつの間にか大義名分に置き換わり。時間の堆積の果てに、かつての動機は無意識の奥に隠れたが。それは今なお断固たる行動原理として己を突き動かしていた。つまりは、そういうことなのだ。それが、偉そうに人妖の模範を気取ろうとする己の、本当の姿だ。
 項垂れた白蓮の肩に、ひんやりとした闇が降り積もってゆく。それを払う気力は、もう彼女には残されていなかった。
 白蓮は、その闇の正体を知っていた。
 ――これは、無だ……。
 『無』
 あまねく世界のいかなる縁からも外れた状態。
 かの古明地こいしが操り、操られる力。
 それが今、白蓮の精神を侵食しつつあった。
 だが、あれほど存在を否定していた『無』が、今の白蓮には不思議と恐ろしく思えなかった。むしろ、本当に恐ろしいのは、己の心の中で自分自身を喰らい尽くす恐怖という名の感情の方だった。
 頭の先まで虚無の深くに埋没すると、自分自身の心の声すら遠のいていく。
 ――このまま自我の存在すら滅してしまえば、このような苦しみから逃れることもできるだろうか。
 そんな観念が儚い意識の端に揺らめいて消えていった。
 白蓮の自我が闇の中に消え去ろうとしたその時、闇を切り裂くように一条の光がほとばしった。
 僅かではあるがはっきりとした光の点が彼方に瞬く。誘蛾燈に引き寄せられる小さな虫のように、白蓮の目はその光に釘付けになっていた。
 光は次第に強さと大きさを増して白蓮に迫ってきた。冷たく肌を刺す闇を追い出すように、その光は豊かな柔らかさとぬくもりでもって白蓮を包み込んだ。
 光の奥から、すっ、と手が伸びる。
 皺の寄ったいかめしい手だった。遥か昔に白蓮から紙衣を受け取った時と全く変わらない、懐かしい手。
「命蓮!」
 白蓮は衝動的に叫び、その手を掴もうと腕を伸ばした。
 伸ばした手は何度も空を切りながら、ようやくにして差し伸べられた手を掴む。
 闇が開けた。意識は瞬く間に現実に引き戻される。
 掴んだ手は幻覚ではなかった。だが、その手ざわりは存外滑らかで、形は随分と小さい。腕の主を確かめようと白蓮は視線を上げた。
 遡った視線の先に、白蓮は思いがけない者の姿を見た。
「……こいし……?」
「大丈夫、おねえちゃん?」
 小さな妖怪は心配そうに眉を寄せて、白蓮を見つめていた。
 白蓮は驚きを隠すこともせず、僅かの間呆然とその少女妖怪の顔を眺めていた。
 意識は現実に戻ったはずなのに、白蓮の視界はひどくぼやけていた。ややしてから彼女はその理由に気づいて、はたと自らの頬に手をやり、頬を赤らめた。
「あ、あのね、これはね……違うのよ……ちょっと悪い夢を……見ていたみたいで……」
 白蓮の釈明は続かなかった。
 こいしの細腕が、白蓮の頭をそっと押し抱いていたのだ。
 彼女は白蓮の耳元で囁いた。
「安心して、おねえちゃん。おねえちゃんが怖い目に遭ったら、私が守ってあげる。だから、大丈夫だよ」
「……こいし……」
 こいしの身体のぬくもりが、肌を通じて伝わってくる。白蓮の荒んだ心に、その暖かさがひどく沁みた。
 柔らかな胸の中に抱かれていると、それまで激しく己を責め苛んでいた心の声が次第に凪いでいく。
「どうして……」
 白蓮の喉から声が漏れた。
「どうして、貴女はそんなに優しくなれるの……? どうして……」
 白蓮の口からまろび出たのは、立場や威厳といった衣を纏わぬ、裸の個としての言葉だった。
 純粋に不思議だったのだ。かつての問題児だった彼女が、なぜこうも変わることができたのか。そして、なぜ、自身を滅ぼしかけた相手にすら慈しみを見せることができたのか。
 他方では、人間に対する憎悪を未だに捨てきれない者がいるというのに。
 こいしは躊躇いなくその質問に答えた。
「聖おねえちゃんが教えてくれたんだよ」
 白蓮ははっと目を見開いた。
「私が……?」
「そうよ。聖お姉ちゃんのおかげで、私は変わりたいって思えたの。もうなんの価値もない石ころみたいな妖怪なんかじゃない、誰かのために生きる妖怪になりたいって」
 こいしはそう言って、屈託なく笑った。
 刹那。白蓮は耳の奥に、鐘の音のように鳴り響く何者かの声を聞いた。
 懐かしい声。もう二度と現し世で聞くことはないと諦めていた声。
 それは、弟・命蓮の声だった。
『慈愛を忘れず、ただ一心に利他行の徳を積むことができるならば――』
 彼の声は、いつか聞いた言葉を再び白蓮に伝え、ほどなくして消えていった。
 もはや一片の迷いもなく、白蓮はこいしの小さな身体を抱きすくめていた。憚ることなく嗚咽を漏らしながら。
 こいしは、そんな白蓮の背中をただ黙ってそっと撫で続けていた。
 やがて白蓮の涙も乾いた頃、こいしは静かに身を離した。互いに目が合うと、どちらともなくはにかんだ微笑みをこぼす。
「ありがとう、こいし」
 感謝が、白蓮の口をついて出た。
 こいしは照れたように俯くと、するりと白蓮の手を取って言った。
「さ、帰りましょ。皆が待ってるよ」

 ***

 朝露の乾きかけた獣道の上を、こいしが弾む足取りで駆ける。その様子を白蓮は穏やかな眼差しで眺めていた。
「足元に気をつけて」白蓮が声を掛けると、こいしは「平気よ!」と叫んでくるりと回って見せた。地底では蹴躓いて転んでしまったが、今度は失敗せずに済んだようで、白蓮はほっと胸をなでおろす。
 上機嫌に鼻歌など歌ってみせていたこいしは、道の先に眼を向けた途端ピタリと足を止めた。
「あらっ? あそこにいるのって……」
 どうやら行く方の先に知り合いを見つけたらしい。目を凝らしてじっと見ているうちにそれが誰か分かったようで、彼女は跳ね上がるように駆けながらその者の名を呼んだ。
「ムラサだ! おーい、ムラサー!」
「あれっ、こいし、それに聖も……」
 名前を呼ばれて振り返ったムラサは、僅かに驚いたような顔をして白蓮とこいしの顔を交互に見た。この魔法の森で二人と出会うとは思っていなかったのだろう。
 一方の白蓮もまた不思議そうな目でムラサの姿を見ていた。もとい、正確にはムラサの背後に注意を向けていた。
 ムラサの背には、一人の人間の子供がおぶさっていた。子供の全身はずぶ濡れで、身体の端々から引きも切らず水滴が落ちていた。
 白蓮はすかさずムラサに訊いた。
「その子は?」
「玄武の沢で流されてたのを見つけたので助けたんです。多分河童に引き込まれでもしたんでしょうね。気を失ってるだけで命に別状はありませんよ」
 まっすぐに白蓮の目を見てムラサはそう答えた。白蓮は小さく頷く。
「命が助かったのなら何よりです。人里の子なら送り届けてあげなさい」
「はい、そのつもりでした」
 明瞭な返事とともにムラサは笑顔を作る。つられて白蓮も目を細めた。
 白蓮に促されて再び歩み始めたムラサは、何気なく、傍らを歩くこいしの顔をちらと見た。こいしはその気配に目ざとく気づき、すぐさま尋ねる。
「どうしたの?」
「う、ううん、何でもないのよ」
 平静を努めたつもりだったが、ムラサの声は微妙に上ずっていた。
(……新入りにばっかり良い格好させてちゃね。私だって……!)
 密やかな対抗心を燃やして拳を握るムラサの後ろ姿を、こいしは不思議そうに見つめていた。

 ***

 魔法の森を抜けた頃にはすっかり夜も明けており、街道を歩む白蓮ら一行の目に眩しい朝焼けが突き刺さる。
 空の彼方で威勢よく烏が鳴いていた。その声に混じって、何やら人のさざめきが白蓮らの耳に聞こえてきた。
「入道屋さんだ!」
「ホントだぁ! でっけえー!」
「入道屋さん、乗っけてよ! 高い高いしてー!」
「もー! あんたら、ちょっとは怖がらなきゃダメでしょ、私たちだって仮にも妖怪なんだからさあ!」
 白蓮らが歩く道の先で、子供たちが一匹の入道を取り囲み、賑やか極まりない歓声をあげていた。それに混じって一人の娘が神経質にがなり立てていたが、子供たちの視線がその娘に向けられることはついぞなかった。
 言うまでもなくそれらは一輪と雲山の両名だった。そして、彼らのもとに集っている子どもたちはおそらくは人里の子らなのだろう。
 雲山は弱り切った顔を見せつつも、子供たちの威勢に押されたか、幾人かを頭に載せて遊んでやっていた。それに気づいた一輪が、拳を振り上げ怒鳴り散らす。
 彼らの苦心惨憺たる様子は遠目にもはっきりとわかった。
 ムラサが楽しそうな笑いを浮かべながら一輪に近づいていく。
「一輪、苦労してるみたいね」
「他人事みたいに言ってないで、ムラサも助けてよ」
 雲山の禿げた頭から子供を一匹引っぺがしつつ一輪はムラサを睨んだ。
 そこに白蓮が割って入っていく。
「何をしているの?」
「あっ、姐さん。えーとですね……」
 一輪が説明するところによると、彼女と雲山は互いに相談した結果、自主的に人里周辺の警備を始めることにしたらしい。
 先日の人里の騒動では子供の失踪が問題になっていた。今回こそ、その真犯人は人間だと明らかになったわけだが、妖怪による人攫いも依然として発生している。キャッチアンドリリースが主流といえども、だ。
 命蓮寺の弟子という立場としては、人妖の平等という思想が寺の基本理念である以上、妖怪は人間の敵ではないということを印象付けなければならない。
 先般の出来事によって人間と妖怪との間には深い溝が穿たれてしまった。これからはその溝を埋めていく作業が必要だ。一輪と雲山はそう考えたらしい。
「妖怪に涅槃の境地は難しいかもしれません。ですが、もしかしたら、妖怪と人間の共生は可能かもしれない。最近はそう思うのです」
 そう言って、一輪はチラリと白蓮の傍らに立つこいしに視線を投げた。こいしは、顔の上に笑顔を貼り付けて小首をかしげるばかりだった。
 一方、白蓮は満足そうに何度も頷いて、胸の前で手を合わせた。
「それはとっても良い取り組みだと思います。一輪も雲山も、自分たちで色々と考えるようになったわね」
 白蓮たちが立ち話をしていると、道の向こうから何者かが猛然と駆け寄ってくるのが見えた。輝く銀色の髪をたなびかせ、息せき切って近づいてくるその娘は、雲山にアブラムシのように取り付く子供たちの傍まで近づくと、腕をしきりに振りながら子供たちをどやしつけた。
「お前たち、里の外に無闇に出てはいけないと何度言ったらわかるんだ!?」
 娘の姿を認めるや、子供らは甲高い嬌声をあげ、蜘蛛の子を散らすように逃げ去っていく。
「やべえっ、慧音先生だ!」
「みんな、逃げろ! 頭突きされるぞ!」
「慧音先生、また明日ー!」
 子供らが里の方に向かって走っていくのを見届けると、慧音はわざとらしいほど大きな溜め息ついて首を振った。
「まったく、困った子たちなんだから……」
 そう言って、慧音は苦笑した。それから彼女はきりと頬を引き締め、真摯な眼差しで白蓮を見やった。
「人里の周りを見回ってくれているそうね。ありがとう。里の者たちは建前があるから表には出せないけど、この前のことも含めて、みんな本当は貴女たちには感謝しているのよ」
 白蓮は慌てて首を横に振る。
「見回りは彼らが自主的にやっていることです。それにこの間のことは……」
 白蓮はそこで言葉を切って俯いた。決して褒められた動機ではないことを、白蓮は自分自身よく知っていた。
 そんな白蓮の様子を見て、慧音は皆まで言うなとばかりに鷹揚に頷いてみせた。
「広場での貴女と人間との会話は私も聞いていたよ。貴女にも、彼らに対して思うところがあるのだろう。だが、事情はどうあれ貴女たちの成したことは決して間違っていなかった。正しい行いも、間違った行為も、誰かが見ているものさ。それこそ……」
「……仏様が見守っている」
 白蓮と慧音は暫くのこと思慮深げにお互いを見つめあっていた。そこに脇からムラサが咳払いを交えつつ、やや恐縮しながら割って入った。
「あの、お話中のところすみませんが、この子のことを話していただけませんか」
「いけない! ごめんね、ムラサ、気がつかなくて……」
 白蓮がムラサの背負う子供について事情を話すと、慧音はさっと血相を変えた。
「何!? それを先に言ってくれ。分かった、その子は私が預かろう」
 慧音はムラサから子供を引き継ぐと、別れの挨拶もそこそこに足早に人里の方へ立ち去っていった。
 白蓮は慧音の後ろ姿が見えなくなるまで見送ってから、改めて弟子たちの方に向き直った。
「さあ、私たちもお寺に帰りましょう。朝の勤行を始めなければ」

 ***

 白蓮が千年の時を異界の果てで過ごす間、片時も忘れなかったものがある。それは、弟子たち一人一人の顔だった。
 巨大入道と入道使い、そして、船幽霊。封印の直前に見た彼女らの顔は、閉ざされた未来への絶望に染まっていた。だが、今の彼女らの顔には、平穏な日常を味わう者のみが浮かべる活き活きとした表情で満たされていた。
 軽口を叩き合いながら寺へと向かう石段を登る弟子たちの表情を、白蓮はその目にしっかりと焼き付けようとしていた。これから朝起きた時に思い出すのは、永遠とも言える時間の重なりの中で何度も反芻してきた絶望の表情ではない。今、この瞬間、何でもないこの瞬間の彼女らの笑顔をこそ思い出すのだ。そうすれば、その日一日もまた同じように笑って暮らすことができるだろう。
 白蓮にはもう一人、記憶の中の表情を書き換えなければならない者がいた。別れの予感だけを告げて寺を去った日。その者は、立ち去る白蓮の後ろ姿を呆然と見つめていた。
 石段を登り切る。その少し前から、白蓮らの耳には賑やかな楽器の音色が届いていたのだが、山門をくぐった途端、音が空気を震わす波となって彼女らの肌を細かく叩いた。
 門の傍らでは鳥獣戯楽の妖怪たちと幽霊楽団の面々が、一心に練習に励んでいた。彼らの口からはもう一言の悪態もついて出ることはなく、額に汗しながらひたすら互いの音に耳を傾けていた。
 白蓮は瞼を伏せてしばらくの間じっと彼女らの演奏に耳を傾けていた。その後、微笑みを浮かべて弟子たちの方に振り返った。
「あの子たち、最近はずいぶんと上手くなったわね」
「音も外れてないですしね。でも、よく聞いてみると、まだテンポが合ってないとこがありますよ」
 そう言ってムラサが意地悪そうに笑う。その横に立つ一輪は渋い顔をしていた。
「そんなことより問題なのは、彼らの演奏を妖怪や人間たちが縁日と勘違いしてしまうことよ。でも来てみたら何もやってないんだから、皆がっかりして帰っちゃう。このままじゃ、本物の縁日の時に参拝者が来なくなってしまうわ」
「その時は里の近くで告知をすれば良いのです。だから、彼らには自由にやらせてあげなさい」
 練習をする妖怪たちの周りには、人里から集まってきた子供たちが物珍しそうに妖怪たちの練習風景を眺めていた。傍の木の枝の上では封獣ぬえが相も変わらず退屈そうな様子で眼下の演奏を聴いていたが、山門から現れた一団の中に友達の姿を発見するやにわかに目を輝かせて身体を起こした。
 今の今まで白蓮たちの後ろから大人しくくっついて来たこいしは、群衆の中に知り合いの顔を見つけてあっと叫んだ。
「けいちゃん! もう歩いても大丈夫なの?」
 見事に当てが外れたぬえは不貞腐れたように枝の上で寝返りを打っていた。
 名を呼ばれた子供は驚いたように顔を上げたが、駆け寄ってくるこいしの姿を認めると再び気恥ずかしげに俯いてしまった。笑顔を向けて語りかけてくる少女に視線を合わせられないまま、彼はぶっきらぼうに答えた。
「あ、ああ。こいしが毎日看病してくれたおかげで、もう何ともないよ。今日はお礼に来ようと思って……」
「それでわざわざ来てくれたんだ。そのためだけに?」
 こいしは腰を捻って圭太の顔をじっと覗きこむ。これに圭太はどぎまぎしてしまって、ひとしきりキョトキョトと首を巡らせた挙句、咳き込むように頷いた。
「う、うん、まあね……」
「そっかあ。えへへ。ありがとね」
 底意のない笑みを花咲かせるこいしを見て、圭太の頬が赤らんだ。鯉のようにぱくついていた圭太の口からやっとのことで絞り出されたのは「なんでお前の方が礼を言ってんだよ……」などという恥ずかしまぎれのぼやき節だった。そんな彼らの頭上で、ぬえがわざとらしいくしゃみを一つばかり放ってみせた。
 そんな塩梅で人間と妖怪らが戯れる横を、練習を終えた響子が走り抜けていく。彼女は嬉しそうに尻尾をふりつつ、勢いこんで白蓮の元に駆け寄ってきた。
「お帰りなさーい!」
「ただいま。響子ちゃん、お歌上手になったわねえ」
 白蓮が微笑みながらそう言うと、響子は千切れんばかりに尻尾を振って跳ねまわった。
「えっ! 本当ですか!? わあい!」
 そのはしゃぎようといったらなかったが、声量もまた相当なもので、ゆうに人間の子供五人前ほどもあろうかという騒音を周囲にまき散らしていた。今まで歌の練習で喉を酷使してきた筈にもかかわらず騒々しさに一寸の陰りも感じられないのは、流石山彦といったところだ。
「実際、彼女、センスあると思うわよ~」
「最初の頃はどうなるかと思ったけどね!」
「ライブまでにはなんとか仕上がりそうね」
 騒霊三人娘も文字通り姦しく会話に加わる。練習開始の頃は殺伐とした雰囲気の漂っていた騒霊たちの表情にも、今は随分と余裕が見えていた。
 そこにもう一人、テンションの高い妖怪が飛び込んでくる。
「よーし、皆! 休憩終わり! もう一回通しでやってみよー!」
 夜雀のミスティアがジャカジャカとギターを掻き鳴らして近寄ってくると、竹筒から水を飲んでいたリリカは半ば呆れたように彼女を見やった。
「なんであんたが仕切ってんの?」
「あれ? このバンドのリーダーって私でしょ?」
「そんなの、いつ決まったのよ!」
「みすちー、私お腹すいちゃったー。もう今日は解散で良いんじゃない?」
「ああん、もうちょっと頑張ろうよ! せっかくノッてきたところなんだからさあ!」
「そういえば今日の昼ご飯の当番って誰だっけ?」
「いっけない! 私だわ。どうしよう、竈焚き今からじゃ間に合わないかも」
「しょうがないわね。漬け物と豆腐で我慢かなあ」
「何よ、話の流れからしてあんたが気を利かせてくれたのかと思ったじゃない。こんなこともあろうかと秘蔵の一晩寝かせたカレールーが……」
「おあいにく様でした。ていうか、ルーだけあってもダメでしょ」
「豆腐カレーじゃダメなの?」
「あら、こいし、冴えてるわね。どう、ムラサ?」
「知らんがな。カレールーがある前提で話を進めるな」
 女三人寄ればなんとやらというが、今やその三倍以上の少女らが境内に集ってめいめい好き勝手な会話に興じているのだから、そのやかましさときたらなかった。
 境内の賑やかさに引き寄せられるようにして、本堂の方からさらにもう一人、ゆっくりとした足取りで近づいてきた。
 彼女は凛然とした表情と堂々たる足取りでもって、周囲に威厳を見せつけていた。それこそが彼女の役割であり、
 彼女は白蓮の数歩ほどの手前で立ち止まり、合掌して丁寧におじぎをした。
 そうして顔を上げた彼女の目には、もう微塵の威厳も残されておらず。ただひたすらに柔和で人懐っこい微笑みに取って代わっていた。
 僅かな時間白蓮を真っ直ぐ見つめた後、穏やかな声で彼女は言った。

「お帰りなさい、聖」
「ただいま、星」

 ***

 中天に輝く陽の下を飛ぶ影が一つ。地霊殿の主であるさとりは今、数百年ぶりに太陽の光降り注ぐ地上を訪れていた。
 彼女はつい先程まで人里を駆けまわっていたが、今はそこから飛び出して里の外れに建立されているという寺に向かっていた。胸にはペットのお燐を抱きかかえ、その目から大粒の涙を流しながら。
「さとり様、あんまり無理なさらないでください!」
 叫ぶお燐の声は、主人の耳に届くことなく風に流される。
 ――こんなところ、もう二度と来るものか!
 さとりは鼻をすすりつつ、そう心に誓っていた。
 こいしを求めて地上に出たは良いが、その行く先にアテがあるわけもなく。仕方なしに人里に飛び込み、人間から話を聞き出そうとしたのだが、それがケチのつき始めだった。先日の人里の騒動の余韻が残っていたのか、はたまた妹を探すさとりの剣幕に問題があったのか。おそらく後者だったのだろう、人里の真ん中でヒステリックに喚き散らす妖怪の姿を見て、ある者は眉をひそめながら無視を決め込み、ある者は侮蔑的な白い目で睨みつつ舌打ちをした。
(気の狂った妖怪か……)
(最近増えたよな、人里を我が物顔でうろつく妖怪……何様のつもりなんだろう)
(うわ、こいつ心を読むのか! 覗き趣味かよ、最低だな……)
(頭のおかしくなった妖怪ほど見苦しいものはないな。早く駆除してもらわないと……)
(なんでこんな迷惑な奴がのうのうと生きてるんだろう。地上から消えていなくなればいいのに)
 彼らの心の中で密かに囁かれるのは悪意と偏見に満ちた口汚い言葉で、それもやがてはっきりとした拒絶に変わっていった。
 ――こつん、と、どこからともなく小石をぶつけられる。石を投げた者の姿は見えなかったが、敵意だけは第三の眼が敏感に捉えていた。
 それはさながら、かつて地上から逃げ出した折のやりとりを追体験しているようだった。
 駆けつけた慧音からこいしの消息を聞き出せた頃には、さとりの心は枯れ木のようにやつれ果てていた。
 地上を離れ幾星霜、久しぶりに見た人間は、昔から何一つ変わってはいなかった。さとりは強く歯をくいしばってその苦い事実を噛み締めていた。
 命蓮寺の境内へと続く石段の上を滑空する。向かう先には愛しい妹がいるはずだ。彼女の手を掴んだらば、決してその手を離さず連れて帰るのだ。旧地獄の楽園、安息の地霊殿へ。そして、もう二度と、誰もこの地上と地底との間を行き来出来ないように、開いてしまった間欠泉の穴は全て塞ごう。石段を登るにつれ、さとりの頭の中でそのような算段が着々と構築されていった。
 山門の脇までたどり着くと、さとりは柱の陰に身を寄せて、境内の方をこっそりと伺った。
 境内はやけに賑わっているようだった。さとりの眼は左右に揺れながら、こいしの姿を探す。
 妖怪寺と呼ばれる割に、随分と人間の姿が目についた。納経帰りの老婆がゆるゆると歩む横を、かくれんぼに勤しむ妖怪の子供らが駆け去っていく。本堂では妖怪と人間が肩を並べて参拝をしており、手水舎では妖怪と人間が柄杓を貸し合う姿まで見うけられた。
 不思議な光景だった。少なくとも、先ほど散々な思いで退散した人里と較べると、まるで別世界のように見えた。
 さとりの第三の眼に、人妖の心の声が聞こえてくる。内に秘めた思いもあれば、明白な意思もあるが、彼らの共通の願いは一つだった。
(人間と妖怪が、手を取り合って生きられる日がきますよう……)
 ――あら?
 彼らの心をつぶさに観察していたさとりは、自身の視界がひどく滲んでいることに気づいた。
 乾きかけていたはずのさとりの頬に、彼女自身も知らぬ間に、再び涙が伝っていたのだ。
 拭っても拭っても、涙は止めどなく溢れてくる。
 山門の脇で黒猫を抱えながら泣き濡れるさとりの耳に、聞き慣れた声が飛び込んできた。
「けいちゃんも食べてくんでしょ?」
「えっ……いいよ、僕は……」
「遠慮しないで食べてきなさいな。皆で食べた方が美味しいわよ」
「まっずいよ! 何言ってんだよ、聖! 一人で肉食うか皆で葉っぱ食うか選べって言われたら、私なら断然肉を選ぶね」
「ぬえ、あんたは一人で葉っぱ食ってなさいよ」
「だってさ、ぬえちゃん!」
「なんだよ、こいしまでさあ~」
 かまびすしく語らう人妖のただ中に、さとりはこいしの姿を見つけ出した。
「こいし……!」
 いましも山門の陰から飛び出そうとしていたさとりは、すんでのところで思いとどまった。
 こいしは今、多くの笑顔に囲まれていた。人間も妖怪も関係なく、ごく自然に仲間として受け入れられている。皆がこいしと言葉を交わすとき、その心の中には穏やかなぬくもりのある光が満ち溢れ、陰る気配もなかった。
 それはさとりがかつてどれほど望んでも手に入れることのできなかったものだった。
 こいしは、おそらくそのことに気づいていないだろう。
 この場でそれを知ることができたのは、心を読めるさとりだけだった。
(……よかったね……こいし……)
 ぬえにほっぺたをつねられ笑い泣きするこいしを、さとりは山門の陰からただ目を細めて見守っていた。
「帰りましょう、お燐」
 風の音のようなささやき声がさとりの唇から漏れた。
 お燐もすでにこいしの姿に気づいており、彼女は二人の主人の間で視線を何度も行き来させていた。そしてさとりの言葉を聞くや、泡を食って叫んだ。
「でっ、でも、このままじゃあいつらにこいし様を取られちゃいますよ!?」
「そんなことはないわ。こいしは帰ってくるわよ。私たちの家なんだもの」
 さとりはお燐の大げさな物言いに苦笑しつつ、たしなめるようにそう言った。
 だが、お燐はさとりの言葉にどこか納得しきれていないようで、しきりに喉を鳴らしていた。
「……でも……これじゃさとり様が……(一人ぼっちになっちゃう……)」
 言い淀んだ言葉の先を、第三の眼は捉えていた。さとりは微笑みながら、愛するペットの眉間をそっと撫でた。
「ありがとう、お燐。でも、私には貴方たちがいるから良いの。さあ、行きましょう。皆きっとお腹をすかせているわ。そうね、今日は素敵な気分だし、皆の好きなものを食べさせてあげる」
「えっ? 好きなものを、ですか?(アユ……アユが食べたい……)」
「そうねぇ、お燐にはアユなんてどうかしら?」
「わーい! さとり様、大好き!(さとり様、大好き!)」
 はしゃぐ黒猫を胸にしっかと抱えたままさとりは踵を返し、石段を一歩一歩下っていく。
 その頬に伝っていたはずの涙は、もうとっくに乾ききっていた。

 ***

 地底からの客人が参道にすら足を踏み入れずに去ってゆく。境内には一人だけ、その様子に気づいている者がいた。
 聖白蓮は古明地さとりの後ろ姿が参道の端から見えなくなるまで、黙したまま丁寧にお辞儀をしていた。傍らに侍っていた星がそれに気づいて尋ねる。
「どなたかいらっしゃいましたか?」
「いえ、もう帰られました」
「どなたです?」
「……恩のある方です」
「恩の……」
 白蓮の言葉を繰り返すと、星は背筋を伸ばした。
「でしたら、ぜひ境内をご案内いたしましょう」
 慌てて石段の方へ駆けようとする星を、白蓮が静かに押しとどめた。
「いえ、無用です。あの方にはあの方なりの距離感というものがあるのです。それを無視して無闇に踏み込んではいけません」
 穏やかだがはっきりとした物言いに、星は気圧されて足を止めた。
「それより見て、星」
 白蓮は視線を境内に向けた。星もその視線を追う。
 境内は信心深い者たちで溢れかえっていた。その殆どが妖怪だったが、中にはちらほらと人間の姿も見うけられた。彼らのような人間は、人里の中でも特に妖怪に対し友好的で物怖じしない者たちであり、言葉さえ通じれば妖怪相手でも世間話に花を咲かせていた。寺にやってくる妖怪たちも心得たもので、そのような敵愾心のない人間に対して敢えて怯えさせるような真似はしなかった。それどころか、一部の妖怪はそうした人間との交流を楽しんでいるようにも見えた。
 その光景の中に、白蓮はかねてからの理想の一端を垣間見ていた。
 彼女は嬉しそうに星を見上げ、内緒事を話すように囁いた。
「まだ、人間の数は少ないけれど、ね」
 星もまた微笑みを返しつつ悠然と肯う。
「そうですね。でも、いつかは……」
「聖お姉ちゃん、ご飯~ご飯~」
 星の言葉は、横から割り込んできた声に遮られた。
「あっ、こら、聖様に馴れ馴れしく触れるな!」
 甘えた声で白蓮の腕に抱きついてきたこいしを、一輪が見咎めて駆け寄ってくる。
「ほらほら、喧嘩しないの」
 今しも取っ組み合いを始めそうな二人の妖怪の肩に手をかけ、白蓮は柔らかくたしなめた。
 手のひらを通じて、弟子たちのぬくもりが伝わってくる。
 このぬくもりを、いずれ人間と分かち合う日がくるまで、白蓮は仏法を説き続けることだろう。それを良しとしてくれる者たちがある限りは。
 空を仰ぐ。
 いつか、悠久の時間の果てに、最愛の者と相見える日を願って。

 ***

「完成……!」
 机の上に散乱していた原稿を苦労の末にまとめ上げると、ひとつかみの分厚い紙束になっていた。それを目の上に掲げ、さとりは満足そうに目を細めていた。数ヶ月にわたって書き綴ってきた長編小説が、ついに、ようやく、たった今書き上がったのだ。
 筆の滑るままに書きに書き散らした原稿用紙は、しめて五百枚。束ねた厚さはさとりの小指の長さほどもあった。それを両手に持って掲げると、ずしりとした重みが腕に伝わる。見た目以上に重いのは、言葉とともに魂が原稿用紙の中に染み込んでいるからだろう。
 静寂に包まれた書斎に、さとりの含み笑いの声が漏れ響く。掲げていた紙束を小さな胸に抱きかかえ、さとりは椅子を蹴って立ち上がった。そして、軽やかな足取りで部屋の中を小躍りに踊り始めた。
 さとりが浮かれ踊りながら原稿完成を祝す歌などを口ずさんでいるところで、部屋の扉が勢い良く開け放たれた。
「お姉ちゃん、見て見て!」
「こいし! まあ、どうしたの、その頭!」
 こいしは、いつも頭に載せているお気に入りの帽子の代わりに、浅葱色の頭巾を頭に巻きつけていた。それはまさしく尼僧スタイルとでも呼ぶべき格好だったが、首から下はいつもの洋服を身につけているため、見た者に非常に残念な印象を与えていた。
 しかし、こいし自身は第三者の目など気にも止めていないようで、天真爛漫な笑顔を弾けさせながらさとりの前でくるりと回ってみせた。
「一輪おねえちゃんに貰ったの! ねえ、似合う?」
「やめなさい、絶望的に似合ってないわよ! ファンシーな洋服に頭巾なんて悪趣味です!」
「えー、ひどーい」
「持っててもいいから頭にかぶるのだけはやめて。お願いだから。お姉ちゃんに恥かかせないで」
「むー。わかったよ、しょうがないなー」
 こいしは頬を膨らませつつ、渋々とした様子で首から頭巾を引っこ抜いた。
「今日もお寺?」
 部屋の隅に立つ帽子掛けに手を伸ばしながら、さとりが尋ねた。
「ううん、今日はぬえちゃんと人里で遊ぶの!」
 いつもの帽子をさとりから手渡されたこいしは、悪びれもせずそう言い切った。あまりにはっきりとした物言いに、さとりは一瞬自分の耳に誤りがあるのではないかと戸惑った。それだものだから、おかしいと思いつつも、彼女は敢えて尋ねたのだ。
「……修行はどうしたの?」
 不安げなさとりの問いに対し、こいしの答えは明白だった。ただの一言。
「飽きた!」
「……」
「行ってきまーす!」
 言葉を失ったままのさとりを捨て置きにして、こいしは片手で帽子をかぶりつつ、さっさと部屋から出て行ってしまった。
 ただ一人部屋に取り残されたさとりはしばらくのこと呆然としていたが、やがて独りごちるようにぽつりと呟いた。
「ま、いっか……」
 さとりは小説を描き上げるといつも、とっておきのローズティーを飲む。作品が完成した後のローズティーは格別の味がするのだ。彼女は書き上げた小説を机の上にそっと載せると、湯を沸かすためにそそくさと部屋を後にした。
 彼女が小走りに歩み去ると、その勢いで机の上に載せた原稿の一枚が床に落ちた。
 落ちた原稿用紙は、小説の最後のページだった。その末尾はとりわけ丁寧な筆致でこう締めくくられていた。

                            『人間「聖白蓮」 了』
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最後までお付き合いいただいた皆様、ありがとうございました。
書いている途中で何度か頭をかきむしる事態に陥りましたが、なんとか書き終えることができました。長かった……。
作品内外で色々と拙い処はありましたが、結果的には当初予定していたものに近い内容が書けてよかったです。
それでは、またいつか何処かで。
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(2014-11-01 追記)
以下返信です。

>>dai様
ええ、本当にそう思います。

>>3様
おおー感性近いと言っていただけるとちょっと安心します。

>>4様
さとり様も意外と重要なポジションにいましたね。面白いと言っていただきありがとうございました!

>>5様
皆様もそうですが、最後までお読みいただき本当にありがとうございました。
前話で幾度か指摘されている通り描写不足で読み苦しい箇所があるかと思います。そのような箇所がありましたら遠慮なくご指摘ください。

>>6様
ありがとうございます!

(2014-11-15 追記)
>>8様
お褒めいただきありがとうございます!東方では初投稿ですがそれ以前はオリジナルでいくつか書いていました。これからもどうぞよろしくお願いいたします

(2014-11-22 追記)
>>11様
嬉しいコメント、ありがとうございます!
読んでいただいた方に満足してもらえればそれでいいかな、とも思いますが、そもそも読まれないのは確かに残念な気もします。さてどうしたものか、というところですが。。。

(2015-05-07 追記)
>>12様
ありがとうございます! 楽しんでいただけてなによりです。

>>13様
ご指摘ありがとうございました! 確かにこれは表記ブレですね。修正いたしました。
すずかげ門
[email protected]
http://twitter.com/suzukagemon
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コメント



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2.100dai削除
啀み合うより笑い合う方が遥かに素敵ですよね
3.90名前が無い程度の能力削除
もう聖は真言坊主辞めて、禅でも始めたら良いんじゃないかな
それと凄くどうでも良いんですが、物語の落とし方を見るに、作者さんと感性が近いようで、なんとなく親近感が湧きました
4.90名前が無い程度の能力削除
さとりが出番の割に物語に絡んでこないと思ったらそう言う事か
多少アラはあるかもしれないが面白かったです
5.100名前が無い程度の能力削除
文句無しとは言えないが、終わりまで読み切ってみれば聖の葛藤はとても繊細に描写されているし、全体として丁寧な文章も気持ち良く読ませてくれた。現段階での一つの聖白蓮を書ききった良作と言えるのではないか。とても満足した。長編お疲れ様です。こちらこそ有難う。
他方自分の読解不足かもしれないが、こいしの心の推移は追いきれなかった。もう一読して来ます。
6.100名前が無い程度の能力削除
面白かったです
8.100名前が無い程度の能力削除
初投稿でこの文章力‥‥‥‥やはり天才か。
次回作も楽しみに待っています。
11.100名前が無い程度の能力削除
とても面白かったです
緊迫するようなシーンで、つい感情移入してしまうような丁寧な心理描写や感情の動きには脱帽せざるおえません。ただ長編であるせいか、この作品があまり大勢の方に読まれていないのが悲しいです。
12.100名前が無い程度の能力削除
面白かったです
13.100名前が無い程度の能力削除
すごくよかった

誤字脱字的指摘ですが
白蓮のマミゾウへの呼びかけ、呼び捨てとさん付けが混在してました
14.90名前が無い程度の能力削除
タイトルが物語の〆に収束していくのが王道っぽい作りで好き