第五話 人妖のはざま
竿の先に結び付けられた黒い一枚の布が、湿った風に吹かれて夕暮れの空を撫でている。
人里のとある民家の門前に掲げられた弔旗を、袈裟姿の白蓮と一輪が見上げていた。
日頃から昵懇にしていた檀家の親族に不幸があったと聞き、二人は弔問に赴いたのだ。
本来ならば枕経の依頼があるまで敢えて伺いを立てるようなことはしないのだが、この家に関しては特別だった。
この檀家とは命蓮寺設立当初からの付き合いがあった。彼らには白蓮らが幻想郷に馴染めるよう四方八方に手を回し、彼女たちが人里の人間からも信仰されるよう便宜を図ってくれた恩がある。立場はどうあれ、まずは見舞いに出向かねば非人情というものだった。
しかしながら、檀家の屋敷に向かう二人の足取りは重かった。やっとのことで屋敷の門前に辿り着いた後も、今度はその門を跨ぐのに二の足を踏んでしまい、なかなか家の扉を叩くことができないでいた。
それというのも、最近人里を騒がせている幾つかの不穏な噂が原因だった。
普段から人里にはまことしやかな噂が無数に漂っており、それらは時に話題の種に、時に娯楽に、そして時には注意喚起の材料として、人々の生活の中に浸透していた。
平時ならば、それら噂の多くは取るに足らない内容で占められており、姿勢を正して聞こうなどという者は誰もいなかったろう。だが、今は違う。
今、人里は稀に見るほどの緊張状態の只中にあった。数日の間に人里で起きた一連の事件に端を発するこの緊張状態は、人々の間に恐慌にも似た危機意識を呼び起こし、それに伴い噂の質も変化していたのだ。牧歌的な世間話は鳴りを潜め、聞けば眉間に皺の寄るような話が人里を跋扈し始めていた。
人里の空気を変えた出来事の発端を遡ると、やはり噂に辿り着く。
それは、取替え児の噂だった。どんな噂だろうか。尾ひれのついた噂の内容を平均すれば、話の骨子は見えてくる。してみると要するにその噂というのは、山の妖怪が仲間を殺されたことへの報復として、里の長者の家の息子が妖怪の幼生と取り替えられたという内容だった。
その噂を裏付けるものは多くなかったが、長者の家の者が里の医者の門を叩く姿が頻繁に目撃されており、少なくともかの家の誰かの身に何がしか起きたことは間違いなかった。
もっとも、当の長者というのが妖怪嫌いで知られる葛城家であることから、噂の真偽はともかく、結局のところ自業自得ではないかという見方が人々の大半を占めていた。
そんな折に、第二の噂へと繋がる別の事件が起きた。
ある霞けぶる朝のこと。豆腐屋の隠居が朝の散歩の途中、里の真ん中にある広場に通りかかった。その時、少し先の地面に黒い影の横たわっているのが見えた。何かと思い近づき見た途端、隠居は腰を抜かしへたり込んだ。
黒く見えたのは、土に染み込んだ血だまりだった。そして、その血だまりの中央に、刮目したままの子供が、石のように横たわっていた。
子供は、顔から手足の先に至るまで全身が乾いた血糊で覆われていた。開いたまま微動だにしない眼と口に蝿が数匹たかっており、一目で事切れていると知れた。
人里の不幸はそれだけで終わらなかった。翌日、翌々日と立て続けに、同様の事件が里の中で発生したのだ。そして、その犠牲者のうちの一人が、今、白蓮らが訪れようとしている家の一人娘だった。
里はにわかに恐慌に陥った。
里の話題はこの事件でもちきりとなり、親は自分の子供を家の外に出したがらなくなった。目明しが犯人探しのために昼夜問わず駆けまわり、日が落ちてから夜が明けるまで、里の中を行き交う行灯の灯が消えることがなくなった。
と、同時に、ある噂がまことしやかに囁かれ始めた。
――子供は妖怪の手によって殺められた。
そんな内容だった。
この噂、何も突然降って湧いたものでもなく、根拠があった。
それは、遺体のあった場所の周囲に、黒く巨大な鳥の羽根が幾枚も散らばっていたことだった。
これについては、最初に遺体を見つけた翁も、その後駆けつけた人々も、皆はっきりとその眼で見ている。そして、その後起きた事件の現場にも同様の特徴が見受けられた。
ただの鳥の羽根でないことは間違いなかった。その羽根は、幻想郷に生息する野生の鳥類のどれよりも、遥かに大きかったのだ。
そのような巨大な羽根を見て、里の人々が、かの妖怪の山に巣食う恐ろしい烏天狗の姿を想起したとしても、それは無理からぬところだった。
噂は多くの人の耳に入り、それがまた口から出る過程で、新たな噂に変わっていく。
いつしかこの事件は先の取替え児の噂と結びつき、最後には『山の妖怪が人里に潜み、子供を殺して回っている』という話になって定着した。
そうなってしまうと、もう後は集団ヒステリーが起きるのを待つばかりということになる。
そのような状況下で、白蓮たちは人里に訪れたのだ。
彼女らが人里にやってきた理由の中には、これら二つの噂の裏付けを取るという目的も含んでいた。彼女は村紗水蜜と封獣ぬえを妖怪の山に遣わせ、山の神と協力して事実関係の確認を行う心積もりでいたが、その前にまず人里の状況を調べておこうと考えたのだ。
この噂に対する白蓮の考えは明白だった。
――今回の事件は、妖怪の仕業ではない。
幻想郷の妖怪は、人里にまで出張って人間の肉体に危害を与えるようなことはまずしない。先の妖怪殺しの話は既に白蓮も聞き及んでいるが、殺されたのが山の主要構成員たる天狗ではなく一介のはぐれ妖怪であることは、寺に来る妖怪の話や弟子たちの調査から既に分かっていることだった。いくら山の妖怪といえど、その組織に与しない者のために義憤にかられるほどの過剰な地域愛は持ちあわせていないし、そうした妖怪のために組織的な労力を割くほど暇でもなかった。余暇を潰す娯楽としても、もう少しマシなものはいくらでもあるのだ。
山の妖怪には動機がない。では、本当の犯人は誰なのか。
それを調べるのは本来目明しの仕事なのだが、既に妖怪の仕業と思い込んでいる里の人間たちに押され、本来の仕事を十分に遂行しているとは言いがたかった。
白蓮は動いた理由はそこにあった。妖怪と人間が平和に暮らせる理想郷を幻想郷の中に見出そうとした白蓮にとって、現在の状況は決して良い方向に向かっているとは言えなかったのだ。
白蓮の傍らには、一輪が緊張した面持ちで付き従っていた。白蓮の促しによって彼女は進みいで、一瞬の逡巡の後、檀家の家の門を叩く。
家の中は異様なほどの静けさを保っており、一輪が門を叩いた後もしばらくその静寂は続いた。肌に刺すような静寂だった。
やがて、門の脇に据え付けられた小窓がそろそろと開き、中から門衛と思しき人間の顔が覗いた。白蓮らの姿を見た途端、彼の目元は当惑したように眇められた。
「住職……」
「……この度のご家族のご不幸、心よりお悔やみ致します。日頃からのご懇意を慮りまして、失礼かとは存じましたが弔慰のため参じさせていただきました。亭主様はご在宅でしょうか?」
「旦那様はただ今、会合に出ていらっしゃいます。恐縮ですがお引取りいただけますか」
「左様ですか。それでは、また後日……」
門衛は白蓮の言葉を最後まで聞き終わらぬうちに小窓を閉じた。
ほどなく閂を抜く乾いた音がし、観音開きの門の一方が開くと、中から先ほどの門衛が滑り出てきた。
彼は早足でまっすぐ白蓮の許に近寄ると、押し殺した声で囁きかけた。
「住職、いけません。早く里をお離れください」
門衛の男はこわばった面差しを白蓮に向けて、そう言った。
彼の言葉の意図を悟った白蓮は、ゆっくりと頷きつつ、穏やかな声で彼をなだめた。
「件の噂については存じています。しかし、私は人間を辞めたとはいえ人間の心を忘れたわけではありません。親しくお付き合いをさせていただいた方の身にご不幸があれば、経の一つとは言わぬまでも、せめていたわりの言葉をおかけしたいと思うのは当然のことではないでしょうか?」
「それは……それは、大変有り難いことですし、おっしゃる通りかもしれませんが、しかし……」
「どうした、客か?」
門衛がしどろもどろになって答えに窮していると、彼の背後の門の向こうから、聞き覚えのある声が聞こえてきた。
声の主が門の端に手をかけ、ゆるゆると門を押し開く。やがて現れた声の主の姿を見て、白蓮は痛ましげに眼を細めた。
やつれ果てた、檀家の家の主人の姿がそこにはあった。食事を摂れていないのか頬はこけ、ろくに眠れていないようで眼の下が黒々と隈で縁取られていた。
彼は白蓮の姿を見ると、暗く落ち窪んだ眼窩の奥で瞼を見開き、「貴女は……」とだけ呟いて絶句した。
二の句を継げぬ主人の姿から視線を外し、白蓮は丁寧に頭を下げた。それから弔意を伝えるために口を開こうとしたのだが、彼女の言葉が喉から出るより先に、主人の意思が彼の口を衝いて出た。
「……お引取りください」
その一言だけ放ると、彼は踵を返して家の中に戻る素振りを見せた。
白蓮はそんな彼の背中に慌てて声をかける。
「お待ちください! 私はこの幻想郷に根を下ろして以来、貴方様にはどれほどの恩義を受けてきたか知れません。もしも叶うなら、お力になれればと思いお伺いしたのです!」
咄嗟とはいえ、無論本心から出た言葉だった。
檀家は足を止め、半身を白蓮たちに向けた。彼は白蓮らに視線を合わせず、じりじりと低く唸るような声で、こう尋ねた。
「……今、里を騒がせている噂についてはご存知か?」
「……はい」
白蓮の背後に控えていた一輪はその時、師の唇が僅かに震えるのを見た。彼女は門衛や檀家の視界の外で、そっと白蓮の背中に手をやる。
檀家の声もまた、僅かに震え始めていた。油断すると暴発しかねない感情を必死に抑える声だった。
「ならば察することはできませんか? 娘を殺された親の気持ちを。遺体が発見されてもう何日も経っているのに、いまだに犯人が見つかっていない。この状況で私がどういう気持ちでいなければならないか、貴女には理解できますか?」
「……お察しします……」
檀家の全身が痙攣したように震え始めた。彼の首が小刻みに震えながら白蓮らの方を向く。その目が白蓮の目を真っ直ぐに見据える。
精神の正常な人間の目ではなかった。
そしてついに、彼は抑えていた感情を開け晒した。
「なら、今すぐ私の前から消えてくれ! 私は今、妖怪の顔など見たくもないんだ!」
閑静な周囲一帯に怒声が響き渡る。
白蓮の背に触れていた一輪の掌に、びくりと痙攣が伝わった。
檀家は直後我に返り、少なからず衝撃を受けたように口元に手をやった。そして彼は、恥じ入るように顔を背けると、そのまま身を翻して門の中へと消えていった。
残された者たちはしばし呆然とその様子を眺めていたが、やがて門衛がおずおずと口を開いた。
「住職、旦那様はあの通りです……。お嬢様を襲った犯人はまだ見つかっていませんが、もうそれは妖怪ということになっているのです」
「お待ちください、それは……」
門衛の言葉に一輪が反論しようと身を乗り出したが、白蓮はそれを腕で制した。檀家の主人の様子を見れば、ここでその真偽を論じたところで水掛け論になるだろうことは容易に想像がつく。
彼の言葉が全てを表していた。
――犯人は妖怪『ということになっている』のだ。
門衛が言葉を続ける。
「血の気の多い連中の中には妖怪を撃滅しようと言う者も現れ始めています。……住職、差し出がましいようですが、今は人里から離れた方がいい。いや、本当を言えば、人里近くに建てられた命蓮寺も危ないのです。お弟子様共々、ほとぼりが覚めるまで竹林か森にでもお隠れになった方がよろしいかと思います……」
彼はそこまで言うと、逃げるように白蓮らに背を向け、門の中に滑り込んだ。外界の全てを恐れる勢いで門が閉じ、閂の掛けられる音がする。
一輪は門衛の早業を見せつけられて呆気にとられるばかりだったが、一方の白蓮はそれどころではなかった。
先ほどの話、特に、門衛から得た情報は、白蓮が当初想定していたよりも状況が切迫していることを示していた。
白蓮の脳裡には、ある情景が想起されていた。
それはかつて、弟子たち共々人間に封印された時の情景だった。
話を聞く限り、現在の状況は、当時の状況に酷似している。
まだ、現状をその目で見て把握している訳ではないので、断言はできない。だが、予断を許さない状況であることは確かだった。
――封印から解放されたと思えば、また同じことを繰り返すのか――。
夢の中で見た光景が、頭の裏側で幾度と無く繰り返される。腹の底から灼けつくような戦慄がほとばしると同時に、膝は情けないほどに笑っていた。
傍らに侍る一輪は、そんな白蓮の様子を慮り、気遣わしげに声をかけた。
「姐さん……」
またしても弟子に心配をかけてしまっている。情けなさも加わって、白蓮の胸がきつく締めあげられた。
「……大丈夫です。また、昔のことを思い出してしまってね……」
微笑んでそう返すと、彼女はひとつ、ふたつと深呼吸をし、口の中に真言を含んだ。
そうして落ち着きを取り戻すと、白蓮は凛然と顔を上げ、門の向こうに居るはずの男に向かって声を張り上げた。
「ご忠告ありがとうございます。……私どもが必ずや、里に蔓延る暗雲を打ち払ってご覧に入れます。ご亭主にはくれぐれもご自愛をとお伝えください」
聞こえたかどうかはわからない。否、必ず聞こえたのだと白蓮は信じた。
――人間は、変わらない。……だが―ー。
変わらないのは、なにも人間だけではない。
己を慕う弟子の妖怪たちですら、そうそう簡単に妖怪の本質を捨て去ることはできないのだ。
人間は妖怪を恐れ、恐れるあまりにその掃滅を望む。そして、妖怪は人の心の恐怖を糧とする限り、人間を襲い続ける。
そういうものだと割りきって、理想を諦めるしかないのか。
人間の尊厳と、妖怪の生は相容れないものなのか。
千年考えて答えの出なかった問いだ。今それを反芻したところで、結論が出ることは無いだろう。
ただ、一つだけ確かなことがある。
理不尽な恐怖や、行動が報われないことへの失望、困憊、それらに負けた時、己の理想は死ぬ。
最愛の弟である命蓮と最後に交わした約束であり、彼と己を結ぶ最後の絆である『理想』が死ぬのだ。
たとえどれほどの苦しみが胸を抉ったとしても、それだけは避けなければならない。
最後に一つ、大きく呼吸をとる。
膝の下に強固なものが落ちてくるのを感じる。すると、不思議なことに白蓮の身体を襲っていた震えも消えていった。
白蓮は一輪に向き直ると、落ち着き払った眼差しで彼女を見つめ、語った。
「一輪。この里で起きていることをよく観察し、その目に焼き付けるのです。不審な行動を取る者や、この機に目立ち始めた者がいないか、注意してください。……考えすぎかも知れませんが……私には、誰かが、妖怪を犯人に仕立て上げて里を混乱に陥れようとしているように思えるのです」
「わかりました。……雲山にも注意して里を観察するよう命じておきます」
一輪は上空を見上げてそう言った。人里では雲山の姿は目立ちすぎるため、空の上から付いてくるよう一輪が指示していたのだ。
白蓮は言葉を続ける。
「そしてまた、折に触れ、人々に向け明らかにするのです。この状況下で、私たちがどのような立場にあるかを。私たちが、決して彼らの敵ではないことを詳らかにしなければなりません」
一言一言に力を込めて、白蓮は己の考えを明らかにしていった。
それを聞く一輪は、師の眼を真っ直ぐに見据えた。白蓮の目の中に、先ほどまで見せていた動揺の色は既にない。それどころか、岩をも穿つかというほどの強い光が、瞳の奥から迸りさえしていた。
その眼の光に、一輪は見覚えがあった。それは、かつて、人間に裏切られる前の白蓮が、その眼に宿していた光に他ならなかった。
そしてそれは、遥か昔に見た、高僧命蓮がその瞳に宿した光でもあった。
白蓮は微笑みをたたえつつ、その眼で一輪を促した。
「さあ、参りましょう。過去と同じ轍を踏むわけにはいきませんから」
***
話を一週間ほど前に遡る。
一人息子を醜悪な姿に変えられた左之助は、ひたすらに途方に暮れていた。
煌々とした蝋燭の灯が件の異様な肉塊に陰影を投じ、ただでさえ恐ろしい姿をより恐ろしげに浮かび上がらせていた。
左之助は圭太と思われる肉塊を己の部屋から運び出すこともままならず、激しく異臭のする部屋の中で長いこと呆然と佇んでいた。
彼が我を取り戻したのは、その肉塊が己を呼んだ時だった。
「親父……助けて……。身体が……身体が動かない……」
肉塊の口元がぐずぐずと動き、幽かな声を漏らす。
左之助はその口元に顔を近づけ、震える声で息子と思しきものに語りかけた。
「圭太……! お前……なぜ、こんな姿に」
「八雲紫にやられたんだ……」
「八雲の妖怪にか……? なぜだ? なぜお前が……?」
圭太はその問いには答えなかった。己が夜な夜な妖怪を襲いに出かけていたことに対する報復のため、などとは口が裂けても言えない。
圭太の返事を待たず、左之助は頭を振って言葉を続けた。
「い、いや、そんなことはこの際捨て置こう。私にはお前がこの姿でまだ生きているのが信じられん。身体に痛いところはないのか……?」
「身体は痛くない……骨が折れてた筈だけど、もうよくわからない……。でも、身体が動かない……」
「……待ってろ、今、医者を呼ぶ」
会話の中で左之助は冷静さを取り戻していた。彼は頭を猛烈に働かせ善後策を模索する。
医者に診せるのは良い。すぐにでも主治医の所に使いの者を遣るだけだ。だが、問題なのは、この状態の圭太を人間の医者が治せるかどうか、ということだ。
まず見た目からして、生きた人間の姿ではない。なにしろ内臓の殆どが身体の外に晒されているのだ。解体途中の家畜のように横たわる肉の塊の中、赤黒い心臓だけが一つの生き物のように蠕動していた。
妖怪の術によるものならば、妖怪に助けを求めるのが本来だったが、左之助は表層意識でそれを拒否した。妖怪に助けを求める位なら息子を殺して自刃したほうがましだと思えたのだ。
だが、もし、人間の医者に診せても状況が改善しない場合はどうするか。
一人でいくら考えても答えが出ることはなかった。このようなときに人は大抵、相談相手を求める。左之助も例に漏れず、最も信頼できる友である吾郎を自宅に呼び、意見を聞くことにした。
医者と吾郎に向けて同時に使いを出した結果、先にやってきたのは吾郎の方だった。
想定外だったのは、吾郎が数名の仲間を引き連れてきたことだ。
それらは全て秘密結社の構成員で、左之助の見知った顔だったのだが、今この状況下で会いたい類の連中ではなかった。
「すまんな。会合の最中だったのだが、使いの者が血相変えてやってきたので押取り刀でやってきたんだ」
言って、吾郎は仲間と連れ立ちどやどやと家の中に上がり込んできた。その不躾さは、仲間同士であるし普段なら気にもならないことなのだが、今に限ってはどうにも苛立たしく左之助はには思えた。
左之助は集団の中から吾郎を引き寄せ、早口で耳打ちする。
「おい、なぜ彼らを連れてきた!?」
「む? いや、妖怪に関する新しい情報でも手に入ったのかと思ってこいつらも連れてきたのだが、まずかったか?」
「今日は個人的な相談があって呼んだのだ……!」
「そうか。では引き取らせるか?」
二人は吾郎の連れてきた連中に向けて視線を投じる。彼らは手持ち無沙汰気味にしながら、遠慮がちに左之助を見返していた。
「いや、いい。そうだな、三人寄れば文殊の知恵ともいう。皆、ちょっと一緒に来てくれ」
内心の焦りを出来る限り抑えてはいたが、少ない言葉数からそれはにじみ出ていた。
吾郎は連れてきた仲間に向かって顎をしゃくって、己についてくるよう指示した。彼らはうべなって、左之助と吾郎の後ろから廊下をぞろぞろと付き従ってきた。
左之助に導かれ、彼の自室に案内された吾郎たちは、部屋の中の光景を見て息を呑んだ。
「なんだ、これは……」
吾郎は部屋に満ちる異臭を嗅いでとっさに鼻をつまみつつ、そう漏らした。
彼の仲間もみな似たり寄ったりの反応を示していたが、中には短く悲鳴を漏らす者もいた。
化け物が、こともあろうに左之助の部屋の一角を占有していた。それは肉色をした巨大な芋虫のような姿をしていたが、体表はまるで内臓のような造形で、しかも生き物のように鼓動していた。
吐き気をもよおす醜悪な姿をさらしつつ、その化け物はまるで部屋の主であるかのように微動だにせず床の間の真ん中に寝そべっていた。
その姿を見て、正常を保っていたのは吾郎と左之助だけだった。他の者は良くて部屋から退散し、酷いのになると左之助の家の庭に遠慮無く胃の中の物をぶちまけていた。
吾郎の眼には少なからず動揺の色が差していたが、次に左之助が放った言葉は吾郎をさらなる驚愕へと誘った。
「これが圭太だ。私の息子だよ」
左之助は部屋の奥に鎮座した巨大な肉塊を指さし、苦々しげに呟く。吾郎は信じられないものを見る眼で、左之助を凝視した。
そんな吾郎に構わず、左之助は蠕動する肉塊に近づき、声をかけた。
「圭太、もう少しの辛抱だ。今、医者を呼んだぞ」
彼は肉塊の端の方に耳を寄せ、何度か小さく頷く。
「心配するな、きっとすぐに元の身体に戻る。眠れるか? 眠れるなら眠っていればいい」
左之助はその肉塊と会話しているように見えた。だが、化け物の口らしき器官から聞こえるのは、ひゅごおひゅごおという隙間風のような音だけだった。
「お、おい、左之助……」
肉塊と左之助を交互に見つつ、吾郎は恐る恐る左之助に声をかけた。すると、彼は顔を上げ、肩越しに爛々とした眼を吾郎に向けた。
「見ての通りだ。圭太はこの状態になっても生きている」
――狂気。
吾郎の脳裏をその一言が駆け抜けた。重い眩暈によって彼の膝が笑う。
吾郎と共にやってきた男たちもみな、同様の印象を抱いたに違いない。それは、彼らの目の色を見れば明らかだった。
部屋の奥に鎮座する肉塊はどう見ても人間の姿ではない。率直な第一印象を述べれば、妖怪の蛹か幼生の類にしか見えない。
それを、左之助は自分の息子と呼び、気遣わしげに話しかけているのだ。
とても正気の沙汰とは思えない。
改めて見ると、言動だけでなく様子の方も正常ではないように思えてくる。普段はきちんと後ろに撫で付けている髪を乱雑に振り乱し、興奮して見開かれた眼も血走っているのだ。
吾郎は震える足に手の爪を立て、恐慌に陥りそうになる自らの精神を現実に繋ぎ止めていた。
背筋を降りてくる怖気をこらえつつ、彼は左之助に対し尋ねる。
「左之助、事情を説明できるか?」
左之助は何から話すべきか長いこと迷った末、今までの出来事を洗いざらい吾郎に語って聞かせた。
ひと通りの話を聞いた吾郎の顔から、疑念が消えることはなかった。
「妖怪によって姿を変えられたと……?」
「そうだ。聞いたかもしれんが、医者を呼んで診てもらおうと思っている。しかし、妖怪の成した技に人間がどこまで対応できるか分からん……。もし、医者にも対応できないとなれば、私の頭では善後策が思い浮かばん。だから、お前を呼んだのだ。なあ、吾郎、どうすれば良いと思う?」
殺せ。この化け物を、今すぐに。
吾郎は喉元に出かかった言葉をやっとのことで飲み下した。
左之助の語り口は一見冷静に見えたが、内容に関しては支離滅裂だった。
足下に横たわる肉塊は今もじゅうじゅうという耳障りな音を立てるばかりだ。
この化け物が人間の言葉を話し、彼を父と呼んだというくだりからして妄言以外の何物でもない。
とはいえ、無碍に左之助の言葉を否定することも憚られた。下手に刺激すればどんな行動に出るか分かったものではない。
吾郎は注意深く言葉を選び、かつ穏やかな声で左之助を宥めた。
「まずは落ち着け、左之助。突然のことで俺にもすぐには妙案など浮かばん。まずは医者に診てもらおう。もしかすると、治し方を知っているかもしれん。その間に、俺たちもこのば……息子さんの治し方がないか調べてみる。左之助もそれらしい本をあたってみろ」
言っている自分の言葉の無茶苦茶さ加減に、吾郎は目眩すら覚える。当然、今言った内容を実行するつもりなど毛頭なかった。
だが、左之助は吾郎の言葉に大きな安堵を覚えたようで、目を輝かせ、興奮しきりに幾度も頷いた。
「そ、そうだな! 分からなければ調べる! そうだ! 今までだってそれで成果を上げてきたのだからな!」
とてもではないが直視できたものではなかった。これが、沈着冷静な実務家で鳴らした親友の姿と認めることができず、吾郎は思わず目を逸らす。
「と、とにかくお前は息子さんの介抱に集中するんだ。組織のことは俺に任せろ。……あと、このことはくれぐれも内密にしておけよ。医者と家の者にも絶対に漏らすなと約束させるんだ」
「わかった」と頷く左之助を見もせず、吾郎は部屋を辞した。彼は遠巻きに二人の様子を伺っていた仲間を、急かすように左之助の邸宅から連れ出す。
邸宅の門を出るなり、吾郎は忌々しげに言葉を吐き捨てた。
「左之助が狂った」
その言葉を否定する者は誰もいなかった。
暫くの間、一団の間には気まずい空気が流れた。やがて仲間の一人が絞りだすように声を上げる。
「……どうするんだ、吾郎?」
吾郎はむっつりとして答えず、腹の中の物を濾し出すように何度も息を継いでいた。しばらくして、ようやく心が定まったのか、彼は低く唸るような声を吐き出した。
「あの化け物は早い内に始末する。その方法を考えなければな……」
吾郎は顎に指をあて暫くのこと思案した末、頭の中の考えを浮かぶままに口にし始めた。
「……医者には予め、左之助が気を違えた旨話をしておこう……。……噂を流すんだ。『取替え児』が起きたと……。この間の妖怪殺しと絡めて、妖怪が復讐のために里の子供を狙い始めたと信じこませるってのはどうだ……」
「……しかし、人々が信じるだろうか? 左之助は人里でも妖怪嫌いで有名だ。そのような特殊な家の子だけが狙われると思われては、噂を流すにもいささか信憑性が……」
思考を巡らせつつ仲間の言葉を聴いていた吾郎の目が、妖しく光った。
どうやら妙案を思いついたらしく、酷薄な笑みがその口元に浮かぶ。
「……噂がそれらしければ良いんだろ? なら良い考えがある。ちょっと寄れ」
彼は注意深く周囲を見回し、己等の他に人影が無いことを確かめると、仲間たちを手招きして彼らの額を集めた。そして、小さいが断然とした声でこう囁いたのだ。
「里にいる子供の一人か二人、殺してそのひき肉を広場にばら撒け。それを妖怪の仕業に仕立て上げるんだ。――うまくやれば、里の人間を一気に『こちら側』の考えに引き込める」
平和的に暮らす一般的な人間なら、まず耳を疑うだろう言葉だった。
しかし、その場にいる人間の誰一人として難色を示すものはいなかった。彼らの眼に、吾郎と同様の妖しげな光が宿る。
次いで彼らは、互いに頷き合いながら口々に吾郎の意見を肯定し始めた。
「……悪くない。里の石頭共の幻想を叩き壊すには、それくらいのことはせねばならないと常々思っていたところだ」
「災い転じて福と為す、か」
「是だ。事をなすには多少の犠牲はやむなし」
「……そうだな。……やるか」
彼らの秘密結社は、元々、似た考えを持つ者同士が集まってできたものだった。加えて、彼らは日常的に妖怪との命懸けの暗闘に明け暮れていたため、人里の一般的な人間とは大きく異なる思考体系を知らずのうちに互いに共有していた。
彼らは妖怪を憎むという一点で強く繋がれた者同士だったが、孤独極まる妖怪との闘い、および、幻想郷の人間の間に蔓延する妖怪へのだらしない許容感との闘いの中で、一つの共通認識が醸成されていった。それは、多数派を占める妖怪許容派への否定という、強固な価値観による絆だった。
彼らの中では、妖怪と同様、それを容認する者もまた敵に他ならない。
だからこそ、彼らの意見の一致は早かった。
この密やかな会話から数日後、彼らの言葉は現実のものとなった。
***
檀家の屋敷の門衛の話の真偽を確認するため、二人の妖僧は里を巡っていた。すると、すぐに一つの『異質』に気づいた。
里の至る所で、普段は見かけることのない張り紙が目についた。張られて間もないそれは、質の悪い更紙の上に、不穏な赤字で『決起!反妖集会』と題されていた。題字の後には、今日、これからほどない時間に、広場で題字通りの公演を開くから有志の集結を願うという旨の言葉が、過度な装飾語と共に躍っていた。
一輪は、商店の板壁に貼られたそれを一読すると、何も言わずに剥ぎ取って懐に収めた。
彼女が師に向けて所見を述べようとした時、二人の背後から女性の声が聞こえてきた。
「無粋な張り紙ね」
振り返ると、大量の花束を抱えた女が、穏やかな微笑みを湛えて道の先に佇んでいた。
ただ立っているだけにも関わらず、陽炎のような妖気がその身から立ち上っているのが目視でわかる。その姿は、紛れも無く妖怪のそれだった。
「風見幽香……」
一輪がその名を呼ぶ。
彼女は幻想郷屈指の妖力を持ちながら、勢力を持たず、人間を含む他種族と疎な交わりを持って生きる稀有な妖怪のうちの一体だ。
普段は里から離れた大陽の畑で花々に囲まれて暮らす、もの静かな妖怪なのだが、根は好戦的な性格であるため、人妖の双方から密かに恐れられている存在だった。
その風見幽香が、きな臭い空気の張り詰めた人里の中に平然と現れたとあれば、警戒しないわけにはいかない。
怪訝な目で見返してくる一輪と白蓮の顔を見ても、幽香は顔色一つ変えなかった。彼女は顔に笑みを張り付かせたまま、手元の花束に目を落としてその匂いをそっと嗅いだ。
「この花、いつも贔屓にしているお店の人間が留守にしていたから、頂いてきたの。もちろん、お代はちゃんと置いていったわよ」
「何故、今、お前がここにいる?」
噛み付くような剣幕で一輪が問いを放つ。人里の不穏さがいや増すこのタイミングで、無闇に強大な妖怪が通りのど真ん中をのこのこ歩く姿を見るのは心臓に悪いどころの話ではない。
それに対して幽香は肩をすくめ、素っ気なく答えた。
「私は時折こうして人里に花や種を買いに来るのです。今日がたまたまその日だった。私は貴女たちのように野暮な理由は持ち合わせていないわ」
「私たちが何をしているかわかるの?」
「見ればわかるわ。その懐に押し込んだ張り紙と同じくらい無粋な目的があるってことくらいは」
「花の香りを嗅ぐ嗅覚があるのなら、今の人里の臭いもわかるはずだ。なら、フラフラせずに畑に帰るがいい」
「私に指図するつもり?」
どちらが先かは定かでないが、一輪と幽香の身体から迸る妖気がみるみるうちにいや増し、周囲の空気を震わせ始めた。
不毛な諍いが始まる気配を察知し、白蓮が二人の間に割って入る。今は妖怪同士で揉め事を起こしている時ではない。
「一輪、やめなさい。……弟子が失礼しました、幽香さん。貴女のお噂はかねがね伝え聞いております。貴女が普段から人里に降りてきていることも」
頭目の方から頭を下げられては、拳を降ろさない方が恥さらしというものだった。すかさず、幽香は張り詰めていた妖気を引き下げた。それを見届けてから、ようやく一輪が妖気の緊張をとく。ただ、その目の中にはまだ警戒の色が滲んでいた。
白蓮は一輪の前に進み出、慎重に言葉を選んで尋ねた。
「……今、貴女がお話しになったように、人里の店から人の姿が見えなくなっています。それどころか、道を歩く人間の姿すらまばらで、里から活気が完全に消えています。人間と関わりながら長く生きた妖怪であるあなたにこそお伺いしたいのですが、貴女はこの里の状況をどう見ますか」
もしの幽香の中に底意があれば、あわよくば聞き出そうという意図を含んだ質問だった。
だが、彼女は幽香は白蓮の質問に答えなかった。彼女は白蓮の意図を逆に見透かしたように、その目をますます細めるばかりだった。
彼女はやがて、再び手元の花束に目を落とし、前後脈絡もなくこんな話をし始めた。
「花は素敵ね。何も言わず、何も主張せず、ほんの僅かな時間、その美しい姿を世に顕し、瞬く間に消えていく。残された無残な茎は、季節をめぐった果てに再び同じ花を咲かせて私たちを喜ばせてくれる」
白蓮がじっと押し黙って先を待っていると、幽香は思い出したようにもう一言付け加えた。
「余計なことを考えたり喋ったりしなければ、人間も一緒。だから私は嫌いじゃないのよ、人間のこと」
「……人間は、花のように移ろいゆくものだと……? 人間は変わるというのですか?」
――人間は変わらない。
己の中にそんな確信に近い思いが凝り固まっていた白蓮にとっては、新鮮さを感じさせる意見だった。
白蓮の言葉を聞いた途端、出会ってから初めて、幽香の顔に本当に愉快げな満面の笑みが浮かんだ。
「それはもう。目まぐるしいばかりに変わっていくわ。目を瞠るほど美しい時もあれば、吐き気を催すほど醜くなる時もある。そうやってめぐっていく」
不意に、白蓮の目を射ていた幽香の視線が路肩に飛んだ。彼女の視線の先では、道と板壁の合間に咲いた蒲公英の花が、幻想郷の風を受け、何も言わずに揺れていた。
その様子をしばらく優しげな眼差しで見つめた後、幽香は白蓮に向け視線を戻した。
「蓮は泥の中にあってなお美しい花を咲かせる。その花の名を持つ貴女は、今の濁りきった人間との関わりの中でどんな花を咲かせるのかしらね」
白蓮に視線を戻した後も、その目の中の慈愛に満ちた光が消えることはなかった。
白蓮の胸がどくりと疼く。
魔に魅入られ、妖として生きたつもりでいた己の中に、この妖怪は『人』を見ている。
それが、彼女の眼差しの中からまっすぐに伝わってきた。
古明地さとり、こいしの姉妹から指摘されたのと同じことを、今、この場でさらに幽香にまで看破されてしまったのだ。
純粋な妖怪から見れば、白蓮は紛れも無く人間ということなのだろう。
「それじゃ、ごきげんよう。またいつものように店の子と季節の話でもできる日が来ると良いわね」
白蓮の動揺など意にも介さず、幽香は丁寧な会釈をして、しめやかに去っていった。
去りゆく幽香の後ろ姿を険しい表情で見つめながら、一輪は忌々しげに呟いた。
「まったく、何を考えているのかわからない奴だわ。いくら日常的に人里を訪れているとはいえ、奴ほどの大妖怪が今この場に居れば面倒なことになるってわかってる筈なのに」
大きくため息をついて、一輪はかぶりをふる。それからすぐ、気を取り直したように顔をあげると、彼女は白蓮に向き直った。
「さて、行きましょうか、姐さん。この張り紙に書かれている集会がどのようなものか……」
そこまで言った時、一輪は白蓮の様子がおかしいことに気づいた。
うつろな目はじっと地の一点を見つめ動かない。どうやら、何事か物思いに耽っているようだった。
「姐さん?」
深い思考の中に没入していた白蓮の意識は、一輪の呼びかけで再び現実に舞い戻る。
白蓮は一輪の呼びかけに曖昧に頷くと、彼女の胸元から覗く張り紙の端に目を遣った。
「広場に行ってみましょう。それで、その張り紙を貼ったのが誰か分かるかもしれません」
一輪は首肯する。彼女の師は時折今のようにじっと黙考することがあったが、それはある種の癖のようなものだと割りきって、敢えて今そのことを取り上げて云々することはしなかった。
二人は里の路を広場に向け歩き出した。広場まで曲がり角ひとつというところまで来た時、路地裏から突然何者かが躍り出てきて二人の前に立ちはだかった。
陽の光に輝く銀髪が目を引いた。ただの里人でないことは、その髪質からだけでなく、身体から仄かに立ち上る妖気からも分かった。
白蓮と一輪はその者を知っていた。人里に降りた時にたまに見かけることがある。
人里で暮らす半人半妖、上白沢慧音だ。
彼女は二人の姿を見るや、目を吊り上げて早足で近づいてきた。そして、
「お前たち、ここで何をしている!?」
先ほど一輪が幽香に対して放ったのと似たような言葉を、二人に向けて放つ。
白蓮と一輪は顔を見合わせて苦笑する。どうやら、慧音は白蓮らと同じ目的を持って行動しているらしい。
二人は合掌して頭を下げる。そして、白蓮の方が半歩進みいでて、簡単な釈明を始めた。
「慧音さん。私たちは今、この人里で囁かれている噂について、独自に調査しているところなのです。最近になって人里に突然降って湧いた不穏な気配の出処を探り、それを取り除いて里に元の安息を取り戻すこと。それが、今我々がここに居る理由です」
慧音は疑わしげな目つきで白蓮の言葉を聞いていた。
「白蓮和尚……。それが本当に貴女の目的ならば、それは私の望むところでもある。だが、今の状況を見れば、妖怪がこの場をうろつくのは得策でないと思わないか?」
――半人から見れば、私は妖怪なのか。
ふとそんな考えが頭を掠める。一度拘泥が始まると、思考というのは堂々巡りを始めるものだ。しかし、それもいい加減にしなければならない。
白蓮は頷き、言葉を返す。
「確かに、人里の至る所から、妖怪に対する敵意のようなものを感じます。ですが、まだそれは決定的なものではありません。現に、先ほどそこで妖怪の風見幽香さんとお会いしましたが、別段誰かと諍いを起こした風にも見えませんでしたよ」
――あいつ、まだ里の中をうろついていたのか……。
慧音の口の中からそんな呟きが聞こえてくるが、白蓮は敢えて聞かなかったことにして言葉を継ぐ。
「今ならまだ、私が妖怪の代表として人間と対話することも出来ると思うのです。如何でしょうか?」
慧音はうつむき加減で白蓮の話を聞き、その言葉を頭の中で検討していたが、やがてある種の妥協漂う表情とともに顔を上げた。
そして、彼女は念押し気味にこう注文をつけてきた。
「……なら、約束してほしい。――絶対に人間に手を上げるな。相手がどんな凶暴な人間であってもだ。現実として妖怪が人間を傷つけてしまえば、噂が噂で済まなくなる」
「当然です。相手が妖怪ならともかく、人間と争うつもりなど毛頭ありません」
明快な即答に、慧音の心の中の不安は多少和らいだようだった。彼女はふっと息をつき、僅かに肩から力を抜いた。
「わかった。その言葉を信用しよう」
「貴女はこれからどうします?」
白蓮が訊く。
「もちろん、見まわりを続けるさ。里に残っている妖怪がまだいるかも分からないからね」
彼女は白蓮らへの別れの言葉もそこそこに、せわしなく白蓮らの脇すり抜けていった。
「広場に行くなら、佐伯吾郎という人間に気をつけろ」
すれ違い際、慧音は白蓮の肩口にそのような言葉を残していた。
***
「例えば朝起きた時、あなたの隣で寝ているはずの妻の姿が見当たらない。寝ぼけているのか、それとも寝過ごしたのか、あなたはそんな風に考える。
へっついの方を見ると、竈は冷えている。炊けた米の匂いもしない。
さては寝坊助な自分に愛想を尽かせて、罰として飯抜きにでもされたかと思ってあなたは舌打ちする。待っていても仕方がないから外に出て、井戸の方に歩いて行く。
しかし、おかしなことに、いつもは誰がしかそこに居るはずの井戸の側に、今日に限って誰もいない。おかしいな、いやしかし、まあ誰もいなけりゃ誰も待たずに井戸を使うから、結局誰もいなくなる。今日はそういうことで誰もいないのだろう、とあなたは納得できる答えをつらつら考えてみる。
別に井戸に用事があったわけでもなし、さりとて出かける用事もなし、金もなしであなたは結局自分の長屋に戻ってくる。
すると、あなたの部屋の前に隣部屋の奥さんが立っていて、部屋の戸を乱暴に叩いているじゃないか。
おい、そんなに乱暴にするなよ、ただでさえ立て付けの悪いのがますます悪くなる。そんなことをあなたは言う。
だが、その時の奥さんの顔をあなたは一生忘れられなくなるだろう。
奥さんは今まで見たこともないようなものすごい形相であなたの方に振り返ると、猛然と駆け寄ってきてこう言うんだ。
――あんたの奥さんが、妖怪に殺されたよ。……ってな」
広場の中央に据えられた台座の上で、一人の男がよく回る舌で弁を振るっていた。
川の流れるように淀みなく、また途絶えもせずに続くその男の話に、多くの人間がただ黙って耳を傾けていた。
二十間四方程ある広場は芋を洗うような状況となっており、さらに広場から溢れた人が街道にはみ出し、広場に隣接した家屋の二階の欄干からも身を乗り出す者がひしめいていた。
人里に住む人間の全てがこの場に集結したのではないかと錯覚するほどの人出だったが、お祭り騒ぎのような華やかさは皆無だった。
ただ一人の男の滔々と語る声だけが響く。その男の周囲を囲む全ての瞳が、ただ一点その男の姿に向けられている。人々はみな無表情で男の話を聞く。人いきれで真夏のような蒸し暑さにも関わらず、心に触れる空気は妙に冷たかった。
白蓮らが広場に着いた時、既に人間たちの集会は始まっていた。
彼女らの視線と意識は、最初から壇上に立つ男に集中していた。この集会が一人の男の独演会と化しているのは明白だった。その男の顔を知っていた一輪は、密かに顔をしかめた。
彼の語り口は語り部のごとしで、自己主張こそ控えめではあった。だが、二人称の寓話形式でじわりじわりと妖怪に対する負の感情を煽っていくやり方で、聴衆を己の世界に引き入れていた。
彼は壇上で語りながら自分を取り巻く人間たちを撫でるように見回していたが、ついに群衆の中に白蓮ら妖怪僧の顔が紛れていることを目ざとく見つけた。それからはもはや、その視線が白蓮らを捉えて離すことはなかった。
彼はそれまで語っていた話を中断して、一層声を張り上げて口上を述べ上げ始めた。
「ここまで長々と続けさせていただいた話は、あるいは明日にも起きるかも知れない現実の物語だ。幻想郷と名付けられた場所に生を受けたことで妖怪と共に暮らすことを余儀なくされた我々が、現状を甘受する限り遅かれ早かれ行き着く末路だ。それでも妖怪と共存することは、我々にとってどれだけの益があるのだろう? さて、ちょうどそこに妖怪の住職がいらっしゃるようだ。彼女ならばその答えを知っているかもしれない。一つ率直な意見を交わしてみたいと思う。……住職、いかがか!?」
高圧的な吾郎の質問に、白蓮は首を縦に振って肯う。
「よろしい。早速お話を伺いたいところではあるが、その前に自己紹介をさせていただこう。私は佐伯吾郎。一介の書生ではあるが、義憤にかられて今はこのような活動の音頭を取っている」
男が得意げに語るのを見るにつけ、一輪の腹の中を言いようのない負の感情が暴れ回った。それは本当のところ、おもに見る目のない自分自身に対する憤りであったのだが、彼女はその怒りの矛先を吾郎に転嫁した。
一輪は物凄い形相で吾郎の顔を睨んでいたが、彼は涼しい顔でその視線をいなしていた。
「それでは先ほどの疑問について御説を伺いたい。人間が妖怪と共に生きることに、何の益があるのか?」
ここでの問答に失敗すれば、里の人間たちの思想は一気に反妖怪に流れてしまいかねない。
白蓮は肺いっぱいに息を吸い込むと、ゆっくりゆっくり吐き出した。胸を騒がす雑念を、その一呼吸で全て吐き出さんとでもするように。
それから、彼女はよく通る声で吾郎の質問に答え始めた。
「結論から申し上げると、幻想郷における妖怪は、人間が己を省みるための鏡としての役割を持ちつつあると私は考えています。
かつて……少なくとも私が生まれるより遥か以前から、妖怪というものはある種の神に比肩する畏怖を人間から捧げられ、敬われていました。時に人に益をもたらし、時には災厄を呼び起こす彼らは、肌に触れるほど人間の生活に密着し、多くの影響を与えてきたにも関わらず、基本的に得体のしれない存在でした。
ですが、ここ幻想郷では一部の妖怪を除き、あからさまに個体識別可能な存在として人間の前に姿を現している。それは、幻想郷という場所が妖怪を始めとした幻想生物たちの最後の棲家としての役割を持っているが故の致し方ない制約なのです。
しかし、そうして正体を現し、あまつさえ人間と交流する者まで現れ始めた妖怪という種族は、もはや人間と同格の知的生命体と言っても過言ではない存在にまで昇華したと言えるでしょう。
これまで、人間はこの地上において唯一無二の知的生物として進化の歩みを進めてきましたが、その孤独な歩みはやがて人間の中に驕りを生み出し、地上において自らを超える存在などないという思想にまで発展しつつあります。このような考えではすぐにその発展と幸福に限界が見えてしまうでしょう。
そこで、あなた方人間は妖怪の存在を再認識することになるでしょう。時に相手の優れた所から学び、時に劣った点から学びつつ相互に高め合える存在。それが、人間と妖怪における理想的な関係だと思っています」
「それが答えかね。それならば、貴女の答えには重大な考慮漏れが存在する。
貴女の言うように、人間の教師、あるいは反面教師として妖怪が存在するのならば益ともなろう。だが、そのような輩は妖怪の中でもほんの一握りにすぎない。大抵の連中は、昔ながらの性質を捨てきれず、日常的に人間を驚かせ危害を加えては喜んでいるだけだ。観測範囲の中の特殊な事例を挙げて主だった傾向のように語る、そういうやり方で糊口をしのぐ連中のことをなんと呼ぶと思う? ――詐欺師だ」
「発展途上にあるのは人間もまた同様でしょう。己こそがこの地上で最も優れ、正しい存在であると盲信し、己の都合に合わぬ存在は自他種族を問わず排除していく。それが、過去から現在にいたり、文明と発展を追い求める人間が無意識的に基本とする行動理念です」
「……何が言いたいのかね?」
「行為の結果は、最終的に行為者自身に返ってくるということです」
「……因果論か。馬鹿げている。人間には自分の運命の手綱を自分の手に収める権利がある! その権利の行使にあたって、多少の軋轢は当然ながら出てくるものだろう」
「……その意見に対する返答は一つ。人間にそのような権利はありません。そしてそれは、妖怪であっても同様。では、妖怪も人間も、共に発展のないまま自縄自縛の生き地獄を永久に彷徨い続けなければならないのかといえば、その答えもまた否、です。この問題への解決策もまた一つ。それこそが仏の教えであり、修行の果てに因果律を超えることができれば……」
「待った! 端からわかってはいたが、やはりそういう論法になっていくのか。説法なんぞ聞きたくないね。貴女の考えを聞きたい」
「愚者は経験に語る。私は仏の教えに従い、その教えを伝えるまでです」
「坊主はすぐにそうやって煙にまく。では質問を変えよう。今までとは違い、とても簡単な質問だ」
吾郎はそう言って言葉を切った。
二人のやりとりが途切れると、途端に広場に冷たい沈黙が流れこんだ。
その冷たい空気の向こうから、細く眇められた吾郎の目が射抜いてくる。
彼は声を落とし、ゆっくりと咀嚼するように次の言葉を吐き出した。
「――貴方は、人間が好きかね、嫌いかね」
「……それが何だというのですか?」
「ちょっとした雑談だよ。さあ、どうかな?」
広場にいる全ての人間の目が、白蓮を冷たく見ていた。
嘘は、つけない。
「……愚問ですね」
やっとのことでその一言を絞り出した白蓮を尻目に、吾郎は大衆を見回し、おどけてみせた。
「その愚問に答えられない。なぜだろうかね? ならば更に質問を続けよう。貴女の個人的な行動に関する質問だ。貴女はこの幻想郷において人間と妖怪の平等を目指していると謳っているが、それではなぜ貴女の弟子は妖怪ばかりなのか? それは、結局のところ、妖怪こそが幻想郷の最優等種族であるという奢りを持っているからではないのか?」
「それは違います! 私は本当に……!」
「さらに、私は信頼できる情報筋からこんな話を聞いた。
先日稗田亭にて行われた宗教家による鼎談に貴女も参加されたはずだが、その折、山の神である八坂神奈子はこの里を人間の動物園と呼んだそうだ。
動物園というものが分からなかったので調べてみたのだが、どうやら外界に存在する娯楽施設で、万国の動物をかき集めて檻の中に監禁し、彼らが不幸な顔で生活するのを檻の外から眺めて楽しむという悪趣味な施設らしい。
なるほど、妖怪が人間の恐怖を楽しむための施設と考えれば、人間動物園、至極納得のいく考え方だ。
さて、山の神のその発言があった際、貴女はこの人間動物園の存在について、否定もせず、むしろ妖怪にとって必要なものだと肯定している。
おかしいな。貴女はたしか、人間と妖怪が平等に幸せに暮らせる世界を実現したいとのたまっていた。そう記憶していたのだが。
もしも本当に人妖の平等を信ずるならば、この人里において死の恐怖と隣合わせの軟禁状態にある人間の現状について正く認識した上で、決して人間動物園などという巫山戯た考えを認めることはないと私は思う。
さあ、改めて問おう。なぜ貴女の周りには妖怪しかいない? なぜ、人間をその周りから排される? 答えられよ!」
――貴方のような人間を、見たくなかったからだ。
白蓮は、己の心の中に明瞭に響いたその声を、聞き捨てることができなかった。
胸の奥、身体の芯から、ありとあらゆる負の感情が溢れ出そうになるのを、唇を噛むことでようやく抑えた。そうして噛み締められた口の端に、薄赤く血が滲む。
押し黙って答えない白蓮を、満足気な表情で吾郎は眺めていた。彼は大仰に両腕を広げ、聴衆に向かって声を張り上げる。
「皆様ご覧のとおりだ。人間に友好的とうそぶく妖怪ですらこの体たらく。結局人間のことを幸福にできるのは人間だけ。人間の幸福は人間の手で守らなければならないのだ」
その様子を苦々しげに見上げながら、白蓮は呻くように訊いた。
「これほどの人を集め、これからあなた方は何をしようというのですか?」
「報復だ。武器と同士を掻き集め、妖怪どもに一矢報いる。でなければ、死んだ子供が浮かばれん」
「愚かな……。まだ血を流し足りないのですか? そうまでして何を求めるのです?」
その問いを待っていたとばかりに吾郎は目を見開き、より一層語気を強めて演説をぶった。
「私が求めるものはただひとつ、人間の尊厳、それだけだ! この幻想郷は理不尽だよ! 元来人間の精神の副産物でしかない妖怪が大手を振って道を闊歩し、人間を脅かす! 人間はお前たちが居る限り、ずっと頭を低くして怯えて暮らさなければならないんだぞ! 妖怪から被るあらゆる理不尽な悲しみ! 苦しみ! 絶望! それらをこの幻想郷から拭い去ること! それが私の願いだ!」
「そのために幻想郷の平和をかき乱しても許されると貴方は言うのですか?」
「人間が妖怪に殺されているのに何が平和だ?」
「まだ妖怪が今回の騒動の発端と決まったわけではありません」
「……証拠はあるのかね? 死体の側に落ちていた羽よりも明白な証拠が」
そのようなものはない。白蓮は奥歯を食いしばる。
吾郎は不敵にせせら笑い、さらに煽るような言葉を投げかけてくる。
「さて、どうするね? 今、この場で我々を皆殺しにするか? そうすれば、幻想郷の平和を乱すものはいなくなるわけだが……」
「そのような真似を……私がすると……」
白蓮の言葉は続かなかった。
千の年月をかけて心の奥底に澱のように沈んでいた感情や記憶が、今まさに白蓮の意識の表層に奔出し、彼女の思考を飲み込んでいた。
暴虐な感情は、思い返したくもなかったために封印していたかつての日々の記憶を、再び脳裡に押し当ててくる。
未だ人間に希望を抱いていた日のことを。
いつまでも変わらない人間に苛立った日のことを。
妖怪の境遇を知り、人間の残酷さを知った日のことを。
やっとの思いで理想を共有できる人間に出会えた日のことを。
そして、信じた人間に裏切られた日のことを。
「私は……あなた方と共により良い存在になれればと思っていた……それなのに……!」
白蓮の心の中で押さえつけられていた感情が、堰を切って溢れた。
しまった、と思った時には、もう遅かった。
気づいた時にはもう、それは白蓮の両頬を伝っていた。
袖を引く者がある。振り向くと、それは一輪だった。彼女は無念そうに目を伏せ、呻くように呟いた。
「姐さん、ここは引きましょう。……あれは手強い」
一輪は呆然と見返してくる白蓮の手を取り、強引にその場から引き離す。
「お前は妖怪の分際で如来を目指しているそうだな! この幻想郷の支配だけでは飽きたらず、仏にまでなろうというのか!? 笑止千万、傲岸不遜!」
頭の後ろで、吾郎がなおも声高に叫んでいたが、もう白蓮の耳にその声は届いていなかった。
***
気配を消し、民家の屋根の上で広場で起きた一部始終を見守っていたこいしは、姿を現し飛び出しそうになるのをもう少しのところでこらえていた。
眼下では今まさに白蓮と吾郎の討論が終わったところで、一輪が白蓮の腕を掴み、広場から足早に退散していくのが見える。
視線を広場の中央に移すと、勝ち誇った顔で声高に何かを叫ぶ男の姿がひときわ目を引いた。
こいしは唇を噛み、遠く見えるその男の顔をまっすぐに睨み据えていた。
その時、こいしの脇から聞き覚えのある声が聞こえてきた。
「こいし様、いらっしゃいますか?」
「……お燐?」
足元に目をやると、尾の二つに分かれた黒猫が、あらぬ方向を見ながらこいしの名を呼び続けていた。
地霊殿では見慣れた火車だったが、こうして地上の陽の下で見ると何やら不思議な感じがする。
なぜここに地霊殿のペットが居るのだろうと不思議に思いつつ、こいしは妖猫を両腕の中に抱え上げた。
「私はここよ、お燐。どうしたの、こんな所までやってきて」
「こいし様! ここは危険です。離れましょう」
お燐は抱えられたところでようやくその存在に気づき、こいしの顔を見上げるや、口から唾を飛ばして急き立てた。
こいしは再び広場に目を落とす。すぐ足元には人間が集っており、このままお燐と会話していると存在を気づかれる恐れがある。彼女は小さく頷くと、お燐を抱えたままふわりと宙に舞い、広場に背を向けてその場を飛び去った。
しばらく飛行を続け、目下人里の屋根が見えなくなった辺りで地に降り立つ。
彼女らが降りたのは人里を外れた小高い丘だった。下生え程度しか生えておらず、開けた視界の中に人里全体を見渡すことが出来た。
こいしは草むらの上に膝をつき、腕に抱えていたお燐を下ろした。
お燐はこいしの腕の中から開放されると、僅かばかり落ち着いた様子で一つ小さくため息をついた。それから、少しだけ潤んだ瞳でこいしを見上げた。
「こいし様。ご無事で何よりです。人里に入ってから姿が見えなくなってしまい本当に心配しましたよ」
「うん、それで、どうしたの? お姉ちゃんから何か言付け?」
お燐は扁桃の形をした目を丸くする。先ほどの広場の状況を見てまだその様に言えることは驚愕だったが、その泰然とした様がこいしらしいともお燐には思えた。
そんな悠長な考えを頭から振り払うと、彼女は前足でこいしの靴やら足首やらをしきりに引っ掻いて、どうにかして己の心の焦りを伝えようとする。
「どうしたの、じゃあありませんよ。あの様子をご覧になったでしょう。今地上はとても危険です。一緒に地霊殿に帰りましょう」
しかし、こいしはお燐の心配をよそにゆっくりかぶりを振った。
「だめよ、そうはいかないわ、お燐」
「何故です!?」
「私はもう寺の妖怪よ。白蓮お姉ちゃんの望みは私の望みでもあるわ。私はお姉ちゃんと一緒に、人間と妖怪の争いを止めなきゃいけない」
その言葉を聞くと、お燐は苛立ったように二本の尻尾をしきりに振りつつ、甲高い声で喚き立てた。
「まだそんなことを仰るのですか! ごっこ遊びは御仕舞いなんですよ! 私たちの日常は地底にあるんです! 地底に帰りましょう、こいし様!」
こいしはお燐の言葉を聞いているのかいないのか、彼女が話す間中、ずっと視線を遠くに投げていた。
その視線の先には、普段よりも幾分か静かな人里の風景が横たわっていた。
彼女はその風景から目を離すことなく、ゆっくりと唇を開く。
「……お燐、私ね、今までずっとね、暗くて、寒くて、誰もいないところにいたんだ。そこでは誰の声も聞こえないし、私の声も誰にも聞こえない。私を傷つける言葉も聞かなくて済むし、強い力も手に入った。こんな素敵なことは他にないし、ずっとこのままで良いと思ってたの」
お燐は怪訝そうな表情で己の主人を見上げていた。
こいしの目がゆっくりと下に降りて行き、お燐の視線と交わる。
その表情に、かつて見たことのない慎ましやかな笑顔が広がっていく。
「でもね、地上に来て、色んな妖怪や人間と知り合って、私、すごく大切なものを手に入れた気がするの。それが何なのかははっきりとはわからないけど……すごく温かくて、幸せな感じがするもの。今地底に帰ったら、それを全部捨てなきゃいけなくなる。
……大丈夫よ、お燐。幻想郷が好きな人妖はたくさんいるわ。何一つ悪い方向には転ばないと思うの」
「こいし様……」
お燐は僅かに逡巡していた。こいしの言葉を聞き、胸に浮かんだ気持ちを、伝えるべきかどうか。
伝えれば、もう引き止めることはできなくなる。
こいしの目を見る。再び人里に向けられた彼女の目には、動かしがたい意思の力が漲っているように見えた。
お燐は小さく息を吐く。そして、胸の中で主人に詫びつつ、その心の裡を素直に吐露した。
「確かに、こいし様は地上に出られてから少しだけ変わられた気がします。でもなんだかこいし様が遠くに行ってしまうようで、お燐は寂しいです……」
こいしは安心させるようにもう一度、足元の猫に向かって笑顔を見せる。
その笑顔が、自分自身の意識の中で鮮明さを次第に失いつつあることに、お燐は気づいていなかった。
「お燐、成長することはただ変わること、変わることはただ知ること、それだけよ。私はどこにも行かないわ。地霊殿にもちゃんと帰るから心配しないで」
こいしの声は、丘に吹く風に紛れ、どこか遠くに聞こえていた。
次の言葉を待っていたお燐が気づいた時にはもう、こいしの姿は見えなくなっていた。
***
宵闇が辺りを青く染め上げる中、命蓮寺の本堂からは煌々と灯りが漏れていた。
本堂に集まっている妖怪は白蓮を含めると九名。大部分は彼女の腹心の弟子たちだった。
白蓮の弟子である村紗水蜜、雲居一輪、雲山、封獣ぬえ、幽谷響子、そして本尊の寅丸星、その部下ナズーリン。加えて、かつて食客だった化け狸のマミゾウも、ぬえに呼ばれて魔法の森から駆けつけていた。
車座に座る彼女らは、如来像を背に座る白蓮の口が開くのをが注視していた。
弟子たちが集まるまでの間、白蓮は深く瞼を閉じ瞑想に耽っていたが、集まるべき者たちの妖気が集まったことを察知すると、ゆっくり目を見開いた。
彼女は対面に座したマミゾウを真っ直ぐに見据えると、膝元に手を添え丁寧に頭を下げた。
「マミゾウさん。わざわざお越しいただきありがとうございます。ぬえも、ご苦労様でした」
労われてぬえは白蓮から目を逸らし、気恥ずかしげにもじもじし出す。
一方のマミゾウは泰然とした様子を崩さず、至極落ち着いた声で白蓮の言葉に応じた。
「あんたが儂を呼ぶというのは、相応のことじゃな。……まあ、呼ばれた理由は聞かずとも大方想像がつく。人里の動きについてじゃろう」
「左様です。今、人里は日に日に不穏さを増しています。先日、私と一輪とで様子を見に行った際には、煽動者のごとき者が里の人々を集めて決起を促していました」
「儂も見に行った。おそらくあんたが行ったその後じゃろうが、あんたが言う様子よりますます拙いことになっておったよ。対妖怪の名目で、今まで取引の制限されていた火薬やら猟銃やらが公然と右から左に流れるわ、妖怪退治の方法なるものが書かれたビラが出まわるわ、挙句の果てに人里の周囲に護符付きの逆茂木を立てて結界まで張り始めとる」
「一過性の熱だと楽観視できれば良いのですが、何の手も打たなければ事態の悪化が進むことにもなりかねません。今の事態の切っ掛けとなっている事件が妖怪の仕業でないと証明できればと思い、皆には手を尽くしてもらっているのですが、決定的な証拠は未だ得られていません。
今の状況でまず注力しなければならないのは、新しい火種となるような諍いを人妖の間に起こさせないことです。
人里において注意を払うべき人間については、雲山とナズーリンの鼠に監視させていますが、里の外の人妖が里を刺激するような問題を起こせば、事態の収集は絶望的となるでしょう。
私たちの役目は人間と妖怪の調停と心得てください。その実現のために、まず幻想郷の有力者たちと交渉の場を持たなければなりません。そのために、マミゾウさんにもお越しいただいたのです」
「事情はわかった。で、具体的にはどうするんじゃ?」
「紅魔館と永遠亭はこの状況に不干渉の方針を取ると宣言しているので赴く必要はありません。今回の騒動の渦中にある妖怪の山、その妖怪の山に居を構える守矢神社、異変の際に独自の行動をとる魔法の森の魔法使いたち、そして博麗神社。これらの勢力の意見を聞き、争いを是とするならば抑え、和を尊ぶならば協力を仰ぐのです。
本来ならば全ての勢力に私が出向くべきですが、時間がありません。そこで、この交渉には命蓮寺の総員をもって取り掛かってほしいのです。
具体的には二名以上の組を作り、交渉に赴いてください。
最重要拠点である妖怪の山にはぬえと村紗で向かってください。その際、まずは守矢神社に向かい、彼らに協力を要請してください。先日の対談でお会いした八坂神奈子様は話の分かるお方で、かつ、現実的な打算の出来る方でもあります。この状況を信仰の獲得の為のチャンスと捉えているはずですので、彼らにとって魅力ある条件を提示して味方に引き入れてください。それがうまくいったら今度は彼女をパイプにして、妖怪の山の大天狗と交渉の場を持つのです。これに関しては人里の騒動が収まるまでの時間稼ぎが主な目的になります。天狗を味方に引き入れることができれば、山の末端妖怪の暴走を抑えることもできるはずです。主な交渉には村紗があたってください。万一弾幕戦になった場合は、二人で出来る限り時間を稼いでください」
欠伸噛み殺しつつ白蓮の話を聞いていたぬえは、白蓮に指名されぎょっとして目を剥いた。さらに、仕事の内容が守矢との交渉役と知るに至って、あからさまに嫌そうな表情を見せた。
「守矢かあ。あそこの巫女苦手なんだよなあ……」
「まあまあ、そう言わないの。なんだかんだであの巫女と一番仲が良いのはあんたなんだから」
ぼやくぬえを村紗がなだめる。
交渉事と時間稼ぎの双方を十全にこなせる者といえば、村沙水蜜、彼女をおいて他にない。自信満々にそらした胸を、彼女は自らの拳でどんと叩いた。
「まあ任せておいてください。私は山にもよく行きますから、顔見知りも多い。特に河童とは仲が良いので彼らに仲介を頼むことにしましょう」
白蓮は目で頷くと、さらに指示を続ける。
「魔法の森はマミゾウさんと響子にお願いします。魔法使いたち……特に魔理沙さんがどう行動するかは正直なところ私にも判断しかねますので、意志を確かめる必要があります。交渉、万一の際の弾幕戦担当、共にマミゾウさんにお願いしたいと思います。言うまでもありませんが――」
「目的はあくまで時間稼ぎ、じゃな。無論わかっとるよ」
「そして、博麗霊夢との交渉は私が向かいます。彼女は心の底では妖怪と人間の平等を望んでいる。私に近い考えの持ち主です。話せばきっと分かっていただけるはずです。
星とナズーリンは命蓮寺の留守を守ってください。命蓮寺に集う妖怪たちは争いを望みません。彼らを守ること、そして、本拠から情報を把握し私に伝えることが貴女たちの仕事です」
「私にはお仕事はないんですか?」
ひどく寂しそうな声でそう言ったのは響子だった。
「二人組を組ませるのは弾幕戦に敗れた場合を想定してのことです。その際は、動ける方がもう一方を引き連れ命蓮寺に帰還してください。星はその場合、すぐに私に連絡を寄越してください」
「心得ました。……ナズーリン、要点は掴みましたか?」
「ええ、ええ、よく理解しましたとも。何かあれば聖に鼠を寄越せば良いのでしょう? しかし、まったく皆鼠遣いが荒いですよ。幻想郷中の鼠たちを集めても手が足りない」
星の傍らでナズーリンがぼやいた。彼女は白蓮が話している間も始終、部下の鼠からの報告を受け取っては新たな指示を与えるということを忙しく繰り返していた。
「で、でも、親分を残して逃げるなんて私にはできませんよう……」
響子がなおも不安げな声を漏らす。だが、マミゾウはあくまで自若とした態度を崩さず、諭すような口調で響子に語りかけた。
「なに、心配には及ばん。時間稼ぎが目的なら儂の方に圧倒的に分がある。おまけに今夜は満月じゃ。たとえあの魔理沙殿相手でも遅れを取ることはないよ。さらに言えば、儂は外の世界で嫌というほど示談交渉をやってきたのでな。弾幕勝負にすらなることはあるまい。魔理沙殿とて話の分からん人間じゃないしの。まあ茶でも飲みに行くつもりでおれば良いよ」
「マミゾウさん、ご協力感謝します」
白蓮が深く頭を垂れると、マミゾウは鷹揚に笑って言った。
「いやいや、こんな時でもない限り食客としての借りを返せんからね」
白蓮は改めて弟子たち一人ひとりの顔を見回し、檄を飛ばした。
「私からの指示は以上です。これは私たちを受け入れてくれた幻想郷への恩返しと思い、全身全霊で事にあたってください。では、始めっ――!」
弟子たちがめいめい本堂から飛び出して行くのを見送ると、白蓮は星に向き直った。出立の前に、一言声を掛けておきたかったのだ。
星の表情は浮かなかった。
「聖……」
彼女は目を伏せたままポツリと師の名を呼んでいた。
星は過去の記憶を思い出していた。寺に押しかけた人間に引っ捕らえられて連れて行かれる白蓮たちを、残された星は一人で見送るしかなかった。その時、白蓮は星を気遣って振り返りもせず、何も言わずに去っていった。そして白蓮は自分たちが助けに行くまで決して帰っては来なかった。
今の状況は、その時の状況と酷似していた。星の不安はそこにあった。
――もしかしたら、また聖は帰ってこないかもしれない。
星は自らの胸の中からそのような観念を追い出すことができずにいた。星の姿を黙って見つめる白蓮には、彼女の気持ちが手に取るようにわかっていた。
白蓮は安心させるように微笑むと、子供に対してそうするように星の髪を優しく撫でた。
「何て顔をしているのですか、星。心配ありません。今度はちゃんと帰ってきますよ」
「……はい!」
師の言葉を受けて、星の眼に光が差した。
白蓮が頑なに守る不妄語戒をこれほど有難いと思ったことは、星の一生において未だかつてなかった。
***
日が落ちた後の博麗神社は、人妖の姿もなくひっそりとしていた。油代の節約のためか灯籠に火も入れておらず、夜目を利かす魔法を使わなければ殆ど周囲の様子もわからない。一目見れば、今日の神社の営業は終了したのだと判断できた。
が、目を凝らしてよく見ると、離れの方から僅かな光が流れ出ているのがわかった。
巫女の私生活に近づくのはさすがに無遠慮と思い、白蓮は本殿の前から声を張り上げる。
「夜分恐れいります。霊夢さんはいらっしゃいますか?」
返事なし。しばしの間、神社の周囲を取り巻く樹々のざわめきを返戻の挨拶代わりに聞いていると、やがて、どたばたと忙しない足音をたてて紅白姿の巫女の近づいてくるのが見えてきた。
博麗の巫女・霊夢は白鉢巻にたすき掛けというやる気に満ちた姿で白蓮らの前に現れると、びしりと大幣の先を白蓮に向け、
「あんたら……。夜襲とはずいぶんと妖怪らしいことしてくれるじゃない。今この場でいつぞやの決着をつけようってんなら、受けて立つわよ」
と威勢よく啖呵を切った。
白蓮はそんな霊夢の姿を見て口を開きかけたが、あることに気づき気まずそうに目を僅か脇に逸らす。
「いえ、違います。……あの、口元に、その……」
白蓮が見兼ねたのは霊夢の下唇の脇あたりにへばりついた米粒だった。どうやら食事中だったようだ。
霊夢は訝しげに首をかしげ、自らの口元に素早く手をやる。そして白蓮の逡巡の理由を知るや、あからさまな動揺を顔に浮かべて、手品師のような素早い手つきで顔から問題の代物を取り去った。それから、咳払いを一つやってから何事もなかったように聞き直す。
「それで、何の用?」
「お食事のところ大変失礼いたしました。今人里で起きている騒ぎについて霊夢さんがどうお考えか、伺いにきたのです」
時候の挨拶や前置きなど抜きにした乱暴なまでに単刀直入な物言いだったが、霊夢は気にする様子もなく、むしろ肩透かしを食らったようにあからさまな落胆を目の色の中に見せていた。
「なんだ、そのことか。それならまあ、魔理沙から聞いてるわ。とりあえず座んなさいよ。お茶出してあげるから」
「あ、お構いなく」
正直な話としてはあまりのんびりしているわけにもいかなかったのだが、霊夢の方はその白蓮の構うなという発言に構うことなく、いいからいいからなどとのたまいながら白蓮を本殿の軒先に押し込んだ。
離れの方に引っ込んでいくおめでたい色の巫女の後ろ姿を、白蓮はやや呆れたような顔で見送った。
「随分と悠長ですね……」
やがて盆の上に二人分の湯のみを載せ、霊夢はいそいそと戻ってくる。
「出がらしで悪いけど、急いでるんならこれで良いわよね」
どうやら白蓮が急いていることは彼女の語り口調から理解していたようだが、その割に、霊夢の態度の中に緊張感のようなものは欠片も見受けられなかった。あるいは無用に緊迫感をまき散らす白蓮を落ち着かせるためにわざとそうした態度をとっているのかも知れない。
彼女はは本殿の脇に並ぶ灯籠の幾つかに灯を点しながら、ぼやき声をあげる。
「あの件は、私もどうしたらいいか困ってるのよ。妖怪退治ならさっと行ってパッなんだけどねえ。騒ぎ起こしてるの人間なわけでしょ?」
火を入れた灯籠から客の姿を確認するに十分な光量を得ると、霊夢はゆったりとした足取りで軒下まで寄ってきて白蓮の横に座った。
彼女は熱い緑茶を一つ啜ると、物憂げなため息を一つついた。その目が、育ちつつある灯籠の火にぼんやりと向けられる。
「人里の人間の中に妖怪に対する危機意識が湧いてくれるのは万々歳なんだけど、今回の件は、なーんか、気味が悪いのよね。私の勘なんだけどさ」
「気味が悪い?」
「そう。まあ当然っちゃ当然かもしれないけど、しょうもない奴は人間にも妖怪にもいるというか……」
霊夢はそう言って言葉を濁す。
彼女は彼女なりにこの一件に関する結論のようなものを持っているようだった。それが彼女のよく当たる勘に由来するものなのかは白蓮にも推し量りかねたが、察するに彼女の考えは白蓮が抱いていたものと大差なさそうだった。
「なんだかんだで平穏無事に茶でもしばいて世間話しているか、酒でも呑んで馬鹿騒ぎしているのが一番ってことよ」
――話相手が私のような人間を辞めたものであっても、ですか?
白蓮は戸惑い気味の笑みを浮かべ、隣に座る少女の姿をそっと盗み見る。
――この巫女のような考え方の人間が、あの頃もっと身近にいてくれれば。
そんな考えても仕方のないことがつらつら頭に浮かんでくる。
――まあ、商売敵ではあるんですけどね。
胸の中にじわりと滲んでくる穏やかな思いが、白蓮の口から自然と漏れでていた。
「……やはり貴女も、私と同じように、人妖の平等を心の底では望んでいるのですね」
親しげな目でそのように語りかけられた巫女は、暗がりの中でもはっきり分かるほど頬から耳までを真っ赤に染め、跳ねるように立ち上がった。
彼女は大幣を白蓮の鼻先につきつけ、動揺を隠し切れない声で喚き散らす。
「ばっ、馬鹿言わないでよ! あんたは何か勘違いしているかもしれないけど、私がそんなたわけたことを口走ったことなんてただの一度もないからね!」
「そうですか?」
「そうよ」
巫女は憮然とした表情で腕を組みそっぽを向く。
「あんたも変に私の事を仲間だとか思って馴れ馴れしくしないでよね。ただでさえ妖怪神社なんて言われて商売に支障が出てるんだから」
――そう思うのならお茶なんて出さなければ良いのに。
まだ熱い茶を湯のみから啜りつつ、白蓮は心の中で苦笑していた。
と、突然、霊夢の背後で、灯籠が照らす石畳の敷石の一つがぼこりと音を立ててせり上がった。
霊夢の鋭い誰何の声が飛ぶ。
「何者!」
大幣を構えて機敏に振り向く所作は、流石に歴戦の者のそれだった。
敷石はごとごとと音を立て、霊夢らの視線の下で少しずつせり上がってくる。
夜の帳も下りた中、尋常ならざる方法で現れる者といえば妖怪変化と相場が決まっている。もしそうだとすれば、その用件が何であれ、この巫女の玄関先を荒らしたからにはただで済むとも思えない。万一にそなえ、白蓮は懐に手を入れ、魔人経巻を取り出した。目的は九割方、霊夢が暴走した場合に彼女を止めるためである。
しかし、石畳の下から現れたのは、妖怪ではなく意外な者の姿だった。
重い敷石を片手で持ち上げ、不敵な笑みをこちらに投げかけてくるその者の顔を、白蓮はよく知っていた。
「話は全て聞いたわ!」
「あ、貴女は……!」
白蓮が驚愕の声を上げる。それは、数週間前の鼎談で意見を交わし、その後弟子の扱いに関する助言を仰いだ相手でもある、聖徳王・豊聡耳神子その人だった。
白蓮の驚きをよそに、霊夢は明らかに刺のある声で聖徳王のその行為を咎めて言った。
「ねえ、そろそろその登場の仕方やめてくんない!? 敷石を元のようにならすの大変なんだから」
「おや。巫女どのはこの風雅な仙人的挨拶をお気に召さないようだ」
「めすわけないでしょ!」
十人の言葉を同時に解する能力を持つにも関わらず巫女の罵声は華麗に無視し、聖徳王は穴の中からはい出てくる。彼女は服についた土を手で軽く払うと、傲然と仁王立ちし、芝居がかった口調で語り始めた。
「私が今、ここに居るのは他でもない。目に見える事だけに振り回され右往左往する愚かな住職と、方針を決めあぐねて悩める巫女のために、私が一つ有り難い助言を進呈しようと思ってね」
自信たっぷりにそうのたまう聖徳王に対して、霊夢が突っ込みを必死で我慢しているのが、背後にいる白蓮にもわかった。手に持つ大幣がプルプルと震えている。
笏を口元に当てて勿体ぶった間を置く神子に向かって、今度は白蓮がやんわりとした非難の声を上げる。
「失礼ですが、愚かな住職というのはよもや私のことではありませんよね?」
「この場に住職は貴女以外居ないでしょ」
「私の何を愚かと思われるのでしょうか?」
むっとして問を重ねる白蓮を軽くいなすように、神子は微笑した。その微笑の奥から鋭く光る眼が白蓮を射抜く。
「貴女が拾うべきでない火中の栗を拾おうとしているからよ。周りを見回してごらんなさい。慌ててるのは貴女だけ。……私には、あなたの心が分かるから、その理由も分かるけどね」
白蓮は表情を険しくする。それは、急激に高まる心拍を悟られまいとする偽装の表情だった。
豊聡耳神子は白蓮の動揺を敢えて無視し、観客もまばらな中華麗に演説を始めた。
「私の見たてでは、この騒ぎはほっときゃおさまるわ。私のところにも随分多くの人間が相談に来てるけど、誰に対してもそう言ってやってる。関わり合いになるなと。愚か者の扇動に乗った愚か者の集団が妖怪の山に押しかけて、返り討ちにあう。天狗が首謀者の首を晒してことを収める。人里の人間は妖怪の恐ろしさを再認識して一件落着ね。人里としても輪を乱す馬鹿が自滅してくれて内心万々歳」
「……本気で仰っているのですか?」
白蓮は眉を顰めてそう問うた。対する神子は不敵に笑う。
「無論、本気よ。そしてこれ以上ないほど正直な意見でもある。さすがの私も里の人間に向かってここまでぶっちゃけやしないわよ」
「たとえどんな性質であろうと、犠牲にして良い命などありません。その考えは訂正すべきです」
「壊死した体細胞をそのままにすれば身体全体の細胞の死へと連鎖し、結果的に個体の死につながる。そのため、生きている細胞を残し死んだ細胞は身体から速やかに除外しなければならない。悪性の腫瘍は何の処置もせず身体に留めておけば無限に増え続け、これもまた個体の死に直結する。解決方法は右に同じ。人間社会の問題構造も、最適な解決方法も全て右に同じ」
反論しようとする白蓮の唇に笏を押し当て、神子は下から睨めあげる。
「組織運営の素人がほざく青臭い理想論と、国家運営上の問題を一つずつ解決してきた者が実績の果てに編み出した結論、どちらに説得力があるかなんて自明と思うけれど」
実務の観点から見れば、彼女の言葉は全て正論かもしれない。しかし、白蓮は、どうしてもその考え方に納得することができなかった。
もはやどう足掻いた所で議論が平行線になるのが目に見えているにも関わらず、白蓮はなおも食い下がった。
「……和をもって尊しとなす……とは……?」
「あの条例はそもそも政治上の紛争を戒めるものであって、一般的な道義を説いたものではない」
その会話を最後に両者は押し黙り、互いに冷たい視線を交差させるばかりとなった。
主人であるにも関わらず議論に参加する機会を完全に逸してしまった博霊霊夢は、先ほどまでとは打って変わって険悪な雰囲気と化した境内の中で所在なさげに両者の口論を聞いていた。
ようやくのこと会話が終わったと見て霊夢が口を開きかけたその時、彼女の足元を黒い影が素早く横切った。
その影の正体を見た霊夢は少なからず驚いて悲鳴を上げる。
「うわっ! ネズミ!」
どこやらともなく現れて霊夢の足元を掠めていったのは、大人の二の腕ほどもある巨大なハツカネズミだった。それは身体に似合わず俊敏な動作で石畳の上を駆けて行き、白蓮の足元までたどり着くとそこで足を止めた。
「あら、このネズミは……」
黒豆のような瞳で己を見上げてくる姿に、白蓮は心当たりがあった。
それは、ナズーリンが手下として引き連れている無数のネズミたちのうちの一匹であろうと思われた。
流石の白蓮もネズミ一匹一匹の顔など覚えては居ないが、今の状況で出会うネズミならばおそらくそのように考えても間違いはないだろう。
さらに言えばそのネズミはどう見ても野生ではなく、目を引く赤い首輪をつけていた。そして、ネズミは先程から、前足を使ってその首輪の一部をカリカリと引っ掻いている。
その首輪を白蓮は指の先で器用に取り外した。首輪を外され身に付けるもののなくなったネズミは、それでお役御免とばかりに鳥居に向かって走り去っていった。
白蓮は手元に残った首輪に目を落とす。牛の革で作られた首輪の端に、竹ひごで拵えられた小さな筒が括りつけてある。その筒を帯から取り外し、逆さにしてみると、中から巻物状の紙片が落ちてきた。
紙片を広げ一読した途端、白蓮の表情に緊張の色が差した。
彼女は顔を上げ、霊夢に視線を投げると、やや早い口調で物問う。
「……霊夢さん、念のため伺いますが、貴女は、積極的に今回の問題に関わるつもりはない、ということでよろしいですか?」
「まあ、ねえ?」
曖昧に返事をして、霊夢はほんの一瞬だけ神子の方を見る。本分は妖怪退治であるものの、本音としては今回の騒動に関り合いになりたくない、という気持ちが、言外ににじみ出ていた。
ただ、それを明言してしまっては巫女としての立つ瀬がなくなる。白蓮は皆まで言わせなかった。
「……いえ、構いません。もう幾日もしない内に、この騒動は収束するでしょう。私はこれから、里に向かいます。きっと、そこで何かが分かるはずです。夜分、お騒がせいたしました」
白蓮は真っ直ぐ霊夢に身体を向けると、深く頭を下げ非礼を詫びた。それからすぐに踵を返し、早足で鳥居に向かって歩き出す。
その背中に向け、神子が低い声で尋ねた。
「敢えて訊くが、貴女はなぜ本心を偽ってまで理想を貫こうとする? 心の底では人間を恐れ、人間を憎んでいるのに、なぜ、その人間のために動かなければならない?」
白蓮の足が止まる。彼女はゆるゆると首だけ傾げ、目の端で背後の神子に視線を投じた。
「神子さん。私は貴女を尊敬していました。しかし、それは間違いだったようですね。利己的な仙術が貴女を変えてしまったのか。残念です」
明白な軽蔑の視線を白蓮から送られても、神子は顔色一つ変えなかった。
「私はいつだってこのままよ。伝説はそうは伝えなかったかもしれないけれど。利己的に見えるのは貴女が政を知らないから。良い為政者は常に個ではなく全の利益を考える。全体の利益のために最小の犠牲を払うことは、時に必要なのよ。
そして――真に利己的なのは、貴女だ。聖白蓮。その胸に聞いてみるがいい」
「……失礼します」
白蓮は再び目を前に向け、二度と振り返らなかった。
彼女は手にした魔人経巻を大きく振りかざすと、境内に続く長い階段の天辺から身を投げ出した。その後ろ姿が階段の向こう側に消えるか消えないか、というところで、突如強烈な妖気の光が炸裂し、境内全体をまばゆく照らしだした。
妖光に包まれた白蓮の姿は僅かの間豪速で空中で蛇行した後、すぐ方向を定め、一直線に人里に向かって飛び去っていく。
「……いいのかなあ、これで」
人里の只中に落ちていく妖の流星を眺めながら、博霊の巫女は頼りなげに呟いた。
神子は霊夢の傍らに立ち、彼女とは対象的に穏やかな笑みを目元にたたえ、同じ光景を眺めていた。
「まあ、政が救いきれなかった者をフォローするのが宗教の本来の役目なんだけどね。今回はせいぜい頑張って貰いましょう」
***
吾郎と結社の幹部らは数日ぶりに左之助の邸宅の敷居を跨いでいた。連日盛況となっている人里での集会に関する報告というのは建前で、その実は、左之助と、その左之助が息子と信じる化け物の様子を見ることが目的だった。
人里の煽動が当初の想定以上に効果を上げている現状、目の上の瘤となっているのが、この家に鎮座する化け物だった。
半狂乱に陥った左之助に対する世間の目を逸らす、という当初の目的は既に陳腐化していた。今はもう、人里全体を巻き込んで反妖の機運を高めることに全神経を集中しなければならない段階に入っている。
今の状況下で、左之助にこれ以上動き回られては、里の人間の感情に水を差すことになりかねない。
できれば避けたい所ではあるが、場合によっては、あの化け物の繭だけでなく、葛城家自体をこの世から消し去る必要があるかもしれない。吾郎は頭の片隅でそのようなことを考えていた。その決断を下すのは、彼にとってそれほど難しいことではなかった。
ただし、その決断は最後まで控えておく必要があることも、吾郎は重々承知していた。左之助があの化け物を化け物として認識してくれれば、彼が正気を取り戻したと判断できる。それで事が収まるなら、その方が良いに決まっている。葛城左之助の知識と人脈は、まだ結社にとって利用価値が十分に残されているのだ。今回の騒動とて、彼の人脈を使わなければ、いくら愚かな里の人間といえど流した噂を信じ切ったか疑わしかった。
応接間に通された吾郎らの一団がしばしの間待っていると、部屋の襖がそろそろと開き、その向こうから左之助が姿を現した。
彼は病人のごとくゆっくりとした足取りで部屋の中に上がると、そのまま部屋の端まで歩いてゆき、壁に背をもたせかけて崩れるように座り込んだ。
「左之助、どうだ、少しは落ち着いたか?」
一応、という風に吾郎が聞く。誰もが一目見て判ったことだが、左之助は少しも落ち着いてなどいなかった。部屋に足を踏み入れた時から、彼の眼球は常にせわしなく部屋の至る所に向けられ、ひとところに定まる気配を見せない。彼の頬はこけ、眼窩は落ち窪み、体調に関しても良好そうには見えなかった。
左之助はどこを見るともなく見ながら、ブツブツと口の中で何事か囁いていた。最初、それは独り言かと思われたが、どうやらそれは衰弱した左之助が出せる最大限の声量を絞り出しての、仲間に向けた言葉だったようだ。
彼は語り終えると、意図の読み難い視線を吾郎に向けた。おそらく、吾郎の返答を待っているらしかった。
吾郎は平静に努め、手本を見せるように、ゆっくり、はっきりとした声で問い返した。
「悪いんだが、声が聞こえなかった。もう一度話してくれないか?」
「人里の医者は、全滅だ……。闇医者にも診せたが、駄目だった……。……すまん、吾郎、私を許してくれるか……?」
声はなんとか聞き取れた。医者に診せても無駄だった、という話はわかった。しかし、最後に放たれた問いかけの意味は全く理解できなかった。
吾郎は辛抱強く尋ねる。
「許す? 何を?」
「私は、結社の一員だし、これからも、そうでありつづけるつもりだ……。決してお前を裏切るつもりはない……。だが、圭太のこと、これだけは……。一個人の、家庭の事情にすぎないのだから、免じてもらえると信じている……」
吾郎の胸の奥で、何かがざわめく音がした。
相変わらず要領の得ない言葉だった。裏切り、という不安を煽る単語を無視することは憚られたが、彼はその不安要素を脇に除けてでも、まず仲間を正気に戻すことが第一と考えた。
「左之助、息子さんのことはもう忘れろ。言い辛いことだが、もうあれはとうの昔に……」
「息子は死んでなどいない!」
吾郎の説得の言葉は、左之助の悲鳴にも似た叫びによって遮られた。
左之助は落ち窪んだ眼窩の奥から白い目を病的に光らせ、部屋の一同を睨め回す。その眼光に怯まなかったのは吾郎一人だけで、それ以外の仲間たちは僅かに腰を引かせつつ、左之助の奇態を戦慄とともに見つめていた。
彼我の間に見えない膜が生じつつあることを察したらしく、左之助の眉根が失望とも悲哀ともつかないもので歪んだ。
「お前たち、誰一人として信じていない目をしているな……。良かろう、その目で見れば分かるはずだ。お前たちの目が節穴でなければな。ついてこい」
彼はおぼつかない様子で立ち上がり、震える手で襖を開くと、顎をしゃくって仲間たちを促した。
これ以上何を分からなければならないのか、という思いは誰しも持っていたに違いないが、あるいは既に彼らの心は次の段階に移っていたのかもしれない。
鬼であろうと蛇であろうと、なんでも良いから早いところ腹をくくるのに必要な決定的な事実と出会い、一刻も早くこの状況に対する始末を付けたいという欲求が、彼らの心を支配しつつあるようだった。
一同は左之助に誘われるまま、中庭の見える廊下に出る。月明かりの下、亡霊のように希薄な生気とともに歩く左之助の後を、吾郎たち一行が葬列のように続く。
果たして、彼らは一つの部屋の前にたどり着いた。吾郎らとしては二度と入りたくないと願っていた部屋だった。
しばしの沈黙の後、吾郎の呻くような声が重く響く。
「今更見るものはない。……違うか?」
「あの時、お前たちは動転していたのだろう。平静な精神なら見間違いようのないものでも、心のありようによっては全く別のものに見える時がある。もう一度、冷静になって見れば、お前たちも自らの誤認を認めるはずだ」
早口で語る左之助は、吾郎が止める間もなく部屋の障子を引いた。
その瞬間、何か波の様なものが吾郎の心理的背後に向かって急速に引いていく音が聞こえた。
「圭太、具合はどうだ?」
左之助ただ一人が、部屋の中に進み入ってゆく。
畳を踏む彼の足元に、一筋の糸のようなものの這っているのが見えた。それを目で遡る。糸は放射状に張り巡らされ、部屋の半分を覆っていた。密度はその末端こそ疎であるものの、集約部分へと視線を遡るに従い網の目のように細かくなっていく。
――繭糸。
表現するならその名詞が的確だった。あるいは菌糸か。
誰かが唾を呑む音が聞こえる。あるいはそれは吾郎のものだったかもしれない。
開いた障子の向こうに吾郎らが見たのは、大量の繭糸を吐き出して部屋を覆う、巨大な繭玉の姿だった。
以前目にした肉色の芋虫のような不気味な物体の姿は既に見えない。しかし、繭玉に向かって語りかける左之助の様子を見るに、おそらくはあの化け物の変態したものがこの繭玉なのだろう。
「吾郎……これは……」
仲間の一人が声を震わせる。その顔面は蒼白だった。人間の顔は生きているうちにここまで変色するものかと吾郎が僅かばかり驚くほどだった。
その吾郎自身も、身体の底から来る震えを禁じ得なかった。
夏間近というのにやけに寒く感じられたのは、全身の汗腺が開き汗が噴き出しているからに違いない。
状況はどう見ても数日前からさらに悪化していた。繭を作る生き物といえばまず真っ先に思いつくのは蛾だが、この虫は卵から幼生の姿を経た後、自ら創りだした繭の中で蛹の体をなし、その形態が終了すれば成虫として羽ばたき始める。いわゆる完全変態を行う種だ。
この化け物がそれと同じ形態をとっているとすれば、次の形態が成体ということになる。
対策に手をこまねいていれば、この繭は早晩本物の妖怪として吾郎らの前にその真の姿を晒すことになるだろう。その結果どうなるかは分からないが、ほぼ間違いなく吾郎らにとって好ましくない状況となるだろうことが予想できた。
吾郎らの動揺を尻目に、左之助は繭玉の傍らまで歩み進むと、繭糸にまみれた畳の上に膝を付いた。それから繭の表面に手を添えると、何事か二言三言囁き掛ける。小さく頷く。安心したように目を細める。
そして、振り返る。僅かに回復した気力の光が、振り向きざまの彼の目から無邪気に放たれる。
「見ろ、圭太はこの通り生きている。お前たちの憶測など、この事実の前には何の価値もない!」
やけに大仰な身振りと共に、左之助はそのような内容の言葉を喚いていた。
意識的に背けていた視線を、ほんの一瞬、ちらと左之助の顔に投じる。瞳の真円を観察できるほど瞼を剥き晒しにした左之助と、一瞬だけ目が合う。
吾郎は目を伏せた。
「確かに、生きてはいる。ただし、生きているのは人間以外の何かだ」
吾郎は自らの目が捉えたままの映像を率直に伝えた。爆弾の導火線に火をつけるような行為であることは彼も重々承知だった。
案の定、左之助のヒステリーはここに極まった。
「……吾郎、お前、まだそのような世迷い言を言うか……。声を聞け! 息遣いに耳を傾けてみろ! どこからどう見てもこれはわしの息子ではないか! 親のわしが間違うはずがないだろう!」
地獄の底からの吹き上がりのようなゴウゴウという耳障りな息遣いと、廃屋の朽ちかけた扉が風にきしむようなキイキイという声ならば、先ほどから吾郎たちの耳にも届いていた。
胸の奥のむかつきを吾郎はやっとのことでこらえていた。いかにすれば左之助を正道に戻せるか、この短い間に色々と考え、いくつかの試みも実践してみた。しかし、いかんせん左之助の意思は固かった。
善後策の思案のため吾郎は俯き目を固く閉じる。その様子を見かねた仲間の一人が、彼の肩を掴み、
「吾郎、左之助はもうダメだ……」
悲痛な声でそう言い聞かせた。
その言葉を待っていた。
吾郎の喉から長い溜息が漏れる。仲間らには、それは苦渋の決断を迫られたことへの嘆息として捉えられたらしい。次々と吾郎の身体に仲間の手が触れる。
吾郎は無念そうに首を振り、憐れむような目を左之助に向けた。
「無理もない……。一人息子を殺されて、こんな化け物と取り替えられてしまっては……」
「貴様ら、私が狂っているとでも言うのか! お前たちの目は、今何を見ている!」
唾をまき散らしながら叫ぶ左之助を見て、吾郎はもう一度大きなため息をついて俯く。
暫くの間、彼は頭を垂れ、部屋に響く悲鳴じみた声を聞いていた。やがて、その頭がゆっくりと持ち上がり、左之助を真っ向から見据える。
その顔には、もはや何らの感情も浮かんではいなかった。
「黙れ」
彼は底冷えのする声で、左之助に向けて短くそう一言告げた。
僅かに怯んで後ずさる左之助に対し、吾郎は言を継ぐ。
「……百歩譲ってその化け物が本当にお前の息子だったとしよう。だが、それでも、俺の行動は最初から決まっているんだ、左之助。
『それ』は今すぐ殺す。
反妖怪を掲げる俺たち結社が妖怪を飼っているなどと知れれば、好転している現在の状況の全てが水泡に帰してしまうからな」
彼は、ただの仕事上の連絡事項を述べるように、淡々とそう告げた。
その処刑宣告を聞いた左之助は唇をわなわなと震わせ、隙間風のようなかすれ声を喉の奥から漏らした。
「く、狂っている……! 狂っているのは、貴様らだ! 貴様ら、皆、狂っている!」
吾郎としては、狂人から狂っていると評されるのは心外だったし、狂人の定義について哲学めいた思索をするつもりもなかった。
今の左之助に対して吾郎から送ることができるのは、別れの言葉だけだった。
「左之助、お前とも長い付き合いだったが、残念ながらここまでらしいな。お前が提供してくれた妖怪についての多くの情報、決して無駄にはしない。息子さんのことは残念だったが、心配しなくとも直ぐに極楽で再会できるだろう」
彼は懐にゆっくりと手を差し入れ、左之助ににじり寄った。懐の隙間から漏れる死の臭いを隠す必要はもうない。そう吾郎は判断していた。
嗅覚鋭くもその臭いを嗅いだ左之助の顔に、見る見るうちに恐怖が滲み出る。
彼は拒絶するように腕を吾郎に向け差し伸べ、叫んだ。
「来るな!」
短い言葉だった。これが左之助の末期の言葉になるのだろう。
「さらばだ、左之助!」
叫びとともに、懐に差していた腕を吾郎が猛然と引き抜く。引き抜かれた腕の先、手首の辺りに白い光が閃いたかと思うと、直後、光は尾を引いて左之助の首元に飛び込んでいく。
刹那、何か硬いもの同士のぶつかる激しい音が部屋中に響いた。
差し出された左之助の腕を掻い潜り、その素首を穿たんとしていた白刃の切っ先は、目的を果たすことなく宙に制止していた。
吾郎が突き出した短刀の刀身を、華奢な手が掴んでいた。その手の主に向け、吾郎は咄嗟に眼球を動かす。
妨害者の正体を見た瞬間、吾郎の瞳の中に明白な憎悪の火が灯った。
「なぜ、お前がここにいる……!」
視界の中に佇んでいたのは、険しい表情で睨み返してくる魔住職・聖白蓮の姿だった。
***
白蓮が手に力をこめると、彼女が掴んでいた短刀の刃は花の茎のように簡単に手折れた。
手の中に残った刃の欠片を、白蓮は吾郎の目の高さに掲げてみせる。
「私は、葛城様に招かれたために参じました。貴方がたこそ、なぜここにいて、このような物を振り回しているのです?」
白蓮の手がゆるゆると開き、指の隙間から刃の破片が滑り落ちた。切っ先から落下した刃は鈍重な音を立てて畳の上に突き立つ。
憎々しげに白蓮を睨んでいた吾郎の視線が、より一層の鋭さで左之助を射抜いた。
左之助は吾郎の視線を跳ね返すように真っ向から睨み返し、憮然として言った。
「里の医者は皆手遅れと言う。竹林の医者はこの件には関わりたくないと言う。もう他に手はなかった」
「左之助、貴様! 妖怪に頼ったのか!? 気が違ってもそこまで堕ちるとは思わなかったぞ!」
激昂した吾郎が、左之助に詰め寄り胸ぐらを乱暴に掴んだ。その手を払いのけ、負けじと左之助が叫ぶ。
「黙れ、殺人鬼めが! この際、妖怪だろうが誰だろうが構わん! 圭太を救ってくれる者がいれば、誰だろうと……!」
彼は吾郎を突き飛ばし、白蓮に向き直ると、彼女の足元にひれ伏した。
「聖殿! もう私には貴女しかすがるものが残されていないのだ……! 頼む! この通りだ!」
左之助の必死さは白蓮にも伝わってきたが、いかんせん彼女には状況が全く把握できていなかった。
白蓮は跪き、左之助の肩に手をのせた。掌から、左之助の身体の震えが伝わってくる。
彼女はなだめるように左之助に語りかけた。
「顔をお上げください。まずは落ち着いて、今の状況を私に教えてくれませんか?」
言われるままに上げられた左之助の顔には、泣き笑いのような複雑な表情が浮かんでいた。
彼は白蓮に対し、訥々とした言葉で事の仔細を説明し始めた。
ひどく錯乱しているのか、彼の言葉は初め、非論理的で支離滅裂を極めていた。しかし、話すにつれ落ち着きを取り戻してきたのか、白蓮の幾度かの質問によって頭の整理がなされたのか、いずれにせよ、数刻もすると彼の語調はしっかりしたものになっていた。
辛抱強いやりとりの果てに、白蓮の方も大体の事情を飲み込んだ。
彼女は部屋の片隅に鎮座する巨大な繭に目を向けると、ゆっくりとそれに近づいた。そして、左之助に対してそうしたのと同じように、彼女は繭玉の表面にそっと手を触れた。
ほの温かい体温と、小刻みな脈動が指先に伝わってきた。左之助の話す通り、その繭は確かに生きている。だが、繭のように見えるその生命体の手触りは、完全に妖怪のそれだった。
繭の中に何がどのような姿で眠っているのかは判らない。だが、耳を澄ますと、繭玉の中から、キイキイという蝙蝠の鳴き声のような声が聞こえてくる。どんなに繰り返し聞いてもそれは、人間の声とは思えなかった。
繭玉から微細な妖気のようなものが立ち上っていた。妖気は繭の中で経絡のような流れを形成し、経穴に当たる処で強い力点を形成していた。
その妖気の流れのいくつかの箇所に、普通の妖怪にはない妙な動きがあることに白蓮は気づいた。
周りの人間たちを警戒させぬよう彼女はゆっくりと振り返り、その視線を左之助に据えた。気が気でない様子で白蓮の行為を見守っていた左之助は、ついに結論を聞けると見るや、一層落ち着きなく白蓮にいざり寄る。
白蓮は努めて平静な声で、己の導き出した仮説を左之助に告げた。
「これは妖魔転生法の類と思われます。相当に年季を重ねた妖怪でなければ扱うことのできない、複雑な技術を要する術法です。……葛城様、何か心当たりはございませんか?」
左之助の目の中に、僅かな希望のようなものが光った。彼は急き込んで答える。
「この部屋に息子がこの姿で落ちてきた時、こいつは言っていた。八雲の妖怪にやられたと……」
「八雲の妖怪……」
その存在程度は白蓮も知っていた。八雲紫という名の古い妖怪で、この幻想郷の構築に携わった者であるという。普段は式に幻想郷の管理を任せており、特定の者以外に姿を見せることは滅多にない。
その妖怪が、今、敢えて自ら動き、人里の子どもを妖怪の姿に変えたというのだ。
その行動の意図は何なのか。白蓮にもおおよそ想像がついた。
白蓮は左之助に向け尋ねた。
「当然、心当たりはありますね、葛城様」
「……ああ……」
苦々しげに応える左之助に、白蓮は非難の目を向ける。
「数週間前、私の寺に山の妖怪たちが集まってきて言いました。貴方の家の子どもが夜毎山に現れ、妖怪たちを襲っていると。おそらく、彼が今この姿になっているのは、妖怪の賢者の報復の結果なのでしょう。ですが、それはまさしく因果応報というものです」
「無論……理解はしている。その上で、こうして頼んでいるのだ……!」
「ならば、約束してください。もう金輪際、妖怪に対する手出しはしないと」
「左之助! こんな悪魔の言葉に耳を貸すな!」
吾郎がヒステリックに喚き立てる。だが、既に左之助の眼中に彼の姿はなかった。
左之助は再び低頭平身して、絞りだすような声で願い上げた。
「住職、約束する。頼む、息子を……」
「……左之助……馬鹿者が……!」
忌々しげに吐き捨てる吾郎を、白蓮は冷たい目で睨め付けていた。その視線は冷たさを保ったまま左之助に移る。
このような口約束にどれほどの効力があるか、怪しいものだった。人間は喉元過ぎれば熱さを忘れる生き物だ。
白蓮は、左之助の言葉も、端から信用などしていなかった。
だが、救いを求める者があるならば手を差し伸べるのが宗教家の義務なのだ。
「術を始めます。皆さん、少し下がってください」
救うべき者に向け、白蓮は身を翻す。
八雲紫が施したであろうその術は、施術の複雑さに比べ、解術の難度はさほど高くない。時間と根気こそ必要だが、白蓮であればまず確実に解くことのできる類の術だった。
大変なのは、この解術作業が終わった後の事態の収拾の方だろう。そう思いつつ、白蓮は繭玉の表層に触れようと手を伸ばす。
と、その時、白蓮の背後で吾郎が最後の悪あがきとばかりに喚き上げ始めた。
「左之助、今更俺の語ることなどお前の耳には入らんだろうがな! しかし、どうしてもこれだけは聞き入れてくれ! この女にだけは頼るな! この女は人間の味方などではないし、ましてやお前の息子を救いなどしない! こいつに任せてみろ、お前の息子はお前の見ている前で妖怪として転生を遂げることになるぞ!」
それは、左之助に向けられた言葉のはずだった。
だが、あろうことかその言葉は、今まさに解術による救いを施そうという白蓮の心に突き刺さっていた。
繭玉に触れようとしていた白蓮の手が止まる。
彼女の心の中で、気づかぬうちに思考が氾濫を始めていた。
――妖怪として転生するということ。それは、救いではないのか?
何の疑問もなく、人間の姿に戻しさえすれば当面の問題が解決すると思い込んでいたが、果たしてそれは本当に正しい行動なのだろうか?
左之助から頼まれた通りに子どもを元の姿を元に戻せば、全てが丸く収まるのは分かっている。
だが、本当にそれがこの子供の精神にとって正しいことなのか?
自分の欲求を満たすことができるのなら、他者などいくらでも利用し裏切る。それが人間の本質だ。そんな人間に戻すことが、この子にとって幸せなのか?
背後を見る。吾郎と左之助は再び激しい言い争いを始めていた。
交わされる口汚い言葉は互いの感情を昂ぶらせ、説得を目的としていた口論は既に互いの人格否定に発展している。
あのいがみ合いの地獄の中に、この子どもを放り込もうというのか?
――それよりは、このまま妖怪として転生させた方が、この子の幸せになるのではないだろうか?
妖怪として、人間の醜さを忘れて生きた方が幸せなのではないか?
人間たちがこれほど愚かでさえなければ、何も迷うことなどないのだ。だが、人間は千年前から変わらず愚かなままだ。おそらくは、これからも永久に。
放っておけ、という神子の言葉が脳裏に蘇る。それが正しい選択なのだろうか?
同時に、神子はこうも言っていた。貴女は、心の底では人間を憎んでいる、と。
だとすれば、今急速にもたげつつあるこの考えは、己の無意識に潜む人間への憎悪から生まれたものなのではないのか?
憎悪に起因した考えならば、従ってはならない。利他行は弟である命蓮上人から与えた至上命題であり、その命題を破るわけにはいかない。
しかし、本当にこの考えは、己の憎悪に端を発するものなのか?
この子の真の幸せを願って起こす行動は、利他行ではないのか?
そもそも己は誰の幸せを望んでいる? 左之助か? この子供か?
――それとも、己か?
「迷うことなんて、どこにもないよ」
不意の事だった。聞き覚えのある声が耳に届く。この場に居るはずのない者の声。
白蓮は咄嗟に首を巡らせる。
振り向いた視線の先、たむろする人間の間に、白蓮は声の主の姿を見た。
その姿を見た瞬間、白蓮ははっと息を呑み、眼を大きく見開く。
「こいし!?」
白蓮の視界の中に収まっていたのは、紛れも無く自らの弟子として招いて来た、あの少女妖怪の姿だった。
いつの間にこの場に紛れ込んでいたのだろうか。彼女が声を発するまで、この場にいる誰も、こいしの気配に気付いていなかったようだ。
人間たちが慌てふためき蜘蛛の子を散らすように逃げ惑う様子を意にも介することもなく、こいしは白蓮に向かってゆっくりと歩み寄っていく。
白蓮の前まで進み出たこいしは、僅かに眼を細めて微笑んでみせた。
そして、彼女は迷いのない口調でこう言った。
「妖怪だとか人間だとか、そんなことよりもっと大切なことがあるわ。けいちゃんの声を聞いて、聖お姉ちゃん……!」
――声を……?
こいしが言葉の意図を、白蓮には全く理解できなかった。
先ほどまでの記憶が正しければ、あの繭の中から聞こえるのはげっ歯動物のそれのような甲高い鳴き声だけだった筈だ。
白蓮が当惑の表情を浮かべたのを見て取るや、左之助が咎めるような声を上げた。
「貴女には聞こえないのか!? 圭太の言葉が!」
「黙れ、左之助! 化け物の声は化け物にしか分からん! そのうわ言を今すぐ止めろ、反吐が出る!」
左之助と吾郎の口論をよそに、白蓮は俯き赤面していた。己の未熟を恥じていたのだ。
声は受想行識における行。すなわち意志だ。たしかに、こいしや左之助の言うとおり、この鳴き声には意志があると考えるべきだった。
目に見えているもの、耳に聞こえていることに囚われすぎていた。
ただ見ただけでは観たとは言わない。ただ聴いただけでは聞いたとは言わない。
目に見えないから無いなどということはない。耳に聞こえないから無いなどということもない。
この世界は完全なる無などではないし、また、存在する物が全てというわけでもない。
これと同じ考えが仏教の中にある。
白蓮の口の中から、知らず、その思想を含む経が漏れ始めた。
「……観自在菩薩行深般若波羅蜜多時照見五蘊皆空度一切苦厄
舎利子
色不異空空不異色色即是空空即是色受想行識亦復如是……」
白蓮のよく通る声が、部屋中に満ちる。
罵詈雑言を放っていた二人の男の声は彼女の読経の声にかき消され、舌戦はなし崩し的に尻すぼみとなった。
「……舎利子
是諸法空相
不生不滅不垢不浄不増不減
是故空中無色
無受想行識
無眼耳鼻舌身意
無色声香味触法
無眼界乃至無意識界
無無明亦無無明尽
乃至無老死亦無老死尽無苦集滅道
無智亦無得
以無所得故菩提薩埵依般若波羅蜜多」
これまで幾度と無く繰り返し唱えてきた経文だった。だが、今ほど身につまされてこの経文を唱えたことは、かつてない。
一音一音を噛みしめるようにして、白蓮は経を読み続けた。
「故心無罣礙
無罣礙故無有恐怖
遠離一切顛倒夢想究竟涅槃
三世諸仏依般若波羅蜜多故得阿耨多羅三藐三菩提
故知般若波羅蜜多是大神呪是大明呪是無上呪是無等等呪
能除一切苦真実不虚
故説般若波羅蜜多呪即説呪曰
羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提薩婆訶
般若心経……」
読経が終わり、部屋の中がしんと静まり返る。
その静寂の中、白蓮の耳に微かな声が届いた。
『……て……』
ほんの小さな声だった。げっ歯動物の様な鳴き声の向こう側で、今にも消え去りそうなほどの。
だが、たしかにその声は、こう言った。
『……お父さん……怖いよ……助けて……』
声はただひたすら怯え、か細く震えていた。
『助けて……お父さん、お父さん、どこ……?』
まるで果てどない闇の中に一人取り残された小動物のように、その声は父の名を呼びつづけていた。
白蓮は、その声を聞いてもなお迷う気になど、到底なれなかった。
彼女は繭玉の上にそっと手をのせ、その表皮を優しく撫ぜた。
「……大丈夫。今、助けてあげますからね」
言うや白蓮は助けを求める声の主の傍らに腰を下ろし、再度念仏を口ずさみ始める。
すると、白蓮の頭上から妖しげな気が糸のように立ち上り、やがてその気は陽炎のように彼女の身体全体から揺らめきだした。
遠巻きに彼女の所作を見守っていた人間たちはその様子を見るや、泡を食って部屋を飛び出していき、中庭まで出た所で、ようやく振り向いて恐る恐る部屋の中の様子を伺い出した。彼らはそこで成り行きを見守ることに決めたらしい。
部屋の中に残る胆力のある人間は、吾郎と左之助の二人ばかりだった。
その内の一人である吾郎が、額から脂汗を流しつつ怒鳴った。
「邪法に染まった妖僧に、人間を救えるはずがない! 今でも間に合うぞ、左之助! やめさせろ!」
その声に応じたのは左之助ではなくこいしだった。
彼女はきっと吾郎の顔を睨みつけ、強い語調で反論する。
「そんなことはないわ。聖お姉ちゃんなら、きっとけいちゃんを助けてくれる。私を助けてくれたようにね」
白蓮の背中から立ち上る妖気は今や炎のように鮮やかに、人間たちの目に映しだされていた。彼女はもう、ただひとえに眼前の少年を救うという一念のみに支配されていた。その高い集中力により練り上げられた妖気の片鱗が、肉体から漏れだしていたのだった。
やおら、白蓮の手が動き、繭の皮層をさらりと撫でた。すると、彼女の掌を追うようにして、薄紅色をした気の塊が繭の中から吐き出されてきた。彼女が手を振り払うと、その気は畳の上に叩きつけられる。
部屋の中の男たちがおののきつつ見守る中、気の塊は空気の中に溶けて消えていった。
左之助らが再び白蓮の方に目を向けると、繭玉の様相に大きな変化が訪れていた。
「おお! 繭が!」
白蓮の膝先に横たわっていた繭玉の表層が崩れ去り、中から赤黒い肉塊が姿を露した。
それは、左之助や吾郎が以前見たことのある、人間を裏返しにしたような姿だった。要するに、姿形が一つ前の形相に戻ったのだ。
あからさまな顰め面を見せる吾郎を差し置き、左之助が歓喜の声をあげる。
だが、解術の作業は、そこから遅々として進まなくなった。
それはまるで、寄木細工を解くような作業だった。随所に楔のように施された封印を一つ解くごとに、子どもの身体は人間の姿を取り戻していく。
ただの寄木細工と違うのは、解く順番を間違えると、子どもの身体がバラバラに破壊されてしまうということだった。
だから、白蓮は極めて慎重に解術の作業をせざるを得なかった。
数十ある封印の、最初の一つを抜き去るのに、軽く半時はかかった。一つの封印を解く度に、子どもの全身を検査し、気の流れに変化が生じていないか確かめる。そして、次に封印を解く箇所を定め、覚悟を決めてえいと抜き去る。
その作業を繰り返し、子どもの四肢が人間の姿に戻るころには、刻すでに深夜に至っていた。
しかし、まだ気を緩める訳にはいかなかった。最後に、大仕事が残されている。
子どもの肉体は完全に裏返しになっていた。これまでの作業では、命に直接影響のない末端部分を復元してきたにすぎないが、ここから先の作業では内臓や中枢神経をいじる必要がある。
具体的には、子どもの胸の上で激しく脈動する心臓や蠕動する肺を肋骨の中に収め、背骨の裏にめり込んでいる頭部を元の位置である頚椎の上に戻さなければならない。
一つでも手順を間違えれば、良くても子どもの肉体に重大な後遺症を残し、悪ければ命を奪うことになるだろう。
白蓮がその旨を左之助に説明すると、彼は真摯な瞳で彼女を見返し、はっきりと首を縦に振った。
「構わない。だが、私は貴女を信じる」
白蓮は驚いた顔で左之助を見た。彼の目の中には、一点の疑いの色も見えない。
人間が己を完全に信じてくれるなど、考えもしなかったことだった。
身体の中が、じんと熱くなる。心を強く支える力が、白蓮の芯に充ちる。
白蓮は意を決して再び子どもの許にいざり寄った。
「お姉ちゃん、頑張って……!」
背後から、こいしのささやかな応援の声が聞こえてくる。
子どもの身体から妖気の塊を引き抜き、棄てる。気の流れを確認して次に解くべき封印を探す。次の要点をここと決め、再び妖気の塊を引き抜く……。
その作業はいつ終わるとも知れなかった。幾つもの妖気の塊が引き抜かれていったが、子どもの身体は一向に変化の兆しを見せない。白蓮の成功を祈念する一人の人間と一匹の妖怪は、一つの解呪が終わる度に、次こそは次こそはと念じるのだった。
そして、東の空が白々としてきた頃、とうとうその時はやってきた。
白蓮が鳩尾の辺りから一本の楔の形をした妖気を抜き去った瞬間、子どもの身体が一挙に反転したのだ。背中にめり込んでいた頭蓋はぐるりと回って頚椎に接続し、剥き晒されていた内臓の数々は慌てふためくようにして肋骨の中に飛び込んでいく。しかるのち、背中側から皮膚が這い出てきて肋骨の上に覆いかぶさった。
左之助らが二回ほど瞬いた後には、子どもはすっかり人間の姿を取り戻していた。
しばしの間、呆然と息子の姿を見守っていた左之助は、はたと気を取り戻すと、弾けるように飛び上がって息子の身体にすがりついた。
「圭太!」
今や完全に人間としての姿を取り戻した左之助の息子、圭太は、父親の声にか弱い声で応じた。
「お父さん……」
人間の身体は脆い。解呪の手抜かりによって今にも子どもの身体が崩れ去りはしないかと白蓮は気をもんでいたが、どうやら杞憂だったようだ。少年の姿は父親の腕の中で、正体を失うことなく形を保っていた。
ここまで待てば安心、という基準などあるはずもない。白蓮はしばし待った後、もう大丈夫と自らの中で見切りをつけ、大きく息を吐いた。
左之助の腕に抱かれていた少年が、身動ぎしようとしてうめき声を上げる。左之助は、狼狽えて息子の名を叫んだ。変転する状況に、左之助は対応できていなかった。
白蓮は左之助に向けて、努めて穏やかな声をかけた。
「解呪は成功しましたが、肉体はまだ万全ではないようです。ですがそれも、癒しの法を毎日時間をかけて施してゆけば、少しずつ快復していくでしょう」
そう言って、白蓮は膝元に横たわる少年に目を落とす。
少年の目を見た途端、白蓮は我知らず眉をひそめた。
圭太は、敵愾心に燃える瞳で、眼下から白蓮を鋭く見返していたのだ。
その瞳の中に、反省の色を見出すことはできなかった。
あのような目に遭ってもまだ、彼は自分の行動に問題があったとは考えていないのだ。少年の射抜くような視線の中には、自分自身の正当性を主張して憚らない頑迷さだけがぎっしりと詰まっていた。
白蓮は、己の心が、失望によって急激に冷めていくのを感じていた。
――所詮、人間とはこういうものなのか。
「ちっ……」
部屋の隅に立っていた吾郎が、小さく舌打ちをして白蓮を一瞥する。それから彼は何も言わずに身を翻し、仲間とともにその場を立ち去っていった。
彼の姿を再び見ることは金輪際無いだろう。白蓮は吾郎の後ろ姿を見て、なぜかそう感じた。
左之助は子どものことにしか眼中にないようだし、すべきことは全て済ませた。
もはや、白蓮がこの場に居る理由はなかった。
「それでは今日はこれで……」白蓮はそう呟き、静かに立ち上がった。
その時、白蓮の袖を誰かがちょんと引っ張った。
こいしだった。彼女は、満面の笑みを浮かべ、目をキラキラ輝かせて白蓮を見上げていた。
「おねえちゃん、ありがとう! おねえちゃんなら、けいちゃんを助けてくれるって信じてたよ」
彼女はそう言って、その細い腕で白蓮をぎゅっと抱きしめた。勢い良く胸に顔をうずめたおかげで、彼女が被っていた帽子が畳の上に落ちる。
報いを期待していた訳ではなかったが、彼女の労いの言葉は純粋に嬉しいものだった。
「こいしも、ありがとうね。貴女が居てくれたお陰で、迷いが晴れたわ」
白蓮はこいしの髪をそっと撫でつつ、そう言った。
やがてこいしは白蓮から身を離すと、次に圭太の許に歩み寄り、彼の傍らに膝をついて座り込んだ。
***
こいしの姿に気づいた圭太は、意地の悪い顔をしてせせら笑った。
「……なんだよ。またやろうってのか……? ……今ならお前程度でも僕を殺せるぜ」
「圭太っ……お前、まだそんなことを……!」
圭太は自嘲気味に笑った後、苦しげに呻いた。
傍らに座るこいしが、その様子を見て心配そうに眉を寄せ、両手でそっと圭太の手を握る。
「けいちゃん、身体が痛むの? 私、白蓮おねえちゃんに癒しの術を教えてもらったの。まだあんまりうまくないけど、少しだけなら痛みも引くと思うんだ」
白蓮は目を丸くしてこいしを見た。白蓮が知る限り、こいしは最近こそ素直に修行に励むようにはなっていた。だが、あの問題児だったこいしが、このような行動を取るとは思ってもいなかった。
驚いたのは圭太も同様だった。彼もまたはっと息を飲んでこいしに視線を投じていた。
こいしが何事かささやくと、彼女の華奢な手のひらがぼんやりと輝きを放ち始めた。
その輝きは、圭太の手から腕へ、腕から胸へと伝わり、ついには彼の全身を包んだ。
圭太は初めこそ抵抗するように身を固くしていたが、やがてその緊張も少しずつほぐれていった。その代わりに、彼の表情には困惑が色濃く現れ始めた。
そうしてどのくらいの時間が経っただろう。
術のおかげで痛みが引いたのか、圭太の表情はだいぶん柔らかいものになっていた。
彼はバツの悪そうに黙ったまま、ちらとこいしの顔に視線を飛ばす。
圭太の視線の先には、目を固く閉じて一生懸命に念じるこいしの姿があった。
視線に気づいたのか、ふと、こいしが目を上げる。
彼女は圭太と目が合うと、申し訳無さそうに再び瞼を伏せて、ぽつりと呟いた。
「けいちゃん、この前は、喧嘩してごめんね」
「……!」
こいしは沈痛な面持ちのまま、ひたすらに圭太の快復を祈っていた。
手のひらからは、あいも変わらず心地よい温もりが伝わってくる。
それはまるで、彼女の想いがそのまま身体の中に流れ込んできているようにすら感じられた。
圭太は暫くの間目を泳がせたあと、呻くように呟いた。
「……僕の方こそ……怖い目にあわせて……ごめん……」
その返事を聞くと、こいしの顔に安堵の表情が広がった。
彼女は柔らかに微笑み、片方の手で圭太の額をそっと撫でた。そして、穏やかな鈴の音の様な声でこう囁いた。
「また、みんなで一緒に遊ぼうね」
そこには、白蓮が見てきた不安定な妖怪の姿も、圭太の頭のなかで凝り固まった凶悪な妖怪の印象もありはしなかった。
ただ純粋に優しい、一匹の妖怪の姿がそこにあった。
圭太の眉がみるみるうちにへの字に曲がってゆく。彼は慌てたように首をすいと壁の方に向けた。
沈黙が部屋に満ちる。
やがて、彼は少し上ずった声で「うん」とだけ呟いた。
逸らされていた圭太の目の端から、涙が一筋こぼれて落ちた。
***
この日を境に、人里の反妖の気風は急速に衰えを見せ始めた。
決め手となったのは、これまで一貫して妖怪嫌いを公言していた葛城左之助による内部告発だった。
彼は、先の子供殺し事件が人里の秘密結社による捏造であるという証拠を示した。彼の口から暴かれた秘密結社の拠点を目明しが洗うと、その一つから烏天狗の羽根が大量に見つかったのだ。
目明しは葛城を縄にかけ、首謀者である佐伯吾郎を追ったが、ついに彼を捕えることはできなかった。
その後、人里で佐伯の姿を見かける者は一人として現れなかった。一時期、妖怪に食い殺されたという噂が流れたが、その噂も時が経つにつれ語られなくなった。
それからひと月もする頃には、人里にはいつもどおりの平穏が戻っていた。だが、それがかりそめの平和であることは誰の目にも明らかだった。
この一連の事件は人里に大きな爪痕を残した。人々は自らの無知、無力を知り、急性的なものではあるが、ある種の虚無感や厭世観を抱くようになった。
こうした厭世観が、あの夏の宗教戦争の一因となるのだが、それはまた別の物語だ。
竿の先に結び付けられた黒い一枚の布が、湿った風に吹かれて夕暮れの空を撫でている。
人里のとある民家の門前に掲げられた弔旗を、袈裟姿の白蓮と一輪が見上げていた。
日頃から昵懇にしていた檀家の親族に不幸があったと聞き、二人は弔問に赴いたのだ。
本来ならば枕経の依頼があるまで敢えて伺いを立てるようなことはしないのだが、この家に関しては特別だった。
この檀家とは命蓮寺設立当初からの付き合いがあった。彼らには白蓮らが幻想郷に馴染めるよう四方八方に手を回し、彼女たちが人里の人間からも信仰されるよう便宜を図ってくれた恩がある。立場はどうあれ、まずは見舞いに出向かねば非人情というものだった。
しかしながら、檀家の屋敷に向かう二人の足取りは重かった。やっとのことで屋敷の門前に辿り着いた後も、今度はその門を跨ぐのに二の足を踏んでしまい、なかなか家の扉を叩くことができないでいた。
それというのも、最近人里を騒がせている幾つかの不穏な噂が原因だった。
普段から人里にはまことしやかな噂が無数に漂っており、それらは時に話題の種に、時に娯楽に、そして時には注意喚起の材料として、人々の生活の中に浸透していた。
平時ならば、それら噂の多くは取るに足らない内容で占められており、姿勢を正して聞こうなどという者は誰もいなかったろう。だが、今は違う。
今、人里は稀に見るほどの緊張状態の只中にあった。数日の間に人里で起きた一連の事件に端を発するこの緊張状態は、人々の間に恐慌にも似た危機意識を呼び起こし、それに伴い噂の質も変化していたのだ。牧歌的な世間話は鳴りを潜め、聞けば眉間に皺の寄るような話が人里を跋扈し始めていた。
人里の空気を変えた出来事の発端を遡ると、やはり噂に辿り着く。
それは、取替え児の噂だった。どんな噂だろうか。尾ひれのついた噂の内容を平均すれば、話の骨子は見えてくる。してみると要するにその噂というのは、山の妖怪が仲間を殺されたことへの報復として、里の長者の家の息子が妖怪の幼生と取り替えられたという内容だった。
その噂を裏付けるものは多くなかったが、長者の家の者が里の医者の門を叩く姿が頻繁に目撃されており、少なくともかの家の誰かの身に何がしか起きたことは間違いなかった。
もっとも、当の長者というのが妖怪嫌いで知られる葛城家であることから、噂の真偽はともかく、結局のところ自業自得ではないかという見方が人々の大半を占めていた。
そんな折に、第二の噂へと繋がる別の事件が起きた。
ある霞けぶる朝のこと。豆腐屋の隠居が朝の散歩の途中、里の真ん中にある広場に通りかかった。その時、少し先の地面に黒い影の横たわっているのが見えた。何かと思い近づき見た途端、隠居は腰を抜かしへたり込んだ。
黒く見えたのは、土に染み込んだ血だまりだった。そして、その血だまりの中央に、刮目したままの子供が、石のように横たわっていた。
子供は、顔から手足の先に至るまで全身が乾いた血糊で覆われていた。開いたまま微動だにしない眼と口に蝿が数匹たかっており、一目で事切れていると知れた。
人里の不幸はそれだけで終わらなかった。翌日、翌々日と立て続けに、同様の事件が里の中で発生したのだ。そして、その犠牲者のうちの一人が、今、白蓮らが訪れようとしている家の一人娘だった。
里はにわかに恐慌に陥った。
里の話題はこの事件でもちきりとなり、親は自分の子供を家の外に出したがらなくなった。目明しが犯人探しのために昼夜問わず駆けまわり、日が落ちてから夜が明けるまで、里の中を行き交う行灯の灯が消えることがなくなった。
と、同時に、ある噂がまことしやかに囁かれ始めた。
――子供は妖怪の手によって殺められた。
そんな内容だった。
この噂、何も突然降って湧いたものでもなく、根拠があった。
それは、遺体のあった場所の周囲に、黒く巨大な鳥の羽根が幾枚も散らばっていたことだった。
これについては、最初に遺体を見つけた翁も、その後駆けつけた人々も、皆はっきりとその眼で見ている。そして、その後起きた事件の現場にも同様の特徴が見受けられた。
ただの鳥の羽根でないことは間違いなかった。その羽根は、幻想郷に生息する野生の鳥類のどれよりも、遥かに大きかったのだ。
そのような巨大な羽根を見て、里の人々が、かの妖怪の山に巣食う恐ろしい烏天狗の姿を想起したとしても、それは無理からぬところだった。
噂は多くの人の耳に入り、それがまた口から出る過程で、新たな噂に変わっていく。
いつしかこの事件は先の取替え児の噂と結びつき、最後には『山の妖怪が人里に潜み、子供を殺して回っている』という話になって定着した。
そうなってしまうと、もう後は集団ヒステリーが起きるのを待つばかりということになる。
そのような状況下で、白蓮たちは人里に訪れたのだ。
彼女らが人里にやってきた理由の中には、これら二つの噂の裏付けを取るという目的も含んでいた。彼女は村紗水蜜と封獣ぬえを妖怪の山に遣わせ、山の神と協力して事実関係の確認を行う心積もりでいたが、その前にまず人里の状況を調べておこうと考えたのだ。
この噂に対する白蓮の考えは明白だった。
――今回の事件は、妖怪の仕業ではない。
幻想郷の妖怪は、人里にまで出張って人間の肉体に危害を与えるようなことはまずしない。先の妖怪殺しの話は既に白蓮も聞き及んでいるが、殺されたのが山の主要構成員たる天狗ではなく一介のはぐれ妖怪であることは、寺に来る妖怪の話や弟子たちの調査から既に分かっていることだった。いくら山の妖怪といえど、その組織に与しない者のために義憤にかられるほどの過剰な地域愛は持ちあわせていないし、そうした妖怪のために組織的な労力を割くほど暇でもなかった。余暇を潰す娯楽としても、もう少しマシなものはいくらでもあるのだ。
山の妖怪には動機がない。では、本当の犯人は誰なのか。
それを調べるのは本来目明しの仕事なのだが、既に妖怪の仕業と思い込んでいる里の人間たちに押され、本来の仕事を十分に遂行しているとは言いがたかった。
白蓮は動いた理由はそこにあった。妖怪と人間が平和に暮らせる理想郷を幻想郷の中に見出そうとした白蓮にとって、現在の状況は決して良い方向に向かっているとは言えなかったのだ。
白蓮の傍らには、一輪が緊張した面持ちで付き従っていた。白蓮の促しによって彼女は進みいで、一瞬の逡巡の後、檀家の家の門を叩く。
家の中は異様なほどの静けさを保っており、一輪が門を叩いた後もしばらくその静寂は続いた。肌に刺すような静寂だった。
やがて、門の脇に据え付けられた小窓がそろそろと開き、中から門衛と思しき人間の顔が覗いた。白蓮らの姿を見た途端、彼の目元は当惑したように眇められた。
「住職……」
「……この度のご家族のご不幸、心よりお悔やみ致します。日頃からのご懇意を慮りまして、失礼かとは存じましたが弔慰のため参じさせていただきました。亭主様はご在宅でしょうか?」
「旦那様はただ今、会合に出ていらっしゃいます。恐縮ですがお引取りいただけますか」
「左様ですか。それでは、また後日……」
門衛は白蓮の言葉を最後まで聞き終わらぬうちに小窓を閉じた。
ほどなく閂を抜く乾いた音がし、観音開きの門の一方が開くと、中から先ほどの門衛が滑り出てきた。
彼は早足でまっすぐ白蓮の許に近寄ると、押し殺した声で囁きかけた。
「住職、いけません。早く里をお離れください」
門衛の男はこわばった面差しを白蓮に向けて、そう言った。
彼の言葉の意図を悟った白蓮は、ゆっくりと頷きつつ、穏やかな声で彼をなだめた。
「件の噂については存じています。しかし、私は人間を辞めたとはいえ人間の心を忘れたわけではありません。親しくお付き合いをさせていただいた方の身にご不幸があれば、経の一つとは言わぬまでも、せめていたわりの言葉をおかけしたいと思うのは当然のことではないでしょうか?」
「それは……それは、大変有り難いことですし、おっしゃる通りかもしれませんが、しかし……」
「どうした、客か?」
門衛がしどろもどろになって答えに窮していると、彼の背後の門の向こうから、聞き覚えのある声が聞こえてきた。
声の主が門の端に手をかけ、ゆるゆると門を押し開く。やがて現れた声の主の姿を見て、白蓮は痛ましげに眼を細めた。
やつれ果てた、檀家の家の主人の姿がそこにはあった。食事を摂れていないのか頬はこけ、ろくに眠れていないようで眼の下が黒々と隈で縁取られていた。
彼は白蓮の姿を見ると、暗く落ち窪んだ眼窩の奥で瞼を見開き、「貴女は……」とだけ呟いて絶句した。
二の句を継げぬ主人の姿から視線を外し、白蓮は丁寧に頭を下げた。それから弔意を伝えるために口を開こうとしたのだが、彼女の言葉が喉から出るより先に、主人の意思が彼の口を衝いて出た。
「……お引取りください」
その一言だけ放ると、彼は踵を返して家の中に戻る素振りを見せた。
白蓮はそんな彼の背中に慌てて声をかける。
「お待ちください! 私はこの幻想郷に根を下ろして以来、貴方様にはどれほどの恩義を受けてきたか知れません。もしも叶うなら、お力になれればと思いお伺いしたのです!」
咄嗟とはいえ、無論本心から出た言葉だった。
檀家は足を止め、半身を白蓮たちに向けた。彼は白蓮らに視線を合わせず、じりじりと低く唸るような声で、こう尋ねた。
「……今、里を騒がせている噂についてはご存知か?」
「……はい」
白蓮の背後に控えていた一輪はその時、師の唇が僅かに震えるのを見た。彼女は門衛や檀家の視界の外で、そっと白蓮の背中に手をやる。
檀家の声もまた、僅かに震え始めていた。油断すると暴発しかねない感情を必死に抑える声だった。
「ならば察することはできませんか? 娘を殺された親の気持ちを。遺体が発見されてもう何日も経っているのに、いまだに犯人が見つかっていない。この状況で私がどういう気持ちでいなければならないか、貴女には理解できますか?」
「……お察しします……」
檀家の全身が痙攣したように震え始めた。彼の首が小刻みに震えながら白蓮らの方を向く。その目が白蓮の目を真っ直ぐに見据える。
精神の正常な人間の目ではなかった。
そしてついに、彼は抑えていた感情を開け晒した。
「なら、今すぐ私の前から消えてくれ! 私は今、妖怪の顔など見たくもないんだ!」
閑静な周囲一帯に怒声が響き渡る。
白蓮の背に触れていた一輪の掌に、びくりと痙攣が伝わった。
檀家は直後我に返り、少なからず衝撃を受けたように口元に手をやった。そして彼は、恥じ入るように顔を背けると、そのまま身を翻して門の中へと消えていった。
残された者たちはしばし呆然とその様子を眺めていたが、やがて門衛がおずおずと口を開いた。
「住職、旦那様はあの通りです……。お嬢様を襲った犯人はまだ見つかっていませんが、もうそれは妖怪ということになっているのです」
「お待ちください、それは……」
門衛の言葉に一輪が反論しようと身を乗り出したが、白蓮はそれを腕で制した。檀家の主人の様子を見れば、ここでその真偽を論じたところで水掛け論になるだろうことは容易に想像がつく。
彼の言葉が全てを表していた。
――犯人は妖怪『ということになっている』のだ。
門衛が言葉を続ける。
「血の気の多い連中の中には妖怪を撃滅しようと言う者も現れ始めています。……住職、差し出がましいようですが、今は人里から離れた方がいい。いや、本当を言えば、人里近くに建てられた命蓮寺も危ないのです。お弟子様共々、ほとぼりが覚めるまで竹林か森にでもお隠れになった方がよろしいかと思います……」
彼はそこまで言うと、逃げるように白蓮らに背を向け、門の中に滑り込んだ。外界の全てを恐れる勢いで門が閉じ、閂の掛けられる音がする。
一輪は門衛の早業を見せつけられて呆気にとられるばかりだったが、一方の白蓮はそれどころではなかった。
先ほどの話、特に、門衛から得た情報は、白蓮が当初想定していたよりも状況が切迫していることを示していた。
白蓮の脳裡には、ある情景が想起されていた。
それはかつて、弟子たち共々人間に封印された時の情景だった。
話を聞く限り、現在の状況は、当時の状況に酷似している。
まだ、現状をその目で見て把握している訳ではないので、断言はできない。だが、予断を許さない状況であることは確かだった。
――封印から解放されたと思えば、また同じことを繰り返すのか――。
夢の中で見た光景が、頭の裏側で幾度と無く繰り返される。腹の底から灼けつくような戦慄がほとばしると同時に、膝は情けないほどに笑っていた。
傍らに侍る一輪は、そんな白蓮の様子を慮り、気遣わしげに声をかけた。
「姐さん……」
またしても弟子に心配をかけてしまっている。情けなさも加わって、白蓮の胸がきつく締めあげられた。
「……大丈夫です。また、昔のことを思い出してしまってね……」
微笑んでそう返すと、彼女はひとつ、ふたつと深呼吸をし、口の中に真言を含んだ。
そうして落ち着きを取り戻すと、白蓮は凛然と顔を上げ、門の向こうに居るはずの男に向かって声を張り上げた。
「ご忠告ありがとうございます。……私どもが必ずや、里に蔓延る暗雲を打ち払ってご覧に入れます。ご亭主にはくれぐれもご自愛をとお伝えください」
聞こえたかどうかはわからない。否、必ず聞こえたのだと白蓮は信じた。
――人間は、変わらない。……だが―ー。
変わらないのは、なにも人間だけではない。
己を慕う弟子の妖怪たちですら、そうそう簡単に妖怪の本質を捨て去ることはできないのだ。
人間は妖怪を恐れ、恐れるあまりにその掃滅を望む。そして、妖怪は人の心の恐怖を糧とする限り、人間を襲い続ける。
そういうものだと割りきって、理想を諦めるしかないのか。
人間の尊厳と、妖怪の生は相容れないものなのか。
千年考えて答えの出なかった問いだ。今それを反芻したところで、結論が出ることは無いだろう。
ただ、一つだけ確かなことがある。
理不尽な恐怖や、行動が報われないことへの失望、困憊、それらに負けた時、己の理想は死ぬ。
最愛の弟である命蓮と最後に交わした約束であり、彼と己を結ぶ最後の絆である『理想』が死ぬのだ。
たとえどれほどの苦しみが胸を抉ったとしても、それだけは避けなければならない。
最後に一つ、大きく呼吸をとる。
膝の下に強固なものが落ちてくるのを感じる。すると、不思議なことに白蓮の身体を襲っていた震えも消えていった。
白蓮は一輪に向き直ると、落ち着き払った眼差しで彼女を見つめ、語った。
「一輪。この里で起きていることをよく観察し、その目に焼き付けるのです。不審な行動を取る者や、この機に目立ち始めた者がいないか、注意してください。……考えすぎかも知れませんが……私には、誰かが、妖怪を犯人に仕立て上げて里を混乱に陥れようとしているように思えるのです」
「わかりました。……雲山にも注意して里を観察するよう命じておきます」
一輪は上空を見上げてそう言った。人里では雲山の姿は目立ちすぎるため、空の上から付いてくるよう一輪が指示していたのだ。
白蓮は言葉を続ける。
「そしてまた、折に触れ、人々に向け明らかにするのです。この状況下で、私たちがどのような立場にあるかを。私たちが、決して彼らの敵ではないことを詳らかにしなければなりません」
一言一言に力を込めて、白蓮は己の考えを明らかにしていった。
それを聞く一輪は、師の眼を真っ直ぐに見据えた。白蓮の目の中に、先ほどまで見せていた動揺の色は既にない。それどころか、岩をも穿つかというほどの強い光が、瞳の奥から迸りさえしていた。
その眼の光に、一輪は見覚えがあった。それは、かつて、人間に裏切られる前の白蓮が、その眼に宿していた光に他ならなかった。
そしてそれは、遥か昔に見た、高僧命蓮がその瞳に宿した光でもあった。
白蓮は微笑みをたたえつつ、その眼で一輪を促した。
「さあ、参りましょう。過去と同じ轍を踏むわけにはいきませんから」
***
話を一週間ほど前に遡る。
一人息子を醜悪な姿に変えられた左之助は、ひたすらに途方に暮れていた。
煌々とした蝋燭の灯が件の異様な肉塊に陰影を投じ、ただでさえ恐ろしい姿をより恐ろしげに浮かび上がらせていた。
左之助は圭太と思われる肉塊を己の部屋から運び出すこともままならず、激しく異臭のする部屋の中で長いこと呆然と佇んでいた。
彼が我を取り戻したのは、その肉塊が己を呼んだ時だった。
「親父……助けて……。身体が……身体が動かない……」
肉塊の口元がぐずぐずと動き、幽かな声を漏らす。
左之助はその口元に顔を近づけ、震える声で息子と思しきものに語りかけた。
「圭太……! お前……なぜ、こんな姿に」
「八雲紫にやられたんだ……」
「八雲の妖怪にか……? なぜだ? なぜお前が……?」
圭太はその問いには答えなかった。己が夜な夜な妖怪を襲いに出かけていたことに対する報復のため、などとは口が裂けても言えない。
圭太の返事を待たず、左之助は頭を振って言葉を続けた。
「い、いや、そんなことはこの際捨て置こう。私にはお前がこの姿でまだ生きているのが信じられん。身体に痛いところはないのか……?」
「身体は痛くない……骨が折れてた筈だけど、もうよくわからない……。でも、身体が動かない……」
「……待ってろ、今、医者を呼ぶ」
会話の中で左之助は冷静さを取り戻していた。彼は頭を猛烈に働かせ善後策を模索する。
医者に診せるのは良い。すぐにでも主治医の所に使いの者を遣るだけだ。だが、問題なのは、この状態の圭太を人間の医者が治せるかどうか、ということだ。
まず見た目からして、生きた人間の姿ではない。なにしろ内臓の殆どが身体の外に晒されているのだ。解体途中の家畜のように横たわる肉の塊の中、赤黒い心臓だけが一つの生き物のように蠕動していた。
妖怪の術によるものならば、妖怪に助けを求めるのが本来だったが、左之助は表層意識でそれを拒否した。妖怪に助けを求める位なら息子を殺して自刃したほうがましだと思えたのだ。
だが、もし、人間の医者に診せても状況が改善しない場合はどうするか。
一人でいくら考えても答えが出ることはなかった。このようなときに人は大抵、相談相手を求める。左之助も例に漏れず、最も信頼できる友である吾郎を自宅に呼び、意見を聞くことにした。
医者と吾郎に向けて同時に使いを出した結果、先にやってきたのは吾郎の方だった。
想定外だったのは、吾郎が数名の仲間を引き連れてきたことだ。
それらは全て秘密結社の構成員で、左之助の見知った顔だったのだが、今この状況下で会いたい類の連中ではなかった。
「すまんな。会合の最中だったのだが、使いの者が血相変えてやってきたので押取り刀でやってきたんだ」
言って、吾郎は仲間と連れ立ちどやどやと家の中に上がり込んできた。その不躾さは、仲間同士であるし普段なら気にもならないことなのだが、今に限ってはどうにも苛立たしく左之助はには思えた。
左之助は集団の中から吾郎を引き寄せ、早口で耳打ちする。
「おい、なぜ彼らを連れてきた!?」
「む? いや、妖怪に関する新しい情報でも手に入ったのかと思ってこいつらも連れてきたのだが、まずかったか?」
「今日は個人的な相談があって呼んだのだ……!」
「そうか。では引き取らせるか?」
二人は吾郎の連れてきた連中に向けて視線を投じる。彼らは手持ち無沙汰気味にしながら、遠慮がちに左之助を見返していた。
「いや、いい。そうだな、三人寄れば文殊の知恵ともいう。皆、ちょっと一緒に来てくれ」
内心の焦りを出来る限り抑えてはいたが、少ない言葉数からそれはにじみ出ていた。
吾郎は連れてきた仲間に向かって顎をしゃくって、己についてくるよう指示した。彼らはうべなって、左之助と吾郎の後ろから廊下をぞろぞろと付き従ってきた。
左之助に導かれ、彼の自室に案内された吾郎たちは、部屋の中の光景を見て息を呑んだ。
「なんだ、これは……」
吾郎は部屋に満ちる異臭を嗅いでとっさに鼻をつまみつつ、そう漏らした。
彼の仲間もみな似たり寄ったりの反応を示していたが、中には短く悲鳴を漏らす者もいた。
化け物が、こともあろうに左之助の部屋の一角を占有していた。それは肉色をした巨大な芋虫のような姿をしていたが、体表はまるで内臓のような造形で、しかも生き物のように鼓動していた。
吐き気をもよおす醜悪な姿をさらしつつ、その化け物はまるで部屋の主であるかのように微動だにせず床の間の真ん中に寝そべっていた。
その姿を見て、正常を保っていたのは吾郎と左之助だけだった。他の者は良くて部屋から退散し、酷いのになると左之助の家の庭に遠慮無く胃の中の物をぶちまけていた。
吾郎の眼には少なからず動揺の色が差していたが、次に左之助が放った言葉は吾郎をさらなる驚愕へと誘った。
「これが圭太だ。私の息子だよ」
左之助は部屋の奥に鎮座した巨大な肉塊を指さし、苦々しげに呟く。吾郎は信じられないものを見る眼で、左之助を凝視した。
そんな吾郎に構わず、左之助は蠕動する肉塊に近づき、声をかけた。
「圭太、もう少しの辛抱だ。今、医者を呼んだぞ」
彼は肉塊の端の方に耳を寄せ、何度か小さく頷く。
「心配するな、きっとすぐに元の身体に戻る。眠れるか? 眠れるなら眠っていればいい」
左之助はその肉塊と会話しているように見えた。だが、化け物の口らしき器官から聞こえるのは、ひゅごおひゅごおという隙間風のような音だけだった。
「お、おい、左之助……」
肉塊と左之助を交互に見つつ、吾郎は恐る恐る左之助に声をかけた。すると、彼は顔を上げ、肩越しに爛々とした眼を吾郎に向けた。
「見ての通りだ。圭太はこの状態になっても生きている」
――狂気。
吾郎の脳裏をその一言が駆け抜けた。重い眩暈によって彼の膝が笑う。
吾郎と共にやってきた男たちもみな、同様の印象を抱いたに違いない。それは、彼らの目の色を見れば明らかだった。
部屋の奥に鎮座する肉塊はどう見ても人間の姿ではない。率直な第一印象を述べれば、妖怪の蛹か幼生の類にしか見えない。
それを、左之助は自分の息子と呼び、気遣わしげに話しかけているのだ。
とても正気の沙汰とは思えない。
改めて見ると、言動だけでなく様子の方も正常ではないように思えてくる。普段はきちんと後ろに撫で付けている髪を乱雑に振り乱し、興奮して見開かれた眼も血走っているのだ。
吾郎は震える足に手の爪を立て、恐慌に陥りそうになる自らの精神を現実に繋ぎ止めていた。
背筋を降りてくる怖気をこらえつつ、彼は左之助に対し尋ねる。
「左之助、事情を説明できるか?」
左之助は何から話すべきか長いこと迷った末、今までの出来事を洗いざらい吾郎に語って聞かせた。
ひと通りの話を聞いた吾郎の顔から、疑念が消えることはなかった。
「妖怪によって姿を変えられたと……?」
「そうだ。聞いたかもしれんが、医者を呼んで診てもらおうと思っている。しかし、妖怪の成した技に人間がどこまで対応できるか分からん……。もし、医者にも対応できないとなれば、私の頭では善後策が思い浮かばん。だから、お前を呼んだのだ。なあ、吾郎、どうすれば良いと思う?」
殺せ。この化け物を、今すぐに。
吾郎は喉元に出かかった言葉をやっとのことで飲み下した。
左之助の語り口は一見冷静に見えたが、内容に関しては支離滅裂だった。
足下に横たわる肉塊は今もじゅうじゅうという耳障りな音を立てるばかりだ。
この化け物が人間の言葉を話し、彼を父と呼んだというくだりからして妄言以外の何物でもない。
とはいえ、無碍に左之助の言葉を否定することも憚られた。下手に刺激すればどんな行動に出るか分かったものではない。
吾郎は注意深く言葉を選び、かつ穏やかな声で左之助を宥めた。
「まずは落ち着け、左之助。突然のことで俺にもすぐには妙案など浮かばん。まずは医者に診てもらおう。もしかすると、治し方を知っているかもしれん。その間に、俺たちもこのば……息子さんの治し方がないか調べてみる。左之助もそれらしい本をあたってみろ」
言っている自分の言葉の無茶苦茶さ加減に、吾郎は目眩すら覚える。当然、今言った内容を実行するつもりなど毛頭なかった。
だが、左之助は吾郎の言葉に大きな安堵を覚えたようで、目を輝かせ、興奮しきりに幾度も頷いた。
「そ、そうだな! 分からなければ調べる! そうだ! 今までだってそれで成果を上げてきたのだからな!」
とてもではないが直視できたものではなかった。これが、沈着冷静な実務家で鳴らした親友の姿と認めることができず、吾郎は思わず目を逸らす。
「と、とにかくお前は息子さんの介抱に集中するんだ。組織のことは俺に任せろ。……あと、このことはくれぐれも内密にしておけよ。医者と家の者にも絶対に漏らすなと約束させるんだ」
「わかった」と頷く左之助を見もせず、吾郎は部屋を辞した。彼は遠巻きに二人の様子を伺っていた仲間を、急かすように左之助の邸宅から連れ出す。
邸宅の門を出るなり、吾郎は忌々しげに言葉を吐き捨てた。
「左之助が狂った」
その言葉を否定する者は誰もいなかった。
暫くの間、一団の間には気まずい空気が流れた。やがて仲間の一人が絞りだすように声を上げる。
「……どうするんだ、吾郎?」
吾郎はむっつりとして答えず、腹の中の物を濾し出すように何度も息を継いでいた。しばらくして、ようやく心が定まったのか、彼は低く唸るような声を吐き出した。
「あの化け物は早い内に始末する。その方法を考えなければな……」
吾郎は顎に指をあて暫くのこと思案した末、頭の中の考えを浮かぶままに口にし始めた。
「……医者には予め、左之助が気を違えた旨話をしておこう……。……噂を流すんだ。『取替え児』が起きたと……。この間の妖怪殺しと絡めて、妖怪が復讐のために里の子供を狙い始めたと信じこませるってのはどうだ……」
「……しかし、人々が信じるだろうか? 左之助は人里でも妖怪嫌いで有名だ。そのような特殊な家の子だけが狙われると思われては、噂を流すにもいささか信憑性が……」
思考を巡らせつつ仲間の言葉を聴いていた吾郎の目が、妖しく光った。
どうやら妙案を思いついたらしく、酷薄な笑みがその口元に浮かぶ。
「……噂がそれらしければ良いんだろ? なら良い考えがある。ちょっと寄れ」
彼は注意深く周囲を見回し、己等の他に人影が無いことを確かめると、仲間たちを手招きして彼らの額を集めた。そして、小さいが断然とした声でこう囁いたのだ。
「里にいる子供の一人か二人、殺してそのひき肉を広場にばら撒け。それを妖怪の仕業に仕立て上げるんだ。――うまくやれば、里の人間を一気に『こちら側』の考えに引き込める」
平和的に暮らす一般的な人間なら、まず耳を疑うだろう言葉だった。
しかし、その場にいる人間の誰一人として難色を示すものはいなかった。彼らの眼に、吾郎と同様の妖しげな光が宿る。
次いで彼らは、互いに頷き合いながら口々に吾郎の意見を肯定し始めた。
「……悪くない。里の石頭共の幻想を叩き壊すには、それくらいのことはせねばならないと常々思っていたところだ」
「災い転じて福と為す、か」
「是だ。事をなすには多少の犠牲はやむなし」
「……そうだな。……やるか」
彼らの秘密結社は、元々、似た考えを持つ者同士が集まってできたものだった。加えて、彼らは日常的に妖怪との命懸けの暗闘に明け暮れていたため、人里の一般的な人間とは大きく異なる思考体系を知らずのうちに互いに共有していた。
彼らは妖怪を憎むという一点で強く繋がれた者同士だったが、孤独極まる妖怪との闘い、および、幻想郷の人間の間に蔓延する妖怪へのだらしない許容感との闘いの中で、一つの共通認識が醸成されていった。それは、多数派を占める妖怪許容派への否定という、強固な価値観による絆だった。
彼らの中では、妖怪と同様、それを容認する者もまた敵に他ならない。
だからこそ、彼らの意見の一致は早かった。
この密やかな会話から数日後、彼らの言葉は現実のものとなった。
***
檀家の屋敷の門衛の話の真偽を確認するため、二人の妖僧は里を巡っていた。すると、すぐに一つの『異質』に気づいた。
里の至る所で、普段は見かけることのない張り紙が目についた。張られて間もないそれは、質の悪い更紙の上に、不穏な赤字で『決起!反妖集会』と題されていた。題字の後には、今日、これからほどない時間に、広場で題字通りの公演を開くから有志の集結を願うという旨の言葉が、過度な装飾語と共に躍っていた。
一輪は、商店の板壁に貼られたそれを一読すると、何も言わずに剥ぎ取って懐に収めた。
彼女が師に向けて所見を述べようとした時、二人の背後から女性の声が聞こえてきた。
「無粋な張り紙ね」
振り返ると、大量の花束を抱えた女が、穏やかな微笑みを湛えて道の先に佇んでいた。
ただ立っているだけにも関わらず、陽炎のような妖気がその身から立ち上っているのが目視でわかる。その姿は、紛れも無く妖怪のそれだった。
「風見幽香……」
一輪がその名を呼ぶ。
彼女は幻想郷屈指の妖力を持ちながら、勢力を持たず、人間を含む他種族と疎な交わりを持って生きる稀有な妖怪のうちの一体だ。
普段は里から離れた大陽の畑で花々に囲まれて暮らす、もの静かな妖怪なのだが、根は好戦的な性格であるため、人妖の双方から密かに恐れられている存在だった。
その風見幽香が、きな臭い空気の張り詰めた人里の中に平然と現れたとあれば、警戒しないわけにはいかない。
怪訝な目で見返してくる一輪と白蓮の顔を見ても、幽香は顔色一つ変えなかった。彼女は顔に笑みを張り付かせたまま、手元の花束に目を落としてその匂いをそっと嗅いだ。
「この花、いつも贔屓にしているお店の人間が留守にしていたから、頂いてきたの。もちろん、お代はちゃんと置いていったわよ」
「何故、今、お前がここにいる?」
噛み付くような剣幕で一輪が問いを放つ。人里の不穏さがいや増すこのタイミングで、無闇に強大な妖怪が通りのど真ん中をのこのこ歩く姿を見るのは心臓に悪いどころの話ではない。
それに対して幽香は肩をすくめ、素っ気なく答えた。
「私は時折こうして人里に花や種を買いに来るのです。今日がたまたまその日だった。私は貴女たちのように野暮な理由は持ち合わせていないわ」
「私たちが何をしているかわかるの?」
「見ればわかるわ。その懐に押し込んだ張り紙と同じくらい無粋な目的があるってことくらいは」
「花の香りを嗅ぐ嗅覚があるのなら、今の人里の臭いもわかるはずだ。なら、フラフラせずに畑に帰るがいい」
「私に指図するつもり?」
どちらが先かは定かでないが、一輪と幽香の身体から迸る妖気がみるみるうちにいや増し、周囲の空気を震わせ始めた。
不毛な諍いが始まる気配を察知し、白蓮が二人の間に割って入る。今は妖怪同士で揉め事を起こしている時ではない。
「一輪、やめなさい。……弟子が失礼しました、幽香さん。貴女のお噂はかねがね伝え聞いております。貴女が普段から人里に降りてきていることも」
頭目の方から頭を下げられては、拳を降ろさない方が恥さらしというものだった。すかさず、幽香は張り詰めていた妖気を引き下げた。それを見届けてから、ようやく一輪が妖気の緊張をとく。ただ、その目の中にはまだ警戒の色が滲んでいた。
白蓮は一輪の前に進み出、慎重に言葉を選んで尋ねた。
「……今、貴女がお話しになったように、人里の店から人の姿が見えなくなっています。それどころか、道を歩く人間の姿すらまばらで、里から活気が完全に消えています。人間と関わりながら長く生きた妖怪であるあなたにこそお伺いしたいのですが、貴女はこの里の状況をどう見ますか」
もしの幽香の中に底意があれば、あわよくば聞き出そうという意図を含んだ質問だった。
だが、彼女は幽香は白蓮の質問に答えなかった。彼女は白蓮の意図を逆に見透かしたように、その目をますます細めるばかりだった。
彼女はやがて、再び手元の花束に目を落とし、前後脈絡もなくこんな話をし始めた。
「花は素敵ね。何も言わず、何も主張せず、ほんの僅かな時間、その美しい姿を世に顕し、瞬く間に消えていく。残された無残な茎は、季節をめぐった果てに再び同じ花を咲かせて私たちを喜ばせてくれる」
白蓮がじっと押し黙って先を待っていると、幽香は思い出したようにもう一言付け加えた。
「余計なことを考えたり喋ったりしなければ、人間も一緒。だから私は嫌いじゃないのよ、人間のこと」
「……人間は、花のように移ろいゆくものだと……? 人間は変わるというのですか?」
――人間は変わらない。
己の中にそんな確信に近い思いが凝り固まっていた白蓮にとっては、新鮮さを感じさせる意見だった。
白蓮の言葉を聞いた途端、出会ってから初めて、幽香の顔に本当に愉快げな満面の笑みが浮かんだ。
「それはもう。目まぐるしいばかりに変わっていくわ。目を瞠るほど美しい時もあれば、吐き気を催すほど醜くなる時もある。そうやってめぐっていく」
不意に、白蓮の目を射ていた幽香の視線が路肩に飛んだ。彼女の視線の先では、道と板壁の合間に咲いた蒲公英の花が、幻想郷の風を受け、何も言わずに揺れていた。
その様子をしばらく優しげな眼差しで見つめた後、幽香は白蓮に向け視線を戻した。
「蓮は泥の中にあってなお美しい花を咲かせる。その花の名を持つ貴女は、今の濁りきった人間との関わりの中でどんな花を咲かせるのかしらね」
白蓮に視線を戻した後も、その目の中の慈愛に満ちた光が消えることはなかった。
白蓮の胸がどくりと疼く。
魔に魅入られ、妖として生きたつもりでいた己の中に、この妖怪は『人』を見ている。
それが、彼女の眼差しの中からまっすぐに伝わってきた。
古明地さとり、こいしの姉妹から指摘されたのと同じことを、今、この場でさらに幽香にまで看破されてしまったのだ。
純粋な妖怪から見れば、白蓮は紛れも無く人間ということなのだろう。
「それじゃ、ごきげんよう。またいつものように店の子と季節の話でもできる日が来ると良いわね」
白蓮の動揺など意にも介さず、幽香は丁寧な会釈をして、しめやかに去っていった。
去りゆく幽香の後ろ姿を険しい表情で見つめながら、一輪は忌々しげに呟いた。
「まったく、何を考えているのかわからない奴だわ。いくら日常的に人里を訪れているとはいえ、奴ほどの大妖怪が今この場に居れば面倒なことになるってわかってる筈なのに」
大きくため息をついて、一輪はかぶりをふる。それからすぐ、気を取り直したように顔をあげると、彼女は白蓮に向き直った。
「さて、行きましょうか、姐さん。この張り紙に書かれている集会がどのようなものか……」
そこまで言った時、一輪は白蓮の様子がおかしいことに気づいた。
うつろな目はじっと地の一点を見つめ動かない。どうやら、何事か物思いに耽っているようだった。
「姐さん?」
深い思考の中に没入していた白蓮の意識は、一輪の呼びかけで再び現実に舞い戻る。
白蓮は一輪の呼びかけに曖昧に頷くと、彼女の胸元から覗く張り紙の端に目を遣った。
「広場に行ってみましょう。それで、その張り紙を貼ったのが誰か分かるかもしれません」
一輪は首肯する。彼女の師は時折今のようにじっと黙考することがあったが、それはある種の癖のようなものだと割りきって、敢えて今そのことを取り上げて云々することはしなかった。
二人は里の路を広場に向け歩き出した。広場まで曲がり角ひとつというところまで来た時、路地裏から突然何者かが躍り出てきて二人の前に立ちはだかった。
陽の光に輝く銀髪が目を引いた。ただの里人でないことは、その髪質からだけでなく、身体から仄かに立ち上る妖気からも分かった。
白蓮と一輪はその者を知っていた。人里に降りた時にたまに見かけることがある。
人里で暮らす半人半妖、上白沢慧音だ。
彼女は二人の姿を見るや、目を吊り上げて早足で近づいてきた。そして、
「お前たち、ここで何をしている!?」
先ほど一輪が幽香に対して放ったのと似たような言葉を、二人に向けて放つ。
白蓮と一輪は顔を見合わせて苦笑する。どうやら、慧音は白蓮らと同じ目的を持って行動しているらしい。
二人は合掌して頭を下げる。そして、白蓮の方が半歩進みいでて、簡単な釈明を始めた。
「慧音さん。私たちは今、この人里で囁かれている噂について、独自に調査しているところなのです。最近になって人里に突然降って湧いた不穏な気配の出処を探り、それを取り除いて里に元の安息を取り戻すこと。それが、今我々がここに居る理由です」
慧音は疑わしげな目つきで白蓮の言葉を聞いていた。
「白蓮和尚……。それが本当に貴女の目的ならば、それは私の望むところでもある。だが、今の状況を見れば、妖怪がこの場をうろつくのは得策でないと思わないか?」
――半人から見れば、私は妖怪なのか。
ふとそんな考えが頭を掠める。一度拘泥が始まると、思考というのは堂々巡りを始めるものだ。しかし、それもいい加減にしなければならない。
白蓮は頷き、言葉を返す。
「確かに、人里の至る所から、妖怪に対する敵意のようなものを感じます。ですが、まだそれは決定的なものではありません。現に、先ほどそこで妖怪の風見幽香さんとお会いしましたが、別段誰かと諍いを起こした風にも見えませんでしたよ」
――あいつ、まだ里の中をうろついていたのか……。
慧音の口の中からそんな呟きが聞こえてくるが、白蓮は敢えて聞かなかったことにして言葉を継ぐ。
「今ならまだ、私が妖怪の代表として人間と対話することも出来ると思うのです。如何でしょうか?」
慧音はうつむき加減で白蓮の話を聞き、その言葉を頭の中で検討していたが、やがてある種の妥協漂う表情とともに顔を上げた。
そして、彼女は念押し気味にこう注文をつけてきた。
「……なら、約束してほしい。――絶対に人間に手を上げるな。相手がどんな凶暴な人間であってもだ。現実として妖怪が人間を傷つけてしまえば、噂が噂で済まなくなる」
「当然です。相手が妖怪ならともかく、人間と争うつもりなど毛頭ありません」
明快な即答に、慧音の心の中の不安は多少和らいだようだった。彼女はふっと息をつき、僅かに肩から力を抜いた。
「わかった。その言葉を信用しよう」
「貴女はこれからどうします?」
白蓮が訊く。
「もちろん、見まわりを続けるさ。里に残っている妖怪がまだいるかも分からないからね」
彼女は白蓮らへの別れの言葉もそこそこに、せわしなく白蓮らの脇すり抜けていった。
「広場に行くなら、佐伯吾郎という人間に気をつけろ」
すれ違い際、慧音は白蓮の肩口にそのような言葉を残していた。
***
「例えば朝起きた時、あなたの隣で寝ているはずの妻の姿が見当たらない。寝ぼけているのか、それとも寝過ごしたのか、あなたはそんな風に考える。
へっついの方を見ると、竈は冷えている。炊けた米の匂いもしない。
さては寝坊助な自分に愛想を尽かせて、罰として飯抜きにでもされたかと思ってあなたは舌打ちする。待っていても仕方がないから外に出て、井戸の方に歩いて行く。
しかし、おかしなことに、いつもは誰がしかそこに居るはずの井戸の側に、今日に限って誰もいない。おかしいな、いやしかし、まあ誰もいなけりゃ誰も待たずに井戸を使うから、結局誰もいなくなる。今日はそういうことで誰もいないのだろう、とあなたは納得できる答えをつらつら考えてみる。
別に井戸に用事があったわけでもなし、さりとて出かける用事もなし、金もなしであなたは結局自分の長屋に戻ってくる。
すると、あなたの部屋の前に隣部屋の奥さんが立っていて、部屋の戸を乱暴に叩いているじゃないか。
おい、そんなに乱暴にするなよ、ただでさえ立て付けの悪いのがますます悪くなる。そんなことをあなたは言う。
だが、その時の奥さんの顔をあなたは一生忘れられなくなるだろう。
奥さんは今まで見たこともないようなものすごい形相であなたの方に振り返ると、猛然と駆け寄ってきてこう言うんだ。
――あんたの奥さんが、妖怪に殺されたよ。……ってな」
広場の中央に据えられた台座の上で、一人の男がよく回る舌で弁を振るっていた。
川の流れるように淀みなく、また途絶えもせずに続くその男の話に、多くの人間がただ黙って耳を傾けていた。
二十間四方程ある広場は芋を洗うような状況となっており、さらに広場から溢れた人が街道にはみ出し、広場に隣接した家屋の二階の欄干からも身を乗り出す者がひしめいていた。
人里に住む人間の全てがこの場に集結したのではないかと錯覚するほどの人出だったが、お祭り騒ぎのような華やかさは皆無だった。
ただ一人の男の滔々と語る声だけが響く。その男の周囲を囲む全ての瞳が、ただ一点その男の姿に向けられている。人々はみな無表情で男の話を聞く。人いきれで真夏のような蒸し暑さにも関わらず、心に触れる空気は妙に冷たかった。
白蓮らが広場に着いた時、既に人間たちの集会は始まっていた。
彼女らの視線と意識は、最初から壇上に立つ男に集中していた。この集会が一人の男の独演会と化しているのは明白だった。その男の顔を知っていた一輪は、密かに顔をしかめた。
彼の語り口は語り部のごとしで、自己主張こそ控えめではあった。だが、二人称の寓話形式でじわりじわりと妖怪に対する負の感情を煽っていくやり方で、聴衆を己の世界に引き入れていた。
彼は壇上で語りながら自分を取り巻く人間たちを撫でるように見回していたが、ついに群衆の中に白蓮ら妖怪僧の顔が紛れていることを目ざとく見つけた。それからはもはや、その視線が白蓮らを捉えて離すことはなかった。
彼はそれまで語っていた話を中断して、一層声を張り上げて口上を述べ上げ始めた。
「ここまで長々と続けさせていただいた話は、あるいは明日にも起きるかも知れない現実の物語だ。幻想郷と名付けられた場所に生を受けたことで妖怪と共に暮らすことを余儀なくされた我々が、現状を甘受する限り遅かれ早かれ行き着く末路だ。それでも妖怪と共存することは、我々にとってどれだけの益があるのだろう? さて、ちょうどそこに妖怪の住職がいらっしゃるようだ。彼女ならばその答えを知っているかもしれない。一つ率直な意見を交わしてみたいと思う。……住職、いかがか!?」
高圧的な吾郎の質問に、白蓮は首を縦に振って肯う。
「よろしい。早速お話を伺いたいところではあるが、その前に自己紹介をさせていただこう。私は佐伯吾郎。一介の書生ではあるが、義憤にかられて今はこのような活動の音頭を取っている」
男が得意げに語るのを見るにつけ、一輪の腹の中を言いようのない負の感情が暴れ回った。それは本当のところ、おもに見る目のない自分自身に対する憤りであったのだが、彼女はその怒りの矛先を吾郎に転嫁した。
一輪は物凄い形相で吾郎の顔を睨んでいたが、彼は涼しい顔でその視線をいなしていた。
「それでは先ほどの疑問について御説を伺いたい。人間が妖怪と共に生きることに、何の益があるのか?」
ここでの問答に失敗すれば、里の人間たちの思想は一気に反妖怪に流れてしまいかねない。
白蓮は肺いっぱいに息を吸い込むと、ゆっくりゆっくり吐き出した。胸を騒がす雑念を、その一呼吸で全て吐き出さんとでもするように。
それから、彼女はよく通る声で吾郎の質問に答え始めた。
「結論から申し上げると、幻想郷における妖怪は、人間が己を省みるための鏡としての役割を持ちつつあると私は考えています。
かつて……少なくとも私が生まれるより遥か以前から、妖怪というものはある種の神に比肩する畏怖を人間から捧げられ、敬われていました。時に人に益をもたらし、時には災厄を呼び起こす彼らは、肌に触れるほど人間の生活に密着し、多くの影響を与えてきたにも関わらず、基本的に得体のしれない存在でした。
ですが、ここ幻想郷では一部の妖怪を除き、あからさまに個体識別可能な存在として人間の前に姿を現している。それは、幻想郷という場所が妖怪を始めとした幻想生物たちの最後の棲家としての役割を持っているが故の致し方ない制約なのです。
しかし、そうして正体を現し、あまつさえ人間と交流する者まで現れ始めた妖怪という種族は、もはや人間と同格の知的生命体と言っても過言ではない存在にまで昇華したと言えるでしょう。
これまで、人間はこの地上において唯一無二の知的生物として進化の歩みを進めてきましたが、その孤独な歩みはやがて人間の中に驕りを生み出し、地上において自らを超える存在などないという思想にまで発展しつつあります。このような考えではすぐにその発展と幸福に限界が見えてしまうでしょう。
そこで、あなた方人間は妖怪の存在を再認識することになるでしょう。時に相手の優れた所から学び、時に劣った点から学びつつ相互に高め合える存在。それが、人間と妖怪における理想的な関係だと思っています」
「それが答えかね。それならば、貴女の答えには重大な考慮漏れが存在する。
貴女の言うように、人間の教師、あるいは反面教師として妖怪が存在するのならば益ともなろう。だが、そのような輩は妖怪の中でもほんの一握りにすぎない。大抵の連中は、昔ながらの性質を捨てきれず、日常的に人間を驚かせ危害を加えては喜んでいるだけだ。観測範囲の中の特殊な事例を挙げて主だった傾向のように語る、そういうやり方で糊口をしのぐ連中のことをなんと呼ぶと思う? ――詐欺師だ」
「発展途上にあるのは人間もまた同様でしょう。己こそがこの地上で最も優れ、正しい存在であると盲信し、己の都合に合わぬ存在は自他種族を問わず排除していく。それが、過去から現在にいたり、文明と発展を追い求める人間が無意識的に基本とする行動理念です」
「……何が言いたいのかね?」
「行為の結果は、最終的に行為者自身に返ってくるということです」
「……因果論か。馬鹿げている。人間には自分の運命の手綱を自分の手に収める権利がある! その権利の行使にあたって、多少の軋轢は当然ながら出てくるものだろう」
「……その意見に対する返答は一つ。人間にそのような権利はありません。そしてそれは、妖怪であっても同様。では、妖怪も人間も、共に発展のないまま自縄自縛の生き地獄を永久に彷徨い続けなければならないのかといえば、その答えもまた否、です。この問題への解決策もまた一つ。それこそが仏の教えであり、修行の果てに因果律を超えることができれば……」
「待った! 端からわかってはいたが、やはりそういう論法になっていくのか。説法なんぞ聞きたくないね。貴女の考えを聞きたい」
「愚者は経験に語る。私は仏の教えに従い、その教えを伝えるまでです」
「坊主はすぐにそうやって煙にまく。では質問を変えよう。今までとは違い、とても簡単な質問だ」
吾郎はそう言って言葉を切った。
二人のやりとりが途切れると、途端に広場に冷たい沈黙が流れこんだ。
その冷たい空気の向こうから、細く眇められた吾郎の目が射抜いてくる。
彼は声を落とし、ゆっくりと咀嚼するように次の言葉を吐き出した。
「――貴方は、人間が好きかね、嫌いかね」
「……それが何だというのですか?」
「ちょっとした雑談だよ。さあ、どうかな?」
広場にいる全ての人間の目が、白蓮を冷たく見ていた。
嘘は、つけない。
「……愚問ですね」
やっとのことでその一言を絞り出した白蓮を尻目に、吾郎は大衆を見回し、おどけてみせた。
「その愚問に答えられない。なぜだろうかね? ならば更に質問を続けよう。貴女の個人的な行動に関する質問だ。貴女はこの幻想郷において人間と妖怪の平等を目指していると謳っているが、それではなぜ貴女の弟子は妖怪ばかりなのか? それは、結局のところ、妖怪こそが幻想郷の最優等種族であるという奢りを持っているからではないのか?」
「それは違います! 私は本当に……!」
「さらに、私は信頼できる情報筋からこんな話を聞いた。
先日稗田亭にて行われた宗教家による鼎談に貴女も参加されたはずだが、その折、山の神である八坂神奈子はこの里を人間の動物園と呼んだそうだ。
動物園というものが分からなかったので調べてみたのだが、どうやら外界に存在する娯楽施設で、万国の動物をかき集めて檻の中に監禁し、彼らが不幸な顔で生活するのを檻の外から眺めて楽しむという悪趣味な施設らしい。
なるほど、妖怪が人間の恐怖を楽しむための施設と考えれば、人間動物園、至極納得のいく考え方だ。
さて、山の神のその発言があった際、貴女はこの人間動物園の存在について、否定もせず、むしろ妖怪にとって必要なものだと肯定している。
おかしいな。貴女はたしか、人間と妖怪が平等に幸せに暮らせる世界を実現したいとのたまっていた。そう記憶していたのだが。
もしも本当に人妖の平等を信ずるならば、この人里において死の恐怖と隣合わせの軟禁状態にある人間の現状について正く認識した上で、決して人間動物園などという巫山戯た考えを認めることはないと私は思う。
さあ、改めて問おう。なぜ貴女の周りには妖怪しかいない? なぜ、人間をその周りから排される? 答えられよ!」
――貴方のような人間を、見たくなかったからだ。
白蓮は、己の心の中に明瞭に響いたその声を、聞き捨てることができなかった。
胸の奥、身体の芯から、ありとあらゆる負の感情が溢れ出そうになるのを、唇を噛むことでようやく抑えた。そうして噛み締められた口の端に、薄赤く血が滲む。
押し黙って答えない白蓮を、満足気な表情で吾郎は眺めていた。彼は大仰に両腕を広げ、聴衆に向かって声を張り上げる。
「皆様ご覧のとおりだ。人間に友好的とうそぶく妖怪ですらこの体たらく。結局人間のことを幸福にできるのは人間だけ。人間の幸福は人間の手で守らなければならないのだ」
その様子を苦々しげに見上げながら、白蓮は呻くように訊いた。
「これほどの人を集め、これからあなた方は何をしようというのですか?」
「報復だ。武器と同士を掻き集め、妖怪どもに一矢報いる。でなければ、死んだ子供が浮かばれん」
「愚かな……。まだ血を流し足りないのですか? そうまでして何を求めるのです?」
その問いを待っていたとばかりに吾郎は目を見開き、より一層語気を強めて演説をぶった。
「私が求めるものはただひとつ、人間の尊厳、それだけだ! この幻想郷は理不尽だよ! 元来人間の精神の副産物でしかない妖怪が大手を振って道を闊歩し、人間を脅かす! 人間はお前たちが居る限り、ずっと頭を低くして怯えて暮らさなければならないんだぞ! 妖怪から被るあらゆる理不尽な悲しみ! 苦しみ! 絶望! それらをこの幻想郷から拭い去ること! それが私の願いだ!」
「そのために幻想郷の平和をかき乱しても許されると貴方は言うのですか?」
「人間が妖怪に殺されているのに何が平和だ?」
「まだ妖怪が今回の騒動の発端と決まったわけではありません」
「……証拠はあるのかね? 死体の側に落ちていた羽よりも明白な証拠が」
そのようなものはない。白蓮は奥歯を食いしばる。
吾郎は不敵にせせら笑い、さらに煽るような言葉を投げかけてくる。
「さて、どうするね? 今、この場で我々を皆殺しにするか? そうすれば、幻想郷の平和を乱すものはいなくなるわけだが……」
「そのような真似を……私がすると……」
白蓮の言葉は続かなかった。
千の年月をかけて心の奥底に澱のように沈んでいた感情や記憶が、今まさに白蓮の意識の表層に奔出し、彼女の思考を飲み込んでいた。
暴虐な感情は、思い返したくもなかったために封印していたかつての日々の記憶を、再び脳裡に押し当ててくる。
未だ人間に希望を抱いていた日のことを。
いつまでも変わらない人間に苛立った日のことを。
妖怪の境遇を知り、人間の残酷さを知った日のことを。
やっとの思いで理想を共有できる人間に出会えた日のことを。
そして、信じた人間に裏切られた日のことを。
「私は……あなた方と共により良い存在になれればと思っていた……それなのに……!」
白蓮の心の中で押さえつけられていた感情が、堰を切って溢れた。
しまった、と思った時には、もう遅かった。
気づいた時にはもう、それは白蓮の両頬を伝っていた。
袖を引く者がある。振り向くと、それは一輪だった。彼女は無念そうに目を伏せ、呻くように呟いた。
「姐さん、ここは引きましょう。……あれは手強い」
一輪は呆然と見返してくる白蓮の手を取り、強引にその場から引き離す。
「お前は妖怪の分際で如来を目指しているそうだな! この幻想郷の支配だけでは飽きたらず、仏にまでなろうというのか!? 笑止千万、傲岸不遜!」
頭の後ろで、吾郎がなおも声高に叫んでいたが、もう白蓮の耳にその声は届いていなかった。
***
気配を消し、民家の屋根の上で広場で起きた一部始終を見守っていたこいしは、姿を現し飛び出しそうになるのをもう少しのところでこらえていた。
眼下では今まさに白蓮と吾郎の討論が終わったところで、一輪が白蓮の腕を掴み、広場から足早に退散していくのが見える。
視線を広場の中央に移すと、勝ち誇った顔で声高に何かを叫ぶ男の姿がひときわ目を引いた。
こいしは唇を噛み、遠く見えるその男の顔をまっすぐに睨み据えていた。
その時、こいしの脇から聞き覚えのある声が聞こえてきた。
「こいし様、いらっしゃいますか?」
「……お燐?」
足元に目をやると、尾の二つに分かれた黒猫が、あらぬ方向を見ながらこいしの名を呼び続けていた。
地霊殿では見慣れた火車だったが、こうして地上の陽の下で見ると何やら不思議な感じがする。
なぜここに地霊殿のペットが居るのだろうと不思議に思いつつ、こいしは妖猫を両腕の中に抱え上げた。
「私はここよ、お燐。どうしたの、こんな所までやってきて」
「こいし様! ここは危険です。離れましょう」
お燐は抱えられたところでようやくその存在に気づき、こいしの顔を見上げるや、口から唾を飛ばして急き立てた。
こいしは再び広場に目を落とす。すぐ足元には人間が集っており、このままお燐と会話していると存在を気づかれる恐れがある。彼女は小さく頷くと、お燐を抱えたままふわりと宙に舞い、広場に背を向けてその場を飛び去った。
しばらく飛行を続け、目下人里の屋根が見えなくなった辺りで地に降り立つ。
彼女らが降りたのは人里を外れた小高い丘だった。下生え程度しか生えておらず、開けた視界の中に人里全体を見渡すことが出来た。
こいしは草むらの上に膝をつき、腕に抱えていたお燐を下ろした。
お燐はこいしの腕の中から開放されると、僅かばかり落ち着いた様子で一つ小さくため息をついた。それから、少しだけ潤んだ瞳でこいしを見上げた。
「こいし様。ご無事で何よりです。人里に入ってから姿が見えなくなってしまい本当に心配しましたよ」
「うん、それで、どうしたの? お姉ちゃんから何か言付け?」
お燐は扁桃の形をした目を丸くする。先ほどの広場の状況を見てまだその様に言えることは驚愕だったが、その泰然とした様がこいしらしいともお燐には思えた。
そんな悠長な考えを頭から振り払うと、彼女は前足でこいしの靴やら足首やらをしきりに引っ掻いて、どうにかして己の心の焦りを伝えようとする。
「どうしたの、じゃあありませんよ。あの様子をご覧になったでしょう。今地上はとても危険です。一緒に地霊殿に帰りましょう」
しかし、こいしはお燐の心配をよそにゆっくりかぶりを振った。
「だめよ、そうはいかないわ、お燐」
「何故です!?」
「私はもう寺の妖怪よ。白蓮お姉ちゃんの望みは私の望みでもあるわ。私はお姉ちゃんと一緒に、人間と妖怪の争いを止めなきゃいけない」
その言葉を聞くと、お燐は苛立ったように二本の尻尾をしきりに振りつつ、甲高い声で喚き立てた。
「まだそんなことを仰るのですか! ごっこ遊びは御仕舞いなんですよ! 私たちの日常は地底にあるんです! 地底に帰りましょう、こいし様!」
こいしはお燐の言葉を聞いているのかいないのか、彼女が話す間中、ずっと視線を遠くに投げていた。
その視線の先には、普段よりも幾分か静かな人里の風景が横たわっていた。
彼女はその風景から目を離すことなく、ゆっくりと唇を開く。
「……お燐、私ね、今までずっとね、暗くて、寒くて、誰もいないところにいたんだ。そこでは誰の声も聞こえないし、私の声も誰にも聞こえない。私を傷つける言葉も聞かなくて済むし、強い力も手に入った。こんな素敵なことは他にないし、ずっとこのままで良いと思ってたの」
お燐は怪訝そうな表情で己の主人を見上げていた。
こいしの目がゆっくりと下に降りて行き、お燐の視線と交わる。
その表情に、かつて見たことのない慎ましやかな笑顔が広がっていく。
「でもね、地上に来て、色んな妖怪や人間と知り合って、私、すごく大切なものを手に入れた気がするの。それが何なのかははっきりとはわからないけど……すごく温かくて、幸せな感じがするもの。今地底に帰ったら、それを全部捨てなきゃいけなくなる。
……大丈夫よ、お燐。幻想郷が好きな人妖はたくさんいるわ。何一つ悪い方向には転ばないと思うの」
「こいし様……」
お燐は僅かに逡巡していた。こいしの言葉を聞き、胸に浮かんだ気持ちを、伝えるべきかどうか。
伝えれば、もう引き止めることはできなくなる。
こいしの目を見る。再び人里に向けられた彼女の目には、動かしがたい意思の力が漲っているように見えた。
お燐は小さく息を吐く。そして、胸の中で主人に詫びつつ、その心の裡を素直に吐露した。
「確かに、こいし様は地上に出られてから少しだけ変わられた気がします。でもなんだかこいし様が遠くに行ってしまうようで、お燐は寂しいです……」
こいしは安心させるようにもう一度、足元の猫に向かって笑顔を見せる。
その笑顔が、自分自身の意識の中で鮮明さを次第に失いつつあることに、お燐は気づいていなかった。
「お燐、成長することはただ変わること、変わることはただ知ること、それだけよ。私はどこにも行かないわ。地霊殿にもちゃんと帰るから心配しないで」
こいしの声は、丘に吹く風に紛れ、どこか遠くに聞こえていた。
次の言葉を待っていたお燐が気づいた時にはもう、こいしの姿は見えなくなっていた。
***
宵闇が辺りを青く染め上げる中、命蓮寺の本堂からは煌々と灯りが漏れていた。
本堂に集まっている妖怪は白蓮を含めると九名。大部分は彼女の腹心の弟子たちだった。
白蓮の弟子である村紗水蜜、雲居一輪、雲山、封獣ぬえ、幽谷響子、そして本尊の寅丸星、その部下ナズーリン。加えて、かつて食客だった化け狸のマミゾウも、ぬえに呼ばれて魔法の森から駆けつけていた。
車座に座る彼女らは、如来像を背に座る白蓮の口が開くのをが注視していた。
弟子たちが集まるまでの間、白蓮は深く瞼を閉じ瞑想に耽っていたが、集まるべき者たちの妖気が集まったことを察知すると、ゆっくり目を見開いた。
彼女は対面に座したマミゾウを真っ直ぐに見据えると、膝元に手を添え丁寧に頭を下げた。
「マミゾウさん。わざわざお越しいただきありがとうございます。ぬえも、ご苦労様でした」
労われてぬえは白蓮から目を逸らし、気恥ずかしげにもじもじし出す。
一方のマミゾウは泰然とした様子を崩さず、至極落ち着いた声で白蓮の言葉に応じた。
「あんたが儂を呼ぶというのは、相応のことじゃな。……まあ、呼ばれた理由は聞かずとも大方想像がつく。人里の動きについてじゃろう」
「左様です。今、人里は日に日に不穏さを増しています。先日、私と一輪とで様子を見に行った際には、煽動者のごとき者が里の人々を集めて決起を促していました」
「儂も見に行った。おそらくあんたが行ったその後じゃろうが、あんたが言う様子よりますます拙いことになっておったよ。対妖怪の名目で、今まで取引の制限されていた火薬やら猟銃やらが公然と右から左に流れるわ、妖怪退治の方法なるものが書かれたビラが出まわるわ、挙句の果てに人里の周囲に護符付きの逆茂木を立てて結界まで張り始めとる」
「一過性の熱だと楽観視できれば良いのですが、何の手も打たなければ事態の悪化が進むことにもなりかねません。今の事態の切っ掛けとなっている事件が妖怪の仕業でないと証明できればと思い、皆には手を尽くしてもらっているのですが、決定的な証拠は未だ得られていません。
今の状況でまず注力しなければならないのは、新しい火種となるような諍いを人妖の間に起こさせないことです。
人里において注意を払うべき人間については、雲山とナズーリンの鼠に監視させていますが、里の外の人妖が里を刺激するような問題を起こせば、事態の収集は絶望的となるでしょう。
私たちの役目は人間と妖怪の調停と心得てください。その実現のために、まず幻想郷の有力者たちと交渉の場を持たなければなりません。そのために、マミゾウさんにもお越しいただいたのです」
「事情はわかった。で、具体的にはどうするんじゃ?」
「紅魔館と永遠亭はこの状況に不干渉の方針を取ると宣言しているので赴く必要はありません。今回の騒動の渦中にある妖怪の山、その妖怪の山に居を構える守矢神社、異変の際に独自の行動をとる魔法の森の魔法使いたち、そして博麗神社。これらの勢力の意見を聞き、争いを是とするならば抑え、和を尊ぶならば協力を仰ぐのです。
本来ならば全ての勢力に私が出向くべきですが、時間がありません。そこで、この交渉には命蓮寺の総員をもって取り掛かってほしいのです。
具体的には二名以上の組を作り、交渉に赴いてください。
最重要拠点である妖怪の山にはぬえと村紗で向かってください。その際、まずは守矢神社に向かい、彼らに協力を要請してください。先日の対談でお会いした八坂神奈子様は話の分かるお方で、かつ、現実的な打算の出来る方でもあります。この状況を信仰の獲得の為のチャンスと捉えているはずですので、彼らにとって魅力ある条件を提示して味方に引き入れてください。それがうまくいったら今度は彼女をパイプにして、妖怪の山の大天狗と交渉の場を持つのです。これに関しては人里の騒動が収まるまでの時間稼ぎが主な目的になります。天狗を味方に引き入れることができれば、山の末端妖怪の暴走を抑えることもできるはずです。主な交渉には村紗があたってください。万一弾幕戦になった場合は、二人で出来る限り時間を稼いでください」
欠伸噛み殺しつつ白蓮の話を聞いていたぬえは、白蓮に指名されぎょっとして目を剥いた。さらに、仕事の内容が守矢との交渉役と知るに至って、あからさまに嫌そうな表情を見せた。
「守矢かあ。あそこの巫女苦手なんだよなあ……」
「まあまあ、そう言わないの。なんだかんだであの巫女と一番仲が良いのはあんたなんだから」
ぼやくぬえを村紗がなだめる。
交渉事と時間稼ぎの双方を十全にこなせる者といえば、村沙水蜜、彼女をおいて他にない。自信満々にそらした胸を、彼女は自らの拳でどんと叩いた。
「まあ任せておいてください。私は山にもよく行きますから、顔見知りも多い。特に河童とは仲が良いので彼らに仲介を頼むことにしましょう」
白蓮は目で頷くと、さらに指示を続ける。
「魔法の森はマミゾウさんと響子にお願いします。魔法使いたち……特に魔理沙さんがどう行動するかは正直なところ私にも判断しかねますので、意志を確かめる必要があります。交渉、万一の際の弾幕戦担当、共にマミゾウさんにお願いしたいと思います。言うまでもありませんが――」
「目的はあくまで時間稼ぎ、じゃな。無論わかっとるよ」
「そして、博麗霊夢との交渉は私が向かいます。彼女は心の底では妖怪と人間の平等を望んでいる。私に近い考えの持ち主です。話せばきっと分かっていただけるはずです。
星とナズーリンは命蓮寺の留守を守ってください。命蓮寺に集う妖怪たちは争いを望みません。彼らを守ること、そして、本拠から情報を把握し私に伝えることが貴女たちの仕事です」
「私にはお仕事はないんですか?」
ひどく寂しそうな声でそう言ったのは響子だった。
「二人組を組ませるのは弾幕戦に敗れた場合を想定してのことです。その際は、動ける方がもう一方を引き連れ命蓮寺に帰還してください。星はその場合、すぐに私に連絡を寄越してください」
「心得ました。……ナズーリン、要点は掴みましたか?」
「ええ、ええ、よく理解しましたとも。何かあれば聖に鼠を寄越せば良いのでしょう? しかし、まったく皆鼠遣いが荒いですよ。幻想郷中の鼠たちを集めても手が足りない」
星の傍らでナズーリンがぼやいた。彼女は白蓮が話している間も始終、部下の鼠からの報告を受け取っては新たな指示を与えるということを忙しく繰り返していた。
「で、でも、親分を残して逃げるなんて私にはできませんよう……」
響子がなおも不安げな声を漏らす。だが、マミゾウはあくまで自若とした態度を崩さず、諭すような口調で響子に語りかけた。
「なに、心配には及ばん。時間稼ぎが目的なら儂の方に圧倒的に分がある。おまけに今夜は満月じゃ。たとえあの魔理沙殿相手でも遅れを取ることはないよ。さらに言えば、儂は外の世界で嫌というほど示談交渉をやってきたのでな。弾幕勝負にすらなることはあるまい。魔理沙殿とて話の分からん人間じゃないしの。まあ茶でも飲みに行くつもりでおれば良いよ」
「マミゾウさん、ご協力感謝します」
白蓮が深く頭を垂れると、マミゾウは鷹揚に笑って言った。
「いやいや、こんな時でもない限り食客としての借りを返せんからね」
白蓮は改めて弟子たち一人ひとりの顔を見回し、檄を飛ばした。
「私からの指示は以上です。これは私たちを受け入れてくれた幻想郷への恩返しと思い、全身全霊で事にあたってください。では、始めっ――!」
弟子たちがめいめい本堂から飛び出して行くのを見送ると、白蓮は星に向き直った。出立の前に、一言声を掛けておきたかったのだ。
星の表情は浮かなかった。
「聖……」
彼女は目を伏せたままポツリと師の名を呼んでいた。
星は過去の記憶を思い出していた。寺に押しかけた人間に引っ捕らえられて連れて行かれる白蓮たちを、残された星は一人で見送るしかなかった。その時、白蓮は星を気遣って振り返りもせず、何も言わずに去っていった。そして白蓮は自分たちが助けに行くまで決して帰っては来なかった。
今の状況は、その時の状況と酷似していた。星の不安はそこにあった。
――もしかしたら、また聖は帰ってこないかもしれない。
星は自らの胸の中からそのような観念を追い出すことができずにいた。星の姿を黙って見つめる白蓮には、彼女の気持ちが手に取るようにわかっていた。
白蓮は安心させるように微笑むと、子供に対してそうするように星の髪を優しく撫でた。
「何て顔をしているのですか、星。心配ありません。今度はちゃんと帰ってきますよ」
「……はい!」
師の言葉を受けて、星の眼に光が差した。
白蓮が頑なに守る不妄語戒をこれほど有難いと思ったことは、星の一生において未だかつてなかった。
***
日が落ちた後の博麗神社は、人妖の姿もなくひっそりとしていた。油代の節約のためか灯籠に火も入れておらず、夜目を利かす魔法を使わなければ殆ど周囲の様子もわからない。一目見れば、今日の神社の営業は終了したのだと判断できた。
が、目を凝らしてよく見ると、離れの方から僅かな光が流れ出ているのがわかった。
巫女の私生活に近づくのはさすがに無遠慮と思い、白蓮は本殿の前から声を張り上げる。
「夜分恐れいります。霊夢さんはいらっしゃいますか?」
返事なし。しばしの間、神社の周囲を取り巻く樹々のざわめきを返戻の挨拶代わりに聞いていると、やがて、どたばたと忙しない足音をたてて紅白姿の巫女の近づいてくるのが見えてきた。
博麗の巫女・霊夢は白鉢巻にたすき掛けというやる気に満ちた姿で白蓮らの前に現れると、びしりと大幣の先を白蓮に向け、
「あんたら……。夜襲とはずいぶんと妖怪らしいことしてくれるじゃない。今この場でいつぞやの決着をつけようってんなら、受けて立つわよ」
と威勢よく啖呵を切った。
白蓮はそんな霊夢の姿を見て口を開きかけたが、あることに気づき気まずそうに目を僅か脇に逸らす。
「いえ、違います。……あの、口元に、その……」
白蓮が見兼ねたのは霊夢の下唇の脇あたりにへばりついた米粒だった。どうやら食事中だったようだ。
霊夢は訝しげに首をかしげ、自らの口元に素早く手をやる。そして白蓮の逡巡の理由を知るや、あからさまな動揺を顔に浮かべて、手品師のような素早い手つきで顔から問題の代物を取り去った。それから、咳払いを一つやってから何事もなかったように聞き直す。
「それで、何の用?」
「お食事のところ大変失礼いたしました。今人里で起きている騒ぎについて霊夢さんがどうお考えか、伺いにきたのです」
時候の挨拶や前置きなど抜きにした乱暴なまでに単刀直入な物言いだったが、霊夢は気にする様子もなく、むしろ肩透かしを食らったようにあからさまな落胆を目の色の中に見せていた。
「なんだ、そのことか。それならまあ、魔理沙から聞いてるわ。とりあえず座んなさいよ。お茶出してあげるから」
「あ、お構いなく」
正直な話としてはあまりのんびりしているわけにもいかなかったのだが、霊夢の方はその白蓮の構うなという発言に構うことなく、いいからいいからなどとのたまいながら白蓮を本殿の軒先に押し込んだ。
離れの方に引っ込んでいくおめでたい色の巫女の後ろ姿を、白蓮はやや呆れたような顔で見送った。
「随分と悠長ですね……」
やがて盆の上に二人分の湯のみを載せ、霊夢はいそいそと戻ってくる。
「出がらしで悪いけど、急いでるんならこれで良いわよね」
どうやら白蓮が急いていることは彼女の語り口調から理解していたようだが、その割に、霊夢の態度の中に緊張感のようなものは欠片も見受けられなかった。あるいは無用に緊迫感をまき散らす白蓮を落ち着かせるためにわざとそうした態度をとっているのかも知れない。
彼女はは本殿の脇に並ぶ灯籠の幾つかに灯を点しながら、ぼやき声をあげる。
「あの件は、私もどうしたらいいか困ってるのよ。妖怪退治ならさっと行ってパッなんだけどねえ。騒ぎ起こしてるの人間なわけでしょ?」
火を入れた灯籠から客の姿を確認するに十分な光量を得ると、霊夢はゆったりとした足取りで軒下まで寄ってきて白蓮の横に座った。
彼女は熱い緑茶を一つ啜ると、物憂げなため息を一つついた。その目が、育ちつつある灯籠の火にぼんやりと向けられる。
「人里の人間の中に妖怪に対する危機意識が湧いてくれるのは万々歳なんだけど、今回の件は、なーんか、気味が悪いのよね。私の勘なんだけどさ」
「気味が悪い?」
「そう。まあ当然っちゃ当然かもしれないけど、しょうもない奴は人間にも妖怪にもいるというか……」
霊夢はそう言って言葉を濁す。
彼女は彼女なりにこの一件に関する結論のようなものを持っているようだった。それが彼女のよく当たる勘に由来するものなのかは白蓮にも推し量りかねたが、察するに彼女の考えは白蓮が抱いていたものと大差なさそうだった。
「なんだかんだで平穏無事に茶でもしばいて世間話しているか、酒でも呑んで馬鹿騒ぎしているのが一番ってことよ」
――話相手が私のような人間を辞めたものであっても、ですか?
白蓮は戸惑い気味の笑みを浮かべ、隣に座る少女の姿をそっと盗み見る。
――この巫女のような考え方の人間が、あの頃もっと身近にいてくれれば。
そんな考えても仕方のないことがつらつら頭に浮かんでくる。
――まあ、商売敵ではあるんですけどね。
胸の中にじわりと滲んでくる穏やかな思いが、白蓮の口から自然と漏れでていた。
「……やはり貴女も、私と同じように、人妖の平等を心の底では望んでいるのですね」
親しげな目でそのように語りかけられた巫女は、暗がりの中でもはっきり分かるほど頬から耳までを真っ赤に染め、跳ねるように立ち上がった。
彼女は大幣を白蓮の鼻先につきつけ、動揺を隠し切れない声で喚き散らす。
「ばっ、馬鹿言わないでよ! あんたは何か勘違いしているかもしれないけど、私がそんなたわけたことを口走ったことなんてただの一度もないからね!」
「そうですか?」
「そうよ」
巫女は憮然とした表情で腕を組みそっぽを向く。
「あんたも変に私の事を仲間だとか思って馴れ馴れしくしないでよね。ただでさえ妖怪神社なんて言われて商売に支障が出てるんだから」
――そう思うのならお茶なんて出さなければ良いのに。
まだ熱い茶を湯のみから啜りつつ、白蓮は心の中で苦笑していた。
と、突然、霊夢の背後で、灯籠が照らす石畳の敷石の一つがぼこりと音を立ててせり上がった。
霊夢の鋭い誰何の声が飛ぶ。
「何者!」
大幣を構えて機敏に振り向く所作は、流石に歴戦の者のそれだった。
敷石はごとごとと音を立て、霊夢らの視線の下で少しずつせり上がってくる。
夜の帳も下りた中、尋常ならざる方法で現れる者といえば妖怪変化と相場が決まっている。もしそうだとすれば、その用件が何であれ、この巫女の玄関先を荒らしたからにはただで済むとも思えない。万一にそなえ、白蓮は懐に手を入れ、魔人経巻を取り出した。目的は九割方、霊夢が暴走した場合に彼女を止めるためである。
しかし、石畳の下から現れたのは、妖怪ではなく意外な者の姿だった。
重い敷石を片手で持ち上げ、不敵な笑みをこちらに投げかけてくるその者の顔を、白蓮はよく知っていた。
「話は全て聞いたわ!」
「あ、貴女は……!」
白蓮が驚愕の声を上げる。それは、数週間前の鼎談で意見を交わし、その後弟子の扱いに関する助言を仰いだ相手でもある、聖徳王・豊聡耳神子その人だった。
白蓮の驚きをよそに、霊夢は明らかに刺のある声で聖徳王のその行為を咎めて言った。
「ねえ、そろそろその登場の仕方やめてくんない!? 敷石を元のようにならすの大変なんだから」
「おや。巫女どのはこの風雅な仙人的挨拶をお気に召さないようだ」
「めすわけないでしょ!」
十人の言葉を同時に解する能力を持つにも関わらず巫女の罵声は華麗に無視し、聖徳王は穴の中からはい出てくる。彼女は服についた土を手で軽く払うと、傲然と仁王立ちし、芝居がかった口調で語り始めた。
「私が今、ここに居るのは他でもない。目に見える事だけに振り回され右往左往する愚かな住職と、方針を決めあぐねて悩める巫女のために、私が一つ有り難い助言を進呈しようと思ってね」
自信たっぷりにそうのたまう聖徳王に対して、霊夢が突っ込みを必死で我慢しているのが、背後にいる白蓮にもわかった。手に持つ大幣がプルプルと震えている。
笏を口元に当てて勿体ぶった間を置く神子に向かって、今度は白蓮がやんわりとした非難の声を上げる。
「失礼ですが、愚かな住職というのはよもや私のことではありませんよね?」
「この場に住職は貴女以外居ないでしょ」
「私の何を愚かと思われるのでしょうか?」
むっとして問を重ねる白蓮を軽くいなすように、神子は微笑した。その微笑の奥から鋭く光る眼が白蓮を射抜く。
「貴女が拾うべきでない火中の栗を拾おうとしているからよ。周りを見回してごらんなさい。慌ててるのは貴女だけ。……私には、あなたの心が分かるから、その理由も分かるけどね」
白蓮は表情を険しくする。それは、急激に高まる心拍を悟られまいとする偽装の表情だった。
豊聡耳神子は白蓮の動揺を敢えて無視し、観客もまばらな中華麗に演説を始めた。
「私の見たてでは、この騒ぎはほっときゃおさまるわ。私のところにも随分多くの人間が相談に来てるけど、誰に対してもそう言ってやってる。関わり合いになるなと。愚か者の扇動に乗った愚か者の集団が妖怪の山に押しかけて、返り討ちにあう。天狗が首謀者の首を晒してことを収める。人里の人間は妖怪の恐ろしさを再認識して一件落着ね。人里としても輪を乱す馬鹿が自滅してくれて内心万々歳」
「……本気で仰っているのですか?」
白蓮は眉を顰めてそう問うた。対する神子は不敵に笑う。
「無論、本気よ。そしてこれ以上ないほど正直な意見でもある。さすがの私も里の人間に向かってここまでぶっちゃけやしないわよ」
「たとえどんな性質であろうと、犠牲にして良い命などありません。その考えは訂正すべきです」
「壊死した体細胞をそのままにすれば身体全体の細胞の死へと連鎖し、結果的に個体の死につながる。そのため、生きている細胞を残し死んだ細胞は身体から速やかに除外しなければならない。悪性の腫瘍は何の処置もせず身体に留めておけば無限に増え続け、これもまた個体の死に直結する。解決方法は右に同じ。人間社会の問題構造も、最適な解決方法も全て右に同じ」
反論しようとする白蓮の唇に笏を押し当て、神子は下から睨めあげる。
「組織運営の素人がほざく青臭い理想論と、国家運営上の問題を一つずつ解決してきた者が実績の果てに編み出した結論、どちらに説得力があるかなんて自明と思うけれど」
実務の観点から見れば、彼女の言葉は全て正論かもしれない。しかし、白蓮は、どうしてもその考え方に納得することができなかった。
もはやどう足掻いた所で議論が平行線になるのが目に見えているにも関わらず、白蓮はなおも食い下がった。
「……和をもって尊しとなす……とは……?」
「あの条例はそもそも政治上の紛争を戒めるものであって、一般的な道義を説いたものではない」
その会話を最後に両者は押し黙り、互いに冷たい視線を交差させるばかりとなった。
主人であるにも関わらず議論に参加する機会を完全に逸してしまった博霊霊夢は、先ほどまでとは打って変わって険悪な雰囲気と化した境内の中で所在なさげに両者の口論を聞いていた。
ようやくのこと会話が終わったと見て霊夢が口を開きかけたその時、彼女の足元を黒い影が素早く横切った。
その影の正体を見た霊夢は少なからず驚いて悲鳴を上げる。
「うわっ! ネズミ!」
どこやらともなく現れて霊夢の足元を掠めていったのは、大人の二の腕ほどもある巨大なハツカネズミだった。それは身体に似合わず俊敏な動作で石畳の上を駆けて行き、白蓮の足元までたどり着くとそこで足を止めた。
「あら、このネズミは……」
黒豆のような瞳で己を見上げてくる姿に、白蓮は心当たりがあった。
それは、ナズーリンが手下として引き連れている無数のネズミたちのうちの一匹であろうと思われた。
流石の白蓮もネズミ一匹一匹の顔など覚えては居ないが、今の状況で出会うネズミならばおそらくそのように考えても間違いはないだろう。
さらに言えばそのネズミはどう見ても野生ではなく、目を引く赤い首輪をつけていた。そして、ネズミは先程から、前足を使ってその首輪の一部をカリカリと引っ掻いている。
その首輪を白蓮は指の先で器用に取り外した。首輪を外され身に付けるもののなくなったネズミは、それでお役御免とばかりに鳥居に向かって走り去っていった。
白蓮は手元に残った首輪に目を落とす。牛の革で作られた首輪の端に、竹ひごで拵えられた小さな筒が括りつけてある。その筒を帯から取り外し、逆さにしてみると、中から巻物状の紙片が落ちてきた。
紙片を広げ一読した途端、白蓮の表情に緊張の色が差した。
彼女は顔を上げ、霊夢に視線を投げると、やや早い口調で物問う。
「……霊夢さん、念のため伺いますが、貴女は、積極的に今回の問題に関わるつもりはない、ということでよろしいですか?」
「まあ、ねえ?」
曖昧に返事をして、霊夢はほんの一瞬だけ神子の方を見る。本分は妖怪退治であるものの、本音としては今回の騒動に関り合いになりたくない、という気持ちが、言外ににじみ出ていた。
ただ、それを明言してしまっては巫女としての立つ瀬がなくなる。白蓮は皆まで言わせなかった。
「……いえ、構いません。もう幾日もしない内に、この騒動は収束するでしょう。私はこれから、里に向かいます。きっと、そこで何かが分かるはずです。夜分、お騒がせいたしました」
白蓮は真っ直ぐ霊夢に身体を向けると、深く頭を下げ非礼を詫びた。それからすぐに踵を返し、早足で鳥居に向かって歩き出す。
その背中に向け、神子が低い声で尋ねた。
「敢えて訊くが、貴女はなぜ本心を偽ってまで理想を貫こうとする? 心の底では人間を恐れ、人間を憎んでいるのに、なぜ、その人間のために動かなければならない?」
白蓮の足が止まる。彼女はゆるゆると首だけ傾げ、目の端で背後の神子に視線を投じた。
「神子さん。私は貴女を尊敬していました。しかし、それは間違いだったようですね。利己的な仙術が貴女を変えてしまったのか。残念です」
明白な軽蔑の視線を白蓮から送られても、神子は顔色一つ変えなかった。
「私はいつだってこのままよ。伝説はそうは伝えなかったかもしれないけれど。利己的に見えるのは貴女が政を知らないから。良い為政者は常に個ではなく全の利益を考える。全体の利益のために最小の犠牲を払うことは、時に必要なのよ。
そして――真に利己的なのは、貴女だ。聖白蓮。その胸に聞いてみるがいい」
「……失礼します」
白蓮は再び目を前に向け、二度と振り返らなかった。
彼女は手にした魔人経巻を大きく振りかざすと、境内に続く長い階段の天辺から身を投げ出した。その後ろ姿が階段の向こう側に消えるか消えないか、というところで、突如強烈な妖気の光が炸裂し、境内全体をまばゆく照らしだした。
妖光に包まれた白蓮の姿は僅かの間豪速で空中で蛇行した後、すぐ方向を定め、一直線に人里に向かって飛び去っていく。
「……いいのかなあ、これで」
人里の只中に落ちていく妖の流星を眺めながら、博霊の巫女は頼りなげに呟いた。
神子は霊夢の傍らに立ち、彼女とは対象的に穏やかな笑みを目元にたたえ、同じ光景を眺めていた。
「まあ、政が救いきれなかった者をフォローするのが宗教の本来の役目なんだけどね。今回はせいぜい頑張って貰いましょう」
***
吾郎と結社の幹部らは数日ぶりに左之助の邸宅の敷居を跨いでいた。連日盛況となっている人里での集会に関する報告というのは建前で、その実は、左之助と、その左之助が息子と信じる化け物の様子を見ることが目的だった。
人里の煽動が当初の想定以上に効果を上げている現状、目の上の瘤となっているのが、この家に鎮座する化け物だった。
半狂乱に陥った左之助に対する世間の目を逸らす、という当初の目的は既に陳腐化していた。今はもう、人里全体を巻き込んで反妖の機運を高めることに全神経を集中しなければならない段階に入っている。
今の状況下で、左之助にこれ以上動き回られては、里の人間の感情に水を差すことになりかねない。
できれば避けたい所ではあるが、場合によっては、あの化け物の繭だけでなく、葛城家自体をこの世から消し去る必要があるかもしれない。吾郎は頭の片隅でそのようなことを考えていた。その決断を下すのは、彼にとってそれほど難しいことではなかった。
ただし、その決断は最後まで控えておく必要があることも、吾郎は重々承知していた。左之助があの化け物を化け物として認識してくれれば、彼が正気を取り戻したと判断できる。それで事が収まるなら、その方が良いに決まっている。葛城左之助の知識と人脈は、まだ結社にとって利用価値が十分に残されているのだ。今回の騒動とて、彼の人脈を使わなければ、いくら愚かな里の人間といえど流した噂を信じ切ったか疑わしかった。
応接間に通された吾郎らの一団がしばしの間待っていると、部屋の襖がそろそろと開き、その向こうから左之助が姿を現した。
彼は病人のごとくゆっくりとした足取りで部屋の中に上がると、そのまま部屋の端まで歩いてゆき、壁に背をもたせかけて崩れるように座り込んだ。
「左之助、どうだ、少しは落ち着いたか?」
一応、という風に吾郎が聞く。誰もが一目見て判ったことだが、左之助は少しも落ち着いてなどいなかった。部屋に足を踏み入れた時から、彼の眼球は常にせわしなく部屋の至る所に向けられ、ひとところに定まる気配を見せない。彼の頬はこけ、眼窩は落ち窪み、体調に関しても良好そうには見えなかった。
左之助はどこを見るともなく見ながら、ブツブツと口の中で何事か囁いていた。最初、それは独り言かと思われたが、どうやらそれは衰弱した左之助が出せる最大限の声量を絞り出しての、仲間に向けた言葉だったようだ。
彼は語り終えると、意図の読み難い視線を吾郎に向けた。おそらく、吾郎の返答を待っているらしかった。
吾郎は平静に努め、手本を見せるように、ゆっくり、はっきりとした声で問い返した。
「悪いんだが、声が聞こえなかった。もう一度話してくれないか?」
「人里の医者は、全滅だ……。闇医者にも診せたが、駄目だった……。……すまん、吾郎、私を許してくれるか……?」
声はなんとか聞き取れた。医者に診せても無駄だった、という話はわかった。しかし、最後に放たれた問いかけの意味は全く理解できなかった。
吾郎は辛抱強く尋ねる。
「許す? 何を?」
「私は、結社の一員だし、これからも、そうでありつづけるつもりだ……。決してお前を裏切るつもりはない……。だが、圭太のこと、これだけは……。一個人の、家庭の事情にすぎないのだから、免じてもらえると信じている……」
吾郎の胸の奥で、何かがざわめく音がした。
相変わらず要領の得ない言葉だった。裏切り、という不安を煽る単語を無視することは憚られたが、彼はその不安要素を脇に除けてでも、まず仲間を正気に戻すことが第一と考えた。
「左之助、息子さんのことはもう忘れろ。言い辛いことだが、もうあれはとうの昔に……」
「息子は死んでなどいない!」
吾郎の説得の言葉は、左之助の悲鳴にも似た叫びによって遮られた。
左之助は落ち窪んだ眼窩の奥から白い目を病的に光らせ、部屋の一同を睨め回す。その眼光に怯まなかったのは吾郎一人だけで、それ以外の仲間たちは僅かに腰を引かせつつ、左之助の奇態を戦慄とともに見つめていた。
彼我の間に見えない膜が生じつつあることを察したらしく、左之助の眉根が失望とも悲哀ともつかないもので歪んだ。
「お前たち、誰一人として信じていない目をしているな……。良かろう、その目で見れば分かるはずだ。お前たちの目が節穴でなければな。ついてこい」
彼はおぼつかない様子で立ち上がり、震える手で襖を開くと、顎をしゃくって仲間たちを促した。
これ以上何を分からなければならないのか、という思いは誰しも持っていたに違いないが、あるいは既に彼らの心は次の段階に移っていたのかもしれない。
鬼であろうと蛇であろうと、なんでも良いから早いところ腹をくくるのに必要な決定的な事実と出会い、一刻も早くこの状況に対する始末を付けたいという欲求が、彼らの心を支配しつつあるようだった。
一同は左之助に誘われるまま、中庭の見える廊下に出る。月明かりの下、亡霊のように希薄な生気とともに歩く左之助の後を、吾郎たち一行が葬列のように続く。
果たして、彼らは一つの部屋の前にたどり着いた。吾郎らとしては二度と入りたくないと願っていた部屋だった。
しばしの沈黙の後、吾郎の呻くような声が重く響く。
「今更見るものはない。……違うか?」
「あの時、お前たちは動転していたのだろう。平静な精神なら見間違いようのないものでも、心のありようによっては全く別のものに見える時がある。もう一度、冷静になって見れば、お前たちも自らの誤認を認めるはずだ」
早口で語る左之助は、吾郎が止める間もなく部屋の障子を引いた。
その瞬間、何か波の様なものが吾郎の心理的背後に向かって急速に引いていく音が聞こえた。
「圭太、具合はどうだ?」
左之助ただ一人が、部屋の中に進み入ってゆく。
畳を踏む彼の足元に、一筋の糸のようなものの這っているのが見えた。それを目で遡る。糸は放射状に張り巡らされ、部屋の半分を覆っていた。密度はその末端こそ疎であるものの、集約部分へと視線を遡るに従い網の目のように細かくなっていく。
――繭糸。
表現するならその名詞が的確だった。あるいは菌糸か。
誰かが唾を呑む音が聞こえる。あるいはそれは吾郎のものだったかもしれない。
開いた障子の向こうに吾郎らが見たのは、大量の繭糸を吐き出して部屋を覆う、巨大な繭玉の姿だった。
以前目にした肉色の芋虫のような不気味な物体の姿は既に見えない。しかし、繭玉に向かって語りかける左之助の様子を見るに、おそらくはあの化け物の変態したものがこの繭玉なのだろう。
「吾郎……これは……」
仲間の一人が声を震わせる。その顔面は蒼白だった。人間の顔は生きているうちにここまで変色するものかと吾郎が僅かばかり驚くほどだった。
その吾郎自身も、身体の底から来る震えを禁じ得なかった。
夏間近というのにやけに寒く感じられたのは、全身の汗腺が開き汗が噴き出しているからに違いない。
状況はどう見ても数日前からさらに悪化していた。繭を作る生き物といえばまず真っ先に思いつくのは蛾だが、この虫は卵から幼生の姿を経た後、自ら創りだした繭の中で蛹の体をなし、その形態が終了すれば成虫として羽ばたき始める。いわゆる完全変態を行う種だ。
この化け物がそれと同じ形態をとっているとすれば、次の形態が成体ということになる。
対策に手をこまねいていれば、この繭は早晩本物の妖怪として吾郎らの前にその真の姿を晒すことになるだろう。その結果どうなるかは分からないが、ほぼ間違いなく吾郎らにとって好ましくない状況となるだろうことが予想できた。
吾郎らの動揺を尻目に、左之助は繭玉の傍らまで歩み進むと、繭糸にまみれた畳の上に膝を付いた。それから繭の表面に手を添えると、何事か二言三言囁き掛ける。小さく頷く。安心したように目を細める。
そして、振り返る。僅かに回復した気力の光が、振り向きざまの彼の目から無邪気に放たれる。
「見ろ、圭太はこの通り生きている。お前たちの憶測など、この事実の前には何の価値もない!」
やけに大仰な身振りと共に、左之助はそのような内容の言葉を喚いていた。
意識的に背けていた視線を、ほんの一瞬、ちらと左之助の顔に投じる。瞳の真円を観察できるほど瞼を剥き晒しにした左之助と、一瞬だけ目が合う。
吾郎は目を伏せた。
「確かに、生きてはいる。ただし、生きているのは人間以外の何かだ」
吾郎は自らの目が捉えたままの映像を率直に伝えた。爆弾の導火線に火をつけるような行為であることは彼も重々承知だった。
案の定、左之助のヒステリーはここに極まった。
「……吾郎、お前、まだそのような世迷い言を言うか……。声を聞け! 息遣いに耳を傾けてみろ! どこからどう見てもこれはわしの息子ではないか! 親のわしが間違うはずがないだろう!」
地獄の底からの吹き上がりのようなゴウゴウという耳障りな息遣いと、廃屋の朽ちかけた扉が風にきしむようなキイキイという声ならば、先ほどから吾郎たちの耳にも届いていた。
胸の奥のむかつきを吾郎はやっとのことでこらえていた。いかにすれば左之助を正道に戻せるか、この短い間に色々と考え、いくつかの試みも実践してみた。しかし、いかんせん左之助の意思は固かった。
善後策の思案のため吾郎は俯き目を固く閉じる。その様子を見かねた仲間の一人が、彼の肩を掴み、
「吾郎、左之助はもうダメだ……」
悲痛な声でそう言い聞かせた。
その言葉を待っていた。
吾郎の喉から長い溜息が漏れる。仲間らには、それは苦渋の決断を迫られたことへの嘆息として捉えられたらしい。次々と吾郎の身体に仲間の手が触れる。
吾郎は無念そうに首を振り、憐れむような目を左之助に向けた。
「無理もない……。一人息子を殺されて、こんな化け物と取り替えられてしまっては……」
「貴様ら、私が狂っているとでも言うのか! お前たちの目は、今何を見ている!」
唾をまき散らしながら叫ぶ左之助を見て、吾郎はもう一度大きなため息をついて俯く。
暫くの間、彼は頭を垂れ、部屋に響く悲鳴じみた声を聞いていた。やがて、その頭がゆっくりと持ち上がり、左之助を真っ向から見据える。
その顔には、もはや何らの感情も浮かんではいなかった。
「黙れ」
彼は底冷えのする声で、左之助に向けて短くそう一言告げた。
僅かに怯んで後ずさる左之助に対し、吾郎は言を継ぐ。
「……百歩譲ってその化け物が本当にお前の息子だったとしよう。だが、それでも、俺の行動は最初から決まっているんだ、左之助。
『それ』は今すぐ殺す。
反妖怪を掲げる俺たち結社が妖怪を飼っているなどと知れれば、好転している現在の状況の全てが水泡に帰してしまうからな」
彼は、ただの仕事上の連絡事項を述べるように、淡々とそう告げた。
その処刑宣告を聞いた左之助は唇をわなわなと震わせ、隙間風のようなかすれ声を喉の奥から漏らした。
「く、狂っている……! 狂っているのは、貴様らだ! 貴様ら、皆、狂っている!」
吾郎としては、狂人から狂っていると評されるのは心外だったし、狂人の定義について哲学めいた思索をするつもりもなかった。
今の左之助に対して吾郎から送ることができるのは、別れの言葉だけだった。
「左之助、お前とも長い付き合いだったが、残念ながらここまでらしいな。お前が提供してくれた妖怪についての多くの情報、決して無駄にはしない。息子さんのことは残念だったが、心配しなくとも直ぐに極楽で再会できるだろう」
彼は懐にゆっくりと手を差し入れ、左之助ににじり寄った。懐の隙間から漏れる死の臭いを隠す必要はもうない。そう吾郎は判断していた。
嗅覚鋭くもその臭いを嗅いだ左之助の顔に、見る見るうちに恐怖が滲み出る。
彼は拒絶するように腕を吾郎に向け差し伸べ、叫んだ。
「来るな!」
短い言葉だった。これが左之助の末期の言葉になるのだろう。
「さらばだ、左之助!」
叫びとともに、懐に差していた腕を吾郎が猛然と引き抜く。引き抜かれた腕の先、手首の辺りに白い光が閃いたかと思うと、直後、光は尾を引いて左之助の首元に飛び込んでいく。
刹那、何か硬いもの同士のぶつかる激しい音が部屋中に響いた。
差し出された左之助の腕を掻い潜り、その素首を穿たんとしていた白刃の切っ先は、目的を果たすことなく宙に制止していた。
吾郎が突き出した短刀の刀身を、華奢な手が掴んでいた。その手の主に向け、吾郎は咄嗟に眼球を動かす。
妨害者の正体を見た瞬間、吾郎の瞳の中に明白な憎悪の火が灯った。
「なぜ、お前がここにいる……!」
視界の中に佇んでいたのは、険しい表情で睨み返してくる魔住職・聖白蓮の姿だった。
***
白蓮が手に力をこめると、彼女が掴んでいた短刀の刃は花の茎のように簡単に手折れた。
手の中に残った刃の欠片を、白蓮は吾郎の目の高さに掲げてみせる。
「私は、葛城様に招かれたために参じました。貴方がたこそ、なぜここにいて、このような物を振り回しているのです?」
白蓮の手がゆるゆると開き、指の隙間から刃の破片が滑り落ちた。切っ先から落下した刃は鈍重な音を立てて畳の上に突き立つ。
憎々しげに白蓮を睨んでいた吾郎の視線が、より一層の鋭さで左之助を射抜いた。
左之助は吾郎の視線を跳ね返すように真っ向から睨み返し、憮然として言った。
「里の医者は皆手遅れと言う。竹林の医者はこの件には関わりたくないと言う。もう他に手はなかった」
「左之助、貴様! 妖怪に頼ったのか!? 気が違ってもそこまで堕ちるとは思わなかったぞ!」
激昂した吾郎が、左之助に詰め寄り胸ぐらを乱暴に掴んだ。その手を払いのけ、負けじと左之助が叫ぶ。
「黙れ、殺人鬼めが! この際、妖怪だろうが誰だろうが構わん! 圭太を救ってくれる者がいれば、誰だろうと……!」
彼は吾郎を突き飛ばし、白蓮に向き直ると、彼女の足元にひれ伏した。
「聖殿! もう私には貴女しかすがるものが残されていないのだ……! 頼む! この通りだ!」
左之助の必死さは白蓮にも伝わってきたが、いかんせん彼女には状況が全く把握できていなかった。
白蓮は跪き、左之助の肩に手をのせた。掌から、左之助の身体の震えが伝わってくる。
彼女はなだめるように左之助に語りかけた。
「顔をお上げください。まずは落ち着いて、今の状況を私に教えてくれませんか?」
言われるままに上げられた左之助の顔には、泣き笑いのような複雑な表情が浮かんでいた。
彼は白蓮に対し、訥々とした言葉で事の仔細を説明し始めた。
ひどく錯乱しているのか、彼の言葉は初め、非論理的で支離滅裂を極めていた。しかし、話すにつれ落ち着きを取り戻してきたのか、白蓮の幾度かの質問によって頭の整理がなされたのか、いずれにせよ、数刻もすると彼の語調はしっかりしたものになっていた。
辛抱強いやりとりの果てに、白蓮の方も大体の事情を飲み込んだ。
彼女は部屋の片隅に鎮座する巨大な繭に目を向けると、ゆっくりとそれに近づいた。そして、左之助に対してそうしたのと同じように、彼女は繭玉の表面にそっと手を触れた。
ほの温かい体温と、小刻みな脈動が指先に伝わってきた。左之助の話す通り、その繭は確かに生きている。だが、繭のように見えるその生命体の手触りは、完全に妖怪のそれだった。
繭の中に何がどのような姿で眠っているのかは判らない。だが、耳を澄ますと、繭玉の中から、キイキイという蝙蝠の鳴き声のような声が聞こえてくる。どんなに繰り返し聞いてもそれは、人間の声とは思えなかった。
繭玉から微細な妖気のようなものが立ち上っていた。妖気は繭の中で経絡のような流れを形成し、経穴に当たる処で強い力点を形成していた。
その妖気の流れのいくつかの箇所に、普通の妖怪にはない妙な動きがあることに白蓮は気づいた。
周りの人間たちを警戒させぬよう彼女はゆっくりと振り返り、その視線を左之助に据えた。気が気でない様子で白蓮の行為を見守っていた左之助は、ついに結論を聞けると見るや、一層落ち着きなく白蓮にいざり寄る。
白蓮は努めて平静な声で、己の導き出した仮説を左之助に告げた。
「これは妖魔転生法の類と思われます。相当に年季を重ねた妖怪でなければ扱うことのできない、複雑な技術を要する術法です。……葛城様、何か心当たりはございませんか?」
左之助の目の中に、僅かな希望のようなものが光った。彼は急き込んで答える。
「この部屋に息子がこの姿で落ちてきた時、こいつは言っていた。八雲の妖怪にやられたと……」
「八雲の妖怪……」
その存在程度は白蓮も知っていた。八雲紫という名の古い妖怪で、この幻想郷の構築に携わった者であるという。普段は式に幻想郷の管理を任せており、特定の者以外に姿を見せることは滅多にない。
その妖怪が、今、敢えて自ら動き、人里の子どもを妖怪の姿に変えたというのだ。
その行動の意図は何なのか。白蓮にもおおよそ想像がついた。
白蓮は左之助に向け尋ねた。
「当然、心当たりはありますね、葛城様」
「……ああ……」
苦々しげに応える左之助に、白蓮は非難の目を向ける。
「数週間前、私の寺に山の妖怪たちが集まってきて言いました。貴方の家の子どもが夜毎山に現れ、妖怪たちを襲っていると。おそらく、彼が今この姿になっているのは、妖怪の賢者の報復の結果なのでしょう。ですが、それはまさしく因果応報というものです」
「無論……理解はしている。その上で、こうして頼んでいるのだ……!」
「ならば、約束してください。もう金輪際、妖怪に対する手出しはしないと」
「左之助! こんな悪魔の言葉に耳を貸すな!」
吾郎がヒステリックに喚き立てる。だが、既に左之助の眼中に彼の姿はなかった。
左之助は再び低頭平身して、絞りだすような声で願い上げた。
「住職、約束する。頼む、息子を……」
「……左之助……馬鹿者が……!」
忌々しげに吐き捨てる吾郎を、白蓮は冷たい目で睨め付けていた。その視線は冷たさを保ったまま左之助に移る。
このような口約束にどれほどの効力があるか、怪しいものだった。人間は喉元過ぎれば熱さを忘れる生き物だ。
白蓮は、左之助の言葉も、端から信用などしていなかった。
だが、救いを求める者があるならば手を差し伸べるのが宗教家の義務なのだ。
「術を始めます。皆さん、少し下がってください」
救うべき者に向け、白蓮は身を翻す。
八雲紫が施したであろうその術は、施術の複雑さに比べ、解術の難度はさほど高くない。時間と根気こそ必要だが、白蓮であればまず確実に解くことのできる類の術だった。
大変なのは、この解術作業が終わった後の事態の収拾の方だろう。そう思いつつ、白蓮は繭玉の表層に触れようと手を伸ばす。
と、その時、白蓮の背後で吾郎が最後の悪あがきとばかりに喚き上げ始めた。
「左之助、今更俺の語ることなどお前の耳には入らんだろうがな! しかし、どうしてもこれだけは聞き入れてくれ! この女にだけは頼るな! この女は人間の味方などではないし、ましてやお前の息子を救いなどしない! こいつに任せてみろ、お前の息子はお前の見ている前で妖怪として転生を遂げることになるぞ!」
それは、左之助に向けられた言葉のはずだった。
だが、あろうことかその言葉は、今まさに解術による救いを施そうという白蓮の心に突き刺さっていた。
繭玉に触れようとしていた白蓮の手が止まる。
彼女の心の中で、気づかぬうちに思考が氾濫を始めていた。
――妖怪として転生するということ。それは、救いではないのか?
何の疑問もなく、人間の姿に戻しさえすれば当面の問題が解決すると思い込んでいたが、果たしてそれは本当に正しい行動なのだろうか?
左之助から頼まれた通りに子どもを元の姿を元に戻せば、全てが丸く収まるのは分かっている。
だが、本当にそれがこの子供の精神にとって正しいことなのか?
自分の欲求を満たすことができるのなら、他者などいくらでも利用し裏切る。それが人間の本質だ。そんな人間に戻すことが、この子にとって幸せなのか?
背後を見る。吾郎と左之助は再び激しい言い争いを始めていた。
交わされる口汚い言葉は互いの感情を昂ぶらせ、説得を目的としていた口論は既に互いの人格否定に発展している。
あのいがみ合いの地獄の中に、この子どもを放り込もうというのか?
――それよりは、このまま妖怪として転生させた方が、この子の幸せになるのではないだろうか?
妖怪として、人間の醜さを忘れて生きた方が幸せなのではないか?
人間たちがこれほど愚かでさえなければ、何も迷うことなどないのだ。だが、人間は千年前から変わらず愚かなままだ。おそらくは、これからも永久に。
放っておけ、という神子の言葉が脳裏に蘇る。それが正しい選択なのだろうか?
同時に、神子はこうも言っていた。貴女は、心の底では人間を憎んでいる、と。
だとすれば、今急速にもたげつつあるこの考えは、己の無意識に潜む人間への憎悪から生まれたものなのではないのか?
憎悪に起因した考えならば、従ってはならない。利他行は弟である命蓮上人から与えた至上命題であり、その命題を破るわけにはいかない。
しかし、本当にこの考えは、己の憎悪に端を発するものなのか?
この子の真の幸せを願って起こす行動は、利他行ではないのか?
そもそも己は誰の幸せを望んでいる? 左之助か? この子供か?
――それとも、己か?
「迷うことなんて、どこにもないよ」
不意の事だった。聞き覚えのある声が耳に届く。この場に居るはずのない者の声。
白蓮は咄嗟に首を巡らせる。
振り向いた視線の先、たむろする人間の間に、白蓮は声の主の姿を見た。
その姿を見た瞬間、白蓮ははっと息を呑み、眼を大きく見開く。
「こいし!?」
白蓮の視界の中に収まっていたのは、紛れも無く自らの弟子として招いて来た、あの少女妖怪の姿だった。
いつの間にこの場に紛れ込んでいたのだろうか。彼女が声を発するまで、この場にいる誰も、こいしの気配に気付いていなかったようだ。
人間たちが慌てふためき蜘蛛の子を散らすように逃げ惑う様子を意にも介することもなく、こいしは白蓮に向かってゆっくりと歩み寄っていく。
白蓮の前まで進み出たこいしは、僅かに眼を細めて微笑んでみせた。
そして、彼女は迷いのない口調でこう言った。
「妖怪だとか人間だとか、そんなことよりもっと大切なことがあるわ。けいちゃんの声を聞いて、聖お姉ちゃん……!」
――声を……?
こいしが言葉の意図を、白蓮には全く理解できなかった。
先ほどまでの記憶が正しければ、あの繭の中から聞こえるのはげっ歯動物のそれのような甲高い鳴き声だけだった筈だ。
白蓮が当惑の表情を浮かべたのを見て取るや、左之助が咎めるような声を上げた。
「貴女には聞こえないのか!? 圭太の言葉が!」
「黙れ、左之助! 化け物の声は化け物にしか分からん! そのうわ言を今すぐ止めろ、反吐が出る!」
左之助と吾郎の口論をよそに、白蓮は俯き赤面していた。己の未熟を恥じていたのだ。
声は受想行識における行。すなわち意志だ。たしかに、こいしや左之助の言うとおり、この鳴き声には意志があると考えるべきだった。
目に見えているもの、耳に聞こえていることに囚われすぎていた。
ただ見ただけでは観たとは言わない。ただ聴いただけでは聞いたとは言わない。
目に見えないから無いなどということはない。耳に聞こえないから無いなどということもない。
この世界は完全なる無などではないし、また、存在する物が全てというわけでもない。
これと同じ考えが仏教の中にある。
白蓮の口の中から、知らず、その思想を含む経が漏れ始めた。
「……観自在菩薩行深般若波羅蜜多時照見五蘊皆空度一切苦厄
舎利子
色不異空空不異色色即是空空即是色受想行識亦復如是……」
白蓮のよく通る声が、部屋中に満ちる。
罵詈雑言を放っていた二人の男の声は彼女の読経の声にかき消され、舌戦はなし崩し的に尻すぼみとなった。
「……舎利子
是諸法空相
不生不滅不垢不浄不増不減
是故空中無色
無受想行識
無眼耳鼻舌身意
無色声香味触法
無眼界乃至無意識界
無無明亦無無明尽
乃至無老死亦無老死尽無苦集滅道
無智亦無得
以無所得故菩提薩埵依般若波羅蜜多」
これまで幾度と無く繰り返し唱えてきた経文だった。だが、今ほど身につまされてこの経文を唱えたことは、かつてない。
一音一音を噛みしめるようにして、白蓮は経を読み続けた。
「故心無罣礙
無罣礙故無有恐怖
遠離一切顛倒夢想究竟涅槃
三世諸仏依般若波羅蜜多故得阿耨多羅三藐三菩提
故知般若波羅蜜多是大神呪是大明呪是無上呪是無等等呪
能除一切苦真実不虚
故説般若波羅蜜多呪即説呪曰
羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提薩婆訶
般若心経……」
読経が終わり、部屋の中がしんと静まり返る。
その静寂の中、白蓮の耳に微かな声が届いた。
『……て……』
ほんの小さな声だった。げっ歯動物の様な鳴き声の向こう側で、今にも消え去りそうなほどの。
だが、たしかにその声は、こう言った。
『……お父さん……怖いよ……助けて……』
声はただひたすら怯え、か細く震えていた。
『助けて……お父さん、お父さん、どこ……?』
まるで果てどない闇の中に一人取り残された小動物のように、その声は父の名を呼びつづけていた。
白蓮は、その声を聞いてもなお迷う気になど、到底なれなかった。
彼女は繭玉の上にそっと手をのせ、その表皮を優しく撫ぜた。
「……大丈夫。今、助けてあげますからね」
言うや白蓮は助けを求める声の主の傍らに腰を下ろし、再度念仏を口ずさみ始める。
すると、白蓮の頭上から妖しげな気が糸のように立ち上り、やがてその気は陽炎のように彼女の身体全体から揺らめきだした。
遠巻きに彼女の所作を見守っていた人間たちはその様子を見るや、泡を食って部屋を飛び出していき、中庭まで出た所で、ようやく振り向いて恐る恐る部屋の中の様子を伺い出した。彼らはそこで成り行きを見守ることに決めたらしい。
部屋の中に残る胆力のある人間は、吾郎と左之助の二人ばかりだった。
その内の一人である吾郎が、額から脂汗を流しつつ怒鳴った。
「邪法に染まった妖僧に、人間を救えるはずがない! 今でも間に合うぞ、左之助! やめさせろ!」
その声に応じたのは左之助ではなくこいしだった。
彼女はきっと吾郎の顔を睨みつけ、強い語調で反論する。
「そんなことはないわ。聖お姉ちゃんなら、きっとけいちゃんを助けてくれる。私を助けてくれたようにね」
白蓮の背中から立ち上る妖気は今や炎のように鮮やかに、人間たちの目に映しだされていた。彼女はもう、ただひとえに眼前の少年を救うという一念のみに支配されていた。その高い集中力により練り上げられた妖気の片鱗が、肉体から漏れだしていたのだった。
やおら、白蓮の手が動き、繭の皮層をさらりと撫でた。すると、彼女の掌を追うようにして、薄紅色をした気の塊が繭の中から吐き出されてきた。彼女が手を振り払うと、その気は畳の上に叩きつけられる。
部屋の中の男たちがおののきつつ見守る中、気の塊は空気の中に溶けて消えていった。
左之助らが再び白蓮の方に目を向けると、繭玉の様相に大きな変化が訪れていた。
「おお! 繭が!」
白蓮の膝先に横たわっていた繭玉の表層が崩れ去り、中から赤黒い肉塊が姿を露した。
それは、左之助や吾郎が以前見たことのある、人間を裏返しにしたような姿だった。要するに、姿形が一つ前の形相に戻ったのだ。
あからさまな顰め面を見せる吾郎を差し置き、左之助が歓喜の声をあげる。
だが、解術の作業は、そこから遅々として進まなくなった。
それはまるで、寄木細工を解くような作業だった。随所に楔のように施された封印を一つ解くごとに、子どもの身体は人間の姿を取り戻していく。
ただの寄木細工と違うのは、解く順番を間違えると、子どもの身体がバラバラに破壊されてしまうということだった。
だから、白蓮は極めて慎重に解術の作業をせざるを得なかった。
数十ある封印の、最初の一つを抜き去るのに、軽く半時はかかった。一つの封印を解く度に、子どもの全身を検査し、気の流れに変化が生じていないか確かめる。そして、次に封印を解く箇所を定め、覚悟を決めてえいと抜き去る。
その作業を繰り返し、子どもの四肢が人間の姿に戻るころには、刻すでに深夜に至っていた。
しかし、まだ気を緩める訳にはいかなかった。最後に、大仕事が残されている。
子どもの肉体は完全に裏返しになっていた。これまでの作業では、命に直接影響のない末端部分を復元してきたにすぎないが、ここから先の作業では内臓や中枢神経をいじる必要がある。
具体的には、子どもの胸の上で激しく脈動する心臓や蠕動する肺を肋骨の中に収め、背骨の裏にめり込んでいる頭部を元の位置である頚椎の上に戻さなければならない。
一つでも手順を間違えれば、良くても子どもの肉体に重大な後遺症を残し、悪ければ命を奪うことになるだろう。
白蓮がその旨を左之助に説明すると、彼は真摯な瞳で彼女を見返し、はっきりと首を縦に振った。
「構わない。だが、私は貴女を信じる」
白蓮は驚いた顔で左之助を見た。彼の目の中には、一点の疑いの色も見えない。
人間が己を完全に信じてくれるなど、考えもしなかったことだった。
身体の中が、じんと熱くなる。心を強く支える力が、白蓮の芯に充ちる。
白蓮は意を決して再び子どもの許にいざり寄った。
「お姉ちゃん、頑張って……!」
背後から、こいしのささやかな応援の声が聞こえてくる。
子どもの身体から妖気の塊を引き抜き、棄てる。気の流れを確認して次に解くべき封印を探す。次の要点をここと決め、再び妖気の塊を引き抜く……。
その作業はいつ終わるとも知れなかった。幾つもの妖気の塊が引き抜かれていったが、子どもの身体は一向に変化の兆しを見せない。白蓮の成功を祈念する一人の人間と一匹の妖怪は、一つの解呪が終わる度に、次こそは次こそはと念じるのだった。
そして、東の空が白々としてきた頃、とうとうその時はやってきた。
白蓮が鳩尾の辺りから一本の楔の形をした妖気を抜き去った瞬間、子どもの身体が一挙に反転したのだ。背中にめり込んでいた頭蓋はぐるりと回って頚椎に接続し、剥き晒されていた内臓の数々は慌てふためくようにして肋骨の中に飛び込んでいく。しかるのち、背中側から皮膚が這い出てきて肋骨の上に覆いかぶさった。
左之助らが二回ほど瞬いた後には、子どもはすっかり人間の姿を取り戻していた。
しばしの間、呆然と息子の姿を見守っていた左之助は、はたと気を取り戻すと、弾けるように飛び上がって息子の身体にすがりついた。
「圭太!」
今や完全に人間としての姿を取り戻した左之助の息子、圭太は、父親の声にか弱い声で応じた。
「お父さん……」
人間の身体は脆い。解呪の手抜かりによって今にも子どもの身体が崩れ去りはしないかと白蓮は気をもんでいたが、どうやら杞憂だったようだ。少年の姿は父親の腕の中で、正体を失うことなく形を保っていた。
ここまで待てば安心、という基準などあるはずもない。白蓮はしばし待った後、もう大丈夫と自らの中で見切りをつけ、大きく息を吐いた。
左之助の腕に抱かれていた少年が、身動ぎしようとしてうめき声を上げる。左之助は、狼狽えて息子の名を叫んだ。変転する状況に、左之助は対応できていなかった。
白蓮は左之助に向けて、努めて穏やかな声をかけた。
「解呪は成功しましたが、肉体はまだ万全ではないようです。ですがそれも、癒しの法を毎日時間をかけて施してゆけば、少しずつ快復していくでしょう」
そう言って、白蓮は膝元に横たわる少年に目を落とす。
少年の目を見た途端、白蓮は我知らず眉をひそめた。
圭太は、敵愾心に燃える瞳で、眼下から白蓮を鋭く見返していたのだ。
その瞳の中に、反省の色を見出すことはできなかった。
あのような目に遭ってもまだ、彼は自分の行動に問題があったとは考えていないのだ。少年の射抜くような視線の中には、自分自身の正当性を主張して憚らない頑迷さだけがぎっしりと詰まっていた。
白蓮は、己の心が、失望によって急激に冷めていくのを感じていた。
――所詮、人間とはこういうものなのか。
「ちっ……」
部屋の隅に立っていた吾郎が、小さく舌打ちをして白蓮を一瞥する。それから彼は何も言わずに身を翻し、仲間とともにその場を立ち去っていった。
彼の姿を再び見ることは金輪際無いだろう。白蓮は吾郎の後ろ姿を見て、なぜかそう感じた。
左之助は子どものことにしか眼中にないようだし、すべきことは全て済ませた。
もはや、白蓮がこの場に居る理由はなかった。
「それでは今日はこれで……」白蓮はそう呟き、静かに立ち上がった。
その時、白蓮の袖を誰かがちょんと引っ張った。
こいしだった。彼女は、満面の笑みを浮かべ、目をキラキラ輝かせて白蓮を見上げていた。
「おねえちゃん、ありがとう! おねえちゃんなら、けいちゃんを助けてくれるって信じてたよ」
彼女はそう言って、その細い腕で白蓮をぎゅっと抱きしめた。勢い良く胸に顔をうずめたおかげで、彼女が被っていた帽子が畳の上に落ちる。
報いを期待していた訳ではなかったが、彼女の労いの言葉は純粋に嬉しいものだった。
「こいしも、ありがとうね。貴女が居てくれたお陰で、迷いが晴れたわ」
白蓮はこいしの髪をそっと撫でつつ、そう言った。
やがてこいしは白蓮から身を離すと、次に圭太の許に歩み寄り、彼の傍らに膝をついて座り込んだ。
***
こいしの姿に気づいた圭太は、意地の悪い顔をしてせせら笑った。
「……なんだよ。またやろうってのか……? ……今ならお前程度でも僕を殺せるぜ」
「圭太っ……お前、まだそんなことを……!」
圭太は自嘲気味に笑った後、苦しげに呻いた。
傍らに座るこいしが、その様子を見て心配そうに眉を寄せ、両手でそっと圭太の手を握る。
「けいちゃん、身体が痛むの? 私、白蓮おねえちゃんに癒しの術を教えてもらったの。まだあんまりうまくないけど、少しだけなら痛みも引くと思うんだ」
白蓮は目を丸くしてこいしを見た。白蓮が知る限り、こいしは最近こそ素直に修行に励むようにはなっていた。だが、あの問題児だったこいしが、このような行動を取るとは思ってもいなかった。
驚いたのは圭太も同様だった。彼もまたはっと息を飲んでこいしに視線を投じていた。
こいしが何事かささやくと、彼女の華奢な手のひらがぼんやりと輝きを放ち始めた。
その輝きは、圭太の手から腕へ、腕から胸へと伝わり、ついには彼の全身を包んだ。
圭太は初めこそ抵抗するように身を固くしていたが、やがてその緊張も少しずつほぐれていった。その代わりに、彼の表情には困惑が色濃く現れ始めた。
そうしてどのくらいの時間が経っただろう。
術のおかげで痛みが引いたのか、圭太の表情はだいぶん柔らかいものになっていた。
彼はバツの悪そうに黙ったまま、ちらとこいしの顔に視線を飛ばす。
圭太の視線の先には、目を固く閉じて一生懸命に念じるこいしの姿があった。
視線に気づいたのか、ふと、こいしが目を上げる。
彼女は圭太と目が合うと、申し訳無さそうに再び瞼を伏せて、ぽつりと呟いた。
「けいちゃん、この前は、喧嘩してごめんね」
「……!」
こいしは沈痛な面持ちのまま、ひたすらに圭太の快復を祈っていた。
手のひらからは、あいも変わらず心地よい温もりが伝わってくる。
それはまるで、彼女の想いがそのまま身体の中に流れ込んできているようにすら感じられた。
圭太は暫くの間目を泳がせたあと、呻くように呟いた。
「……僕の方こそ……怖い目にあわせて……ごめん……」
その返事を聞くと、こいしの顔に安堵の表情が広がった。
彼女は柔らかに微笑み、片方の手で圭太の額をそっと撫でた。そして、穏やかな鈴の音の様な声でこう囁いた。
「また、みんなで一緒に遊ぼうね」
そこには、白蓮が見てきた不安定な妖怪の姿も、圭太の頭のなかで凝り固まった凶悪な妖怪の印象もありはしなかった。
ただ純粋に優しい、一匹の妖怪の姿がそこにあった。
圭太の眉がみるみるうちにへの字に曲がってゆく。彼は慌てたように首をすいと壁の方に向けた。
沈黙が部屋に満ちる。
やがて、彼は少し上ずった声で「うん」とだけ呟いた。
逸らされていた圭太の目の端から、涙が一筋こぼれて落ちた。
***
この日を境に、人里の反妖の気風は急速に衰えを見せ始めた。
決め手となったのは、これまで一貫して妖怪嫌いを公言していた葛城左之助による内部告発だった。
彼は、先の子供殺し事件が人里の秘密結社による捏造であるという証拠を示した。彼の口から暴かれた秘密結社の拠点を目明しが洗うと、その一つから烏天狗の羽根が大量に見つかったのだ。
目明しは葛城を縄にかけ、首謀者である佐伯吾郎を追ったが、ついに彼を捕えることはできなかった。
その後、人里で佐伯の姿を見かける者は一人として現れなかった。一時期、妖怪に食い殺されたという噂が流れたが、その噂も時が経つにつれ語られなくなった。
それからひと月もする頃には、人里にはいつもどおりの平穏が戻っていた。だが、それがかりそめの平和であることは誰の目にも明らかだった。
この一連の事件は人里に大きな爪痕を残した。人々は自らの無知、無力を知り、急性的なものではあるが、ある種の虚無感や厭世観を抱くようになった。
こうした厭世観が、あの夏の宗教戦争の一因となるのだが、それはまた別の物語だ。
しかし和尚さん、いくらメンタル弱いっつっても、土壇場で迷いが多過ぎじゃないですかね…
やはり葛城親子、少なくとも圭太に於いては、先にも書いたが一章設けるべきだったと思う。
圭太が妖怪狩りについて親父に明かした描写は無かった筈だが、途中から親父の方は知ってるっぽい??? また、何故それを親父に秘密にしようとしたかも気になるところ。
広場で白蓮を問い詰める佐伯の隙の無い論がなかなか。逆を言えば白蓮の心が隙だらけなのだけれど、一転外法解呪の場面での信と不信の狭間で揺れ動きながらの決心はよかった。