もうすぐ季節は秋になろうかとしている。
犬走椛はもうすぐ秋になろうかという晩夏が、一年で一番好んでいる季節だ。中でも、山の中からうかがえるもう沈もうかという夕日がいじらしく、また仄かな橙色と暗くなるまでの何分かだけ現れる黒に限りなく近い青色とが混じりあうようになる空が、とても美しいからだ。
何を爺臭い趣味をしてからに。口の悪い椛の同僚や、口さがない友人の河童は椛の好みをそう切り捨てる。
椛からしてみれば、忙しい毎日の仕事の終わり際のひそやかな楽しみでもあったし、元々周りと協調性の無い性格をしていたため、何を言われようと構わなかった。誰も分からなくてもいい。自分だけが満足できるならそれでいい。
「周りと合わせるという事を学んだ方がいいですよ。椛さん」
もう夕方になり、仕事である哨戒任務の終わりが近づこうとしたとき、横に降りたってきた女性がそう切り出した。
「しゃ、射命丸様」
椛は慌てて跪く。いくら協調性が無いとはいえ、縦の関係となれば無視できない。山での生活は一事が万事、縦社会で成り立っているのだ。
横に降りたった女性は大きな羽を広げ、胸を張って椛を見下している。鴉天狗の射命丸文だ。何かと椛に絡んでくる、その度に慌てて頭を下げる椛を滑稽そうに微笑む。要するに有難くない上司だ。
「あややや、そんなに畏まらなくても結構ですよ。もうすぐ勤務終わりでしょう。どうです一杯」
「い、いえ……私は、その、下戸ですから……」
「ほお、偉くなりましたねえ。ああ、悲しいです。部下に付き合って貰えないだなんて」
ちらちらとこっちを見ながら、催促している。本当に厄介な上司だ。今日あたり、作りだめしていた干し肉が切れるので、獲物を取っておきたかったのだが⋯⋯。
そもそも文からしてみれば、椛を誘う義理などどこにもないはずである。鴉の濡れ羽色と評される美しい黒髪を持ち、整った顔立ちの文は山の人気者だ。その上物怖じしない性格に、新聞を作ってしまうほどの知性の持ち主。おまけにその新聞の評判は高い。
そんな完璧超人である文に比べて自分は大分落ちると、椛は自嘲的に思った。椛は背こそ文より高いが、顔は哨戒任務の所為で日焼けしそのうえ仕事柄か体中傷だらけだ。風呂をともにした同僚は背中でアミダクジが出来そうだと笑ったほどである。引き攣ってはいたが。
ともかく言えることは、文は椛などと釣り合わない存在だ。劣等感が持てない程雲の上にいると言ってもいい。
「あーあ、ガッカリですねえ。まあ、だからと言ってあなたに拒否権はないんですけど」
「や、やっぱり……」
結局、今日も椛は酒場に連れ出されてしまうのだった。
文と来たらこの上酒も強いのだ。まさに蟒蛇、鬼とでも十分に張り合えるのではないだろうか。
椛は早々について行けなくなった。元々ちびちびマイペースで飲むのが好きな椛だったが、文の速いペースに巻き込まれてついつい飲み過ぎた。明日が非番であることに感謝しつつ、くらくらする頭を抑えながら、文のぐい呑みに酒を注ぐ。
「大体ですね、あなたはあまりにもマイペースすぎます。もう少し周りと合わせないと」
「いいですよ……一人の方が、気が楽なんですし……そもそも射命丸様は中心にいらっしゃるからそう思うんですよ……」
それを聞いた文が面白く無さげに酒を呷り、注げと言わんばかりにぐい呑みを出す。椛は徳利に入った酒を注いだ。無色透明、一見水と見間違うくらい特徴のない酒なのに、喉が焼けそうなほど強い。
「私は、一人が好きなんです。射命丸様を見ていると、よくあんなに人の中で存在を主張できるよなーって思います。私はダメなんですよ。和の中に入れないのは、まあ……苦しいかもしれませんが、慣れましたし」
また文が酒を飲み干す。流石の文でももう真っ赤な顔をしていた。やれやれ、これでやっとお開きかな。そう思って、立ち上がろうとした。
「……この偏屈者」
文の手が、椛の腕を掴んでいた。何だ、と思って椛は文の顔を覗き込む。
「いいでしょう!ならこの賑やかさの良さを教えてあげますよ。来なさい!」
「ちょ、ちょっと……」
「五月蠅い!黙ってきなさい」
いきなり酒が回り始めたのか、文が席を立って、椛の手を引く。フラフラしながら店内を回ると、とある席の前で止まった。二人組の若い天狗が唐突に現れた女性たちに目を白黒させている。
「お兄さん方、お暇でしょう?私達も暇ですから、ちょっと遊びに行きません?ふふふふ」
「射命丸様!?」
「この子、堅物なんですよ。ねねね、楽しみ、教えてあげてほしいなぁ~。こんな可愛いのにもったいないったらないでしょ~。お兄さん方、どうせ暇なら⋯⋯」
そこまで言って、文は下を向いた。小さな寝息が聞こえる。
「あ、あー。あはは。すみません。酔っ払いの戯言ですので、気にしないで。どうぞ、お楽しみを続けていてください⋯⋯では」
ポカンとしていた二人を、何とか誤魔化して、椛は寝息を立てる文をどうにか担いで、勘定を済まして外に出る。
「あややややぁ~⋯⋯」
よく分からない寝言も言う文だが、寝顔は実に健やかで、気持ちよく酒を飲んだのだろうと思える。椛の何倍もの量の酒を体内に入れたとは思えない。
「……なんで、私なんですか」
文はもっと偉い人間との付き合いを大事にすべきではないのか、そんな事をつい考えてしまった。絡まない良い酒を飲める相手というのは貴重ではあるが、それが山での幹部となると椛は恐縮してしまう。
「……考えても仕方ないでしょうけど」
どうだっていい事、そうに違いない。そもそも組織で生きているにしろ、椛はその主流から遠くに自分がいることくらいは分かっている。しかし、その自分にやけに構う文は間違いなく主流派だ。
寝息を立てる文を家まで送り届け、椛も家に戻ろうとした。その時、文が目を覚ました。玄関を開けて帰ろうとする椛に待ったをかける。
「こんな無防備な私を一人で寝せる気ですか。あなたもここで寝なさい」
文が立ち上がってふらつきながら椛にもたれ掛る。
「射命丸様⋯⋯勘弁してくださいよ」
「嫌です」
文が椛を掴んで離さない。駄々っ子のようだ。
「も~み~じ~ィ」
「あああ、もう。分かりましたよ。だから布団で寝てください」
酒で半ボケのような文をどうにか部屋に連れていき、布団を押入れから出して文を寝かす。
「ほらほら、椛さんもこっちに。一緒に寝ましょうね」
「……射命丸様、流石に、それは」
「逆らうつもりですか?」
「……はい。隣で寝かせてもらいます」
「お堅いですね。こんな魅力的な女性をほっとくだなんて。この石部金吉」
「なんとでも」
文が不貞腐れるように向うを向いた。
椛は勝手に畳の上にごろ寝をした。この季節はまだまだ掛布団がなくても快適に寝ることが出来る。
「おやすみなさい」
「お休みなさい、射命丸様」
翌朝、椛は鈍く痛む頭を引きずりながら畳から背を起こした。文はまだ起きないようだ。かくいう椛も非番だが、いつもの習慣で日の出と同じ時間帯に起きてしまったらしい。
さてどうしたものか。文を起こさないようそっと部屋の外に出た。軋まないように廊下を歩くと、台所があった。
「⋯⋯朝飯くらい、作ってもいいだろう」
寝起きで大したものはつくれないが、それでもコメを炊いて、みそ汁を作るくらいは出来るはずだ。
勝手に開けるのは気がとがめられたけど、米櫃を開ける。綺麗な白米が入っていた。
「いいなあ、銀シャリかあ……」
鴉天狗は地位も高い。給金も雀の涙の白狼天狗と違い、高いのだろう。安い麦飯ばかりの椛とは雲泥の差だ。
「ああ、そうだった。干し肉が切れてたな。作らないと。さてと……」
水瓶から水を出してコメを入れた桶に入れて研いだ後、乳白色の研ぎ汁を切る。それを窯に入れると、今度は竈に木を積み火種を入れる。これが面倒な作業だ。この小さな火種に絶えず竹筒で空気を入れて火を大きくさせなければならない。
火の熱さでうっすらと汗ばむ頃、ようやく火が安定してきた。窯に蓋をし、ある程度ほおっておく。その間にもう一つの鍋に張った水にイリコを入れて沸騰させないよう気をつけながら出汁を取る。
それにしても、と椛は火から目を離して息をつきつつ、台所を見渡した。
いつ来ても大きな家だと感じる。文がどんな生活をしているのかは知らないが、一人には持て余してしまうほどの空間がある。この台所だって、一人用にしては大きすぎるほどだ。広々はいい事なのかもしれないが、狭い場所が落ち着く椛からすれば何の活用もされない空間がこうも多くあると落ち着かない。
おっと、まずいまずい。味噌汁の鍋が沸騰しないうちに味噌を入れてっと。お玉と箸を使ってしっかりと味噌を溶く。沸騰させるのは御法度だ。味噌の風味が吹っ飛んでしまうのだ。
そのうちにご飯も炊けるはずだ。その前に味噌汁を飲んで荒れた胃を癒すことにしよう。
結局朝食を済ました後も文は目覚めることなく、椛は書置きを書いて文の家を後にした。居心地は良いのだが、何というか文の家はそのせいでずるずる居座ってしまいそうになるから怖い。
味噌汁は蓋をしてある程度の保温が利くようにしていたが、はたして文は温かいうちにたべてくれるだろうか。それとも貴重な食料を無断で拝借したことを怒るだろうか。
文の家からほど近くに椛の家がある。
否、これが家と呼べるものだろうか。先ほどまでいた場所が家なら、これは小屋というべきシロモノである。
六畳一間の家の中は殺風景極まりなく、囲炉裏を中心に衣服の入った葛籠、畳まれた布団、後は山から支給された剣と盾、自作の弓、釣竿。これで全てだ。
「やれやれ。もう少し寝て、狩りに行くか」
布団を敷いて、横になる。本来明日も休みだったから、今日は狩りに行かずノンビリと釣りでもするかと考えていたのだ。ただ、仲のいい知り合いが今月三回目の法事をするらしく、立て続けの不幸に見舞われた知り合いの代役を椛が頼まれ、休日が無くなったのだ。
しかし、不運な奴だ。まさか一月に三人も身内が亡くなるだなんて。
それを文に話したら、引き攣った笑いと共に残念ねと帰ってきた。なんであんな顔をしたのかなと、椛は何となく気になった。
とはいえ、仕方ないので椛は少しの仮眠を取って狩りに向かう。そうしなければただでさえ味気ない食卓がますます惨めになる。
「ん……こんな所かな」
弓を片手に、椛は獲物を縄に結わえていた。
戦果は上々。これならしばらくは困らないだろう。夜の帳はすっかり落ちていて、家に帰る前にすきっ腹をなんとかしようと椛は開けた場所に出ると、枯れ木を集めて焚き火をする。さっきまで暗かった場所が、焚き火によって明るくなる。
「腸を抜いて……っと。羽もむしっとこう」
明るくなったので細かい作業をする。小刀で、鳥の腸を抜いて血抜きも済ませる。少々血生臭いが、あまり気にしない性質である。
「やあ」
不意に声がかかった。誰だ、と思う前に、見知った顔が焚き火の脇にいたので、安堵する。
「あまり驚かさないでくれ、にとり」
「まさか、驚いたのはこっち。そんな物騒なモノを向けないでよ。こわいなあ」
椛は無意識ににとりに向けていた小刀を回して戻し、獲物の解体をまた始めた。
「そっちが怖いならこっちも怖いんだ。しかし珍しいな。ここら辺に川は無いはずだが」
「見えないだけだよ。あるにはある。教えないけど」
「そうか。これいる?」
小刀で捌いた獲物をさし出すと、嬉しそうに河城にとりはそれを受け取った。
「好物だ、ありがと」
「そりゃよかった。そこで炙って食べるといい」
「どもども、それじゃ……」
舌なめずりして、にとりが串刺しにした鳥の正肉を火に近づけて、炙り始める。
にとりは椛の数少ない友人だ。器用な河童という事もあってよく刀を研いでもらったりしているうちに仲良くなった。椛も研げないことはないのだが、にとりが研ぐと切れ味が段違いによくなるのだ。
「もうすぐ山のお祭りだね」
「そうだな」
山では秋に豊穣を祝う祭りをする。大がかりなもので神楽に管弦と様々な祭事があるため、半月近い準備期間を要する。
「毎年楽しみだよ。椛はまた……」
「ああ、今年も射命丸様のお世話を仰せつかってる」
お前だけが頼りだ、と文もかすむほどの山の幹部から直々に言われた一昨年以来、椛は文の世話係という有難くない役職を仰せつかっている。
一昨年の事はもはや思い出したくもない。酔っぱらって悪乗りした文に振り回されまくり、その後始末の一切合財を押し付けられた。
文の酒癖はよろしくない。山の幹部候補生というのは余程鬱憤が溜まるもののようで、下っ端には理解できない感情だ。
「なんでかな、あの人。やたらと椛に絡むよね」
「どうにもそう認識されたんだろう。まあ仕方ない。私には分からない難しいことが色々あるんだよ」
「へえ、椛はそういう事に興味ないもんね」
「ないよ」
白狼天狗の組織なんてただでさえ煩わしいのに、出世なんてしてしまったら、もっと面倒になるに違いない。確かにそろそろベテランになりつつある椛だが、栄達や昇進よりも自由の利く方がずっと気楽だ。そもそも自分に人を率いる才などありはしない。
「苦手なんだそういうの。面倒じゃないか。射命丸様もそうだけど、皆出世とかに興味を持っているのが不思議だ」
「あらまあ、そのために躍起になっている人もいるのにねえ」
「それは勝手にすればいい。どうでもいいから」
にとりはそう答えた事に面白味がなかったらしく、ちょうど焼けた鶏肉にかぶりついた。塩くらいしか振っていないから淡白な味だろうが、旨そうに頬張る。
「旨いね」
「そりゃよかった、でもこれ以上は無理だよ。私のご飯のアテだから」
「分かってるって」
そう言ったはしから、にとりはもう一つ串に刺していた鶏肉をかっさらう。手癖の悪い奴め、と軽く叩くと舌を出しておどけた。
こいつめ。今度あったら予備の刀まで研いでもらおう。タダ働きだが、鶏肉代といえば嫌な顔も出来まい。
「っと、どうでもいいけど。もう遅いよ。帰った方がいいんじゃない?」
にとりの言葉でハッとする。そろそろ寝なくては確かに明日が辛い。
「すまない。川があるなら水を汲んで来てくれないか?ダメならいいんだが」
「面倒だからやだ。じゃあね」
言うが早いがにとりは焚き火から離れ、フラッと暗がりの中に溶けるようにいなくなった。椛は盛大に燃える焚き火をほっとくわけにも行かず、幸い近くあった池に上着を浸けて水をしみこませ、それで焚き火を叩いて火を消すことにした。
焚き火はちょっと無計画すぎたな、と後悔したのは、それが結構時間をくってしまい、寝不足のまま勤務に就いた翌朝の事だった。
台所からいい匂いがしていた。芳しい味噌の香りだ。文は布団から起き上がると、目を擦りながら台所に向かう。
文はこの家があまり好きではなかった。山のエリートである鴉天狗の家というのはどうにも大きめに造られているが、こうも持て余し気味だと何かもったいない気がする。いくら家が大きくたって一人で使うには限界というものがあるのだ。
「まったく……不便な家です」
椛の家の方が余程機能的な気がする。当然か、あれは余分なモノをほとんどそぎ落としたような家だから。無駄なものが一つとしてないなら、洗練された機能的な家となるのだろう。
「もーみじ……あれ?」
てっきり台所にいる椛が、ネギでも切っているだろうと思ったのだが、其処には誰もいなかった。
机の上にメモがあった。椛の字らしく、読めるには読めるが汚い字だ。きちんとトメ撥ねが出来ておらず、ミミズがのたくったようにすべての線が繋がっている。
『朝ご飯、作っておきました。よく眠っておられたので起こさずに帰ります』
簡潔なメモ書きだ。謹厳実直というか遊び心がないというか……椛にもっと愛想が良ければ人気者になれるだろうに。
実際山での椛の人気は高い。知らぬは本人ばかりなりというところで、そっけない態度と生真面目に過ぎる性格でその手の会話が耳に入らないらしい。そのうえ人付き合いが苦手な彼女は、一人でなんでも過ごすことが多い。
「良い子な分、ほっとけないんですよねぇ……あ、美味しい」
この通り美味しい味噌汁も作れる。
それにしても昨日は悪乗りが過ぎた。酒の勢いにつられてだったが、本音がつるりと出てしまったのだ。
「もったいないというか……無欲がすぎますよ」
無欲が過ぎるというのは組織の中では良い意味でもあり悪い意味でもある。文としては、椛の不器用さは承知していても、何となくもどかしい。
「……もうすぐ、お祭り、か」
文は窓の外を見た。良い天気だった。
ふっと、昔の記憶がよぎった。大雨の夜の、忌々しい記憶。
「……私は何が、したいんですかね」
白狼天狗の詰所は、いつも通り同僚で溢れている。哨戒は交代制で行われているが、もはやある意味形骸化した向きもあるため緊張感はない。
あるとするなら、せいぜい出世したがる極々一部の部隊長達だけだ。逆に言えばそのくらい白狼天狗というのは軽んじられているともいえる。
誰もがのんべんだらりと過ごす中、椛は同僚のザル碁をボォーっと見ていた。秋も近づく今はそこまで暑すぎず、寒すぎもせず、昼寝にはちょうど良い時間帯というのもあってまどろみ始めていた。
「おいこら、起きろや」
「んあ……なんすか」
「お客さんだよ、はよいけ」
寝そうになっていた椛は、同僚のちょっかいで起きる羽目になった。
椛は眠い目を擦りながら、詰所の入り口に向かった。外は直射日光の為、少し暑い。
外にはツインテールをした鴉天狗が立っていた。確か文の同僚の姫海棠はたてだ。あまり面識はないが、一応上役なので礼をしておく。
「おはようございます姫海棠様」
「うん、おはよ。ちょっといいかな」
「はい、構いませんが」
呼んだのはそっちだろ、とは流石に言い返せない。これもまた身分の差だ。
はたては肩掛けの物入れに手を入れて書類を取り出した。
「大天狗様からの伝言。犬走椛、右の者、山の祭事の準備期間において現場監督を命ず」
「は?」
一瞬、口調がぞんざいになるくらい、椛は驚いた。
「ちょ、ちょっと……姫海棠様?」
「何?冗談で言ってるわけじゃないよ。はいこれ」
差し出された書類を隅から隅まで目を通す。御丁寧に、大天狗の花押まで付いている。つまるところ本決まりという事だ。
「なんで私が?」
「あれ聞いてないの?」
「いや、その……私やりたいとか一回も言ってないですけどっ!?」
食って掛かる椛に、はたては戸惑いながら答える。
「文の強い推薦があったらしいんだけど……まーいいじゃない。これは出世の一里塚なんだし」
いいじゃないなんて言われても、椛は少しも嬉しくない。むしろ出世意欲の強い先輩や隊長方に譲りたいくらいだ。
文も文だ。椛が出世や昇進に興味を持たないのは彼女が一番知っているはずなのだ。
「それでね。取りあえず打ち合わせがあるから、ついてきてくれるかな」
「……分かりました」
椛は踵を返した。詰所を開ける手続きが必要だからだった。
山の上層にある大天狗をはじめとする幹部に会うには関所を通る必要がある。文やはたてのような幹部候補生の鴉天狗ならともかく、椛はこの場に入ることは許されていない。現に番人の天狗は怪訝な顔をしていた。
「今日より祭りまで、この白狼天狗の通行を許す」
という大天狗の花押入りの書類があって初めて、椛は通行を許された。
大天狗の屋敷は椛のあばら家など問題にならないほどの大きさだ。山の本部も兼ねているので必然的に大きくなっているのだろう。門から家までの飛び石は、踏むのも憚られるほど綺麗に磨かれている。
「おや、椛さん。こんなところで奇遇ですねえ」
「射命丸様……」
飄々とした文に、椛は顔を渋くする。文も呼ばれていたらしい。
「あの、良いですかちょっと」
「ん~?あ、お礼ならいいんですよ。この前のお味噌汁のお礼ですし。それにあなたくらいのベテランなら現場での仕事も慣れたものでしょう」
「で、ですが……私には統率力がありません。はっきり言いますが辞退させていただこうと思っています」
「無理ですねえ」
文はあっけらかんと言い切った。
「な、何故です?」
「もう辞令はおりました。それにこんなさっさと辞退してもらったら、推薦した私の面目丸つぶれです。出来ないなら出来ないなりに頑張ってください。なだめすかしてやらすのもいいし、もので釣るのもやり方です。それに」
文はしっかりと椛の目を見据えていった。
「貴女もそろそろ出世してください」
出世してくださいって……私は生涯一兵卒でも全然かまわないのだが。
「じゃあ椛さん、ついてきて下さい。なにせ大天狗様の屋敷は広いですからね。迷わずについてきてくださいよ」
「は、はあ……」
なんとなく上手く躱された気がする。いつだって文は飄々としているから、きつく問い詰めても暖簾に腕押しというか、労力を無駄に消費するだけの気がしてしまう。
綺麗に整えられた松の道を文とはたて、それに椛が何歩か後ろからついてくる。
「なんであの子に?」
はたてが椛に聞こえないよう声を潜めて聞いた。
「何が?」
「もっと候補がいたでしょうに。毛並みの良い奴。どう考えても椛はそうじゃないでしょ?」
「別に毛並みが仕事するわけじゃないし、それに椛は場を与えれば働く子よ」
「依怙贔屓?」
「ない……とも言えないかな。ま、働いてくれさえすればいいんでしょ。なら問題ないわよ」
ちらりと、はたては椛を見る。女性にしてはがたいが良く、目つきが良いとは言えないが、何処となく愛嬌がある。確かに評判は悪くないが、言っちゃ悪いが普通の白狼天狗だ。
「言い方は悪いけど、あの子生真面目って聞くわよ。臨機応変な対応を求められる仕事にあの堅物でいいわけ?」
「よく言うでしょ?頭が切れて野心のある奴より、頭も無くて野心も無い奴がましな場合もあるってやつ。あの子は割と頭が切れない訳でも無し。それに野心は持ってほしくなるくらいに無いから問題なし」
「ホントかしら?」
ひそひそ話はそこで途切れた。これから大天狗に会うのだ。身なりを整え、緊張感を持つ必要があった。
「ほう。今年は若手が担当するのだの。結構結構、いつまでも苔むした老人が上に居るのはいかんからなぁ」
大天狗は広間の上座で、長机に肘をついてそう言った。上座に大天狗。そこから左右に分かれて御歴々がずらりと並ぶ。文とはたては座列の真ん中に座った。
椛は何処に座ればいいのか見当もつかない。硬い表情の文やはたてに聞くのもなんだし、右を向いても左を向いても山での一定の地位のある者ばかりであるから、恐縮してしまう。
仕方なく目立たないよう、椛は末席のそのまた向こう、つまり部屋から出、襖の裏で聞こうとした。こっちの方がまだ気楽だ。
「そこの。白狼天狗の……そうじゃ、犬走だの。何をしておる?そこでは話も聞こえんだろう?」
すぐさま大天狗の視線が、椛に突き刺さる。大天狗は山の頂点であり、組織の長でもある。本来なら、椛などお目通りのかかることも出来ないような存在だ。
当然かもしれないが、椛は酷く緊張した。いかに、いかに組織内の栄達に興味がないとはいえ、これとそれとは別問題。下手を打てば打ち首もあり得るのだ。口の中が乾いていくのが分かった。
「は……はっ。御歴々の邪魔にならぬようにしております」
椛は正座をして、目深に頭を下げる。畳の井草の本数が見えた。
「ほう。中々に分を礼をわきまえておるの。だが、今は祭事をどうするか、という会議じゃ。それなら、貴様がそこで聞くのは、好ましくないのう。現場を統率する貴様が全体の流れを知らぬと、粗相してしまうぞえ。のう、射命丸?」
「は。私から伝えますので、少々お待ち下さい」
この会合が始まってこの方、ずっと頭を伏せていた椛には、御歴々の顔も、大天狗の顔も見えてはいなかった。もちろん文の顔も。
文が椛の前でかがむ。肩に手を置かれると、冷えた声が聞こえてきた。
「末席に座りなさい……ったく。言われなきゃ出来ないなんて、犬ですかあなたは」
むっとするが、言い返せない。恥を忍んで文に聞いていた方が手っ取り早かったろうに、らしくもなく見栄を張ってしまった。そのくらい冷静じゃなかったという事だろう。
椛は顔を上げて、部屋に入ると末席に腰を下ろした。横にいた鴉天狗がムッとするのが分かった。白狼天狗がここに居るのが、純粋に面白くないのだろう。まあ当然か、椛だって場違いなところに居るなとは感じているのだ。
会議は伝達事項のみで終わった。椛のやることは河童や白狼天狗の統率を行い、祭事の舞台や道の整備をすることのようだ。
「なんだってこんな目に」
帰り道、一人で自分の家に帰っている時だ。ぽつりと、こんな言葉が口に出た。
本当、なんでこんな目に。
今度は心の中で思う。こんなことは隊長方やベテランの白狼天狗に任せればいいのだ。それか名誉隊長とかにして鴉天狗の若手に任せてしまえばいいのに。何故私が。
意味も分からず、推挙した文の真意も読めない。
考えてみればあの人は何故私にこうも構うのだ。直属上司とはいえ、文が構う理由がそれだけとは思えない。そもそも上司とはいえ、白狼天狗と鴉天狗なんてそれこそ奴隷と主人みたいなものだ。
「何がしたいんだ」
そこまで考えて、何となく自分が犬みたいに思えてきたので、椛は考える事を止めた。
椛のキョトンとした顔を思い出すと、文はほほえましくなる。意味の分からない大役を意味の分からない内に請け負ってしまった椛は、混乱しつつもやるべきことをしっかりとこなしているようだった。
「あの白狼天狗。なかなかやるのう。ええ奴を推挙してくれて礼を言うぞ。射命丸」
大天狗は屋敷の中で、書類と格闘しながらそう言った。文は最敬礼でそれに答える。
文の二倍はありそうな大柄な大天狗にとっては大きな屋敷も狭そうだが、隠居を仄めかしている彼にとってはここが終の棲家になる。彼にとっては最後の仕事がこの祭事なのだった。
「あの白狼天狗。犬走といったな」
「はい。左様ですが」
「貴様。贖罪のつもりかえ?」
大天狗は静かに、文に向けてそう言った。
「どうですかね。実際その意識はあると思いますよ」
「なんじゃ。他人事みたいに言うんじゃな」
「私だって分かんないことくらいありますから」
「自分の事なのにかの?」
「大天狗様も、そういう事はあるでしょう?」
「成程。それもそうか」
面白そうに笑った後、大天狗は帰るように言った。文はそれに従った。
山は、本格的に秋めいて来ていた。日没が早くなり、日の出が遅くなり、だんだん涼しくなってきている。紅葉が色づくのもそう遠いことではない。祭事の頃には見事に茜色に染まった紅葉で、木々が彩られるだろう。
「いっそ一年中、この季節が続いてくれればいいのに」
そんな独り言を口づいてしまうほど、文にとってこの季節は好ましいものだった。いつも持っているカメラを構えて、葉の色が変わりかけていた木々を写真に収める。夏ほど瑞々しい感じはしないが、何処となく寂寥感のある森の写真が撮れた。これもまたネタに出来るだろう。
―――贖罪のつもりかえ?
さっきの大天狗の声が、耳に残っていた。
贖罪。罪の償い。成程、椛に対しての態度はそれが正しいのかもしれない。
でも、罪を償う、というのはまずそれを償う相手にそれを伝えてから行うものではないのか。だがどうすればいいのだ。伝えてしまえば、椛は私を軽蔑するだろう、蔑むだろう。当然だ、私はそれだけの事をしてしまった。
嫌だ、それだけは嫌だ。絶対嫌だ。
「……これはこれで、天罰なのかもしれません、ね」
憂いた表情で、文はそう呟いた。
「どういうつもりだと思う?にとり」
にとりの工房で椛は言った。
「さあね。うーわ、こりゃあ酷い。全く椛には繊細さってものが足りないね。見てよこの刃こぼれ。本当に剣術を習ったの」
にとりは砥石から椛の太刀を持ち上げて、そう言った。
「習ったよ。ただ、実戦では技よりも力任せに振った方が手っ取り早くてさ」
「泣かせるねえ。こっちは全身全霊をかけて加工して点検してあげてるのに」
「有難いけど。それなら刃こぼれもしないほどに頑丈にしてほしい」
「分かってないね。これは美学だよ。美しい太刀は脆い。ロマンだよね」
「ロマンより現実だ」
どうでもよさそうに、にとりは手を振ってそれに応じた。いけないいけない、話がずれた。
「だから射命丸様だよ。何考えてんだか……一つ聞くけど私に統率力なんてあると思う?」
「知らない。だって椛がまともに共同作業なんてしてるの見たことないし」
そういえばそうだった。
「椛も長々一兵卒な訳だし。ここらで昇進させとこうっていう上の温情じゃない?」
「嫌だな、そんなの」
にとりは太刀を磨く手を止めた。椛は言葉をつづける。
「このままが気楽だし。満足してるんだ私」
「欲がなさすぎて偽善めいて聞こえるくらいだよ、椛」
にとりが刀身の水をふき取る。如何やら研ぎ終わったらしい。艶めかしいつやが、刀身が極限まで研ぎおろされた事を示している。
「まあ、それもそれでいいんじゃないかな。満足してるなら。でも引き受けた以上は気をつけてこなしなよ。少なからず信頼を委ねられているんだから」
「分かってる。じゃあ、これで」
幾分軽くなった太刀を持って、椛は工房を出た。
祭りの準備は中盤を迎えている。最初は勢いで出来た事もあったが、そろそろ息切れが近い。ここからはやる気をどう維持させるかに、神経を集中させた方がいいだろう。
ふと空を見上げた。日没も大分早い時間になった。最近は忙しく、空を見上げる暇もないという具合だ。椛の好きな夕暮れもあまり見れていない。
「やっぱダメだよなあ……」
こう忙しい日常はやっぱり馴染めない。だからダメなのだ、とは様々な方面から言われる。
椛からすれば、早いところこんな忙しない生活は早く切り上げたい。皆祭事に向かって準備に練習にと忙しいのに、椛は何処かその流れに乗り切れていない。心のどこかで、忙しい自分に対する違和感を感じている。
いや、それよりも文の事だ。不思議とあの会合以来会ってないのだが、真意が読めず、文も何かよそよそしい。晩夏の頃のずうずうしさが鳴りを潜め、気の成果もしれないが、身も潜めている気もする。
「何なんだろうなあ、煮え切らないなあ」
そんな思いが、ずっとあった。
秋だというのに、酷く寝苦しい。この季節になると思い出されるのは、あの事ばかりだ
「………」
起き上がって、行燈に火を灯す。秋の夜の長さは文の好みに合わない。
文は、夜が嫌いだった。あまり夜目が利かないせいで、一寸先が見えない。
それ以上に、文は怖い。あの暗闇から、何が飛び出てくるのか、とか考えてしまうと、もういけない。文は布団から出ることもできなくなってしまう。
椛は、怖くないのだろうか。暗い中で狩りをしているという話はよく聞く。文には、とても真似できない。
「ん……」
本棚から、椛はアルバムを取り出す。
「ああ……これだ、これだ」
文は何枚かの写真を取り出す。椛ともう一人、壮年の男性が写っている。
「……仕方ない、仕方のないことだったんです……」
言い聞かせるように、呟く。だからどうにでもなるものでもない。
「……嫌です。言いたい、言いたくない、言いたい……」
写真に水滴が付く、慌てて、文はそれをふき取った。
祭事はもう明日だった。こういう用意事は、本番前が一番忙しい。特に本番でも様々な雑事を申付けられる椛は、席の温まる暇もないという忙しさだ。
精々が設営の本部の休憩所で冷たい水を飲むのが、椛の唯一の気の休まりだった。
だが、その忙しさとは裏腹に、椛の顔は晴れやかだ。曲がりなりにもこうして順調に設営は出来た事だし、細々した雑務も片付け含めてあと何日かとなると気も楽だ。
「お疲れ様、椛」
休憩所には、はたてがいた。差し入れと言って水菓子をくれた。涼しくて、喉の通りがいい。
「姫海棠様。ありがとうございます」
「言いづらそうだからはたてで良いよ。私自身も良く噛むし」
「……はたて様?」
「……やっぱいいや。違和感凄すぎ」
自分から言っといて、と軽くなった喉からするりと本音が出そうになったが、何とか堪えた。
「そんな事よりさ。最近文とはどうなの?」
「あんまり、会ってないです」
はたてはのどかに茶を啜る。椛はさっさと戻らなければならない。後はせいぜい看板を立てるくらいのものだ。大事はもう済み、細々したものだけが残っている。
「そう。ま、その、大変よね」
「どうですかね。少し心配ですけど」
正直、あまり構っていられない。それくらいに忙しいのだ。慣れたが、どうにも気分がよろしくはない。出世だの昇進だのというのが、やはり肌に合わない。それが分かっただけでも、めっけもんだろう。
文には、そのうち話そう。自分には合わなかったと。実際比較がないから分からないが、視察に来る上役の顔がそう険しくなかったところを見ると、悪くはなかったらしい。
「それでは、私は行きますので……」
「ん。がんばってよ」
はたては、顔見知りを見つけたらしく、その人と話していた。椛は現場に向かって歩き出した。
休憩所から現場までの間に、椛はうっかり帳簿を休憩所に忘れてきてしまっていた事に気付いた。あれが無くては、作業全体の進行具合の把握が出来ない。面倒臭かったが、椛は引き返した。
あったあった。やれやれ気が緩んでいるな。
椛は帳面をしっかり携え、また現場に戻ろうとした。
「しかし、あの文にも情ってものがあったのよね」
声が聞こえた。はたての声だ。さっきもいた顔見知りの鴉天狗とだべっていた。
「そうねえ。しかもあの犬走の娘でしょう?あの子。よくもまあ、しれっと出来るわよね」
鴉天狗の女性がそれに応じると、はたては勢いに乗ったように続けた。
「出来るに決まってるわ。文はあの子に教えてないもの。なにせあの時椛はいなかったし。誰もが見て見ぬふりをしていたんだもの」
「なんで知らないの?あの子」
「……ここだけの話だけどさ。椛の親父さんは白狼天狗の大物だったでしょ?で、文はこの人を殺さなきゃならなかった。となると、あちこちに根回しが必要になったの。皆、口噤んじゃったわけ。知らぬは当人ばかりなりとはね。あの子も可哀想っちゃ可哀想よね。親の仇に言い様に使われているわけだから」
椛は、背が冷えていくのが分かった。
親の仇が文?何が何だか分からない。
確かに、椛の父は何年か前に行方不明になっている。誰も行方を教えてくれなかったのも確かだ。
「姫海棠様」
いきなり現れた椛に、はたては泡を食って慌てた。連れの鴉天狗も目を白黒させている。
「も、もも、椛っ!?」
「その話。聞かせていただけますよね?」
山の祭事が始まった。
いつもは静かな山ではあるが、祭事ともなれば話は別だ。来賓も多数来訪し、天魔や大天狗などの重鎮がそれらをもてなしている。
「随分と、賑わっていますね……」
文は、取材をするため奔走していた。多数の来訪客に話を聞き、ネタを集める。
賑やかな雰囲気の山とは裏腹に、文は最近沈んでいる。単純に眠れないのだ。
いつもこうだ。秋のこの季節、文は一時の不眠症に陥る。
「……私は、まだ、許されませんか」
紅葉が、毒々しいまでに紅い。
赤は、嫌いなのだ。あの嫌な記憶が、より鮮明になるから。
誰もいない広場で、文は休憩した。疲れて来ていた。
「射命丸様」
振り向いた。椛だ。腕章をつけ、誘導員をしていたらしい。
なんだろう、なにか……剣呑だ。いつも以上に目つきが鋭いような。
「お時間、とっていただけますか?」
聞いている、はずだ。なのに、拒否することを決して許していない。
分かっている。これは、怒りだ。
「あ、いや。この後取材がありまして……」
「すぐ、済みますから」
「急いでいるので」
では、と行こうとして、文の肩を椛が掴んだ。
振り払えない。単純な力では、文より椛の方が上だ。
「射命丸様」
「何をするんですか、離しなさい」
手を振り払おうとして、椛と目が合った。
切れ長の、鋭い目が文を射貫いていた。
椛の手が、文の胸倉を掴む。シャツの一番上のボタンがはじけ飛んだ。
「なぜ、父を殺した……っ!」
憤りを抑えきれないような声で、椛が耳元で静かに怒鳴る。
誰が言ったんだ。ばれないように、根回しはばっちりだったはずなのに。
「な、何のことですかねえ……ひっ!?」
椛が腰元から短刀を出して、文の首元に押し付ける。冷たい刀身が、酷く怖かった。
「黙れ。誤魔化すな。なぜ殺した、教えろ」
「……殺したい、ですか。私を」
「………」
「貴女の御父上は、立派な方でしたね」
文は、素直にそう思っていた。
椛の父は、この目の前の不愛想な娘と同じように無口な白狼天狗だった。
「離しなさい。離せば、教えますよ」
「……あなたは嘘つきだ」
「ええ。ずっとあなたを騙していた」
「……認めたな」
文の首から、短刀を離す。文は逃げなかった。
「そうです、あなたの御父上を殺したのは――私ですよ、椛」
「何故、そんな事をした?」
「上の命令ですよ。私も、あなただって、この山に置いては歯車に過ぎません」
ですがね、と一拍置いて文はつづけた。
「上は怖かったのですよ、あなたの御父上が。確かに無口で大したことのない一介の白狼天狗に過ぎないお人でしたが、求心力、人望と言った点ではこれ以上ないお人でした。そんな白狼天狗が、反乱を企てたらどうします?成功、失敗いかんにかかわらず、前例に従う奴等が後を絶たなくなるでしょう。そんな奴らが天魔様や大天狗様に敵うとは思えませんが、組織は崩壊します」
椛は黙って聞いていた。文が逃げるとは微塵も考えていないようだった。無論文も逃げる気など毛頭ない。
「尤も、本人は謀反など全く考えていないようでしたがね、あの人は。野心がないんですから。あなたのように」
続けようとした文より先に、椛が口を開いた。
「あなたは、父と親しかった。あれは、利用するための撒き餌だったのか?」
「さあ?今更どうでもいいでしょう、それは。だからどうしたという話です」
椛は、そこで黙った。彼女にしても大した興味のある話ではなかったのだろう。
「私が選ばれたのは、さっきあなたが言ったように、御父上と私が顔見知りだったというのもあります。あの人はお人よしでしたからね」
殺される前の、あの顔が浮かんだ。あの夜以来、忘れられない顔だ。
「今頃でしたよ。雨の降っていた夜でした。私は酒を片手に、あなたの御父上の家に向かいました。戸惑っていましたけどにこやかに迎えてくれましたよ」
「そうだろうな。まさか鴉天狗が強盗の真似事をするとは思ってないのだから」
椛は険しい顔を崩さずに言った。そうだった。その通りだった。
「中に入って早めの晩酌をしていた時、御父上はあなたの写真を見ながら言ってましたよ。妻の忘れ形見だが、出来た子です。ただ社交性に欠けますが。とね。そしてその後、私が隠していた短刀で斬りました。ちょうどさっきあなたがしたように」
「それで、どうした?」
「私は、返り血を落として、雨の中帰りました。あなた方のような鼻の利く方々を振り切らねばなりませんでしたから」
「私にその後、平然と会っていたのか」
「ええ。たかだか犬を始末しただけですので」
ばれないでくれ。この嘘だけは。
椛の顔はますます険しくなる。喉笛を食いちぎられそうだ。できればそのまま食いちぎってくれればいい。そうすれば、最高の贖罪にならなくもない。
「お前は、お前は――――あああああっっ!!」
堪えきれなくなったのだろう。椛が、文の肩を突き飛ばして、寝転ぶような態勢になった。
短刀を振り上げる。そうだ、刺せ。そのまま刺して私を殺してくれ。それで終わりだ。
突き刺さる音が聞こえた。喉元に短刀が刺さって――いない。短刀は文の耳元を掠めて地面に刺さっていた。
「な、何故刺さないのですか。殺しなさい、殺せ!私を殺せばいいじゃないですか!」
大声で、わめく文に対して椛は鉄仮面のように表情を崩さない。
「……お前は、死ねば逃げられると思ってるんだろう?」
ぎくりとした。その通りだ。まるで見透かされている。
「私は、あなたを殺さない。手が穢れる。そしてあなたはずっと後悔し続けるんだ。生きている限り」
背筋がゾッとした。やめてくれ、殺してくれればこんな悪夢も終わるんだ。ずっとあの目を、あの顔を忘れられないのか。
「私は許さない。忘れることも、逃げることも」
椛は、立ち上がって、短刀を収めた。待て、待ってくれ。助けてくれ、殺してくれ。この生きている限り続く悪夢を、終わらせてくれ。
「私は」
文は、こぼした。
「私は救われないんですか。ずっとあなたの御父上が暗い場所から、私を見ているんです。眠れないんです。だから頼みます。私を殺して、ください……」
文は跪いた。顔はぐしゃぐしゃになっている。どうだっていい、体面もメンツも。
「知らないね。なら好都合だ。死ぬまで苦しんでいろ」
冷たく言い放って、椛は広場を出ていった。その場には、泣いている文が一人残された。
祭事に戻った椛は、大きく伸びをした。切り替えなくてはならない。少なくともこの祭事が終わるまでは。
文との関係は、もう知った事ではない。
見回りをしながら、椛は休憩所に入った。険しい顔が崩れない。やはりあんな事があった後は、心平穏とはいかないのだ。
「うわ、椛。怖い顔してどうしたのさ」
「にとりか。何でもない。大したことじゃない」
「ふーん。まあいいや。何かいる?氷水があるよ」
「そうか」
にとりはあまり突っ込んでこない。楽だった。なんでもかんでも首を突っ込むあの鴉天狗に比べると雲泥の差だ。
駄目だ、どうにも文の事が気になってしまう。だからと言って、何がどうという事もないが。
しばらく休むことにしよう。外はそれなりに賑わっている。
「いやいやいや、大ニュース大ニュース。天魔様がこちらに来られるらしい。全員身元を整えとけよ」
休憩所がざわついた。紛う事なき、山のトップのお出ましだ。誰もが緊張した面持ちで、一列に並び気をつけをする。
大天狗を従えて、天魔は姿を現した。見かけは小柄な老婆だが背筋がきちんと伸び、主張しすぎないほどの折り目の正しい着付けをされた着物。威厳とは一つ違う何かを持った柔和な顔立ちをしている。
「畏まらなくても、結構です」
天魔は区切りをつけて、柔らかな声を出す。
「あなた方の、尽力により、今回の祭事も、成功をおさめられたこと、ここに感謝します」
天魔は、会釈をした。その飾り気のない礼は、椛の目から見ても気品に溢れていた。
天魔はその後、一列に並んだ天狗たちに一言ずつ言葉を言った。
椛の前に来た天魔は、一瞬何かを躊躇うような顔をした後、尋ねた。
「あなたの名は、何というのですか?」
椛は、何を言われたのか分からず、呆けてしまった。同僚が肘で小突いてくれなくては、そのまま呆けていただろう。
「い、犬走、と申しますが……」
天魔は、目を伏せた。
「……そうですか。あなたは現場監督として、頑張って下さって、ありがとうございました」
それだけ言って、天魔は次の天狗に向かった。
祭事もたけなわだ。夜の暗闇が加わって、騒ぎは大きくなる一方だ。
椛は一歩下がって一人で酒を呑みつつ、その喧騒を眺めていた。別にその輪に入って酒をかっくらうのも愉快であることはよく分かるのだが、何故かその気にならない。
「切れちゃったか。椛も」
椛の傍らで、同じように酒を呑んでいたにとりが、そう言った。別に彼女に、先ほどの事を伝えたわけではないのだが。
「随分詳しいじゃないか。にとりも知ってたのか?」
「うんにゃ。知らなかったよ。あの人はきっちりした人だから。根回ししてたんじゃないかな?」
「だな。私も分からなかった。知ろうとしなかった。父は、その、行方不明もどきなんてしょっちゅうだった。だからかな」
「いつかひょっこり帰ってくると?」
「そう」
実際そうだった。いつか家の前に立っているのでは。すまなそうに笑いかけてくれるのでは、と思っていた。
呑もうとして徳利を取ろうとして、目の前からひょいと消えた。飲み過ぎかと思い、顔を上げる。
「……ったく、協調性の欠片もないって噂は本当ね」
はたてだった。呆れたように、机に並んだ徳利を見て言う。
「下戸のあなたがやけに良く飲むわね?」
「あ、こいつですよ。飲んでいるの。私は専ら食べる方専門でして」
「ああ、そう……でさ、今いい?」
「はあ。まあ良いですが、何かありました?」
今更徳利を取り返す気にもなれず、椛は、はたてのほうに向きなおる。長いツインテールが尻尾のように揺れた。
「お楽しみのところ悪いんだけどさ。明日か明後日、時間とれない?」
「それはあなたの命令ですか?それとも山の?」
「山、よ」
「なら、逆らえませんね」
はたてが怪訝な顔をする。
「……なにかあったの?」
「何故そう思うので?」
「……あなた、怖い顔してるわ。何かあったと思うでしょう」
椛は不審に思った。にとりですら知っている情報を、情報通のはたてが知らない?いや不思議ではないか。曲がりながらも河童のコミュニティーで一定の地位を得ているにとりと、山の中でも新参に近く、人脈を得ていないはたてでは差があるのだろう。
「なに、いつも通りです。ではまた明日。私はこれから警備がありますから。姫海棠様、失礼します」
「ちょ……はあ、私も飲んでいい?」
はたてはそのまま、椛と交代してにとりと飲みあった。
祭事は結局、大成功という形で幕を下ろしたらしい。鴉天狗の書いた新聞でもこぞって取り上げられたから、間違いない。
椛も、その一つの重要な任務を果たしたはずなのだが、特別な感慨を持つことなく、翌日を過ごしていた。
しかし、あまりのんびりできない。はたてが迎えに来て、またしても堅い服装をさせられ、朝の早いうちに椛は連れ出された。
「河童がいたから言えなかったけど、今日は天魔様との対面だからね。名指しの」
「……は?」
関所での問答を済ませたはたてにこういわれて、椛は戸惑った。しかも名指しとは。椛と天魔は、昨日初対面だ。そもそもあんなに気軽にお声をかけられること自体、前例がない訳で、だからこそああも休憩所が大騒ぎになったのだ。
「何をやらかしたのかな?椛君は。ふふふ」
「いや、やらかすもなにも……天魔様に拝謁するったって……なんで昨日のうちに言ってくれなかったんですか」
「だって昨日の晩は椛さっさとどっか行っちゃうし。私は河童に飲みつぶされちゃったんだから仕方ないでしょ」
「仕方ないって……はあ」
ため息を吐きながら、渋々山道を登っていく。こう毎回、急な山道を登らなければならないのだから、天魔の輿を担ぐ天狗には頭が下がる。あやかりたくはないが。
「……山の頂点の御方がですよ。私みたいな一介の下っ端になにやらかにやらというのが、まずおかしいでしょう。姫海棠様だってそう気軽にお会い出来る御方ではないでしょうに」
「うーん。そうねえ。でもまあ、悪いようにはならないんじゃない。まさか部屋を開けたとたん、打ち首!なんていわれるわけないしさ」
はたてはそう言っていた、確かに。
それならこの始末はどうすればいいのか。天魔様が私に頭を下げているなんて。
「あなたには、いつか、謝らなくてはならない、と思っていました」
「て、天魔、様……?」
何をどうすればいいのか、椛には分からない。目の前の出来事すら、現実の事には思えなかった。誰が、一下っ端の白狼天狗の椛に頭を下げるなど考えるだろうか。天地がひっくり返ってもあってはならない事に他ならない。
「ここには誰も、いません。皆、でていってもらってます。あなたが、心配するような事は、何もありません」
流石に根回しは完璧だ。いやそうじゃない。感心すべきことが別だ。
天魔がようやく頭を上げた。苦杯をなめたような顔をしているのは、別に椛に頭を下げた事が屈辱的だったという訳ではないらしい。もっと別の事のようだ。
「何故、私が、このような事をするか、聞きたいですか?」
「え、ええ。それは、もちろん」
「結構」
天魔は居住まいを正した。気品と凛の象徴のような老人が、口を開く。
「あなたの、御父上の事です。彼に死ぬよう、命じたのは、私です」
ようやく、合点がいった。つまりは文と同じ理由なのか。一気に力が抜けて、正座が崩れそうになる。いけない、きちんとしなくては。
「そう、ですか」
知ってはいた。いたが、それは鴉天狗の風聞に過ぎない。可能性は少ないが、フカシという可能性もなくもなかった。
可能性は消えた。父は、本当に死んだのだ。
「……組織の為に、とは体の良い言い訳に、過ぎません。ただ、天魔として、あなたには伝えなくてはならない事を、伝えずに今日まで来てしまい、申し訳なく思います」
「……射命丸様に暗殺を命じなさったのも、天魔様の人選、ですか?」
その言葉を聞き、天魔はわずかに怪訝な顔をした。まるで甘いはずの饅頭がしょっぱかったような、そんな違和感を確認するような表情。
「それは……どういう事ですか?」
「……姫海棠様が、父の事を話していたのを偶然聞きつけまして……父を殺したのは、射命丸様と聞き、問い詰めたところ、認められまして」
「馬鹿な!そんなはずがありません!」
天魔が、いきなり声を荒げて立ち上がった。顔には驚愕と、苦々しさが同居していた。
「私は命じていません!私が射命丸に命じたのは、犬走への使者だけです!」
天魔は懐に手を入れ、式神を何枚か取り出す。椛に聞こえない程の早口で、呪符を唱えると、紙切れが童になった。
「即座に、射命丸文を連れてきなさい!絶対にです!行って!」
童になった式神たちが、跳ねるように外へ出ていった。天魔は憤然としていたが、それでも荒々しさを表さないのは、彼女の矜持だろうか。
式神たちに引きずられるようにして文が連れられてこられたのは、そろそろ夕方になろうかという時だった。縁側の庭先に出された文は、ぐったりと憔悴していた。
虚ろになった目で、文は上目づかいに椛と天魔を交互に見やった。
「………」
何もしゃべらず、何も感じていないように、文は式神にもたれていた。
いい加減、椛の足もしびれていたので立ち上がるのは少々苦労したが、天魔は慣れているのかスタスタと歩いて縁側に向かい、しかめた顔をして文を問い詰めた。
「射命丸!あなたは……」
天魔の怒号にも、文はぼうっとして、わずかに頭を上げただけだった。跪くことすらしない。
式神が、寄り掛かられるのを否定するように身を引くと、文もへこたれるように腰が落ちた。天魔が、言葉をつづけた。
「私があなたに何時!何処で!犬走の暗殺を命じたのですか!答えなさい、射命丸!」
茫然とした文は、何も答えなかった。
何も答えない文は、少しだけ椛の方に視線を逸らしたくらいで、他は全く無反応だった。
「……射命丸、様」
文がピクリと、反応した。
「真実を、言ってほしいのです。この間、話してくれた事が本当なら、それはそれで構いません。でも、私の父の事です」
椛は、一旦言葉を切った。
「その、最期くらい、私は知りたい。射命丸様」
虚ろな目をした文が、仄かに口を開いた。
「…………全て……話します」
私が犬走家に向かった時、椛さんの父上は寝ておられました。どうも体調が良くなかったため寝込んでいたらしいのですが、私が来たことで起き上がって迎えてくれました。
私は天魔様の命をお伝えするのが嫌でした。顔見知りだったし、あの人が死ぬというのが嫌でした。
その知らせを聞くと犬走さんは、無表情になりました。そして私に、自分を殺す気か、と聞かれました。
違う、と私は答えました。殺す気なんかない、といいました。無論死んで欲しくないなんて言えません。それは天魔様、あなたを否定することになりますからね。
そうですか、と犬走さんが答えました。その後、奥の部屋に行かれて戸を締められました。
変な音がしたのは、そのすぐ後です。鈍い音がして、私はその戸を開けたのです。
戸の奥は、血の海でした。畳が赤くなり、その真ん中で犬走さんが倒れていました。
私は慌てて駆け寄りました。まだ意識があり、ぼそぼそと口を動かしていました。
――死のうと思いましたが、死に切れませんでした。介錯を……
起こしてみると、なるほど自傷の跡がありました。腹を切っていたのですが、切腹というのはあんまりあっさり死ねないものでハラワタがはみ出ていても、意識はあるんです。だからこそ介錯があるんですが。
私は迷いました。ここで私が、介錯をしていいものか。まだ助かる見込みもあるかもしれない。そんなことも考えました。でも、犬走さんの目は、それを許してくれませんでした。
――山は、俺を殺すのだろう。ならもういい。早く殺れ。
私は持っていた小刀で、彼の喉を突きました。
その時、私に近づいて蚊のなく程の声で、犬走さんは言ったんです。椛を頼みます。これだけお願いします、と。
その後は、天魔様もご承知でしょう。私はあなた様の元へ行き、犬走は逐電したと伝えました。
「こんな……ところです。別段、椛さんに伝えた内容と、あまり変わらないでしょう?」
天魔は頭を抱えていた。今の今まで誰にもそれを伝えられず、組織の運営に対して不満を持ったのかもしれない。
それも文は、山での幹部候補生だ。それが、ある意味では反目とも取れる行動をとった事が、不満だったのかもしれない。
「何故」
天魔は声を震わせた。
「何故、それを私にまで、隠したのです」
「天魔様にそれが知られてしまうと、大変ですからね。それにつまらない事故死として片づけられてしまうかもしれない。嫌じゃないですか、そんなの。最後の意地として、諌死した犬走さんがただの事故死なんて嫌ですから」
天魔からすれば、これは一つの事故とも言えるかもしれない。いう事を聞かない部下に、勝手に自殺した部下。
それでも、天魔は顔を歪めた。そして憎々しげに吐き捨てた。
「あなたは」
言いたいことが多すぎて、まとめきれなかったのだろう。もごもごと口を動かした後、ようやく。
「馬鹿め」
とだけ言った。
「あなたは、謹慎です。犬走椛、連れていきなさい」
「は……。このまま帰っても?」
「結構です。一人にして下さい」
椛が、文を担ごうとしたが、文はそれを拒絶した。
「歩けますので、別に一人でも……」
「射命丸様、天魔様の命ですよ」
「………」
文は何も言い返さず、天魔に一礼した後、さっさと歩きだしていた。
「射命丸様」
また、無視される。いったいこれで何度目だ。さっきからちっとも反応してくれない。振り返りもせず、前を行く文はさっさと歩いている。飛んで帰らないのは、飛ぶのが不得手な椛に合わせてくれているのかもしれないが、それならせめて問いかけに反応してほしい。
「水」
文がいきなり振り返って、こう言った。
「……はい?」
「喉が渇きました。水、ください」
「あ、ああ、はい。どうぞ」
ようやく反応してくれたと思ったらこれである。椛は腰に添えつけていた瓢箪を、文に投げて渡した。
文は、それを受け取ると、少し行った所にある日陰に腰を下ろした。椛もそれに従うように休んだ。
沈黙がその場に降りる。息がつまりそうだ。文は二口ほど水を飲んだ後、茫然としたように虚空を見つめていた。
「……何故、あの時、隠しておられたのです」
ほとんどダメもとで、椛は文に問いかけた。
文は、長いため息を吐いて、話し始めた。
「……憎む相手、欲しいでしょう?私は、それに妥当な場所に居ました。御父上を止められなかった。組織に頼り、友人すら切って捨てた。私は……あなたに、軽蔑されたくなかった」
いったん言葉を切って文が続ける。椛は黙って聞いていた。
「私は、卑怯者です。あなたに軽蔑されたくない。それでも、あの場にいたものとして、あなたから逃げてはいけない。私は逃げました。私の卑怯が、一番中途半端な結果を招きました。だから」
文が椛に近づいた。
「せめてあなたに。私の最期を決めてほしかったんです」
椛は、黙って文を見た。クマの目立ち、健康的だった顔に陰がさしている。少し痩せてもいた。
「……嫌なものだったでしょうね。人の最期を、自分の意思とは別のところで、決められたのは」
「私にもお願いしたいところです」
瓢箪を渡した文は、立ち上がった。
「行きましょうか」
「ええ」
椛が歩く。ふと見上げると、夕焼けが目に入った。暗く、明るい茜色。
「私がなんであの空が好きなのか、知っていますか?」
「……何故です?」
「あいまいだから。ですよ」
文はキョトンとしていた。何が言いたいのか、掴みかねていたのだろう。
キョトンとした顔をした文を見て、椛は笑った。
空はもうすぐ、暗くなろうとしていた。
内容はとても惹きこまれるものでした。
文は自分の中の闇を隠しながら椛と付き合ってきたのですね。
ちと気になった所を。
空行が多いかなと。場面転換の為ならと思いましたが、一行くらいで足りるかもと。
何はともあれご馳走様でした。
たとえ影はあってもぜひ2人には仲良くなってもらいたい。
いい関係になって欲しい
そんな空想や妄想の余地を残した終わり方が好きです
一点。
中盤、アルバムを開いて写真を見る場面で、椛がアルバムを開いたとなっています。
前後を読む限りあそこは文パートにしか見えなかったので、
文がアルバムを開いた、が正しいのではないかと思うのですがどうなんでしょう。
読み進めれば視点が切り替わったことは分かるのですが、
空行の多さと視点変更の多さから、境目辺りで毎回戸惑いました。
それを逆手にとってこっそり視点を交えてるのでは?
という一抹の不安があるので、自信が持てません。
それも計算だったのならやられました
思うところは多々あるでしょうが、この二人には仲良くやっていってほしい
とにもかくにも存分に楽しませていただきました。次回作もお待ちしています。