鳩が豆鉄砲を食らったような顔とは、こういうもののことをいうのだろうか。
強く手を弾かれた痛みに戸惑うというよりも、なぜそうされたのかに思いが至っていない様子の小鈴だったが、それも束の間のことで――
「ちょっと……いきなり触ろうとしたのは悪かったけどさ、そんなに嫌なことだった?」
すぐに眉根を寄せ、口を尖らせながら抗議してきた。その反応に私はどちらかというと安心感を覚える。
「たしかに、やりすぎたわね。ごめん、小鈴」
自分でも何をそんなに焦っていたのかと反省しながら、私は髪から花飾りを外す。
そして形を崩さないようにてのひらの上に乗せてから、小鈴の鼻先に運んでやった。
「ほら、どうしたかったの?」
「あ、うん。なんか、あんまり見たことない花だなーって思ったから……うん、サザンカとかオトメツバキとかに似てるけどやっぱり違う。
これ、なんなの?」
「今さらそれ? ちゃんと教えてあげたわよ」
「あれ、そーだったっけ? まぁいいじゃない。減るもんじゃないし、もっかい教えてよ」
あくまでも軽い調子の小鈴に対して、私はため息を一つ。ああ、幸せが減っていく。
「いい? これは彼岸にしか咲かない浄土の花。穢土では見かけないのも当然なのよ。
この花を身につけているってことが、私が彼岸の関係者である証なの」
これを聞いた小鈴の目と口は、なぜか丸くなったまま硬直した、と見えた直後にわななき出す。
一体どうしたのか、その不審な挙動について問いただそうとしたが、その前に我に返った小鈴に口を挟まれる。
「……あぁ、そんな感じだったよねぇ。じゃあ追加で訊くけどさ、こっちで手に入れる方法って知らない?」
「ちょっと、ちゃんと聞いてた? そんなの――」
あるわけない、と言いかけて、しかし私の明晰な頭脳がすぐさま修正を加えてきた。
彼岸に咲く花をこちらで入手する方法はないこともない。というか、定期的に此岸に送られている場所を知っている。加えて用途・目的すらも。
などと、次々と想起されてくる記憶に意識を奪われていると、焦れたのか小鈴が前のめりになってきた。
「あー、その感じだと知ってるんでしょ?」
「まぁ、ね。これは中有の屋台にいけば確実に手に入るわ」
「そっかー。じゃあ隊商が組まれる日に合わせないと駄目なのねー。次いつだっけ?」
「二週間後よ……って、本気なのね」
中有の道の屋台は妖怪の山の裏側にあるため、私達里の人間がそこに至るまでには妖怪や妖精の様々なちょっかいに対処しなければならない。
そのため商人達は妖怪退治の専門家を大勢引き連れて、時には取引を持ちかけて道案内を頼んだり、時には実力行使で道を切り開いたりするのだ。
この隊商に混ざって外出しようとする人達はわりと多い。中有の道以外には紅魔館のパーティ、太陽の畑での騒霊ライブなどがその一例である。
しかし、そこまでして小鈴が彼岸の花を手に入れようとする理由は一体なんなのだろう?
それを問いただしてみると――
「うーんと、最近面白い外来本が手に入ったからね。そこに書かれていたことを試してみたくなったのよ。
ちょっと待ってて、今持ってくるから」
そう言い残して本棚をあさり始めた小鈴を尻目に、私は外していた花飾りを髪に戻そうとして――花びらの縁がほんのかすかに萎れているのを認めた。
「……頭上華萎、かぁ。まだあと二十年くらいはあるのに、兆候だけは真っ先に現れるのね。
些細なものだし、実際の身体には何の影響もないみたいだけど……本当、さっきは何を焦ってたんだろ?」
呟きながら手指の先を見たり、足袋に覆われた片方の爪先にもう片方の爪先を押し付けるなどする。
その結果、ちゃんと触感はあるし、かといって無数の皺が刻まれているという感じでもないことを確認できた。
安堵のため息をゆっくり吐き出す、その過程である記憶が頭に浮かんでくる。
それは彼岸の記事を幻想郷縁起に掲載するため、小町さんに連れて行ってもらった時のことで――
たしかあれは、彼岸の風景をスケッチブックに写生していた時のことだったと思う。
一面花であふれかえる昼も夜もない川岸の様子を、さてどのような色で塗り表そうかと思案していたところ、後ろから小町さんに声をかけられたのだったか。
「どうだい、いい絵は描けそうかい?」
「おかげさまで。こういうところの記憶が残っていれば、わざわざ来なくてもよかったんですけど」
「仕方がないさ。基本的に記憶ってのは物に宿るもんなんだ。お前さんの先代の肉体が萎れた時点で、そこに宿っていた記憶は徐々に希釈されてしまうからね」
その短い会話の区切りがついたところで、一艘の渡し舟が彼岸にたどり着くのが見えた。
そこから降りてきた人魂型の幽霊が、寄る辺を求めるように花の上に移動する。直後、その形が大きく変わり、終いには長身痩躯の青年の姿になる。
幽霊はしばらく自身に起こった出来事に目を丸くしていたが、やがて落ち着きを取り戻すと遠くにあるたくさんの人影の中に加わろうとして、得たばかりの二本の足で歩き始めた。
「あれは……どういう仕組みでしたっけ?」
「ああ、花は幽霊の苟且の躰だって教えただろ?
春先だったか、幻想郷を花が覆い尽くした異変の時に、外の世界の幽霊が此岸の花に宿っていたところを見てないかい?
あれと似ていて、彼岸に咲く花に幽霊が宿った場合、裁判をスムーズに行えるように生前の姿に変わるんだよ」
そういえば、たしかにそんな話を聞いていた。
私は一度見聞きしたことは忘れないし、想起するために必要な時間も常人より短くてすむのだが、それでも専門家には敵わない時もよくある。
ともかく小町さんの説明を受けて、私はスケッチブックをめくり、ここに来る前に描いていた中有の様子を確認する。
「そうでしたね。それを応用したのが、中有に屋台を構える卒業試験生に巻きつける首綱、でしたね」
屋台街の店主達はみんな地獄上がりであるため、誰も彼もが中有の道において人型を得ている。
そして小さすぎて絵には描けない場合が多かったが、全員彼岸の花を一つずつ持たされていたりする。それこそが彼らを此岸でも人型たらしめている所以なのである。
実際には亡霊と同質の躰らしいのだが。
「そそ。あいつらがお勤めから逃げ出そうとする気を削ぐために、摘んでしまうとだいたい七日で萎れる性質を利用しているのさ。
人魂に戻っちまえば、死んでいながら此岸を謳歌するなんてことはできやしないからね」
「そして萎れる前に死神から新しい花を受け取らなければならない……天人の頭上華萎のことを考えるとなんとも皮肉な話ですね」
「……まったくだねぇ」
二人して口元を歪める。
それから私は彼岸のページに戻し、岸辺に咲く花と時折訪れる人型に変じた幽霊とを描き足していく。
これ以降はまったく口を開かなくなった小町さんを尻目に、珍しいこともあるものだと思いながら――
「はぇ~、そんなに短いんだ」
「そうよ。だから何をやるにしても七日以内に終わらせなさいよね」
目当ての本と、ついでにティーポットとカップを持参してきた小鈴に、私はつい先程すくい上げてきた記憶由来の注意を伝える。
「あれ、でもあんたの花飾りが萎れるところ見たことないけど、こまめに取り替えてるの?」
「いや、これは一つしかない特別製よ。閻魔様によるとおおよそ三十年くらいは萎れないらしいわ」
「……ふーん、一つだけだったのね。あっ、じゃあ彼岸でもこの本とおんなじようなことをやってるのかなぁ」
小鈴はお茶よりもまずはという勢いで本を広げ、調べ物に没頭し始めた。
私は呆れながら手前で紅茶を注ごうと身体を伸ばし――その途中で本の中身を目に入れる。
書かれていた文字はアルファベット、西洋の言語だ。綴りから英語に似ているように見えるが、ちょっと違うような気もする。
「あんた、こんなの読めたっけ?」
「うーん、まだ完全に読めるってわけじゃないんだけど……文字をなぞっているとなんとな~く意味が頭に入ってくるのよねぇ。
例えばこの本のタイトルは……その、歴史、の……保存、天然、の、花? いやいや、プリザーブドフラワー……『プリザーブドフラワーの歴史』だってさ」
「プリ……何フラワーだって?」
「プリザーブドフラワー、よ。長持ちする花ってところかな」
思わず紅茶をカップ以外のところに注ぎそうになった。
そんな私に一切目もくれず、小鈴はページを次々とめくり、やがて写真がたくさん掲載されているところで手を止める。
そこには瑞々しい数多の切り花を中央に、形は保たれているがすっかり色褪せてしまったドライフラワーを周りに置いた様子が載せられていた。
この中央に集まっている生花そっくりなのがプリザーブドフラワーとやらなのだろうか。
「ね、見てよ。同じ日に摘んできた花でも、その後の加工方法が違うだけでこんなに差が出るんだって」
「凄いわね……これ、どうやってるの?」
「あぁ、実はその件についてあんたに相談しようと思ってたのよ。やり方について読んでいるうちに、よく分からない言葉が出てきたからね」
「どんな? って言っても、私には西洋の言葉なんて分からないけど」
「いやぁ、あんたってコラーゲンとかニコチンとか、西洋の薬みたいなのに詳しいじゃない? それ関係で知りたいことがあるのよ。
プリザーブドフラワーを作るのにはそういうのが二、三必要みたいなんだよね」
小鈴の言うとおり、紫様の影響によるものか、横文字の物質について色々と明るくなっているのは確かだ。
その知識は『一夜のクシナダ』のレシピを読み解く際には大いにお世話になった。まだあれを試す機会は訪れてはいないが。
「まぁ聞いてみましょうか。何が必要なんだって?」
「ええっと……詳しいことは書いてなかったんだけど、最低でもエタノールとかグリセロールとかいうのは必要なんだって」
「ああ、どっちもアルコールの一種ね。お酒に入ってるのがエタノール、石鹸作った後に残るのがグリセロール」
「あ、じゃあどっちも手に入れるのはそんなに難しくないのね」
「いや、グリセロールはちょっと面倒くさいわよ。何しろ――」
私はそこまで言い置いてから、本の中と実体験の中にあった記憶を手繰る。
「石鹸は動物の脂肪分と水で溶いた草木の灰から作るのが一番手っ取り早いんだけど、このやり方だとグリセロールと液体状の石鹸が混ざったままになるの。
だから灰の代わりに苛性ソーダを脂肪と混ぜれば固形の石鹸とグリセロールが残るから、綺麗に分けるのは難しくなくなるわね。
ただ苛性ソーダは生き物を溶かす劇薬だから、入手や保管がすっごく難しいの。というか、私達の持ってる技術じゃ不可能ね。
河童あたりに分けてもらうよう頼むのがいいのかしら。でもどんだけふっかけられるか分かったもんじゃないし」
「そ、そーなの。難しいんだね」
たじろぐ小鈴を見て、やりすぎたかとまたも自省する。
どうもこちらの説明に熱が入りすぎると、向こうとしてはついていけない気分になるらしい。
「ま、まぁ今すぐできそうなのは液状石鹸混じりのグリセロールを使うことかしらね。それでプリザーブドフラワーができるのかどうかはわからないけど」
「うーん、こりゃ実際に彼岸の花で試すよりも前に、此岸の花で何度か実験してみないといけないかぁ。
まぁ二週間あれば何か成果は出せるよね」
やはり随分と粘りを見せる。飽きっぽい奴とは思っていないが、事が事だけにこの執心は私の好奇心を大いに刺激した。
「ねぇ小鈴。どうして彼岸の花にこだわっているの? ただ花の保存方法を試してみたいっていうのなら、別に此岸の花でもいいんじゃない?」
すると小鈴は私から目をそらし、取りとめのない答えを投げやってくる。
「……ん、なんかさ、いっつも同じ花飾りしかつけてないから、飽きないのかなーとか、その種類しか持ってないのかなーって思ってた。
そんな時だったのよ、この本を見つけたのは。この方法を使えば別の萎れない花飾りが作れるかもって思ったの。
それをあんたにあげれば喜んでくれるんじゃないかって。ま、その特別製のがあるんなら余計なお世話だったかもしれないけど」
普段見せないような態度に面して、私はどういう反応を返せばよいか迷った。
一方の小鈴は固まっている私に向けて、ちょっとばつが悪そうに舌を出して見せる。
「ついでに言っちゃうけど、上手くいったら自分のやつを作ろうとも考えてたんだよね。
本物そっくりの花飾りなんてめったにお目にかかれないし、作る方法もこうして見つかりそうなわけだし」
「……私用のは習作ってわけ?」
「やだなぁ、そんなわけないじゃん。ちゃんと作るってば」
ようやく出てきたのが邪推とは、我ながらなんと天邪鬼なことか。
もう少し素直に感動を表に出せないものか。こういうとき、歳相応に振舞えない御阿礼の魂をもどかしく思う。
私は再び大きくため息を吐くと、小鈴の頭から鈴飾りを外し、肩を覆うほどに広がったその髪に自分の花飾りを取りつける。
「……ふぅん、まぁ、結構似合ってるんじゃない」
「えー、でもあんたのとお揃いってのは、いいの? 私は別に気にしないけど」
「そうね、そこは彼岸にある品種の中からあんた好みのを探しましょうか。
……じゃあ小鈴。私が作ってみてもいい? あんたの分を。それでおあいこでしょ?」
「はいよ。そっちこそ、つたない処女作なんかよこさないでよ?」
手打ちとしてはこんなところか。
それにしても頭上華萎を目の当たりにした直後に、切り花を瑞々しく保つ方法を持ちかけられるとは一体何の因果だろう。
とはいえ外の世界の常識はここ幻想郷で通じる場合もあればそうでない場合もある。
しかも彼岸となればさらに異なる法則で動いていると言ってもいい。はたして、彼岸の花を薬液につけるだけで延命させることは可能なのだろうか。
「それで、脂肪ってなんでもいいの?」
「ええ、動物のでも植物のでも。気休めかもしれないけど、獣脂の方がいいかもね。
元から固まってるから、ひょっとしたら灰の水と混ぜた後でも固まったままかもしれないし」
「じゃあまずは枯木とかを燃やしておけばいいのね」
そしてもし、もしこの方法で七日以上延命できた場合、今私の身につけている花飾りにも同様の措置を施す気になるだろうか。
ただ、それで本当に私の寿命まで延びた場合、今後ずっと死神に命を狙われ続けるということになる。つまり是非曲直庁を裏切ることと同義だ。
「あたいから見れば不老不死なんて、まっとうな人間のやることじゃないね」と、はっきり言い切っていた小町さんの表情は、今でも鮮明に思い出せる。
あれを見た上で今の自分にそこまでの気概があるかと問われると、まぁ、その、もう十年は結論を先送りにしたい気分だ。
「苛性ソーダってのはどうする? 一応考えてみる?」
「うーん、あまり大声では言えないんだけど、中有には地獄由来の物品を売っている店もあるみたいなのよね。
なんでも地獄の釜で熔かし出した鉱物とか金属とかを置いているらしいわ」
「金属って、関係あるの?」
「ああ、苛性ソーダはナトリウムっていう金属を水に溶かしたものなのよ。だからナトリウムさえ買えればあるいは、とも思うわけ」
でも、たとえこの試みが失敗したとしても、この時の記憶だけは何か物に託しておきたい。
それが永久に朽ちないのであれば、あるいは再びまみえ、小鈴の意図せぬ思いやりを偲ぶことができるかもしれないのだから。
強く手を弾かれた痛みに戸惑うというよりも、なぜそうされたのかに思いが至っていない様子の小鈴だったが、それも束の間のことで――
「ちょっと……いきなり触ろうとしたのは悪かったけどさ、そんなに嫌なことだった?」
すぐに眉根を寄せ、口を尖らせながら抗議してきた。その反応に私はどちらかというと安心感を覚える。
「たしかに、やりすぎたわね。ごめん、小鈴」
自分でも何をそんなに焦っていたのかと反省しながら、私は髪から花飾りを外す。
そして形を崩さないようにてのひらの上に乗せてから、小鈴の鼻先に運んでやった。
「ほら、どうしたかったの?」
「あ、うん。なんか、あんまり見たことない花だなーって思ったから……うん、サザンカとかオトメツバキとかに似てるけどやっぱり違う。
これ、なんなの?」
「今さらそれ? ちゃんと教えてあげたわよ」
「あれ、そーだったっけ? まぁいいじゃない。減るもんじゃないし、もっかい教えてよ」
あくまでも軽い調子の小鈴に対して、私はため息を一つ。ああ、幸せが減っていく。
「いい? これは彼岸にしか咲かない浄土の花。穢土では見かけないのも当然なのよ。
この花を身につけているってことが、私が彼岸の関係者である証なの」
これを聞いた小鈴の目と口は、なぜか丸くなったまま硬直した、と見えた直後にわななき出す。
一体どうしたのか、その不審な挙動について問いただそうとしたが、その前に我に返った小鈴に口を挟まれる。
「……あぁ、そんな感じだったよねぇ。じゃあ追加で訊くけどさ、こっちで手に入れる方法って知らない?」
「ちょっと、ちゃんと聞いてた? そんなの――」
あるわけない、と言いかけて、しかし私の明晰な頭脳がすぐさま修正を加えてきた。
彼岸に咲く花をこちらで入手する方法はないこともない。というか、定期的に此岸に送られている場所を知っている。加えて用途・目的すらも。
などと、次々と想起されてくる記憶に意識を奪われていると、焦れたのか小鈴が前のめりになってきた。
「あー、その感じだと知ってるんでしょ?」
「まぁ、ね。これは中有の屋台にいけば確実に手に入るわ」
「そっかー。じゃあ隊商が組まれる日に合わせないと駄目なのねー。次いつだっけ?」
「二週間後よ……って、本気なのね」
中有の道の屋台は妖怪の山の裏側にあるため、私達里の人間がそこに至るまでには妖怪や妖精の様々なちょっかいに対処しなければならない。
そのため商人達は妖怪退治の専門家を大勢引き連れて、時には取引を持ちかけて道案内を頼んだり、時には実力行使で道を切り開いたりするのだ。
この隊商に混ざって外出しようとする人達はわりと多い。中有の道以外には紅魔館のパーティ、太陽の畑での騒霊ライブなどがその一例である。
しかし、そこまでして小鈴が彼岸の花を手に入れようとする理由は一体なんなのだろう?
それを問いただしてみると――
「うーんと、最近面白い外来本が手に入ったからね。そこに書かれていたことを試してみたくなったのよ。
ちょっと待ってて、今持ってくるから」
そう言い残して本棚をあさり始めた小鈴を尻目に、私は外していた花飾りを髪に戻そうとして――花びらの縁がほんのかすかに萎れているのを認めた。
「……頭上華萎、かぁ。まだあと二十年くらいはあるのに、兆候だけは真っ先に現れるのね。
些細なものだし、実際の身体には何の影響もないみたいだけど……本当、さっきは何を焦ってたんだろ?」
呟きながら手指の先を見たり、足袋に覆われた片方の爪先にもう片方の爪先を押し付けるなどする。
その結果、ちゃんと触感はあるし、かといって無数の皺が刻まれているという感じでもないことを確認できた。
安堵のため息をゆっくり吐き出す、その過程である記憶が頭に浮かんでくる。
それは彼岸の記事を幻想郷縁起に掲載するため、小町さんに連れて行ってもらった時のことで――
たしかあれは、彼岸の風景をスケッチブックに写生していた時のことだったと思う。
一面花であふれかえる昼も夜もない川岸の様子を、さてどのような色で塗り表そうかと思案していたところ、後ろから小町さんに声をかけられたのだったか。
「どうだい、いい絵は描けそうかい?」
「おかげさまで。こういうところの記憶が残っていれば、わざわざ来なくてもよかったんですけど」
「仕方がないさ。基本的に記憶ってのは物に宿るもんなんだ。お前さんの先代の肉体が萎れた時点で、そこに宿っていた記憶は徐々に希釈されてしまうからね」
その短い会話の区切りがついたところで、一艘の渡し舟が彼岸にたどり着くのが見えた。
そこから降りてきた人魂型の幽霊が、寄る辺を求めるように花の上に移動する。直後、その形が大きく変わり、終いには長身痩躯の青年の姿になる。
幽霊はしばらく自身に起こった出来事に目を丸くしていたが、やがて落ち着きを取り戻すと遠くにあるたくさんの人影の中に加わろうとして、得たばかりの二本の足で歩き始めた。
「あれは……どういう仕組みでしたっけ?」
「ああ、花は幽霊の苟且の躰だって教えただろ?
春先だったか、幻想郷を花が覆い尽くした異変の時に、外の世界の幽霊が此岸の花に宿っていたところを見てないかい?
あれと似ていて、彼岸に咲く花に幽霊が宿った場合、裁判をスムーズに行えるように生前の姿に変わるんだよ」
そういえば、たしかにそんな話を聞いていた。
私は一度見聞きしたことは忘れないし、想起するために必要な時間も常人より短くてすむのだが、それでも専門家には敵わない時もよくある。
ともかく小町さんの説明を受けて、私はスケッチブックをめくり、ここに来る前に描いていた中有の様子を確認する。
「そうでしたね。それを応用したのが、中有に屋台を構える卒業試験生に巻きつける首綱、でしたね」
屋台街の店主達はみんな地獄上がりであるため、誰も彼もが中有の道において人型を得ている。
そして小さすぎて絵には描けない場合が多かったが、全員彼岸の花を一つずつ持たされていたりする。それこそが彼らを此岸でも人型たらしめている所以なのである。
実際には亡霊と同質の躰らしいのだが。
「そそ。あいつらがお勤めから逃げ出そうとする気を削ぐために、摘んでしまうとだいたい七日で萎れる性質を利用しているのさ。
人魂に戻っちまえば、死んでいながら此岸を謳歌するなんてことはできやしないからね」
「そして萎れる前に死神から新しい花を受け取らなければならない……天人の頭上華萎のことを考えるとなんとも皮肉な話ですね」
「……まったくだねぇ」
二人して口元を歪める。
それから私は彼岸のページに戻し、岸辺に咲く花と時折訪れる人型に変じた幽霊とを描き足していく。
これ以降はまったく口を開かなくなった小町さんを尻目に、珍しいこともあるものだと思いながら――
「はぇ~、そんなに短いんだ」
「そうよ。だから何をやるにしても七日以内に終わらせなさいよね」
目当ての本と、ついでにティーポットとカップを持参してきた小鈴に、私はつい先程すくい上げてきた記憶由来の注意を伝える。
「あれ、でもあんたの花飾りが萎れるところ見たことないけど、こまめに取り替えてるの?」
「いや、これは一つしかない特別製よ。閻魔様によるとおおよそ三十年くらいは萎れないらしいわ」
「……ふーん、一つだけだったのね。あっ、じゃあ彼岸でもこの本とおんなじようなことをやってるのかなぁ」
小鈴はお茶よりもまずはという勢いで本を広げ、調べ物に没頭し始めた。
私は呆れながら手前で紅茶を注ごうと身体を伸ばし――その途中で本の中身を目に入れる。
書かれていた文字はアルファベット、西洋の言語だ。綴りから英語に似ているように見えるが、ちょっと違うような気もする。
「あんた、こんなの読めたっけ?」
「うーん、まだ完全に読めるってわけじゃないんだけど……文字をなぞっているとなんとな~く意味が頭に入ってくるのよねぇ。
例えばこの本のタイトルは……その、歴史、の……保存、天然、の、花? いやいや、プリザーブドフラワー……『プリザーブドフラワーの歴史』だってさ」
「プリ……何フラワーだって?」
「プリザーブドフラワー、よ。長持ちする花ってところかな」
思わず紅茶をカップ以外のところに注ぎそうになった。
そんな私に一切目もくれず、小鈴はページを次々とめくり、やがて写真がたくさん掲載されているところで手を止める。
そこには瑞々しい数多の切り花を中央に、形は保たれているがすっかり色褪せてしまったドライフラワーを周りに置いた様子が載せられていた。
この中央に集まっている生花そっくりなのがプリザーブドフラワーとやらなのだろうか。
「ね、見てよ。同じ日に摘んできた花でも、その後の加工方法が違うだけでこんなに差が出るんだって」
「凄いわね……これ、どうやってるの?」
「あぁ、実はその件についてあんたに相談しようと思ってたのよ。やり方について読んでいるうちに、よく分からない言葉が出てきたからね」
「どんな? って言っても、私には西洋の言葉なんて分からないけど」
「いやぁ、あんたってコラーゲンとかニコチンとか、西洋の薬みたいなのに詳しいじゃない? それ関係で知りたいことがあるのよ。
プリザーブドフラワーを作るのにはそういうのが二、三必要みたいなんだよね」
小鈴の言うとおり、紫様の影響によるものか、横文字の物質について色々と明るくなっているのは確かだ。
その知識は『一夜のクシナダ』のレシピを読み解く際には大いにお世話になった。まだあれを試す機会は訪れてはいないが。
「まぁ聞いてみましょうか。何が必要なんだって?」
「ええっと……詳しいことは書いてなかったんだけど、最低でもエタノールとかグリセロールとかいうのは必要なんだって」
「ああ、どっちもアルコールの一種ね。お酒に入ってるのがエタノール、石鹸作った後に残るのがグリセロール」
「あ、じゃあどっちも手に入れるのはそんなに難しくないのね」
「いや、グリセロールはちょっと面倒くさいわよ。何しろ――」
私はそこまで言い置いてから、本の中と実体験の中にあった記憶を手繰る。
「石鹸は動物の脂肪分と水で溶いた草木の灰から作るのが一番手っ取り早いんだけど、このやり方だとグリセロールと液体状の石鹸が混ざったままになるの。
だから灰の代わりに苛性ソーダを脂肪と混ぜれば固形の石鹸とグリセロールが残るから、綺麗に分けるのは難しくなくなるわね。
ただ苛性ソーダは生き物を溶かす劇薬だから、入手や保管がすっごく難しいの。というか、私達の持ってる技術じゃ不可能ね。
河童あたりに分けてもらうよう頼むのがいいのかしら。でもどんだけふっかけられるか分かったもんじゃないし」
「そ、そーなの。難しいんだね」
たじろぐ小鈴を見て、やりすぎたかとまたも自省する。
どうもこちらの説明に熱が入りすぎると、向こうとしてはついていけない気分になるらしい。
「ま、まぁ今すぐできそうなのは液状石鹸混じりのグリセロールを使うことかしらね。それでプリザーブドフラワーができるのかどうかはわからないけど」
「うーん、こりゃ実際に彼岸の花で試すよりも前に、此岸の花で何度か実験してみないといけないかぁ。
まぁ二週間あれば何か成果は出せるよね」
やはり随分と粘りを見せる。飽きっぽい奴とは思っていないが、事が事だけにこの執心は私の好奇心を大いに刺激した。
「ねぇ小鈴。どうして彼岸の花にこだわっているの? ただ花の保存方法を試してみたいっていうのなら、別に此岸の花でもいいんじゃない?」
すると小鈴は私から目をそらし、取りとめのない答えを投げやってくる。
「……ん、なんかさ、いっつも同じ花飾りしかつけてないから、飽きないのかなーとか、その種類しか持ってないのかなーって思ってた。
そんな時だったのよ、この本を見つけたのは。この方法を使えば別の萎れない花飾りが作れるかもって思ったの。
それをあんたにあげれば喜んでくれるんじゃないかって。ま、その特別製のがあるんなら余計なお世話だったかもしれないけど」
普段見せないような態度に面して、私はどういう反応を返せばよいか迷った。
一方の小鈴は固まっている私に向けて、ちょっとばつが悪そうに舌を出して見せる。
「ついでに言っちゃうけど、上手くいったら自分のやつを作ろうとも考えてたんだよね。
本物そっくりの花飾りなんてめったにお目にかかれないし、作る方法もこうして見つかりそうなわけだし」
「……私用のは習作ってわけ?」
「やだなぁ、そんなわけないじゃん。ちゃんと作るってば」
ようやく出てきたのが邪推とは、我ながらなんと天邪鬼なことか。
もう少し素直に感動を表に出せないものか。こういうとき、歳相応に振舞えない御阿礼の魂をもどかしく思う。
私は再び大きくため息を吐くと、小鈴の頭から鈴飾りを外し、肩を覆うほどに広がったその髪に自分の花飾りを取りつける。
「……ふぅん、まぁ、結構似合ってるんじゃない」
「えー、でもあんたのとお揃いってのは、いいの? 私は別に気にしないけど」
「そうね、そこは彼岸にある品種の中からあんた好みのを探しましょうか。
……じゃあ小鈴。私が作ってみてもいい? あんたの分を。それでおあいこでしょ?」
「はいよ。そっちこそ、つたない処女作なんかよこさないでよ?」
手打ちとしてはこんなところか。
それにしても頭上華萎を目の当たりにした直後に、切り花を瑞々しく保つ方法を持ちかけられるとは一体何の因果だろう。
とはいえ外の世界の常識はここ幻想郷で通じる場合もあればそうでない場合もある。
しかも彼岸となればさらに異なる法則で動いていると言ってもいい。はたして、彼岸の花を薬液につけるだけで延命させることは可能なのだろうか。
「それで、脂肪ってなんでもいいの?」
「ええ、動物のでも植物のでも。気休めかもしれないけど、獣脂の方がいいかもね。
元から固まってるから、ひょっとしたら灰の水と混ぜた後でも固まったままかもしれないし」
「じゃあまずは枯木とかを燃やしておけばいいのね」
そしてもし、もしこの方法で七日以上延命できた場合、今私の身につけている花飾りにも同様の措置を施す気になるだろうか。
ただ、それで本当に私の寿命まで延びた場合、今後ずっと死神に命を狙われ続けるということになる。つまり是非曲直庁を裏切ることと同義だ。
「あたいから見れば不老不死なんて、まっとうな人間のやることじゃないね」と、はっきり言い切っていた小町さんの表情は、今でも鮮明に思い出せる。
あれを見た上で今の自分にそこまでの気概があるかと問われると、まぁ、その、もう十年は結論を先送りにしたい気分だ。
「苛性ソーダってのはどうする? 一応考えてみる?」
「うーん、あまり大声では言えないんだけど、中有には地獄由来の物品を売っている店もあるみたいなのよね。
なんでも地獄の釜で熔かし出した鉱物とか金属とかを置いているらしいわ」
「金属って、関係あるの?」
「ああ、苛性ソーダはナトリウムっていう金属を水に溶かしたものなのよ。だからナトリウムさえ買えればあるいは、とも思うわけ」
でも、たとえこの試みが失敗したとしても、この時の記憶だけは何か物に託しておきたい。
それが永久に朽ちないのであれば、あるいは再びまみえ、小鈴の意図せぬ思いやりを偲ぶことができるかもしれないのだから。
こんな関係も良いものですね