どこだろうここは……、と不意に目が覚めた。
確か今はまだ2月の寒い時期だ。布団も厚いものに寝間着を着こんでもぐりこんでいる。
そうでもしなければ隙間風が寒くて眠れたものではない。
時間はおよそ夜であるはずだけれど、明るい月の光が差し込んでくる。
光、ということは襖も開いているのだろうか。と、まだ霞がかった思考のまま光の方に目を向けると、そこには純白の絹の襦袢に身を包んだ金髪の女性が一人、月を眺めながら酒を飲んでいた。
「おはよう、霊夢。それともおそようかしら。いい夜ね」
「やっぱり紫か。それで貴女が連れてきたんでしょう。ここはどこで、何が目的?」
もそもそと起き出して開いた襖の縁に寄りかかりながら尋ねる。
おおよそ経験上、どうせ大した用でもないのだろう。
「どこでもないし、なんでもないの。ただ、寂しくてね。あと、無為を楽しめないのは色々と損よ。まぁ押し付けるものでもないのだろうけれど」
と押しつけておいていけしゃあしゃあとのたまうこの妖怪だけれど、やっぱりあまりに予想通りのその回答が憎めなくて苦笑とため息だけが出てくる。
「はいはい、付き合えばいいんでしょ、あんたの我儘に。ほら徳利貸しなさい。酌してあげる」
「ありがとう。ほらあなたも」
と備えてあったのか、猪口を受け取って紫の横に並んで縁側に腰掛ける。
とぷとぷと酒が注がれて、ちん、と小さく音を立てて杯を乾かす。
無言。そして静寂。
程よく減ったところへ酒を継ぎ足し継ぎ足し。
一体どこにあるのかわからないが、南向きの山の斜面にあるこの庵から見えるのは、その先へと連なる果てのない山々で、木々が青々しく映えていそうだが、逆行となる月の光のせいでその色までをうかがい知ることはできない。
下へ続く坂道を見ると角度は恐ろしいほどに急で、恐らく、くねくねと曲がり曲がって下まで続いているのだろう。
少し太い通路が横に貫いている程度しかない庭先のその先は、背丈の低い草がそよそよと風に揺れて、そのまま向いの山へと、色が連なっていく。
ただひたすらに、儚げで、ほとんど色のない世界。
ふと一つの山の峰に、高い松の木が一本、目立つように生えているのが目に留まる。
鶴だろうか、大きめの鳥が一羽、羽を休めている。眠っているのだろう、微動だにすることはない。
しん、と静かに空気が震えて、一気に空気が静まりかえったような気がする。
ただ、幻想のそのまた幻想、あぁこの世界に二人だけなんだという感覚、錯覚に陥って、自分が世界と一つになったような気がして、ただ時間が止まる。
カチリ、と手に持った猪口から音が立ってまた現実に引き戻される。
注ぎ足された酒を一口。暖かく喉を焼いてふわりと気分が静かに高まっていく。
ただ、風の音と獣の鳴き声が、響く。
ふと強い風がごうと轟いて、庵がきしりと歪む。
お互いの顔も見ずに、ただ酒を注いで、啜る。
不思議とピンと姿勢が伸びて、何気ない一動作すら、緩やかに舞を舞うような心持になってしまう。苦笑いを一つ。
何気なく紫の方を覗くと、徳利から酒を注いで、口に運び、こくり、と一口。
濡れた唇がこれ以上なく色艶やかで、胸にとくりと針が刺さる。
霊夢、と月を見上げながら私の名前を呼ぶ。
沈黙。
そのまま紫をじっと見つめる。もう両の手は空で、なすがままに投げ出されている。
目線の先を追って月を見るとまた、霊夢、と私を呼ぶ声がする。
紫、と投げかけるように返事をする。
「床へ行きましょうか」
「ええ」
と、二つ返事で返す。
火照った体がやけに熱い。
この高ぶりは酒のせい。この熱は酒のせい。この溶けゆく思考は酒のせい。
なのだろうか。
外は不意に雲が湧いてきて月を縞のように隠していく。
「おいで」
とやさしく紫が語りかけて、私は大人しく胸に抱かれた。
少しづつ、少しづつ、紫と私の境界を阻むものが消えていく。
先端に針が刺さったような鋭い感触とともに、色艶やかな声が部屋に充ちる。
天候は急に雨に転じて、しとしとという音以外に、私たちの耳に届く音はない。
ただ、呼吸と声と、水の音がそこで生まれる。
外を見る余裕もなければそちらに回す意識の余裕すらもないが、おそらく月が薄く雲に覆われてゆくのだろう。少しづつ暗くなっていく。
そして私たちはお互いの熱をぶつけ合って、声にならない声をあげて、ひとつに混じりあって、お互いのぬくもりを確認し合う。
私達の境界が曖昧で不可分なものになって、ただただ、ただただ、私たちは積み重なった寂しさをぶつけ合って、それを愛情というものに変換しようとする。
奥深くに閉じ込められた秘め事、姫事。細い指先で触れる旅路、ふれあう度に、やわらかい悲鳴がこだまして、私たち以外に聞く人のいない声が山相に木霊する。
どんどんと摩擦で熱は高まりきって、どんどんと沼の底へ沈んでいくようで、ただただ意識が白く、白く、ただ真っ白に塗りつぶされていく。
そして何日たったかもわからないほど、お互いに溺れきった後、雨が止み、急に空が白んできたところで私たちの逢瀬は終わる。
紫の腕を枕にしてまどろみながら、恐る恐る私は尋ねた。
「今年は、もう少し遅いと思ってた。もうすぐ目が覚めるのね」
「えぇ、少し早い春もいいものでしょう」
「待たされる方はたまったもんじゃないわ」
「置いてかれる方もたまったもんじゃないわ」
「それは言わない約束でしょ」
「えぇ」
「さて紫、これは私の夢、それともあなたの夢?」
「どちらでもあるし、どちらでもないわ」
「じゃあこう聞くわ。ここはどこなのかしら」
「どこかにある場所かもしれないし、どこにもない場所かもしれないわ」
「要領を得ないわね」
「きっと中庸なのよ」
じゃあ霊夢、おやすみなさい。よいウツツを。と紫に頭をなでられたのか、それとも目を伏せされられたのか、そこで私の意識は落ちてしまい、次に目を覚ますといつもの天井だった。
ふあ~と大きい欠伸を一つ、併せて背伸びをするとひらりと視界に舞うものが一つ。もとをたどると左手の薬指に金色の髪の毛がちょうちょ結びで結わえつけてあった。
もう紫ったら、とひとりごちて朝の準備をする。
風が柔らかくなってきた。
春は近い。
確か今はまだ2月の寒い時期だ。布団も厚いものに寝間着を着こんでもぐりこんでいる。
そうでもしなければ隙間風が寒くて眠れたものではない。
時間はおよそ夜であるはずだけれど、明るい月の光が差し込んでくる。
光、ということは襖も開いているのだろうか。と、まだ霞がかった思考のまま光の方に目を向けると、そこには純白の絹の襦袢に身を包んだ金髪の女性が一人、月を眺めながら酒を飲んでいた。
「おはよう、霊夢。それともおそようかしら。いい夜ね」
「やっぱり紫か。それで貴女が連れてきたんでしょう。ここはどこで、何が目的?」
もそもそと起き出して開いた襖の縁に寄りかかりながら尋ねる。
おおよそ経験上、どうせ大した用でもないのだろう。
「どこでもないし、なんでもないの。ただ、寂しくてね。あと、無為を楽しめないのは色々と損よ。まぁ押し付けるものでもないのだろうけれど」
と押しつけておいていけしゃあしゃあとのたまうこの妖怪だけれど、やっぱりあまりに予想通りのその回答が憎めなくて苦笑とため息だけが出てくる。
「はいはい、付き合えばいいんでしょ、あんたの我儘に。ほら徳利貸しなさい。酌してあげる」
「ありがとう。ほらあなたも」
と備えてあったのか、猪口を受け取って紫の横に並んで縁側に腰掛ける。
とぷとぷと酒が注がれて、ちん、と小さく音を立てて杯を乾かす。
無言。そして静寂。
程よく減ったところへ酒を継ぎ足し継ぎ足し。
一体どこにあるのかわからないが、南向きの山の斜面にあるこの庵から見えるのは、その先へと連なる果てのない山々で、木々が青々しく映えていそうだが、逆行となる月の光のせいでその色までをうかがい知ることはできない。
下へ続く坂道を見ると角度は恐ろしいほどに急で、恐らく、くねくねと曲がり曲がって下まで続いているのだろう。
少し太い通路が横に貫いている程度しかない庭先のその先は、背丈の低い草がそよそよと風に揺れて、そのまま向いの山へと、色が連なっていく。
ただひたすらに、儚げで、ほとんど色のない世界。
ふと一つの山の峰に、高い松の木が一本、目立つように生えているのが目に留まる。
鶴だろうか、大きめの鳥が一羽、羽を休めている。眠っているのだろう、微動だにすることはない。
しん、と静かに空気が震えて、一気に空気が静まりかえったような気がする。
ただ、幻想のそのまた幻想、あぁこの世界に二人だけなんだという感覚、錯覚に陥って、自分が世界と一つになったような気がして、ただ時間が止まる。
カチリ、と手に持った猪口から音が立ってまた現実に引き戻される。
注ぎ足された酒を一口。暖かく喉を焼いてふわりと気分が静かに高まっていく。
ただ、風の音と獣の鳴き声が、響く。
ふと強い風がごうと轟いて、庵がきしりと歪む。
お互いの顔も見ずに、ただ酒を注いで、啜る。
不思議とピンと姿勢が伸びて、何気ない一動作すら、緩やかに舞を舞うような心持になってしまう。苦笑いを一つ。
何気なく紫の方を覗くと、徳利から酒を注いで、口に運び、こくり、と一口。
濡れた唇がこれ以上なく色艶やかで、胸にとくりと針が刺さる。
霊夢、と月を見上げながら私の名前を呼ぶ。
沈黙。
そのまま紫をじっと見つめる。もう両の手は空で、なすがままに投げ出されている。
目線の先を追って月を見るとまた、霊夢、と私を呼ぶ声がする。
紫、と投げかけるように返事をする。
「床へ行きましょうか」
「ええ」
と、二つ返事で返す。
火照った体がやけに熱い。
この高ぶりは酒のせい。この熱は酒のせい。この溶けゆく思考は酒のせい。
なのだろうか。
外は不意に雲が湧いてきて月を縞のように隠していく。
「おいで」
とやさしく紫が語りかけて、私は大人しく胸に抱かれた。
少しづつ、少しづつ、紫と私の境界を阻むものが消えていく。
先端に針が刺さったような鋭い感触とともに、色艶やかな声が部屋に充ちる。
天候は急に雨に転じて、しとしとという音以外に、私たちの耳に届く音はない。
ただ、呼吸と声と、水の音がそこで生まれる。
外を見る余裕もなければそちらに回す意識の余裕すらもないが、おそらく月が薄く雲に覆われてゆくのだろう。少しづつ暗くなっていく。
そして私たちはお互いの熱をぶつけ合って、声にならない声をあげて、ひとつに混じりあって、お互いのぬくもりを確認し合う。
私達の境界が曖昧で不可分なものになって、ただただ、ただただ、私たちは積み重なった寂しさをぶつけ合って、それを愛情というものに変換しようとする。
奥深くに閉じ込められた秘め事、姫事。細い指先で触れる旅路、ふれあう度に、やわらかい悲鳴がこだまして、私たち以外に聞く人のいない声が山相に木霊する。
どんどんと摩擦で熱は高まりきって、どんどんと沼の底へ沈んでいくようで、ただただ意識が白く、白く、ただ真っ白に塗りつぶされていく。
そして何日たったかもわからないほど、お互いに溺れきった後、雨が止み、急に空が白んできたところで私たちの逢瀬は終わる。
紫の腕を枕にしてまどろみながら、恐る恐る私は尋ねた。
「今年は、もう少し遅いと思ってた。もうすぐ目が覚めるのね」
「えぇ、少し早い春もいいものでしょう」
「待たされる方はたまったもんじゃないわ」
「置いてかれる方もたまったもんじゃないわ」
「それは言わない約束でしょ」
「えぇ」
「さて紫、これは私の夢、それともあなたの夢?」
「どちらでもあるし、どちらでもないわ」
「じゃあこう聞くわ。ここはどこなのかしら」
「どこかにある場所かもしれないし、どこにもない場所かもしれないわ」
「要領を得ないわね」
「きっと中庸なのよ」
じゃあ霊夢、おやすみなさい。よいウツツを。と紫に頭をなでられたのか、それとも目を伏せされられたのか、そこで私の意識は落ちてしまい、次に目を覚ますといつもの天井だった。
ふあ~と大きい欠伸を一つ、併せて背伸びをするとひらりと視界に舞うものが一つ。もとをたどると左手の薬指に金色の髪の毛がちょうちょ結びで結わえつけてあった。
もう紫ったら、とひとりごちて朝の準備をする。
風が柔らかくなってきた。
春は近い。
「柔ら買く」
後書きの庵に行ってみたい
この二人らしく夢と現がおぼろげなのが素敵ですね