誓います。神に誓います。私は狂人ではありません。私があの時体験した出来事は全て真実です。あの紅の地で起こってしまった、吐き気すら催す冒涜的な現実なのです。
世の人は私のあの体験を信じないでしょう。ですが、私はあの日のことを忘れることが出来ません。決して出来ません。
このように一つの文章としてあの悪夢を後世に残そうという行為すら、神に対する悪かもしれません。しかし、この短い手記が何らかの形で後の世に役立つかもしれない、その可能性が存在するかぎり、私は筆を取りたかったのです。
あの夏の日、紅い地獄のなかで、私は確かに悪魔を見ました。
私は東欧で旅商人をしている男です。生まれてから三十余年、恥ずかしながら神の慈愛をあまり意識せずに生きてきました。もちろん、あの紅と暗黒の出来事を経験した今は違います。神にすがることだけが現在の私を支えているのです。
太陽が恐らく一年のなかで最もギラギラと輝いていたあの日、私はトランシルヴァニア公国はカルパティア山脈の奥深くにある小さな村を訪ねました。
馬車に揺られ、汗を滴り落としながら、苦労してそこまで向かったのは、その村が実に巧みな意匠が施された木造の箱を作っていると耳に挟んだからです。その意匠は話によると、手のひらにおさまるほどの箱にあるものにも関わらず、夜というものを完璧なまでに表現したものだというのです。黒の下地に月、星、森、狼、そして蝙蝠が彫られ、一目見ただけで誰もが魅了される至高の品。私は村でその箱を大量に仕入れ、一つ大儲けをしてやろうと考えたのです。
ですが、私のそんな小賢しい企みは、風の前の塵のように、あっというまに吹き飛んでしまいました。
私が村に到着した時、村は騒然としていました。家々からは人々が飛び出し、落ち着かない様子で何かを相談しています。私はどうやらこの村に面倒なことが起こっていると思い、ひとまず物陰に隠れ、村人の語る言葉を盗み聞きしました。
「おいおい!? 一体なにがどうなっているんだ!?」
「村はずれに紅魔様の一人が倒れていたって本当か!?」
「今しがた息を引き取られたそうだ……」
「使い魔が山のように村へ逃げ込んできたぁ!?」
「紅魔宮殿にとんでもないことが起きたんじゃないか?」
「いますぐ宮殿に行こう!」
「我らが主をお助けするんだ!」
意味が分かりませんでした。
紅魔様とは一体なにものでしょう。この辺り一帯の領主様でしょうか。いえ、領主様は確かもっと違う名前だったはずです。ですが、村人の様子を見るに、どうやら紅魔様とはとても人々に慕われた統治者のようなのです。
なぜなら、人々は我も我もと鉈やクワを取り出し、そして「紅魔万歳!」を叫んでいます。村中の人間が(女子供も含めて)宮殿とやらに向かう準備を進めています。しばらくすると、たぶん村長と思われる老人が村人の前に立ち、全員で行ってしまえば逆に混乱が増すばかりだ、まず偵察隊を送ろうと提案しました。
この瞬間でした。
私に忌むべき好奇心が芽生えてしまったのは。
彼らの偵察隊について行ってしまおうか? そして、紅魔様の顔を一度拝んでやろうではないか? なにか厄介なことが起こっているようだが、あいつらからちょっとばかし離れていればこっちの存在を気取られることもあるまい。むしろ高みの見物とばかりに、あいつらの騒動で楽しもうじゃないか。
私は本当に、あの時の自分を殺したくなります。
あんなことさえ、あんなことさえ考えなければ。
地上の地獄に行くことなんてなかったのに。
偵察隊は十人ほどで組織され、慌しく村を出発しました。私はこっそりとその後をつけます。おそらく、彼らはよほど混乱していたのでしょう。素人のはずである私の尾行に、最後まで気づくことはありませんでした(馬車は置いてきました)。
村からは一本の細い道が、深く暗い森へと続いていました。道はくねくねと曲がっており、私はその角から偵察隊の様子をうかがっていました。
ああ、今から思えばあの森にいた時点で、不思議なことは始まっていたのです。
あの森には鳥の鳴き声が響かず、虫が這い回る様子がありませんでした。しーんと、どこまでも静かなのです。
まるで全ての生き物が死に絶えてしまったかのように。
ですが愚かな私はそれに不安を覚えることもなく、一種の能天気さを保っていました。
どれほどの時間が経ったでしょうか。
耳鳴りがするほどの静かな森に、偵察隊の地面を踏みしめる音だけが聞こえます。ふと少し顔を上げると、そこにはカルパティアの山々がすぐそばにまで迫っていました。
私は山脈の雄大さに目を奪われ、しばしそれらを凝視しました。
その時、です。
山の向こうから、何かが飛んでくるのが分かりました。
最初、私はそれまでの常識に従い、それを鳥だと思っていました。
ですが、それがこちらに近づいてくるごとにその姿がはっきりと分かるようになると、その認識が全くの見当はずれであると理解せざるを得ないようになったのです。
それは人間の形をしていました。ですが、決して人間ではなかったのです。
顔は山羊でした。口元はこちらの神経を逆撫でするかのように嘲笑。黒一色の人間に酷似した全裸体に、黒一色の蝙蝠のような羽を持っていました。
私はそれを見た瞬間、全身に激しい痙攣が起こり、一時的な失語症に陥りました。叫びたかった。喉を潰さんばかりに叫び出したかった。しかし私は硬直し、一言も喋ることが出来なくなってしまいました。
「おい、グルタールだぞ!」
「何か知っているかもしれないな……おーい、降りて来い!」
「うん? ひいふうみい……十匹ぐらいまとめて来たぞ?」
ああ! 村人達が喋っていることは耳に入っています。けれど私には山脈からさらにやってきた、十匹の同種の怪物のほうがずっと大事だったのです! 激しい恐怖が体を包みました。私はその場から一歩も動けなくなってしまいました。
「おい、グルタールの様子がおかしいぞ!」
偵察隊の誰かがそう叫んだ瞬間です。
山羊頭の群れは偵察隊に向かって、まるで猛禽のように急降下を始めました。
偵察隊は激しく動揺し、混乱し、ただ突っ立っているだけ。
山羊頭は一体につき一人、村人を抱きかかえました。村人たちはようやくその時になって、目の前の存在が自分達に害を与えるものだと気づいたのでしょうか、持っていた鉈や短刀を怪物に突き立てました。
ですが、効果があるようには思えませんでした。傷口からは血の一滴も流れでなかったのです。
きしゃら、という音が耳元でしました。それは鎖をひきずるような音でした。
私は急いで振り返りました。
私の真後ろで、山羊頭が嘲りの笑みを浮かべていました。
この先の出来事を記す前に告白します。私は羊皮紙に文章を書き綴る手を一日止めてしまいました。この後を出来事を書くことに、激しい抵抗を覚えたためです。
恐ろしいのです。心の底から恐ろしいのです。
ひんやりとした空気が肌をなめる感覚と共に、私は目覚めました。
怪物の顔を見た瞬間、一時的な記憶の断絶がありました。たぶんあの時、私は気を失ってしまったのでしょう。
ぼんやりとした意識のまま、周囲を見渡します。
まず、石のブロックで形成された天井、そして壁が見えました。どうやらどこかの部屋に私は仰向けで寝転がっているようです。部屋の広さは分かりません。蝋燭が一つしかなくかなり薄暗いためです。
「お、おい! ここにも誰かいるぞ!」
がちゃりという音と共に、暗闇の向こうから誰かがやってくる気配がしました。私は勢いよく飛び起きました。あの山羊頭の怪物のことを思い出したからです。もし、同じものが来たのなら……。
ですが、ありがたいことに、その心配は杞憂に終わりました。
暗闇からやってきたのは、あの偵察隊の面々でした。
「む……よそものか」
彼らは私の姿を視認した瞬間から、どこかよそよそしい態度を取っていました。よそものという言葉から推測するに、どうやら何らかの秘密を抱えているようです。
ですが、その時の私にとってはどうでもよいことでした。偵察隊の持っていた蝋燭の光によってようやく、自分が牢屋のような場所に閉じ込められていることが分かったからです(がちゃりという音は牢の鍵を開ける音でしょう)。なんにしろ、これでここから出れるのです。
彼らは私に、ここがどうゆう場所なのかを教えることはありませんでした。ただ、自分たちも牢屋に閉じ込めれていたが、なぜか牢屋の見張り番が急に倒れそのため鍵が牢の中に入り込み、それを使って脱出してここにいるのだということだけ教えてくれました。
その後、偵察隊は私に聞かれないよう注意しながら、相談を始めました。
ぼそぼそという小さな声でしゃべり、なおかつ距離も取っていたので相談内容は分かりません。
ただ、あの言葉、『紅魔様』という単語だけは耳に届き、恐らく彼らの主を指すであろうその言葉が、なぜか私にはとてつもなく不吉に思えました。
この時点で私はへたな好奇心をもってしまったことを激しく後悔していました。あのときおとなしく帰っていればよかったんだ、冒険を繰り広げ黄金を持ち帰る騎士にでもなったつもりだったのか。うなだれて、その場にへたり込みました。
ですが、まだ私は気づいていなかったのです。
自分がまだ、地獄の入り口に足を踏み入れたばかりであるということを。
本当の恐怖はここから始まるということを。
「ぎゃああああああああああああああああ!」
牢屋から出た先の空間も二十人ほどで一杯になる程度の場所でした。そんな狭い場所一杯に偵察隊の絶叫が響いたのです。
それはまさしく断末魔、人間が真の絶望を知ったときにのみ発することができる叫びでした。
なにごとかと思い、私はうずくまるのを止め、彼らの方を見遣りました。
なんてことでしょう。なんてことでしょう。
偵察隊には狂気的ともいえる異常が発現していたのです。
木です。
彼らの肌が木になっていくのです。
ゆらゆらと揺らめく蝋燭の火に照らされた偵察隊一人一人の肌が、人間の肉から変質していきます。肌の色がまず茶色っぽくなり、そのあと一気に木の幹としか言いようのない質感へと変わっていきます。
「ぎゃあああああああああああああああああああ!」
激痛が走っているのでしょうか、偵察隊の十人はもんどりうって倒れ、その場でジタバタともがいています。
私はただ唖然とし、目の前の状況に圧倒されていました。
彼らの目玉を突き破り、木の枝が出てきました。鼻の穴からも、耳の穴からも木の枝は生えてきます。その葉っぱは紅色でした。
彼らは急速に植物になろうとしている。
私は莫大なる恐怖に支配されながらそう考えました。そして、同時にあることに思い至ったのです。
私も彼らと同じように叫びました。そして狂乱しながら走り出しました。扉を探し、それを開け、とにかく足を動かして走り出しました。
気づいてしまったのです。
私も彼らと同じように閉じ込められた。
ならば、同じ運命を辿るのではないか、と。
幾つか目の扉が開いたとき、そこには紅い世界が広がっていました。
確かに、そのどこか城館を思わせる石造りの廊下はけばけばしい紅色で塗りたくられていました。ですが、私が言いたい紅色はそんなものではありません。
それは霧でした。屋内にも関わらず、夜の森から吹き出すあの濃さで霧が発生していました。その霧が紅いのです。飛び散ったばかりの血と同じぐらいの紅さでした。
私は異常な光景のなかを走りぬけます。きっと理性というものは崩壊していたのでしょう。狂乱した馬のごとく、一心不乱に、ただ目標もなく足を動かし続けます。
途中で何枚かの絵画を見たような気がします。
あの山羊頭の怪物が描かれた絵。豪奢な金髪を持ち貴族のような服を着ている男の絵。淡い水色の髪を持ちどこかの女王さまを彷彿とさせる女の絵。
真っ白い皿に血を噴出し続ける心臓が置かれている絵もありました。
やがて、死体がごろごろとそこら中に転がるようになってきました。
ですが、私はそれを人間だと絶対に認めたくありません。なぜなら死体の口からは、鋭くとがった、犬歯が生えていたからです。死体には不思議な特徴がありました。貴族の格好をしたそれら人間に酷似した怪物たちの死体は、ことごとく『破裂』したような跡があったのです。外からつけられた傷はありませんでした
これは私も半ば直感で感じたことであり、観察も不十分です。正しいかどうかの保障は全くできません。ですが、あの死体は尋常な出来事でつくりあげられた物ではありません。正常なる世界には決して存在するべきではない、異様な雰囲気をあの幾多の死体は持っていました。
城館を走り回っていると、死体に足首を掴まれた時もありました。内部から破裂し、全ての内臓が辺りに散らばっているというのに、死体は、生きた死体はうなり声をあげながら私の足首に噛み付こうとしました。
私は右足を振り上げ、生きた死体の頭蓋を蹴りつけました。何度も、何度も。
何十回と蹴り続けてようやく、死体は本来のものに回帰しました。
世界は紅く、血に塗れきっています。
そして。
私はそこにたどり着きました。
どれほど走り回ったでしょうか。足は棒のようになり、遂には走れなくなって、私は城館のとある広い空間で倒れこみました。ぜえぜえと息を吐き、うつむきで顔も上げません。
次々に起こった異常極まりない体験の数々に、私の頭はほぼ完全に真っ白になってしまいました。まともな思考もできず、ただその場で倒れているだけです。
「……だあれ?」
甘い、声がしました。脳髄をとろかすような甘い声。
少女の声です。ですが私にはどうしても、それがとびっきりの娼婦の声でもあるような、そんな矛盾した感覚を拭いきることは出来ませんでした。
私は、ゆっくりと、顔を上げました。
ああ。
ああ。
ああ!
何百という蝋燭、照らし出しているのは紅色。いまこの世界が紅いのは、霧だけのせいではありません。この広い空間全体が血飛沫に覆われてしまっているのです。
広い空間はおぞましいことに、大聖堂を模していました。ローマ風の半円形アーチと短く太い柱から察するにロマネスク式でしょうか。壁画にはこの世のありとあらゆる悪魔が描かれ、人間の血肉をむさぼっています。
忌まわしき大聖堂の中心には無数の死体が折り重なり、小山のようになっていました。そのことごとくが、やはり内部から破裂したように見えます。
「ねえ、答えてよ……だあれ?」
声は、死体の山の頂から発せられていました。
死体の山の上で少女が膝を抱えて座っています。十にも満たないであろう短い金髪の少女、その身の丈に合っていただろうドレスはズタズタになっていました。
少女は人間ではありません。人間であろうはずがありません。
背中からは極限まで枯れきった枝のようなものが生えており、さらにそこには月を思わせるような淡い光を放つ宝石がぶらさがっているのです。
ああ、このように書き出しているだけで震えが止まりません。
あの瞬間、私はここが地獄であると確信しました。地の底から悪魔たちが地上に這いずり出てきたのです。
「どうして教えてくれないの……?」
奇妙な少女は繰り返し私に尋ねてきます。ですが、私はただ恐怖に震えているだけで、何か言葉を発する余裕は一切ありませんでした。
「……もう、いいよ」
少女は私に右手を向けました。
刹那、背筋に凄まじい悪寒が走ります。理由は分かりません。ですが、なにか破滅的なことが起きてしまうという予感がしたのです。
「死んじゃえ」
少女が、手を、握ろうと……
「もう暴れなくてもいいわ、フラン」
どう形容したいいのでしょうか。その時おこった現象を表わす言葉は、私の語彙の中にありません。しかし、あえて言うのなら。
紅い槍が、少女の首を切断した。
轟音が辺りに響きました。土埃が巻き起こり、死体も、そして私も吹き飛ばされます。ごろごろと私は転がされ、壁にぶつかってようやく止まりました。
「お手柄よフラン。あなたのおかげで裏切り者を殺すことに集中できたわ」
何が起こったのか全くわかりません。私は混乱の極地にいました。
土埃の向こうから、姿は確認出来ませんが、誰かの声がします。
「でも、味方も皆殺しにしてしまったのね。ああ……あなたらしいわ」
「レミリアお姉さま……痛いよう、痛いよう」
首を切り落とされたはずの少女の声がします。
「あいつら村の連中からも魔力を奪い取るつもりだったようだけど、それも無駄になったわね」
「お姉さま……お姉さま……」
「……何もかも無くなっちゃったわね。フラン、しばらくは首だけで我慢してね。あなたを守る封印部屋も壊れてしまったのだから」
「……」
「あら、眠ったの……フラン、わたし頑張るからね。絶対にお父様の吸血鬼帝国を復活させてやるんだから」
驚くべきことに、私は自分の馬車のなかで目を醒ましました。
土埃の向こうの言葉を幾つか聞いたあと、私はどうやら再び気を失っていたようです。
しかし、なぜここにいるのだろうか、私はどうやってあそこから移動したのか。そんな疑問が頭一杯に広がります。
馬車の端っこに目をやると、そこには一枚の羊皮紙が置かれていました。
それを掴み、目を通します。
「詳細を書くわけにはいかないので短い手紙になることを許してくれ。
我々の内紛に巻き込んでしまって本当に申し訳ない。貴方の馬車はそれであっていただろうか?
金貨を用意した。もちろんそれで足りるはずもないのだが。
ああ、『それ』は右手のみにおさまるだろう。
重ね重ね申し訳ない。あなたの運命に多幸あらんことを。
紅魔当主 レミリア」
私は傍に合った金貨が入った袋を手に取ると、それを思いっきり遠くへとぶん投げました。
手紙を引き裂き、踏みつけます。
汚らわしいものを触ってしまった嫌悪感に支配されながら、私は馬車を操り、カルパティア山脈から逃げ出しました。
誓います。神に誓います。私は狂人ではありません。以上のことは全て真実です。
私の脳裏には常にあの、霧と血飛沫の紅が、焼きついています。
私にはあの出来事が地獄そのものであるとしか思えません。生が死となり、死が生となる、紅の地獄です。
そしてあの少女と、土埃の向こうの声は悪魔そのものです。山羊頭は悪魔の使いでしょう。
ああ、私のこれからの一生は恐怖に支配されたものに違いありません。あの絶大なる悪夢は、きっと永久に忘れられるものではないでしょうから。
神よ、どうか私にご慈悲を。
ですが、もう私は悪魔たちの一員になってしまったかもしれません。
この文章を書いてきた右手は、もうだいぶ木の幹に近づいているのですから。
世の人は私のあの体験を信じないでしょう。ですが、私はあの日のことを忘れることが出来ません。決して出来ません。
このように一つの文章としてあの悪夢を後世に残そうという行為すら、神に対する悪かもしれません。しかし、この短い手記が何らかの形で後の世に役立つかもしれない、その可能性が存在するかぎり、私は筆を取りたかったのです。
あの夏の日、紅い地獄のなかで、私は確かに悪魔を見ました。
私は東欧で旅商人をしている男です。生まれてから三十余年、恥ずかしながら神の慈愛をあまり意識せずに生きてきました。もちろん、あの紅と暗黒の出来事を経験した今は違います。神にすがることだけが現在の私を支えているのです。
太陽が恐らく一年のなかで最もギラギラと輝いていたあの日、私はトランシルヴァニア公国はカルパティア山脈の奥深くにある小さな村を訪ねました。
馬車に揺られ、汗を滴り落としながら、苦労してそこまで向かったのは、その村が実に巧みな意匠が施された木造の箱を作っていると耳に挟んだからです。その意匠は話によると、手のひらにおさまるほどの箱にあるものにも関わらず、夜というものを完璧なまでに表現したものだというのです。黒の下地に月、星、森、狼、そして蝙蝠が彫られ、一目見ただけで誰もが魅了される至高の品。私は村でその箱を大量に仕入れ、一つ大儲けをしてやろうと考えたのです。
ですが、私のそんな小賢しい企みは、風の前の塵のように、あっというまに吹き飛んでしまいました。
私が村に到着した時、村は騒然としていました。家々からは人々が飛び出し、落ち着かない様子で何かを相談しています。私はどうやらこの村に面倒なことが起こっていると思い、ひとまず物陰に隠れ、村人の語る言葉を盗み聞きしました。
「おいおい!? 一体なにがどうなっているんだ!?」
「村はずれに紅魔様の一人が倒れていたって本当か!?」
「今しがた息を引き取られたそうだ……」
「使い魔が山のように村へ逃げ込んできたぁ!?」
「紅魔宮殿にとんでもないことが起きたんじゃないか?」
「いますぐ宮殿に行こう!」
「我らが主をお助けするんだ!」
意味が分かりませんでした。
紅魔様とは一体なにものでしょう。この辺り一帯の領主様でしょうか。いえ、領主様は確かもっと違う名前だったはずです。ですが、村人の様子を見るに、どうやら紅魔様とはとても人々に慕われた統治者のようなのです。
なぜなら、人々は我も我もと鉈やクワを取り出し、そして「紅魔万歳!」を叫んでいます。村中の人間が(女子供も含めて)宮殿とやらに向かう準備を進めています。しばらくすると、たぶん村長と思われる老人が村人の前に立ち、全員で行ってしまえば逆に混乱が増すばかりだ、まず偵察隊を送ろうと提案しました。
この瞬間でした。
私に忌むべき好奇心が芽生えてしまったのは。
彼らの偵察隊について行ってしまおうか? そして、紅魔様の顔を一度拝んでやろうではないか? なにか厄介なことが起こっているようだが、あいつらからちょっとばかし離れていればこっちの存在を気取られることもあるまい。むしろ高みの見物とばかりに、あいつらの騒動で楽しもうじゃないか。
私は本当に、あの時の自分を殺したくなります。
あんなことさえ、あんなことさえ考えなければ。
地上の地獄に行くことなんてなかったのに。
偵察隊は十人ほどで組織され、慌しく村を出発しました。私はこっそりとその後をつけます。おそらく、彼らはよほど混乱していたのでしょう。素人のはずである私の尾行に、最後まで気づくことはありませんでした(馬車は置いてきました)。
村からは一本の細い道が、深く暗い森へと続いていました。道はくねくねと曲がっており、私はその角から偵察隊の様子をうかがっていました。
ああ、今から思えばあの森にいた時点で、不思議なことは始まっていたのです。
あの森には鳥の鳴き声が響かず、虫が這い回る様子がありませんでした。しーんと、どこまでも静かなのです。
まるで全ての生き物が死に絶えてしまったかのように。
ですが愚かな私はそれに不安を覚えることもなく、一種の能天気さを保っていました。
どれほどの時間が経ったでしょうか。
耳鳴りがするほどの静かな森に、偵察隊の地面を踏みしめる音だけが聞こえます。ふと少し顔を上げると、そこにはカルパティアの山々がすぐそばにまで迫っていました。
私は山脈の雄大さに目を奪われ、しばしそれらを凝視しました。
その時、です。
山の向こうから、何かが飛んでくるのが分かりました。
最初、私はそれまでの常識に従い、それを鳥だと思っていました。
ですが、それがこちらに近づいてくるごとにその姿がはっきりと分かるようになると、その認識が全くの見当はずれであると理解せざるを得ないようになったのです。
それは人間の形をしていました。ですが、決して人間ではなかったのです。
顔は山羊でした。口元はこちらの神経を逆撫でするかのように嘲笑。黒一色の人間に酷似した全裸体に、黒一色の蝙蝠のような羽を持っていました。
私はそれを見た瞬間、全身に激しい痙攣が起こり、一時的な失語症に陥りました。叫びたかった。喉を潰さんばかりに叫び出したかった。しかし私は硬直し、一言も喋ることが出来なくなってしまいました。
「おい、グルタールだぞ!」
「何か知っているかもしれないな……おーい、降りて来い!」
「うん? ひいふうみい……十匹ぐらいまとめて来たぞ?」
ああ! 村人達が喋っていることは耳に入っています。けれど私には山脈からさらにやってきた、十匹の同種の怪物のほうがずっと大事だったのです! 激しい恐怖が体を包みました。私はその場から一歩も動けなくなってしまいました。
「おい、グルタールの様子がおかしいぞ!」
偵察隊の誰かがそう叫んだ瞬間です。
山羊頭の群れは偵察隊に向かって、まるで猛禽のように急降下を始めました。
偵察隊は激しく動揺し、混乱し、ただ突っ立っているだけ。
山羊頭は一体につき一人、村人を抱きかかえました。村人たちはようやくその時になって、目の前の存在が自分達に害を与えるものだと気づいたのでしょうか、持っていた鉈や短刀を怪物に突き立てました。
ですが、効果があるようには思えませんでした。傷口からは血の一滴も流れでなかったのです。
きしゃら、という音が耳元でしました。それは鎖をひきずるような音でした。
私は急いで振り返りました。
私の真後ろで、山羊頭が嘲りの笑みを浮かべていました。
この先の出来事を記す前に告白します。私は羊皮紙に文章を書き綴る手を一日止めてしまいました。この後を出来事を書くことに、激しい抵抗を覚えたためです。
恐ろしいのです。心の底から恐ろしいのです。
ひんやりとした空気が肌をなめる感覚と共に、私は目覚めました。
怪物の顔を見た瞬間、一時的な記憶の断絶がありました。たぶんあの時、私は気を失ってしまったのでしょう。
ぼんやりとした意識のまま、周囲を見渡します。
まず、石のブロックで形成された天井、そして壁が見えました。どうやらどこかの部屋に私は仰向けで寝転がっているようです。部屋の広さは分かりません。蝋燭が一つしかなくかなり薄暗いためです。
「お、おい! ここにも誰かいるぞ!」
がちゃりという音と共に、暗闇の向こうから誰かがやってくる気配がしました。私は勢いよく飛び起きました。あの山羊頭の怪物のことを思い出したからです。もし、同じものが来たのなら……。
ですが、ありがたいことに、その心配は杞憂に終わりました。
暗闇からやってきたのは、あの偵察隊の面々でした。
「む……よそものか」
彼らは私の姿を視認した瞬間から、どこかよそよそしい態度を取っていました。よそものという言葉から推測するに、どうやら何らかの秘密を抱えているようです。
ですが、その時の私にとってはどうでもよいことでした。偵察隊の持っていた蝋燭の光によってようやく、自分が牢屋のような場所に閉じ込められていることが分かったからです(がちゃりという音は牢の鍵を開ける音でしょう)。なんにしろ、これでここから出れるのです。
彼らは私に、ここがどうゆう場所なのかを教えることはありませんでした。ただ、自分たちも牢屋に閉じ込めれていたが、なぜか牢屋の見張り番が急に倒れそのため鍵が牢の中に入り込み、それを使って脱出してここにいるのだということだけ教えてくれました。
その後、偵察隊は私に聞かれないよう注意しながら、相談を始めました。
ぼそぼそという小さな声でしゃべり、なおかつ距離も取っていたので相談内容は分かりません。
ただ、あの言葉、『紅魔様』という単語だけは耳に届き、恐らく彼らの主を指すであろうその言葉が、なぜか私にはとてつもなく不吉に思えました。
この時点で私はへたな好奇心をもってしまったことを激しく後悔していました。あのときおとなしく帰っていればよかったんだ、冒険を繰り広げ黄金を持ち帰る騎士にでもなったつもりだったのか。うなだれて、その場にへたり込みました。
ですが、まだ私は気づいていなかったのです。
自分がまだ、地獄の入り口に足を踏み入れたばかりであるということを。
本当の恐怖はここから始まるということを。
「ぎゃああああああああああああああああ!」
牢屋から出た先の空間も二十人ほどで一杯になる程度の場所でした。そんな狭い場所一杯に偵察隊の絶叫が響いたのです。
それはまさしく断末魔、人間が真の絶望を知ったときにのみ発することができる叫びでした。
なにごとかと思い、私はうずくまるのを止め、彼らの方を見遣りました。
なんてことでしょう。なんてことでしょう。
偵察隊には狂気的ともいえる異常が発現していたのです。
木です。
彼らの肌が木になっていくのです。
ゆらゆらと揺らめく蝋燭の火に照らされた偵察隊一人一人の肌が、人間の肉から変質していきます。肌の色がまず茶色っぽくなり、そのあと一気に木の幹としか言いようのない質感へと変わっていきます。
「ぎゃあああああああああああああああああああ!」
激痛が走っているのでしょうか、偵察隊の十人はもんどりうって倒れ、その場でジタバタともがいています。
私はただ唖然とし、目の前の状況に圧倒されていました。
彼らの目玉を突き破り、木の枝が出てきました。鼻の穴からも、耳の穴からも木の枝は生えてきます。その葉っぱは紅色でした。
彼らは急速に植物になろうとしている。
私は莫大なる恐怖に支配されながらそう考えました。そして、同時にあることに思い至ったのです。
私も彼らと同じように叫びました。そして狂乱しながら走り出しました。扉を探し、それを開け、とにかく足を動かして走り出しました。
気づいてしまったのです。
私も彼らと同じように閉じ込められた。
ならば、同じ運命を辿るのではないか、と。
幾つか目の扉が開いたとき、そこには紅い世界が広がっていました。
確かに、そのどこか城館を思わせる石造りの廊下はけばけばしい紅色で塗りたくられていました。ですが、私が言いたい紅色はそんなものではありません。
それは霧でした。屋内にも関わらず、夜の森から吹き出すあの濃さで霧が発生していました。その霧が紅いのです。飛び散ったばかりの血と同じぐらいの紅さでした。
私は異常な光景のなかを走りぬけます。きっと理性というものは崩壊していたのでしょう。狂乱した馬のごとく、一心不乱に、ただ目標もなく足を動かし続けます。
途中で何枚かの絵画を見たような気がします。
あの山羊頭の怪物が描かれた絵。豪奢な金髪を持ち貴族のような服を着ている男の絵。淡い水色の髪を持ちどこかの女王さまを彷彿とさせる女の絵。
真っ白い皿に血を噴出し続ける心臓が置かれている絵もありました。
やがて、死体がごろごろとそこら中に転がるようになってきました。
ですが、私はそれを人間だと絶対に認めたくありません。なぜなら死体の口からは、鋭くとがった、犬歯が生えていたからです。死体には不思議な特徴がありました。貴族の格好をしたそれら人間に酷似した怪物たちの死体は、ことごとく『破裂』したような跡があったのです。外からつけられた傷はありませんでした
これは私も半ば直感で感じたことであり、観察も不十分です。正しいかどうかの保障は全くできません。ですが、あの死体は尋常な出来事でつくりあげられた物ではありません。正常なる世界には決して存在するべきではない、異様な雰囲気をあの幾多の死体は持っていました。
城館を走り回っていると、死体に足首を掴まれた時もありました。内部から破裂し、全ての内臓が辺りに散らばっているというのに、死体は、生きた死体はうなり声をあげながら私の足首に噛み付こうとしました。
私は右足を振り上げ、生きた死体の頭蓋を蹴りつけました。何度も、何度も。
何十回と蹴り続けてようやく、死体は本来のものに回帰しました。
世界は紅く、血に塗れきっています。
そして。
私はそこにたどり着きました。
どれほど走り回ったでしょうか。足は棒のようになり、遂には走れなくなって、私は城館のとある広い空間で倒れこみました。ぜえぜえと息を吐き、うつむきで顔も上げません。
次々に起こった異常極まりない体験の数々に、私の頭はほぼ完全に真っ白になってしまいました。まともな思考もできず、ただその場で倒れているだけです。
「……だあれ?」
甘い、声がしました。脳髄をとろかすような甘い声。
少女の声です。ですが私にはどうしても、それがとびっきりの娼婦の声でもあるような、そんな矛盾した感覚を拭いきることは出来ませんでした。
私は、ゆっくりと、顔を上げました。
ああ。
ああ。
ああ!
何百という蝋燭、照らし出しているのは紅色。いまこの世界が紅いのは、霧だけのせいではありません。この広い空間全体が血飛沫に覆われてしまっているのです。
広い空間はおぞましいことに、大聖堂を模していました。ローマ風の半円形アーチと短く太い柱から察するにロマネスク式でしょうか。壁画にはこの世のありとあらゆる悪魔が描かれ、人間の血肉をむさぼっています。
忌まわしき大聖堂の中心には無数の死体が折り重なり、小山のようになっていました。そのことごとくが、やはり内部から破裂したように見えます。
「ねえ、答えてよ……だあれ?」
声は、死体の山の頂から発せられていました。
死体の山の上で少女が膝を抱えて座っています。十にも満たないであろう短い金髪の少女、その身の丈に合っていただろうドレスはズタズタになっていました。
少女は人間ではありません。人間であろうはずがありません。
背中からは極限まで枯れきった枝のようなものが生えており、さらにそこには月を思わせるような淡い光を放つ宝石がぶらさがっているのです。
ああ、このように書き出しているだけで震えが止まりません。
あの瞬間、私はここが地獄であると確信しました。地の底から悪魔たちが地上に這いずり出てきたのです。
「どうして教えてくれないの……?」
奇妙な少女は繰り返し私に尋ねてきます。ですが、私はただ恐怖に震えているだけで、何か言葉を発する余裕は一切ありませんでした。
「……もう、いいよ」
少女は私に右手を向けました。
刹那、背筋に凄まじい悪寒が走ります。理由は分かりません。ですが、なにか破滅的なことが起きてしまうという予感がしたのです。
「死んじゃえ」
少女が、手を、握ろうと……
「もう暴れなくてもいいわ、フラン」
どう形容したいいのでしょうか。その時おこった現象を表わす言葉は、私の語彙の中にありません。しかし、あえて言うのなら。
紅い槍が、少女の首を切断した。
轟音が辺りに響きました。土埃が巻き起こり、死体も、そして私も吹き飛ばされます。ごろごろと私は転がされ、壁にぶつかってようやく止まりました。
「お手柄よフラン。あなたのおかげで裏切り者を殺すことに集中できたわ」
何が起こったのか全くわかりません。私は混乱の極地にいました。
土埃の向こうから、姿は確認出来ませんが、誰かの声がします。
「でも、味方も皆殺しにしてしまったのね。ああ……あなたらしいわ」
「レミリアお姉さま……痛いよう、痛いよう」
首を切り落とされたはずの少女の声がします。
「あいつら村の連中からも魔力を奪い取るつもりだったようだけど、それも無駄になったわね」
「お姉さま……お姉さま……」
「……何もかも無くなっちゃったわね。フラン、しばらくは首だけで我慢してね。あなたを守る封印部屋も壊れてしまったのだから」
「……」
「あら、眠ったの……フラン、わたし頑張るからね。絶対にお父様の吸血鬼帝国を復活させてやるんだから」
驚くべきことに、私は自分の馬車のなかで目を醒ましました。
土埃の向こうの言葉を幾つか聞いたあと、私はどうやら再び気を失っていたようです。
しかし、なぜここにいるのだろうか、私はどうやってあそこから移動したのか。そんな疑問が頭一杯に広がります。
馬車の端っこに目をやると、そこには一枚の羊皮紙が置かれていました。
それを掴み、目を通します。
「詳細を書くわけにはいかないので短い手紙になることを許してくれ。
我々の内紛に巻き込んでしまって本当に申し訳ない。貴方の馬車はそれであっていただろうか?
金貨を用意した。もちろんそれで足りるはずもないのだが。
ああ、『それ』は右手のみにおさまるだろう。
重ね重ね申し訳ない。あなたの運命に多幸あらんことを。
紅魔当主 レミリア」
私は傍に合った金貨が入った袋を手に取ると、それを思いっきり遠くへとぶん投げました。
手紙を引き裂き、踏みつけます。
汚らわしいものを触ってしまった嫌悪感に支配されながら、私は馬車を操り、カルパティア山脈から逃げ出しました。
誓います。神に誓います。私は狂人ではありません。以上のことは全て真実です。
私の脳裏には常にあの、霧と血飛沫の紅が、焼きついています。
私にはあの出来事が地獄そのものであるとしか思えません。生が死となり、死が生となる、紅の地獄です。
そしてあの少女と、土埃の向こうの声は悪魔そのものです。山羊頭は悪魔の使いでしょう。
ああ、私のこれからの一生は恐怖に支配されたものに違いありません。あの絶大なる悪夢は、きっと永久に忘れられるものではないでしょうから。
神よ、どうか私にご慈悲を。
ですが、もう私は悪魔たちの一員になってしまったかもしれません。
この文章を書いてきた右手は、もうだいぶ木の幹に近づいているのですから。
最高でした。
本当の出来事なのではないかと思うほどに引き込まれるお話でした。