ちょっと良い食材が手に入ったので、地底の面々と軽い宴会をしていた時、その来訪者は現れた。
「すいません」
聞きなれない声に、揃っていた面々が一斉に振り向くと、見慣れぬ少女は萎縮したように頭を下げた。
「えっと、その、こちらに黒谷ヤマメさんはいらっしゃいますか?」
「ふぅん。ヤマメ。お客さんなんて妬ましいわね」
「ああ全くだ。どこで引っ掛けてきたんだい?」
「私も知らない顔だよ」
地底の仲間からの冷やかしをぞんざいに流しながら、その兎耳をつけた少女の前に立った。
「えぇっと、私がヤマメだけど……どちらさま?」
「は、はい。私は鈴仙優曇華院イナバ。地上の永遠亭の使いです」
「永遠亭、ねぇ……」
緊張した様子の鈴仙を前に、聞き覚えの無い名に首を傾げる。
長らく地上から離れた身で、そこの何かの名前など、普通に考えれば知っているはずもないのだが。
「永遠亭というのは、地上にある迷いの竹林にあって、医者のような事をしているところです」
「へぇ。で、そのお医者の使いが何か用かい?」
特に呼びつけられるような悪さをした覚えも無いし、と、首を傾げるヤマメ。まあ、その場合はむしろ問答無用で殴りかかられてそうだが。
「は、はい。噂で伺ったのですが、黒谷さんは、病気を操る能力をお持ちとの事で――」
「や、面倒だから、普通に話しとくれ、あんまり緊張されても肩が凝るってもんさ」
「はっ、はいっ」
手を挙げて言葉を遮ると、慌てた様子で鈴仙が深呼吸を始める。
(なんだか知らないけど、何をそんな緊張してるのかねぇ?)
怪訝に思って首を傾げていると、鈴仙はようやく落ち着いた様子で口を開いた。
「病を操る能力があるという話を聞いて、うちの師匠が協力して欲しいと言っているの」
「薬師が協力して欲しいねぇ……」
珍しい話もあったもんだ。と思いながら曖昧な相槌を打つ。まあ、確かに下手な町医者より病に詳しいのは間違いないし、餅は餅屋とも言う。難病でもあるなら自分は適任かもしれないが。
「詳しくは教えてもらえなかったけど、一緒に来てもらえない?」
「ふぅむ」
使い走りには言えぬ内容なのだろうか? しかし、それは置いといて、なぜこの兎娘は、全身から警戒してる気配をかもし出しているのだろう?
「まあ、別に良いよ?」
「えっ? 良いの?」
「ああ、構わないよ」
拍子抜けした様子の鈴仙に、苦笑を返しながら、ヤマメが言葉を続ける。
「ただ、地上との約定もあるからねぇ。そっちの方に話を通しとくれ。許可が下りれば構わないよ」
どうせ自分が認めても、そっちの面々は許可すまい。という考えからあっさり頷いたが、鈴仙の対応はその考えを上回っていた。
「それならもう許可下りてるわよ。ほら」
「へっ?」
差し出された紙には、外出許可証と記載されており、認定者には八雲紫、古明地さとりの二名の署名が施されていた。
「あー。うん。本物みたいだねぇ」
呆れながら確認すると、確かに両名のものらしき妖気がついており、本物であるのは間違いない様子だった。
まあ、内容のいい加減さに言葉が出ないが。
「地底在住の土蜘蛛、黒谷ヤマメが地上の永遠亭にて逗留する事を認む。は、良いんだけど、この期間はどうなんだい?」
「その書面は師匠と八雲紫が作ったらしいから、私は何とも……」
ちょっと申し訳なさそうに耳を垂れさせる鈴仙。まあ、使い走りに言っても仕方ないか。
「期間、八意永琳に必要な間。って、ちょっといい加減すぎやしないかねぇ」
まあ、外出許可証という事で、嫌なら帰ってきても良いと読めなくも無いのだが、いい加減な運営ぶりに呆れてしまう。
こちとら約束事から、律儀に気を使って、地底からは一歩たりとも外に出ずに過ごしてきたというのに、先の異変とやらから、もう約束など有って無いような扱いだ。
「まあ、言っちゃったもんはしょうがないねぇ。明日出立でいいかい?」
「え、あ、うん。構わないわ。準備とかあるものね」
「いんや、準備は大したこっちゃ無いけどね。ああ、折角だ。アンタも飲んでおいきよ」
折角美味いアテに良い酒と揃ってるのに、それを全部飲まれてしまうのは少々癪だ。まあ、客人が増えるくらいは別に構わないが。
「え? いや、私は別に……」
「ほらほら、遠慮しない遠慮しない。みんな! 地上の兎を混ぜてやっておくれ!」
「おう。いいねぇ。酒の肴に地上の話でもしてもらおうか」
「い、いや、私は月の兎で」
「細かいこたぁいいよ。ほら、飲みな」
まあ、なるようになるだろう。という生来の楽観的な考えから気楽な調子で、ヤマメは客の兎を酔い潰しにかかった。
「うう、気持ち悪い……」
「やれやれ軟弱だねぇ。地上の妖怪ってのはみんなそうなのかい?」
ふらふらと先導する鈴仙の後ろで、着替え類の詰まった小袋を背負ったヤマメが呆れた様子で嘆息する。
「いや、あれ明らかに潰しに来てたじゃない!? あんた達が一杯飲む間に代わる代わる継ぎ足してたわよ! 特にあの鬼! 毎回一気飲みをさせて、私を殺す気!? うっ」
心外だと抗議をまくし立てるも、途中で吐き気を催し道端にしゃがみこむ鈴仙。
「そいつぁ私に言われてもねぇ」
「分かってるわよ。いたた……」
落ち着いたらしく、再びふらふらと先導し始める彼女について歩きながら、ヤマメはちょっぴり反省していた。
(いやぁ。軽く潰してやろうと思っただけだったんだがねぇ)
そのノリを察知した鬼やら橋姫が、どんどん呑ませていった。おそらく自分が被害者だったとしてもかなりきついだろう。
「ふぅ。やっと着いたわ」
膝に手を突いて大きく溜息を吐く鈴仙。まあ、二日酔いに気遣ってゆっくりとはしたが、それでも中々大変だったろう。
「へぇ。ここが永遠亭ってところかい?」
「ええ、そうよ。ちょっと待っててね」
大きな木造建築。大きさの割りにこじんまりとした印象を受けるのは、色彩等によるものだろう。煌びやかさは無いが、上品な感じを受ける。
(中々腕の良い職人の手によるものかねぇ)
建築業を得意としている習性からか、何となく建物そのものを値踏みしていると、奥に引っ込んだ鈴仙の声が聞こえてきた。
「師匠~! 黒谷さんをお連れしましたよ~ 師匠~?」
どうやら、呼び出した主が中々見つからないらしい。
自分を見張る者を置く事も無いし、暢気な物だ。
「ま、その方が気楽でいいけどね」
腕を組み、一人で頷いていると、奥からとたとたと静かな足音を立て、鈴仙と、銀髪の女性が現れた。
「良く来てくれたわ。黒谷さん」
ここに来るまでに鈴仙が話してくれた内容によると、おそらく彼女が永琳なる月人なのだろう。
「私に用らしいけど、一体なんだい?」
「そうね。立ち話もなんだし、客間に案内するわ。鈴仙。お茶の準備を」
「はい師匠」
永琳に続いて廊下を歩く、年代を感じるがしっかりとした造りで、庭の手入れも行き届いており、中々住み心地は良さそうだ。
「思ったよりあっさり承諾してもらえたようで、正直ほっとしているわ」
「そうかい? むしろ許可なんかがあっさり下りた方が驚きだよ」
「まあ、その辺りはちょっと手を回したもの、どうしても拒否するなら無理やりにでも連れて来るように言っておいたのだけど、必要なかったわね」
「そら物騒なこった」
永琳の言葉に苦笑で返しながら、初対面の時、鈴仙が妙に緊張していたのは、一戦交えるかもしれないと考えていたからか、とヤマメは納得していた。
「別に地上がそんな嫌いな訳でもないよ。ちょいと折り合いが悪かったのさ」
「ふぅん。そういうものかしら、ここよ。座って」
良く掃除された客間、永琳が指す用意されていた座布団に、腰を下ろし、手荷物を横に下ろす。
「ここに隠れ住んで数十年、表に出てからも、客を呼ぶ事なんてあまり無いけれど、掃除はこまめに行っているわ」
「そのようだね。中々趣味も良さそうだ」
先ほどから地味に感じていたが、お互い微妙に腹の探りあいになっている気がする。
特にこちらに隠す事など無いのだが、まあ、こういうやり取りを楽しめる程度には長く生きているし、久々で少々新鮮にも思う。
地底生活も長くなれば知己が増え、そんなやり取りをする事も無くなっていたし。
「失礼します」
そんな事を考えていると、静かに襖が開き、盆を手に鈴仙が客間に現れる。
「ごゆっくりどうぞ」
お茶と茶菓子をすっと差し出し、一礼して鈴仙は去っていった。
愛想代わりにお茶を一口啜り、軽く嘆息するヤマメ。
「ま、面倒だし、そろそろ本題をお願いするよ」
「そうね。妖怪の時間はとても多いけれど、有限でもあるし」
「そりゃ、不老不死と比べちゃいけないねぇ」
「それもそうね」
互いに苦笑しあってから、永琳もお茶に口をつけ、嚥下してから口を開いた。
「もうすぐ人里で大きな流行病が起こるわ」
静かに予言めいた事を語る永琳の表情は、真剣そのものだった。
「断定か。何か根拠でもあるんだね?」
「先日訪れた患者が罹ってた病気が、ここ永遠亭で大流行しているからよ」
「広い割りに住民を見ないと思ったら、寝込んでるのかい? いけないねぇ。医者の不養生ってやつは」
「それについては反論出来ないわね。無事だったのは私と鈴仙、それと、姫様だけなのよ」
再び苦笑を浮かべる永琳。その言葉通りであれば、今人里に患者が大量発生すれば、何回か過労死するまで働きづめになる事だろう。
「手が足りない。って理由じゃないだろう? わざわざ地底くんだりまでお呼びがかかるってのは」
「ええ、そうよ。幸い特効薬の調合そのものも難しくは無かったのだけど、材料の関係で量産は追いつかない。そこで」
一旦言葉を区切り、永琳はお茶で喉を湿らせた。
「そこで、本格的に流行する前に、予防接種を行いたいの」
「ほう。予防接種ねぇ」
ヤマメにも大体永琳の話が見えてきた。なるほど、確かにそれなら、この能力が欲しくなるだろう。話しぶりからして、あまり猶予も無さそうだし。
「ええ、予防接種と言うのは――」
「病気の抗体を作らせる為に、弱めた病原菌とかを投与する事だろう?」
「流石に詳しいわね」
苦笑して頷く永琳に対し、肩をすくめて見せるヤマメ。
「ま、感染症は十八番だからね。予防接種だって、古くは紀元前からある対抗策さ」
「このウィルス。思ったよりも強靭で、弱らせるのも難しいの。人為的に変質させてワクチンにするには、手間がかかりすぎて間に合わない可能性が高いわ」
「で、私にちょちょいと弱いのを作って欲しい。と」
「そういう事よ」
「なるほどねぇ」
ヤマメだって、頼られる事自体は悪い気はしない。だが、その希望に応えられるか? というと、難しいところだ。
「まあ、ねぇ」
「歯切れが悪いわね。人間の為になる行為というのに、妖怪としては不満はあるだろうけれど、可能な限りの報酬は用意するわよ」
「いや、そういう事じゃあないんだ」
別に気が向けば人間に世話を焼いてやる事もある。妖怪だろうが神だろうが、それこそ人間だろうが変わらない。
「じゃあ、どういう事かしら?」
怪訝そうな永琳に、若干申し訳ない気がするが、安易にヤマメには提案を受けるのは難しかった。
「私らが、なぜ地底に棲む事になったか? っての、分かるかい?」
「能力のせいで人間に忌み嫌われたからではなかったかしら?」
「だいぶ近いよ。大きな間違いじゃない。けど、もうちょいと根深いんだ」
能力や習性で折り合いが悪い妖怪など、地上にだって居る。しかし、その中でも、自分達は地上とは隔離した生活が必要だった。
「私らはね。根本的に、人間と同居するには向いてないのさ。例えば、鬼なら人間と戯れる事を楽しみにしているけれど、生きるのに必須じゃない。皆殺しにしたって、ちょいと楽しみが減るくらい。だから危険なのさ」
「そんな危険な鬼には見えなかったけれど」
「だろうね。だから怖いのさ。気まぐれで里一つを潰しちまうし、軽く反省するくらいで気にやしない。橋姫なら、近寄るだけで並の人間は嫉妬に狂う」
「では、土蜘蛛の貴方は?」
言いたい事を大方察した永琳に促され、ヤマメはこっくりと頷いた。
「よっぽど意識しないと歩いただけで大災害さ、ここに来るまで結構苦労したよ」
まあ、軽く漏れた程度ならそこまででもない場合も多いので、若干誇張が入っているが、それは伏せておく。
漏れたウィルスの種類によっては、軽くでも大災害になりうるのは間違いないし。
「では、その意識が不要な場所に寝泊りしてもらって構わないわ」
「へぇ。そんなのもあるのかい?」
「ええ、本来は外界の菌類を防ぐ目的で用意した部屋がいくつかあるもの、それにちょっと手を加えておけば、その部屋に居る限り、外に病原体が出ていく事も無いはずよ」
「なるほどねぇ」
無菌室。というヤツだろう。それを一つダメにしても良いというのだから、よほど切羽詰っているのは間違い無さそうだ。
「まあ、それはいいけど、もう一つ問題がある」
「何かしら?」
「さっきも言ったろ? 根深いって。私が真面目にそのわくちんを作ろうとしても、別の問題が発生する可能性は高い」
「多少の問題はうちで責任を取るわ。生死にかかわるほどの物でなければ御の字よ」
「随分とまあ、医者らしからぬ、いや、むしろ医者らしいのかねぇ。小と大で割り切った選択をするってのは」
「それは当然でしょう。全員を助けられず、1人を犠牲にして3人助けられるなら、そうすべきよ。八雲紫とも『犠牲を最小限に抑える』という方針で合致しているわ」
生死に長く関わっていると、命も数字として扱ってしまう。命を助けたいと切望し、医者を志した者達が、非情なる現実を前に味わう絶望など、とうの昔に経験した。とでも言うのだろうか。
心を閉ざし、作業とするか、それとも、それを前にしても足掻くか、覚り妖怪ではないヤマメには窺い知れない事だ。だが、こんなところで、今も医者を続けてるのなら、後者なのかも知れない。
「ふむ。流石に肝が据わってるね。良いよ。手伝ってあげる。けれど、作ったうぃるすの危険については、そっちで調べておくれよ。私だってある程度は気をつけるけど、そんな作業はした事無いからね」
「当然よ。丸投げなんて無責任な事はしないわ」
「なら良かった。ああ、後、私が関わった事は伏せといておくれ。上手くいったとしても、便利に頼られるなんて御免だからね」
「分かったわ。ありがとう」
安堵した様子の永琳に、ヤマメが苦笑で返す。
「礼なら上手くいってからにしておくれ」
「そうね。とりあえず部屋の用意をしてくるわ。半刻ほど待って頂戴」
「あいよ」
慌しく立ち上がり、鈴仙を呼びつけながら部屋を出て行く永琳を見送り、ヤマメは静かに茶を啜った。
部屋が用意されてすぐから、ヤマメの作業が始まった。
「うーん。中々難しいねぇ」
とうに日が暮れ、そろそろ丑三つ時という頃合だが、外の様子などさっぱり分からないヤマメは、試験管を眺めながら頬杖をついて思考をめぐらせていた。
既に何度もウィルスを作っては永琳に渡しているが、全て失敗作との判定を貰い、再試行を繰り返している。今は確か、十二回目だったか。
「うーん。やっぱり単純に弱いのを作ると、何かしら別の特技が出ちゃうねぇ。我ながら困ったもんだ」
最初に作ったのは、単純な劣化ウィルスだった。しかし、確かに繁殖力や毒性は下がったものの、永琳曰く、潜伏期間が極めて長くなってしまったとの事だ。
あまり潜伏期間が長いと、患者が治療に来なくなり、薬を配ったとしても飲むとは限らなくなる。そうなると、自覚症状の無い患者がいつまでも病気を拡め続け、根絶は極めて難しくなる。
先ほど作ったのは会心の出来だと思ったのだが、今度は副作用が強く、実質的には今の流行り病と変わらぬ結果になってしまう。との裁定を下された。
「調子はどうかしら?」
「鈴仙。あんたがここに来ちゃ危ないよ?」
背後に現れた鈴仙に振り返る事もなく、注意するヤマメ。
「多少は気を使ってくれるでしょ。能力なんだし」
「まあね。丁度今行き詰ってるところさ」
室内に漏れた病原体は鈴仙が現れる直前に回収している。
手間は手間だが、気分転換に来てくれたのはありがたい。正直狭い密室でじぃっとしているのはストレスでもあるし
「師匠からは、大体一週間が期限と聞いているわ。今から根を詰めなくてもいいんじゃない?」
「なるべくはやく完成するに越したことはないだろう? それに何より、一週間もここに居たら気が狂っちまうよ」
ヤマメがおどけて見せると、鈴仙は同情の念を浮かべて苦笑した。
「まあ、狭い部屋だものね」
「それに、病院に病の妖が棲むなんて皮肉にも過ぎないかい?」
「確かにね。何かの小説にでも出そうだわ」
ヤマメのブラックジョークに苦笑を深め、鈴仙が懐から小さな御守を取り出した。
「これを渡しに来たのよ」
「呪符、いや、護符かい? 中々強力そうだね」
「ええ、これをつけていれば、しばらく外部からの妖気・霊気を遮断出来るの、でも、副作用として、自分からも力を使えなくなる。あなたが出歩くには最適でしょ?」
「ああ、助かるよ。それがあればトイレにも気軽に向かえるってものさ」
かなりの妖力の篭った護符。護身用にはそれなりに使いでがありそうであり、この副作用は今のヤマメにとっては便利なものだ。
「それを身に着けていれば、気分転換に外を見て回るくらいはしても構わないそうよ」
「随分と甘い裁定だねぇ。外に行ったまま逃げちまうかもしれないよ?」
「そうなれば地底のお仲間にも迷惑が行くでしょ。あなたはその辺の気遣いが出来る妖怪だろうって、師匠が言ってたわ」
永琳に対して絶対的な信頼を抱いているのだろう。鈴仙の子供のような言い回しに、ヤマメはついつい苦笑を浮かべてしまった。
「まあね。いまさらそんなつまらないやんちゃはやらないよ」
「なら良いじゃない。師匠はおそらく、限界まで試行させるわ。そこから、それまでの結果で一番いい物を選ぶ。理想どおりの副作用0でもなければ、途中でOKしないでしょうね」
「難儀な事だねぇ。薬だって、副作用が無いものなんてそうそう無いだろうに」
「そうね。だから、ある程度は気楽にやっていいわよ。元々そういう研究をしていたわけでもないでしょ?」
「まあね。強い病気を作ろうとした事なら何度かあるけどさ」
肩をすくめて見せるヤマメに、鈴仙はおとがいに指を当てて小さく首をかしげる。
「へぇ。じゃあ、師匠にも手が付けられないような奇病とかあるのかしら?」
「まあ、無くは無いよ。医者に会う前に死んじまえば仕舞いだ。けど、そうすると拡げるのが上手くいかない。強い病を作るのだって難しいもんさ」
あちらを立てればこちらが立たず、他にも医者の手には余りそうな難病をいくらか開発はしてみたものの、何かしらの短所は常に発生していた。
まあ、その病の開発は基本暇つぶしだったので、それを用いて何かを行うつもりなど毛頭ないのだが。
「ん。でもそうか、ふむ……」
「どうかしたの?」
「ああ、ちょっと思いついた事があってね。そちらも試してみるよ」
「そう。よろしくね」
「ああ、任せておきな」
にっこりと鈴仙に微笑んで見せ、ヤマメは思いつきを実行してみる事にした。
結局、というべきか、鈴仙の言った通り、一週間のほぼ限界まで、ヤマメは研究から解放される事は無かった。
永琳がどうやってウィルスの危険度を測っているかは知らないが、ヤマメが七日目の期限ギリギリに提出したワクチンを正式に用いると宣言した。
「ま、ギリギリだったけど、良いのが出来てよかったよ」
「ええ、副作用もかなり軽いもののようだし、ウィルスの寿命も短くて理想的よ。量産まで手伝ってくれて、とても助かるわ」
出来上がった全人里分のワクチンを前に、満足げに微笑んでいる永琳。治療薬の量産を平行していただけに、目の下に凄まじいクマが出来ている彼女に、ヤマメは苦笑で返した。
「礼は実際に投与して成果に満足してからにしとくれ」
「謙虚ね。地底の人気者というだけはあるわ」
「ベタ褒めされるなんて後が怖いよ。後は人間に配ってくるんだろう? 手は足りるのかい?」
「正直足りないわね。鈴仙と私で手分けする予定だけれど」
「んじゃ、私も手伝うよ。自分の作ったものの行き先くらいは見ておきたいしね」
ヤマメの予想以上に親切な提案に、永琳が目を瞬かせる。
「それは悪いわ。と言いたいけれど、少しでも多くの予防をしておくには手は必要ね。お願いするわ」
「なに、ちょっとした物見遊山を兼ねてだし、気にするこたぁないよ。それに、あんた寝てないだろう? いくら不死と言っても、疲れは蓄積するそうじゃないか、ちょっとでも寝ておきな。医療ミスなんて洒落にならないからね」
永琳は確かにフラフラであり、いつ倒れてもおかしくなさそうな気配さえあった。
「随分と気遣ってくれるのね。あなたも四六時中ワクチン研究で疲れてるでしょうに」
「疲れた頭じゃ、ちゃんとした判断は難しい。これでも私はちゃんと寝てたんだよ。報酬に色でも付けてくれりゃそれで良いさ」
「ああ、そういえば、忙しさにかまけてきちんと報酬を決めてなかったわね。何が良いかしら?」
月の頭脳、とまで呼ばれる賢人も、連日の激務で思考が鈍化しているらしい。いまさらな話にヤマメは再び苦笑を浮かべた。
「酒でいいさ。終わったらうちで打ち上げでもしようじゃないか」
「分かったわ。私も行けたら行くわよ。最高級のを用意してね」
「はは、そりゃ楽しみにしておくよ」
軽い相談の結果、ワクチン配布にも、ヤマメ一人では不審に思われる可能性を考慮し、鈴仙の手伝いとして同行する事となった。
投与自体は迅速に進み、用意してきたワクチンの半数を消費した頃。
「しまった。注射器が足りないわ。一度永遠亭に戻らないと」
里での行列を半分も処理した頃、鈴仙が苦々しげに漏らしたのを見て、ヤマメは片目を瞑って、首をかしげた。
「里の規模を見間違えたのかい?」
「来る里を間違えたわ。いつもの薬売りの巡回ルートを選んじゃったけれど、先に北の小さな里に行く予定だったのよ」
「ふむ。なるほどね」
ここから永遠亭まで往復するのに、急いでも一刻はかかるだろう。
そんな時間待たせると、里の者の生活にも影響は出るだろうし、受けずに散ってしまう人間も多そうだ。
「ああ、また師匠に叱られるぅ」
頭を抱える鈴仙に苦笑を浮かべ、ヤマメが助け舟を出した。
「とりあえず、そこいらで大なべでも買ってきな」
「え? そんなものどうするの?」
「戻るより早い方法があるのさ、それと、今並んでる連中は、私がなんとかしといてやるよ」
「うーん。分かったわ。お願いね」
「ああ、一緒に薪と水もお願いするよ」
「薪と水、ああ、なるほど、了解よ」
必要な物を並べられ、ようやく合点がいった様子の鈴仙は、足早に金物屋に走り出した。
「んじゃ、ちゃっちゃとやっちゃいますかねぇ」
ひょいとワクチンの入った容器を手に取り中身を嚥下する。
「ああ、そんなに怖がらなくてもいいよ。注射よりは痛くないはずさ」
目の前の人間ににこりと微笑みかけて、護符をワクチンの傍に置くヤマメ。
「んじゃ、始めるよ」
先頭の人間の胸元に手を当て、病を操る能力で、ワクチンのウィルスを、直接感染させる。
ワクチン等と言われても、やはりウィルスはウィルス、病原体であるのだから、これくらい出来て当然なのだ。
まあ、本当は感染させるのが目的なら、触れる必要は無いのだが、そこは受ける側が何かされたというイメージを持つ為の演出だ。
「ほい。終わり。と、ちょいと体がだるいだろうから、今日は大人しくしときなよ」
「あ、はい」
困惑している住民を追いやって、次の者に呼びかける。
「ほら、次のヤツおいで、ちゃっちゃと終わった方がみんな楽だろう?」
てきぱきと行列を処理しているうちに、鈴仙が大なべと薪と井戸水を担いで現れる。
「お、おまた……せ」
「おやまぁ。わざわざ一回で取ってきたのかい? 何回かに分けた方が早かったんじゃないかねぇ」
「う、そ、それもそうなんだけど……」
息も絶え絶えだった鈴仙が、ヤマメの指摘で視線を逸らす。うっかりなのか事情があったのかは知らないが、ともかく準備くらいは始められそうだ。
「まあ、いいさ、とりあえずそこらで釜戸を借りて、湯を沸かしなよ。その間に薪の追加を用意だね。これじゃちょっと足りないだろう」
「分かったわ。そっちは……順調みたいね」
「ああ、準備が終わる頃には終わると思うよ」
「うん。お願いね。そこに馴染みの茶屋があるから――」
「いや待ちな。民家の釜戸にしとくべきだよ。飲食店が釜戸を貸すのは難しいだろうし」
言葉を遮られた鈴仙が目を瞬かせ、ヤマメの言っている事に気づいて頷いた。
「ああ、それもそうね。そこのご隠居さんにお願いしてくるわ」
「ああ、よろしく頼むよ」
鍋を片手に小走りで向かう鈴仙を見送り、ヤマメは再び予防接種の感染作業に移った。
「ん。まあ、こんなもんじゃないかい?」
ぐつぐつと煮えたぎる大なべを前に満足げに頷くヤマメ。
この作業の大半を行っていた鈴仙は、かわいそうな事に汗だくで息も絶え絶えと言った様子だった。
「そ、そう……ね」
「大丈夫かい? いっそ取りに戻った方が楽だったかねぇ」
「いえ、時間は確かに短縮出来たわ。煮沸消毒の事すっかり忘れてたなんて、師匠には絶対言えないし」
「ちょいと護符を外しちまったし、私も怒られちゃうかもしれないね」
「大丈夫でしょ。ワクチン以外に病気を撒いたりしたわけでもなし」
「ならいいけどねぇ」
沸騰した湯に、ガラス製の注射器を放り込み、煮続ける事半刻ほど、念を入れて必要な時間の倍以上、かなり長くかけておいたし、これで感染症の心配はまず無いだろう。
「残りは大体半分だったし、丁度使いきれると思うけど、どうだい?」
「おそらくそうね。日が暮れる前になんとかしましょ」
「ああ、そうだね。その方が私も早く帰れるってもんだ」
ヤマメが軽口で返すと、鈴仙も苦笑を浮かべて頷いた。
「そうね。それにしても」
「なんだい?」
「ヤマメは何で煮沸消毒なんか知ってたの?」
純粋な疑問といった様子の鈴仙に、今度はヤマメが苦笑を浮かべた。
「病気を操るなら、その対策も知っておくものだろう? 自分の能力に、どういう対策がされるのか? ってのは、把握しておいて然るべきじゃないかい?」
「ああ、そういえばそうね」
「ま、下手な医者よりゃ詳しいよ」
得心がいった様子の鈴仙に微笑んで、ワクチンが積まれた荷車を引く。
「ほら、のんびりしている暇は無いよ。さっさと配らなきゃ、被害はそれだけ大きくなるんだからね」
「そうね。急ぎましょ」
その後、何とかその日の内に、ワクチンを配り終えたヤマメと鈴仙だったが、ヤマメは永遠亭に戻らず、その足で地底に帰っていった。
「地底で人間の為に仕事するなんて妬ましいわね」
「やれやれ、会って一番がそれかい? そろそろ聞き飽きたよパルスィ」
地底に戻ってから、二ヶ月ほど、地底の面々に会う度、地上に連れ出されてワクチンを作った事を冷やかされてきた。
「地上でも人気者になるつもりかしら?」
「まさか、そんなつもりはないよ」
パルスィの言葉にいつも通りの返答を重ねてから、はたと気づく。
「そろそろ頃合かねぇ」
「何がよ? 思わせぶりは良く無いわよ」
「いんや、前も言ったけど、私ら地底の妖怪が、素直に地上で善行やろうとしたって、出来るもんじゃない。それはあんたも分かってるだろう?」
悪戯を仕掛けた子供のような笑みを見せるヤマメに、パルスィが怪訝な表情を浮かべる。
「それは当然よ。素直に善行なんて出来るなら、そもそも地底に篭ってなんかいないもの」
「だから――おっと、来た来た」
「ヤあああぁぁマああああぁぁぁメえええぇ!」
地上から、聞き覚えのある声が大声で呼ぶ声に振り向くと、鈴仙が大きな包みを背負ってこちらにすっ飛んできていた。
「やあ鈴仙。良く来たね。歓迎するよ」
「なにが良く来たね。よ! ほら! これ!」
ぐいっと押し付けられた包みの中は、上等な香りのする液体を湛えた酒樽。中身は永琳の言に違わず、最上級な酒だろう。
「渡す為に用意した酒だし、功績は功績だから支払うって師匠が言うからもってきたけど!」
「何かあったのかい?」
「しらばっくれて! あのワクチン、絶対わざとでしょう!?」
「んん? ちゃんと要望に応えた品だったと思うけどねぇ」
ニヤニヤと笑うヤマメに、鈴仙が地団太を踏む。唐突に会話に割り込まれたパルスィは、いつものように嫉妬の炎を燃やしていた。
「そりゃ要望通りだったわよ! 本来の毒性は抑えて、それなりに抗体を作るのに作用して! ちゃんと流行り病の大流行は抑えて、師匠が過労死する回数は一回で済んだわ!」
「あれだけ頑張っても一回は過労死したのかい。そりゃ可哀相に」
「それよりも問題は今よ!」
憤懣やるかたないと岩壁を叩く鈴仙。
「なんであんな変な症状が今になって出てくるのよ!」
「ふむ。それかい? 大したこっちゃないよ。あの病原体は、中々全滅しにくい。だから、ある程度以上のうぃるすの死骸が溜まると、ちょっとした症状が出る。まあ、命には関わらないから安心おしよ」
「でも体は元気だから、患者がうちに大量に押し寄せて大混乱よ! しかも原因うちにあるって話で、信用問題も起きてるんだから!」
「だから言ったじゃないか、地底の妖怪が、何か良い事しようとしたって、上手くはいかないってね」
猛り狂う鈴仙を宥めながら、酒樽を叩くヤマメ。
「そうだ。打ち上げをやるって話だったろう? 一杯やっていかないかい?」
「そんな暇ありません!」
「冷たいねぇ。でも、そろそろか」
「え? にゃにが? えっ」
自分の口から出た、舌足らずな言葉に、困惑する鈴仙。
「私の能力は妖怪にはとても効き辛い。けれど、まったく効かない訳じゃない。あんたも打ったろう? ワクチン」
ヤマメの作ったワクチンは、確かに人里を疫病から守った。
だが、いまや地上では、ワクチンを接種した多くの人間が、言語中枢に大きな問題を起こし、ちょっとした騒動になっていた。
「ま、ましゃか……」
「私ならすぐ治してやれるよ。まあ、治さなくたってほっときゃ数日で治るけどね」
それに軽い悪戯を起こすという意図で作った病気だ、言葉に影響が出るだけで、他に問題なんて何一つ起こらない。
というか、そういう方法でないと、永琳の要求する基準の病原体を作る事はむしろ出来なかったのだ。
「けど、その前に一杯くらい付き合ってくれたって良いだろう?」
「そ、そんにゃことをしてたら、ししょうにおこられひゃう。あとれにゃらめぇ?」
「いやぁ、私が言うのも何だけど、何を言ってるのかさっぱり分からないねぇ」
ヤマメが苦笑いをしていると、パルスィが横から鈴仙の肩を掴んだ。
「まあ、とりあえず一杯くらいなら大丈夫でしょう。付き合って貰いましょう」
「そうだね。ついでに勇儀とキスメも呼んで、宴会と洒落込もうじゃないか」
しゅるしゅると鈴仙の手足を糸で拘束し、巣穴の方へ放り込む。
「いぃやぁああああぉぁあああられかたしゅけてえええ!!!!」
呂律の回らない鈴仙の悲鳴が、地底に空しく響き渡り、ヤマメは苦笑を浮かべた。
「ほんとに大丈夫だと思うけどねぇ」
月の頭脳と呼ばれるほどの知恵者なら、この程度の結果くらいは予想出来たはずだ。
そして、おそらく時間さえあれば、この症状の予防薬の用意も出来ただろう。
それを期限ギリギリに提出して、準備させなかったのは、ちょっとした意地悪だ。本当は、ウィルス自体は二日目には完成していた。
「ま、ちょいと悪い気はしたから、手伝ってやったけども」
地底から都合よく何度も呼び出されては堪ったものではないので釘を刺したようなもの。
それに、自分が関わっているのは公表しないように約束もした、今更こちらが原因など言い出せば、彼女らがどう見られるかくらいは考えるまでも無い。
わざわざ鈴仙を使いに寄越して来るのは、おそらく想定内の事で怒ってないとでもいうアピールだろう。
「でもまあ、どうでもいいかねぇ」
酒樽と一緒に持ち込まれた護符を投げ捨て、嘆息する。
自分はもう地上への興味は無い。棲み分ける事で得た、今の気楽な暮らしに満足している。こんな呼び出しはもう金輪際御免だ。
「おーい。ヤマメぇ! 宴会やるんだって?」
「おや、耳の早い。ちょいと良い酒が入ったもんでね。客人もいるよ」
「ほう。確かに良い香りをしているね。こいつぁ楽しみだ」
豪快に笑う鬼の横で、ヤマメは酒樽を担ぎ上げた。
「すいません」
聞きなれない声に、揃っていた面々が一斉に振り向くと、見慣れぬ少女は萎縮したように頭を下げた。
「えっと、その、こちらに黒谷ヤマメさんはいらっしゃいますか?」
「ふぅん。ヤマメ。お客さんなんて妬ましいわね」
「ああ全くだ。どこで引っ掛けてきたんだい?」
「私も知らない顔だよ」
地底の仲間からの冷やかしをぞんざいに流しながら、その兎耳をつけた少女の前に立った。
「えぇっと、私がヤマメだけど……どちらさま?」
「は、はい。私は鈴仙優曇華院イナバ。地上の永遠亭の使いです」
「永遠亭、ねぇ……」
緊張した様子の鈴仙を前に、聞き覚えの無い名に首を傾げる。
長らく地上から離れた身で、そこの何かの名前など、普通に考えれば知っているはずもないのだが。
「永遠亭というのは、地上にある迷いの竹林にあって、医者のような事をしているところです」
「へぇ。で、そのお医者の使いが何か用かい?」
特に呼びつけられるような悪さをした覚えも無いし、と、首を傾げるヤマメ。まあ、その場合はむしろ問答無用で殴りかかられてそうだが。
「は、はい。噂で伺ったのですが、黒谷さんは、病気を操る能力をお持ちとの事で――」
「や、面倒だから、普通に話しとくれ、あんまり緊張されても肩が凝るってもんさ」
「はっ、はいっ」
手を挙げて言葉を遮ると、慌てた様子で鈴仙が深呼吸を始める。
(なんだか知らないけど、何をそんな緊張してるのかねぇ?)
怪訝に思って首を傾げていると、鈴仙はようやく落ち着いた様子で口を開いた。
「病を操る能力があるという話を聞いて、うちの師匠が協力して欲しいと言っているの」
「薬師が協力して欲しいねぇ……」
珍しい話もあったもんだ。と思いながら曖昧な相槌を打つ。まあ、確かに下手な町医者より病に詳しいのは間違いないし、餅は餅屋とも言う。難病でもあるなら自分は適任かもしれないが。
「詳しくは教えてもらえなかったけど、一緒に来てもらえない?」
「ふぅむ」
使い走りには言えぬ内容なのだろうか? しかし、それは置いといて、なぜこの兎娘は、全身から警戒してる気配をかもし出しているのだろう?
「まあ、別に良いよ?」
「えっ? 良いの?」
「ああ、構わないよ」
拍子抜けした様子の鈴仙に、苦笑を返しながら、ヤマメが言葉を続ける。
「ただ、地上との約定もあるからねぇ。そっちの方に話を通しとくれ。許可が下りれば構わないよ」
どうせ自分が認めても、そっちの面々は許可すまい。という考えからあっさり頷いたが、鈴仙の対応はその考えを上回っていた。
「それならもう許可下りてるわよ。ほら」
「へっ?」
差し出された紙には、外出許可証と記載されており、認定者には八雲紫、古明地さとりの二名の署名が施されていた。
「あー。うん。本物みたいだねぇ」
呆れながら確認すると、確かに両名のものらしき妖気がついており、本物であるのは間違いない様子だった。
まあ、内容のいい加減さに言葉が出ないが。
「地底在住の土蜘蛛、黒谷ヤマメが地上の永遠亭にて逗留する事を認む。は、良いんだけど、この期間はどうなんだい?」
「その書面は師匠と八雲紫が作ったらしいから、私は何とも……」
ちょっと申し訳なさそうに耳を垂れさせる鈴仙。まあ、使い走りに言っても仕方ないか。
「期間、八意永琳に必要な間。って、ちょっといい加減すぎやしないかねぇ」
まあ、外出許可証という事で、嫌なら帰ってきても良いと読めなくも無いのだが、いい加減な運営ぶりに呆れてしまう。
こちとら約束事から、律儀に気を使って、地底からは一歩たりとも外に出ずに過ごしてきたというのに、先の異変とやらから、もう約束など有って無いような扱いだ。
「まあ、言っちゃったもんはしょうがないねぇ。明日出立でいいかい?」
「え、あ、うん。構わないわ。準備とかあるものね」
「いんや、準備は大したこっちゃ無いけどね。ああ、折角だ。アンタも飲んでおいきよ」
折角美味いアテに良い酒と揃ってるのに、それを全部飲まれてしまうのは少々癪だ。まあ、客人が増えるくらいは別に構わないが。
「え? いや、私は別に……」
「ほらほら、遠慮しない遠慮しない。みんな! 地上の兎を混ぜてやっておくれ!」
「おう。いいねぇ。酒の肴に地上の話でもしてもらおうか」
「い、いや、私は月の兎で」
「細かいこたぁいいよ。ほら、飲みな」
まあ、なるようになるだろう。という生来の楽観的な考えから気楽な調子で、ヤマメは客の兎を酔い潰しにかかった。
「うう、気持ち悪い……」
「やれやれ軟弱だねぇ。地上の妖怪ってのはみんなそうなのかい?」
ふらふらと先導する鈴仙の後ろで、着替え類の詰まった小袋を背負ったヤマメが呆れた様子で嘆息する。
「いや、あれ明らかに潰しに来てたじゃない!? あんた達が一杯飲む間に代わる代わる継ぎ足してたわよ! 特にあの鬼! 毎回一気飲みをさせて、私を殺す気!? うっ」
心外だと抗議をまくし立てるも、途中で吐き気を催し道端にしゃがみこむ鈴仙。
「そいつぁ私に言われてもねぇ」
「分かってるわよ。いたた……」
落ち着いたらしく、再びふらふらと先導し始める彼女について歩きながら、ヤマメはちょっぴり反省していた。
(いやぁ。軽く潰してやろうと思っただけだったんだがねぇ)
そのノリを察知した鬼やら橋姫が、どんどん呑ませていった。おそらく自分が被害者だったとしてもかなりきついだろう。
「ふぅ。やっと着いたわ」
膝に手を突いて大きく溜息を吐く鈴仙。まあ、二日酔いに気遣ってゆっくりとはしたが、それでも中々大変だったろう。
「へぇ。ここが永遠亭ってところかい?」
「ええ、そうよ。ちょっと待っててね」
大きな木造建築。大きさの割りにこじんまりとした印象を受けるのは、色彩等によるものだろう。煌びやかさは無いが、上品な感じを受ける。
(中々腕の良い職人の手によるものかねぇ)
建築業を得意としている習性からか、何となく建物そのものを値踏みしていると、奥に引っ込んだ鈴仙の声が聞こえてきた。
「師匠~! 黒谷さんをお連れしましたよ~ 師匠~?」
どうやら、呼び出した主が中々見つからないらしい。
自分を見張る者を置く事も無いし、暢気な物だ。
「ま、その方が気楽でいいけどね」
腕を組み、一人で頷いていると、奥からとたとたと静かな足音を立て、鈴仙と、銀髪の女性が現れた。
「良く来てくれたわ。黒谷さん」
ここに来るまでに鈴仙が話してくれた内容によると、おそらく彼女が永琳なる月人なのだろう。
「私に用らしいけど、一体なんだい?」
「そうね。立ち話もなんだし、客間に案内するわ。鈴仙。お茶の準備を」
「はい師匠」
永琳に続いて廊下を歩く、年代を感じるがしっかりとした造りで、庭の手入れも行き届いており、中々住み心地は良さそうだ。
「思ったよりあっさり承諾してもらえたようで、正直ほっとしているわ」
「そうかい? むしろ許可なんかがあっさり下りた方が驚きだよ」
「まあ、その辺りはちょっと手を回したもの、どうしても拒否するなら無理やりにでも連れて来るように言っておいたのだけど、必要なかったわね」
「そら物騒なこった」
永琳の言葉に苦笑で返しながら、初対面の時、鈴仙が妙に緊張していたのは、一戦交えるかもしれないと考えていたからか、とヤマメは納得していた。
「別に地上がそんな嫌いな訳でもないよ。ちょいと折り合いが悪かったのさ」
「ふぅん。そういうものかしら、ここよ。座って」
良く掃除された客間、永琳が指す用意されていた座布団に、腰を下ろし、手荷物を横に下ろす。
「ここに隠れ住んで数十年、表に出てからも、客を呼ぶ事なんてあまり無いけれど、掃除はこまめに行っているわ」
「そのようだね。中々趣味も良さそうだ」
先ほどから地味に感じていたが、お互い微妙に腹の探りあいになっている気がする。
特にこちらに隠す事など無いのだが、まあ、こういうやり取りを楽しめる程度には長く生きているし、久々で少々新鮮にも思う。
地底生活も長くなれば知己が増え、そんなやり取りをする事も無くなっていたし。
「失礼します」
そんな事を考えていると、静かに襖が開き、盆を手に鈴仙が客間に現れる。
「ごゆっくりどうぞ」
お茶と茶菓子をすっと差し出し、一礼して鈴仙は去っていった。
愛想代わりにお茶を一口啜り、軽く嘆息するヤマメ。
「ま、面倒だし、そろそろ本題をお願いするよ」
「そうね。妖怪の時間はとても多いけれど、有限でもあるし」
「そりゃ、不老不死と比べちゃいけないねぇ」
「それもそうね」
互いに苦笑しあってから、永琳もお茶に口をつけ、嚥下してから口を開いた。
「もうすぐ人里で大きな流行病が起こるわ」
静かに予言めいた事を語る永琳の表情は、真剣そのものだった。
「断定か。何か根拠でもあるんだね?」
「先日訪れた患者が罹ってた病気が、ここ永遠亭で大流行しているからよ」
「広い割りに住民を見ないと思ったら、寝込んでるのかい? いけないねぇ。医者の不養生ってやつは」
「それについては反論出来ないわね。無事だったのは私と鈴仙、それと、姫様だけなのよ」
再び苦笑を浮かべる永琳。その言葉通りであれば、今人里に患者が大量発生すれば、何回か過労死するまで働きづめになる事だろう。
「手が足りない。って理由じゃないだろう? わざわざ地底くんだりまでお呼びがかかるってのは」
「ええ、そうよ。幸い特効薬の調合そのものも難しくは無かったのだけど、材料の関係で量産は追いつかない。そこで」
一旦言葉を区切り、永琳はお茶で喉を湿らせた。
「そこで、本格的に流行する前に、予防接種を行いたいの」
「ほう。予防接種ねぇ」
ヤマメにも大体永琳の話が見えてきた。なるほど、確かにそれなら、この能力が欲しくなるだろう。話しぶりからして、あまり猶予も無さそうだし。
「ええ、予防接種と言うのは――」
「病気の抗体を作らせる為に、弱めた病原菌とかを投与する事だろう?」
「流石に詳しいわね」
苦笑して頷く永琳に対し、肩をすくめて見せるヤマメ。
「ま、感染症は十八番だからね。予防接種だって、古くは紀元前からある対抗策さ」
「このウィルス。思ったよりも強靭で、弱らせるのも難しいの。人為的に変質させてワクチンにするには、手間がかかりすぎて間に合わない可能性が高いわ」
「で、私にちょちょいと弱いのを作って欲しい。と」
「そういう事よ」
「なるほどねぇ」
ヤマメだって、頼られる事自体は悪い気はしない。だが、その希望に応えられるか? というと、難しいところだ。
「まあ、ねぇ」
「歯切れが悪いわね。人間の為になる行為というのに、妖怪としては不満はあるだろうけれど、可能な限りの報酬は用意するわよ」
「いや、そういう事じゃあないんだ」
別に気が向けば人間に世話を焼いてやる事もある。妖怪だろうが神だろうが、それこそ人間だろうが変わらない。
「じゃあ、どういう事かしら?」
怪訝そうな永琳に、若干申し訳ない気がするが、安易にヤマメには提案を受けるのは難しかった。
「私らが、なぜ地底に棲む事になったか? っての、分かるかい?」
「能力のせいで人間に忌み嫌われたからではなかったかしら?」
「だいぶ近いよ。大きな間違いじゃない。けど、もうちょいと根深いんだ」
能力や習性で折り合いが悪い妖怪など、地上にだって居る。しかし、その中でも、自分達は地上とは隔離した生活が必要だった。
「私らはね。根本的に、人間と同居するには向いてないのさ。例えば、鬼なら人間と戯れる事を楽しみにしているけれど、生きるのに必須じゃない。皆殺しにしたって、ちょいと楽しみが減るくらい。だから危険なのさ」
「そんな危険な鬼には見えなかったけれど」
「だろうね。だから怖いのさ。気まぐれで里一つを潰しちまうし、軽く反省するくらいで気にやしない。橋姫なら、近寄るだけで並の人間は嫉妬に狂う」
「では、土蜘蛛の貴方は?」
言いたい事を大方察した永琳に促され、ヤマメはこっくりと頷いた。
「よっぽど意識しないと歩いただけで大災害さ、ここに来るまで結構苦労したよ」
まあ、軽く漏れた程度ならそこまででもない場合も多いので、若干誇張が入っているが、それは伏せておく。
漏れたウィルスの種類によっては、軽くでも大災害になりうるのは間違いないし。
「では、その意識が不要な場所に寝泊りしてもらって構わないわ」
「へぇ。そんなのもあるのかい?」
「ええ、本来は外界の菌類を防ぐ目的で用意した部屋がいくつかあるもの、それにちょっと手を加えておけば、その部屋に居る限り、外に病原体が出ていく事も無いはずよ」
「なるほどねぇ」
無菌室。というヤツだろう。それを一つダメにしても良いというのだから、よほど切羽詰っているのは間違い無さそうだ。
「まあ、それはいいけど、もう一つ問題がある」
「何かしら?」
「さっきも言ったろ? 根深いって。私が真面目にそのわくちんを作ろうとしても、別の問題が発生する可能性は高い」
「多少の問題はうちで責任を取るわ。生死にかかわるほどの物でなければ御の字よ」
「随分とまあ、医者らしからぬ、いや、むしろ医者らしいのかねぇ。小と大で割り切った選択をするってのは」
「それは当然でしょう。全員を助けられず、1人を犠牲にして3人助けられるなら、そうすべきよ。八雲紫とも『犠牲を最小限に抑える』という方針で合致しているわ」
生死に長く関わっていると、命も数字として扱ってしまう。命を助けたいと切望し、医者を志した者達が、非情なる現実を前に味わう絶望など、とうの昔に経験した。とでも言うのだろうか。
心を閉ざし、作業とするか、それとも、それを前にしても足掻くか、覚り妖怪ではないヤマメには窺い知れない事だ。だが、こんなところで、今も医者を続けてるのなら、後者なのかも知れない。
「ふむ。流石に肝が据わってるね。良いよ。手伝ってあげる。けれど、作ったうぃるすの危険については、そっちで調べておくれよ。私だってある程度は気をつけるけど、そんな作業はした事無いからね」
「当然よ。丸投げなんて無責任な事はしないわ」
「なら良かった。ああ、後、私が関わった事は伏せといておくれ。上手くいったとしても、便利に頼られるなんて御免だからね」
「分かったわ。ありがとう」
安堵した様子の永琳に、ヤマメが苦笑で返す。
「礼なら上手くいってからにしておくれ」
「そうね。とりあえず部屋の用意をしてくるわ。半刻ほど待って頂戴」
「あいよ」
慌しく立ち上がり、鈴仙を呼びつけながら部屋を出て行く永琳を見送り、ヤマメは静かに茶を啜った。
部屋が用意されてすぐから、ヤマメの作業が始まった。
「うーん。中々難しいねぇ」
とうに日が暮れ、そろそろ丑三つ時という頃合だが、外の様子などさっぱり分からないヤマメは、試験管を眺めながら頬杖をついて思考をめぐらせていた。
既に何度もウィルスを作っては永琳に渡しているが、全て失敗作との判定を貰い、再試行を繰り返している。今は確か、十二回目だったか。
「うーん。やっぱり単純に弱いのを作ると、何かしら別の特技が出ちゃうねぇ。我ながら困ったもんだ」
最初に作ったのは、単純な劣化ウィルスだった。しかし、確かに繁殖力や毒性は下がったものの、永琳曰く、潜伏期間が極めて長くなってしまったとの事だ。
あまり潜伏期間が長いと、患者が治療に来なくなり、薬を配ったとしても飲むとは限らなくなる。そうなると、自覚症状の無い患者がいつまでも病気を拡め続け、根絶は極めて難しくなる。
先ほど作ったのは会心の出来だと思ったのだが、今度は副作用が強く、実質的には今の流行り病と変わらぬ結果になってしまう。との裁定を下された。
「調子はどうかしら?」
「鈴仙。あんたがここに来ちゃ危ないよ?」
背後に現れた鈴仙に振り返る事もなく、注意するヤマメ。
「多少は気を使ってくれるでしょ。能力なんだし」
「まあね。丁度今行き詰ってるところさ」
室内に漏れた病原体は鈴仙が現れる直前に回収している。
手間は手間だが、気分転換に来てくれたのはありがたい。正直狭い密室でじぃっとしているのはストレスでもあるし
「師匠からは、大体一週間が期限と聞いているわ。今から根を詰めなくてもいいんじゃない?」
「なるべくはやく完成するに越したことはないだろう? それに何より、一週間もここに居たら気が狂っちまうよ」
ヤマメがおどけて見せると、鈴仙は同情の念を浮かべて苦笑した。
「まあ、狭い部屋だものね」
「それに、病院に病の妖が棲むなんて皮肉にも過ぎないかい?」
「確かにね。何かの小説にでも出そうだわ」
ヤマメのブラックジョークに苦笑を深め、鈴仙が懐から小さな御守を取り出した。
「これを渡しに来たのよ」
「呪符、いや、護符かい? 中々強力そうだね」
「ええ、これをつけていれば、しばらく外部からの妖気・霊気を遮断出来るの、でも、副作用として、自分からも力を使えなくなる。あなたが出歩くには最適でしょ?」
「ああ、助かるよ。それがあればトイレにも気軽に向かえるってものさ」
かなりの妖力の篭った護符。護身用にはそれなりに使いでがありそうであり、この副作用は今のヤマメにとっては便利なものだ。
「それを身に着けていれば、気分転換に外を見て回るくらいはしても構わないそうよ」
「随分と甘い裁定だねぇ。外に行ったまま逃げちまうかもしれないよ?」
「そうなれば地底のお仲間にも迷惑が行くでしょ。あなたはその辺の気遣いが出来る妖怪だろうって、師匠が言ってたわ」
永琳に対して絶対的な信頼を抱いているのだろう。鈴仙の子供のような言い回しに、ヤマメはついつい苦笑を浮かべてしまった。
「まあね。いまさらそんなつまらないやんちゃはやらないよ」
「なら良いじゃない。師匠はおそらく、限界まで試行させるわ。そこから、それまでの結果で一番いい物を選ぶ。理想どおりの副作用0でもなければ、途中でOKしないでしょうね」
「難儀な事だねぇ。薬だって、副作用が無いものなんてそうそう無いだろうに」
「そうね。だから、ある程度は気楽にやっていいわよ。元々そういう研究をしていたわけでもないでしょ?」
「まあね。強い病気を作ろうとした事なら何度かあるけどさ」
肩をすくめて見せるヤマメに、鈴仙はおとがいに指を当てて小さく首をかしげる。
「へぇ。じゃあ、師匠にも手が付けられないような奇病とかあるのかしら?」
「まあ、無くは無いよ。医者に会う前に死んじまえば仕舞いだ。けど、そうすると拡げるのが上手くいかない。強い病を作るのだって難しいもんさ」
あちらを立てればこちらが立たず、他にも医者の手には余りそうな難病をいくらか開発はしてみたものの、何かしらの短所は常に発生していた。
まあ、その病の開発は基本暇つぶしだったので、それを用いて何かを行うつもりなど毛頭ないのだが。
「ん。でもそうか、ふむ……」
「どうかしたの?」
「ああ、ちょっと思いついた事があってね。そちらも試してみるよ」
「そう。よろしくね」
「ああ、任せておきな」
にっこりと鈴仙に微笑んで見せ、ヤマメは思いつきを実行してみる事にした。
結局、というべきか、鈴仙の言った通り、一週間のほぼ限界まで、ヤマメは研究から解放される事は無かった。
永琳がどうやってウィルスの危険度を測っているかは知らないが、ヤマメが七日目の期限ギリギリに提出したワクチンを正式に用いると宣言した。
「ま、ギリギリだったけど、良いのが出来てよかったよ」
「ええ、副作用もかなり軽いもののようだし、ウィルスの寿命も短くて理想的よ。量産まで手伝ってくれて、とても助かるわ」
出来上がった全人里分のワクチンを前に、満足げに微笑んでいる永琳。治療薬の量産を平行していただけに、目の下に凄まじいクマが出来ている彼女に、ヤマメは苦笑で返した。
「礼は実際に投与して成果に満足してからにしとくれ」
「謙虚ね。地底の人気者というだけはあるわ」
「ベタ褒めされるなんて後が怖いよ。後は人間に配ってくるんだろう? 手は足りるのかい?」
「正直足りないわね。鈴仙と私で手分けする予定だけれど」
「んじゃ、私も手伝うよ。自分の作ったものの行き先くらいは見ておきたいしね」
ヤマメの予想以上に親切な提案に、永琳が目を瞬かせる。
「それは悪いわ。と言いたいけれど、少しでも多くの予防をしておくには手は必要ね。お願いするわ」
「なに、ちょっとした物見遊山を兼ねてだし、気にするこたぁないよ。それに、あんた寝てないだろう? いくら不死と言っても、疲れは蓄積するそうじゃないか、ちょっとでも寝ておきな。医療ミスなんて洒落にならないからね」
永琳は確かにフラフラであり、いつ倒れてもおかしくなさそうな気配さえあった。
「随分と気遣ってくれるのね。あなたも四六時中ワクチン研究で疲れてるでしょうに」
「疲れた頭じゃ、ちゃんとした判断は難しい。これでも私はちゃんと寝てたんだよ。報酬に色でも付けてくれりゃそれで良いさ」
「ああ、そういえば、忙しさにかまけてきちんと報酬を決めてなかったわね。何が良いかしら?」
月の頭脳、とまで呼ばれる賢人も、連日の激務で思考が鈍化しているらしい。いまさらな話にヤマメは再び苦笑を浮かべた。
「酒でいいさ。終わったらうちで打ち上げでもしようじゃないか」
「分かったわ。私も行けたら行くわよ。最高級のを用意してね」
「はは、そりゃ楽しみにしておくよ」
軽い相談の結果、ワクチン配布にも、ヤマメ一人では不審に思われる可能性を考慮し、鈴仙の手伝いとして同行する事となった。
投与自体は迅速に進み、用意してきたワクチンの半数を消費した頃。
「しまった。注射器が足りないわ。一度永遠亭に戻らないと」
里での行列を半分も処理した頃、鈴仙が苦々しげに漏らしたのを見て、ヤマメは片目を瞑って、首をかしげた。
「里の規模を見間違えたのかい?」
「来る里を間違えたわ。いつもの薬売りの巡回ルートを選んじゃったけれど、先に北の小さな里に行く予定だったのよ」
「ふむ。なるほどね」
ここから永遠亭まで往復するのに、急いでも一刻はかかるだろう。
そんな時間待たせると、里の者の生活にも影響は出るだろうし、受けずに散ってしまう人間も多そうだ。
「ああ、また師匠に叱られるぅ」
頭を抱える鈴仙に苦笑を浮かべ、ヤマメが助け舟を出した。
「とりあえず、そこいらで大なべでも買ってきな」
「え? そんなものどうするの?」
「戻るより早い方法があるのさ、それと、今並んでる連中は、私がなんとかしといてやるよ」
「うーん。分かったわ。お願いね」
「ああ、一緒に薪と水もお願いするよ」
「薪と水、ああ、なるほど、了解よ」
必要な物を並べられ、ようやく合点がいった様子の鈴仙は、足早に金物屋に走り出した。
「んじゃ、ちゃっちゃとやっちゃいますかねぇ」
ひょいとワクチンの入った容器を手に取り中身を嚥下する。
「ああ、そんなに怖がらなくてもいいよ。注射よりは痛くないはずさ」
目の前の人間ににこりと微笑みかけて、護符をワクチンの傍に置くヤマメ。
「んじゃ、始めるよ」
先頭の人間の胸元に手を当て、病を操る能力で、ワクチンのウィルスを、直接感染させる。
ワクチン等と言われても、やはりウィルスはウィルス、病原体であるのだから、これくらい出来て当然なのだ。
まあ、本当は感染させるのが目的なら、触れる必要は無いのだが、そこは受ける側が何かされたというイメージを持つ為の演出だ。
「ほい。終わり。と、ちょいと体がだるいだろうから、今日は大人しくしときなよ」
「あ、はい」
困惑している住民を追いやって、次の者に呼びかける。
「ほら、次のヤツおいで、ちゃっちゃと終わった方がみんな楽だろう?」
てきぱきと行列を処理しているうちに、鈴仙が大なべと薪と井戸水を担いで現れる。
「お、おまた……せ」
「おやまぁ。わざわざ一回で取ってきたのかい? 何回かに分けた方が早かったんじゃないかねぇ」
「う、そ、それもそうなんだけど……」
息も絶え絶えだった鈴仙が、ヤマメの指摘で視線を逸らす。うっかりなのか事情があったのかは知らないが、ともかく準備くらいは始められそうだ。
「まあ、いいさ、とりあえずそこらで釜戸を借りて、湯を沸かしなよ。その間に薪の追加を用意だね。これじゃちょっと足りないだろう」
「分かったわ。そっちは……順調みたいね」
「ああ、準備が終わる頃には終わると思うよ」
「うん。お願いね。そこに馴染みの茶屋があるから――」
「いや待ちな。民家の釜戸にしとくべきだよ。飲食店が釜戸を貸すのは難しいだろうし」
言葉を遮られた鈴仙が目を瞬かせ、ヤマメの言っている事に気づいて頷いた。
「ああ、それもそうね。そこのご隠居さんにお願いしてくるわ」
「ああ、よろしく頼むよ」
鍋を片手に小走りで向かう鈴仙を見送り、ヤマメは再び予防接種の感染作業に移った。
「ん。まあ、こんなもんじゃないかい?」
ぐつぐつと煮えたぎる大なべを前に満足げに頷くヤマメ。
この作業の大半を行っていた鈴仙は、かわいそうな事に汗だくで息も絶え絶えと言った様子だった。
「そ、そう……ね」
「大丈夫かい? いっそ取りに戻った方が楽だったかねぇ」
「いえ、時間は確かに短縮出来たわ。煮沸消毒の事すっかり忘れてたなんて、師匠には絶対言えないし」
「ちょいと護符を外しちまったし、私も怒られちゃうかもしれないね」
「大丈夫でしょ。ワクチン以外に病気を撒いたりしたわけでもなし」
「ならいいけどねぇ」
沸騰した湯に、ガラス製の注射器を放り込み、煮続ける事半刻ほど、念を入れて必要な時間の倍以上、かなり長くかけておいたし、これで感染症の心配はまず無いだろう。
「残りは大体半分だったし、丁度使いきれると思うけど、どうだい?」
「おそらくそうね。日が暮れる前になんとかしましょ」
「ああ、そうだね。その方が私も早く帰れるってもんだ」
ヤマメが軽口で返すと、鈴仙も苦笑を浮かべて頷いた。
「そうね。それにしても」
「なんだい?」
「ヤマメは何で煮沸消毒なんか知ってたの?」
純粋な疑問といった様子の鈴仙に、今度はヤマメが苦笑を浮かべた。
「病気を操るなら、その対策も知っておくものだろう? 自分の能力に、どういう対策がされるのか? ってのは、把握しておいて然るべきじゃないかい?」
「ああ、そういえばそうね」
「ま、下手な医者よりゃ詳しいよ」
得心がいった様子の鈴仙に微笑んで、ワクチンが積まれた荷車を引く。
「ほら、のんびりしている暇は無いよ。さっさと配らなきゃ、被害はそれだけ大きくなるんだからね」
「そうね。急ぎましょ」
その後、何とかその日の内に、ワクチンを配り終えたヤマメと鈴仙だったが、ヤマメは永遠亭に戻らず、その足で地底に帰っていった。
「地底で人間の為に仕事するなんて妬ましいわね」
「やれやれ、会って一番がそれかい? そろそろ聞き飽きたよパルスィ」
地底に戻ってから、二ヶ月ほど、地底の面々に会う度、地上に連れ出されてワクチンを作った事を冷やかされてきた。
「地上でも人気者になるつもりかしら?」
「まさか、そんなつもりはないよ」
パルスィの言葉にいつも通りの返答を重ねてから、はたと気づく。
「そろそろ頃合かねぇ」
「何がよ? 思わせぶりは良く無いわよ」
「いんや、前も言ったけど、私ら地底の妖怪が、素直に地上で善行やろうとしたって、出来るもんじゃない。それはあんたも分かってるだろう?」
悪戯を仕掛けた子供のような笑みを見せるヤマメに、パルスィが怪訝な表情を浮かべる。
「それは当然よ。素直に善行なんて出来るなら、そもそも地底に篭ってなんかいないもの」
「だから――おっと、来た来た」
「ヤあああぁぁマああああぁぁぁメえええぇ!」
地上から、聞き覚えのある声が大声で呼ぶ声に振り向くと、鈴仙が大きな包みを背負ってこちらにすっ飛んできていた。
「やあ鈴仙。良く来たね。歓迎するよ」
「なにが良く来たね。よ! ほら! これ!」
ぐいっと押し付けられた包みの中は、上等な香りのする液体を湛えた酒樽。中身は永琳の言に違わず、最上級な酒だろう。
「渡す為に用意した酒だし、功績は功績だから支払うって師匠が言うからもってきたけど!」
「何かあったのかい?」
「しらばっくれて! あのワクチン、絶対わざとでしょう!?」
「んん? ちゃんと要望に応えた品だったと思うけどねぇ」
ニヤニヤと笑うヤマメに、鈴仙が地団太を踏む。唐突に会話に割り込まれたパルスィは、いつものように嫉妬の炎を燃やしていた。
「そりゃ要望通りだったわよ! 本来の毒性は抑えて、それなりに抗体を作るのに作用して! ちゃんと流行り病の大流行は抑えて、師匠が過労死する回数は一回で済んだわ!」
「あれだけ頑張っても一回は過労死したのかい。そりゃ可哀相に」
「それよりも問題は今よ!」
憤懣やるかたないと岩壁を叩く鈴仙。
「なんであんな変な症状が今になって出てくるのよ!」
「ふむ。それかい? 大したこっちゃないよ。あの病原体は、中々全滅しにくい。だから、ある程度以上のうぃるすの死骸が溜まると、ちょっとした症状が出る。まあ、命には関わらないから安心おしよ」
「でも体は元気だから、患者がうちに大量に押し寄せて大混乱よ! しかも原因うちにあるって話で、信用問題も起きてるんだから!」
「だから言ったじゃないか、地底の妖怪が、何か良い事しようとしたって、上手くはいかないってね」
猛り狂う鈴仙を宥めながら、酒樽を叩くヤマメ。
「そうだ。打ち上げをやるって話だったろう? 一杯やっていかないかい?」
「そんな暇ありません!」
「冷たいねぇ。でも、そろそろか」
「え? にゃにが? えっ」
自分の口から出た、舌足らずな言葉に、困惑する鈴仙。
「私の能力は妖怪にはとても効き辛い。けれど、まったく効かない訳じゃない。あんたも打ったろう? ワクチン」
ヤマメの作ったワクチンは、確かに人里を疫病から守った。
だが、いまや地上では、ワクチンを接種した多くの人間が、言語中枢に大きな問題を起こし、ちょっとした騒動になっていた。
「ま、ましゃか……」
「私ならすぐ治してやれるよ。まあ、治さなくたってほっときゃ数日で治るけどね」
それに軽い悪戯を起こすという意図で作った病気だ、言葉に影響が出るだけで、他に問題なんて何一つ起こらない。
というか、そういう方法でないと、永琳の要求する基準の病原体を作る事はむしろ出来なかったのだ。
「けど、その前に一杯くらい付き合ってくれたって良いだろう?」
「そ、そんにゃことをしてたら、ししょうにおこられひゃう。あとれにゃらめぇ?」
「いやぁ、私が言うのも何だけど、何を言ってるのかさっぱり分からないねぇ」
ヤマメが苦笑いをしていると、パルスィが横から鈴仙の肩を掴んだ。
「まあ、とりあえず一杯くらいなら大丈夫でしょう。付き合って貰いましょう」
「そうだね。ついでに勇儀とキスメも呼んで、宴会と洒落込もうじゃないか」
しゅるしゅると鈴仙の手足を糸で拘束し、巣穴の方へ放り込む。
「いぃやぁああああぉぁあああられかたしゅけてえええ!!!!」
呂律の回らない鈴仙の悲鳴が、地底に空しく響き渡り、ヤマメは苦笑を浮かべた。
「ほんとに大丈夫だと思うけどねぇ」
月の頭脳と呼ばれるほどの知恵者なら、この程度の結果くらいは予想出来たはずだ。
そして、おそらく時間さえあれば、この症状の予防薬の用意も出来ただろう。
それを期限ギリギリに提出して、準備させなかったのは、ちょっとした意地悪だ。本当は、ウィルス自体は二日目には完成していた。
「ま、ちょいと悪い気はしたから、手伝ってやったけども」
地底から都合よく何度も呼び出されては堪ったものではないので釘を刺したようなもの。
それに、自分が関わっているのは公表しないように約束もした、今更こちらが原因など言い出せば、彼女らがどう見られるかくらいは考えるまでも無い。
わざわざ鈴仙を使いに寄越して来るのは、おそらく想定内の事で怒ってないとでもいうアピールだろう。
「でもまあ、どうでもいいかねぇ」
酒樽と一緒に持ち込まれた護符を投げ捨て、嘆息する。
自分はもう地上への興味は無い。棲み分ける事で得た、今の気楽な暮らしに満足している。こんな呼び出しはもう金輪際御免だ。
「おーい。ヤマメぇ! 宴会やるんだって?」
「おや、耳の早い。ちょいと良い酒が入ったもんでね。客人もいるよ」
「ほう。確かに良い香りをしているね。こいつぁ楽しみだ」
豪快に笑う鬼の横で、ヤマメは酒樽を担ぎ上げた。
弱ってるゆかりん、ゆうかりんかわいいでしゅ