Coolier - 新生・東方創想話

ひななゐロック 【人心照悪】(上)

2014/07/25 17:50:20
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 ――天が在る。地が在る。人が在る。

 その全てに憧れ、欲し、故に何者にも成れなかった少女が居る。
 その全てを妬み、見切り、故に何者にも成れなかった妖怪が居る。
 その全てが眼中に無く、故に何者にも成れなかった男が居る。

 ――天に無く、地に無く、人で無く。ただ、己の足でのみ立ち。自ら世界を歩く者達。

 全てに平等である事を課せられたが為に、唯一無二で有り続ける少女が居る。
 全てを愛してしまったが為に、孤高でなければ耐えられぬ女が居る。

 救う為の説話では全く無く。在り方を問う為の問答でも無く。
 端的に言えば、この話は彼女達の為の活劇でしかないのだから。


 ◆


 彼岸花が揺れている。
細筆と朱墨で描かれたようなその花が、幾つも幾つも折り重なって、血飛沫で汚れた砂利を朱く紅く覆い隠す。
三途へ向かう中有の道。何方でもない、生者と死者。
霊体の金魚屋や、「プーレク」と印字された看板を掲げる、霊魂達の屋台。ピーヒャラと鳴る笛の音が、祭り囃子で賑やかす。
そこから少し脇道に逸れた場所、緑のワンピースを着こなし二刀を振るう半人半霊の白玉楼従者――
魂魄妖夢は今、腹部を貫通した刀傷からどくどくと血を吐き出しながら座り込み、ぜいぜいと荒い息を吐いていた。

 「あぐっ……うぅ……」

 その手に持つは、妖怪が鍛えし名刀『楼観剣』。
しかし、魂魄家の宝たる『白楼剣』は今やそのもう片方の手に収まっては居ない。
妖夢の背後より襲い掛かった不埒者が、その懐に収めてしまっているからだ。

 「何故、ですか」

 涙を湛え襲撃者を見る。目深に編笠を被り人相を解り辛くしてはいるが、間違えよう筈もない。

 「師匠ッ!」
 「……理解も無し、覚悟も無し、故に是非も無しとは言えいささか拍子抜けだな。
  結局、お前はこの剣を知ろうともしなかった」

 一切の目を向けぬまま紡がれるしわがれた声。氷の、いや、冷えきった鋼のような響き。
妖夢は今にも遠のきそうな意識の上で藻掻く。始終開かれている死者の縁日の、祭り囃子が遠く聞こえた。

 「荒まれた……」
 「そうだ、焦っているのかも知れぬ」

 だくだく、だくだくと血が流れ出ていく。
生来の頑丈ゆえすぐに死にはしなくとも、放っておけば命に関わる事も有るだろう。
身体のあちこちが熱い。焼けた胴が脳みそに注がれたかのように沸いている。

 「切れば分かるのですか。今の貴方の事も切れば分かるのですか、お爺様ッ!?」

 肺の奥から、振り絞るように言葉が出た。幾年の情念を乗せ振るわれるその舌剣も、老人の耳には届かない。

 「……その時が来たら試して見るがいい。貴様が……いや、儂が『届いた』ならば」

 鞘に収めたままの楼観剣を杖に、妖夢は翁の背を睨みつける。翁はそのまま、振り返りもせずに立ち去っていく。
妖夢は立ち上がろうとして涙をこぼし、泣き崩れ、やがて担架で医者へと運ばれた。

 明朝、これは【辻切り侍、辻切られる!?】と題をつけられ、小さな事件として天狗の三面記事を賑やかす事になる。
少なくとも、数多くの部外者にとってはそれだけのことであった。


 ◆◆ ◆◆


  8:有頂天変 ~ Changeful Heaven

 むわん、と蒸し上がった生暖かい空気の流れが天子を撫でる。
すっかりと茹で上がった桜色の頬を、天子は掴むように隠した。
二人分の体温が挟まれた綿の布団は蒸した空気を掴んで離さなかったが、大きく開いてやれば石造りの壁に冷やされた冷たい空気が入り込んでくる。
素肌のまま布団に潜り込んだ比那名居天子は、小さなくしゃみを一つして意識を覚醒させた。

 天の気を失ってなお……むしろ表情から作り物めいた物がなくなった事で、より一層魅力的になったと称される顔。
光が失せ、多少の癖が付くようにはなったが未だ黒々とした髪は、今は濡れ、乱れ、艶っぽさを増している。
汗が一筋、一糸まとわぬ少女の肌を流れ落ちていく。両の掌の奥で熱い息を吐き、天子は無意識に独りごちた。

 「ヤバイ」

 何がヤバいって、まぁ、ナニが。
さとりから告白を受けた後、天子は言葉を返さなかった。いや、咄嗟には返せなかったと言うのが正しい。
勿論、さとりの事が嫌いな訳では無い。好きか嫌いかで言えば好きだし、でなければ――半ば単なる意地も有ったとは言え――ああも身体をはる事はしなかったであろう。
しかし、それが性別の壁を乗り越える程か? と答えるには、天子には圧倒的に誰かを好きになる経験が足りていないのだ。

 ――残された時間を考えれば、どうせ子を産み育てるような時間は無い。
 ――それなら、答えてやればいいじゃないか。こんな私も、愛してくれると言ってくれるならば。

 そう思う事も無いでは無い。しかしそれが誠意かと言われると、天子にはまた違う気がする。
思い切りも何処へやら、まごまごしている内に宴が始まり、悶々としている内に夜が明けた。


 ……そんな天子に対し、開き直ったさとりの「攻め」は苛烈そのものであった。


 不快に感じないギリギリの距離からヒットアンドアウェイを繰り返し、天子はジリジリとその絶対防衛線を押し下げられていく。
さとりが背中を流してくれる事に何の疑問も持たない自分を天子が気付いた頃には後の祭り。
よく見渡せば食事から風呂に至るまでガッチリと包囲され、いつの間にか天子は心を見通す目を相手に張り子の城で一夜籠城戦を繰り広げる羽目になっていた。
助けを呼ぶにも一切援軍の当てはなく、もっと言えば此処は元々敵のホームである。
交渉の使節を送れば巧妙な話術で言質を取られ、防衛の為の櫓は火矢で丸焼きにされ、数々の懐柔策で士気はズタボロ。
「もう難しく考えなくてもいーじゃん」と唱えるええじゃないか派が軍議の大半を占めた所で、さとり側が破城槌を持ち出したのを見て無条件降伏。
開城だけは水際で防いだ物の、外堀も内堀も完全に埋め立てられ、色々な意味で心に刻まれた一夜となった。

 「ま、まぁギリギリセーフよね、うん!」

 身体中に指突っ込んでガタガタ言わされていたプライドも、一晩経てばそれなりに整え直される物で。
天子は無理矢理自分を納得させ、身体を奮い立たせる。上等な肌触りの掛け布団が素肌をなぞりあげ、ぷるりと震えた。

 「うー、ベトベトする」

 布団から開放された空気がむわっと広がり、天子の鼻孔を擽る。汗やその他が混じった匂いは、お世辞にもいい匂いだとは言えないだろう。
少なくとも、このまま食卓に向かえば嗅覚の鋭いお燐や犬猫系のペット達に嫌な顔をされるのは間違いない。

 ――『天人の頃なら、こっちの匂いも桃の香りだったりするんでしょうか?』
 ――『でも、私はこっちの方が好きですね。人の、天子さんの香りが感じられて』

 さとりの囁くような声が、耳の奥で反響する。
甘く、けれど何処か寂しさの混じった、散ると分かっている桜を愛でるような声。
天子は隣で子猫のように身体を丸め、冷たい外気に不満気に眉を寄せるさとりの頭を撫でた。
枝垂れ桜のような色合いのくしゃっとした髪。さとりは自分自身のこれが嫌いだと言っていたが、天子は可愛いと思う。
日に当たらないからだろう、天人顔負けの白くほっそりとした背筋は、全体的に白魚を思わせる。

 ――キスした数も、随分と増えちゃった……

 つい二、三ヶ月前まではまるきりの初心だったと言うのに。天子は恨めしげに、すやすやと寝こける隣人の唇を抓んだ。
紅もロクに塗った事の無さそうな、飾り気の無い唇だと言うのに。拒否する訳では無いが、何となく納得が行かぬ。

 「私は高いんだぞ?」

 おどけるように口に出した声が思わぬ色を含み、天子は気恥ずかしくなって頬を染めた。
しかもそれが相手に聞かれてもいない独り言で有る事を自覚して、その顔は更に赤くなる。

 「べ、別にアンタに払って貰おうなんて思ってる訳じゃないけど……」

 言い訳を口に出して、何だかとても馬鹿馬鹿しくなって。ふ、とある事に気付く。
そう、比那名居天子は近い将来、古明地さとりに高い負債を払わせる。それは「死」、そして「離別」と言う高い高い今生の利子。
決して逃れ得ぬ物であり。だからこそ、天子もさとりも一度はそれが受け止めきれない大きさに成る前に心を凍りつかせ、一人きりに成る事を選んだ、筈だった。

 「……それが出来なかったのは、私の我儘」

 実際には、お燐が背中を押す形では有ったが。
さとりが作り上げようとしていた「殻」をぶち壊し、一人では生きたくないと望み、叫んだのは天子の我儘だ。

 ――だからこそ。本来はこの負債、私が払わなければ成らない筈なのに。

 どう在った所で、天人五衰が始まった比那名居天子は古明地さとりを置いて……老いて行く。
死神自体は、場合によっては地霊殿の面々により撃退が可能かもしれない。
だとしても、それは最早天子が死んだ後の魂を何処に置くかと言う問題でしか無い。
例え、地底に蔓延る怨霊に成れた所で。それはもうさとりの望む比那名居天子では……

 「……ヤメヤメ、とっととお風呂はいろ」

 そんな事は、百も承知だ。さとりだって、それが嫌という程分かった上でこちらが伸ばした手を握ったのだ。

 ――『桜が咲いたら、見に行きましょう。誰も居ない秘境でも良い。誰もが居るような宴会の場でも良い』
 ――『出来ればあの子も捕まえて、皆で桜を見に行きたい』

 今考えるのは、その約束の事だけでいい。春になるまで、この身体をしっかりと保たせる事。そしてしっかりと今を楽しむ事。
そう、他ならぬさとりと共に。

 室内だと言うのに吐いた息が、白く濁る。口の中がニチャニチャして、なんだか気色が悪かった。
天子は手早く衣服を整え荷物を纏めると、乱れた髪もそのままにのそのそと浴場へと向かっていった。



 ガラリと戸を開けると、よく磨かれた石が足にひやりとした感触を伝えてくる。
天子の火照った身体にとっても、心地いいと言うよりは、最早ちべたい。家の中に居るにもかかわらず真冬のような空気は、天子に足早に浴槽へと身を運ばせる。
従来であれば蒸し暑い程の地霊殿の気温は、とある事情により目下減少の真っ只中で有った。
流石に零下とまでは行かない物の、旧地獄は本来雪が振る程度の気温である。暖房器具の乏しい地霊殿では、家中で有っても厚着が推奨される程だ。
人型に成れないペット、或いは人型に成らずに風呂に入る事を好むペット達のためか、地霊殿の浴槽は二つ有る。
石造りなのも毛が隙間に入らない為だろう。天界ではそもそも垢が付かぬため風呂に入るという習慣が無かったが、暖かい湯に浸かるという快楽を知ってしまえばもう戻れないだろうな、と天子は思った。

 「戻れない、か」

 ふと口にした言葉は、ある種の感傷を天子に与える。戻りたい、と思っている訳では勿論ない。
それでもそれは一つの喪失。流れは別れ、別れた道の先にある物を天子が知ることは、永遠に無いのだ。
身体を洗うための洗い場に向かいながら、天人であった頃の生活が浮かぶ。
代わりに手に入れたのは、価値の定まらない努力の跡と僅かな友人。そして、そこからちょっぴり外れた……

 「……んっ」

 ピクリ、と天子の身体が震え、次の瞬間には桶をひっくり返し頭から湯を被る。
ザザァ、と音を出して流れる湯が様々な物を流し去り、ポタポタと水を滴らせる天子が残った。

 「う、あー……痕付いちゃってるじゃない……擦って消えるの? コレ」

 石鹸を泡立てた手ぬぐいで内ももを擦る天子。その背後から、ひたひたと足音が響いた。

 「消さないでくださいよ、つけてるんですから」
 「んげ、さとり……」
 「置いてくなんて、酷いじゃないですか? それも私あんな格好なのに、布団を広げたまま……
  もう、寒くて寒くて。風邪を引くかと思いましたよ、私」
 「あんな格好したのは自分からでしょうが!」
 「まあまあ」

 さとりは慣れた手つきでシャンプーを手に取ると、そのまま天子の髪を洗い出す。
天子は何か言いたげに口を開きかけたが、腰まで届く髪を自分で洗うのも面倒だったのだろう。不承不承といった体で大人しく背中を向けた。

 「……まぁ、あんまりこういう印とか付けるのは、ちょっと……困るっていうか……遠慮しなさいよね!」
 「そうでしたか。天子さんは、こういうの、嫌いですか?」
 「別に……嫌いじゃあないし、興味も無いわけじゃないけど……その……」
 「『こんな場所に有ると、見る度に意識して変な気分になってしまうから』ですか……私はその方が望ましいんですけど」
 「あ、あん、アンタねえ!」
 「ふふふ……知りませんよ? こんな所で暴れて、シャンプーが目に入ってしまっても……!」
 「脅迫がしょぼい! でも地味に嫌……!」
 「さぁ、このままボディソープで身体を洗ってしまいましょう♪」
 「ひゅいっ!? ちょっと、何処触って……ヌルヌルさせるな、こらぁ!」

 慌てて湯を被ろうとする天子を、石鹸で泡だらけにしたさとりが止める。
桶でぽかぽかと叩かれて居るもののちっとも怯む様子が無いさとりに業を煮やしたのか、天子は無理矢理引き剥がそうとして……

 「きゃあっ!?」
 「ま、危ない」

 バシャアン! ひっくり返った二人に、頭から湯が被せられる。
仰向けの天子に乗っかる形になったさとりは、流れ落ちる泡にそって視線を動かしながら、そっと頬を撫でた。
天子の腕に力が込められるが、さとりはそれを押さえつける。妖怪としての臂力はそれほどでも無くとも、人間に比べれば勝る。
つまりはそれ程までに、天子の力は弱まっているのだった。

 「……ちょっと」
 「……退きたく、無いです……離したくない」
 「でも」
 「天子さんが、未だ答えを出せてない事は分かっています」

 天子の頬を撫でていた手が、喉から肩へ。

 「それなのに状況に流されるまま、私の思いに便乗して自らの興味を満たしているのを、嫌悪している事も」
 「そんなんじゃ……」
 「貴女は裏切ってなんか居ませんよ」

 天子の言葉を遮って、さとりは息遣いの感触すら感じられる距離で目と目を合わせる。

 「答えは出せない。でも、中途半端に思いに応える。期待させてるんじゃないか?
  ……たしかに、普通ならそうかも知れません。けれど、私はさとりですから」

 気に病む必要は無いんですよ、と、耳元を擽りながらさとりはつぶやいた。

 「一人で生きたく無いのが貴女の我儘ならば、これは全部、私の我儘なんです。
  本当なら、待ってあげるべきなのかも知れない。
  歪むのが怖いからこそ、時間の成り行きにまかせて置くべきなのかも知れない」
 「聞いてたの!?」
 「あれだけ唇ぷにぷにぷにぷに弄られてたら、そりゃあ起きますよ」

 さとりの目がギラつく。
それはさながら、飢餓状態で食料を見つけた獣のようでもあり、欲しい物を見つめる子供のようでも有る。

 「でも、ゆっくりと貴女の答えを待つ『時間』は無い」

 天子は、そんなそんなさとりの瞳が「綺麗だな」と呆然と考えた。


 「私は貴女が欲しい。今、すぐに」

 二人の唇がくっつき、また離れる。何度目かなんて、もう数えてもいない。


 「……随分、素直に口に出すようになったもんね」
 「おかげ様で。私も同様に、お燐に背中を押されましたからね」
 「悪く無いわよ、悪く無い。……でもごめんね、やっぱり私には分からないわ。
  別に、付き合ってあげても良いとは思ってるの。今から男の人捜して、仲良くなって……
  そんな事を考えるより、さとりは余程魅力的だし、手間も無い」
 「そうですね」
 「でもやっぱり、それって凄く不義理な気がする。さとりは気にしないかも知れないけど、私は嫌だ」
 「……そうでしょうね」

 さとりの目の光がふっと収まった。天子はそれを見る度に、なんだか泣きそうな、悲しい気持ちになる。

 「ごめんね。男の人としたって、ちゃんと子供が作れる訳でも無いのに。なんか不純よね」
 「いえ……ようは、キチンと惚れさせろと、そういう事でしょう?
  いつか頂いて見せますよ、私は、覚りの妖怪なのですから」

 白く浮かび上がる鎖骨を撫でていた手が、下に向かう。
そこでは、くっきりとした赤い線が、交叉状に何本も引かれていた。
さとりはそれを、触るか触らないかの距離で丁寧になぞる。

 「また、掻き毟ってしまったんですね」
 「……ごめん。やっぱ、なんか慣れなくて……」
 「掻いてしまったら、もっと痒くなりますよ?」
 「分かっては……居るんだけど」

 叱られた子供のように、天子は目を伏せた。
さとりは指でなぞっていた箇所に顔を持って行くと、その傷跡に舌を這わせていく。

 「んっ……ちょ、ちょっと……」
 「ん、ちゅっ……駄目ですよ、このままにして痕が残っちゃったらどうするんです?」
 「舐めたって、変わんないでしょ……?」

 答える代わりに、厚ぼったいさとりの舌が肌をなぞり上げる。

 「だって天子さんってば、こんなに可愛らしいんですもの」

 さとりの瞳が、再びギラリと光を灯した。天子はゆっくりと震えて、身体を摺り合わせ――


 「わーい、いっちばーん!」
 「あーもうお空、暴れないでおくれ……わぷっ、ちょっ、羽根引っ込めろ!」


 ガサゴソと更衣室で着替える音が石造りの湯船に響き渡る。豊かな胸部を勇ましく揺らしながら駆け込んでくるのは、地霊殿に住む地獄鴉兼幻想郷の火力代表、お空であった。
その横、翼で顔をはたかれて顔を抑えているのは彼女の友人であるお燐であろう。

 「……あれ、天子じゃん。えー、一番じゃなかったー」
 「フフ、悪いわね。ちょっとスロウリィだったわよ、お空」
 「ぶーぶー!」

 浴槽に身体を沈め、一番風呂を満喫する天子が勝ち誇ったように声を上げる。
鼻の痛みを堪えて前を向いたお燐が、もう一人の先客に気付いて首を傾げた。

 「あてて……あれ、さとり様も早起きですか? 珍しいですね。……何やってるんです? そんな所でうつ伏せになって」
 「さあ? ちょっとのぼせ上がってたから冷たい床が丁度いいんじゃないの」

 天子が冷たく目を細め、石床に頬をつけるさとりを見る。
姿勢はそのままに、さとりはさめざめと声を上げた。


 「……ええ、いや本当に、気持ちいいですね……床」


 ◆

 季節が変わりつつ有る、とはお燐の弁である。
そも、太陽光も入らないような地の底であり、四季の移り変わりと言うのはあまり意識するような物でもない。
旧地獄街道は何時でも肌寒く、逆に灼熱地獄跡に近ければ近いほど蒸し暑い。最近そうも言ってられなくなったが、それはそれで地上に目を向ける余裕は無いに等しい。
それでも地表近くまで採取に行く者達ならば多少は移ろいを感じるのかも知れないが、生憎さとりは根からの引きこもりである。
季節など、最近地上に出るようになったペット二人からの声で、ようやく知る程度の物。
それは、天子にとっても同じような物であったようだ。

 「こっちは雲の上だしね。年中花は咲いてるし、桃は生ってるし。
  四季という物の知識は有っても、実感することなんて無かったわよ。えっらい皮肉だと思わない?」
 「皮肉ですか?」
 「色即是空、空即是色を唱える者達が、死も病も畏れず、夏の暑さも冬の寒さも忘れ暮らす滑稽さよ」

 そう吐き捨てて鼻を鳴らす。黒々とした輝きの奥に、ほんの僅か赤さの名残を残すくりくりとした目。
身長はさとりよりも拳一個高いはずなのだが、良く腰を曲げて睨みつけて来るせいか、上目遣いの印象が強い。
この目で見つめられると、さとりはどうにもぽわぽわと落ち着きがなくなって、ぷにぷにの頬やさらさらの髪にちょっかいをかけたく成るのだ。
その度にやめろと怒られるのだが、本気で怒っている訳ではなく、むしろちょっと喜んで居る節さえ有るのが可愛らしい。
照れ屋なようでいて、腹をくくれば大胆に攻めて来るのもまた味である。

 「……ねえ、ちゃんと聞いてる?」
 「ええ勿論。ロックなのでしょう?」
 「労苦よ労苦。人として何かを積み上げるって、こんなに大変なのね。
  まぁ、また天国に行きたいとも思わないけど……閻魔の説教だけは簡便だわ」
 「肩肘張らずに風流を楽しむのもまた善行だそうですよ。まぁ、受け売りですけども」
 「アンタそれ、要するに外に出ろって言われてんのよ」

 呆れ顔で苦笑する天子の表情からは、随分と作り物らしさが消えたと思う。
以前は「ここはこう有るべきだ」と言うような、お手本のように綺麗だが人間味の薄い表情であった。

 「言われずとも、お花見する頃になったら一度下見に行きますよ。
  それまでは、まぁ、良いでしょう。特別理由も無いですし……」

 ……その頃から、もうどれだけ時間が経ったろう?
天子と遊ぶのにかまけていると言うのも有るが、最近は地底の主としての仕事が以前より大分忙しくなった。
古明地さとりが悪霊を元に道祖神を想起させた事を発端に、幾万の祟りが幻想郷の地を呪おうとするにまで至った異変――
通称『昇神』異変によって結局勝負の行方は有耶無耶になり、今でも地霊殿の主の座にはさとりが座っている。
その異変から――地底より、とある緑衣の翁が姿をくらませてから――さとりの体感で、およそ一月半になるだろうか。
持ち込まれた書類仕事を横目で流しながら、さとりはふぅとため息を吐く。

 「地底の街の雰囲気も……お世辞にも、良いとは言えないようで」
 「それは……」
 「仕方有りません、独立独歩の妖達ですから。仏や八雲に保護される……と言うのが許せない方も、多いでしょうね」

 嫌々ながら手に取ったそれは、設置後間も無く心ない者の手によって破壊された地蔵菩薩の、修繕依頼書であった。
地霊殿の主と言っても、要するに八雲紫や是非曲直庁とのパイプ役である。
正直な話、貧乏くじを引かされた、と言う気分の方が強い。こんな事なら大人しく博麗の巫女にでも押し付けておけばよかった。
さとりは適当に判を押すと書類を提出箱に押し込め、天子を手招きする。
天子がきょとんとしながら腕の届く所まで近寄ってきたのを、膝の上に引き込んで猛然と抱き締めた。

 「ちょっと!?」
 「いいじゃないですか、減るもんじゃないですし……これだけが今の私の癒しなんですから……ふぅ」
 「そう言いながら何処に手を伸ばして……ん、やだっ、こらあ!」

 書類の束を崩さないよう注意しながら、わしゃわしゃと撫でたくる。
顔を赤らめ、口では抵抗の意思を見せながらも、天子の実際に抵抗する力は弱い。
さとりも最近気付いた事では有るが、天子はどうもこのように扱われる事への耐性が低いらしい。幼少期の経験から、真っ直ぐに愛を注がれる事に淡い憧れが有ったようにも思える。
それは同時に、向けられる感情に敏感でも有ると言う事。日常モードのさとりが表情に出やすいタイプと言うのも有るが、意外な程に些細な表情の変化に気付いて、ズバリと言い当ててきたりするのだ。
自分と似ているようで似ていない、似ていないようで似ている愛しき少女。今は頬を膨らませ、腕の中でジタバタと藻掻いている。

 「ああんもう、ペット扱いはやめなさいって言ってるでしょ!」
 「何言ってるんですか、全然違いますよ」
 「何が違うってのよ」
 「私の得られる物……ですかね」
 「ヘンタイ……」

 ――おおっと、ジト目頂きました。有難うございます。

 からかわれて怒る顔や、半分本気でこっちを哀れんだ目をしている時も、それはそれで込み上げる物が有る。
だって、握ってくれた手があんなにも熱いのでは仕方ないじゃ無いか、と言い訳する気すらおきない。
天子と違い「要はどうしようもなくベタ惚れなのだ」とさとりは自覚し開き直っていた。

 「全くもう、折角偶にはこっちから息抜きでも用意しようと思ったのに。台無しだわ」
 「イキ……ヌキ……ですか。ふむ」
 「イントネーションが変だったわよ。本当に止めようかな、誘うの……」
 「まぁ、待ってくださいよ。次からは真面目に聞きますから」
 「出来れば何時も真面目に……いやもう、いいや」

 諦めたように目を伏せると、天子は胸元のポケットから二枚の紙片を取り出した。
ややサイケデリックな色彩が印象的な、チケットと呼ばれるそれ。

 「ふむ。……そういえば、デビュー曲――と言っていいんでしょうか――は人気爆発みたいですね」
 「そ。幾ら友達価格と言っても、手に入れるの苦労したわ。まぁ、正直アンタに似合わないとも思ってるけど、偶にはね」

 スパイディwithグリーンゴブリンズ、と言うバンド名が大きく印刷されたポスターは、さとりでも何回か見た覚えがある。
緑色の子鬼に扮したバンドメンバーを侍らせ扇情的な姿で歌い上げる黒谷ヤマメは、新しいスタイルを十分に確立出来たらしい。
何より、その騒がしくも調子の良いシャウトが混じった曲は、"地底の面々には"概ね好意的に捉えられているようだ。
とはいえ、彼女が伝えたがっていた本来の音楽性まで伝わっているかと言うと、疑問が残るものでは有るが……

 「騒ぎに乗じる方も、根っこから規制したがる方も、どちらも風情が無いというか」

 黒谷ヤマメのライブに乗じる狼藉者(フーリガン)達に、警備上の都合を建前にライブごとの規制を迫る是非曲直庁の督促状。そして八雲排するべしを名目に地上の物全てに噛み付く地底過激派。
どれもこれもさとりの頭痛の種で有り、私を挟まず好きにやってくれ、と言いたくなるような代物である。
書類の山から無造作に掴みあげた一枚をぴらぴらと揺らしながら、さとりは嘆息した。

 「はいはい、仕事の話は無し!」

 横から紙を取り上げた天子が、それをくしゃくしゃと丸めて部屋の隅のゴミ箱へと放り投げる。
放物線を描いた紙玉は、スコンと口の中に収まった。

 「ナイスシュート」
 「それ程でもない」

 この辺の軽口は、お互いにもう手慣れたもので。

 「それで、行く? 行かない?」
 「勿論、行かせて頂きますとも。街の様子をきちんと見るように、と八雲様にも言われておりますし」
 「だから、仕事は無しだってば」
 「はーい」

 地底の街は蒲公英の、と歌は謳う。
しかし現在の地底の街は、蒲公英のように自由に綿毛を飛ばす、とはとても行きそうに無いのであった。


 ◆


 事の始まりは、かの異変が収まった直後からである。
かの祟り、なりかけのカミ、八萬の悪霊は「立ち去っては居ないだろう」と言うのが、騒ぎから一週間後に八雲紫から聞かされた見解だ。
結界についての専門的な話はさとりには分からないが、どうもあのカミが残した穢れだとかそういう物が未だ旧灼熱地獄跡に染付いているらしい。さとりも一度見に行ったが、確かに見た目だけでも酷い物であった。
八雲や是非曲直庁としては、再び来ることがわかってる脅威に対し何の備えも行わないと言う訳には行かないのだろう。
旧地獄を戦闘城塞とし、カミへの迎撃耐性を整え地上圏の絶対防衛を行いたいようだ。
虎の子である博麗霊夢、更に九尾の方の式まで一時的に地底に宿を取らせ、何やら結界を張らせている。

 それに対し、反発を繰り返すのが地底側で有る。
八雲はこれを火急の事態で有るとし地上への限定的移住も受け付けるつもりでいたが、是非曲直庁はむしろ地底の厄介者達を都合の良い駒として使い潰したいらしい。
偶に顔を見せる四季映姫が頭痛を抑えて語る胸の内からは、危機感の無い上司や同僚への不平不満が煮えたぎるようであった。

 勿論、「はいそうですか」と素直に勧告に従う地底の妖怪たちでも無い。
独立独歩で街を立て直してきた誇りも強く、体制への反骨心も高い彼らもまた、現状においては致命的に危機感が足りていない。
幸い、こちら側はさとりと勇儀の実質的ツートップが理解有る分マシとも言えるが、さとりはカリスマ性の無さ、勇儀は人情家な面が災いして強く働きかけられないでいる。
災厄に備え、結界強化に使うための地蔵菩薩を設置しても次の日には首を切られて破壊されているような土地だ。
八雲の用意した対処計画も遅々として進まず、ただ時だけが歩みを止めずに居る。

 表面的には全ての争いが解決したかのような平和の裏で、「何か」の歯車をキシキシと歪ませつつ――





 ワン!
 「ん、おおっと」

 例え怪力乱神であれど、予期せぬ所から声が上がれば驚くらしい。
或いは――桃太郎が鬼退治に犬を共の一匹としたように――犬には破魔の力が有ると言い伝えられているからだろうか。
大荷物を抱え揚々と大路地を歩く星熊勇儀は、唐突な犬の鳴き声に少しばかり背筋を震わせたたらを踏んだ。
もっとも、四つもの酒樽を抱え上げた状態で「たたらを踏む」程度で済んでいるのは、矢張り鬼の怪力は流石で有ると言わざるを得ないのだが……。

 「だめよ、ジロ。驚かせては」

 勇儀が足元で静かに見つめてくる犬に怪訝な眼を向けていると、飼い主らしき白狼の少女が駆け寄ってくる。

 「申し訳ありません、えぇと……」
 「おや? 知らないのか。知名度にゃ自信が有ったんだがなぁ」
 「ご、ごめんなさい。鬼の御方」
 「いや……そうか、お前が盲の白狼天狗だって言う娘だな。それじゃあ分からないのも無理は無い」
 「完全に映らぬ訳では無いのです。あまり役には……立ちませんが」
 「悪い悪い、怖がらせるつもりは無いんだ。私は星熊勇儀さ」
 「星熊様!」

 娘の尻尾がくるんと小振りなお尻に丸め込まれる。
その様子を見て取ったのか、勇儀の注意を引くように傍らに控えていた白犬が少しばかり吠えた。

 ウォン!ウォンウォン!
 「だ、だめ。本当に怒られちゃうわ」
 「そんなに大人気なくは無いさぁ。賢い犬じゃないか。忠義を分かっている」
 「姉弟のようなものなのです。何時も助けられて居るんだけど、今日は言う事を聞かなくて」
 「犬だからなぁ。臭いが悪いのかも知れん」

 一応毎日湯を浴びては居るが、汗臭くないかと言われると自信が無い。
勇儀は思わず肩に鼻を寄せてクンクンと嗅いで見るが、流石に分かろう筈も無く。

 「ええと、大丈夫だと思いますよ。……その、お酒の臭いで良く分かりませんけど……」
 「ああ、こっちかな? 流石に酒樽がこんだけあると、犬の鼻じゃ堪らんか」

 子供がしゃがんで隠れられるだろう樽を片腕に二つずつ支えながら、豪快に笑う。
傍目に見てもかなりアンバランスなのだが、上腕二頭筋に根が張ったかのように樽は微動だにしない。
タロはそれを「見る」事は出来なかったが、にじみ出る周囲の雰囲気から察する事は出来た。

 「……そう怖がられるのも久しぶりだなぁ」
 「え、えっと……崩れたら、危ないので……」
 「あぁ、そっちか。大丈夫だよ、私ゃ手に何か乗せるのは慣れてるからね。ほら!」

 ほっ、と息を吐き勇儀は掌の上であまつさえ樽を跳ねさせる。タロはジロに促されて、一歩後ずさった。

 「……子供に好かれるってのは難しいねぇ……」

 静かにひしがれる鬼の棟梁と、おろおろと戸惑う白狼の子。
その様子が人目を引いたのか、辺りではちょっとした人垣が出来ていた。
そして垣根の間を縫いながら、声をかける妖怪が一人。

 「タロもジロも……どうして二人して私を置いていくわけ……? 
  恋人も居ないのに花束抱えた女の側に何か痛々しくて近寄れないと言う訳かしら……ああ妬ましい……」
 「うわっ……おか、お姉ちゃん」
 「呼ぼうとしたわね? タロったら、結婚もしていない私の事をまた『お母さん』と呼ぼうとしたわね!
  妬ましい……無邪気故に許されるその性質が妬ましい……フレッシュ! 若さ!」
 「……どうしたんだい、今日はまた特別キマってるようだけど」
 「その、意中だった人が行方を眩ませたとかで荒れてるみたいです、どうも」

 地底でもキャラの濃さでは五本指に入るだろうその声を中心に、ザアっと人が引いていく。
問題の人物は、金の髪によく映える黄薔薇の花束を肩で支え、眼を翡翠に輝かせてブツブツと笑っていた。
手に持っている物品から目的地は一緒だろうと当たりは付けられるのだが、それ故にどうしてこんな機嫌なのかが勇儀には解せぬ。

 「星熊様は、お姉ちゃんとお知り合いですか」
 「まぁ、前に少しね。それからも、何度かボチボチと。こんなにパルパルしてるパルスィを見るのは久しぶりだけど」
 「パルパルなんてしてないわ妬ましい!」

 この捻くれてるが面倒見の良い女は、自分の名前を擬音に使われるのがお気に召さないらしい。
ただ、怒り方が怖いというよりは可愛らしい感じで有るので、本気で嫌がってる訳ではないのかも知れないが……

 「ふふ……そう、別に気になんてしてないわ。花束を贈呈用で買った後、にこやかに『殿方に送るなら黄色より赤の薔薇の方が良いわよ?』とオススメされたことなんてこれっぽっちも気にしていないの。だっておかしいと思わない? そんなのわざわざ黄色いのを買うんだから自明の理じゃないかしら。と言うかあの緑髪に赤チェックの店員絶対わかってて言ってたわよね? ……ああ妬ましいわその笑顔が妬ましい……そう、黄色い薔薇の花言葉は、『嫉妬』。くくくくく、ふふふふふ、あぁーっはっはっはっは!」

 水橋パルスィはそのまま町中で高らかに三段笑いを披露すると、大股に道の中央を歩いてゆく。
彼女の通る側から人混みが左右に割れていくのは、さながらモーゼか何かか。
勇儀が呆れ笑いを浮かびながらスンと鼻を鳴らすと、ひやりとした生花の残り香がくすぐった。
大輪で咲く生花などという物は、地底ではめったにお目にかかれない貴重品だ。
さては、この度のためにわざわざ忌み嫌う地上に出向いて買ってきたのか。

 「本当に、素直じゃ無い奴だねぇ」
 「……お恥ずかしい。今日、ずっとあんななんです。折角のプレゼントなのに、嫉妬だなんて……」
 「なに、パルスィだって本気じゃ……半分位本気かも知れないけど、それだけじゃないさ。
  花言葉ってのは幾つも意味があるもんで、嫉妬なんてのはその内の一つに過ぎないよ。
  黄色い薔薇の相応しい花言葉なら、他にも有るさ」
 「他に?」

 さて、と呟きながら勇儀は掌に力を入れなおす。
この話を持ってきたのは、さて誰だったか……あまり似合わん言葉だと、思われたくもないが。

 「『友情』、だろうよ。パルスィは絶対照れくさくてうんとは言わないだろうけどね」
 「友情……」
 「そう、ピッタリじゃないか。何だかんだ、妬んで良い物と悪い物をしっかり把握してるような奴の事だ。
  さ、私らも急ごう。遅れちゃなんだしな。多分だが、行き先は同じだろう?
  なんたって今日は、記念日なんだからな」

 状況的に手を取る事も出来ないが、勇儀はそう言って笑いかける。
タロの傍らでちゃっかりと尻尾を振っていたジロが、ワン! と一声高く吠えた。
勇儀は掌の上で樽をグッと回す。貼り付けられた紙に、達筆な筆で「黒谷ヤマメさん江」と書き付けられていた。


 ◆


 「みんなー、今日はありがとぉーッ!!」


 ババン、とステージから火花が上がり、エンドコールが赤緑青と観客の顔を交互に照らす。
どこから調達したのか、黒いエナメル質のコケティッシュな衣装に身を包んだ黒谷ヤマメが、観客に対して大きく手を振った。

 ――アンコール! アンコール!

 思い思いのグッズを振りながら、観客たちは一様に声を上げる。
とんがった着け耳を着け、緑髪をツインテールに束ねたベース担当の少女が一歩前に出て、こちらも身体を伸ばす。
結局、アレがゴブリンと言う事なのだろうか。天子は手拍子を中断し、隣でちょっとばかり萎れたさとりを見下ろした。

 「うーん……やっぱり、しんどかった?」
 「いえ……これはこれでいい経験でしたよ……」

 さとりはフードで顔を隠しては居て表情も伺い難いが、それでもどこかほつれたような印象を受ける。
効果音を付けるなら、くてっといった所か。くるんと逆巻いた前髪を、天子はそっと撫で付けた。

 「……楽しかったのは本当です。光と音の過剰演出によるグルーヴ感と言うのでしょうか。
  中々得がたい体験でした。今後の参考にもなりそうです。警備上の問題点も分かりましたし」
 「そう言うの抜きで、って思ったんだけど……まぁ、アンタがそう言うなら、いいか」
 「とにかく、熱気に当てられまして……いえ、精神的というより、物理的に。
  もうね、あっついんですよこれ。くっそ暑いんです」
 「難儀ねぇ」
 「今脱げばいいのにって思いましたね? そうも行かないんですよ、まったく。
  それに、折角お祭り気分の皆さんを邪魔するのも居辛いですし……」

 ああ、それにしても暑いと言ってパタパタと襟元を扇ぐ。
確かに、会場ではこれだけの人数が騒いだ後の空気が篭り、天子でさえ袖をまくり上げている。暖房も無く、外では雪がこんこんと降っているというのに、だ。
このムワンとした熱気は、唯でさえ厚着をした上にフード付きの外套を着込んでいるさとりには、たまった物では無いのかも知れない。
天子は、近くの卓に置いていた自らの杯をさとりに手渡す。良く冷やした陶器で出来た器は、この場に置いてもなおヒヤリとした空気を纏っていた。

 「はい、飲み物。氷入ってるし、まだ温くなってないでしょ」

 地底で有るが故に、氷をある程度贅沢に使えると言うのは天子からしても羨ましい。
天界ではそもそも熱さ寒さが無い故に、皆ぬるい酒を飲んでいたのだから。
不味い酒でも冷たければ流し込める。逆説的に、いくら美味でもぬるくて一種類しかなければ何時かは飽きるのだ。

 そんな杯を前にして、さとりは何故かポッと頬を朱に染めて、いやんいやんと腰をくねらせた。

 「そ、そんな……いくら女の子同士でも、間接キスだなんて」
 「今更何言ってんだコイツ」
 「んもう。ロマンが分かっておりませんねぇ。天子さんでしたら、そこは
 『かかか間接キスだなんて! 何言ってるのよ! アンタの為なんかじゃ無いんだからね!』
  と言うような反応を返すべきシーンですのに」
 「……はぁ……」
 「あ、あ、駄目ですその視線は。そんな趣味なんか無いはずの私でもゾクゾクきてしまいます。
  ……無いですよね? ……天子さん、ちょっと試しに私の事罵ってみて貰えます?」
 「そんなだから妹に逃げられるんじゃない?」
 「心にクるのは止めて下さい」

 閑話休題。

 「しかし、バースデーライブねぇ……。知らなかったわ。道理で、チケット手に入れるのに苦労したと」
 「知らなかったのですか?」
 「アンタだってどうせ、チートで仕入れた知識でしょうが。
  ま、ヤマメ個人の誕生日と言うより、デビュー記念日って感じらしいけどね。プレゼントでも用意しておくべきだったかしら」
 「それでしたら、是非裸にリボンを巻いて『私がプレゼント♪』と言うのを……」
 「……貰われて行くわよ。お前それでいいのか」
 「オクで流れてきてくれませんかねぇ」

 返答代わりに拳骨でポカリと叩いてやると、流石に暑さに耐えかねたのかさとりはくぴくぴと杯を傾け始める。
天子は何ともなしに、その唇に視線を動かした。さとりは肉付きが薄い割に要所要所が女性らしいたおやかさを備えていて、唇もその内の一部である。
こちらの弱点を良く捉えて、例えば舐めたりだとか、抓んだりだとか……そういう風にも動くのだ。
天子としては複雑な気分である。普段は食物を咀嚼するか戯言を吐くだけが仕事の癖に。
そういう風に考えていたかすら定かでも無いが、天子はさとりのヌラリとした流し目と目が合った。
杯から離れた口が、てろ、と舌を出し上唇をなぞる。何となく不愉快になって、天子はそっぽに目を向けた。

 「ご馳走様でした」
 「それはどーも」

 返された陶器の中に残っていた氷を、ガリゴリ音を立てて噛み砕く。
そうこうしている間に、宴は解散の流れらしい。いつの間にか人の流れは散らばり、思い思いに辺りの露店や酒屋で買い物をして、二次会へと移行するのだろう。

 「うん?」

 天子はその中に、見知った真っ白な姿を見かけた気がした。
もし知ってる娘で有れば単独で人の多い場所に来るとは考え辛いので、やはりあの妖怪も居るのだろう。
天子は、会って話がしたい気持ちと会いたくない気持ちが半々の奇妙な気持ちを覚えた。
彼女は良い友人で有るが、変な方向に敏い妖怪でも有る。もし今の姿を彼女に見られれば、大変ロクでも無い事になる予感がビンビンする。

 「……まぁ、気のせいよね……」

 そう言う事にして平和に終わりたいと、判断したのだ。さとりの目がピキンと光る。
途端、ガタリと立ち上がり手を降りだした。

 「そんなだから貴女思いつめるまでぼっちに成るんですよやーいやーいぼっちー。
  あ、やっぱりそうだパルスィさんこっちでーす。一緒に呑みませんかー?」
 「お前ー! お前なぁー!?」





 悪い予感と言うのは当たるものだ、と天子は思考する。
博麗の巫女程とは行かなくとも、自分の勘も捨てた物では無いらしい。
見覚えの有った少女……タロと共に、水橋パルスィ、そして何故か一緒に居た星熊勇儀まで巻き込んで、主役も待たずに混沌とした酒盛りが始まっていた。
聞く話によれば、彼女たちは控え室に戻る途中のヤマメに各々のプレゼントを渡した後、彼女の個人的かつささやかな宴会を開く為に買い出しをして待っているらしい。
そんな物に自分達が参加していいのかと天子は一瞬戸惑ったが、まぁ友人の範疇では有るのだしいいだろう、とあっさり結論付けられた。
さとりが居る事には驚かれたが、まぁ彼女だけ帰らせる訳にも行かないし、良いサプライズだと言う事にしておく。

 天子の目の前では、各々が好きなように買った出来合い品がずらりと並んでいた。
今宵の肴は、肉団子の餡かけ、茸のかき揚げ、紫蘇と蒲公英の花の天ぷら、串に刺さった燻製豚に手羽先のから揚げ。
天子の好きなきんぴら牛蒡の入った芋餅に、地霊殿の引きこもり。
ちょっと僅かにおかしい気もするが何処もおかしく無い、一晩どころか数日持つであろう肴の数々……但し、宴をする連中が規格外でなければ、という注意書きが付くが。

 隣の卓では、早速一本角の鬼と緑眼の怪物に絡まれたさとりが青い顔で次から次に置かれていく酒樽を見つめていた。
口元に貼りつけた愛想笑いがなんとも痛々しい。せめてもの哀れみを込めて、慰めの思念を送ってやる。ばーか。

 「もののあわれ、ね」

 ぼっち度はそんな変わらない癖に、ノリと勢いだけで人の嫌がる事をするからそんな事に成るのだ、と勢い良く杯を煽る。
少しの間痛む頭と蠢く臓腑に灼かれれば、反省もするだろう。ちなみに、天子は臓腑が人間に戻ってからあまり酒に強く無くなったのでタロジロと共に幼年枠である。
二人の怪物も、天子の境遇については一定の理解が有るからか、無理に飲ませるような真似は――少なくとも、酒の力で理性が壊れない内は――してこない。
それに、珍しい肴が卓上に上げられているのだ。こっちを構うより、向こうをつつき回す事の方を優先しているのだろう。

 「それでタロ子、肝心のヤマメはどこ行ったのよ? 姿を見せないようだけど」
 「え、えぇと……確か、バンドのメンバーの人達と軽く打ち上げをしてから、こっちに来るみたいなので」
 「ふーん……ま、それならゆっくり待つとしましょうかしら」

 普段の彼女からは想像出来ないが、天子が地底で作った友人の中で、一番忙しないのが黒谷ヤマメであった。
勿論、それぞれの責任者的立場であるさとりや勇儀も、天子程時間が有るわけではない。
が、地底中に顔見知りを作り楽器や歌唱の練習もし、アイドル活動の傍ら地上にすら顔を出すヤマメの忙しさとはそれでも比較に成らないのだ。

 彼女自身は明るく陽気で人懐っこいが、友人グループ同士を不用意に近づける事は極力避け、グループ間を飛び回るように動く。
それについて一度、巣を作り中心でじっと餌を待つ蜘蛛からはかけ離れているな、と言う感想を天子はこぼしたことが有る。
だが世の中には素早い動きで動きまわり獲物に喰らい付く徘徊性の蜘蛛なる者も居るらしい。
つまりヤマメは、どちらかと言うとそちら側の血を引くのだろうか。

 「なんて、まぁ。餌と友人を一緒にするのも失礼なんでしょうけど」

 何にせよ、人見知りの気が強い天子からすれば羨ましい話である。
別に喋れなく成る訳ではないのだが、友好的に振る舞えるかと言うと自信が無い。
それは結局、他人と触れ合う事に怯えが有るからだ、と天子は客観的に分析していた。
弱い犬程よく吠える。上からで無ければ、安心して話す事も出来ない。実に浅ましいものだと自戒する。
頭が冷えさえすれば、天子はやはり頭が良く、学習に素直な人間で有った。

 ――まぁ、それとこれとは別か。

 仲良くしたい。一人になりたくない。幾らそう言い合った所で、結局お互いの敬意が足りなければお慰みだ。
ヤマメは本当に「他人への敬意」を得る事が上手であり、対する天子は下手くそで。その差は、ただの意識や努力で変わるほど曖昧な物では無いのははっきりとしている。

 「……そう思うと、パルスィがヤマメの友人をやってるのは……
  要は嫉妬が、他人が自分より優れていると認める事から始まる物だから……か」
 「ふぇ?」
 「ほら、タロ子。何か欲しいのが有ったら言いなさいよ、取ったげるから」
 「え、ええと……それじゃあ、手羽先の唐揚げを……」

 酩酊してさとりの頬に樽杯を押し付けているパルスィの代わりに、天子は木皿に甘辛いタレが絡められた鶏の手羽先を放り込む。
すぴすぴと鼻を鳴らしてかぶり付いてる姿を見る限り、好物なのだろう。
傍らから「俺にも寄越せ」的な視線が突き刺さってきたので、しょうがなくもう一つの皿にも投げ入れて地面に置いてやる。
天子はどうも、鶏のこの部位が好きではない。旨いは旨いが、指や唇がベトベトしてしまう。それが嫌で箸を使えば、今度は小骨が多く食べにくい。

 「……」

 あまり好きでは無い割にそれなりの人気が有るから、天子は普段手羽先を食べない。
好きな人間が食べたほうが鶏としても幸せだろうし、別にそれで誰かから文句を言われる事も無い。
タロがタレの付いた指をペロペロと舐める。と、じっと見られて居た事に気が付いたのかややはにかんだ。

 「えーっと……美味しかった?」
 「は、はい」
 「も、もっと取ろうか?」
 「あ、いえ……あたしは、もう十分ですよ?」

 微妙な沈黙が流れる。

 「……」

 手持ちぶさたな天子へ、タロの視線が注がれた。
少々恥ずかしそうに俯いて、チラチラとこっちを伺っている。

 「……やっぱり欲しいんじゃない?」
 「いえ、あたしがじゃなくて……」

 何だ。ならば何を私に期待しているのだ。

 流れる沈黙についに耐え切れなくなって、天子は目の前の手羽を掴み取った。
先程からタロの視線は、この手羽と天子を交互に伺っている気がしたのだ。
普段なら決してしないような食べ方で、ムシャリと齧り付く。パリパリとした皮の旨味と、香辛料の効いた甘辛い醤油ダレの風味が口いっぱいに広がる。

 「はふっ」

 多少はしたなくても注意する奴なんて居ないのだから、そんな音だって立ててしまえる。
骨を歯と唇でかき分けて、舌で肉をこそげ取る。上唇どころか鼻にまでタレがぺとりと貼り付いたが、ああ、なるほど旨い。
軟骨までむしゃぶりついた後、骨ガラをポイと鉢に投げ捨てる。タロがきょとんとビックリの中間位の顔で、こちらを見ていた。

 「なあに?」
 「い、いえ……」
 「何よ、気になるじゃない。私、なんか、そんな驚かれるような事した?」
 「……じゃあ言いますけど。
  天子さん、前『手掴みで食べるとか文明的じゃないしぶっちゃけ有り得ない』見たいな事言ってたじゃないですか」
 「……え、え、ごめん、そんな事言ったっけ」

 正直覚えてないわ、と上唇にくっついたタレを舐めながら天子は誤魔化す。
以前は肉の脂がどうも駄目だったが、天人としての要素が抜け落ちたからか、単に慣れたか、最近はそんな事も無くなってきた。

 「焼き鳥なんかでも、一回バラバラにして間のネギだけとか食べたりしますよね」
 「……? 何か悪かったの? ネギだけ食べるのはともかくとして、その方が皆で食べやすいじゃない」
 「この間は、勝手にすだち搾ってかけちゃうし。そのくせして、一つも食べないんですから!」
 「あ、あれも関係有るの? というか、その時は謝った筈よ!
  付いて来たから、かけといた方が良いのかなって思って……柑橘類が駄目なんて知らなかったの」

 どうも、犬や猫をモチーフに生まれた妖怪は、柑橘類の匂いが不得手で有るらしい。その後、お燐にもキツく言われたのだ。

 「別に、あたしだって本気で怒ってる訳じゃ無いです。
  でもこう、何というか、そう言うの聞いたり、気付いたりする度に……
  その、『やっぱり世界が違うんだな』って。そういう風に感じちゃって……大袈裟ですけれど」

 小さい事だが積み上がってきたからこそそう言われるのだろう。天子にとっては、耳の痛い話だが。
つまりはあれか。自分の前で下品にしゃぶりついた事に気付き、恥ずかしくなってこちらを伺っていたのか。

 「でもやっぱり、これを食べる時は両手で持ってぱくり、ってのが一番だと思うんです……よね?」

 そう言うとタロは、もじもじと顔をうつむかせる
 「そうね」と天子が頷いてやると、パッと表情を輝かせ、顔を上げた。

 「やっぱり食べたいんでしょう? もう一個いる?」
 「あ、は……はいっ」
 「あーでも、お顔に染みを付けてるのはみっともないわよ」
 「えっ……」
 「大変な事は理解してるつもりだけど。それでも、レディとしてこれじゃ失格だわ」
 「うぅぅ……じ、自分でも出来ますよぅ」

 タロの鼻の頭に付いた汚れを拭いてやりながら、天子の胸に妙な既視感がよぎる。
この、じっとりむくれて、でも何処か楽しそう……あるいは嬉しそうなタロの視線に、何らかの郷愁を覚えたのだ。

 ――何時だっけ。確か私も、こういう表情をした事が有るような。

 朧気なピースがカチャカチャと音を立てて、組み合わさっては消えていく。
……確か、花冠を作ったのだ。黄色い蒲公英を沢山使った、花冠を。
それを、何かと交換して。その時の自分の表情が、丁度こんな感じだったのでは無いだろうか。

 ――何を交換したんだっけ? 確か、髪の長-い綺麗な女の○-…-…○-

 とても、尊敬していた、誰かだったような。駄目だ。ゴボゴボと泡の音が聞こえて、掻き乱される。
記憶が沸騰して、耳からこぼれ落ち行くような不安感。綺麗な絵画の中、そこだけが繰り抜かれて居るような。

 ――忘れてるってことは大した事じゃないのよね。

 天子が"不自然にさっぱりと"過去を思い出す事を諦めた時には、もう何も聞こえなくなって居た。
代わりに一つ騒がしい声が増えていたので、その先も暫く天子の表層意識に上ることは無かった。


 ◆


 「やっほー、ごめんごめん、待たせたね」
 「遅いわよ、ヤマメ。こっちはもう大分出来上がっちゃってるわ」

 宴が始まってからおよそ半刻はたっただろうか。主役とも言うべき人物が顔を出したのは、ようやく、とでも言うべきタイミングであった。

 「どうすんのよ、アンタが主役のパーティだってのに、アンタが来る前に二人も潰れちゃってさ」

 天子は、顔を真っ赤にして机に倒れ伏すさとりを扇でパタパタと仰ぎながら辺りを見回す。
そもそもがライブでひたすら跳び、叫び、騒いだ後で有る。いくら妖怪とは言え、子供であるタロなぞは既にジロの大柄な背に寄りかかってくうくうと寝息を立てていた。
かく言う天子も、数段少ない量のアルコールで酔っ払った自覚が有る。肉体の疲れは意外な程酒の巡りを良くする物なのだ。
むしろ酔ってる方が平常運転である鬼女二人に至っては、辺りで同じように宴会を行う卓に突貫していっては「略奪! 隣の晩御飯」を地で行っている。
つまりは、とっくに制御不能状態だ。

 「ほほう? つまりこんなに酔わせてどうする気なの、と……うーん、お持ち帰り?」
 「相変わらず流れるようなセクハラね。持ち帰って何する気よ」
 「そりゃーこう、その桃尻にナニを……っといけないいけない、タロが居るんだった」
 「……そんなに価値ある物じゃないわよ、私のお尻なんて。
  ったく、どいつもこいつも……そりゃあ、胸よりは肉がついてるかも知れないけど……」
 「ん?」

 何時もとちょっと違う返しとその後の呟きに、何か引っかかる物が有ったのかヤマメは首を捻る。
無意識だろうか、フードを被ったままの少女を仰ぎながら唇を尖らせる天子に、ヤマメは微妙に目を丸くした後それ以上詮索せずに席についた。

 「ま、まぁ私も向こうでそこそこ飲んじゃったしね。のんびりやらせて貰うよ」
 「そうしなさい。アンタはアンタで結構飲兵衛だし、本気で呑むなら付き合いきれないわ」

 冷めた肉団子にがぶりと齧りつきながら、ヤマメは焼酎を啜る。
流石に、動きにくそうなコルセットは外したのだろう。ヤマメは蠱惑的なボンテージから何時もの服装に戻っていて、所々を彩っていたメイクも落として有るようだ。

 「な、どうだった?」

 どう、とはつまりライブの事。ヤマメが少し言葉を詰まらせて聞いたその質問に、天子は答える義務が有る。
大人気のチケットをわざわざ二人分貰ったという借りも有るし、何よりヤマメの語る"夢"に共感したからこそ、感想が必要なのだ。

 「そーね、素敵だったわ。んと……まぁ、頭の硬いお歴々には確かに好かれそうに無いですけれど」
 「そうだねぇ。でもまぁ、それが良いと思わないかい?」
 「流石、根からの反体制ね。ロックじゃないの」
 「ロックだからね」

 カコン、と軽く杯を打ち鳴らす。木の器の中に入った透き通る液体を、ヤマメはゆっくりと飲み干していく。

 「けふっ……でも、違うんだよねぇ」
 「そうなの?」
 「そうだね……何といえば良いか……」

 ヤマメの目が虚空に視線を動かす。橙色のぼんぼりが、淡くその横顔を照らした。
ぼんやりと見つめる先には、酒の入った盃を手に、思い思いに騒ぐ地底の妖怪達の姿がある。
その中には、先ほどのライブの観客だった者も含まれているだろう。天子やさとりが、ここでこうしているように。

 「例えば……そうだな、彼らは、今日のライブに着て……感動してくれたと思う?」
 「……まぁ、そりゃあ……悔しいけど、アンタまるでトップスターみたいだし……」
 「じゃあ、どの位感動していたのかな。
  『ロックに初めて触れた時の私』程に感動して、魂が震える思いをしたのかな……ってさ」
 「そんなのは……分かんないけど」

 天子とヤマメは、そう長い付き合いでもない。
一時期天子が気落ちしていた時期が有った上、ヤマメは地底中を常に忙しなく飛び回っているので、このように酒を飲み交わす機会すら実はそう何度も有った訳ではない。
それでも天子はヤマメの事を信頼しているし、地底で得た掛け替えの無い人脈の内一つで有ると思っている。

 ――こんなに寂しそうなヤマメ、初めて見た。

 気持ちを汲んでやる事が出来れば、慰めることも出来るのだろうが。
天子にはヤマメがこんな表情をしている理由がわからない。勿論、無責任な言葉なら幾らでも贈る事は出来る。
大事な友人に対し、かける言葉がそんな陳腐な物で良いのだろうか?
いやしかし、例えおせっかいでもここはまず何か踏み込んでみる場面なのでは――

 天子の頭の中で、無為な思考がぐるぐると回る。
ヤマメは「おっと、いけないいけない」と言って頬を叩くと、呆れるように笑って見せた。

 「多分ね、満足してないのは私だけなんだ。
  曲も、歌も、器具も、『本物』のロックンロールを伝えるつもりで、真似出来る物は全部真似したよ。
  ……でも、やってる内に思うのさ。これは『コピー』だ。それで本物のロックなんて良く言えたもんだ、って……」

 そう呟きながらヤマメはがじがじと干し肉の切れ端をしゃぶる。香辛料の効いた歯応え有る旨味が、彼女の口の中に染みこんで行っているだろう。

 「私が表現したかったのは、本当にこれだけだったのかなぁ……?」

 その小さな囁きは、ガチャンと陶器が割れる音にかき消された。


 「退け退け退けーぃ!」
 「俺達ゃ頼りにもならん鬼の頭領やいけ好かない地上の巫女に変わり、この地底の太平を護る御廻組なるぞ!
  分かったらとっとと道をあけんかーッ!」


 相手を威圧するだけのダミ声が広場に響く。何やら刃を潰した鋼刀を持ち、共通の衣装を羽織った集団がたむろしている連中相手に脅して暴れているらしい。
御廻組と言うのは自由だが、その実正規の自警団からあぶれた愚連隊のような物だ。
若すぎる鬼やその他の気性の荒い妖怪が、時勢を笠に着て暴れ回っている、と言うのが正しいとさとりが愚痴って居た。

 「ンぞコラ! テメー何してんだおうコラ!」

 食卓を荒らされ、折角の料理が皿ごと地に落ちた一団から一人が立ち上がる。
辺りの妖怪がそうだそうだと囃し立てた。その大半の頬は赤く、既に酒気を大分帯びている事を伺わせる。

 「テメーら人がヤマメちゃんのコンサートに行って良い気分で浸ってたってのによ!
  ぶち壊してくれやがってオウ!? どうしてくれんだコラ!」
 「ハッ、何がコンサートだ、馬鹿馬鹿しい。
  ロックだと? 地上から入ってきた阿呆らしい概念に踊らされる奴の宴会等、壊れて当然である!」

 対する男達もまた、横柄な態度を崩さずに鋼刀を突き付ける。
妙に時代がかったその言い回しに、天子は密かに顔を顰めた。その間にも、その妖怪の奥に控える一団が矢面に立つ男を讃え、煽りだす。

 「言いやがったなこのヤロウ! オメー『ロックンロール』ってもんを見せてやる!」
 「フン! 地上に迎合する奴らなんざ所詮弱敵だという事を分からせてやらねばならんようだな!」

 コンサート上がりらしい、両裾の破れた衣装を着た男が殴り掛り、鋼刀を持つ大柄が相対して腕を振るった。
破壊と怒気の坩堝は加速していき、周囲には悲鳴と罵声が入り交じる。
片方が言った「ロック」と言う言葉に、ヤマメがピクリと反応し下唇を噛むのを、天子はいたたまれない気持ちで見ていた。

 「勇儀はどこ行ったのよ、こんな時に!」

 辺りを小さく見渡して毒づく。ヤマメがこちらに着たのだから、そろそろ顔を出しても良いだろうに。
昇神異変の際辛うじて扱えていた緋想の剣は、今や完全にうんともすんとも言わない木偶の坊と化している。
それでも一応変哲のない数打と共に腰に吊り下げては居るが、この数の妖怪の乱闘騒ぎに巻き込まれるとしたら随分と頼りないのは確か。
そうこうしてる間に、辺りの空気はどんどん一触即発となっていく。雪もちらつく気温の中ご苦労な事だと天子は皮肉げに笑った。
揃い衣装を着た男達はそれぞれ刀を抜き始め、対し最初の方に罵声を上げていた者達は、既に立ち上がり徒手空拳を構えていた。
こんな狭い空間の中妖怪が本気で殴りあっては、周囲にどれほどの被害が行くかも分からない。
天子がジロとヤマメに目配せし、酔い潰れたさとりを抱えてこの場を去ろうとした、その時である。


 「そこまでよッ!」


 弓鳴りのように響く破邪の一喝。鋭利な眉に伺いきれぬ程の怒気を乗せて、この場にどこまでもそぐわぬ紅白の巫女が現れた。
その横に、緑眼の橋姫と一本角の鬼の姿も見える。どうやら何処かで鉢合わせして、騒ぎを聞きつけてやってきたらしい。

 「……なんだァ、ガキか」
 「地上の人間が横から口出さないで貰おうか。博麗様だかなんだか知らねえが、こっちは長い間俺達の流儀でやって来たんだよォ
  カミが来るだか何だか知らないが、地上の奴らに口出しされるのは不愉快極まりねえんだ」

 当然といって良い物か、その場で燻っていた熱気は敵意となって全て霊夢に向く。
それを何とも思っていないかのように半目でねめつけて、白い息を吐き出しながら口を開いた。

 「うるさいわね、有象無象」

 氷点下のような一言に、一瞬で辺りの空気が凍りつく。

 「私は今機嫌が悪いの。寒いから宿でお茶飲んでのんびりしてたいし、余計な騒ぎ起こさないで欲しい訳。判る?」
 「……ッ! テメエ、ガキだからって許されると思ってんじゃねえぞ!」
 「上等だ! 封印された嫌われ者の恐ろしさ教えてやろうじゃねえか!」
 「博麗がなんぼのもんだ! 俺たちゃお前らが我が物顔で居座ってるのが気に入らねえんだよ!」

 あんまりな言い草に呆れ果てたのもつかの間、空間が爆発したかのように怒轟が鳴り響いた。
辺り一面から投げられる中身入りの杯や皿を霊夢は華麗な移動で躱すと、お返しだと言わんばかりにアミュレットを叩きこんでいく。

 「……って、結局乱闘騒ぎに成るんじゃないの!」

 案の定な展開に、慌てて天子はさとりを抱え、ジロにタロを引かせて退避する。
一人卓に残されたヤマメが、騒音に耳を塞ぎながら悔しそうに呟いた。

 「……やっぱり違う。違うんだよ、こんなの……」

 その声は悲鳴と効果音にかき消され、やはりどこにも届くことは無かった。


 ◆


 「くちゅんっ!」

 そんな可愛らしいくしゃみを漏らしたのは、赤毛に黒い猫耳を生やしたお燐である。
その耳も今はふわふわの耳あてに覆われ、更に真冬に着るようなふわふわのコートに身を包んでなお身体をガタガタと震わせる。
着の身着のまま、何時ものように太陽の笑顔をまき散らしているお空が、ドデカい胸を腕で強調して鼻を鳴らした。

 「もー、だらしないなぁ、お燐はー」
 「普段着のままで寒さも感じないお空がおかしいんだよ! なんなのさそのスカートの短さは。氷点下に喧嘩売ってんのかい!?
  ……あーでも、こうやって手をかざすとあったけぇ~……」

 きっちり手袋に包んだ両手をお空に向ける。
赤外線だかお空自身の熱量だか知らないが、とにかくこの極寒の地に有って友人の物理的な温かさだけが救いであった。
霜をジャリジャリと踏みしめる音が鳴る。珍しい事に、この場に居るのがこの「いつもの二人」だけでは無いことをお燐は今更ながらに思い出す。

 「目の前でそうイチャイチャされると、橋姫の気分も分かるな。私も出来れば橙を愛でたい物だが……」

 九尾をふさふさと揺らしながら、八雲の式は冗談交じりに苦笑する。
それが叶わぬ望み、いや、叶えられなくも無いが大事な式の身を傷つける恐れが有る事は分かっているのだろう。

 「しかしまぁ、何時までもそうしている訳にも行かん。出来れば私の精神衛生の為にも早目に作業に入って欲しいのだがね」
 「はーい。まぁ藍さんの頼み事ですしね。あたいも色々とお世話になった手前、断れませんって」

 二股の尻尾をふりふり、お燐とお空は辺りを見回す。
その仕草もまた藍のホームシックを掻き立てるのだが、そこは流石に九尾の狐、表情に出すことは無い。

 「しかしまぁ、酷い状態ですよ」
 「うー、なんか嫌な感じ」

 お燐は、露結し固まった氷をガリガリと靴の底で削る。お空も不安げに羽根をばたつかせ、嫌悪感をアピールした。

 「……それにしても、あの灼熱地獄が氷漬けとは。えらい皮肉も有ったもんだにゃあ……」

 呆れ混じりにお燐がこぼした言葉こそ、昇神異変の最も大きな後遺症であった。
あれ程の熱気を持っていた溶岩も全て冷えて固まり、真っ黒になった表面に霜まで振らせている。
灼熱地獄跡の熱気のせいで蒸し暑かった地霊殿が、最近めっきり冷え込んできた原因も此処にあった。
キンキンに凍りついた灼熱地獄跡は熱気どころかむしろ冷気を放っており、他に熱を取り入れる所の無い地底の気温をだんだんと下げているのである。

 「火は入れられそうか?」
 「流石にこのままじゃお空のフルパワーでも無理なんじゃ無いですかねー。
  元々、炉だって完全に止まったら火を入れるのに一苦労、ってなもんですし。
  これだけの規模となると、神様に直接力を借りてくるぐらいじゃないと」
 「……うん、ここじゃあまず、そもそもフルパワーでメガフレアが出せないと思う。何だか凄く居心地が悪いんだもん」
 「そうか……やはり、これだけ水気が多いと、空のみでは厳しいか」

 したり顔で頷く藍に、お空はむっとした顔で反発した。

 「別に、お水くらい蒸発させてやるもん!
  そうじゃなくて、なんかこう……『ここはお前の場所じゃない』って言われてる感じなの!」
 「ん? ……ああ、違う違う。水気ってのは水そのものの事じゃない。五行だよ。聞いた事位は有るだろう?」
 「……ご、ぼう……?」
 「五行だ。まぁ、覚えていて損は無いから少し解説してやろうか」
 「う、うーん……お空に覚えられますかねぇ……?」

 お燐は不安げに首を傾けるが、生来物を説く事が好きなのだろう、藍は中空に紙と筆を取り出すとサラサラと図形を書いていく。

 「まず、五行の基本はその名の通り木行、火行、土行、金行、水行の五つの行だ。
  木は火を生み、火は土を生み、土は金を生み、金は水を生み、そして水は木を生む。
  逆に、木は土を殺し、土は水を殺し、水は火を殺し、火は金を殺し、そして金は木を殺す。これが五行の基本だな」
 「んまぁ、そこまでは聞いたこと有りますけれど……」

 幻想郷においては西洋の魔女すら扱う、ありふれたモチーフである。
お燐だって理解したかはともかく、聞いた事位なら有るつもりだ。

 「水気とは下方への流れ、暗く冷たい集まりというイメージであり、陰の極だ。シケ、つまり死気にも通ずる。
  水乗火……過剰な克は対極にある気を完全に消してしまうからな。火行に司られる空が辛いのは、当然だろう」
 「うー……まぁ、核の炎は最強だけど」
 「言ってる事が氷精と同レベルだぞ……」

 呆れ混じりにため息をつくと、藍は氷に覆われた内壁をコツコツと叩く。
横顔だけなら怜悧な美人なのだが、橙色の布地に黒く肉球スタンプをあしらったコートが妙に可愛らしく、どうにもアンバランスな印象が有る。
きっと、彼女の式とお揃いなのだろう。お燐自身、どうも「娘の友達」と同じ目線な感じで扱われている気がする。
だとしたら、空は娘の友人の友人だろうか。お燐は猫目なので暗視も効くが、空にこの暗さはキツいのだろう。妖気の火を入れたカンテラの明かりを頼りに、シパシパ目を瞬いている。

 「そう言う藍さんは平気なんですか? やっぱ年季が違うって事なのかな」
 「うん? 私は火行じゃ無いぞ」
 「え? でも、狐火とか……あぁ、金毛九尾って言う位だし、金行なんですかね」
 「金行の金は金属全般の事だ。黄金色を司るのは、むしろ土行だぞ。
  土行は他にも思慮を司り、稼穡……種まきや種付け、地に対する天、中央を意味する。
  土気は火によって生まれるからな。妖狐が火を使うのはその関係で、私は土行なんだよ」
 「種付け……」

 何を想像したのか、顔色を仄かに朱に染めるお燐。首を横に振り湧いてきた想像をかき消した。

 「何にせよ羨ましいもんですわ。火車のあたいなんかもう、寒くて寒くて」
 「……もしや、自分の事を火車だから火行だー、なんて思っていないだろうな。
  良く考えてみろ、空は寒さなんか気にしちゃ居ないだろう」
 「それはホラ、なんとかは風邪引かないって言うアレで……」
 「うゆ?」

 視線の先で、二人に見つめられて居たのに気が付いたのか、お空が小首をかしげる。

 「寒さに弱いのは、単に猫だからだろう」
 
 ぶっきらぼうに藍が言うと、お燐は乾いた笑いを上げながら頬をかいた。

 「全く、ひどい友人も居たものだな……まぁいい。燐、君の仕事は人間の死体を回収して燃やす事だったな?」
 「状態がいいのはこっそりガメたりしますけど、まぁ概ねは」
 「ならば、死気、つまり水気を火気に変える中継者としての役割が強い。
  水気は火気を克つが、逆は無いからな。間に入るのは即ち流れとしての木気、木行だ。
  何だかんだ、お空のサポートに入る事が多いだろう?」
 「はぁ、そりゃあまぁ。七:三位でこっちが迷惑かけられてますけど」
 「正しく、木生火だな。ただお燐は木行の青と言うよりは、黒と赤が混ざり合ったイメージだが」
 「ははぁ……」

 そう言われると確かに、猫の状態で黒々としていた毛が何故人間に化けると赤銅色に成るのか、不思議では有った。
とはいえ三日もすれば「そういう物だからだ」と納得していたような、些細な疑問だが。
まさか自分の毛の色にそんな深い意味合いが……

 「有った……のかなぁ?」
 「有ったと言えば有るし、こじつけと言えばこじつけだ。
  とは言え、言葉遊びのようなこじつけも歴史が有れば立派な呪術になる。中々度し難い物なんだよ」

 シンと冷え切った静かな空気に、柏手が一つ鳴り響く。

 「とにかく、我々はこの場における五行のバランスを取り戻さなければ成らない。
  この人選も、きちんと理屈に基づいた物と言うわけだ」
 「死んだ灼熱地獄跡に再び火を入れるんでしたよね?
  話だけは聞いてますけど結局何をどうするんです……っくしゅん!」

 ブルリと震えたお燐が、再びくしゃみをする。どうも、場の気がどうこう以前に寒さと相性が良くないらしい。
お燐より七本分優秀な断熱材を備えた藍が、苦笑しながら地獄鴉の背を叩いた。

 「うむ、まぁ、一番重要になる役割は空だな」
 「私?」
 「サポートをするとはいえ、この場に生半可な火の気を足しただけではあっという間に鎮火してしまうからな。
  神性と原則を両立し、天津神にも匹敵する火力を取り出せるのは幻想郷中見てもお空一人だろう」
 「うにゅ、難しいことはよく分かんなかったけど、頑張る!」
 「ははは……まぁ、やる事自体は単純だ。只管私達が送る物を燃やせばいいだけだからな」
 「私『達』?」

 ぎょっ、と瞳孔を開き、お燐が言外に抗議の声を上げる。その尻尾はぶわりと膨らんでいた。

 「そうだ。私が『土』によって『水』を抑制し、『水』を『木』が吸い上げる。
  そうする事で水気が以上他に克つ事を防ぎ、しかる後に空が『火』を起こす。
  水気を減らし火気を増やせば、後は自然と本来の状態で安定していくのが五行と言う考え方だ」
 「ちょ、ちょっと待って下さいよ、あたい、自慢じゃないけどそー言う術とか知りもしませんよ。
  それともなんですか、真逆今から覚えろとでも?」
 「いやいや、流石の私でもそこまで鬼では無いよ。
  式を打ち込めれば楽なのも確かだが、橙が嫉妬してしまうからな……」

 顔を蕩かせながら「いやぁ残念だ」と一人頷く藍に、お燐は警戒心の色濃い目を向けた。
この二人、以前ほんの三日間だけお燐が藍に師事していた時期が有ったのだが、その時の体育会系な指導は今でも尾を引いているらしい。
曰く、「理論立てて解りやすく根性論を説明してくれた」だの「叱咤は飛んで来なかったが尻尾は飛んで来た、物理的に」だのとあえて心象(トラウマ)に残す必要が有ったとは言え随分な言われようである。
あるいは単にその親馬鹿ぶりに少し引いているだけかも知れないが。

 「まぁ、私も無理な物は無理だと弁えているさ。空に接続するのに最も有効なのは君だろうから、期待はしているがね。
  それはそれとして、助っ人に声はかけてある」
 「助っ人ぉ? 巫女のおねーさんとか? それならそれで、一緒に来れば良かったんじゃ……」
 「いいや、もっとちゃんとした……木行、つまり風や雷に関する扱いのエキスパートだよ。
  現地集合と伝えてあるから、来られしだい作業を開始したいのだが……」

 辺りを見回す物の、それらしい影は無し。
怨霊の声一つ無く静まり返った空間に、また一つお燐のくしゃみの音が虚しく響き渡った。

 「ううん、何と言うか世間知らずな人だったからな。道にでも迷ってるのかも知れん。
  この寒さではあまり長く居続けたくも無いから、我々だけでも始めてしまおうか」
 「そうしましょう。あたい、正直このままじゃ凍えちまいそうっす」
 「うん……私も、あんまりここに居たく無いよ。なんか、ずーんってしてくるの」

 三人とも、生命と言う物が全く感じられない空間に忌避感を感じているのだろう。
しかもそれが、光の入らぬ地の底の底まで延々と続いて居るのだ。

 「あたいは、お空から話を聞いただけですけど。
  カミってのは凄いもんですね、あの灼熱地獄をこんな風に氷漬けにしちまうなんて。
  一体、何者なんです?」

 お燐が小首をかしげて疑問を尋ねると、俄に藍の愁眉が険しくなる。
何か大きな物を見つめるように、白く美しい指を顎に添えた。

 「それが分かったら、もう少し対策も容易なのだがな。名前さえ分かってしまえば、縛る事も不可能ではないのがカミだ」
 「はぁ……ま、そりゃそうか。地底寒冷化を防ぐために、今は働くしか無いんですね」
 「いや、だが今回の事で少し分かったことも有ったぞ?」

 顰め面はそのままに、口元だけで藍は笑いかける。
少し無理をして拵えたような、不安を取り除こうとしてそれに失敗したような笑み。


 「『土(だいち)』から生まれ、『火(はれ)』に溶かされ、大量の『水(し)』を撒き散らす。
  そして、ひと度動けば『木(いのち)』を刈り取るその姿こそ……『金(たたり)』。
  金行とは、即ち秋。太陽が沈み、果実は実り、結果は答えられ、やがて全ては死へと向かう。
  それは、一旦の終着点。私達幻想に属する者が見て見ぬふりをしてきた『金行』の獣。その、化物だよ」


 形の良い親指が自身の唇をなぞる。その仕草には、八雲の式たる九尾の狐をもっても隠しきれぬ緊張が滲み出ていた。


 ◆


 桜が、散る。

 宵闇。月は満ち金に輝き、星は刻々と明滅を繰り返しながら朧の紺に散りばめられ光る。
涼やかな夜風が吹き、白く磨かれた玉砂利の上をサラサラと撫でていった。

 その全てを、桜吹雪が埋め尽くす。
桜色に敷き詰められた世界の中で、女が舞っている。

 ――悲願の時ぞ。

 海岸の砂に水が染みこむように、全身の細胞へ悦びが行き渡っていく。
壮年の時のように、刀を持つ腕に力が篭る。地を踏みしめ、前へ、前へ、前へ。
女の舞には、軽く冷たい足取りでない、全てを惑わせる妖しき血潮が宿っていた。
腹の底からの歓喜で口角が釣り上がりそうになる。いや、実際につり上がっていたかも知れぬ。

 ――今こそ、断ち切る時ぞ!

 思いの丈を吠え叫びながら、男は突き進む。前へ、前へ、前へ。
だが、届かない。動く筈の無い桜の木に向かい駆けている筈なのに、辿り着く事がない。
いいや、走れば走るほど、思えば思うほど。自らの身は小さくなり、女の身は高く高く伸びていく。

 「何が、起きている?」

 男は呆然と考える。無尽蔵に思えた体力も、走ることで息が荒く成る程に落ちていった。
伸ばした手は枯れ木のようにしわくちゃに。歓びも、怒りも、色を失い精彩が欠ける。
女が舞う。桜が散り、払われ、ついには辺りの魂ごと蝶となって天に登る。
男はその光景を、深い地の底から見上げていた。周囲が昏く闇に染まっていき、ついに男は天を仰ぐ。

 銀の月が薄-○笑う。「是生滅法」と甲高い-○-が響い○○-○--


 ○○-○---○-


 ぐらり、ぐらりと頭が傾く。今まで寝起きを意識したことは無かったが、成る程、最悪とはこういう物だろう。
矍鑠さの欠片もない動作で立ち上がり、翁は竹筒に入った水を飲み干して、ため息を吐いた。
下らない夢を見たのは、孫を闇討ちした後悔の残滓だろうか。
あるいは、悪意の塊に一度引きこまれた後遺症か。
我ながらなんとも半端で、嫌気が刺す。

 ――人から離れるべく刀を振っているのに、研げば研ぐほど己が只の人間で有る事を知るとはな。

 苦行である。だがその葛藤も、全ては糧になるのだとかつては信じる事が出来た。
では今は。

 ――時間が足りぬ。

 足掻いても足掻いても、己が老いて行くのは嫌と言うほど分かる。
たとえ糧になったとしても、それ以上に自分が劣化していくのでは使い物にならない。
剣士は、焦っていた。改めて「カミ」なるモノに触れ、己の力量と比べ、ずっと……ずっと遠くに、感じてしまった。

 信念が有った。信条が有った。信仰が有った。信心が有った。

 だが、その全てなぞ。目的を達せないのならば、所詮は鉛の刀に過ぎぬ。
手段を選んでいては出来ぬと言うので有れば。己の心など、塵芥のような物。
刃紋に浮く、錆でしか無い。

 「西行妖と……"死"と向き合うので有れば、何よりもまず、忍ぶ心の錆を落とさねばならん」

 そして翁は、自らの左手に戻ってきた霊刀……白楼剣を握り締める。
そして瓶に水を張ると、像を覗き込みながらしばしの間伸びるがままに任せていた己の髭に刃を当てた。

 「所詮、非才の身なれど……」

 愛弟子である妖夢は、盾の剣だ。自ら攻めにかかる、あるいは自らの為にのみ戦うのであれば未だあの通りの半人前だが、守護するとなれば硬く鋭き刃となる。
故に「あれ」は最後の禊で有り、その交友から言っても己を研ぐ為に使える物では無い。
もっとだ。もっと強く、もっと荒く、もっと「縁」の強い人外を。
その血でもって垢離を行い、この身を持って呪いと化す。水鏡に映る瞳が爛々と輝き、その男の狂気を語っていた。

 「いつの間に長き眠りの夢さめて、驚くことのあらんとすらむ……」

 ばさり、と白く色が抜けた房が床に広がる。今までの生活で染み付いた垢を、男は一つ一つ落としていく。
そしてその作業を終えると、桃の樹で作られた庵から、ゆっくりと一歩踏み出した。


 「もう良いのかい、お爺」


 地平線というのも鴉滸がましい、大地のへりの端。巨大な月が爛々と照らす其処に、その存在は胡座をかいて座っている。

 「……へえ、意外と精悍な顔付きしてるじゃないか。
  せっかく私の隠れ家を貸してやったんだ。も少し人間らしく隠れ潜んで暮らしてもバチは当たらないよ?」

 萃まる夢、幻、そして百鬼夜行。御伽の国の鬼にして、山の四天王のもう一人。
伊吹萃香が、天界の縁に腰掛けて手酌で酒を飲んでいる。

 「生憎、あの女からも相当せっつかれて居てな。どうやら随分思い通りに事が動かんらしい」
 「地底に手ぇ出しゃ流石の紫も手を焼くか。まぁ、そうせざるを得ない事情は聞いたけどさ。
  はん、カミに対する絶対防衛線ねぇ。だけどそれってつまり、『地底は見捨てる』って事だ。
  上手く行くにしろ行かないにしろ、地底の街は永く使い物に成らなくなる。救われるのは地上より上だけじゃないか」

 唯でさえ昏い夜の帳が降りている上、逆光でその表情を窺い知る事は難しい。
鬼の力は強大だ。横暴かつ単純な力の塊は、まともに当たれば容易く人の身体をへし折るだろう。
……だが、今頃只の"力"如きに負けてるようでは話にならない。

 「……正直、今回ばかりは紫のやる事に素直に協力してやる気には成らないね。
  あいつの事はそれなりに好きだが、私は別に幻想郷が好きな訳では無いのだから」
 「お主の個人的感情に興味はない。鎖を繋いででも引っ張ってこいと言われただけだ」
 「私にこれ以上鎖を増やすつもり? 千年前に出直してきなよ、逆に囲ってやろうじゃないか」

 安穏とした天界の端、二つの殺気がゆらりと立ち上る。
此処は、幻想であっても幻想郷でない土地だ。故に、その全てを博麗の法で縛られている訳ではない。
鬼は……伊吹萃香は、月を背に傲岸に嗤った。

 「本気でヤる気、って事で良いんだよね。嬉しいなぁ。そんなに鋭い気にアテられるのは何年ぶりだろう!
  だがまぁ、狐に任せなくて良かったのかい? よーく知ってる。お前じゃ私にゃ、二手届かんよ」
 「……忘れたか? 貴様の錨は既に落ちている。後は貴様自身が、その縁に引っ張られるだけだ」
 「何?」

 萃香が怪訝な顔でそう聞き返した時、既に閃は月光に煌めいていた。
ギィン、と剣呑な音が静かの夜に響き、萃香は手首の鉄枷で刃を押し返す。

 「……っとぉ、天子の事か!? なんでお前が知って……」
 「聞きたければ本人の口から聞くと良い。儂……いや、己れ(おれ)とて貴様如きに梃子摺っている暇は無い。
  我が剣にて文字通り地獄へ向かえ、伊吹の鬼よ」


 ◆


 苛立ち紛れに、八雲紫はかりかりと爪を噛んだ。
机の脇に拵えられたダストボックスには、皺苦茶になるまで握られた天狗の古新聞が乱暴につめ込まれている。
自制の聞かぬ小娘の頃で有ったなら、髪がくしゃくしゃになるのも恐れずに掻き回していたかも知れない。
見る人が見れば「これが本当に幻想郷の賢者か」と驚く程に、八雲紫は苛立っていた。
もっとも、そのような姿を人に見せる程にまで追い込まれては居なかったが。

 「何なのよ、もう!」

 予想通り地底の結界改良に手を焼く時点までは、まだ想定内だ。
大結界の地底部に「祟りの侵食に耐えるだけの性能」を付加する事。
これは確かに急務では有ったが、やる事はどちらかと言うと城壁を厚くすると言うよりは新しいウィルスに対応出来るようファイアーウォールをアップデートする方に近い。
即物的な頑丈さを強化する事は「やらないよりはマシ」のおまけだ。もっとも、塵が積もらなかった結果を考えれば、軽視する訳にも行かないが。

 「確かに……勝手になさいとは言ったけれど、よりによって。
  こちらに少しでも話を送ってれば、もっと穏便な方法で何とでも出来たのに」

 新聞に乗せられた記事を見た時、微かに唇に塗られた朱を汚さずには居られなかった。
人鬼にはそこそこ強力な式を載せていると云えど、藍程では無い。確かに、素のままではどうせ力押しに為るであろう鬼の説得は厳しいかも知れないが。
別に、策が無いでは無かったのだ。あの男の好みでは無いかも知れないが、作法に則れば鬼は倒せる。不意打ち、騙し討ちなぞしなくとも、だ。
手が空かないから式に仕事を任せているのに、これでは仕事が増える一方では無いか。やはり、見張りの一つも付けないのは失策であったか。

 「何にせよ、ここまで報道されちゃ知らぬ存ぜぬでは通せないでしょうし。
  幽々子に対して、何らかのアクションの一つでもやって置かないと」

 そうで無ければ、あのお嬢様は拗ねる。
時と場合を理解しない程愚かでは無いが、それと利子が積み上がるのは別なのだ。
以前、道具屋の店主が妖夢を長期間タダ働きさせた上どうでも良い物を売りつけて帰らせた時などは、妙にお冠であった。

 しかもその時、紫は折悪く長期の冬眠中。
起きて早々ぷりぷりと小一時間己の従者と件の店主についての文句を聞かされた時は、流石に閉口した物である。
もっとも、それが愛嬌、と言われれば否定できる要素は無いのだが。

 「今回の事が片付くまで放りっぱなし、となったらどれだけ溜め込まれるか分かんないし……」

 何だか、「仕事と私どっちが大事なの」と聞かれた夫のような心境の大妖怪である。
藍も霊夢も地底にやった以上、自分で行うしか無い結界のメンテナンスを偏在しつつ手早く終わらすと、人差し指で空間をなぞり上げ白玉楼へのスキマを開く。
以前指摘された事を踏まえ、化粧もやや念入りに。鏡に写った顔を見て、女は便利だと改めて感じた。

 「幽々子?」

 スキマを抜ければ、見慣れた白玉楼の縁側が目に入る。
幽霊によって磨きぬかれた白沙の庭に、枯れてなお威風漂う巨大な桜の枯れ木。
その中央に、透き通るように儚い娘が居る。巨大な桜の屍を、見上げて佇む。

 「あぁ、良かった居たのね。妖夢の調子は……」


 どう? と聞こうと思い。其処から愚痴を聞き出して。畳に足を下ろそうとした所で。
紫の膝が、かくり、と崩れ落ちた。



 「か、は……」



 瞳孔が開く。死に誘う、桜のように美しい少女。その後姿しか、目に入らない。
……誘われている。八雲紫ともあろう物が、全身に力を入れて拒まなければ、死と言う安息を受け入れてしまいそうな程に――!

 「紫……? そう、来てくれたの……」

 ギヤマンで出来た鈴のような。涼やかで可愛らしい、幽々子の声。
それが今日は、どこか一晩泣き腫らしたような憂いが有り。それもまた美しさを引き立てている。

 「妖夢はね、お医者さんに預かって貰ったわ。
  大変だったのよ? あの、月のお医者さんじゃないと運び出せないし」

 からからと、少女は笑った。少し無理をして立ち直る時の、独特の声。
八雲紫は、彼女の事を良く知っている。少なくとも、"死に還った"後の事は全て。

 「……そうじゃないと本当に、『誘って』しまいそうだったから」

 どこか涙の滲んだ声。庇護欲をそそらせる儚げな印象。普段よりも数段強く感じられる魅力こそ、西行寺幽々子の"能力"。
その美しさに魅入られてしまえば誘われる。彼女が世を儚めば儚む程、その力は強く、大きくなっていく。
故に幽々子は可愛らしい。花に佇む、蝶の如く。

 「あな、た。なんでっ……!」

 八雲紫に油断は有った。ここ数百年、彼女が問題を起こした事など無かったから。彼女自身にとっても厄介極まりないその能力を、死して制御出来るようになったのだと思いこんで居たのだ。
切れ切れの呼吸で、なんとか肺から音を絞り出す。幽々子から離れれば能力も収まるが、既にスキマを開く余裕も無い。
とにかく、慰めなければ。言葉を選ぶ間隙も無いが、そうで無ければ……この魂でもって彼女の寂しさを慰めるしか、無い。
それはつまり、霊魂となって永遠に西行寺幽々子の周囲を漂い続けると言う事……!


 「紫……私ね?
  フラれ、ちゃったの」

 「は……?」


 ところが。返ってきた言葉は、紫の想定の埒外であった。
私の知らない所で何か有ったのか? いや、それにしてはそんな片鱗は見受けられなかった筈。紫の脳裏に、最近の幽々子の様子がスパークする。
何処で? 誰に? 頭の中で疑問符が飛び交う。あまりに呆気に取られ、死へ誘われる意識すら一瞬薄らいだ程だ。

 「……え……? も、もしかして妖夢に……?」
 「もう、紫って案外バカね」

 先ほどまであんなに儚げだった背中から、呆れたような笑いが立ち上った。
久しく言われた事の無い直球の評価に、紫は別の意味で居た堪れなくなり、大人しく幽々子の言葉の続きを待つ。

 「だってね。初めてちゃんとお話する男の人だったの。
  私を護るために、って言ってくれて。とても、とっても頼りになって。
  一緒に笑って。一緒に怒って。一緒に御飯を食べて。一緒に暮らして……」

 幽々子の声に掠れが混じる。まさか、と紫の表情が歪む。
そんな様子は見られなかった筈だ。何か間違いを起こすような事が有れば、即刻私が引き離していた。

 「私、年頃の娘だったのよ?
  そんな人を、好きにならない訳、無いじゃない」

 桜の下に生まれた少女が、振り向きざまに艶やかに微笑む。
一瞬で魂ごと引き抜かれてしまいそうな、悲しみを湛えつつも少女らしい愛らしさに溢れた凄絶な笑み。
畳に爪を食い込ませ、その痛みでなんとか堪える。

 「告白はしなかったわ。……出来なかった。その人には多分、何よりも好きな女性が居ただろうから。
  私、一時期それは貴女なんだって思ってたのよ? すぐに間違いだと気付いたけれど……」
 「じゃ、あ……じゃあなんで、平気だったのよ……
  彼が出奔した時に、貴女が泣かなかったから、私はもう、大丈夫だと思って……!」


 「だって」幽々子が答える。目を伏せ、遠き日の思いを舌の上で転がすように。「だって、紫の事信じてたもの」


 「――――~~ッ!!」

 そして、八雲紫は、幻想郷の賢者は……絶望した。
其処まで分かっていて。それで尚、受け入れて。今の彼女に、私がどんな言葉を送れるというのだ?

 「紫が、私の幸せの事を、考えてくれない訳がないって……信じれたから。
  傲慢かも知れないけれど、引き裂かれるように、辛かったけど。私、なんとか耐える事が出来たわ」

 西行寺幽々子が近づいてくる。笑って、ゆっくりと、真っ白な光を背に受けて。
紫はガチガチと奥歯を鳴らしながら、畳に伏せた格好のまま這いずった。

 「妖夢がね、泣いてたの。久々にお爺様に会えたのに、剣を交わす事も出来なかったって」

 そして、奪われた白楼剣。聡い少女は、それだけで気付いたのだろう。元々、薄々と分かっていた事だ。
ピースが幾つか欠けていた所で、ある程度嵌れば全体像位は推察する事が出来る。

 「私が恋したあの人は……かつて私に『誘われた』のね。
  生きていた頃の、私自身に。そして、強く魅入られた」

 その足取りは覚束なく。幽鬼のようで……蝶の、舞のようで。

 「……だから、私を"殺しに"来るのね。既に死んだ私を、生き還す為に」

 マイナスにマイナスを掛けるように。死んだ者が死ぬから『生き還る』。
花のように咲いた笑みに涙が混じる。魂を死に誘う、恐ろしき能力が。
紫の息が荒くなる。肺に空気を取り込んでいる筈なのに、苦しくてたまらない。「償わなければいけない」という意識が、身体の全てを支配しにかかる。

 「ハァーッ……ハァーッ……!」
 「満足していた筈なのよ! 例えあの人が誰の事が好きでも!
  妖夢が居て、貴女も居て! 思い出も有って! なのに……なのに……」

 結い上げられた金の髪に、手櫛が通る。透き通るように冷たい指が、八雲紫の頬を撫でた。

 「ねえ、紫。幻想郷の賢者さん?
  教えて頂戴。私はどうしたら良いの? 死んだ私が『死した西行寺幽々子』に、どうやったら勝つ事が出来るの……?
  我慢が、出来ないの。ずっと、良い子にしていられたのに」

 美しさの欠片も無い、くしゃくしゃに歪められた顔で、少女は泣く。

 八雲紫に、言葉は出せない。例え何か言う事が出来るとして、あの男の何を伝えれば良いのか。
何が賢者だ。全て知っている等と馬鹿馬鹿しい。こんなにも押さえつけられた激情など、欠片も把握して居なかった。

 「恋して、居るのよ……」

 ポツポツと、畳に涙が落ちる。申し訳なくて、自らが情けなくて、意識がふわりと抜けて逝きそうになる。
不意に、ごめんなさい、と謝る声が聞こえた。

 「優しい貴女を困らせてしまって、ごめんなさい。私がこんな事を言うなんて思わなかったでしょう?
  貴女は本当に頭が良くて、皆の事を愛しているから……時折、そうやって『解釈』してくれちゃうのよね」
 「どういう、こと……?」

 幽々子は微笑む。今度こそ本当に、八雲紫が知っている笑みだった。

 「私達は貴女が思ってるよりずっと愚かで、感情に踊らされて、自分の事も分からない存在なの。
  貴女はもっと世界が数式で動いていると思っているから……時々こうやって、足元を掬われちゃうわ」

 母が子供にそうするように、そっと頭に手が乗せられた。
何らかの力によるものか、紫から堪えていた力が抜けていく。


 「私の事は気にしないで。紫には紫の仕事が有るのでしょう?
  ……気を付けて行ってきてね。私は暫く、誰にも会えないでしょうから」


 ゆっくりと、ほんの僅かに寂しそうに西行寺幽々子は手を振って。
紫の意識は、プツリと途絶えた。


 ◆


 灯が消され、薄暗い町並みを博麗霊夢は重い足取りで歩く。
あちらこちらに掲げて有る「呑」の看板が恨めしい。
最近は顔も随分と売れてしまって、店に入る度にそそくさと客が避けていくせいで殆どの店から白い目で見られるのだ。
八雲の財布から潤沢に使える資金も、使えないのでは意味が無い。
異変時ならばともかく、平時からそのような疎外感に耐えられる程、霊夢の胆力は強く出来ていなかった。

 「うう、ひもじいなぁ」

 人里でも、あそこの神社は妖怪神社だと囁かれる事が無いでは無かったが、それにはまだ根も葉もないと言い返す事が出来る。
だが、どのような事情が有れ、今の霊夢が「地上から来た厄介者の手先」で有るのは言い逃れようの無い事実だ。
そんな奴に物など売らん、と言われてしまえばそれまでなのである。
重ね重ね言うが、いっそ街中で異変が起きていたならば勘の囁くままにその辺の店を襲撃して情報と食料を強奪していく位の事は出来るのだが。

 酒が飲みたい。タラの芽やイクチを天ぷらか何かにして、塩を振って、強めの日本酒でキュっと洗い流すのだ。
人は旨い飯の為に日々を働くのである。不意の宴会に備え、地上では普段は結構粗食で通しては居るが。
飯も大事だが、活動資金も何だかんだで大事なのだ。貧乏って辛いと零すと、ふと巫女仲間であり商売敵である現代っ子の、様々な意味で温かい懐が思い浮かんだ。

 「もげねーかなー。あいつの乳……」

 あの無駄にゆさゆさと揺れる物体をパンチングボールに使う夢想をして、霊夢は荒んだ心を慰める。
向こうは向こうで、幾ら食料を詰め込んでも欠片も揺るがない霊夢の体重に殺意混じりの憧憬を覚えているらしいので、まあお互い様であろう。

 何にせよ、食うものを食わねば戦う事も出来ない。
霊夢相手にも商売をする、地底でも数少ない屋台に向かって霊夢は足を急がせるが……

 「ん、あ……」

 その道中、あまり見つけたく無い物を見つけてしまった。
首を刈られ、無残に頭を壊された、結界強化の為の地蔵菩薩。

 「あーあ、また壊されてる……」

 こういう事が起きるのも一度や二度では無い。
地底の妖怪どもが地蔵を見ると、お供え物を供えようと言う気持ちより、なんだこいつ目障りだなと思う方が早いらしい。
まぁ、是非曲直庁は余程目の敵にされているのだろう。実質、地獄を切り捨てたと言っても過言では無いから、仕方の無い事かも知れないが。

 「片付けるのもタダじゃないってのにねぇ……」

 支払うのは別に自分では無いとは言え、こうも扱われると生来の貧乏性が顔を出す。
都市計画もロクにされて居ない為、結界を敷くための線を引く事すら大変だと狐の式が愚痴っていた。
街に漂う雰囲気を含め、どうにも地上の某は受け入れ難いようだ。その皺寄せが来る方からすれば、たまったモンではない。

 「全く、珍しく事が始まる前から働いてるんだから、無駄な仕事にはして欲しく無いんだけど」

 神社を開けっ放しにしているとなると、それこそ妖精達に荒れ放題にされてもおかしく無い。
一応友人に頼んで留守番を任しては居るが、その友人自体が手癖の悪さで評判なのだから困ったものである。
霊夢は壊れた地蔵の位置を手帳に書き込むと、軽く拝んで供養をした。
そして靄を吹き飛ばすように大きく柏手を打つと、大股でその場から立ち去って行った。



 「やってますー?」

 街の中心である、広場からやや外れた場所。
霊夢相手にも別け隔てなく商売をしてくれる風変わりな屋台は、路地から出た開かれた空間にぽつんとあった。
赤地に白で「そば」とだけ書かれた提灯が、何となく暖かみを感じさせる。

 「ん、おう、博麗の嬢ちゃんか!」

 暖簾を潜り、返ってきた元気の良い返事に霊夢は瞼をしぱたかせた。
何時もはもっと、「おう」とか「ああ」とか無愛想な返答だけ帰ってくるのだが。
そして先客が居るのを見て、霊夢は「あちゃあ」と顔を顰めた。もしこの先客が地上に良い感情を持たず、かつ無頼漢で有れば、余計な厄介事が舞い込むかも知れない。
店に迷惑は掛けたくない物だ。これ以上使える店が少なくなったら、本気で死活問題に関わってくる。

 「おや、霊夢さん。珍しい所で会いましたね」

 しかして、その心配は無用であった。澄まし顔で蕎麦の汁を啜っているのは、竜宮の使いの永江衣玖である。

 「いや……あんた何してんのよ、こんな所で」
 「それはお互い様だと思うのですが。博麗の巫女ともあろう物が、そうホイホイ神社を離れてよろしいのかと」
 「良いのよ、紫の奴に呼ばれたんだから。何か不味くても、紫が責任とってくれるわ」
 「……良いですね、お役所勤めは……私なぞ、事情を知ってると言う事で半ば拉致気味に呼ばれましたが、
  果たしてきちんと出張扱いに成っているのかどうか。これ、査定に響きませんよね?」
 「知らないわよそんな事」

 丼片手に黄昏れる衣玖の隣に、霊夢は腰掛けた。適当に、店主にはとろろ蕎麦でも注文しておく。
くつくつと茹でられる蕎麦を見ながら、何とは無しに隣に座る妖怪を見る。
はふぅ、と息を付く姿すら、何処と無く色気が有る気がする。十年……いや、五年もすれば追い越す物だと、分かっては居るが。

 「それで、なんでこんな所で寛いでるの」
 「いえね、本来今日から地底に赴いて、藍さんのヘルプに入る筈だったのですが」
 「うん?」
 「道に迷ってしまいまして」
 「蕎麦すすってる場合じゃ無いじゃん!」

 バシン、と。丹念に拭かれては居るが、それでもややベトつく卓に手を叩きつけ霊夢は吠えた。

 「お昼がまだだったのですよ。きちんと食べる事が出来なければきちんと働く事は出来ませんから。
  この間来た時に比べて、随分とちゃんとしたお店が減ってしまいまして、とても困りました」
 「あぁ……今時、あんたみたいな見るからに場違いな雰囲気醸し出してりゃあ、そうもなるでしょうね。
  護身位は出来るでしょうから、その辺は心配してないけど」

 例え店主にその気がなくとも、八雲側に物を売れば血気盛んな反八雲派や御廻組に目を付けられるらしい。
かく言う霊夢も、お茶うけを買おうとした商店で申し訳なさそうに頭を下げられた事が有る。
なお、地底で緑茶は高級品である。此処だけは妥協出来ない霊夢は、紫に詰め寄って毎日茶葉を届けさせている。

 「んじゃ、それ食べたらまた行くのね。何処に行くかは知らないけど、お元気で。ちゃんと時間分かってる?」
 「失礼な。私を美の妖精か何かだと勘違いしていませんか?」
 「おま、妖精はともかく自分で美って……
  まぁ、分かってるなら良いのよ。太陽が無い分、慣れなきゃ時刻が分かり辛いから、此処」

 無表情ながら、少しムっとした空気を見せる衣玖に対し、霊夢は肩をすくめる。

 「ええ、きちんと把握しています。待ち合わせ時刻は、今から丁度半刻前です」
 「だめじゃん!!」

 バコン、と卓が揺れる。店主が眉を顰めて「嬢ちゃんちょっと」と注意して来たので、霊夢は素直に頭を下げた。

 「駄目ですよ、物は大切に扱わないと」
 「ぐ……この……はぁ。わーったわよ。私には関係無い事だけど、あんたはちょっと急ぐべき」
 「まぁまぁ、古くから、このような場合ではこうしろ、と言う格言が伝わって居る訳でして」

 コホンと咳払いをして、こちらを正面に見据える。柔らかでありながら、その実芯の強さが伺える眼差しに霊夢は何とは無しにたじろいだ。

 「急がば、回れ」
 「回れよ! せめて回りなさいよ! あんた立ち止まってるじゃないの!」
 「ずずず~……」
 「良い事言った風に飲んどる場合かッ!」

 叫ぶ霊夢、啜る永江を走らす。
とはいかないのが彼女で有り、満足そうに出汁を飲み干した永江衣玖は、ゆっくりと口を開いた。

 「店主さん、注文してた鴨焼きはまだですか?」
 「おうスマンね。今出るよ! そっちの嬢ちゃんも、ほらとろろ蕎麦だ」
 「って、まだ食うんかい……はぁー、あんたってそんなキャラだっけか……
  何かもう、まともに取り合う方が悪いような気がしてきたわ。いただきます……」

 真っ白なとろろの上に七味唐辛子をパラパラとふりかけ、霊夢は割り箸をパキリと割る。
隣では、味噌に漬けられて居たらしい鴨肉が熱された瓦の上でじゅうじゅう音を立てていた。
焦がした味噌と香ばしい葱の香りが、霊夢の鼻孔までも刺激する。

 「……旨そうね」
 「上げませんよ」

 チッと舌打ち一つ。霊夢は自分の前に有る丼から蕎麦を啜……ろうとして、思い出したように袖を外し畳んで膝の上に置いた。
地底の気候は寒く、蕎麦の温かさが有難い。じんわりと口の中に広がる出汁の香りととろろの甘みを味わった後、ごくりとそれを飲み干した。

 「キャラの話ですが」

 隣でもしゃもしゃと鴨を咀嚼していた衣玖が、ポツリと口を開く。

 「お互い、仕事の話では無い言葉を交わすのは、これが初めてな気がしますよ」
 「……そうだっけ?」
 「改めて確認しましたが、やはり貴女は似ていますね。いえ、正しくは似せた、と言う事なのでしょうが」
 「似てる? ……誰によ」
 「総領娘様です」
 「はぁ!?」

 なんでも無い事のように衣玖は言うが、霊夢からすれば青天の霹靂だ。
基本的に、霊夢はそこまで天子に良いイメージが無い。何しろ初対面の印象があまりに最悪だったのだ。

 「冗談じゃないわよ! なんだって私がそんな事」
 「ああ、いえ失礼。似せたのは総領娘様の方です。何しろ、ここ暫くは貴女に強い憧れを持っていたようですから」

 衣玖は口を湿らすようにお猪口を煽り、ほうと息を吐き出す。
疑わしげに首を捻った霊夢も、素直に続く言葉を待った。

 「あの方を初めてしっかりとお見かけしたのは、永い永い月の夜でしたね」
 「あぁ……あん時か。て事は、結構前? あんた達そんな長い付き合いだったっけ?」
 「いえ、その時はお声を掛けませんでしたから。ただ、雲の隙間から地上を覗く姿が、随分印象に残っていて」

 まるで、初めて動きまわる戯画を見た子供の様だった、と衣玖は言う。
つるんと蕎麦を飲み込みながら、霊夢は半目になって続きを問うた。

 「それで、なんで私にそんな事言うのよ」
 「深い意味は有りません。何となく、思い返しただけです。ただ」
 「ただ?」

 地底の街に風は無い。じっとりとした寒さだけが、濡れた絹のように張り付いている。
なんと無く薄ら寒い物を感じ、霊夢はぷるりと震えた。

 「……イライラしていますよね。まるで自分が、蚊帳の外に出されたようで」
 「なっ……」
 「まぁ、空気で分かります。一つお節介な事を言うとするなら、脇役もそう悪いもんじゃ無いですよ。
  誰かの脇に立ち続けてきた私が言うんですから、コレは間違いないです」
 「べっつに、イライラなんかしてないわよ! そんな、子供見たいな事で……私は……」

 むっつりと言い返す霊夢だが、真顔で見つめ続ける衣玖の視線に、次第に語気が小さくなっていく。

 「貴女は、何にも負けず、誰の変わりにも成る事が出来る。
  だからこそ、偶には"普通の女の子"に出番を譲って上げるべきなんじゃないでしょうか」
 「普通の女の子ー、なんて幻想郷に居たっけ? 思い当たらないなぁ」
 「あら、恋する乙女はみんな普通の女の子ですよ?」
 「うん……うん? いやそれ、冷静に聞くと別に良い事言った訳でも無いと思う……」

 なぜかフフンと偉ぶる衣玖に対し、霊夢は疲れたように肩を落とした。
みんな普通って、それ当たり前の事じゃないかーい。としなびた裏拳でツッコんでおく。

 「……はぁ、もういいわ。とにかく、あんたがまた龍神様から酷いお告げを受けて警告に来たってんじゃないなら、もうそれで」
 「生憎、そのような用事は無いですが…………あっ」
 「なに? 何かキャッチしたの?」

 先ほどまで泰然自若を貫いていた永江衣玖が、急に顔面蒼白になってオロオロしだす。
間近に居た霊夢は、すわ異変の兆候かと椅子を蹴って立ち上がり、辺りに目を光らせた。

 「羽衣に、蕎麦汁の染みがついてしまいました。どうしましょう……これ、支給品ですけどクリーニング代自腹なのに」
 「……そうね、この蕎麦を頭からぶっかけて誤魔化すと言うのはどう? オススメよ」
 「駄目ですよ霊夢さん。貴女貧乏なんですから食べ物は大事にしないと」
 「うっせー! とっとと仕事行きなさいよ、このスットコドッコイ!」

 ミシリ、と霊夢の手の中に有る箸が握り潰されて悲鳴を上げた。
額に青筋を浮かべる店主に対し、霊夢は迅速に頭を下げる。その横では衣玖が、ハンケチーフで口を拭きながら背を向け、呟く。

 「……しかし、これは龍神様が言った事では有りませんが……
  起きるでしょうね、地震」
 「なんですって?」
 「と、言っても私が持っている欠片を繋ぎ合わせればそうなるだろう、と言うだけの話なのですけど……
  まぁ、言った事が間違っててキャラ崩壊するのを恐れる心配も無いですから。賢者じゃないって楽で良いです」
 「ちょ、ちょっと待ちなさ……」

 引き止める手も水のようにすり抜けて、永江衣玖は上空へと上がっていく。
霊夢は慌てて引きとめようとして、口しか無い表情でぽかんと呆けていた店主に声を掛けられた。

 「あの人、勘定まだ済ませて無いんだけど……
  嬢ちゃん、知り合いみたいだし……此処はとりあえず、頼むよ」
 「…………あんにゃろぉ~ッ!!」

 たぬき蕎麦に鴨焼きと熱燗一合。しめて結構なお値段だったと言ふ。


 ◆◆ ◆◆


  9:天道是非 ~ Judas Priest

 人になると言う事も楽では無いと、天子はつくづく感じていた。
ほんの僅かな間、師と仰いだ人物は何処かに消えてしまったが、それでもこの一月半剣を握らぬ日は無かったと言える。
当然指も白魚のようなままとは行かないが、マメや痣の痛みに耐える事になったとしても、ジッとしているよりはマシだった。
元より、根が真面目だったのかも知れない――毎日歌って踊ってしているだけの生活に、耐えられない程に。
今にして思えば、仏についての勉強だって、やってる内は嫌とも思わなかったのだから……

 「って思うのは、流石に記憶を美化しすぎかしら」

 心に渦巻く気持ちを言葉にする事もしないまま、天子は少し離れた岩の上に座る少女に声を掛けた。
傍から見る限りでは、いささか急すぎる話題の振り方だが、少女は手元の小説から目を離す事もせず言葉を返す。

 「どうでしょうね。それって天子さんが結構子供の頃の話でしょう?
  そこまで遡るとなると、流石に結構深い域まで催眠が必要ですので。やります?」

 指先で頁をめくりながら、古明地さとりは問いかける。
本を読むなら部屋ですればいいのにと天子は思うのだが、近くに居たい気持ちも分かるので「別にいいわ」と首だけ振っておいた。
天子とて、この程度の素振りや基礎の修練が劇的に力をつける物では無い事位分かっている。
それでも人の身としての気が濃くなった以上、鍛えて置かなければ衰える一方であるし、そうなったらこの天の桃によって作られた身体を取り戻すのは至難だろう。
あの翁に理想とまで言われた肢体。自らの努力で手に入れた物では無い故に、天子としてはあまり好いては居なかったが、そう言われると徒に失うのが惜しい気がしてくるから不思議である。

 パタン、と両手を合わせて祈るようにさとりは本を閉じた。
それに合わせて、天子も一時素振りを中断し汗を拭きながらさとりの方へ向き直る。

 「……興味が無い、と言われると仕方がないのですが。
  もう少しこう、自分の子供の時の事を思い出したいな等と思ったりはしないのですか?」

 忘却した過去への遡行は、忌み嫌われると同時に頼まれる事もままあるとさとりは言う。
誰にとて忘れたい過去が有るのと同様に、繰り返し味わいたい過ぎ去った栄光の美酒が有る。
確かにそれはそうなのだろうが、と天子は苦笑しながら頬を掻いた。

 「私、あんまりロクな過去持って無いしなぁ。思い出ってのもそんなに無いし。
  そもそもそう言うのが有ったらここに降りてくる事も無くて、アンタに会う事も無かったんでしょうし。
  今更思い出したい事って言われてもね……」
 「天上での思い出が何も無くとも……例えば、その前で有るとか」
 「つまり、地上にいた頃の思い出って事? 確かに全然覚えてないけど……う~ん」

 なんだか今日はやけに押して来るな、と普段と少し違うさとりの様子に違和感を感じながら。
腕を組み、思い悩む。

 天人として召し上げられる前。まだ、比那名居天子が地子であった頃。
確かに、何か新鮮な発見があるかも知れない。何故かすっからかんの母の事も、少しは分かるのでは無いだろうか?
天子はしばし考え込んだ後、矢張り首を横に振った。

 「……やっぱ、やめとくわ。ホラ、今は今で結構いっぱいいっぱいだし。
  仮に、過去に何か有ったとしても責任取れないし。昨日より今日なのよ」

 何処と無く笑顔に陰を滲ませた天子に、さとりは「そうですね、ずるい事を聞きました」と頭を下げる。

 「ま、親切心として受け取っておくわ。さぁホラ、帰りましょ。ペット達がお腹を空かせて待ってるんじゃない?」
 「……ええ、そうしましょうか」

 かくして二人は帰路に付く。並べていた木の棒を仕舞い、荷物を肩に担ぐように乗せる。
道の途中、さとりはむぐむぐと口の端を動かした。

 「ちょっと、甘え過ぎでしたかね」
 「うん?」

 口の奥で発せられたその声は、天子の耳にまでは届かない。

 「いえ……天子さんは、頑張ってきたんだなーって」
 「私が? うーん……どうだか」
 「間違い無いですよ、このくもりなきまなこで見た限り」
 「色眼鏡でもかかってるように思えるんだけど」

 呆れ半分の微笑を天子はさとりに向けた。さとりは涼しげに視線を返す。
家に帰れば、腹を空かせた動物達が待ち構えている。なかなか二人きりでゆっくり話をする時間も無いが、これはこれで暖かで良いと天子は思う。

 ――大丈夫。私の事を貴女がしてくれたように。私も貴女の問題を片付けて見せます。

 その決意は、覚り妖怪の心の内にだけ染み渡る。
ゆっくりと手を胸に当てると、さとりは己の心の臓がトクントクンと波打つのが分かった。
そして、くしゃりとした紙の感触。
何時だか、永江衣玖が持ってきた比那名居天子に当てた封筒だ。
それは未だ、さとりの胸ポケットの内に有る。そしてその内容も。

 ――貴女が、また過酷な渦に巻き込まれないように。私が貴女を守ってみせる……

 それは、これ以上生命を削って欲しくないと言う願望。
放っておけばまた、この人は誰かの世話になる事を嫌い、自分で自分の決着を付けに行くだろう。
今の天子にしてみれば、それだけが矜持なのだ。天も、力も失ったが故の。

 だが、その決着が、今度こそ「比那名居天子の死」で無いと言う保証は何処にも無い。

 約束と言う重しを乗せては居るが……本当にいざという時に天子がどちらを優先するか、さとりにはまだ読み切れない所が有る。
だからこそ、私がやる。古明地さとりはゆっくりと、地底で恐らく彼女だけが手に入れた事実を思い返す――


 ◆


 比那名居天子の「心」に、ふとした違和感を感じたのは何時だっただろうか。
心の深い所で、彼女に己の記憶を垣間見せた時か。あるいはもっと早く、初対面の際に行った弾幕戦だったかも知れない。

 覚り妖怪は間違いなく、心の専門家で有る。

 その技術を何に使用するかはさておき、心を探る事を生業とする以上、こと心の病気に関しては竹林の奥に住むと聞く天才医者よりも詳しいだろうという自負がある。
ところで、心が病に掛かる事が有ると言う事は逆説的に、心には正常な「在るべき流れ」が有ると言う事でもある。
この流れ方を他の人妖に分り易い言葉にするのは難しいのだが、つまり比那名居天子はこの「流れ」に微かな抵抗があった。
……ある特定の事実に対する、「認識障害」である。

 覚り妖怪にとって、認識障害は格好の餌だ。
例えば、親の暴力を愛情と誤認する。例えば、恋人が死んだ事実を認められず生きている物として生活する。
そこまで重度の物じゃなくとも、自分の不注意を「運が悪かった」として片付けたり、あまつさえ他人のせいにしてみたり。
自らの心を護る手段として現実の方を「歪める」事は、案外ポピュラーな現象と言えるだろう。

 その「歪み」をちょいちょいと突いてやっただけで、心は恐怖や絶望と言った蜜を撒き散らす。

 そして妖怪といえど生物である以上、己の餌となる物の匂いには敏感な物だ。
故に、かなり早い段階から、さとりは天子の認識障害について「そういう物が有る」という程度には把握していた。

 それを突かなかったのは、何処と無く違和感が有ったから。
なにせ、心の澱みだ。程度の差はあれ、傷んだ蜜柑が箱ごと腐らせるように、膿んでグズグズになっていく筈なのだ。
比那名居天子には、それが無かった。「現実を歪めている」と言う罪悪感が、彼女の心からはこれっぽっちも感じられなかったのである。
最初は、「まぁ、そういう事も有るだろう」程度の感想であった。
わざわざ追求する必要も無かったし、追い返す為の想起ならば掘り返さずとも良い物が有った。それに藪蛇になれば面倒臭い。

 それが人為的に行われた物で有ると気付いたのは、既にある程度人間関係を構築してからだったのだ。

言わばそれはパンドラの箱。強く興味は惹かれるが、開けてしまえば折角の友情に傷付けてしまうかも知れない逆刃の剣。
だから、それは知らなくて良い事だ。古明地さとりとは、縁もゆかりもない失われた事象……

 ――その、筈であった。



 夜。
夜明けも日没も地底には無いが、薄暗い空気と冷やりとした静けさでそれを察する事は出来る。
サイケデリックな配色のタイルの上に、質の良い絨毯を敷いた主の寝室。
それは、地霊殿を預かる選ばれた者にしか入る事を許されない空間であり(お燐が勝手に入って掃除をして行くが)、
その鍵を預かる古明地さとりの、神聖なプライバシーでもある(お空が力任せに部屋の鍵を壊して以来そのままだが)。

 さとりは、基本的には小心者だ。
嘘を付けば、その嘘をつき続ける事に必死になるし、何かを隠せばおどおどと視線が泳ぐのですぐ分かる――と、天子にはからかい混じりに言われた事が有る。
さとり自身はおろかペット達にもそんな事を指摘された覚えは無いので、これは単に天子の観察眼が閻魔並にずば抜けているだけだとも思うのだが、小心者で有る事だけは紛れも無い事実だ、と自分でも思う。

 「ふぅ……」

 深く息を吐き、胸元の裏ポケットから封筒を取り出す。何回も持ち歩いているせいか、随分と形が崩れてしまった。
部屋のどこかに隠す事も考えたのだが、さとりはそう調度良く鍵付きの戸棚を持って居なかったし、もし万が一隠していたのを誰かが見つけたら、と思うと不安でいてもたっても居られなかったのだ。
持ち歩いていた所で失くす可能性は勿論有るが、それは自分が注意すれば良いだけの話。
こんな事なら面倒臭がらずに部屋の鍵を直して置けばよかったと、さとりは何回も頭の中で繰り返す。
その部屋の鍵自体、最早自分でも何処に置いたのか覚えていないのが非常にお粗末である。

 「……」

 ガサゴソと、封筒の中の手紙を漁る。渡しそびれたまま、つい興味にかられて読んでしまった、彼女の父親から天子への手紙。
その内容を、天子以外の……いや、天子を含めた誰へも漏らす事は出来ないと、さとりは改めて心に誓う。

 手紙に書いてある内容は、時候等の天人らしい虚飾を抜けば、大まかにはこのような物だ。


 『天子へ
  元気でやっているだろうか。無茶をして、身体を壊したりしていないだろうか。
  何を今更と思うかも知れないが、居てもたっても居られなくなり、この手紙を竜宮の使いに託した。

  この文を読むお前の手は怒りで震えているかも知れないが、どうか落ち着いて聞いて欲しい。
  龍神様の話では、大きななゐが近づいていると言う。しかし、それは決して自然の物では無い。
  お前がおこなったように、歪んだ気質の力が大地を目覚めさせようとしているのだ。
  緋色の雲では無く、怨霊達の魂を使って、なゐを起こそうとしている者が居るのだ。

  天子。お前を狙って。

  聞きたい事も有るだろう。話したい事も有るだろう。
  許してくれとは言わない。せめて一度、天に戻って話をさせてくれないだろうか』


 さとりは、両の眼で幾度も幾度も読み返したそれを、再び丁寧に折り畳んで服の裏のポケットにしまった。
この内容は天子自身にすら伝えていない。かのカミが、恐ろしい悪霊の塊が、比那名居天子を狙っている?
あの人なら、馬鹿馬鹿しい、と笑うだろう。たっぷりと思い悩んでから、それがどうしたと開き直る。
だけどいざ「その時」が来たら、自ら進んで贄に成るに決まっているのだ。
天秤に掛けられているのは、比那名居天子と幻想郷全体を犯しかね無い脅威。その天秤の傾く先は、分かり切った物であろう。


 他の全てにとっては幻想郷で、さとりにとっては比那名居天子だ。


 「――だからこそ、この手紙は誰にも見られる訳には行かない」

 そう、他ならぬ天子自身でさえ。お空達に位相談しても良いかと思ったが、水とは何処から漏れるか分からない物。
慎重でなければならない。だがそれ以上に、調べなければ成らない事が多すぎる。
調べるためには誰かに接触する事も避けられない。二律背反に頭を痛めながら、さとりは自分のベッドに潜り込んだ。
「話が有る」という天子の父親に対し、読心でも仕掛けられたら随分話が早そうなのだが。

 「一つずつやってくしか無いんでしょうねぇ」

 抱きまくら代わりのクッションに顔を埋め、身体を解すように息を吐く。
とにかく、天子に気取られぬよう、再び永江衣玖と話がしたい。
いくら覚り能力があるからとは言え、ついこの間までなるべく人付き合いをして来なかった引き篭もりには随分と難問だ。
慣れない酔いと疲れに、スウと意識が遠くなっていく。
嗚呼しかし、天上に居る永江衣玖に対し、どうやってコンタクトを取ればいいのやら――


 ◆


 「衣玖さんですか? 今、度々旧灼熱地獄跡に来てもらってますよ。
  さとり様、あの人に何か用事有るなら今度あたいが声かけときましょうか」

 意外と近くに居た。

 「呼ばれて飛び出てじゃんがりあん、永江衣玖でございます」

 割とフットワーク軽かった。
さとりは軽くコメカミを揉みながら、悪びれもせずにポーズを決める永江衣玖に向かい訝しげな目線を向ける。
何て事の無い、地霊殿の一室。ソファと机があり、ごく偶に客間として使っている。装飾も赤を貴重とした絨毯を敷き、寂しくは無い程度に質素な物だ。
何が怪しいのか、衣玖は首をかしげるとピンと伸ばした腕をこちらに振り下ろした。

 「よろしくピース」
 「……すみません、どう反応すれば良いのか」
 「ふーむ、おかしいですね。割とどっかんどっかん行く予定なのですが」
 「擬音が古い……」
 「ピースサンダー、と言うのもそろそろ幻想入りするかも知れないらしいですよ。代替わりも激しいですし。
  まさしくこの私の為に有るような物では無いですか。所詮中ボスの新参さんに雷属性の左ポジは渡しませんとも」
 「サンダーブレークが何を言う」

 大体にして、四面ボスにそんな事言われても困る。
唯でさえお燐の方が印象深いと魔女や魔女から言われているだけに、どういう顔をすれば良いのか。

 「貴女、この間お会いした時そんなキャラでしたっけ」
 「シリアスな出番は終了しました。それで、何のご用事ですか?」

 そうだった、と呆れて落ちかけていた第三の瞼を強く見開く。
とは言え、何から話を進めれば良いか。いきなり聞くのは少々性急にすぎる。この竜宮の使いが何を知っていて何を知らないのか、先ずはそれからだろう。

 「いえ、聞く所によると、家のペットが世話に成っているようですので。何か粗相でもしていないか、と」
 「え、夕飯ですか? いやぁ、悪いなぁ。実はまだなんですよ」
 「図々しい!」

 そもそもこいつは話す気が有るのだろうか。心を読むに、別に覚りを特別嫌っている訳でも無いようだが。

 「いやはや、これでも緊張してまして」

 実にリラックスした風に見える永江衣玖が、何事かをほざく。

 「会話の主導権を握っていないと、取って食われるのは簡便ですからね」
 「……別に、そんな事は」
 「あまり気負っていると、そういう風にも見えてしまいますよ」

 ぐ、とさとりは答えに詰まる。たっぷり数秒深呼吸をした後、「参った」と言うように肩をすくめた。

 「そう言えば、空気を読む能力でしたか。成る程、読心とまでは行かなくても、ある程度はお分かりに成るんですね」
 「ええ、職業柄敏感でして。地底は湿っているので、バチっと来ない点は良いですね。
  普段雲を泳ぐ身としては、どうしても日差しが恋しく成る事は有りますが。
  しかし酒の味とは中々別れ難いです。じわっと濃くて、味わいが有る。そうそう、この間良い屋台を見つけたのですよ」

 手を叩き、衣玖が立ち上がり、そのままキョロキョロと何かを捜すように首を動かす。

 「紙と鉛筆は有りませんか、総領娘様にもお伝えしたい」
 「はぁ……では、これをどうぞ」

 さとりは机の引き出しから、適当に削られた鉛筆と白紙のメモ帳を取り出す。
その一枚を衣玖に手渡すと、早速何事か滑らかに筆を滑らせていく。さとりはそれを、仏頂面で眺めた。

 「総領娘様と出掛ける事は有るのですか?」
 「……まぁ、最近は、少し。と、言っても最近はそもそも商品を見せてくれない所も増えましてね」
 「其処は、そのような事をしないお店でしたよ。是非お二人で寄ってみて……あら」

 衣玖の手が止まる。

 「書き損じて仕舞いました。ごめんなさい、この紙、屑籠に捨てて下さいますか?」
 「……仕方ないですね。あまり無駄使いをすると、閻魔様に怒られるのですが」

 淡くはにかみながら差し出してきたそのメモを、さとりは手にとった。
一体どんな間違えをしたのか。さとりはその内容に視線を落とし、

 『八雲紫を舐めてはいけない。質問は筆談で』

 唾を、飲んだ。



 我に帰ったさとりは、慌てて部屋の中に視線を走らせる。

 ――無駄ですよ、あの妖怪が本気を出せばちょっとした式なんて幾らでも隠す事が出来る。

 回答は、第三の目伝いに永江衣玖が答えてくれた。
目の前に居る竜宮の使いは、それを伝えてなお鉄面皮を崩さない。
成る程、これに比べれば自分のポーカーフェイスなど児戯に等しいか、とさとりは何処か筋違いの納得をする。
少なくとも今、自分の頭では急速に回ってきた血の巡りで、ちょっとした顔色になっているだろう。
必死に言葉を選びながら、不自然に成らない言葉を考える。
紙は言われた通りにくしゃくしゃと纏め、屑籠に捨てた。

 「……しかし、何と言いますか……随分と手馴れていますね。私の事、怖く有りませんか?」
 「まぁ、その辺はちょっとした慣れですかね。天におわす方々ならば、思考を読める人も居ない訳では有りませんし。
  そう言う方々の目を盗んでサボる、ちょっとした技術ですよ」

 ――手法自体は小説からの引用ですが。まぁ、お呼ばれした時点である程度何か聞かれるだろう事は予測出来ましたしね。
 ――あまり沈黙が長いと逆に不自然なので、一芝居打たせて頂きましたが……
 ――こちらが警戒しているだけで、実際は何も仕掛けていない可能性も無きにしにも在らずなのですけど。

 「技術の一言で克服されては……何と言うか、立つ瀬が有りませんよ」
 「失敬。あくまでごく表面を誤魔化す為だけの物ですので。本気で探られたら流石にどうしようも無いですが」

 思考での注釈も聞き取りつつ、かりかりと鉛筆を走らせる。
聞きたいことは山程有る。しかし、衣玖の口ぶりからするとあまり長時間話し込むのは違和感を気取られるかも知れない。だとすれば、質問の数は絞るに越した事は無い。
向こうから振ってくる適当な雑談に生返事を返しながら、さとりは手元を見つめた。

 『八雲紫や是非曲直庁の動きを知っていますか?』

 メモ用紙に書き付けた質問を、不自然にならないようチラリと見せる。
果たして、回答はすぐに返ってきた。

 ――流石に、そこまで詳しい訳では……
 ――ですが、どのような祟りで有った所で、カミと成るまでの形を為すので有ればそれに相応しき「想い」の核が有るべきかと。
 ――八雲紫などは、ほぼ確信を持ってそれを探っているようですね。カミに名前も付けられなければ、調伏も出来ませんから。

 確かに理屈に沿った話だ、とさとりは頷く。
真名や改名などは、神道はおろか陰陽術や仏教、西洋における悪魔との契約にすら使われているメソッドである。
そしてその真に迫る為、一番近い位置に居るのは他ならぬ古明地さとりだろう。
何せ、八雲紫の前で直接かのカミに対し想起を使用する所を見せているのだ。
そう考えると、何らかの監視が付いていても全く不思議ではない、むしろ今までが不用心に過ぎたと言えるのでは無いだろうか。

 ――危ない所でしたね。少しでも口を滑らせていれば、天子さんと異変の関係が露見してもおかしく無かった。

 そうなる前に気付けた事に、少しほっとすると共にさとりは気を引き締め直す。
八雲紫は血も涙も有るが、同時に冷徹に損得を勘定する事も出来る妖怪だ。
仮に、比那名居天子の命一つで幻想郷の全てが救えるのならば、彼女は間違いなくそうするであろう。
そうなるとやはり、お燐お空から漏れる情報にも注意が必要か。何せ、今彼女たちの隣には、八雲の右腕たる九尾が付いている。

 さとりがそう思考を巡らせる間にも、怪しまれない程度に雑談は進行していた。
ペットの事。天子の事。食事の事。最近読んだ本の話。こうして話していると、永江衣玖が相当な聞き上手である事が伺える。
何せ、こちらは上の空で有るはずなのに、ふと意識すると全く違和感が無いように話を引き出してくれているのだ。
それも天女たる物の仕事なのだろうか、とさとりの思考がふと脇道に逸れる。
その割には、霊夢や天子からは彼女の大雑把な対応に対する怒りと呆れが見て取れたのだが。

 「ミステリ小説はお好きですか?」

 本命のやり取りと雑談を織り交ぜていく中で、ふと衣玖がそんな事を口にする。

 「ミステリ……ですか。江戸川乱歩など有名所は多少抑えましたが」
 「そうですか。いえ、私は最初好きだったんですけども、ある時を境にトンと読まなくなって」

 ほんの少しだけ寂しげに、衣玖は目を伏せた。心を読まなくとも、聞いて欲しいと言う意思がありありと分かる。

 「境、ですか?」
 「ええ。本当に何でもない時に、ふと気付いたのです。
  『それがどれだけ優れた謎かけで有っても、結局全ては富か名誉か愛なのだ』……と」

 そう唇に乗せる永江衣玖は、いつも通りの仄かに笑みを浮かべた顔……に、見える。
その鉄面皮の裏には、覚りの目で暴かなければ分からないような感情が眠っているのだろうか。

 「名誉を自己愛あるいは付随する他者からの信頼に置き換えれば、完全に富か愛ですね。
  犯人がどれだけ頭を使い、作家がどれだけ定形を捻り、驚天動地の大トリックを創りだしても結局は其処に完結してしまう。
  勿論、本来そのトリックを楽しむのがミステリの楽しみなのでしょうが……どうやら私は違ったみたいで」

 その言葉に、彼女がどれだけの意味を込めたのだろう。
……少なくとも、只「永江衣玖がミステリを読まなくなった理由」を伝えたい訳では無い事は、さとりにも分かる。
この世の動機は全て、富か愛……ならばあの、穢れしカミが求める所は、どっちであるべきか。

 古明地さとりは考える。なるべくシンプルに答えられ、そして今ここで彼女に問うておくべき文面。


 『貴女の知りうる知識で、比那名居天子の母が「カミ」の核で有る事を否定する事が出来るか?』


 その質問を見た永江衣玖は、うっすらと笑みを深めると、緩やかに首を横に振った。


 ◆


 大時計がカチコチと時を刻む、地底唯一の大広場。石造りの道と長屋建築がアンバランスに並ぶ、その傍ら。
急ごしらえで作られたステージの舞台裏、鉄骨ならぬ竹骨張り出す裏口に、幾人かの姿があった。

 「警備強化? 今日のライブの?」
 「そうよ、悪いけどね」

 面倒くさそうに手を振る博麗霊夢に、ヤマメが怪訝な顔を向ける。

 「あんた達のライブが気に入らない連中が、ぶち壊しにしようとしてるって話を藍の奴が聞いてね。
  別に、あんた達が悪いって言う訳じゃないけど。そのままでも良くないって言われちゃって。
  悪いんだけど、あんた達も分かって頂戴。こっちもこっちで、適当にやっとくからさ」

 急な来客で有る霊夢に、やや怯え混じりの視点が突き刺さる。
ベース担当の緑髪を両結びにした少女が、ヤマメの背後から様子を伺うように覗き見ていた。

 「……あによ」
 「いや……火、吹かないですよね?」
 「吹くかッ! ロクに言葉も交わさなかったけど、一回会ってるでしょうが!」

 霊夢は見るからにやる気が無さそうに、はぁ、と深くため息をつく。

 「……どうする? ヤマメちゃん。ヤマメちゃんが良いなら、私からは何にも言わないけど」

 傍らの木桶に入った少女が、ヤマメに向かって問いかける。
呆然としていたヤマメが、フ、と視線を下ろした。その顔には何処か、諦めも混じっているように見える。

 「まぁ……しょうがないかな。実際、私達も頭を痛めてたしさ。
  その代わり、お客さんに納得してもらえるような最高のライブにしなくちゃ。それは私達の仕事だよ」
 「そっか……そうだね」
 「ま、なるべく邪魔はしないようにするわよ。彼岸の奴らは口うるさいし、これ以上敵も増やしたくないし。
  結界敷設の為の地蔵を置くのもあんまり進んでないしさ」

 置いても置いても壊されるんだもの、と霊夢は愚痴った。
藍が言うには、既に想定していたペースをだいぶ割り込んで、別のプランに切り替える事も視野に入っているという。
何にせよ、ロクな話では無いのは確かだった。御廻組とか言う連中も、最近は大分幅を効かせている。

 「心無い連中は、地上の奴らとも話し合って方針を決めるべきだって主張する星熊様の事を弱腰だって言うんだ。
  どうするべきかも考えずに、感情に任せて暴れるだけの癖にさ」
 「……そーね」

 鋭い流し目を、霊夢はうつろに天へと向ける。

 「それに関しては、正直今の今まで放置してたくせに急になんやかんや言ってくる方も悪いとは思うんだけどさ。
  ま、お陰でこっちも地味な裏方作業だし。割を食う同士、仲良くやらしてよ」
 「勿論、やるからには最高のステージにするさ。こっちもこっちで、生半可にやってんじゃないんだ」

 へぇ、と霊夢は仏頂面の裏で感心した。
ヤマメが普段、天子やパルスィ達に見せるぼへっとした顔とはわけが違う、ハリのある面構え。
なまじ、周りが趣味でやってる奴らばかりというだけあって、歌を売る仕事と言うのは正直よく分からないが。
成る程、これがプロかと独りで頷く。

 ジリリリリリ、とけたたましくベルの音が鳴り響いた。

 「ヤマメちゃん、行くよっ!」

 桶から飛び出し、緑色の子鬼に扮した少女が扇情的なレザーファッションに身を包むヤマメの手を引いていく。

 「よぉし、やりますか!」

 片手で「えれきぎたあ」をくるくると振り回すパフォーマンスを決めながら、黒谷ヤマメは今日もステージ上のマイクへと飛び出していった。



 「みんなー、お待たせーッ!」

 ややハウリングする程の大音量、シャウトで物理的にハートをキャッチ。
ただ声を大きく、遠くまで届かせると言うだけなら本来機器すら必要に成らないのだ。そこをあえて、このマイクスタンド風の魔道具で僅かにノイズを含ませる。
細かい所だが、ヤマメなりのこだわりの一つ。

 待ちくたびれた観客席から、わああと歓声が上がった。

 その声に答えてか、早速小鬼扮するメンバーが前奏を開始する。最初は何よりもポップにスピーディに。ノリに乗らせる事が大事なのだ。

 「今日の一曲目はぁー! 『ロックで夜通し』ッ!」

 そして軽快なテンポに乗せられて、ヤマメの歌がステージに響く。
歌詞の上の時計がくるくると針を刻み、ただただそこに居る人間を「一緒にロックしよう」と誘う歌。
内容も何も有った物では無いが、だからこそ良い。

 ギターが軽快に音を奏でる。ドラムがビートを刻む。観客たちが自然に、あるいは無意識に身体をゆすり出す。
ヤマメは、この瞬間が大好きだ。周りごと巻き込む渦に身体を引かれて行くような、ふわふわとした高揚感。
身を任せるままに一曲を歌い切る。パァン! 雛壇脇に仕掛けた花火が爆発し、光と音を更にデコレートする。
ふっと気を引き締め直し、すぐさま次のナンバーへと思いを馳せた、瞬間。


 KA……――BOOOOM!!


 「な、なにー!?」

 花火の一つが通常の数百倍の勢いで盛大に爆発した。付近の観客をひっくり返し、ヤマメ達の眼を焼く。

 「――今だ! 軟弱極まる歌姫を確保し、その身柄を盾にへっぴり腰の星熊様に活を入れ直す!
  地底は今こそ鬼の号令の下に一つにならねばならん時なのだ!」

 その爆発音が合図だったのか。正面の入り口から、観客の一部から、ステージの裏口から。
十何人かの妖怪が揃いの衣装と刀を手に、一直線に腰を抜かしたヤマメへと殺到する。

 「や、ヤマメちゃ――」

 ステージ上、爆風に煽られ仰向けにひっくり返った緑髪の少女が、ヤマメの方へと手を伸ばす。
それ以外の観客達は、皆音と光のショックから立ち直れずに呆然と口を半開きに立ち尽くしている。


 ……この場にたった一人の、「妖怪以外」を除いては。


 ブォン! 亜空穴から飛び出した霊夢の垂直蹴りが、今にもヤマメを担ぎ上げようとしていた男の首を強かに打ち据える。
ゴキリと嫌な音が鳴って、その男は崩れ落ちた。トドメのように、ぺたりと後頭部に札を貼っていく。

 「ったく、初日から忙しすぎるっての」

 半目で一通り辺りを睨めつけ、霊夢は飛び込んだ。反対方向から襲い来る男の股間を蹴り上げ、うずくまった所に札を貼る。

 「は、博麗の巫女だと!」

 最初に号令を仕掛けた男が、時代がかった大仰なジェスチャーで驚いた。

 「やはりこの歌は地上の妖怪共が仕掛けた懐柔策の一つであったか! 博麗の巫女が出てくるのが何よりの証!」
 「ち、ちがわい! 私はそんな事頼んで……」
 「聞く耳持ってないでしょ、アレは!」

 戸惑う観客の波の中、霊夢が駆ける。
裏口から飛び出てきた男達を針で串刺しにし、正面から押し寄せてくる一団をアミュレットで吹き飛ばし、何やら喧しいリーダー格らしき存在の顎を天まで昇るかの如きサマーソルトで蹴り上げる。

 「でぃぃぃやっ!」

 気合一喝、三原色を模した七つの数珠が滞空する男の後を追い、更に高く打ち上げた。
地底の天井近くまで浮き上がると、霊夢が振り返ると同時に頭から落下する。

 「はい、お邪魔してごめんなさいね。んじゃまた、ライブを楽しんで――」

 一息付く暇も無いほどの、圧倒的な業前。故に霊夢は髪をかきあげ、視線を上げて……初めて、その目に気付いた。

 背中で守られる事に慣れている、人間ならば良い。
並び立つだけの力と誇りを持ち、時に孤高ですら有る強者達ならば良い。
彼らの多くは……自尊心だけは一丁前に、されど示すだけの力も無く、退治される側の「妖怪」なのだ。

 「……何よ、あんた達」

 本来、人間であれば惚れ惚れする筈の腕前は。嫉妬の、怯懦の、そして敵意の目に晒される。
妖怪退治を専門とする巫女の戦いぶりは、"狩られる側"に何処か窮鼠じみた危機感を与えていた。
一度戦った事のあるヤマメでさえ、以前とは違う何処か鬼気迫るような戦いぶりに、腰を抜かしたまま唾を飲む。

 「なあアンタ、やり過ぎじゃねえのかい」

 冷え冷えとした空気の中、会場の誰かが肺から絞り出すような声で呟いた。
仲間だろうか、その隣に居る一つ目鬼が、慌ててその男の肩を掴む。

 「おい、ちょっとお前……」
 「主義主張が違ぇとは言え、同じ地底に住む奴らなんだ。あんな風に面子を潰されて、はいそうですかで帰せるかよ」
 「だが、相手は星熊様とやりあったってぇ博麗の巫女だぞ!」

 「……」

 ギロリ、と霊夢が視線で押さえつける。ひょっとしたら霊夢にはそのつもりは無かったのかも知れないが、なまじ元が美人なだけに半目になった時の迫力が半端ではない。
囁き合っていた妖怪達が、小さく呻いてたじろぐ。

 「……げ、ふっ……それで、情け無しと思わんのか」

 地に倒れ伏し、頭から地をだくだくと流しながら、襲撃者達のリーダー格らしき男が、声を上げた。

 「そうやって、地の底にまで押し込められて、今度は何処に行けと言うのだ、ええ?
  地上の事情だか何だか知ら無いが、そんな物の為にこの街を捨てられる物か!」
 「……私に言われても困るわよ」
 「ならば! なぜ邪魔をする!」

 男は叫ぶ。地面に拳を叩きつけ、泥の匂いが霊夢の鼻を擽る。


 「だって、カミが来るもの。博麗の巫女として、あんた達を守れって言われてるんだから、その準備を妨害されちゃ困るのよ!」


 お祓い棒を突きつけて、博麗霊夢は高らかに宣言した。
幻想の守護者として。異変の解決役として。普段行なってきていることを、普段通りに。そう、言ったつもりだった。

 「守る。守るだと?」

 周囲がざわめく。霊夢へ纏わり付く空気に混じる敵意の色が、あからさまに濃くなっていく。

 「俺達は妖怪だ! お前のような小娘に守ってもらう物等、何一つ無いわ!」

 ギラギラとした瞳が、辺りの妖怪たちの燻る心を焼く。
面子と、見栄と、鬱屈した不満やどこにも向けられない怒り。
観客達が、騒がしくノリのいい音楽に叩きつけていた物が、ぐるり、と一斉に霊夢へ向いた。

 「やめろ」

 ステージ上のヤマメが、小さく震えた声を出す。
血気盛んな幾人かが、牙をむき出しにして霊夢に飛びかかっていく。

 「皆、やめろよ」

 結界に突き飛ばされた先で、観客がドミノ倒しのように巻き込まれる。はためく袖を掴んだ誰かが、霊夢を渦へと引き倒す。
罵声と混乱が加速し、会場が再び狂乱の中へと引き込まれていく。

 「私のステージだぞ……」

 音、光、暴力。涙混じりの声はかき消され、微かとなって消える。
暴力、そう、暴力だ。今ここに有るのは他でもない、只の力。

 「そんな物が……ッ!」

 ――そんな物が私達の誇りで有ってたまるか!

 焼け付くように熱せられた喉は、カラカラと乾いていて。
ヤマメはたった一言も叫ぶ事が出来ず、唇を噛んで俯いた。

 「ヤマメちゃん」

 喧騒の中、バンドメンバー達の心配そうな声が、耳に響く。
乱闘は既に霊夢に対してだけではなく妖怪達の間でも起こり始め、際限なく広がりを見せていた。

 「……行こう。此処にいちゃ危ないよ」
 「でも……」
 「此処に居たってどうしようも無い。せめて、星熊様を呼んでこなきゃ」

 ゆっくりと首を振り、周りの目につかないようメンバー達は静かにステージを降りる。
……その日以降。保安上の理由から、ヤマメ達のライブコンサートが開催される予定は、全て取り消された。


 ◆


 ……数日後。

 遥か遥か上の空、裂けた岩の隙間から帳のように光が刺す。
ほんの僅かに開けた空間の中心に、無造作に置かれた平たい岩。暖かな陽光に加護を受け、小さいが強かな生命が土の上を緑で彩っている。

 その光景は、見る人間――現代っ子の方の巫女であるとか――が見れば「封じられた剣の台座ですね!」とはしゃぎたく成る程に、厳かな空気を感じ取れるだろう。
生憎、この場を隠れ家として使っているヤマメにそのような感性は無い。精々が、一人になりたい時に何となく寛げる場所と言う程度の認識である。
そもそもが妖怪であるので、日差しを益として扱う地底の住人自体があまり居ない。他ならぬヤマメもその一人で有る。
とは言え、それは好みの話。この空を見上げる事が出来る貴重な場所は、比喩で無くかつてヤマメを救った場所なのだ。

 ――昔はホント、雨の日にこっから滴り落ちる水や生えてる草で飢えを凌いでたりしたんだよねぇ。

 それは、妖怪達が地底に封印されて直ぐの話。法も何も無く、ただ奪い、壊し、生きる事だけが文化だった時代の話である。
黒谷ヤマメの生い立ちは、只の少女で有った。何の変哲も無い里で生まれ、ほんの少し歌が好きで、そして、戦と伝染病で里ごと焼き払われた。当時腐る程に居た、それだけの少女だ。
殊更不幸ぶるつもりも、霊的な云われも無い。そんな生まれで有るから、土蜘蛛と言っても女の身。さほど力も強いわけでは無い。
病毒の為すぐには犯される事も喰われる事も無かったが、偶然この場所を見つける事が出来なかったら、間違いなく飢え死にしていたか誰かの情婦となって居ただろう。

 その事について、ヤマメは地上に恨もうとは思わない。
そもそもが支配を嫌って逃れた者達で有る。そのような選択をしたのは、他ならぬ地底の妖怪達自身であった。
だからその後、是非曲直庁と手を組んで地底に秩序をもたらした覚り妖怪を、ましてや地上を恨むなぞお門違いも甚だしい。
「救ってくれ」とせがむ資格なぞ、とうに地底の妖怪達には無かった筈なのだから。

 「地上も、楽しかったよなぁ……」

 久しぶりに出た地上は、ヤマメの知る頃よりかなり様変わりをしていた。
地底に乗り込んできた巫女や魔女と出会い、色々な異変の話を聞いた。
紅い館を見学に行き、珍しい茶をご馳走になった。
幽冥の結界付近に幽霊を捕まえに行き、騒霊楽団とやらのコンサートを見た。
竹林の医師があらゆる伝染病を駆逐すると言うので、抗議したら弾幕で追い散らされた。
麓に降りてきた山の巫女に目を付けられ、しばかれた後に二重の意味で布教を受けた。
流石に守護者にはいい顔をされなかったが、人里に入っても問答無用で叩き出される事は無くなった。

 そして、話の種に入信した妖怪寺で、ついにヤマメはロックンロールと出会ったのだ。


 『大袈裟だと思うかもしれないが、あの日ラジオから流れてきたロックンロールに私は救われたんだ』

 灰色の耳をピコピコと揺らす"伝道者"は、地底へ戻る直前のヤマメにロックンロールを聴かせると、寂しそうに呟いた。

 『当時の私は随分と悩んでいてね。少し前に大きな……本当に大きな戦争が有ったのさ。
  やっとその傷跡が埋まり始め、人々にとっては経済的な飛躍が始まる時期だった』

 その戦争の事を彼女は朧気にしか語らない。ただただ、多くの物が焼け、多くの人が死に。
そして「神が只の人に戻った」事を、淡々と伝えるのみ。

 『だけど……それは同時に、多くの幻想が死ぬ事を意味していた。
  最大の信仰を持っていた幻想が消失し、泡のような希望溢れる現実が、見るもの全ての目を魅了していたんだ。
  ご主人様はボロボロの寺で来もしない信徒を待ち、私は日銭の為に身元を隠して働きながら、明日は我が身かと怯えていた』

 幸い、泡のように浮かぶ景気のお陰でそんな怪しい"人間"でも働き口には困らなかったがね、と声を噛み殺し自嘲気味に笑う。

 『私がロックンロールを初めて聞いた時は、そんな時さ。
  最初は、何が歌われているのかすら理解出来なかったが……。次第に意味を理解するに連れて、私は泣いたよ』

 泣いた? とヤマメが聞き返す。耳から聞こえてくる曲は、異国の言葉で有ったが底抜けの明るさが有った。
踊り出すならばともかく、とてもじゃないが泣くような要素が有るとは思えない。

 『私にとって……いや、古い時代の者にとって、音楽は神仏と密接な関係を持つ物だ。
  歌詞とは祝詞で有り、旋律とは奇跡。音を奏でる理論は、大いなるものと自己を同調させるための重要な手段だった』

 それが薄れていったのは、何時からだろう。いつしか、人は歌から神性を剥奪していった。
奇跡の理論は数字に形を変え、祝詞は恋文に置き換えられ。

 『そして最後に、人は祈りを口ずさまなくなった。口ずさむ必要が、無くなった。
  音楽は本当の意味で"音を楽しむ"だけの物になり、歌は自由になった』

 君にこの感動が分かるかな、と彼女は言う。

 『ラジオから聞こえてきた歌には、祈りの代わりに狂おしいまでの肯定が込められていた。
  世の中は空虚で、なんにも無くて、よく分からない事だらけだけれど、俺達は俺達なりに楽しんでやろうぜ、と。
  それでいいんだ、大丈夫だから楽しもう、と。ただそれだけが歌われていたんだよ』

 『それが分かった時、私は喉を掻き毟って叫びだしそうになった。
  今までの全てを否定されたような気がして悲しくなった。だってそんな音楽を奏でる彼らを、救える方法がもう無いのだから。
  彼らはもう救われているんだ。神も仏も関係無く、自分達だけの力でね』

 『だけど私は最終的に、手に掴んだラジオを叩きつける事は出来なかったさ。
  ああ、苦しくて憎たらしかったが、同時にどうしようも無く愛おしかったんだ。肯定だけのその音楽が。
  頭で分かっていても見たく無かった現実を、初めてしっかりと受け止める事が出来た。
  人間達にもう幻想は必要無い。例えどんな災害が起きようと、最早神仏に頼らずにやっていく事が出来る。

  人間は、永い永い旅路を終えて、新しい地へ向かおうとしているんだ。

  私にとって、ロックンロールとはその証なんだよ。……例え、他の誰にも理解されないとしてもね』

 まぁ、そうして吹っ切れたお陰でご主人様を連れて幻想郷に来る決心が付いたんだ、と照れくさそうに耳裏を掻く。
外の世界での信仰と、それにまつわる彼是について、ヤマメは語る口を持たない。
だけど、蕩々と語る彼女の熱だけは。何者にも代えがたい「本物」だと感じる事が出来た。

 ――……なんで今さらこんな事思い出したんだろ。

 彼女の在り方に、特別の興味を抱いていた訳ではない。外の世界の話だって、何だか遠い所の話のようで。
それよりもヤマメは、新しい音に……聞いたことの無い楽器で奏でられる曲に、夢中になっていた筈だ。
賑やかで伸びやかに踊る弦楽器。力強く地を叩くドラムの音。特別上手い訳でも無いが、何故か心を揺さぶるボーカル。

 伊吹の鬼の演説の後、殺掠以外の文化が欲しくてヤマメは歌を歌い出した。
地上を恨むのでは無く、自分達を誇れるようになりたいと。そう思い立ったが故に行動をして、万事が上手く行った訳ではない。
ヤマメの歌は数少ない娯楽として重宝されたが、一つの文化として定着する程の力では無かったのだ。

 即ち、何かの拍子でヤマメが死んだとしたら、地底から歌は失われるだろうと言う事。
勿論とっくに妖怪の身で有るからして、早々簡単にこの身が朽ちる訳ではない。
だが、だからこそ、己の身の器が悔しかった。一時の流行にはなれても、このままでは根付くには至らない。
別の風が吹けば飛んで行ってしまう。蒲公英の綿毛のように。

 彼女が語る仏門の悲哀や感嘆に興味は無くとも、「共感者が欲しい」と言う気持ちは理解が出来る。
妖怪も救いの対象で有ると唱え、何よりも自身が救われたいと願い、そして他者を救いたいと唱える「救世主」とその一行に、こんな歌は聞かせられない筈だ。
「もう救いは要らないよ、自分達の事は自分達で何とか出来るから」と唱える声を、他者を救う事が救いとなる者にどうして聞かせられると言うのか。

 『だが私は、妖怪達の手でこれを広めてみたいんだ』

 彼女は最後に、そう締めくくった。その為に、寺の中でも年若い山彦にこっそりと聞かせてみたりしたらしい。
山の神が、神の為の技術革新を進めるように、妖怪の手で文化を広めれば、また違う結果と成るかも知れないから。
その時聞いた「ロックンロール」には、ヤマメが求めて止まない力が宿っていたように思う。
だから、誘いに乗った。反発が有るかも知れないが、ロックの担い手として活動する道を選んだ。

 仰向けに寝転んで、上を見上げる。日差しが空気中の塵に反射して、カーテンのように輝いた。
天子が言うには、彼女の気象で有る極光とはこのような形に近いらしいが。

 「……地上だって、悪く無いのになぁ。地底だって、悪く無い」

 大きく呼吸をして、胸の中のもやもやした物を吐き出していく。

 「なのになーんでこうなっちゃうのかね……やっぱり私ゃ、哲学家にはなれないなー。
  難しく考えるから行けないんだよ、ゼッタイ」

 どんな結論が出るのであれ、やりたい事もやる事も変わらんのだ。
そうであれば、落ち込むなんて馬鹿馬鹿しい。黒谷ヤマメは基本的に楽天家で有り、人情家である。
ぽかぽかとした陽気に包まれながら、意識が下降して行く感覚に、ヤマメはゆったりと身を任せた。



 「……ん」

 目が覚めた時、既に染める光は朱く変わっており、空きっ腹が夕の時間である事を訴える。
固まった背筋をコキコキと捻りながら、ぼんやりと上を見上げた。昏くなっていく空に、朧気に欠けた月が浮かぶ。

 「起きた?」
 「うぇっ!?」

 予期せず近くから声を掛けられ、ヤマメの肺から引き攣った唸り声が出た。
提灯の頼りない灯に照らされて、馬の尻尾のように纏められた黒髪が左右に揺れる。

 「天子かい? どうしてここに」
 「あー、うん。まぁ、殆ど偶然」

 天子はどうやら、熱心に裂けた壁を調べているようであった。
行動の意味は理解しかねるが、あまりに真剣な表情の為声も掛ける事も戸惑わせる。

 「何だか呼ばれた気がしたから来てみたんだけど。こんな所が有ったなんて」

 その声色は、どこか感服したような物だった。
五衰したとは言え、天人譲りの気位の高さを欠片も緩める様子の無い天子にとって、かなり珍しい事態である。

 「私ゃ呼んでないよ?」
 「分かってるわよ、そんな事。……あれは、もっとこう、違う声。距離とか関係無くて、相手の心に直接呼びかける系の」
 「……疲れてるんだね、天子。ゆっくり休もう」
 「妖怪にんな事心配される筋合い無いわよ! アンタ達だって種族によっちゃあ常套手段でしょうが!」

 キイ、と歯を剥いて一瞬起こる姿勢を見せた天子だったが、すぐにまた岩壁に向き直る。

 「んで、何がそんなに面白いのさ。おじさんにも教えてちょーだいよ」
 「……要石なのよ、これ。ずっと、ずーっと昔の……こんなの有ったんだ、幻想郷に……」
 「要石ぃ? え、ひょっとして今私が尻に敷いているこの石が、とか?」

 流石のヤマメも、要石とその役割について位は聞き及んでいる。
神をも恐れぬ妖怪と言えど、それは流石に罰当たりが過ぎただろうか。天子なぞ、全盛期の頃はしょっちゅう尻に敷いて移動していたので怖がる事は無いとも思うが。
それでも、人一人が寝転がれる程の岩だ。
古くからこの場に有って尚ヒビの一つも見られないとは、余程頑丈に作られているのだろう。

 「馬鹿ね、んなわけ無いでしょ」

 ヤマメの感心に対し、天子が返す返答はまるで冷淡な物で有った。

 「要石なのは、こっから地上まで繋がってる岩盤の事よ。もっと言えば、私達はヒビ割れた要石の隙間の中に居るわけ」
 「……ハァ!?」

 ヤマメは慌てて上を見上げる。地上からここ迄、五十間はゆうに有るだろう。
縦の長さでそうなのだから、全部の質量となるとどれ程の物に成るのか。それが全て、一つの巨大な岩だと言うのだ。
その尺度は、既にヤマメの想像の範囲を超えている。

 「……いや、有り得ないでしょ……」
 「そーね、少なくとも今の比那名居にこんなものブッさせる奴は居ないわ。
  私達が生まれるよりもっともっと昔……神代の代物でしょう。それこそケロ神が全盛期だった頃か、あるいはもっと……
  『幻想郷に有る』とは聞いてたけど、真逆こんな所に、ねぇ」
 「って、そうだ! ちょっと待ってよ、要石って割れたらヤバイんじゃなかったっけ?
  こんなデカいのがひび割れてるって、それ大丈夫なの? 本当に、地底滅亡しちゃうんじゃ……」
 「うん、私もそれが気になって調べてたんだけど。まぁ、結論から言えば心配無いわ。
  どーもとっくの昔に役目を終えているっぽいしね。だからこんな場所で人目にも触れずに朽ちてるのよ。
  今、幻想郷に刺さってるのは、多分別物の筈よ」
 「そ、そうなのか……良かったぁ……」

 いや、それはつまり天地開闢級の地震が既に一回有った、と言う事だから、良い事かどうかは分からないが。
どうやら規格外の大地震に怯える必要は無い様だ、とヤマメはほっと胸を撫で下ろす。

 「まぁでも、何となく天子に感じてた親近感って、そのせいかなぁ。
  この場所には、昔からお世話に成ってたからね」
 「そっか……じゃあこの要石も、誰も見ていない訳じゃ無かったのね」

 天子はと言えば、黙って目を閉じて遥か遠い先祖の偉業に黙祷を捧げていた。
どうも家柄に良い印象を持っていないらしい天子でもそう言う事をするのかと、ヤマメはどこか意外に思う。

 「流石の私も、天人にすらなっていない頃のご先祖様に牙を向いたりなんかしないわよ。
  大村守様とか、きちんと敬意を持ってる相手だって居るし。それ以外の有象無象が多すぎるだけよ」

 その旨を告げると、天子が不服そうな顔を向け、仏頂面で指摘し返して来た。
そしてまた岩盤の方へ向き直り、ぶつぶつと何やらつぶやき始める。

 「何だい、まだ呼び声ってのは止まらないのかい?」
 「そうじゃない、そうじゃないんだけど、何か引っかかってるのよね……
  神代の時……龍を制してた……つまり、土の? ……うーん、ここ迄出て来てるんだけど」

 にわかに耳をそばだてるが、内容は分かりそうにも無い。
仕方が無いので、ヤマメは肩をすくめ再びごろんと横になる。

 「そう言えば、聞いたわよ。活動休止なんだって?」
 「仕方ないよ、時の流れと言うか、時代が悪いのさ」

 天子の言葉に、顔を背けたままひらひらと手を振って返す。

 「アンタ、それで良い訳?」

 何処かムッとした口調で、天子は言い返してきた。つかつかと歩み寄る足音が聞こえる。

 「良くは無いよ、だからこうして落ち込んでるんだ」
 「だったら」
 「私ゃ、所詮貧弱一般妖怪だからね」

 自嘲気味に、ヤマメは笑う。

 「夢は醒めないが、そんなに大層な事も出来ないのさ。
  落ち込んだ時は、酒飲んで寝て、美味しい飯食べて。そしたら嫌な事も大体忘れて、懲りずにまた歩き出せるのよ」
 「……それなら、良いけど」
 「なぁに、雑草根性だけが取り柄だからね。踏まれても踏まれても、また花咲かせるのが蒲公英の強みよ。
  だけど、私に『大きな物』に逆らうだけの力は無い。風が過ぎたら、また活動するとするよ」
 「そう……」

 勿論それは、強がりではあるが。
一応、納得はしたのだろうか。不満そうな表情では有るが、天子は反対方向へ向き直り――


 ――……D……A……M……N……――


 「う、え……」
 「天子? どうしたの」
 「気持ち悪……地震、来るわ……」

 急に顔を青白く染め、地面に手をついた天子の背をヤマメは擦る。
耳を澄まして見ると、確かに震える前兆を感じられる。そして、ミシミシと何かが軋む音が。

 「うぇぇ!? ちょっと、やばくない!?」
 「分か、んない……何なの、これ……私に、触れないでよ……!」

 逃げようとするヤマメの前で、天子は自らの肩を掴みうずくまり脂汗を流してガタガタと震え始めた。
その間にも地震はどんどん勢いを増し、グラグラ、ミシミシとそれに比例して軋む音も大きくなる。

 「巫女さんに連絡……いや、これは、ええと、どうすれば……」

 バキン!

 「ふへっ?」

 ヤマメがまごまごとする足元。破砕音が鳴り響き、床が崩れ落ち、昏い裂け目の中へと飲み込まれていく。
一瞬、上空から入ってくる日差しが酷く強くなり、ヤマメは目を焼かれた。

 ――つまり、私達が中に居たでっかい要石のヒビ割れが進行したから、その分の床が抜けた?

 途端、閃いた一つの結論に、ポンと手を叩く。

 「って、そんな事してる場合か! 落ちるーッ!」

 ヤマメ一人なら飛べば良いだけの話だが、今ここには天子が居る。
天人で無くなった彼女は、最早飛ぶ事も叶わないのだろう。不意に足場を失って、呆然とした瞳で手を伸ばす。
ヤマメは慌てて駆け寄りその手を掴むと、近場の壁に糸を射出、引っ掛けて振り子のようにぶらぶらと揺れた。

 「ひー、まさにアメージングだよ」
 「う、っく……痛……」
 「肩が外れてないだけ良しとしとくれ! うおお、私の秘密空間が」

 ぽっかりと口を空ける眼下の漆黒にトホホと溜息を漏らす。
未だにギシギシと大地が歪み悲鳴を上げているのは、一体どれ程の規模ならばそう成るのか。とにかく、一刻も早く地底の街に戻って安否を確認しなければ。
ヤマメがそんな事を考えていると、見上げ続けている天子が悲鳴のような警告を叫んだ。

 「ヤマメ、上ッ!」

 上空に見上げられる空は、朱さを通り越して紫がかり、黄昏時を知らせている。
しかしそれ以上に、落ちてくる岩盤の陰が空を塗り潰し、ヤマメの口元を引き攣らせた。

 「やばばっ……」

 両手が開いてるならばともかく、片手に天子を抱えた状態ではロクに動く事も出来ない。
それどころか、ヤマメ達が糸をくっつけている部分すらピシリと音を立て、剥がれ始めた。

 「嘘だろッ!?」

 ふわり、身体が落下する直前独自の浮遊感。
まるで、黒い腕に掴まれたかのように、身体が下へ下へと引きずり込まれて行くような錯覚。

 「ぜっ……」
 「ぜ?」
 「絶ッ……対、帰ったら厄祓いしてもらうんだかんなーッ!?」

 何に対しての負け惜しみなのかもよく分からないまま、ヤマメと天子は漆黒の歪みの中へと落ちて行った。


○◆◯-◯◯◯◯--◯◯-◯-◯◯◯--◯◯-◯-◯-

--◯-◯--◯-◯---◯-

◯---◯--


 どぼん、と、水の中へ落ちる音。

 「足滑らせてやんの、鈍臭ぇ」

 小生意気な少年の声に答えるように、水田の中でバシャバシャと藻掻く少女の姿が有った。
少女は泥塗れの顔を上げ、今にも泣きそうといった表情で畦の上に群がる少年達を見上げる。

 「やーい、泣くぞ。泣き虫地子がまた泣くぞ」
 「気が強いのに泣き虫で~、鈍臭い癖に走り回る」
 「泥まみれの泥子だ、ははは」
 「な゙がないわ゙よっ!!」

 涙混じりの声に、ゲラゲラと笑いながら少年達は走り出す。
歳の頃は皆、十は行かないであろう子供達。そんな彼らにも、明確な序列と言うものは存在しているのである。

 「がえじなさいよっ……んぐっ、ぶぇぇっ……」
 「返して欲しかったら追っかけてこいよー」
 「追いついて来なかったら、この帽子お前んトコのでっかい木に引っ掛けといてやるからな!」
 「ま、鈍臭泥子じゃ追いつけないだろーけどー」
 「んぐぅぅ~……」

 口に入った泥を吐き出して。大粒の涙を泥と一緒に流しながら、地子と呼ばれた少女は立ち上がった。
烈火のごとく大地を照らしていた太陽も近頃はやや鳴りを潜め、秋めいた風が濡れた服を冷たく乾かしていく。
時は明応七年。細川政元の政変により、下克上の時代の幕開けが告げられてから僅か五年の歳月である。



 雨上がりのからりと晴れた晴天。髪に付いた乾いた泥が、パリパリと音を立て剥がれた。
服をこんなに汚してしまって、またお父様に叱られてしまうだろうか。地子はすんすんと鼻を鳴らしながら、トボトボと少年たちの後を追う。
あれはこの間の新年にお母様がくれた、大切な帽子。少年達も、見るからに高価なあの帽子をわざと失くしたりはしないだろう。
子供とて、いや子供だからこそ「大人の話になるギリギリの線」には敏感なのだ。
坂道を上り、家路を急ぐ。色の禿げた鳥居にそこそこ立派な社。地子の両親は神職であり、地を治める為神を祀る一族の末席だ。
近隣を守護する要石を祀る神社として、山と海に面した里の丁度中間あたりに位置している。

 「ぶぃっく……ぐじゅっ……」

 大好きな二人の姿は、今は無い。何か大切な用が有るとかで、両親共に本家に呼び出されて地子と多少のお手伝いさんを残し出掛けている。
このたった五年の間に大きな地震が何度も起きた事で、名居家の信用が揺らいでいる、とも言う。
大人の事情は年若い地子には分からなかったが、地子の見ていない所で、二人が何処か深刻そうな表情をしている事位は何となく分かるのだ。

 ――だからこそ、帰ってくる両親を、地子は最高のおめかしで迎えるはずだったのに。

 泥だらけの顔で惨めな気持ちになりながら、神社へと帰り着く。
予告通り、帽子は御神木の高い枝へと引っ掛けられていた。地子が精一杯背伸びをしたとして、尚その五倍ほどの距離がある枝へ。
地子は逡巡した。男子達は猿のようにこの木を登っていったのだろうか。抱きついたとしても半分程しか手が回らない大きな木だと言うのに?

 「かみさま、お願いします。どうか地子の帽子を返して下さい」

 二拍一礼し、木に宿っているであろう神様に深くお願いしてみる。
しかし、残念な事に空はカラカラに晴れた晴天で、神風一つ吹きそうに無かった。
駄目元では有ったが、やはり自分には神通力が無いのだろうか、と地子は嘆息する。尊敬する母は、あんなに見事に要石を守護する任をこなして居るのに……

 「ごめんなさい、少しの間、しつれいします」

 草履を脱ぎ、神木の幹に指をかけ、登ろうと試みる。しかし、いややはりと言うべきか、枝に手を届かせるどころか自分の体の分すら持ち上げる事が出来ずに、地子はズリズリと滑り落ちた。

 「ぐすっ……」

 指先が赤く擦れて痛い。再び溢れ出しそうに成る涙を、鼻を啜り堪える。鼻の奥がツンと痛むが、なんとか涙は堪えることが出来た。
黒くて丸い形をした、変わった帽子。それでも地子には母様からもらった宝物で有り、唯一無二の物だ。
幹には僅かな瘤が有るだけで、とてもじゃないが登れるようには見えない。ひょっとしたら、縄か何かをかけて登ったのだろうか。
それとも単純に、裏手にある崖から帽子を投げて引っ掛けたのだろうか?
もしそうで有ったなら、果たしてこの哀れな地子はどうやって登ったらいい?

 「な゙がな゙い、もんっ……」

 何時しか地子も、巫女として母と同じように大地を鎮める仕事をするように成るのだ。
このような情けない有ようでは、神も呆れ果ててしまうだろう。このような。こんな有様だから、地子は。
ぷるぷると頭を振って、気合を入れ直す。村の男子に出来た事が、この地子に出来ないはずが無いのだ。

 「かみ、さまっ」

 瘤に足を引っ掛けて、ぐっ、と力を入れる。手で体を持ち上げるのではなく、あくまで足で。
祈りが通じたのだろうか。不思議と、体が軽かった。荒い息を吐きながら、なんとか一本目の太い枝まで登り切る。

 「出来た……」

 其処までたどり着ければ、後はするするとした物であった。
間に挟んだ太い枝で休憩を入れながら、不思議な程にぐいぐいと登り上がる。
コツを掴んだのか、それとも丁寧にお願いしたかいが有ったのか。地子は慎重に手を伸ばし、ついにその手に帽子を掴み取る。

 「えへへ、やったぁ」

 当然、感謝する事も忘れてはならない。枝に跨ったまま、もう一度二拍一礼を行う。
そして、心の中で深く礼を告げた後、顔を上げた。

 「わぁ……」

 海が見える。普段見える所よりも数段高い場所から覗く視点。
大海原は日光を浴びてキラキラと煌めいて、何時だって同じ瞬間が無い。
それは、地子が今まで見た中で最高の景色であった。見れば、まだ太陽が登り切るにはもう二、三刻の時間が掛かりそうだ。
使用人の話では、二人が帰ってくるのは今日の正午で有った筈。地子はその前に泥塗れの体を何とかしようと、ゆっくりと枝の先から幹の方へとにじり寄っていく。

 その、時であった。


 ――GOGAAAAAAAA!!


 大地が揺れる。
突如連続的、そして壊滅的な地鳴りがし、甲高く騒ぐ小鳥たちが一斉に空へと飛び立つ。

 「きゃああ!」

唸る大地は、すがりつく地子を振り落とそうと大きく幹を振り回させた。
木々の枝葉がこすれる音、何かが地面に叩き付けられ割れる音。そして悲鳴を上げる家屋の音が、紙やすりのように地子の平常心をそぎ落としていく。

 ミシ、ミシギギゴゴゴゴゴゴッ!

 何かが軋み、折れる気配。裏に有った崖から、岩を含んだ泥が流れ転がり落ちて来る。

 「ひっ……」

 土砂流はその勢いのまま納屋を飲み込み、押しつぶして瓦解させた。
地子とて、御神木の枝によじ登っていなかったら土と岩の合間に飲み込まれ、決して助かりはしなかっただろう。
それだけではない。高所に慣れない地子にとっては、ここは枝から振り落とされて頭から大地に落下するだけで、十分に死に至る高さに見える。

 「そんなの……やだよう……」

 尚大きく揺れ続け……そして軋みを上げる枝の上で、小さな地子は必死に幹へしがみつく。
その瞳には大粒の涙が滲み、鼻からも汁が垂れて顔を汚していた。

 「はぁー……はぁー……」

 次第に揺れが収まっていくのを確認すると、地子の体からぐったりと力が抜けた。
同時に、暖かな染みが股間からじわじわ広がって、音を立てて垂れてゆく。それは地子を一層惨めな気持ちにさせる物である。
体を動かそうにも、腰が抜けて下半身の力が全く入らない。だらしなく広がる不浄の染みを力無く受け入れて、地子はぷるぷると身を震わせた。

 「……うぅ、ず、うぇぇ」

 そうこうしている内に、本殿の中から大慌てで使用人達が飛び出てくるのが見えた。
無事だ、と言う事に再び視界が滲むが、同時に言い合う内容から彼らが探している物が自分だと分かる。

 「あ……」

 助けて、と叫ぼうとして、声が出ない。今の自らの状況に対する羞恥と自尊心が、幼い地子を躊躇わせた。
それはある意味、逼迫した状況から一拍置いてしまったが故の甘え。まごまごとしている間に、大人達は四散して駆けて行く。

 ――いよいよ、自力で降りるしか無くなってしまった。

 ゆっくり視線を下に傾けて、つばを飲み込む。
先ほどの土砂崩れで辺りにはゴツゴツとした石や折れてむき出しに成った木屑等が散乱しており、仮に落下したとすれば只では済まないであろう事が容易に想像出来る。

 「すぅー……すっ、けほっ、けほ」

 落ち着かせる為に深呼吸をしようとして、それすらも上手くいかずに地子は咳き込んだ。
焦った所で、下半身の感覚は未だ無い。踏ん張りの効かない状態で降りるなんて事は、自殺行為に他ならないだろう。
心臓の音がけたたましく鳴り響く。頭がぐわんぐわんと呻いて、眩暈が酷い――


 ……地子は、その後暫くの間を木の上で震えて過ごした。
秋の風は濡れた服から暖かみを容易く奪い、むしろ冷え冷えとした温度になって地子の体温を奪う。
泥に汚れた髪も、まだ洗っては居ないのだ。天子はカチカチと歯を鳴らして、凍える身を抱きしめた。
恐怖と寒さで満足に血が回っているかすら分からない。足に力は入るように成ったが、数度に渡る余震は地子から木を降りる気概を奪い取っていた。

 進む事も、引く事も出来ず、幼い地子は一人ぼっちで涙を流す。

 「おとうさま」

 厳しく不器用だが、それでも威厳のある父だった。
鼻を垂らして泣く地子を叱りつけ、立ち向かう勇気をくれたのも、また父だ。

 「おかあさま」

 巫女としても、母としても優秀で、優しく、包容力のある人だ。
間違い無く地子に無償の愛を注ぎ、包み、時には支えて前を歩かせてくれる母。

 ……その二人は今、地子の隣には居ない。
場合によっては、土砂や倒木で道を塞がれて立ち往生している可能性も有る。
声が聞きたい。二人の、地子、地子と呼びかける声が聞きたい。それは今この状況の中、最も贅沢な願いかも知れない。
地震による被害は、近隣の里でも少なくない筈だ。一体どれだけの人間が、家屋や土砂の下敷きとなって呻いているのか。地子には想像もつかなかった。

 「助けて」

 それは、誰かに向けたもの。人ならざる、救いの手を差し伸べる事が出来る者達への懇願。

 「みんなを、助けてください」

 手の平をあわせ、ぎゅうと握りしめて祈る。こんな枝一つから満足に降りられない程に、地子は無力だ。
本当なら比那名居の巫女として、直ぐにでも大地を鎮める為に走り回るべきだと言うのに!

 「どうか、お願いします」

 果たして、祈りは届いたのだろうか。神社の境内から、慌ただしく誰かが掛けて来るのが見えた。


 「地子ッ!」


 この場に居ない筈の声が聞こえた気がして、地子はゆっくりと目を開く。
老いを感じさせないしとやかな顔を、母の愛で歪ませて。清潔感の有る黒髪もまた、汗でじっとりと湿っていた。
地子の母親が、普段の楚々とした仕草も何処へやら、動きにくい祭祀服を捲り上げ懸命に地子へと呼びかける。

 「お母様!」

 地子は知る由もない事で有るが、彼女は地子が居ない事を使用人から聞き、そして探している内に少年達から帽子を木に掛けた事を聞き出したのだ。
確かに聞こえた娘の声に、彼女は張り詰めた糸を何処か弛緩させながら、地子の母親は木の枝に跨る地子へと声を掛けた。

 「地子ちゃん! ……あぁ、無事だった……!」

 顔を綻ばせ手を広げる。そして、未だ枝上で震える地子に対して早急の避難を促す。

 「もう、お父様は山の集会場に居るわ。地子ちゃんも早く……」

 降りて来なさい、と言おうとしたのだろうか。力無く首を振る地子を見て、母は言葉を詰まらせた。
唯でさえ緊張を強いる枝の上に長時間。体は既に冷えきっており、指はカタカタと震え、握力などもう殆ど残っていない。
降りるどころか、幹にしがみつく力すら覚束無くなってきているのだ。

 「大丈夫よ」

 額に汗を滲ませながら、母親はそれでも子を安心させる為の笑みを浮かべた。
動きにくい布地を全て脱ぎ、即席の綱として結ぶと、一番低く丈夫そうな枝に何とか引っ掛け、よじ登る。

 「今、お母さんが行ってあげるからね」

 歯を食いしばり、優しい顔を鬼のように歪ませて母が登り来るのを、地子はハラハラと見守っていた。
ふと、その視線を海に移す。……何かがおかしい。あの海は、あの浜は、あんなに広かっただろうか?
じりじりと視線が焼き付いたように離れない。潮は引いているにも関わらず、水平線が、段々と、近づいてきている、ような。

 何かが、ぞうっと地子の背筋を撫でた。冷たく昏い、何かの予感が。

 「お母様!」

 震える体に、カッと火が入る。幼い地子に"それ"についての知識は無かったが、神の天啓か、或いは彼女の体に流れる比那名居の血の記憶か。

 「早く! 早く上に!」

 そう急かす間にも、迫って来るのを感じる。頭の奥が焼け付くように痛み、地子は涙を流した。
違和感。ふと、今ここに有る現在が、遠い遠い過去で有るかの如きずれを感じる。
頭が痛い。じくじく、じくじくと、「この先に進むな」と言う警告を出していた。

 母の投げた綱を受け取り、悴む指でもどかしく結びつける。昇って来る母が、顔面を蒼白にして後ろをふり向いた。
轟音が響く。白い波飛沫を上げて、何もかもをを飲み込み、押し殺す化け物が近づいて来る。
地子が、顔面をぐじゅぐじゅに歪ませ痛ましく叫ぶ。

 「早くッ!!」

 身を乗り出して、地子は己の母の手を……掴む!


 DDDDDDAAAAAAAAAMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMNNNNNNNNNNNN――!!


 唸り声を上げ、その怪物は里を蹂躙した。
衝撃から立ち直れず、崩れた家や荒れた畑を見て呆けていた人間を。
柵に入れられたまま、家人に置いていかれてしまった家畜達を。
畑や林に生えていた作物、木、或いは崩れてしまった家屋、奇跡的に残った蔵――。

 そして、大地を守護する筈だった社を。虚しく其処に奉じられた神木を。
その社の側で、何とか再会を果たした母娘を、瞬く間に飲み込んで流し去って行く

 「お母様ァァァッ!!」

 地子は――烈火の如き力を込めて、ともすれば波に攫われそうに成る母を繋ぎ止めていた。
身体のあちこちで、ぷちぷちと何かが千切れる音がする。
それはもしかしたら、幼い地子の肉体が衝撃に耐え切れずに要るのかも知れない。
しかし、極限状態に有る地子は、痛みを一時的に麻痺させて母へとすがりつく。
大量の泥を含んで濁った波が泡立ち、合間合間に時折苦しげに息継ぎをする母親の顔を覗かせる。
圧倒的な水流に押し流された倒木や館の破片が、地子が腰掛けている幹に当たりバキバキと音を慣らした。

 「うっ、く……!」

 痛みは無くとも、所詮は幼い女児の身体である。細腕一つにかかる水の圧力は半端な物では無く、地子のもう片方の手の平は木の皮との摩擦で紅く擦り切れ血を滲ませる。

 ――神様! 仏様! もう盗み食いはやめます、いっぱいお祈りを捧げます、何も悪いことしません。
 ――だからお願いします、お母様を助けて下さい! お願いします……ッ!

 その時、ふ、と地子の腕にかかっていた圧力が軽くなった。身体は太陽のように熱を放ち、御神木の天辺が風に揺れ、ざあざあと音を鳴らす。それは、何処か啓示的な瞬間でもあった。

 ――嗚呼、神様!

 地子は胸を弾ませて神に感謝を捧げ、奥歯を食いしばり一気に母を引き上げる。
そう、この少しあかぎれた、されど女性らしいたおやかさを失っていない指!
泣きじゃくる地子を時に優しく撫で、慰めてくれた手の平!
雷や嵐の日は、怖がる地子を抱き寄せ、枕となってくれた二の腕!
そして、そして……!





 "そして、肩から先は何処へ行ってしまったのか?"





 「――いやぁぁぁぁぁッ!!」

 母親の……今、さっきまで母親で有った筈の右腕を投げ捨てて、"天子"は酷く慟哭した。
長く伸ばした髪が散らばり、乱れ、美しい少女と成った肉体を赤子のように暴れさせる。
開かれた箱の底の底。黒い波と粘着質の泡が一糸纏わぬ体の至る所に絡み付いて、ざぶりざぶりと音を立てた。

 「いやっ、いやっ、嫌あ!」

 必死に頭を抑えても。指の隙間からすり抜けて、墨汁の如く黒々とした水が天子の耳奥を弄り、犯す。

 「やだっ! やだっ! 助けて、助けてよっ!」

 錯乱した意識の中で、酸素を望んで藻掻くように、天子はばたばたとあたりの泡を掻き分けて暴れた。
暗く、静かな場所である。まるで海の底みたく、光入らぬ重苦しい水の檻の中であった。


 「誰かッ! 私のお母様を助けてよぉぉッ!!」


 何故、母は死ななければ成らなかったのか。美しく、優しい人間で有った。公明正大で、里の者の相談にも良く乗っていた。

 ――天に命を裁かれるべき人間では、金輪際無かったはずだ。

……それこそが、比那名居天子の最初の絶望。慈悲と都合で埋め隠された、神に、仏に、天に向けて初めて吐いた天道是非。

 「あぁぁぁ」

 栓が抜けたように、封じられていた地上の記憶が吹き出していく。
封じたのは、天の民。仏に疑念を抱かぬよう、そして少しでも心の傷に耐えられるように。比那名居の父に懇願されて、彼らは地子に記憶の封印を施し、天子の名を与えた。

 「あ……ぁ……」

 藻掻く天子の動きが、段々と緩やかになっていく。
あれから結局、流れ去った母親の死体は見つからず。地子が拾い、投げ捨てた右腕も、波の合間へと消えていった。
そして、相次ぐ余震の中で……里の人々はそれが「比那名居の巫女の祟り」だと、説明付けたのである。

 ――「娘を探して哭いているなら、その娘を人柱として捧げれば全てが収まる」と言う、"安心"を得る為に。

 奴らだ。奴らの願いが、安易な考え無しが、優しかった天子の母を化け物へと貶めた。

 「あ……はは……」

 それにただ一人反対し、そして娘の生命までをむざむざと地震に渡さない為に一人奮闘したのが、天子の父親。
名居家に一生分の借りを作る事に成ったとしても、彼は自分と幼い子供を当時話が着ていた天界行きの名簿の中にねじ込んだ。
……そうでなければ、じきに猛り狂った人間の手によって、娘の命は海へと流されてしまうだろう、と言う確信の下に。

 「あはは、あは……」

 涙を流し、暗い空間に飲まれながら、天子は乾いた嬌笑を上げる。

 「あははははは、あっはははははは!」

 狂ったように笑い転げ、力無く揺蕩い、横たわる。

 ――憎いか。

 不意に何処からか、深く重い声が天子の脳へと響き渡った。

 ――確かに其処に居る筈で有ったのに、神に奉じる立場で有った母の死を、微塵も救ってくれなかった天が憎いか。
 ――自らの安寧の為、母親を化け物に仕立てあげた地の人間達が憎いか。

 ずっしりと丹田に至る声に、頬を引き攣らせたまま天子はゆっくりと頷いた。

 ――だが、他の何よりも。その場に居て、母が死ぬ直接の原因を作り、何も成し遂げられなかった地子が、憎いか。

 頭の中を一つ一つ確認するかのような問い。天子はそれに、一も二も無く首を縦に振る。
結局は、全て無意識が求めた贖罪なのだ。良い子になりたかったのも、博麗霊夢のような英雄になりたかったのも。

 ただ一人、母に。この世で一人、母様だけに褒められたかった。

 比那名居天子のあらゆる物が、心の奥底でずっと封じられていた憎しみ、妬み、そして罪悪感が理由であった。
だから――閻魔では無く、この存在に裁かれるので有れば――良いのだろうと。天子は心から、そう考えた。


 ――ならば、望み通り殺してやろう。
 ――先ず、お前を殺し。次に地上を殺し尽くし、然るべくして、天を殺して見せよう……


 天子の喉に、ゆっくりと怪物の手が掛かる。
黒く、そして案外細い指が既に殆どが人間と化した天子の肺から酸素を閉め出していく。
真っ暗闇の中、身体と意識がふわりと遠のいて行く。天子は、やがて――


 「――駄目ですッ!!」


 不意に、緑の光がパチンとはじけ。聞き覚えのある声が、天子の意識の戸を叩いた。

 「約束はどうなるんですか。私はどうするんですか。まさか、忘れてしまったんでは無いでしょうね!?」
 「さとり……?」
 「えぇ、えぇ、私ですよ、本当に誰も彼も、心配ばかりかけさせてッ!」

 非常に珍しく怒り狂った様子のさとりが、いつの間にか肩を掴んで揺さぶっている。
その背後では、今しがた作られたと思しき第三の目を模したドアーがどどんと鎮座していた。

 「あれ……苦しく……ない」
 「……行きますよ。そして、お互いにいろいろと説明しましょう。
  また、語らなければ行けない事が沢山有るようです。今度は決して、間違えませんから――」

 第三の目が瞼を開くと、その先には明るい空間が広がっていた。
天子は瞼が開くのと反比例に、キュっと目を細める。どうしてか、化け物の姿は消えていた。
天子はさとりに腕を引かれ、光の中へとくぐって行く。段々と暖かくなって、目が覚める……-----◯-◯---◯-○○○○


 ◆


 「天子さんっ!」

 意識が覚醒すると同時に、がばりと何かが覆いかぶさって来た。
言われずとも正体のわかるそれを、天子は抱き返す。彼女がどれだけの事をしてくれたのかは把握出来ないが、自分がどれだけ心配を掛けたのかは、彼女の目の下に有る色濃い隈が語っていた。

 「さとり……?」

 ぼんやりとピントのずれた意識で、天子は視線を虚空に彷徨わせる。
その途中、意識を失う直前の出来事を思い出し、天子はさとりの肩を強く掴んだ。

 「地震は!? 大丈夫だった!?」
 「地震……? いえ、こちらの方では特に何も起きていませんでしたが……」
 「そう……なの……?」

 脱力して当たりを見回せば、何となく何が有ったかも飲み込める。
天子は一瞬唇を噛み、そしてさとりを抱きしめ返す。

 「ごめん、手間かけさせた」
 「……ヤマメさんに感謝して下さい。彼女が居なければ、今頃地割れの中でお燐好みの姿になって居ましたよ。
  皆さん……ヤマメさん、パルスィさん、タロちゃん、勇儀さん……みんな、見舞いに来てくれてるんですから。
  後でお礼、ちゃんと言ったほうが良いですよ」
 「そっか……なんだかんだ、アイツらには借りを作ってばかりねぇ。前の時も、拾ってもらっちゃったし……」

 旧灼熱地獄跡の再点火作業はどうやら順調らしい。近頃は随分地霊殿も元の蒸し暑さを取り戻しつつ有り、布団に包まれた身体を汗ばませて居る。
枕元に置かれた湯冷ましを、天子はゆっくりとあおった。清涼とは言い難いが、カラカラに乾いた喉を潤してくれる。

 「どの位倒れてたの? 私は?」
 「……ヤマメさんが来られてから、二晩程」
 「その間、ずっと声をかけてくれてたのね。"アイツ"に引き込まれないように」

 ガンガンに痛む目頭を揉み、天子は頬を寄せ合うさとりの背を撫でた。身体を抱き合ったまま、さとりはふるふると首を振る。

 「あれは……」

 ふわふわとした後頭部を丁寧に撫で付けながら、天子は夢の事を想う。
母の記憶。地子の記憶。それは即ち絶望と、喪失の記憶であった。そしてあの、恐ろしい咆哮のような轟き。
泡に阻まれていた思考の空が、随分と澄み切っている。だがそれは冬の晴天のような、寒々しい乾いた潔さだ。

 「あの、恐ろしいものは……。私の、母様なのね……?」

 背中に回した手は離さずに。天子はさとりの耳元で、恐る恐ると言った風情で呟く。
どくんと高鳴る心音が、お互いに混ざり合って、爆ぜた。どちらの声かも分からぬまま、二人は身体を強張らせる。

 「さとりは……それを、分かってたの? お空と一緒に飛び出した、あの時に」
 「……いいえ。私も正体を知ったのはあの後です。」

 何かしらの覚悟を決めたのか、さとりはそっと溜息をついて、体を離す。そして内ポケットをまさぐると、そこからやや草臥れた紙片を取り出した。

 「あなたの父親からの手紙、だそうです。」
 「……父が?」
 「天子さんが、母親について何か言い出した時。これを、と」

 よれた手紙を、天子は半目で睨め付ける。

 「これ……アンタ勝手に読んだわよね」
 「だ、だって……もし、『天界に帰って来い』みたいな事が書いてあったらどうしようって……
  気になったんです、はい。ごめんなさい」
 「はー……ま、今回は良いけど。今度からはよしてよね」

 居心地が悪そうに視線をずらすさとりに、天子は苦笑交じりで答えた。
古風に折り畳まれた紙を開いて、息を吐く。正直な所、"天子"の記憶に父の良いイメージはない。
けれども、封じられていた地子の記憶が本当なら、彼もまた間違いなく子を守り抜く親の一人で有ったのだ。

 「本当は」

 さとりが顔を伏せる。その表情は、地霊殿の薄暗さもあり読み取ることが出来なかった。

 「あまり、貴女には知られたくなかった。知ってしまったら、また無茶をするだろうから。」
 「……ぷっ」

 その言葉は確かに自分を気遣う物で有ったが、天子はたまらず吹き出す。

 「くくっ、ごめん、……ぷふっ」
 「ちょっと!? なんで笑うんですか!?」
 「いやぁ、だって……アンタちょっと、私の事好き過ぎ」
 「ん、なっ……ええ、そうですよ、そうですとも!」
 「ふくくっ、ええ、そうよね……そうなのよね。」

 くたり、と天井を仰いで倒れる。スッと表情が引き締まり、天子の黒曜石のような瞳が、ぼやけた遠くを眺めた。

 「……結局、自分自身が一番信じてないのよ。
  誰も私の事なんて愛してないんだって決めつけて、斜に構えて。
  ええ、だってそっちの方が楽なんだもの。絶対に無いと言い切りながら、仄かな期待をするほうがずっと楽」
 「でも、それは寂しい事なんだって、天子さんが教えてくれたんですよ」
 「そう……私がそれを、言ったから……」

 胸に抱くは、父の書いた手紙。
今まではただ、嫌だ嫌だと喚いていれば良かった。あんな男に、愛なんて存在しないと。

 ――そんな訳は無いって、本当は心のどこかで気付いてた。

 だけど。それを認める事に、天子が耐え切れなかった。
親を嫌えなくなってしまったら、もう「安心して嫌える相手」が居なくなってしまうから。……しかし。

 「言ったことには、責任持たないとね」
 「……お父上に、会いに行くのですか? 手紙の通りに」
 「天界に帰るわけじゃないわよ? そもそも、そんな資格ももう無いしさ。
  でも、知らんぷりしたままで、勝手に死ぬわけにも行かないでしょ。
  ……母様とは違って、こっちはまだ生きてるんだもの。こちら側の決着位は、付けて逝ってやるとするわ」

 「だから」天子はベッドに引き込むかのように、さとりの手を握る。「勇気を頂戴」
その指は微かに震え、未だ奥底に眠る心的外傷の痕をさとりに悟らせた。

 「この話が終わったら、私もちゃんと、答えを返すから」

 手に取られた手の平が天子の薄い胸に触れ、トクントクンと鼓動を伝える。

 「だから、少しの間待っててくれる?」

 何時か、子供の理屈を卒業する時が来る。甘えたがりの少女の我儘、スイーツばかりでは居られない。
比那名居天子の殆どは、最早幻想に生きる少女ではなく、ただのちっぽけな人間なのだから。

 「……行ってらっしゃい」
 「……行ってきます」

 さとりは、気を抜けばくしゃくしゃに歪みそうになる表情を、何とか取り繕いながら。
天子が一つ少女の皮を脱ぎ捨てるのを、見送ろうとして――





 「その必要は、もう無いわ」

 ――無粋な空間の断裂音に、かき消された。

 「予定以上の地底の反発による遅延。博麗の巫女による調伏失敗。旧灼熱地獄跡に限らない侵入ルートの開通……
  以上から、『八雲』は地底における絶対防衛線の構築を状況的に不可能と判断。
  幻想郷の最小被害の為に、『比那名居地子』と幻想郷の全ての縁を断ち切る事で流し雛を作成し、
  これを贄として、荒びしカミの怒りを鎮めるとします」

 冬に生まれる氷柱よりも、ずっと鋭く冷たい妖気をほとばしらせ、一瞬にして場を凍りつかせた女は、無慈悲にそう宣言する。

 「故に。貴女達にもう、努力するべき事は存在しない……いいえ、むしろ動かれれば動かれる程迷惑なのよ、比那名居天子」


 ◆


 その刹那。反射的とも言えるスピードで動いたのは、古明地さとりであった。
八雲紫が伸ばした右手が、――天子からすれば――突如、噛み潰されたように千切れ飛ぶ。

 「……あ、貴女ッ! ――貴女は、恐ろしい事を考えているッ!」

 双眸を見開き、歯茎をカチカチと震わせてさとりが叫ぶ。
嗚咽一つ上げず、冷めた目で爆ぜ飛んだ腕を振るう八雲紫を、天子は呆然と見つめた。

 「そんな事をしてしまったら、誰からも覚えて貰えなくなる! 誰からも忘れ去られてしまう!
  本当の意味で、『居ても居なくても変わらない存在』に成るんですよ!」

 天子の背筋が、氷柱が突き立ったようにゾッとした。
居ても居なくても変わらない存在。一人ぼっちの壁の花。それは、それは二度と戻りたくない天子の過去だ。
この身を人に堕とす代わりに、乗り越えてきた筈の過去。今再び、天子の目の前に有ると言うのか。

 ――釈迦如来と賭けをした孫悟空は、地の果てと思しき柱に一筆書き意気揚々と如来の元へ戻った。
 ――しかし地の果てと思っていた物は釈迦の指で、悟空は掌の上を廻っていただけであった……

 天子の頭の中に不吉な啓示がよぎる。冗談じゃない、と天子は頭を振った。

 「……私に取ってかけがえの無い人を、二人も! そんな風にさせてたまるものかッ!」

 三つの目を爛々と輝かせ、さとりは絶叫した。
八雲紫の左腕が、右腕と同じように弾け飛ぶ。流れた血が放物線を描き、真っ白なシーツを汚す。
それと同時に古明地さとりの鼻頭が叩き潰され、さとりは何かに衝突して弾き飛ばされた。
吹き飛んださとりは、地霊殿の壁にぶつかって前衛的な罅と轟音を作り出す。

 「なん……で……想起は完全に、発動してる筈なのに……」
 「ええそうね、痛々しくて苦々しい。実に嫌な気分にさせられているわ。
  ……それで?」

 一瞬の内に再生した紫の真新しく美しい細腕が、さとりの喉に食い込む。
傍目からはただ添えているようにしか見えないのに、喉を掴まれたさとりは顔面を蒼白にして鯉のように口を開く。

 「それで、この八雲紫が怯むと思ったの? 本気になった大妖怪に小手先だけで勝てるとでも?
  私には『覚悟』が有る。百の為に一を切り捨てる『覚悟』が有る。十の為に一を殺す『覚悟』が有る。
  ……私の愛する幻想郷の為に、その幻想郷自身の一部を切り捨てる事になったとしても」

 いつの間にか、部屋の中は白い霧で包まれていた。すぐそこのはずの扉が、やけに遠く感じる。
天子はたじろいだ。何も出来ない……自分の事の筈なのに、自分の問題の筈なのに、まるで蚊帳の外に追いやられている。

 「切り捨てられた者の恨み事を聞き入れましょう。呪詛を、祟りを、受け入れましょう。
  それが、この八雲紫に向けられた物で有る限り。
  ……その代わり見殺しにする事だけはしない。殺す時は、全ての咎を私が背負う。それが私の『覚悟』」
 「……や、くも」
 「その私がッ! ちっぽけな過去の亡霊如きに! 怯えるはずが無いでしょう!」

 そのまま片腕一本でさとりはベッドの上に投げ捨てられ、一度跳ねて転がった。
冷たい、氷山の如き目が天子を見据える。その威圧感だけで言う事を聞かなければいけないような気分にさせられる。

 ――おかしい。"この八雲紫はおかしい"。

 臓腑から転げ出る違和感が、天子の胃の中で転がった。
八雲紫とは、もっと綽々としていて、胡散臭く、己の心情を見せない女だった筈だ。
では、この女は何だ? 普段の胡散さは微塵も無くなり、ただ氷点下に置かれた鉄のような『覚悟』がヒリ付いている。

 ――胸に誇りが有れば、覚り妖怪は怖くない?

 何時かヤマメが言っていた、覚り妖怪の対処法。では、これが普段見せない紫の誇りなのか?
八雲紫は、この程度で底が見えるような妖怪なのか……?

 違和感。違和感だらけだ。まるで酔っ払ったかのように意識がぐるぐると廻り、気持ちが悪い。
余裕の無い表情。生気の無い冷たい覚悟。まるで……まるで、そう、怨霊のように。

 「お、おい!? なんか凄い音がしたぞ?」
 「天子、目を覚ましたんなら……うわっ、なんじゃこりゃ!?」

 霧の先、扉の向こう。聞き慣れたペットの声や、見舞いに来てくれたのだろう――地底で結んだ、縁達。
一部屋二丈も無いような扉の向こうが、完全に霧に覆われて見えない?
不自然だ。あまりに不自然だ。そんな芸当が出来る者が、果たしてそう居ただろうか。

 「伊吹、萃香」

 ふと、閃いた。勘では有るが、無意識下の確信めいた何か。
気配ではない、彼女の"存在"が今そこに在る、そんな気さえする。
臓腑が竦み上がり吐き気がした。それは、鬼の前に立つ人として、余りに当たり前の感覚。

 「さとり様ー!? 大丈夫ですかー!?」
 「うにゅ、何なのこれ、メガフレアしていい?」
 「馬鹿、やめなさい! 私達まで纏めて吹き飛ばしたいのかしら、妬ましい」
 「……あれ……? あたし達、なんでこんな所に……ここ、どこ?」

 "萃められている"。比那名居天子が地底で築いてきた縁が、今、まさに、霧の向こうに。
……何の為に? 決まっている。快刀乱麻は麻を束にして切る。極めて合理的に、纏めて断ち切る為の他何が有る――!

 「萃香ぁ! 居るんでしょ! アンタなんでしょう!?」

 肺よ捻じれよと言わんばかりに、天子は声を絞り出した。

 「なんでよ……アンタのお陰で……私はここに来れたのよ……?
  今度会った時には……『ありがとう』って……初めて、素直に伝えられると思ってたのにッ!」

 ……ほんの僅かに、霧が揺らいだ気がした。だがそれも、直ぐに元に戻る。
無力。無為。無能。無価値。自らの心が、再び天子自身を苛み出す。
歯を食いしばれ。今更、後悔なんぞに負けられる物か。そう何度も何度も同じ問いに答える程、暇じゃ無いんだ――!

 「さぁ、抵抗を止めなさい、比那名居天子。縁を解くのはこの私と言えども神経を使う作業。
  余計な邪魔が入るのは好きじゃないの。幻想郷を守る為、頭を垂れなさい」
 「……誰が、アンタなんかに負けるものか」
 「あらあら?」

 紫は不愉快そうに眉を潜める。天子はより深く、思考の海へと潜り出した。
それにしても……いったいどこから嗅ぎつけた? 天子自身ですら、たった今知った事実なのに。
知っていたのは、誰だ。天界の連中がわざわざチクるとは考えづらい。アイツらは、基本的に八雲紫と仲が悪い。
さとりか? いや、それも違う気がする、と天子は思う。

 だとすれば。残ったのは……その二つを繋ぐ……

 ――『天子さんが、母親について何か言い出した時。これを、と』

 ……それは、誰から?

 「……衣玖は、どうしたの」
 「竜宮の使いがどうかしたかしら」
 「しらばっくれないで! 私の縁を全て断つ気なら、アイツが居ないのは不自然じゃないの!
  天人時代から付き合いの有る妖怪なんだから、"私の縁に萃められない訳無いじゃない"ッ!」
 「それをどうして、私が貴女に教えなければならないの?」
 「納得すれば、なんなりとしてやるわよ! 答えて! 衣玖をどうしたのッ!」

 扇子を口元に当て、紫はしばし目を細めた。
やがて指をパチリと鳴らすと、空間のスキマからぼたりと何かが落ちてくる。
最初は、薄汚い布の塊に見えた。直ぐに、それが天女の羽衣だと分かった。
……だとすれば。それは永江衣玖以外の何物だと言うのだろうか?

 「……ッ! 衣玖!」

 叫びだしたくなる衝動を抑え、傷ついた衣玖に這い寄る天子。
幸いと言っていい物か、羽衣の傷は酷いが、顔や手にはそれほど目立つ痕は無い。

 「永江衣玖、起きなさい!」

 軽く肩を揺すると僅かな呻き声が上がった。僅かに顔を緩ませ、覚醒を待つ。
何かが変わった訳では無いが、何故か目尻を熱いものが込みあげて行く。

 「う……うう……」
 「衣玖……良かった、大丈夫?」
 「あぁ、はい……すみません、お手数をかけまして……」

 いつも通りのきょとん、とした目に、まるで居眠りを起こされたかのような口ぶり。
なによもう、と毒づくものの天子は不思議と安心感を抱く。何時もと変わらない、マイペースな竜宮の使い――


 「……あの、すみません……何処かでお会いしたこと有りましたっけ……?」


 ……カッと、喉が灼けた。

 「八雲紫ィィィッ!」

 頭の中が沸騰する。勝算だとか、交渉だとか、そういった全てが身体の外に置いて行かれる。
バキンと鳩尾に何かが食い込む感触がして、天子は弾き飛ばされた。
弾き飛んだ場所には、刃の眼をした男が剣の柄を少し浮かせ立っている。

 「……の、野郎ぉ……」
 「さぁ、納得は済んだ? 別れの挨拶くらいならば済ませても良いのよ。
  どうせ直ぐに、何の意味も無くなるけれど。」
 「『クソ食らえ』……だ、ババア……!」

 のたうつ天子を、紫は透き通った氷のような眼差しで見下ろす。

 「……抵抗が無くなる、と言う意味じゃ殺しても良いのだけれど」
 「好きに……しなさいよ。アンタの思い通りに成るよりは……ずっと、マシ……」

 ともすれば逆流しそうに成る臓腑を、天子は片手で抑える。
苦悶が浮かぶ表情で、僅かに口角を吊り上げ笑みを作った。

 「……まぁ、こうなるだろうとは思っていたから、会わせたく無かったんだけど」

 ……八雲紫が嘆息し、手を振り上げる。冷たく粘ついた気配が、辺りを覆う。

 「仕方ないわね。やりなさい、人鬼――」



 ――そこに至るまでの思念を、古明地さとりはじっと見つめていた。



 ……あえて、ここで再度告げよう。比那名居天子とは、本来聡明な娘である。
地底に来てからは、激情家な面を意識的に強く出しては居るが……
元々の彼女は目の前の事象を受け入れる事も、それに折り合いを付け、妥協した中で最善を目指す事も出来る才媛なのだ。

 "信念は曲げたくない"。"八雲紫にはどうあがいても勝てない"。

 一つの理想とどうにもならない現実をカチ合わせた妥協点。
天子の頭脳は、冷酷に、無慈悲に、その「言葉」を思いついていた。
……古明地さとりに言ってもらう事で、初めて機能する、その言葉を。

 天子が決して伝えようとしなかった言葉を、さとりの瞳は暴き出す。

 「……うう、あああ」

 何度も、何度も何度も何度も――声を発そうとして、さとりはえずいた。
八雲紫は、直ぐにでも……今このほんの数秒後にでも、比那名居天子の命を奪うだろう。
幻想郷全体を守る為に、賢者は一切の容赦をせず、僅かな一を切り捨てる。

 ――"これ"を言わなければ、天子さんが死んでしまう。
 ――"これ"を言ってしまえば、天子さんが消えてしまう。

 「うあっ、う、あっ……うう、あ……」

 ああ、なんと哀れな古明地さとり。板に挟まれてペシャンコだ。
でも待て、本当に哀れなのは私では無いはず。救われるべきは彼女のはず。
天子が、ほんの僅かに振り返る。八雲紫が、濃厚な死を漂わせる腕を振り下ろす――

 「待ってぇ! 私が言います、言いますからぁ!」

 ――ああ……言ってしまった。言葉にしてしまった。

 これでもう、後には戻れない。
引き金は自分の手に渡り、ズシリとした重みと冷たさを返す。

 「早くしなさい」

 八雲紫が腕を下ろし、煩わしげに吐き捨てた。
さとりは数回、乱れた呼吸を整える。

 「……天子さん……」
 「……何?」

 天子の眼がさとりを見据える。ぶっきらぼうな言葉とは裏腹に、その瞳には明確な謝罪の声が混じっていた。

 「……貴女が、そんな……他人の話を、聞かない人だなんて思いませんでした。
  …………貴女には……本当に、本当に……!」

 ぐしゃぐしゃの声が嗚咽と交じる。台本を読み上げるような、感情のこもらぬ声。
それすらも満足に言えない自分を、さとりは嘆く。

 「……本、当に……幻滅です……! 約束なんて、知りません……!
  だから……何処へ、なりとも、消え失せて……くだっ……う、うっ……」

 最後は最早、涙に紛れて聞き取る事も叶わなかった。
ベッドの上に崩れ落ち、シーツに顔を埋めるさとりの頭を、天子は二度軽く叩く。

 「……分かった。そうするわ」
 「うあっ! ……う、あ、あぁ……!」
 「……ありがと。そして、さようなら」

 天子の目の前に、人一人分のスキマが開いた。
まるでその姿は、空間に口を開き今か今かと待ち構える化け物の姿のように見える。

 「……さ、入りなさい」

 紫が先を促す。

 「そこに飲み込まれた時、貴女は幻想郷から『居なくなる』わ」
 「ふん、仰々しい事」
 「……恨むなら恨みなさい。全てのカタが付いたら、その位はさせてあげる」
 「あっそ、お優しいのね。でも良いわ、救いなんて要らないから」

 朝、水を汲みに出掛ける子供のようにあっさりと、天子はスキマに足を踏み入れた。

 「揺さぶれ、転がせ。……私は必ず、自分の手で救われる」
 「本当に、大言壮語が好きね。その恥ずかしげの無さだけは尊敬に値するわ」
 「アンタにゃ分かんないでしょうね。結局はアンタも与える側だ」

 スキマが閉じていく。一層不敵な眼をして、比那名居天子は絶叫した。


 「色即是空! 空即是色! 人がそんなに簡単に空と果てるか、やってみれば良いわ、スキマ妖怪!」


 そして、完全に切り離される。姿は空間の狭間に隠され、誰も見えず、誰も覗けない。

 「……良く見てなさい、人鬼。これが貴方が求めて止まない『縁切り』よ」
 「御意に」

 紫が扇子を閉じると、パチン、と泡の弾ける音がした。
その瞬間、泣きじゃくるさとりも、部屋の外に萃められた者達も、皆一様に呆気に取られ立ち尽くす。
そして次第に我に帰り始めると、各々疑問符を浮かべながらバラバラと散って行った。

 屋敷中に撒かれていた、超自然の霧が晴れて行く。

 部屋の主で有るさとりは、赤く腫れた眼を不思議そうにしぱたかせて、部屋の中を見回した。
……そこにはもう、何も残っていない。妖怪の賢者も、式の剣士も、そして桃の香りがする少女も……何もかも、夢幻泡影の如く。


 ◆


 ……そして、「何でも無い日」から数日がたった。


 地霊殿は今日も程よく熱が通り、床のステンドグラスは旧灼熱地獄跡から漏れる光で煌々と輝いている。
布団を捲っても尚蒸し暑さは消えず、さとりはぐったりと目を覚ました。
出したり仕舞ったりで実に面倒臭いが、流石にかけ布団を仕舞ってタオルケットでも出すべきかも知れないな、とさとりは思う。

 「……さ、ペット達が起き出す前に朝ご飯を作らないと」

 低血圧の身体はまだ非常に眠いが、作り終わったら二度寝すれば良い。
二度寝は屋敷の主にだけ許された贅沢だ。そう思えばむしろ、今何とか身体を起こすのも幸せの一環として感じてくるのだろうか。

 「ふぁぁ……面倒臭……ウチにも火を使えるペットが居たらいいのになぁ……お空みたいなのじゃなくて……」

 うん、やっぱり無理でした。



 ジュウジュウ、パチパチ、サクサク、チーン。
今日の朝は、皆大好き目玉焼きのせトーストに簡単なフルーツサラダ。

 「うにゅー、いいにおいー」
 「はいはい、お空。もう出来るから、お皿運んでね」

 こんがりと焼けるパンの匂いに釣られ、ふらふらとペット達が寄ってくる。
お皿にトーストに目玉焼きにケチャップを乗せて、後は食卓までペット達に運んでもらう。

 「……あれ? さとり様。なんかトースト多くないですか?」

 皿の運び出しを手伝っていたお燐が、ふと小首をかしげた。

 「何言ってるの、お燐。それはこいしの分よ。居るか居ないか分からないけど、何時も作ってるでしょう?」
 「ええ、だからそれを含めて一つ多いんじゃありません?」
 「ん、そんな筈は……合ってる筈よ、一、二、三、四……」

 ……五。確かに一つ多いトーストの前で、さとりもまた首を捻る。

 「ねー、さとり様ー? このトースト失敗してますよ。ほら、目玉焼きが裏返ってる」
 「あら、それで良い筈よ。だって……」

 だって……何だっけ? 思い出そうと試みてみても、まるで泡に押し上げられるかのように触れられない。

 -○--○○-

 「さ、さとり様?」
 「ちょっと、どうしたんですか? 玉ねぎでも眼に入りました?」
 「……え?」

 頬に伝う、湿ったもの。何で私は泣いているんだろう?
さとりは急に爆ぜ出した胸を押さえ、よろよろとテーブルに突っ伏した。
ペット達が、心配そうな顔を浮かべて走り寄ってくる。

 「だ、大丈夫ですか! ええと、医者を……?」
 「ちが、違うの……大丈夫、大丈夫だから……」

 立っていられない程に心を揺らす喪失感の理由も分からないまま、古明地さとりの朝は過ぎる。
しかし例え昼が来て、日を跨いだ所で、何かが起きる訳でも無い。
何も、起こる事は無い……。
何も……。


 ◆◆○◆◆○-○○---


  10:アナザーワン・スタンディング


 ストン、と目が覚めた。
何の尾も引かない爽快な目覚めと言うのは得がたい物で、スッとした感覚は朝の霞をこれ以上無い美味として味わわせてくれる。
永い、随分と永い夢を見ていたような気さえする。
伸び切った四肢は水を良く吸った泥のように重く、されど目だけがパッチリと冴えていた。

 「朝……」

 なのだろう。それが随分と久しく、また実感が湧かない事のように思えるのは、永く見ていた夢に関係が有るのか。
差し込んでくる日差しさえ、なんだか額縁越しの景色を見るようで。
いやそれは、凛とした梁と障子戸に囲われた、うららかな日差しに魅せられたからだろうか。
その中心に、大きな大きな幹が在る。だがその枝には花はおろか葉さえも付いておらず、ただただ枯木として其処に在った。

 少女は、ぐるりと首を回して己の周りを見渡す。
ふと気付くと、大樹の影は消えていた。大きく包み込むような母の威容は、泡一つを残さずに消え去った。
どうしてか涙が零れる。それは巨木の嘗ての栄華と優しみを想像の舌の上に垣間味わったからだろうか。それとも、枯木として在る虚しさに同情してなのだろうか。どちらかなぞ、分かりよう筈も無い。

 「私は」

 く、と息が詰まる。

 「……私は、誰?」

 結局の所、其処が分からなければ分かる筈が無いのだ。
真っ直ぐに腰まで伸び切った、艶の無い黒髪。強いて言えばそれだけが少女の特徴である。
少し視界から外せば、もう顔も思い出せなくなっていそうな。病的なまでに、無個性な少女。
其処に居る。確かに存在として、質量として其処に在る。けれど、中身はすっぽりと抜けている。
無色透明な器の様だった。

 ……そうと、外に出てみる。
真っ白な襦袢は軽く、柔らかく、衣擦れの音も立てない程に滑らかだ。
いや、衣擦れどころか風の音も虫の音も、鳥の音もない。何もかもが死に絶えたかの如く――
そんな、大袈裟な想像さえ広がってしまう。

 「だぁから、お前らもそろそろ帰れっつーの。後でどうなっても知らないぞ」

 そんな妄想を、やや強い語気の春風のような爽やかさを纏った声が打ち払う。

 「私だって、あいつに後で兎や角言われたくなからな。これに関しちゃ真面目にやるよ」
 「ちぇー、巫女さんが居ないって聞いて、チャンスだと思ったのに」
 「だから言ったじゃない。氷とかの方がまだ売れるんだって」
 「スターは良いよね、いっつもこっそり楽してるし」

 こっそりと聞き耳を立てれば、何やら三人の娘と一人の少女が言い争っているようであった。
よくよく聞いてみるとこの三人、どうやら神社であるこの家の売り物に、勝手に玩具を混ぜていたらしい。
三人より一回り大きい金髪の少女は、それを咎める立場に有るようだ。

 「大体、蔵に入って何かを盗むのかと思ったら……逆に置いてくって、どういう事だか」
 「押し付けられた売れ残りのお面が一杯ありすぎて、家に飾ってるのも怖くて……」
 「博麗神社の蔵なら、どうせ大した物無いんだし、いいかなーって」
 「もうすっかり終わっちゃったしね、お面ブーム」

 三人組の中でもリーダー格らしいツインテールの娘が、手を付き合わせて頭を下げた

 「ねぇ、見逃してくださいよ。物が増えるだけなんだからいいでしょ?
  これ以上、大量のお面に囲まれて暮らすのはこりごり! ルナが夜中にトイレにも行けないんですよ」
 「ちょ、ちょっとサニー! 何言ってるの!?」
 「あーもう、こいつらばっか相手にするの疲れたよ……霊夢ぅー、早く帰ってきてくれー!」

 神社らしき境内に、きゃいきゃいと声が響く。
口では謗りあっていても、どこか信頼や友愛の滲んだ姦しい騒がしさ。
名も亡き少女はそっと縁側から降りると、心の底にぽっかりと空いた懐かしさを噛み締め、その場を後にした。
誰か、私にもあのように騒ぐ相手が居たのだろうか。答えの出ない問いを、自らの泥の中に埋もれさせながら――


 ◆


 「地底に残る?」

 大通りから奥まった土地にある、うらびれた宿屋の二階大部屋。
その一画を貸し切って、広げに広げた洗濯物を折り畳む九尾の狐が振り返る。
珍しく驚愕が貼り付いた顔で、八雲藍は聞き返した。

 「どういうつもりだ、博麗の」
 「そりゃあ、そうでしょ。まだ何も終わって無いじゃない」

 霊夢は番頭に借りてきた炭火鍋で巫女服の袖の皺を伸ばし終えると、くるくると丸めながら脇に置く。

 「ああまで高らかに守る宣言までしちゃってさ。来ないからアッハイ帰りますとか、格好悪すぎるでしょ」
 「意地になっているのか?」
 「そうかも知れないけど。それ以上に、まだ帰っちゃ駄目だって気がすんのよね」

 つまり、気のせい。これが他の相手なら一笑に付す所だが、博麗の巫女に言われたとなると、どうしたら良い物か。

 「しかし私はもう、引き払う準備をしてしまったんだが……
  いや、それは良いとしてもだな。結界の管理だっておろそかにしていいものじゃ無いんだぞ」
 「あんたが居れば何とかは成るんでしょ? 別に良いわよ、そっちは帰ったって」
 「完全にもう持って帰って洗濯するつもりだったから、換えの下着すら無いのだが」
 「……一日位履き替えなくなって死にはしないわよ。貸し下着屋に借りたって良いし」

 少女として死ぬぞ、と声に出して言いたいのをぐっと堪える。
完全に余談ではあるが、江戸時代、汚れた下着と幾ばくかのお金を持って行くと洗濯済みの下着と取り替えてくれる商売は実際に存在したそうである。まぁ、女が利用する物ではないが。

 「だがなぁ。既に旧灼熱地獄のシケは完全に取り除いたし。
  何かは分からないが、紫様も『原因は排除できる』と言っておられるし」
 「……この際だから言っておくけど。確かにあいつ優秀だし、なんだかんだ辻褄合わせる事にかけては万能よ?
  でも采配ミスが無いかと聞かれると、絶対にそんな事無いと思うんだけど」
 「ぐ、それは」

 確かに主は、感情の機微を利点と恐怖だけで計算している節が有る。と藍は言葉を詰まらせる。
本人が優秀過ぎるが故に、人の目を曇らせる数々について知識は有っても実感が無いのだ。

 「ま、完全にトチった私が言う事じゃ無いかも知れないけどさ」

 本人なりに、責任を感じているのだろう。そしてそれは、八雲藍も同様に。
彼女達は彼女達で、ひと月以上も悪戦苦闘を続けていたのだ。

 「……確かに私だって、何も知らされず突然の作業中止に思う所は有るが……
  それでも、主の言う通りに動くのが式と言うものだ」
 「いや私、式じゃ無いし」
 「ん……まぁ、そうなんだが……」

 やや憮然とした表情で、藍は語る。

 「はぁ……分かった。お前の事だし、何を言っても動かんだろう。
  やれやれ、久し振りに橙に会えると思ったんだがなぁ……」
 「別に、あなただけ帰れば良いじゃない」
 「そうも行かんだろう。いや、紫様がそうしろと仰るなら喜んでそうするが……多分、そうはならんだろうな」

 わざとらしく溜息を付く藍に、霊夢はやや居心地悪そうに肩を震わせた。





 その、宿の光を俯瞰できる湯屋の屋根。
伊吹萃香は憮然とした表情で瓦の上に胡座をかき、ぷはぁと煙を吐く。
非常に珍しい事に、彼女は片手に瓢箪ではなく煙管を構えていた。

 「やっぱり帰ってきてたんだな」

 カシャンと瓦が擦れる音が響き、萃香の頭越しに声が掛かる。
振り返るのも億劫だ、という風体で、萃香は紫煙をくゆらせた。

 「帰って来るなら来るで言えば良いのにさ。……まぁ、今はちと、帰り辛い状況かもしれんが……」
 「勇儀ぃ」

 眼下にある窓の光を、ぼうっと見つめたまま答える。
普段より数段テンションの落ちた友人の様子に、勇儀は頭を抱え、隣に座り込む。

 「珍しいね、お前さんが煙草だなんて」
 「……今は、ちょっとな。喪に服してんだ」
 「誰か、死んじまったのかい?」

 ひょっとしたら、地上に友人でも居たのだろうか。
だとしたら少し悪い事を聞いてしまったかな、と。潜めた眉の奥に仄かな隔絶感を隠しながら、勇儀は問いかける。

 「まだ死んだ訳じゃないさ。でももう、二度と会えなくなった。
  そいつとはそんなに付き合いが有るわけじゃなくて、ほんのちょっと目にかけてただけだったけれど……」

 ほう、と吐き出された煙が地底の冷えきった空気に混じり、そして見えなくなった。
吐き出された物は、零には成らない。ただ時間と共に薄まり、やがて誰の目にも触れずに消えていく。
言葉とは煙のような物だ。だからこそ、言葉の上に立って生きる者達もまた夢幻の如き物だと、萃香は思う。

 「……ただ、悲しめるのが私くらいしか居ないんだよ」

 煙草で良い。酒は楽しむために飲む物だから。「飲んで忘れる」と言う発想は、萃香が軽蔑する考え方だ。
それでも、素面で居るには余りにも口寂しかった。だからこそ滅多に吸わぬ煙草を選んだ。

 「お前さんが目をかける程の奴か。そりゃあ一度、見てみたかったもんだな」
 「……覚えてないかい?」
 「ん? 何が」
 「いや、ならいいんだ」

 そしてまた一つ、紫煙が消える。

 「私、さ。あいつに……嘘を、付いてしまった」
 「何?」
 「もちろん、最初は嘘にするつもりは無かったよ。
  でもさぁ、結構適当に言ったんだ。責任を取るつもりなんて端から無かったし。なのに」

 下唇を噛み、震えた声で萃香は語った。遠くの通りで、酔っ払い達の喧騒が聞こえる。
看板を照らす赤提灯の油が切れ、辺りがふと暗くなる。

 「最後の最後に、感謝されちまった。
  勝負に負けたから、約束だったから。そういう言い訳で、私は選択した。その感謝を『嘘にする』事を、選んだ。
  ……それに気が付いたのが、もう嘘を付いちまった後さ。鬼の名が笑うよ」
 「萃香……」
 「善い事をすれば善い事が、悪い事をすれば悪い事が――『行いは必ず返って来る』。故に因果応報。
  ……ハッ、坊さんの言葉がこうも身につまされるとは、伊吹の鬼もヤキが回ったもんだね」
 「いいや、お前は只の背負い込み過ぎだ。だからこそ、私よりずっと大将に向いてたし」

 星熊勇儀が、己の杯を地に置いた。そして空いた両手で萃香の頭をガシガシと掻き回す。

 「だからこそ、私達はお前さんが出ていくのを止められなかった」
 「……」
 「不甲斐無いってんなら私もおんなじさ。だから……んな顔、すんなよ」
 「勇儀ぃ」

 ぐしゃぐしゃの髪の下で、伊吹萃香は密かに決意を固めていた。
八雲紫の言う通り、何もなければそれで良し。しかし、もし万が一が有ったならば――

 「選んだ」責任は、必ず己に付いて回るだろう、と。


 ◆


 "彼女"がとぼとぼと人里近くに降りてくる頃には、既に逢魔が時へとなっていた。
体力が無いわけでは無かったが、一日中歩く事には慣れていない身体だったのだろう。
白い踝は赤く腫れ上がり、ずきずきと痛みを訴えている。

 こんな事なら、目が覚めたあの神社で大人しくしていればよかっただろうか。
偶に通りすがる人妖が居ても、誰も自分には目もくれない。
彼らは皆、まるでそこに居ることすら気付かないかのように素通りしていくのだ。

 とさり、と形の良い尻が地面に落ちる。

 心細さに涙ぐみ、朝から何も口に入れていない空きっ腹がくうと泣き言を吐く。
いいや、空っぽなのは胃だけではない。記憶も、心も、何もかもが空っぽだった。
夜の闇は、極寒と言う程ではないが濡れた絹が纏わり付くような寒さで、身体はとうに冷え切っている。
湿った草の上に体育座りになって、少女は己のか細い身体を掻き抱いた。

 せめて、何処か温かい所へ行きたい。

 人の体は、寒くとも汗をかく様だ。乾いた唇はささくれ僅かに痛い。
少女は、そのまま暫くの間そこに座り込んでいた。時たま耳元で騒ぐ虫の羽音だけが少女と現実を繋ぎ留める楔であり、今にも宵闇の中に溶け込んでしまいそうな少女の、ほんのちっぽけな精神性であった。

 月が高く上がり、やがて降り始める。

 やおら少女は立ち上がり、うつろな目でフラフラと歩き出した。
羽虫だと思っていたその音が、遠くから響く歌声と重なった気がしたのだ。
足の痛みも空腹も、何処か乖離した額縁の向こうへと追いやって、覚束ない足取りで声がする方向を目指した。



 全身に楽器を取り付けた大道芸人を歩かせれば、こんな足音が生まれるのだろうか。
定期的に時を刻む幾つかの楽器の上に、カーペットのように歌が引かれている。
その不可思議なビートは、力尽きた少女の身体を無理やり撃つには十分な物であった。
物理的な圧力を伴った音が空っぽの身体に染み渡り、よたよたと一歩を歩かせる。
誘蛾灯に引き寄せられる虫のような動きで、少女は喧騒の近くへと吸い寄せられていく。


 ――(また誰かが倒れ伏す)

   (また誰かが倒れ伏す)

   (ほらまた誰かが また誰かが)

   (また誰かが倒れて死んだ)――


 雛壇の上で叫ぶ少女達は壊れたレコード回しのようにその一節だけを繰り返し、周囲は思い思いの物を振り回して踊り狂う。
相当酒が回っているのだろう。中には己の上半身の着衣を全てはだけ、ぶるんぶるんと揺らしながら男どもの注目を集める女妖の姿も有った。
むわっと来る熱気には、不自然に上下する茂みから漂う淫猥なそれも混じっているのだろうか。
また一人、前後不覚の女が男達に手を引かれ地に倒れ込むのを、彼女は虚ろな頭で眺める。
誰かが用意した物なのだろう。簡素なテーブルに乗せられた揚げ芋の匂いが、彼女の空腹を強かに刺激した。
周りを見渡す。誰も彼女には目もくれようとせず、まるで初めからそこに居る事にすら気付いてないようで。
喧騒の中、そこだけぽっかりと繰り抜かれたみたいに忘れられた空間で、彼女は揚げ芋の皿と向かい合う。人が集うテーブルには、酒と、もう少しマシな料理と、下品だが楽しそうな笑いがある。

 ――ああ、こいつも同じ、この空間においては必要とされていない"異物"なのだ。

 そう思うと、なんだか酷く芋に対する親近感が湧いた。
キョロキョロと辺りを確認すると、彼女は腹の虫が促すままにそれを口に入れる。
冷えきった油の匂いに、べしゃべしゃになった衣、普段芋の土臭さを隠さない癖に局所的に効き過ぎた塩の味。
だがそれでも、体の中が満ちていく感覚に夢中になって胃に収める。

 辺りの喧騒は未だ収まらず、大多数が日々溜まった鬱憤を発散させようと騒ぎ踊る中、そういう目的を持ちながらも未だにあぶれた男達がハイエナの如き眼で手頃な獲物を探している。
気の狂いそうな光の中に、浅はかな影が生まれる。まさしく、陰と陽が入り混じる混沌であった。
目を向けられない内に終えようと、彼女は芋を両手で掴みとり、犬のように身を屈める。
その格好は酷く惨めであり、場の誰もそれを気にして等無いと言う事実がより一層彼女を涙ぐませた。

 ……しばらくし、再び彼女は歩き出す。
足の痛みの感覚は最早無い。身体が満ちた分、心の空虚さが際立つようで、瞼を焼く眩しさが苛立たしかった。


 ◆


 永江衣玖は、在るがままを是としている。
変にこだわってみた所で疲れるだけだし、嫌気がさすような状況でも、楽しもうと思えば楽しみは何処かに見い出せる物だ。
勿論社会人として、必要最低限の法規は守るし、守らせる為に動く事も有るが……
基本的には、空気の流れるがままに日々を楽しむのが、永江衣玖の生き方で在った。

 「それで、貴女は帰るんじゃなかったの?」
 「えぇまぁ、そのつもりでは有るのですが。まだ味を知らない屋台も多い事でして」

 呆れたような翠眼が、永江衣玖の面の皮を突き刺す。

 「お土産にもなりますし、せめて地酒位は買っていこうかな、と」
 「あっそう。頭の中平和で妬ましいわね……」
 「考えても仕方のない事は、上に任せるのが一番ですし……それを見極める為に考える事は、確かに大事ですけども」
 「わっはは、まぁそうかもねー。パルスィも爪の垢を煎じて飲めば、少しは妬み癖も治るんじゃない?」
 「余計なお世話よ。まったく」

 談笑が響く。提灯の赤い光で半身が照らされる、何時もの旧地獄宴会広場。
ヤマメたちはその一卓を囲み、結果的に送別会のようになったものを開いていた。

 「ここ暫く地底を騒がしていたカミサマ騒ぎも、終わってみればなんだかあっさりだねぇ。
  結局、私達からすりゃ分けわかんない内に終わっちゃった感じだけどさ」
 「全く……外の奴らが妬ましいわね」
 「すみませんね、私もあまり物を知っているわけでは無くて。
  なにせ旧灼熱地獄に火を入れる為だけの助っ人でしたから……」
 「あぁ、衣玖さんを責めてる訳じゃないんだよ? またロックコンサートを再開してもいいってのは、良い知らせだし……
  ま、スッキリしない終わり方だなー、ってだけでさ」

 細く切った干し肉を口の端でプラプラとさせながら、ヤマメは独りごちる。
その隣では、内気そうな前髪が特徴的な白狼天狗の少女が、しきりに鼻を鳴らしていた。

 「……どうしたの、タロ? 干し肉が欲しいのかしら?」
 「あ、いえ、そう言う訳じゃ無くて……」
 「んじゃー、あれだ。くしゃみが出そうで出ないんでしょ。いやー分かる分かる、あれは辛いからね……」
 「いえ……そんな事でも無くて……」

 見る見るうちにしゅんと萎んでいくタロの頭に、そっと手が乗せられた。

 「……大丈夫ですよ。急かしたりしませんから。ゆっくり、落ち着いて喋ってみて?」
 「な、永江さん……え、ええと。大した事じゃないんです。ただなんか、ニオイが足りない気がして……」
 「……匂い?」

 言われるとなんだか気になって、ヤマメもすんすんと袖周りの匂いを嗅いでみる。
それをすかさず、「分かるわけ無いでしょ、タロでさえあやふやなのに」とパルスィが突っ込んだ。
地底に捨てられた白狼の子、タロは弱視である。光はかろうじて認識出来ても、人の姿はおおまかな大きさを見るだけで精一杯だ。
故に彼女は、通常の白狼天狗よりも遥かに嗅覚を発達させ、その感覚と盲導犬代わりのジロの働きで情報を補って暮らしている。

 わっふ。
 「うん、なんか落ち着かないんだよね……なんでかなぁ、ジロ」

 傍らで同意する自らの半身とも呼べる存在を、タロは丁寧に撫でた。
ジロと呼ばれた白犬の足元には、極力タレを取り除かれた肉の骨が転がっている。

 わんっ!
 「……あ、そうだ。お線香の香りがしないんだね」
 「線香?」
 「そう、なんだか最近、皆で集まる時には、なんとなくそんな香りがしてたんです」
 「そうなの? うーん、心当たりはないけど……」

 嗅覚に鋭い二人――内一人は動物で有るが――がそう言うならば、きっと間違っては居ないのだろう。
だが、パルスィはおろか、ヤマメや衣玖にも線香の匂いが移るような心当たりは存在せず、首を傾げる結果に終わる。

 「まぁ、あれだ。めでたい事だし、今日は無礼講さ。
  衣玖のんが居られるのは今日が最後ってんなら、暁も覚えるまでへべれけに成るのが礼儀ってもんだよ」
 「あらあら、いやですわやまみーったら。でもそうですね、天界じゃ前後不覚に成るまで酔っ払うなんて貴重な体験ですし……
  ええ、ここは社会経験。異文化交流と言う事で。まだまだ行けますよね?」
 「……アンタ達、何時の間に渾名で呼び合う程仲良くなったのよ……妬ましいわ」
 「「いや、ノリで」」

 かんぱーい、と杯を傾け合う赤ら顔二人を呆れ顔で眺めながら、パルスィは牛蒡の金平を咀嚼した。
この金平は新規開拓の屋台に売っていたものだが、甘辛い味付けが中々酒を進ませる。
舌鼓を打ちつつ、眠た気な様子のタロの頭にそっと手を置く。地底の街の宴会広場は、依然として騒がしい。

 「……ちょっと。タロがうつらうつらしているし、一回家まで帰らせるわ。
  私はまた戻ってくるけど、その間に飲み過ぎないようにしなさいよ? じゃないと妬むんだからね」

 胡乱な返事を返すタロの手を引き、パルスィは立ち上がる。
まだまだ夜は深い。妖怪達が酔い潰れ、街から明かりが消えるには時間がかかりそうだ――





 煌々と燃え盛る炎。音を立てて弾け、熱を発する死体と怨霊。
完全に元の姿を取り戻し赤熱した旧灼熱地獄跡に、一つの人影が在る。

 「お空? おくう~」

 道端を塞ぐ死体を、その辺にごろりと転がす。
呼ぶ声は親友の名。普段寝る時間になっても部屋に居ないから、慌てて探しに来たのだ。
どうにも最近彼女は目を離すと居なくなる。あるいは、死神辺りからサボりぐせでも習ったのかしらんとお燐は冷や汗をかいた。
馬鹿では有っても、すぐバレるのにやらかすような阿呆では無いと信じたくは有ったが。

 暫く彷徨っていると、断続的な爆発音が地獄の底から聞こえてきた。
これはお空の仕業に間違い無いと決め、お燐は慎重に縦穴へと飛び込んでいく。

 「えーっと……『明日のためにその一、脇を締めて打つべし打つべし』」
 「なーにやってるのさ、お空。もう深夜だよ? 近所迷惑も大概にしな」
 「あ、お燐。んとね、現在訓練中であります!」
 「まーた、そんな事……今度は何の漫画から影響を受けたんだい?」

 お空は空中で発射体勢を取り、熱量弾を岩盤へと打ち込んでいた。赤熱した岩が爆ぜ、ボロボロと崩れ落ちていく。
あんまり壊すんじゃないよと注意だけして、お燐は呆れたように肩をすくめた。

 「漫画じゃないよ、カミサマ対策! 今度来た時は絶対仕留めきるんだから。
  また寒くなるの嫌だし、それにさとり様が不安がってる」
 「……でも、あっちは八雲さんが何とかしてくれたんだろう?
  旧灼熱地獄の火もちゃんと入れ直したんだし、あたい達の仕事は終わりじゃないのかね」
 「私、まだ納得してないもん。……それに、多分、さとり様も」

 珍しく憂いた顔で、お空は自分の主を思い浮かべる。
最近のさとりは、よく泣くようになった。それも、自身でも分からないちょっとした事で。
いくら他人の心が読めても、自分の心は分からないのだろう。大抵の場合、困った風に笑顔を作り、心配ないと声をかけてくれる。
お空にはそれが堪らなかった。正体は分からないが、その不安を自分が強くなる事で解決できたら、とも思っているのだ。

 「それは良いけど、仕事はちゃんとしとくれよ。じゃないとあたいまでさとり様に怒られる」
 「むー、お燐ってば、私と藍さんのどっちを信じるのさ」
 「そりゃあ、あんたを信頼してるけどさぁ……信用出来るのがどっちかって言われると、ねぇ?
  こないだのお風呂掃除当番すっかり忘れて、結局あたいがやる羽目になったのは誰のせいだい」
 「う、うにゅ~?」
 「こら、すっとぼけるな」

 柔らかな頬をお燐がつねる。お空は痛い痛いと悲鳴を上げ、ごめんなさいと謝った。
……じゃれ合う二人のペットの遙か下方。溶岩の熱に溶かされた魂が気泡を作り、青紫の煙となって上がっていった。


 ◆


 生き物には本来、"社会"の中で己の立場を決めたがる本能が有る。
人や犬等の獣はおろか、虫や魚で有っても身体の大きさ、喧嘩の強さ等で社会の中での優劣が決まる。
それに理由を付けるならば、社会の全滅を防ぐ為やより優れた遺伝子を残す為等、様々な物が考えられるであろう。

 ……それについて深く論じる事は避けよう。
本題は、"本能は社会的な立場を求め、それが満たされないと不安になる"事である――

 名とはつまり、親が子に与える縁。夢とはつまり、人が他者に与える縁。志とはつまり、自らが自らに与える縁。
全ての縁は引き剥がされ。彼女は、本質的に孤独であった。
……人は"誰か"が居なければ、"自分"にすら興味を覚えない。



 「……誰か、居ないの?」

 風が甲高く叫び、嘲笑うような葉が擦れる音。暗い森の中を、彼女は一人走り続ける。
辺りは星の光も届かぬほどに暗く、地面は木の根で凸凹していて、けれど彼女はそれらにすら「出会う事無く」駆けた。

 「誰も、居ないの?」

 木々の狭間にある闇の中は、妖怪たちの絶好の住処である。
録な知性すら持たず、ただ他者を害するだけの弱くて危険な妖怪達も、この闇の中で静かに獲物を待っているのだ。
しかし、森に入ってから随分と時間が経過しても……妖怪どころか、虫の鳴き声一つ聞こえてこない。
奥へ奥へと彼女は走る。それでも彼女は彼らにすら「出会う事無く」駆けて行く。

 「誰か」

 がむしゃらに走る彼女の頬から、涙が一滴こぼれ落ち、何者にも光を返さず染みとなった。

 「誰か!」

 他者は鏡であると人は言う。人は、鏡が無ければ自分の顔すらも覗けない。

 「誰かッ!!」

 少女の叫びは、確かに夜の森の中に木霊した。そして、それだけであった。
やはり彼女は誰にも出会う事無く……やがて、駆けるのを、やめる。

 「……一人なんて嫌……一人で生きていくなんて、嫌よ……!」

 魂魄を織り上げていた糸が、はらはらとほつれて行く。
糸から外れた細い一本の繊維を、何と言うのだろう。
名前すらも持たぬまま、そして、彼女は。


 「――こんな時間に、人探しかい? お嬢さん」


 とん、と隣に赤毛の女が降り立った。六文銭をもじった服に、特徴的な大鎌。
見間違える筈もない。

                            ――どうして?

 私達の宿敵にして、永き友人になり得る存在。

                           ――知ってるの?

 「あたいも丁度、人を探していてね……そう、お嬢さんみたいな、黒くて長い髪の女だよ。
  博麗神社に行けば居る筈だったんだが、影も形も見当たらないてんで、随分手間がかかっちまった……なぁ?」

 命を刈る理不尽の、象徴たる存在……死神が、震える少女の肩を抱いた。



 上空の風は強く、空気は冷たい。
それでも寒さを感じ無いのは、この背丈の大きい死神に抱きかかえられて居るからだろうか。

 「私は何処へ行くのですか?」 "彼女"は尋ねた。
 「なあに、ちょっと遠くさ」 死神は答える。
 「……帰ってこれない程遠く?」 彼女が振り向く。
 「帰るって、何処にだい?」 死神が答え、彼女は俯いた。

 視線の先。山向こうに、月が落ちて行く。
少し後ろを向けば、藍色の空がほんの僅か紫に染まりつつ有るのが分かったかも知れない。
次の一日が追いかけて来てるのだ、と彼女は予感した。誰も逃れる事の出来ない、今日の終わり。

 「ちょいと、高く飛ぶよ」

 すぅっ、と魂が浮き上がるような浮遊感があり、次の瞬間には、目下に雲があった。

 「……寒い」
 「もうちょいこう、感動とか無いもんかね……まぁ、有るわけが無いか。
  悪いね、すぐに降りるから」
 「ううん。でも、綺麗ですよ」

 呆けたように、彼女は言う。死神はそんな彼女を少しの間意外そうな目で眺め、すぐに視線を戻した。

 「綺麗に見えるのは、遠くにあるからさ」
 「……」
 「それでもあんたは、もう一度近づきたいと思うかい?」

 黙す。強い風に煽られた唇が、ふるふると震えた。

 「……悪い。ちょっとずるい事を聞いたね。そういう問答は、後でまた……」
 「でも」

 風が凪ぐ。


 「汚れるのを煙たがるのは、大人の方です、きっと」


 無垢で在り続ける、縁の無い少女は。人形のような顔を歪めて、そう言った。

 「……くはっ、そりゃそうだ。月の奴らに聞かせてやりたいくらいだね」
 「ところで、私は子供で良いんですよね?」
 「早く大人になりたい、と願ってるうちは何時までも子供だろう」
 「貴女は?」 視線が貫く。
 「……子供ぶった大人。あたいの上司は、大人ぶった子供さ」

 眼下には、幅の広い階段が高く高く続いている。
なぜ自分は一人なのか。なぜ、死神は自分を捉えられるのか。彼女は、それを聞こうとは思わなかった。
無くしても亡くしても尚失われぬ鋼の芯が、冷たく剥き出しとなってそこに在った。
風が吹き出した。山の向こうに、月が消えて行く。


 ◆


 「随分と不満そうね」

 暗いあばら屋の中。天井の隙間から差し込んだ星明かりが、筋となって女の髪を照らした。

 「妖夢に比べればほんの僅かな期間とは言え、愛弟子には変わりないもの。自分の手で決着を付けたかったかしら」
 「……どのような仮面であれ、無駄に挑発的かつ自罰的なのは変わらんな。
  悲惨の線でしか間合いを測れぬ。さもしい女よ」

 溜息代わりに手入れをしていた刀を置き、咥えていた紙を放す。
そこに居たのは、緑衣の剣士であった。髭を剃ったその顔は、意外な程に精悍さを保ち、壮年と言っても差し支えない姿である。

 「……手厳しいこと」
 「後悔する覚悟をもって切り捨てるか、後悔しない覚悟をもって切り捨てるか。
  どちらかが優れている事も有るまい。己れにその答えを求められても困ると言うだけの話よ」
 「言葉遣いは良いの? 仮にも今は、私が主でしょうに」
 「狐がおらん」
 「あ、そ」

 生活態度にうるさく口を挟む相手が苦手なのは、この式も同じな様だ。
似なくていい所ばかり似ていると、八雲紫は自らが出したスキマに肘を付く。

 「そんなに誰かに嫌われたいならば、今からでも覚り妖怪の記憶を戻して会いに行けば良かろうに」
 「出来る訳無いでしょう? 少なくともあれが、縛られぬカミである内は」
 「名は付けたのか?」
 「これからよ。ようやく準備が整った所なの」
 「女の準備は長すぎる」
 「せっかちなお爺さんね。長く生きたんだから、少しは寛大になればいいのに」

 カシン。
刃が鞘に飲み込まれ、静謐な空間を最後の意地とばかりに切り裂いて行った。

 「……比那名居天子は……いや、その器で在った物は今頃どうしている?」
 「さぁ? とりあえず、博麗神社に置いてあるけど。縁が無いと言う事は、自ら動くべき目標も無い。
  食わなきゃ飢えるんだし、米くらいは炊いてるかもね。あのお嬢様に米が炊けるなら」
 「今、巫女の友人が留守を任されているのでは無かったか」
 「何も出来ないわよ。姿も見えなければ声も気付かない。気付いたとしても、すぐに忘れてしまう。
  そう、確かに古明地の妹の方と似ているかも知れないわね。それが?」

 紫の視線が、冬の夜のように冷たくなる。
氷で男の背中を突き刺すようでもあり、全てを塗りつぶす為の物でもある。

 「やはり、未練なのでは無いかしら」
 「そうであったなら、とっくにこの白楼剣で切り捨てておるよ」
 「じゃあ、何だと言うのよ。支障が出るなら、もう一つの錨の役割は貴方以外に移すわよ?」
 「……そう、だな……」

 男は髭を擦ろうとして、既に無い事に気付いた。

 「惜しい、と言う気持ちが有ったのは否定しない。半人半霊に取って、天人とは特別な存在なのだろう?
  その血肉を啜れば、鬼以上の何かとなれるかも知れなかった、とすればな」
 「……何処からくるのかしらね、そういう猟奇じみた確信は」

 気持ちげんなりとして、紫は言う。それでも男は莞として牙を見せ、笑った。

 「幻想郷の鬼に勝つだけの力は手に入れた。それだけでは不満?」
 「ああ、まだ至らん。久方ぶりに握った白楼剣は実に馴染むが、それだけだ」
 「貴方はそっちの方がお気にいりなのよね。妖夢は、楼観剣の方を誇りとしているのに」
 「剣としての立ち位置の違いだろう。それに奴には、魂魄家の全てを知らせては居らぬ。
  ただ"切れ味の良い剣"として使うならば、楼観の方が確かに使い勝手は上だ」
 「……私としては、妖夢にももう少し色んな事に興味持って貰った方が使いやすいんだけど……」
 「必要があるなら貴様が教えろ。己れと奴が次に会うことが有れば、死合いの場だ。どちらにせよ墓まで持っていく」
 「まぁ、良いわ。どうせ貴方に何を言っても、生き方を変える筈が無いんだもの」

 男が、戸の外へと出る。
立て付けが悪いのだろう、横開きの筈の戸はガタリと音を立てて外れ、壊れ剥がれた壁から入る月光を僅かに増やす。
その先は、まさしく惨状で有った。土は剥げ、木は薙ぎ倒され、場所にそぐわぬ生々しい破壊の爪跡がそこかしこに残る。
切り立った崖の先に広がる雲の海が無ければ、誰がここが嘗て僻地とはいえ天界と呼ばれた場所だと思うだろう。
男は水平にたたっ切られた岩の上に腰掛け、近くの木から桃の実をもぎ取り齧り付いた。

 「傷はもう良いの?」
 「天界の桃は流石、といった所か。むしろ怪我をする前より、心身共に充実しておる。味は悪いがな」
 「勝てるのね?」

 念を押すような紫の呟きに、男は鼻で笑って答える。

 「そちらこそ、西行寺幽々子に"殺された"心傷はもう良いのか?」
 「……そんなんじゃないわ」
 「大妖怪八雲紫の、慢心と油断のみを殺す、か。あの女も大概器用な事をする」
 「違うと言っているでしょう? ……確かにあれで、私は予想の範疇外から攻撃される事を久々に思い出した。
  死の恐怖と、裏切りの味をね。でもそれは確かに、カミを相手にする上で忘れては成らない物だったわ。
  あの子はあの精神状態で尚、私の為に出来る事をしてくれたの。優しい子なのよ」
 「その"優しい子"を殺すと公言して憚らぬ男を式に置き、いけしゃあしゃあと言う物だな」
 「ッ……とにかく! 荒びしカミの憂いはここで完全に断つ。
  犠牲が出ないならば出ない方が良い、なんて生温い事は言わないわ。
  私は切り捨てられた者の怨嗟を受け、己の守りたい者を守りましょう」
 「そうか。己れは切り捨てられる者も守られる者もどうでも良い。
  ただ、この戦いが己れの目指す物への踏み台と成るならば、それがどのような屍の山でも構わんさ。
  あの御方への忠節が為に、心はとっくに全てを切り捨てた……」

 そう、それは己の心でさえも。
二人はそれぞれの姿勢のまま、暫く地平の境界に沈みゆく月を見ていた。

 「……幻想郷は、全てを受け入れる。それを取捨選択するのは私。残酷な事よ、分かっているわ……」

 まるで自分に言い聞かせるように、隙間の女はスキマへと帰る。
姿が消えるのを見計らって、男は実の種を吐き捨てた。

 ――慢心と油断を殺す、か。

 だが、男の剣士としての経験が、張り詰めた糸程切りやすい物は無いと教えてくれる。
ああいう物は、むしろたるんでいた方が余程切れにくいのだ。

 ――博麗の巫女が、上手く天秤を吊り合わせてくれれば良いがな。

 きっとあの巫女は帰れと言われても地底に残るだろう。
そう付き合いが有る訳でもないが、なんとなく確信出来た。
彼女程の役者が、たったあれだけの芝居で舞台を降りるとなれば片手落ちである。
運命と言う物が本当に有るならば、それだけは許さぬ筈。運命は、博麗霊夢の事が好きで好きで堪らないのだ。

 「だとすれば、彼奴もまた戻ってくる」

 天人が一人、地底に降りた。言ってしまえばそれだけの事で、どれだけの状況が動いたか。
蝶の羽ばたきが竜巻を産むとは言うが、それにしても、だ。
操る糸がなければ、浄瑠璃が動く道理もない。理屈の上では、八雲紫の考えが正しいであろう事は分かる。
人たらしめる物は既に手の内、だがそんな理屈であの指向性の無い意思の塊が大人しくしているとも思え無かった。


 「願わくば、貴様とも……殺陣の機会が有ると良いなぁ、比那名居天子ッ!」


 月が沈む。男は剣呑な笑いを見せ、僅かに残った残り火が照らす雲の海へと飛び降りていった。


 ◆


 しゃんっ。

 無の空間に玉砂利を踏む音だけが響く。

 しゃんっ、しゃんっ。

 最初はゆっくりと、だが力強く。次第に激しさを増していくその音は、女が舞っている事を表していた。
枯山水の舞台で、朽ちた大木に見守られ。桃色の髪を揺らす女は、ただこの世全ての幻想を凝縮したかのように美しく舞う。

 ――嗚呼、この女は、恋をしている。

 この世の物とは思えない絶景を堪能しながら、黒髪の少女は思う。
踊りその物に声は無い。だが、靭やかに伸びる指が、憂いを帯びた唇が、この女の恋を何よりも雄弁に語っていた。
幻視(フラッシュバック)すらも伴って、その舞は辺り一面に女の情念を叩きつける。


 『妖忌さん?』
 『妖忌、で良いのです。不慣れかもしれませんが、是非曲直庁の方へ示しは付けなければ』
 『……その、ごめんなさい』
 『謝りなさるな。それに……まぁ、聞いた話なのですが……見た目はともかく、歳の程はそう変わらない筈ですので。
  どうにもこそばゆい物が有ります』
 『まぁ、そうでしたの? 十は年上に見えるのに……ふふ、なんだか不思議な気分』

 ――それは、少女の淡い思い。

 『幽々子様!』
 『妖忌……!』
 『ご無事で良かった。狼藉者は、これで最後ですかな』
 『貴方こそ、そんな無茶をして……! 何かあったらどうするの!
  私だったら、多少の事は能力で何とか成るわ』
 『その力は、軽々しく使って良い物ではありません。何より、主の手を汚させるとなれば従者として失格です故』
 『……そう、ね……』
 『何……守るだけが甲斐性の男です』
 『私は、それだけじゃないと思いたいわ……』

 ――それは、乙女の強い願い。

 『ゆゆこさまー』
 『あらあら妖夢。縁側から落ちると危ないわよ?』
 『おじいー』
 『……う、む』
 『ふふ、困った顔してる』
 『子供と言うのは……どうにも、慣れておりませんで。
  渡されたは良いものの、どう扱って良いやら……その点、幽々子様は流石ですな』
 『あら、それってどういうつもり?』
 『いえその、女性として、と言いますか』
 『そうよねー。私、女の子なのよねー。あーんまりそんな風に扱って貰った覚えが無いんだけどー』
 『む……』
 『冗談よ。困った顔しないで? その位、のんびり出来るように成った証じゃない。
  ずーっと結婚も何もしないで。何も残さずに行くんじゃないかって心配だったんだから』
 『……そう、ですな』
 『……おじーさま……?』

 ――それは、女の浅ましい情。



 しゃん、しゃん、しゃんと砂利が鳴る。ぐるりと全てを掻き混ぜて、吹き散らすように女は舞う。
はためく袖から、蝶が飛び立ち、天へと登って消えていく。

 ――嗚呼、恋がしたい。

 無色透明の器に、深い琥珀色をした液体が注がれる。
喉が焼け付くような、鼻から噎せ返るような、しかし人を魅了して止まないその感情。
人を死に誘う甘い苦い蜜。それは何よりも、愛と言う名が付いていた。

 幻視した光景は、嘗て確かにこの場所に在った縁の糸だろうか。
"掴み所の無い"少女は、器に注がれた感情をゆっくりと嚥下しながら、その場を離れようと動き出した。
光の粒で出来た蝶々が、当てもなく彷徨い、やがて消えた。

 ――ざらり。

 心が蠢く。何か消化できない異物を無理矢理飲み込んだが如く。
心に浸っていた何かが許容外の劇薬を入れられて暴れているような。不意の吐き気に襲われて、彼女は畳の縁に手をつく。
一思いに、吐き出してしまいたい。だけど、それをさせたくないと身体の中が暴れている。

 パチ、パチ、パチ。

 彼女の横から、枯山水の庭園に、乾いた拍手の音が響いた。

 「見事な舞でした、西行寺幽々子」

 鏡の如く磨かれた、剥き身の剣のように鋭い声。舞を止めた女は火照った息を吐くこともせず事も無げにお辞儀をする。
その一連を、中庭に面した小部屋の中、水晶もかくやと言う角張り具合で黒髪の少女は見ていた。
胸を抑えて丸まりかけた背筋が、目の前の少女の視線に晒されるだけで更にピンと伸びる。
視線は有りもしない嘘を探して左下に伏せられ、視界の端に、向い直して座る少女の少々見上げ気味の目線が突き刺さる。

 ――あの死神は、私とこの人を付き合わせて何をする気なんだろう。

 漠然とした不快感を抱え、"彼女"は痺れた正座を組み直した。

 「……随分とらしくありませんね」
 「そりゃあ、普通閻魔様に睨まれれば恐縮もしますって。ふあぁ」

 ギロリ、と刺すような視線が少女から赤毛の死神へと標的を変える。

 「その割には、貴女には全くと言って良い程効いていないようですが」
 「そりゃああたいは慣れてますからねー……あだっ」

 背後で大欠伸をする死神に向かって、ヤマと名乗った少女の悔悟棒が飛んだ。
鋭い部分が額に直撃したのを確認し、再びゆっくりと向き直る。

 「あの……その閻魔様が、何の変哲もない私めに何の御用でしょか……」
 「『変哲も無い』?」
 「ひっ」

 か細い声で長い黒髪の少女は問う。閻魔はその言葉に、思った以上に鋭い切り込みを見せ、少女を萎縮させた。

 「あらあら、ダメですよ、閻魔様。小動物には優しく触ってあげないと」
 「ひあっ」
 「けれど、そうね。この可愛い女の子が、どうかしましたか?」

 いつの間にか部屋の中へ上がり、少女の背後に回っていた桃色髪の女が、少女の耳へ優しく息を吹きかける。
女の視点から見ても美しい細く白い指がさらりと少女の髪を梳き、赤く染まった耳と合わせてコントラストを生む。

 「貴女にも分からないの?」

 閻魔は、今度はやや驚いた風に幽々子の顔を覗きこんだ。
その反応は想定外だったのか、幽々子もまた小首を傾げ虚空に疑問符を浮かべる。
閻魔は息を吐きながら姿勢を正し、何かを見せないように悔悟棒で口元を隠した。

 「……いえ……それならば、それで。ああ、どうやら過日の嵐は多少は収まったようですね、西行寺幽々子」
 「そのフルネーム呼びはやめて下さいな。ちょっと、威圧感が強すぎますわ。
  ええ、ええ。おかげ様で、日がな一日泣き腫らしてご迷惑をお掛けするような事はもう……あら?」

 少女に背後から抱きついていた女は、何かに気が付いたように彼女の髪や肩を撫で回す。
くすぐったさに身をよじると同時に、何処か既視感を感じて少女は目を丸くする。
だがそれも、閻魔と西行寺幽々子と呼ばれた女が行う会話に余韻ごと吹き飛ばされた。

 「そういえば……この子、引っぱり難いと言うか、なんだか捉え所が無いわ」
 「そうでしょうとも。何せこの少女には、名も過去も有りませんから。」
 「……え?」

 閻魔は少女の額からその肩を抱く幽々子へと視線を上げると、少女へと問いかけるように口を開いた。

 「彼女の……西行寺幽々子の舞を見てどう思いましたか?」
 「……素敵だな……と、それだけです。強いて言うなら、女の恋を舞った物だ、と」
 「それは良い洞察です。……本当にそれだけですか?」
 「う、あ」

 嘘を許さぬ視線が、じいと少女を見つめた。
今にも吐きそうになりながら、少女は一つ一つ言葉を選び、こぼしていく。

 「……あの舞を見ていると、なんだかざわついて……身体の中が引っ張り出されている見たいで、気持ちが悪くなって……」
 「そうでしょうね。死ごと惹き付ける力ならば、彼女に勝る者は居りません。
  貴女の中に在る"ものども"も、こう魅せつけられては黙っては居られないでしょう」
 「私は、死んでいるのですか……?」

 声を震わせて膝を立てた彼女を、閻魔は目で制した。
灯籠の光が揺れて、ちらちらと影を不定形に揺さぶる。立ち上がりかけた膝をゆっくりと引き戻し、深く呼吸をした。

 「場合によっては、もっと質の悪いものです。
  それは……それは間違いなく貴女の選択であり、性質であり、因果であり……まったきの『黒』であると言えましょう」
 「私が……悪だと」

 震える唇が一文字に結ばれる。

 「見なさい」

 そう言って閻魔が取り出したるは一枚の手鏡。
少女は言われた通りにそれを覗き込み、どろり、と瞳孔を開く。

 「何……これ」


 視線の先は、昏い昏い闇の中で有った。
時折、其処が水の中である事を示す気泡が混じる以外、何も存在しない漆黒。
その中にぽつんと、自分と同じ顔の女が目を閉じて沈んでいた。
ぶくぶく、ぶくぶくと泡を立て、石のように沈んでいた。


 「それが"あなた"」
 「違う……私は、ここに」
 「ええ、身体だけはここに在ります。ですが、名と、魂魄と、縁と……人を人たらしめる物は、全てその現身の中に」

 彼女の全てを詰め込んだ現身は、雲のように白く、そして空のように蒼かった。
手も足も無く、死装束だけを着せられて、底へ底へと落ちて行く。

 「ぽっかりと空いた身体が、只々"弱者救うべし"と言う信念に基いて、
  平常で有れば意識に働きかける事も出来ない雑霊に取り憑かれ、動き出したのが今の貴女なのです。
  故に貴女に名乗るべき名は有りません。故に貴女に知るべき過去は有りません。
  それを得た途端、貴女達はまったくの別の者として生きていくしか無いのですから」
 「……それでも、良いでは無いですか。それで救われる者が居るのなら、このような女なぞ、何の意味が有ると言うのですか」

 呆けていた少女は、やがて光を取り戻すと、いきおい閻魔に向かって頭を伏せた。
声を荒ませ、必死の形相で教えを懇願する。

 「教えて下さい。信じられる物が、無いんです。依るべき場所が、見当たらないのです。
  私は誰かを救い、正しい『白』の中に居たいのに、私一人では善か悪かも、分からないのです」
 「……」
 「私は、何を為せば良いのですか。私が悪いと言うのならば、どうすれば善き行いを出来るのですか!
  閻魔様! どうか教えて下さい。このまま私は、がらんどうで居ろと言うのですか……!?」

 涙すらも堪え、畳を掻き毟り、名無しは問う。黒髪が大きく散らばり巣を作る。
地に擦り付ける勢いで下げられた額を、乾いた目で閻魔が見下ろした。
瞼が閉じ、そして開く。赤毛の死神は眉根を寄せ、仄かに居住まいを正した。

 「――貴女が積むべき善行を、私は知り得ておりません」
 「……ッ!」

 愕然と。他ならぬ閻魔の口から放たれた言葉が、瞳を黒く塗り潰し鯉のように口を開かせる。
衝撃的で有ったのは、他の二人も同様だったのだろう。俄に焦ったふうな口調で、小柄な少女閻魔へと問いかけた。

 「ちょ、ちょっと四季様……?」
 「善行とは、己の為になすべき物。理無き奉仕は、遠く見れば誰かを毒し、害する事にしかなりません。
  善行とは、人の縁を辿る物。誰の為にも成らぬ善行など、在りよう筈が無いのです。
  いずれにせよ、貴女の縁は貴女に向かって閉じていない。
  何をした所で、その結果は霧散して返って来る事が無い。
  今、貴女がしている事は、結局誰の助けにも成らない……それどころか歪めてしまう、自己満足でしか有りません。
  故に、貴女は悪。その行いこそが、無知故に、純粋故に、最も為に成らぬ悪なのです」

 断定的な目が、自然と頭を下げる少女の後頭部を見下ろした。
白を白、黒を黒と分ける閻魔の言葉に、指の先から血が出る程に爪を立てながら、彼女はえづく。

 「そんな事、無い……そんなの、私のせいじゃない……!」
 「ええ、貴女のせいではない。しかし現実として、貴女の状態は歪んでいる。
  ……まったく、よくよく八雲紫の想定を外す者ですね、
  例え魂が離れていれど、普通は身体に残りし魄が自らと違う存在を拒絶し、押し出す筈なのですが。
  それを、彼等の声なき声を聞き、自ら入れ物として身体を明け渡してしまうとは……」

 閻魔が頭を抑えると、それまでの刺すような雰囲気は消え、はぁ、と呆れたような溜息の音が聞こえた。
しかし少女は目を見開いたまま、吐き気を抑えて頭を下げる。
閻魔の言葉が真実を切り裁く度に、蠢きが痛みを伴って増して行った。

 「本音を言えば……私が只の無知無学の徒で在ったならば、その献身に、その博愛に喝采を送りたい。
  ……しかし、私は閻魔。一度人に取り憑いた霊は――例えどのように脆弱であれ――
  いずれ怨霊に成り果てるしか無い事を知っている。
  己の死を受け入れる事が出来ずに、肉体という蜜に釣られ、魂を害する存在となって行くでしょう。
  沙汰を仰ぐ事も無く、人に取り憑いたと言う罪だけで……問答無用で地獄に落ちるしか無いのです。

  ……それが貴女の無知故の罪と言うのならば、紛う事無くその通り。
  そも、かのガウタマ・シッダールタが長い年月を掛けて悟った"救い"を、たかだか三ヶ月で追い越せる筈が有りません。
  ……今は、時間を掛けてその志を育みなさい。焦りは苦しみしか産まないのですから……」

 「だって……だって、子供だったのよ……!
  誰にも気付かれない境内の済で、今にも消えそうな声で、お母さんが居ないんだって泣いてた!
  ええ、他にも一杯いたの! 白くてふわふわとしたしっかりした奴らじゃない、本当に今しか世界に存在出来ないような!
  幻想郷は全てを受け入れるのでしょう? だったら、彼らが居る事の何が悪いのよ……!」

 無意識化で有った想念が、戻ってきているのだろう。
黒く長い髪を散らばらせ、少女は先程までからは考えられないような慟哭を上げる。
短く息を吐き、ギラついた瞳で睨み上げ、何かを守り掻き抱くように、胸を抑えた。

 「善行さえ積めば、この子達は三途の川の底に沈まなくて良いのでしょう!?
  今直ぐじゃなかったら、輪廻転生からも弾かれて、永遠に失われてしまうのよ!
  少し……彼らに、"自分"が出来るまでのほんの少しだけで良い!
  それでちょっと位、私が傷ついたって……」

 「ですから、その魂を傷つける事が重罪なのです。
  善も悪も分からぬ無邪気な魂に、貴女は無邪気なまま大罪を犯させているのです。
  自殺とは、殺人の中で最も重い罪。自らを傷つける事に、正当な道理など有る筈が無いでしょう!」

 地獄の底をも震え上がらせるような声で、四季映姫の喝が飛ぶ。
折り目正しく膝を畳み、ピンと張った背筋から振り降ろすように、閻魔は悔悟棒を少女へと突きつけた。

 「そのような態度で、善行を積めるとお思いですか。
  徳とは、困窮した者へ只身を差し出せば良いと言う物ではない。
  道理を突き抜けた捨身飼虎を行いたいならば、己の命の価値をしっかりと見定めなさい」

 「……アンタに、何が分かるの……ただ、裁くだけの癖に……
  決められた法と、目の前の事実だけに目を向けて……人を救おうなんて、考えても無い癖に!
  ゴータマ某が何よ! 知慧なんか結局人間達に忘れられて、幾十億の何分の一を処理してるって言うのよ!
  そうやって苦しむ事を恐れるから、私達は生きながら死んで行くんだッ!」

 まずい、と死神が手を伸ばした時には、既に頬を強く張り倒された音が静寂の中に響いていた。
映姫に叩かれ赤く痕を残す頬に手を当て、少女は崩れ落ちた姿勢のまま呆然と見上げる。



 「英雄ごっこもいい加減にしろッ!!」



 そこそこ付き合いが長いと自負している幽々子からして、これ程に激情を露わにした四季映姫の姿は初めてであった。
普段の冷静な佇まいが嘘のように肩を怒らせ、直ぐに瞳を自責と後悔の光で彩ると、後ろの障子戸へと手を掛ける。

 「――すみません、私とした事が軽率でした。少し頭を冷やしてきます」

 そうして閻魔が出て行くと、その場を痛みに啜り泣く声だけが支配した。
残された死神――小町は幽々子と顔を付き合わせ、お互い困った風に肩を竦め、少女の肩に手を置く。

 「まぁ……なんだ。今のは、ちょっと四季様が悪かったよ。
  あの人も色々溜まってるもんが有るんだ。本当に……僅かだけれど、子供っぽい所が残ってんのさ」

 ぐすぐすと泣く少女を、小町は背中を擦り慰める。

 「はぁ……なんか、ずるいわ~。上司と部下でそう言う風にお互いを理解してるのって……
  妖夢とか、私の事ちゃんと理解してくれてるのかしら~?」
 「むしろアンタはもうちょっと妖夢に分かりやすくしてやるべきだと思うけどね……」

 呆れた声を上げる小町から啜り泣く少女を受け取ると、幽々子はそれを胸に抱き寄せ、後頭部をとんとんと叩いた。
その時、すうと彼女の背中から白い靄が飛び出して、霞始めた空へと向かい出す。

 「……あ……」
 「……この子達、閻魔様の説教で、自分が何をしてるか理解したのね。
  『申し訳ないから出て行く』って言ってるわ。……それと、『優しくしてくれて有難う』って」
 「待って……待ちなさい! アンタ達は、まだ一人で逝くような力は……!」
 「大丈夫、ここまで来たんだもの。私が力を貸してあげる」

 幽々子が扇を一振りすると、今にも消え失せそうな儚い靄は、淡く光る蝶々へと姿を変え、飛び立っていった。
十、いや二十は居るだろうか。少女の身体から靄がすり抜け飛び立つ様は、羽化していく蝶の群れのようで。
少女はそれを見届けると、がくりと全身の力を失い、操り糸を無くした人形のように崩れ落ちていく。
後には、再び死の空間に相応しい静寂が残された。

 「……女は何時までも、守られてばかりじゃ居られないの。
  それが中々、分かって貰えないのよねぇ」

 夏に舞う雪のように儚く、死出の少女の呟きだけが、溶けて消えた。


 ◆


 -○○-○--○---○--○

 泡の音が、はじけて失せる。
ぱちん、ぱちんと、潰れて無くなる。
ここはどこ? 暗いシンカイ。死者と亡念が濾されて混ざり、真っ黒に染まる心のウミ。

 ――誰も生きては居ない。誰も死なせてくれない。誰も期待させてくれない。誰も救ってはくれない。

 この世は只々苦しくて、生まれ落ちるのも、死んでいくのも辛い事。
だから、輪から外れましょう。お手手繋いでクルクル回る、馬鹿らしい真似なんか真っ平御免。

 ――私は一人で良い。私は孤独で良い。私は空虚で良い。だから、私は賢い。

 だって、そう言う事でしょう?
「皆で繋げば千切れない」なんて誰かが唱えた蜘蛛の糸。絡まり合ってぐっちゃぐちゃ。
「皆で行けば怖くない」なんて誰かが唱えた肝試し。まるっと纏めて化け物のご飯。

 ――皆で行くから進めない。皆で行くから戻れない。

 イチたすイチがニ、なんて幻想なの。ううん、数式の問題じゃない。
アンタ達が無邪気に信じてる、イチとイチが在れば勿論プラスの筈だ、ってのが間違いなのよ。
イチころすイチころすイチころすイチころすイチは? ほうら、「皆」がゼロになる。
私なんて、ずっとそれしか知らなかった。


 ……でも。
でも、「皆」は無理でも、ほんのちょっとだけなら。
イチたすイチがニは無理でも、ゼロに成らずにいられるのなら。

 ――思ってしまった。願ってしまった。知ってしまった。味わってしまった。

 だから、私はもう戻れない。
一人になんて、成りたくない。
賢いフリなんて、したくない。
……ともだちが、出来たの。ともだちが出来たのよ!

 真っ黒な闇の中から、青白い手がいっぱい伸びてきて、服の裾をつかむ。
私は、抵抗しなければ楽に成ると知っていて、なお身体を捻り、藻掻く。

 ――そう、私は。もうこの手を――


 -○○-○--○---○--○




 ス、と意識が0と1の結界から浮上する感覚。軽く伸びをしてペリペリと貼り付く残滓を剥ぎ落とす。
古明地さとりは、自分自身で夢を見る事は無い。
眠っている他人の近くで自らも眠りについた場合のみ、ラジオの混信めいてその夢を――

 「――今のは、誰の?」

 無言のままに部屋を見回した。普段から低血圧気味の顔が、さらに人相を悪くする。
妹に馬鹿にされるな、とさとりは思った。最もここ数ヶ月、あの妹の顔を見たと言う話すら聞かないが。

 「何だったのかしら……」

 どうやら、執務室で作業をしている内にうたた寝していたらしい。
手近な鏡をとって、変に痕が付いてたりしないかをチェック。こういう細やかな心配りが館の主としてのカリスマを保つのだ。

 「やだ……また、涙の痕が……」

 仕事をしてる内に、眼精疲労にでも成ったのだろうか。ここ暫く、さとりは寝ながら泣いている事が多いらしい。
いくらペット達に心配されても、心当たりが無いのが不気味な所である。
覚り妖怪は目が命。場合によっては、地上の竹林に居ると言う医者の所までこっそり出かけなければいけないかも知れない。

 「まぁ、そんな事に成らないよう、せめて野菜を多めの食生活にしておきますか……」

 あんまりヘルシーだとまたペット達がぶつくさ騒ぎ出すが、背に腹は代えられない。
確か、お燐の情報ではビタミンDが目に良いのだったか。では今度、八ツ目鰻の蒲焼のおつかいを……


 ……~~


 「あら?」

 視界の端をひらひらと。さとりが目頭を揉んでいると、蝶がふわりと換気用の窓から飛び込んで来た。
それも、只の蝶ではない――いや、地底という場所を考えると只の蝶でも相当珍しいが――淡く光る、死蝶である。

 「珍しい……本物を見たのは、初めてだわ」

 いつの間にか姿をくらましたあの剣客の老人が居なければ、存在すらも知らなかったであろう。
あまりの儚さと美しさについ指を伸ばそうとして、さとりはその行為の危うさに気付きハッと手を引いた。
老人の記憶では、この美しさは触れただけで魂を抜かれる猛毒だった筈。
弾幕戦の記憶にもある事を考えると全てがそうと言う訳でも無いのだろうが、迂闊に触るのは危険だ。

 「これは、怖いわね……こんなに綺麗なのに」

 ゆらめくままに部屋を出て行こうとする蝶を追い、さとりは立ち上がる。
知識が有るさとりですら無意識に誘われそうになってしまったのに、力の弱いペット達が惹かれたら大惨事に成るかも知れない。
そう思って、追いかける。……その事自体、既に誘われている証左とも気付かずに。



 ひらひら飛ぶ蝶を追いかけて、地霊殿の廊下をぽてぽてと歩く。
眼下からステンドグラスを通し、灼熱地獄跡の光がさとりの目を焼いた。
見慣れた筈の廊下がなんだか朧気に感じられて、さとりは瞼を擦る。蝶が光の顆粒をはらはらと落とす――

 「……?」

 そういえば、随分と周りが静かだと、さとりはお燐とお空の部屋を通りがかって気が付いた。
妙に寝付く事が出来ず執務室で作業を始めた時、時間は既に深夜だったはず。
うたた寝してしまった結果、ある程度時間が過ぎ去ったのだろうか?
動物が多いだけあって、時間には色々とアバウトな地霊殿で有る。基本的にさとりの生活圏以外には時計が置かれていないので、今直ぐに時間を確かめることは出来そうにない。
時間と切り離された空間は、何処かふわふわと頼りない感触を返していた。
これから何処に行くのだろうか。ここまで何処から来たのだろうか。ゲシュタルト崩壊のように、少し考えれば分かる筈の事が不安になってくる。
そうは言っても、住み慣れた地霊殿だ。冷静になって思い出せば、行き先に何かが有るかなんて、直ぐに……

 「こいしの、部屋……?」

 閉ざされた戸をすり抜けて、蝶々はスウと部屋の中に入っていった。
ハート状の木板の隅に、デフォルメされた青と黄色のバラの絵が描かれたドアプレート。奇妙な符丁を感じ、さとりは立ち竦んだ。
数日おきに掃除している以上、この部屋に鍵はかかっていない。入ろうと思えば、直ぐにドアを開けることが出来る。
それだけの事の筈なのに、どくん、と心臓が鳴った。

 ――何かが、有る。

 妖怪の勘、ではない。父親と一緒に暮らしていた頃の私が、記憶の片隅から警鐘を鳴らしている。
願わくば。願わくばそれが愛しい妹の顔であって欲しいと念じながら、私はドアノブを掴む。
蝶番の油が古いなんて事は無いはずなのに、ドアはやけに大きい音を立てて開いた。
目の前には、見慣れた簡易の棚が付いた机。そしてその上に、あの子が何処からか拾ってきた写真立て。
無邪気に拾ってきた絵葉書や新聞の端布を、思うがままに飾っている。
ドアの近くに高い本棚。本なんて全然入っていなくて、あの子の興味を引いた品々が乱雑に箱に詰められて置かれてた。
唯一、鍵の付いた箱の中にはあの子の宝物が詰まっているらしい。……私にはちょっと、怖くて開ける気も無いけれど。

 ――あの子は居ない。それがちょっと残念で、けれど何処かホッとしてしまって、私は罪悪感で溜息を吐いた。

 部屋の中に視点を移す。ベッドの上に脱ぎっぱなしに成った、あの子の帽子。
リボンの付いた黒くて丸い帽子は、少しはお姉さんぶりたくてあの子に買って上げた物。
気に入ってくれていたと思っていたけれど、それがベッドの上に放り出されていると言う事実が、ちょっとだけ私を打ちのめした。
黄色いリボンまで外れてしまって、自分で結べないのならその時くらい声を掛けてくれればいいのに。

 ……直ぐに手を伸ばさなかったのは、その上に、死蝶がちょこんと止まっていたから。
視点なんて無いはずだけど、羽根を垂直に、じっとこちらを向く様はなんだか何かを訴えているようだった。

 タスケテ。

 声というのもおこがましい、本当に微かな思いが、見えた気がして。目を瞬いた時には、蝶は光の粒となって消えていた。
心臓が鳴る。引けた腰で、そろそろと帽子に向かって手を伸ばす。
何にせよ、このまま放られっぱなしと言うのは忍びない。リボンを巻き直してクローゼットの中に入れてやろうとして、違和感。

 ――あの子の帽子、こんなのだったっけ?

 つばの広い、丸型の黒い帽子と言うのは共通している。
けれど、細かな質感とか、サイズだとか……そういった細々が違う気がして、さとりは息を呑んだ。
リボンを巻こうとすれば分かる。明らかに、リボンに対してサイズが小さい。
これではまるで……そう、もっと小さい子供に向けて、こしらえたような。

 ――どうして!?

 どくん、どくんと響く音がうるさい。この黄色いリボン自体はあの子の物。それは間違い無い筈だ。
なのに、何故帽子だけが違う? リボンが此処にあると言う事は、帽子の部分だけが何処かに消えて――


 誰かの物と、すり替えられて。


 どくん。ああ、知っている。私はこの帽子の持ち主を知っている。
どくん。だけど出来るはずが無いじゃないか。あの人の持ち物は、あの人が地上に残した物は、全てあの八雲紫が消していったじゃないか。
あの人が選んでくれた服も、あの人と一緒に覗き見た雑誌も。全て全て、炎の中に消えていった。私はそれを、きょとんとした顔で見ていたじゃないか。
だから、こんな所に在る筈が無い。それも……あの人の母親が、荒ぶカミの元と成った人間が送った物。
そんな重要な物品を、あの八雲紫が見逃す筈が無いのだ。血眼になった八雲紫から隠しおおせる者が――嗚呼、たった一人、居る。

 「あなた……今、何処に居るのよ……」

 どくん、どくん、どくん。心臓が胸を打つ度に、ポンプのように涙がこぼれ出す。
ぐしゃぐしゃに成った顔で、さとりはその小さな帽子を抱きかかえた。愛しい者を、強く抱きしめるように。
頭の中はぐるぐるで、歯の根の方はがちがちで、心を白い炎に焼かれないよう必死に身を捩りながら、さとりは縋る。
仮に八雲紫が意識と無意識の境界を操れても、"操ろうと思いつく"事が出来なければ一緒なのだ。

 ――咄嗟の時、何も手がかりの無い所からあの子の事を思い出せるのは、この私だけ。

 その確信が、頼りない姉妹の絆の一番太い綱が、皮肉にもたった一人の容疑者を絞り込む。



 「いったい、何をしているのよ、こいしィィッ!!」



 静まり返った地霊殿に響く、覚り妖怪の絶叫。

 ――その日の深夜、幻想郷の住人達を叩き起こしたのは震える大地の轟砲であった。


 ◆


 時は僅かに巻き戻る。


 朝焼けの光すら差し込まぬ、深き海の底。
凍り付いたように全ての「生」を刈り取られた其処に、カミは居た。
……本来、死気たる水気に溢れていても、やがては木気たる流れが生じ、命を育んでいく。
そう、それは例え死体であれ、いずれは芽を、虫を、そして森を育んで行くかのように。

 ――その場には、一切の流れと言うべき物が無かった。

 ただ沈むだけの水は、澱み、穢れ、いかなる生をも寄せ付けぬ毒となって身を覆う。
金剋木。克し過ぎた金気は完全に木気を陵辱しきり、死の王として其処に存在する。
穢れ過ぎた神威は、辺り一切の流れを消し去り澱ませる。
澱み過ぎた祟りは、幾千の死の呪言となって全てを犯す。

 「ドレスの裾のような物よ」

 八萬の怨霊を抱え、海底を呪い尽くすカミの姿を、八雲紫はそう評した。

 「裾だと?」
 「そう。とても、途方もなく長い……ね。実の所、核となるのは全体の中でほんの一握り。
  後の群体は彼女の撒き散らす怨念に惹かれて集まった有象無象」

 とは言え、その有象無象も星の数だけ集まれば、無視出来る筈もない。
視界に入る物の九割が怨霊と言う惨状は、肝心要の核を認識させない霧の壁となって阻む。
その、澱んだ水から僅かに離れた場所、昏い闇の中において、如何なる術を用いてか一組の主従がじっと観察を続けていた。

 「釣り出すわ。消滅させるにしろ昇華させるにしろ、取り巻きは邪魔になるから」
 「……その為の針と糸が、『アレ』か」

 剣士の視線の先に、この闇の中で尚淡く光る薄橙色の膜に包まれた、"容れ物"の姿が有った。
土偶と埴輪とビスクドールを足して洗練したような、乳白色の陶器で出来たヒトガタ。比那名居天子の変わり果てた姿。
手足が無いのに顔だけがやたらと精巧に作られており、いっそ憐れとすら思わせる。
八雲紫曰く「死んでは居ないし、何時でも戻せる」ように出来ているそうだが、果たしてその時精神は無事で居るのかどうか。
月のように光るその肌すら、最早黒い霧の隙間から僅かに覗くのを待ってしか見えない。

 「……剣の方は使わないのか?」
 「あれは、天界に置くって約束だもの。交渉するには時間が足りないし」

 調整役ってのも大変なのよ、と紫はぼやく。
そもそも、カミ"だけ"を気にするならば最初から坤の神に喰わせれば良い話だ。

 「しかし、願いも身体も奪われてあの姿……最早地獄だな」

 あれがもし自分だったらと思うと怖気が走る、と剣士は語る。
目の前に恐怖が迫っているのに、瞼を閉じる事も出来ないと言うのは、いっそ拷問だろう。

 ――仮に戻ったとして、果たして剣を再び握れるか?

 男は他ならぬ自分の願いの為に思考する。それを天子に対する憐憫だと思ったのか、八雲紫は刺々しい表情で釘を差した。

 「余計な感情では、必要ないものまで群がって来てしまうもの。
  『ドレスを着た女』だけを引っ張り出す物が必要なのよ」
 「あぁ、分かっているとも。それで、今から始めるのかね。己れの方は何時でも良いが」
 「……そうね、そろそろ頃合いかしら」

 スキマを用いて覗く地平線に、朝焼けが登ってきているのを確認して紫は頷いた。
既に、水中と空中の境界は弄っている。この二人に限り、空を飛ぶように重い水を切る事ができるし、呼吸も問題が無い。
核さえ切り離してしまえば、後は鴉合の衆だ。それでも万を超える数は脅威になり得るが、以前のように龍脈から幻想郷に侵入する事は出来まい。

 「白楼剣……勝手に持ちだされた時はどうしてやろうかと思ったけど、今にしてみれば正解だったわね。
  かと言って、他に方法は幾らでも有った筈だけど」
 「その小言はさんざん聞いたぞ……。要は、あの女だけを切ればいいのだろう?」
 「ええ、白楼剣で切った魂は、迷いを断たれ成仏する。例えそれが神仏の域になりかけの物だったとしても。」

 其の一太刀が一筋縄では行かぬのだ、とは紫も人鬼も理解している。
触れただけで死に至る穢れのヴェール。幾ら核だけを釣り上げたとしても、至るには何枚ものそれを剥がさねばなら無い。

 「文字通りの切り札よ? 心して掛かりなさい」

 返答の代わり、人鬼は半歩踏み込んで、姿勢を低くする。
白楼剣は最後の瞬間まで鞘の中に。仄かに桜の霊気を灯した白刃を抜き、構えた。
微かに揺らめいていた深海の澱が避け、啓示のように光が筋となって差し込んでくる。
黒い渦が、鬱陶しそうにほんの僅か瞳を閉じたかのように見えた。人鬼が駆け出した。


 「空餌『中毒性のあるエサ』」


 八雲紫がスペルカードを発揮させる。
結界によって四角く区切られた函に飛び込む幻想生物は、今は居ない。
代わりに偏在するのは"エサ"と成った女の恐怖や屈辱と言った悪感情。
怨霊どもが涎を垂らして飛びつく極上のそれを、惜しみもせず撒いていく。

 ssssShhHhhEeeeeeAAAAAAAA――!!

 狙い通り、穢れを為す怨霊の一部が一直線に飛び込んで来た。
幻想生物の為す白線と反する黒い一線、自分のスペルを起点に現れた弾幕を紫はひらりひらりと避け続ける。

 「まだまだ」

 一見自らを追い込むような行動の意味は、陽動にこそあった。
八雲紫がより多くの穢れを相手取れば、それだけ人鬼が懐に飛び込める確率が増えるのだ。

 「私を恨みなさい、比那名居天子。貴方の根幹を為す莫大なエス(無意識的欲動)を、全て私に向けるのよ」

 橙の結界の中にバチバチと電流が走る。
肌を刺すような痛みにヒトガタは声の無い叫びを上げ、海藻のように浮かぶ髪を波立たせた。
彼岸の果てに住むような例外を除き、今の比那名居天子に残された縁はたった三つ――即ち紫、人鬼、そして伊吹。
万が一彼女が祟りに取り込まれても幻想郷に咎が行かぬ為の処置で有ったが、紫は其処にもう一つ意味を持たせた。

 僅かな縁しか残されていない天子は、その莫大な自意識をたった三つの事柄だけに振り分ける
常人が持ち得ぬ、想いだけで呪い殺し兼ねない恨みの念。その攻撃性を、捻り、弄り、捏ね回し、八雲紫は穢れを誘う。
自らの持つ衝動すらも利用され、悔し気に引き締められた表情も直に無機質な無表情へと戻っていく。
人の尊厳だけを摩耗させ、稼働し続ける冷徹な永久機関……ともすれば悪魔的な仕掛けとも罵られるだろうそれを、紫は涼しげに使いこなしていた。

 其処に、自身こそ最大の胡乱で有るが故に全てを受け入れるような、普段の笑みは存在しない。
ただ大妖怪たる自負を持ってして、八雲紫は"比那名居天子"を削り取る。

 ――ならばせめて、己れも弦をとばすか。

 引き絞られた弩の矢のように人鬼は駆ける。
その足は尚軽く、尚疾く。瞬き毎に全盛期を更新し続けていると言う確信が、人鬼の口元に弓を作る。
エサに惹かれた黒線は避ける迄もない。目標までの最短距離をなお縮め、人鬼は桜色の閃光と化した。

 「我が悲願の剣、今こそ――!」

 加速、加速、加速。只々"死"すらも断つ事だけを想い、磨いたその刃。
その縁に、届く、という確信がある。想念が、現実を追い越していく。
"現在"を置き去りに、"未来"すら振り払い、"過去"を切り刻む。
故に"永劫を斬る"と名付けたその極地。たどり着いたと言う思いを胸に、人鬼と成った男は振り返る。

 ――そこに、己の姿が有った。

 桜色に輝く二刀を持って、自らに纏わり付く漆黒を切り刻む。
その姿を、自分の意識は確かに驚嘆を持って見つめている。

 「……これが、そうか。これが『一歩先に居る』と言う感覚か……!」

 将棋の棋士が何手も先を読むように、達人が数瞬先を想定しながら稽古を行うように。
実践の場において、数瞬どころか数秒を"置き去りにする"業こそ、未来すらも切る刃となりえるのか。

 ――己れは凡人だ。形無き物を切ると息巻いて居ても、その光景なぞ想像すら出来なかったが……

 ついに辿り着いたのだ。超常たる剣技、夢幻たる領域に、時間しか積み重ねる物が無かった自分が。
歓喜が沸き上がってくるのを必死に抑え、男は『結果』を観測する。


 一太刀目。向かい襲ってくる怨霊の手を、一文字に切り裂いた。
 二太刀目。白刀を散らし、桜吹雪が橙の結界を包む穢れを吹き飛ばす。
 三太刀目。人影のように形作られた影が、結界に張り付きながらも首だけをこちらに向ける。
 四太刀目。抜き放たれた白楼剣の刃が、無防備な背中に突き立とうと――


 ドンッ。


 「馬、鹿な」

 果たして白楼剣が貫いたのは……白磁で出来た、比那名居天子のヒトガタで在った。
ヒトガタは虚ろな目を見開き、自らの左胸に穴を穿つ刃を呆然と睨み付けている。

 「馬鹿なッ!」

 在り得ぬ筈だ。確かに白楼剣はカミの核たる魂を貫き、その迷いを断ち天へと導く筈だ。
天子のヒトガタが、手も足も無い状態で有りながら母を凶刃から護る為庇ったのか。
それともこの怨霊が、咄嗟に身近にある物を盾としたのか。

 ――否、どちらも在り得ない。在り得る筈がない。

 それ程の太刀であった。例え時を止められる者であっても、反応など出来るはずが無いと自負出来る程の。
しかし現実として刃は天子のヒトガタを穿ち抜き、天子の魂を切り裂いた。

 迷いを断たれた天子の魂が、地獄の如き闇の中をふわりと上がっていく。
その後を追いかけるかのように、荒びしカミもまた手を伸ばし幻想郷へと向かう。自らに付き従う、死の穢れを身に纏いながら。
呆然とそれを見上げ、男は突如として背後に開いたスキマの中へと突き落とされた。

 刹那の間、八雲紫と視線が交錯する。
その目は、決して失望ではなかった。落胆でもなく、ただ冷徹に、自らの役割と式に課す役目を語っていた。

 ――即ち、カミの核となる女を再殺せよ。
 ――即ち、少しでも被害の拡大を防ぐ為……万を超えるこの怨霊を、八雲紫の全てでもって食い止める。

 「そんな筈が無い、そんな筈が無いのだ」

 高揚は最早無く、掴んだ筈の『感覚』も、泡の如く消え失せた。
それでも男は未練がましく言い聞かせる。確かに己れは為したのだと、誰に聞かれることも無く。



 「こんな馬鹿な事が在るかァァァー――ッ!!」



 閉じ行くスキマの中に木霊する、垂らされた蜘蛛の糸を引き千切られた男の声。

 夜が来る以上、何時か朝日は昇る。例え、それを望まない者が居たとしても。ただ冷徹に。

【人心照悪】(下)に続きます。
※誤字修正しました。
はまちや
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コメント



0.450簡易評価
5.100絶望を司る程度の能力削除
さて、どう足掻くかな・・・?
6.100名前が無い程度の能力削除
こいしは何がしたいのか…?萃香は責任を取れるのか…?さあ次読も
9.100名前が無い程度の能力削除
今回で完全に惹き込まれましたわ
10.90名前が無い程度の能力削除
紫を死に誘う幽々様の凄まじさ…このヒト怒らせたらアカンひとや…
衣玖さん素敵。これ読んで衣玖さんが好きになった。

>八雲ようにも  >お父ように (若しかしてわざとやってる?)
>宴会を開く為に買い出しをして待っておくらしい (待っておく?)
>それだけが行持なのだ  矜持?
>寂しくは程度に質素な物だ  寂しくは無い?
>頭から地をだくだくと流しながら  血を
>どれ程の規模ならばそう成るなのか  成るのか
>天に命を裁かれるべき人間では、金輪際無かったはずだ
古い言い回しとして間違えではない。
しかし近年の言い回しで「~~無い」とすると別の意味が生じる。
この場合 断固として無い/断じて無い の方が相応しいかも?
>冷点下  氷点下?
>無意識化の確信めいた  無意識下
>纏めて断ち切る為の他何が有る  ???

>莞として牙を見せ
もしや当て字っぽいけど 莞(ニコ/ニッ) って読むの?
11.40名前が無い程度の能力削除
やっぱりアメコミばりの擬音に笑ってしまう。
地の文や会話文で普段使わないような古めかしい
言葉や難読漢字を使ってるのにいきなりアルファベットが
出てくる違和感がものすごい。
15.100名前が無い程度の能力削除
すごい引き込まれる、はやく先がみたくなる作品…