絶えず幸福になろうとしている状態にあるかぎり、我々は決して幸福になることがない――パスカル『パンセ』より
§
「なあ霊夢。もし私が本当の魔法使いに……妖怪になったら、お前は――」
額ににじんだ汗が冷たく乾いていく。寝ている間に抜け落ちたらしい髪の毛が一本、私の皮膚から剥がれ落ちた。けだるい体を起こして、頼りない足取りで台所を目指す。そうしてぬるい水を飲み干すと、私は体の中に停滞していた重い空気を大きく吐き出した。
全くもって嫌な夢を見たものだと思う。
そう、ただの夢――かといえば、そんなことはない。
それは数日前、実際に私が魔理沙に言われた「馬鹿みたいなこと」だった。
普段ならばそんなことを言われても、「何を馬鹿なこと言ってるのよ」とでも言って、私は冗談で済ませただろう。けれどそのときだけはどうしてか、自分でも衝動さえ感じることすらなく、完全なる無意識のうちに――魔理沙の頬を叩いていた。
すぐに「ごめん」と謝ればよかった。実際、私もそうするつもりだった。けれどどうしてか私は何一つとして言葉を紡ぐことが出来ないまま、気付けばその場から逃げ出していた。
魔理沙は追ってこなかった。それはきっと、追いかけても何を言えばいいのか分からなかったからだろう。
――本当に、一体全体なんだというのか。
何しろ自分でも訳が分からないのだ。魔理沙の言葉に怒りを覚えたのかといえば、決してそんな訳でもなかった。魔理沙の問題は、どこまでいっても魔理沙の問題でしかない。私には魔理沙をどうこうする権利なんてあるはずもない。魔理沙の決断は魔理沙だけのもので、だから彼女がそうすると言うなら、私はただそのままを享受する他ない。
一昨日、そんな話をたまたま訪ねてきたレミリアにした。
彼女は妖しく笑いながら「それは素敵なまでに理想的ね」とだけ言った。どういう意味かと尋ねても、彼女はただはぐらかすだけだった。
――理想。
その言葉の意味をずっと考えていた。理想とは最善および最高の状態にあることを指す。この上なく良い状態――しかしそれは、必ずしも肯定的な意味で使われるわけでもない。
理想の対義語は現実と定義されている。その意味で理想は、ありもしないものの喩えとして使われる。理想はどこまでいっても理想であり、現実ではない。現実にはなりえない。
それを際限なく追いかけることを、だから人々は「青い」と一蹴する。
理想を追い続ける限り、理想が叶うことはない。つまるところ、理想とは幻想である。だから理想は嘘だと、虚偽の象徴――欺瞞だと、そう人々は言う。
けれど、本当にそうだろうか。
理想を追うことは確かに嘘かも知れない。
しかし――理想を追わないこともまた、嘘ではないだろうか。
欲しいものを欲しいと言わないのは、そうした強がりの上に成り立つ我慢は、結局のところ虚飾でしかないのではないか。
そんな話を昨日訪ねてきた幽香にした。
私の話を聞いて彼女は「あの吸血鬼も意地が悪いわね」と、嘆息。
「でも、そうね。貴方はたぶん見えていないのよ」
「見えていない?」
「そのままの意味よ。他人のことではなく、霊夢自身のことがね」
結局彼女はそれだけを言い残すと出されたお茶を飲み干し、神社の庭に花を咲かせて帰っていった。蘭に似た花で名前は分からないが、綺麗なのでまあいいかと思う。
花のことを思い出したついでに、私は朝の用事を済ませると庭に出て如雨露で水遣りをする。そうしていると表の方から私を呼ぶ声が聞こえてきた。
「霊夢ー、桃持ってきたわよー?」
なんだ天子か。多分放っておいても勝手に入ってくるに違いない。
「霊夢ー? ……なんだ、いるじゃない。何してるの?」
「花の水遣り」
「あれ、霊夢ガーデニングなんてやってたんだ」
「何も植えてないのに昨日突然咲いたのよ」
「ふーん、変なの」
変なの、で済ませてしまう天子の方が変だ。まあいいけど。
「シンビジウムか。ちょっと前まではこればかり見ていたけど、そういえば最近は急に見なくなった気がするわね。……あれ、でもこれ季節外れじゃない?」
「知らないわよ。花の名前も今知ったくらいだし、昨日幽香が咲かせていっただけだから」
「ああ、そういうこと――」
何やら得心いったらしい天子が一人で頷いた。
そうしてしばらく、私は黙々と水遣りをして、天子もそれを静かに見ていた――はずだった。
「…………何してるのよ」
「いや、暇だなと思って」
「あんたが暇だと、どうして私のリボンに桃をくっつけることになるわけ?」
「お揃い!」
「やめてよね、私まで頭桃色のアホの子みたいに見えるじゃない」
「酷っ!」
全く、何がしたいんだかこの不良天人は。そう思いながら私は頭の上の桃に手を伸ばす。
「あれ、これ取れないんだけど?」
「そりゃもう天人パワーで、って痛い痛い! 分かった、取るから!」
全くこの天人は、何百年も生きていると自慢する割に子供っぽいイタズラが好きで困る。こないだも「私が子供っぽいのだとしても、それは子供が私に似ているだけよ」とか子供みたいな屁理屈をこねていた。
「で、霊夢さ。何かあった?」
「………………」
子供っぽいと油断していたら、これだ。卑怯この上ない。
私は一瞬考えて、結局天子に話すことにした。
魔理沙のこと、レミリアや幽香の言ったこと、そして私の考えたことを。
そうして全てを話して、少し考えた天子が口を開く。
「んー、分かった。霊夢、魔理沙に会ったらこう言いなさい。《人間のままの魔理沙が好きだから妖怪にならないで!》って」
「なっ」
「だって霊夢、今の魔理沙のこと好きでしょ? どれくらい好きなのか、程度までは分からないけどさ。欲しいものは欲しい、好きなものは好き。それでいいじゃない。妖怪になった魔理沙のことをまた好きになれるかなんて、分からないんだし」
それでいいじゃない、と簡単に言ってくれる天子。
しかしそんなことを、恥ずかしげもなく言えるような私ではないのだ。
「それならそれでもいいんじゃない? 何事にも動じないクールな自分が好きってのでもいいわよ。そういう無頓着なところも霊夢の魅力だろうし。魔理沙が妖怪になってもまあいいかって、いつもみたいに片付けるのでもそれは別に構わない。ただそれを決められるのは霊夢だけ。そういう意味では多分、みんな同じ事を言っているのよ――霊夢、貴方の本当の望みは何、ってね」
私の本当の望み。私にとっての幸せはどんな形をしているだろうか。
――ああ。
なるほど、確かに私には見えていないのだろう。
だからレミリアは「素敵なまでに理想的」などと皮肉を言った。それは果たして誰にとっての理想か。
それを意地が悪いと評した幽香はそのまま答えを言っていた。
そして、それを分かった上で決断できずにいる私に、天子は言うのだ。「決められるのは自分だけ」だと。
だから私は知らなければならない。私にとっての理想とは何であるのかを。そして、その上で選ぶ必要があった。
沈思黙考。
しばらく自分の幸せについて本気出して考えてみた。
そこに見える風景は、今と別段変わったところはない。みんなが思い思いに馬鹿なことをやっている。魔理沙も同じだ。私の仕事を横取りしようとして失敗したり、そうかと思えば一人で小さな異変を解決したり。私が気付いていないと、どうやらそう思っているらしいけど、私はちゃんと見ている。私を出し抜いて一人で異変を解決した直後の魔理沙はどこか得意げで、常ににやにやと笑みを浮かべている。だから分かる。けれど私は気付かない振りをしている。それはどうしてだろうか。
――魔理沙だからだ。
魔理沙に負けるのは悔しい。それは確かだ。けれど心のどこかで、私が負けるとしたらそれは魔理沙だろうと、そう認める心があるのも事実だった。
魔理沙は私にとっては珍しく、対等に競い合っていける人間だ。
だから子供みたいに張り合ったり、時に馬鹿みたいなことで喧嘩をしたりする。
魔理沙に負ける分には、まあいいかと思って、でも次は勝とうと心に誓う。
けれど――もし魔理沙が種族としての魔法使いに、人間から妖怪になったなら。
この対等の関係は崩れてしまうのではないか。
種族が変わっても魔理沙は魔理沙だと言葉にするのは簡単だ。しかし実際はそう簡単な話ではない。それだけ人間と妖怪は根本の部分では相容れない、異質の存在同士なのだ。人間にはありえない永遠の命は、人としての価値観を遠からず変質させてしまうだろう。
ともすれば、私は魔理沙に変わって欲しくないのだろうか。
――分からない。
思考は際限なくどこまでも続いていく。
ただ一つ思うのは、私は妖怪になった魔理沙とは、多分張り合おうとは思わないだろうということだ。
そもそもだ、どうして魔理沙は妖怪になろうと考えるのか。魔法使いという存在は、知的探究心の化物だ。その無限の知識欲に、人間の一生は短すぎる。だから人間という種族を捨て、永遠の命を欲する。
けれどその考えに、私は一つ思うところがある。
――それは諦観ではないだろうか。
人間であることに限界を感じ、諦め、敗北を認める。人間という種族を捨てるということはそういうことではないだろうか。違うと言われればそれまでだ。私自身、そこまで深く考えているわけではない。
けれど、そう考えれば全てがすっきり一本に繋がる気もする。
――私は、私が認めた魔理沙が「そんなもの」に負けることを望んではいない。
魔理沙には強くあって、そうして私と張り合える存在であって欲しい。
それは他人にこうあって欲しい、こうあるべきだという理想を押し付ける悪しき思考なのかも知れない。でも、それが私の正直な気持ちだった。
多分だけれど、私は今が幸せなのだ。私の幸せの形は、これなのだ。
そうしてこそ、私は今、はっきりと分かった。私の理想、幸せ、望みの全てが。
「天子……ありがとう」
「ん? まあ役に立てたなら良かったわ。そうだ、持ってきた桃だけど――」
「いつもどおり台所にでも置いておいてくれたらいいわよ」
「そう? ……ああそうだ、今から魔理沙のところに行くつもり?」
「……? 一応そのつもりだけど」
「それならもうちょっと待っていたら向こうから来ると思うわよ」
「どうして?」
「さっき魔理沙に桃届けたときにも、今みたいに相談に乗ってあげたから、何となくそうなる気がするだけ……って噂をすれば。それじゃあ私は邪魔しないように桃だけ置いて帰るから」
そういって天子はさっさといなくなってしまう。
入れ替わるように空からやってきたのは魔理沙だ。空気抵抗もお構い無しで空気を押しのけるように箒にまたがって空を飛ぶ魔法使い。優雅さとは無縁の彼女は、魔法使いの中でもどこか異質だろう。
「……魔理沙」
「よう、霊夢。何日ぶりだ?」
「さあ。百から先は覚えてないわ」
「いや、一週間も経ってないけどな」
そして静寂。
先に口を開いたのは魔理沙だった。
「こないだのことなんだけどさ、馬鹿みたいなことを言って、その、悪かったよ」
「……そうね。私も叩いて悪かったわ」
「じゃあ今回の件は――」
「まだよ」
「え?」
「叩いたことは謝ったけど、その話を終わりにするつもりはまだないの。魔理沙、私の答えが気になるでしょう? だから馬鹿みたいなことだと分かっていても口に出した」
「………………」
「私はね、今までずっと考えていたの。魔理沙が妖怪になったら、私はどうするだろう。私たちの関係はどうなるだろうって」
そうして考えているうちに、どんどんと深みにはまってしまった。いつの間にか自身の抱えた欺瞞を理想と思い込んでしまっていた。私の望みはもっと単純なものなのに。
「結局ね、出た答えは一つよ。魔理沙、あんたが妖怪になるって言うなら、私はあんたを退治するだけ。私は博麗の巫女で、博麗霊夢だから。妖怪になったあんたとは、きっと今と同じような関係は結べない」
「……そうか」
魔理沙は少し悲しそうな顔をして、目を伏せる。そんな顔をさせたかったわけではないけれど、それでもこれだけは言っておく必要があった。でも、本当に重要なのはこの先だ。
「私はね、今の状況がとても気に入っているの。だから、一度しか言わないけど……私は、今のままの魔理沙が好きよ。私は魔理沙が思っている以上に、あんたのことを高く評価しているの。きっとあんたならどんな長生きの妖怪よりも凄いことを、人間のままで成し遂げられると思っている。だから……私は、あんたが人間のままでいてくれた方が、嬉しいわ」
「……そうか」
さっきと同じ言葉を呟く魔理沙。けれどその表情は全く違っていて、恥ずかしそうに顔を赤らめ、そわそわと落ち着きなくあちこちに目線を動かしている。
そんな魔理沙を見ていると、私の方まで恥ずかしくなってくる。というか、多分私も顔が真っ赤だろう。心臓の脈打つ音がやけに大きく聞こえて、なんだか少し恥ずかしい。聞こえるはずもないのに、魔理沙に聞こえたらどうしようなんて考えている。駄目だ、私もだいぶ平常心を失っている。
「まあ、私はそう思うってだけだから。魔理沙がどういう選択をするかは、結局魔理沙自身の問題だし。ただ、魔理沙は私の――」
「分かった! もう分かったから! 私が馬鹿なことを言ったことは本当に反省しているから、これ以上追い打ちをかけないでくれ!」
「うーん? どうしよっかなー……なんて、ね」
そういって私がいたずらっぽく笑うと、魔理沙も我慢できずに笑い声を漏らした。
「……全く。やっぱりとんでもない奴だよ、お前は。私の想像なんて、軽く超えて行きやがる」
「そう? まあそう思うってことは、まだ魔理沙はちゃんと分かってないんでしょうね」
「分かってないって、何がだぜ?」
「自分という人間のこと、かな」
「……? なんだそりゃ?」
不思議そうな顔でこちらを見ていたが、私は笑って適当にはぐらかして見せた。
それからは、いつもと変わらない日常が戻ってきた。とはいえ、変わらないというのは結局のところ主観が見せる錯覚に過ぎない。本当は少しずつ変わっているのだろう。
私も魔理沙も、ほんの少しだけれどいつの間にか背が伸びた気がする。髪も伸びたから、レミリアと一緒に遊びに来た咲夜を捕まえて切らせたりした。魔理沙はまた新しい魔法を発見したと言って、嬉々として私にその魔法の有用性を語って聞かせた。私にはさっぱり理解出来なかったが、それでもやはり少しずつ私たちは変わっていっていることになるのだろう。
だからこの時間がいつまでも続くことはない。少しずつ変わっていって、いつかそれが大きな違いになって。おそらくそれに気付いたとき、この幸せな時間は終わってしまうのだ。
けれどそれでもいいと、今の私は思っている。
私たちが変わっていくなら、きっと私たちの幸せの形も変わっていくはずだ。
そして未来がどんな形をしているのか、私たちは知ることが出来ない。だからいつもどおりそれならそれで、まあいいかと、そう思うことにした。
そんなことよりも、今はここにある幸せを精一杯楽しもう。
そして願わくは、明日も明後日も、いつかの未来でも、私たちが幸せであれるように――。
柄にもなく、私はそんなことを考える。
そういえば、このあいだ魔理沙に花言葉事典を借りたことを思い出した。返すときはパチュリーに頼むとか言っていたので、多分盗品だろう。思わず大きなため息が出る。
気を取り直して私は事典のサ行を開く。
幽香が咲かせていった季節はずれのシンビジウム。それにはきっと何らかの意味があるはずだ。
シンビジウムはすぐに見つかる。そこに書いてある言葉は「華やかな恋」「高貴な美人」「深窓の麗人」などで、どれも私の想像していたような言葉とは違った。私の考えすぎかと思いながら、一応続きを見る。――そうして私は見つけた。
「誠実な愛情」
「飾らない心」
「素朴」
おそらくは、幽香が私に言いたかった言葉はこれなのだろう。全く、迂遠なことをしてくれる。こんなもの、あの花の名前すら知らなかった私が気付くはずもない。――もしかしたら天子は気付いたのかもしれないけれど。
とはいえ、そういうことであるのなら、周囲はみんな最初から分かっていたということだ。
確かに私も、幸せそうな人間は見ただけでも何となく分かってしまう。
分かっていなかったのは本人ばかりと、結局はそういうことなのだろう。
「霊夢ー?」
また誰かが私を呼んでいる。
全く、今度はどんな厄介ごとを持ってきたというのか。
けれど私は気付いてしまったのだ。持ち込まれる厄介ごとを面倒だと思う反面、そんな日常を楽しんでいることに。
「何の用? お賽銭?」
「そんなわけないでしょ」
呆れた声が聞こえたけど――それでも私は今、確かに幸せだった。
§
「なあ霊夢。もし私が本当の魔法使いに……妖怪になったら、お前は――」
額ににじんだ汗が冷たく乾いていく。寝ている間に抜け落ちたらしい髪の毛が一本、私の皮膚から剥がれ落ちた。けだるい体を起こして、頼りない足取りで台所を目指す。そうしてぬるい水を飲み干すと、私は体の中に停滞していた重い空気を大きく吐き出した。
全くもって嫌な夢を見たものだと思う。
そう、ただの夢――かといえば、そんなことはない。
それは数日前、実際に私が魔理沙に言われた「馬鹿みたいなこと」だった。
普段ならばそんなことを言われても、「何を馬鹿なこと言ってるのよ」とでも言って、私は冗談で済ませただろう。けれどそのときだけはどうしてか、自分でも衝動さえ感じることすらなく、完全なる無意識のうちに――魔理沙の頬を叩いていた。
すぐに「ごめん」と謝ればよかった。実際、私もそうするつもりだった。けれどどうしてか私は何一つとして言葉を紡ぐことが出来ないまま、気付けばその場から逃げ出していた。
魔理沙は追ってこなかった。それはきっと、追いかけても何を言えばいいのか分からなかったからだろう。
――本当に、一体全体なんだというのか。
何しろ自分でも訳が分からないのだ。魔理沙の言葉に怒りを覚えたのかといえば、決してそんな訳でもなかった。魔理沙の問題は、どこまでいっても魔理沙の問題でしかない。私には魔理沙をどうこうする権利なんてあるはずもない。魔理沙の決断は魔理沙だけのもので、だから彼女がそうすると言うなら、私はただそのままを享受する他ない。
一昨日、そんな話をたまたま訪ねてきたレミリアにした。
彼女は妖しく笑いながら「それは素敵なまでに理想的ね」とだけ言った。どういう意味かと尋ねても、彼女はただはぐらかすだけだった。
――理想。
その言葉の意味をずっと考えていた。理想とは最善および最高の状態にあることを指す。この上なく良い状態――しかしそれは、必ずしも肯定的な意味で使われるわけでもない。
理想の対義語は現実と定義されている。その意味で理想は、ありもしないものの喩えとして使われる。理想はどこまでいっても理想であり、現実ではない。現実にはなりえない。
それを際限なく追いかけることを、だから人々は「青い」と一蹴する。
理想を追い続ける限り、理想が叶うことはない。つまるところ、理想とは幻想である。だから理想は嘘だと、虚偽の象徴――欺瞞だと、そう人々は言う。
けれど、本当にそうだろうか。
理想を追うことは確かに嘘かも知れない。
しかし――理想を追わないこともまた、嘘ではないだろうか。
欲しいものを欲しいと言わないのは、そうした強がりの上に成り立つ我慢は、結局のところ虚飾でしかないのではないか。
そんな話を昨日訪ねてきた幽香にした。
私の話を聞いて彼女は「あの吸血鬼も意地が悪いわね」と、嘆息。
「でも、そうね。貴方はたぶん見えていないのよ」
「見えていない?」
「そのままの意味よ。他人のことではなく、霊夢自身のことがね」
結局彼女はそれだけを言い残すと出されたお茶を飲み干し、神社の庭に花を咲かせて帰っていった。蘭に似た花で名前は分からないが、綺麗なのでまあいいかと思う。
花のことを思い出したついでに、私は朝の用事を済ませると庭に出て如雨露で水遣りをする。そうしていると表の方から私を呼ぶ声が聞こえてきた。
「霊夢ー、桃持ってきたわよー?」
なんだ天子か。多分放っておいても勝手に入ってくるに違いない。
「霊夢ー? ……なんだ、いるじゃない。何してるの?」
「花の水遣り」
「あれ、霊夢ガーデニングなんてやってたんだ」
「何も植えてないのに昨日突然咲いたのよ」
「ふーん、変なの」
変なの、で済ませてしまう天子の方が変だ。まあいいけど。
「シンビジウムか。ちょっと前まではこればかり見ていたけど、そういえば最近は急に見なくなった気がするわね。……あれ、でもこれ季節外れじゃない?」
「知らないわよ。花の名前も今知ったくらいだし、昨日幽香が咲かせていっただけだから」
「ああ、そういうこと――」
何やら得心いったらしい天子が一人で頷いた。
そうしてしばらく、私は黙々と水遣りをして、天子もそれを静かに見ていた――はずだった。
「…………何してるのよ」
「いや、暇だなと思って」
「あんたが暇だと、どうして私のリボンに桃をくっつけることになるわけ?」
「お揃い!」
「やめてよね、私まで頭桃色のアホの子みたいに見えるじゃない」
「酷っ!」
全く、何がしたいんだかこの不良天人は。そう思いながら私は頭の上の桃に手を伸ばす。
「あれ、これ取れないんだけど?」
「そりゃもう天人パワーで、って痛い痛い! 分かった、取るから!」
全くこの天人は、何百年も生きていると自慢する割に子供っぽいイタズラが好きで困る。こないだも「私が子供っぽいのだとしても、それは子供が私に似ているだけよ」とか子供みたいな屁理屈をこねていた。
「で、霊夢さ。何かあった?」
「………………」
子供っぽいと油断していたら、これだ。卑怯この上ない。
私は一瞬考えて、結局天子に話すことにした。
魔理沙のこと、レミリアや幽香の言ったこと、そして私の考えたことを。
そうして全てを話して、少し考えた天子が口を開く。
「んー、分かった。霊夢、魔理沙に会ったらこう言いなさい。《人間のままの魔理沙が好きだから妖怪にならないで!》って」
「なっ」
「だって霊夢、今の魔理沙のこと好きでしょ? どれくらい好きなのか、程度までは分からないけどさ。欲しいものは欲しい、好きなものは好き。それでいいじゃない。妖怪になった魔理沙のことをまた好きになれるかなんて、分からないんだし」
それでいいじゃない、と簡単に言ってくれる天子。
しかしそんなことを、恥ずかしげもなく言えるような私ではないのだ。
「それならそれでもいいんじゃない? 何事にも動じないクールな自分が好きってのでもいいわよ。そういう無頓着なところも霊夢の魅力だろうし。魔理沙が妖怪になってもまあいいかって、いつもみたいに片付けるのでもそれは別に構わない。ただそれを決められるのは霊夢だけ。そういう意味では多分、みんな同じ事を言っているのよ――霊夢、貴方の本当の望みは何、ってね」
私の本当の望み。私にとっての幸せはどんな形をしているだろうか。
――ああ。
なるほど、確かに私には見えていないのだろう。
だからレミリアは「素敵なまでに理想的」などと皮肉を言った。それは果たして誰にとっての理想か。
それを意地が悪いと評した幽香はそのまま答えを言っていた。
そして、それを分かった上で決断できずにいる私に、天子は言うのだ。「決められるのは自分だけ」だと。
だから私は知らなければならない。私にとっての理想とは何であるのかを。そして、その上で選ぶ必要があった。
沈思黙考。
しばらく自分の幸せについて本気出して考えてみた。
そこに見える風景は、今と別段変わったところはない。みんなが思い思いに馬鹿なことをやっている。魔理沙も同じだ。私の仕事を横取りしようとして失敗したり、そうかと思えば一人で小さな異変を解決したり。私が気付いていないと、どうやらそう思っているらしいけど、私はちゃんと見ている。私を出し抜いて一人で異変を解決した直後の魔理沙はどこか得意げで、常ににやにやと笑みを浮かべている。だから分かる。けれど私は気付かない振りをしている。それはどうしてだろうか。
――魔理沙だからだ。
魔理沙に負けるのは悔しい。それは確かだ。けれど心のどこかで、私が負けるとしたらそれは魔理沙だろうと、そう認める心があるのも事実だった。
魔理沙は私にとっては珍しく、対等に競い合っていける人間だ。
だから子供みたいに張り合ったり、時に馬鹿みたいなことで喧嘩をしたりする。
魔理沙に負ける分には、まあいいかと思って、でも次は勝とうと心に誓う。
けれど――もし魔理沙が種族としての魔法使いに、人間から妖怪になったなら。
この対等の関係は崩れてしまうのではないか。
種族が変わっても魔理沙は魔理沙だと言葉にするのは簡単だ。しかし実際はそう簡単な話ではない。それだけ人間と妖怪は根本の部分では相容れない、異質の存在同士なのだ。人間にはありえない永遠の命は、人としての価値観を遠からず変質させてしまうだろう。
ともすれば、私は魔理沙に変わって欲しくないのだろうか。
――分からない。
思考は際限なくどこまでも続いていく。
ただ一つ思うのは、私は妖怪になった魔理沙とは、多分張り合おうとは思わないだろうということだ。
そもそもだ、どうして魔理沙は妖怪になろうと考えるのか。魔法使いという存在は、知的探究心の化物だ。その無限の知識欲に、人間の一生は短すぎる。だから人間という種族を捨て、永遠の命を欲する。
けれどその考えに、私は一つ思うところがある。
――それは諦観ではないだろうか。
人間であることに限界を感じ、諦め、敗北を認める。人間という種族を捨てるということはそういうことではないだろうか。違うと言われればそれまでだ。私自身、そこまで深く考えているわけではない。
けれど、そう考えれば全てがすっきり一本に繋がる気もする。
――私は、私が認めた魔理沙が「そんなもの」に負けることを望んではいない。
魔理沙には強くあって、そうして私と張り合える存在であって欲しい。
それは他人にこうあって欲しい、こうあるべきだという理想を押し付ける悪しき思考なのかも知れない。でも、それが私の正直な気持ちだった。
多分だけれど、私は今が幸せなのだ。私の幸せの形は、これなのだ。
そうしてこそ、私は今、はっきりと分かった。私の理想、幸せ、望みの全てが。
「天子……ありがとう」
「ん? まあ役に立てたなら良かったわ。そうだ、持ってきた桃だけど――」
「いつもどおり台所にでも置いておいてくれたらいいわよ」
「そう? ……ああそうだ、今から魔理沙のところに行くつもり?」
「……? 一応そのつもりだけど」
「それならもうちょっと待っていたら向こうから来ると思うわよ」
「どうして?」
「さっき魔理沙に桃届けたときにも、今みたいに相談に乗ってあげたから、何となくそうなる気がするだけ……って噂をすれば。それじゃあ私は邪魔しないように桃だけ置いて帰るから」
そういって天子はさっさといなくなってしまう。
入れ替わるように空からやってきたのは魔理沙だ。空気抵抗もお構い無しで空気を押しのけるように箒にまたがって空を飛ぶ魔法使い。優雅さとは無縁の彼女は、魔法使いの中でもどこか異質だろう。
「……魔理沙」
「よう、霊夢。何日ぶりだ?」
「さあ。百から先は覚えてないわ」
「いや、一週間も経ってないけどな」
そして静寂。
先に口を開いたのは魔理沙だった。
「こないだのことなんだけどさ、馬鹿みたいなことを言って、その、悪かったよ」
「……そうね。私も叩いて悪かったわ」
「じゃあ今回の件は――」
「まだよ」
「え?」
「叩いたことは謝ったけど、その話を終わりにするつもりはまだないの。魔理沙、私の答えが気になるでしょう? だから馬鹿みたいなことだと分かっていても口に出した」
「………………」
「私はね、今までずっと考えていたの。魔理沙が妖怪になったら、私はどうするだろう。私たちの関係はどうなるだろうって」
そうして考えているうちに、どんどんと深みにはまってしまった。いつの間にか自身の抱えた欺瞞を理想と思い込んでしまっていた。私の望みはもっと単純なものなのに。
「結局ね、出た答えは一つよ。魔理沙、あんたが妖怪になるって言うなら、私はあんたを退治するだけ。私は博麗の巫女で、博麗霊夢だから。妖怪になったあんたとは、きっと今と同じような関係は結べない」
「……そうか」
魔理沙は少し悲しそうな顔をして、目を伏せる。そんな顔をさせたかったわけではないけれど、それでもこれだけは言っておく必要があった。でも、本当に重要なのはこの先だ。
「私はね、今の状況がとても気に入っているの。だから、一度しか言わないけど……私は、今のままの魔理沙が好きよ。私は魔理沙が思っている以上に、あんたのことを高く評価しているの。きっとあんたならどんな長生きの妖怪よりも凄いことを、人間のままで成し遂げられると思っている。だから……私は、あんたが人間のままでいてくれた方が、嬉しいわ」
「……そうか」
さっきと同じ言葉を呟く魔理沙。けれどその表情は全く違っていて、恥ずかしそうに顔を赤らめ、そわそわと落ち着きなくあちこちに目線を動かしている。
そんな魔理沙を見ていると、私の方まで恥ずかしくなってくる。というか、多分私も顔が真っ赤だろう。心臓の脈打つ音がやけに大きく聞こえて、なんだか少し恥ずかしい。聞こえるはずもないのに、魔理沙に聞こえたらどうしようなんて考えている。駄目だ、私もだいぶ平常心を失っている。
「まあ、私はそう思うってだけだから。魔理沙がどういう選択をするかは、結局魔理沙自身の問題だし。ただ、魔理沙は私の――」
「分かった! もう分かったから! 私が馬鹿なことを言ったことは本当に反省しているから、これ以上追い打ちをかけないでくれ!」
「うーん? どうしよっかなー……なんて、ね」
そういって私がいたずらっぽく笑うと、魔理沙も我慢できずに笑い声を漏らした。
「……全く。やっぱりとんでもない奴だよ、お前は。私の想像なんて、軽く超えて行きやがる」
「そう? まあそう思うってことは、まだ魔理沙はちゃんと分かってないんでしょうね」
「分かってないって、何がだぜ?」
「自分という人間のこと、かな」
「……? なんだそりゃ?」
不思議そうな顔でこちらを見ていたが、私は笑って適当にはぐらかして見せた。
それからは、いつもと変わらない日常が戻ってきた。とはいえ、変わらないというのは結局のところ主観が見せる錯覚に過ぎない。本当は少しずつ変わっているのだろう。
私も魔理沙も、ほんの少しだけれどいつの間にか背が伸びた気がする。髪も伸びたから、レミリアと一緒に遊びに来た咲夜を捕まえて切らせたりした。魔理沙はまた新しい魔法を発見したと言って、嬉々として私にその魔法の有用性を語って聞かせた。私にはさっぱり理解出来なかったが、それでもやはり少しずつ私たちは変わっていっていることになるのだろう。
だからこの時間がいつまでも続くことはない。少しずつ変わっていって、いつかそれが大きな違いになって。おそらくそれに気付いたとき、この幸せな時間は終わってしまうのだ。
けれどそれでもいいと、今の私は思っている。
私たちが変わっていくなら、きっと私たちの幸せの形も変わっていくはずだ。
そして未来がどんな形をしているのか、私たちは知ることが出来ない。だからいつもどおりそれならそれで、まあいいかと、そう思うことにした。
そんなことよりも、今はここにある幸せを精一杯楽しもう。
そして願わくは、明日も明後日も、いつかの未来でも、私たちが幸せであれるように――。
柄にもなく、私はそんなことを考える。
そういえば、このあいだ魔理沙に花言葉事典を借りたことを思い出した。返すときはパチュリーに頼むとか言っていたので、多分盗品だろう。思わず大きなため息が出る。
気を取り直して私は事典のサ行を開く。
幽香が咲かせていった季節はずれのシンビジウム。それにはきっと何らかの意味があるはずだ。
シンビジウムはすぐに見つかる。そこに書いてある言葉は「華やかな恋」「高貴な美人」「深窓の麗人」などで、どれも私の想像していたような言葉とは違った。私の考えすぎかと思いながら、一応続きを見る。――そうして私は見つけた。
「誠実な愛情」
「飾らない心」
「素朴」
おそらくは、幽香が私に言いたかった言葉はこれなのだろう。全く、迂遠なことをしてくれる。こんなもの、あの花の名前すら知らなかった私が気付くはずもない。――もしかしたら天子は気付いたのかもしれないけれど。
とはいえ、そういうことであるのなら、周囲はみんな最初から分かっていたということだ。
確かに私も、幸せそうな人間は見ただけでも何となく分かってしまう。
分かっていなかったのは本人ばかりと、結局はそういうことなのだろう。
「霊夢ー?」
また誰かが私を呼んでいる。
全く、今度はどんな厄介ごとを持ってきたというのか。
けれど私は気付いてしまったのだ。持ち込まれる厄介ごとを面倒だと思う反面、そんな日常を楽しんでいることに。
「何の用? お賽銭?」
「そんなわけないでしょ」
呆れた声が聞こえたけど――それでも私は今、確かに幸せだった。
理想の霊夢像を崩さない範囲で、一度だけ素直になって見せる霊夢の選択がかわいい。
でも欲というのはひも解こうとするとよくわからんものですよね
思春期に差し掛かる少女たちの葛藤ですねぇ
未来はわからないけど、今の幸せならなんとか見出だせる。
そんな感じ