『ねぇ、小鈴』
『どうしたの、阿求』
『……ごめんなさい、なんでもないわ。呼んでみただけ』
きっと、困らせてしまう。そう思うと、言えなくて。
いつかの、なんでもない日常の一頁。
その日の彼女はそれきり、何も言わずに目を伏せてしまって。一体あの時、彼女は何を言おうとしていたのだろう?
今となってはもう、確かめる術など無いのだけれど。
◆
古ぼけた本の匂い。
真新しい紅茶の匂い。
古ぼけたレコードが紡ぐ音。
真新しい本の頁を捲る音。
少しだけ埃っぽい匂いと、ノイズ混じりの音。その二つで満たされた世界の中で、私は独りの夜を過ごしていた。
此の世のなごり夜もなごり。
死にゝゆく身をたとふれば。
あだしが原の道の霜。
一足づゝに消えてゆく。
夢の夢こそあはれなれ。
始まりを告げる拍子木の音が遠退いて行く。次いで始まった浄瑠璃の音色が、朗々と謡い始めた語り部の声を縁取ってゆく。物語が、始まった。
とうに夜も更け、丑三つ時も近い。他には動くもののない真夜中のこの店――鈴奈庵は、何物からも解き放たれた小さな王国となっていた。
そんな王国のたった一人の住人であり、また主でもある私は、愛用の古椅子に腰掛け、入荷したばかりの新本の頁を捲っては、時折紅茶を啜る。そしてまた本の頁を……。その繰り返しが、一日の仕事を終えた後の私の日課だった。
本の中身は、当然日によって変わる。
ありふれたお伽噺や、玉石混淆の小説。
丁寧なスケッチや鮮やかな写真で彩られた図鑑。
小難しい数式や図が乗せられた教本。
そして勿論、妖魔本のような曰く付きの品まで。本当に、なんでもあった。
爪繰る数珠の百八に
涙の玉の。数添ひて
尽きせぬあはれ尽きる道。
心も空も影暗く
風しんしんたる曽根崎の
森にぞ辿り着きにける。
そして今鈴奈庵に流れているこのレコードもまた、入荷された〝新本〟の一つである。
オーディオブック。朗読した音声を録音し、蓄音機を使って読み聞かせをするこの奇妙な〝本〟は、外の世界ではそう呼ばれているのだそうだ。
もっとも、このレコードはそれを元に幻想郷で独自に作られたもので、本物はもっと小さいらしいのだけれど。
愛書家を自負する私としては撫でるべき背表紙も、捲るべき頁も、それどころか文字すら持たない、およそ本としての体を成していないこの円盤達を本と呼ぶのは少し抵抗があるし、レコードで流すのは音楽であるべきだと思っているのだけれど、数年ほど前からこの店でも少しずつではあるが取り扱っている。始めた理由はなんだったかは忘れてしまった。まぁ、大した理由ではないのだと思う。
ちなみに、今この店で流れているのは、かの有名な人形浄瑠璃、〝曽根崎心中〟の朗読文だ。つい最近入荷した十数枚のレコードからなるこのオーディオブックを、検品も兼ねて聞いている。
日課と言っても、これも立派な仕事の一つなのだ。貸本屋を営む以上、商品の状態はちゃんと把握しておかなければない。普通の本なら落丁や乱丁、オーディオブックなら傷やカビなどによる音飛びやノイズ。そういったものには十分に注意しなければならない。傷物を貸し出したりしたら、こんな狭い人里での信用など瞬く間に失って商売が成り立たなくなってしまうのだから。
そういう訳で、その日の営業が終わった後に行われるこの作業は大切な仕事であり、同時に私の日々の楽しみでもあった。同じ童話やお伽噺であっても、時代によって話の筋が違っていたりするからそれを読み比べてみたり、物語を外側から彩る為に趣向を凝らされた書物の装丁をくまなく眺めては嘆息してみたり、珍しい稀覯本や初版本を見つけては一人静かに歓喜の声をあげてみたり……そんな作業は、苦労を感じるどころか、むしろ至福の一時とも呼べた。
「……あぁ、面白かった。この本は大当たりだったわね」
そうして今日も入荷した新本の一つを読み終え、閉じた本の背表紙を指で撫でながら私はその余韻に耽っていた。
どうど座を組み二重三重。
ゆるがぬやうにしつかと締め。
「よふ締まつたか」
「ヲヽ締めました」
と。女は夫の姿を見男は女の体を見て。
「こは情なき身の果てぞや」
とわつと泣入るばかり也……
レコードが止まる。
「おっと、こっちも問題なしね。最後の一枚は明日にまわすとして……あれ?」
レコードにも問題がないことを確かめ、紅茶を飲もうとティーカップに手を伸ばす。しかし、その中身は既に空になっていた。どうやらさっきの一口で終わりだったのに、本に夢中になりすぎて気がつかなかったらしい。レコードを代えるついでに、新しいのを淹れるとしようか。
そう思って立ち上がり、盤面に触れないよう注意しながら、蓄音機からレコードを取り外す。盤面をベルベットの布で丁寧に拭い、ジャケットにしまう。それから蓄音機の台の下部にある収納から三枚組のレコード盤を取り出し、一枚目をプレーヤーに乗せる。タイトルは、〝ジャパニーズサーガ〟。私の親友だった少女が愛した、幺樂団の曲である。
レコードに針を落とすと、勇壮な、しかしどこか切ないような曲調の音色が、私の世界を満たす。それからポットに残っていた少し温い紅茶を入れて、再び古椅子に腰掛ける。
(……懐かしいなぁ)
暫しの間、私は音楽に聞き入り、感傷に浸っていた。
(確かこの曲と早苗さんのせいで、阿求がめちゃくちゃ怒ったのよねぇ)
もう何年前のことだろうか、と思い返す。阿求は幺樂団の作る音色を『幻想郷にはない新しい音色がする』と評して好んでいた。それを、外から来た人間である東風谷早苗に――彼女の事情を考えれば当たり前なのだけれど――真逆の評価をされてしまったのだ。
早苗さんにも悪気があった訳ではなかったから喧嘩にまでは至らなかったものの、あの時の阿求の剣幕は相当なものだった。宥めるのに苦労したなぁ、と、当時の光景を思い返しながら苦笑する。あんなに怒った阿求を見たのは多分、後にも先にもあれきりだったと思う。
それから、この曲について阿求と話したことを思い出す。
『私、この曲を聞くと、無性に外に出掛けたくなるの』
『なんで?』
『うーん、何て言えば良いのかしら……そうね、なんとなくだけど、この曲を聞いていたら、冒険とかしてみたくならない?』
『……まぁ、分からなくも、無いような?』
『でしょう? ……まぁ、私はあまり体が強くないから、軽い散歩くらいで終わっちゃうんだけど。レコードも持ち歩けないから、気分もさめちゃうしね』
『ふーん。じゃあ、この曲を聞きながら家で冒険すればいいんじゃん?』
『そんなのどうやってやるのよ』
『簡単よ。冒険小説なんかを読んで、その世界に浸るの。今度いくつか見繕ってあげよっか、あんたが好きそうなの』
『……縁起を書くのに支障が出ない程度の長さの話でお願いしておくわ』
確かその時は、舶来の冒険小説をいくつか貸したと思う。阿求がこの曲を聞きながらそれらの本を読んだのかは、分からずじまいだったけれど。
そんなことを考えているうちに〝ジャパニーズサーガ〟が終わって、次の盤と取り換える。二曲目は〝阿礼の子供〟。そのミステリアスな旋律に、再び親友との記憶の糸を手繰る。
『この曲って、阿求 をイメージした曲なんだって?』
『そうそう! 幺樂団の人達からそれを聞いたときは、本当に嬉しかったわ。それにね、この蓄音機も、私の為に人里の人達が作ってくれたものなのよ。ほら、この金管部分なんて、本物の朝顔の花みたいでしょ?』
『ふーん。言われてみれば、うちで使ってるやつなんかとは段違いよね。やっぱり名家のお嬢様は違うわー』
『ふふ、まぁね。……ところでさ、あんたはどう思う? この曲、私っぽいと思う?』
『え? ……んー、どっちかって言うと、ちょっと違うかな。あんたってこんな不思議というか、不気味な雰囲気じゃないような気がするんだけど。もっと単純で生意気な方が似合ってると思うわ』
『それは馬鹿にされていると取っていいのかしら』
『あら、率直に感想を述べたまでですわ』
紅茶を一口。それから、あいつの為の曲を奏で続ける蓄音機をぼうっと眺める。
この蓄音機を譲り受けたのは、もう七年ほど前のことだ。
その日の阿求は、自分のレコードのコレクションと共に蓄音機を運ばせて、店にやってきた。突然稗田家の人間を大勢引き連れてやってきた阿求の姿に仰天して、思わず素っ頓狂な声をあげてしまったことは今でもよく覚えている。
そうして半ば押し付けられるような形で譲り受けた蓄音機は、あいつの為に特別にあつらえられたというだけあって見事な作りをしていた。
魔法の森の外れの古道具屋の協力の元に作られたという、常に研ぎたてのような鋭さのヒヒイロカネの針に始まり、細部にまで精緻に彫り込まれている彫刻、阿求が気に入っていた朝顔のような形をしたホーンの細工も、まるで本物の花のよう。他にも動かしやすいように車輪が取り付けられてあったり、子供でも無理なく扱える高さに作られていたりと、素人目に見ても細やかな工夫が凝らされていることが分かる。きっと大切に扱われていたのだろう、年季こそ入ってはいるが、傷一つなく綺麗なままだ。
けれど、でかでかと〝HIEDA〟と書かれた、一目で稗田家のものと分かるような代物がこんな小さな貸本屋に置かれている様は、些か滑稽にも思えた。
それでも、私はこの蓄音機を使い続けている。その理由は無論、これが阿求からの贈り物で、同時に形見でもあるからだ。
『きっと、次の代の頃には壊れてしまっているだろうから』
蓄音機を押し付けてきたその日、阿求はそう言った。
『だから私に押し付けようってわけ?』
『そういうこと。だって、使わずに放置してそのまま壊してしまうくらいなら、あんたにでも使い潰してもらった方がマシでしょう? レコード盤だって、カビてしまうだろうし』
『それなら、あんたが今のうちに自分で使い潰したら良いじゃない』
『それが出来ないから、あんたに頼んだの』
蓄音機が紡いでいた〝阿礼の子供〟が、残響となって消えていく。私は次の曲に差し掛かる前に一度レコードの針を止め、一度店から母屋へと上がった。
どうしてかは分からない。ただ、無性にそうしたくなったから。
『どういうこと?』
『……あのね』
自室の戸を開けながら、会話の続きを思い返す。
『私、もうすぐ居なくなるの』
『……言ってる意味がよく分からないわ』
『言葉通りの意味よ』
『……あんた、死ぬの』
『死なないわ。ただ、居なくなるだけ』
『どう違うのよ』
『ほら、前に言ったでしょう? 私、三十になる前には、転生のために彼岸に行かないといけないの』
『じゃあ、いつ帰ってくるのよ』
『……そうね。大体……』
『百年後、ってとこかしら』
正直なところ、今でもあれは悪い冗談だったんじゃないか、と思っている自分がいる。もうすぐ居なくなる、と言った阿求の姿はそれまでと何一つ変わっていなくて、到底これから死に逝くような人間には見えなかった。
勿論、阿求が嘘を言っていないことは頭では理解していた。事実、その次の日から阿求はこの店に来ないどころか外を出歩くことさえなくなり、同時に稗田家の屋敷も、彼女が彼岸に行ったという日まで屋敷の者以外は誰一人立ち入ることが出来なかった。
けれど、それでもまだ、納得できない自分がいる。元より阿求の持つ能力をあまり真面目に信じていなかったこともあるし、何より付き合いが長すぎて、彼女がそんな特別な存在とは思えなかったのだ。
里一番の大きなお屋敷のお嬢様で、書物を書いたり絵を描くのが趣味であり、仕事で。
幺樂団の奏でる音と、紅茶が大好きで。
体が強くないくせに気が強く、毒舌家なところもあって。
人より少し物覚えが良い以外には、自分と何も変わらない、普通の女の子。
それが、本居小鈴の見てきた、稗田阿求という少女の全てだった。齢三十にも満たぬ内に死んで、百年後に転生するなどという特別な人間には、到底見えなかった。
だからつい、今でも阿求は生きていて、屋敷に引き籠もっているだけではないのかと時折考えてしまうことがある。
……ただの未練と言われれば、そうなのだろう。有り得ないことは理解している。本当に、阿求は居なくなった。私の前から、影も残さず消えてしまった。
『もうすぐって、いつよ』
『……多分、後四、五年もしたら、居なくなってるんじゃないかしら』
灯りをつけるのももどかしくて、手探りで部屋の中を探る。探し物の場所は大体分かるから、灯りがなくても問題はなかった。
別の銘柄の茶葉が入った缶。
もう一組のティーカップ。
埃を被った写真立て。
必要な物は、すぐ見つかった。落とさないようにしっかり抱えて、店へと引き返す。
『あんまり、すぐって感じはしないわね』
『そうでもないわ。その四、五年は転生の為の準備とか後始末とかで普通の生活は出来ないから。あぁ、お葬式やお墓はないから、お供えとかの心配なら無用よ』
『そんなもの、どうだっていいわよ。でも、お葬式もお墓もないって……』
『うーん、どう説明したらいいのかしら……この体は、彼岸の閻魔様が用意してくれたものなの。だからそれを返して、次の体が準備できるまで向こうの仕事を手伝うの。ちょっと向こうに行くだけだから、死とは呼べないと思うのよ』
店へと戻り、隅に置いてあるテーブルを引っ張り出して、カウンターの近くに置く。蓄音機も動かして、その側に。
『怖くないの?』
『あんまり。まぁ、今まで何度もやってきたんだから、多分大丈夫かなって』
『なにそれ。覚えてないの?』
『覚えてるわけ無いじゃない、そんなもの』
『あんた、一回見聞きしたら忘れないんじゃなかったの?』
『それはこっちにいる間だけの話。向こうに行けば、記憶の殆どは無くなってしまうわ』
『なんで』
『全ての記憶なんて、頭に残しきれないからよ』
そう言って、阿求は遠い目をして。そのまま、どこかへ行ってしまいそうだったから。
『……ねぇ、阿求』
『どうしたの、小鈴』
『……ごめん。やっぱり、なんでもない。呼んでみただけ』
けれど。今伝えても、その言葉さえ忘れられてしまうのか。そう思うと恐くて、何も言えなくて。
そしてそのまま、言えずじまいになってしまった。
その日から、阿求は私の前から姿を消してしまったから。
二つのカップを向かい合うように置く。新しい茶葉を温めたポットに入れて、沸かしたばかりの湯を注ぐ。銘柄は、阿求が好きなものを。
蓋をして、茶葉を蒸らす。
……一体どうして、こんなことをしているのだろうか。自分でもよくわからなかった。
衝動的に動いてしまったけれど、この行動には何の意味もない。かつて私達が使っていたものをその時と同じように並べたところで、時間は戻らない。こんなものは、古傷を抉るだけの行いに過ぎない。そんなことは分かっている。それでも、やめられなかった。
ポットの中を匙で一混ぜ。湯の中で踊る茶葉を眺めて、もう一度を蓋を。そして茶殻を濾しながら、二つのカップに琥珀色の液体を注ぐ。ゴールデンドロップは、来客側のものという昔からの約束通り、阿求のカップに落とす。すっかり体に染み付いてしまった、二人のときの紅茶の淹れ方。それが済めば、失われたいつかの日常が、欠けた姿で蘇る。
〝阿礼の子供〟が終わる。レコードを交換すると、今度は不気味な、しかし心が躍るような旋律が朝顔の花弁から紡がれる。〝夜の鳩山を飛ぶ〟。レコードの最後の曲だ。その音色に身を委ねながら、私は手にしたティーカップから上る湯気をくゆらせ、その向こうから、写真を眺める。
もう何年前かも分からないくらい昔に撮った、幼い頃の私と阿求が写った写真。確か、博麗神社の酉の市のお祭りの時の写真だ。阿求と写真を撮ったのは、後にも先にもそれきりだったと思う。この写真は、私にとっての大切な思い出であり、同時に唯一残る阿求の写真でもあった。
『次の御阿礼様が過去の事でお悩みになられないようにする為にとの、阿未様の頃からの決まりなのですよ』
天高く昇る煙と、燃え上がる焔。それを見つめながら聞いた、稗田の女中の言葉。
阿求が言った通り、葬式が行われることはなかった。その代わりというわけではないのだろうけれど、阿求の居なくなった数日後に彼女の私物が集められ、屋敷の庭先で焼かれた。本来は稗田家の者だけで行われるというそれに、顔馴染みの女中に無理を言って参列させてもらったのだ。
三代目の頃から行われているというそれは、お焚き上げをすることで生前の御阿礼の子が使い慣れていた物を彼岸に届ける為、というだけでなく、次の御阿礼の子が忘れてしまった過去を思い悩まないようにする為でもあるのだそうだ。何事も忘れない筈の彼女達にとって何かを思い出せないことは辛いことだから、生前の内に処分するものを決めて、役目を終えた御阿礼の子が彼岸へと旅立った後に、こうして屋敷の者達が焼却する決まりなのだという。
そうすることで次の御阿礼が思い煩うことの無い様にするのが残った我々の役目なのだと、屋敷の長老的な存在だったお爺さんに教えられた。
山茶花の花の髪飾り。
普段着の着物。
愛用の硯と筆。
何冊もの日記帳やアルバム。
お気に入りだと言っていた、切子のグラス。
使い古されたティーセット。
他にも、数えきれないほどに。
そのどれもが、見慣れたもので。
そのどれもが、彼女と共に生きたもので。
『全部、焼いてしまうんですね』
『はい。持ち物は全て焼くように、と九代目様は仰っていましたから』
『……蓄音機とレコードは、私の家に置いていて良いんですか』
『えぇ。それは貴女に譲ったものだから、貴女に大事にして頂きたいと、九代目様は仰っていましたよ』
『そう、ですか』
そう聞いて、何故だか安心したことをよく覚えている。
噎せ返るような、煙の臭い。
煌々と輝く、紅蓮の光。
揺らいでは崩れていく、色褪せた影。
ぱちぱちと弾ける、阿求の記憶達の断末魔。
なにもかもが、空を焼く焔の向こうに消えていく。 阿求と生きた物たちが、踊るように揺れる陽炎となって消えていく。
それが私の見た、死の原風景。恐らくはもう二度と会うことは出来ないであろう、大切な人との別れ。馬鹿な嘘だと信じたかった、けれど無情に訪れてしまった、終わりの記憶。
気付けば、私は泣いていた。込み上げる喪失感からくる涙を、煙のせいだと誤魔化して。他に泣いている人は居なかったから。そう、私の他に泣いている人は誰一人として居なかったのだ。
隣に立つ女中のおばさんも、厳しくも優しかった長老代わりのおじいさんも、私が阿求を遊びに誘った際には決まって二人分のお菓子を持たせてくれた庭師のおじさんも、歳が近いからと一緒に遊ぶこともあった小間使いの女の子も、私以外は誰一人として、泣いてはいなかった。
まるで、それが当然であるかのように。人形のような無表情を顔に張り付けて、じっと焔を見つめるだけ。泣くでもなく、けれど笑う訳でもなく。そんな彼女達が堪らなく薄情に、堪らなく不気味なものに見えて、言葉にし難い感情になったことは今でもはっきりと覚えている。
……今にして思えば彼女達も、いや、代々仕えてきた彼女達だからこそ、どんな顔をすれば良いのか分からなかったのだろうと思うことがある。弔おうにも、その相手がそこに居ないのだから。棺に納め炉にくべて骨を土に埋めるべき亡骸も、草葉の陰に潜む魂も、どこにも存在しないことが分かりきっているのだから。
ただ、幻想郷から居なくなったというだけ。自分達が死んで代替わりする頃には、転生してこの地に戻って来ている。それが分かりきっているものを、一体どう思えばいいというのだろうか。
弔うべきことではなく、けれど祝うべき門出でもない。死にもせず生きもせず、行き先は手の届かない程に遠く。そんなものを、一体どう見送れというのだろうか。それが分からないから、彼らは浮かべるべき表情が分からなかったのではないだろうか。
……もしかしたら。本当はあの時、私も泣くべきではなかったのかもしれない。ただ無表情に淡々と、事実を受け入れるべきだったのかもしれない。それでも、どうしようもなく悲しくて、涙を堪えることができなかった。
私は稗田家の人間ではなかったから。私には、次の御阿礼なんていなかったから。
◆
音楽が終わる。鳩山の夜を飛ぶ幻想は、元の円盤の中へと帰ってしまった。
そしてやってくる、無音。
一人きりの静寂へと戻された後、私は心に得体の知れない空虚さを感じて、蓄音機の収納を開けた。
次は、どんな曲を聴こう。どんな曲を聴けば、この得体の知れない空虚を埋めることが出来るだろうか。そう思って探る内にふと、手が止まる。
見慣れたレコードのジャケット達の中に、見覚えのないものを見た気がしたのだ。試しに引き出してみると、やはり見覚えのないものだった。
「こんなレコード、あったかしら……?」
少しの間、私は手に取ったレコードのジャケットを眺めていた。
若草色のそれは、一見他のものとそう違いがあるようには見えない。見えないのだが、どこか異質なものを感じる。なんだろうともう一度見て、その違和感の正体に気づいた。
タイトルが、ない。
それどころか、作曲者の名前すら書かれていない。あるのは、ジャケットに描かれた様々な種類の花々だけ。違和感の正体は恐らくそれだ。
一体、何の曲なんだろう。円盤を取り出しながら、ジャケットの花々を見る。
葡萄酒色の翁草 。
血のような深紅の鬼灯 。
薄紫の枸杞 。
薄桃色の木五倍子 。
青紫の三色菫 。
橙色の金木犀 。
花に詳しい方ではないけれど、それでも描かれている花の種類や季節に統一性がないことはなんとなくわかる。単に描いた人間の好きな花を集めただけなのだろうか。それとも、何か意味があるのだろうか?
考えてみたけれど、答えは出ない。なんとなく、このレコードが不気味に思えてきた。
「……あぁもう、考えても仕方無いわ。とにかく再生してみましょう」
そんな不気味さや不安を追い払うように、わざと大きな声を出し、腹を決めてレコードを再生する。数秒ほど微かなノイズ音が響いた後、やがて曲が流れ始める。
「阿礼の……子供?」
やがて流れ始めた曲は、つい先程聴いたばかりの曲。阿求の為に作られた、幺樂団の曲だった。
「同じレコード……じゃ、ないわね」
呟いた言葉を、すぐさま否定する。
それにしては、一曲目の曲が違うからだ。盤面を間違えて乗せたのかとも思ったけれど、そもそも一枚のレコードには三曲も収まらない。
もしかしたら、阿求の為にこの一曲だけを収録したレコードなのかもしれない。
あいつの為に作られた曲なのだから、一般に出回っているものとは違う、特別なレコードがあっても不思議ではない。でも、それなら幺樂団の名前くらい書かれている筈――そう思って、ジャケットをもう一度手に取った、その時だった。
『……あれ、もう回っているの?』
思わず、びくりと身が跳ねる。懐かしい声が、聴こえた気がした。
「阿、求?」
思わず我を忘れて、回るレコードを見つめる。
『そう。じゃあ、もう始めていいのね?』
「!」
間違いない。阿求の声だ。もう何年も前に失われてしまった筈の、阿求の声。それが今、レコードから紡がれているのだ。
『……こほん。えーと、久しぶり、でいいのかしら。ともかく、小鈴へ。これを聞いているとき、あんたは幾つになっているのかしら。あんたのことだから、このレコードに気づかないままお婆ちゃんになっててもおかしくはないと思うけど……ま、何にしても私はもう居なくなっていることでしょうね』
レコードの中の阿求は、遺言めいたことを口にしていた。私は動くこともできずに、それを聴いていた。まさか、こんなことがあるなんて思わなかったから。
『あんたは、元気にしている? 相変わらず妖魔本を集めたりして、無茶してるのかしら。それとも、少しは大人しくなったのかしら。……あんたに限って、そんなことはなさそうね。……って、そんなこと話してても仕方無いわね。これを遺したのはね、小鈴。あんたにお礼を言いたかったからなの。……こんな形で言うのは、変だとは思うけれど。直接言うのは恥ずかしいし、かといって手紙にしたら、他の人に読まれてしまうかもしれないし。だからあんたには悪いけど、こうやって言い逃げさせてもらうわね。……小鈴。今まで、本当にありがとう。短い間だったけれど、あんたと過ごした時間は、とても楽しかったわ。一緒に出掛けたり、妖怪について話したり、たまには、無茶もしてみたり。多分、あんたがいなかったら、私はそんなことをしなかったし、出来なかったと思う。だから、あんたには本当に感謝しているわ。できればもっと沢山、色んなことをやってみたかったけれど、それは流石に高望みよね。……でも、そうね。ねぇ、小鈴。一つ、お願いがあるの。……きっと私のこと、生きている内はずっと覚えていてね。もし私のことを忘れたりなんかしたら、絶対許さないから。枕元に化けて出てやるから』
無理をして出したような低い声で言って、阿求の声は、くすくすと小さく笑う。口元を手で覆って笑うあいつの姿がすぐに浮かんだ。
『なんて、ね。嘘よ嘘。ぜんぶ嘘。このレコードが終わったら、私のことなんて、もう忘れてしまってね。きっと、次の御阿礼は、あんたのこと、なにも覚えてはいないだろうから。そんなの、フェアじゃないものね。だから、あんたも、さっさと私を忘れてしまってね。……それじゃ、元気で。さようなら、小鈴』
冗談めかした言葉を最後に、レコードが止まる。部屋には阿求の声が残響となって響くばかり。 その残響が消えるまで、私は言葉も失って、ただただレコードをじっと見つめていた。
「……ばか」
やっとのことで洩らした言葉と共に、テーブルに水滴が落ちる。頬を拭って、誤魔化すように紅茶を啜る。何故だか、塩辛く感じた。
「ばか。大ばか。忘れろなんて、死んだ後で言うもんじゃないわ」
頬を拭って、掠れた声で呟く。後は、言葉にならなかった。あぁ、どうしてもっと早くこれに気付けなかったのだろう。私も阿求も、大ばか者だ。いつ気が付いても阿求はもう居なくなった後だっただろう。それでも、もっと早くに気付くべきだったと思えて仕方ないのだ。
止まったレコード。
積まれた本が置かれた、小さなテーブル。
向い合わせに置かれた椅子と、紅茶の注がれたティーカップ。
静寂に満ちた、私の王国。ぽっかりと大きな孔が空いた、紛い物のかつての日常の形。何を今更、とは思う。けれど、今になってあの声を聞くだなんて、思わなかったから。
独りぼっちの夜に、私は一人泣いていた。余計に広がってしまった空虚さを抱えて。何も言わず、ただ、声を殺して泣くことしかできなかった。
◆
「アヽ歎かじ」
と徳兵衛。顔振りあげて手を合はせ。
古ぼけた本の匂い。
真新しい紅茶の匂い。
古ぼけたレコードが紡ぐ音。
真新しい本の頁を捲る音。
その日も、既に夜は深く。
店仕舞いを終えて、今日も私は本の頁を捲る。
昨日と違うことと言えば、始めから二つ分のティーカップが置かれていることと、流れているオーディオブックの章が進んでいることくらいだろうか。
朗々と謡われる悲恋の物語は、部屋中に積み重ねられた無数の本の壁へと吸い込まれ、残響のみを響かせては消えていく。
一人ぼっちの、私の王国。此処は、今日も静寂の中に在った。
「いつ迄いふてせんもなし。はやはや殺して殺して」
と最期を急げば
「心得たり」と。
脇差するりと抜放し。
「サア只今ぞ南無阿弥陀南無阿弥陀」
紅茶を啜る。本の頁を捲る。紡がれる物語は既に佳境。結ばれない二人が、あの世での再会を誓って情死を遂げる物語のクライマックスが、レコードの中の語り部によって朗々と謡い上げられる。
「南無阿弥陀。南無阿弥陀南無阿弥陀仏」と。
くり通しくり通す腕先も。弱るを見れば両手を延べ。断末魔の四苦八苦。あはれと言ふも余り有り。
「我とても遅れふか息は一度に引取らん」
――この二人は、死後に再び逢えたのだろうか。誓いの通りに結ばれたのだろうか。
ふつと、そんなことを考える。逢えたのならば、喩えそこが地獄の果てだったとしても、二人はきっと幸せになれたのだろう。
けれど、もしも逢えなかったのだとしたら。二人は、どうなったのだろう。
いつか私が取り憑かれた、艶書の中で怨霊と成り果てた娘のように互いを求めて今もこの世に留まっているのだろうか。
或いは、死んでも結ばれない運命だったのだと、諦めて成仏したのだろうか。
誰が告ぐるとは曽根崎の森の下風音に聞え。取り伝へ貴賤群集の回向の種。未来成仏疑ひなき恋の手本となりにけり。
「疑いなき恋の手本、か」
そんな私の疑問に答えるように、レコードはこの結末を恋の手本だと結んで、拍子木の音と共にゆっくりと回転を緩めていく。その言葉の通りなら、二人はきっと、間違いなく、死後に結ばれたのだろう。少なくとも、そう信じられてはいるのだろう。
「……恋かどうかはともかくとして、私も死んだら、あいつに逢えたりするのかしらね」
そう、呟いて。けれどすぐ、何をばかなと首を振る。
転生が約束されているあいつとは違って、ただの人間でしかない私は、きっと死んでも逢うことはできないだろう。それにもし、仮に逢えたとしても――
『きっと、次の御阿礼は、あんたのこと、なにも覚えてはいないだろうから』
昨晩聴いた言葉を思い返す。阿求は確かに、そう言っていた。本当にそうなのだとしたら、死ぬだなんてますます間抜けな話だ。
この物語の様に、再会を望んで自死してまで逢いに行った相手が自分のことを覚えていないなど、とんだ喜劇ではないか。馬鹿馬鹿しいことこの上無い。
この恋物語の中の二人とは違い、私の死の先には、最後に縋る再会の希望さえありはしないのだ。それなら、長生きでもするか、それとも幽霊にでもなって、転生した彼女を待つ方がまだ現実的だろう。
「……もし、生まれ変わってもまだ私が生きていたら、あいつは驚くかな」
よぼよぼのしわくちゃになった自分が、或いは、寺に住んでいる船幽霊のような姿になった自分が。とにかくその日まで永らえた私が転生した御阿礼の子を訪ねる姿を想像して、くすりと笑う。今まで見たこともない相手が突然やってきて、私は百年前の貴方の友達だったのよ、なんて言いだしたら、果たして十代目の御阿礼の子はどんな反応をするだろうか。
「思い出そうと、してくれるかしら」
阿求と瓜二つの姿をした次の御阿礼が、何事も忘れないはずの頭で、忘れてしまった記憶を思い出そうとする様を想像して、我ながら酷い悪戯だと苦笑する。
「……でも」
ふと、疑問が浮かぶ。そこに居るのは、本当に阿求と同じ存在なのだろか?
拍子木の音は既に、微かにしか聴こえない程に遠退いている。その間にも、疑問は私の頭の中を巡っていた。
次の御阿礼の子は、阿求の様に紅茶やレコードを好むだろうか。
次の御阿礼の子は、阿求の様に幺樂団を愛するだろうか。
次の御阿礼の子は、阿求の様にこの店を訪ねてくれるだろうか。
次の御阿礼の子は、阿求の様に私を友だと思ってくれるだろうか。
次の御阿礼の子は……とりとめもないことばかり浮かぶ。
けれど、もし、そのどれでもないのだとしたら。たとえ魂が同じだとしても、その御阿礼の子は、私の知るそれとはまったくの別人ではないのだろうか。
ならば私──本居小鈴の友人だった〝稗田阿求〟は、果たして何処に行ってしまうのだろうか?
転生するということは、どんな形であってもその魂の元は同じのはず。そこから削ぎ落とされた〝阿求〟は、完全に失われてしまうのだろうか……?
転生がどういうものか、私はちゃんと知らない。でも、その考えが正しいのなら。
それはきっと、悲しいことなのだと思った。
◆
名残惜しげにゆっくりと回っていたレコードも、既に止まっていた。それでも、まだ私は考えていた。
もしかしたら、阿求はそのことに気がついていたから、忘れろなどと言ったのだろうか。
僅かに響いていた浄瑠璃の残響が、積み上げられた本の壁に吸い込まれて消えていく。静寂と、再び訪れた空虚感が、私の王国を支配する。
「…………」
なんだか、無性に阿求の声が聴きたくなって。私はあの若草色のレコードジャケットを取り出して、蓄音機に乗せた。
再生と同時に漏れ始めたノイズ音が、私の世界の静寂に、小さく罅を入れてゆく。心なしか、昨日よりノイズが少し大きくなっている気がした。
『……あれ、もう回っているの?』
昨日と同じように〝阿礼の子供〟が流れ始めたあと、間の抜けた阿求の声が再生される。
昨日聴いたばかりの、けれど堪らなく懐かしい声。昨日と全く同じ言葉を紡ぐそれが、録音された音声でしかないことは、分かっているのだけれど。それでも、そこに阿求本人が居るような、そんな錯覚に陥ることができた。
『そう。じゃあ、もう始めていいのね?』
もしも、さっき考えたことが、正しいのだとしたら。
『……こほん。えーと、久しぶり、でいいのかしら。ともかく、小鈴へ。これを聞いているとき、あんたは幾つになっているのかしら』
このレコードに刻まれた声は、言葉は、きっと残響なのだろう。影も形も失い消えた、阿求の残響。〝阿礼乙女〟としてではなく、私の友人としてそこに居た、ただの〝稗田阿求〟という少女の、存在の残滓。私へと言葉を遺したのは、その証を残したかったから。……とまで言うのは、流石に自惚れが過ぎるだろうか。
でも、阿求は何かしらの形で、自分というものを残したかったのだろう。
次の自分へは、遺せないから。
約束された転生の先には、自分は居ないから。
不要なものとして削ぎ落とされる筈の自分という存在を、残したかったから。
次の自分の為に全てを焼き払って、それでもなお残るこの世への未練を晴らす為に、何かを残したかったから。
……本当のことなど、分かるはずもないのだけれど。きっと、そうなのだと思う。
「……『忘れろ』なんて言って。ほんとは、忘れられたくなかったのね。そうなんでしょう、阿求」
小さく、昨日と同じ言葉を紡ぎ続けるレコードへと呟きかける。
『あんたは、元気にしている? 相変わらず妖魔本を集めたりして、無茶してるのかしら。それとも、少しは大人しくなったのかしら。……あんたに限って、そんなことはなさそうね』
返ってくるのは勿論、繰り返されるだけの阿求の言葉。下らないと、笑ってしまう。私達の言葉は、どちらも一方通行の、交わらない一人遊びでしかないのだから。
『……って、こんなこと話してても仕方無いわね。このレコードを遺したのはね、小鈴。あんたに**********』
不意に、ノイズが大きくなって、阿求の声が掻き消される。
そのノイズは、何故だか、叫び声に似ている気がした。
『小鈴***私**は****こ***』
『**こ**に*だから**ねぇ*き**』『**こ**に*だから**ねぇ*き**』
途切れて揺らぐ、阿求の言葉。
声が、音が、何もかもがノイズに揺らぐ。聴こえる言葉は断片的に再生された録音の筈なのに、昨日とは違う声音で紡がれているようにさえ聞こえる。私は呆けたように、微動だにもできずにそれを聞いていた。
『******************』『こ*ず、お*がい*わた*をわ**な』
『どうしたの、阿求』
『……ごめんなさい、なんでもないわ。呼んでみただけ』
きっと、困らせてしまう。そう思うと、言えなくて。
いつかの、なんでもない日常の一頁。
その日の彼女はそれきり、何も言わずに目を伏せてしまって。一体あの時、彼女は何を言おうとしていたのだろう?
今となってはもう、確かめる術など無いのだけれど。
◆
古ぼけた本の匂い。
真新しい紅茶の匂い。
古ぼけたレコードが紡ぐ音。
真新しい本の頁を捲る音。
少しだけ埃っぽい匂いと、ノイズ混じりの音。その二つで満たされた世界の中で、私は独りの夜を過ごしていた。
此の世のなごり夜もなごり。
死にゝゆく身をたとふれば。
あだしが原の道の霜。
一足づゝに消えてゆく。
夢の夢こそあはれなれ。
始まりを告げる拍子木の音が遠退いて行く。次いで始まった浄瑠璃の音色が、朗々と謡い始めた語り部の声を縁取ってゆく。物語が、始まった。
とうに夜も更け、丑三つ時も近い。他には動くもののない真夜中のこの店――鈴奈庵は、何物からも解き放たれた小さな王国となっていた。
そんな王国のたった一人の住人であり、また主でもある私は、愛用の古椅子に腰掛け、入荷したばかりの新本の頁を捲っては、時折紅茶を啜る。そしてまた本の頁を……。その繰り返しが、一日の仕事を終えた後の私の日課だった。
本の中身は、当然日によって変わる。
ありふれたお伽噺や、玉石混淆の小説。
丁寧なスケッチや鮮やかな写真で彩られた図鑑。
小難しい数式や図が乗せられた教本。
そして勿論、妖魔本のような曰く付きの品まで。本当に、なんでもあった。
爪繰る数珠の百八に
涙の玉の。数添ひて
尽きせぬあはれ尽きる道。
心も空も影暗く
風しんしんたる曽根崎の
森にぞ辿り着きにける。
そして今鈴奈庵に流れているこのレコードもまた、入荷された〝新本〟の一つである。
オーディオブック。朗読した音声を録音し、蓄音機を使って読み聞かせをするこの奇妙な〝本〟は、外の世界ではそう呼ばれているのだそうだ。
もっとも、このレコードはそれを元に幻想郷で独自に作られたもので、本物はもっと小さいらしいのだけれど。
愛書家を自負する私としては撫でるべき背表紙も、捲るべき頁も、それどころか文字すら持たない、およそ本としての体を成していないこの円盤達を本と呼ぶのは少し抵抗があるし、レコードで流すのは音楽であるべきだと思っているのだけれど、数年ほど前からこの店でも少しずつではあるが取り扱っている。始めた理由はなんだったかは忘れてしまった。まぁ、大した理由ではないのだと思う。
ちなみに、今この店で流れているのは、かの有名な人形浄瑠璃、〝曽根崎心中〟の朗読文だ。つい最近入荷した十数枚のレコードからなるこのオーディオブックを、検品も兼ねて聞いている。
日課と言っても、これも立派な仕事の一つなのだ。貸本屋を営む以上、商品の状態はちゃんと把握しておかなければない。普通の本なら落丁や乱丁、オーディオブックなら傷やカビなどによる音飛びやノイズ。そういったものには十分に注意しなければならない。傷物を貸し出したりしたら、こんな狭い人里での信用など瞬く間に失って商売が成り立たなくなってしまうのだから。
そういう訳で、その日の営業が終わった後に行われるこの作業は大切な仕事であり、同時に私の日々の楽しみでもあった。同じ童話やお伽噺であっても、時代によって話の筋が違っていたりするからそれを読み比べてみたり、物語を外側から彩る為に趣向を凝らされた書物の装丁をくまなく眺めては嘆息してみたり、珍しい稀覯本や初版本を見つけては一人静かに歓喜の声をあげてみたり……そんな作業は、苦労を感じるどころか、むしろ至福の一時とも呼べた。
「……あぁ、面白かった。この本は大当たりだったわね」
そうして今日も入荷した新本の一つを読み終え、閉じた本の背表紙を指で撫でながら私はその余韻に耽っていた。
どうど座を組み二重三重。
ゆるがぬやうにしつかと締め。
「よふ締まつたか」
「ヲヽ締めました」
と。女は夫の姿を見男は女の体を見て。
「こは情なき身の果てぞや」
とわつと泣入るばかり也……
レコードが止まる。
「おっと、こっちも問題なしね。最後の一枚は明日にまわすとして……あれ?」
レコードにも問題がないことを確かめ、紅茶を飲もうとティーカップに手を伸ばす。しかし、その中身は既に空になっていた。どうやらさっきの一口で終わりだったのに、本に夢中になりすぎて気がつかなかったらしい。レコードを代えるついでに、新しいのを淹れるとしようか。
そう思って立ち上がり、盤面に触れないよう注意しながら、蓄音機からレコードを取り外す。盤面をベルベットの布で丁寧に拭い、ジャケットにしまう。それから蓄音機の台の下部にある収納から三枚組のレコード盤を取り出し、一枚目をプレーヤーに乗せる。タイトルは、〝ジャパニーズサーガ〟。私の親友だった少女が愛した、幺樂団の曲である。
レコードに針を落とすと、勇壮な、しかしどこか切ないような曲調の音色が、私の世界を満たす。それからポットに残っていた少し温い紅茶を入れて、再び古椅子に腰掛ける。
(……懐かしいなぁ)
暫しの間、私は音楽に聞き入り、感傷に浸っていた。
(確かこの曲と早苗さんのせいで、阿求がめちゃくちゃ怒ったのよねぇ)
もう何年前のことだろうか、と思い返す。阿求は幺樂団の作る音色を『幻想郷にはない新しい音色がする』と評して好んでいた。それを、外から来た人間である東風谷早苗に――彼女の事情を考えれば当たり前なのだけれど――真逆の評価をされてしまったのだ。
早苗さんにも悪気があった訳ではなかったから喧嘩にまでは至らなかったものの、あの時の阿求の剣幕は相当なものだった。宥めるのに苦労したなぁ、と、当時の光景を思い返しながら苦笑する。あんなに怒った阿求を見たのは多分、後にも先にもあれきりだったと思う。
それから、この曲について阿求と話したことを思い出す。
『私、この曲を聞くと、無性に外に出掛けたくなるの』
『なんで?』
『うーん、何て言えば良いのかしら……そうね、なんとなくだけど、この曲を聞いていたら、冒険とかしてみたくならない?』
『……まぁ、分からなくも、無いような?』
『でしょう? ……まぁ、私はあまり体が強くないから、軽い散歩くらいで終わっちゃうんだけど。レコードも持ち歩けないから、気分もさめちゃうしね』
『ふーん。じゃあ、この曲を聞きながら家で冒険すればいいんじゃん?』
『そんなのどうやってやるのよ』
『簡単よ。冒険小説なんかを読んで、その世界に浸るの。今度いくつか見繕ってあげよっか、あんたが好きそうなの』
『……縁起を書くのに支障が出ない程度の長さの話でお願いしておくわ』
確かその時は、舶来の冒険小説をいくつか貸したと思う。阿求がこの曲を聞きながらそれらの本を読んだのかは、分からずじまいだったけれど。
そんなことを考えているうちに〝ジャパニーズサーガ〟が終わって、次の盤と取り換える。二曲目は〝阿礼の子供〟。そのミステリアスな旋律に、再び親友との記憶の糸を手繰る。
『この曲って、
『そうそう! 幺樂団の人達からそれを聞いたときは、本当に嬉しかったわ。それにね、この蓄音機も、私の為に人里の人達が作ってくれたものなのよ。ほら、この金管部分なんて、本物の朝顔の花みたいでしょ?』
『ふーん。言われてみれば、うちで使ってるやつなんかとは段違いよね。やっぱり名家のお嬢様は違うわー』
『ふふ、まぁね。……ところでさ、あんたはどう思う? この曲、私っぽいと思う?』
『え? ……んー、どっちかって言うと、ちょっと違うかな。あんたってこんな不思議というか、不気味な雰囲気じゃないような気がするんだけど。もっと単純で生意気な方が似合ってると思うわ』
『それは馬鹿にされていると取っていいのかしら』
『あら、率直に感想を述べたまでですわ』
紅茶を一口。それから、あいつの為の曲を奏で続ける蓄音機をぼうっと眺める。
この蓄音機を譲り受けたのは、もう七年ほど前のことだ。
その日の阿求は、自分のレコードのコレクションと共に蓄音機を運ばせて、店にやってきた。突然稗田家の人間を大勢引き連れてやってきた阿求の姿に仰天して、思わず素っ頓狂な声をあげてしまったことは今でもよく覚えている。
そうして半ば押し付けられるような形で譲り受けた蓄音機は、あいつの為に特別にあつらえられたというだけあって見事な作りをしていた。
魔法の森の外れの古道具屋の協力の元に作られたという、常に研ぎたてのような鋭さのヒヒイロカネの針に始まり、細部にまで精緻に彫り込まれている彫刻、阿求が気に入っていた朝顔のような形をしたホーンの細工も、まるで本物の花のよう。他にも動かしやすいように車輪が取り付けられてあったり、子供でも無理なく扱える高さに作られていたりと、素人目に見ても細やかな工夫が凝らされていることが分かる。きっと大切に扱われていたのだろう、年季こそ入ってはいるが、傷一つなく綺麗なままだ。
けれど、でかでかと〝HIEDA〟と書かれた、一目で稗田家のものと分かるような代物がこんな小さな貸本屋に置かれている様は、些か滑稽にも思えた。
それでも、私はこの蓄音機を使い続けている。その理由は無論、これが阿求からの贈り物で、同時に形見でもあるからだ。
『きっと、次の代の頃には壊れてしまっているだろうから』
蓄音機を押し付けてきたその日、阿求はそう言った。
『だから私に押し付けようってわけ?』
『そういうこと。だって、使わずに放置してそのまま壊してしまうくらいなら、あんたにでも使い潰してもらった方がマシでしょう? レコード盤だって、カビてしまうだろうし』
『それなら、あんたが今のうちに自分で使い潰したら良いじゃない』
『それが出来ないから、あんたに頼んだの』
蓄音機が紡いでいた〝阿礼の子供〟が、残響となって消えていく。私は次の曲に差し掛かる前に一度レコードの針を止め、一度店から母屋へと上がった。
どうしてかは分からない。ただ、無性にそうしたくなったから。
『どういうこと?』
『……あのね』
自室の戸を開けながら、会話の続きを思い返す。
『私、もうすぐ居なくなるの』
『……言ってる意味がよく分からないわ』
『言葉通りの意味よ』
『……あんた、死ぬの』
『死なないわ。ただ、居なくなるだけ』
『どう違うのよ』
『ほら、前に言ったでしょう? 私、三十になる前には、転生のために彼岸に行かないといけないの』
『じゃあ、いつ帰ってくるのよ』
『……そうね。大体……』
『百年後、ってとこかしら』
正直なところ、今でもあれは悪い冗談だったんじゃないか、と思っている自分がいる。もうすぐ居なくなる、と言った阿求の姿はそれまでと何一つ変わっていなくて、到底これから死に逝くような人間には見えなかった。
勿論、阿求が嘘を言っていないことは頭では理解していた。事実、その次の日から阿求はこの店に来ないどころか外を出歩くことさえなくなり、同時に稗田家の屋敷も、彼女が彼岸に行ったという日まで屋敷の者以外は誰一人立ち入ることが出来なかった。
けれど、それでもまだ、納得できない自分がいる。元より阿求の持つ能力をあまり真面目に信じていなかったこともあるし、何より付き合いが長すぎて、彼女がそんな特別な存在とは思えなかったのだ。
里一番の大きなお屋敷のお嬢様で、書物を書いたり絵を描くのが趣味であり、仕事で。
幺樂団の奏でる音と、紅茶が大好きで。
体が強くないくせに気が強く、毒舌家なところもあって。
人より少し物覚えが良い以外には、自分と何も変わらない、普通の女の子。
それが、本居小鈴の見てきた、稗田阿求という少女の全てだった。齢三十にも満たぬ内に死んで、百年後に転生するなどという特別な人間には、到底見えなかった。
だからつい、今でも阿求は生きていて、屋敷に引き籠もっているだけではないのかと時折考えてしまうことがある。
……ただの未練と言われれば、そうなのだろう。有り得ないことは理解している。本当に、阿求は居なくなった。私の前から、影も残さず消えてしまった。
『もうすぐって、いつよ』
『……多分、後四、五年もしたら、居なくなってるんじゃないかしら』
灯りをつけるのももどかしくて、手探りで部屋の中を探る。探し物の場所は大体分かるから、灯りがなくても問題はなかった。
別の銘柄の茶葉が入った缶。
もう一組のティーカップ。
埃を被った写真立て。
必要な物は、すぐ見つかった。落とさないようにしっかり抱えて、店へと引き返す。
『あんまり、すぐって感じはしないわね』
『そうでもないわ。その四、五年は転生の為の準備とか後始末とかで普通の生活は出来ないから。あぁ、お葬式やお墓はないから、お供えとかの心配なら無用よ』
『そんなもの、どうだっていいわよ。でも、お葬式もお墓もないって……』
『うーん、どう説明したらいいのかしら……この体は、彼岸の閻魔様が用意してくれたものなの。だからそれを返して、次の体が準備できるまで向こうの仕事を手伝うの。ちょっと向こうに行くだけだから、死とは呼べないと思うのよ』
店へと戻り、隅に置いてあるテーブルを引っ張り出して、カウンターの近くに置く。蓄音機も動かして、その側に。
『怖くないの?』
『あんまり。まぁ、今まで何度もやってきたんだから、多分大丈夫かなって』
『なにそれ。覚えてないの?』
『覚えてるわけ無いじゃない、そんなもの』
『あんた、一回見聞きしたら忘れないんじゃなかったの?』
『それはこっちにいる間だけの話。向こうに行けば、記憶の殆どは無くなってしまうわ』
『なんで』
『全ての記憶なんて、頭に残しきれないからよ』
そう言って、阿求は遠い目をして。そのまま、どこかへ行ってしまいそうだったから。
『……ねぇ、阿求』
『どうしたの、小鈴』
『……ごめん。やっぱり、なんでもない。呼んでみただけ』
けれど。今伝えても、その言葉さえ忘れられてしまうのか。そう思うと恐くて、何も言えなくて。
そしてそのまま、言えずじまいになってしまった。
その日から、阿求は私の前から姿を消してしまったから。
二つのカップを向かい合うように置く。新しい茶葉を温めたポットに入れて、沸かしたばかりの湯を注ぐ。銘柄は、阿求が好きなものを。
蓋をして、茶葉を蒸らす。
……一体どうして、こんなことをしているのだろうか。自分でもよくわからなかった。
衝動的に動いてしまったけれど、この行動には何の意味もない。かつて私達が使っていたものをその時と同じように並べたところで、時間は戻らない。こんなものは、古傷を抉るだけの行いに過ぎない。そんなことは分かっている。それでも、やめられなかった。
ポットの中を匙で一混ぜ。湯の中で踊る茶葉を眺めて、もう一度を蓋を。そして茶殻を濾しながら、二つのカップに琥珀色の液体を注ぐ。ゴールデンドロップは、来客側のものという昔からの約束通り、阿求のカップに落とす。すっかり体に染み付いてしまった、二人のときの紅茶の淹れ方。それが済めば、失われたいつかの日常が、欠けた姿で蘇る。
〝阿礼の子供〟が終わる。レコードを交換すると、今度は不気味な、しかし心が躍るような旋律が朝顔の花弁から紡がれる。〝夜の鳩山を飛ぶ〟。レコードの最後の曲だ。その音色に身を委ねながら、私は手にしたティーカップから上る湯気をくゆらせ、その向こうから、写真を眺める。
もう何年前かも分からないくらい昔に撮った、幼い頃の私と阿求が写った写真。確か、博麗神社の酉の市のお祭りの時の写真だ。阿求と写真を撮ったのは、後にも先にもそれきりだったと思う。この写真は、私にとっての大切な思い出であり、同時に唯一残る阿求の写真でもあった。
『次の御阿礼様が過去の事でお悩みになられないようにする為にとの、阿未様の頃からの決まりなのですよ』
天高く昇る煙と、燃え上がる焔。それを見つめながら聞いた、稗田の女中の言葉。
阿求が言った通り、葬式が行われることはなかった。その代わりというわけではないのだろうけれど、阿求の居なくなった数日後に彼女の私物が集められ、屋敷の庭先で焼かれた。本来は稗田家の者だけで行われるというそれに、顔馴染みの女中に無理を言って参列させてもらったのだ。
三代目の頃から行われているというそれは、お焚き上げをすることで生前の御阿礼の子が使い慣れていた物を彼岸に届ける為、というだけでなく、次の御阿礼の子が忘れてしまった過去を思い悩まないようにする為でもあるのだそうだ。何事も忘れない筈の彼女達にとって何かを思い出せないことは辛いことだから、生前の内に処分するものを決めて、役目を終えた御阿礼の子が彼岸へと旅立った後に、こうして屋敷の者達が焼却する決まりなのだという。
そうすることで次の御阿礼が思い煩うことの無い様にするのが残った我々の役目なのだと、屋敷の長老的な存在だったお爺さんに教えられた。
山茶花の花の髪飾り。
普段着の着物。
愛用の硯と筆。
何冊もの日記帳やアルバム。
お気に入りだと言っていた、切子のグラス。
使い古されたティーセット。
他にも、数えきれないほどに。
そのどれもが、見慣れたもので。
そのどれもが、彼女と共に生きたもので。
『全部、焼いてしまうんですね』
『はい。持ち物は全て焼くように、と九代目様は仰っていましたから』
『……蓄音機とレコードは、私の家に置いていて良いんですか』
『えぇ。それは貴女に譲ったものだから、貴女に大事にして頂きたいと、九代目様は仰っていましたよ』
『そう、ですか』
そう聞いて、何故だか安心したことをよく覚えている。
噎せ返るような、煙の臭い。
煌々と輝く、紅蓮の光。
揺らいでは崩れていく、色褪せた影。
ぱちぱちと弾ける、阿求の記憶達の断末魔。
なにもかもが、空を焼く焔の向こうに消えていく。 阿求と生きた物たちが、踊るように揺れる陽炎となって消えていく。
それが私の見た、死の原風景。恐らくはもう二度と会うことは出来ないであろう、大切な人との別れ。馬鹿な嘘だと信じたかった、けれど無情に訪れてしまった、終わりの記憶。
気付けば、私は泣いていた。込み上げる喪失感からくる涙を、煙のせいだと誤魔化して。他に泣いている人は居なかったから。そう、私の他に泣いている人は誰一人として居なかったのだ。
隣に立つ女中のおばさんも、厳しくも優しかった長老代わりのおじいさんも、私が阿求を遊びに誘った際には決まって二人分のお菓子を持たせてくれた庭師のおじさんも、歳が近いからと一緒に遊ぶこともあった小間使いの女の子も、私以外は誰一人として、泣いてはいなかった。
まるで、それが当然であるかのように。人形のような無表情を顔に張り付けて、じっと焔を見つめるだけ。泣くでもなく、けれど笑う訳でもなく。そんな彼女達が堪らなく薄情に、堪らなく不気味なものに見えて、言葉にし難い感情になったことは今でもはっきりと覚えている。
……今にして思えば彼女達も、いや、代々仕えてきた彼女達だからこそ、どんな顔をすれば良いのか分からなかったのだろうと思うことがある。弔おうにも、その相手がそこに居ないのだから。棺に納め炉にくべて骨を土に埋めるべき亡骸も、草葉の陰に潜む魂も、どこにも存在しないことが分かりきっているのだから。
ただ、幻想郷から居なくなったというだけ。自分達が死んで代替わりする頃には、転生してこの地に戻って来ている。それが分かりきっているものを、一体どう思えばいいというのだろうか。
弔うべきことではなく、けれど祝うべき門出でもない。死にもせず生きもせず、行き先は手の届かない程に遠く。そんなものを、一体どう見送れというのだろうか。それが分からないから、彼らは浮かべるべき表情が分からなかったのではないだろうか。
……もしかしたら。本当はあの時、私も泣くべきではなかったのかもしれない。ただ無表情に淡々と、事実を受け入れるべきだったのかもしれない。それでも、どうしようもなく悲しくて、涙を堪えることができなかった。
私は稗田家の人間ではなかったから。私には、次の御阿礼なんていなかったから。
◆
音楽が終わる。鳩山の夜を飛ぶ幻想は、元の円盤の中へと帰ってしまった。
そしてやってくる、無音。
一人きりの静寂へと戻された後、私は心に得体の知れない空虚さを感じて、蓄音機の収納を開けた。
次は、どんな曲を聴こう。どんな曲を聴けば、この得体の知れない空虚を埋めることが出来るだろうか。そう思って探る内にふと、手が止まる。
見慣れたレコードのジャケット達の中に、見覚えのないものを見た気がしたのだ。試しに引き出してみると、やはり見覚えのないものだった。
「こんなレコード、あったかしら……?」
少しの間、私は手に取ったレコードのジャケットを眺めていた。
若草色のそれは、一見他のものとそう違いがあるようには見えない。見えないのだが、どこか異質なものを感じる。なんだろうともう一度見て、その違和感の正体に気づいた。
タイトルが、ない。
それどころか、作曲者の名前すら書かれていない。あるのは、ジャケットに描かれた様々な種類の花々だけ。違和感の正体は恐らくそれだ。
一体、何の曲なんだろう。円盤を取り出しながら、ジャケットの花々を見る。
葡萄酒色の
血のような深紅の
薄紫の
薄桃色の
青紫の
橙色の
花に詳しい方ではないけれど、それでも描かれている花の種類や季節に統一性がないことはなんとなくわかる。単に描いた人間の好きな花を集めただけなのだろうか。それとも、何か意味があるのだろうか?
考えてみたけれど、答えは出ない。なんとなく、このレコードが不気味に思えてきた。
「……あぁもう、考えても仕方無いわ。とにかく再生してみましょう」
そんな不気味さや不安を追い払うように、わざと大きな声を出し、腹を決めてレコードを再生する。数秒ほど微かなノイズ音が響いた後、やがて曲が流れ始める。
「阿礼の……子供?」
やがて流れ始めた曲は、つい先程聴いたばかりの曲。阿求の為に作られた、幺樂団の曲だった。
「同じレコード……じゃ、ないわね」
呟いた言葉を、すぐさま否定する。
それにしては、一曲目の曲が違うからだ。盤面を間違えて乗せたのかとも思ったけれど、そもそも一枚のレコードには三曲も収まらない。
もしかしたら、阿求の為にこの一曲だけを収録したレコードなのかもしれない。
あいつの為に作られた曲なのだから、一般に出回っているものとは違う、特別なレコードがあっても不思議ではない。でも、それなら幺樂団の名前くらい書かれている筈――そう思って、ジャケットをもう一度手に取った、その時だった。
『……あれ、もう回っているの?』
思わず、びくりと身が跳ねる。懐かしい声が、聴こえた気がした。
「阿、求?」
思わず我を忘れて、回るレコードを見つめる。
『そう。じゃあ、もう始めていいのね?』
「!」
間違いない。阿求の声だ。もう何年も前に失われてしまった筈の、阿求の声。それが今、レコードから紡がれているのだ。
『……こほん。えーと、久しぶり、でいいのかしら。ともかく、小鈴へ。これを聞いているとき、あんたは幾つになっているのかしら。あんたのことだから、このレコードに気づかないままお婆ちゃんになっててもおかしくはないと思うけど……ま、何にしても私はもう居なくなっていることでしょうね』
レコードの中の阿求は、遺言めいたことを口にしていた。私は動くこともできずに、それを聴いていた。まさか、こんなことがあるなんて思わなかったから。
『あんたは、元気にしている? 相変わらず妖魔本を集めたりして、無茶してるのかしら。それとも、少しは大人しくなったのかしら。……あんたに限って、そんなことはなさそうね。……って、そんなこと話してても仕方無いわね。これを遺したのはね、小鈴。あんたにお礼を言いたかったからなの。……こんな形で言うのは、変だとは思うけれど。直接言うのは恥ずかしいし、かといって手紙にしたら、他の人に読まれてしまうかもしれないし。だからあんたには悪いけど、こうやって言い逃げさせてもらうわね。……小鈴。今まで、本当にありがとう。短い間だったけれど、あんたと過ごした時間は、とても楽しかったわ。一緒に出掛けたり、妖怪について話したり、たまには、無茶もしてみたり。多分、あんたがいなかったら、私はそんなことをしなかったし、出来なかったと思う。だから、あんたには本当に感謝しているわ。できればもっと沢山、色んなことをやってみたかったけれど、それは流石に高望みよね。……でも、そうね。ねぇ、小鈴。一つ、お願いがあるの。……きっと私のこと、生きている内はずっと覚えていてね。もし私のことを忘れたりなんかしたら、絶対許さないから。枕元に化けて出てやるから』
無理をして出したような低い声で言って、阿求の声は、くすくすと小さく笑う。口元を手で覆って笑うあいつの姿がすぐに浮かんだ。
『なんて、ね。嘘よ嘘。ぜんぶ嘘。このレコードが終わったら、私のことなんて、もう忘れてしまってね。きっと、次の御阿礼は、あんたのこと、なにも覚えてはいないだろうから。そんなの、フェアじゃないものね。だから、あんたも、さっさと私を忘れてしまってね。……それじゃ、元気で。さようなら、小鈴』
冗談めかした言葉を最後に、レコードが止まる。部屋には阿求の声が残響となって響くばかり。 その残響が消えるまで、私は言葉も失って、ただただレコードをじっと見つめていた。
「……ばか」
やっとのことで洩らした言葉と共に、テーブルに水滴が落ちる。頬を拭って、誤魔化すように紅茶を啜る。何故だか、塩辛く感じた。
「ばか。大ばか。忘れろなんて、死んだ後で言うもんじゃないわ」
頬を拭って、掠れた声で呟く。後は、言葉にならなかった。あぁ、どうしてもっと早くこれに気付けなかったのだろう。私も阿求も、大ばか者だ。いつ気が付いても阿求はもう居なくなった後だっただろう。それでも、もっと早くに気付くべきだったと思えて仕方ないのだ。
止まったレコード。
積まれた本が置かれた、小さなテーブル。
向い合わせに置かれた椅子と、紅茶の注がれたティーカップ。
静寂に満ちた、私の王国。ぽっかりと大きな孔が空いた、紛い物のかつての日常の形。何を今更、とは思う。けれど、今になってあの声を聞くだなんて、思わなかったから。
独りぼっちの夜に、私は一人泣いていた。余計に広がってしまった空虚さを抱えて。何も言わず、ただ、声を殺して泣くことしかできなかった。
◆
「アヽ歎かじ」
と徳兵衛。顔振りあげて手を合はせ。
古ぼけた本の匂い。
真新しい紅茶の匂い。
古ぼけたレコードが紡ぐ音。
真新しい本の頁を捲る音。
その日も、既に夜は深く。
店仕舞いを終えて、今日も私は本の頁を捲る。
昨日と違うことと言えば、始めから二つ分のティーカップが置かれていることと、流れているオーディオブックの章が進んでいることくらいだろうか。
朗々と謡われる悲恋の物語は、部屋中に積み重ねられた無数の本の壁へと吸い込まれ、残響のみを響かせては消えていく。
一人ぼっちの、私の王国。此処は、今日も静寂の中に在った。
「いつ迄いふてせんもなし。はやはや殺して殺して」
と最期を急げば
「心得たり」と。
脇差するりと抜放し。
「サア只今ぞ南無阿弥陀南無阿弥陀」
紅茶を啜る。本の頁を捲る。紡がれる物語は既に佳境。結ばれない二人が、あの世での再会を誓って情死を遂げる物語のクライマックスが、レコードの中の語り部によって朗々と謡い上げられる。
「南無阿弥陀。南無阿弥陀南無阿弥陀仏」と。
くり通しくり通す腕先も。弱るを見れば両手を延べ。断末魔の四苦八苦。あはれと言ふも余り有り。
「我とても遅れふか息は一度に引取らん」
――この二人は、死後に再び逢えたのだろうか。誓いの通りに結ばれたのだろうか。
ふつと、そんなことを考える。逢えたのならば、喩えそこが地獄の果てだったとしても、二人はきっと幸せになれたのだろう。
けれど、もしも逢えなかったのだとしたら。二人は、どうなったのだろう。
いつか私が取り憑かれた、艶書の中で怨霊と成り果てた娘のように互いを求めて今もこの世に留まっているのだろうか。
或いは、死んでも結ばれない運命だったのだと、諦めて成仏したのだろうか。
誰が告ぐるとは曽根崎の森の下風音に聞え。取り伝へ貴賤群集の回向の種。未来成仏疑ひなき恋の手本となりにけり。
「疑いなき恋の手本、か」
そんな私の疑問に答えるように、レコードはこの結末を恋の手本だと結んで、拍子木の音と共にゆっくりと回転を緩めていく。その言葉の通りなら、二人はきっと、間違いなく、死後に結ばれたのだろう。少なくとも、そう信じられてはいるのだろう。
「……恋かどうかはともかくとして、私も死んだら、あいつに逢えたりするのかしらね」
そう、呟いて。けれどすぐ、何をばかなと首を振る。
転生が約束されているあいつとは違って、ただの人間でしかない私は、きっと死んでも逢うことはできないだろう。それにもし、仮に逢えたとしても――
『きっと、次の御阿礼は、あんたのこと、なにも覚えてはいないだろうから』
昨晩聴いた言葉を思い返す。阿求は確かに、そう言っていた。本当にそうなのだとしたら、死ぬだなんてますます間抜けな話だ。
この物語の様に、再会を望んで自死してまで逢いに行った相手が自分のことを覚えていないなど、とんだ喜劇ではないか。馬鹿馬鹿しいことこの上無い。
この恋物語の中の二人とは違い、私の死の先には、最後に縋る再会の希望さえありはしないのだ。それなら、長生きでもするか、それとも幽霊にでもなって、転生した彼女を待つ方がまだ現実的だろう。
「……もし、生まれ変わってもまだ私が生きていたら、あいつは驚くかな」
よぼよぼのしわくちゃになった自分が、或いは、寺に住んでいる船幽霊のような姿になった自分が。とにかくその日まで永らえた私が転生した御阿礼の子を訪ねる姿を想像して、くすりと笑う。今まで見たこともない相手が突然やってきて、私は百年前の貴方の友達だったのよ、なんて言いだしたら、果たして十代目の御阿礼の子はどんな反応をするだろうか。
「思い出そうと、してくれるかしら」
阿求と瓜二つの姿をした次の御阿礼が、何事も忘れないはずの頭で、忘れてしまった記憶を思い出そうとする様を想像して、我ながら酷い悪戯だと苦笑する。
「……でも」
ふと、疑問が浮かぶ。そこに居るのは、本当に阿求と同じ存在なのだろか?
拍子木の音は既に、微かにしか聴こえない程に遠退いている。その間にも、疑問は私の頭の中を巡っていた。
次の御阿礼の子は、阿求の様に紅茶やレコードを好むだろうか。
次の御阿礼の子は、阿求の様に幺樂団を愛するだろうか。
次の御阿礼の子は、阿求の様にこの店を訪ねてくれるだろうか。
次の御阿礼の子は、阿求の様に私を友だと思ってくれるだろうか。
次の御阿礼の子は……とりとめもないことばかり浮かぶ。
けれど、もし、そのどれでもないのだとしたら。たとえ魂が同じだとしても、その御阿礼の子は、私の知るそれとはまったくの別人ではないのだろうか。
ならば私──本居小鈴の友人だった〝稗田阿求〟は、果たして何処に行ってしまうのだろうか?
転生するということは、どんな形であってもその魂の元は同じのはず。そこから削ぎ落とされた〝阿求〟は、完全に失われてしまうのだろうか……?
転生がどういうものか、私はちゃんと知らない。でも、その考えが正しいのなら。
それはきっと、悲しいことなのだと思った。
◆
名残惜しげにゆっくりと回っていたレコードも、既に止まっていた。それでも、まだ私は考えていた。
もしかしたら、阿求はそのことに気がついていたから、忘れろなどと言ったのだろうか。
僅かに響いていた浄瑠璃の残響が、積み上げられた本の壁に吸い込まれて消えていく。静寂と、再び訪れた空虚感が、私の王国を支配する。
「…………」
なんだか、無性に阿求の声が聴きたくなって。私はあの若草色のレコードジャケットを取り出して、蓄音機に乗せた。
再生と同時に漏れ始めたノイズ音が、私の世界の静寂に、小さく罅を入れてゆく。心なしか、昨日よりノイズが少し大きくなっている気がした。
『……あれ、もう回っているの?』
昨日と同じように〝阿礼の子供〟が流れ始めたあと、間の抜けた阿求の声が再生される。
昨日聴いたばかりの、けれど堪らなく懐かしい声。昨日と全く同じ言葉を紡ぐそれが、録音された音声でしかないことは、分かっているのだけれど。それでも、そこに阿求本人が居るような、そんな錯覚に陥ることができた。
『そう。じゃあ、もう始めていいのね?』
もしも、さっき考えたことが、正しいのだとしたら。
『……こほん。えーと、久しぶり、でいいのかしら。ともかく、小鈴へ。これを聞いているとき、あんたは幾つになっているのかしら』
このレコードに刻まれた声は、言葉は、きっと残響なのだろう。影も形も失い消えた、阿求の残響。〝阿礼乙女〟としてではなく、私の友人としてそこに居た、ただの〝稗田阿求〟という少女の、存在の残滓。私へと言葉を遺したのは、その証を残したかったから。……とまで言うのは、流石に自惚れが過ぎるだろうか。
でも、阿求は何かしらの形で、自分というものを残したかったのだろう。
次の自分へは、遺せないから。
約束された転生の先には、自分は居ないから。
不要なものとして削ぎ落とされる筈の自分という存在を、残したかったから。
次の自分の為に全てを焼き払って、それでもなお残るこの世への未練を晴らす為に、何かを残したかったから。
……本当のことなど、分かるはずもないのだけれど。きっと、そうなのだと思う。
「……『忘れろ』なんて言って。ほんとは、忘れられたくなかったのね。そうなんでしょう、阿求」
小さく、昨日と同じ言葉を紡ぎ続けるレコードへと呟きかける。
『あんたは、元気にしている? 相変わらず妖魔本を集めたりして、無茶してるのかしら。それとも、少しは大人しくなったのかしら。……あんたに限って、そんなことはなさそうね』
返ってくるのは勿論、繰り返されるだけの阿求の言葉。下らないと、笑ってしまう。私達の言葉は、どちらも一方通行の、交わらない一人遊びでしかないのだから。
『……って、こんなこと話してても仕方無いわね。このレコードを遺したのはね、小鈴。あんたに**********』
不意に、ノイズが大きくなって、阿求の声が掻き消される。
そのノイズは、何故だか、叫び声に似ている気がした。
『小鈴***私**は****こ***』
『小鈴***私**は****こ***』
途切れて揺らぐ、幺樂の旋律。
途切れて揺らぐ、幺樂の旋律。
『**こ**に*だから**ねぇ*き**』『**こ**に*だから**ねぇ*き**』
途切れて揺らぐ、阿求の言葉。
声が、音が、何もかもがノイズに揺らぐ。聴こえる言葉は断片的に再生された録音の筈なのに、昨日とは違う声音で紡がれているようにさえ聞こえる。私は呆けたように、微動だにもできずにそれを聞いていた。
『******************』『こ*ず、お*がい*わた*をわ**な』
『す*、*ね**、**し*すれ*いで』
ノイズが一層大きくなり、蓄音機が悲鳴を上げる。流石にまずい。これ以上は多分、壊れてしまう。そう思って、蓄音機の針を止めようと立ち上がって、
『あんたになら、きっと、読めるはずだから』
一瞬、音がクリアになる。そして、レコードには録音されていないはずの声音で、レコードの中の阿求が言葉を紡ぐ。息が止まりそうだった。
『は、な』
ぶつりと、音がして。それきり、蓄音機は黙りこんでしまった。
立ち上がりかけた半端な姿勢から、再び椅子に沈む。
何が起こったのか、理解できなかった。
急に、ノイズが走って。録音にないはずの、阿求の言葉が聞こえて。それきり、蓄音機は止まってしまって。
さっきまでのことが幻聴だったのか現実だったのかどうかさえ、区別がつかない。妖怪や霊の仕業なのだろうか? そんな風には、思えなかったけれど。これでも人よりはそういったものに触れることが多かったから、妖魔の類いの仕業なら微かではあるもののその気配を感じることが出来るのだけれど、このレコードから何かを感じることは無かった。
とにかく、落ち着こう。ゆっくりと深呼吸をしてから、すっかり冷めてしまった紅茶を飲む。いくらか、冷静になれた気がする。少なくとも、なにもしないよりはマシだった。
「『あんたになら、きっと、読めるはずだから』……か」
さっき聞いた言葉を口の中で転がして、反芻する。〝読める〟……一体、何を? 阿求は、私に何を求めているのだろう?
遺書なんかが残っているとは思えない。あいつの持ち物は、ここにあるものを除けば全て、一つ残らず焼き払われているはずだ。そういう風に、あいつが望んだのだから。
「……稗田の屋敷で聞けば、何か分かるかしら」
レコードの最初の阿求の口振りからして、恐らくは阿求の言葉を録音した人間がいるはずだ。もしかしたら、何か知っているかもしれない。夜が明けたら、聞きに行ってみよう。
そう自分のなかで決めると、なんだか余裕が出てきた。私は立ち上がって、蓄音機やレコードが今ので壊れてしまっていないか確かめる。幸いなことに、目立ったものは見当たらなかった。
それから、とりあえず阿求のレコードを仕舞おうと若草色のジャケットを取り出して、
ふと、そこに描かれている絵に目が留まる。
翁草。
鬼灯。
枸杞。
木五倍子。
三色菫。
金木犀。
勿論、昨日見たときから何か変化があるわけではない。けれど、何故だか気になったのだ。
『は、な』
最後に聞こえた、阿求の言葉が私の耳に蘇る。……もしかして、阿求が最後に言っていたのは、このジャケットの花のことなのではないだろうか?
もしそうなら、阿求はどんな思いを込めて、この花達を描いたのだろう?
私はレコードを蓄音機に着けたまま、本棚から花に関する本を手当たり次第に引っ張り出して、ジャケットと一緒にテーブルに置く。私にしか出来ないと言うのなら、やってやろうじゃないか。
◆
「……駄目だわ、まーったくわかんない」
椅子に身を投げ出して、大きく溜め息をつく。ずっと同じ体勢でいたせいか、体中が軋んだ悲鳴をあげていた。
図鑑とにらめっこを始めて、どのくらい経ったのだろうか。窓の外からは薄明かりが僅かに差し込んでいる。朝が近付いていた。
けれど、私は何一つ進んでいない。片っ端から資料を漁ったのだけれど、結局手がかりになるようなものは何もみつからなかった。色も季節も種類も、この花達全てに当てはまるような条件はなかった。逸話や花言葉なんかも調べてみたけれど、多すぎて絞りきれない。一体、阿求は何を考えていたのだろう?
「やっぱり、妖怪かなんかに化かされてるのかしら」
だとしたら、完全に良いように遊ばれている。そう思うと、なんだか腹が立ってきた。
「あーもう、なんだって言うのよ。阿求のやつ、言いたいことがあるならはっきり遺しなさいよ」
どれもこれも、阿求のせいだ。昨日は阿求のせいで泣いて、今日は阿求のせいで苛立って。どれもこれも、全部阿求のせいだ。
「せめて、これに一文でもいいから文字を書いててくれればいいのに」
全ての元凶であるジャケットを八つ当たり気味に睨み付けながら、ここにいない親友を恨む。花の絵が地味に上手いのもなんかむかつく。ほら、この血のように真っ赤な鬼灯なんか――
『**』
ノイズが一層大きくなり、蓄音機が悲鳴を上げる。流石にまずい。これ以上は多分、壊れてしまう。そう思って、蓄音機の針を止めようと立ち上がって、
『あんたになら、きっと、読めるはずだから』
一瞬、音がクリアになる。そして、レコードには録音されていないはずの声音で、レコードの中の阿求が言葉を紡ぐ。息が止まりそうだった。
『は、な』
ぶつりと、音がして。それきり、蓄音機は黙りこんでしまった。
立ち上がりかけた半端な姿勢から、再び椅子に沈む。
何が起こったのか、理解できなかった。
急に、ノイズが走って。録音にないはずの、阿求の言葉が聞こえて。それきり、蓄音機は止まってしまって。
さっきまでのことが幻聴だったのか現実だったのかどうかさえ、区別がつかない。妖怪や霊の仕業なのだろうか? そんな風には、思えなかったけれど。これでも人よりはそういったものに触れることが多かったから、妖魔の類いの仕業なら微かではあるもののその気配を感じることが出来るのだけれど、このレコードから何かを感じることは無かった。
とにかく、落ち着こう。ゆっくりと深呼吸をしてから、すっかり冷めてしまった紅茶を飲む。いくらか、冷静になれた気がする。少なくとも、なにもしないよりはマシだった。
「『あんたになら、きっと、読めるはずだから』……か」
さっき聞いた言葉を口の中で転がして、反芻する。〝読める〟……一体、何を? 阿求は、私に何を求めているのだろう?
遺書なんかが残っているとは思えない。あいつの持ち物は、ここにあるものを除けば全て、一つ残らず焼き払われているはずだ。そういう風に、あいつが望んだのだから。
「……稗田の屋敷で聞けば、何か分かるかしら」
レコードの最初の阿求の口振りからして、恐らくは阿求の言葉を録音した人間がいるはずだ。もしかしたら、何か知っているかもしれない。夜が明けたら、聞きに行ってみよう。
そう自分のなかで決めると、なんだか余裕が出てきた。私は立ち上がって、蓄音機やレコードが今ので壊れてしまっていないか確かめる。幸いなことに、目立ったものは見当たらなかった。
それから、とりあえず阿求のレコードを仕舞おうと若草色のジャケットを取り出して、
ふと、そこに描かれている絵に目が留まる。
翁草。
鬼灯。
枸杞。
木五倍子。
三色菫。
金木犀。
勿論、昨日見たときから何か変化があるわけではない。けれど、何故だか気になったのだ。
『は、な』
最後に聞こえた、阿求の言葉が私の耳に蘇る。……もしかして、阿求が最後に言っていたのは、このジャケットの花のことなのではないだろうか?
もしそうなら、阿求はどんな思いを込めて、この花達を描いたのだろう?
私はレコードを蓄音機に着けたまま、本棚から花に関する本を手当たり次第に引っ張り出して、ジャケットと一緒にテーブルに置く。私にしか出来ないと言うのなら、やってやろうじゃないか。
◆
「……駄目だわ、まーったくわかんない」
椅子に身を投げ出して、大きく溜め息をつく。ずっと同じ体勢でいたせいか、体中が軋んだ悲鳴をあげていた。
図鑑とにらめっこを始めて、どのくらい経ったのだろうか。窓の外からは薄明かりが僅かに差し込んでいる。朝が近付いていた。
けれど、私は何一つ進んでいない。片っ端から資料を漁ったのだけれど、結局手がかりになるようなものは何もみつからなかった。色も季節も種類も、この花達全てに当てはまるような条件はなかった。逸話や花言葉なんかも調べてみたけれど、多すぎて絞りきれない。一体、阿求は何を考えていたのだろう?
「やっぱり、妖怪かなんかに化かされてるのかしら」
だとしたら、完全に良いように遊ばれている。そう思うと、なんだか腹が立ってきた。
「あーもう、なんだって言うのよ。阿求のやつ、言いたいことがあるならはっきり遺しなさいよ」
どれもこれも、阿求のせいだ。昨日は阿求のせいで泣いて、今日は阿求のせいで苛立って。どれもこれも、全部阿求のせいだ。
「せめて、これに一文でもいいから文字を書いててくれればいいのに」
全ての元凶であるジャケットを八つ当たり気味に睨み付けながら、ここにいない親友を恨む。花の絵が地味に上手いのもなんかむかつく。ほら、この血のように真っ赤な鬼灯なんか――
『**』
『偽り』
『**』
「……?」
今、文字が見えなかった? 慌てて目を擦って、もう一度絵に目を向ける。
葡萄酒色の翁草と、血の色をした鬼灯を、凝視する。
「やっぱり……!」
見つめた二つの花が、同じ色の文字となって私の目に映る。そしてその筆跡は、間違いなく。
「阿求の、字だわ」
そう。これは〝文字〟なのだ。花を模した、阿求の字。選ばれた花の基準は恐らく、花言葉。先ほど放り出した花言葉辞典と、浮かび上がる〝文字〟を照らし合わせる。間違いない。翁草の『何も求めない』も、鬼灯の『偽り』も、それぞれの花の花言葉の一つだった。
「そう、か。だから、私になら〝読める〟と言ったのね」
阿求が何故、〝分かる〟ではなく、〝読める〟と言ったのか。それは、これを〝文字〟として――否、これはただのレコードとジャケットなどではなく、この二つを合わせた、一冊の〝本〟であると認識できるものが、私のほかに居ないからだ。
そうだ。これは、〝本〟なのだ。
レコードは私に充てたこの〝本〟の冒頭文を記した、オーディオブックのようなものなのだろう。
そしてこの花の絵は、本文の一部。これだけでも、花言葉に詳しい者ならある程度は読み解くことは出来なくもないだろう。けれど、花言葉は一つの花にいくつも存在する。だから、阿求の意図した通りの文章として認識するとなると難しくなるのだ。けれど、この花が〝文字〟であり、このジャケットが〝本〟であるならば、私の目はそれを正しく読み取ることができる。
今の今まで私がこれを読むことができなかったのは、きっとこれを単なる〝絵〟として認識していたからなのだろう。どう細工したのかは分からないが、二度目に聞こえたノイズ混じりの言葉は、それに気付かせる為の文章だったのだろう。春を迎えた雪のように、疑問が解けてゆく。
そして、この花達の持つ意味は。
「やっぱり、忘れられたくなんてなかったんじゃない」
ジャケットに刻まれた阿求の言葉は、レコードの中の言葉よりも正直だった。いじらしいと言うべきか、素直じゃないと言うべきか。
でもきっと、これで終わりではない。たったこれだけを遺すなら、レコードの言葉だけで事足りる筈だから。でも、阿求はそうだけでは終わらせなかった。私にしか分からない、私にしか読み解けない方法でこれを遺した。
ということは、つまり。
「阿求。私、やっとわかった気がする」
カウンターの抽斗から鋏を取り出して、ジャケットを慎重に解体する。最後の言葉は、きっと、ここにあるに違いない。
ジャケットとしての形を失った若草色の厚紙を、テーブルに広げる。
果たして、それはそこにあった。
花の描かれた面の、丁度裏側に当たる部分。そこに一枚、小さなお札が貼り付けられていた。
「あぁ、やっぱり」
そっと、お札に指を這わせる。
「――っ」
途端、阿求の妄執、阿求の思念――〝本〟の持つ気が、痛いほどに訴えかけてくる。
『私は、此処に居る』と。
嗚呼。やっぱり、あいつは――稗田阿求は、ここに居た。
「大丈夫よ。今、出してあげるから」
言い聞かせるように呟いて、一息にお札を剥がす。若草色の厚紙が、封の痕から滲み出た赤黒い何かに覆われ、次いで滲み出す色に染められていく。赤黒いものは、阿求の血だろうか?
やがて、赤黒いものと色は花を形作っていく。赤黒く縁取られた花が、若草色の野に咲き乱れていく。
私に向けた、私にしか分からない言葉で、阿求の想いが綴られる。
いつか阿求が言わなかった言葉を、私は理解した。
ゆっくりと、蓄音機に近付く。もう、何も言われなくとも、何も見なくとも、分かる。
だから、これを終わりと、始まりにしよう。
「阿求」
その名を呼ぶ。
「阿求」
何度だって、私はその名を呼ぶ。
「阿求」
あの日私が言えなかった、ずっと胸に押し込めてきた言葉と想いを込めて、私はその名を呼ぶ。
『******――』
静寂を裂くノイズ音。
蓄音機が、ひとりでに動きだしていた。
『******――』
ぼうっと、火が灯るように、朧気な影が姿を現す。
……嗚呼。
それは。
きっと。
ほんとうに。
「久しぶり、ね。……ずっと、逢いたかったわ、阿求」
確信を込めて、その名を呼ぶ。影が、自分の形を思い出したかのように見慣れた姿――昔と何も変わらない、稗田阿求の姿に変わる。
『私もよ、小鈴。ずっと、待っていたわ。……でも、もっと早く気付いてくれると思ったんだけどなぁ』
「よく言うわ、『気付かないままお婆ちゃんになってるかも』なんて言ってたくせに」
『あ、あのレコードの中身は嘘だってば。あぁでも、全部嘘って訳じゃ……』
慌てて手を振りながら誤魔化そうとする阿求。もう少し意地悪してもいいかと思ったけれど、それはまた今度にしよう。折角、また逢えたのだから。
「あーはいはい、弁解とかしなくていいわよ。別に怒ってるわけじゃないし」
「そ、そう?」
安堵の息を吐く阿求の姿は、少しぼやけている他には何も変わっていなかった。いや、姿が変わったのは、私の方か。
『……小鈴』
真面目な声で、阿求が私を呼ぶ。当たり前のことのはずなのに、なんだか、嬉しくなった。
「何?」
『ありがとう。私のこと、忘れないでいてくれて』
「ばかねぇ、私があんたのこと、忘れるわけないでしょう。それに、忘れさせる気もなかったじゃない。こんな〝妖魔本〟まで遺しちゃってさ。結局、転生はしなかったわけ?」
『……いいえ、私の魂はちゃんと彼岸に行ったわ。今頃、何もかも忘れてしまっているでしょう。だから私は、レコードに刻まれた稗田阿求の残留思念、とでも言えばいいのかしら』
「ふぅん。それで、その思念をレコードのジャケットに封印して、このレコードそのものを妖魔本にした、ってところか」
どうしてそんなことをしたのか、なんて、今更聞かない。阿求も直接口に出して言うことはないだろう。答えはきっと、さっきの花が全て示している。
『えぇ、正解よ。よくそこまでわかったわね』
「当たり前。私を誰だと思ってるのよ。でも、そこまでするなら転生なんて、やめちゃえばよかったのに」
『無理よ』
阿求は首を横に振って、目を伏せる。
『転生を止めたって、私はどの道三十まで生きられないもの。結局長くは生きられないなら、転生して役目を果たした方がいいじゃない。どうせ、今までの私達も、それ以外の生き方をしてこなかったんだもの。今更、変えられない。そう、思ってたわ』
でもね、と、阿求は笑う。
『それでも、私は違う生き方をしたかった。……未練も、強かったしね』
「……そっか。ま、あんたがいいなら、構わないけど」
私も、笑顔で返してやる。在り方は違っても、一緒に居られるなら、それは喜ぶべきことだったから。
「……ところで」
『うわ、ちょっと、何よ』
阿求の手を少し強引に引いて、一緒に椅子に座る。まだ半端にしか実体がないせいか、拍子抜けするくらい軽くて、頼りなかった。
「私は忘れなかった訳だけど、あんたも、私を忘れない?」
『当たり前でしょ。私を誰だと思ってるの』
「そっか。じゃあ私今から少し寝るから、起きてもそこにいてね。徹夜であんたを起こしたせいで、眠いのよ」
口にすると、本当に眠気がやってきた。窓を見ると、朝焼けが窓から覗いている。もう、夜は明けていた。
『折角また逢えたのに、すぐ寝てしまうなんて』
「逆よ、逆。また逢えたからこそ、夢見心地で居たくないのよ」
どうせ、長くは眠れやしない。
いつものように、外の喧騒に起こされるのだろうから。
『心配しなくても、私は夢なんかじゃないわ』
「分かってる。でも、眠いものは眠いのよ」
『仕方ないわねぇ……』
阿求はそう言うけれど、私はまだ、少し不安だった。だから、これが眠れぬ夜に見た一時の夢などではないと、確かな現実だと、ちゃんと信じられるようになりたかったから、阿求の手を、少しだけ強く握って。
「……おやすみ、阿求」
『おやすみ、小鈴』
私は、眠りに落ちていった。
◆
誰が告ぐるとは曽根崎の森の下風音に聞え。取り伝へ貴賤群集の回向の種。未来成仏疑ひなき恋の手本となりにけり。
レコードが、止まる。
「……うん、まだちゃんと使えるわね」
『ねぇ』
「ん」
果たして、阿求は夢の中の幻などではなかった。眠りから覚めても、ちゃんと私の傍に居た。そして再び夜が訪れた今も、こうして私の隣に居る。
『それ、何に使うの?』
私がティーセットと一緒に持ってきた古い蓄音機を指差して、阿求は不思議そうな顔をしていた。この蓄音機は、阿求のものを譲り受ける前に店で使っていたものだ。
「店で音楽を流すのに使うのよ。あんたのそれ、もう使えないでしょう?」
『あぁ、そうだったわね』
いずれ時が経てば、普通の妖魔本の妖怪の様に自由に動けるようになるのかもしれないけれど、まだまだ阿求の存在は不安定だ。だから、阿求自身が使っていた蓄音機は、もっぱら妖魔本の──阿求の一部であるレコードを置いておかなければならないだろう。それは別に構わないのだけれど、無音で過ごすというのも味気がない。
「それに、これも」
『?』
何も録音されていない新品のレコードを、阿求に見せる。私にはもう一つ、昼間からずっと考えていたことがあった。
「このレコードに、私とあんたの声を残そうと思うの。勿論、あんたと同じ方法でね」
阿求は妖魔本の怪として、もう一度私の前に現れた。それはつまり、今度は私よりもずっと、永く生きるであろうということ。だから次は、私が阿求の前から居なくなる番が、また離ればなれになる日が、いつかはやってくるということだ。そうなれば、生きても死んでも、二度とは逢えなくなってしまうだろう。
だから。
『……いいの?』
阿求が戸惑いの声を上げる。何を今更、と笑ってやる。
「あの花は、嘘じゃないんでしょう?」
『それは、そうだけど』
「これが、私の答えよ。……私も、言えなかったからさ」
最後の方は、気恥ずかしくて、小さな声になってしまった。
『え、何を?』
「い、いいからっ。ほら、さっさと始めるわよ」
気恥ずかしさを誤魔化して、有無を言わさず、テーブルの横に置いた蓄音機にレコードを乗せる。
『ねぇ、これ』
阿求が、テーブルに置いたジャケットを見て、袖を引いてくる。……隠しといた方がよかったかな。まぁ、いいか。どうせ、いつかは見せるのだから。
「言ったでしょ、あんたと同じ方法でやるって」
『だからって、ここまで真似しなくてもいいでしょうに』
黄色の女郎花 。『変わらない約束』
桃色の花浜匙 。『永遠に変わらずに』
青紫の西洋木蔦 。『死んでも離れずに』
白い山茶花 。『ひたむきにあなたを愛します』
意味が伝わったのかは、わからない。けれど多分、伝わっているのだろう。直接、口に出せないことも。
『……』
「ほら、いいから始めるよ」
『……ん、そうね』
無言で花を見つめる阿求を急かしながら、蓄音機のゼンマイを回す。
『……いざこうしてみると、なんだか恥ずかしいわ』
「いつも通りに話すだけでいいのよ。一人でやるより、簡単でしょ? 話したいこと、沢山あるの」
もし話すことがなくなったって、また二人で探せばいい。そのための時間は、まだまだある。
何度だって、私達の声を記録し続けよう。
私達という存在の、残響を残す為に。
何度だって、私達の声を記録し続けよう。
七年の空白を、埋められるくらい。
何度だって、私達の声を記録し続けよう。
もう二度と、離れてしまわないように。
何度だって、私達の声を記録し続けよう。
例え肉体が滅びようとも、例え魂が全てを忘れようとも、私達が私達のまま、共に居続けられるように。
共に生きれず、共に死ねず。
ならばせめて、共に在り続けよう。
ならばせめて、私達の心は、此処に置いて行こう。
古ぼけた本の匂い。
真新しい紅茶の匂い。
私が紡ぐ声。
阿求が紡ぐ声。
独りから、二人のものになった、私の王国。
その静寂に、私達の残響を刻む。
物語のようには、いかないけれど。
恋の手本、だなんて、言えないけれど。
花のような言葉は、口には出せないけれど。
想いはきっと、一緒だから。
私達は、ずっと、共に在り続けよう。
「……?」
今、文字が見えなかった? 慌てて目を擦って、もう一度絵に目を向ける。
葡萄酒色の翁草と、血の色をした鬼灯を、凝視する。
『何も求めない』
『偽り』
「やっぱり……!」
見つめた二つの花が、同じ色の文字となって私の目に映る。そしてその筆跡は、間違いなく。
「阿求の、字だわ」
そう。これは〝文字〟なのだ。花を模した、阿求の字。選ばれた花の基準は恐らく、花言葉。先ほど放り出した花言葉辞典と、浮かび上がる〝文字〟を照らし合わせる。間違いない。翁草の『何も求めない』も、鬼灯の『偽り』も、それぞれの花の花言葉の一つだった。
「そう、か。だから、私になら〝読める〟と言ったのね」
阿求が何故、〝分かる〟ではなく、〝読める〟と言ったのか。それは、これを〝文字〟として――否、これはただのレコードとジャケットなどではなく、この二つを合わせた、一冊の〝本〟であると認識できるものが、私のほかに居ないからだ。
そうだ。これは、〝本〟なのだ。
レコードは私に充てたこの〝本〟の冒頭文を記した、オーディオブックのようなものなのだろう。
そしてこの花の絵は、本文の一部。これだけでも、花言葉に詳しい者ならある程度は読み解くことは出来なくもないだろう。けれど、花言葉は一つの花にいくつも存在する。だから、阿求の意図した通りの文章として認識するとなると難しくなるのだ。けれど、この花が〝文字〟であり、このジャケットが〝本〟であるならば、私の目はそれを正しく読み取ることができる。
今の今まで私がこれを読むことができなかったのは、きっとこれを単なる〝絵〟として認識していたからなのだろう。どう細工したのかは分からないが、二度目に聞こえたノイズ混じりの言葉は、それに気付かせる為の文章だったのだろう。春を迎えた雪のように、疑問が解けてゆく。
そして、この花達の持つ意味は。
翁草――『何も求めない』。
鬼灯――『偽り』。
枸杞――『お互いに忘れよう』。
木五倍子――『嘘』。
三色菫――『私を想って』。
金木犀――『真実』。
「やっぱり、忘れられたくなんてなかったんじゃない」
ジャケットに刻まれた阿求の言葉は、レコードの中の言葉よりも正直だった。いじらしいと言うべきか、素直じゃないと言うべきか。
でもきっと、これで終わりではない。たったこれだけを遺すなら、レコードの言葉だけで事足りる筈だから。でも、阿求はそうだけでは終わらせなかった。私にしか分からない、私にしか読み解けない方法でこれを遺した。
ということは、つまり。
「阿求。私、やっとわかった気がする」
カウンターの抽斗から鋏を取り出して、ジャケットを慎重に解体する。最後の言葉は、きっと、ここにあるに違いない。
ジャケットとしての形を失った若草色の厚紙を、テーブルに広げる。
果たして、それはそこにあった。
花の描かれた面の、丁度裏側に当たる部分。そこに一枚、小さなお札が貼り付けられていた。
「あぁ、やっぱり」
そっと、お札に指を這わせる。
「――っ」
途端、阿求の妄執、阿求の思念――〝本〟の持つ気が、痛いほどに訴えかけてくる。
『私は、此処に居る』と。
嗚呼。やっぱり、あいつは――稗田阿求は、ここに居た。
「大丈夫よ。今、出してあげるから」
言い聞かせるように呟いて、一息にお札を剥がす。若草色の厚紙が、封の痕から滲み出た赤黒い何かに覆われ、次いで滲み出す色に染められていく。赤黒いものは、阿求の血だろうか?
やがて、赤黒いものと色は花を形作っていく。赤黒く縁取られた花が、若草色の野に咲き乱れていく。
白い
紫の
紅色の
四つ葉の
青い
白い
私に向けた、私にしか分からない言葉で、阿求の想いが綴られる。
いつか阿求が言わなかった言葉を、私は理解した。
ゆっくりと、蓄音機に近付く。もう、何も言われなくとも、何も見なくとも、分かる。
だから、これを終わりと、始まりにしよう。
「阿求」
その名を呼ぶ。
「阿求」
何度だって、私はその名を呼ぶ。
「阿求」
あの日私が言えなかった、ずっと胸に押し込めてきた言葉と想いを込めて、私はその名を呼ぶ。
『******――』
静寂を裂くノイズ音。
蓄音機が、ひとりでに動きだしていた。
『******――』
ぼうっと、火が灯るように、朧気な影が姿を現す。
……嗚呼。
それは。
きっと。
ほんとうに。
「久しぶり、ね。……ずっと、逢いたかったわ、阿求」
確信を込めて、その名を呼ぶ。影が、自分の形を思い出したかのように見慣れた姿――昔と何も変わらない、稗田阿求の姿に変わる。
『私もよ、小鈴。ずっと、待っていたわ。……でも、もっと早く気付いてくれると思ったんだけどなぁ』
「よく言うわ、『気付かないままお婆ちゃんになってるかも』なんて言ってたくせに」
『あ、あのレコードの中身は嘘だってば。あぁでも、全部嘘って訳じゃ……』
慌てて手を振りながら誤魔化そうとする阿求。もう少し意地悪してもいいかと思ったけれど、それはまた今度にしよう。折角、また逢えたのだから。
「あーはいはい、弁解とかしなくていいわよ。別に怒ってるわけじゃないし」
「そ、そう?」
安堵の息を吐く阿求の姿は、少しぼやけている他には何も変わっていなかった。いや、姿が変わったのは、私の方か。
『……小鈴』
真面目な声で、阿求が私を呼ぶ。当たり前のことのはずなのに、なんだか、嬉しくなった。
「何?」
『ありがとう。私のこと、忘れないでいてくれて』
「ばかねぇ、私があんたのこと、忘れるわけないでしょう。それに、忘れさせる気もなかったじゃない。こんな〝妖魔本〟まで遺しちゃってさ。結局、転生はしなかったわけ?」
『……いいえ、私の魂はちゃんと彼岸に行ったわ。今頃、何もかも忘れてしまっているでしょう。だから私は、レコードに刻まれた稗田阿求の残留思念、とでも言えばいいのかしら』
「ふぅん。それで、その思念をレコードのジャケットに封印して、このレコードそのものを妖魔本にした、ってところか」
どうしてそんなことをしたのか、なんて、今更聞かない。阿求も直接口に出して言うことはないだろう。答えはきっと、さっきの花が全て示している。
『えぇ、正解よ。よくそこまでわかったわね』
「当たり前。私を誰だと思ってるのよ。でも、そこまでするなら転生なんて、やめちゃえばよかったのに」
『無理よ』
阿求は首を横に振って、目を伏せる。
『転生を止めたって、私はどの道三十まで生きられないもの。結局長くは生きられないなら、転生して役目を果たした方がいいじゃない。どうせ、今までの私達も、それ以外の生き方をしてこなかったんだもの。今更、変えられない。そう、思ってたわ』
でもね、と、阿求は笑う。
『それでも、私は違う生き方をしたかった。……未練も、強かったしね』
「……そっか。ま、あんたがいいなら、構わないけど」
私も、笑顔で返してやる。在り方は違っても、一緒に居られるなら、それは喜ぶべきことだったから。
「……ところで」
『うわ、ちょっと、何よ』
阿求の手を少し強引に引いて、一緒に椅子に座る。まだ半端にしか実体がないせいか、拍子抜けするくらい軽くて、頼りなかった。
「私は忘れなかった訳だけど、あんたも、私を忘れない?」
『当たり前でしょ。私を誰だと思ってるの』
「そっか。じゃあ私今から少し寝るから、起きてもそこにいてね。徹夜であんたを起こしたせいで、眠いのよ」
口にすると、本当に眠気がやってきた。窓を見ると、朝焼けが窓から覗いている。もう、夜は明けていた。
『折角また逢えたのに、すぐ寝てしまうなんて』
「逆よ、逆。また逢えたからこそ、夢見心地で居たくないのよ」
どうせ、長くは眠れやしない。
いつものように、外の喧騒に起こされるのだろうから。
『心配しなくても、私は夢なんかじゃないわ』
「分かってる。でも、眠いものは眠いのよ」
『仕方ないわねぇ……』
阿求はそう言うけれど、私はまだ、少し不安だった。だから、これが眠れぬ夜に見た一時の夢などではないと、確かな現実だと、ちゃんと信じられるようになりたかったから、阿求の手を、少しだけ強く握って。
「……おやすみ、阿求」
『おやすみ、小鈴』
私は、眠りに落ちていった。
◆
誰が告ぐるとは曽根崎の森の下風音に聞え。取り伝へ貴賤群集の回向の種。未来成仏疑ひなき恋の手本となりにけり。
レコードが、止まる。
「……うん、まだちゃんと使えるわね」
『ねぇ』
「ん」
果たして、阿求は夢の中の幻などではなかった。眠りから覚めても、ちゃんと私の傍に居た。そして再び夜が訪れた今も、こうして私の隣に居る。
『それ、何に使うの?』
私がティーセットと一緒に持ってきた古い蓄音機を指差して、阿求は不思議そうな顔をしていた。この蓄音機は、阿求のものを譲り受ける前に店で使っていたものだ。
「店で音楽を流すのに使うのよ。あんたのそれ、もう使えないでしょう?」
『あぁ、そうだったわね』
いずれ時が経てば、普通の妖魔本の妖怪の様に自由に動けるようになるのかもしれないけれど、まだまだ阿求の存在は不安定だ。だから、阿求自身が使っていた蓄音機は、もっぱら妖魔本の──阿求の一部であるレコードを置いておかなければならないだろう。それは別に構わないのだけれど、無音で過ごすというのも味気がない。
「それに、これも」
『?』
何も録音されていない新品のレコードを、阿求に見せる。私にはもう一つ、昼間からずっと考えていたことがあった。
「このレコードに、私とあんたの声を残そうと思うの。勿論、あんたと同じ方法でね」
阿求は妖魔本の怪として、もう一度私の前に現れた。それはつまり、今度は私よりもずっと、永く生きるであろうということ。だから次は、私が阿求の前から居なくなる番が、また離ればなれになる日が、いつかはやってくるということだ。そうなれば、生きても死んでも、二度とは逢えなくなってしまうだろう。
だから。
『……いいの?』
阿求が戸惑いの声を上げる。何を今更、と笑ってやる。
「あの花は、嘘じゃないんでしょう?」
『それは、そうだけど』
「これが、私の答えよ。……私も、言えなかったからさ」
最後の方は、気恥ずかしくて、小さな声になってしまった。
『え、何を?』
「い、いいからっ。ほら、さっさと始めるわよ」
気恥ずかしさを誤魔化して、有無を言わさず、テーブルの横に置いた蓄音機にレコードを乗せる。
『ねぇ、これ』
阿求が、テーブルに置いたジャケットを見て、袖を引いてくる。……隠しといた方がよかったかな。まぁ、いいか。どうせ、いつかは見せるのだから。
「言ったでしょ、あんたと同じ方法でやるって」
『だからって、ここまで真似しなくてもいいでしょうに』
黄色の
桃色の
青紫の
白い
意味が伝わったのかは、わからない。けれど多分、伝わっているのだろう。直接、口に出せないことも。
『……』
「ほら、いいから始めるよ」
『……ん、そうね』
無言で花を見つめる阿求を急かしながら、蓄音機のゼンマイを回す。
『……いざこうしてみると、なんだか恥ずかしいわ』
「いつも通りに話すだけでいいのよ。一人でやるより、簡単でしょ? 話したいこと、沢山あるの」
もし話すことがなくなったって、また二人で探せばいい。そのための時間は、まだまだある。
何度だって、私達の声を記録し続けよう。
私達という存在の、残響を残す為に。
何度だって、私達の声を記録し続けよう。
七年の空白を、埋められるくらい。
何度だって、私達の声を記録し続けよう。
もう二度と、離れてしまわないように。
何度だって、私達の声を記録し続けよう。
例え肉体が滅びようとも、例え魂が全てを忘れようとも、私達が私達のまま、共に居続けられるように。
共に生きれず、共に死ねず。
ならばせめて、共に在り続けよう。
ならばせめて、私達の心は、此処に置いて行こう。
古ぼけた本の匂い。
真新しい紅茶の匂い。
私が紡ぐ声。
阿求が紡ぐ声。
独りから、二人のものになった、私の王国。
その静寂に、私達の残響を刻む。
物語のようには、いかないけれど。
恋の手本、だなんて、言えないけれど。
花のような言葉は、口には出せないけれど。
想いはきっと、一緒だから。
私達は、ずっと、共に在り続けよう。
後半 なにこれスゲェ!
ていう感じでした。文字が被っていたところはちょっビクッってしましたがw
とても面白かったです。進める指を止めれなかったです。
こんなに深くて泣きそうになるあきゅすずの作品は初めてです。
度々思うんですけど人は生まれ持った宿命や生まれた家のしきたりを知った時、不満や憤りを覚えて恨んだりするのでしょうか?
私自身はそういった環境ではないのでわかりませんが、それを知った時、その原因を変えようと一念発起する事はできるでしょうか?
殆どの者は原因があまりにも大きくて多大な影響力を誇り、変えられないと感じて諦めてしまいます。それがしきたりとか家訓なら賛同する者が殆どだから抵抗も空しいものとなりますし、虚弱な体質や重い病はそう簡単に治せるものではありません。
それでもささやかな、知られることのない抵抗ならできます。
今作の阿求がそれだと自分は思います。
短命故に他の人よりも時間が無く、転生しても個人的な感情や記憶は忘れてしまう。
抗えない宿命だからこそ大切な人の為に、自分の運命に抗おうとした。
これも恋心が成せる業だと思います。
長々と偉そうな事を語ってすみませんでした。
あまりにも感動が大きかったのでつい感情的になってしまいました。
改めて、素晴らしい作品をありがとうございました。
阿求の情念、小鈴にだけわかる暗号。
この結末は彼女たちのためにあるという感じがしてすごく良いです
が、彼女達が死を乗り越えるほどにお互いを求めていたならその描写が欲しかったかなと……
鈴はコミックスでしか読んでいないのですが、連載のほうではそうなっているのかな
とても面白かったです。
魂が転生するにもかかわらず、代々の御阿礼の子の個性や思い出はどこへ行ってしまうのか
その答えが素晴らしいあきゅすずと共にここにありました
次は小鈴の寿命という問題ですが、本編を見ていると案外、妖怪化もあるんじゃないかな~と思えてきてしまいます
もう一気に鳥肌が。皮膚を切られたような感覚。蓄音機やばすぎ。この演出すごすぎ。
文章の隅々に愛が詰まってる(戦慄)
ただ、読んでいて疲れる部分もありました。*その前にミス?のご報告→もしかしたら、阿求の為にこの一曲だけを収録したレコードなのかもしれない。(スクロールバーが中ほどよりも少し上位置の場面)改行後同じ文章があり、「阿求の為の曲なのだから」という文章が続いています。
*読んでいて疲れると思った原因ですが、重複表現が多いのだからだと気付きました。
『台詞』→思い返してみて――や、地の文に入る「私は」などがそれです。
小鈴の語り口調ならば問題はないのですが、物語を進めるための小鈴の一人称が前述に記した表現の所為で、上手く機能していないと思います。
妙に状況説明が入る辺りも、小鈴本人への感情移入や、物語にのめり込み切れない原因になったのだと感じました。
レコードの細工に気付く場面はすっきりとできましたが、もう一拍ほどの焦らしと言いますか、思考する間はあった方が良かったかもしれません。これに至っては、私個人の好みでしょう。
文体から作者さんの実力は高いところにあるとわかるのですが、書き慣れていないのだともいう印象も、同時に抱きました。
以上です。
感想よりも長ったらしいダメ出しになってしまいましたが、言葉選びの読みやすかったです。深い物語も楽しめました。次回作を読む機会があれば、是非、また拝読したいと思います。
○語り口調・語りかけ
○言葉選びなどは
です。お目汚し失礼しました。
アコースティック録音もしくは旧吹き込みと呼ぶそうですが、彼女達は見事にレコード盤に
命を吹き込む方法を考え付いたようですね。言動や思考のパターンを残して魂は彼岸へ、
って点から騒霊に近いのかな?
後はこの2枚組みの艶書レコードを誰に引き取ってもらうのがいいのかなぁ。
蓄音機の二台持ちとかが出来るくらいの富豪じゃないと難しいかなぁ。
この物語に出会えて本当によかった