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前回までのあらすじ
三十路手前、縁起の纏めも転生の準備も終わってあとは死ぬだけの稗田阿求。その余生を過ごすため、代々の阿礼乙女が住んできたという『棘の庵』に一人住まいを始めました。一年間の猶予でなにが変わるのかと、訝しげに想いつつも楽しげに暮らしています。
神無月
雨である。この時季の雨は軽い。
降る勢いとか量がとかではなく、見た目が軽い、気がする。ふわふわとして流れる雨の道が決まっていて、充分に湿った柳のような雰囲気がするのだ。雨を降らす雲とて心なしか厚みが無いようである。色や暗さは同じでも、季節によって雲の質が違うと言えばいいか。
では梅雨時の雨はどうなのかと言えばこちらは重い。湿気とてまとわりつくようである。秋雨の湿気は味気ないもので、通りすぎようと想えば簡単に通れるが、梅雨のそれはとにかくしつこく、まるで通せんぼをしているかのように邪魔をしてきて、肩口や後ろ髪に糸を引くのだ。秋雨が柳ならばあちらは松だろうか。松のざらついた木肌の感触や、松ぼっくりのぼてっとした脂っこさ。いかにも重そうだ。と言っても、松自体にはあまり興味は無い。悪気も無い。
雨を柳と例えるなら、その下に泥鰌なり蛙なりが居るはずだと想い、庵の縁側から庭を挟んで通りを眺める。しかし朝から降り続いている雨であるから、昼八つの鐘が聞こえるいまの時分に人が歩いているわけがなく、ぽつぽつと人影が雨の向こうを横切るものの、それらは帰りを急ぐどこぞの奉公人や棒手振り連中であるからして、風情も人情も無いほどの駆け足で早々に行ってしまう。これではつまらない。もっと私の興味を沸き立たせるような胡散臭い、もっと言えば不穏めいた輩は居らぬだろうかと、すっくと立ち上がって眺めていること四半刻。通行人が時折こちらに気付いて、ぎょっとした顔をしたのち、さらに足を早めて逃げるように去ってゆくではないか。
これは妖しい、と、勘どころが働き、理由は何事かとさらに観察していたら雨の幕の向こうからオケラがやってきた。雨粒を絞り、番傘を立て掛けて開口一番、こんな暗い日に幽霊のようで不気味だからあんなところに立つなと言われる。合点がゆく。幽霊の正体見たり、枯れ三十路。全く以て不愉快である。
それでもオケラが作り置いていった夕餉がうまいので平らげる。人参や牛蒡などの根菜を入れた雑炊と、里芋と椎茸の煮物である。特に里芋が美味しかった。旬だから、というのもあるがこれの煮付け加減が絶妙なのだ。ほくとした歯触りと出汁の染み加減、柔らかい芋の味が舌に乗ると温かさがほんのり喉をかすめてゆく。その喉越しが堪らなくて、ついついよく噛まずに飲み込んでしまい、果たして椎茸だけが残ってしまった。オケラは良いお嫁さんになるだろう。またそんなことを言えば、茹で上がって使いものにならなくなるので決して言わないが。決して。
しかしなにか足りない、と想い、付け合せかそれとも味付けを変えたのかとゆっくり咀嚼しながら、ぼうっと考える。やがてこれは紫蘇の葉を入れるのが良いとたどり着く。きっとより私好みの味になるだろう。今度自分でも試してみるかと味噌汁の椀を手に取ると、部屋の暗さ故に親指を浸してしまった。熱さで慌てて手を退ける。
秋の夜長故に昼間の肩身の狭いことこの上ない。お天道様も夜の勢いに押され気味で、そそくさと顔を沈めて早々に帰ってしまう。夕餉を食している最中から部屋もお膳も陰ってきており、終わる頃には手元も覚束ないほど暗くなる。さすがに心根が揺れて不安なので行灯に火を入れようと手探りに耽るが、日頃の不精がたたって種火を切らしていたことに気づいた。オケラも種火を切らすほど私が怠けるとは想ってなかったのか、むしろ不精な私のことが心配な為か、勝手周りの火はきれいさっぱり消してしまって、煙も立たない。火打ち石も見つけられず、かくして庵は無人の如く真っ暗だ。こんな雨の夜では月も星もあてには出来ない。
私の不精が原因でこのようなことになってしまったが、幸いにも今日は朝に起きてからお布団を片付けていない。これは好機とばかりに、寝る。なんだ不精も悪くないではないかと、お布団の厚みを身体に染み込ませながら勇んでみるも、根源的な解決になっていないどころか悪癖を肯定していると至り、やはり安寧ではない。そうして珍しく寝付けずにいると、障子の向こうから雨音に混じって、なにやら不可思議な音が聞こえてきた。
それは心根の浅い部分に傷を残すような、耳の奥を掻き回す不快極まりない軋みの音。鳴るたびに私の集中を奪い、聞きたくもないのに思慮の隙間に割り込んでくる迷惑千万な不埒さだ。雨の弾ける気配も未だするというのに、そのふてぶてしさ故の強かさでしつこく耳にまとわりついてくる。これでは果たして湿気のようだ、と思慮の枕を不快感で濡らしているに、続いて庭に面した障子に影が滲み、するすると右へ左へ動き出す始末。これはまずい、いよいよ以って自らへ滴ってくる危うさに気づいて、なるべく静かに出来るだけ素早く逃げようと、庵の奥へと四足で這ってゆく。暗い上に気持ちばかりが焦ってしまい、途中で柱に一回、積み上げた書物に三回、顔をぶつけることとなる。しかして痛みよりも逃げたい心情の方が勝っている私には、もはや疾風の如く、三十六計逃げるに如かずである。余裕など無い。
どうにか納戸の敷居を指先で捉える。すると安心を胸に抱くとともに些細な威勢が湧き上がってしまって、振り向いてみた。影は止まって、障子に張り付いていた。真っ黒故にそのほとんどが夜の闇と同化しているが、こちらを見ている、それだけは分かる。まるで元来からそのような形に障子がくり抜かれているかのように、ぽっかりと影がその怪異さを縁取っている。
先程の逃げたいという気持ちと打って変わって、今度は影の形から目が離せなくなる。見たいのではない。見たくなどない。だが視線を動かした瞬間、私の視界からあの影が居なくなったら、その方がなにより恐いのだ。影を見つめたまま、後ろ向きでやはり四足で、納戸に滑り込む。また少しだけゆとりを持てるが、それでも私の視線は障子の影に縫い付けられている。影とにらめっこの体となり、なんとか掛け布団も引きずり込んでこうなれば長丁場もあり得ようと覚悟し、籠城を決めこむこと半刻。ふと、逃げ道を自ら潰したことに気づき、頭を抱えるに至った。四方を板張りに囲まれたこのような納戸、もし攻め込まれようものなら逃げ場が無いどころか跳びかかることすら出来ようがないのである。これだから普段からして緊張感の無い生活を享受している輩はいけない。いざというときの準備というか心構えがなっていない。もう駄目かもしれない。
このままでは危うい、いっそのこと納戸を閉じて篭ってしまうか、と思慮する矢先に、影がまたぞろ左右へとうろちょろし始める。相変わらず軋みを連れながら、そうしてだんだんと左右への振れ幅が振り子のように大きくなっていき、やがて左側の庭先へと気配は流れていった。影が小さくなるにつれ、今度は雨が気配の比重を濃くしてゆく。完全に、雨音だけになる。
ほっとした安堵なのかそれとも想わせぶりの放ったらかしに呆れたのか、暫く私の口が閉じることはなく、ただただ、部屋の暗さを口の中で反響させていた。気の緩みがいっぺんにきたのかもしれない。我に返るのに要した時を把握出来ず、やがて薄れゆく恐怖が私の身体を動かした。
寝よう。再び寝床に戻ってお布団を敷き直す。なんだか夢を見ていたような気分である。しかして記憶だけははっきりしているから、想い出すだけで納戸が恋しくなる。付き纏う記憶を振り払い、瞼を閉じる。しゃしゃり出てくる雨音が、小癪ながらも心強かった。
朝日が昇ると共に目を覚ます。早朝の空気に身震いし、お布団から顔を出してゆっくりと息を吸い、吐き、白く濁っているのを確認した。ここに来てやっと種火を失くしたことに真実、後悔し始める。やはり冬はすぐにやってくるらしく、毎年の秋などはこの白く濁った溜息ほどの時間しか残らない気がする。もはや寒さで凍える季節なのだ。
亀のように手足を丸め、オケラがやって来るまでお布団の中で待つことにする。今朝は雨の音がしない。その内にどたどたと賑やかに来るだろう。昨晩の影の件を話して、あやつのことも巻き込んでやる。
ところが、
「はあ、私が昨日あんなこと言ったからってそれは安易じゃありませんか」
「いや、事実見たんだ。安易とか至難とか、それどころじゃないほどの恐怖だった」
「いいから早いとこ袷を着替えてくださいな。せっかくのお天気なんですから、ほらほら、早く。全部干しちゃいますよ」
火打ち石で種火を熾しながら、まるで子供の戯言を聞き流す母親のように、オケラはこちらを見向きもせず、言う。こやつ、やはり自分の考えが及ぶ範囲内でしか物事を捉えられないらしい。実際に見聞きしなければ想像すら危ういのだ。長年の付き合いで分かってはいたが、こうも蔑ろにされたのでは私の立場が無い。
「話を聞きなよ。奴はまだそこら辺をうろうろしているかもしれない。なにか此処へ来るときに見なかったかな。人じゃないような者を」
「なにも見てしませんよ。それに、奴、だなんて言葉遣いはやめてくださいまし。人間じゃなければ、犬か猫でしょう」
「いや、きっとあれは幽霊だ」
私が一等真面目な声色で言うと、皮肉を込めているのだろう、おけらはやたらと大仰に笑い出した。さすがの私も臍を曲げる。火を熾したのを確認して早々に帰らせた。私の庵なのだから自分で片付ける、家事の一切を私がやるからもう帰れ、と、怒鳴りながら豪語し、オケラを庵から追い出してやった。勝手の外でなにやら「お話がある」などと抜かしていたが、そんなもの知らぬ。どうせ他愛もないことだろう。知らん。
オケラにそう言ってやったものの、別段それを実行するわけでもなく、果たして私は部屋で不貞腐れた。あんなに笑うこともないだろうに、そんなに面白いことを言っただろうかと、ぐるぐると巡らし悶々とする。原稿も筆が進まず、終いには投げ出してしまう。埒が明かない。片付けなのか散らかしなのか分からないような、掃除の真似事をして時間を潰す。
あやつだとて幽霊が居ないなどとは想ってはいない。こんな幻想郷であるから、怨霊や幽霊なんて珍しくもなんともないのだ。目には見えづらくとも、慣れれば形くらい分かるし、そうでなくても大概は感じることが出来るようになる。それは問題ではない。気に入らないのは、オケラが私の言ったことを信じなかったことである。きっと機運が無かったのだ。昨日のこともあって、これ見よがしすぎた。
しかし、真実、見たのだ。この目で。納戸で震えていたが。
ぼおっとしているうちに、ややあって私は敢然とした想いに至り、袷を着替え、庭に面した障子を想い切って開け放した。幽霊らしき者の痕跡でもあればと想い探してみると、彼奴がうろうろしていた縁側になにやら奇態なるものが落ちている。奇態すぎて、目にした途端、心に漬物石を置かれたような気がした。
膝立ちして近づいてみるに、いよいよ以って奇妙な形状をしていて、ますます判別がつかない。なにか暗い緑と黒が混ざったような、はっきりしない色使い、ねじれたような潰れたようなくっきりしない輪郭。手に取って観察しようにも、どこを持てばいいのか分からない様相。頑なに、持たれることを拒んでいるようにも想えてくる。もしかしたらこれは植物なのではと、指先で触れるもあっという間にぞんざいに転がった。なんとも寄る辺のない、心許ないものである。
なんとか摘み上げる。かさかさとした感触に、これはやはり植物かと至る。
訳の分からない幽霊、変な形の植物。前途多難そうなこれらの顔ぶれに、私は果たして縁側から空を見上げた。
ほほう、雨の合間の晴天である。少しばかり清潔感を持ち合わせている輩であれば、諸手を上げてお布団が干せると喜びそうな青空である。しかし、私は干さないのだ。清潔を保とうとする意思が無いのではない。それ以上の使命感に駆られたからだ。オケラを見返してやる、という。
「それで頼ってこられてもな、私は寺子屋の仕事で忙しい。とてもお前の壮大な展望を支えてやることなんて、到底不可能なんだ。残念で残念で仕方ない。だから、帰れ」
悪いな、の一言も無いのである。そう突き放し背を向けた上白沢教諭は、まるで私が難物で、その迷惑で凝り固まってしまったかのように、わざとらしく自らの肩を揉み、軽く叩いてみせた。そんなことをしなくとも、迷惑をもたらそうとしているのはこちらとて百も承知。私は分かりきっていることを改めて教えてもらうためにやって来たのではない。
しかしこの目の前の石頭を解きほぐすのはなかなか、容易くもあるし、精神的に厄介でもあった。やり方は簡単で、ただお願いするのである。上白沢教諭が頷くまで。決して諦めてはいけない。お願いし続ければそのうちに折れる。こちらが弱っているところを見せればなおよし。兎に角、拝み倒すのである。彼女が根は椿の蜜のように甘いという清廉さに漬け込んだ、小賢しい手である。一度、どの程度までのお願いなら聞いてくれるのか試してみたことがあった。最初は易しく、小銭を貸して欲しい、はまったく大丈夫だった。そこから彼女に感づかれぬよう、日を置いてだんだんとお願いを難しくしていき、最終的に頭に沢庵を乗せて授業をしてほしい、まで至った。もちろん、すぐには頷かなかったので後生だからと、私への風当たりを良くするためにも閻魔様への楽しい土産話が必要不可欠なのだからと、雨に濡れた仔犬のように大いに震えてお願いしてやると、本当に沢庵を乗せて行こうとしたから、引き止めた。もはやその真っ直ぐさはこちらの良心が呵責ですり減るほどである。実際に、寿命が縮んだ気がした。
なので、こちらとしてもそれ相応の覚悟で以ってしてお願いをしなければならない。でなければ、彼女の真心に漬け込みすぎてうっかりこちらが沢庵になりかねない。薄ら恐ろしい。
「いや、帰らぬよ。帰れぬよ。私は此度の件は大いに危ういと考えているからね。端にあるとは言え、曲がりなりにも人里である私の庵にあんな恐ろしい物怪の類が現れたのだ。人々を守る自警団の一員として、この事態を上白沢慧音女士はいかがなされるつもりか。ん」
そう言って、一等真面目な顔を作ってやった。お願いするにしても挿し方をちょっと変えてみる。上白沢教諭の真心に訴えるのではなく、上白沢教諭の責任感に訴えかけるのである。どちらにしても卑劣な手である。
私はその返事を待っていたが、上白沢教諭は未だ背を向けたままであった。何やら書き留めをしているらしい。背中の芯をまったく動かさず、肩は柔らかに腕だけが弧を描く。静かで妙に整っているその姿は、一見するにただ座っているだけのようではあるが、見る者が見れば彼女の手元では達筆が生まれ出ていることに気付くであろう。その文鎮のように重心低く意固地な姿に似つかわしい、落ち着き払った声で彼女が言う。
「果たして本当に物怪か。実際には分からんだろう」
「ふむ。私の想い違いだと言いたいのだろうが、生憎と私は見たもの一切を忘れないでいられる質でね。こうして瞼を閉じれば、昨晩のあの身の毛もよだつ恐怖が今もこうして実感を伴って、私を深い深い納戸の奥へと誘ってて」
またぞろ、へその裏側から冷たい気配がこみ上げてきた。力が抜けて、衣紋掛けからずり落ちた着物のように身体が恐怖と共に床板の上で広がり、想わず震えてくる。
馬鹿、そんな想いをしてまで想い返すやつがあるか、と、上白沢教諭が少しきつめに筆を置く。
「あ、貴女が疑ったからら、こうし、こうしてまた私が恐い想いをししなければならな、なら」
「もういい、もういい。分かったからあんまり震えるんじゃない。なんだかこちらが苛めているようで気分が悪いな」
「お、同じようなも、ものだよ」
私が精一杯に皮肉めいて笑うと、やっとこさこちらを向いた上白沢教諭がこの上なく渋い顔をする。その眉間の皺の寄り具合がちょうど松の木肌に似ていたので、少しばかりおかしくなった。今度また、松ぼっくりを頭に乗せてほしいとでもお願いしてみようかなどと考えていると、恐怖は鳴りを潜め、なんとか震えも引いてくる。
上白沢教諭は、ちょっと待っていろと、私を残して部屋を出て行ってしまった。なにやら準備があるらしい。そそくさとした足運びは、どことなく忙しげであった。
ぽつねんと置いていかれ、手持ち無沙汰にきょろきょろしていると、懐に入れていたあの変な形の植物がごろごろとした感触で私の胸元で目を覚ます。そうか、お前の正体も突き止めねばなとなって、着物の上から手で擦った。するとここぞとばかりにその奇態ぶりを着物越しに感じさせてくる。まるで雪の下のふきのとう。落ち葉に隠れた茸かはたまた筍か。自らの正体を早く暴けというふうに、こっそりと、しかししっかりと主張してくるよう。
とすると、もしかしたらこれはなにかの種なのか。怪しい姿の果肉を纏い、秘密を芽吹かす奇妙な種子。そういったものにはありがちなのに、しかし此奴は美味しそうには見えない。これならば、松ぼっくりの方が幾らかましである。食べないけれど。
さてではなんの種かと考えてもやはりまったく見当がつかず、少しの間だけ呆けて、非道く寂しかったので上白沢教諭が残していった書き留めを眺めた。
向日葵の種、買い入れるべし。来年も大きく咲き誇らんことを。
と、達筆な字で記されている。私が畑のことで相談した時分にも向日葵でもと口にしていたが、このオモリ先生は向日葵が好きなのであろうか。当時言われた皮肉が想い出されて遺憾なので、ちょっとだけ悪戯書きをしようかと逡巡する。もう少しで指が脇に置かれた筆を捉えようとしたとき、なんの気配も無く襖を開けて上白沢教諭が戻ってきた。一驚に喫し、心臓が止まりかける。いや、魂も少し抜けたかもしれない。
目と目が合い、咳をひとつ。ゆっくりと元の座布団の上に引き返す私を見ながら、上白沢教諭も書机の前まで戻り、座る。その両手で、重箱と、折りたたまれた風呂敷を抱えていた。
「それで、どこへ行くんだ。あてはあるのか」
「んん」
何事もなく上白沢教諭は先程の話の続きを促してくる。てっきり叱られるのかと想って叩かれるのを待つ赤鉄のように覚悟を決めていたのに、出先を挫かれて一瞬なんの話か分からなかった。ぽかんとした口の締りが悪い。
「ああ、ええっと」
要領を得ない私の声に頭を振って、上白沢教諭は膝に乗せていた風呂敷を広げると、重箱をその真中へと置いた。重箱は漆塗の濃い照りを持った、六角の黒糖のような色合いであった。小さく、金の蒔絵が蓋に施されている。蔦の意匠のようだった。上白沢教諭は風呂敷の端を摘むと、重箱をとても奥ゆかしく流麗に包んでゆく。重箱があまり見かけない六角の形なので、私には知らない包み方である。
くっと、最後に頂点で軽く結ぶと、整った六角の輪郭が鮮やかであった。中心からのびる風呂敷の皺が、まるで菊の花のように咲いていた。
その重箱は、と、私が聞くと、上白沢教諭は呆れたように、
「お前はここへなにをしに来たんだろうな」
と重箱を自らの右側へ寄せながら言う。私からなるべく遠ざけたいようである。その慎重に扱う様子からなにやら食べ物の気配がして、俄に私の好奇心を刺激した。少し重たそうなのでそれなりのものが入っているに違いないと値踏む。確かに、目的がすり替わっているのは先程から承知してはいたが、一先ずは目の前の興味である。あわよくば、などとは考えていない。
「なにが入っているのか、などは聞いてもいいかな」
「そうら始まったぞ。好奇心という名の野次馬だ」
「だって、盛大なこれ見よがしなのだもの。むしろ気にならない方が不健康だ」
私は茂みに潜む猟師のように目を細めた。じとじととした狙い澄ます好奇心が、獲物である重箱へとなみなみと注がれる。もはやなにがなんでも中身の正体を暴きたい心情。少しばかり身を乗り出す。
すると上白沢教諭は観念したかのように、これは牡丹餅だ、と言った。
「今日は私の生徒だった子の、命日でな。元々墓参りに出かけるつもりだったんだ」
そうなのか、とも出ず。私はつい黙り込んで目が泳いでしまった。泳いだ先の開かれた格子窓から空が見えて、高いところの雲が動き早く南へと流れている。しばし、静寂が下りた。今までの勢いも失せ、まるで傷んでしまった果実のように口先の動きが垂れ下がってしまった。なんとも、次の話しの種も出てこない。
しばらくして上白沢教諭が浅く息を吐いた。そうら見ろ、とでも言いたそうな目でこちらを見つめてくる。勝ち誇っているのではない。こちらが気まずくて言の葉を接げずにいることに彼女は気づいていて、それに微かに同情しているのだ。仕方ない、と、呆れているのかもしれない。
私は無理にでも声を出そうと、うん、唸った。
「どなたであろう。私の知っている人であろうか」
「畏まらずともいいさ。一昨年に十一で亡くなった子だ。阿求とは、そうだな、もしかしたら寺子屋に通う道すがらに見かけているか、声を聞いたくらいだろう。あの子は稗田の屋敷近くを歩いて来ていたから。塀の上に見える蝋梅や楓の移ろいについてよく話してくれていた。なになにの花が盛りだと、綺麗だといつも言っていたな」
「そうか。そうなのか」
「それに、よく寺子屋に遅れてくる子だったな。ちょうど今頃の時期だった。授業中にだいぶ遅れてやって来て、しかも泥に汚れていたから随分と叱ったものだ。なにをしていたのかと問い詰めても、ふくれっ面のまま話してもくれない。仕方なくその日はそのまま帰したが、それが、最期になってしまってな」
上白沢教諭は、まるで気を紛らすかのようにして、自らの長い髪を手で梳いた。そしてその手を、なにがある訳でもなくぎゅっと握り込む。
聞けばその子は植木屋の倅で、草木が好きな次男坊だったそうだ。身体が弱く、上白沢教諭も気にかけていたのだがあえなく肺を壊して亡くなったらしい。我が身とも重なり、なんとも謹んで愁傷に耽る。若すぎる死ではあるが、稗田の屋敷の木々で幾らか安らいでくれていたのであれば、はからずともせめてもの慰みとなろうか。
鎮魂として、屋敷の花を手折ってその墓前に手向けることも吝かでない。私は上白沢教諭に尋ねた。
「私も同行してよろしいでしょうか」
「おいおい、お前が私を誘ったのだろう」
と彼女は呆れて笑った。そうであった、私が上白沢教諭を頼り、幽霊の正体を追おうと訪ねてきたのだった。なんだか恐縮してしまっていたらしい。ついつい背筋を伸ばした私の前で、上白沢教諭は包んだ重箱を両手で大事に持ち上げ、膝の上に乗せた。
「お前が気にかけることではない、と言いたいがその気持ちは嬉しい。是非とも想ってやってくれ。少し頑固で生意気なところはあったが、親想いの良い子だったからな」
「うむ」
見知りせずとも偲ぶことは出来る。どちらからともなく黙祷し、その後お茶を飲み、連れ立って出かけた。部屋から出る際に再び奇態な植物がごろごろしだす。未だ気になるも上白沢教諭に尋ねる機を完全に逃したので聞けないままふたりで里の道を歩く。ひとまず、里のはずれの墓地へ行くことにする。幽霊探しはそのあとでもよかろう。
道を辿ると行き掛けに稗田の屋敷近くを通るようで、上白沢教諭が少し塀沿いを行こうと申し出てきた。ちょうど私も手向けの花を摘もうと想っていた。それに頷いて赴くと、風に乗って芳しい香りが鼻をくすぐってきた。私の隣を歩いていた上白沢教諭も、それに気づいたようで、ふと呼び止められたかの如く立ち止まる。
「蝋梅だ」
見上げている上白沢教諭に、私はそう言った。その声に少なからずの誇らしい気持ちを含んでいたので、どうやら彼女のなにかしらの琴線に触れたのか、少しばかり呆れられた。手入れなどはお前がやっているわけでじゃないだろう、などと意地悪にも言われる始末。
「昔はちゃんと手入れだって自分でしていたさ。しかし大きくなるに連れ私ひとりでは追い付かなくなったから、植木屋に頼むようになったんだよ」
蝋梅を育てるのは決して難しいわけではないが、どうしても背丈が高くなってしまえば
早晩剪定が届かなくなる。蝋梅は、前の年に花を付けた枝に翌年も同じように花が咲くわけではないから、毎年必ず剪定を、しかも咲き始める冬が一等それに適しているので寒くともやらねば花の咲きが悪くなる。ただの物書き風情には少々、辛いものである。
と、そこで想い至った。
「あ、そうか」
「その植木屋が、あの子の生家だな」
なるほど、そういった縁があったのか。やはり近くで暮らしているだけでも、どこかでなにかが繋がっているのであろう。まったく知らぬ、というわけではないのだ。
「もしかしたら、私も顔を見ているのかもしれないな、その子の」
「そうだな。そうだとしたら良いな」
上白沢教諭は落ち着いた声色で願うようにして呟いた。彼女の目は抱えた風呂敷を透かして中身である牡丹餅を見つめているようだった。私自身も大いに同意した。
先ほど鎮魂にと屋敷の庭の花でも手折ろうと想っていたが、やめておく。その子の気持ちを慮るに、手折るのはどうにも気が引けたのだ。墓前には、蝋梅が咲き始めていたよ、とでも言の葉を手向けておくとしよう。派手さは無いが、旬の生気を鮮やかに感じられる言の葉であるはずだ。草木が好きなその子なら、一等楽しみな便りになる、と想う。
そうやって耽っていると、上白沢教諭が真面目な顔をしてこちらを見つめ、言う。
「自分の想いも寄らぬところで何かが始まって、そしてそれはすでに終わっているということばかりで、果たして私が関わったとしたら一体なにが変わっていたのだろうと偶に考えてしまう。詮無きことだという気持ちも覆いかぶさってくるけれど、悔いる想いは決して隠れてはくれない。偶然の花なんてものがあったとしたら、私はそれに嫌われているのかもしれないな。咲くときに立ち会えた試しがない。いや、私が遠ざけているのかもしれないが」
なにやら、難しそうなことである。しかし、この石頭にしては珍しく詩的なことを言う。普段の彼女からは決して考えられぬ、情緒ある言い方であった。うむ。
詩情溢れることではあるが、上白沢教諭は口を真一文字にして私の応答を待っていた。少しばかり、気圧される。
偶然の花、とは。そう私が聞き返すと、はっとして上白沢教諭は、
「いや、なに。少し気が向いたので言ってみただけだから」
と言って、そそくさと歩いていってしまった。一体どうしたのであろうか。
追いかけてからかってみても面白いだろうが、あまりそれは好かれないだろうと想えた。なにか想いつめたような顔をして、私に問いかけてきた上白沢教諭は、割り箸が歩いているかの如き不格好な足取りで稗田の屋敷の塀を通り過ぎて行った。私がここで思慮に溺れても仕方あるまい。私は蝋梅に手を振って、急いで上白沢教諭を追いかけた。
教え子の命日だということで、やはり多少なりとも感傷的になっているのかもしれない。上白沢教諭は子供らから好かれているが、それは彼女自身も子供らを好いているということ。その教え子のひとりが、年端も行かず、望まれもせず、自らの背を越されるよりも先に小さい棺を見送ることとなっては、堪えるものがあるのであろう。たとえこれまで幾度となく同じ光景を見送ってきたとしても決して慣れようはずもなく、ただただ十重二十重と悲しみを着重ねていく。鉛のように重く、されど紙のように薄く、心細い冷えも凌げぬ着物を。
私も、誰かにそんな想いをさせることになるのだろうか。そんな悲しく染めた着物を羽織らせてしまうのだろうか。
私は頭を振った。
「おい、あれ」
上白沢教諭が立ち止まって、私はその背中にぶつかってしまう。まるで白壁みたいに固い背中である。なにごとかと、彼女の見る先を覗いてみるに、私は想わず目を細めた。
いつの間にやら墓地まで来ていて、その入り口である小川にかかった橋の袂に、似つかわしいのかそうでないのか、見知った明るい顔の死神が、居た。暇そうにして居た。
「よお、ちゃんと徳は積んでるかい」
「うわ小町だ」
そう私が声にすると、小野塚小町は糖蜜のように蕩けた顔で笑った。私が嫌そうに言ったのだからそれ相応の反応をすればいいものを。小町は、こちらが本気で言ってはいないと独断的に看破しているのである。それもまた外れているわけではないので、なんだかとてつもなく癪だ。
小町は寄りかかっていた欄干を離れ、へらへらと笑みを湛えながらこちらに歩いて来た。近づくにつれ、その笑顔の照りが増していくようで、甘ったるい匂いさえしてきそうだった。いっそのこと、かぶとむしにでも止まられてしまえばいいのに。
「お宅ら辛気臭い面してるねぇ。墓参りなら元気よくやるもんだよ」
私は上白沢教諭と顔を見合わせる。決してお互いを辛気臭いだろうかと確認し合ったわけではない。この変な死神の言うことを素直に受け取っていいものかと、審議しているのである。こと胡散臭さならば幻想郷でも一二を争うであろう小町を、そうやすやすとよすがにして話を合わせていたのでは、往々にして纏まるものもこんがらがるというもの。特にいまは墓参りという粛然たる行いをしているのであるから、小町の相手をしている場合ではないのである。なので当り障りのない二言三言でお茶を濁しておけばよかろう。
さりとて、こういうときのオモリ先生は些か頼りないので、ここはひとつ、私自ら言葉巧みに小町をやり込めてやるとする。
「辛気臭くはない。これは思慮深くしているうちに、生まれ持った慎みが滲み出てきた結果なのだ。分からんかな、この冴え渡る高尚さとやんごとなき胸中の憂いが」
と、優しい声色で私は言い、隣の上白沢教諭に同意を促す視線を送った。なのに私とも目を合わそうともせず、ぷいとそっぽを向いて上白沢教諭は押し黙ってしまう始末。心なしか、照れているように目を潤ませてもいる。どうしたことだろうか。
先生、冗談ですよ、と私は慎みも忘れておろおろと付け足した。
「そんなことは分かっている。そうだとしても恥ずかしげもなく言うやつがあるか」
「おお、冗談ということが伝わっているだけでも重畳だ」
などと言えば今度は睨んでくるので余程上白沢教諭の方が面倒くさい気がしてくる。
やり取りを見られ、小町の微笑みは輝きを増すばかり。後光さえ見えてくるようで、いよいよ死神の領域から解脱しそうな勢いである。
これではいけない、と俄に逸ってこちらの唯一の手段であり奥の手を抜き放つ。
「小町、そんな笑っている暇があるのか、こんなところでまさか怠けているわけではあるまいな。ここで遭ったのもなにかの縁だ、閻魔様に言っちゃうぞ」
困ったときの閻魔様、なにはなくとも閻魔様、八面六臂の閻魔様。蚊には蚊取り線香と同じく、小町には閻魔様というのは私の中では覿面な取り合わせとなっており、稗田の屋敷に小町が現れ長居をし、もういい加減に帰ってほしいときなどにその名を出せば忽ち逃げていく具合っぷりなのである。まさに伝家の宝刀。抜身の刃を高々と掲げれば、雷雲を呼び寄せる風情。怒りっぽい閻魔様だけに、雷を落として頂くというもの。
しかし、私が言って、どうだと勝ち誇っていても、一向に小町は慌てず騒がずにいる。まるで悟りに至ったかのように安穏でのどかで、なんの憂いも無い達観さで、静かでも力強い大樹の如く佇んでいるのである。なんであろうか。そのような木ならば、やっぱりかぶとむしに集られてしまえばいいのに。
ふふ、と、雅な着物の衣擦れ音のように、小町は微笑する。
「心配には及ばないよ。あたいはいま仕事中さね」
私は絶句してしまった。怠けているのが常の、仕事をしていても四半刻と経たずに寝てしまっているあの小町が、仕事を、している、最中。そのようなこと、むざむざ信じられようはずがない。なにかの間違いであろう。
「冗談だろう、小町」
若干声が震えていたが、どうにか私は言葉を紡いだ。しかし身体は正直なのであろう、私は自分で想っているよりもずっと、小町が仕事をしているということに驚愕しているらしい。手の震えが、止まらない。
「冗談じゃあないさ。しかも、映姫様から直々のお達しでね、実は忙しいんだ」
「なんたることだ。まさか地獄があふれて地上に湧いてくるような天変地異が起こるのではあるまいな。小町が働くなんて、そんなときぐらいだろう」
我ながらどうにも要領を得ないことばかり言っている。
仕事をしている小町なんて、記憶を辿っても二度しか目にしたことがないのだから、私の驚きぶりは推し量っていただきたい。それほどまでにこの小町、働かないのである。もはや働こうとする意思さえ三途の河に流してしまったのではないかと想えるほどで、その体たらくは同じく怠けを愛する私としても自己肯定の糧として助けになったし、逆に自らが怠惰の沼に足をつけすぎた行いを正す為の戒めとしても大いに参考になった。良き先達と悪しき反面教師のまったく正反対な二面を持つに至った奇妙な小町にとって、その一分の根底を揺るがしかねぬ行為が、働くということなのである。恐ろしい。自分でもなにを恐れているのか分からぬほどに、恐ろしい。
ふと、勝ち誇る小町、そして戦々恐々とする私を、まるで柳の下の蛙二匹を見守るかのような、生ぬるい眼差しで上白沢教諭が見つめているのに気づいた。どちらが先に自尊心という柳の端っこに飛び移れるかの競争、とでもいうのだろうか。当人たちにとっては三度の飯を掛けても掛け足りぬ、退っ引きならぬほどに大事な勝負なのであるが、我々以外、例えばこの上白沢教諭の口を借りて言うのであれば「どっちでもいいよ」と呆れさせしめる程度の益体もない行いのようだった。しかし蛙には蛙の魂というものがあるのだから、自尊心くらい掴ませてほしい。益体もないのは、自認するし、肯定もするが。
先に行っているぞ、と、上白沢教諭はやはり謝辞もなくするすると小町の横を通りすぎてゆく。流石の小町も彼女の有無を言わさぬ呆れかえりっぷりに、日々の生業であるはずの茶化しも鳴りを潜め、道端の道祖神のように素知らぬ顔で見送った。調子の良いことである。
「怒られたではないか」
「知ったことじゃないよ。なんて顔してるんだい。朗らかにしなよ、朗らかに」
そう言って馴れ馴れしい、餌を与えられた小鳥のようにちゃっかりとした囀りを謳う。この小町を伏せさせるのは、天上天下においてやはり閻魔様しかいらっしゃらないのだと改めて想うものだ。つまりは付き合っていられない。
なので私も小町の横を質素に通り過ぎた。果たして背の高い道祖神は静かに仕事に戻る。かと想いきや小町は白々しく私の後を付いてきた。まるで最初からそっちに行くつもりでしたと言わんばかりに、きょろきょろと辺りを見回しながらふらふらと付いてくる。上白沢教諭の背中を追う私に、死神様が付いてくる。薄ら恐ろしい。
並び立つ墓石の合間を縫いながら、ちらり。早足をしつつ振り向く私に、死神が滲み出るような微笑を投げてくる。
「なんだ小町。付いてくるんじゃないよ」
素っ気なさを意識して突き出した言葉はしかし、有言実行の朗らかさで微笑む小町には届いていないらしく、
「仕方ないんだよ。なんと言われたって、これはあたいの仕事なんだから」
などと訳の分からないことを言う。
訝しげに想い、仕事とは、と、ついつい私が聞いてしまうと、小町はきょろきょろしたあとにこちらへと目線を据えた。私は上白沢教諭の背中を追いかけつつ、時々に振り向いて小町を見遣った。
「映姫様に頼まれた仕事はふたつあってね。そのうちのひとつが、ある幽霊を探すことなんさ」
「へえ。それはご健勝なことではないか」
「つれないねえ、もっと興味を持ってほしいもんだ。これでも張り切ってるのに」
拗ねたような声を出し、小町は長い両腕を大袈裟にぶらぶらさせる。比較的身体が大きい小町がそんな動きをすると大木が強風で傾いでいるかのような風情を想わせた。
「あんたも考えているとおり珍しいことだってあたいも感じてるし」
「隠す気も無く正鵠を射ているなあ」
「久しぶりに忙しい。怠ける暇もない。辛いねえ」
忙しいことを嘆くのはそれだけで贅沢なものである。特に小町が吐く嘆きは殊更贅沢に想えた。普段からの様子を見ている私としては、なんだか小町が遠くに行ってしまったかのような感慨に陥る。感心してしまう。
小町がまだなにかしらぐだぐだと言ってはいるが、それよりも上白沢教諭である。追いかけていた背中はすでに目的の墓に到着しているようで、奥の方で墓石周りを掃除している。忙しなく動く姿を見ると、小町とはまた違う感心を抱いてしまう。甲斐甲斐しさ、だろうか。いや、とかく小町と比較するのは失礼な気もする。
私は小町に向かって目配せをした。静かに、というのである。大人しく口を閉じるも、小町は相変わらず付いてきた。
上白沢教諭はすでに掃除も終え、線香を上げていた。辺りに線香の細い煙と一緒に柔順な静けさが立ち昇る。秋の草虫さえ、訳知り顔で黙ってしまっているようである。
「この子は、なにかをしたかったのかな。なにをしたかったのかな。勉学を教えていたつもりだったのに、私はなにも教えてもらえなかった。泥だらけだったのを叱ってしまったあの日、私は理由も聞かずに怒ったんだ。そりゃあへそも曲げるだろうな、頭ごなしに叱ったのでは。理由を聞けば、教えてくれたのかもしれないのに」
草虫の代わりに囁く上白沢教諭は、揺れる煙のように消え入りそうな声で墓石に向き合っていた。音も無く、手を合わせ、閉じた瞼の裏側になにを想い浮かべているのであろう。
声は揺らいでいても、普段どおりの背筋を伸ばしたその仕草や姿は、凛として戸に打ち突く雨滴のように、はっきりとした輪郭の、濡れて重さを増した様子を私に想像させた。そう言えば、昨晩は雨であった。暗い空から地上へと満遍の線を引く雨が、絶え間なく降り注いでいたはずだ。雨滴は、その確かさのある湿気や雨音で、怖がる私を庇ってくれていた。私は大いに助かり、安心したのだ。
そして雨滴はいまも、少年が眠るであろう墓石の上に宝玉の如く散りばめられている。しっとりと佇む上白沢教諭の姿を表面に映しながら。
きっと少年も安らかであろうよ。私は心底そう想い、諸々を含めて上白沢教諭に伝えようとしたのだが、それを小町の声が遮った。少し離れたところで立ったまま小町は、
「先生は後悔しているのかい」
と真面目そうな乾いた声で上白沢教諭に尋ねた。私はぎょっとして、小町を見遣る。いつもの寝ぼけ眼ではあるが、口元は僅かに引き締まっている。小町が時折見せるこういった表情を私は知っていた。死神の領分を現すときの顔である。
上白沢教諭も驚いたのか、少しだけ顎を上げて瞼を開いた。両手はしっとりと合わせたままだ。
「後悔、というか、自分が許せないのだと想う。この子のためを想って叱ったけれどそれが果たして本当に良かったのか自信を持てない自分が。あのときああしておけば良かったなんて想われたままだったら、この子が不憫でならないんだ。子供は自らへの善意や悪意に敏感だろう。なのに私はどうしても自信が持てない。よもや悪意と捉えられているのかもしれないと考えると、どうにも、居ても立ってもいられない。ざわめくんだ、私の奥の方が。どんどん、どんどんそこが冷たくなってくるんだ」
「普通はそういうものに慣れるもんさ。河に転がる小石のように、角が取れて丸くなるみたいにね」
小町は一歩だけ踏み込んで、続ける。
「角張ったままじゃ自分も他人も傷つけちまう。なにより、河のどこかに引っかかってそこから抜け出せなくなる。そのまま苔が生えて重くなっちまうよ」
「そうだな。それは少し辛いな」
気持ち表情を俯かせ、上白沢教諭の横顔が苦笑いをした。自嘲しているのか、それとも気持ちが楽になったのか。どちらともすくい取れぬ顔をしているが、私は少なからず安心してしまった。想いやりと想い込みの強い上白沢教諭のこと、さぞやつらみを余計に抱えていたことと想う。そういうものは、時々洗わなければならない。小町の言う河に転がるではないが、同じように流れ続けなければならないのかもしれない。
小町は上白沢教諭のその顔を眺めて、ふうん、と、鼻で息をする。まるでなにか御馳走を食べ終わったかのような満足気な吐息だったので、私はついつい舌を出してしまった。
「おいおい阿求、あんたおちゃらけているがその懐に入っている変なの、出してみな」
「え、あうん?」
脈絡もなく呼ばれる。突如として矢面に立たされた私は石臼のように首を回した。見ると少し離れていたはずの小町が、手が届くほどの距離にまでいつの間にやら近づいている。驚いて、危うく悲鳴を上げそうになる。
「ほらなにしてるんだい、早く出しなよ」
言うが早いか手が先か。否、極めて確実に小町の手は言うより早かった。
その長身に見合う大きめの手が、素早く私の衿元へと入り込んで、荒ぶった。まるで蛇が獲物の巣穴に入り込んで狩りをするかの如く、もはやそれだけが目的で入って来ては雷のように出ていった。あとに残されたのはもがくことも許されなかった私の驚嘆だけ。恥じらうことさえ間に合わなかった私の慎ましき心は、いまや止まり木を見つけられずに宙を浮いてしまっている。私は、魂が抜けそうになった。
「これこれ、この変なの。変な形してるけど、これは実なんだよね、菱の」
「一体なんだというんだ」
傍で見ていた上白沢教諭はやはり呆れていた。私だとて、気が気じゃないのである。しかし悲しいかな稗田の血である。叫びたい衝動よりも、知識欲が勝ってしまう。この両方を私に与えさしめた当の小町に尋ねるのは誠に癪なのだが。非情に、悲しいほど癪なのだが。
「ひ、菱、とは」
「菱は菱さ。植物の、菱。あんたの屋敷の池にも浮いてただろ。あたい、あれを眺めるのが好きでねえ。日がな一日水の上に浮いているなんて、憧れるよ。尊敬するね」
「いや、どうでもいいんだけれど」
小町は心底惚れ込んでいるようなうっとりとした顔で菱の実とやらを眺めている。
なるほど、菱の実、であったか。朝に縁側で見つけてからの疑問がやっと昇華された。喉奥に引っかかっていた鯉の骨が、やっとこさ外れて飲み込めたような、ようやく人心地付けた気がする。未だ先ほどの驚愕に心の臓は胸の中で飛び跳ねてはいるが、これで少しは私も落ち着けるだろうか。なるほど、菱の実か。
「菱の実は蒸して食べたものだ。ほのかに甘みのある、栗の味に似ているな。滋養もある」
食したことがあるのであろう、上白沢教諭も菱の実を知っているようで、想い出したかのようにひとりごちている。奇妙ななりをしているが、これは食べられるのか。そうとは分かっても私には一向に美味しそうには見えない。やはり最初の印象からして奇態であったから、そのように感じてしまうのであろう。上白沢教諭が知っていたのであれば、今日逢ってすぐに尋ねてしまえばよかった。
小町の言うとおり、稗田の屋敷にある池に菱は浮いていた。いつの頃からかは分からない。私が、阿求として転生する以前から池には浮いていた気がする。曖昧であるが故に殊更な想い入れも興味もなく、いまのいままで記憶の抽斗の奥にしまったままになっていたようだ。求聞持の力で見たものは忘れないが、それはあくまでも忘れないというだけで、いまそのときに不必要な記憶は私の中の抽斗に入れっぱなしになるのである。記憶とは、他の記憶と繋がっている為に、相互性はあるものの単一として抽斗から取り出すのは私にもなかなかに難しい。それに菱の実というものを、私は見たことがなかった。小町に言われなければこの記憶とて、ずっと抽斗の肥やしになっていたであろう。
ちなみに、忘れるというのは想い出すことも出来ぬということである。あるきっかけが目の前にあっても、必要な記憶の抽斗が開かないということである。
そうかなるほど、菱、池に浮いていた、菱、か。
「ああ、そうだ」
私は大きく、声を上げてしまった。墓地に眠る鬼籍入りに迷惑なほどの声を。
同じく驚いた様子で上白沢教諭がこちらを見た。手には箸を、箸の先には六角形の重箱から出したあの牡丹餅を挟んでいる。ついついそちらに目がいくが、いまはそれどころではない。
「先生、すまない、やっと記憶が繋がった。私は以前に見たのだ」
「なんだなんだ。なんなんださっきから」
勢い余って、墓石の前でしゃがんでいる上白沢教諭に覆いかぶさろうかというほどの風情。記憶が、記憶が一気に繋がってゆく。
「私は屋敷の池に忍び込もうとする子供の姿を見ていた。確かに一昨年の神無月は二十七日、泣き出しそうな雨雲が必死に堪えているかのような薄暗い日だった」
上白沢教諭の箸から牡丹餅が、落ちる。
「転生の準備に急かされていた日々で、私は気も漫ろで、ついその子供に怒鳴ってしまった。慌ててその子は逃げていったが、翌日池の畔で袋を、拾ったのです。向日葵の種が入った袋でした。逃げた際に落としてしまったのか、向日葵が好きな子なのでしょう」
どんどん繋がる記憶を言葉にしながら、私はそれを必死になって伝え、上白沢教諭は切実な視線を寄越してくる。いまや小町さえそれを見守っている。
私は小町が手にしている菱の実を指さした。
「この菱の実を、私は今朝、私の庵、幽霊がうろついていたであろう縁側で見つけたのです。きっとそれはそういうことです」
あの幽霊は、と、私が続けて言うよりも早く、立ち上がり、私よりも必死な顔をして、長くしっとりと潤んだような御髪を振り、上白沢教諭は駆け出してゆく。神無月の、雨が薫る風のように翻って、上白沢教諭が墓地を囲む小川を一息で飛び越えてゆく。
「追いかけな、それがあんたの仕事なんだよ」
少し呆然としていた私を、小町が軽い声で呼び戻してくれた。見遣ると、そこには寝ぼけ眼の死神がいらっしゃる。猫背のだらしない、である。
私は少しだけ悔しくなって、そんなことばかりしているから閻魔様に怒られるんだ、とそのままだと走り難いであろうつっかけを脱ぎながら、言う。
言いっこなしだよ。
小町は気怠そうな顔をする。私は一度だけ深く礼をして、走った。
墓地の入り口である小川にかかった橋を渡り切って、人里へ向かう道沿いを裸足のまま私は走る。とは言え生来のか弱さであるが故に、上白沢教諭に追いつくどころか少々駆けただけで咳は出るわ汗が滝のように流れるわ、まるで生きた心地がしない。
真の意味で死に物狂いに走り、手にしているつっかけを握ったままでいるのさえ億劫になってきた頃、道の向こうから一目散にこちらへやって来る姿があった。上白沢教諭である。私を迎えに来てくれたのだ。
私はちょっと、立ち止まって、休んだ。もはや息も切れ切れ。ほとんど死に体である。そんな私のすぐ傍まで駆け寄ってきた上白沢教諭は、ぎゅっと手を握ってくれた。俯いていた顔を上げると目を見つめ返してくる。眼差しに「大丈夫か、急げ」との合図を感じ、私はこくり、頷いた。握られた手が引っ張られ、なんとか両足を動かす。上白沢教諭と共に再び駆け出した。
私の遅さに合わせて隣を走る上白沢教諭が、すっと前を向いたまま話かけてきた。
「阿求、阿求。私は謝るべきなのかな」
いつになく不安気な、水中から発せられたもののような輪郭の揺らいだ声だった。走るたびに水面が揺れて声の形が分かり難くなるような、沈んだ声であった。
上白沢教諭は二度三度だけ首を振っていた。これから臨むであろうその切実な事柄を想い、私はなんとか息を整えようとした。しかし無理だったので言葉を途切れ途切れ、応答した。
「あや、謝らなく、とも、いいとお、想います」
たったそれだけを伝えたかった。
「うん、そうだ。そうだな」
変わらず前を向いたままであったが、聞けた声ははっきりとしていた。
足のもたつく私が躓きそうになるたびに、上白沢教諭が握ってくれている手のお陰で支えられる。それが私にはやはり大いに助けとなる。ぎゅっとされて力が込み上げてくる。覚束なくとも、前に進める歩みとなる。
必死に駆ける私の頬に水滴が触れる。すわ雨かと目だけを動かして空を見れば、雨雲はない。
「阿求。やっと分かった。あの子は」
あの子は私に菱の実を拾ってくれようとしていた、と、上白沢教諭が依然としてこちらに顔は向けずに、言う。駆ける御髪が一斉に靡いた。佳麗で格好良いと想える。
ついに言葉さえ出てこず、こくりと頷いただけで、私は上白沢教諭と共に急ぎ、駆けた。
やっとこさ庵に着くと、果たしてそこには菱の実の山が出来上がっていた。人里中の菱の実を集めたのか、幻想郷中の菱の実を集めたのか。大したものではあるが、あの奇態な実が山になっている景色は、正直、少しだけ恐い。
あの子の幽霊は居なかった。それでも上白沢教諭は庵の庭で物思いに耽っていた。いろいろと、難しいのだと想う。
私は彼女の邪魔をしないよう庵の勝手でじっとしていた。やはり上白沢教諭をひとりにしてやることも、少なからずな優しさというものであろう。決して疲れて動けないのではない。
そうしてだらしなく座っていると、オケラがやって来た。なんとも時期を読まぬ奴と想っていたら、こちらも精一杯走ってきたのか息を切らしている風情。しかしその顔は非道く青ざめている。
どうした、と、私は尋ねた。オケラは泣いていた。少し間を置いて、苦しげに言う。
「大奥様が、亡くなられました」
告げた途端、土間であるにも関わらずオケラはその場に泣き崩れ、着物の袖を汚した。
おばばが亡くなった。その急な事実だけがすとん私の胸に落ちてくる。それを私は振り向きざまで受け取ったかのように、不意に手にしてしまった。この事実をどうしたらよいのか、分からずに持て余す。そう言えば、小町はふたつ、仕事を任されたと。
私は、庵の勝手口から外に出た。そして死神が居るであろう先ほどの墓地の方向の空を、見遣った。
前回までのあらすじ
三十路手前、縁起の纏めも転生の準備も終わってあとは死ぬだけの稗田阿求。その余生を過ごすため、代々の阿礼乙女が住んできたという『棘の庵』に一人住まいを始めました。一年間の猶予でなにが変わるのかと、訝しげに想いつつも楽しげに暮らしています。
神無月
雨である。この時季の雨は軽い。
降る勢いとか量がとかではなく、見た目が軽い、気がする。ふわふわとして流れる雨の道が決まっていて、充分に湿った柳のような雰囲気がするのだ。雨を降らす雲とて心なしか厚みが無いようである。色や暗さは同じでも、季節によって雲の質が違うと言えばいいか。
では梅雨時の雨はどうなのかと言えばこちらは重い。湿気とてまとわりつくようである。秋雨の湿気は味気ないもので、通りすぎようと想えば簡単に通れるが、梅雨のそれはとにかくしつこく、まるで通せんぼをしているかのように邪魔をしてきて、肩口や後ろ髪に糸を引くのだ。秋雨が柳ならばあちらは松だろうか。松のざらついた木肌の感触や、松ぼっくりのぼてっとした脂っこさ。いかにも重そうだ。と言っても、松自体にはあまり興味は無い。悪気も無い。
雨を柳と例えるなら、その下に泥鰌なり蛙なりが居るはずだと想い、庵の縁側から庭を挟んで通りを眺める。しかし朝から降り続いている雨であるから、昼八つの鐘が聞こえるいまの時分に人が歩いているわけがなく、ぽつぽつと人影が雨の向こうを横切るものの、それらは帰りを急ぐどこぞの奉公人や棒手振り連中であるからして、風情も人情も無いほどの駆け足で早々に行ってしまう。これではつまらない。もっと私の興味を沸き立たせるような胡散臭い、もっと言えば不穏めいた輩は居らぬだろうかと、すっくと立ち上がって眺めていること四半刻。通行人が時折こちらに気付いて、ぎょっとした顔をしたのち、さらに足を早めて逃げるように去ってゆくではないか。
これは妖しい、と、勘どころが働き、理由は何事かとさらに観察していたら雨の幕の向こうからオケラがやってきた。雨粒を絞り、番傘を立て掛けて開口一番、こんな暗い日に幽霊のようで不気味だからあんなところに立つなと言われる。合点がゆく。幽霊の正体見たり、枯れ三十路。全く以て不愉快である。
それでもオケラが作り置いていった夕餉がうまいので平らげる。人参や牛蒡などの根菜を入れた雑炊と、里芋と椎茸の煮物である。特に里芋が美味しかった。旬だから、というのもあるがこれの煮付け加減が絶妙なのだ。ほくとした歯触りと出汁の染み加減、柔らかい芋の味が舌に乗ると温かさがほんのり喉をかすめてゆく。その喉越しが堪らなくて、ついついよく噛まずに飲み込んでしまい、果たして椎茸だけが残ってしまった。オケラは良いお嫁さんになるだろう。またそんなことを言えば、茹で上がって使いものにならなくなるので決して言わないが。決して。
しかしなにか足りない、と想い、付け合せかそれとも味付けを変えたのかとゆっくり咀嚼しながら、ぼうっと考える。やがてこれは紫蘇の葉を入れるのが良いとたどり着く。きっとより私好みの味になるだろう。今度自分でも試してみるかと味噌汁の椀を手に取ると、部屋の暗さ故に親指を浸してしまった。熱さで慌てて手を退ける。
秋の夜長故に昼間の肩身の狭いことこの上ない。お天道様も夜の勢いに押され気味で、そそくさと顔を沈めて早々に帰ってしまう。夕餉を食している最中から部屋もお膳も陰ってきており、終わる頃には手元も覚束ないほど暗くなる。さすがに心根が揺れて不安なので行灯に火を入れようと手探りに耽るが、日頃の不精がたたって種火を切らしていたことに気づいた。オケラも種火を切らすほど私が怠けるとは想ってなかったのか、むしろ不精な私のことが心配な為か、勝手周りの火はきれいさっぱり消してしまって、煙も立たない。火打ち石も見つけられず、かくして庵は無人の如く真っ暗だ。こんな雨の夜では月も星もあてには出来ない。
私の不精が原因でこのようなことになってしまったが、幸いにも今日は朝に起きてからお布団を片付けていない。これは好機とばかりに、寝る。なんだ不精も悪くないではないかと、お布団の厚みを身体に染み込ませながら勇んでみるも、根源的な解決になっていないどころか悪癖を肯定していると至り、やはり安寧ではない。そうして珍しく寝付けずにいると、障子の向こうから雨音に混じって、なにやら不可思議な音が聞こえてきた。
それは心根の浅い部分に傷を残すような、耳の奥を掻き回す不快極まりない軋みの音。鳴るたびに私の集中を奪い、聞きたくもないのに思慮の隙間に割り込んでくる迷惑千万な不埒さだ。雨の弾ける気配も未だするというのに、そのふてぶてしさ故の強かさでしつこく耳にまとわりついてくる。これでは果たして湿気のようだ、と思慮の枕を不快感で濡らしているに、続いて庭に面した障子に影が滲み、するすると右へ左へ動き出す始末。これはまずい、いよいよ以って自らへ滴ってくる危うさに気づいて、なるべく静かに出来るだけ素早く逃げようと、庵の奥へと四足で這ってゆく。暗い上に気持ちばかりが焦ってしまい、途中で柱に一回、積み上げた書物に三回、顔をぶつけることとなる。しかして痛みよりも逃げたい心情の方が勝っている私には、もはや疾風の如く、三十六計逃げるに如かずである。余裕など無い。
どうにか納戸の敷居を指先で捉える。すると安心を胸に抱くとともに些細な威勢が湧き上がってしまって、振り向いてみた。影は止まって、障子に張り付いていた。真っ黒故にそのほとんどが夜の闇と同化しているが、こちらを見ている、それだけは分かる。まるで元来からそのような形に障子がくり抜かれているかのように、ぽっかりと影がその怪異さを縁取っている。
先程の逃げたいという気持ちと打って変わって、今度は影の形から目が離せなくなる。見たいのではない。見たくなどない。だが視線を動かした瞬間、私の視界からあの影が居なくなったら、その方がなにより恐いのだ。影を見つめたまま、後ろ向きでやはり四足で、納戸に滑り込む。また少しだけゆとりを持てるが、それでも私の視線は障子の影に縫い付けられている。影とにらめっこの体となり、なんとか掛け布団も引きずり込んでこうなれば長丁場もあり得ようと覚悟し、籠城を決めこむこと半刻。ふと、逃げ道を自ら潰したことに気づき、頭を抱えるに至った。四方を板張りに囲まれたこのような納戸、もし攻め込まれようものなら逃げ場が無いどころか跳びかかることすら出来ようがないのである。これだから普段からして緊張感の無い生活を享受している輩はいけない。いざというときの準備というか心構えがなっていない。もう駄目かもしれない。
このままでは危うい、いっそのこと納戸を閉じて篭ってしまうか、と思慮する矢先に、影がまたぞろ左右へとうろちょろし始める。相変わらず軋みを連れながら、そうしてだんだんと左右への振れ幅が振り子のように大きくなっていき、やがて左側の庭先へと気配は流れていった。影が小さくなるにつれ、今度は雨が気配の比重を濃くしてゆく。完全に、雨音だけになる。
ほっとした安堵なのかそれとも想わせぶりの放ったらかしに呆れたのか、暫く私の口が閉じることはなく、ただただ、部屋の暗さを口の中で反響させていた。気の緩みがいっぺんにきたのかもしれない。我に返るのに要した時を把握出来ず、やがて薄れゆく恐怖が私の身体を動かした。
寝よう。再び寝床に戻ってお布団を敷き直す。なんだか夢を見ていたような気分である。しかして記憶だけははっきりしているから、想い出すだけで納戸が恋しくなる。付き纏う記憶を振り払い、瞼を閉じる。しゃしゃり出てくる雨音が、小癪ながらも心強かった。
朝日が昇ると共に目を覚ます。早朝の空気に身震いし、お布団から顔を出してゆっくりと息を吸い、吐き、白く濁っているのを確認した。ここに来てやっと種火を失くしたことに真実、後悔し始める。やはり冬はすぐにやってくるらしく、毎年の秋などはこの白く濁った溜息ほどの時間しか残らない気がする。もはや寒さで凍える季節なのだ。
亀のように手足を丸め、オケラがやって来るまでお布団の中で待つことにする。今朝は雨の音がしない。その内にどたどたと賑やかに来るだろう。昨晩の影の件を話して、あやつのことも巻き込んでやる。
ところが、
「はあ、私が昨日あんなこと言ったからってそれは安易じゃありませんか」
「いや、事実見たんだ。安易とか至難とか、それどころじゃないほどの恐怖だった」
「いいから早いとこ袷を着替えてくださいな。せっかくのお天気なんですから、ほらほら、早く。全部干しちゃいますよ」
火打ち石で種火を熾しながら、まるで子供の戯言を聞き流す母親のように、オケラはこちらを見向きもせず、言う。こやつ、やはり自分の考えが及ぶ範囲内でしか物事を捉えられないらしい。実際に見聞きしなければ想像すら危ういのだ。長年の付き合いで分かってはいたが、こうも蔑ろにされたのでは私の立場が無い。
「話を聞きなよ。奴はまだそこら辺をうろうろしているかもしれない。なにか此処へ来るときに見なかったかな。人じゃないような者を」
「なにも見てしませんよ。それに、奴、だなんて言葉遣いはやめてくださいまし。人間じゃなければ、犬か猫でしょう」
「いや、きっとあれは幽霊だ」
私が一等真面目な声色で言うと、皮肉を込めているのだろう、おけらはやたらと大仰に笑い出した。さすがの私も臍を曲げる。火を熾したのを確認して早々に帰らせた。私の庵なのだから自分で片付ける、家事の一切を私がやるからもう帰れ、と、怒鳴りながら豪語し、オケラを庵から追い出してやった。勝手の外でなにやら「お話がある」などと抜かしていたが、そんなもの知らぬ。どうせ他愛もないことだろう。知らん。
オケラにそう言ってやったものの、別段それを実行するわけでもなく、果たして私は部屋で不貞腐れた。あんなに笑うこともないだろうに、そんなに面白いことを言っただろうかと、ぐるぐると巡らし悶々とする。原稿も筆が進まず、終いには投げ出してしまう。埒が明かない。片付けなのか散らかしなのか分からないような、掃除の真似事をして時間を潰す。
あやつだとて幽霊が居ないなどとは想ってはいない。こんな幻想郷であるから、怨霊や幽霊なんて珍しくもなんともないのだ。目には見えづらくとも、慣れれば形くらい分かるし、そうでなくても大概は感じることが出来るようになる。それは問題ではない。気に入らないのは、オケラが私の言ったことを信じなかったことである。きっと機運が無かったのだ。昨日のこともあって、これ見よがしすぎた。
しかし、真実、見たのだ。この目で。納戸で震えていたが。
ぼおっとしているうちに、ややあって私は敢然とした想いに至り、袷を着替え、庭に面した障子を想い切って開け放した。幽霊らしき者の痕跡でもあればと想い探してみると、彼奴がうろうろしていた縁側になにやら奇態なるものが落ちている。奇態すぎて、目にした途端、心に漬物石を置かれたような気がした。
膝立ちして近づいてみるに、いよいよ以って奇妙な形状をしていて、ますます判別がつかない。なにか暗い緑と黒が混ざったような、はっきりしない色使い、ねじれたような潰れたようなくっきりしない輪郭。手に取って観察しようにも、どこを持てばいいのか分からない様相。頑なに、持たれることを拒んでいるようにも想えてくる。もしかしたらこれは植物なのではと、指先で触れるもあっという間にぞんざいに転がった。なんとも寄る辺のない、心許ないものである。
なんとか摘み上げる。かさかさとした感触に、これはやはり植物かと至る。
訳の分からない幽霊、変な形の植物。前途多難そうなこれらの顔ぶれに、私は果たして縁側から空を見上げた。
ほほう、雨の合間の晴天である。少しばかり清潔感を持ち合わせている輩であれば、諸手を上げてお布団が干せると喜びそうな青空である。しかし、私は干さないのだ。清潔を保とうとする意思が無いのではない。それ以上の使命感に駆られたからだ。オケラを見返してやる、という。
「それで頼ってこられてもな、私は寺子屋の仕事で忙しい。とてもお前の壮大な展望を支えてやることなんて、到底不可能なんだ。残念で残念で仕方ない。だから、帰れ」
悪いな、の一言も無いのである。そう突き放し背を向けた上白沢教諭は、まるで私が難物で、その迷惑で凝り固まってしまったかのように、わざとらしく自らの肩を揉み、軽く叩いてみせた。そんなことをしなくとも、迷惑をもたらそうとしているのはこちらとて百も承知。私は分かりきっていることを改めて教えてもらうためにやって来たのではない。
しかしこの目の前の石頭を解きほぐすのはなかなか、容易くもあるし、精神的に厄介でもあった。やり方は簡単で、ただお願いするのである。上白沢教諭が頷くまで。決して諦めてはいけない。お願いし続ければそのうちに折れる。こちらが弱っているところを見せればなおよし。兎に角、拝み倒すのである。彼女が根は椿の蜜のように甘いという清廉さに漬け込んだ、小賢しい手である。一度、どの程度までのお願いなら聞いてくれるのか試してみたことがあった。最初は易しく、小銭を貸して欲しい、はまったく大丈夫だった。そこから彼女に感づかれぬよう、日を置いてだんだんとお願いを難しくしていき、最終的に頭に沢庵を乗せて授業をしてほしい、まで至った。もちろん、すぐには頷かなかったので後生だからと、私への風当たりを良くするためにも閻魔様への楽しい土産話が必要不可欠なのだからと、雨に濡れた仔犬のように大いに震えてお願いしてやると、本当に沢庵を乗せて行こうとしたから、引き止めた。もはやその真っ直ぐさはこちらの良心が呵責ですり減るほどである。実際に、寿命が縮んだ気がした。
なので、こちらとしてもそれ相応の覚悟で以ってしてお願いをしなければならない。でなければ、彼女の真心に漬け込みすぎてうっかりこちらが沢庵になりかねない。薄ら恐ろしい。
「いや、帰らぬよ。帰れぬよ。私は此度の件は大いに危ういと考えているからね。端にあるとは言え、曲がりなりにも人里である私の庵にあんな恐ろしい物怪の類が現れたのだ。人々を守る自警団の一員として、この事態を上白沢慧音女士はいかがなされるつもりか。ん」
そう言って、一等真面目な顔を作ってやった。お願いするにしても挿し方をちょっと変えてみる。上白沢教諭の真心に訴えるのではなく、上白沢教諭の責任感に訴えかけるのである。どちらにしても卑劣な手である。
私はその返事を待っていたが、上白沢教諭は未だ背を向けたままであった。何やら書き留めをしているらしい。背中の芯をまったく動かさず、肩は柔らかに腕だけが弧を描く。静かで妙に整っているその姿は、一見するにただ座っているだけのようではあるが、見る者が見れば彼女の手元では達筆が生まれ出ていることに気付くであろう。その文鎮のように重心低く意固地な姿に似つかわしい、落ち着き払った声で彼女が言う。
「果たして本当に物怪か。実際には分からんだろう」
「ふむ。私の想い違いだと言いたいのだろうが、生憎と私は見たもの一切を忘れないでいられる質でね。こうして瞼を閉じれば、昨晩のあの身の毛もよだつ恐怖が今もこうして実感を伴って、私を深い深い納戸の奥へと誘ってて」
またぞろ、へその裏側から冷たい気配がこみ上げてきた。力が抜けて、衣紋掛けからずり落ちた着物のように身体が恐怖と共に床板の上で広がり、想わず震えてくる。
馬鹿、そんな想いをしてまで想い返すやつがあるか、と、上白沢教諭が少しきつめに筆を置く。
「あ、貴女が疑ったからら、こうし、こうしてまた私が恐い想いをししなければならな、なら」
「もういい、もういい。分かったからあんまり震えるんじゃない。なんだかこちらが苛めているようで気分が悪いな」
「お、同じようなも、ものだよ」
私が精一杯に皮肉めいて笑うと、やっとこさこちらを向いた上白沢教諭がこの上なく渋い顔をする。その眉間の皺の寄り具合がちょうど松の木肌に似ていたので、少しばかりおかしくなった。今度また、松ぼっくりを頭に乗せてほしいとでもお願いしてみようかなどと考えていると、恐怖は鳴りを潜め、なんとか震えも引いてくる。
上白沢教諭は、ちょっと待っていろと、私を残して部屋を出て行ってしまった。なにやら準備があるらしい。そそくさとした足運びは、どことなく忙しげであった。
ぽつねんと置いていかれ、手持ち無沙汰にきょろきょろしていると、懐に入れていたあの変な形の植物がごろごろとした感触で私の胸元で目を覚ます。そうか、お前の正体も突き止めねばなとなって、着物の上から手で擦った。するとここぞとばかりにその奇態ぶりを着物越しに感じさせてくる。まるで雪の下のふきのとう。落ち葉に隠れた茸かはたまた筍か。自らの正体を早く暴けというふうに、こっそりと、しかししっかりと主張してくるよう。
とすると、もしかしたらこれはなにかの種なのか。怪しい姿の果肉を纏い、秘密を芽吹かす奇妙な種子。そういったものにはありがちなのに、しかし此奴は美味しそうには見えない。これならば、松ぼっくりの方が幾らかましである。食べないけれど。
さてではなんの種かと考えてもやはりまったく見当がつかず、少しの間だけ呆けて、非道く寂しかったので上白沢教諭が残していった書き留めを眺めた。
向日葵の種、買い入れるべし。来年も大きく咲き誇らんことを。
と、達筆な字で記されている。私が畑のことで相談した時分にも向日葵でもと口にしていたが、このオモリ先生は向日葵が好きなのであろうか。当時言われた皮肉が想い出されて遺憾なので、ちょっとだけ悪戯書きをしようかと逡巡する。もう少しで指が脇に置かれた筆を捉えようとしたとき、なんの気配も無く襖を開けて上白沢教諭が戻ってきた。一驚に喫し、心臓が止まりかける。いや、魂も少し抜けたかもしれない。
目と目が合い、咳をひとつ。ゆっくりと元の座布団の上に引き返す私を見ながら、上白沢教諭も書机の前まで戻り、座る。その両手で、重箱と、折りたたまれた風呂敷を抱えていた。
「それで、どこへ行くんだ。あてはあるのか」
「んん」
何事もなく上白沢教諭は先程の話の続きを促してくる。てっきり叱られるのかと想って叩かれるのを待つ赤鉄のように覚悟を決めていたのに、出先を挫かれて一瞬なんの話か分からなかった。ぽかんとした口の締りが悪い。
「ああ、ええっと」
要領を得ない私の声に頭を振って、上白沢教諭は膝に乗せていた風呂敷を広げると、重箱をその真中へと置いた。重箱は漆塗の濃い照りを持った、六角の黒糖のような色合いであった。小さく、金の蒔絵が蓋に施されている。蔦の意匠のようだった。上白沢教諭は風呂敷の端を摘むと、重箱をとても奥ゆかしく流麗に包んでゆく。重箱があまり見かけない六角の形なので、私には知らない包み方である。
くっと、最後に頂点で軽く結ぶと、整った六角の輪郭が鮮やかであった。中心からのびる風呂敷の皺が、まるで菊の花のように咲いていた。
その重箱は、と、私が聞くと、上白沢教諭は呆れたように、
「お前はここへなにをしに来たんだろうな」
と重箱を自らの右側へ寄せながら言う。私からなるべく遠ざけたいようである。その慎重に扱う様子からなにやら食べ物の気配がして、俄に私の好奇心を刺激した。少し重たそうなのでそれなりのものが入っているに違いないと値踏む。確かに、目的がすり替わっているのは先程から承知してはいたが、一先ずは目の前の興味である。あわよくば、などとは考えていない。
「なにが入っているのか、などは聞いてもいいかな」
「そうら始まったぞ。好奇心という名の野次馬だ」
「だって、盛大なこれ見よがしなのだもの。むしろ気にならない方が不健康だ」
私は茂みに潜む猟師のように目を細めた。じとじととした狙い澄ます好奇心が、獲物である重箱へとなみなみと注がれる。もはやなにがなんでも中身の正体を暴きたい心情。少しばかり身を乗り出す。
すると上白沢教諭は観念したかのように、これは牡丹餅だ、と言った。
「今日は私の生徒だった子の、命日でな。元々墓参りに出かけるつもりだったんだ」
そうなのか、とも出ず。私はつい黙り込んで目が泳いでしまった。泳いだ先の開かれた格子窓から空が見えて、高いところの雲が動き早く南へと流れている。しばし、静寂が下りた。今までの勢いも失せ、まるで傷んでしまった果実のように口先の動きが垂れ下がってしまった。なんとも、次の話しの種も出てこない。
しばらくして上白沢教諭が浅く息を吐いた。そうら見ろ、とでも言いたそうな目でこちらを見つめてくる。勝ち誇っているのではない。こちらが気まずくて言の葉を接げずにいることに彼女は気づいていて、それに微かに同情しているのだ。仕方ない、と、呆れているのかもしれない。
私は無理にでも声を出そうと、うん、唸った。
「どなたであろう。私の知っている人であろうか」
「畏まらずともいいさ。一昨年に十一で亡くなった子だ。阿求とは、そうだな、もしかしたら寺子屋に通う道すがらに見かけているか、声を聞いたくらいだろう。あの子は稗田の屋敷近くを歩いて来ていたから。塀の上に見える蝋梅や楓の移ろいについてよく話してくれていた。なになにの花が盛りだと、綺麗だといつも言っていたな」
「そうか。そうなのか」
「それに、よく寺子屋に遅れてくる子だったな。ちょうど今頃の時期だった。授業中にだいぶ遅れてやって来て、しかも泥に汚れていたから随分と叱ったものだ。なにをしていたのかと問い詰めても、ふくれっ面のまま話してもくれない。仕方なくその日はそのまま帰したが、それが、最期になってしまってな」
上白沢教諭は、まるで気を紛らすかのようにして、自らの長い髪を手で梳いた。そしてその手を、なにがある訳でもなくぎゅっと握り込む。
聞けばその子は植木屋の倅で、草木が好きな次男坊だったそうだ。身体が弱く、上白沢教諭も気にかけていたのだがあえなく肺を壊して亡くなったらしい。我が身とも重なり、なんとも謹んで愁傷に耽る。若すぎる死ではあるが、稗田の屋敷の木々で幾らか安らいでくれていたのであれば、はからずともせめてもの慰みとなろうか。
鎮魂として、屋敷の花を手折ってその墓前に手向けることも吝かでない。私は上白沢教諭に尋ねた。
「私も同行してよろしいでしょうか」
「おいおい、お前が私を誘ったのだろう」
と彼女は呆れて笑った。そうであった、私が上白沢教諭を頼り、幽霊の正体を追おうと訪ねてきたのだった。なんだか恐縮してしまっていたらしい。ついつい背筋を伸ばした私の前で、上白沢教諭は包んだ重箱を両手で大事に持ち上げ、膝の上に乗せた。
「お前が気にかけることではない、と言いたいがその気持ちは嬉しい。是非とも想ってやってくれ。少し頑固で生意気なところはあったが、親想いの良い子だったからな」
「うむ」
見知りせずとも偲ぶことは出来る。どちらからともなく黙祷し、その後お茶を飲み、連れ立って出かけた。部屋から出る際に再び奇態な植物がごろごろしだす。未だ気になるも上白沢教諭に尋ねる機を完全に逃したので聞けないままふたりで里の道を歩く。ひとまず、里のはずれの墓地へ行くことにする。幽霊探しはそのあとでもよかろう。
道を辿ると行き掛けに稗田の屋敷近くを通るようで、上白沢教諭が少し塀沿いを行こうと申し出てきた。ちょうど私も手向けの花を摘もうと想っていた。それに頷いて赴くと、風に乗って芳しい香りが鼻をくすぐってきた。私の隣を歩いていた上白沢教諭も、それに気づいたようで、ふと呼び止められたかの如く立ち止まる。
「蝋梅だ」
見上げている上白沢教諭に、私はそう言った。その声に少なからずの誇らしい気持ちを含んでいたので、どうやら彼女のなにかしらの琴線に触れたのか、少しばかり呆れられた。手入れなどはお前がやっているわけでじゃないだろう、などと意地悪にも言われる始末。
「昔はちゃんと手入れだって自分でしていたさ。しかし大きくなるに連れ私ひとりでは追い付かなくなったから、植木屋に頼むようになったんだよ」
蝋梅を育てるのは決して難しいわけではないが、どうしても背丈が高くなってしまえば
早晩剪定が届かなくなる。蝋梅は、前の年に花を付けた枝に翌年も同じように花が咲くわけではないから、毎年必ず剪定を、しかも咲き始める冬が一等それに適しているので寒くともやらねば花の咲きが悪くなる。ただの物書き風情には少々、辛いものである。
と、そこで想い至った。
「あ、そうか」
「その植木屋が、あの子の生家だな」
なるほど、そういった縁があったのか。やはり近くで暮らしているだけでも、どこかでなにかが繋がっているのであろう。まったく知らぬ、というわけではないのだ。
「もしかしたら、私も顔を見ているのかもしれないな、その子の」
「そうだな。そうだとしたら良いな」
上白沢教諭は落ち着いた声色で願うようにして呟いた。彼女の目は抱えた風呂敷を透かして中身である牡丹餅を見つめているようだった。私自身も大いに同意した。
先ほど鎮魂にと屋敷の庭の花でも手折ろうと想っていたが、やめておく。その子の気持ちを慮るに、手折るのはどうにも気が引けたのだ。墓前には、蝋梅が咲き始めていたよ、とでも言の葉を手向けておくとしよう。派手さは無いが、旬の生気を鮮やかに感じられる言の葉であるはずだ。草木が好きなその子なら、一等楽しみな便りになる、と想う。
そうやって耽っていると、上白沢教諭が真面目な顔をしてこちらを見つめ、言う。
「自分の想いも寄らぬところで何かが始まって、そしてそれはすでに終わっているということばかりで、果たして私が関わったとしたら一体なにが変わっていたのだろうと偶に考えてしまう。詮無きことだという気持ちも覆いかぶさってくるけれど、悔いる想いは決して隠れてはくれない。偶然の花なんてものがあったとしたら、私はそれに嫌われているのかもしれないな。咲くときに立ち会えた試しがない。いや、私が遠ざけているのかもしれないが」
なにやら、難しそうなことである。しかし、この石頭にしては珍しく詩的なことを言う。普段の彼女からは決して考えられぬ、情緒ある言い方であった。うむ。
詩情溢れることではあるが、上白沢教諭は口を真一文字にして私の応答を待っていた。少しばかり、気圧される。
偶然の花、とは。そう私が聞き返すと、はっとして上白沢教諭は、
「いや、なに。少し気が向いたので言ってみただけだから」
と言って、そそくさと歩いていってしまった。一体どうしたのであろうか。
追いかけてからかってみても面白いだろうが、あまりそれは好かれないだろうと想えた。なにか想いつめたような顔をして、私に問いかけてきた上白沢教諭は、割り箸が歩いているかの如き不格好な足取りで稗田の屋敷の塀を通り過ぎて行った。私がここで思慮に溺れても仕方あるまい。私は蝋梅に手を振って、急いで上白沢教諭を追いかけた。
教え子の命日だということで、やはり多少なりとも感傷的になっているのかもしれない。上白沢教諭は子供らから好かれているが、それは彼女自身も子供らを好いているということ。その教え子のひとりが、年端も行かず、望まれもせず、自らの背を越されるよりも先に小さい棺を見送ることとなっては、堪えるものがあるのであろう。たとえこれまで幾度となく同じ光景を見送ってきたとしても決して慣れようはずもなく、ただただ十重二十重と悲しみを着重ねていく。鉛のように重く、されど紙のように薄く、心細い冷えも凌げぬ着物を。
私も、誰かにそんな想いをさせることになるのだろうか。そんな悲しく染めた着物を羽織らせてしまうのだろうか。
私は頭を振った。
「おい、あれ」
上白沢教諭が立ち止まって、私はその背中にぶつかってしまう。まるで白壁みたいに固い背中である。なにごとかと、彼女の見る先を覗いてみるに、私は想わず目を細めた。
いつの間にやら墓地まで来ていて、その入り口である小川にかかった橋の袂に、似つかわしいのかそうでないのか、見知った明るい顔の死神が、居た。暇そうにして居た。
「よお、ちゃんと徳は積んでるかい」
「うわ小町だ」
そう私が声にすると、小野塚小町は糖蜜のように蕩けた顔で笑った。私が嫌そうに言ったのだからそれ相応の反応をすればいいものを。小町は、こちらが本気で言ってはいないと独断的に看破しているのである。それもまた外れているわけではないので、なんだかとてつもなく癪だ。
小町は寄りかかっていた欄干を離れ、へらへらと笑みを湛えながらこちらに歩いて来た。近づくにつれ、その笑顔の照りが増していくようで、甘ったるい匂いさえしてきそうだった。いっそのこと、かぶとむしにでも止まられてしまえばいいのに。
「お宅ら辛気臭い面してるねぇ。墓参りなら元気よくやるもんだよ」
私は上白沢教諭と顔を見合わせる。決してお互いを辛気臭いだろうかと確認し合ったわけではない。この変な死神の言うことを素直に受け取っていいものかと、審議しているのである。こと胡散臭さならば幻想郷でも一二を争うであろう小町を、そうやすやすとよすがにして話を合わせていたのでは、往々にして纏まるものもこんがらがるというもの。特にいまは墓参りという粛然たる行いをしているのであるから、小町の相手をしている場合ではないのである。なので当り障りのない二言三言でお茶を濁しておけばよかろう。
さりとて、こういうときのオモリ先生は些か頼りないので、ここはひとつ、私自ら言葉巧みに小町をやり込めてやるとする。
「辛気臭くはない。これは思慮深くしているうちに、生まれ持った慎みが滲み出てきた結果なのだ。分からんかな、この冴え渡る高尚さとやんごとなき胸中の憂いが」
と、優しい声色で私は言い、隣の上白沢教諭に同意を促す視線を送った。なのに私とも目を合わそうともせず、ぷいとそっぽを向いて上白沢教諭は押し黙ってしまう始末。心なしか、照れているように目を潤ませてもいる。どうしたことだろうか。
先生、冗談ですよ、と私は慎みも忘れておろおろと付け足した。
「そんなことは分かっている。そうだとしても恥ずかしげもなく言うやつがあるか」
「おお、冗談ということが伝わっているだけでも重畳だ」
などと言えば今度は睨んでくるので余程上白沢教諭の方が面倒くさい気がしてくる。
やり取りを見られ、小町の微笑みは輝きを増すばかり。後光さえ見えてくるようで、いよいよ死神の領域から解脱しそうな勢いである。
これではいけない、と俄に逸ってこちらの唯一の手段であり奥の手を抜き放つ。
「小町、そんな笑っている暇があるのか、こんなところでまさか怠けているわけではあるまいな。ここで遭ったのもなにかの縁だ、閻魔様に言っちゃうぞ」
困ったときの閻魔様、なにはなくとも閻魔様、八面六臂の閻魔様。蚊には蚊取り線香と同じく、小町には閻魔様というのは私の中では覿面な取り合わせとなっており、稗田の屋敷に小町が現れ長居をし、もういい加減に帰ってほしいときなどにその名を出せば忽ち逃げていく具合っぷりなのである。まさに伝家の宝刀。抜身の刃を高々と掲げれば、雷雲を呼び寄せる風情。怒りっぽい閻魔様だけに、雷を落として頂くというもの。
しかし、私が言って、どうだと勝ち誇っていても、一向に小町は慌てず騒がずにいる。まるで悟りに至ったかのように安穏でのどかで、なんの憂いも無い達観さで、静かでも力強い大樹の如く佇んでいるのである。なんであろうか。そのような木ならば、やっぱりかぶとむしに集られてしまえばいいのに。
ふふ、と、雅な着物の衣擦れ音のように、小町は微笑する。
「心配には及ばないよ。あたいはいま仕事中さね」
私は絶句してしまった。怠けているのが常の、仕事をしていても四半刻と経たずに寝てしまっているあの小町が、仕事を、している、最中。そのようなこと、むざむざ信じられようはずがない。なにかの間違いであろう。
「冗談だろう、小町」
若干声が震えていたが、どうにか私は言葉を紡いだ。しかし身体は正直なのであろう、私は自分で想っているよりもずっと、小町が仕事をしているということに驚愕しているらしい。手の震えが、止まらない。
「冗談じゃあないさ。しかも、映姫様から直々のお達しでね、実は忙しいんだ」
「なんたることだ。まさか地獄があふれて地上に湧いてくるような天変地異が起こるのではあるまいな。小町が働くなんて、そんなときぐらいだろう」
我ながらどうにも要領を得ないことばかり言っている。
仕事をしている小町なんて、記憶を辿っても二度しか目にしたことがないのだから、私の驚きぶりは推し量っていただきたい。それほどまでにこの小町、働かないのである。もはや働こうとする意思さえ三途の河に流してしまったのではないかと想えるほどで、その体たらくは同じく怠けを愛する私としても自己肯定の糧として助けになったし、逆に自らが怠惰の沼に足をつけすぎた行いを正す為の戒めとしても大いに参考になった。良き先達と悪しき反面教師のまったく正反対な二面を持つに至った奇妙な小町にとって、その一分の根底を揺るがしかねぬ行為が、働くということなのである。恐ろしい。自分でもなにを恐れているのか分からぬほどに、恐ろしい。
ふと、勝ち誇る小町、そして戦々恐々とする私を、まるで柳の下の蛙二匹を見守るかのような、生ぬるい眼差しで上白沢教諭が見つめているのに気づいた。どちらが先に自尊心という柳の端っこに飛び移れるかの競争、とでもいうのだろうか。当人たちにとっては三度の飯を掛けても掛け足りぬ、退っ引きならぬほどに大事な勝負なのであるが、我々以外、例えばこの上白沢教諭の口を借りて言うのであれば「どっちでもいいよ」と呆れさせしめる程度の益体もない行いのようだった。しかし蛙には蛙の魂というものがあるのだから、自尊心くらい掴ませてほしい。益体もないのは、自認するし、肯定もするが。
先に行っているぞ、と、上白沢教諭はやはり謝辞もなくするすると小町の横を通りすぎてゆく。流石の小町も彼女の有無を言わさぬ呆れかえりっぷりに、日々の生業であるはずの茶化しも鳴りを潜め、道端の道祖神のように素知らぬ顔で見送った。調子の良いことである。
「怒られたではないか」
「知ったことじゃないよ。なんて顔してるんだい。朗らかにしなよ、朗らかに」
そう言って馴れ馴れしい、餌を与えられた小鳥のようにちゃっかりとした囀りを謳う。この小町を伏せさせるのは、天上天下においてやはり閻魔様しかいらっしゃらないのだと改めて想うものだ。つまりは付き合っていられない。
なので私も小町の横を質素に通り過ぎた。果たして背の高い道祖神は静かに仕事に戻る。かと想いきや小町は白々しく私の後を付いてきた。まるで最初からそっちに行くつもりでしたと言わんばかりに、きょろきょろと辺りを見回しながらふらふらと付いてくる。上白沢教諭の背中を追う私に、死神様が付いてくる。薄ら恐ろしい。
並び立つ墓石の合間を縫いながら、ちらり。早足をしつつ振り向く私に、死神が滲み出るような微笑を投げてくる。
「なんだ小町。付いてくるんじゃないよ」
素っ気なさを意識して突き出した言葉はしかし、有言実行の朗らかさで微笑む小町には届いていないらしく、
「仕方ないんだよ。なんと言われたって、これはあたいの仕事なんだから」
などと訳の分からないことを言う。
訝しげに想い、仕事とは、と、ついつい私が聞いてしまうと、小町はきょろきょろしたあとにこちらへと目線を据えた。私は上白沢教諭の背中を追いかけつつ、時々に振り向いて小町を見遣った。
「映姫様に頼まれた仕事はふたつあってね。そのうちのひとつが、ある幽霊を探すことなんさ」
「へえ。それはご健勝なことではないか」
「つれないねえ、もっと興味を持ってほしいもんだ。これでも張り切ってるのに」
拗ねたような声を出し、小町は長い両腕を大袈裟にぶらぶらさせる。比較的身体が大きい小町がそんな動きをすると大木が強風で傾いでいるかのような風情を想わせた。
「あんたも考えているとおり珍しいことだってあたいも感じてるし」
「隠す気も無く正鵠を射ているなあ」
「久しぶりに忙しい。怠ける暇もない。辛いねえ」
忙しいことを嘆くのはそれだけで贅沢なものである。特に小町が吐く嘆きは殊更贅沢に想えた。普段からの様子を見ている私としては、なんだか小町が遠くに行ってしまったかのような感慨に陥る。感心してしまう。
小町がまだなにかしらぐだぐだと言ってはいるが、それよりも上白沢教諭である。追いかけていた背中はすでに目的の墓に到着しているようで、奥の方で墓石周りを掃除している。忙しなく動く姿を見ると、小町とはまた違う感心を抱いてしまう。甲斐甲斐しさ、だろうか。いや、とかく小町と比較するのは失礼な気もする。
私は小町に向かって目配せをした。静かに、というのである。大人しく口を閉じるも、小町は相変わらず付いてきた。
上白沢教諭はすでに掃除も終え、線香を上げていた。辺りに線香の細い煙と一緒に柔順な静けさが立ち昇る。秋の草虫さえ、訳知り顔で黙ってしまっているようである。
「この子は、なにかをしたかったのかな。なにをしたかったのかな。勉学を教えていたつもりだったのに、私はなにも教えてもらえなかった。泥だらけだったのを叱ってしまったあの日、私は理由も聞かずに怒ったんだ。そりゃあへそも曲げるだろうな、頭ごなしに叱ったのでは。理由を聞けば、教えてくれたのかもしれないのに」
草虫の代わりに囁く上白沢教諭は、揺れる煙のように消え入りそうな声で墓石に向き合っていた。音も無く、手を合わせ、閉じた瞼の裏側になにを想い浮かべているのであろう。
声は揺らいでいても、普段どおりの背筋を伸ばしたその仕草や姿は、凛として戸に打ち突く雨滴のように、はっきりとした輪郭の、濡れて重さを増した様子を私に想像させた。そう言えば、昨晩は雨であった。暗い空から地上へと満遍の線を引く雨が、絶え間なく降り注いでいたはずだ。雨滴は、その確かさのある湿気や雨音で、怖がる私を庇ってくれていた。私は大いに助かり、安心したのだ。
そして雨滴はいまも、少年が眠るであろう墓石の上に宝玉の如く散りばめられている。しっとりと佇む上白沢教諭の姿を表面に映しながら。
きっと少年も安らかであろうよ。私は心底そう想い、諸々を含めて上白沢教諭に伝えようとしたのだが、それを小町の声が遮った。少し離れたところで立ったまま小町は、
「先生は後悔しているのかい」
と真面目そうな乾いた声で上白沢教諭に尋ねた。私はぎょっとして、小町を見遣る。いつもの寝ぼけ眼ではあるが、口元は僅かに引き締まっている。小町が時折見せるこういった表情を私は知っていた。死神の領分を現すときの顔である。
上白沢教諭も驚いたのか、少しだけ顎を上げて瞼を開いた。両手はしっとりと合わせたままだ。
「後悔、というか、自分が許せないのだと想う。この子のためを想って叱ったけれどそれが果たして本当に良かったのか自信を持てない自分が。あのときああしておけば良かったなんて想われたままだったら、この子が不憫でならないんだ。子供は自らへの善意や悪意に敏感だろう。なのに私はどうしても自信が持てない。よもや悪意と捉えられているのかもしれないと考えると、どうにも、居ても立ってもいられない。ざわめくんだ、私の奥の方が。どんどん、どんどんそこが冷たくなってくるんだ」
「普通はそういうものに慣れるもんさ。河に転がる小石のように、角が取れて丸くなるみたいにね」
小町は一歩だけ踏み込んで、続ける。
「角張ったままじゃ自分も他人も傷つけちまう。なにより、河のどこかに引っかかってそこから抜け出せなくなる。そのまま苔が生えて重くなっちまうよ」
「そうだな。それは少し辛いな」
気持ち表情を俯かせ、上白沢教諭の横顔が苦笑いをした。自嘲しているのか、それとも気持ちが楽になったのか。どちらともすくい取れぬ顔をしているが、私は少なからず安心してしまった。想いやりと想い込みの強い上白沢教諭のこと、さぞやつらみを余計に抱えていたことと想う。そういうものは、時々洗わなければならない。小町の言う河に転がるではないが、同じように流れ続けなければならないのかもしれない。
小町は上白沢教諭のその顔を眺めて、ふうん、と、鼻で息をする。まるでなにか御馳走を食べ終わったかのような満足気な吐息だったので、私はついつい舌を出してしまった。
「おいおい阿求、あんたおちゃらけているがその懐に入っている変なの、出してみな」
「え、あうん?」
脈絡もなく呼ばれる。突如として矢面に立たされた私は石臼のように首を回した。見ると少し離れていたはずの小町が、手が届くほどの距離にまでいつの間にやら近づいている。驚いて、危うく悲鳴を上げそうになる。
「ほらなにしてるんだい、早く出しなよ」
言うが早いか手が先か。否、極めて確実に小町の手は言うより早かった。
その長身に見合う大きめの手が、素早く私の衿元へと入り込んで、荒ぶった。まるで蛇が獲物の巣穴に入り込んで狩りをするかの如く、もはやそれだけが目的で入って来ては雷のように出ていった。あとに残されたのはもがくことも許されなかった私の驚嘆だけ。恥じらうことさえ間に合わなかった私の慎ましき心は、いまや止まり木を見つけられずに宙を浮いてしまっている。私は、魂が抜けそうになった。
「これこれ、この変なの。変な形してるけど、これは実なんだよね、菱の」
「一体なんだというんだ」
傍で見ていた上白沢教諭はやはり呆れていた。私だとて、気が気じゃないのである。しかし悲しいかな稗田の血である。叫びたい衝動よりも、知識欲が勝ってしまう。この両方を私に与えさしめた当の小町に尋ねるのは誠に癪なのだが。非情に、悲しいほど癪なのだが。
「ひ、菱、とは」
「菱は菱さ。植物の、菱。あんたの屋敷の池にも浮いてただろ。あたい、あれを眺めるのが好きでねえ。日がな一日水の上に浮いているなんて、憧れるよ。尊敬するね」
「いや、どうでもいいんだけれど」
小町は心底惚れ込んでいるようなうっとりとした顔で菱の実とやらを眺めている。
なるほど、菱の実、であったか。朝に縁側で見つけてからの疑問がやっと昇華された。喉奥に引っかかっていた鯉の骨が、やっとこさ外れて飲み込めたような、ようやく人心地付けた気がする。未だ先ほどの驚愕に心の臓は胸の中で飛び跳ねてはいるが、これで少しは私も落ち着けるだろうか。なるほど、菱の実か。
「菱の実は蒸して食べたものだ。ほのかに甘みのある、栗の味に似ているな。滋養もある」
食したことがあるのであろう、上白沢教諭も菱の実を知っているようで、想い出したかのようにひとりごちている。奇妙ななりをしているが、これは食べられるのか。そうとは分かっても私には一向に美味しそうには見えない。やはり最初の印象からして奇態であったから、そのように感じてしまうのであろう。上白沢教諭が知っていたのであれば、今日逢ってすぐに尋ねてしまえばよかった。
小町の言うとおり、稗田の屋敷にある池に菱は浮いていた。いつの頃からかは分からない。私が、阿求として転生する以前から池には浮いていた気がする。曖昧であるが故に殊更な想い入れも興味もなく、いまのいままで記憶の抽斗の奥にしまったままになっていたようだ。求聞持の力で見たものは忘れないが、それはあくまでも忘れないというだけで、いまそのときに不必要な記憶は私の中の抽斗に入れっぱなしになるのである。記憶とは、他の記憶と繋がっている為に、相互性はあるものの単一として抽斗から取り出すのは私にもなかなかに難しい。それに菱の実というものを、私は見たことがなかった。小町に言われなければこの記憶とて、ずっと抽斗の肥やしになっていたであろう。
ちなみに、忘れるというのは想い出すことも出来ぬということである。あるきっかけが目の前にあっても、必要な記憶の抽斗が開かないということである。
そうかなるほど、菱、池に浮いていた、菱、か。
「ああ、そうだ」
私は大きく、声を上げてしまった。墓地に眠る鬼籍入りに迷惑なほどの声を。
同じく驚いた様子で上白沢教諭がこちらを見た。手には箸を、箸の先には六角形の重箱から出したあの牡丹餅を挟んでいる。ついついそちらに目がいくが、いまはそれどころではない。
「先生、すまない、やっと記憶が繋がった。私は以前に見たのだ」
「なんだなんだ。なんなんださっきから」
勢い余って、墓石の前でしゃがんでいる上白沢教諭に覆いかぶさろうかというほどの風情。記憶が、記憶が一気に繋がってゆく。
「私は屋敷の池に忍び込もうとする子供の姿を見ていた。確かに一昨年の神無月は二十七日、泣き出しそうな雨雲が必死に堪えているかのような薄暗い日だった」
上白沢教諭の箸から牡丹餅が、落ちる。
「転生の準備に急かされていた日々で、私は気も漫ろで、ついその子供に怒鳴ってしまった。慌ててその子は逃げていったが、翌日池の畔で袋を、拾ったのです。向日葵の種が入った袋でした。逃げた際に落としてしまったのか、向日葵が好きな子なのでしょう」
どんどん繋がる記憶を言葉にしながら、私はそれを必死になって伝え、上白沢教諭は切実な視線を寄越してくる。いまや小町さえそれを見守っている。
私は小町が手にしている菱の実を指さした。
「この菱の実を、私は今朝、私の庵、幽霊がうろついていたであろう縁側で見つけたのです。きっとそれはそういうことです」
あの幽霊は、と、私が続けて言うよりも早く、立ち上がり、私よりも必死な顔をして、長くしっとりと潤んだような御髪を振り、上白沢教諭は駆け出してゆく。神無月の、雨が薫る風のように翻って、上白沢教諭が墓地を囲む小川を一息で飛び越えてゆく。
「追いかけな、それがあんたの仕事なんだよ」
少し呆然としていた私を、小町が軽い声で呼び戻してくれた。見遣ると、そこには寝ぼけ眼の死神がいらっしゃる。猫背のだらしない、である。
私は少しだけ悔しくなって、そんなことばかりしているから閻魔様に怒られるんだ、とそのままだと走り難いであろうつっかけを脱ぎながら、言う。
言いっこなしだよ。
小町は気怠そうな顔をする。私は一度だけ深く礼をして、走った。
墓地の入り口である小川にかかった橋を渡り切って、人里へ向かう道沿いを裸足のまま私は走る。とは言え生来のか弱さであるが故に、上白沢教諭に追いつくどころか少々駆けただけで咳は出るわ汗が滝のように流れるわ、まるで生きた心地がしない。
真の意味で死に物狂いに走り、手にしているつっかけを握ったままでいるのさえ億劫になってきた頃、道の向こうから一目散にこちらへやって来る姿があった。上白沢教諭である。私を迎えに来てくれたのだ。
私はちょっと、立ち止まって、休んだ。もはや息も切れ切れ。ほとんど死に体である。そんな私のすぐ傍まで駆け寄ってきた上白沢教諭は、ぎゅっと手を握ってくれた。俯いていた顔を上げると目を見つめ返してくる。眼差しに「大丈夫か、急げ」との合図を感じ、私はこくり、頷いた。握られた手が引っ張られ、なんとか両足を動かす。上白沢教諭と共に再び駆け出した。
私の遅さに合わせて隣を走る上白沢教諭が、すっと前を向いたまま話かけてきた。
「阿求、阿求。私は謝るべきなのかな」
いつになく不安気な、水中から発せられたもののような輪郭の揺らいだ声だった。走るたびに水面が揺れて声の形が分かり難くなるような、沈んだ声であった。
上白沢教諭は二度三度だけ首を振っていた。これから臨むであろうその切実な事柄を想い、私はなんとか息を整えようとした。しかし無理だったので言葉を途切れ途切れ、応答した。
「あや、謝らなく、とも、いいとお、想います」
たったそれだけを伝えたかった。
「うん、そうだ。そうだな」
変わらず前を向いたままであったが、聞けた声ははっきりとしていた。
足のもたつく私が躓きそうになるたびに、上白沢教諭が握ってくれている手のお陰で支えられる。それが私にはやはり大いに助けとなる。ぎゅっとされて力が込み上げてくる。覚束なくとも、前に進める歩みとなる。
必死に駆ける私の頬に水滴が触れる。すわ雨かと目だけを動かして空を見れば、雨雲はない。
「阿求。やっと分かった。あの子は」
あの子は私に菱の実を拾ってくれようとしていた、と、上白沢教諭が依然としてこちらに顔は向けずに、言う。駆ける御髪が一斉に靡いた。佳麗で格好良いと想える。
ついに言葉さえ出てこず、こくりと頷いただけで、私は上白沢教諭と共に急ぎ、駆けた。
やっとこさ庵に着くと、果たしてそこには菱の実の山が出来上がっていた。人里中の菱の実を集めたのか、幻想郷中の菱の実を集めたのか。大したものではあるが、あの奇態な実が山になっている景色は、正直、少しだけ恐い。
あの子の幽霊は居なかった。それでも上白沢教諭は庵の庭で物思いに耽っていた。いろいろと、難しいのだと想う。
私は彼女の邪魔をしないよう庵の勝手でじっとしていた。やはり上白沢教諭をひとりにしてやることも、少なからずな優しさというものであろう。決して疲れて動けないのではない。
そうしてだらしなく座っていると、オケラがやって来た。なんとも時期を読まぬ奴と想っていたら、こちらも精一杯走ってきたのか息を切らしている風情。しかしその顔は非道く青ざめている。
どうした、と、私は尋ねた。オケラは泣いていた。少し間を置いて、苦しげに言う。
「大奥様が、亡くなられました」
告げた途端、土間であるにも関わらずオケラはその場に泣き崩れ、着物の袖を汚した。
おばばが亡くなった。その急な事実だけがすとん私の胸に落ちてくる。それを私は振り向きざまで受け取ったかのように、不意に手にしてしまった。この事実をどうしたらよいのか、分からずに持て余す。そう言えば、小町はふたつ、仕事を任されたと。
私は、庵の勝手口から外に出た。そして死神が居るであろう先ほどの墓地の方向の空を、見遣った。
続き楽しみにしてます
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