花を供えてからひと月ほど経ったある日。
そのネズミは珍しくも厨房に姿を現していた。
ネズミは普通食べ物の近くに出没するものであり、ならば何も不思議ないように思える。
しかし、そのネズミに関しては、主に図書館に入り込み、貴重な数々の書籍を失敬しまくるという習性を持っているのだ。他にすることといえば、館内の部屋を嗅ぎ回り魔法具に手を出したり、住人にちょっかいを掛けたりといったものである。
ネズミというのは、そのような被害をさんざん受けてきた紅魔館側からつけられた愛称、もとい蔑称なのだった。
ともかく、これでそのネズミな人物──霧雨魔理沙が本も魔法具も人気もない厨房に足を踏み入れたのは、習性から外れた行為であり、本当にたまたまのことだったというのがわかっていただけただろうと思う。
断っておくが、紅魔館の主が有する運命を操る程度の能力は、今回の件に関与してはいない。
つまりは掛け値なしに運命的な出会いだったのだ。霧雨魔理沙とその「スープ」とは。
「あ」
と、厨房の扉を開けて入ってきたのは紅美鈴。紅魔館の門番である。
「あ」
と、たった今飲み干したスープ皿から顔を離したのは霧雨魔理沙。普通の魔法使い、そして紅魔館の「ネズミ」である。
ネズミは簡素な椅子に座ったまま悪びれずに言う。
「奇遇だな。ってか、門のとこにいなかったのは何でだ? お前の専用就寝スペースにゃ別の奴が立ってたぞ」
「専用就寝何とかって、私そんなに居眠りしてませんよ。いえ、お昼食べそびれちゃったんで替わってもらったんです。ちょっとのつもりがかなり時間食っちゃって悪いことしたなぁ」
美鈴は眉根を寄せる。他者に対する気遣いが細やかな少女なのだ。だが、表情が浮かないのはそのことを気に病んでいるからばかりではないらしい。左手が腹部に当てられている。
魔理沙は目ざとく指差した。
「調子悪いのか? 長引いてんなら良く効く座薬、調合するぜ」
「便秘じゃありませんよ! それで悩んでいるのは咲夜さんの方で……じゃなくて、そんなことより魔理沙さん」
「ど、どうしたよ、真剣な顔して」
美鈴が一歩詰め寄ったので、魔理沙は自然と身をのけぞらせてしまう。
「今、何を飲んだんですか」
さらに詰め寄る美鈴。二人の間にはスープ皿がある。
「あ、悪い。ついな、美味過ぎて」
「美味かった?!」
「だから悪かったって。後で極上のキノコ、差し入れてやるから」
「要りませんよ! で、飲んだのはスープなんですよね? 魔理沙さんは何ともないんですか?!」
「だから人様の飯に手ぇつけたのは悪かったと思ってるよ」
「私のじゃありませんよ! 多分!」
「はぁ?」
「はい?」
どうも話が噛み合わない。魔理沙はこめかみに指を当て、もう片方の手を振った。
「待て待て待て、ちょいと整理しよう。ええと、さっき私が飲んだスープはお前のじゃないんだな?」
「はい、そう、ですね。そうだと思います」
「歯切れが悪いな。なんでイエスかノーで答えられないんだ? お前がいろいろ聞こうとしているのが何なのかもよくわからんぞ」
「実は自分でも何を聞こうとしているのかよくわからないんです」
「おいおい」
居眠りのし過ぎでまだ寝ぼけてんのか?といった様子で、魔理沙は肩をすくめる。
「あぁいえ、えっと、ちょっと混乱してまして。どう言ったらいいのかな…………あのですね、このお皿、」
美鈴は魔理沙が台に置いたスープ皿を指差した。やや楕円の白い陶器に、淡い水色で花模様が描かれている。
「特徴的なものでしょう? それにお昼もとっくに終わっていて、他の食器は綺麗に片づけられてます」
「それがどうしたよ」
「魔理沙さんと私はこの──同じ食器を使ったと思われるんですよ。私もこれでスープを飲んだんです、少し前に」
「ふぅん」
右耳から左耳へ軽く聞き流す魔理沙。単に美鈴が飯食った後の食器に、新たなスープが入れられただけの話じゃないか。衛生的な問題でもあるってか? 私はチルノがすすってたラーメンを箸ごと奪って食った女だぞ?
だがしかし、徐々に表情に怪訝さが現れていく。それを読み取って美鈴が頷いた。
「おかしいですよね。誰が、わざわざ人の使ったお皿にスープを入れておくんでしょうか」
「いや、でも、お前が使って洗っておいたのなら、手近にある皿が使われて不思議ないだろ」
「洗ってませんよ。そのままにして出てきちゃったのもあって、こうして厨房に戻ってきたんです」
「じゃあ、お前じゃない誰かに洗われた上で使われたんだ。それでつじつまが合う」
「『誰が』『何のために』というところまで説明できますか?」
魔理沙は黙ってしまう。推測できるところまで考えを巡らしても、そこからがどうしても不可解なのだった。
「確かに、『誰かが食事のために』っつーのも変なんだよな」
「ええ、魔理沙さんがスープを飲んだということは、厨房に誰もいなかったわけでしょう? 普通はスープを入れたらその場で飲むか、別の場所へ持っていきます」
「スープを入れたまま放置するのはありえない、か」
まるでマリーセレスト号だなと魔理沙は思う。船員が忽然と消えた幽霊船で、中には食べかけの朝食がそのままの形で残っていたとか。
「しかしだな、たとえば、」魔理沙は新たな考えを足す。「可能性としちゃ、たまたま急用ができたとかあるだろ。そうだ、お前みたいに昼飯食べ損ねた奴が遅れて入ってきたんだ。で、スープを用意して……」
「スープは冷めてました?」
「温かかったぜ。できたてって感じだった」
「私のときもそうでした。そのとき気づくべきだったかもしれませんが、ほら、火の気が感じられません」
「あー、確かにな」
魔理沙はきれいに片づいた厨房を見まわす。ひんやりと冷え切っていた。
「それに、一皿分あっためるだけでも鍋とか使うしな。水洗いして乾かしてる形跡もねぇや。まさか皿ごとオーブンでやったとしても、熱はよりはっきり残るだろうし」
「はい、不自然な点が多過ぎるんですよ」
「『チーズはどこに消えた?』ならぬ『スープは誰が入れた?』か。洒落にもなんねぇな」
言っているうちに顔の中央に皺が寄ってきてしまう。自分が食ったものが得体の知れない液体に思えてきた。気味悪そうに腹を撫で……そこで同じ行為を美鈴がしていたことを思い出した。
「おい、まさか、お前が調子悪そうなのは、」
否定してほしかったが、美鈴はこくりと頷く。
「ええ、さっきまでおトイレに行ってたんです。そのお皿のスープを一口飲んだら、吐き気はするし、お腹は痛くなるしで。私が気になってたのはそこなんです──魔理沙さんは大丈夫なんですか?」
わずかな沈黙の後、魔理沙は立ち上がり、流しに駆け寄る。指を二本そろえ、口を大きく開けた。
「わっ、待って! 待ってください!」
慌てて美鈴が後ろから魔理沙を羽交い絞めにする。
「離せっ、美鈴! 全部吐き出させろ! 今この場で紅魔館の新名物マーライオンになってやる!」
「そんな汚い名物要りませんよ!? どんな層の観光客が来るっていうんですか!」
「離れてくんならそれでもいいだろ! 恐れられる紅魔館、最高じゃねーか!」
「恐れられるのと嫌がられるのは全然違います! 吐くならおトイレっ、ここでは料理するんですから衛生面を考えてください!」
「知るかッ! 『嘔吐逆呑(オートキャノン)』発射準備!」
「そ、それに吐く必要もないかもしれないんですから!」
「何?」
美鈴の言葉にようやく魔理沙は暴れるのを止めた。拘束を解かれて、問う。
「デマカセじゃねえな? 理由あっての言葉なのか」
「はい」
「聞かせてくれ」
「多分ですね、私と魔理沙さんの飲んだスープは別物じゃないかって思うんですよ」
「そうなのか? して、その根拠は何ぞやだよ」
「私の場合、『お昼何も食べてないんで』と言って門を離れたわけなんですけど、それでめぼしいものがあるかと厨房に行ったらちょうどスープが用意されていて、『ああ、咲夜さんが気を利かせてくれたのかな』と思って、疑問なく飲んじゃったんですよ」
「前置きが長げーぞ。気を持たすつもりならスペカかますかんな、ファイナル吐瀉物スパーク」
「ちょっ、ここからですよ! それで一口飲んだら苦味がこみあげてきて、舌も痺れて、気持ちが悪くなって……」
「便所に直行か」
「はい。スープは流しに捨ててから出て行きました。しばらくして戻ってみると、魔理沙さんがいて、」
「スープを飲み干していたわけだ」
「そう、そこです」
美鈴が指を立てる。
「魔理沙さんは全部飲んだんですよ。私は一口から先すら受けつけなかったのに。つまり、私たち二人のスープはそれぞれ別種のものだったということになります」
「妖怪と人間で味覚が違うって線は? 妖怪にゃ毒で、人間にゃ美味って物、何かなかったか。あー、たとえばあれだ、『海亀のスープ』」
「その話は知ってますよ。でも、オチの通りなら私みたいな妖怪には毒どころか薬になるはずです。魔理沙さんにとっては……案外美味しいかもしれませんけど」
「よしてくれ。言葉の綾だよ。その逆がねーかってこった」
「あります?」
「ちょっと思いつかんな」
魔理沙は思考を巡らすが、検索に引っかかる事物はない。スープに退魔の術が掛けられていた可能性も考えてみたが、それだったら飲んだ瞬間にわかるだろう。美鈴にも、自分にも。
となると、スープは別物だったという美鈴の主張のがしっくりくる。
「安心できました? 少なくとも飲んですぐ身体を損なうようなものではないんですよ、魔理沙さんのスープは」
「いや、まあ、そうだろうけどな……」
胃の内容物をぶちまけるのを取り止めにする説得力はあったにせよ、得体の知れないものを飲んだという事実は覆せてない。体調ではなく心情における気持ち悪さは依然あるのだ。これからどんな影響が出てくる
かわかったもんじゃない。
「お前は腹立たないのかよ」
「え?」
「こんなことされてさ。一服盛られたんだぞ」
「でも、殺す気でやったわけじゃないと思うんですよね。魔理沙さんのスープは普通に美味しかったんでしょうし」
「普通どころか、かなり美味かったけどな。いや、そういうことじゃなくてさ、」
「相手を見てやったのかもしれませんよ。この時間に厨房に来る人なんて本来いないんですから。私には私に、魔理沙さんには魔理沙さんに合わせたスープを用意した。それでこうして混乱しているのを見て楽しんでいる、とか」
「いたずらにしちゃタチが悪過ぎるだろ。飲んで死なないとかそういう問題じゃない。いやお前、マジに気が優し過ぎんぞ」
便所送りにされるほどの物を食わされてその相手に怒りを示さない美鈴は、魔理沙にとって超とバカがつくほどお人好しに思えた。
「そんなに大ごとになったわけでもないですし。一服盛る割合を間違っただけかも。まあ、ちょっとは反省してもらわないといけないかな」
「ンなもんで済ませていいのかよ。とっ捕まえて同じ毒スープ流し込んでやるくらいはしねぇと。『目には目を、スープにはスープを』だろ。いや、ここは私とお前の分とを併せて倍返しだ! 胃が破裂するくらい飲ませる!」
「剣呑に過ぎませんか? 仕掛けた人に悪気があったのかもまだ……」
「ぬるいんだよッ!!」
拳が台に叩きつけられた。大きな音に、美鈴の目が丸くなる。
「悪気以外のなんだってんだ! たとえ悪気なくやったとしたって、それがどうしたよ! なおさら酷でぇだろ!」
「ええ、まあ、そうかもですね。……あのぉ、魔理沙さん、」
「何だよ」
そぅっと差し出すように美鈴は言った。
「何か嫌なことでもありました?」
「はぁ?」
何を言い出すんだといった風情の魔理沙。
「だって、魔理沙さん、いつもだったらこんなことでそこまで怒らないでしょう。というか、これ、魔理沙さんこそ仕掛けそうないたずらですよ」
「お前、私を疑ってんのか?」
「いえ! そういうつもりは微塵もなくて。ただ、普段から結構な数の本を『死ぬまで借りる』と持っていく人が、スープ一杯で激昂するかなぁって」
「う……」
それを言われると弱い。
貴重な魔導書を相当数借りパクしてるのは事実だし、門番としての美鈴を撃破して家宅侵入するのもしょっちゅうだ。そもそも現在厨房にいるのも、無断で家探しした結果なのだった。
これではよほど厚顔無恥でない限り、正義を振りかざす立場にはなれない。魔理沙がそうするには、あと二、三ミリ面の皮の厚さが足りてないのだ。
気まずさを隠すために、魔理沙は美鈴の話に乗った。
「確かにイライラしてたかもな。嫌なことね──まあ、あったさ。魔法の研究が上手くいかなかったり、箒で飛んでたらカラスにぶつかったり、そんなんが重なってな」
適当な嘘ではなく、実際に起こったことだ。どうもここのところ、ケチが付きまくってる。
ことの始まりは、多分「あれ」だ。
心の中で舌打ちする。回想の端に触れるだけで気分が悪い。
話を戻すことで意識を逸らすようにした。
「で、そんなことよりスープだよ、スープ。誰がどうやって、ここにホカホカスープを用意できたんだ?」
魔理沙は流しの近く、今の皿が置かれているところから少しずれたところを指差した。
「結局はそこなんですよねぇ…………んん?」
美鈴の悩ましげにうつむかれた頭が、跳ねた。片眉が上がっている。
「魔理沙さんの飲んだスープのお皿は、ここにあったんですね? こういう向きで」
美鈴は魔理沙が先ほど示したところに、指先で楕円を描く。
「そうだぜ? それがどうかしたか」
「ここ、私が流しにスープを捨てて、お皿を置いた場所なんですよ。しかもこの状態で」
「んーと、私がスープを見つけたとき、皿はお前が置いたまんま全然動いてなかったってわけか」
「はい。動かされてなかったとも言えます」
「ふぅん、つまりどういうことかってーと、いや待て、言うな」
こめかみに手を当て、魔理沙は思考のポーズ。手のひらを向けられて、美鈴は魔理沙の言葉を待つ。
「火の気もなけりゃ鍋が使われた形跡もなし、皿も動かされてなかったのなら──間違ってたかもしんないわけだな、前提自体が」
「そう、もしかすると……」
「『誰かがスープを入れた』ってのが先入観ありありだった。『誰か』は存在しない。つまりはこうだ、」
と、厨房の扉が開いた。「あら、あなたたち」見知った顔が現れる。
それにより、魔理沙の推論披露は中断され、しかし、同時にその正しさが証明されることとなった。
「あっ」
「おぉ!」
空になった皿が、みるみると満たされていく。湯気を立てる琥珀色の液体。美味しそうな匂いが上った。
「何? いったいどうしたのよ?」
紅魔館のメイド長・十六夜咲夜は、皿を見つめる二人に不思議そうな顔をした。
「そう、そんなことがあったの」
二人から経緯を聞いて、咲夜は事情を咀嚼するように頭を小さく縦に揺らした。
「魔理沙はどうでもいいけど、美鈴は災難だったわね。毒ニンジンの汁でも飲まされたのかしら。ソクラテスの気分は味わえた?」
「どうでもいいって何だよ!」
「そんな哲学的な罰ゲームは勘弁ですよぅ、咲夜さぁん」
憤然と哀然の二つの抗議に、咲夜は艶然と口元を手で覆った。
「ふふっ、とりあえずどっちも元気そうで良かったわ。冗談はさておき、あなたが調子崩すなんてよっぽどね、美鈴」
「そうなんですよ。魔理沙さんが口にしてたらと思うとぞっとします」
「……?」
会話の意図がつかめず、魔理沙は小首を傾げる。
察して、美鈴が説明した。
「ええとですね、中国拳法には朱砂掌など毒を扱ったものもあるんです。その関連で、私、毒に対して結構耐性があって」
「すげぇな! 今度コレラタケとかカエンタケとか食ってくれ!」
「それがどんなものか知りませんけど絶対イヤです!」
「あのねぇ、魔理沙、そんなこと言ってる場合なの? 下手をしたら飲んでたかもしれないのよ、美鈴にさえ毒性を発揮させたものを、あなたが」
意味わかる?と咲夜に言われ、少し考える魔理沙の顔が青くなっていった。
「違う種類のスープみたいで良かったわね。それから美鈴が残りのスープを捨てていて。そうでなかったら、あなたはここに立っていられなかったでしょうし」
「こ、怖ぇえ。もしかすっと全身赤く腫れあがって、内臓も脳もイかれて、髪の毛がごっそり抜けるみてーな、最強の毒キノコ・カエンタケを食ったような症状が出てたかもしんねぇな。恐ろしい」
「私にはむしろそれを人に食べさせようとしていた魔理沙さんの方が恐ろしいです」
「とにかく、二人ともうかつなのよ」
と、咲夜は美鈴をこづくジェスチャー。
「一皿のスープがそれだけ置いてあるのを簡単に口に運ぶなんて、普通はしないわ」
「ちぇっ」
「私はてっきり咲夜さんが用意したものと……」
「それは確かにいろいろ先回りしてやっておくことはしょっちゅうだけどね、前菜みたいに供するにしてもスプーンくらいは添えておくわ。不自然さを疑いもしないなんて門番として足りないわよ」
「す、すみません」
あからさまにしょげる美鈴だった。まるで飼い主に叱られた子犬のようだ。
「まあでも、そこまでお腹がすいていたのかと考えると可愛いものがあるかもね。結局、お昼は食べられずじまいなんでしょう? 簡単なものなら作ってあげるわ」
言うが早いか、美鈴の前に一皿のお粥が現れた。時間停止の能力を使って用意したのだろう。上る湯気も白く光るその中央には梅干し。スプーンも添えてある。
「はい、熱いうちにどうぞ」
「ありがとうございます!」
魔理沙には美鈴の尻で勢いよく振られるシッポが幻視できた。よく調教されてるわ、こりゃ。
お粥をチョイスしたのも、美鈴の胃腸の負担を考えてのことなんだろう。そういう気遣いも調教に一役買っているわけだ。
「それにしてもひとりでにスープが湧くお皿ねえ」
咲夜は、美味しそうにお粥を食べている美鈴から、件の皿に目を移す。
「グリム童話で町中に溢れるくらいお粥を出した魔法のお鍋があったけど、似たようなものかしら。でも、私が最初聞いていた話とは少し違っていたのよね」
「お粥っつーと、弘法大師が一宿の恩義にと食いもんのない婆さんに米三粒やった話があるな。それを入れて煮ると鍋一杯のお粥ができたんだ。空海曰く、『これでも食うかい』、なんつってな」
「…………」
「憐れむような顔すんなよ!」
咲夜の眼差しが木枯らしのように寒々しく空虚だったため、思わず叫んでしまう魔理沙。
「だって他に反応しようもないもの。まったく、今から親父ギャグが出てくるようじゃあオバサン化は早いわよ?」
「なっ……出るもん出てねーお前の方こそ心配しろ! フン詰まりは老け込みに貢献大だかんな!」
瞬間、魔理沙の喉元にナイフの切っ先があった。
「ひっ?!」
息をのみ、硬直する魔理沙。ナイフを手にする咲夜の顔には、凄絶な笑みが現われている。
「それ、誰に聞いたのかしら……?」
触れてはならぬ逆鱗だったらしい。そんなにも長く続いているのだろうか、便秘。
顎を上げて、魔理沙は上ずり気味に答える。
「あ、えと、ここの門番からデス」
「へぇ、美鈴が」
刃の視線がお粥を食する中華小娘に刺さる。
「ひっ?!」
息をのみ、硬直する美鈴。手のスプーンからぽちゃぽちゃとお粥がこぼれた。
「ふふふ、嬉しいわ、二人とも。人のプライベートな健康状態を気遣ってくれるのね。特に美鈴は誰彼構わず相談を持ちかけてまでして」
台詞内容と裏腹に、手にしたナイフが二本に増えていた。左右の手に一本ずつ。一本は依然魔理沙の喉元に、もう一本は美鈴に対して投擲の構えで狙いがつけられている。
「さ、咲夜さん……」
「あら、梅干しはもう食べちゃったのね。大丈夫よ、新しい赤の彩りが添えられるから」
美鈴がガタガタと震え出す。今にも『お粥のブラッドソースかけ』という料理とは名ばかりのスプラッター演出小道具が製作されそうになっていた。
(ヤバい。このままではヤバい)
スープが毒かどうかに関係なく、この場に二体の新鮮な死体が転がることになりかねない。魔理沙は脳細胞をフル回転して必死に打開策を練り上げる。
そうして取るべきと判断したのは話を逸らす一手だった。
「そ、そういや咲夜さ、さっき言ってたのは何だったんだ」
「え?」
「『私が最初聞いていた話とは少し違っていた』、だったか? あれはスープが湧く皿についてだろ。誰からどんなふうに聞いてたんだよ」
さあ、どう来る?
内心ドキドキする魔理沙だったが、幸運にも返答があった。
「厨房を担当してたメイド妖精たちからよ。『洗っても洗っても水が出てくるお皿がある』ってね。それを確かめにここに来たの。もう一つの案件の片づけついでにね」
無視&殺意をそのままにされる危惧は去った。ナイフの切っ先も下げられる。この好機を逃さぬよう、魔理沙は会話をつなげていく。
「その『もう一つの』ってのは皿つながりか?」
「いいえ、ネズミよ」
「何?」
「ネズミ。館内をうろちょろしている白黒のネズミよ。まさか厨房にいるは思わなかったわ」
「げっ、藪蛇」
落とし穴を避けようとして地雷を踏んでしまった。自業自得・因果応報という脳内の言葉が、魔理沙に冷や汗をもたらす。
しかし、幸いにもその件に関しては大して問題視されてないようだった。
「あっちこっち手当たり次第に家探しして……お掃除も大変なのよ?」
不法侵入はいつものことだからか、そう述べる咲夜の口調に尖ったものはない。さらにはこんな言葉までが出る。
「ねえ、何か嫌なことでもあった?」
美鈴がクスッと吹いた。自分と同じ台詞を咲夜が言ったからだ。反対に魔理沙はムスッとする。
「何言ってんだよ」
「違った? イライラすると無闇に行動的になるのよね、あなたは」
「もういいよ、もういい。それよりさっきのスープの話だ」
「はいはい、スープね」
ぶっきらぼうに言う魔理沙に、咲夜は肩をすくめた。これ以上は触れない方が良いと判断したのだ。
怒りの持ち手は咲夜から魔理沙へチェンジしたが、話題は当初のものに戻る形となる。
「言葉の通りよ。『水があふれてくる』とメイド妖精たちは言ってたの、そのお皿」
「スープと勘違いしたってか?」
「さすがにないと思うわよ。今、お皿に入っているのは明らかにスープってわかるもの。水と間違えはしない──なら、逆もないでしょ。それとも、あなたたちのときは無色透明のスープだったの?」
「いや、黄昏みたいな色だったな」
「あら、詩的」
「茶化すなよ。ついでに言えば、湯気も立ってたし、匂いもあった」
「私が口にしたのもそうでした。色は今あるスープより濃い目でしたね」
魔理沙と美鈴の言葉に咲夜は頷く。
「妖精メイドたちが目にしたのは、私たちが目にしたものとは違う液体だったのよ。実際には味や毒性があったのかもしれないけど、とにかく水と判断してしまうものだった」
「無色透明って以外にも、匂いがなくて、湯気も立ってなかったんだろうな。『お湯』と言われてないわけだから」
「そうね」
「あと、あれだな、別件で引っかかるのが『何度洗っても水が出てくる』ってとこだな」
「そこ? どうしてかしら」
「だってなぁ……ああ、待て待て」
「はい?」
「妖精メイドたちってのはその場にたくさんいたのか?」
「ええ、まあ」
「なるほどね、じゃあ、つじつまが合うわ」
飛び石のような言葉の末、魔理沙は合点がいった顔を縦に振っている。
もちろん咲夜としてはわけがわからない。
「勝手に納得されても困るのだけど? ミス自己完結さん」
「湧いたり湧かなかったりってのに法則があるかと仮定してたんだが、それが覆されるかと思いきや、やっぱ法則性があったんだぜ」
「うん、さっぱり意味不明だわ」
説明下手というより、理解させる意識に欠けているのだった。
そこにお粥を食べながら聞いていた美鈴が、手を止めて補足した。
「多分、魔理沙さんが言いたいのは、私たちが空になったままの皿を目にしているのに対して、妖精メイドはすぐ湧いてくるみたいな表現を使ってるのは何でかってことなんだろうと思います」
「そう、そういうことだぜ。まったく要領を得ないやっちゃな」
「あなたの方がね。それで?」
咲夜に先を促されたのは、当然魔理沙ではない。頷いた美鈴は法則性について述べた。
「人に反応するのだと思います。人一人につき一杯湧く。魔理沙さんが来て、スープが湧いて、咲夜さんが来て、スープが湧いた」
「理屈は通るわ。妖精メイドのときは、複数人いたから立て続けに湧いたということね」
「んー? するってと何だ? ええと……」
「今度は何?」
「いや、ほれ、妖精メイドたちにゃ水で、私らはスープで……」
魔理沙は口元に指をやり、思考を巡らす。話が進めば進むほど、新たな疑問・仮説・憶測が生じてきて切りがない。持ち前の探求心はちっとも減じなかったが。
「この珍妙な皿から出てくるんは、ランダムじゃなくて法則があるんじゃねぇかな」
「そっちも法則?」
「そうだろ。始めこそ『シェフの気まぐれサラダ』ならぬ『お皿の気まぐれスープ』っつー適当なものが湧き出してて、美鈴がロシアンルーレットのハズレ引いたのかと思ったけどさ、だとすると、妖精メイドに連続して水が出るのはありえんほどの低確率だろ。奇跡だ」
「偶然でなく必然とした方が収まりがいいわね」
「じゃあ、妖精メイドに水が出て、私らは違うものが出て、だ。その違いはどこから生じたもんかね」
謎かけの答えを咲夜はすぐに見つけたようだった。
「人を選んでる。いえ、種族を選んでる?」
「そう、多分な。妖精なら水、人間ならスープ、妖怪なら毒だ」
「じゃあ、今入っているのは普通のスープということね、あなたの仮説通りなら」
「そしてお前が本当に人間ならな。試してみるか」
魔理沙と咲夜は皿を前にする。咲夜が人差し指を琥珀色の水面に近づけるのに、魔理沙も倣う。温かさが指先に触れた。
(さて、これは毒か否か)
わずかに躊躇した後、ついた滴を舌先で舐めた。
ペロッ。
「これは、スープ!」
「……ん、」
魔理沙が思わず声を上げたのは、自分の仮説が合っていたからではない。それだけ美味だったからだ。咲夜も目を見開いている。
「すごいわね、美味しいわ、これ」
「ああ、私のときのやつとはだいぶ味が違うが、すげぇ美味いのは同じだ」
塩加減やダシは魔理沙が飲んだものとは似ても似つかない。改めて気づくが匂いも別物だった。しかし、美味いのである。上品な味わいだった。魔理沙は何度も指先を皿と口との間で往復させる。
咲夜はというと、しばし思考にふけっているようだったが、やがて流しに近づくとペッと吐き出した。そして、魔理沙から皿を取り上げ、中身を捨てる。
「おい、何すんだ」
魔理沙の抗議に、言う。
「まだ得体の知れないものであることに変わりないわ。うかつに食せるものじゃない。後から効いてくる毒の可能性もあるでしょ」
「美鈴のときは飲んですぐ調子が悪くなったんだ。今入ってたのはスープってことで、仮説が証明されたんじゃないのかよ」
「仮説はあくまで仮説。しかも限られた情報の中でのね」
「そりゃ、まあ、」
その通りだと魔理沙も認めざるをえない。さっきのスープも魔理沙のスープも遅効性の毒かもしれないという懸念は払拭しきれないのだ。
しかし、それならペロペロ舐めてるときに注意してくれても……とは思ったが。
「私とあなたの場合とでスープが違うって言ってたでしょ。そこが謎よ。もし法則があるなら、その違いは何によるものなのかしら」
「美味いスープがランダムに出てくるって考えんのは、そこだけランダム?ってのもあるしな」
「ええ」
「美鈴を含めて、私ら三人とも違うのが出てきたことを考慮すっと、単に種族の違いで出てくるものが決められてるとも言えないのか」
「『人によって』とするなら……」
「因果応報、日頃の行いかな?」
「だったらあなたは飲んだ瞬間に死んでるでしょ」
「白黒魔法使いだけど、経歴は真っ白だぜ」
「白々しいのには同意するけどね。お腹の中は真っ黒、それにブラックリストに載ってる」
「薄情なこと言うね」
「正直なところを白状したのよ」
「まあ、ってかさ、あの皿の出所はどこなんだ? お前も知らないんだろ」
咲夜にも見覚えのない皿であることは、彼女が厨房に来たときに確認できている。
「全然。どこから入り込んだのかしら」
「館の業務は粗方お前がやってんのに、わけのわからん物が転がってるってありえるのか」
「前はともかく、今はいろいろ任せているわ。そのための人員よ」
「ホフゴブリンはともかく、物覚えの悪い妖精にも任せていいもんかね」
「任せられるように根気よくしつけたのよ。私だって未来永劫メイド長やってるわけにはいかないもの。仕事のできる人材を育てていかないとね」
「けど、そのせいで変な皿が入り込んで、門番が毒殺されちゃーな」
お粥を食べていた美鈴が「生きてますよ!」と声を上げる。シカトして魔理沙は続けた。
「話からすると、たくさんある皿のうち幾らかは、お前以外の誰かが仕入れたわけか。その中に紛れ込んでいたと」
「食器の購入について誰がどこから何を買ったのか、ちょっと調べてみるわ。他の仕事が立て込んでるからそのついでになるけど、わかったら報告するから」
「ああ」
「じゃあ、お皿の性質、何が湧いてきたのかを調べるのは任せたわよ」
「ああ。……はい?」
思わず聞き返す魔理沙だったが、聞き違いではなかったようだ。
「何って、調べるのよ、あなたは美鈴と。液体の成分と法則をね」
「いやいやいや」
魔理沙は拒否の手を振った。冗談じゃない。そんな面倒ごとに駆り出されてたまるか。
「嫌なの?」
「そりゃそうだろ」
こちとら忙しいのだ。紅魔館でめぼしい物を入手した後は、家なり原っぱなりで昼寝とか午睡とかまどろみinアフタヌーンを楽しみたい。すなわち、手を空ける余裕はない。
「ふぅん、困ったわねぇ、仕事が増えるのは」
「それもお前の仕事のうちだろ」
「残念だわ。さっきも言ったけど、立て込んでるのよ、仕事。でも、しょうがないわね、さっさと片づけちゃおうかしら。あちこち部屋を荒らしたネズミの駆除を」
再びナイフが咲夜の手にあった。抜き身の刃から光が反射され、魔理沙の目を射る。
「わかったぜ調べるのは任せろ任せてくれ」
焦ってほとばしる魔理沙の台詞に、にっこりと咲夜は微笑んだ。
「良かったわ。汚れたナイフの手入れもしなきゃならないのは手間だもの」
汚れるのが何によってのものか、魔理沙に聞けるはずもなかった。
咲夜は美鈴の方を向く。
「そういうことだから、あなたも早く食べちゃいなさい。門番の仕事は替わってもらったままでいいから、以後は魔理沙と調べ物をすることに専念。いいわね?」
「はっ、はい!」
美鈴は急いでカッカッカッとスプーンを器にぶつけながら、お粥を口にかき込んだ。
「じゃ、よろしくね」
魔理沙に向き直ってそう言うと、咲夜は姿をふっと消した。時間を止めて厨房から出ていったのだ。
厄介事を押しつけられた魔理沙は、やれやれと肩を落とす。このまま紅魔館から退出するという手も考えたが、次会ったときに無数のナイフによって「ネズミ」が「ハリネズミ」にされかねない。やるしかなさそうだ。
「ふぅ、ごちそうさまでした」
お粥の器から顔を上げた美鈴は、「あれ?」と疑問符を表情に浮かべた。顔は出入り口を向いている。
「どうしたよ?」
「あ、大したことじゃないんです。ただ、足音が」
「足音?」
魔理沙は耳を澄ますが、何も聞こえない。
「空耳じゃねぇの?」
「人間の耳だとちょっととらえられないと思います。……この音、やっぱり咲夜さんの足音ですね」
「何でそこまでわかるんだよ。咲夜マニアか、お前」
「変な言い方しないでください! 音の質から歩幅とか体重とか推測できるんですよ、それだけです」
それだけというには大したもんだと、魔理沙は素直に感心した。それも中国拳法の技能の一つなんだろうか。暗闇の中で相手を把握するのに役立ちそうだ。
「けど、それの何が変だってんだ。咲夜が歩くと、クララが立つくらいに大事(おおごと)なのか?」
「だから、大したことじゃないんですって」
美鈴が言うには、咲夜が時を止めてその場を離れるときは、それなりの距離を取るのだという。しかし、さっきは近い距離で時止めは解除されていた。さらに、急かされるように早足だったことも不思議さを感じさせた。
「急ぎの用事でもあったんでしょうか」
「さっきそんな様子あったか?」
「ないですけど……どんなときでも落ち着いた雰囲気を崩さない人ですから」
「だからこその『瀟洒なメイド』ってわけね」
「はい」
「ってことは、大方、突然の尿意で便所に直行したんだろうぜ」
「瀟洒との関連性は?!」
「いやほら、瀟洒なだけに、『小・シャー』なんてな、ハハハッ!」
「…………」
「憐れむような顔すんなよ!」
それからしばらくして後、魔理沙と美鈴は廊下を歩いていた。規則的に配置された窓からは、光差す庭が見える。花々が午後の陽光を浴びて咲いていた。のどかな光景だったが、魔理沙の方はあまり晴れているとは言えない顔だ。
「ちぇー、ほとんど進展なしかー」
皿を片手で弄びながら魔理沙は愚痴を漏らした。
「まあ、それでも湧く物に法則性があるって裏付けが取れたじゃないですか。出てるのが水じゃないってこともわかりましたし」
「それだけだろ。妖精メイドやホフゴブリンに反応して湧くのが『塩水』だったって、他に何の収穫もねぇや」
二人は紅魔館で働いている者たちを捕まえては、皿の反応を見るということを繰り返していたのだ。しかし、皿から出てくる物は透明な液体ばかり。湧いては捨て、湧いては捨てているうち、飽きの中で試しに舐めてみたらしょっぱかったのである。
なお、その後は毎回味見したのだが、塩水の濃度も味わいも違いはなかった。いずれもただ一律にしょっぱいだけの水だった。
「法則性があるのはわかったが、私ら三人の違いが何から来るのかはわからねぇままだ。妖精やゴブリン以外のヤツで試した方がいいだろうな」
「別の人で、ですか。……となると、」
「あーもー、メンドくせー! 何だってこんなことしなきゃならねーのよ! 咲夜め、いつか恐喝罪で閻魔にとっちめられりゃいいんだ!」
「そうなる前に魔理沙さんが不法侵入と窃盗で裁かれるんじゃ? それにですね、恐喝と言いますけど、あれは咲夜さんなりの気遣いなんですよ」
「は?」
ナイフを突きつける気遣いって、気違いか?という顔をする魔理沙。美鈴は言う。
「飲んだものが遅効性の毒かもしれないという疑いはまだ晴れてないんでしょう? 紅魔館に由来する品物の可能性が高いお皿ですから、まずは紅魔館の中でその手がかりを探すのがいい。咲夜さんは自由に館内を探索できるお墨付きをくれたんです」
「や、それは、」
反論しようとして、だが、魔理沙は言葉に詰まってしまう。ただの厄介者として見ているならば、その場から追い立てるだけだったろう。美鈴のみならず魔理沙の体調をも心配してくれたのだと認めるしかなかった。
「まあ……そうかもだけどよ、そんなのナイフ無しでもできるこったろ」
「ふふっ、そこですよ」
「どこだよ」
「そこです。魔理沙さんは全然恩義とか感じてないでしょう? 咲夜さんの気遣いに」
「っ」
またしても言葉に詰まる魔理沙。
脅しという形を取れば反発を持たれる。それをわかった上での振る舞いだったかよ。貸し借り抜きにやってちょうだいって? とんだツンデレだ。
「さあ、頑張っていきましょう。咲夜さんがお皿の謎をお任せしたのは、魔理沙さんなら解明できるって思ってるからです。それはきっと合ってます」
「信頼、されてんだな」
「はい、ああ見えて咲夜さんは魔理沙さんのことを評価してるんですよ」
「いやいや」
「本当ですよ?」
(そういう意味で言ったんじゃなくてな、)
魔理沙は頭の中で述べる。
(お前と咲夜、互いが互いのことをよく理解している。思いやってる。そういうこった)
さすがに口には出さなかった。思うだけでも自分のキャラクターに似合わなすぎる。
「ふン」と、逸らすように顔を窓の外に向けた。
春の光の下、くっきりとした色で咲く花が並んでいる。見覚えのある花だった。
魔理沙の記憶力が弱ければ、あるいは連想力に乏しければ違ったかも知れないが、どちらもあったがゆえに魔理沙の口元は苦い物を噛んだように歪む。
思えばあれがケチのつき始めだった。一昨日は薬の調合の失敗で部屋を爆破させるわ、昨日はブン屋と正面衝突して川に墜落して風邪をひくわ、酷いことばっかりだ。くそっ、香霖め。
嫌な物から視線を外そうとしたところ、美鈴が外を見て言った。
「あ、カーネーションですね。綺麗でしょう。母の日にはちゃんと贈りました?」
台詞は魔理沙の地雷を踏んだ。ダイレクトにピンポイントで。
「そういえば、もうすぐ父の日になりますね。バラも綺麗に咲いているんですよ。良かったら持っていきますか」
さらに連続で踏んだ。もはや芸術的とさえ言える。地雷踏み競技がオリンピックに採用されれば金メダリスト確定だ。
魔理沙の顔全体に渋みが広がっていた。
「ど、どうしたんですか」
「何でもねえよ、何でも」
どう見ても何でもないような顔ではなかった。美鈴は目を白黒させていたが、ある考えに至ったのだろう、恐る恐る声を掛けた。
「あの……もしかして、親御さんと仲が悪いんですか?」
ゴスッ!
壁が蹴られた音だ。魔理沙は足を引いて、吐き出すように言った。
「ああ、悪ィよ! お袋はおっ死んじまって、残ったクソ親父たぁ同じ空気を吸うのも嫌って関係さ!」
「そっ、そうだったんですか。お父さんとは犬猿の仲なんですね」
「犬猿っつーかケルベロス対キングコングだ。一触即発、壊滅的! 大惨事! 顔でも合わせた日にゃ霊夢が飛び出してくるだろうさ」
「異変レベル?!」
魔理沙の父親は、自分の娘が魔法に旺盛な好奇心を発揮するのを良く思っておらず、毎日のように厳しくとがめた。魔理沙も父親似の頑固さ・反骨の気概を発揮し、両者は激しくぶつかり合う。
緩衝役の母親が病没してからは、さらに火花を散らし、その火花が火薬庫に引火するほどになった。さすがに異変ほどの騒ぎにはならなかったにせよ、近所の住人が押しかけたのは一度や二度ではない。
そうして、魔理沙は家を飛び出したのだった。魔法の森に住むようになってから、一度も実家へは帰ってない。父親と顔を合わせることも当然なかった。
「ったく、何で私とあいつが同じ時空に存在してんだ! 理不尽極まりねぇぜ! ああ、くそっ、頭に浮かんでくるだけでムカついてくる! 畜生め!」
「…………」
敵意を剥き出して悪態をつき続ける魔理沙に、美鈴はどこか遠い目をするようになっていった。しばしの沈黙。そして、言葉を紡ぐ。
「でも──お父さんがそうなら、魔理沙さんは幸せですよ」
「ああっ? 突然何言い出すんだよ!」
食ってかかる魔理沙に、美鈴は動じない。淡々としゃべる。
「お父さんが生きているというのは幸せなことです」
「だから生きてるだけで嫌だっつってんだろ! 話聞いてたか?! 聞いてんならどうしてそうなる!」
「咲夜さんも、私も、父親を殺されてるんです」
「なっ……」
突然の告白に絶句する魔理沙。
「咲夜さんの過去については、ある程度ご存じなんですよね。以前、外の世界について魔理沙さんが尋ねているのを見ました」
「あ、ああ、一家で虐げられてたらしいな。咲夜が人ならざる力を持つ魔女って見なされるようになってから」
早苗に聞いたこともある外の世界の話だったが、咲夜からのそれは華やかな面白いものという期待を裏切り、ひたすら陰鬱に彩られていた。
人の持つ悪意、侮蔑心、差別感情、排他的行動がどれほど残酷に濁れるか、短い話の中でも十分思い知った。途中で話をうち切ってしまうほどに。
「その先で起こったことはさらに悲惨なものでした」
美鈴が続ける内容は、魔女狩りの結末そのものだった。
ある夜、暴徒が咲夜たち家族の仮住まいに雪崩込んできた。母親は声を出す間もなく農具で刺し殺され、父親はものすごい形相で抵抗していたものの、振り回される無数の凶器と狂気の中でみるみる血まみれになっていった。
咲夜は身を震わせてその光景を見ているしかなかった。父親の振るった腕に飛ばされるまでは。
裏口の扉に背中を打ちつけてうめいた咲夜に、父親は怒鳴る。『早く出てけ!』
弾かれるように真っ暗な外へ飛び出す少女。
「──そして咲夜さんはその場から全力で逃げます。意識を失うまで闇雲に駆けて……父親とはそれきりだそうです。悲しそうに言っていました。自分は両親から恨まれているだろう、自分のせいで殺されたようなものだから、と」
陽光の角度のため、窓から直接は光が差さない。庭の風景は絵画のように現実味がなく感じられた。
言葉を出せないでいる魔理沙に、美鈴は先ほど言った台詞をもう一度言った。
「お父さんが生きているというのは幸せなことです」
もう魔理沙は同じように反論できなかった。美鈴の言葉を黙って聞くしかない。
「死んでしまったら、何もしてあげられません。どんなことも、生きているからできるんですよ。ケンカするのでもいいじゃないですか。どんな想いも、ぶつけられるのは生きている間だけです。それをしなかったら──悔いしか残りません」
一言一言が重い。
魔理沙は、何かを言おうとして口を開き、しかし閉じて、そうしてから「お前の……も、か?」と切れ切れの台詞を漏らす。
美鈴は頷いた。
「私の父は名のある武術家でした。死んだのは、何者かに寝込みを襲われたんです。何も盗まれた形跡がなかったので、恐らく名声か怨恨による復讐を目的として行われたのでしょう。相手を卑怯だとは言いません。行住坐臥、常に臨戦態勢でなければならないのが武道ですから。父も相手を恨むより先に自身の未熟さを恥じているでしょう」
美鈴の口調は淡々としていたが、顔は徐々にうつむいていく。辛さを押し込めているように魔理沙の目には映った。
「でも、本当に強い人でした。自己に厳しく、そして私にも。両足で立つようになった年齢から、私は血反吐を吐く鍛錬を課されました。これは比喩ではありませんよ。毒の耐性を身につけるときは、毎日鼻や口どころか目や耳からも流血して死にかけましたし。母はそんな生活を必死で支えてくれたのですが、心労もあって早くに亡くなってしまいました。亡くなったその日も、修行が中断されることはなかった……」
平坦だった声に色が混じりつつあった。その感情の色が何であるのか、はっきりとはわからない。寒色であるということ以外は。
「全てを捨てて強さを求めていた父、いつかは超えたいと思っていた存在、それが、それが……っ」
ついに背を向ける美鈴。両手で目を覆う、その背中が震えている。
魔理沙の目頭も熱くなっていた。感情をこらえる美鈴の後姿がぼやけている。窓を見て、そして、目を擦った。歪む視界にはあらぬものが映ってしまう。まったく、柄にもなくセンチメンタルになったりするからだ。
「わかったよ、わかった。親父のことは考えさせてくれ」
そう言って、魔理沙はスタスタとその場を離れるように歩いていった。美鈴からの視線を感じたが、振り向かない。敢えて涙に濡れた顔を見る必要はないだろう。
皿を扇のように振って、背中越しに声を掛ける。
「先に行ってるぞ、図書館」
幾つかの選択肢のうちから思いつきで決めたものだ。とはいえ、そこが一番妥当なところだろう。
──美鈴の言葉に感じ入るものはあった。けれど、父親に実際会いに行くかというと、それはまた別問題だ。
ケンカできるのも今のうちと言うが、過去に星の数ほど繰り返したことを今一度やったところで、お互いにとってマイナスだ。親不孝というなら、悪感情の対象を目の前に出現させることこそそうだろう。
考えさせてくれ、という言葉が譲歩の限界だった。
午後の陽光の影に満ち満ちた廊下を、魔理沙はうつむき加減で足を進めていく。
薄暗い空間に、壁のごとく巨大な本棚があった。古く厳めしい装丁の書籍が隙間無く詰め込まれている。そびえる本棚は無数にあり、並木のように設置されて、果ての見えない闇の向こうにまで続いている。
光の差さない知性の森の下、浮かぶ光の領域──大きなテーブルが燭台に照らされていた。
ページをめくる音。
図書館の主であるパチュリー=ノーレッジが、いつものように読書をしているのだった。
新しいページに目を落としているパチュリーは、つと口元に手を当てるとコホコホと咳き込んだ。
今日は喘息の調子があまり良くない。本を読み進めるのに支障がある。切りの良いところでしおりを挟み、ベッドに横になろうか。
そう考えながらも、字面を追いつつティーカップに手を伸ばす。
摘み立てのハーブを用いたハーブティーは、リラックスと喉の通りを良くする効果がある。香りや味わいも好みのものである。
滑らかな陶器に唇をつけ、温かな液体を口内に含む。期待する静かな安寧と幸福。
そう、このハーブティー特有のまろやかな香り、適度な塩加減、チキンと魚介の合わせダシ……
「ぶふぅううっ?!」
パチュリーは口を霧吹きと化させ、図書館にスープをまき散らしていた。
「何、これっ! げほ、ごほッ! 何これ!?」
動転しながらカップの中身を見る。液体の色が明らかにハーブティーのものとは違っていた。
「うーむ、これだけ苦しむとなると、パチュリーの場合は毒だったか」
本棚の陰から、したり顔で頷く魔理沙が現れた。
「そ、そういうのではなかったと思うんですが?」
その後に美鈴がついてくる。
「あなたたちなのっ?! この悪ふざけは!」
「悪ふざけってのは酷い言いぐさだな。こっそりお茶を飲み干して、代わりに皿の中身と交換しておいただけだ」
読書に集中してたからやりやすかったぜと、魔理沙はまだ液体の残っている皿を見せた。
「皿の中身? それって何なのよ」
「得体の知れない何か」
「悪ふざけどころじゃないじゃない!!」
立ち上がって激昂するパチュリーに、「す、すみません」と美鈴の方が謝る。
「一応止めはしたんですが……あの、どうしてもやりたいって、魔理沙さんが」
「日がな薄暗いとこで引きこもってる病弱っ子には、グッドな刺激になったろ?」
「ええ、神経を逆撫でされたわ」
「そうかそうか、感情豊かな生活をもたらすことができたか。礼は要らんぞ」
「いいえ、是非ともお礼参りさせていただくわ。卒業式後のヤンキー的な意味で」
殺伐とした会話のデッドボールをする二人に、ますます美鈴は恐縮するのだった。
「そういう事情だったら言ってくれれば協力したのに」
「いやぁ、そんなんじゃサプライズに欠けるだろ」
「美鈴に言ったのよ!」
「ま、まあ、その、落ち着いてください、パチュリー様」
燭台に照らされる皿を囲む形で、三人は席についていた。事のあらましを聞いてから後も、パチュリーの魔理沙に対する敵意は減じることはない。常日頃から本を失敬され、さらに今日面白半分に実験台とされては当然だろうが。
「まったく、もし本当に毒だったらどうするつもりだったのよ」
「おお、そん時は全ての蔵書が親愛なる友人に譲渡されるわけだな。嬉しいね」
「その時は敵討ちに備えておくのを勧めるわ、あらぬ夢を見る前に」
「実際のところは、ちゃんとこっちで味見してから中身を入れ替えたからな。安全確認に抜かりはないぜ」
「嫌がらせは否定されてないじゃない」
ハァ、とパチュリーはため息をついた。それから件の皿に目を遣る。
「それにしても面白い魔法具ね、これは」
「やっぱ魔法具なのか、これは」
「それはそうでしょ。科学の力でできた代物じゃないわよ」
「外の世界の技術じゃ、お湯をかけるとラーメンができたりワカメが増えたりするらしいが」
「まるで関係ないことに命を賭けてもいいわ、魔理沙の」
「となると、どういう系統の魔法で作られたもんなんだろうな」
魔法・魔術といったものは時代や場所などによって分類が為される。世界原理に作用する力を発揮するのには、様々なアプローチの仕方があり、皿の属している魔法の系統が分かれば、そこから湧く物について大きな手がかりとなる。
「うーむ、魔法の皿……湧くスープ……出てくる食い物……」
ブツブツ言う魔理沙に、美鈴が「古代中国の伝説では、」と口を挟んだ。
「いくら食べても減らないお肉が登場します。『視肉』という名前なんですが」
「北欧神話にも似たようなものがあるわね。ヴァルハラに棲息する、肉を食べられても死なずに元通りになる猪『ゼーリムニル』」
パチュリーも事例を挙げたので、魔理沙も乗ろうとする。
「日本の昔話にゃ……あー……ちょっと思い当たらんな。いや、肉じゃなけりゃ日本神話にあったか。食い物の女神さんが口や尻から食い物出すんだ」
「あなたは何でこういう場でさえシモネタかますのよ!」
「しょうがねえだろ! マジな話なんだから! 古事記にもそう書かれている!」
さらに言えば、女神は死んでから陰部からも食物を出しているのだが、それを述べていたらパチュリーはどう反応したろうか。
「ま、まあまあ、お二人とも。でも、自分で言っておいてなんですが、それらの話とこのお皿とにつながりをつけるのは難しいですね」
「お肉とスープじゃあね」
「けどよ、女神さんの出したのがスープと考えれば、」
「それ以上は口を開かないで、絶対。……あ、そう言えば、『スープの石』という話を思い出したわ」
「へえ、どんなのだ?」
「ポルトガルの民話よ。ちょっと長くなるけど、聞きたい?」
「もったいぶるなよ。こちとら兄弟はいねぇが、好きなものはさっさと食うタイプなんだ」
「入れて煮るとスープが取れる不思議な石の話よ」
「それ、石が豚骨とか鰹節ってオチじゃねえよな?」
「正真正銘、鉱物よ」
「ほほぉ」
魔理沙は身を乗り出す。面白そうだ。
スープ限定の賢者の石か? となると、その系統の材質でできてるのだろうか、この皿は。
「ある旅人が民家の戸を叩いたの。鍋と水だけ提供してくれれば、これでスープが作れます、って」
「ふむふむ」
「関心を持った家の主人はかまどの前に立たせたわ。石を煮始めた旅人は言った。『この石はだいぶ古くなっているので強い味が出せません』」
「触媒というより電池なんだな。魔力が込めてあって、少しずつ放出していくのかね?」
「そして、旅人は塩を求めた。そうすればいい塩梅になるからと。主人は二つ返事で塩を渡したわ。それから……」
「うん」
「スープを煮ながら、旅人はさっきと同じようなやり取りを主人と繰り返したの。『こうするともっと美味しいスープになるのですが』とね。肉や野菜が次々鍋に入っていった。結果、ついに具だくさんの立派なスープができあがって、旅人はまんまと食事にありつけましたとさ。おしまい」
「なーるほど、タダ『飯』なだけに『まんま』と、ってか。はっはっは」
笑いながら魔理沙はスープの入った皿を持ち上げる。そして、眼前の魔女の顔目がけて振りかぶった。
「ストップ! ストップ!」
慌てて美鈴が腕と皿をつかむ。
「離せ、美鈴! こんにゃろう、魔法とか関係無しに単なる詐欺師じゃねーか! 真面目に聞いちまった時間返せっ!」
立腹の魔理沙に対し、してやったりと笑みを浮かべるパチュリー。表情が「良い意趣返しができた」と如実に語っている。
「いいサプライズだったでしょ。だまされた主人の気持ちを追体験できたかしら? そう、不思議な石と銘打ちながら、単なる石だったわけよ。このお皿も何のことはなかったりしてね」
皿を指さすパチュリーの言葉に、美鈴が首を振る。
「いや、さすがにそれは……私たちは何度もお皿から湧いてくるのを目の当たりにしてますから」
「魔法具であることを否定はしないわ。その他のことについてよ。何でもないオチがつくかもしれないってこと」
「はぁ」
よく飲み込めない風の美鈴は魔理沙を解放する。ふて腐れながら、魔理沙は皿を置いた。
「話を戻しましょうか。スープを出すお皿がどんな系統の魔法具なのか。推測のための伝説・伝承を俎上に上げるなら、もっと近しい物があるでしょう」
言われて魔理沙は思考を巡らす。
「んー、じゃあ、そうだな、食い物を出す器ってぇと……石臼とも違うし……」
あれは米やら塩やらじゃんじゃん出したが、器というには遠すぎる。食物を湧かす器、食器。近縁の事例が、それも身近にあるような気がしているのだが、形となって出てこない。ただの気のせいかもしれない。
パチュリーが指を立てて言った。
「仙人の住む地『蓬莱』を記述したものの中には、満腹になるまで御飯の減らない茶碗や、酔いの回るまでお酒の減らない杯が出てくるものもあるわよ」
それに美鈴が同調する。
「あ、確かにあります。思い出しました。それも古代中国の伝説ですね」
「ふーん、そんなのがあるのか」
「日本にも伝わってる話ですよ」
「竹取物語にも名前が出てくるもんな、蓬莱山。どんなとこか詳しくは知らんかったが、へぇ、そういうとこかい」
魔理沙はスープの入った皿を改めて見る。青い紋様の入った白い陶磁器。マイセンっぽくもあるが、普通に考えれば、
「東アジアの、特に中国系統の魔法具ってことになるな、この皿は」
「見た目からしても、伝承からしてもね。仮説の域を出ないとはいえ、結論としては妥当なとこかしら」
「作・東洋の魔女、か」
「その呼び名、回転しながら球を受けそう」
「手元で変化する弾幕を撃ったりしてな」
魔理沙の脳内では、六人の魔女たちが宙に泥玉を打ち上げ打ち合いながら、徐々に魔法皿を錬成していく光景が浮かんでいた。まあ、そんなわけねえだろと自分でツッコミを入れる。
「それにしてもパチュリー様は中国の伝説にもお詳しいんですね。尊敬しちゃいます」
「お褒めいただき光栄ね。といっても、私は英文学で知ったのだけど」
「へえ、英文学で中華な説話? どんな本さ、一生貸してくれよ」
「丁重にお断りするわ。書名は『Kwaidan』、ラフカディオ=ハーン著」
「あーね、『怪談』か、小泉八雲の。……ん?」
何かを思いついたように首を傾げる魔理沙に、「どうしたのよ」とパチュリーが尋ねる。
魔理沙は手の平をかざして、制止のジェスチャー。先ほど引っかかっていたものを引っ張り出していく。連想力が身近な「食べ物を出す器」に結びついたのだ。
「もしかして灯台もと暗しだったかもしれねぇな」
「え?」
「小泉八雲で思い出した。八雲紫さ」
「何よ、突然」
「マヨヒガ」
「ああ」
出された単語に、合点のいった顔で頷くパチュリー。一方、まだ理解できない風の美鈴。
「どういうことですか?」
「『遠野物語』などにおけるマヨヒガの伝承には、不思議なお椀が出てくるのよ。それで穀物を量ると、穀物が全然減らないの」
「な? 食い物を出す食器ってのに当てはまるだろ」
「そんなのがあるんですか」
「あるんだな、これが。そんでもって幻想郷ン中のマヨヒガは八雲一家所有の物件だ。でさ、この皿よ、紫のとこが出所ってこたないかね」
突飛な話ではなかった。むしろ自然とさえ言える。スープを湧かせる東洋風の皿を、あのうさん臭い存在が有していても不自然さはない。マヨヒガの什器の一つかもしれなかった。
しかし、パチュリーは首を横に振る。
「それはどうかしら」
「何でよ。スキマからうっかり落としたって考えれば説明つくだろ」
「だとすると、取り戻すのも簡単にできるわよね」
「あ……」
それはその通りだった。落とした物をそのまま放っておくはずもないのだ。紅魔館の多くの食器に紛れてしまったとしても、ここの住人に尋ねるなどするだろうし、調査の中でそうした動きは見て取れなかった。
魔理沙はそれでも食い下がってみる。
「紫が何かで開いたスキマに、たまたま皿が入り込んで、それに気づかないでスキマを閉じたとかあるんじゃないか」
「自分で言っててどう思う?」
パチュリーに言われて、魔理沙は口をへの字にしていたが、やがて両手を頭の後に組んで背もたれへ寄りかかった。偶然が何段重ねかにならないと成立しないのだった。
パチュリーは微笑む。
「いい線は行っていたと思うけどね。可能性としてまったくないとも言い切れないし。でもまあ今のところ、お皿の出所については咲夜の報告を待つのが先決ね」
「咲夜さんは仕事から手が離せないかもしれませんが」
「仕事のついででもきっちりやってくれるでしょ、咲夜なら」
「そうですね」
むすっとしたままの魔理沙が口を挟む。
「おらが館のメイド長自慢はいいからさ、皿の話しようぜ、皿の。あと、美鈴が死ぬかどうか」
「ぶ、物騒なことを言わないでください!」
「だってお前が飲んだのが何かわかんねーままじゃん。後からぽっくり逝くタイプの毒かもだろ?」
「ええぇ~」
情けない顔をする美鈴に、「大丈夫よ」とパチュリーが言葉を掛けた。
「人間に対してならともかく、あなたに効く毒でそういう類の物はないと思うわ。魔理沙もいたずらに不安をあおらないの」
「へいへい」
ぞんざいに返事をしていい加減さを演出するが、言ったことがまったくの杞憂だとも言い切れなかった。一抹の不安……魔法具である以上、既存の毒物とは違う性質を持つものを皿が湧出させていたとも考えられる。
パチュリーもその可能性を想定はしているはずだ。だからこそ、敢えて美鈴の前で全否定したのかもしれない。
(つっても、やっぱ99パー杞憂なんだろうけどさ)
妖精やゴブリンに反応して出てきたのは塩水で、自分や咲夜、パチュリーの場合にはスープ。あれは見た目もそうだが、匂いといい、味といい、完全にスープだった。毒だとは思えない。全て飲み干してしまった自分の体調は悪くなるどころか、今朝まで風邪気味だったのが今は治ってさえいた。
美鈴の場合だけが他にない事例であり、人間の身で飲んでいれば危険だったかもしれない液体なのであったが、美鈴本人は現在ピンピンしている。
(普通に考えりゃ問題はないだろうよ)
魔理沙はそう結論づける。あまりこれに関して思考をこねくり回しても益はないだろう。
それに、何度も大丈夫大丈夫言ってると、かえって何かのフラグになりそうだ。
「んで、飲んだのは結局何だったんだ」
話を戻す。
「咲夜に調査させられてんのはそれなんだ。それがわからなきゃしょうがねえ。カビ臭い昔話を陳列して模範解答は見つかったのかよ」
「その手がかりを見つけるために、いろいろ挙げたんでしょうが。目的を見失ってるのはあなたの方よ」
パチュリーは苦笑して言った。
「まあ確かに、直接答えに結びつくものは得られなかったけどね。人によって湧いてくるものが違う器……中国系に限らず、どの伝承にも見当たらないもの。ふふっ、究明は困難なものとなっているわね。文字通りの『in the soup』か」
「イン・ザ・スープ?」
「『困って』って意味よ」
「はン、まったくもってふさわしい言葉だな」
スパイスのように皮肉の効いたフレーズだった。真実はスープの中に落ちてしまっている。拾い上げるのは思いのほか面倒なようだ。
「何度も湧くのじゃなくて、一人につき一度きりというのも例がないのよね」
「ああ、いや」魔理沙は手を振って否定する。「言い忘れたが、妖精メイドで二回目に出たヤツがいるんだ。一定の時間が経つと、また反応するようだぜ」
「四時間くらいですかね、空いた時間は」
美鈴もそう補足した。
「二回目もただの塩水だったのね」
「ん、純度100%の塩水だった」
ピュアソルトウォーター、と魔理沙は怪しい英語で言い換えて言い添えた。
「個人個人で出てくる物が決まっているというのは、ほぼ確定みたいね」
「そうさ、これでパチュリーに反応して出てくるのが毒物だったら、仮説は実証されて大団円だったのによ」
「ご期待に添えず汗顔の至りね」
澄まし顔でパチュリーは言うのだった。
魔理沙の言うように、「湧き出す物の違いは種族によるもの」という仮説は、今皿の中に入っているのがスープであることによって否定されている。パチュリーと美鈴の違いに説明がつかないのだ。
美鈴がパチュリーよりも人間に近い種族であることを考えても、
「種族から離れた『別の要素』を考えた方が良さそうね」
そういうことになる。
「別の要素、ねぇ」
「ええ、個々別々の違いにも説明がつくような」
魔理沙と咲夜の場合は、同じ絶品のスープでも違う質の美味しさだった。妖精達には一律で塩水が湧いたのにだ。
パチュリーのスープは普通の味だった。美味いことは美味いが、絶品というわけではない。
「四人ともぞれぞれ別の物が湧いた。ならば、個別の何かに関わっていると考えるのが妥当ね」
「種族なんかの大まかな分類じゃなくて、個人的な事情か」
「個人的な事情というと、んー、何でしょうね」
「わからんなー」
美鈴も魔理沙も考え込んで、それ以上の言葉が出ない。範囲が広く、あまりに漠然としていて、取っかかりがないのだ。パチュリーも思考の糸を手繰って口を閉ざす。
薄闇に包まれた本棚に囲まれ、燭台に照らされた食器を囲んで、三者はしばし沈黙していた。
一番始めに口を開いたのはパチュリーだった。
「妖精やゴブリンたちはみんな同じ塩水で、一方私たちには差異がある。そこから『親の存在』を挙げてみようと思ったのだけどね」
「『親』、ですか」
「妖精は自然発生的なものでしょ。両親はいないのよ、私たちと違って。だから、ただの塩水で差異がない」
「ああ、そう考えると、私たちのスープの違いも『親がどうなのか』で変わってくるって説明がつきますね」
「そういうこと。親は人それぞれだから」
パチュリーと紅美鈴の会話は突破口を開いているようだったが、魔理沙の頭の中には、
(……?)
変な疑問符が浮いていた。何による疑問なのか、その正体もわからない。それで二人の会話に入っていけなかった。重大なことのようにも思えるし、大したことのないようにも思える。漠然としていてつかみ所がない。
「ただね、そこから先が手詰まりなのよ」
魔理沙の脳内など知るよしもなく、パチュリーは続ける。
「親の生死・死因などで味に差が出るのかと思ったけど、どうもね」
「私たちの中では魔理沙さんのお父さんだけが健在なのでしたっけ」
「そうね。私の両親はかなり以前に大往生してるわ」
「あれ、じゃあ上手いこと並べられませんか? 美味しいスープ──魔理沙さんの親が存命。普通のスープ──パチュリー様の親が家族に看取られてて。酷いスープ──私の親が、その、」
美鈴が言葉を濁す。さらに口を動かそうとするのを、パチュリーが手をかざして押しとどめた。
「いいのよ。辛い出来事だったわね」
「いえ、もう過去の話ですから。今では外の世界にある墓も朽ち果てているでしょうし……。そんなことより、これでスープの種類と並列することができたと思うんですが、どうでしょうか」
「一人忘れているわよ。咲夜も美味しいスープだったでしょう」
「あっ」
美鈴は完全に見落としていたといった感じに、口に手を当てた。
魔理沙と同じ位置に来るはずの咲夜のスープ。それが今の説明ではおかしなことになってしまう。
「それに咲夜の場合は、あなたと違って父親だけでなく母親も人の手に掛かってる。一口飲んで体を壊すあなた以上に酷いスープが湧き出るはず。なのに、実際は真逆」
「うーん、そう、ですねぇ。うーん……」
「親に対する感情、トラウマとかね、その線でも考えたけれど、並び方につじつまがどうにも合わなくなるのよ」
魔理沙と父親の関係は、本人がケルベロスとキングコングの関係と喩えるほどだ。悪感情がスープの味に反比例するとなれば、咲夜のトラウマから湧き出た味と同じであって不思議ない。パチュリーのスープとは美味しさが違ってくるという箇所も違和感なく収まる。
だが、今度は美鈴のがはまらないパズルピースとなるのだった。魔理沙と咲夜を並ばせて、美鈴をその横に置けないのは変である。
「親というのは要素として悪くないと思ったのだけどねぇ」
パチュリーが先に述べたように、まさしく手詰まりだった。魔理沙も黙ったままで言葉を足さない。
「それとも……」
パチュリーはふと浮かんだ考えを述べてみる。思考実験の足しになったら程度の思いつきであったが。
「それとも私たちの心象は関係なくて、親に直接帰属するものなのかしら」
「と言いますと?」
「たとえば親の、」
言葉を途切らせて、パチュリーは後方を見る。美鈴も魔理沙も同じ方向を見た。
暗がりに人影があった。こちらに歩いてきている。影は右手を軽く挙げた。
「お取り込み中、失礼するよ」
男の声。その人物の顔が、燭台の明かりの領域に入った。
魔理沙は露骨に嫌な顔をし、舌打ちした。ここ最近の慢性的な苛立ちの発端が登場したからだ。
男の名は森近霖之助。魔法の森付近の古道具屋「香霖堂」の店主である。
「ほら、門番。不法侵入者だぞ、追い出せよ」
霖之助に顔を合わせず、魔理沙は美鈴に言う。霖之助は「おいおい」と苦く笑った。
「代役の門番やメイド長には許可を得ているんだ。言いがかりはやめてほしいね」
「何しにきたんだ? 私らは女子会やってんだよ。ムサい男はさっさとお引き取り願いてーな」
「暗がりで女の子達があれこれする健全な場を乱すつもりはないさ。用が済んだらすぐ帰るよ」
「だから何しにきたんだよ」
ぶすっとした表情の魔理沙。そこにパチュリーが皿を指さした。
「用事って『これ』でしょう? 道具屋さん」
「察しが良くて助かるよ」
笑みで応える霖之助。「どういうこった?」と首を傾げる魔理沙に、「簡単な理屈でね、」とパチュリーが説明する。
「咲夜の許可を得ていて、図書館に一人で来たということは、その用事は私たちにとって明らかなものなのよ。不審人物として見なされないほど明らかなね。そしてそれが済んだらすぐに退出するような小用」
「さらに『道具屋』が何しに来たかって考えりゃ、この皿より他にねぇってことかよ」
「そういうことね」
「ん? ってこたぁ、この皿の出所は……」
魔理沙はここで霖之助に顔を向けた。霖之助は頷く。
「僕の店の品物だよ」
「お前が元凶か!」
魔理沙は椅子をはねのける勢いで立ち上がり、指を突きつけた。これまで散々っぱらかき回されたのは全部こいつのせいだ。このところの不幸続きも含めて、怒りの感情がヤカンの熱湯のように蒸気を上げる。
「あんなふざけたもん仕掛けやがって! どんだけ迷惑だったかわかってんのかよ!」
対する霖之助は柳に風と受け流し、平然としている。
「そう言われても僕が悪いわけじゃないからね。確かにその皿は僕の店の物だが、厨房に置いたのは僕じゃないし、店から持ち出したのも僕じゃない。そもそもそれを売り物として出したつもりはないんだ」
「は? じゃあ何でこれがここにあんだよ」
「別の骨董皿を売ったはずが、そちらを持ってかれてしまったんだよ。メイド妖精の勘違いだね。それでこうして取り返しにきたってわけさ」
理屈は合うし、実際その通りなのだろう。咲夜が紅魔館にふさわしいアンティークを買わせた際、メイド妖精がミスを犯してしまった。しばらく誰もそれに気づかないままだったが、ここにこうしてようやく道具屋の店主自ら乗りこんできたというわけだ。
だが、個人的恨みもある魔理沙は収まらない。
「お前が保護者なのは変わんねーだろ。子どもの不始末の責任を取れよ」
「子どもを誘拐されて、親が責任を取るのかい?」
「保護者責任があるだろ。目を離した責任だ」
「それはあるかもしれないね。この後、我が子に十分な愛情を注ぐことで償おう」
「ちっ、減らず口は相変わらずだな」
「君には負けるよ」
ははっ、と笑いつつ、霖之助は皿に手を伸ばして、中のスープをこぼさないように取り上げる。
確かに目的の皿であることを確認すると、少女達に軽く会釈した。
「それじゃあ、僕はこれで」
きびすを返して立ち去ろうとする。再び暗闇の領域に足を踏み入れかけた。
「ちょっ、待てよ、香霖ッ!」
思わず魔理沙は霖之助をいつもの呼び名で呼んでいた。
「何そのまま帰ろうとしてんだ!」
「有言実行だよ。用事が終わったら帰ると言ったじゃないか」
「説明ぐらいはしてけよ! お前なら知ってんだろ、その皿のこと」
「そりゃあ、それなりには。でもねぇ……」
首だけ振り向いた状態で、肩をすくめる。
「沈黙は金だよ、魔理沙」
「雄弁は銀だろ、香霖」
「なら、やっぱり僕は取引価格の高い金を選ぶよ」
「お前の年ならいぶし銀を目指せよ」
「シルバー世代にはまだ早いしなあ」
「金賞取るほどの功績もねーだろ」
不毛なやり取りをしている二人に、パチュリーがため息をついて言葉を差した。
「大丈夫よ、魔理沙。道具屋さんもおふざけはそのくらいにして、そろそろ話してもらえないかしら。もともと黙ったままのつもりはないんでしょう?」
「えっ」
魔理沙が意外そうな顔をするのに、パチュリーはまたも理屈を並べてやる。
「湧いたものを飲んだということも含めての事情を咲夜から聞いているでしょうし、説明を求められもしたはずよ。そこをはっきりさせない状態でここには立てない」
「話さなかったら、咲夜さんのキツい尋問があるでしょうからね」
美鈴も頷く。
「そして湧き出たものについて毒性などの心配はない。ないからこそ、咲夜はこの場にいない」
「咲夜さんは安全性を確認したんですね」
「問題が生じているのに放っておくなんて、うちのメイド長にはありえないもの。ねえ、そうでしょう?」
再び言葉を向けられた霖之助は、皿を持っていない方の肘を曲げて手の平を見せた。悪戯をとがめられた子供のような表情で。
「完全に見透かされているね。さすがは知識の宝庫を司る魔法使いだ。そう、ここでみんなに説明するようメイド長に言われ、僕は了承している」
「にゃろう! もったいつけてやがったのか!」
「話すのを渋らせたのは魔理沙じゃないか。敵意を向けられたり、騒動の首謀者扱いされたりが、舌の潤滑油になるわけないだろう」
「じゃあヒマシ油たらふく飲ませてやるよ! 『下』の潤滑油にもなるだろ!」
下痢を招く拷問を口する魔理沙を、「やめなさいよ」とパチュリーはたしなめ、「じゃあ、ご講義いただけるかしら」と霖之助を促した。
「まあ、これ以上魔理沙をからかっても他に迷惑だしね、講演開始といこうか」
霖之助は皿をテーブルに置き、三人の少女達を前に手を広げる。
「まず君たちの言うとおり、皿から湧いてくる液体に毒性はない。でも、それだけを結論としたのでは、もはや納得できないところまできているんだろうな。知的好奇心を満足させる意味でも」
「ええ、その通りよ」
「さっさとゲロっちまえ」
「とはいっても、わかっていることは限られているのだけどね、ああいや、その範囲内でなら詳しく語ることができる」
「え? あの、矛盾しているような気が?」
戸惑う美鈴に霖之助は頬をかく。
「あはは、実は偉そうに解説する立場にないんだよ、僕は。この皿は外の世界から流れてきたものなんだけど、その外の世界でも変わった物体らしくてね、一緒に研究資料も流れてきたのさ。ただ、資料はあちこちが削除されたり、破損していたりして、僕はその不完全な中身をなぞるのみの役割しか担えないんだ」
「そういうことでしたか」
「へっ、受け売りかよ」
「魔理沙はいちいち突っかからないの。私は真実ならどんなことでも聞きたいわ」
「うん、そう言ってもらえると話しやすいね。いい潤滑油だ」
当てつけんじゃねーよ、と魔理沙は思うが、今度は口に出すことはなかった。
「研究資料──それらレポートはある組織がまとめたものだけど、その組織が皿をどこぞより回収したのかから話そうか」
「その前に、その組織ってどんな集まりなのかしら」
「何だろうね。レポートは、種種の立場からなる複数人の手による記述だったので、組織の規模は大きなものだと推測できる。この皿を示しているであろう識別コードに番号が振られていたことからすると、類似の不可思議な事物をたくさん集めていた団体なんじゃないかな」
「蒐集癖をこじらせた奴らのろくでもねぇ集団か」
「あら、魔理沙がそれを言うの? まあ、その組織は魔理沙がたくさん集まったものという風に解釈するわ」
「想像するだに恐ろしいね」
「全世界がナイトメアよ」
頷きあうパチュリーと霖之助に、「うっせーよ」と魔理沙。
「話を戻しましょう。お皿はどこで入手されたものなの? やっぱり中国で、なのかしら」
「どうかな」霖之助は腕を組む。「レポートからはどこの国のことなのかすら読みとれなかった。意図的に隠していたのかもしれないね、その理由さえわからないけれど。場所ではっきりしているのは屋根裏部屋ということだけさ」
「屋根裏部屋? そんなところで魔法具を作ってたのか?」
魔理沙の言葉に霖之助は首を振った。
「回収したと言ったろう。誰かが作成したのでなく、『そこにあった』のさ」
霖之助の口から語られるレポートの内容は、次のようなものだった。
出産時に母親が亡くなって、男手一つで育てられてきた子供がいた。しかし、その父親も不慮の事故で亡くなる。それで子供は親戚に引き取られたが、悲惨なことに引き取られた先ではネグレクト──世話の放棄が為され、子供は屋根裏部屋で軟禁状態となっていた。
本来ならば衰弱死するに十分な月日が経過した後、ようやく児童虐待の通報を受けた職員が子供を保護しに踏み込んだ。子供は屋根裏部屋で発見される。食事もまともに与えられなかったにも関わらず、非常に良好な健康状態で。その傍らには、奇妙な皿が置かれていた……。
「かくして、皿は組織の元へ行き、研究対象となったわけだ」
「子供は毎日スープを飲んでたから元気ハツラツだったんだな。湧いたのは塩水でも毒でもなかったと。栄養価が高かった?」
「お皿はどういう経緯でそこにあったのかしら」
「いつからその皿があったのかは不明だね。当然その経緯も。子供やその親戚から事情徴収しても何も判明しなかったようだ。推測も記されてなかったよ」
結局何もわからないままなのかよ、と魔理沙は失望するが、そもそもそんなものなのかもしれない。これまで数々の昔話で取り上げてきた物品だって、仕組みや経緯がぼやかされた物がほとんどだった。
「それで、魔理沙の言う通り、子供に対して湧いてきたのは美味しいスープで、研究によって栄養も十分なものであることがわかった。そして、さらに特別な効果がスープにあることが判明してね」
「特別な効果?」
その言葉に、魔理沙の手は腹の辺りに当てられていた。
「毒の心配はねぇって言ってたよな」
去ったはずの懸念。不安。それを再度払うように霖之助は手を振った。
「言ったよ。実際、心配なんてない。効果というのは悪いものじゃないんだ。君らもスープを飲んだなら、大なり小なりそれが現れてないかな」
「あー、そういえば、」
魔理沙の手が腹から胸へと上がる。
「少しサイズがでかくなったかな」
「間違いなく気のせいだね。発展途上胸が高度成長を遂げるようなのじゃないよ。そんな景気のいい話はない」
「胸の膨らむ希望も無しか。じゃあ、何だってんだよ」
「薬効さ。つまりは体の調子が良くなる。心当たりはないかい?」
見回すと、パチュリーが喉に手を当てていた。
「あったようだね」
「ええ、喘息が鳴りを潜めているわ。飲んだのはほんの少しだったのに、すごい効果ね」
(気づかなかったな。盲点ってやつか)
魔理沙は思う。
振り返ってみれば、パチュリーはスープに口をつける前は咳き込んでいたのが、それ以降には一度も咳をしていない。
飲んだものが毒物かどうか、体に悪い影響がないかどうかだけを注視していて、まさかプラスの効果があるなんて考えもしなかった。自分だって川に落ちて風邪気味だったのが、鼻づまりさえ起こさなくなってるのに。
通りの良くなった鼻を撫でて悔やむ。
(体調の変化は如実だったにも関わらず、完全に見落としてたぜ)
「あっ、もしかして!」
美鈴が小さく叫んだ。
「あれもそうかもしれません。咲夜さんの、あれ」
記憶の反芻を促されるが、ピンと来ない。咲夜に何かあっただろうか。
「時間停止が短くて、その後小走りだったということです」
「ああ、確かにそんなこと言ってたな。それが体調改善とどうつながるんだ」
「魔理沙さんもあの時言ってたじゃないですか」
「言ってた? 私、何か言ったか?」
記憶に強く残ってるのは、会心のギャグが心ない冷淡さで返されたことくらいだ。メイド長が便所に行ったのを見事なユーモアで表現したってのに…………便所?
「まさか、そういうことか」
魔理沙の目と美鈴の目とが合意を確認する。
「ええ、図らずも魔理沙さんの言葉は的を射ていたんです」
「短い時間停止も小走りも、それだけ切羽詰まっていたってこったか。それは突然の尿意じゃなくて、」
「はい、咲夜さんはお通じに悩んでました」
「スープの効果で解消されたんだな。で、分娩室に直行か。後で出産祝いを贈ってやらねぇと」
もちろん口だけのことだ。実行すればその日が命日となる。
咲夜は指でスープを味わっただけで、それも吐いて捨てたように見えたが、口に残ったほんのわずかが体内で薬効を発揮したのだろう。もしくはあまりの美味しさに飲み込んでしまっていて、吐いたのはポーズだけだったかもしれない。
「便秘治った?」と聞けるはずもないので、実際のところはわからないが、話としてつじつまは合うのだった。
「納得がいったようで良かったよ」
「でも、その効果がはっきりしたのは、件の子供からの聞き取りだけによるものではないわよね?」
パチュリーが霖之助に言う。聞くまでもないと魔理沙も思う。複数の事例による検証がなければ、断言するように語ることなどできまい。
果たして霖之助は「そうだね」と肯定した。
「組織が行った皿の分析の中には、多くの被験者にそれぞれ湧いたスープを飲ませるものがあったんだ。いや、それが中心的な分析の手法だったと言っていい」
となれば、聞きたいことはその先にある。ここまで長らく考えさせられた難問の解答だ。
「じゃあ、これについてもはっきりしているはず。教えてもらえるかしら、『お皿から湧く物は、相手の何に反応しているのか』を」
まさしくそれだ。
数々の被験者を重ねるうち、皿から湧く物に法則性があると当然気づくだろうし、そうなれば追求だってするのが道理。
(自分たちと同じように。そして、)
自分たちとは違い、膨大なデータによって信頼性のある結論を出しているはずだ。
魔理沙たちはそれぞれの視線を集中させ、霖之助の言葉を待った。
「──そう、それについてはね……」
霖之助の口が開き、三人の顔が心なしか前に寄る。期待を一身に受けて、霖之助は言った。
「よくわからないんだ」
三人は盛大にずっこけた。
「いやぁ、期待させてしまって申し訳ない」
「おいッ、すっとぼけんのもいい加減にしろよッ!!」
ダン!とテーブルを打つ勢いで立ち上がって魔理沙は怒鳴った。
霖之助は「あっはっは」と後頭部をかく。さすがに少しだけ決まり悪そうだった。
「酷くがっかりしたのはわかるよ。うん、よくわかる。僕もそうだったからね。でも、何度レポートを読み返しても、書かれてないものは書かれてないんだ。好奇心が上へ上へと昇っていったのを、梯子外しに遭った気分だったよ」
「マジに書かれてないのか? 冗談抜きでマジに?」
「うん、マジに」
「何だよそれ……」
肩を落とす魔理沙。疲労が質量を持ってのしかかってきたようだった。ここまで来てオチがつかないとは、悪夢よりタチが悪い。
(長々と付き合わされた物語は、山無し・落ち無し・意味無しのヤオイ物だったってか? 酒の肴にもなりゃしねぇぞ)
心中で毒づきながら、今夜はやけ酒をかっ食らおうと決めかけたそのときだった。
「話を終わりにするのは尚早よ」
パチュリーが意味ありげな目線を霖之助に向けている。霖之助も見つめ返す。
「皿の正体はともかく、湧き出る物の結論までが資料に載ってなかったのは残念だったわ。追求したところで無い袖は振れないでしょうしね」
「そう、判明しなかったのか、あるいは隠蔽しているのかはわからないけれど、とにかく記述されてないんだ」
「でも、推測はできる」
「ん」
霖之助の眉が上がる。
「多くの被験者から取ったデータは資料に記されていたと、私は考えるのだけど」
これまでの口振りからしてその部分はぼかされてないとパチュリーは見ているのだった。だから、うやむやな結末にはなりえないはず……との指摘だ。
そして、霖之助は肯定した。
「ご明察。抜粋された一部分のものでしかないけど、そうだね、僕なりに推論を立てられるくらいにはあったよ。明確なオチは付かないし、納得いくかも保証できない。それでも聞くかい?」
「贅沢は言わないわ。お願いできるかしら」
霖之助は他の二人を見る。美鈴は頷き、魔理沙も(サえないオチでも無いよりマシだぜ)と顎で促した。
「そういうことなら一席打たせてもらおうかな」
霖之助は語り始めた。
「被験者達にはそれが不思議な皿から湧いてきたものだとは知らせずに飲ませたそうだよ。そして、感想や体調の変化を聞き取った」
「さっきの治癒効果はそれでわかったのね」
「うん。その実験の中で、皿から出てきたものはスープのみ。美味しいスープから普通のスープ、不味いスープまでいろいろあったけど、スープだけだった」
「塩水は無かったんですね。あと、毒も」
「君が飲んだのも毒ではなかったはずだよ。普通の人間ならともかく、君自身にとってはね。酷く不味いスープには違いないだろうけど、今大丈夫ならそれ以上のことはない。人間だって、苦いドングリを食べると胃腸がねじれて苦しむんだ。それ自体は毒じゃなくてもね」
霖之助が美鈴にそう断言できるだけの推測なんだろう、これから話すのは。とある組織の実験においては塩水が出なかったというが、そこに矛盾を感じてないのも霖之助の推測が聞くに足るものであることの証明になっていた。
「傾向として、年少者へのほとんどが美味しいスープだった。二十歳前後からスープの質にバラつきが出てきて、高齢になるにつれてより差異が顕著になっていった」
「年齢が関わってる? 長く生きただけスープの味が濁ってくる……いや、違うか」
自分の台詞を魔理沙は即座に否定した。そうなるとパチュリーのが普通に美味かったことや、バラつきが出るということなどに説明がつかなくなる。
「年齢も要素たりうるかな。直接的なものではないけどね」
フォローするように霖之助が言うが、腹立たしさが先に来る。感情のままに魔理沙の声が出た。
「回りくでぇの抜きでちゃっちゃと答え言ってくんねぇかな、香霖さんよォ。こちとら頭のデキがよろしくないんでさぁ」
「わざわざ頭の悪そうな口調にしなくていいよ。それに僕は卑下するどころか感心しているんだ。君たちの仮説はいい線行っていたからね」
「いい線?」
「僕が来たときに言ってなかったかい?」
「は?」
「『親』だよ」
──親。確かにパチュリーと美鈴が会話の中で触れていた。しかし、それだって結論には至らなかったし、霖之助の口振りでは核心からはズレがあるようだ。なのに「いい線」と言うのである。
どういうこった?と魔理沙は二人の少女に目を遣るが、どちらも疑問符を浮かべている。
三人の目は再び霖之助に向けられた。
「事の始まりは、両親を失った子供が、皿から湧いたスープを飲んで健やかに成長したというものだったね」
「ああ」
それはさっき聞いた。
「そこで、皿が子供の『親』役を務めたと考えられないだろうか」
「 」
一瞬、頭が空白になって、口も半開きになっていた。我に返った魔理沙は、これまでのことをまとめようとするが、まとまらない。軽く混乱している。
荒唐無稽と投げ捨てられる文言ならこうはならない。理屈は通っている……? しかし、あまりにも突拍子がなかった。考えもしなかった。
「年少者に対して美味しいスープが出たのは、皿の庇護欲によるものだとすれば、対象者が年を重ねるごとにそれが減じていき、スープの味も比例して下がっていくのも道理」
「え、いや、ちょっと待てよ、妖精やゴブリン達には塩水だったろ、あれは、」
「彼らは自然発生的な存在よ。親はいない」
魔理沙の疑義にパチュリーが口を挟んでいた。
「そういうことよね?」
「そう、いない親の代わりはしない。その意志が皿に塩水を出させたんだ」
「年齢が高くなるにつれて味にバラつきが出るのは、子供がほぼ無条件に庇護すべき相手であるのに対し、庇護すべきかどうかの判断が分かれてくるからなのね」
「君の場合は身体的に弱さが見られた。だから、皿が庇護すべき相手としたわけさ」
「弱い存在として見られたというのは複雑だけど、お陰で喘息は良くなったから、お皿の見立てには素直に感謝すべきかしら」
パチュリーは息をついた。
「なるほどね、全てのピースが当てはまる解答だわ」
そして美鈴に視線を送る。
美鈴は目をぱちくりさせた。
「あ……私の場合も?」
パチュリーが話す前から魔理沙にも理解できていた。
自分や咲夜と違い、妖怪として長年生きてきた美鈴。喘息のパチュリーには治癒効果があるスープが湧いてきたが、美鈴の場合はその逆。
「五体満足・健康優良にも程があるから、庇護も何もないって判断されたんでしょ。むしろちょっとくらい身体に刺激があるものを与えた方がいいとしたのね」
「そ、そういうことなんですかぁ~?」
情けない声を上げる美鈴だった。まあ、「良薬」でもない「口に苦し」というか「苦しい」を、皿の気まぐれで飲ませられてはありがた迷惑というものだろう。
パチュリーは「ご愁傷様」と述べ、魔理沙は美鈴の肩をポンポン叩いてせいぜい慰めてやる。霖之助は気にも留めてない風だ。
「さ、久しぶりの長口舌で喉が痛い。こんなところで締めくくり、もしくはお開きとさせてもらおうか」
「締めるか開くかどっちかにしろよ」
「ま、いずれにせよ、」
魔理沙をスルーして、霖之助は手を伸ばす。
「これ以上僕から話すことはないだろう。お嬢様方には一応の納得をしていただいたんだ。まあ確かに多分に憶測の入った仮説に過ぎないけれど──とても『真実味あふれる話』だったろう?」
スープの湧く皿を持ち上げ、おどけてみせるのだった。
縦よりも横の角度が強くなった日差しを橙色に受けつつ、魔理沙と霖之助は小道を歩いていた。
魔理沙は箒を担いで、霖之助は皿を手に持っていた。皿の中身は空である。
パチュリーに反応して湧いたスープを捨てた後、皿からは霖之助に反応して再びスープが湧いた。「飲むかい? あいにくと僕は昼食が遅めだったから」と魔理沙に勧めたのを、「冗談言うならもっと面白いことしろよ。舌噛んで死ぬとか」と拒否されたので、捨てられた結果の空の皿である。
(年食ってて、健康体で、それで湧いたスープは不味いってわかってんのに飲ませようとするなんざタチが悪すぎるぜ)
そう魔理沙が憤るのも当然だった。
「助かるよ、魔理沙と一緒に歩いてもらえると、ボディーガードとしてはこの上ないからね。黄昏時は逢魔が時とも言うし、物騒だ」
霖之助は抜け抜けと言い放ち、魔理沙の苛立ちはさらに募る。
相手が相手だ、身辺警護など快く引き受けたはずがない。だが、断ろうとすると、「そう言えば結構ツケが溜まってたよね」と来た。
普段なら聞き流す台詞だが、修理中の八卦炉を差し押さえることをチラつかせた上に、パチュリーまでが「ついでに強奪されっぱなしの本も返してもらおうかしら」と話に乗ってくるようでは、押し問答どころかそそくさとその場から退散するより他ない。
それでこうして大人しく連れ立って歩かされてる次第だった。
ゴウ腹。フンマンやるかたない。ハラワタが煮えくりかえる。表現の仕方は様々あるが、とにかく喜怒哀楽の二番目の感情がずっと魔理沙の身の内に充満していて仕方ない。
キビ団子も無しにまんまと随伴させられている──それだけなら、ここまで穏やかならざる気持ちにはなってない。以前言われたこと、そして再び言われるであろうことが、心に荒波を立てている。
「ところで……」
来た。魔理沙の眉間に力がこもる。
「この前の話、考えてくれたかい?」
やっぱりその話を出すか。舌打ちと共に嫌悪がストレートに顔に出た。ボディーガードなどとは口実で、始めから目的は決まっていたのだ。
何を言おうとしているか理解している。返答も決まり切っている。だから、言う必要はない。絶対に言うな。
表情が発する意志は明らかだ。しかし、霖之助はまったく気に留める様子なく、魔理沙の横で続けた。
「お父さんに会ってもらえるだろうか」
以前と同じ台詞を、同じ口調で投げかける。
魔理沙は疫病神でも見る目を霖之助に向けた。実際、疫病神だった。
(その台詞がピストルの発射音になって、こちとら不幸ロードのスタートを切るハメになったんだ)
ムカっ腹が収まらないのも、風邪を引いたのも、部屋が半壊したのも、全てこいつのせいだ。元凶だ。
食ってかかろうとすると、さらに霖之助が言う。
「直接会わなくても、贈り物を用意したっていいんだ。お母さんの墓前に供えた花のような、ね」
くっ、と魔理沙は喉奥でうなる。
(知ってやがったのか)
母の日にカーネーションを贈るなんて、似合わない真似をするもんじゃない。
霖之助も墓参りをして、魔理沙の行いを察したのだろう。そうして母の日にしたのなら父の日も、という腐れた思考回路がつながった。以前は口にしなかったが、そういう顛末だったのか。
まったく笑えない冗談だ。
霖之助が親子の不仲を気に掛けていたのは魔理沙が家を飛び出してからずっとだが、いつまで経っても修復不能なゆえに静観するしかなかったのが今までだ。
気まぐれの墓参りなんて手を合わせる程度にしとけば良かった。お陰でバイオリズムが大いに狂わされることになっちまった。
「なあ、魔理沙」
「黙れ、絶対嫌だ」
ピシャリ。叩きつける言葉で遮ると、それ以上何も言うことはないというふうに口をつぐむ魔理沙。黄昏の中、足を進める以外の何もしない。
霖之助も黙りこくる。何をどう言い募ろうが魔理沙の出す結論は変わらないとようやくあきらめたのだろうか。しかし、時折、視線がさまようように揺れ動いたり、唇が微かに開いては閉じたりしている。
沈黙の道中はそう長く続かなかった。霖之助が決意の光を灯した目で魔理沙を見る。
「皿についてだけど、」
「黙れって言ったろ。……皿?」
過去になったはずの単語に、魔理沙は聞き違いかと思った。が、そうでない裏付けに霖之助は皿を持ち上げて示している。
「そう、皿についてだ。真実を知りたくはないかい?」
「なっ」
驚きの声が上がるのも無理はない。言葉の意味するところは、裏返せば紅魔館で話した内容が虚偽であったということである。
どうして嘘をついた? そして真実は何だ? なぜそれを今話す? 脳内を疑問がメビウスの形で巡る。
霖之助が先の解釈を冴えないと言っていたのを思い出した。パチュリーも似たことを述べていた。
確かに、湧く物が皿の恣意的な判断によってだというのは、オチとしてしっくりこないのはあった。面白味がないのもそうだが、どことなく腑に落ちないのだ。
そこが覆されるのなら、是非本当のところを聞いてみたい。真実を隠した理由も含めて。
魔理沙の表情から首肯の意志を察した霖之助は、皿を持たない方の手でピースサインを作った。
「は? 何やってんだよ」
またぞろふざけた真似を、と語気を強める魔理沙だったが、霖之助は言う。
「二つ」
数字を表していたようだ。
「二つ、約束してほしい。それが条件だ」
「一つの情報に二つの見返りか? 強欲だな」
「いや、情報も二つだよ。話していないことと訂正することとで、二つだ」
ということは……図書館の話はまるっきりデタラメというわけじゃなかったのか。上手な嘘は大方の真実に隠し味のように混ぜ込んで作る、ってか。
思考する魔理沙が言葉を発しないので、霖之助は約束することを渋っていると判断したのだろう、こんなことを言った。
「約束できないなら言えないな。いや……何なら一つだけでもいいよ。聞けば、もう一つはやらざるをえなくなるだろうし」
「何だ、それ」
「とにかく一つ、『誰にも他言はしない』。これだけは守ってくれ」
指を一本立てて強調した。
「そんなことか。安心しろよ、私の口の重さはブン屋並だぜ?」
「魔理沙」
「わかったよ、冗談だ、冗談。約束するさ、神様に懸けて」
軽口で濁そうとしたが、霖之助は許さない。
「不十分だね。懸けるのは僕との関係だ。破ったら、君と一切の縁を絶つ」
「! 本気だな」
「そこまでのことなんだ」
真剣な眼差しに若干引く気持ちもありながら、好奇心の方が強く出る。「そこまでのこと」を聞いてみたくて仕方ない。どういう類の秘密だというのか。
「OKだよ、わかったぜ。ここだけの話ってのにすればいいんだろ」
「ああ」
承諾を明らかにすると、ようやく霖之助の顔から険が抜けた。
条件は満たしたわけだ。心おきなく追求させてもらおう。
「けど、何だって嘘なんかついたんだよ。隠しときたいことがあるならそう伝えりゃ良かったし、口をつぐむってやり方もあったろ」
「今、僕がしゃべるのを止めたとして、納得できるかい?」
「そりゃ、まあ、」
一拍置いて、答える。
「無理だな」
そして、パチュリーたちも同じ。隠そうとすれば、かえって好奇心をそそられるのは間違いない。
「だろう? いや、それでも全然見当外れな答えを彼女ら自身が出してくれてれば、メイド長に話したこと以外知らぬ存ぜぬで通せたかもだけどね。それで勝手に納得してくれる期待も持てた」
でも実際は、と困ったように肩をすくめる。
「あそこまで答えに近づかれてたのでね。これはダミーを用意しなくちゃ収まらないと思ったのさ」
「収まらない……」
その言葉を抜き出して繰り返したのを、魔理沙は自分でも変だと思った。ただ、どことなく重さを感じたのだ。「好奇心による追求を受ける」以外の。
霖之助が意味ありげに頷くも、意図するところはわからない。
(──まあ、気のせいかどうかも、真実を聞けばはっきりするさ)
魔理沙はそう考えて、霖之助の説明を待った。
「まずは『話してなかったこと』から話そうか。スープには薬効があると言ったが、実はさらにもう一つの効果があってね」
「えぇっ?」
思わず魔理沙の手が身体に触れる。
「そういえば、すこぶるバストアップしたような気がするぜ!」
「できるだけ早く妄執から解放されることを祈っているよ」
「ちぇっ」
「同じネタを何度やったところで、嘘は真実になりえない。そうじゃなくてね、心当たりないかい?」
心当たりと言っても……自分や他の者に出てた影響なんてあったろうか。スープを飲んでから以降のことを振り返ってみるが、それらしいことは思い当たらない。薬効と同様に気づいていないだけか? それとも美鈴がそうだったように、実際効果が出てない?
「身体的なものに注目していると、わからないだろうね。精神的なものなんだ。脳に作用するのさ」
「ああ、マジックマッシュルームみたいなアレか。ダウナー系は好みにゃ合わなかったな」
「そういうバッドトリップな体験は脇にやってくれ。この場合は、記憶だよ。ある種の記憶を呼び起こす。薬効以上に個人差はあるけどね」
「ふーん?」
何かが思い出されるなんてあったかな? それこそ思い当たる節がない。他の奴らも変化を訴えていた様子はなかった。
「呼び起こされるのはね、父親との思い出だよ」
「……何?」
「父親との思い出。あるいは父親に関する記憶だ」
今しているのは皿の話だというのに、拒否したはずの父親が出てきたので、魔理沙は言葉に詰まってしまう。
だが、からかいや当てつけによる霖之助の台詞ではないだろう。「思い当たる節」が言われた今なら見つかるからだ。
美鈴とカーネーションを見て、父親までを連想したのはスープの効果があったからかもしれない。美鈴は父親のことを語り出し、魔理沙に父親と接することを勧めた。
美鈴だけではない。パチュリーは湧く物の違いに「親」の要素を持ち出してきた。
魔理沙があそこで違和感を覚えたのは、思考の飛躍を感じたからだった。種族の話をしていて急に親の話になるのは、無理があるわけではないが、やはり唐突だ。
さらにパチュリーは「親」を中心に置いた推理を別観点から進めようとしていた。
これら一連の事は偶然に起こったのではなく、スープの効果による必然だったわけだ。
「そ、そういや、そんなこともあったかもなぁ。しっかし、わかんねーのは、何で言わないでおいたんだってこった。隠しとく必要ねぇだろ?」
「しょうがないさ。このことはね、『訂正すること』に関わっているんだから」
訂正すること、すなわち嘘の箇所だ。
「つまりは?」
「皿から湧いてくる物の差異が何によるものか、だよ」
「根本じゃねーか!」
思わず声を上げる魔理沙。最重要箇所で嘘をつかれていたのだ。
「根本的に変わると言えば変わるね。『親』というキーワードに変化はないけれど」
「こういうことか? 皿は『漠然とした親』じゃなく、『父親』役を務めたって?」
「そうじゃない。それじゃ僕の言ったことにほとんど変更はないだろう。違うんだ。皿の意志は介入してこない。そもそも皿に意志があるかも怪しい」
「まるっきり嘘か。まんまと全員だまされたわけだな」
「うん。レポートから察せられるのは、対象者の父親、その意志が関係しているいうことなんだ」
「は?」
「『実父の我が子へ想い』こそが、湧く物を決定している要素だ。そう言っている」
「はぁ? はぁあああ?!」
気が違ったような奇声を発する魔理沙だった。話の流れからすれば突拍子もない展開ではなかったが、魔理沙の場合、自分について是が非でも否定したい事柄が出てくる。とてつもなくとんでもないことだった。
「いや、おかしいだろ、おかしい! お前の勘違いじゃないのか! 何で父親の気持ちだって言い切れるんだよ。レポートにゃ結論は書かれてなかったんだろっ」
「それはその通りだけど、数多くの事例はそういう結論しか出せないようなものになってるんだよ。父親から愛情を注がれて、母親から虐待を受けていた子には、美味しいスープが湧いてきた。逆に、父親からはゴミのように扱われていて、母親からは宝物のように愛されていた子供には、酸味が強くて旨味の少ないスープが湧いてきた」
「じゃ、じゃあ、父親が死んでる場合はどうなんだよ。いない奴に想いもへったくれもないだろ!」
パチュリーたちがそうだった。自分以外、父親は死んでいるのだ。しかし、
「既に父親を亡くしている人たちの事例はたくさん載ってたよ。やはり父親からの愛情の違いが、スープの質の違いに現れている。仕組みはわからないが、皿は受信機のようなものかもしれないね。生きていても死んでいても、父親の想いをくみ取って、スープの形にするんだ」
そう言われてしまうと、もう魔理沙には反論のしようがなかった。
「そもそも初めて皿が発見されたときの子供には、父親がいなかったろ。その子は父親に愛されていたために、過酷な環境でも健やかに生きていけたのだろうさ。父親の思い出に包まれてね」
魔理沙は渋面を絵に描いたような表情になっていた。言い込められたからではなく、この後に言われることが確定しているからだ。
霖之助はそんな魔理沙に何とも言えない笑みを浮かべていたが、結局は口を開いてその台詞を紡いだ。
「だから、魔理沙、極上のスープを飲んだ君には理解できるはずだね。お父さんがどれだけの愛情を君に抱いているかを」
急速に、妙な熱さが魔理沙の中に充満した。予想はできていたのに、ダイレクトな言葉は全身に影響を与えた。
呼吸は荒くも細くなり、悪態さえつけなくなる。いや、つくことさえ考えられなくなる。顔が紅潮しているのは息苦しさだけによるものではないだろう。
家を飛び出してからずっと抱いてきたことが、今この時一瞬で覆された。なのに拒否より受容の気持ちが働いている。そのことが魔理沙の惑乱に拍車を掛けていた。
開きかけた口が閉じ、また開きかける。が、閉じる。何も言えなくなっていた。
「さて、言っていなかったもう一つの約束のことだけどね。もう想像はつくんじゃないかな」
そんなわけがない。まともな思考さえできないのに。
一体何を言う気だ。これ以上ろくでもない言葉は吐かないでくれ。
そんな魔理沙の心情を理解してないのか、それとも理解してのことなのか、霖之助は言い放った。
「お父さんに会ってくれ」
「ふっ……」
魔理沙の言葉をせき止めていた堤が破れた。
「ふざけるなァ!! 断ったろ! 断ったはずだろ! やるわけねぇだろ、私が! 私がそんなこと!」
誰もいない黄昏の小道において、一人怒声を浴びる霖之助は平然として歩いている。魔理沙の反応は予想の範疇だったらしい。落ち着き払って言葉を返した。
「聞かざるをえなくなるって言ったろう。魔理沙はそれをしなきゃいけないんだ」
「何でだよッ!」
「父親が娘のことをどれだけ想っているか、魔理沙は知ってしまったからさ」
「うっ!?」
「フェアじゃないだろう? 君だけが相手の気持ちを知っているというのは」
「……っ」
そんなん知ったことか、と突っぱねるのは不可能だった。
霖之助はよくわかっている。
敵意を向けられている相手ならばともかく、愛情を向けられている相手に喧嘩腰になるのはガキの独り相撲だ。魔理沙はそういったことに意地は張れない人間なのだ。
だが、あっさり和解ができる人間でないのもまた事実で。
(今さらどの面下げて親父に会いに行くってんだ?)
アイラブユーと伝えられて、ミーツーと返す父娘。想像だけで全身鳥肌だ。どうしたって自分のキャラじゃない。
かといって、何もしないのは……気がとがめるのだ。
美鈴の言葉がよみがえる。──『どんな想いも、ぶつけられるのは生きている間だけです』
ああ、くそ。くそったれめ。
無視を決め込めたらどんなに楽か。逃げの一手を打てさえしたら。けれど、自分の性格では、それをやると決めた時点で悶々とした日々が開始されるのは明らかだ。川に落ちたり、部屋を爆発させたりする以上のことになるだろう。
「……………………………………………わかったよ」
限界ギリギリまで絞り出したゴマ油の最後一滴のように、魔理沙は一言をこぼした。
「本当かい? 良かったよ!」
満面の笑みで応じる霖之助。長年の念願がかなったのだ。嬉しさも一しおだろう。
「……会うとは言ってねぇよ。気持ちさえ伝えりゃいいんだろ。花──バラをくれてやる」
小さく、「……それで勘弁してくれ」と言う魔理沙に、霖之助はやれやれと首を振ったが、勘弁ならんという風はなかった。譲歩の範囲内としたようだ。
「まあ、とりあえずはそうしておこうか。直接手渡すなら言うことなしなんだけどね」
「~~~っ!」
魔理沙は無意味に腕をバリバリかいた。これ以上、この話を引っ張られると精神が持たない。
話をそらせたい。適当な話題はないだろうか。「いい天気だなー」「昨日何食べた?」……いやいやいや、無理がありすぎる。不自然でないもので、何か。
「あ、そうだっ! 皿のことさ、咲夜に話したらどうだよ。きっと喜ぶぜ!」
思いつきにしては最上の部類に入ると魔理沙は思った。
流れとしてそこそこ自然、そして話を別方向に持っていける。また、過去の誤解を払拭する事実を教えることは、自分にはともかく、咲夜には望外の嬉しさをもたらすはずだ。一石二鳥の名案。
しかし……
「それはダメだと、言ったじゃないか」
霖之助とした約束が頭から抜けていた。
「絶対、ダメだ」
確かにそのように言っていた。否定の言葉はあって不思議ない。
だが、魔理沙は戸惑う。
霖之助の態度が一変して硬化していた。表情も冷徹なものになっている。
(約束は約束だけど、そんなに大層なものなのか?)
こういう場合、理由が不明であっても、相手の感情を推し量り、一旦は引き下がるか一歩下がって接するのが普通の人間だ。魔理沙はあいにくとそうではなかった。
「何でだよ! いいだろうが!」
この点に関しては引き下がるより食い下がるべきと、「普通の魔法使い」は判断したのだ。咲夜の友人としての判断でもある。戸惑いから立ち直った魔理沙は弾を放つように言葉をぶつける。
「あいつは自分の親に憎まれてると思い込んでんだぞ! 話してやんなきゃ一生思い違いしたままだ!」
しかし、霖之助は鉄塊のごとく弾き返した。
「だからだよ。だからダメだと言っている」
魔理沙の丸くなった双眸は、信じられないようなものを見る目だった。事実、信じられなかった。
こいつは、香霖は、咲夜に苦悩を引きずって生きてもらいたいとでもいうのか? トラウマを抱えて生き続け、死んでいけってか?
「てめッ……!」
魔理沙は噴き上がる激情のままに噛みつく、はずが、止まる。冷たい石のようだった霖之助の面持ちが沈痛そのものだった。
「魔理沙が怒る気持ちはわかる。その話を僕が知っているのは、図書館での会話を陰から聞いていて推測したからだが、魔理沙や彼女らは本人から話されて知り得たことだろう? 君らは、互いの辛い過去を話し合えるほど親密な仲だ。だからこその怒りだとわかる」
霖之助は歩みを止めた。魔理沙も止まる。温い風が肌を撫でていた。
「そして、だからこそ、彼女らには真実を伝えてはならない」
橙色を濃くする陽光の中、鳥の声が小さく聞こえる。
嫌な予感がした。何か聞いてはいけないことを聞かされる予感が。
「僕を恨んでくれていいよ。魔理沙にも話すべきじゃなかったかもしれないから。でも、このままずっと父親との仲違いが終わらないことは、僕にとっては……」
消えた語尾の後、小さく、言い訳だね、とつぶやく。
「香霖、何なんだ、話しちゃいけない理由って」
聞いてはいけない。その予感はあるのに、もう一つの予感もあるのだった。理由が何かを自分はつかみかけている。ここで聞かされなくても、いずれ理解できてしまう。そういう予感だ。
霖之助は話しにくそうに、唇を開いた。
「……父親から酷い扱いを受けた子供には、美味しくないスープが湧いたと言ったろう?」
「ああ、愛情とはかけ離れた感情を父親が持ってたからだろ」
「それなら、美味しくないどころか、一口で体調を悪くするほどのスープを湧かせたのはどういう感情だろうか」
「ッ……!!」
魔理沙は叫びそうになった。そうだった。美鈴。
美鈴の、湧いてきた「それ」は。
「嫌いや疎ましいだけではありえないことなんだ。とてつもない憎悪がなければ、湧くはずのないものなんだよ。では、彼女は何をした? 毒物を生み出すほど憎まれる何を父親にした?」
(そんな、まさか、まさか……)
魔理沙の脳裏に美鈴の言葉が波紋のように浮かぶ。
『何者かに寝込みを襲われたんです』
『恐らく名声か怨恨による復讐を目的として』
『相手を卑怯だとは言いません』
『いつかは超えたいと思っていた存在』
『どんなことも、生きているからできるんですよ』
『それをしなかったら、悔いしか残りません』
我知らず自分の体を抱きしめていた。震えが立ち上ってくる。
「本人は誰にも話してない、ことだ。彼女らの関係に亀裂を入れてはいけない。僕と魔理沙だけの胸の内に、ずっと秘めておくんだ」
霖之助の言葉が遠く聞こえる。暗くなる視界に、一つの光景が映し出される。見間違いだと思った、廊下での光景。
あの時、窓に映った美鈴の口は、その表情は──
笑っていたのだ。
そのネズミは珍しくも厨房に姿を現していた。
ネズミは普通食べ物の近くに出没するものであり、ならば何も不思議ないように思える。
しかし、そのネズミに関しては、主に図書館に入り込み、貴重な数々の書籍を失敬しまくるという習性を持っているのだ。他にすることといえば、館内の部屋を嗅ぎ回り魔法具に手を出したり、住人にちょっかいを掛けたりといったものである。
ネズミというのは、そのような被害をさんざん受けてきた紅魔館側からつけられた愛称、もとい蔑称なのだった。
ともかく、これでそのネズミな人物──霧雨魔理沙が本も魔法具も人気もない厨房に足を踏み入れたのは、習性から外れた行為であり、本当にたまたまのことだったというのがわかっていただけただろうと思う。
断っておくが、紅魔館の主が有する運命を操る程度の能力は、今回の件に関与してはいない。
つまりは掛け値なしに運命的な出会いだったのだ。霧雨魔理沙とその「スープ」とは。
「あ」
と、厨房の扉を開けて入ってきたのは紅美鈴。紅魔館の門番である。
「あ」
と、たった今飲み干したスープ皿から顔を離したのは霧雨魔理沙。普通の魔法使い、そして紅魔館の「ネズミ」である。
ネズミは簡素な椅子に座ったまま悪びれずに言う。
「奇遇だな。ってか、門のとこにいなかったのは何でだ? お前の専用就寝スペースにゃ別の奴が立ってたぞ」
「専用就寝何とかって、私そんなに居眠りしてませんよ。いえ、お昼食べそびれちゃったんで替わってもらったんです。ちょっとのつもりがかなり時間食っちゃって悪いことしたなぁ」
美鈴は眉根を寄せる。他者に対する気遣いが細やかな少女なのだ。だが、表情が浮かないのはそのことを気に病んでいるからばかりではないらしい。左手が腹部に当てられている。
魔理沙は目ざとく指差した。
「調子悪いのか? 長引いてんなら良く効く座薬、調合するぜ」
「便秘じゃありませんよ! それで悩んでいるのは咲夜さんの方で……じゃなくて、そんなことより魔理沙さん」
「ど、どうしたよ、真剣な顔して」
美鈴が一歩詰め寄ったので、魔理沙は自然と身をのけぞらせてしまう。
「今、何を飲んだんですか」
さらに詰め寄る美鈴。二人の間にはスープ皿がある。
「あ、悪い。ついな、美味過ぎて」
「美味かった?!」
「だから悪かったって。後で極上のキノコ、差し入れてやるから」
「要りませんよ! で、飲んだのはスープなんですよね? 魔理沙さんは何ともないんですか?!」
「だから人様の飯に手ぇつけたのは悪かったと思ってるよ」
「私のじゃありませんよ! 多分!」
「はぁ?」
「はい?」
どうも話が噛み合わない。魔理沙はこめかみに指を当て、もう片方の手を振った。
「待て待て待て、ちょいと整理しよう。ええと、さっき私が飲んだスープはお前のじゃないんだな?」
「はい、そう、ですね。そうだと思います」
「歯切れが悪いな。なんでイエスかノーで答えられないんだ? お前がいろいろ聞こうとしているのが何なのかもよくわからんぞ」
「実は自分でも何を聞こうとしているのかよくわからないんです」
「おいおい」
居眠りのし過ぎでまだ寝ぼけてんのか?といった様子で、魔理沙は肩をすくめる。
「あぁいえ、えっと、ちょっと混乱してまして。どう言ったらいいのかな…………あのですね、このお皿、」
美鈴は魔理沙が台に置いたスープ皿を指差した。やや楕円の白い陶器に、淡い水色で花模様が描かれている。
「特徴的なものでしょう? それにお昼もとっくに終わっていて、他の食器は綺麗に片づけられてます」
「それがどうしたよ」
「魔理沙さんと私はこの──同じ食器を使ったと思われるんですよ。私もこれでスープを飲んだんです、少し前に」
「ふぅん」
右耳から左耳へ軽く聞き流す魔理沙。単に美鈴が飯食った後の食器に、新たなスープが入れられただけの話じゃないか。衛生的な問題でもあるってか? 私はチルノがすすってたラーメンを箸ごと奪って食った女だぞ?
だがしかし、徐々に表情に怪訝さが現れていく。それを読み取って美鈴が頷いた。
「おかしいですよね。誰が、わざわざ人の使ったお皿にスープを入れておくんでしょうか」
「いや、でも、お前が使って洗っておいたのなら、手近にある皿が使われて不思議ないだろ」
「洗ってませんよ。そのままにして出てきちゃったのもあって、こうして厨房に戻ってきたんです」
「じゃあ、お前じゃない誰かに洗われた上で使われたんだ。それでつじつまが合う」
「『誰が』『何のために』というところまで説明できますか?」
魔理沙は黙ってしまう。推測できるところまで考えを巡らしても、そこからがどうしても不可解なのだった。
「確かに、『誰かが食事のために』っつーのも変なんだよな」
「ええ、魔理沙さんがスープを飲んだということは、厨房に誰もいなかったわけでしょう? 普通はスープを入れたらその場で飲むか、別の場所へ持っていきます」
「スープを入れたまま放置するのはありえない、か」
まるでマリーセレスト号だなと魔理沙は思う。船員が忽然と消えた幽霊船で、中には食べかけの朝食がそのままの形で残っていたとか。
「しかしだな、たとえば、」魔理沙は新たな考えを足す。「可能性としちゃ、たまたま急用ができたとかあるだろ。そうだ、お前みたいに昼飯食べ損ねた奴が遅れて入ってきたんだ。で、スープを用意して……」
「スープは冷めてました?」
「温かかったぜ。できたてって感じだった」
「私のときもそうでした。そのとき気づくべきだったかもしれませんが、ほら、火の気が感じられません」
「あー、確かにな」
魔理沙はきれいに片づいた厨房を見まわす。ひんやりと冷え切っていた。
「それに、一皿分あっためるだけでも鍋とか使うしな。水洗いして乾かしてる形跡もねぇや。まさか皿ごとオーブンでやったとしても、熱はよりはっきり残るだろうし」
「はい、不自然な点が多過ぎるんですよ」
「『チーズはどこに消えた?』ならぬ『スープは誰が入れた?』か。洒落にもなんねぇな」
言っているうちに顔の中央に皺が寄ってきてしまう。自分が食ったものが得体の知れない液体に思えてきた。気味悪そうに腹を撫で……そこで同じ行為を美鈴がしていたことを思い出した。
「おい、まさか、お前が調子悪そうなのは、」
否定してほしかったが、美鈴はこくりと頷く。
「ええ、さっきまでおトイレに行ってたんです。そのお皿のスープを一口飲んだら、吐き気はするし、お腹は痛くなるしで。私が気になってたのはそこなんです──魔理沙さんは大丈夫なんですか?」
わずかな沈黙の後、魔理沙は立ち上がり、流しに駆け寄る。指を二本そろえ、口を大きく開けた。
「わっ、待って! 待ってください!」
慌てて美鈴が後ろから魔理沙を羽交い絞めにする。
「離せっ、美鈴! 全部吐き出させろ! 今この場で紅魔館の新名物マーライオンになってやる!」
「そんな汚い名物要りませんよ!? どんな層の観光客が来るっていうんですか!」
「離れてくんならそれでもいいだろ! 恐れられる紅魔館、最高じゃねーか!」
「恐れられるのと嫌がられるのは全然違います! 吐くならおトイレっ、ここでは料理するんですから衛生面を考えてください!」
「知るかッ! 『嘔吐逆呑(オートキャノン)』発射準備!」
「そ、それに吐く必要もないかもしれないんですから!」
「何?」
美鈴の言葉にようやく魔理沙は暴れるのを止めた。拘束を解かれて、問う。
「デマカセじゃねえな? 理由あっての言葉なのか」
「はい」
「聞かせてくれ」
「多分ですね、私と魔理沙さんの飲んだスープは別物じゃないかって思うんですよ」
「そうなのか? して、その根拠は何ぞやだよ」
「私の場合、『お昼何も食べてないんで』と言って門を離れたわけなんですけど、それでめぼしいものがあるかと厨房に行ったらちょうどスープが用意されていて、『ああ、咲夜さんが気を利かせてくれたのかな』と思って、疑問なく飲んじゃったんですよ」
「前置きが長げーぞ。気を持たすつもりならスペカかますかんな、ファイナル吐瀉物スパーク」
「ちょっ、ここからですよ! それで一口飲んだら苦味がこみあげてきて、舌も痺れて、気持ちが悪くなって……」
「便所に直行か」
「はい。スープは流しに捨ててから出て行きました。しばらくして戻ってみると、魔理沙さんがいて、」
「スープを飲み干していたわけだ」
「そう、そこです」
美鈴が指を立てる。
「魔理沙さんは全部飲んだんですよ。私は一口から先すら受けつけなかったのに。つまり、私たち二人のスープはそれぞれ別種のものだったということになります」
「妖怪と人間で味覚が違うって線は? 妖怪にゃ毒で、人間にゃ美味って物、何かなかったか。あー、たとえばあれだ、『海亀のスープ』」
「その話は知ってますよ。でも、オチの通りなら私みたいな妖怪には毒どころか薬になるはずです。魔理沙さんにとっては……案外美味しいかもしれませんけど」
「よしてくれ。言葉の綾だよ。その逆がねーかってこった」
「あります?」
「ちょっと思いつかんな」
魔理沙は思考を巡らすが、検索に引っかかる事物はない。スープに退魔の術が掛けられていた可能性も考えてみたが、それだったら飲んだ瞬間にわかるだろう。美鈴にも、自分にも。
となると、スープは別物だったという美鈴の主張のがしっくりくる。
「安心できました? 少なくとも飲んですぐ身体を損なうようなものではないんですよ、魔理沙さんのスープは」
「いや、まあ、そうだろうけどな……」
胃の内容物をぶちまけるのを取り止めにする説得力はあったにせよ、得体の知れないものを飲んだという事実は覆せてない。体調ではなく心情における気持ち悪さは依然あるのだ。これからどんな影響が出てくる
かわかったもんじゃない。
「お前は腹立たないのかよ」
「え?」
「こんなことされてさ。一服盛られたんだぞ」
「でも、殺す気でやったわけじゃないと思うんですよね。魔理沙さんのスープは普通に美味しかったんでしょうし」
「普通どころか、かなり美味かったけどな。いや、そういうことじゃなくてさ、」
「相手を見てやったのかもしれませんよ。この時間に厨房に来る人なんて本来いないんですから。私には私に、魔理沙さんには魔理沙さんに合わせたスープを用意した。それでこうして混乱しているのを見て楽しんでいる、とか」
「いたずらにしちゃタチが悪過ぎるだろ。飲んで死なないとかそういう問題じゃない。いやお前、マジに気が優し過ぎんぞ」
便所送りにされるほどの物を食わされてその相手に怒りを示さない美鈴は、魔理沙にとって超とバカがつくほどお人好しに思えた。
「そんなに大ごとになったわけでもないですし。一服盛る割合を間違っただけかも。まあ、ちょっとは反省してもらわないといけないかな」
「ンなもんで済ませていいのかよ。とっ捕まえて同じ毒スープ流し込んでやるくらいはしねぇと。『目には目を、スープにはスープを』だろ。いや、ここは私とお前の分とを併せて倍返しだ! 胃が破裂するくらい飲ませる!」
「剣呑に過ぎませんか? 仕掛けた人に悪気があったのかもまだ……」
「ぬるいんだよッ!!」
拳が台に叩きつけられた。大きな音に、美鈴の目が丸くなる。
「悪気以外のなんだってんだ! たとえ悪気なくやったとしたって、それがどうしたよ! なおさら酷でぇだろ!」
「ええ、まあ、そうかもですね。……あのぉ、魔理沙さん、」
「何だよ」
そぅっと差し出すように美鈴は言った。
「何か嫌なことでもありました?」
「はぁ?」
何を言い出すんだといった風情の魔理沙。
「だって、魔理沙さん、いつもだったらこんなことでそこまで怒らないでしょう。というか、これ、魔理沙さんこそ仕掛けそうないたずらですよ」
「お前、私を疑ってんのか?」
「いえ! そういうつもりは微塵もなくて。ただ、普段から結構な数の本を『死ぬまで借りる』と持っていく人が、スープ一杯で激昂するかなぁって」
「う……」
それを言われると弱い。
貴重な魔導書を相当数借りパクしてるのは事実だし、門番としての美鈴を撃破して家宅侵入するのもしょっちゅうだ。そもそも現在厨房にいるのも、無断で家探しした結果なのだった。
これではよほど厚顔無恥でない限り、正義を振りかざす立場にはなれない。魔理沙がそうするには、あと二、三ミリ面の皮の厚さが足りてないのだ。
気まずさを隠すために、魔理沙は美鈴の話に乗った。
「確かにイライラしてたかもな。嫌なことね──まあ、あったさ。魔法の研究が上手くいかなかったり、箒で飛んでたらカラスにぶつかったり、そんなんが重なってな」
適当な嘘ではなく、実際に起こったことだ。どうもここのところ、ケチが付きまくってる。
ことの始まりは、多分「あれ」だ。
心の中で舌打ちする。回想の端に触れるだけで気分が悪い。
話を戻すことで意識を逸らすようにした。
「で、そんなことよりスープだよ、スープ。誰がどうやって、ここにホカホカスープを用意できたんだ?」
魔理沙は流しの近く、今の皿が置かれているところから少しずれたところを指差した。
「結局はそこなんですよねぇ…………んん?」
美鈴の悩ましげにうつむかれた頭が、跳ねた。片眉が上がっている。
「魔理沙さんの飲んだスープのお皿は、ここにあったんですね? こういう向きで」
美鈴は魔理沙が先ほど示したところに、指先で楕円を描く。
「そうだぜ? それがどうかしたか」
「ここ、私が流しにスープを捨てて、お皿を置いた場所なんですよ。しかもこの状態で」
「んーと、私がスープを見つけたとき、皿はお前が置いたまんま全然動いてなかったってわけか」
「はい。動かされてなかったとも言えます」
「ふぅん、つまりどういうことかってーと、いや待て、言うな」
こめかみに手を当て、魔理沙は思考のポーズ。手のひらを向けられて、美鈴は魔理沙の言葉を待つ。
「火の気もなけりゃ鍋が使われた形跡もなし、皿も動かされてなかったのなら──間違ってたかもしんないわけだな、前提自体が」
「そう、もしかすると……」
「『誰かがスープを入れた』ってのが先入観ありありだった。『誰か』は存在しない。つまりはこうだ、」
と、厨房の扉が開いた。「あら、あなたたち」見知った顔が現れる。
それにより、魔理沙の推論披露は中断され、しかし、同時にその正しさが証明されることとなった。
「あっ」
「おぉ!」
空になった皿が、みるみると満たされていく。湯気を立てる琥珀色の液体。美味しそうな匂いが上った。
「何? いったいどうしたのよ?」
紅魔館のメイド長・十六夜咲夜は、皿を見つめる二人に不思議そうな顔をした。
「そう、そんなことがあったの」
二人から経緯を聞いて、咲夜は事情を咀嚼するように頭を小さく縦に揺らした。
「魔理沙はどうでもいいけど、美鈴は災難だったわね。毒ニンジンの汁でも飲まされたのかしら。ソクラテスの気分は味わえた?」
「どうでもいいって何だよ!」
「そんな哲学的な罰ゲームは勘弁ですよぅ、咲夜さぁん」
憤然と哀然の二つの抗議に、咲夜は艶然と口元を手で覆った。
「ふふっ、とりあえずどっちも元気そうで良かったわ。冗談はさておき、あなたが調子崩すなんてよっぽどね、美鈴」
「そうなんですよ。魔理沙さんが口にしてたらと思うとぞっとします」
「……?」
会話の意図がつかめず、魔理沙は小首を傾げる。
察して、美鈴が説明した。
「ええとですね、中国拳法には朱砂掌など毒を扱ったものもあるんです。その関連で、私、毒に対して結構耐性があって」
「すげぇな! 今度コレラタケとかカエンタケとか食ってくれ!」
「それがどんなものか知りませんけど絶対イヤです!」
「あのねぇ、魔理沙、そんなこと言ってる場合なの? 下手をしたら飲んでたかもしれないのよ、美鈴にさえ毒性を発揮させたものを、あなたが」
意味わかる?と咲夜に言われ、少し考える魔理沙の顔が青くなっていった。
「違う種類のスープみたいで良かったわね。それから美鈴が残りのスープを捨てていて。そうでなかったら、あなたはここに立っていられなかったでしょうし」
「こ、怖ぇえ。もしかすっと全身赤く腫れあがって、内臓も脳もイかれて、髪の毛がごっそり抜けるみてーな、最強の毒キノコ・カエンタケを食ったような症状が出てたかもしんねぇな。恐ろしい」
「私にはむしろそれを人に食べさせようとしていた魔理沙さんの方が恐ろしいです」
「とにかく、二人ともうかつなのよ」
と、咲夜は美鈴をこづくジェスチャー。
「一皿のスープがそれだけ置いてあるのを簡単に口に運ぶなんて、普通はしないわ」
「ちぇっ」
「私はてっきり咲夜さんが用意したものと……」
「それは確かにいろいろ先回りしてやっておくことはしょっちゅうだけどね、前菜みたいに供するにしてもスプーンくらいは添えておくわ。不自然さを疑いもしないなんて門番として足りないわよ」
「す、すみません」
あからさまにしょげる美鈴だった。まるで飼い主に叱られた子犬のようだ。
「まあでも、そこまでお腹がすいていたのかと考えると可愛いものがあるかもね。結局、お昼は食べられずじまいなんでしょう? 簡単なものなら作ってあげるわ」
言うが早いか、美鈴の前に一皿のお粥が現れた。時間停止の能力を使って用意したのだろう。上る湯気も白く光るその中央には梅干し。スプーンも添えてある。
「はい、熱いうちにどうぞ」
「ありがとうございます!」
魔理沙には美鈴の尻で勢いよく振られるシッポが幻視できた。よく調教されてるわ、こりゃ。
お粥をチョイスしたのも、美鈴の胃腸の負担を考えてのことなんだろう。そういう気遣いも調教に一役買っているわけだ。
「それにしてもひとりでにスープが湧くお皿ねえ」
咲夜は、美味しそうにお粥を食べている美鈴から、件の皿に目を移す。
「グリム童話で町中に溢れるくらいお粥を出した魔法のお鍋があったけど、似たようなものかしら。でも、私が最初聞いていた話とは少し違っていたのよね」
「お粥っつーと、弘法大師が一宿の恩義にと食いもんのない婆さんに米三粒やった話があるな。それを入れて煮ると鍋一杯のお粥ができたんだ。空海曰く、『これでも食うかい』、なんつってな」
「…………」
「憐れむような顔すんなよ!」
咲夜の眼差しが木枯らしのように寒々しく空虚だったため、思わず叫んでしまう魔理沙。
「だって他に反応しようもないもの。まったく、今から親父ギャグが出てくるようじゃあオバサン化は早いわよ?」
「なっ……出るもん出てねーお前の方こそ心配しろ! フン詰まりは老け込みに貢献大だかんな!」
瞬間、魔理沙の喉元にナイフの切っ先があった。
「ひっ?!」
息をのみ、硬直する魔理沙。ナイフを手にする咲夜の顔には、凄絶な笑みが現われている。
「それ、誰に聞いたのかしら……?」
触れてはならぬ逆鱗だったらしい。そんなにも長く続いているのだろうか、便秘。
顎を上げて、魔理沙は上ずり気味に答える。
「あ、えと、ここの門番からデス」
「へぇ、美鈴が」
刃の視線がお粥を食する中華小娘に刺さる。
「ひっ?!」
息をのみ、硬直する美鈴。手のスプーンからぽちゃぽちゃとお粥がこぼれた。
「ふふふ、嬉しいわ、二人とも。人のプライベートな健康状態を気遣ってくれるのね。特に美鈴は誰彼構わず相談を持ちかけてまでして」
台詞内容と裏腹に、手にしたナイフが二本に増えていた。左右の手に一本ずつ。一本は依然魔理沙の喉元に、もう一本は美鈴に対して投擲の構えで狙いがつけられている。
「さ、咲夜さん……」
「あら、梅干しはもう食べちゃったのね。大丈夫よ、新しい赤の彩りが添えられるから」
美鈴がガタガタと震え出す。今にも『お粥のブラッドソースかけ』という料理とは名ばかりのスプラッター演出小道具が製作されそうになっていた。
(ヤバい。このままではヤバい)
スープが毒かどうかに関係なく、この場に二体の新鮮な死体が転がることになりかねない。魔理沙は脳細胞をフル回転して必死に打開策を練り上げる。
そうして取るべきと判断したのは話を逸らす一手だった。
「そ、そういや咲夜さ、さっき言ってたのは何だったんだ」
「え?」
「『私が最初聞いていた話とは少し違っていた』、だったか? あれはスープが湧く皿についてだろ。誰からどんなふうに聞いてたんだよ」
さあ、どう来る?
内心ドキドキする魔理沙だったが、幸運にも返答があった。
「厨房を担当してたメイド妖精たちからよ。『洗っても洗っても水が出てくるお皿がある』ってね。それを確かめにここに来たの。もう一つの案件の片づけついでにね」
無視&殺意をそのままにされる危惧は去った。ナイフの切っ先も下げられる。この好機を逃さぬよう、魔理沙は会話をつなげていく。
「その『もう一つの』ってのは皿つながりか?」
「いいえ、ネズミよ」
「何?」
「ネズミ。館内をうろちょろしている白黒のネズミよ。まさか厨房にいるは思わなかったわ」
「げっ、藪蛇」
落とし穴を避けようとして地雷を踏んでしまった。自業自得・因果応報という脳内の言葉が、魔理沙に冷や汗をもたらす。
しかし、幸いにもその件に関しては大して問題視されてないようだった。
「あっちこっち手当たり次第に家探しして……お掃除も大変なのよ?」
不法侵入はいつものことだからか、そう述べる咲夜の口調に尖ったものはない。さらにはこんな言葉までが出る。
「ねえ、何か嫌なことでもあった?」
美鈴がクスッと吹いた。自分と同じ台詞を咲夜が言ったからだ。反対に魔理沙はムスッとする。
「何言ってんだよ」
「違った? イライラすると無闇に行動的になるのよね、あなたは」
「もういいよ、もういい。それよりさっきのスープの話だ」
「はいはい、スープね」
ぶっきらぼうに言う魔理沙に、咲夜は肩をすくめた。これ以上は触れない方が良いと判断したのだ。
怒りの持ち手は咲夜から魔理沙へチェンジしたが、話題は当初のものに戻る形となる。
「言葉の通りよ。『水があふれてくる』とメイド妖精たちは言ってたの、そのお皿」
「スープと勘違いしたってか?」
「さすがにないと思うわよ。今、お皿に入っているのは明らかにスープってわかるもの。水と間違えはしない──なら、逆もないでしょ。それとも、あなたたちのときは無色透明のスープだったの?」
「いや、黄昏みたいな色だったな」
「あら、詩的」
「茶化すなよ。ついでに言えば、湯気も立ってたし、匂いもあった」
「私が口にしたのもそうでした。色は今あるスープより濃い目でしたね」
魔理沙と美鈴の言葉に咲夜は頷く。
「妖精メイドたちが目にしたのは、私たちが目にしたものとは違う液体だったのよ。実際には味や毒性があったのかもしれないけど、とにかく水と判断してしまうものだった」
「無色透明って以外にも、匂いがなくて、湯気も立ってなかったんだろうな。『お湯』と言われてないわけだから」
「そうね」
「あと、あれだな、別件で引っかかるのが『何度洗っても水が出てくる』ってとこだな」
「そこ? どうしてかしら」
「だってなぁ……ああ、待て待て」
「はい?」
「妖精メイドたちってのはその場にたくさんいたのか?」
「ええ、まあ」
「なるほどね、じゃあ、つじつまが合うわ」
飛び石のような言葉の末、魔理沙は合点がいった顔を縦に振っている。
もちろん咲夜としてはわけがわからない。
「勝手に納得されても困るのだけど? ミス自己完結さん」
「湧いたり湧かなかったりってのに法則があるかと仮定してたんだが、それが覆されるかと思いきや、やっぱ法則性があったんだぜ」
「うん、さっぱり意味不明だわ」
説明下手というより、理解させる意識に欠けているのだった。
そこにお粥を食べながら聞いていた美鈴が、手を止めて補足した。
「多分、魔理沙さんが言いたいのは、私たちが空になったままの皿を目にしているのに対して、妖精メイドはすぐ湧いてくるみたいな表現を使ってるのは何でかってことなんだろうと思います」
「そう、そういうことだぜ。まったく要領を得ないやっちゃな」
「あなたの方がね。それで?」
咲夜に先を促されたのは、当然魔理沙ではない。頷いた美鈴は法則性について述べた。
「人に反応するのだと思います。人一人につき一杯湧く。魔理沙さんが来て、スープが湧いて、咲夜さんが来て、スープが湧いた」
「理屈は通るわ。妖精メイドのときは、複数人いたから立て続けに湧いたということね」
「んー? するってと何だ? ええと……」
「今度は何?」
「いや、ほれ、妖精メイドたちにゃ水で、私らはスープで……」
魔理沙は口元に指をやり、思考を巡らす。話が進めば進むほど、新たな疑問・仮説・憶測が生じてきて切りがない。持ち前の探求心はちっとも減じなかったが。
「この珍妙な皿から出てくるんは、ランダムじゃなくて法則があるんじゃねぇかな」
「そっちも法則?」
「そうだろ。始めこそ『シェフの気まぐれサラダ』ならぬ『お皿の気まぐれスープ』っつー適当なものが湧き出してて、美鈴がロシアンルーレットのハズレ引いたのかと思ったけどさ、だとすると、妖精メイドに連続して水が出るのはありえんほどの低確率だろ。奇跡だ」
「偶然でなく必然とした方が収まりがいいわね」
「じゃあ、妖精メイドに水が出て、私らは違うものが出て、だ。その違いはどこから生じたもんかね」
謎かけの答えを咲夜はすぐに見つけたようだった。
「人を選んでる。いえ、種族を選んでる?」
「そう、多分な。妖精なら水、人間ならスープ、妖怪なら毒だ」
「じゃあ、今入っているのは普通のスープということね、あなたの仮説通りなら」
「そしてお前が本当に人間ならな。試してみるか」
魔理沙と咲夜は皿を前にする。咲夜が人差し指を琥珀色の水面に近づけるのに、魔理沙も倣う。温かさが指先に触れた。
(さて、これは毒か否か)
わずかに躊躇した後、ついた滴を舌先で舐めた。
ペロッ。
「これは、スープ!」
「……ん、」
魔理沙が思わず声を上げたのは、自分の仮説が合っていたからではない。それだけ美味だったからだ。咲夜も目を見開いている。
「すごいわね、美味しいわ、これ」
「ああ、私のときのやつとはだいぶ味が違うが、すげぇ美味いのは同じだ」
塩加減やダシは魔理沙が飲んだものとは似ても似つかない。改めて気づくが匂いも別物だった。しかし、美味いのである。上品な味わいだった。魔理沙は何度も指先を皿と口との間で往復させる。
咲夜はというと、しばし思考にふけっているようだったが、やがて流しに近づくとペッと吐き出した。そして、魔理沙から皿を取り上げ、中身を捨てる。
「おい、何すんだ」
魔理沙の抗議に、言う。
「まだ得体の知れないものであることに変わりないわ。うかつに食せるものじゃない。後から効いてくる毒の可能性もあるでしょ」
「美鈴のときは飲んですぐ調子が悪くなったんだ。今入ってたのはスープってことで、仮説が証明されたんじゃないのかよ」
「仮説はあくまで仮説。しかも限られた情報の中でのね」
「そりゃ、まあ、」
その通りだと魔理沙も認めざるをえない。さっきのスープも魔理沙のスープも遅効性の毒かもしれないという懸念は払拭しきれないのだ。
しかし、それならペロペロ舐めてるときに注意してくれても……とは思ったが。
「私とあなたの場合とでスープが違うって言ってたでしょ。そこが謎よ。もし法則があるなら、その違いは何によるものなのかしら」
「美味いスープがランダムに出てくるって考えんのは、そこだけランダム?ってのもあるしな」
「ええ」
「美鈴を含めて、私ら三人とも違うのが出てきたことを考慮すっと、単に種族の違いで出てくるものが決められてるとも言えないのか」
「『人によって』とするなら……」
「因果応報、日頃の行いかな?」
「だったらあなたは飲んだ瞬間に死んでるでしょ」
「白黒魔法使いだけど、経歴は真っ白だぜ」
「白々しいのには同意するけどね。お腹の中は真っ黒、それにブラックリストに載ってる」
「薄情なこと言うね」
「正直なところを白状したのよ」
「まあ、ってかさ、あの皿の出所はどこなんだ? お前も知らないんだろ」
咲夜にも見覚えのない皿であることは、彼女が厨房に来たときに確認できている。
「全然。どこから入り込んだのかしら」
「館の業務は粗方お前がやってんのに、わけのわからん物が転がってるってありえるのか」
「前はともかく、今はいろいろ任せているわ。そのための人員よ」
「ホフゴブリンはともかく、物覚えの悪い妖精にも任せていいもんかね」
「任せられるように根気よくしつけたのよ。私だって未来永劫メイド長やってるわけにはいかないもの。仕事のできる人材を育てていかないとね」
「けど、そのせいで変な皿が入り込んで、門番が毒殺されちゃーな」
お粥を食べていた美鈴が「生きてますよ!」と声を上げる。シカトして魔理沙は続けた。
「話からすると、たくさんある皿のうち幾らかは、お前以外の誰かが仕入れたわけか。その中に紛れ込んでいたと」
「食器の購入について誰がどこから何を買ったのか、ちょっと調べてみるわ。他の仕事が立て込んでるからそのついでになるけど、わかったら報告するから」
「ああ」
「じゃあ、お皿の性質、何が湧いてきたのかを調べるのは任せたわよ」
「ああ。……はい?」
思わず聞き返す魔理沙だったが、聞き違いではなかったようだ。
「何って、調べるのよ、あなたは美鈴と。液体の成分と法則をね」
「いやいやいや」
魔理沙は拒否の手を振った。冗談じゃない。そんな面倒ごとに駆り出されてたまるか。
「嫌なの?」
「そりゃそうだろ」
こちとら忙しいのだ。紅魔館でめぼしい物を入手した後は、家なり原っぱなりで昼寝とか午睡とかまどろみinアフタヌーンを楽しみたい。すなわち、手を空ける余裕はない。
「ふぅん、困ったわねぇ、仕事が増えるのは」
「それもお前の仕事のうちだろ」
「残念だわ。さっきも言ったけど、立て込んでるのよ、仕事。でも、しょうがないわね、さっさと片づけちゃおうかしら。あちこち部屋を荒らしたネズミの駆除を」
再びナイフが咲夜の手にあった。抜き身の刃から光が反射され、魔理沙の目を射る。
「わかったぜ調べるのは任せろ任せてくれ」
焦ってほとばしる魔理沙の台詞に、にっこりと咲夜は微笑んだ。
「良かったわ。汚れたナイフの手入れもしなきゃならないのは手間だもの」
汚れるのが何によってのものか、魔理沙に聞けるはずもなかった。
咲夜は美鈴の方を向く。
「そういうことだから、あなたも早く食べちゃいなさい。門番の仕事は替わってもらったままでいいから、以後は魔理沙と調べ物をすることに専念。いいわね?」
「はっ、はい!」
美鈴は急いでカッカッカッとスプーンを器にぶつけながら、お粥を口にかき込んだ。
「じゃ、よろしくね」
魔理沙に向き直ってそう言うと、咲夜は姿をふっと消した。時間を止めて厨房から出ていったのだ。
厄介事を押しつけられた魔理沙は、やれやれと肩を落とす。このまま紅魔館から退出するという手も考えたが、次会ったときに無数のナイフによって「ネズミ」が「ハリネズミ」にされかねない。やるしかなさそうだ。
「ふぅ、ごちそうさまでした」
お粥の器から顔を上げた美鈴は、「あれ?」と疑問符を表情に浮かべた。顔は出入り口を向いている。
「どうしたよ?」
「あ、大したことじゃないんです。ただ、足音が」
「足音?」
魔理沙は耳を澄ますが、何も聞こえない。
「空耳じゃねぇの?」
「人間の耳だとちょっととらえられないと思います。……この音、やっぱり咲夜さんの足音ですね」
「何でそこまでわかるんだよ。咲夜マニアか、お前」
「変な言い方しないでください! 音の質から歩幅とか体重とか推測できるんですよ、それだけです」
それだけというには大したもんだと、魔理沙は素直に感心した。それも中国拳法の技能の一つなんだろうか。暗闇の中で相手を把握するのに役立ちそうだ。
「けど、それの何が変だってんだ。咲夜が歩くと、クララが立つくらいに大事(おおごと)なのか?」
「だから、大したことじゃないんですって」
美鈴が言うには、咲夜が時を止めてその場を離れるときは、それなりの距離を取るのだという。しかし、さっきは近い距離で時止めは解除されていた。さらに、急かされるように早足だったことも不思議さを感じさせた。
「急ぎの用事でもあったんでしょうか」
「さっきそんな様子あったか?」
「ないですけど……どんなときでも落ち着いた雰囲気を崩さない人ですから」
「だからこその『瀟洒なメイド』ってわけね」
「はい」
「ってことは、大方、突然の尿意で便所に直行したんだろうぜ」
「瀟洒との関連性は?!」
「いやほら、瀟洒なだけに、『小・シャー』なんてな、ハハハッ!」
「…………」
「憐れむような顔すんなよ!」
それからしばらくして後、魔理沙と美鈴は廊下を歩いていた。規則的に配置された窓からは、光差す庭が見える。花々が午後の陽光を浴びて咲いていた。のどかな光景だったが、魔理沙の方はあまり晴れているとは言えない顔だ。
「ちぇー、ほとんど進展なしかー」
皿を片手で弄びながら魔理沙は愚痴を漏らした。
「まあ、それでも湧く物に法則性があるって裏付けが取れたじゃないですか。出てるのが水じゃないってこともわかりましたし」
「それだけだろ。妖精メイドやホフゴブリンに反応して湧くのが『塩水』だったって、他に何の収穫もねぇや」
二人は紅魔館で働いている者たちを捕まえては、皿の反応を見るということを繰り返していたのだ。しかし、皿から出てくる物は透明な液体ばかり。湧いては捨て、湧いては捨てているうち、飽きの中で試しに舐めてみたらしょっぱかったのである。
なお、その後は毎回味見したのだが、塩水の濃度も味わいも違いはなかった。いずれもただ一律にしょっぱいだけの水だった。
「法則性があるのはわかったが、私ら三人の違いが何から来るのかはわからねぇままだ。妖精やゴブリン以外のヤツで試した方がいいだろうな」
「別の人で、ですか。……となると、」
「あーもー、メンドくせー! 何だってこんなことしなきゃならねーのよ! 咲夜め、いつか恐喝罪で閻魔にとっちめられりゃいいんだ!」
「そうなる前に魔理沙さんが不法侵入と窃盗で裁かれるんじゃ? それにですね、恐喝と言いますけど、あれは咲夜さんなりの気遣いなんですよ」
「は?」
ナイフを突きつける気遣いって、気違いか?という顔をする魔理沙。美鈴は言う。
「飲んだものが遅効性の毒かもしれないという疑いはまだ晴れてないんでしょう? 紅魔館に由来する品物の可能性が高いお皿ですから、まずは紅魔館の中でその手がかりを探すのがいい。咲夜さんは自由に館内を探索できるお墨付きをくれたんです」
「や、それは、」
反論しようとして、だが、魔理沙は言葉に詰まってしまう。ただの厄介者として見ているならば、その場から追い立てるだけだったろう。美鈴のみならず魔理沙の体調をも心配してくれたのだと認めるしかなかった。
「まあ……そうかもだけどよ、そんなのナイフ無しでもできるこったろ」
「ふふっ、そこですよ」
「どこだよ」
「そこです。魔理沙さんは全然恩義とか感じてないでしょう? 咲夜さんの気遣いに」
「っ」
またしても言葉に詰まる魔理沙。
脅しという形を取れば反発を持たれる。それをわかった上での振る舞いだったかよ。貸し借り抜きにやってちょうだいって? とんだツンデレだ。
「さあ、頑張っていきましょう。咲夜さんがお皿の謎をお任せしたのは、魔理沙さんなら解明できるって思ってるからです。それはきっと合ってます」
「信頼、されてんだな」
「はい、ああ見えて咲夜さんは魔理沙さんのことを評価してるんですよ」
「いやいや」
「本当ですよ?」
(そういう意味で言ったんじゃなくてな、)
魔理沙は頭の中で述べる。
(お前と咲夜、互いが互いのことをよく理解している。思いやってる。そういうこった)
さすがに口には出さなかった。思うだけでも自分のキャラクターに似合わなすぎる。
「ふン」と、逸らすように顔を窓の外に向けた。
春の光の下、くっきりとした色で咲く花が並んでいる。見覚えのある花だった。
魔理沙の記憶力が弱ければ、あるいは連想力に乏しければ違ったかも知れないが、どちらもあったがゆえに魔理沙の口元は苦い物を噛んだように歪む。
思えばあれがケチのつき始めだった。一昨日は薬の調合の失敗で部屋を爆破させるわ、昨日はブン屋と正面衝突して川に墜落して風邪をひくわ、酷いことばっかりだ。くそっ、香霖め。
嫌な物から視線を外そうとしたところ、美鈴が外を見て言った。
「あ、カーネーションですね。綺麗でしょう。母の日にはちゃんと贈りました?」
台詞は魔理沙の地雷を踏んだ。ダイレクトにピンポイントで。
「そういえば、もうすぐ父の日になりますね。バラも綺麗に咲いているんですよ。良かったら持っていきますか」
さらに連続で踏んだ。もはや芸術的とさえ言える。地雷踏み競技がオリンピックに採用されれば金メダリスト確定だ。
魔理沙の顔全体に渋みが広がっていた。
「ど、どうしたんですか」
「何でもねえよ、何でも」
どう見ても何でもないような顔ではなかった。美鈴は目を白黒させていたが、ある考えに至ったのだろう、恐る恐る声を掛けた。
「あの……もしかして、親御さんと仲が悪いんですか?」
ゴスッ!
壁が蹴られた音だ。魔理沙は足を引いて、吐き出すように言った。
「ああ、悪ィよ! お袋はおっ死んじまって、残ったクソ親父たぁ同じ空気を吸うのも嫌って関係さ!」
「そっ、そうだったんですか。お父さんとは犬猿の仲なんですね」
「犬猿っつーかケルベロス対キングコングだ。一触即発、壊滅的! 大惨事! 顔でも合わせた日にゃ霊夢が飛び出してくるだろうさ」
「異変レベル?!」
魔理沙の父親は、自分の娘が魔法に旺盛な好奇心を発揮するのを良く思っておらず、毎日のように厳しくとがめた。魔理沙も父親似の頑固さ・反骨の気概を発揮し、両者は激しくぶつかり合う。
緩衝役の母親が病没してからは、さらに火花を散らし、その火花が火薬庫に引火するほどになった。さすがに異変ほどの騒ぎにはならなかったにせよ、近所の住人が押しかけたのは一度や二度ではない。
そうして、魔理沙は家を飛び出したのだった。魔法の森に住むようになってから、一度も実家へは帰ってない。父親と顔を合わせることも当然なかった。
「ったく、何で私とあいつが同じ時空に存在してんだ! 理不尽極まりねぇぜ! ああ、くそっ、頭に浮かんでくるだけでムカついてくる! 畜生め!」
「…………」
敵意を剥き出して悪態をつき続ける魔理沙に、美鈴はどこか遠い目をするようになっていった。しばしの沈黙。そして、言葉を紡ぐ。
「でも──お父さんがそうなら、魔理沙さんは幸せですよ」
「ああっ? 突然何言い出すんだよ!」
食ってかかる魔理沙に、美鈴は動じない。淡々としゃべる。
「お父さんが生きているというのは幸せなことです」
「だから生きてるだけで嫌だっつってんだろ! 話聞いてたか?! 聞いてんならどうしてそうなる!」
「咲夜さんも、私も、父親を殺されてるんです」
「なっ……」
突然の告白に絶句する魔理沙。
「咲夜さんの過去については、ある程度ご存じなんですよね。以前、外の世界について魔理沙さんが尋ねているのを見ました」
「あ、ああ、一家で虐げられてたらしいな。咲夜が人ならざる力を持つ魔女って見なされるようになってから」
早苗に聞いたこともある外の世界の話だったが、咲夜からのそれは華やかな面白いものという期待を裏切り、ひたすら陰鬱に彩られていた。
人の持つ悪意、侮蔑心、差別感情、排他的行動がどれほど残酷に濁れるか、短い話の中でも十分思い知った。途中で話をうち切ってしまうほどに。
「その先で起こったことはさらに悲惨なものでした」
美鈴が続ける内容は、魔女狩りの結末そのものだった。
ある夜、暴徒が咲夜たち家族の仮住まいに雪崩込んできた。母親は声を出す間もなく農具で刺し殺され、父親はものすごい形相で抵抗していたものの、振り回される無数の凶器と狂気の中でみるみる血まみれになっていった。
咲夜は身を震わせてその光景を見ているしかなかった。父親の振るった腕に飛ばされるまでは。
裏口の扉に背中を打ちつけてうめいた咲夜に、父親は怒鳴る。『早く出てけ!』
弾かれるように真っ暗な外へ飛び出す少女。
「──そして咲夜さんはその場から全力で逃げます。意識を失うまで闇雲に駆けて……父親とはそれきりだそうです。悲しそうに言っていました。自分は両親から恨まれているだろう、自分のせいで殺されたようなものだから、と」
陽光の角度のため、窓から直接は光が差さない。庭の風景は絵画のように現実味がなく感じられた。
言葉を出せないでいる魔理沙に、美鈴は先ほど言った台詞をもう一度言った。
「お父さんが生きているというのは幸せなことです」
もう魔理沙は同じように反論できなかった。美鈴の言葉を黙って聞くしかない。
「死んでしまったら、何もしてあげられません。どんなことも、生きているからできるんですよ。ケンカするのでもいいじゃないですか。どんな想いも、ぶつけられるのは生きている間だけです。それをしなかったら──悔いしか残りません」
一言一言が重い。
魔理沙は、何かを言おうとして口を開き、しかし閉じて、そうしてから「お前の……も、か?」と切れ切れの台詞を漏らす。
美鈴は頷いた。
「私の父は名のある武術家でした。死んだのは、何者かに寝込みを襲われたんです。何も盗まれた形跡がなかったので、恐らく名声か怨恨による復讐を目的として行われたのでしょう。相手を卑怯だとは言いません。行住坐臥、常に臨戦態勢でなければならないのが武道ですから。父も相手を恨むより先に自身の未熟さを恥じているでしょう」
美鈴の口調は淡々としていたが、顔は徐々にうつむいていく。辛さを押し込めているように魔理沙の目には映った。
「でも、本当に強い人でした。自己に厳しく、そして私にも。両足で立つようになった年齢から、私は血反吐を吐く鍛錬を課されました。これは比喩ではありませんよ。毒の耐性を身につけるときは、毎日鼻や口どころか目や耳からも流血して死にかけましたし。母はそんな生活を必死で支えてくれたのですが、心労もあって早くに亡くなってしまいました。亡くなったその日も、修行が中断されることはなかった……」
平坦だった声に色が混じりつつあった。その感情の色が何であるのか、はっきりとはわからない。寒色であるということ以外は。
「全てを捨てて強さを求めていた父、いつかは超えたいと思っていた存在、それが、それが……っ」
ついに背を向ける美鈴。両手で目を覆う、その背中が震えている。
魔理沙の目頭も熱くなっていた。感情をこらえる美鈴の後姿がぼやけている。窓を見て、そして、目を擦った。歪む視界にはあらぬものが映ってしまう。まったく、柄にもなくセンチメンタルになったりするからだ。
「わかったよ、わかった。親父のことは考えさせてくれ」
そう言って、魔理沙はスタスタとその場を離れるように歩いていった。美鈴からの視線を感じたが、振り向かない。敢えて涙に濡れた顔を見る必要はないだろう。
皿を扇のように振って、背中越しに声を掛ける。
「先に行ってるぞ、図書館」
幾つかの選択肢のうちから思いつきで決めたものだ。とはいえ、そこが一番妥当なところだろう。
──美鈴の言葉に感じ入るものはあった。けれど、父親に実際会いに行くかというと、それはまた別問題だ。
ケンカできるのも今のうちと言うが、過去に星の数ほど繰り返したことを今一度やったところで、お互いにとってマイナスだ。親不孝というなら、悪感情の対象を目の前に出現させることこそそうだろう。
考えさせてくれ、という言葉が譲歩の限界だった。
午後の陽光の影に満ち満ちた廊下を、魔理沙はうつむき加減で足を進めていく。
薄暗い空間に、壁のごとく巨大な本棚があった。古く厳めしい装丁の書籍が隙間無く詰め込まれている。そびえる本棚は無数にあり、並木のように設置されて、果ての見えない闇の向こうにまで続いている。
光の差さない知性の森の下、浮かぶ光の領域──大きなテーブルが燭台に照らされていた。
ページをめくる音。
図書館の主であるパチュリー=ノーレッジが、いつものように読書をしているのだった。
新しいページに目を落としているパチュリーは、つと口元に手を当てるとコホコホと咳き込んだ。
今日は喘息の調子があまり良くない。本を読み進めるのに支障がある。切りの良いところでしおりを挟み、ベッドに横になろうか。
そう考えながらも、字面を追いつつティーカップに手を伸ばす。
摘み立てのハーブを用いたハーブティーは、リラックスと喉の通りを良くする効果がある。香りや味わいも好みのものである。
滑らかな陶器に唇をつけ、温かな液体を口内に含む。期待する静かな安寧と幸福。
そう、このハーブティー特有のまろやかな香り、適度な塩加減、チキンと魚介の合わせダシ……
「ぶふぅううっ?!」
パチュリーは口を霧吹きと化させ、図書館にスープをまき散らしていた。
「何、これっ! げほ、ごほッ! 何これ!?」
動転しながらカップの中身を見る。液体の色が明らかにハーブティーのものとは違っていた。
「うーむ、これだけ苦しむとなると、パチュリーの場合は毒だったか」
本棚の陰から、したり顔で頷く魔理沙が現れた。
「そ、そういうのではなかったと思うんですが?」
その後に美鈴がついてくる。
「あなたたちなのっ?! この悪ふざけは!」
「悪ふざけってのは酷い言いぐさだな。こっそりお茶を飲み干して、代わりに皿の中身と交換しておいただけだ」
読書に集中してたからやりやすかったぜと、魔理沙はまだ液体の残っている皿を見せた。
「皿の中身? それって何なのよ」
「得体の知れない何か」
「悪ふざけどころじゃないじゃない!!」
立ち上がって激昂するパチュリーに、「す、すみません」と美鈴の方が謝る。
「一応止めはしたんですが……あの、どうしてもやりたいって、魔理沙さんが」
「日がな薄暗いとこで引きこもってる病弱っ子には、グッドな刺激になったろ?」
「ええ、神経を逆撫でされたわ」
「そうかそうか、感情豊かな生活をもたらすことができたか。礼は要らんぞ」
「いいえ、是非ともお礼参りさせていただくわ。卒業式後のヤンキー的な意味で」
殺伐とした会話のデッドボールをする二人に、ますます美鈴は恐縮するのだった。
「そういう事情だったら言ってくれれば協力したのに」
「いやぁ、そんなんじゃサプライズに欠けるだろ」
「美鈴に言ったのよ!」
「ま、まあ、その、落ち着いてください、パチュリー様」
燭台に照らされる皿を囲む形で、三人は席についていた。事のあらましを聞いてから後も、パチュリーの魔理沙に対する敵意は減じることはない。常日頃から本を失敬され、さらに今日面白半分に実験台とされては当然だろうが。
「まったく、もし本当に毒だったらどうするつもりだったのよ」
「おお、そん時は全ての蔵書が親愛なる友人に譲渡されるわけだな。嬉しいね」
「その時は敵討ちに備えておくのを勧めるわ、あらぬ夢を見る前に」
「実際のところは、ちゃんとこっちで味見してから中身を入れ替えたからな。安全確認に抜かりはないぜ」
「嫌がらせは否定されてないじゃない」
ハァ、とパチュリーはため息をついた。それから件の皿に目を遣る。
「それにしても面白い魔法具ね、これは」
「やっぱ魔法具なのか、これは」
「それはそうでしょ。科学の力でできた代物じゃないわよ」
「外の世界の技術じゃ、お湯をかけるとラーメンができたりワカメが増えたりするらしいが」
「まるで関係ないことに命を賭けてもいいわ、魔理沙の」
「となると、どういう系統の魔法で作られたもんなんだろうな」
魔法・魔術といったものは時代や場所などによって分類が為される。世界原理に作用する力を発揮するのには、様々なアプローチの仕方があり、皿の属している魔法の系統が分かれば、そこから湧く物について大きな手がかりとなる。
「うーむ、魔法の皿……湧くスープ……出てくる食い物……」
ブツブツ言う魔理沙に、美鈴が「古代中国の伝説では、」と口を挟んだ。
「いくら食べても減らないお肉が登場します。『視肉』という名前なんですが」
「北欧神話にも似たようなものがあるわね。ヴァルハラに棲息する、肉を食べられても死なずに元通りになる猪『ゼーリムニル』」
パチュリーも事例を挙げたので、魔理沙も乗ろうとする。
「日本の昔話にゃ……あー……ちょっと思い当たらんな。いや、肉じゃなけりゃ日本神話にあったか。食い物の女神さんが口や尻から食い物出すんだ」
「あなたは何でこういう場でさえシモネタかますのよ!」
「しょうがねえだろ! マジな話なんだから! 古事記にもそう書かれている!」
さらに言えば、女神は死んでから陰部からも食物を出しているのだが、それを述べていたらパチュリーはどう反応したろうか。
「ま、まあまあ、お二人とも。でも、自分で言っておいてなんですが、それらの話とこのお皿とにつながりをつけるのは難しいですね」
「お肉とスープじゃあね」
「けどよ、女神さんの出したのがスープと考えれば、」
「それ以上は口を開かないで、絶対。……あ、そう言えば、『スープの石』という話を思い出したわ」
「へえ、どんなのだ?」
「ポルトガルの民話よ。ちょっと長くなるけど、聞きたい?」
「もったいぶるなよ。こちとら兄弟はいねぇが、好きなものはさっさと食うタイプなんだ」
「入れて煮るとスープが取れる不思議な石の話よ」
「それ、石が豚骨とか鰹節ってオチじゃねえよな?」
「正真正銘、鉱物よ」
「ほほぉ」
魔理沙は身を乗り出す。面白そうだ。
スープ限定の賢者の石か? となると、その系統の材質でできてるのだろうか、この皿は。
「ある旅人が民家の戸を叩いたの。鍋と水だけ提供してくれれば、これでスープが作れます、って」
「ふむふむ」
「関心を持った家の主人はかまどの前に立たせたわ。石を煮始めた旅人は言った。『この石はだいぶ古くなっているので強い味が出せません』」
「触媒というより電池なんだな。魔力が込めてあって、少しずつ放出していくのかね?」
「そして、旅人は塩を求めた。そうすればいい塩梅になるからと。主人は二つ返事で塩を渡したわ。それから……」
「うん」
「スープを煮ながら、旅人はさっきと同じようなやり取りを主人と繰り返したの。『こうするともっと美味しいスープになるのですが』とね。肉や野菜が次々鍋に入っていった。結果、ついに具だくさんの立派なスープができあがって、旅人はまんまと食事にありつけましたとさ。おしまい」
「なーるほど、タダ『飯』なだけに『まんま』と、ってか。はっはっは」
笑いながら魔理沙はスープの入った皿を持ち上げる。そして、眼前の魔女の顔目がけて振りかぶった。
「ストップ! ストップ!」
慌てて美鈴が腕と皿をつかむ。
「離せ、美鈴! こんにゃろう、魔法とか関係無しに単なる詐欺師じゃねーか! 真面目に聞いちまった時間返せっ!」
立腹の魔理沙に対し、してやったりと笑みを浮かべるパチュリー。表情が「良い意趣返しができた」と如実に語っている。
「いいサプライズだったでしょ。だまされた主人の気持ちを追体験できたかしら? そう、不思議な石と銘打ちながら、単なる石だったわけよ。このお皿も何のことはなかったりしてね」
皿を指さすパチュリーの言葉に、美鈴が首を振る。
「いや、さすがにそれは……私たちは何度もお皿から湧いてくるのを目の当たりにしてますから」
「魔法具であることを否定はしないわ。その他のことについてよ。何でもないオチがつくかもしれないってこと」
「はぁ」
よく飲み込めない風の美鈴は魔理沙を解放する。ふて腐れながら、魔理沙は皿を置いた。
「話を戻しましょうか。スープを出すお皿がどんな系統の魔法具なのか。推測のための伝説・伝承を俎上に上げるなら、もっと近しい物があるでしょう」
言われて魔理沙は思考を巡らす。
「んー、じゃあ、そうだな、食い物を出す器ってぇと……石臼とも違うし……」
あれは米やら塩やらじゃんじゃん出したが、器というには遠すぎる。食物を湧かす器、食器。近縁の事例が、それも身近にあるような気がしているのだが、形となって出てこない。ただの気のせいかもしれない。
パチュリーが指を立てて言った。
「仙人の住む地『蓬莱』を記述したものの中には、満腹になるまで御飯の減らない茶碗や、酔いの回るまでお酒の減らない杯が出てくるものもあるわよ」
それに美鈴が同調する。
「あ、確かにあります。思い出しました。それも古代中国の伝説ですね」
「ふーん、そんなのがあるのか」
「日本にも伝わってる話ですよ」
「竹取物語にも名前が出てくるもんな、蓬莱山。どんなとこか詳しくは知らんかったが、へぇ、そういうとこかい」
魔理沙はスープの入った皿を改めて見る。青い紋様の入った白い陶磁器。マイセンっぽくもあるが、普通に考えれば、
「東アジアの、特に中国系統の魔法具ってことになるな、この皿は」
「見た目からしても、伝承からしてもね。仮説の域を出ないとはいえ、結論としては妥当なとこかしら」
「作・東洋の魔女、か」
「その呼び名、回転しながら球を受けそう」
「手元で変化する弾幕を撃ったりしてな」
魔理沙の脳内では、六人の魔女たちが宙に泥玉を打ち上げ打ち合いながら、徐々に魔法皿を錬成していく光景が浮かんでいた。まあ、そんなわけねえだろと自分でツッコミを入れる。
「それにしてもパチュリー様は中国の伝説にもお詳しいんですね。尊敬しちゃいます」
「お褒めいただき光栄ね。といっても、私は英文学で知ったのだけど」
「へえ、英文学で中華な説話? どんな本さ、一生貸してくれよ」
「丁重にお断りするわ。書名は『Kwaidan』、ラフカディオ=ハーン著」
「あーね、『怪談』か、小泉八雲の。……ん?」
何かを思いついたように首を傾げる魔理沙に、「どうしたのよ」とパチュリーが尋ねる。
魔理沙は手の平をかざして、制止のジェスチャー。先ほど引っかかっていたものを引っ張り出していく。連想力が身近な「食べ物を出す器」に結びついたのだ。
「もしかして灯台もと暗しだったかもしれねぇな」
「え?」
「小泉八雲で思い出した。八雲紫さ」
「何よ、突然」
「マヨヒガ」
「ああ」
出された単語に、合点のいった顔で頷くパチュリー。一方、まだ理解できない風の美鈴。
「どういうことですか?」
「『遠野物語』などにおけるマヨヒガの伝承には、不思議なお椀が出てくるのよ。それで穀物を量ると、穀物が全然減らないの」
「な? 食い物を出す食器ってのに当てはまるだろ」
「そんなのがあるんですか」
「あるんだな、これが。そんでもって幻想郷ン中のマヨヒガは八雲一家所有の物件だ。でさ、この皿よ、紫のとこが出所ってこたないかね」
突飛な話ではなかった。むしろ自然とさえ言える。スープを湧かせる東洋風の皿を、あのうさん臭い存在が有していても不自然さはない。マヨヒガの什器の一つかもしれなかった。
しかし、パチュリーは首を横に振る。
「それはどうかしら」
「何でよ。スキマからうっかり落としたって考えれば説明つくだろ」
「だとすると、取り戻すのも簡単にできるわよね」
「あ……」
それはその通りだった。落とした物をそのまま放っておくはずもないのだ。紅魔館の多くの食器に紛れてしまったとしても、ここの住人に尋ねるなどするだろうし、調査の中でそうした動きは見て取れなかった。
魔理沙はそれでも食い下がってみる。
「紫が何かで開いたスキマに、たまたま皿が入り込んで、それに気づかないでスキマを閉じたとかあるんじゃないか」
「自分で言っててどう思う?」
パチュリーに言われて、魔理沙は口をへの字にしていたが、やがて両手を頭の後に組んで背もたれへ寄りかかった。偶然が何段重ねかにならないと成立しないのだった。
パチュリーは微笑む。
「いい線は行っていたと思うけどね。可能性としてまったくないとも言い切れないし。でもまあ今のところ、お皿の出所については咲夜の報告を待つのが先決ね」
「咲夜さんは仕事から手が離せないかもしれませんが」
「仕事のついででもきっちりやってくれるでしょ、咲夜なら」
「そうですね」
むすっとしたままの魔理沙が口を挟む。
「おらが館のメイド長自慢はいいからさ、皿の話しようぜ、皿の。あと、美鈴が死ぬかどうか」
「ぶ、物騒なことを言わないでください!」
「だってお前が飲んだのが何かわかんねーままじゃん。後からぽっくり逝くタイプの毒かもだろ?」
「ええぇ~」
情けない顔をする美鈴に、「大丈夫よ」とパチュリーが言葉を掛けた。
「人間に対してならともかく、あなたに効く毒でそういう類の物はないと思うわ。魔理沙もいたずらに不安をあおらないの」
「へいへい」
ぞんざいに返事をしていい加減さを演出するが、言ったことがまったくの杞憂だとも言い切れなかった。一抹の不安……魔法具である以上、既存の毒物とは違う性質を持つものを皿が湧出させていたとも考えられる。
パチュリーもその可能性を想定はしているはずだ。だからこそ、敢えて美鈴の前で全否定したのかもしれない。
(つっても、やっぱ99パー杞憂なんだろうけどさ)
妖精やゴブリンに反応して出てきたのは塩水で、自分や咲夜、パチュリーの場合にはスープ。あれは見た目もそうだが、匂いといい、味といい、完全にスープだった。毒だとは思えない。全て飲み干してしまった自分の体調は悪くなるどころか、今朝まで風邪気味だったのが今は治ってさえいた。
美鈴の場合だけが他にない事例であり、人間の身で飲んでいれば危険だったかもしれない液体なのであったが、美鈴本人は現在ピンピンしている。
(普通に考えりゃ問題はないだろうよ)
魔理沙はそう結論づける。あまりこれに関して思考をこねくり回しても益はないだろう。
それに、何度も大丈夫大丈夫言ってると、かえって何かのフラグになりそうだ。
「んで、飲んだのは結局何だったんだ」
話を戻す。
「咲夜に調査させられてんのはそれなんだ。それがわからなきゃしょうがねえ。カビ臭い昔話を陳列して模範解答は見つかったのかよ」
「その手がかりを見つけるために、いろいろ挙げたんでしょうが。目的を見失ってるのはあなたの方よ」
パチュリーは苦笑して言った。
「まあ確かに、直接答えに結びつくものは得られなかったけどね。人によって湧いてくるものが違う器……中国系に限らず、どの伝承にも見当たらないもの。ふふっ、究明は困難なものとなっているわね。文字通りの『in the soup』か」
「イン・ザ・スープ?」
「『困って』って意味よ」
「はン、まったくもってふさわしい言葉だな」
スパイスのように皮肉の効いたフレーズだった。真実はスープの中に落ちてしまっている。拾い上げるのは思いのほか面倒なようだ。
「何度も湧くのじゃなくて、一人につき一度きりというのも例がないのよね」
「ああ、いや」魔理沙は手を振って否定する。「言い忘れたが、妖精メイドで二回目に出たヤツがいるんだ。一定の時間が経つと、また反応するようだぜ」
「四時間くらいですかね、空いた時間は」
美鈴もそう補足した。
「二回目もただの塩水だったのね」
「ん、純度100%の塩水だった」
ピュアソルトウォーター、と魔理沙は怪しい英語で言い換えて言い添えた。
「個人個人で出てくる物が決まっているというのは、ほぼ確定みたいね」
「そうさ、これでパチュリーに反応して出てくるのが毒物だったら、仮説は実証されて大団円だったのによ」
「ご期待に添えず汗顔の至りね」
澄まし顔でパチュリーは言うのだった。
魔理沙の言うように、「湧き出す物の違いは種族によるもの」という仮説は、今皿の中に入っているのがスープであることによって否定されている。パチュリーと美鈴の違いに説明がつかないのだ。
美鈴がパチュリーよりも人間に近い種族であることを考えても、
「種族から離れた『別の要素』を考えた方が良さそうね」
そういうことになる。
「別の要素、ねぇ」
「ええ、個々別々の違いにも説明がつくような」
魔理沙と咲夜の場合は、同じ絶品のスープでも違う質の美味しさだった。妖精達には一律で塩水が湧いたのにだ。
パチュリーのスープは普通の味だった。美味いことは美味いが、絶品というわけではない。
「四人ともぞれぞれ別の物が湧いた。ならば、個別の何かに関わっていると考えるのが妥当ね」
「種族なんかの大まかな分類じゃなくて、個人的な事情か」
「個人的な事情というと、んー、何でしょうね」
「わからんなー」
美鈴も魔理沙も考え込んで、それ以上の言葉が出ない。範囲が広く、あまりに漠然としていて、取っかかりがないのだ。パチュリーも思考の糸を手繰って口を閉ざす。
薄闇に包まれた本棚に囲まれ、燭台に照らされた食器を囲んで、三者はしばし沈黙していた。
一番始めに口を開いたのはパチュリーだった。
「妖精やゴブリンたちはみんな同じ塩水で、一方私たちには差異がある。そこから『親の存在』を挙げてみようと思ったのだけどね」
「『親』、ですか」
「妖精は自然発生的なものでしょ。両親はいないのよ、私たちと違って。だから、ただの塩水で差異がない」
「ああ、そう考えると、私たちのスープの違いも『親がどうなのか』で変わってくるって説明がつきますね」
「そういうこと。親は人それぞれだから」
パチュリーと紅美鈴の会話は突破口を開いているようだったが、魔理沙の頭の中には、
(……?)
変な疑問符が浮いていた。何による疑問なのか、その正体もわからない。それで二人の会話に入っていけなかった。重大なことのようにも思えるし、大したことのないようにも思える。漠然としていてつかみ所がない。
「ただね、そこから先が手詰まりなのよ」
魔理沙の脳内など知るよしもなく、パチュリーは続ける。
「親の生死・死因などで味に差が出るのかと思ったけど、どうもね」
「私たちの中では魔理沙さんのお父さんだけが健在なのでしたっけ」
「そうね。私の両親はかなり以前に大往生してるわ」
「あれ、じゃあ上手いこと並べられませんか? 美味しいスープ──魔理沙さんの親が存命。普通のスープ──パチュリー様の親が家族に看取られてて。酷いスープ──私の親が、その、」
美鈴が言葉を濁す。さらに口を動かそうとするのを、パチュリーが手をかざして押しとどめた。
「いいのよ。辛い出来事だったわね」
「いえ、もう過去の話ですから。今では外の世界にある墓も朽ち果てているでしょうし……。そんなことより、これでスープの種類と並列することができたと思うんですが、どうでしょうか」
「一人忘れているわよ。咲夜も美味しいスープだったでしょう」
「あっ」
美鈴は完全に見落としていたといった感じに、口に手を当てた。
魔理沙と同じ位置に来るはずの咲夜のスープ。それが今の説明ではおかしなことになってしまう。
「それに咲夜の場合は、あなたと違って父親だけでなく母親も人の手に掛かってる。一口飲んで体を壊すあなた以上に酷いスープが湧き出るはず。なのに、実際は真逆」
「うーん、そう、ですねぇ。うーん……」
「親に対する感情、トラウマとかね、その線でも考えたけれど、並び方につじつまがどうにも合わなくなるのよ」
魔理沙と父親の関係は、本人がケルベロスとキングコングの関係と喩えるほどだ。悪感情がスープの味に反比例するとなれば、咲夜のトラウマから湧き出た味と同じであって不思議ない。パチュリーのスープとは美味しさが違ってくるという箇所も違和感なく収まる。
だが、今度は美鈴のがはまらないパズルピースとなるのだった。魔理沙と咲夜を並ばせて、美鈴をその横に置けないのは変である。
「親というのは要素として悪くないと思ったのだけどねぇ」
パチュリーが先に述べたように、まさしく手詰まりだった。魔理沙も黙ったままで言葉を足さない。
「それとも……」
パチュリーはふと浮かんだ考えを述べてみる。思考実験の足しになったら程度の思いつきであったが。
「それとも私たちの心象は関係なくて、親に直接帰属するものなのかしら」
「と言いますと?」
「たとえば親の、」
言葉を途切らせて、パチュリーは後方を見る。美鈴も魔理沙も同じ方向を見た。
暗がりに人影があった。こちらに歩いてきている。影は右手を軽く挙げた。
「お取り込み中、失礼するよ」
男の声。その人物の顔が、燭台の明かりの領域に入った。
魔理沙は露骨に嫌な顔をし、舌打ちした。ここ最近の慢性的な苛立ちの発端が登場したからだ。
男の名は森近霖之助。魔法の森付近の古道具屋「香霖堂」の店主である。
「ほら、門番。不法侵入者だぞ、追い出せよ」
霖之助に顔を合わせず、魔理沙は美鈴に言う。霖之助は「おいおい」と苦く笑った。
「代役の門番やメイド長には許可を得ているんだ。言いがかりはやめてほしいね」
「何しにきたんだ? 私らは女子会やってんだよ。ムサい男はさっさとお引き取り願いてーな」
「暗がりで女の子達があれこれする健全な場を乱すつもりはないさ。用が済んだらすぐ帰るよ」
「だから何しにきたんだよ」
ぶすっとした表情の魔理沙。そこにパチュリーが皿を指さした。
「用事って『これ』でしょう? 道具屋さん」
「察しが良くて助かるよ」
笑みで応える霖之助。「どういうこった?」と首を傾げる魔理沙に、「簡単な理屈でね、」とパチュリーが説明する。
「咲夜の許可を得ていて、図書館に一人で来たということは、その用事は私たちにとって明らかなものなのよ。不審人物として見なされないほど明らかなね。そしてそれが済んだらすぐに退出するような小用」
「さらに『道具屋』が何しに来たかって考えりゃ、この皿より他にねぇってことかよ」
「そういうことね」
「ん? ってこたぁ、この皿の出所は……」
魔理沙はここで霖之助に顔を向けた。霖之助は頷く。
「僕の店の品物だよ」
「お前が元凶か!」
魔理沙は椅子をはねのける勢いで立ち上がり、指を突きつけた。これまで散々っぱらかき回されたのは全部こいつのせいだ。このところの不幸続きも含めて、怒りの感情がヤカンの熱湯のように蒸気を上げる。
「あんなふざけたもん仕掛けやがって! どんだけ迷惑だったかわかってんのかよ!」
対する霖之助は柳に風と受け流し、平然としている。
「そう言われても僕が悪いわけじゃないからね。確かにその皿は僕の店の物だが、厨房に置いたのは僕じゃないし、店から持ち出したのも僕じゃない。そもそもそれを売り物として出したつもりはないんだ」
「は? じゃあ何でこれがここにあんだよ」
「別の骨董皿を売ったはずが、そちらを持ってかれてしまったんだよ。メイド妖精の勘違いだね。それでこうして取り返しにきたってわけさ」
理屈は合うし、実際その通りなのだろう。咲夜が紅魔館にふさわしいアンティークを買わせた際、メイド妖精がミスを犯してしまった。しばらく誰もそれに気づかないままだったが、ここにこうしてようやく道具屋の店主自ら乗りこんできたというわけだ。
だが、個人的恨みもある魔理沙は収まらない。
「お前が保護者なのは変わんねーだろ。子どもの不始末の責任を取れよ」
「子どもを誘拐されて、親が責任を取るのかい?」
「保護者責任があるだろ。目を離した責任だ」
「それはあるかもしれないね。この後、我が子に十分な愛情を注ぐことで償おう」
「ちっ、減らず口は相変わらずだな」
「君には負けるよ」
ははっ、と笑いつつ、霖之助は皿に手を伸ばして、中のスープをこぼさないように取り上げる。
確かに目的の皿であることを確認すると、少女達に軽く会釈した。
「それじゃあ、僕はこれで」
きびすを返して立ち去ろうとする。再び暗闇の領域に足を踏み入れかけた。
「ちょっ、待てよ、香霖ッ!」
思わず魔理沙は霖之助をいつもの呼び名で呼んでいた。
「何そのまま帰ろうとしてんだ!」
「有言実行だよ。用事が終わったら帰ると言ったじゃないか」
「説明ぐらいはしてけよ! お前なら知ってんだろ、その皿のこと」
「そりゃあ、それなりには。でもねぇ……」
首だけ振り向いた状態で、肩をすくめる。
「沈黙は金だよ、魔理沙」
「雄弁は銀だろ、香霖」
「なら、やっぱり僕は取引価格の高い金を選ぶよ」
「お前の年ならいぶし銀を目指せよ」
「シルバー世代にはまだ早いしなあ」
「金賞取るほどの功績もねーだろ」
不毛なやり取りをしている二人に、パチュリーがため息をついて言葉を差した。
「大丈夫よ、魔理沙。道具屋さんもおふざけはそのくらいにして、そろそろ話してもらえないかしら。もともと黙ったままのつもりはないんでしょう?」
「えっ」
魔理沙が意外そうな顔をするのに、パチュリーはまたも理屈を並べてやる。
「湧いたものを飲んだということも含めての事情を咲夜から聞いているでしょうし、説明を求められもしたはずよ。そこをはっきりさせない状態でここには立てない」
「話さなかったら、咲夜さんのキツい尋問があるでしょうからね」
美鈴も頷く。
「そして湧き出たものについて毒性などの心配はない。ないからこそ、咲夜はこの場にいない」
「咲夜さんは安全性を確認したんですね」
「問題が生じているのに放っておくなんて、うちのメイド長にはありえないもの。ねえ、そうでしょう?」
再び言葉を向けられた霖之助は、皿を持っていない方の肘を曲げて手の平を見せた。悪戯をとがめられた子供のような表情で。
「完全に見透かされているね。さすがは知識の宝庫を司る魔法使いだ。そう、ここでみんなに説明するようメイド長に言われ、僕は了承している」
「にゃろう! もったいつけてやがったのか!」
「話すのを渋らせたのは魔理沙じゃないか。敵意を向けられたり、騒動の首謀者扱いされたりが、舌の潤滑油になるわけないだろう」
「じゃあヒマシ油たらふく飲ませてやるよ! 『下』の潤滑油にもなるだろ!」
下痢を招く拷問を口する魔理沙を、「やめなさいよ」とパチュリーはたしなめ、「じゃあ、ご講義いただけるかしら」と霖之助を促した。
「まあ、これ以上魔理沙をからかっても他に迷惑だしね、講演開始といこうか」
霖之助は皿をテーブルに置き、三人の少女達を前に手を広げる。
「まず君たちの言うとおり、皿から湧いてくる液体に毒性はない。でも、それだけを結論としたのでは、もはや納得できないところまできているんだろうな。知的好奇心を満足させる意味でも」
「ええ、その通りよ」
「さっさとゲロっちまえ」
「とはいっても、わかっていることは限られているのだけどね、ああいや、その範囲内でなら詳しく語ることができる」
「え? あの、矛盾しているような気が?」
戸惑う美鈴に霖之助は頬をかく。
「あはは、実は偉そうに解説する立場にないんだよ、僕は。この皿は外の世界から流れてきたものなんだけど、その外の世界でも変わった物体らしくてね、一緒に研究資料も流れてきたのさ。ただ、資料はあちこちが削除されたり、破損していたりして、僕はその不完全な中身をなぞるのみの役割しか担えないんだ」
「そういうことでしたか」
「へっ、受け売りかよ」
「魔理沙はいちいち突っかからないの。私は真実ならどんなことでも聞きたいわ」
「うん、そう言ってもらえると話しやすいね。いい潤滑油だ」
当てつけんじゃねーよ、と魔理沙は思うが、今度は口に出すことはなかった。
「研究資料──それらレポートはある組織がまとめたものだけど、その組織が皿をどこぞより回収したのかから話そうか」
「その前に、その組織ってどんな集まりなのかしら」
「何だろうね。レポートは、種種の立場からなる複数人の手による記述だったので、組織の規模は大きなものだと推測できる。この皿を示しているであろう識別コードに番号が振られていたことからすると、類似の不可思議な事物をたくさん集めていた団体なんじゃないかな」
「蒐集癖をこじらせた奴らのろくでもねぇ集団か」
「あら、魔理沙がそれを言うの? まあ、その組織は魔理沙がたくさん集まったものという風に解釈するわ」
「想像するだに恐ろしいね」
「全世界がナイトメアよ」
頷きあうパチュリーと霖之助に、「うっせーよ」と魔理沙。
「話を戻しましょう。お皿はどこで入手されたものなの? やっぱり中国で、なのかしら」
「どうかな」霖之助は腕を組む。「レポートからはどこの国のことなのかすら読みとれなかった。意図的に隠していたのかもしれないね、その理由さえわからないけれど。場所ではっきりしているのは屋根裏部屋ということだけさ」
「屋根裏部屋? そんなところで魔法具を作ってたのか?」
魔理沙の言葉に霖之助は首を振った。
「回収したと言ったろう。誰かが作成したのでなく、『そこにあった』のさ」
霖之助の口から語られるレポートの内容は、次のようなものだった。
出産時に母親が亡くなって、男手一つで育てられてきた子供がいた。しかし、その父親も不慮の事故で亡くなる。それで子供は親戚に引き取られたが、悲惨なことに引き取られた先ではネグレクト──世話の放棄が為され、子供は屋根裏部屋で軟禁状態となっていた。
本来ならば衰弱死するに十分な月日が経過した後、ようやく児童虐待の通報を受けた職員が子供を保護しに踏み込んだ。子供は屋根裏部屋で発見される。食事もまともに与えられなかったにも関わらず、非常に良好な健康状態で。その傍らには、奇妙な皿が置かれていた……。
「かくして、皿は組織の元へ行き、研究対象となったわけだ」
「子供は毎日スープを飲んでたから元気ハツラツだったんだな。湧いたのは塩水でも毒でもなかったと。栄養価が高かった?」
「お皿はどういう経緯でそこにあったのかしら」
「いつからその皿があったのかは不明だね。当然その経緯も。子供やその親戚から事情徴収しても何も判明しなかったようだ。推測も記されてなかったよ」
結局何もわからないままなのかよ、と魔理沙は失望するが、そもそもそんなものなのかもしれない。これまで数々の昔話で取り上げてきた物品だって、仕組みや経緯がぼやかされた物がほとんどだった。
「それで、魔理沙の言う通り、子供に対して湧いてきたのは美味しいスープで、研究によって栄養も十分なものであることがわかった。そして、さらに特別な効果がスープにあることが判明してね」
「特別な効果?」
その言葉に、魔理沙の手は腹の辺りに当てられていた。
「毒の心配はねぇって言ってたよな」
去ったはずの懸念。不安。それを再度払うように霖之助は手を振った。
「言ったよ。実際、心配なんてない。効果というのは悪いものじゃないんだ。君らもスープを飲んだなら、大なり小なりそれが現れてないかな」
「あー、そういえば、」
魔理沙の手が腹から胸へと上がる。
「少しサイズがでかくなったかな」
「間違いなく気のせいだね。発展途上胸が高度成長を遂げるようなのじゃないよ。そんな景気のいい話はない」
「胸の膨らむ希望も無しか。じゃあ、何だってんだよ」
「薬効さ。つまりは体の調子が良くなる。心当たりはないかい?」
見回すと、パチュリーが喉に手を当てていた。
「あったようだね」
「ええ、喘息が鳴りを潜めているわ。飲んだのはほんの少しだったのに、すごい効果ね」
(気づかなかったな。盲点ってやつか)
魔理沙は思う。
振り返ってみれば、パチュリーはスープに口をつける前は咳き込んでいたのが、それ以降には一度も咳をしていない。
飲んだものが毒物かどうか、体に悪い影響がないかどうかだけを注視していて、まさかプラスの効果があるなんて考えもしなかった。自分だって川に落ちて風邪気味だったのが、鼻づまりさえ起こさなくなってるのに。
通りの良くなった鼻を撫でて悔やむ。
(体調の変化は如実だったにも関わらず、完全に見落としてたぜ)
「あっ、もしかして!」
美鈴が小さく叫んだ。
「あれもそうかもしれません。咲夜さんの、あれ」
記憶の反芻を促されるが、ピンと来ない。咲夜に何かあっただろうか。
「時間停止が短くて、その後小走りだったということです」
「ああ、確かにそんなこと言ってたな。それが体調改善とどうつながるんだ」
「魔理沙さんもあの時言ってたじゃないですか」
「言ってた? 私、何か言ったか?」
記憶に強く残ってるのは、会心のギャグが心ない冷淡さで返されたことくらいだ。メイド長が便所に行ったのを見事なユーモアで表現したってのに…………便所?
「まさか、そういうことか」
魔理沙の目と美鈴の目とが合意を確認する。
「ええ、図らずも魔理沙さんの言葉は的を射ていたんです」
「短い時間停止も小走りも、それだけ切羽詰まっていたってこったか。それは突然の尿意じゃなくて、」
「はい、咲夜さんはお通じに悩んでました」
「スープの効果で解消されたんだな。で、分娩室に直行か。後で出産祝いを贈ってやらねぇと」
もちろん口だけのことだ。実行すればその日が命日となる。
咲夜は指でスープを味わっただけで、それも吐いて捨てたように見えたが、口に残ったほんのわずかが体内で薬効を発揮したのだろう。もしくはあまりの美味しさに飲み込んでしまっていて、吐いたのはポーズだけだったかもしれない。
「便秘治った?」と聞けるはずもないので、実際のところはわからないが、話としてつじつまは合うのだった。
「納得がいったようで良かったよ」
「でも、その効果がはっきりしたのは、件の子供からの聞き取りだけによるものではないわよね?」
パチュリーが霖之助に言う。聞くまでもないと魔理沙も思う。複数の事例による検証がなければ、断言するように語ることなどできまい。
果たして霖之助は「そうだね」と肯定した。
「組織が行った皿の分析の中には、多くの被験者にそれぞれ湧いたスープを飲ませるものがあったんだ。いや、それが中心的な分析の手法だったと言っていい」
となれば、聞きたいことはその先にある。ここまで長らく考えさせられた難問の解答だ。
「じゃあ、これについてもはっきりしているはず。教えてもらえるかしら、『お皿から湧く物は、相手の何に反応しているのか』を」
まさしくそれだ。
数々の被験者を重ねるうち、皿から湧く物に法則性があると当然気づくだろうし、そうなれば追求だってするのが道理。
(自分たちと同じように。そして、)
自分たちとは違い、膨大なデータによって信頼性のある結論を出しているはずだ。
魔理沙たちはそれぞれの視線を集中させ、霖之助の言葉を待った。
「──そう、それについてはね……」
霖之助の口が開き、三人の顔が心なしか前に寄る。期待を一身に受けて、霖之助は言った。
「よくわからないんだ」
三人は盛大にずっこけた。
「いやぁ、期待させてしまって申し訳ない」
「おいッ、すっとぼけんのもいい加減にしろよッ!!」
ダン!とテーブルを打つ勢いで立ち上がって魔理沙は怒鳴った。
霖之助は「あっはっは」と後頭部をかく。さすがに少しだけ決まり悪そうだった。
「酷くがっかりしたのはわかるよ。うん、よくわかる。僕もそうだったからね。でも、何度レポートを読み返しても、書かれてないものは書かれてないんだ。好奇心が上へ上へと昇っていったのを、梯子外しに遭った気分だったよ」
「マジに書かれてないのか? 冗談抜きでマジに?」
「うん、マジに」
「何だよそれ……」
肩を落とす魔理沙。疲労が質量を持ってのしかかってきたようだった。ここまで来てオチがつかないとは、悪夢よりタチが悪い。
(長々と付き合わされた物語は、山無し・落ち無し・意味無しのヤオイ物だったってか? 酒の肴にもなりゃしねぇぞ)
心中で毒づきながら、今夜はやけ酒をかっ食らおうと決めかけたそのときだった。
「話を終わりにするのは尚早よ」
パチュリーが意味ありげな目線を霖之助に向けている。霖之助も見つめ返す。
「皿の正体はともかく、湧き出る物の結論までが資料に載ってなかったのは残念だったわ。追求したところで無い袖は振れないでしょうしね」
「そう、判明しなかったのか、あるいは隠蔽しているのかはわからないけれど、とにかく記述されてないんだ」
「でも、推測はできる」
「ん」
霖之助の眉が上がる。
「多くの被験者から取ったデータは資料に記されていたと、私は考えるのだけど」
これまでの口振りからしてその部分はぼかされてないとパチュリーは見ているのだった。だから、うやむやな結末にはなりえないはず……との指摘だ。
そして、霖之助は肯定した。
「ご明察。抜粋された一部分のものでしかないけど、そうだね、僕なりに推論を立てられるくらいにはあったよ。明確なオチは付かないし、納得いくかも保証できない。それでも聞くかい?」
「贅沢は言わないわ。お願いできるかしら」
霖之助は他の二人を見る。美鈴は頷き、魔理沙も(サえないオチでも無いよりマシだぜ)と顎で促した。
「そういうことなら一席打たせてもらおうかな」
霖之助は語り始めた。
「被験者達にはそれが不思議な皿から湧いてきたものだとは知らせずに飲ませたそうだよ。そして、感想や体調の変化を聞き取った」
「さっきの治癒効果はそれでわかったのね」
「うん。その実験の中で、皿から出てきたものはスープのみ。美味しいスープから普通のスープ、不味いスープまでいろいろあったけど、スープだけだった」
「塩水は無かったんですね。あと、毒も」
「君が飲んだのも毒ではなかったはずだよ。普通の人間ならともかく、君自身にとってはね。酷く不味いスープには違いないだろうけど、今大丈夫ならそれ以上のことはない。人間だって、苦いドングリを食べると胃腸がねじれて苦しむんだ。それ自体は毒じゃなくてもね」
霖之助が美鈴にそう断言できるだけの推測なんだろう、これから話すのは。とある組織の実験においては塩水が出なかったというが、そこに矛盾を感じてないのも霖之助の推測が聞くに足るものであることの証明になっていた。
「傾向として、年少者へのほとんどが美味しいスープだった。二十歳前後からスープの質にバラつきが出てきて、高齢になるにつれてより差異が顕著になっていった」
「年齢が関わってる? 長く生きただけスープの味が濁ってくる……いや、違うか」
自分の台詞を魔理沙は即座に否定した。そうなるとパチュリーのが普通に美味かったことや、バラつきが出るということなどに説明がつかなくなる。
「年齢も要素たりうるかな。直接的なものではないけどね」
フォローするように霖之助が言うが、腹立たしさが先に来る。感情のままに魔理沙の声が出た。
「回りくでぇの抜きでちゃっちゃと答え言ってくんねぇかな、香霖さんよォ。こちとら頭のデキがよろしくないんでさぁ」
「わざわざ頭の悪そうな口調にしなくていいよ。それに僕は卑下するどころか感心しているんだ。君たちの仮説はいい線行っていたからね」
「いい線?」
「僕が来たときに言ってなかったかい?」
「は?」
「『親』だよ」
──親。確かにパチュリーと美鈴が会話の中で触れていた。しかし、それだって結論には至らなかったし、霖之助の口振りでは核心からはズレがあるようだ。なのに「いい線」と言うのである。
どういうこった?と魔理沙は二人の少女に目を遣るが、どちらも疑問符を浮かべている。
三人の目は再び霖之助に向けられた。
「事の始まりは、両親を失った子供が、皿から湧いたスープを飲んで健やかに成長したというものだったね」
「ああ」
それはさっき聞いた。
「そこで、皿が子供の『親』役を務めたと考えられないだろうか」
「 」
一瞬、頭が空白になって、口も半開きになっていた。我に返った魔理沙は、これまでのことをまとめようとするが、まとまらない。軽く混乱している。
荒唐無稽と投げ捨てられる文言ならこうはならない。理屈は通っている……? しかし、あまりにも突拍子がなかった。考えもしなかった。
「年少者に対して美味しいスープが出たのは、皿の庇護欲によるものだとすれば、対象者が年を重ねるごとにそれが減じていき、スープの味も比例して下がっていくのも道理」
「え、いや、ちょっと待てよ、妖精やゴブリン達には塩水だったろ、あれは、」
「彼らは自然発生的な存在よ。親はいない」
魔理沙の疑義にパチュリーが口を挟んでいた。
「そういうことよね?」
「そう、いない親の代わりはしない。その意志が皿に塩水を出させたんだ」
「年齢が高くなるにつれて味にバラつきが出るのは、子供がほぼ無条件に庇護すべき相手であるのに対し、庇護すべきかどうかの判断が分かれてくるからなのね」
「君の場合は身体的に弱さが見られた。だから、皿が庇護すべき相手としたわけさ」
「弱い存在として見られたというのは複雑だけど、お陰で喘息は良くなったから、お皿の見立てには素直に感謝すべきかしら」
パチュリーは息をついた。
「なるほどね、全てのピースが当てはまる解答だわ」
そして美鈴に視線を送る。
美鈴は目をぱちくりさせた。
「あ……私の場合も?」
パチュリーが話す前から魔理沙にも理解できていた。
自分や咲夜と違い、妖怪として長年生きてきた美鈴。喘息のパチュリーには治癒効果があるスープが湧いてきたが、美鈴の場合はその逆。
「五体満足・健康優良にも程があるから、庇護も何もないって判断されたんでしょ。むしろちょっとくらい身体に刺激があるものを与えた方がいいとしたのね」
「そ、そういうことなんですかぁ~?」
情けない声を上げる美鈴だった。まあ、「良薬」でもない「口に苦し」というか「苦しい」を、皿の気まぐれで飲ませられてはありがた迷惑というものだろう。
パチュリーは「ご愁傷様」と述べ、魔理沙は美鈴の肩をポンポン叩いてせいぜい慰めてやる。霖之助は気にも留めてない風だ。
「さ、久しぶりの長口舌で喉が痛い。こんなところで締めくくり、もしくはお開きとさせてもらおうか」
「締めるか開くかどっちかにしろよ」
「ま、いずれにせよ、」
魔理沙をスルーして、霖之助は手を伸ばす。
「これ以上僕から話すことはないだろう。お嬢様方には一応の納得をしていただいたんだ。まあ確かに多分に憶測の入った仮説に過ぎないけれど──とても『真実味あふれる話』だったろう?」
スープの湧く皿を持ち上げ、おどけてみせるのだった。
縦よりも横の角度が強くなった日差しを橙色に受けつつ、魔理沙と霖之助は小道を歩いていた。
魔理沙は箒を担いで、霖之助は皿を手に持っていた。皿の中身は空である。
パチュリーに反応して湧いたスープを捨てた後、皿からは霖之助に反応して再びスープが湧いた。「飲むかい? あいにくと僕は昼食が遅めだったから」と魔理沙に勧めたのを、「冗談言うならもっと面白いことしろよ。舌噛んで死ぬとか」と拒否されたので、捨てられた結果の空の皿である。
(年食ってて、健康体で、それで湧いたスープは不味いってわかってんのに飲ませようとするなんざタチが悪すぎるぜ)
そう魔理沙が憤るのも当然だった。
「助かるよ、魔理沙と一緒に歩いてもらえると、ボディーガードとしてはこの上ないからね。黄昏時は逢魔が時とも言うし、物騒だ」
霖之助は抜け抜けと言い放ち、魔理沙の苛立ちはさらに募る。
相手が相手だ、身辺警護など快く引き受けたはずがない。だが、断ろうとすると、「そう言えば結構ツケが溜まってたよね」と来た。
普段なら聞き流す台詞だが、修理中の八卦炉を差し押さえることをチラつかせた上に、パチュリーまでが「ついでに強奪されっぱなしの本も返してもらおうかしら」と話に乗ってくるようでは、押し問答どころかそそくさとその場から退散するより他ない。
それでこうして大人しく連れ立って歩かされてる次第だった。
ゴウ腹。フンマンやるかたない。ハラワタが煮えくりかえる。表現の仕方は様々あるが、とにかく喜怒哀楽の二番目の感情がずっと魔理沙の身の内に充満していて仕方ない。
キビ団子も無しにまんまと随伴させられている──それだけなら、ここまで穏やかならざる気持ちにはなってない。以前言われたこと、そして再び言われるであろうことが、心に荒波を立てている。
「ところで……」
来た。魔理沙の眉間に力がこもる。
「この前の話、考えてくれたかい?」
やっぱりその話を出すか。舌打ちと共に嫌悪がストレートに顔に出た。ボディーガードなどとは口実で、始めから目的は決まっていたのだ。
何を言おうとしているか理解している。返答も決まり切っている。だから、言う必要はない。絶対に言うな。
表情が発する意志は明らかだ。しかし、霖之助はまったく気に留める様子なく、魔理沙の横で続けた。
「お父さんに会ってもらえるだろうか」
以前と同じ台詞を、同じ口調で投げかける。
魔理沙は疫病神でも見る目を霖之助に向けた。実際、疫病神だった。
(その台詞がピストルの発射音になって、こちとら不幸ロードのスタートを切るハメになったんだ)
ムカっ腹が収まらないのも、風邪を引いたのも、部屋が半壊したのも、全てこいつのせいだ。元凶だ。
食ってかかろうとすると、さらに霖之助が言う。
「直接会わなくても、贈り物を用意したっていいんだ。お母さんの墓前に供えた花のような、ね」
くっ、と魔理沙は喉奥でうなる。
(知ってやがったのか)
母の日にカーネーションを贈るなんて、似合わない真似をするもんじゃない。
霖之助も墓参りをして、魔理沙の行いを察したのだろう。そうして母の日にしたのなら父の日も、という腐れた思考回路がつながった。以前は口にしなかったが、そういう顛末だったのか。
まったく笑えない冗談だ。
霖之助が親子の不仲を気に掛けていたのは魔理沙が家を飛び出してからずっとだが、いつまで経っても修復不能なゆえに静観するしかなかったのが今までだ。
気まぐれの墓参りなんて手を合わせる程度にしとけば良かった。お陰でバイオリズムが大いに狂わされることになっちまった。
「なあ、魔理沙」
「黙れ、絶対嫌だ」
ピシャリ。叩きつける言葉で遮ると、それ以上何も言うことはないというふうに口をつぐむ魔理沙。黄昏の中、足を進める以外の何もしない。
霖之助も黙りこくる。何をどう言い募ろうが魔理沙の出す結論は変わらないとようやくあきらめたのだろうか。しかし、時折、視線がさまようように揺れ動いたり、唇が微かに開いては閉じたりしている。
沈黙の道中はそう長く続かなかった。霖之助が決意の光を灯した目で魔理沙を見る。
「皿についてだけど、」
「黙れって言ったろ。……皿?」
過去になったはずの単語に、魔理沙は聞き違いかと思った。が、そうでない裏付けに霖之助は皿を持ち上げて示している。
「そう、皿についてだ。真実を知りたくはないかい?」
「なっ」
驚きの声が上がるのも無理はない。言葉の意味するところは、裏返せば紅魔館で話した内容が虚偽であったということである。
どうして嘘をついた? そして真実は何だ? なぜそれを今話す? 脳内を疑問がメビウスの形で巡る。
霖之助が先の解釈を冴えないと言っていたのを思い出した。パチュリーも似たことを述べていた。
確かに、湧く物が皿の恣意的な判断によってだというのは、オチとしてしっくりこないのはあった。面白味がないのもそうだが、どことなく腑に落ちないのだ。
そこが覆されるのなら、是非本当のところを聞いてみたい。真実を隠した理由も含めて。
魔理沙の表情から首肯の意志を察した霖之助は、皿を持たない方の手でピースサインを作った。
「は? 何やってんだよ」
またぞろふざけた真似を、と語気を強める魔理沙だったが、霖之助は言う。
「二つ」
数字を表していたようだ。
「二つ、約束してほしい。それが条件だ」
「一つの情報に二つの見返りか? 強欲だな」
「いや、情報も二つだよ。話していないことと訂正することとで、二つだ」
ということは……図書館の話はまるっきりデタラメというわけじゃなかったのか。上手な嘘は大方の真実に隠し味のように混ぜ込んで作る、ってか。
思考する魔理沙が言葉を発しないので、霖之助は約束することを渋っていると判断したのだろう、こんなことを言った。
「約束できないなら言えないな。いや……何なら一つだけでもいいよ。聞けば、もう一つはやらざるをえなくなるだろうし」
「何だ、それ」
「とにかく一つ、『誰にも他言はしない』。これだけは守ってくれ」
指を一本立てて強調した。
「そんなことか。安心しろよ、私の口の重さはブン屋並だぜ?」
「魔理沙」
「わかったよ、冗談だ、冗談。約束するさ、神様に懸けて」
軽口で濁そうとしたが、霖之助は許さない。
「不十分だね。懸けるのは僕との関係だ。破ったら、君と一切の縁を絶つ」
「! 本気だな」
「そこまでのことなんだ」
真剣な眼差しに若干引く気持ちもありながら、好奇心の方が強く出る。「そこまでのこと」を聞いてみたくて仕方ない。どういう類の秘密だというのか。
「OKだよ、わかったぜ。ここだけの話ってのにすればいいんだろ」
「ああ」
承諾を明らかにすると、ようやく霖之助の顔から険が抜けた。
条件は満たしたわけだ。心おきなく追求させてもらおう。
「けど、何だって嘘なんかついたんだよ。隠しときたいことがあるならそう伝えりゃ良かったし、口をつぐむってやり方もあったろ」
「今、僕がしゃべるのを止めたとして、納得できるかい?」
「そりゃ、まあ、」
一拍置いて、答える。
「無理だな」
そして、パチュリーたちも同じ。隠そうとすれば、かえって好奇心をそそられるのは間違いない。
「だろう? いや、それでも全然見当外れな答えを彼女ら自身が出してくれてれば、メイド長に話したこと以外知らぬ存ぜぬで通せたかもだけどね。それで勝手に納得してくれる期待も持てた」
でも実際は、と困ったように肩をすくめる。
「あそこまで答えに近づかれてたのでね。これはダミーを用意しなくちゃ収まらないと思ったのさ」
「収まらない……」
その言葉を抜き出して繰り返したのを、魔理沙は自分でも変だと思った。ただ、どことなく重さを感じたのだ。「好奇心による追求を受ける」以外の。
霖之助が意味ありげに頷くも、意図するところはわからない。
(──まあ、気のせいかどうかも、真実を聞けばはっきりするさ)
魔理沙はそう考えて、霖之助の説明を待った。
「まずは『話してなかったこと』から話そうか。スープには薬効があると言ったが、実はさらにもう一つの効果があってね」
「えぇっ?」
思わず魔理沙の手が身体に触れる。
「そういえば、すこぶるバストアップしたような気がするぜ!」
「できるだけ早く妄執から解放されることを祈っているよ」
「ちぇっ」
「同じネタを何度やったところで、嘘は真実になりえない。そうじゃなくてね、心当たりないかい?」
心当たりと言っても……自分や他の者に出てた影響なんてあったろうか。スープを飲んでから以降のことを振り返ってみるが、それらしいことは思い当たらない。薬効と同様に気づいていないだけか? それとも美鈴がそうだったように、実際効果が出てない?
「身体的なものに注目していると、わからないだろうね。精神的なものなんだ。脳に作用するのさ」
「ああ、マジックマッシュルームみたいなアレか。ダウナー系は好みにゃ合わなかったな」
「そういうバッドトリップな体験は脇にやってくれ。この場合は、記憶だよ。ある種の記憶を呼び起こす。薬効以上に個人差はあるけどね」
「ふーん?」
何かが思い出されるなんてあったかな? それこそ思い当たる節がない。他の奴らも変化を訴えていた様子はなかった。
「呼び起こされるのはね、父親との思い出だよ」
「……何?」
「父親との思い出。あるいは父親に関する記憶だ」
今しているのは皿の話だというのに、拒否したはずの父親が出てきたので、魔理沙は言葉に詰まってしまう。
だが、からかいや当てつけによる霖之助の台詞ではないだろう。「思い当たる節」が言われた今なら見つかるからだ。
美鈴とカーネーションを見て、父親までを連想したのはスープの効果があったからかもしれない。美鈴は父親のことを語り出し、魔理沙に父親と接することを勧めた。
美鈴だけではない。パチュリーは湧く物の違いに「親」の要素を持ち出してきた。
魔理沙があそこで違和感を覚えたのは、思考の飛躍を感じたからだった。種族の話をしていて急に親の話になるのは、無理があるわけではないが、やはり唐突だ。
さらにパチュリーは「親」を中心に置いた推理を別観点から進めようとしていた。
これら一連の事は偶然に起こったのではなく、スープの効果による必然だったわけだ。
「そ、そういや、そんなこともあったかもなぁ。しっかし、わかんねーのは、何で言わないでおいたんだってこった。隠しとく必要ねぇだろ?」
「しょうがないさ。このことはね、『訂正すること』に関わっているんだから」
訂正すること、すなわち嘘の箇所だ。
「つまりは?」
「皿から湧いてくる物の差異が何によるものか、だよ」
「根本じゃねーか!」
思わず声を上げる魔理沙。最重要箇所で嘘をつかれていたのだ。
「根本的に変わると言えば変わるね。『親』というキーワードに変化はないけれど」
「こういうことか? 皿は『漠然とした親』じゃなく、『父親』役を務めたって?」
「そうじゃない。それじゃ僕の言ったことにほとんど変更はないだろう。違うんだ。皿の意志は介入してこない。そもそも皿に意志があるかも怪しい」
「まるっきり嘘か。まんまと全員だまされたわけだな」
「うん。レポートから察せられるのは、対象者の父親、その意志が関係しているいうことなんだ」
「は?」
「『実父の我が子へ想い』こそが、湧く物を決定している要素だ。そう言っている」
「はぁ? はぁあああ?!」
気が違ったような奇声を発する魔理沙だった。話の流れからすれば突拍子もない展開ではなかったが、魔理沙の場合、自分について是が非でも否定したい事柄が出てくる。とてつもなくとんでもないことだった。
「いや、おかしいだろ、おかしい! お前の勘違いじゃないのか! 何で父親の気持ちだって言い切れるんだよ。レポートにゃ結論は書かれてなかったんだろっ」
「それはその通りだけど、数多くの事例はそういう結論しか出せないようなものになってるんだよ。父親から愛情を注がれて、母親から虐待を受けていた子には、美味しいスープが湧いてきた。逆に、父親からはゴミのように扱われていて、母親からは宝物のように愛されていた子供には、酸味が強くて旨味の少ないスープが湧いてきた」
「じゃ、じゃあ、父親が死んでる場合はどうなんだよ。いない奴に想いもへったくれもないだろ!」
パチュリーたちがそうだった。自分以外、父親は死んでいるのだ。しかし、
「既に父親を亡くしている人たちの事例はたくさん載ってたよ。やはり父親からの愛情の違いが、スープの質の違いに現れている。仕組みはわからないが、皿は受信機のようなものかもしれないね。生きていても死んでいても、父親の想いをくみ取って、スープの形にするんだ」
そう言われてしまうと、もう魔理沙には反論のしようがなかった。
「そもそも初めて皿が発見されたときの子供には、父親がいなかったろ。その子は父親に愛されていたために、過酷な環境でも健やかに生きていけたのだろうさ。父親の思い出に包まれてね」
魔理沙は渋面を絵に描いたような表情になっていた。言い込められたからではなく、この後に言われることが確定しているからだ。
霖之助はそんな魔理沙に何とも言えない笑みを浮かべていたが、結局は口を開いてその台詞を紡いだ。
「だから、魔理沙、極上のスープを飲んだ君には理解できるはずだね。お父さんがどれだけの愛情を君に抱いているかを」
急速に、妙な熱さが魔理沙の中に充満した。予想はできていたのに、ダイレクトな言葉は全身に影響を与えた。
呼吸は荒くも細くなり、悪態さえつけなくなる。いや、つくことさえ考えられなくなる。顔が紅潮しているのは息苦しさだけによるものではないだろう。
家を飛び出してからずっと抱いてきたことが、今この時一瞬で覆された。なのに拒否より受容の気持ちが働いている。そのことが魔理沙の惑乱に拍車を掛けていた。
開きかけた口が閉じ、また開きかける。が、閉じる。何も言えなくなっていた。
「さて、言っていなかったもう一つの約束のことだけどね。もう想像はつくんじゃないかな」
そんなわけがない。まともな思考さえできないのに。
一体何を言う気だ。これ以上ろくでもない言葉は吐かないでくれ。
そんな魔理沙の心情を理解してないのか、それとも理解してのことなのか、霖之助は言い放った。
「お父さんに会ってくれ」
「ふっ……」
魔理沙の言葉をせき止めていた堤が破れた。
「ふざけるなァ!! 断ったろ! 断ったはずだろ! やるわけねぇだろ、私が! 私がそんなこと!」
誰もいない黄昏の小道において、一人怒声を浴びる霖之助は平然として歩いている。魔理沙の反応は予想の範疇だったらしい。落ち着き払って言葉を返した。
「聞かざるをえなくなるって言ったろう。魔理沙はそれをしなきゃいけないんだ」
「何でだよッ!」
「父親が娘のことをどれだけ想っているか、魔理沙は知ってしまったからさ」
「うっ!?」
「フェアじゃないだろう? 君だけが相手の気持ちを知っているというのは」
「……っ」
そんなん知ったことか、と突っぱねるのは不可能だった。
霖之助はよくわかっている。
敵意を向けられている相手ならばともかく、愛情を向けられている相手に喧嘩腰になるのはガキの独り相撲だ。魔理沙はそういったことに意地は張れない人間なのだ。
だが、あっさり和解ができる人間でないのもまた事実で。
(今さらどの面下げて親父に会いに行くってんだ?)
アイラブユーと伝えられて、ミーツーと返す父娘。想像だけで全身鳥肌だ。どうしたって自分のキャラじゃない。
かといって、何もしないのは……気がとがめるのだ。
美鈴の言葉がよみがえる。──『どんな想いも、ぶつけられるのは生きている間だけです』
ああ、くそ。くそったれめ。
無視を決め込めたらどんなに楽か。逃げの一手を打てさえしたら。けれど、自分の性格では、それをやると決めた時点で悶々とした日々が開始されるのは明らかだ。川に落ちたり、部屋を爆発させたりする以上のことになるだろう。
「……………………………………………わかったよ」
限界ギリギリまで絞り出したゴマ油の最後一滴のように、魔理沙は一言をこぼした。
「本当かい? 良かったよ!」
満面の笑みで応じる霖之助。長年の念願がかなったのだ。嬉しさも一しおだろう。
「……会うとは言ってねぇよ。気持ちさえ伝えりゃいいんだろ。花──バラをくれてやる」
小さく、「……それで勘弁してくれ」と言う魔理沙に、霖之助はやれやれと首を振ったが、勘弁ならんという風はなかった。譲歩の範囲内としたようだ。
「まあ、とりあえずはそうしておこうか。直接手渡すなら言うことなしなんだけどね」
「~~~っ!」
魔理沙は無意味に腕をバリバリかいた。これ以上、この話を引っ張られると精神が持たない。
話をそらせたい。適当な話題はないだろうか。「いい天気だなー」「昨日何食べた?」……いやいやいや、無理がありすぎる。不自然でないもので、何か。
「あ、そうだっ! 皿のことさ、咲夜に話したらどうだよ。きっと喜ぶぜ!」
思いつきにしては最上の部類に入ると魔理沙は思った。
流れとしてそこそこ自然、そして話を別方向に持っていける。また、過去の誤解を払拭する事実を教えることは、自分にはともかく、咲夜には望外の嬉しさをもたらすはずだ。一石二鳥の名案。
しかし……
「それはダメだと、言ったじゃないか」
霖之助とした約束が頭から抜けていた。
「絶対、ダメだ」
確かにそのように言っていた。否定の言葉はあって不思議ない。
だが、魔理沙は戸惑う。
霖之助の態度が一変して硬化していた。表情も冷徹なものになっている。
(約束は約束だけど、そんなに大層なものなのか?)
こういう場合、理由が不明であっても、相手の感情を推し量り、一旦は引き下がるか一歩下がって接するのが普通の人間だ。魔理沙はあいにくとそうではなかった。
「何でだよ! いいだろうが!」
この点に関しては引き下がるより食い下がるべきと、「普通の魔法使い」は判断したのだ。咲夜の友人としての判断でもある。戸惑いから立ち直った魔理沙は弾を放つように言葉をぶつける。
「あいつは自分の親に憎まれてると思い込んでんだぞ! 話してやんなきゃ一生思い違いしたままだ!」
しかし、霖之助は鉄塊のごとく弾き返した。
「だからだよ。だからダメだと言っている」
魔理沙の丸くなった双眸は、信じられないようなものを見る目だった。事実、信じられなかった。
こいつは、香霖は、咲夜に苦悩を引きずって生きてもらいたいとでもいうのか? トラウマを抱えて生き続け、死んでいけってか?
「てめッ……!」
魔理沙は噴き上がる激情のままに噛みつく、はずが、止まる。冷たい石のようだった霖之助の面持ちが沈痛そのものだった。
「魔理沙が怒る気持ちはわかる。その話を僕が知っているのは、図書館での会話を陰から聞いていて推測したからだが、魔理沙や彼女らは本人から話されて知り得たことだろう? 君らは、互いの辛い過去を話し合えるほど親密な仲だ。だからこその怒りだとわかる」
霖之助は歩みを止めた。魔理沙も止まる。温い風が肌を撫でていた。
「そして、だからこそ、彼女らには真実を伝えてはならない」
橙色を濃くする陽光の中、鳥の声が小さく聞こえる。
嫌な予感がした。何か聞いてはいけないことを聞かされる予感が。
「僕を恨んでくれていいよ。魔理沙にも話すべきじゃなかったかもしれないから。でも、このままずっと父親との仲違いが終わらないことは、僕にとっては……」
消えた語尾の後、小さく、言い訳だね、とつぶやく。
「香霖、何なんだ、話しちゃいけない理由って」
聞いてはいけない。その予感はあるのに、もう一つの予感もあるのだった。理由が何かを自分はつかみかけている。ここで聞かされなくても、いずれ理解できてしまう。そういう予感だ。
霖之助は話しにくそうに、唇を開いた。
「……父親から酷い扱いを受けた子供には、美味しくないスープが湧いたと言ったろう?」
「ああ、愛情とはかけ離れた感情を父親が持ってたからだろ」
「それなら、美味しくないどころか、一口で体調を悪くするほどのスープを湧かせたのはどういう感情だろうか」
「ッ……!!」
魔理沙は叫びそうになった。そうだった。美鈴。
美鈴の、湧いてきた「それ」は。
「嫌いや疎ましいだけではありえないことなんだ。とてつもない憎悪がなければ、湧くはずのないものなんだよ。では、彼女は何をした? 毒物を生み出すほど憎まれる何を父親にした?」
(そんな、まさか、まさか……)
魔理沙の脳裏に美鈴の言葉が波紋のように浮かぶ。
『何者かに寝込みを襲われたんです』
『恐らく名声か怨恨による復讐を目的として』
『相手を卑怯だとは言いません』
『いつかは超えたいと思っていた存在』
『どんなことも、生きているからできるんですよ』
『それをしなかったら、悔いしか残りません』
我知らず自分の体を抱きしめていた。震えが立ち上ってくる。
「本人は誰にも話してない、ことだ。彼女らの関係に亀裂を入れてはいけない。僕と魔理沙だけの胸の内に、ずっと秘めておくんだ」
霖之助の言葉が遠く聞こえる。暗くなる視界に、一つの光景が映し出される。見間違いだと思った、廊下での光景。
あの時、窓に映った美鈴の口は、その表情は──
笑っていたのだ。
スープときたら348。そして、いい話だと思っていたら最後でホラーを持ってくる手腕に脱帽です。
お見事!
あと、なんとなく「和訳」っぽい文体になっているのは意図的だったり……?
あ、いやこれは個人的に感じたものなので、的外れだったら申し訳ない。
どんなSCPとの絡みが読めるのか、またの作品を楽しみにしています。
最初に独自設定の部分を見たときはどうかと思いましたが、最後まで読むと、この独自設定に不満をもったりはしません。
すばらしいと思います。
使い所の難しいSCPがいい感じにまとまってると思います
って、考えると始めから父親は彼女を疎んでいて、だからこそ殺されたのを止めに凄まじい憎悪を抱いたのだ、とか妄想するとストンと納得できるわ
そもそも父親は娘なんかいらなかったんじゃないかね? 武術の継承者を求めるという意味ではきっと娘では不足だったろうし
って全部妄想だけどそう思うとどのみち彼女は救われないなぁ、とかなんとか
あと魔理沙は少し素直になるといいんじゃないかな?w
「素直じゃない」の描写間違えてるんじゃない? 言葉遣いも違和感。
一般家庭にいきなりマジックアイテムが湧いて出てたまるかとか、「父親」と「スープ」って普通に考えて接点なさ過ぎて変とか、その辺の突っ込みを無視すれば最後のぞっとする感は一応の成功を見ている気はする。
『訂正』の時点でおおよそ気づくけど。
あと、名前の=(正確にはダブルハイフン)は、名前あるいは名字がいくつかある場合にそれぞれを繋げるものなので、姓と名は中点で繋いでください。
謎の提示から推理、解決の流れが丁寧。
キャラも良かったですね。霖之助がの名探偵ぶりがハマってました。
魔理沙のダジャレや下ネタはちょっと寒かったですが……。
料理の仕方がもっと洗練されてたら、なおよかった。
コーリンがすっげーいい人で感心した
まあ最後のめーりんのは別に父親に合わす段取りの話に切り換えて魔理沙にしないでも良かったと思うけど
めーりんも笑えているなら救われているんだろう
ひょっとしたら父親殺しの肯定こそ妖怪紅美鈴の根元にして生涯のテーマかもね
美鈴が父親が健在である素晴らしさをことさらに説いたのは、やはり過去の過ちを悔やんでいるからなのでしょうか
皿の謎を調べる場面も、探偵のような推理だったり民俗学的だったりと楽しませていただきました
口は悪いが根がいいというか素直なタイプっぽい
表面を取り繕わないってことはとりあえずいい子のフリして騙したろって腹はなさそうだし
逆の人間は多いから油断ならんけどそういう油断ならん人間は逆に不快に感じるかしら?油断ならん人間からしたら不用心なマヌケに見えるだろうしイライラするのかね
ゲスゲスいう方がゲスっぽいけど、未熟なゲスがムカつくのかもね
最後のオチは正直安っぽいけど、魔理沙が父親の愛の確かさと不確かさを学んだという意味では意味があったのかも
最後まで読ませられました
元ネタは知ってましたが料理の仕方がよかった
違和感がありませんでした
皆には不評だけど
↓
(読了)おお……